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ローゼンベルク家の食卓

執事と眼鏡と愛妻と

2011/03/21 0:10 短編十海
 
 6月のある土曜日。
 
 夕食を終えてから、ローゼンベルク家の執事にして優秀なる秘書、アレックス・J・オーウェンは自宅でくつろいでいた。
 今ごろは主であるレオンハルト・ローゼンベルクも家族に囲まれ、晩餐を終えている頃合いだろう。
 彼の結婚以来、アレックスの務めは主に仕事上の業務に移行していた。しかし気持ちの上では以前と変わることなく仕えていた。
 主一家は6階、自分たちは5階。階層の違いこそあるものの、同じマンションに住んでいて何かあったらすぐに駆けつける心構えで備えている。
 強いて挙げるとしたら、アレックス自身も家庭を持ち、家族との時間をゆっくりと過ごす余裕が出てきたのが一番の変化であった。

 そう、家族だ。

 居間のソファに腰を降ろし、新聞を広げる。ところが困ったことにどうにもこう、文字に集中できない。
 最近の印刷は質が落ちてきたのだろうか? 何度見直しても活字がにじんでいるように見える。眉をしかめ、じっと紙面に焦点を合わせる……読みづらいこと、この上ない。
 じっとにらんでいるうちに目が乾いてきた。眼球の奥が強ばり、内側から外側に向けて圧迫される。痛みまでは行かないものの、むずむずする。重苦しい。

 一旦目をそらし、眉の間を軽く抑えた。
 どうやら、居間の照明もチラついているようだ。まだまだ十分な明るさがあるように見えるが、近いうちに取り換えた方が良さそうだ。
 と、その時。
 ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
 四才になる息子がやってきて、ソファによじ登る。隣に腰かけるときちっと背筋を伸ばし、まじめくさった顔でおもむろに絵本を開いた。
 どうやら、自分のマネをしているようだ。

(おや)

 可愛いな。
 ほほ笑みつつ、紙面にそれとなく視線を戻す。
 そのまましばらく新聞を読み続け、一区切りついた所で何気なくディーンの様子を横目でうかがってみて……

(なっ!)

 アレックスはがく然とした。
 ディーンが絵本を顔から離して読んでいたのだ! 首をくいっと後ろに反らし、眉間に皴をよせつつ目を細めて。

(何と言うことだ。私は、あんな風にして新聞を読んでいたのか……)

 文字が読みづらいのは、印刷のにじみでも。電球の劣化のせいでもなかった。
 まだまだ若いつもりでいても、四十三歳。老眼の兆しは否めない。
 ため息をつくとアレックスは新聞を伏せた。

「ソフィア」
「どうしたの、アレックス?」
「どうも最近、細かい文字が見づらくてね。そろそろ私も、老眼鏡を作った方がいいのだろうか?」

 この瞬間、有能執事は(実に珍しいことに)己の行動を悔やんだ。
 老眼鏡(senior glass)。その単語を耳にするや否や、妻が目を輝かせ、ず、ず、ずいっとにじり寄ってきたからだ。

「そうね! あなたは特にお仕事で目を酷使するし」

 胸の前できゅっと両手を組み、まるで乙女のようにきらきらと。星のように(しかも一等星)瞳を輝かせている。
 困ったことに、その姿はあまりにも愛らしく、魅力的で……
 逆らえなかった。

「そろそろ『手元用の眼鏡』があっても良いかもしれないわね!」

 そうだ。何もいきなり『老眼鏡』が必要なのではない。自分に必要なのは、あくまで『手元用眼鏡』なのだ。細かい作業をしたり、小さな活字を読むための。そう考えるとほんの少し、気が楽になった。

「どんなフレームがいいだろうか……」
「そうね、そうね、明日はお休みだし、早速眼鏡屋さんに行きましょう?」

 ああ、参ったな。まさかソフィアがこんなに喜ぶとは予想外だ。まるでデートに誘う時のような表情をしている。

「……そうだね、そうしようか」
 
    ※ 
 
 翌日。朝食の席でソフィアはもう、そわそわしていた。
 空を飛ぶような足取りで、バレリーナのようにくるくると掃除、洗濯をすませ、店の開く時間になると、いそいそと外出の仕度を始めた。
 やれやれ。ランチのついでに、と思っていたのだが。これはもう、引き伸ばしている余地はなさそうだ。

「そろそろ、出かけようか」
「はいっ!」

 上着を手にプリマドンナが飛んで来る。少々困ったような笑みをにじませつつ、有能執事は素直に袖を通した。
 修理や調整で通うことを考えると、やはり職場にも家にも近い店がいいだろう。
 考えていると、ソフィアがにっこりと一枚のチラシを広げた。
 まさに、自分が考慮していた条件の店だった。下調べしておいたらしい。

「わかったよ、そこに行ってみようか」

 訪れた眼鏡店で、アレックスは緊張しながら店員に告げた。
 細かい文字が読みづらいので、手元を見る眼鏡が欲しいと。
 店員は適度に控えめな笑みを浮かべ、「かしこまりました」と一言。

「今まで眼鏡をお使いになったことは?」
「いや、これが初めてです」
「では、まず視力の測定を行いますので、こちらへどうぞ」

 検査は20分ほどで終った。
 コイン式の双眼鏡のような装置をのぞき、縦横に交錯するのラインのどちらが濃いか尋ねられる。横だ、と答えると

「では縦のラインが濃く見えたらお知らせください」

 縦が? 濃く? まさか、そんな事があるだろうか。
 かしゃり、かしゃり、と機械の中に仕込まれたレンズが切り替わって行く。次第に縦横のラインの濃淡が変化し、ついには同じになる。

(おお?)

 また、かしゃりとレンズが切り替わる音がした。縦がくっきり見えた。次の瞬間。

「はい、いかがですか?」
「……縦が濃く見えます」

 測定の結果は、乱視が若干入っているとのこと。
 さらに細かな調整の後、焦点を手元に合わせるためのレンズが処方された。

「では、フレームをお選びください」

 紳士ものの眼鏡フレームは、アクセサリーさながらの婦人用に比べるとぐっと数が少ない。色も地味だ。それでも、けっこうな種類があった。

「……これはどうかな」

 手近にあった銀縁のウェリントン型のフレームを手にとる。
 ふむ、値段も予算内だし、適度に丈夫そうだ。とりあえず鼻に乗せてみた。

「いいえ。それは、あなたにはちょっときつ過ぎるわ」

 きりっと表情を引き締めると、ソフィアはずらりと並んだフレームに視線を走らせた。まるで獲物を狙う狩人のように。

「これと、これと、それと……これ。あ、そこの茶色いのも素敵ね!」

 鏡を見ている間に、また新しいのが運ばれてくる。
 次々と眼鏡を試着する夫の横顔を、ソフィアはうっとり見つめていた。飽きることなく、熱心に。

「知らなかったな、君がそんなに眼鏡が好きだったとは」

 わずかに苦笑しながら、アレックスは本日十七個目のフレームを顔に乗せた。

「あら……それは違うわ、アレックス。眼鏡じゃなくて『あなた』が好きなのよ」

 その一言で有能執事は腹をくくった。
 正直言ってこの時点では、100%眼鏡を買うつもりはなかった。これは下見、本番にそなえての予行演習。少なくとも50%はそんな認識でいた。
 まだ自分は若い。
 老眼鏡(シニア・グラス)の世話になるような年齢ではない、と。

 しかし。今、目の前で頬を桜色に染め、活き活きつやつやとまるで少女のように自分を見つめる妻の姿を見てしまうと……。
 眼鏡一つで、ここまで妻を喜ばせることができるのか、と思うと。

 十八個めのフレームは、柔らかなラインのスクエア型。横に長く、視線を動かしてもレンズからはみ出さない。一方でわずかに前方に顔を傾ければ、視線は自ずとレンズの有効範囲から外れる。これなら遠くも見えるだろう。
 何より軽く、しっくり顔に馴染む感じが心地よい。

「これは、どうだろう、ソフィア」

 ソフィアはまじまじと鹿の子色の瞳で夫を見つめ、ぽんっと両手を打ち鳴らした。

「それだわ、アレックス!」

 桜色の唇から、軽やかなさえずりがあふれ出す。

「上のラインがね、あなたの眉に沿っていてとも自然なカーブを描いているの! 色もいいわ。顔色に馴染んでいる。優しい色合いね」
「そ……そうかな」
「ええ、そうですとも!」

 OK。ソフィアが気に入ったのはよくわかった。
 だが念のため、もう一人。最も長い時間を一緒に過ごす人間の意見を聞いておこうではないか。

「ディーン。どう思う?」
 
 息子はぱちぱちとまばたきして、腕組みして、しばらく考え込んでいた。

「かっこいい」
「そうか」
「パパは、それが一番かっこいい」

 うなずくと、アレックスは注意深く顔から眼鏡を外し、傍らに控えていた店員の掲げるトレイに載せた。

「では、フレームはこれでお願いします」
「かしこまりました」
「加工にはどれほど時間がかかりますか?」
「そうですね、レンズに在庫がありますので……40分ほどでお渡しできるかと」
「そうですか、ありがとう」

 眼鏡ができ上がるまで40分。さて、その間どうしようか?
 そうだ、ここから歩いて行ける距離にYerba Buena Gardensがある。

「Zeumの回転木馬に乗りに行こうか」

 たちまち、ディーンとソフィアは顔を輝かせた。

「ええ!」
 
    ※

 幸い、去年のクリスマスに、レオン様からいただいた年間パスポートがある。白いヒゲの子ヤギ、ほぼ実物の馬と同じ大きさの馬、小さな子ども用の馬、そして馬車、キリン、鹿。
 乗り換え取り換え飽きることなく乗り回し、降りた頃にはさすがに三人とも少し足下がふらついていた。
 アイスクリームスタンドで小休止してから、再び眼鏡屋に戻ると……

「お待ちしておりました、オーウェン様」

 厳かにベルベット張りのトレイに載せられて、仕上がったばかりの老眼鏡が出てきた。おそるおそる両手でつるを持ち、左右に開いて、顔に乗せる。
 ふむ……
 段差を踏み抜いた時にも似た、軽い眩暈を感じた。
 深く呼吸し、目を閉じて、もう一度開く。
 さして、変化はないようだが……

「いかがでしょう?」

 さし出された新聞を目にした瞬間、アレックスは思わず

「おお」
 
 と感嘆の声を漏らしていた。
 何と言うことだ。文字がにじみもせず、ぼやけもせず、はっきりと読める。眉根に皴も寄せず、目を細めることなく、楽々と読み進める。

「下を向いてみて、ずれたり下がったりする感じはありませんか?」
「いえ、大丈夫です」
 
 眼鏡を外す。遠くは見えるが近くは雨粒が貼り付いたようににじんでいる。
 ああ。
 まちがいない。
 老眼だ。

 小さくため息をつき、手の中の眼鏡に視線を落とす。

「……これに合うストラップはありますか?」
「はい、こちらにございます」

 今更ながら思い出す。そういえば父親も、自分と同じぐらいの年齢で老眼鏡をかけはじめていたな、と。

(老眼、か……)

 ストラップを選び、何気なく顔をあげると……
 そこにはやはり、頬をつやつやさせてうっとりと見守る妻の姿があった。
 この顔が見られるのなら、老眼も悪くないな、と思った。

  ※

 その後、レストランで少し遅めのランチをとることにした。
 メニューを読む時、試しに老眼鏡をかけてみる。

(おお)

 これは、読みやすい。目をしかめることなく文字が読めると言うのは、実に快適だ。
 そんな夫の姿を見て、ソフィアがおもむろに携帯を開いた。

「あなた、携帯の待受けにしたいから写真とらせて」
「わかった」

 老眼鏡を外そうとすると、そ、と手首を抑えられてしまった。

「いえ、眼鏡は外さないで。むしろかけて!」

 やれやれ。そんな顔して頼まれたら、Noと言える訳がない。

「……わかったよ」
「ありがとう!」

 やや丸みを帯びたスクエア型、縁取りはやわらかな紅茶色。
 まだ馴染みの薄い老眼鏡をかけ、アレックスはほほ笑むのだった。
 ソフィアのために。
 全ては愛しい妻のために。
 
 110402_2201~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 

(執事と眼鏡と愛妻と/了)

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