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【短編】

2008/03/11 5:16 短編十海

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kitten's eyes

2008/03/11 5:19 短編十海
 あたしは猫。
 まっしろの体に一つだけ、お腹にカフェオーレ色のぶちがある。
 だからオーレって呼ばれてる。

 生まれたのは本がいっぱいある静かなところ。
 兄弟がいっぱいいたけどちょっとずつ他所にもらわれてって、最後にあたしの番が来て。

 そして、オティアの家に来た。

 オティアの肩の上は最高に見晴らしがよくて、あったかくて、安心できる。
 あたしだけの特等席なの。
 
 このお家に来る時に、なんだかあったかくて狭くて気持ちいい場所にいたような気がするんだけど…
 忘れちゃった。

 ヒウェルは割と好きかな? いっぱい遊んでくれるし。
 でもオティアが一番。

 毎朝、オティアと一緒に出勤するの。
 所長さんはお家にいるときとちょっと感じが違うけど、なで方が上手だからけっこう好き。
 でもオティアが一番。
 あたしも事務所の一員なのよ。ちゃんとお仕事もしてるんだから!

 オティアと所長さんがお出かけするときは上の法律事務所にアルバイトに行くの。
 お世話はアレックスとシエンがしてくれるわ。
 アレックスはシャンプーさえしなければいい人。
 シエンはオティアの兄弟だから好き。このごろちょっと仲良くなれたし。

 でもオティアが一番。

 法律事務所に行くとあたし専用のお席に座るの。
 本棚の上よ。
 そこから事務所を見守るのがお仕事。
 
 時々うるさい人がくるから油断できないの。デイビットと、レイって呼ばれてる人。
 身体がおっきくて、がしゃがしゃ動いて声がすごーくうるさいの!
 もう、やんなっちゃう。

 レオンは静か。
 とっても静か。
 あたしを見ても何も言わない。
 それはそれでちょっと寂しい。

 やっぱりオティアが一番。

 お仕事が終わるとオティアが迎えにくるの。
 あたしは尻尾をぴーんと立てて報告に行くわ。

『ちゃんとお仕事したよ!』って。

 そして下の事務所に戻って、夕方までまたそっちでお仕事。
 お客様のお相手もちゃんとするわ。みんなあたしを見てこう言うの。

『まあ、真っ白。なんて可愛い子猫ちゃん』

 でもオティアが一番。

 お家に帰ると一緒にご飯をたべに隣に行くの。
 エリックが来る時はエビが出るからうれしい。
 でもあたしはスープだけ。身は食べさせてもらえない。
 
 ひとくちでいいから食べたいのにぃ。

 最近ちょっとあたしはヒウェルがきらい。
 だって夜になるとオティアにひどいことするんだもの。
 よくわかんないけど、あんなに声出してるんだから、きっとそう。

 オティアをいぢめたら許さないんだから!(かぷ)

 かぢかぢかぢかぢかぢ

「オーレ…そんなに美味いか、俺の手」

 かぢかぢかぢかぢかぢ

「いや、いいけどさ…」


 足を踏ん張って冷蔵庫の上からにらみつける。
 どう、この迫力!
 オティアはあたしが守るんだから(ふんっ)

「敵だと思われてないか」
「なんか…そんな気がしてきた」

 ヒウェルがじーっと見上げて話しかけてくる。

「やれやれ、君をこの部屋にお連れしたのはいったい誰だとお思いか」

 そんな優しい声出したって、ごまかされないんだからね!

「ったく…何やったんだ。ほら、来いオーレ」

「にゃああん」

 ヒウェルの頭を踏み台に、オティアの肩までひとっ飛び。
 オティアはしっかりあたしをだっこして、優しく優しくなでてくれる。
 あたしはぐいぐい身体をすりよせて、喉をごろごろ鳴らす。

 やっぱり、世界でいちばん、オティアが好き…。

Image397.jpg

(kitten's eyes/了)

★うたたね

2008/03/11 5:21 短編十海
 ロスからの出張の帰り道。

 飛行機が水平飛行に入ってまもなく。ディフが小さくあくびをした。少しうるんだ目をしばたかせて、眠そうな声でささやいてくる。

「少し、眠っても……いいかな」

 レオンはほほ笑み、うなずいた。
 さすがに疲れたのだろう。ほぼ不眠不休で調査をして、朝一番で証拠品を持ってロスまで飛んできたのだ。

 おかげで裁判はペリー・メイスンのTVドラマさながらにさくさくと決着し、帰りは二人一緒の便に乗ることができた。

「いいよ。着いたら起こしてあげよう」
「ありがとう。おやすみ」

 しばらくすると、すやすやとおだやかな寝息が聞こえてくる。と思ったら、まもなく右の肩にぽふっと温かいものが寄りかかって来た。

 もう眠ったのか。

 ちらりと横を見て、一瞬レオンは硬直した。

 肩にこてんと頭を預けて眠っている。それは、いい。何ら問題はない。

 しかし……これは……。

 普段はラフな服装の多いディフだが、レオンと出かける際にはそれなりにきちんとした服を着るようになっていた。

 今回のように法廷に顔を出す時はなおさらだ。
 従って今も、それなりに仕立てのよいスーツを身につけている。濃いめのグレイのスーツに警官時代の制服を思わせる紺色のシャツ。タイもベストも着けず、ボタンは上一つだけ開けている。

 肩甲骨のあたりまで伸ばした赤毛もきちんと一つに束ねられている。

 いささかカジュアルな印象を残してはいるが、申し分のない服装と言っていい。

 そのはずなんだが。

 意識の束縛から解放された手足が。
 肩から背中、腰にかけて描き出されたゆるやかなラインが。
 束ねた髪の下からのぞく首筋が。

 文字通り『判事の目の前に出てもおかしくない』くらいきちんと服を着ているはずなのに、妙に艶かしくて……目のやり場に困る。

 愛を交わした後、一糸まとわぬ姿でシーツに包まって添い寝している時と同じ空気を醸し出しているのだ。
 ストレートの男女ならほとんど気づくまいが、ゲイの男への吸引力たるや、いかばかりのものか……想像に難くない。

 まったくこの子は、相変わらずと言うか……しょうがないなあ。

 さりげなく機内を見回す。
 既にちらちらと何気ない風を装いつつ、彼に視線を向けている男が何人かいた。

 シスコ行きの便だ、さもありなん。
 さて、どうしたものか。
 
 すっかり安心しきって身を預け、すやすや寝息を立てている『可愛い人』を起こすにはしのびない。
 さりとてこんな姿を他の男の目に晒すのは……我慢できない。あと一秒だってお断りだ。

 速やかにボタンを押し、キャビンアテンダントを呼び寄せた。

「すまないが毛布を持ってきてもらえるかな」
「はい、かしこまりました……どうぞ」
「ありがとう」

 ぱふっと毛布を被せ、首から下を隠した。

「ん……」

 目を閉じたまま、小さな声を出すとディフはきゅっと袖をつかんできた。

 手をにぎる。

 毛布の下で、そっと。

 すぐににぎり返してきた。

 ……あたたかい。元々、ディフは体温が高いのだから当然なのだが、こんな時は子どものように思えてしまう。

(もっとも、子どもならこんな風に無防備に色気をふりまくこともないだろうが)

 さて、シスコに着くまでの間、右手は使えないな。
 どうしたものか。

 ディフの顔にふっと、かすかな笑みが浮かぶ。よほど楽しい夢を見ているのだろうか。握り合わせた手に力が入れられる。

 離すなよ、とでも言わんばかりに。
 
 ……そうだな。このままでも問題はない。
 君の寝顔を眺めていればすぐに着いてしまうだろうから。


(うたたね/了)

降りしきる雨みたいに

2008/04/05 15:48 短編十海
「うーわー……」

 現場に到着し、調査用キットを収めたケースを片手に車から降りた瞬間。エリックは思わず空をあおいだ。十字でも切りたい心境。だがあいにくと自分は神父ではない。

 彼の仕事は鑑識だ。現場に行き、どんな些細な証拠も見逃さずに採取し、分析し、真実を探り出す。TVドラマほど華麗にとは行かないが、それでも地道な調査の結果が犯罪を立証し、犯人の有罪が確定すると清々しい充足感に満たされる。

 だが、それも全て、まず最初に調査があってこそ。
 彼は今、よどんだ水の溜まった……そう、そこの水は流れることを半ばあきらめていた。もう随分と長い間……古い水路にいた。
 比喩ではなく、まさに水路の中に。腰まであるゴム長を履いて、防水加工のほどこされたCSIのロゴ入りの上っ張りを着て、ゴム手袋をはめて。

(遺伝子的にはバイキングのしぶとさを受け継いでるはずなんだ、真冬の北海に比べればシスコの水路なんて!)

 ちゃぷん、と跳ねた水が顔に飛ぶ。目元はかろうじてゴーグルで守られているが、あいにくと首筋がフリーだった。

「うう、やっぱり寒い」

 スタイルにこだわらずタオルでも巻いとくべきだったか。
 死体発見の通報が届いたのはランチタイムが終わってすぐのこと。
 駆けつけてみると確かに死体はあった。と、言うか、浮いていた。

 この寒い中、何も水路に浮かばなくても良かろうに……いや、そもそも被害者からしてみれば死体になんかなりたくなかったはずなのだ。(自殺じゃないと仮定しての話)

 水につかっていた割には比較的『しゃん』としている。
 どうやら溺死ではなさそうだ。
 二〇代か三〇代、男性、白人。

 水路に浮いてる死体の写真を撮影する。角度を変えて、何枚も。水のサンプルを採取し、付着物のうち、水から上げたら剥がれてしまいそうなものから集めて行く。綿棒でぬぐい、ピンセットでつまみ、小さな袋に密封してラベルをつけてゆく。

「よし、いいだろう。そろそろ上がるか、エリック」
「Ja」
「え?」
「……OK、キャンベル。あがろっか」

 曾祖父の代に移住して来たエリックの家では、今でもたびたびデンマークの言葉がやり取りされる。
 肯定を意味する二音節のJa! は英語のYesより言いやすかったので、子どもの時の口癖だったのだ。

 今も考え込んでいるとつい、ふっと口をついて出る。

 ハンス・エリック・スヴェンソンは一つの事に集中しすぎるとしょっちゅう周りのことが意識から消えるタイプの人間だった。
 そんな彼にとって、この仕事はある意味天職とも言える。
 ラボの中で研究に没頭する時も。こうして現場で証拠を集める時も。
 

 ※ ※ ※ ※

 
 水から上がると、ことさら寒さが身にしみた。汚水に濡れたゴム長と上っ張り、手袋もそれなりに寒さを防ぐ効果はあったらしい。
 震える歯を噛みしめていると……胸ポケットの携帯が鳴った。

(うー、ダルいなあ。居留守使っちゃおうかなあ……せめて署に戻って熱いシャワー浴びて、人心地ついてからかけなおしたい……)

 サブディスプレイを確認する。送信者は"D"。
 即座に応答。この電話だけは後回しにできない。

「ハロー?」
「よう、エリック」

 張りのあるバリトンが聞こえる。なんでこんな声してるのに可愛いなんて思ってしまうのかな、この人のことを。

「ども、センパイ」
「今、話せるか?」
「……大丈夫ですよ」
「そうか。この間、頼んだ繊維の分析結果な……いつごろ上がるか知りたいんだが」
「あーあれ、ですか……」

 ちらっと隣でゴム長を脱いでいる同僚を見る。

「今、出先なんで、署に戻ったらやっときます」
「そうか。すまんな」
「や、気にしないでください。ついでっすよ、ついで!」
「サンキュ、エリック。そのうち飯でもおごる」
「楽しみにしてます……それじゃ、また」

 電話を切ってからエリックは深い深いため息をついた。

(飯、おごるって……二人っきり? だったらうれしいけど)

 先日、マーガレットの花かご持参で見舞いにいった時、病室で会った弁護士の面影がよぎる。


(きっとあの人が一緒なんだろうな……)

「へっへっへっへっへっへっへ……」

 ふと足元を見ると、黒毛のロングコートシェパードが一匹、尻尾を振っていた。さっきまで捜索にあたっていた警察犬だ。

「やあ、ヒューイ」

 ぶっとい首に腕を回し、がしっと抱きしめた。

「ちょっと温もり分けてもらえる?」
「わう?」

 あー……なんか、癒される。
 

 ※ ※ ※ ※

 
 署に戻ったエリックはさっそくシャワー室に直行した。
 純粋に寒かったと言うのもあるが、それ以上に髪にも身体にもそこはかとなくヘドロくさい水路の臭いがしみついて、いたく他の署員に不評だったのだ。
 着ているものを脱ぎ、腰にタオル一枚だけ巻いてシャワー室に入る。8つあるブースのうち、一つの間仕切りを開けて中に入る。

(ここ、使うのあまり気が進まないんだよな)

 蛇口をひねり、お湯を出した。しばらく手のひらで温度を見てからざーっと勢いよく出す。
 もうもうと白い湯気が立ちのぼり、がちがちに凍り付いていた身体がほぐれてゆく。

「……ふぅ……」

 北欧系特有の透ける様に白い肌。お湯のかかった場所にピンクのドットが浮かび、みるみる広がって行く。
 男性用だから間仕切りなんかほとんどあってないようなものだ。
 最低限見苦しくない程度に胸から腰を覆う程度、それにしたってついてるだけマシと言うもの。

 エリックは背が高い。だからどうしてもはみ出す度合いが高くなる。
 しかし彼がここのシャワーを使うのに気乗りしない理由は別の所にあった。

(ここのシャンプーもボディソープも。除菌性は高いんだけど、香りがきっついんだよな……肌も荒れるし)

 しかし背に腹は変えられない。にゅるにゅると付属のボトルから手のひらにシャンプーをひねり出す。
 ちょっと出過ぎたか。
 いいや。

 あわ立てて頭につける。
 目をとじてわしゃわしゃと、短く堅い金髪を洗い始めた。

(うう……やっぱりにおいがきついな………)

 

 ※ ※ ※ ※

 
 CSIは原則として二人一組で一つの事件を担当する。組み合せは毎回変わり、特定の相棒は決まっていない。
 その日エリックがキャンベルと組んだのもたまたま主任の差配でそうなっただけの話。
 しかしこのことはキャンベルにとって少なからぬ幸運でもあった。

 冷たく淀んだ水路に浸かりはしたものの、こうして同じタイミングで堂々とシャワーを使うことができるのだから。
 さりげなくシャワー室に入るとエリックの隣のブースを目指すふりをして…途中で立ち止まった。

 思った通り、だいぶ胸から上がはみ出してる。
 しかも頭を洗っていらっしゃる。両手を上げていて、なんとも無防備な格好だ。
 お湯を浴びて白い肌がピンク色に染まっている。胸の中央、乳首がとくに濃い。
 思わず口笛を吹きたくなる。

 細いからってひ弱って訳じゃない。
 胸も腹も引き締まってはいるが割れてると言うほどじゃない、そこがまたいい。
 軽くお湯を浴びただけであんなに色づく肌に、キスの一つもしたら一体どうなるんだろう?
 
 すっと目を細める。
 いつもツンツンに尖っている堅めの金髪が、ぐっしょり濡れて額にへばりついている。
 研究室の無機質なライトの下、真剣そのものの眼差しで試験官をのぞくあの知的な表情が、ベッドの中ではどんな風に変わるのか。
 見てみたい気がする。

(自分より背ぇ高い男を押し倒すってのもいいかもしれないな……)

 しかし、どうやらこの男には片想いの相手がいるらしいのだ。
 滅多に自分から声をかける事もなくなったし、時折ため息をついて物思いにふけっている。
 口説くのなら、まずそいつをあきらめさせることから始めなくちゃいけない。

(手始めに今夜誘ってみるか?)

 さりげなく。あくまでさりげなく間仕切りに手をかけると、キャンベルは声をかけた。

「よう、エリック」


 ※  ※  ※ ※


 髪を洗いながらエリックは思い出していた。ついさっき、水路で回収した死体を。
 直接思い出すのではなく、カメラのファインダー越しの記憶を頼りに。

 二の腕に特徴のあるタトゥーがあった。

 詳しく調べてみないとわからないけど……見覚えあるぞ。組織がらみかな?
 入れられた日付は、おそらく入団した日じゃないだろうか。

「なあ、今夜あたり……ヒマか?」

 憶測は禁物、だが自らの記憶という名のデータベースもなかなかどうして馬鹿にしたもんじゃない。
 ゼロをプラスに変えるきっかけにはなる。
 LAほどではないにしろ、ここのところシスコ市内にもそこはかとなく不穏な気配が見え隠れするようになってきた。

「新しい店見つけたんだけど」


 先月、逮捕した容疑者の中にも同じタトゥーをしていた奴がいたような気がする。
 あれは何の事件だったろう? 上がったら調べてみようか。
 それにしても。

(あー、やっぱり、このシャンプー苦手だ。帰ってからもう一度風呂入ろうっと)

 顔をしかめてボディソープを手にとり、わしゃわしゃとあわ立てて身体に塗りたくる。タオルでこすると強烈に甘い香りが広がった。
 純粋に甘いのではなく、鼻の奥にツンとした刺激臭が後を引く。
 相変わらずきつい。でもこれなら水路の淀んだ水とヘドロのにおいを打ち消してくれるだろう。

「おーい、エリックー」

 ざーっとお湯の勢いを強めてボディーソープもシャンプーも、もろともいっぺんに洗い流してゆく。

「……聞いてないのか」

 キャンベルは首をすくめてシャワー室を出た。
 脈無しとなると、こいつのシャワーシーンは見るだに目の毒。早々に退散するに限る。

 無視した訳じゃあるまい。
 気づかなかっただけなのだ。けっこうな勢いでお湯が飛び散っていたし。
 眼鏡もかけていなかったし。

(まったく……あいつは天然だからなあ)

 残らずすすぎ終えるとエリックはお湯を止め、タオルで身体をぬぐいながら間仕切りから出た。
 脱衣所まで来たところでうっかり腰に巻くべきタオルで頭をふいていたことに気づき、慌てて周囲を見回す。
 
 ……良かった、誰もいない。

 さすがに下半身何もつけずに(もっとも上にだって何も着けてないけれど)人前を堂々と歩くのは問題がある。
 いくらここがシャワー室の脱衣所だからって。

(本当に良かった。誰もいなくて)

 ロッカーを開けて眼鏡をとりだし、かける。ぼやけていた視界がクリアになる。


「……あー、その」
「わあ、キャンベル」

 居た。

「これから?」
「ああ、これから」
「そっか。それじゃ、お先に」



 ※  ※  ※ ※



「どうぞ、センパイ、これが例の繊維の分析結果です」
「サンキュ、エリック。無理言って悪かったな。ラボの設備、貸してくれるだけでも良かったのに」
「いいえ。ついでですから! ……せっかくですから」

 内心、どきどきしながら声をかけてみる。

「休憩室でコーヒーでもいかがっすか」
「ん……すまん、今日は時間ないんだ。今度、またな」

 何となく、そんな気がしていた。
 大またで遠ざかる広い背中を。たてがみのような赤毛を黙って見送った。

 通りすぎる他の署員達とも気さくに笑みを交わし、手を振っている。そうだ、こう言う人だった。
 あの笑顔はオレだけに向けられたものじゃない。
 もっと近くにいた頃。バッジをつけていた時でさえ、あの人とオレの間にあったのは信頼と友情でしかなかった。

 すっぱり諦めるつもりでいたんだ。
 それなのに。
 何で。
 あんなに、色っぽさに磨きがかかっちゃってるんだろう、センパイってば。

 深いため息が漏れる。

(これじゃ生殺しだ……)

「よう、エリック。すまんがちょっとこいつの面倒見ててくれるか?」
「どーぞ」
「たのんだ。すぐ戻るから」

 足早にトイレに入って行く相手は爆発物処理班のハンドラー。手渡されたぶっといリードの先には、茶色い顔と尻尾、黒い背中のシェパードが一頭。
 きちっと後足を折り曲げて座っている。

「やあ、デューイ」
「わふっ」

 爆弾探知犬である。水路の捜索に駆り出されたヒューイとは母犬の同じ兄弟犬。
 もう一頭ルーイと名付けられた探知犬がいたが、惜しくも二年前に殉職している。
 彼が、一瞬。ほんの一瞬早く反応したおかげで処理中の警官はからくも死を免れたのだ。

「………ちょっと温もり分けてくれる?」

 両手でがしっとぶっとい首を抱きしめる。

 ああ。何となく似てるなあ。この骨太でごっつい感じが……
 ばったんばったんと丈夫そうな太い尻尾が床を叩いている。
 うん、似てるな。仕事以外ではやたらフレンドリーなとこも。

「あ……水死体の検死報告聞きにいかなきゃ」

 名残を惜しみつつ、エリックは手をほどいて立ち上がった。

「遺留品も分析しないとな……あー、これで何日間、あったかいご飯食べてないだろ……」

「わふ」

 たしっと爆弾探知犬がでかい前足を膝の上に乗せてきた。
 しっかりと右手で握り、堅い握手を交わした。

「……ありがとな、デューイ」



(降りしきる雨みたいに/了)

君は臆病者じゃない

2008/05/04 11:24 短編十海
 Web拍手御礼用の短編を再収録。
 本編の始まる2年前、ディフが警察を辞めた直後のお話。
 まだ恋人になる前だった二人。

「……よいしょっと」

 署のロッカーから持ち帰った私物を部屋に運び込む。
 できるだけ余計な荷物は置かないようにしていたつもりだが、けっこうな量があった。
 班の連中からは、せん別に腕時計を贈られた。例の事故でずっと使ってたやつが壊れてしまったから、代わりに、と。

 真新しい時計を腕にはめてみる。
 オメガのスピードマスタープロフェッショナル、文字盤は黒。
 頑強な手巻き式、世界で最初に月に降り立った腕時計。裏蓋にはシーホースの浮き彫りと、『THE FIRST WATCH WORN ON THE MOON』のロゴ。

 参ったな。これ、俺が使ってたやつよりグレード高いじゃないか! ったく、安月給で無理しやがって。

 バンドの長さを調節していると、携帯が鳴った。
 送信者は「ダンカン・マクラウド」……親父だ。少しためらってから開いて。応答ボタンを押し、耳に当てる。

「ハロー?」
「警察を辞めたそうだな、ディフォレスト」

 いきなり本名で呼んできた。堅い口調、重たい声だ。つり上がった眉が。眉間の皺が、見えるような気がした。

「………ああ。昨日づけで辞表を出した」
「中途半端な覚悟でバッジを着けるなと言ったはずだ。命の危険があるのはわかっていた事だろう」
「父さん………」
「この、臆病者が!」

 電話越しに怒鳴られた。びくっとすくみあがる。
 のこぎりみたいにギザギザで、そのくせ切れ味の悪い刃物で容赦無くぶったぎられたような気がした。


 腹の底からひしひしと熱が失われ、凍り付いてゆく。
 息が苦しい……。
 視界に写るのは、自分のつま先と部屋の床。目に見えない手で頭をぐいと押さえられ、知らぬ間にうつむいていた。

 久しぶりの親子の対話が、これか。
 声の激しさより、言われた言葉が胸に突き刺さる。

『臆病者』

 この世で一番言われたくない言葉だ。特に父さん、あなたには。
 一度だって俺は目の前に立ちふさがる敵や困難、降り掛かる危険から逃げたことはない。少なくとも自分の意志で立ち向かえる時はそうしてきたし、それが俺の誇りでもあった。

 振り絞っていたのは、勇気と言うよりむしろ意地だったのかもしれないけれど……。
 俺は、俺なりに真剣だった。
 
 だけど。
 もう、二度とレオンにあんな悲しい顔はさせたくない。
 そのためなら、どんなことでもする。どんな代償も喜んで払おう。

 だから黙って父の言葉を受けとめる。
 言い訳はしない。処理中の爆弾が爆発し、死にかけた。退院した直後に辞表を出したことは逃れようのない事実なのだから。

「恥を知れ、ディフォレスト」
「父さん」
「お前のような息子を育てたことを、私は一生悔やむだろう。お前に勇気と言う物の本当の意味を教えてやることができなかった」
「……っ」

 謝罪の言葉だけはどうしても、最後まで口にすることができなかった。


 ※  ※  ※  ※


 その夜遅く。
 レオンが部屋に戻り、電気のスイッチを入れると、ひっそりと居間のソファにうずくまる影が居た。
 別に不思議はない。隣の部屋に住んでいるし、自由に出入りできるよう、合鍵も渡してある。

「……ディフ」

 のろのろと顔を上げた。
 
「どうしたんだい、明かりもつけないで」
 
 いきなり、しがみついてきた。
 どくん、と胸の中で心臓が縮み上がる。
 久しぶりだった。彼とこんな風に触れあうのは。

 ディフが爆発事故で入院して以来、少しずつ二人の距離は変わりつつあった。親友と言うには近く。恋人と呼ぶにはまだ遠く。

 溺れる子どものようにぎゅっと服を握りしめ、すがりついてくる。
 想いを封印し、ずっと親友でいようと心に決めたのはレオン自身。けれど自ら立てた誓いが今にも揺らぎそうで、懸命に自制心を振り絞る。

「俺は……臆病者なんかじゃ……ない……」

 低い、かすれた声でそれだけ言うと黙ってしまった。
 歯を食いしばり、震えている。
 抱きしめて、髪を撫でた。首筋を覆う絆創膏の下の、真新しい火傷の跡に触れぬよう、細心の注意を払って。
 ディフは喉の奥で小さくうめき、胸に顔を埋めてきた。

 ほんの少しの間、学生時代に……ただの親友同士に戻ったような気がした。


 ※  ※  ※  ※


 
 時間が流れて行く。

 ディフの左手首に巻かれた真新しい時計が、正確無比な動きで時を刻む。秒針の回るかすかな震動さえ聞き取れそうな静けさの中で。
 レオンはずっと抱きしめていた。
 肩の震えが収まり、乱れた呼吸が穏やかになるまで、ずっと。

 やがて彼は顔を上げ、赤くなった目をごしごしと拳でこすり、はずかしそうに言った。

「サンキュ、レオン」
「こすっちゃだめだよ」
「あ……うん。顔、洗ってくる」

 手を離し、ざかざか洗面所に歩いて行くとディフは蛇口をひねり、ばしゃばしゃと勢い良く顔を洗った。
 洗ってからシャツの袖をまくるのを忘れていたことに気づく。
 胸も、腹も、だいぶ濡れている……と言うよりもはや乾いている場所の方が少ない。

 ミスった。
 舌打ちするとシャツを脱ぎ、下に着ていた白いTシャツ一枚になる。
 タオルで顔を拭い、鏡を見ると……嫌でも首の絆創膏に目が行く。

 おそらく跡が残るだろうと医者に言われた。別に今さら傷跡の一つ二つ増えたところでどうってことはないのだが、この場所はちと目立ちすぎる。
 客受けもあまり良くなさそうだし、何より、見るたびにレオンが悲しげな顔をする。
 幸い、後ろ髪を伸ばせばカバーできそうな位置だ。

(伸ばしてみるか。もう警察官じゃないんだし)
 
 鏡に映る自分と目が合う。白目の部分は赤く充血し、瞳はうっすらと緑に染まっている。
 だが……表情は穏やかだ。
 さっきまであれほど己の中で荒れ狂っていた冷たい嵐が、今はきれいに凪いでいた。

 その時、思った。

 誰に何と罵られようが。
 何があろうが。
 レオンが居るなら、俺は大丈夫かもしれない……と。

 脱いだシャツを肩にかけ、居間に戻った。



 ※  ※  ※  ※


「ディフ」

 戻るなり名前を呼ばれる。
 透き通ったかっ色の瞳が見つめていた。いれたばかりの紅茶みたいにあったかい。
 素直に思った。
 何てきれいなんだろう。

「何だ?」
「君が臆病者じゃないのは俺がちゃんと知ってるよ」

 それは、ディフが今、何よりも求めていた言葉だった。まっすぐに胸の中に飛び込んで、冷えきった心臓を貫いて。
 じんわりと温める。
 凍り付いた魂を溶かしてゆく。

「……不意打ちだぞ……レオン」

 ぼろっと涙がこぼれる。止まらない。
 そのくせ、顔がほころんでしまう。ほほ笑んでしまう。

「ありがとな、レオン。吹っ切れた。親父に何言われても、もう気にしねえ!」

 だまってレオンがハンカチをさし出してくれた。受け取り、顔を拭う。

「……もう一度、顔洗ってくる」
「そうだね。そうした方がいい」

 はずかしそうに首をすくめると、ディフは洗面所に引き返して行った。



 そうだ。俺は、大丈夫だ。
 何度、踏みにじられたって、罵られたって、立ち上がれる。


 レオン、お前がいてくれるなら。



(君は臆病者じゃない/了)

クレープみたいに

2008/05/13 18:39 短編十海
拍手御礼用短編の再録。レオンとディフの高校時代のお話。
【side3】チョコレート・サンデーに繋がる一編。

 時計の針が夜の十時を少し過ぎた頃。

 微かに聞こえていた水音が止んだ。レオンはちらりと浴室のドアを見やり、肩をすくめた。
 さあ、試練の始まりだ。意志を強く持て。

 じきに浴室のドアが開き、中からにゅっとルームメイトが出てきた。水気の残る頭をわしわしとタオルで拭いて、身につけているのはトランクス一枚のみ。がっちりした骨格の上を覆う引き締まった筋肉も。その表面を包むきめの細かな肌も、何もかもむき出しのまま、隠そうともしない。

 しなやかな腰から続く広い背中。日焼けした手足と比べていっそう白さが際立つ。肩から背骨にかけて肩甲骨の描くなだらかな隆起は、まるで翼の付け根みたいだ。

 ばさっとタオルが滑り落ち、肩にかかる。白い布地の下から鮮やかな赤毛が現れた。さんざんかき回されて乱れ、しかも湿気を吸っていつもよりくるりと強く巻いている。
 困ったものだね。
 つい、手を伸ばして整えてやりたくなる。

「はー、さっぱりしたぁ。風呂、空いたぞレオン」
「ああ」

 ディフはパンツ一丁のままざかざかと大またに簡易キッチンまで歩いて行き、冷蔵庫を開けた。
 中から紙パックの1リットルサイズの牛乳を取り出し、そのまま直にぐいぐい飲み始める。あのサイズのを2本、常に自分用にキープしてあるのだ。

「ふぅ……」

 無造作に手の甲で口元を拭い、話しかけてきた。

「あー、そう言えば同じクラスのヒウェルってやつがさー」

 何度か聞いたことのある名前だ。仲がいいらしい。写真が趣味で暇さえあればトイカメラでかしゃかしゃやってると言っていた。

「ゲイだった」
「……そうなんだ」
「3年生と付き合ってんだってさ。アッシュって名前だったかな」
「サンフランシスコは開放的でいいね」


 さらりと答えて、開いたノートと教科書に目線を戻す。
 いつものように意志の力を駆使して。

「君のほうはどうなんだい?」
「ああ、モニークな。Wデートじゃなくて1on1でデートしたいなって言ったら……OKしてくれた」

 しばらく喉を鳴らす音がして、それからばくん、と冷蔵庫の扉が閉まった。


「サンフランシスコのことはよくわかんないから、案内してくれると嬉しいって言ったら『うん、いいわよ』って」
「良かったじゃないか」
「…………可愛いって言われたのが、ちょっとな」

 拗ねた口調だ。だいたいどんな顔をしてるか見なくてもわかる。
 眉を寄せて、きっと拳を握って口元に当てている。

「女の子のほうが精神的な成長は早いから」
「…そっか。じゃ、しょうがねーな、張り合っても」

 ぺたぺたと湿った足音がベッドのそばへと移動してゆき、ばさりと布の動く気配がした。
 やれやれ、やっと何か着てくれたか。まったく彼ときたら油断すると風呂上がりに何も着ないで出てくるから目のやり場に困る。
 一度注意したらさすがに全裸はやらなくなったが、できれば下着姿でうろちょろするのも自重して欲しいものだ。
 安堵の息を吐いてディフの方を見ると……確かに着てはいた。白地に青のストライプのパジャマの上着だけ。しかも、その格好で膝を抱えてベッドの上に座りこんでいる。
 目が合うと、ちょっと困ったような顔をして頭をかき回した。

「ごめんな、お前のこと誘おうかと思ったんだけど、ヒウェルが『そーゆー時は1on1でデートしたいって言え、チャンスだから!』って言うから、つい」
「俺は誘ってもらっても、行けないだろうから」
「……そっか……」

(それに女の子が相手では、ね)

 何とはなしに感じていた。
 自分は生涯、女性を愛することはないだろうと。
 経験不足故に異性が苦手だとか、硬派を気取っているとか、そう言ったものとはレベルが違う。
 もっと根本的な部分で、自分は女性を受け入れられない。無理に接触しようとすると、ある種の拒否反応を起こしてしまう。

 だから日常生活の中でも必要以上の接触は避けていた。もう少し大人になれば普通に話すことぐらいできるようにはなるだろう。
 けれどデートに誘ったりパーティーでエスコートしたりするのは難しい。手をつないで歩く。ダンスをする。興味もないし、さしてしたいとも思わない。
 まして生涯の伴侶として一生を共に過ごすなんて……無理だ。

 まさか、湯上がりのルームメイトのあまりに無防備な姿にこんな風にうろたえるようになるとは、予想だにしなかったけれど。

「せっかくデートなんだから、花でも持って行っておいで」
「そうだな。花……何がいいかな……」

 小さくあくびをすると、ごろん、とベッドにひっくり返った。無防備に足を投げ出し、指をもにもにと握ったり開いたりしている。
 目をそらし、ノートに視線を戻した。けれど書かれた文字をいくら目で追っても意識の表面を上滑りするばかりで、ちっとも頭に入らない。

「俺、マーガレットが好きなんだ。家の庭にいっぱい咲いてた」
「花屋の店員に相談すればいい。向こうはプロだから、だいたいのイメージを伝えればつくってくれるよ」
「うん……そうする…………さんきゅ、レオン……………………」

 声の最後はほとんど寝息になっていた。
 用心のためさらに5分ほど置いてから顔を上げると、ディフは完全に眠っていた。うつぶせになって枕を抱えて。

「しょうがないなぁ……」

 布団をかけようにも、当人がその上に寝ている。
 どうしたものかとしばし熟考。
 ふと思いついて左右の端からくるっと持ち上げて、巻き付けるようにして彼の体を覆ってみる。

「ん…………さんきゅ、レオン」

 起きたのかと思ったが、クレープみたいな格好のまま幸せそうに眠っている。どうやら寝言らしい。

「どういたしまして」

 くすっと笑って、勉強に戻る。
 今度は集中できた。



(クレープみたいに/了)

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アフターミッション

2008/05/23 19:07 短編十海

 フレデリック・パリスが逮捕された日の夜。
 その日『カリフォルニアの青空』は一日中鉛色の雲に閉ざされ、7月だと言うのに冷たい雨が降っていた。
 自宅に戻っていたレオンは重たい足音を聞いた。

 足を引きずる様な足音が、エレベーターから出て廊下を歩いて来る。
 あのエレベーターを使うのは3人しかいない。自分と、アレックスと、そしてディフだ。
 アレックスは既に自室に下がっている。だとしたら、上がってくるのは一人しかいない。

 いつもディフが帰ってくる時は、エレベーターから自分の部屋のドアまでリズミカルに大またで歩いて行く。
 しかし今夜の足音はまるで別人だ。
 やはりこたえたのだろう。こたえないはずがない。そうと知って為した事だ。全てはディフを守るために。
 悔いはない。

 だが、それでも彼が今、悲しい顔をしているのかと思うと胸の底が少し、痛んだ。
 リビングの片隅に設置されたミニバーへと足を運び、棚に並ぶ酒の瓶に目を走らせる。琥珀色の液体を満たしたボトルを一本選んで取り出した。


 ※ ※ ※ ※


「……よぉ、レオン」

 元気がないな。塩で揉んだレタスみたいだ。耳を伏せて、しょんぼりうなだれた犬にも似ている。

「いい酒をもらったんだ。一緒にどうだい?」

 手の中のボトルに目をとめると、ディフは嬉しそうにほほ笑んだ。

「いいねぇ。入れよ」

 彼の後をついてリビングに入る。
 引っ越して間もない部屋は既にきっちり片付けられていた。警察の激務の間によくぞここまで、とも思うがもともとあまり物が無かったからだろう。
 例外は本。
 意外に彼の蔵書は多かった。警察学校の教科書やカレッジの参考書、爆発物処理班に移動が決まってからは新しい部署の仕事を覚えるため、片っ端から本を読みまくって必要な知識を吸収していったらしい。

 そして……もう一つ。台所用品も実に充実していたのだった。

「座っててくれ。グラス、持って来るから」
「ああ」

 ソファに腰かけていると間もなく、グラスを二つと銀色のアイスペールをぶらさげて戻ってきた。フタを開けると透き通った氷がカラコロと心地よい音を立てる。

「いくつだ?」
「そうだな……とりあえず、二つ」

 曇り一つないカットグラスに氷を入れて、とろりとした琥珀色の酒を注ぐ。手にとったグラスを軽く触れ合わせてから各々の口に運んだ。

「ああ、いい香りだ」

 ディフはバーボンよりスコッチを好む。 身の内に流れるスコティッシュの血が呼ぶのだろうか。あるいは水が合うのか。
 水もソーダも入れず、ただ氷だけ浮かべてくいくいと飲む。そして自分の中を満たす深い香りに目を閉じて感じ入るのだ。
 いつもはそんな風にして酒そのものを愛おしむように飲んでいるのだが……今夜は、心無しかピッチが早い。

 原因の一端が自分にもあると知っているから、レオンも止めずに付き合った。
 黙って盃を重ねていると、インターフォンが鳴った。

 のっそりとディフが立ち上がり、受話器を取る。

「あぁ……来いよ。今、レオンと飲んでる。うん。じゃ、また後で」
「誰か来るのかい?」


 ※ ※ ※ ※


 居間に通されるなりヒウェルは目を剥いた。

(ハイランド・パークの40年ものじゃねえか! こいつら、自分より年季の入った酒を、くいくいくいくいと惜しげもなく!)

「お前ら………なんっつー雑な飲み方を………」
「大丈夫、足りなかったらまた持ってくるから」
「そう言う問題じゃねーっ!」

 ため口叩いてから相手がレオンだと気づき、ほんの少しだけ焦った。が、今はそれどころじゃない。

「飲むなとは言わん。水かソーダで割れ。でなきゃ、せめて、腹に何ぞ入れてから飲め!」

 レオンは肩をすくめ、ディフはしばらくヒウェルの顔を見てから……何事もなかったかのように、くいっと飲んだ。氷も何も入れずに。

(こいつ……割る気ないな?)

 ちらりと見たウィスキーのボトルは既に半分以上空いていた。見ている間にさらに一杯注いでくいっと飲んだ。
 一息に。
 いつもはこんなにピッチの早い奴じゃない。
 原因を作ったのが他ならぬ自分の書いた記事だとわかっているだけに、止められない。

「ああ、もう……台所借りるぞっ」


 ※ ※ ※ ※


 ヒウェルがキッチンに行ってしまうとディフはグラスを置き、ぽつりとつぶやいた。

「……電話……来たんだ…ロッカールームで…」
「うん」
「嫌な感じがした……あの時……何で話しかけなかったんだろう…」

 目を伏せている。透き通ったヘーゼルの瞳が半ば閉じた瞼の陰になり、暗い憂いの色を帯びる。
 
(話しかけてもおそらく何も変わらなかっただろうな)
(君と出会うよりずっと前から、彼は悪事に手を染めていたんだから)

 思っても口には出せない。言える訳がない。

「人生はそんなことの積み重ねだね。言えなかったことなんていくらでもある……」

 まばたきするとディフは眉根を寄せ、まなじりを下げた。今にも泣き出しそうな切なげな表情で自分の両手を見つめ、ぐっと握る。

「………あの子の手の感触が…忘れられないんだ」

 口の端がほんの少し歪み、震えている。必死で堪えているのだろう。
 黙ったまま肩を寄せる。手を伸ばし、ゆるやかに波打つ赤い髪をなでた。それと知らずに初めて抱き合った夜のように。

 ディフはゆっくりとこちらを見ると手を伸ばし、きゅっと服を掴んだ。
 震える声が囁く。

「お前は……急にいなくなったりするなよ、レオン?」
「ああ……約束する」

 ほっとした顔でほほ笑んで、こてんと肩に頭を乗せてきた。


 ※ ※ ※ ※


 料理は滅多にしないがバイト先で習い覚えた酒のつまみなら手慣れたもんだ。

 冷蔵庫を開けると、さすがに充実している。とりあえず卵を4つ。オレンジ色の鍋に水を注いで火にかけ、ボイルする。
 卵がゆで上がるまでの間にトマトを1cmの輪切りにして。
 ツナ缶にみじん切りにしたタマネギとマヨネーズ、塩、こしょうを加えて混ぜ合わせ、輪切りにしたトマトの上に盛って、仕上げにパセリを散らす。

 ゆであがった卵を取り出し、一旦冷水にひたしてから殻を剥いて、横に二つに切る。
 まずは白身の先端をちょいと水平に削いですわりを良くして。
 さらに黄身を取り出し、白身の切片も一緒くたにすりつぶしてカラシと酢とウスターソースと塩、こしょうを混ぜて練り合わせる。


 店で出すなら、こいつを口金のついた袋に入れてきゅっと絞り出す所だが……。
 どうせ食うのはぐだぐだの酔っぱらいだ。気取る事もあるまい。
 白身のくぼみに適当にスプーンで盛りつけ、仕上げにパプリカを散らして、デビルドエッグのできあがり。

 ついでに生のニンジンとキュウリも切ってスティックにしてみた。

「さてっと……こんなとこかな」

 できあがったつまみを大皿に盛りつけ、リビングに戻ると……。
 
 ぴとっと肩寄せ合ってる奴らがいたりする訳で。しかもディフの奴、レオンの肩に頭乗せてもたれかかってやがる。
 何なんだ、この、むずがゆい空気は。
 何やらいたたまれない気分で立ち尽くしていると、レオンがこちらを見て手招きしてきた。言われるまま傍に寄るとひょいと手が伸びてきて、デビルズエッグを一つ取った。

「ほらヒウェルがつくってくれたよ」
「ん……」

 さし出された卵を、ディフは素直にはもっと口に入れた。
 レオンの手から、直に。

 お前って奴はっ! ああ、もう、見てる方が恥ずかしい。
 そーらこんなもん見せつけられたんじゃあパリスの奴も嫉妬に狂いもするよなあ、と妙に納得しているとレオンが苦笑して、ディフから身体を離した。
 ほんの少しだけ。

「まだそんなに飲んでないだろ?」
「……ごめん、横着した」

 恥ずかしそうな顔をして、今度は自分の手で二つ目をとった。
 どうやら気に入ったらしい。
 でもなあ、ディフ。
 口の端に、すりつぶした卵の黄味くっつけてほほ笑むな。
 拭いてくれ。
 頼むから。

「ん?」

 さすがに気づいたらしい。無造作に軽く握った拳でくいっと拭って、じっと見て……
 あ。あ。あー……
 やっぱ舐めたか。

「美味いな、これ」
「そりゃどーも」

 ことん、とつまみを盛りつけた大皿をテーブルに乗せると、レオンが酒瓶を掲げた。

「ああ君は水割り? それともソーダ割りにするかい」
「……ソーダで。あるよな?」
「ああ、冷蔵庫に」

 再びキッチンに向かう。冷蔵庫から缶入りのソーダを一本とり、ついでにグラスを持って居間に戻った。
 まったく、いつもちょこまか動くはずの奴が今日はどっかり座ったまんま、動きゃしねえ。

 ……まあ、仕方ないわな。

 その後、野郎三人で顔つきあわせてぐたぐだ飲んだ。
 1本目のボトルはあっという間に空になり、ディフが爆発物処理班のチーフからもらったとか言う16年ものを出してきて2本目に突入。

「いい酒はストレートで味わうのが一番なんだよー」
「ええい、言ってることは正しいが限度ってものを知れ!」

 用意したつまみは好評で、ばくばく食ってる。もっぱらディフが一人で。レオンはほとんど手をつけない。


(に、してもえらい食いっぷりだな……お前、今日まともに食事してないんじゃないか、もしかして?)

 やがて、豪快にあくびをすると、ディフはぱたっとソファに突っ伏して、すやすやと寝息を立て始めた。
 まったく予想の斜め上を行ってくれるねお前って奴は! ここは、普通ならいびきをかくところだろうがよ。

「そろそろ出ますかね、アレ」

 レオンがすっと立って奥へ歩いて行き、まもなく見なれた茶色の物体を抱えて戻ってきた。ほぼ同時にディフがむくりと起きあがる。


「……俺のクマどこ?」
「ここだよ」
「あった……」

 絶妙のタイミングでぽふっと手渡されたクマを大事そうに抱え込むと、今度こそディフはお休みになられてしまった。


「……片付けますか」
「そうだね」

 アイスペールを手にレオンが立ちあがった瞬間、かろん、とトングが床に落ちた。
 まるで彼の手から逃げ出したみたいに。

「おっと」

 慌てて拾おうとするレオンの手の中でアイスペールがぐらりと傾き、溶けかけた氷が今にもこぼれ落ちそうになる。
 あわてて押さえた。

「………すまないね」
「……俺がやっときますから」
「………じゃあ『こっち』を運んでおく」

「お願いします」


 ※ ※ ※ ※


 注意深くディフを抱き上げると、レオンは寝室へと歩き出した。
 腕の中でディフはクマをしっかりかかえて眠っている。無邪気な顔だ。こうしていると、あの時とちっとも変わらない。

 そっとベッドに横たえるとうっすらと目を開けた。

「レ……オ……」
「ここにいるよ」
「ん……」

 ほっとした表情で顔もふっとすりよせて、手を握られてしまった。試しに引き抜こうとしたけど、骨組みのがっちりした指がしっかりとからみつき、びくともしない。

 困ったな。
 これじゃ、動けない。
 さて、どうしよう?


 ※ ※ ※ ※

 
 皿とグラスを洗い終わってもレオンはまだ戻ってこない。どうしたんだろうと様子を見に行くと。

「やあ、ヒウェル」

『姫』は少し困った顔をして、しっかりとディフに捕まっていた。察するに『俺のクマどこ?』の第二段階が発動したらしい。

「あーその…お助けしましょっか。それとも俺、お邪魔?」
「ああ……ん。助けてくれないかな」
「それじゃ……ちょっと失礼して」

 屈み込んで、ぽしょぽしょと耳打ちする。
 ルームメイトをしていた一年の間、この寝ぼけ癖が出るたびにずーっと俺の声を聞いてたんだ。きっと効果はあるはずだ。

「……な? だから安心しろ」
「うん……」

 効果てきめん。するりと手を放した。

「……何を?」
「レオンはいつだってお前の隣にいる、だから安心しろって」
「……そうか」

 クマ抱えて幸せそうな顔して熟睡してやがる。

「馬鹿だ、こいつ」

 もう聞かれる心配がないと思うと気が抜けて、ぽろりと本音が口からこぼれた。

「俺に恨み言の一つでも吐けば、ちったあすっきりするだろうと思って……わざわざ出向いてやったってぇのに」
「ディフにだってわかってるさ、どうしようもなかったんだって」

 くいっと眼鏡の位置を整えつつレオンの顔をねめつけた。目線を斜めに傾げて。

「……あー、まったく。だから放っとけねーんだ」
「面倒見がいいのはディフだけじゃないね」

 わかってないな。
 へっと笑って軽く首を横に振る。

「あなたも『込み』ってことですよ…‥それじゃ、片付け終わったんで俺は退散します」

 二人並んでディフの部屋を出ると、レオンが鍵を閉めた。(合鍵を持ってると知っても、今さら驚く気にはならなかった)

「おやすみ」
「おやすみなさい……」

 エレベーターの扉が閉まる。
 一人になって、考える。

 あの二人を守ることに少しでも役に立ったのなら、使われるのも悪くないかもしれない。


(アフターミッション/了)


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スクランブルエッグ

2008/06/04 19:59 短編十海
20000ヒット御礼短編
ディフの初めてのお料理。
まだディーと呼ばれていた、くりんくりんの赤毛にそばかす顔の男の子だった頃のお話。
「ねえ、ディフが初めて作った料理って、何?」

 朝飯の仕度をしていたら、シエンに聞かれた。即座に答える。

「スクランブルエッグ」

 こればっかりは忘れようがない。

「最初の一品は見事に失敗しちまったけどな」

 シエンは目をぱちくりして、それからくすくす笑いだした。

「ディフでもそう言うことってあるんだ」
「無茶言うな。まだ8つだったんだぞ」
「俺もそれぐらいかな。やっぱりお母さんのお手伝いで?」
「いや。必要に迫られて」


 ※ ※ ※ ※


「ただいまー。ママ、おなかへったー」

 学校が終わってから友だちと力一杯遊びまくって。腹を減らして帰ってきたら、兄貴が途方に暮れた顔をしてキッチンに立っていた。

「にーちゃん、ママは?」
「………出かけてる」

 兄貴の手にはお袋が書いたメモがにぎられてる。いつもならおやつの場所が書いてあるはずなんだが……。
 この日に限ってよっぽど急いでいたらしい。『買い物に行きます』としか書いてなかった。

「にーちゃん、はらへったー」
「しょうがないな……」

 兄貴と二人でパントリー(食品庫)、戸棚の中、冷蔵庫の中、くまなく探した。しかし間の悪い時ってのはあるもんで。
 リンゴも、バナナも、クッキーもクラッカーもシリアルもなし。チョコもなし。かろうじてツナの缶詰を発見したがあいにくとまだ二人とも親のいない所で缶切りを使っちゃいけないことになっていた。
 もちろん、火も。

「にーちゃん、はらへった……」

 せめてパンがあればピーナッツバターとぶどうジャムのサンドイッチぐらい作れたんだが。あいにくとこう言う時に限って、ない。
 兄貴はコップを二つ取り出すと、ミルクをなみなみと注いで、たん、とテーブルに乗せた。

「ほら」
「いただきまーす」

 二人して向き合い、コップをかかえて、んくんくと飲み干す。けっこう腹がふくれる……ような気がしないでもないが、やっぱり足りない。
 飲み物だけじゃ物足りない。形のある食べ物が食べたいよ。
 じーっと空っぽになったコップの底をにらんでいると、兄貴が言った。

「もう一杯飲むか?」
「うん」

 二杯目はちょっとだけゆっくり飲んだ。
 それからしばらくは部屋でマンガ読んだりして時間をつぶしていたんだが。1時間もすると、猛烈に腹が減ってきてがまんできなくなってきた。しかもさっきより強烈に。

 ちょこまかと兄貴の部屋に行くと、宿題をしていた。なかなかこっちを向いてくれないので、近寄ってくいくいとシャツの裾をひっぱってみた。

「にーちゃん、はらへったー」
「ガマンしろ」
「はらへったー」
「ミルクでも飲め」
「はーらーへーったー」
「……………うるさい」

 やっとこっちを見てくれたと思ったら、ずるずる引っぱり出されて廊下にポイ。目の前でドアががちゃりと閉まる。

 追い出された。

 さて、どうする。あきらめてまたミルクでごまかすか?
 とぼとぼとキッチンに戻り、冷蔵庫を開ける。
 その時、ひらめいたんだ。目の前に材料はある。だったら自分で作ればいいじゃないか! ってね。

 さて、何を作ろう?
 包丁を使っちゃだめ、火を使っちゃだめとお袋に厳しく言われてる。叱られる要素は少ない方がいい。だから包丁は使わないようにしよう。

 包丁を使わずに作れるものは……。

「ん、しょっと」

 のびあがって卵を二つ、取り出した。
 スクランブルエッグにしよう。
 作り方なら、なんとなくわかる、ような気がする。毎朝、お袋が作るのを後ろからじーっと見ているから。(できあがるのが待ちきれなかったもんだから……)

 シンク下の棚を開けて、フライパンをひっぱりだしてコンロに乗せる。幸い、よろけたりはしなかった。この頃から力は強かったんだな。
 薄く油を引いて、コンロに火をつけて……あれ、順番逆だったかな?
 まあ、いいや。

 かちっとダイヤルを回して火をつける。胸がどきどきした。いけないことをしてるって自覚はあった。でも腹減ってるからそっちが優先だ。
 強火でガンガン熱せられて、あっと言う間にフライパンが熱くなる。顔がチリチリしてきた。
 あわてて卵をカシャカシャと割って中に放り込む。
 なんか、妙な具合に力が入って握りつぶしちまったけど、細かいことは気にしない。中身を出してすっかり軽くなったカラを放り出し、フォークでフライパンの中身をがしゃがしゃ混ぜる。力一杯まぜる。
 みるみる卵が白く固まって行く。
 よしよし、いい具合だ。そうだ、味をつけないと。塩とコショウを出してきて、ぱぱっとかける。
 一見順調。でも、なんか………変だな。
 
 お袋が作った時みたいにとろっとしない。ぽろぽろのぱさぱさだ。妙にフライパンにくっついてるし。混ぜ方が足りないのかな。
 フォークでさらに混ぜる。
 なんか、余計にぱさぱさになったぞ? あ……やばい、茶色っぽくなってきた。こげる、こげる。
 急いで火を止めた。

 フライパンの中には粉砕されてパサパサになった卵が二つぶん。とろっとも、ふわっともしていない。だいぶ理想とかけ離れた代物だったが、とにかく食えればOKだ。
 皿に乗せて、気に入りのフォークをそえてテーブルに運ぶ。太い柄のずっしりと重いフォークは8つの子どもの手にはいささか大きすぎたが、いつも食う時はこれと決めていた。

「いただきまーす」

 ぱくっと口に入れる。うん、卵の味だ! 俺にもちゃんとできたぞ。得意満面であぐっと噛んだその瞬間。じゃりっと堅いものが舌に当たった。

(うぇ、なんだ、これ?)

 ぺっと皿の上に吐き出す。白くてひらぺったい堅い物質……卵のカラだ。どうやら、割る時にぐしゃっとにぎりつぶしたのがまずかったらしい。
 まいったな、ぜんぜん気がつかなかった! まあいい、細かいことは気にしない。食えればいいんだ。
 じゃりっと堅いものが当たるたびに、ぺっぺっと吐き出しながら食べた。
 何だかくやしかった。お袋が作ってくれる、とろっとして、ふわっとした金色のスクランブルエッグとはあまりに違いすぎる。
 次はもっと上手く作ろう。子供心にそう誓った。


 ※ ※ ※ ※


 生まれて始めての料理。こっそり隠れて作ったはずが、簡単にバレた。
 なるほど、冷蔵庫はきちんと閉めたが卵のカラがそのままだったし、フライパンも皿もシンクに突っ込んだだけ。
 帰宅したお袋に、現場は目一杯雄弁に語ってくれたのである。
 兄貴は何も言わなかったが、出しっ放しのフォークで犯人はすぐ俺だと知れた。

「ディー! 一人で火を使ったのね? Bad-Boy!(いけない子)」

 ヘーゼルブラウンの瞳にほんの少し、緑が混ざってる。本気で怒ってるんだ。

「……ごめんなさい、ママ」
「手、見せて。火傷してない? 怪我してない?」

 真剣な顔でお袋は俺の手のひらや顔、首筋を確認し、それからほーっと深く息を吐いた。

「……うん、異常なしね。よかった」

 ぎゅっと抱きしめられる。柔らかくてあったかい胸の中にすっぽりと包まれた。

「もう二度と一人で火を使っちゃだめよ? 使いたい時は、ママかパパを呼びなさい。いいわね?」
「うん………ごめんね、ママ」

 心配かけちゃった。
 叱られたことより、そのことが胸にずくんと突き刺さった。

「ごめんね、ママ」

 くしゃくしゃと頭を撫でられた。しばらくの間、お袋は俺のことを抱きしめていたが、やがて大きく深呼吸してから、にこっとほほ笑んだ。

「それで……何を作ったの?」

 声が長調になってる。
 ママはもう怒ってない。
 悲しんでもいない。

 そう思ったら腹の底からくすぐったい波が登ってきて、にぱっと顔全体に広がった。

「スクランブルエッグ!」
「どうだった?」
「ぱさぱさでジャリジャリ」
「あらあら。でも全部食べたのはえらかったわね」

080624_0042~02.JPG
※月梨さん画。ディー坊や(8さい)


 その日の夕食はどうしたかって?
 もちろん、全部食ったよ。さすがにデザートは食べさせてもらえなかったけどな。

 そして次の朝。

「おはよう、ママ」
「おはよう、ディー」

 キッチンに入ってくと、お袋がいつものようにスクランブルエッグを作っていた。とことこと近づいて、見守った。目を皿の様にして、じっくりと。
 お袋は俺が見てるのに気づくと、いつもよりゆっくりと作ってくれた。
 かしゃん、ぽん、と卵を割って、ミルクをほんのひとたらし。

「いい? ディー。あわてちゃだめよ。やさしく、ささっと……ね?」

 フライパンの中で、いつものとろっとしたスクランブルエッグができあがって行く。
 そうか、あのダイヤルで火を小さくすれば良かったんだ!
 それに、力いっぱいがしがしかき混ぜれば良いってもんじゃなかったんだな。混ぜるのも、普通のフォークじゃなくてサラダ用の大きな木のフォークを使うのか。

「あらかじめ卵をボウルに割っておいてもいいのよ。自分の分、やってみる?」
「うん!」


 ※ ※ ※ ※


 カシャっと卵を片手で割り入れて、ミルクをほんのひとたらし。サラダ用の木のフォークでかきまぜる。
 あわてず、中火で、やさしく、ささっと。

「よし、できたぞ。皿持って来てくれ」
「はーい」

 もう失敗はしない。


(スクランブルエッグ/了)


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ぼくのクマどこ?

2008/06/21 19:35 短編十海
  • 拍手御礼用短編の再録。
  • 8歳のディー坊やをお兄ちゃんから見たお話。この兄弟、子どもの頃はこんなんでした。
 
 俺には弟がいる。名前はディー、年は8歳、3つ下。
 ママそっくりのくるくるの赤毛にヘーゼルアイ、鼻と目のまわりにはそばかすが散っていて、いつも犬みたいに後をくっついてくる。

「にーちゃん、あそぼー」
「よし、フリスビーしよう」
「わーい」
「そら、行くぞっ」

 力一杯投げたフリスビーを夢中になって追いかけて、木に激突したことがあった。ものすごい音がして、びっくりして駆け寄った。

「大丈夫かっ」
「うん、へーき」

 けろっとしてるけど、おでこから血がだらだら流れていた。

「………そうか、平気か。でもいちおう洗っておこうな」
「うん」
「消毒もしような」
「しみる」
「がまんしろ」

 こんなことはしょっちゅうある。傷を洗って、消毒して、絆創膏をぺたっとはった。

「にーちゃん、ありがとー」
「どういたしまして」

 家族はみんな慣れっこだ。俺も、父さんも、母さんも。週末ごとに遊びに行く伯父さんの家でも。
 洗面所にはいつも、ディー専用の絆創膏が徳用箱でキープしてある。

 このごろは本人も覚えてきて、ちょっと切った程度では自分でさっさと手当するようになってきた。
 ちょっとさみしい。前はケガするたびに俺のとこに飛んできてたのにな。

 これだけ丈夫な弟だけど、一つだけ変わったクセがある。
 寝る時は必ず、クマのぬいぐるみと一緒じゃないとダメなんだ。
 茶色のふかふかしたクマ。目は黒いボタン。ディーが生まれた時におじいちゃんが買ってきた、古いぬいぐるみ。ちっちゃい頃からこいつがぶんぶん振り回したり、投げ飛ばしたおかげで耳がかたっぽとれている。

 それだけワイルドに扱ってるくせに、寝る時だけは別。
 いつも大事そうに抱えてベッドに入る。

 これ、隠したらどうなるんだろうな………。


 ※ ※ ※ ※


 部屋で本を読んでいたら、ばたばたとディーが駆け込んできた。

「にーちゃん!」
「どうした、ディー」
「ぼくのクマがいないんだ。どっかいっちゃったんだ」

 ものすごく真剣な顔をしてる。笑い出したいのをこらえて、真面目な顔で答えた。

「そうか、大変だな」
「そうさくねがいってどうやって出すの?」

 難しい言葉がさらっと出るのは、パパが警察官だからだ。

「捜索願いは出せないけど、捜索隊はつくれるぞ」
「どうすればいいの? おしえてよっ」

 シャツのすそをぎゅっとにぎって見上げてくる。ぱたん、と本を閉じて立ち上がった。

「よし、では捜索隊を結成するぞ! 隊長は俺、隊員はお前」
「えー。ぼくも隊長がいいー」

 不満そうだ。口をへの字に曲げて、頬をふくらませてる。

「こういうのは年上がなるんだぞ。パパがいたらパパが隊長だな」
「……わかった、にーちゃん隊長OK。ぼく隊員」

 こくこくうなずいた。ほんと、素直なやつだ。

「よし、それじゃ、捜索隊出発だ」
「おー!」

 二人で家中、クマを捜索した。
 地下室、パントリー、客用寝室、パパの書斎、ランドリールーム、屋根裏の物置。
 いつもは開けちゃいけませんって言われてる扉の中にもディーはもぐりこみ、夢中になって中身を引っぱり出している。

「たいちょー、ここにもいませんっ」
「あわてるな。こう言う時は……現場に戻ろう」
「はいっ」

 そして、ディーの部屋に戻る。

「こんなに、さがしてもいない……クマ……どこいっちゃったんだよぉ……」
 
 ぐしぐしと鼻をすすって、半分べそをかきながら探してる。ディーがベッドの下にもぐりこんでる隙に、こっそりとクローゼットの中にクマを置いた。
 わざと半分、はみ出すようにして。
 もそもそとベッドの下から這い出してクローゼットの方を見るなりディーはぱあっと目を輝かせた。

「あ、いた!」
「やった、クマ救出だな!」
「きゅうしゅつかんりょー」

 ぎゅっと両手でクマをかかえて、ディーはうれしそうに笑った。顔いっぱいに、ヒマワリが咲いたみたいな笑顔で。それから、クマをかかえたまましがみついてきた。

「にーちゃんありがとー」

 すごくあったかい。子犬みたいだ。ああ、頼られてるんだなって気持ちで胸がいっぱいになる。

「よーし、ジュースで乾杯だー」
「おー!」

 キッチンに行って、リンゴジュースで乾杯していると、ママが入ってきた。

「ジョニー。ディー。ちょっといらっしゃい」

 二人してごちゃごちゃになった客間に連れて行かれて、きっちり怒られた。
 しょんぼりしていると、ディーがママのエプロンをつかんで言った。

「にーちゃんは悪くない、ぼくのクマさがしてくれたんだから、おねがい、にーちゃんはしからないで!」

 ママはじっと俺の顔を見て、それからディーの顔を見て。しばらく考えてからディーの頭をなでた。

「そう……わかったわ。あなたは部屋に戻ってなさい」
「……うん」

 ディーは何度も俺の方を振り返りながら部屋に戻っていった。しっかりとクマを抱えて。

「さて、と」

 ぱたん、とドアを閉めるとママはかがみ込み、まっすぐに俺の目を見つめてきた。

「クマが一人で歩く訳ないでしょう? 本当のこと言いなさい。何があったの?」
「う……」

 思わず目をそらしたけれど、逃げられない。すきとおったヘーゼルアイが追いかけてくる。

「ジョナサン。ママの目を見て」
「………ごめんなさい」


 ※ ※ ※ ※


 あんなに大事にしていたクマなのに、高校に進学して家を出るとき、ディーのやつは家に置いていった。
 もう自立するんだから、クマから卒業するんだ、と言って。

 あいつの置いていったクマはその後、俺の妻の手で修理されて。
 ギンガムチェックの耳をつけ、今では娘のナンシーの大事なお守り役になっている。
 それでも不思議なもので、時々、遠く離れたサンフランシスコでディーがこいつを探してるような気がするんだ。

「ぼくのクマどこ?」……って、ね。

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※月梨さん画「にーちゃんと弟」


(ぼくのクマどこ?/了)

フクシアの花の色

2008/07/06 18:41 短編十海
 
 市警察の廊下でばったりレオンとはち合わせした。

「やあ、ヒウェル」
「あれ、レオン。珍しい所で会いますね」
「俺は弁護士だよ。警察署に居てもおかしくはないだろう」

 まあ、確かにそりゃそうなんだけど。
 今回は仕事じゃなくておそらくは事情徴収だ。それにしても妙に、こう……いつもに増して言葉にトゲが生えていないか、この男。
 顔がきれいなだけになおさら目立つんだよ、その鋭さが。

「昨日ね。ディフを見舞いに行ったんだ」

 何故そこで『昨日』を強調するか。ここんとこ毎日行ってるだろうに。
 はたと思いつく。
 これは、前振りだ。決定的な一言を切り出す前の軽い肩ならし。ぞわっと皮膚にあわ粒が浮いた。

 俺、何か、レオンを怒らせるようなこと、しただろうか?

「彼がね。見慣れぬ黒い肩掛けを羽織っていたんだ。あれは………君が用意したものかい? ヒウェル」

 にっこりと穏やかな微笑みを浮かべちゃいるが目が全然笑ってない。かろうじて疑問文で問いかけちゃいるが、確定だ。
 彼は知ってる。
 だったら自白した方が罪は軽い。

「え、ええ。病院は冷えるからって頼まれまして」
「ほう……つまり、あの色はディフのリクエストだったのか」
「なるだけ濃いめの色がいいって言うから。店にある中でいちばん濃いやつだったんですよ、あの、黒が」
「なるほどね」

 ムっとした顔でにらまれた。
 ほんの短い間だけ。すぐにいつもの穏やかな表情を取り戻す。
 
『病院に黒ってのもどうかなって思ったんだけどさ。他に濃いめの色が見つからなくって』
『いや……これぐらい強い色の方がいい』

「実は別の色も用意してったんですよ、念のため。二枚見せてどっちがいいかって聞いたら、あっちがいいと」
「どんな色を?」
「………これです」

 書類鞄の中から平べったい紙袋をとりだした。『証拠物件A』だ。

「持ち歩いてたのか」
「ええ、まあ」

 するりと引き出す肩掛け一枚。シルクとパシュミナで織られた薄い布地は羽毛のように軽い。

「………………ピンクだね」
「はい、ピンクです」

 暖かみのある、赤みの強い濃いピンク色。店のタグには「フクシア」と書かれていた。釣浮草の花の色だ。

「彼は、何と?」
「貴様、俺にピンクを着ろと言うか、って、地獄の番犬みたいな声で」
「それだけかい?」
「一発シメられました」
「……だろうね」

 んでもってナースに怒られた。『病室で騒がないでください』と。

 一応の納得はしたらしく、レオンはそれ以上、黒い肩掛けについては追求してこなかった。

「それで、そのピンクの肩掛けは……どうするんだい? 君が使うのか?」
「いやあ、さすがにこれ俺が着ちゃったら世間の迷惑でしょう」
「と、言うか犯罪だね」

 そこまで言うか。

「返品するのももったいないし。誰かにもらってもらおうかと思うんです」
「誰に?」
「……誰がいいでしょうねえ」
 
 オルファ、は……着なさそうだもんなあ、これ。ってかリアクションがほぼディフと同じなんじゃないかって気がする。
 Mr.ジーノの奥さんは……むしろあの人なら赤が似合う。

 しばし目を閉じて記憶をたぐる。
 ああ、そうだ。
 彼女にしよう。


 ※ ※ ※ ※


 数日後。
 ルーシー・ハミルトン・パリスのアパートに一枚の封筒が届いた。
 大きさはA4サイズほど、わずかな厚みがあり、軽い。

 開封すると、中からさらりと鮮やかなピンク色がこぼれ落ちる。

 ルースは思わず小さな歓声を上げ、それから添えられたカードを見て顔をほころばせた。
 
 
 この色の名は『フクシア』と言う。
 季節外れは百も承知。だけどこの色は君が一番よく似合う。
 またいつか、ロッキーロードをおごらせてくれ。
 
 Hywel Maelwys
 
 
 試しにふわりと羽織ってみた。すべすべとした柔らかな布が肩を、首筋を覆う。目を閉じてしばし、安らかな感触に浸った。

 フクシアの花言葉は『暖かい心』。


(フクシアの花の色/了)

次へ→ぼくのクマどこ?

サワディーカ!

2008/07/22 17:20 短編十海
 
 チャイナタウンは好きだ。

 この、適度にごちゃごちゃした雰囲気がいい。空いてる場所に後から後から物を積み上げて、しかも雑然としたなりに形になってるバランスが心地よい。
 赤や黄色、光沢のある緑。派手な色彩が、カリフォルニアの陽光にさらされていい具合にあせた色合いもまた、なかなかに趣き深い。
 油と砂糖と八角、茴香、山椒、肉桂、白檀、茉莉花、その他もろもろの香りの溶け込んだぬるっとした空気を吸うのも好きだし、何と言ってもこの町は食い物が美味い。

 そんな訳で暇さえ見つけてはここに鼻をつっこんで、愛用の古い一眼レフでかしゃかしゃ写すのが日課になっていた。
 出入りすれば自然と馴染みも増える。
 黒髪に濃い茶色のアンバーアイ、やや浅黒い肌と言った俺の容姿もこの町に容易に溶け込む助けとなってくれる。

 詳しくなればなったで、仕事も採れる。
 
 その日も趣味と実益を兼ねてチャイナタウンをぶらついて、時折目に留まった風景を写真に収めていた。
 あくびしてる猫とか、道ばたにとめられた自転車とか、どこかに1ポイントしぼって写す時もあるし、このへんか、と大雑把にあたりを着けて何枚も写して後で現像する段になって気に入りの風景を選ぶ場合もある。

 本職のカメラマンの匠の技には遠く及ばないが、仕事を離れて好きなように写真を撮るのは楽しい。他に趣味らしいものもないしな。

 店先に針金細工の鳥かごが置かれていた。値札もつけずに、ぽん、と。売り物なのか、店の飾りなのか微妙なとこだ。
 すき間が大きい所を見ると、あくまで鳥かご型のオブジェであって実際に鳥を飼うためのものではなさそうだ。
 その中に、偶然……本物の、生きた小鳥が入っていた。おそらくセキレイだろう。
 こいつぁ面白ぇ! ってんでカシャカシャ連写して。ぱっと飛び立ったのを追いかけてレンズを道の方に向けると……。

「ん?」

 ファインダーの中、下の方をすーっと見覚えのある顔が横切った。
 一瞬、背筋がぞわっとなった。

(落ち着け、落ち着け、あの女は太平洋の向こう側だ、こんな所にいるはずがない!)

 カメラを降ろし、深呼吸して肉眼で直に見てみる。
 ぱっと見、ジュニアハイかハイスクールの学生さんと見まごうような東洋系の眼鏡くんが約一名。でっかい買い物袋を下げてとことこと、こっちに向かって歩いて来る。
 近づいた所で手をあげ、声をかけた。

「やあ、サリー」
「こんにちは、メイリールさん」
「買い物、か?」
「ええ、ちょっと食料を……」

 しみじみ見下ろす。ああ、DNAのつながりって偉大だ。

「………………………やっぱ似てるな」
「え、ヨーコさんに?」
「うん」

 指で四角い窓を作り、サクヤを見てみる。きょとんとして首をかしげていた。
 Tシャツにジーンズと、オフタイムらしくラフな格好だ。模様からしておそらくジュニア用だろう。

「ファインダー通してみるとわかる」
「あんまり言われたことないけれど、親どうしはすごくよく似てるから」
「何って言うか、骨格そのものが華奢なんだな、君ら。彼女、ひょっとしたらノーメイクに私服で教壇に立ってたら生徒はしばらく気がつかないんじゃねーか?」
「ああ、そうかも」

 想像して思わず、けっけっけっと悪魔じみた声を出して笑ってしまった。また、高校時代のヨーコと来たら実にフラットな体型だったから、余計にな。

(何ですって?)

 一瞬、背筋がぞわっとなって周囲を見回した。
 ………うん、気のせいだよな、そうに決まってる。

「どうかしましたか?」
「え、あ、いや別に……そうか、食料の買い出しかー。やっぱりこっちの食い物の方が口に合う?」
「んー、時々無性に食べたくはなりますね。わりとなんでもいいほうなんだけど」
「俺も好きだよー月餅とか揚げパンとか」
「チャーハンとか水餃子とか」
「いいねー餃子」
「ただこっちだとラーメンはいいのがないんだよなぁ……」
「……普通のスーパーでな。カップ入りのスープのコーナーに行ってみてごらん。多分、見覚えのあるロゴのやつがあるはずだ。ヌードルスープって商品名だけど」

 いかん、いかん。
 何だって俺は、二十歳過ぎた相手に子ども相手に喋るような口調で話してるのか。

「インスタントは日本からも送ってもらえるから」
「そっか」
「日本は麺の種類がわりと多いんだけど、うどんと蕎麦とラーメンは、納得いくものに遭遇することはほとんどないかな……」

 思わずぷっとふき出した。
 同じ骨格、同じ音質の声でほとんど同じ台詞を言った奴がいたのだ……昔。

「一瞬タイムスリップしたと思ったぜ」
「ヨーコさんも言ってた?」
「ああ、もうロクな蕎麦が食えないしうどんも全然だめーっ、とんこつラーメンたべたーい! ………って言ってた」
「アメリカって麺好きには厳しい国なんだよね。パスタはみんなゆですぎだし」
「そーなんだよなー。ゆですぎは食えたもんじゃねえ」

「ヨーコさんに言わせると、まだ最近のほうがマシなんだそうだけど」
「そうだな、ここ10年ぐらいでだいぶマシになってはいる。でもイタリアン食いに行くならピザにしといた方が無難だね」
「いっそベトナム料理店に行ってフォーでも食べようかな−」
「ああ、あれ美味いよな。食後のコーヒーがめっちゃくちゃ甘いけど」
「……焼きそば食べたくなってきた」

 食い物のにおいのする空気の中で、食い物の話で盛り上がっていたら何だかやたらとこっちも腹が減ってきた。
 って言うか俺は今日、昼飯はおろか朝飯も食ってはいないのだ。
 チョコバーと水は口にしたがな。

「タイ料理じゃだめか?」
「パッタイですか。あれ米粉なんだよね……美味しいところあります?」
「案内するよ。けっこう仕事で食べ歩きしたからな」
「是非」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 馴染みのタイ料理店にサリーを連れて入って行くと、エプロンを着けて髪をきりっとポニーテールに結い上げた看板娘が、にこやかに声をかけてきた。
 きちっと胸の前で手を合わせて。

「サワディーカ(英語のHello!に相当する挨拶)、メイリールさん!」
「やあ、タリサ。今日もきれいだね」
「はいはい、ありがとね」

 さらっと流される。いつものことだ。

「席、空いてる? 二人分」
「どうぞ、こちらへ」

 10人も入ればいっぱいになる小さな店だが、昼時を少し過ぎていたので空いていた。
 四角い、低めのテーブルにつくと、大きめのガラスコップに注がれたよく冷えたレモンバームのお茶が二人分、どんどんっと出てきた。

「パッタイ二つと、春雨のサラダ。あとデザート、今日は何がある?」
「バジルシードのココナッツミルクがけ」
「じゃあ、それも二人分。大丈夫だよな?」
「ええ、平気です。ありがとう」

 さらさらと料理の名前をメモすると、タリサは店の奥の父親に向かってはきはきした声でオーダーを伝えた。
 すぐに奥の厨房から低い声で返事が帰ってくる。
 オーダーを終えるとタリサはちょこん、と首をかしげて聞いてきた。

「それで……メイリールさん、どこのお子さん連れてきたの?」
「え?」
「珍しいよね、子連れだなんて?」
「あ……いや、違うんだ、そうじゃなくて」

 そうだよな。傍から見れば今の俺って、子どもに焼きそばをおごるうさんくさいおじさんだ。

「いや、そーじゃなくて……友だち。動物のお医者さんなんだよ、彼」
「まだ学生ですよ」

 にこにこしながらサリーが言い添える。

「あら、獣医さんなの? うちにも猫いるよ」

 猫ってのは自分が話題にされてると嗅ぎ付ける才能があるらしい。ちょうどその時、ほっそりしたシャム猫が上品に体をくねらせて奥から出てきた。
 クリーム色の地色に顔と耳、手足の先と尻尾の色がほんの少し濃い褐色を帯びている。
 瞳はターコイズのようなブルーだ。

「ああ、すごく綺麗な子ですね。おいで」

 猫はするりとサリーに近寄り、絹みたいにつややかな毛並みを彼の指先に掏り寄せた。
 長い尻尾がくるりと彼の手に巻き付く。

「毛並みいいなぁ、すべすべだ」
「その子、私のお祖父さんが連れてきた猫の子孫なの。ネズミ穫りの名人なんだよ!」

 タリサは誇らしげに胸を張った。

「ネズミ穫ってくれるからね、猫はすごく大事」
「ええ、そうですね」

 猫はサリーになでられてすっかり上機嫌だ。目を細めてゴロゴロのどを鳴らしている。

「すごいなあ。この店に出入りするよーになってからけっこう経つけど、俺、まだそこまでフレンドリーにしてもらってねえ」
「メイリールさんは、タバコの匂いがするからですよ」
「やっぱヤニか……」
「動物は匂い気にしますからね」
「ヤニか………」
「俺も、病院から出た直後はだめな時もありますね。消毒液の匂いがするみたいで」
「ああ、猫にしてみりゃやっぱ怖いんだな、病院のにおい」
「柑橘系の強いのも苦手ですね、猫」
「ミントは?」
「ミントはどうかなぁ……多分きついとやっぱりだめだと思います」
「ああでもたまにすごく好きな子もいる……」
「そっか……」

 一応、メンソールだからミントの香りなんだけどなあ。ヤニの方が強いんだろうか。
 くんくん、と箱に入った煙草のにおいをかいでいると、ほこほこと湯気の立つ皿が二人分、目の前に出てきた。
 太い麺と、茹でた海老、スクランブルにした卵と大量のニラとモヤシ、くだいたピーナッツに忘れちゃいけないパクチー。
 あつあつのパッタイが盛りつけられている。

「どうぞ! 熱いから気をつけてね」
「サンキュ、タリサ」

 ちらっと俺を見下ろすと、タリサは人さし指をぴっと立てて左右に振り、びしっと言ってくれた。

「メイリールさんは煙草吸い過ぎ!」

 ああ。
 十八の女の子に説教されちまったよ……。

「ライム、サービスで二切れ入れといたからビタミンとってね?」
「うん……いただきます」
「いただきます」

 一口食ってからサリーは、あ、と小さく声をあげた。

「美味しい」
「だろ? ここ、店は小さいけど親父さんの腕は確かだから」

 俺の皿には分厚く切ったライムが二切れ添えられていた。サリーの皿には一切れ、これが普通だ。
 せっかくの心遣いを無駄にもできず、ぎゅっと絞って麺にかける。猫はちょっと顔をしかめて、すうっとまた奥に戻ってしまった。
 通りすがりに、じゃあね、とでも言うようにサリーの足にすりよって。
 俺のことは鞭のような尻尾でぴしゃりと叩いて。

 まったく、この店のタイ美人は気が強い。
 人でも。
 猫でも。


(サワディーカ!/了)

real-Scotsman

2008/07/22 17:21 短編十海
 
 部屋に戻ると、新郎新婦に報告するまでもなく二人の方からやってきた。
 ちらりとヨーコの方を振り返ってからヒウェルは小声で伝えたのだった。

「双子のことなら心配ない。じきに戻って来る」
「……そうか」

 ほっとディフが安堵の息をつき、レオンと顔を見合わせる。気が気じゃなかったらしい。ったく、心配性だな、『まま』。

「ああ、ここに居たな、マックス」

 ぬっとマクダネル班長が近づいてきた。いつもの厳しい顔が若干ゆるんでいて、血色も良くなっていらっしゃる。

「こちらの美しいご婦人はどなたかな?」

 美しい? そーりゃ見てくれはそこそこですがねチーフ。ごまかされちゃいけません、アレの中味は『猛獣』ですぜ!

「彼女は俺とヒウェルの高校時代の同級生で、ヨーコって言います。ヨーコ、こちらは俺の警官時代の上司でマクダネル警部補」

 しずしずと一礼すると、ヨーコはにっこりと適度に控えめな笑みを浮かべた。

「ヨーコ・ユウキと申します。お目にかかれて嬉しく思います、マクダネル警部補」
「こちらこそ、Missヨーコ。よろしければ一曲踊っていただけるかな?」
「とても嬉しいお申し出ですけれど、ご辞退させていただきますわ、警部補」

 くすっと笑うとヨーコは着物の両袖を広げた。

「今日は踊るのにはいささか、不向きな服装ですので」

 ディフが首をかしげた。

「そうか? でもハイスクールの時は」
「あれは、浴衣だったから!」
「そうなのか」
「そーそー、着物とは違うのよ。あれは盆ダンスの時のユニフォームだから」

 にこやかにさらりと言ってるが、そーゆー次元の問題じゃないだろ、ヨーコ。
 俺は覚えてるぞ。
 ユカタの下にショートスパッツ履いて、ジャニスやカレンらと一緒にアップビートでノリノリで踊りまくってた君を。

「それは……残念」

 大げさに肩をすくめると、チーフ・マクダネルはやおら表情を引き締めてディフに向き直った。

「単刀直入に聞こう。ダンスの前にこれだけは確認しておかんとな……」
「はい」

 ディフも真面目な顔でうなずく。

「Are you a real Scotsman?」
「No. 彼が望まないので」

 ほんの少しの間、チーフはむっとした顔をしていた。しかし、すぐさまにやりと豪快に笑うとディフの背をばしばしと叩いたのだった。
 試しに聞いてみる。

「で……チーフ、あなたは?」

 ずいっと彼は胸を張って答えた。

「Yes!」

 やっぱりな。
 大またでざかざかと歩み去り、新たなパートナーを探しに行くチーフの背を見送りつつヨーコが小さくため息をついた。

「惜しいなあ……もろ、ツボだったんだけどなあ」
「そりゃ、確かにチーフはいい漢だが………」

 ディフが首をひねった。

「年、離れすぎてないか?」
「同感だ。彼と手ぇつないだら君ら、ほとんど親子だよ」
「男は四十代からが華よ。やっぱり素敵ね、あれこそ大人の男! って感じ」

 しみじみおっしゃってますなあ、ヨーコさん。
 つまり、あれか。
 君の目から見れば俺らも双子も同じレベルってことか? そこはかとなく納得行かないぞ。

「で。ちょっと質問したいんだけどいいかしら?」
「何だ?」
「さっきの警部補の質問って、どう言う意味? 『本物のスコットランド男か』って……」
「いや、つまり……キルトってのはスコットランドの民族衣装だろ」

 ディフが答える。ほんの少しためらいながら。レオンはただ笑顔で見守るのみ。

「本来なら下着つけないで着るのが正しい着方なんだ」
「……ああ、つまり、そゆこと」
「うん。そゆこと」
「なるほどねぇ……」

 しみじみうなずきながらチーフの後ろ姿と、ディフを交互に見ている。ふと思い出して今度は逆にこっちから質問してみた。

「そう言えばさあ、ヨーコ」
「何?」
「キモノも本来は下着つけずに着るもんなんだろ?」
「昔はね」
「……are you a real japanese woman?」
「…………………ヒウェル」

 久々にくらった『こめかみぐりぐり』は、一段とキレが増していた。

「くうう。ひっさびさに効いたぜ」
「ったく。あんたがゲイじゃなきゃセクハラで訴えるところだ」
「訴えるのなら相談に乗るよ?」

 さらりとレオンが切り出した。腕組みをして三白眼でねめつけるディフの隣から、笑顔で。あくまで穏やかな笑顔で!

「いえ、残念ながら月曜の便で帰りますので………」

 ぱしぱしと手を叩いてからヨーコは事も無げに着物の襟に指をそえ、ぴしっと整えた。

「ノーパンかどうかは問題じゃなくて、要は下着のラインが上に出ないよう気をつけりゃいいってことなの。ちゃんと和装用のランジェリー着けてるわよ」
「さいですか」


(real-Scotsman/了)

second-bar

2008/08/04 14:37 短編十海
 拍手用お礼短編。
 【ex4】猫と話す本屋のおまけのエピソード。
 second-barってのは二次会のことだそうです。
 
「はぁ………」

 サリーは本日何度目かのため息をついた。

 シスコ市内のバーに会場を移しての二次会。参加するつもりはなかったのだが、ヨーコに否応なく連行されてしまった。
 さっきから彼女の昔の同級生や結婚式で知り合った人に紹介されまくり。何人と会ったか既に覚えていない。

「この子、サリーって言うの。あたしのイトコ!」
「そっくりだね」
「母親同士かそっくりだからね!」

 細部は微妙に異なるが、交わす会話はだいたいこんな感じ。
 それにしてもヨーコさん、微妙に言い方が巧妙な気がするのは考え過ぎだろうか?
 あえてcousinとだけ言って、sisterともbrotherとも言わない。わざわざ着けないのが慣習だし、紹介された方も敢えて聞かないのが普通だけれど……。

 きっと十中八九、女性とまちがえられてる。
 カウンターに肘をついてぼんやりしていると、すっと目の前にグラスがさし出された。縦に細長いフルートグラスの中に透明な液体が満たされ、薄切りにしたライムが浮いている。
 きめ細かな泡がぽつ……ぽつ……とグラスの底から浮び上がり、時折ライムの薄切りにまとわりついては、また浮かぶ。

「どうぞ」
「いや、俺、頼んでませんけど」
「いいから飲んどけ。俺のおごり」
「あ……メイリールさん」

 何故かカウンターの内側にいて、慣れた手つきでちゃっちゃとシェイカーやグラスを軽妙に操っている。

「何してるんですか?」
「バーテンが足りないからさ……ほぼ強制的に」

 肩をすくめながらも手は休めない。

「意外な特技ですね」
「一時期、酒場でバイトしてたんだ、俺」
「そうだったんですか……」
「それ、ノンアルコールだから安心してくれ。ついでに言うと甘みも入ってない」
「ありがとう」

 一口ふくむ。ライムの酸味と香り、微弱な炭酸が広がった。

「あ………けっこう美味しい、かも」
「ガス入りのミネラルウォーターにライム浮かべただけだけどな。すっきりするぞ」

 参ったな。浮かない顔してる所、見られてしまったんだろうか。

「ダンスの時に……ね。誘われちゃったんですよ」
「ほう?」
「お嬢さん、一曲踊っていただけますかって。どうしてタキシード着てるのに間違われるのかなぁ……」
「今日はけっこうご婦人方も着てたからな、タキシード」
「胸もないのに………」
「そりゃあ、まあ」

 きょろきょろと周囲を見回してから、ヒウェルは声を潜めて言った。

「ヨーコのイトコならそんなもんだろうって納得されてるんじゃないか?」
「………そうなんだ」
「比較の問題だよ。それほど気にする事ぁないって」

 ぱちっとウィンクしている。ほんの少しだけ胸が軽くなった気がした。(後で彼をどんな運命が見舞うかはともかくとして)

「おぉい、バーテン! 酒が切れたぞー!」
「おっと……お呼びがかかったか、しょうがねーなー、あの飲んべえどもが! それじゃ、サリー、またな」

 いそいそと酒瓶とグラスを抱えて歩いて行く。しょうがないと言ってる割には活き活きしていた。
 彼も嬉しいのだろう。今日と言う日が。
 レオンとディフも幸せそうだった。あの二人の結婚を祝うことができて良かったと思う。双子を連れ戻すこともできたし……。

 確かに今日、自分が結婚式に参加したことには意味があった。でも二次会は、なあ……。
 上着の胸ポケットを押さえる。
 挨拶を交わした際に渡された名刺や、電話番号だけ走り書きしたメモが何枚か束になって入っている。

 シスコに引っ越してきて一年も経つのにあまり親しい友人のいない自分を気遣ってのことなんだろうけど……世話焼き過ぎだよ、ヨーコさん。
 俺はもうちいさな子どもじゃないし、学校の生徒でもないんだから。

 目の前のグラスの中で泡が弾け、ライムの薄切りが揺れる。

 ふっと何気なく思い出す。
 きちんと整えられた金髪に、ライムの果実そっくりのほんのり黄色みがかった明るいグリーンの瞳。やや面長の、優しげな英国紳士を。

 あれぐらい穏やかな人の方が話していて安心できる。アメリカン式の押せ押せスタイルは自分にはあまり合わない。

(エドワーズさんも二次会、来ればよかったのに)

 帰りがけに「猫が待っているから」と言っているのが聞こえた。きっと今頃、リズと子どもたちにお土産を食べさせているのだろう。
 
(子猫が6匹かぁ)

 きっと、几帳面に、きちっと世話しているんだろうなあ。会うのが楽しみだ。
 子猫にも。
 その飼い主にも。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 その頃。
 エドワード・エヴェン・エドワーズは、昼間放ったらかしにしておいた埋め合わせをすべく、全力で6匹の子猫たちの相手をしていた。

 古い靴下に詰めたキャットニップを放り投げると、どどどどどっと一塊になって走って行く。
 小さな前足でぱしぱし叩き、上になり、下になり、ジャンプしながら夢中になって取り合っている。中には勢いにまかせてタンスの上に駆け上がり、フーっと下の兄弟たちを威嚇している子もいる。

 まるでサッカーだ。
 いや、手も使ってるからラグビーかな?

 にこにこしながら見守っていると、誰かの弾き飛ばした靴下がびしっと顔面にヒットした。

「……アンジェラ?」

 ずるりと滑り降りた靴下はそのままベストの懐にin。
 しまった、と思った時は既に遅く、目をぎらぎらさせた子猫たちが一斉に飛びつき、足をよじ上ってきた。

「こら、こら、頼むよ爪を立てないでくれ、よそ行きなんだから!」

 5匹のちび猫どもにたかられながら振り払う訳にも行かずおろおろしていると……

「うわっ」

 とどめにモニークがタンスの上からダイビングしてきた。やわらかで、それでいて弾力のある体が飛びついて来る。少しだけ生き物独特の湿り気を帯びて。
 小さな手を目一杯広げてひしっとベストにしがみつく。
 細い爪がちくちく刺さるがさほど痛いとも感じない。
 モニークはもそもそと懐に潜り込むと『獲物』を両手両足で抱え込み、満足げに噛み始めた。
 ちっちゃな桃色の口を開けて、あむあむと。時折、後足で小刻みにキックしながら。
 どうやらこの子たちも優秀なネズミハンターになりそうだ。

 ああ。まったく子猫のいる暮らしと言うのは…………………刺激的だ。

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※月梨さん画「猫にたかられる本屋」
 
(second-bar/了)

夏の思ひ出

2008/08/10 18:54 短編十海
  • 拍手コメントでサリーさん相手に質問をいただきましたのでお返事を。
 
 動物が良い味出してますね〜。サリーさんは大動物は大丈夫なのかな。獣医も苦手な動物がいるらしいので気になります♪
 
 
ヨーコ「……だ、そうですが。実際どうなのよ、サクヤちゃん? 馬とか、牛とか、グリズリーとか、バッファローとか!」
サクヤ「いや、無理に国際色出そうとしなくていいから」
ヨーコ「ヨセミテベアーとかワイリーコヨーテとかロードランナーとかバックスバニーとか……」
サクヤ「それ全部カートゥーンのキャラクターじゃない! 大動物は平気だけど……アレがちょっと……ね」
ヨーコ「あー……まだ苦手なんだ、虫」

 
 ※ ※ ※ ※
 
 それは夏が来るたびに蘇るほろ苦い思い出。
 夏休みにサクヤを連れて裏山に遊びに行った時、ヨーコはクヌギの木の一角が黒光りしているのに気づいた。
 くん、と空気をかぐと、かすかにもわっとしたなまぬるい臭いが漂っている。

「ちょっと待っててね、サクヤちゃん」
「よーこちゃん、どこ行くの?」
「すぐもどるから」

 履いていたビーチサンダルを脱ぎ捨てて木によじ上る。
 着ていたのはお気に入りのミントグリーンのヒマワリのワンピース。ちょっと動きにくいけど、ゆっくり行けば平気。下にスパッツもはいてるし。
 ちらっと下を見るとサクヤが心配そうに見上げてる。ぎゅっと拳を握り、唇をかんで。

「大丈夫だから!」

 一声かけて、また登る。

 二股に別れた木の表面には小さな裂け目があり、じゅくじゅくと樹液がしみ出していた。
 そこにはカナブンやオレンジ色のチョウチョに混じって大きなツヤツヤした……そりゃあもう、立派なカブトムシが張り付いていた。
 堂々たる角は、まさしく昆虫の王者だ。

「やった!」

 そっとつまみ取るとポケットに入れ、急いで木から降りた。
 サクヤがほっとした顔で駆け寄ってくる。

「よーこちゃん、だいじょうぶ? こわくなかった?」
「うん、大丈夫」

 ぱしぱしと手足をはらい、ポケットから獲物を取り出した。

「ほーら、サクヤちゃん、これー!」

 サクヤはぴくりとも動かない。
 にゅっと顔の前にさし出された大きな大きなカブトムシを見つめたまま、硬直している。

「サクヤ………ちゃん?」

 次の瞬間、わっと泣き出した。

「ああっ、ごめんねごめんねサクヤちゃん泣かないでーっ」

 慌てるヨーコの手からカブトムシがぽとりと落ちる。
 しばらくひっくり返ってもぞもぞしていたがすぐに起きあがり、羽根を広げてぶーんっと飛んで行った。

 
 ※ ※ ※ ※
 

ヨーコ「……それからしばらくの間、サクヤちゃんあたしのこと遠巻きにして……近づいてきませんでした」(ほろり)
サクヤ「虫はやっぱり宇宙からきたんだよ……」(ぶるぶるがたがた)
ヨーコ「そっかー、宇宙からの訪問者じゃしょーがないわよね」(わしゃわしゃわしゃ)
サクヤ「ってよーこさん、何、わしづかみにしてんの!」
ヨーコ「ん? クマゼミ。そこの街路樹にとまってた」
サクヤ「そ、そう……最近増えてきたよね……」(びくびく)
ヨーコ「普通のセミよりでかいから目立つよね、これ。地球温暖化の影響ってやつ?」
サクヤ「(わざとだ……絶対、わざとだ……)」

 
 ※ ※ ※ ※

 さらに昔の思い出。

 サクヤ2歳、ヨーコ5歳の夏。

 その日、サクヤは前日の夜から熱を出して寝込んでいた。
 庭に面した風通しのよい座敷に布団を敷いて横になっていると、にゅっと縁側からヨーコが入って来た。

「サクヤちゃん」
「よーこちゃん」

 とことこと歩いてきて、ぺたんとサクヤの枕元にすわり込み、ぴとっとおでこをくっつける。

「んー、まだお熱あるね。おでこもあついし」
「うん」

 言ってることの半分も自分で理解はしていない。自分の母や、サクヤの母がやってることのマネをしているだけ。それでもあくまでまじめな顔で。
 赤い顔で、ぽーっとしているサクヤにヨーコは持参した四角い缶をさし出した。
 緑色の地に赤い折り鶴の模様の印刷された缶。もとはおせんべいの入っていたもの。 

「これ、おみまい。きらきらしてすごくきれいなの」
「………ありがとー……なに?」
「いいもの!」

 にこにこしているヨーコを見て、サクヤは素直に缶のふたをかぱっと開けた。

donko2.jpg

 缶の中には、セミの抜け殻が……ぎっしり、みっしり、てんこ盛り。
 ひと目見てサクヤは凍りついた。
 缶のふたで圧迫されていたセミの抜け殻が、圧力から解放されて……もぞり、とあふれる。

 ぼとっとサクヤの手から缶が落ちた。
 ざらざらとこぼれたセミの抜け殻は、風に吹かれてふわふわ、かさかさ、部屋中に散らばって行く。

 ぎゃーっと声をあげてサクヤが泣き始める。
 ヨーコはあわてた。
 きれいだから見せにきたのに。サクヤちゃんを泣かせてしまった!

「サクヤちゃんないたーっ」

 親、兄弟、友だち。幼い子どもはとかく身近な存在の感情に同調する。人でも、動物でも、同じように。
 まして姉弟同然の二人である。覚醒こそしていなかったが、常ならぬ感覚を互いの母親から受け継いでもいた。
 
 火のついたような泣き声に驚いたサクヤの母が部屋に飛び込んできた時は、二人は一緒になって大泣きしていた。
 そりゃあもう、ひきつけでも起こしそうな勢いで。
 後になってヨーコは自分の母親からみっちり叱られた。

「きれいだったの、だからサクヤちゃんにも見せたかったの」
「うん、それはわかった。でもあなたが平気なものでも、サクヤちゃんが平気とは限らないでしょ?」
「うん……」
「注意しなさい」
「うん……ごめんなさい」

 
 ※ ※ ※ ※

 
ヨーコ「セミの抜け殻ってなかなか機能美にあふれてると思わない? あたし高校の美術の時間に細密画の課題のモチーフにしたよ?」
サクヤ「そ、そう……」
ヨーコ「ほんと、どーしてこんなに虫が苦手になっちゃったのかな、サクヤちゃん……」
サクヤ「……………………」
風見「……その原因が自分だってこと自覚してない人って平和だよねぇ…」(深いため息)
ヨーコ「(む)」
風見「サクヤさん、そんな従姉を持ったのを宿命と思って強く生きましょう(T_T)」
ヨーコ「風ぁ〜〜見ぃ〜〜〜〜、ちょっと、こっちに来なさい」(にっこり)
風見「あ"」

(両者退場)

ランドール「ふむ………。蛇の抜け殻にしておくべきだったな」
サクヤ「蛇は、よーこさんが苦手だから。ワニ皮もトカゲ皮もダメです、彼女」
ランドール「そうなのか? は虫類、可愛いのに……因みに、君は寄生虫も苦手なのかい?」
サクヤ「院内で処置してる分には、何とか。がんばってとってます……ダニとか……ピンセットで、徹底的に!」
ランドール「仕事中にはできることも、プライベートだとアウトなのだな」
  • と、言う訳でサリーさんは虫が苦手なのでした。
(夏の思ひ出/了)

秘密の花園

2008/08/10 18:56 短編十海
 
 カルの家には素敵な庭がある。

 ママが大切に育てる庭には、どこまでもずうっと向こうにまで広がるような木立と、自由気ままに咲き乱れる沢山のハーブ。
 そして、ママが思い付くまま植えた色んな種類のバラの花。好き勝手に生い茂り、毎年きれいな花をつける。

 ゆったりした空間に好きな物をいっぱい詰め込んだ、宝箱みたいな庭の奥。小花のバラが絡んだ背の低い木の下の、秘密の空間が、カルのお気に入り。

 昼と夜のすき間。お日様が沈み、月が輝きを増すひととき。
 毛布とランタンを持って潜り込むと、甘い緑の香りに誘われて、小さなお友達がやって来る。

 それは透き通った鱗の小さな蛇だったり、何処から迷い込んだのか知れない、毛並みの綺麗な子猫だったり。
 時には、蜻蛉の羽根を閃かせた、小さな小さな女の子だったり。

 カルは毎日、新しく出会った友達の話を大好きなママにだけ、こっそり教えてあげては、内緒だよ、と念をおす。

「本当に本当に、内緒だよ」

 ママは優しくほほ笑みうなずく。

「わかったわ。カルとママの秘密ね」
 
 ※ ※ ※ ※
 
 それは6月の半ばを少しすぎた頃、月の綺麗な夜だった。
 
 いつもの様に薔薇の下の秘密の部屋へ潜り込むと、低い木の根の檻の奥がほんのりと、明るく光っていた。
 ふんわり優しく霞む明かりに近寄ると、向こうが少し、透けていた。

 何だろう?

 もっと近寄って目をこらす。
 変だな。あの茂みの向こう側にはもう、石の塀しかない筈なのに……ずうっと広い、明るい野原が広がっている!

 わくわくと胸が踊り始める。カルは一歩、また一歩とそちらへ近付いていった。
 天井の低い茂みの中、膝をついて、両手もついて、兎みたいにひたすら前へ。

 もう少し……あとちょっと。

 伸ばした指が淡い木の根に透けそうになった刹那。


 チリン、チリチリン


 シャツの襟元からスルリと滑り出した十字架の、中央を飾る鈴が奏でる涼しい音。

 その瞬間!

 サアッと青い風が吹き抜けて、指に触れるのは固い木肌。
 辺りを照らすのは、ランタン一つ。

 いつもと何ら変わり無い、自分だけの秘密の空間を見回すと、カルは胸で揺れる十字架を見下ろして、む。と唇を尖らせた。

 鉄のクロスに、銀の鈴。
 ママからもらった、大切なお守り。

「カルヴィーーーン。My Boy!」

 木立の向こうから、カルを呼ぶ優しい声がする。
 もう眠る時間。

「どこにいるの? カル?」

 甘い緑の香る秘密の小部屋を抜け出し走り寄る。

「ここだよ、ママ」

 優しい腕。あたたかな胸に飛び込んだ。
 

 カルの家には素敵な庭がある。

 今夜の事は、ママにも秘密。

secret3.jpg
※月梨さん画。こんな子が月夜に一人歩きしちゃいけません…

(秘密の花園/了)

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とりかえっこ

2008/08/17 22:09 短編十海

「サワディーカ、サリー先生!」
「こんばんわ、タリサさん」

 日曜の夜だけあって小さな店の中は賑やかだったが、幸い、ちょうど食べ終えて店を出る客が一組居た。
 
「ちょっと待っててね、今、テーブル片付けるから!」
「手伝いましょうか?」
「ありがとー」

 ひょいひょい、とサリーは空になった食器を重ねてタリサに手渡し、ヨーコは台拭きを受けとってテーブルを拭いた。

「いいね、この雰囲気。好きだな」
「だと思った」

 空いた席に座り、メニューを手に取る。

「パッタイと、トムヤンクンと、あ、思い切ってタイすきいっちゃおっかな」
「どうぞどうぞ」

 大量に食べるのは予測ずみだ。ヨーコはとにかく、消耗すると食べて回復するタイプなのだ。

「それで。もーちょっと説明してもらえるとうれしいんだけどな……何があったのか」

 オーダーを終えてから笑顔で切り出す。傷だらけになったジャケットを見られてもはやこれまでと観念したのだろう。
 あっさりとヨーコは洗いざらい話してくれた。
 昼間、自分とランドールが巻き込まれた事件の一切合切を……ただし、日本語で。
 全て聞き終えるとサリーは目をとじて「なるほどね」とうなずいた。

「風見くんにも助けてもらっちゃったんだ?」
「……うん」
「無事に終わったって、電話ぐらいはしといた方がいいよ……あ、時差があるか」
「うん。メール入れとく」
「それがいいね」

 ぽちぽちとメールを打つ従姉を見守りつつ、サリーは自分の携帯を取り出した。
 実用本意の落下防止用のクリップつきのストラップと、もう一つ。青紫の細い組紐の先に透明な球体の中にちらちらと、金色の針の浮いたルチルクオーツの下がった根付けが着いている。
 ヨーコが風見あてにメールを打っている間に、ルチルクオーツを外した。

「送信……っと。OK、報告完了」
「お疲れさま……はい、これ」
「へ? これサクヤちゃんのお気に入りじゃん。何で?」
「んー、まあ、何て言うか、保険………かな?」
「わかった」

 ヨーコは自分の携帯から鈴つきのストラップを外した。こちらもストラップと言うより、赤い組紐の先に金色の鈴のついた根付けだった。

「じゃあ、これ……とりかえっこしよ?」
「そうだね。その方がいいね」

 二人はお互いの根付けを受け取り、それぞれ自分の携帯に取り付けた。
 もともとサリーとヨーコの二人は血縁関係にあり、結びつきは強い。しかし血に依存するつながりはある意味不安定で気まぐれで、常に必要とする時に通じるとは限らない。
 今日のように。

 だからお互いの持ち物を交換するのだ。
 今後の用心のためにも。

「本当に、無事で良かったよ」
「エビあげるから許して。あ、うずらの卵も!」
「そうだ今度えびせん送ってよ、食べたくなってもないんだよね」
「意外にありそうなものが、ないのよね……わかった、送る」

 お子様ランチを食べる子どものようなレベルの会話をしていると、不意にヨーコの携帯が短く鳴った。

「あ」
「どしたの?」
「風見から、返信が…………」

 メールを読みながら、ヨーコは眉根を寄せて口をぎゅーっと結び、『ちいさなうさ子ちゃん』のような複雑な顔をした。

「どしたの?」
「一緒に居た黒髪のハンサムさんは、誰ですか? って………」
「しっかり見てたんだ」
「うん……どうしよう」
「どうって、そりゃ、日本に帰ってからじっくり説明してください?」
「あう」

 がっくりと肩を落すヨーコを見守りながら、サリーはくすくす笑っていた。
 あえて自分がこれ以上、お説教する必要もない。後は風見に任せるとしよう。
 

 
 ※ ※ ※ ※

 
 その頃、ランドールは着替えの途中で左手首に巻かれた赤いリボンに気づいた。

 参ったな。預かったまま持ってきてしまった。

 さて、どうしたものか。
 やはり、きちんと洗って返すのが礼儀と言うものだろう。
 この手触りは恐らくポリエステルではなくシルクだ。彼女、良いものを身につけているな。後で洗濯してアイロンをかけておこう。
 その後は……ハンカチにでも包んで持ち歩くとしようか。

 いつか、またばったり出くわした時にすぐに返せるように。
 極めてオリジナリティにあふれる女性だった。
 一度、母にも紹介したいなと思った。きっと、話が弾むことだろう。

 
(とりかえっこ/了)

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モニのおうじさま

2008/09/15 23:30 短編十海
 拍手用お礼短編の再録。
 【4-2】ねこさがしを子猫の視点から見ると……
 
 ある所に……と申しますか、カリフォルニア州、サンフランシスコ市のユニオン・スクエア近くにあるエドワーズ古書店に、モニークと言う女の子がいました。

 一緒に生まれた兄弟姉妹は全部で6ぴき。
 ママそっくりの白いふかふかの毛皮にブルーの瞳、ぴん、とのびた長いしっぽと左のお腹にあるちょっぴりゆがんだ丸い形の薄茶のぶちがチャームポイント。
 末っ子のモニークは兄弟たちの中で一番小さかったけれど一番勇敢でした。
 いつもお庭やクローゼットに『ぼうけんのたび』に出かけます。でもそのたびにママに見つけられ、連れ戻されてしまうのでした。
 モニークはこっそり夢見ていました。

「いつか、ひろいせかいにぼうけんにゆくの」

 ある日、とうとうチャンスがやってきました。
 兄弟たちとモニークは、飼い主のエドワーズさんに連れられて旅に出ることになったのです。
 四角い乗り物に乗って、しばらくがたごとゆれていたなと思ったら急にフタがぱかっと開いて、モニークは見たことも嗅いだこともないような不思議な世界にいたのでした。

 まあ、何てここは明るいんでしょう。空気はつーんとして、知らない動物のにおいがたくさん混じっています。
 何がはじまるのかわくわくしていると、優しい手がころころとモニークをなで回してくれました。何だかとっても気持ちいい。

「はいみんな健康ですねー。特に感染症もなさそうだし。ワクチンはもうちょっとたってからにしますか?」
「そろそろもらい手も決まってるので……今日お願いできますか?」

 ひょい、と持ち上げられて、首筋に何かがちくっと刺さります。
 一体、何が起こったの?
 ちっちゃな口をかぁっと開けて自慢の牙をむいた時には、もう終わっていました。

 なあんだ。たいしたことなかった。

 また、四角い乗り物に乗せられて、ふわっと浮き上がります。出発進行。今度はどこに行くのかしら?
 わくわくしていると、いきなり乗り物ががくんとゆれて、大きく傾きました。

「にうー!」
「みうーっ」

 しかも、ころころ転がり落ちるその先で、フタが開いてしまったじゃありませんか!
 ころころり。
 ころりん。

 空中に放り出されてしまったけれどモニークは慌てません。くるっと一回転して、地面にすとん。

 でもここって一体、どこ?
 どこなのっ?
 
 

 わあ、広い。
 壁が……………………………………………………ないっ!
 
 
 
 つぴーんとヒゲが前に倒れます。しっぽにぞくぞくっと稲妻が走り、瞳がまんまるに広がります。
 ああ、まぶしい!
 何だか、何だか、すごーくわくわくどきどきするーっ!
 ああ、もう、だめ、じっとなんかしてらんないっ!

 モニークは全力で走り出しました。

 すごい、すごい。
 見たことのないものばかり。かいだことのないにおいばかり。聞いたことのない音ばかり!

 あたし、いま、ぼうけんしてるんだわ。

 いつもほんのちょっと足を乗せた途端にママに捕まっていた緑の芝生。もっとふかふかしていると思ったけれど、ちょっぴりチクチク、足の裏。
 でもひんやりして気持ちいい。
 土のにおいはトイレ用の砂とは全然違う。くろっぽくて、ほろほろと柔らかい。鼻を押し付けたら、口のまわりについちゃった。
 くしくしと前足で洗って、また歩き出すと、お花の間をふわふわ、ひらひらとちっちゃな生き物が飛んでいます。

 えものだわ!

 うずくまって、お尻をふりふり………えいっ!
 素早く繰り出した白い前足の先を、ちょうちょはすいーっとすり抜けてしまいます。惜しかった。あと1インチ(およそ2.5cm)。

 ちっちゃすぎてあたらなかったんだわ。もっとおっきいのをつかまえよっと。

 夢中になって探検していると、突然……出ました。おっきいのが。

「ふぁおー………」

 見たこともないほど大きな猫が、大きな大きな口を開けて飛びかかってきたではありませんか!

「ふーっ!」

 モニークはびっくり仰天、逃げ出しました。
 早く、早く、逃げなくちゃ!
 必死で走っていると、何か堅くて尖ったものに後足がぶつかってしまいました。

 いたい!

 兄弟たちとじゃれあってるときも。ママに怒られた時も、一度だってこんなに痛かったことはありません。

 いたい、いたい、いたいっ!

 どうしよう。外の世界は危険がいっぱい。
 どこかに隠れなくちゃ。暗くて、しずかで、狭いところ。
 よろよろとモニークはさまよい歩きました。歩いて、歩いて、くたくたに疲れた時にようやく、たどりついたのです。
 暗くて、しずかで、狭い所に。

 かくれなきゃ。かくれなきゃ……。

 すき間にもぐりこみ、いっしょうけんめい傷口をなめます。

 ママ。ママ。こわいよぉ。いたいよぉ。
 どこにいるの、ママ。たすけて、だれかたすけて!

 このまま、お家に帰れなくなったらどうしよう。ママにも、兄弟たちにも、エドワーズさんにも会えなくなっちゃったらどうしよう。
 痛いのと、悲しいのと、怖いのとでぶるぶる震えていると……優しい声で呼ばれました。

「モニーク」

 はい!

 ちっちゃな声で返事をすると、優しい王子様が、あったかい手でモニークを抱き上げてくれたのです。(とりあえずかみついた事は忘れました)
 金色の髪に紫の瞳、話す声はまるで音楽のよう。
 王子様がなでてくれると、ずきずきしていた足がすーっと楽になりました。

 すごいわ、おうじさま……すてき……かっこいい……。

 王子様に抱っこされて、モニークはうっとりしながらお家に帰りました。
 ママも、兄弟たちも、エドワーズさんも大喜び。

「モニークをたすけてくれてありがとう。お礼にこの子をお嫁にもらってくれませんか」
「……いいえ」

 こうしてモニークはふられてしまいました。

「おうじさまいっちゃった」

 がっかりしてお見送りしているモニークを優しく毛繕いしながらママが言いました。

「まだあなたはちっちゃいからね。一人前のレディーになったら…また素敵な殿方とめぐり合うかもよ?」
「いや。モニはおうじさまがいいの! これは、うんめいのであいなの!」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ふうん……そんなことがあったんだ」

 脱走劇の翌日。念のため、健康診断に連れて来られたモニークから120%美化された(推測)物語を聞き終えると、サリーはため息をついた。
 オティアがこの子を飼ってくれればよかったのに。
 動物を飼うことは、きっとあの子にとって良い方向に働いてくれると思ったのだ。

「しかたないね。こう言うことは、本人が決めないといけないから」

 あごの下をくすぐると、モニークは目を細めてすりよって、それからぱちっと青い瞳を開けて鳴いた。実にきっぱりとした口調で。

「にう!」
「え? 運命?」
「にゃ!」
「そっか………がんばってね」

 深く考えないまま、サリーはうなずいた。後にモニークの頑張りがどんな結果をもたらすか、なんてことは……予想だにせずに。

aule.jpg
※クリックで拡大します

 
(モニのおうじさま/了)

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サワディーカ!おかわり

2008/09/30 0:02 短編十海
  • 拍手御礼用短編の再録。
  • 【4-3】hardluck-drinkerの中で、木曜日のランチタイムに起きたある出来事です。
 
 探偵事務所に立ち寄ろうとしたら、鍵がかかっていた。
 しかもご丁寧なことに「本日休業」なんて札まで出てやがる。変だな、今日休むなんて話は聞いてないぞ?

 首をかしげながら上の法律事務所に顔を出すと、アレックスがうやうやしく出迎え、教えてくれた。

「マクラドさまは、オティアさま、シエンさまとご自宅におられます」
「あー……そう」

 何だってそんなことになったのか。いささか気がかりだが、ままと一緒なら心配あるまい。アレックスが知ってるってことはレオンも承知の上なのだから。
 さしあたって俺はあまった時間をどうするべきか。

 ちょいと早いが、飯でも食いに行くか?
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 中華街をぶらついて、あっちで立ち話、こっちで店をのぞいたりしてるうちにそれなりに時間が過ぎて行く。
 まったくもってこの雑多な町は時間をつぶしたいときには最適の場所だ。知り合いも多いしな。

 そろそろ昼飯にちょうどいい時間になってきたので馴染みのタイ料理の店にふらりと入ってみた。

「サワディーカ! メイリールさん」
「やあ、タリサ。今日も美人さんだね」
「もう! お世辞言っても何も出ないよ? でも、ありがとね」

 ぱちっとアーモンド型の切れ長の瞳でウィンクされる。まんざら悪い気はしない。
 景気のよろしくない気分でいたのが、彼女のライムみたいな笑顔でちょいと回復したし。

「相席でいい?」
「いいよ……あ」
 
 くるりと小さな店の中を見回し、見覚えのある顔を見つけた。黒髪、短髪、小柄な東洋系。
 眼鏡をかけたほわんとした顔は、基本的な造作こそ我が生涯の天敵たる女性によく似ているが、まとう空気はまるきり別物。

「よう、サリー」
「こんにちは、メイリールさん」
「ここ、座ってもいいかな」
「どうぞ」

 青いギンガムチェックのビニールクロスを敷いた四角いテーブル。サリーの向かい側に座ると、どんっと大きなガラスコップに入った冷たいお茶が出てきた。

「ご注文は?」
「んー、トムヤンクンと ケーン・キョウワン・ガイ(鶏肉のグリーンカレー)、デザートにマンゴプリンもらおうかな」
「はいはい。トムヤンクンとケーン・キョウワン・ガイにマンゴプリンね」

 タリサは手際よくメモをとると厨房に向かってはきはきした声でオーダーを告げた。ほどなく奥から彼女の父親が低い声で返事を返す。

「辛いスープにカレーですか?」
「うん、俺、辛いの大好き」

 サリーの前に並んでいるのはパッタイだった。気に入ったらしい。

 スープもカレーも、飯時は大量に鍋に作り置きしておくのだろう。すぐに出てきた。淡いグリーンのカレーペーストの中にごろごろと転がるぶつ切りの野菜を口に運ぶ。
 茄子が美味い。
 調子づいてもう一口。

「うぇ」
「どうしました?」
「このオレンジの……てっきりニンジンかと思ったらピーマンだった」
「あー、ほんとだ。苦手ですか、ピーマン」
「うん、実は」

 恐ろしい事に今日のカレーは(入れられてる野菜は毎日微妙に中味が違うのだが)具材の8割がピーマンだった。
 タリサ、俺に何か恨みでもあるのかっ?
 幸い、強烈に辛いルーに紛れてピーマン本来の味がほとんどわからないのでどうにか食えるからいいものの……。

「……わあ」
「どうした、サリー」
「ほとんどお茶、飲みませんね」
「ああ、辛いの好きだからな」

 汗だくになりながら激辛のカレーとスープを平らげ、黄色いねっとりした甘いデザートをつつく段になってやっと落ち着いてきた。

「メイリールさん」
「何だ?」
「ひょっとして、何か悩み事あるんじゃないですか?」
「………何で、そんなことを」
「辛いのがつがつ食べて、すっきりしたかったんでしょう?」
「っ」

 思わず手が止まった。
 そろりと視線を向かいの席に向ける。
 にこにこと笑っていた。ちょこんと首をかしげて。

「………オティアのことなんだ」
「ええ」
「ここんとこ、元気がないだろ? ディフもふさぎ込んでるみたいだったし……だけど俺が家庭の問題に首突っ込む訳にも行かなくて……」

 第一、俺自身がオティアの最大のストレスの原因なのだ。
 ここで鼻つっこんだら余計に悪化させちまう。

「もどかしくって……さ」

 ぐっとレモンの香りのする冷たい茶を飲み、大きく息を吐く。食ったばかりの異国のスパイスの香りが喉を駆けのぼる。

「君がうらやましいよ」
「俺が?」
「ああ。君が会いに来ると、オティアが柔らかくなる……」

 軽く唇を歯で押さえる。

「どうすればいいんだろうな。あの子の心を、ちょっとでも軽くしてやりたい。だけどいつもハズレばかりを引いちまう。癒したいと願いながら、いつもあの子を追い詰める……俺自身の手で」

 話す間にどんどん声のトーンが下がって行く。やばいな、俺、もしかして今すごい情けない顔してるんじゃなかろうか。

「……猫」
「え?」
「ペット、飼ってみたらどうかな」
「アニマルセラピーってやつか?」

 サリーは静かにうなずいた。

「動物をかわいがって、世話をすることはきっとオティアにとっていい方向に働くと思うんです。彼、猫が好きだから」
「あ……ああ、そうだ、確かにそうだ」

 迷子になった白い子猫を抱くオティアを思い出す。今まで見た事がないほど、穏やかな表情をしていた……ぱっと見いつもと同じ顔だが。

「知り合いの家に彼と相性よさそうな子猫がいたんですけどね……モニークって言う名前で」
「もしかして、それ、白くて腹の左側にコーヒーこぼしたみたいなぶち模様のある子猫か?」
「そうです。見たことあるんですか?」

 あー、そうか、あん時の子猫の脱走現場ってカリフォルニア大学付属の動物病院の駐車場だったもんな。サリーの患畜って可能性もあったわけだ。
 かぱっと携帯を開いて、迷子猫捜索用に送ってもらった写真を見せる。

「そう、この子ですよ。エドワーズさんとこのモニーク!」
「そっか……うん、実はこいつが逃げた時、俺もちょっとだけ手伝ったんだよ……確かにオティアに懐いてた」
「エドワーズさんも、もらってくれないかって聞いたそうです。でも……」
「答えはNo、だったんだな?」
「はい」
「あいつ、妙に引いて構えてる所があるからな。強引に連れてくぐらいの方が上手く行くんじゃないか?」

 サリーは目を伏せて、小さくため息をついた。

「モニはもう、もらわれて行っちゃったそうです」
「そうか…タイミング悪ぃなあ…」
「同じ商店街の魚屋さんに」
「ああ、そりゃあいい所に決まったね」
「ええ、エビも食べさせてもらえるでしょうし」
「エビ、好物なんだ」
「はい。消化によくないから、たまにしか食べないように釘刺しておいたんですけどね」
「そうだな、ごちそうはたまに食うから美味いんだ」

 ねっとりした甘いデザートの最後の一さじを飲み込み、仕上げに冷たい茶を流し込む。
 汗で濡れたシャツが少し冷たい。

「子猫……か。真剣に検討してみるか。レオンとディフにも打診してみるよ」
「そうですね、俺も探してみます」

 足元をするりとしなやかな毛皮が通り抜ける。
 かがみこみ、看板猫の背中を撫でた。滅多に俺になつくことなんかないくせに。

 これだから、猫ってやつは。

(サワディーカ!おかわり/了)

あいつはシャイな転校生

2008/10/08 2:59 短編十海
・拍手お礼用短編の再録。
【4-4】双子の誕生日(当日編)とほぼ同じ時期、日本のある高校で起きた出来事。
 
「はーい、皆静かにしてー」

 結城羊子は教壇にあがるとくいっと背筋を伸ばし、鈴を振るような透き通った声で呼びかけた。
 身長154cm、ヒール付きのサンダルを履いてどうにか生徒の中に埋もれずにいられる彼女だが、その分、声はよく通る。
 始業前の教室のざわめきがすーっとおさまった。

「OK。さて、今日は転校生を紹介しよう。Hey,Roy! Come in!」

 ネイティブさながらのこなれた発音。ほどなく教室の扉がカラリと開いて、背の高い金髪の少年が入ってきた。
 引き締まった体躯は制服の上からでもはっきりとわかる。決して筋肉過多ではなく、俊敏に動くために鍛えられている。
 だが残念ながら端正な顔だちの上半分は長く伸ばされた前髪の陰になり、その瞳が何色なのかまでは伺い知ることはできない。

「アメリカから留学してきたロイ・アーバンシュタインくんだ。席は風見光一の隣でいいな?」

 手際よくロイの紹介を終え、傍らに呼びかけて……羊子はきょとんと目を丸くした。
 さっきまでそこに立っていたはずのロイの姿がこつ然と消えている!

 きょろきょろと見回すと……いた。

「おーい、お前、何でそんなところに張り付いてるんだ?」

 件の転校生は、天井と壁の出会う角っこにへばりついていた。
 いつの間に?
 と、言うか助走もつけずに?

 金髪の転校生の並外れた運動能力と、そのいささか方向性を誤った使い道に軽い目眩を覚えた。
 耳をそばだてると、何やら母国語でぽそぽそと囁いている。

「……なに。照れくさい?」
「こいつ、シャイなんですよ……」

 風見光一がすかさず歩みでてロイに呼びかける。

「おーいロイ! 早く降りてきた方がいいぞ〜」

 こくこくと無言でうなずくと、ロイはしゅたっと床に降り立ち、光一の隣に立つとはにかんだような笑みを浮かべた。

「……よろしくね」
「OK、それじゃ席について。出席をとる。生田!」
「はい!」
「遠藤!」
「………」
「いないのか?」
「遠藤ではない! 俺の名は! 閃光戦士っ」
「いるな。はい、次ー」
「まだ名乗りの途中なのにーっ」

 やれやれ。

 ひそかに羊子はため息をついた。

 なーんであたしのクラスってばこんな生徒ばっかり集まっちゃうかなぁ……。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「コウイチ!」

 一時間目が終わるやいなや、ロイは光一に後ろから抱きつき、頬にキスをした。
 
 942880512_76.jpg 08924_157_Ed.JPG ※月梨さん画「あくまで友情です」
 
「さみしかった」
「ははっ、よせよ、ロイ。今朝も会ったばかりだろう?」

 流暢な日本語を話すロイは幼いころから祖父に連れられて何度も来日していた。
 二人の祖父は国境を越えた親友同士だったのだ。その縁で今は光一の家にホームステイしている。

 仲睦まじい二人のハグ&キスの瞬間、クラスの女子は素早く携帯を取り出し、写メを撮った。
 これが撮らずにいられようか?

 しかし、撮った写真を確認した彼女たちは一斉に肩を落として落胆の声をあげた。

「あれー? 手ぶれしてる」
「あたしもー」
「焦りすぎたかなあ………」

 羊子は見ていた。
 携帯のカメラが向けられた瞬間、ロイの足と、手がわずかに動いたのを。足がとん、と小さく螺旋を描くように捻って踏み出され、手が女生徒たちに向けられていた。
 そして常人の目には止まらぬほどの早さと微少な触れ幅で彼女たちの手を揺らしたのだ。

(あれが発剄ってやつか……古武術の心得があると聞いてはいたが、しかし、風見を守るためにそこまでするかあ? ロイ!)

 そんな女教師のツッコミも露知らず、ロイは仲睦まじく光一と語らっていた。
 
(ああ、コウと学園生活を送れるなんて夢の様だ。神様、ありがとうございます!)

 まさしく至福のひと時。だが、唐突に風見光一の携帯が震動した。

「あ」

 びくっと一瞬、震えると光一は携帯を取り出し、そして破顔一笑。

「どうしたの、コウ」
「うん、サクヤさんからメールが来たんだ。ほら、子猫!」

 さし出された携帯の画面には、真っ白な子猫が写っていた。左のお腹にちょっといびつな丸い薄茶色のぶちがある。

「Oh,kitty! very cute ね」
「友だちの家の猫なんだってさ」
「ふーん……それで、コウ」

 どきどきしながらロイは精一杯、何気ないふりを装って質問してみた。

「サクヤさんってダレ?」
「誤解すんなよ、男の人だって!」

(男! コウに、まさか、彼氏がっ?)

「羊子せんせの従弟なんだ。俺にとっちゃ、まあ、先輩かな?」

(センパイ!)

 その瞬間、ロイのシャイな心臓は極限まで縮みあがり、それから一気に限界まで膨れ上がった。

 センパイ。
 日本における最も甘美なる関係。ある意味、単なるお友達よりその絆は深く、憧れの対象でもあると言う。
 バレンタインにセンパイにチョコをあげるかどうかで日本の若人は胸をときめかせ、青春の熱き血潮を燃やすのだと!

(何てことだ。僕の知らない間にコウにそんな大切な人がいたなんてーっ!)

 楽しげにメールに添付されてきた子猫の写真を眺める光一を見つめながら、ロイの思考はぐるぐると、ハリケーンのようにうずを巻いていた。

(かくなる上は、敵情視察! 情報を集めねば……)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 そして昼休み。
 社会科教務室でくつろぐ羊子の所に、思い詰めた表情の男子生徒が訪ねて来た。

「あっれー、ロイ。どうした? 何ぞ悩みでもあるのか?」

 金髪の留学生をひと目見るなり、羊子はさっと英語で話しかけた。母国語の方が、心情の機微がダイレクトに伝わるだろうと思ったのだ。

「ヨーコ先生……教えてください」
「うん、何でも教えるよ?」
「コウイチと、サクヤさんは、どう言う関係なのですか!」
「………………………………」

 一瞬、絶句。
 それから、にんまりと口角をあげてほほ笑む。

「どうって……サクヤはねー。風見に従弟紹介しよっかーっていったら、『はい』って言うからメアドを教えたの」
「こっ、交際前提ですかーっ!」
「んでまず、メル友になって、今はすっかり仲良しさん」

(ど、ど、どうしようなんとかしなければ)

「まあ、サクヤちゃんは今、シスコに留学中だから顔会わせるのは里帰りした時ぐらいなんだけどさ。あの二人、けっこー気が合うみたいだよ?」
「き、きがあうって、たとえばっ?」
「んー、そうねー、サクヤちゃんは、疲れた時はこー癒しを求めて風見をぎゅーっとやってなで回すのがお気に入りなんだ」

 その時に自分も一緒だった、とか。ついでに言うと純粋に疲弊した精神を回復させるために必要な行為だった、とか。サクヤは手を握っていただけでもっぱらなで回していたのは自分の方だった、なんてことは……敢えて言わない。言うつもりもない羊子だった。

「Oh!My God! なんてこと! 僕のコウにはちかよらせない……!」
「おー、青春だねえ、がんばれ、少年!」

 青春の熱き血潮を無駄に燃え立たせる教え子をにこにこしながら羊子は見守った。

「まあ、ほらサクヤは今、サンフランシスコな訳だしさ。お前さんは学校でも家でも風見と一緒な訳だし……あ、そうだ」

 ぽん、と手を叩く。

「なあ、ロイ。さらに親密になるために……風見と一緒に、バイトしてみないか?」
「バイトですかっ?」
「うん。あたしの実家が神社なんだけど………ちょい、人手不足でね」
「わお、ジンジャ!……うん、もちろんダイカンゲイだよっ! 装備は一般武装でいいのかな?」

 武装って。
 冷や汗がたらりと羊子の額をつたう。
 こいつ、警備か何かとまちがえてないか?

「あー、その……武装いらないから。境内の掃除とか草むしりとか社務所の店番とかポチの散歩だから」
「OKOK! ぜひ、やらせてください!」
「きっとそう言ってくれると思ったよ、ロイくん」

 ロイは思った。ああ、ヨーコ先生は何ていい人なんだろう、と。
 
 もし、この場にヒウェル・メイリールがいたら全力で叫んでいたことだろう。

「だまされるな、少年!」と。

 しかし、幸か不幸か彼ははるかサンフランシスコの空の下。

「うふ」

 まるで子鹿かリスのように愛らしい表情で、心底楽しげに笑う羊子の真意は知る由もないのだった。


(あいつはシャイな転校生/了)

秋の芸術劇場

2008/10/18 2:26 短編十海
 
 何故そんなことになったのかはわからない。
 ベッドに入ってうとうとして、ふと気づくと俺は舞台の上にいた。
 背後には書き割りのセットにはりぼての家具。んでもって俺の衣装は……スカートだった。

 しかも、露骨にでっかいツギのあたったボロ服。
 
 そこはかとなく見覚えがあるぞ、このステージは。
 そうだ、俺の通ってた高校の体育館……ああ、これは夢なんだ。俺は今、夢を見ているんだな。

 納得していてる間に開演ベルが鳴り、するすると舞台の幕があがり、満員の客席が広がった。スポットライトが眩しい。

『お待たせいたしました。ただいまから、シンデレラの上演を始めます』

 え?
 シンデレラ?

『ある所にシンデレラと言うとってもこすからくってこずるい女の子がいました』

 おい、ちょっと待て。そいつぁもしかして俺のことか!

『シンデレラはまま母と、二人の姉娘に毎日のようにこき使われていました』

 ナレーションに合わせてまま母登場。って…………レオンじゃねぇか。似合うね、そのドレスとウィッグ。
 背後にはこれまたヅラとドレスを装備した双子を引き連れている。どうやらこいつらが姉娘らしい。
 
 21738439_458174943.jpg ※月梨さん画「シンデレラ…?」
 
「シンデレラ! いつまでさぼっているんだい。さっさと床の掃除をしなさい」

 どんっとレオンに押されて床にひざまずく。

「はい、お母様」

 おい、口が勝手に台詞しゃべってるよ! 納得行かねえ。

「それが終わったら納屋の掃除と薪割りと食事の仕度だよ」
「はい、お母様」
「さぼらないようにね」
「はい、お母様」

 まま母レオンはどんなに頑なな陪審員をも一発で味方にしそうな爽やかな笑顔でほほ笑むと、小さな声で付け加えた。

「いいね、心が痛まないから」

 今、素に戻ってないか、こいつ。

「えーっと……シンデレラ、それが終わったらでいいから、ドレスにアイロンかけてくれる?」
「はい、シエンお姉様」
「シンデレラ」
「はいお姉様」
「………………邪魔」

 やっぱこいつはこんなんか。夢の中でぐらい、もうちょっと愛想良くしてくれてもいいだろう。
 って言うか、これシンデレラだろ? 原作通り、お姉様の着替えとか、ブラッシングとか、もっとこう、美味しい仕事があってもいいじゃねえかっ!
 
 
『さんざんこき使われてふらふらになったシンデレラは、毎日くたくたになって台所の灰の上で暖をとるのでした』

 ここだけ原典通りかよ……納得行かねえ。

『そしてある日、この国の王子様が舞踏会を開くことになったのです』

「シンデレラ。私たちは舞踏会に行ってくるから、留守番をしていておくれ」
「はい、お母様」
「気をつけてね」
「はい、お姉様」
「………………」

 無視かよ。
 つれないねぇ……。

『すっかりやさぐれたシンデレラが、台所の勝手口で煙草を吸っていると……』

 そうか、ナレーションが言ってるなら吸っていいんだな? お言葉に甘えて勝手口に腰かけ一服。

「こーら! 何やさぐれてんの?」
「げ、ヨーコ! やっぱ魔女だったのか」
「妖精とおっしゃい! 台本にもちゃんとFairy God-Mother(妖精の名付け親)って書いてあるでしょう」
「あ、ほんとだ」
「まったく物書きのくせに不勉強よ?」
「うるさいよ、社会科教師!」

 ヨーコは腰に手をあてて、ちょこんと首をかしげた。

「それで。あなた、あたしに何か頼みたいことがあるんじゃない?」
「そうなんです。お城の舞踏会に行きたいんです!」
「わかったわ。じゃあ、カボチャを持っていらっしゃい」
「はい、これでいいですか?」
「上等!」

 魔法使いは

「妖精だっつってるでしょうに!」

 はいはい。
 妖精の名付け親は、魔法の杖をひとふり。あっと言う間にカボチャは馬車に、そして俺のボロ服は豪華なドレスに早変わり。
 ぽふんっとふくらむパフスリーブにレースとフリルたっぷりの………色はピンク。
 冗談じゃねえっ! こんな恥ずかしいかっこさせやがって、これは君の趣味ですか、ヨーコさんっ!

「まあ、何て素敵なドレス……ありがとう、妖精さんっ」

 ああ、また口が勝手に台詞言ってやがるし。ちくしょう、こいつは何の羞恥プレイだ。

「さあ、このガラスの靴を履いてお城に行くのよ。でも気をつけて。真夜中の十二時になったら魔法が解けてしまうからね」
「わかりました!」

 はりぼてのカボチャの馬車に乗り込む。やけにごっつい馬だな、もしかして、着ぐるみの中に入ってるのは……

「よし、お城にGOだ!」
「しっかり掴まっていたまえ、セニョリータ」

 レイモンドとデイビットだった。

「うわ、ちょっと待って、おてやわらかにーっ!」

『こうしてシンデレラはカボチャの馬車に乗り込み、お城へと一直線』
『そして舞踏会の会場では……』

 ぜえ、ぜえ、と息を切らして馬車から降りたら舞台のセットはお城の大広間に切り替わっていた。
 
『国中の若い娘たちが王子様の登場を今か今かと待ちわびていました』
『そしてファンファーレが高らかに鳴り響く中、とうとう王子様が現れたのです』

「まあ、何て素敵な王子様………」

 でも何でキルト履いてるんだ。マクラウドのタータンの肩掛けなんか巻き付けて。

「ヘーゼルの瞳にたてがみのような赤い髪」

 ちょっと待て。まさか、ディフが王子って! 冗談じゃねえ、ああ、既にまま母レオンがこっちにガン飛ばしてるよ……。
 たのむ、こっちを見るな。気がつくな。こっちに来るなっ!

「美しいお嬢さん。私と一曲踊っていただけますか」

 来たーーーーーーーーーーーっ!

「え、いや、その、わ、わたしは」
「何ぐずぐずしてやがる、劇が進まないだろうが!」

 ぐいっと強引に手をとられて、舞台の中央に引っぱり出され、スポットライトの照らす中ダンスが始まっちまった。
 ああ……。
 背後から殺気が………。
 俺、幕が下りたらレオンに殺されるかもしんない。

 その時、高らかに十二時の鐘が鳴り始める。助かった、救いの鐘だ。

「ごめんなさい、王子様!」

 ディフの手を振りほどいて走り出した。レオンのそばを走り抜けようとしたら思いっきりドレスの裾を踏まれて、こけた。

「いでえっ! 何すんですかっ」
「台本どおりだよ。転んでガラスの靴を落とすって書いてあるだろう?」

 嘘だ。ぜったいわざとだ……。
 

(場面転換)

  
『翌日、シンデレラの家にお城の使者がやってきました』

「ども、SFPD……じゃなかった、お城からやってきました」

 金髪眼鏡の使者は、おもむろにアルミのケースを開けて綿棒を取り出した。

「おいおい、何始めるつもりだよ」
「これから皆さんのDNAを採取して、遺留品(ガラスの靴)に残されていた上皮細胞のDNAと比較を」
「ええい、十七世紀のフランスに科学捜査班がいるかーっ! とっとと台本どおりやれっ」
「しょうがないなあ……それじゃ、原始的に」

 肩をすくめて使者が取り出したガラスの靴に、すっと足が吸い込まれる。

「おお、ぴったりだ」
「私が?」

 レオンの足が。

「ええーっっ?」
「あなたこそ私の花嫁です」

 いきなり王子様登場、まま母を抱き上げてキス。
 まあ、うん、予想すべき展開だったよなあ、奴が王子様と言う時点で。かえってよかったよ。これでレオンに殺されずにすむし。

『こうして王子様とまま母はお城でしあわせに暮らしました』

 あれ? ってことは、俺、双子と一緒にこの家で?
 それはそれで、幸せかもしれない。

「そうは行かないよ」
「何しに来たんですかレオン、あなたお城に行ったはずでしょう!」
「ああ、その前に娘たちを迎えにね」
「ええっーっ!」
「母親と一緒に引っ越すのは当然だろう? ああ、この家は君にあげるから好きに使ってくれ」
「え、ちょっと、まって、そんなっ」
「それじゃ、シンデレラ、ごきげんよう……」

 双子とレオンを乗せて馬車は無慈悲にも遠ざかる。

『こうしてみんなしあわせにくらしました。めでたしめでたし』

「めでたくねえっ!」


 ※ ※ ※ ※


 朝。
 ベッドの中でぱちっと目を開けてひとことぼやく。

「………さいってぇ………俺の夢なのに……」

 ああ、でも、夢でよかった。


(秋の芸術劇場/了)

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