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ローゼンベルク家の食卓

留学前夜

2011/03/21 0:09 短編十海
  • 拍手お礼用短編の再録。アメリカへの留学が決まった結城羊子さん(16)と従弟の朔也ちゃん(13)。
  • うれしい、でも寂しい。だけど一番寂しがっているのは………。
 
 1995年、6月。日本、綾河岸市。
 少女が駆けていた。こんもり繁った木々の間を、長い黒髪をなびかせて。
 身につけているのは夏用のセーラー服。白い木綿にブルーグレイのえり、スカートは同色のプリーツスカート。えりとスカートの裾にはそれぞれ白いラインが入っている。
 頬を紅潮させ、藍色のタイを揺らし、軽々と神社の石段を駆け登る。
 大鳥居の前で足を止め、きちっと本殿に向かって一礼。ついでに鳥居の柱に手をついて、くるっと一回転。サイドに流した前髪を留める紺色のバレッタが、木漏れ日を反射して光る。透明なマニキュアで手描きされた猫のニクキュウが、一瞬ぽわっと浮かんだ。
 校則で許された範囲の、ささやかなお洒落。

「ふふっ」

 結城羊子は今、めずらしくはしゃいでいた。
 スキップしそうな勢いで、社務所兼自宅までまっしぐら。勢い良く玄関を開け放ち、ぴょいっと飛び込んだ。

「ただいまーっ!」

 静寂が答える。

「……あれ?」

 家の中が静まり返っていた。珍しいこともあるものだ。いつもこの時間なら、母か伯母の桜子か、どちらか片方が……場合によっては両方が、迎えに出ているはずなのに。
 そう、玄関の戸を開けるより早く。

 首をかしげつつ居間に入って行くと、久しぶりにガラス戸が開け放たれ、ぶーんと扇風機が回っている。
 そして縁側には、父が座っていた。白衣に浅葱の袴の宮司装束で、膝の上に猫を乗せて。三匹いるうちの一匹、頭のてっぺんから丸いしっぽの先まで全身真っ黒な猫。名を『おはぎ』と言う。
 こっちを見上げて、かぱっとピンクの口を開けて一声、「んなー」っと鳴いた。同時に父が顔をあげる。

「……ただ今」
「おかえり」
「母さんと、おばさんは?」
「風見先生と芝居見に行った」

 あー、そう言えば出がけにそんな話をしてたような気がする。

 無論、この「風見先生」は剣術指南の紫狼先生ではない。お茶の先生、すなわち奥方の雪子さんだ。

「あれ、でも午後からじゃなかったっけ?」
「ついでに綾河岸グランドホテルで、懐石ランチをご一緒するそうだ」

 言われてみれば朝、何となくそんな話を聞いたような記憶がないでもない。
 そう、結城羊子は彼女としては極めて珍しいことに、今朝は上の空だったのだ。
 こうしている場合じゃない。母も伯母もいないと言うことは。

「じゃ、お昼作るから待っててね」
「うむ」

 鞄を居間の片隅に置き、ペン立てにささっていたかんざしを取ってくるっとひと巻き。髪の毛をアップに結い上げる。
 いそいそとエプロンを身につけ、台所へ。
 よく晴れた日だった。空気はじっとりと蒸し、濡れた若葉の彼方では、既に気の早い蝉がせわしなく鳴いている。

「さっぱりしたものがいいよね……」

 台所のテーブルの上に、平べったい木箱が置いてある。
 素麺だ。早くもお中元で届いたらしい。

「なーんだ、母さんたち、ちゃんと準備しててくれたんだ」

 しゃらり、と木製のビーズの触れあう音がした。
 振り向くと、従弟の朔也がのれんを潜り、入ってきた所だった。白い半袖のカッターシャツに黒のズボンの制服姿。学校から帰ってまっすぐ母屋に来たようだ。
 ちらっと素麺の箱を見て、黙って冷蔵庫を開けた。麦茶のポットの隣、黄色いキャップの冷水ポットを取り出す。でかでかと貼られたラベルには、達筆な毛筆書きで「めんつゆ」と記されていた。
 前もって、こんぶとかつお節、干し椎茸でだしを取っておいた自家製だ。

 OK、つゆの心配はない。
 後はひたすら茹でるだけ。

 寸胴鍋に大量の水を入れ、コンロにかける。湯が沸くまでの間に、朔也はとんとんとネギを刻みはじめた。
 一方で羊子はめんつゆをほんの少しボウルに注ぎ、玉子を三つ割り入れる。
 二人ともほとんどしゃべらず、さくさくと静かに手を動かした。
 きゅうりを細切りにして、ミョウガとしょうがを千切りに。ミョウガは父専用。薬味の準備が終わり、玉子が焼き上がったところで、ぐらぐらと寸胴鍋から泡が噴き上がる

 二人はどちらからともなく素麺の箱に手をのばし、ぺりぺりと袋を開けた。小分けにされた束を、一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、もう一つ。
 次々に放り込む。ほぐれたところを羊子が菜箸でざっと混ぜ、朔也はざるのを準備に取りかかった。

 素麺がくたくたになり、透明になった頃合いを見計らって火を消す。

「サクヤちゃん、お父さん呼んできて」
「わかった」

 ここからはお父さんの仕事。
 きりっとたすき掛けをした宮司が両手に鍋つみをはめ、重たい寸胴鍋をもちあげる。慎重に流しに運び、おもむろに、巨大な竹のざるにざあっとあけた。
 すかさず羊子が蛇口を捻って水を出す。
 もうもうと白い水蒸気が立ち上る。

「おつかれさまでした」
「うむ」

 おごそかに頷くと、父は再び居間に戻って行った。
 きりっと水で冷やした素麺と薬味三種、薄切りにしただし巻き玉子が三人分。つゆは醤油味、素麺の上に細切りのキュウリを散らす。フルーツの缶詰めは浮かべない方向で。
 二人で手分けしてお盆に乗せ、居間の座卓に運ぶ。縁側には既に猫三匹が待機していた。だんご尻尾の黒猫「おはぎ」、白に点茶模様の「みつまめ」、そして白に黒いぶちの「いそべ」
 猫用のお皿にドライフードを盛り、水を注ぐと、並んで食べ始めた。
 人間三名もそれぞれ卓につき、きちっと手を合わせる。

「たなつものもものきぐさも あまてらす ひのおおかみの めぐみえてこそ」
「いただきます」
「いただきます」

 三匹の猫がドライフードをカリカリかじる音。人間が静かに素麺をすする音が響く。父も、朔也も、ほとんどしゃべらない。
 言い出しにくい。でも、報告しなくちゃ。お父さんだって、本当は私が帰ってきた時からずっと、結果を聞きたくて仕方なかったはずなんだから。
 こくっと口の中の素麺を飲み込む。
 腹をくくれ、羊子!

「あのね……」

 ハシが止まる。父も。朔也も、二人そろって。

「留学、決まった。九月からアメリカに行く」

 朔也が小さくうなずく。

「そっか。おめでと」
「うん、ありがと……」
「アメリカのどこだっけ?」
「サンフランシスコ」
「とおいね」
「うん。飛行機で11時間かかる」

 何もかも知っていたかのような口ぶりだった。
 多分、この子は気付いていたはずだ。自分が神社の境内に入ったその瞬間から、胸がふくらみぱちんと弾けそうなほどの喜びに。
 小さい頃からそうだった。まるで見えない糸電話で繋がっているように、強い感情の動きをお互いに感じることができた。
 片方が泣けばもう片方も泣く。一人が笑えば、もう一人も笑う。
 だからこそ、朔也がいじめられた時は超特急ですっ飛んでいって、いじめっ子を打ちのめすことができたのだ。主に腕力ではなく、言葉と意志の力で。

 今、サクヤはほとんど笑わないし、必要なこと以外は話さない。でも伝わってくる。
 つるつると滑る狭い螺旋階段を登っている途中で、不意に手すりを失ったような不安が……。

 だが表面上は静かに食事が進む。黙々と素麺をすする音だけが聞こえる。

 父はひと言も喋らない。

「……ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」

 食後のお茶をすすっていると、急に父がすっくと立ち上った。ちょうど膝に乗ろうとしていたおはぎが支えを失い、不満げな声を挙げる。

「父さん、ちょっとでてくる」
「はい」
 
 境内の見回りかな? そろそろ参拝客が増える頃だし。
 
  ※  
 
 朔也と二人、昼食の後片づけにとりかかる。お皿を洗っている間に、じりじりとした不安は冷たいあきらめと混じりあい、絡み合って意識の底に沈んだ。
 きゅっと蛇口を閉める。

「一年間。一年間だけだから」
「大丈夫だよ」
「サクヤちゃん……」
「大丈夫」
「……」

(行っちゃいやだ、なんて言えない。言っちゃいけない)
(よーこちゃん、あんなに喜んでいたんだから。大丈夫って言わなきゃ。俺がしょげてたら、よーこちゃんが心配する。何もかも放り出して、飛んで来てしまう)

 羊子はぎゅっと従弟を抱きしめ、頭を撫でた。

「大丈夫だって、言ってるのに」
「……うん」

 静かに離れる。

 ごめんね。
 行かないで。

 舌先まで浮かんだ言葉を、咽の奥に押し込めたまま。

「何て学校?」
「聖アーシェラ高校」
「女子高?」
「ずーっと昔はそうだったみたい」
「ふーん」

 片づけを終え、いつものように『ぽち』におやつをあげに行こうと冷蔵庫を開けると……

「あれ?」

 置いてあるはずのおやつ用に切ったリンゴが、ない。
 お母さんたち忘れてっちゃったのかな。珍しい。
 仕方がないので、もう一個切った。皮はむかない。洗えば十分。

「行こうか」
「うん」

 こんもり繁る鎮守の森。本殿からさらに奥へと分け入ると、フェンスで囲まれた運動場と、ご神獣の厩舎がある。
 結城神社は鹿島神宮の系列だ。従ってここに居るのは神馬ではなく、神鹿。
 何故か代々『ぽち』と名付けられた鹿の世話は、現在は朔也と羊子に任されていた。
 しかし、この日は先客が居た。

(あ)
(あ)

 人の気配を感じて立ち止まる。宮司自らがしゃがみこみ、ぽちにリンゴを与えていた。

「ぽち……羊子がアメリカに留学するんだ。一年もいなくなっちゃうんだよ。寂しくなるなあ」

 ぽちは尻尾をぴーんと立て、さくさくとリンゴを食べている。好物なのだ。
 つややかな首筋を撫でながら、父は深い、深いため息をついた。

「なあ、ぽち。父さん心配なんだよ。あの子が、万が一、金髪で青い瞳の彼氏を連れて帰ってきたらどうしようって」

 その瞬間、朔也と羊子は全く同じことを考えていた。

(ないない)
(ないない)

 とつとつと語る主の言葉を――込められた心情を察したのだろうか。ぽちは、すりっと父の手に顔をすり寄せた。

「いい子だな、ぽち」

 父は柔らかな黒い袋に覆われた角の付け根に手を伸ばし、こりこりとかいてやっている。
 ぽちは気持ちよさそうに目を細め、後脚をぱたぱたと動かした。

(お父さん……)
(おじさん……)

 サクヤはあえて見ないふり。羊子もあえて聞こえないふり
 二人は足音をしのばせてその場を立ち去り、家に引き返したのだった。

「じゃ、俺、帰るから」
「うん、またね」
「うん」

 朔也は居間に置いてあった鞄を持って、自分の家へ。一人残された羊子は余ったリンゴを冷蔵庫にしまい、自分の部屋に引き上げた。

「はぁ……」

 着替える気にもなれず、タイだけ外してころんとベッドにひっくり返る。
 他の部屋と同じく畳敷きの和室。だけど中学に上がった年に無理を言って、ベッドを入れたのだ。
 鞄から留学のパンフレットを取り出し、うつぶせになって目を通す。九月から自分の通う学校の校舎と校庭、そして学生寮の写真……まだ実感がわかない。夢を見ているようだ。

「にゃー」
「おはぎ……みつまめ、いそべ」

 猫が三匹、すりよってきた。座ると、我先に膝に乗って来る。

「重いよ、おはぎさん」
「みー」

 父に比べてずっと小さな羊子の膝は、一匹で満員だ。出遅れたみつまめといそべはパンフレットのにおいを嗅ぎ、ぐしぐしと顔をこすりつけている。
 しっとりした毛並みをなでながら、話しかけた。

「一年だけだから……」
「にう」
「この家は好きよ。神社のお勤めも。でもね、ここに居たら、私は結城神社のお嬢さんのままなの。生まれた時からずっとそうだった」
「み」
「神社から切り離された所で、ありのままの自分を試してみたいんだ。一年だけ。一年間だけでいいから」
「にゃー」
「んにゃっ」
「みーう」
「……ありがとう」

 しっぽをぴーんと立てて震わせて、口をかぱっと開けて鳴く猫たちに囲まれていると……揺らぎかけた決心が、再びしっかりと地面に根を張り、ぴん、と伸びてゆくような心地がした。
 黒と白茶と白黒。毛質も色も異なる猫たちの顎の下を。耳の付け根を。尻尾の根元。それぞれの一番のお気に入りの場所を、かわるがわる撫でた。

「サクヤちゃんと、お父さんをお願いね」
「みぃ」


(留学前夜/了)

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