▼ 留守番サクヤちゃん
- 拍手お礼短編の再録。1995年10月、【5-2】お前はレオン、俺はディフのちょっと後の出来事。
- よーこちゃんがアメリカに行ってしまって一人寂しいサクヤちゃん。すっかり犬や猫としか喋らなくなってしまいました。
- ある日、おじさんに連れられて思い切ってお出かけしたところ……
「よーこちゃんといっしょじゃなきゃ、やー!」
ちっちゃい頃、自分はそう言って泣いたらしい。
三つ年上の従姉と引き離されるたびに、目にいっぱい涙をためて。咎められた記憶はほとんどない。おそらく唯一の『わがまま』だったからだろう。
何より従姉本人が真っ先に飛んできて、手を握ってくれたのだ。大人たちが反応するより、ずっと早く。
生まれた時からずっと一緒だった。一緒に歩けば姉妹と間違われるほどそっくりで、着ているものはおそろいかお下がり。離れ離れになるなんて想像したこともなかった。1995年の夏までは。
八月の終わりによーこちゃんは、アメリカに行ってしまったのだ……。
※
とある土曜日の昼下がり。黒い詰襟の学生服を着た少年が、とことこと神社の石段を登っていた。ほっそりした肩や華奢な背中や足腰は、分厚い黒い上着を支えるにはいささか頼りないように見える。だが足取りにはいささかの揺らぎもなく、すっ、すっと石段を登ってゆく。心持ち左の端に寄って、決して真ん中は歩かない。そこは神様の通る道だから。
「ふぅ……」
十月とは言え、ついこの間衣替えが済んだばかり。さすがに晴れた日にこうして体を動かすと、じっとりと汗がにじんでくる。軽く額を拭うと、結城朔也は神殿に向かって一礼。二の鳥居の手前で左に曲がり、林の奥へと続く細い道を歩いて行った。
曲がり角の手前には、小さな木の看板が立っていた。曰く、『社務所にご用の方はこちらへどうぞ』と。
林の中に分け入る小さな道は、社務所の手前でさらに三つに枝分かれしていた。
一本はそのまま結城神社の社務所と、それに隣接した宮司一家の住居……いわゆる母屋へ。もう一本は泊まり客を通すための離れへ。そして三本目は朔也と母の住むもう一軒の家へと通じている。
自宅の玄関先で朔也は立ち止まり、カタンと郵便受けを開けた。
門柱に取り付けられたアルミの四角い箱は空っぽ。念のため手を入れてまさぐってみたけど、ぺったんとした金属の底が振れただけ。
「はぁ……」
ため息がこぼれる。従姉のよーこちゃんがアメリカに留学してはや一ヶ月。郵便受けをチェックするのがすっかり習慣になってしまった。
日本を発った次の日、社務所のパソコンにメールが届いた。学校のアドレスからただ一言、『無事についたよ、元気です』って。その後、ハガキが二回届いた。一枚目はゴールデンゲートブリッジのポストカードで、二枚目は文字でびっしりと日々の出来事がつづられていた。寮の同じ部屋の子と仲よくなったし、クラスの子とも話せるようになってきた。今度は一人歩きに挑戦してみたいと……。
(よーこちゃん、どんどん知らない所に行っちゃうのかな)
ちょっぴり心細い。けれどその一方で安心してもいた。アメリカで暮らすよーこちゃんは、とっても生き生きしていて楽しそうだから。それに、自分との繋がりは何があったって。どんなに離れていても、決して途切れはしないのだから。
四日ほど前にも夢を見た。
アーチ型の柱が並び、まぶしい日の光が差しこむ通路でガラスが割れて、誰かが怪我をした。
夢の中の自分はとことこと近づき、傷口に手を当てていた。だってその子は自分を助けてくれたから。
赤い巻き毛に白い肌、背の高いがっちりした男の子。あれはいったい誰だったんだろう?
家に入り、鞄を部屋に置いて着替える。さすがに半袖はもう寒い。
(あ、そうだ)
ひょっとしたら、メールが来てるかもしれない。
わずかな期待を抱きつつ母屋に行くと、社務所には誰もいなかった。机の上のパソコンを立ち上げてみたけれど、受信はゼロ。
しかたないよね。よーこちゃんだって忙しいんだ。そんなにしょっちゅう手紙出せるはずがない。
それに……自分だって返事かけるほど、毎日楽しいことがある訳じゃないし。
三度目のため息をついて、ぼんやりと縁側に腰を降ろす。庭のカエデがだいぶ赤くなってきた。
アメリカにも、カエデってあるのかな……甘いシロップがとれるんだっけ。
あ、でもあれはカナダだったかな?
そんなことを考えていたら、ふにっと手首にひんやりした物が押し付けられる。猫の鼻先だ。白茶と白黒、そして真っ黒、合計三匹。ふわふわの毛玉がするすると近づき、我先に膝に登ってくる。
「……ただいま、おはぎ、みつまめ、いそべ」
めいめいかぱっとピンクの口を開いて、口々に話しかけてきた。
「みゃー」
「み」
「にゃう」
「そっか、そんなことがあったんだ」
「にゃっ」
猫たちの話を、朔也はただ静かに聞いていた。時折あいずちを打ったり頷いたりしながら。
そのうち、白黒模様のいそべが、にゅうっと伸び上がって玄関の方を向いた。
「にー」
「あ、新十郎さん」
ほどなく。のっしのっしと金色の毛並みをなびかせて、堂々たる体格の犬が入ってきた。ゴールデンレトリバーだ。買い物カゴをくわえ、首輪には大きな鈴が下がっている。
「お帰り、お使いごくろうさま」
「うふ」
「今日から、衣替えだから……」
「にゃー」
「み」
「にゅーっ」
「わう」
カゴをサクヤに預けると、『新十郎さん』はわっさわっさと尻尾を左右に振ったのだった。
「うん、ちょっと待っててね」
台所に行き、冷蔵庫に中味をしまう。木綿豆腐一丁、カレイの切り身が四人分、大根とキャベツと、そしてリンゴ……これはぽちのおやつ用。てきぱきとしまいながら、ふっと気になった。
アメリカでは、何食べてるのかな。やっぱりお肉が多いのかな?
よーこちゃんなら好き嫌いないから大丈夫だろうな……。
にぼしの入った缶を手にとり、お茶の間に戻る。猫たちがつぴーんと尻尾を立てて寄ってきた。でも、まずは新十郎さんに。これはお使いのご褒美だから。
「はい、新十郎さん」
「わう」
一つかみ手に乗せて差し出すと、行儀良く鼻面をつけてばりばりと食べた。ほぼ二口。
「みー」
「みうー」
「んにゃーっ」
待ちかねた猫たちににぼしを配り、ついでに自分もご相伴にあずかっていると……
「サクヤくん」
「はい?」
おじさんが。よーこの父で神社の宮司でもある羊司が声をかけてきた。ものすごく遠慮しながら。
「明日、私の恩師を訪ねるのだけど、よかったら、その……」
こくっと咽を鳴らしてる。
「一緒に来てみないかい? とっても優しい人で……猫とカラスを飼ってるんだ」
(猫とカラス……でも知らない人……)
サクヤは少し考えた。羊司おじさんはその間、じっと待っていた。
(知らない人……)
すると。白黒の『いそべ』がにゅうっと伸び上がり、ぽふっとサクヤの膝に手を置いて。顏を見上げて一声
「みゃ」と鳴いた。まるで『行ってごらんなさい』とでも言うように。
「……うん」
※
翌日、日曜日。おじさんの運転する車で連れて行かれたのは、ありふれた三階建ての雑居ビルだった。
外壁は永年の風雨にさらされ、昔風の余裕のある……ある意味遊びと装飾の多い造りと相まって、石造りの古い洋館のような雰囲気を醸し出している。
「こっちだよ」
鉄の手すりに支えられた上がり段を登る。アーチ型に石が組まれた戸口の上部にはステンドグラス、その下には木枠にガラスがはめ込まれた両開きの扉が収まっていた。
軒先に下がる磨き抜かれた真鍮のプレートに曰く「Embrace」。その下の電気じかけの置き看板はもっと今風の書体で、カタカナで読みが振ってあった。
(エンブレイス……どう言う意味なんだろう)
かららん、とドアベルが優しくも深い音色を奏でる。始めて来た場所のはずなのに、どこか懐かしいような感覚を覚えた。ベルの音の根底に流れる響きが、同じなのだ。とても身近な鈴の音に。
(あ)
この鈴、神社の鈴と同じ感じがする。
磨き抜かれた木の床とカウンターは深みのある焦げ茶色。店内に置かれたテーブルと椅子も全て同じ色の木材で作られている。
淡い色調の草花模様の壁紙は目に優しく、陽の光を含んだ香りすらほんのりと漂ってくるような心地がする。
どこからかカチ、コチと規則正しい音が聞こえる。見回すと、壁に小さな振り子時計がかかっていた。
「こんにちは、藤野先生」
カウンターの向こうの、きれいな銀髪の小柄なおばあさんにおじさんが挨拶する。
「あら、まあ可愛いお客さんね」
「この子はサクヤくんと言いまして、義姉の息子です」
「そう、桜子さんの」
うなずくと、おばあさん……藤野先生はこっちを見下ろしてにっこりと笑いかけてくれた。
「いらっしゃい、サクヤちゃん。お母様によく似てらっしゃるわね」
この人は、母を知ってるんだ。おそらくは藤枝おばさんも。思ったよりずっと、親しい人だったらしい。
藤野先生の後からもう一人出てきた。男の人だった。
肩にはカラスが止まり、足下には黒い猫が寄り添い、くるりと尻尾を巻き付けている。髪の毛はちょっぴり茶色がかっていて、ココアみたいな色だ。くりくりとした焦げ茶の瞳を見てると、境内で見つけたドングリを思い出す。背はあまり高くない。
自分よりは多分、年上だろう。
「この子は私の孫よ。裕二って言うの」
「……こんにちは」
「おう」
よかった、二人とも怖そうな人じゃなくて。
おじさんと藤野先生が話している間、サクヤはすみっこのテーブルに座っていた。すかさず黒い猫が膝に乗り、カラスはぱたぱたと飛んできて隣の椅子の背もたれに止まった。
「くわっ、くわわっ」
「みゃ」
「うん。よろしくね」
カラスの名前はクロウ、猫の名前はキミ。どっちもカタカナで書くらしい。
話していると……と言うかもっぱらカラスの話を聞いていると、ことんとテーブルにクッキーと紅茶が置かれた。
プレーンのと、チョコチップとマーブル、三種類。裕二さんだ。ぺこりと頭を下げる。
どうしよう。
何か、話しないといけないのかな。
ほんの一瞬緊張した。けれど裕二さんはうなずき返しただけで、一言もしゃべらず隣のテーブルに座って本を読み始めた。
ほっとして力を抜くと、カラスがばさっと翼を広げた。
「くわ、くわ……ちょーだいっ!」
「……はい、どうぞ」
プレーンクッキーを小さく割って差し出すと、器用につまみ上げてかつかつ食べた。
犬や猫に食べさせるのとは違う。堅い嘴が手のひらに軽く触れる感触が何だかくすぐったい。と、思っていたら……
「こーけこっこー!」
え、鶏?
「んめへへへへへっ!」
今度は羊。そっくりだ! 時々、カラスの中には他の生き物の鳴き声を真似するのがいる。でもここまで真に迫ったのは初めて聞いた。
「……すごいね」
『おうさっ! これぐらい朝飯前よ! もういっちょクッキーおくんな』
もう一枚、割ろうとすると……
『おおっと、ちっさくしないでいいから。丸っと一枚、どーんとおくんな!』
「……うん」
言われるまま、クッキーを丸ごと一枚差し出してみた。するとカラスはばくっとくわえてテーブルの上に置いて。足で押さえ、嘴でカツカツと砕いて食べ始めた。大きめのクッキーがものすごい早さで無くなった。
『ごっそーさん! ところでサクヤは年、いくつだ?』
「十三歳」
『そっか、中学生かー。ってことは彼女いるのか、カノジョ!』
「……え?」
『つってもただの代名詞じゃねーぞ! ガールフレンド、ぶっちゃけ恋人っつー意味のカノジョだからな! 手ーつないだり、一緒に登下校したり、とーぜんちゅーも』
ぺしっと横合いから手が伸びてきて、カラスの嘴を人さし指で軽く弾く。
「こら、あんまり悪い事教えんなよ?」
カラスはくわっと口を開いてぎゃんぎゃん言い返した。
『ってぇなあ! 何しやがんでぇ、クソゆーじ!』
すとん、としなやかな影が椅子の背に飛び上がった。長い尻尾がひゅうんとしなる。
次の瞬間、漆黒の前足が絶妙の猫パンチを叩き込み、さっと引っ込んだ。
「く、くわぁ……」
形勢不利と見てとって、カラスはこそこそとサクヤの背後に潜り込む。羽根があったかい。くすぐったい。
思わずくすっと笑ってから、サクヤはびっくり目を見開いた。確かにクロウは人の言葉をしゃべる事ができるし、意味もわかってる。でも、さっきのは違ってた!
「いま……」
「ん、どうした?」
「しゃべってた?」
「ああ」
裕二さんは事も無げにうなずき、猫の頭を撫でた。
「長い付き合いだからな」
穏やかな声が。眼差しが教えてくれた。それは、この人にとっては特別なことではない。普通のことなのだと
(動物と話せるのは、自分だけじゃなかった)
(ここでは、隠す必要、ないんだ……)
ほわっとほほ笑むと、サクヤはクッキーを手にとり、ぽふっと口に入れたのだった。
(よかった、サクヤくん)
甥っ子がクッキーをかじり、紅茶を飲む姿を見ながら羊司もほっとしていた。
羊子が留学してから一ヶ月。サクヤくんはしょんぼりして元気がなかった。見た目は変わらないが、生まれた時から一緒に暮らしている家族なのだ。些細な変化もよくわかる。
元々口数の多い子ではなかったが、最近ではほとんど人間と話さなくなってしまった。
(本当に久しぶりに、家族以外の人と話してる。思い切ってつれてきて良かった……)
※
月曜日、家に帰ると郵便受けにハガキが入っていた。
触っただけでわかる。よーこちゃんからだ!
初めて一人でサンフランシスコの町にお出かけした、と書かれていた。ホットドッグを買いに行く途中で、お巡りさんと話した。金髪に緑の瞳の男の人だった、と。
『お巡りさんに会うのは初めてじゃなかったんだけど。もう、何回も君何歳、一人で何やってんのって質問されてきたけれど。この金髪のお巡りさんは、ちゃんと大人扱いしてくれました』
『若いのに、しっかりした人です』
相変わらず外見で苦労してるらしい。向こうの高校には制服がないから、尚更だろう。
夕飯の後、返事を書いた。
『日曜日に、おじさんの先生の家に行きました。黒い猫とカラスがいました』
『カラスはすごくおしゃべりで、物まねが得意でした』
『先生のお孫さんで、高校生ぐらいのお兄さんがいて、クッキーをごちそしてくれました』
………また行ってみようかな。
迷ったけれど、結局書かずに手紙を結んだ。
『それではお元気で。 サクヤ』
(留守番サクヤちゃん/了)
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