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ローゼンベルク家の食卓

さんふらん通信2「白いシャツ」★

2013/04/14 16:49 短編十海
 
 カーテンを開け放つと、まばゆい朝日と晴れ渡る青空が目に飛び込んで来た。
 雲一つない鮮やかなブルー。これぞまさしく「カリフォルニアの空」ってやつだ。

 ディフォレスト・マクラウドは窓の傍らに立ち、ネクタイを結んでいた。
 と言っても自分のではない。愛する伴侶、レオンハルト・ローゼンベルクのネクタイだ。
 シャツの襟をぴんと立てたままネクタイを首にかける。背丈が同じだから自然と目が合う。

「すっかり自分で結ぶのより、お前のを結ぶ方が多くなっちまったな」
「……そうだね」

 レオンは満足げにほくそ笑む。
 彼は俗に言う『butter finger』、指にバターが塗ってあるようなと形容されるほどの不器用な男だった。だが弁護士と言う職業柄、スーツとネクタイは欠かせない。
 いつまでの執事の世話になる訳にも行かず、鍛練の末不器用なりに自分で結べるまでになっていた。
 ディフもそれを知っている。だから寝起きを共にしていた学生の頃から、結んでる最中に手を出すような不粋な真似はしなかった。

「どうだろう?」
「ん、ちょっと曲がってるな」

 そうして待ちかまえるレオンの胸元に顔を寄せ、タイを整えるに留める。
 恋人同士になってからは、そこからキスまでへの流れは極めて近く、自然とそうなった。
 十年近く続いた恒例行事に転機が訪れたのは、一年前の六月。レオンのプロポーズを受け入れた翌朝、彼は始めて自分から申し出たのだ。

「お前のネクタイ、結んでもいいか?」と。
「もちろんだよ」

 もう夫婦なのだ。生涯を通して唯一の伴侶なのだ。何を遠慮する事があろう?
 ディフは泣き腫した赤い目で、うつむいて恥じらいながらも幸せそうにネクタイを結んだ。

「えーっと、こっちが左で、こっちが右か?」
「うん、それでいい。そう、そう、その調子……」

 他人のネクタイを最初から結ぶのは始めてだった。悪戦苦闘したものの、ディフは本来、器用な男だった。複雑に絡み合った爆弾の配線を眉一つ動かさずに切断し、ジャガイモの皮もするする剥ける。
 何度か失敗を繰り返したものの、一度覚えてしまえば後は早い。

 幅の広い方を右に、狭い方を左に。
 右を左の上にして交差させ、くるりと絡めて下から首の輪に通し、そうして作ったループをくぐらせる。最後に軽く引っ張って形を整え、できあがり。
 今やすっかりその動きも手に馴染んだ。だが困ったことに、途中で妨害が入ってしまう。
 もちろん、時間に余裕がある時に限るのだが。

 タイを結んでいる間、ディフの両手はふさがっている。
 レオンには思う存分、ゆるく波打つ赤い髪の毛をかいだり、無防備な頬や耳たぶにキスをする機会があった。隙あらば虎視眈々とディフに触れる機会を狙う彼が、それを見逃すはずがなかった。

「んっ、あ、こら何してる」
「キスしてる」
「よせって、くすぐったいだろ!」

 眉をしかめてにらんだ所で、抑止力はまるでない。むしろ逆効果と言うものだ。
 耳たぶからうなじに唇を這わせ、赤く色づいた『薔薇の花びら』へ。軽く吸い付き、尖らせた舌先で皮膚をつつき回す。

「んー……」
「こら、レオンっ。そこは、あ、あ、ぁ」

 寝起きで自制心がちょっとゆるんでいるのも原因の一つだ。
 ことに今朝は、ディフはまだ身支度を終えてはいない。洗面所から出たばかりで、白いタンクトップにパジャマのズボンと言うこの上もなくゆるい服装だ。
 水気を残し、ほんの少し赤らんだ首筋にくっきり浮かぶ、薔薇の花びらの形をした火傷跡を間近に見ていると……どうにも我慢できず、つい手が出てしまう。
 困った事にディフもまた、根本的にはいやがってないのだ。
 悩ましげなため息をもらし、何度か中断しながらも手を動かす。
 じゃれ合いながらタイを結び終わって、整えるとディフは正面からしみじみとレオンを見つめ、うなずいた。

「OK、完璧だ。最高にハンサムだぞ、レオン」
「ありがとう」

 改めて抱き合い、キスを交わす。わずかに残るペパーミントの香りをかぎながら、レオンの意識はどうしても今し方起きたばかりのベッドに引き寄せられる。
(このままもう一度、押し倒したい)
 懸命にその誘惑と戦い、わき起こる情欲をキスに込めるに留める。

「ん……んんっ」

 鼻にかかった甘えた声が耳をくすぐる。ミント味の舌先をやんわりと吸い上げながらしぶしぶ唇を離した。

「ふ……っはぁ……」

 頬をうっすら赤くして、なんてつつましやかな表現はもはや追いつかない。
 寝巻きも同然の姿のまま、ディフは瞳をうるませ、濡れた唇から切なげな息を漏らしている。
 胸元や二の腕、そして肩。普段、衣服に隠れている部分は透き通るように色が白い。
 その上にこぼれ落ちた赤毛の鮮やかさが、眩いほどに艶めかしい。きめ細やかな肌は触れれば手に吸い付き、離れてもくっきりと指の形を赤く刻む。

 いつまでも見ていたい。触れていたい。
 だが、あいにくと今日は平日だ。

「レオン……」
「そろそろ君も着替えた方がいいんじゃないかな」
「あ、ああ、そうだな」

 クローゼットの扉を開け放つ。その背後に立つとちらっと肩越しににらんできた。 

「大丈夫。もう邪魔はしないよ」
 
 ふんっと鼻息一つ吐き出すと、ディフはいつものTシャツではなく、白いワイシャツを手に取った。

「おや、今日はスーツを着るのかい?」
「ああ、午前中に一件、裁判所で証言するんでな」

 言いながらディフはタンクトップを脱ぎ、襟の詰まった丸首のアンダーシャツに着替えた。
 露になった背中に触れずにいるため、レオンは最大限の努力を振り絞る。
 その間にディフは、静かにワイシャツに袖を通していた。本来は勢い良くばっとなびかせて一気に着るのだが、今日はすぐ後ろにレオンがいる。そんな真似したら、布でしたたか顔をひっぱたいてしまう。
 だから自粛して、そろそろと静かに羽織るのだ。

 長く伸ばした髪の毛が襟の中に巻き込まれないよう、くいと手でまとめて左肩から垂らす。結果としてレオンの目の前に、がっしりした広い背中が無防備にさらされた。
 ノリの利いたシャツを着たところで、ディフの体のラインは隠せるもんじゃない。肩から腕、背中、そして腰。バランス良くついた筋肉の流れに布が寄り添い、引き締まった所と、盛り上がった所に明暗を作る。
 そして、アンダーシャツとワイシャツ。二層の布を通してもなお、隠し切れない色がうっすらと浮かび上がるのだ。

 ディフの背中には翼がある。比喩でがなく、実際に。
 血にまみれた忌まわしい刻印の上を覆う、翼とライオン。
 髪の色に合わせ、付け根から先端にかけて明るめの黄褐色から赤褐色へとグラデーションを描く、やわらかな翼。その中央でまどろむ明るい褐色のライオン。
 日本人のアーティストの手で入れられたタトゥーはあまりに鮮明で、白いシャツを着ると表面に透けてしまう。
 色の濃いシャツなら問題はないが、法廷での心証はやはり白の方が良いのだ。

 このタトゥーを入れて以来、ディフはどんなに暑い日でも必ず、きちっとアンダーシャツを着て。さらにワイシャツの上からベストを羽織る。
 ライオンと翼が決して人目に触れないように。

『見せるのは、お前だけだ』

 その誓いはディフ自身から口にしたものだった。決してレオンが強いたものではない。
 それでも彼と秘密を共有し、独り占めできる事にレオンは秘かに満足を覚えている。
 毎日の暮らしの中、こうしてしっかりと服を着込む何気ない姿にさえも。
 もはや気負う事なく、ごく自然に日常となっている。その事実に背筋が震えるほどの甘美な悦びが走るのだった。

 きっちりシャツのボタンを締めて、パジャマのズボンを脱ぐ。
 ワイシャツの裾からのぞく引き締まったたくましい太ももは、あまりに目の毒だ。汗ばむそこをこの手で撫で回し、甘く蕩けた喘ぎに聞きほれた瞬間がまざまざと蘇る。
 てきぱきと朝の身支度をするディフは、そんな愛する人の思惑など知る由も無い。スーツのズボンを履いて、ジッパーを上げ、いつもと打って変わって上品なバックルをつけたベルトを締める。
 シャツはあまりきちんとは伸ばさず、若干、上半身に余裕を作る。なまじ体格がいいものだからこうしておかないと動きづらいのだ。
 さらにネクタイを首に巻いて、結ぶ。
 幅の広い方を右に、狭い方を左に。右を左の上にして交差させ、くるりと絡めて下から首の輪に通し、そうして作ったループをくぐらせる。
 鏡を見ながら、さっきと全く同じ結び目を作ってゆく。どちらも彼が結んで整えたのだから、同じ癖がつくのは当然だ。
 すっかり仕上げてから、ディフはくるりと身を翻してレオンに向き直った。

「っし、どうだ?」

 問いかける唇に吸い付き、二人の間に小鳥にも似たさえずりを奏でる。

「きれいだよ、最高に」
「どっちが」

 つややかな髪をかき上げて、首筋にキスをする。

「あ」

『薔薇の花びら』は、きちんと締めたシャツの襟に隠れて見えない。
(これでいい)

「行こうか」
「うん」

 ディフは腕まくりしながら歩いて行く。ベッドルームを出て廊下を通り抜け、居間へと続くドアへ。双子の待つキッチンへと向かう。
 レオンはわざとほんの少し遅れて着いて行く。
 みっしり着込んだベストと、さらにその下の白いシャツ。秘密を隠した背中を、もう少し見ていたいから。

(さんふら通信2「白いシャツ」/了)

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