▼ 【5-3-0】登場人物
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】
通称マックス、家族からはディーと呼ばれていた。
聖アーシェラ高校一年、テキサス出身。
父親の七光りから自立すべく、サンフランシスコの高校を選んだ。
ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、鼻と頬の周辺にそばかす。
裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
今回、はじめて自分以外の誰かのために料理を作る。
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】
聖アーシェラ高校二年。ロスの実家を離れて学生寮で暮らしている。
ライトブラウンの髪と瞳、ほっそりと華奢な体格、整った顔立ち。
人との接触を好まず滅多に笑わない。
その冴えた美貌と遺伝子レベルで組み込まれた高貴さ故に秘かに「姫」と呼ばれている。
突如自分の生活に割り込んできたガサツなルームメイトに日々いらいら。
もともと食べることに興味はないが、寮の食事の酷さに秘かにうんざりしている。
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
サンフランシスコ出身、聖アーシェラ高校一年。
さらさらの黒髪にくりっとしたアンバーアイ、細身で愛らしい子リスのような美少年。
五才の歳に両親と死に別れ、里親の元で育てられている。
その愛くるしい外見と人当たりの良さ故に上級生に人気がある。
カニが怖い。クッキーは断然、チョコチップ。
【結城羊子/ゆうき ようこ】
日本出身の留学生、聖アーシェラ高校一年。
通称ヨーコ。
小柄でほっそりぺったん、ほとんど小学生と言っても通りそうな外見だが、れっきとした高校生。
強気で勝ち気で歯に衣着せぬ男前女子。
クッキーはヘーゼルナッツが好き。
【マイケル・フレイザー/Michael-Frazer】
聖アーシェラ高校三年、ガブリエル寮の寮長。
穏やかで公平、人望もある信頼できる先輩。
ちょっぴり天然。
実家では犬を飼っている。
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▼ 【5-3-1】聞いているのかマクラウド
「マクラウド。聞いているのか?」
「んあ?」
聖ガブリエル寮の3階、突き当たりの角の部屋で、レオンハルト・ローゼンベルクとディフォレスト・マクラウドの同居が始まってから一週間になろうとしていた。
「いい加減、服を着ろ!」
レオンは眉をひそめて、横目で赤毛のルームメイトをにらんだ。
温まった肌からお湯と石けんのにおいが立ち上る。
ついさっき、シャワーから出てきたばかりのマクラウドの上半身は、白い肌にうっすら紅色が広がり、健康的なピンク色に染まっていた。
服に隠れている部分はことさらに色が白く、紅の濃淡の入り具合でお湯の流れすら見分けられそうなくらいだった。
何でそんな所まで見えてしまうのかと言えば、彼が服を着ていないせいだ。
腰にタオルを巻いただけの格好で部屋の中をのし歩き、冷蔵庫を開けて牛乳を飲んでいるからだ。
もちろん、例に寄って紙パックから直にがぶ飲み。口の端からこぼれようがお構いなし、せいぜい手の甲でぐいっと拭う程度。
正視に耐えないとは、まさしくこのことだ。
「……わかった」
ごくっと咽を鳴らして牛乳を飲み込むと、マクラウドはパックを冷蔵庫に戻してクローゼットに歩いていった。
基本的に彼は素直だ。
滅多に逆らうことはない。『えー』とか『でも』とかたまに不満を漏らすことはあるが、大抵、言うことを聞く。
多少、方向性がずれていることも多いのだが。
「着たぞ!」
胸を張っている。が、上半身は黒いランニングシャツ一枚、下半身はグレイの短パン。
どう見ても下着だ!
「マクラウド」
「何だ」
「もう少し、きちんとした服を着てくれないか」
「……わかった」
ばさっと長袖のシャツを羽織って、それでおしまい。ころんとベッドにひっくり返って、上機嫌で雑誌なんかをめくっている。
ラジオもCDもかけていないし、部屋ではテレビも見たがらない。そこは評価しよう。
しかし、鼻歌を歌うのは勘弁してほしい。音程が外れていて、神経を逆なですることこの上ない。
「マクラウド。もう少し静かにしてくれないか?」
「ごめん」
やっと、静かになった。
確かに彼は素直だ。言えば聞く。だがいちいち言うのが既にいらいらする。面倒だ。煩わしい。
動くインテリアだと思って無視してきたが、そろそろ限界だ。どこまで自分の生活を侵食してくるのかこいつは!
レオンは心底、うんざりしていた。ただでさえ、他人と同じ部屋ですごすだけでもストレスなのだ。
食堂からの帰り、さっきも寮長に苦情を言ってきたばかりだった。
『早くアレを引き取ってください。もともと一時預かりと言う約束でしたよね?』
『すまない。今年に限って、何故か退寮者も、退学者も出なくてね……なかなか部屋が空かないんだ』
半ば予想していた答えだった。進展を期待していた訳じゃない。要は自分が困っていると。いや、迷惑していると、しっかり主張するのが目的だった。
幸い、昼間はそれぞれの教室で授業を受けているから、顔を合わせずに住む。
放課後は、マクラウドはホッケークラブに行くから帰りは遅い。(別に聞きもしないのに、向こうから話しかけてきた結果、わかったことだ)
のみならず、レオン自身もできるだけ、寮にいる時間を減らしていた。ルームメイトと一緒にいる時間を、極力少なくするために。
放課後、長過ぎる休み時間、さらには週末。一人の時間を守るため、レオンハルト・ローゼンベルクは学校の敷地の中にいくつか、彼専用の『隠れ家』を持っていた。
聖アーシェラ高校は広い。そして長い歴史の中で建て増しを続けてきた結果、思いも寄らぬ場所に人気のない小さな中庭や、忘れ去られた小部屋がひっそりととり残されていたのだ。
煩いルームメイトから離れるのには、おあつらえ向きの場所だった。
今日もまた、レオンは忘れられた中庭の古びた東屋に腰を降ろして本を広げる。昨夜は気が散って1ページも進めなかった。何もかも、マクラウドのせいだ。
(来週までにあいつが出ていかなければ、自分が部屋を出よう。しばらく市内のホテルに部屋をとって……)
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▼ 【5-3-2】レオンはいい奴
一方で、ディフォレスト・マクラウドは彼なりに気難しいルームメイトに合わせていた。少なくとも、本人はそのつもりだった。
うるさくするなと言われたから部屋ではCDもラジオもかけなかったし、テレビも談話室で見るだけにした。
今まで、好きな時に見たいものを見て、聞きたいものを聞いていたのに比べれば、ちょっとばかり窮屈だったが……。
(俺の方が後から入ったんだし。ここ追い出されたら行くとこないんだ。これぐらいどーってことないよな!)
小さな頃は、三つ年上の兄と一緒の部屋だった。割と理不尽な理由で怒られたり怒鳴られたりしたし、ぬいぐるみのクマを抱えて放り出されたこともある。
それに比べりゃ、レオンは同居相手として100%OK! ……とは言えないにせよ、かなりいい線行ってる。
何よりディフにとって、レオンは一緒に居て、実に心地よい相手だったのだ。整った顔立ちも、なめらかな声も、その優雅な仕草のひとつひとつに至るまで。見ているだけで、聞いているだけで、胸の奥がくすぐったくなった。頬が緩み、自然と笑顔になってしまうのだった。
だから教室で聞かれた時、迷わず答えた。
「よー、マックス。どーよ、新しいルームメイトは?」
「うん、いい奴だよ」
「お前、トムのこともそう言ってたよな?」
「うん。トムもいい奴だよ?」
目を細め、白い歯を見せて、くったくのない笑顔で答えるディフを見て、友人たちは互いに顔を見合わせた。口にこそ出さなかったが、みんな同じことを考えていた。通じ合っていた。
(うん、まあ確かにこう言う奴だよね)
友人たちの胸の内を知ってか知らずか。ディフは腕組みして首をかしげた。
「いい奴なんだけどさ、レオンって。あんまし、顔合わせる時間ないんだよなー。朝はさっさと起きて出てっちゃうし。休みの日も、だぜ?」
「ふーん、そうなんだ……」
ヒウェルは内心思った。それは、もしかして避けられてるんじゃないかって。
レオンハルト・ローゼンベルクと言えば、貴族めいた美貌と人を寄せ付けない絶対零度の防護壁で校内にあまねく知れ渡る『有名人』だ。
寮生はもとより、クラスメイトからも秘かに『姫』と呼ばれている。
それが、テキサス生まれのこのワイルドな野生児と一緒の部屋で寝起きしてるなんて。何たる無謀! もしくは、奇跡。
「ほんと、せっかちっつーか、せわしない奴だよ。あ、でも帰りも遅いんだ。クラブに入ってる訳でもないのにな?」
(気付けよ!)
がくっと肩が落ちる。その衝撃でずり落ちた眼鏡を、ヒウェルはそそくさと元に戻した。
「何やってるんだって聞いてみたらさ、言われちゃったよ。『個人の生活には干渉しないでくれ』って! そりゃそうだよな。黙って睨まれるより、すっぱり口に出してくれる方がずっといい」
(やっぱ避けられてるじゃん)
「やっぱり良い奴だよ、レオンって! だって行く所のない俺を、部屋に引き取ってくれたんだものな!」
(だめだ、こいつ……)
「どした、ヒウェル?」
「あ、いや……チョコバー食うか?」
「食う、食う! サンクス!」
満面の笑顔でぼーりぼーりとチョコバーをかじるディフに、ヒウェルは結局、何も言えなかった。
「ごっそーさん。んじゃ、俺クラブ行ってくる!」
「はいはい、行ってらっしゃい」
「気をつけてねー」
つったかつったかと廊下を走って行くディフを見送りつつ、ヒウェルはぽつりとつぶやいた。
「なんか、多大な誤解をしてるみたいなんだけど……いいのかな、アレで」
何とも気まずい沈黙が流れる。
聞くな。聞いてくれるなと、無言の答えが飛び交う中、ひゅるりと銀の笛を吹くような声が答えた。
「いいんじゃない?」
「ヨーコ?」
両手を後ろで組んで、ちょこんと首をかしげると、ヨーコはきっぱり言い切った。
「かえってあーゆー組み合わせの方が、しっくり行くものよ」
「そ、そうなのかな?」
「ええ。案外あの2人、ずーっと一緒に居たりしてね!」
「そーかな。二週間もてば奇跡だと思うぞ俺は」
「賭ける?」
右手の人さし指で自分の顎を支え、見上げてくる仕草は、どことなくハムスターとか、リスとか、子猫か……とにかく小動物を連想させた。
「二週間経ってもマックスが追い出されなかったら、学食でおごってちょうだい」
「む」
「私が、お腹いっぱいになるまでね?」
ちらりとヒウェルはヨーコを見下ろした。頭のてっぺんからつま先まで、じっくりと。
仮に負けたとしたって、こんなちっちゃい体だ。しかも女の子だ。食う量なんてたかが知れてる。校内のカフェテリアなら大した出費にはなるまい。
「……よし、乗った」
どちらからともなく右手を掲げ、ぱしっと掌を打ち合わせる。これにて契約成立、どちらが勝っても恨みっこなし。
この時の決断を、後に後悔する羽目になろうとは……ヒウェルはまだ、夢にも思っていなかった。
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▼ 【5-3-3】ここ座っていいか?
アイスホッケーの練習はけっこう汗をかく。
競技をやるのは氷の上だけど、トレーニングの大半は土の上でやってるし。氷の上で練習する時は、土の上より動きが激しいから、やっぱり汗ぐっしょりになる。
部屋に戻る前にシャワーを浴びて、汗まみれのトレーニングウェアから乾いた服に着替えた。レオンは汗臭いのが苦手みたいだし、俺が風呂上がりにいろちょろしてるのを見てもやっぱり不機嫌そうな顔をする。
で、妥協案として部屋に戻る前に汗を流すことにしてみた。クラブの先輩も、その方がいいだろうって言ってくれたし、湯上がりにマッサージもしてくれた。
でも運動したあと、熱いお湯あびて体がゆるむと、余計に腹が減るんだよなー。
帰ったらすぐ食堂。帰ったらすぐ食堂って、呪文みたいに頭の中で唱えながら部屋に戻ってきた。
「ただいまーっ!」
レオンはいなかった。いつもの事なんだけど、ちょっぴり寂しい。
部屋の窓の外に見える夕暮れの空は、半分が濃い灰色で、半分は鈍いオレンジ色。
明かりのついていない部屋の暗さが余計にくっきり際立って、寂しさを塗り重ねる。
たまには、明かりの着いてる部屋に帰ってみたいなって思うけど、それはわがままってもんだろう。ホッケーの道具をクローゼットに放り込み、自分で明かりを着けてカーテンを閉める。
もうちょっとだけ、待ってみよう。
明かりのついてる部屋に帰ってきた方が、きっとレオンだって寂しくない。
ベッドにころんとひっくり返って、雑誌を開く。いつもは買わない雑誌だけど、カリフォルニアのポリスの特集記事が載ってたんだ。
「うーん、やっぱりCHiPs(カリフォルニア・ハイウェイ・パトロール)ってかっこいいよなあ。メットとブーツでびしっと決めて、ハーレーに乗って……でも、この制服の色がなあ」
明るめのベージュ。これ自体は、いい色だ。だけど赤毛との組み合わせは、ぽやっとして、いま一つしまらない。
「色がぴしっとするのは、やっぱこっちなんだよなあ」
市警察のネイビーブルー。胸に輝く七芒星のバッジが眩しい。柄にもなく自分が着てる姿を想像してみたりする……。
(うん、悪くない)
にまにましてたら、がちゃっとドアが開いて、軽やかな足音が入ってきた。
レオンだ。
のそっと起き上がる。
「お帰り!」
「……ああ」
ちらっとこっちを見て、自分の机の方に歩いてった。抱えていた本を置いて、またすたすたとドアに向かう。
「どこ行くんだ?」
「食堂」
ぱたん、とドアが閉まり、足音が遠ざかった。
まるで、きれいないいにおいのする夢がふわーっと漂って来て、通り過ぎてったみたいだった。
「あ」
我に返ると、きゅるるるきゅーっと腹が鳴る。そうだ、俺、腹ぺこだったんだ!
「よっと!」
ベッドから飛び降りて部屋を出る。途中でレオンに会えるかな、と思ったけど追いつかなかった。あいつ、けっこう足早いんだな……。
※
寮の食堂は、男子寮と女子寮の真ん中にある。昔は別々だったらしいけど、今は男女共通だ。
飯時になると、学校の学食と同じようににぎやかになる。これ、男ばっかりだったらさぞかし暑苦しかっただろうなあ。聞こえる声も低いのばっかりで。
改革万歳!
今夜の献立はマカロニアンドチーズとフライドチキン、温野菜のサラダにベーコンとセロリのスープ。パンはおかわり自由。
カウンターで一人分の食事が乗っかったトレイを受けとり、後はめいめい好きなテーブルに座って食べる。別にルームメイトだからって、飯時まで一緒とは限らない。
同じ学年やクラブの奴と顔を合わせれば一緒に座るし、女子と相席することだって珍しくない。女の子は、ほとんどルームメイト2人で連れ立って来るけど。
「よう、ヨーコ!」
「あーマックス」
「これから飯か?」
「いえーっす!」
ヨーコは、隣にいるアフリカ系の女の子にちらっと目配せした。ほらな、やっぱルームメイトと一緒に来てる。
「よかったら、一緒に食べない?」
うーん、どうしよう。
ヨーコと一緒だと、だいたい食べるペースが同じだから助かる。同じくらいどさっと盛ってるし、ばくばく食べる子だから、こっちが無理にゆっくり食べる必要がないんだ。
「あ」
イエスと言いかけたその時、気付いてしまったんだ。
食堂の片隅で、レオンが一人で座ってることに。
6人掛けのテーブルに一人で、ぽつんと。他の寮生も近づこうとしない。何となくあいつの周りに、透明なバリアーができてるみたいに。大勢の中に居るのに、ひとりぼっちで食べている。
いつもの風景だ。
でも、俺は知っている。一人で食うご飯は美味しくないって。どんなにあったかくても。味が良くっても。口の中でぼそぼそわだかまる。
レオンは二年生だ。
あいつ、もう一年以上もああやって飯食ってるのか? たった一人で、誰とも話さずに……。
「あ、いや、俺、ルームメイトと食うから」
「そう」
ヨーコのルームメイトが、ちょっぴり残念そうな顔をした。
「ごめん、今度、埋め合わせする!」
「OK! んじゃまたねー」
ひらひらと振られるちっちゃな手と。褐色のすらりと長い手に見送られて歩き出す。
(あ)
さささっと後じさりした。
「君、名前、何て言うの?」
ヨーコのルームメイトは、きょとんとした顔でこっちを見た。けどすぐに目を細めて、口角をくっとあげて、すてきな笑顔になった。
「カミラよ。カムって呼んで?」
「OK、カム! んじゃ、またな!」
そそくさと遠ざかるディフの背中を見送りつつ、2人の少女はきゃっきゃとほほ笑み、囁き合った。
「何、あの可愛い生き物!」
「でしょ?」
「いいかも。お尻もキュートだし」
秘かに下された女子の判定など知る由も無く。ディフは山盛りのマカロニアンドチーズをこぼさないよう、用心しながら『姫の食卓』へと近づいた。
「よっ、レオン!」
明るい褐色の瞳が見上げてきて、すうっと筆で刷いたような細い眉が、わずかにひそめられる。
「ここ、座ってもいいか?」
レオンは何も言わなかった。ただ視線を落として、中断していた食事を再開しただけ。
ダメとは言われなかった。つまり、OKってことだ。独自の判断を下すと、ディフは椅子を引いてどすんと座ったのだった。
フォークでマカロニアンドチーズをぐにーっと引っ張り、ふーふー吹いて、あぐっと口いっぱいほお張る。
「んふーっ、んまいーっ」
溶けたチーズとベーコンの油がじわあっとしみ込む。腹減った、腹減ったと叫んでいた体中の細胞が、ちゅーちゅーと吸い取ってるみたいな気がした。
空っぽの腹に、あったかいものが落ちて行く。満ちて行く。そりゃ、お袋が作ってくれたのに比べれば、味は大ざっぱって言うか、ちょっと濃過ぎるけど。スープも油がぎとぎと浮いてるけど。
運動したばっかりの体には、とにかくカロリー、カロリー、カロリーだ!
ばくばく食っていたら、レオンがかすかにため息をついた。
「んあ?」
ちょっとだけ食べるペースを落として、それとなく観察してみる。
レオンは眉をしかめたまま。申し訳程度に盛りつけたマカロニアンドチーズをフォークの先でつついて、ほんの少し切り取って、口に運んだ。
茹でたマカロニと溶けたチーズと、トマトソースの混合物が入った瞬間、ひくっと唇の端が引きつった。
たとえば、うっかり苦い粉薬を舌の上に乗せた時。シロップだと信じて飲んだら、お酢だった。そんな時の顔だ。
あるいは、味のない紙くずを無理やりフォークで押し込んでるような。
ほんとに俺と同じもの、食べてるんだろうか? ちらっとテーブルの上に並んだ料理に視線を走らせる。マカロニアンドチーズと、ベーコンとセロリのスープ、茹でたブロッコリーとポテトとニンジン。そしてパンが1切れと、デザートのオレンジが半分。
それと、水。
紅茶でもない、コーヒーでもなければ、ミルクでもない。コップに入った、ただの水。
(味気ないなー)
とにかく、料理は同じものだ。
だけど明らかに美味しそうじゃない。楽しんでない。機械的にモノを口に入れている。まったく食欲がないって訳じゃないんだ。皿の上に盛られたものは、ちゃんと全部食べていたから。
ずーっと眉はひそめられたまんまだったが、デザートのオレンジを食べる時にちょっとだけ、ゆるんだ。
ふと、気がついた。
ひょっとして、あいつ、食堂の飯が口に合わないのか? って。
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▼ 【5-3-4】二人でお茶を
最後の一口を食べ終わるまで、レオンは一言も喋らなかった。
その間に、こっちはおかわりした2皿目を片づけていた。お互い、口が空になったとこで、思い切って聞いてみる。
「マカロニアンドチーズ、苦手か?」
「……いや」
「じゃあ、好き?」
「別に」
「チリビーンズは?」
「…………」
じとっとねめ付けてる彼の瞳は、あったかい褐色なのにまるで氷みたいに温度がなかった。好きもなければ、嫌いもない。何の感情もない。そもそも、質問すること自体がわからない。
そう言う目をしていた。
「別に」
でも喋る言葉は同じなんだな。
丁寧に口を拭うと、レオンは空っぽになった食器を持ってさっさとカウンターに行き、返却口に置いて。すたすたと食堂を出て行った。
騒がしい学食の片隅で起きた、ありふれた日常の一コマ。それなのに一連の動きは無駄が無くて、目が惹き付けられる。何て言うんだっけ、ああ言うの。
えーと……
そうだ、優雅(elegant)。
「マックス」
「ん、どーしたヨーコ」
「口。トマトソースついてる」
「おおっと」
手で拭こうとしたらティッシュを渡された。
「これ使いなさい」
「サンクス」
※
食事の後、いつもは談話室に行ってテレビ見ながらだらだらすごす。
チャンネルは別に何でも構わない。見ながら他の連中と喋るのが楽しい。学校であったこととか。CMとかショッピング番組に突っ込み入れたり、コメディアンのしょーもないジョークにあはあは笑ったり。
多分、あれだな。飯食っただけじゃ、満たされない何かを補給してるんだ。
今日も談話室はにぎやかだ。
親しい友だちも集まってて、声をかけられる。
「よーマックス、こっち来ないか?」
「……」
どうするかな。
ちょっと考えて、手だけ振って通り過ぎた。
「んー、やっぱ今日は部屋に戻る」
「そっか、またな」
本を読む、宿題やる、マンガを読む、音楽を聴く(イヤホンつきで)。
理由はいくらでもある。
でも一番大きな理由は、レオンと一緒にいたかったからだ。今日、教室でヒウェエルたちと話してて気がついたんだ。せっかく同じ部屋に暮らしてるのに、一緒にいる時間って寝てる時ぐらいしかない。
ちょっと、もったいないような。寂しいような気がしたんだ。
(あ、だからさっきも同じテーブルで飯食いたくなったのか?)
部屋に戻ったら、ほわっと湯気が漂っていた。お湯を沸かしていたんだ。誰がって、レオンが。
「何やってんだ?」
「………」
簡易キッチンのコンロの上には、ぴかぴかの銅のヤカンが乗っていた。注ぎ口と蓋のすき間からしゅんしゅんと湯気が上ってる。ちっちゃな備え付けのキッチンテーブルの上には、同じく銅のティーポット。
そして、皿に乗った白い陶器のティーカップ。金の縁取りで、薔薇の花が描いてある。
「もしかして、紅茶入れてるのか?」
「ああ」
「でもこれ……」
カップの中味は透き通ったただのお湯だった。
「ティーバッグ入ってないぞ?」
「温めてるんだ」
カップとポットからお湯を捨てて、レオンは改めて四角い缶から、妙に丸いスプーンでお茶っ葉をすくって、ぱさ、ぱさ、とポットに入れた。
「リーフから入れるのか!」
「ああ」
一杯、二杯、三杯。スプーンに刷り切り、慎重に。
まるで科学の実験みたいだ。
茶葉を入れて、ポットにお湯を注ぐ……慣れた手つきだ。いつもやってるのかな。
ここまではわかる。でも蓋をした後、さらに、キルトでできた帽子みたいなものをすぽっと被せるのは何でだろう?
「何で、ポットに帽子被せてるんだ?」
ひょい、と砂時計をひっくり返しながら。レオンはこともなげに言った。
「温度を下げないようにするため」
「そっか、紅茶って寒がりなんだな!」
「カップにいれてから温度が下がってくると、また味が変わるけどね」
「そうなのかっ!」
「少し下がったところで、まろやかになる。もっと下がるとだんだん渋みにかわる」
「ほえー……紅茶って生き物なんだな……あ、砂時計、もうすぐ終わるぞ?」
「え? ああ」
ちょっと首をかしげてる。何か予想外のことでも起きたんだろうか。
帽子をとると、レオンは鋭いオレンジの光を放つポットから、薔薇模様のカップに紅茶を注いだ。
「あー……いいにおいがする……」
本当に、部屋の中の空気の質が変わってたんだ。ふわっと膨らみ、やわらかい。森の緑の一部を切り取って、まろやかにしたみたいだ。落ち葉を踏んだ時のにおいにとか。牧場の干し草のにおいにも似てる。
どっちも大好きなにおいだ。
たった紅茶一杯注いだだけで。スプーンにたかだか三杯分のお茶の葉と、お湯だけで。
「ちょっとだけ味見してもいいか?」
「どうぞ」
うわあ、何ていい奴なんだろう!
「サンキュ!」
大急ぎで自分のマグを持ってきた。こぽこぽと紅茶が注がれる。透き通ったきれいな赤みがかった褐色。
まるで琥珀だ。ブラウンが強めで、透明度が高い。
(あれ? この色、どこかで見たぞ?)
「どうぞ」
「ありがとう!」
こく……と一口。飲んだ瞬間、口の中でちっちゃな星が弾けた。
辛かったとか、ショッキングな味がしたとかじゃなくて。いや、ある意味、確かにショッキングだったんだけど!
とにかく、目から鱗がどさーっと落ちた。これが紅茶の味だって信じてた舌の上の常識が、一気に吹っ飛んじまった。
「うわ……何だこれ。すっげクリアな味じゃん! これ、ほんとに紅茶か?」
「これが紅茶だよ」
「ってかお前が入れたから、こうなるんだよなこれ?」
「そうとは言えない」
「ふむ」
手を軽く握って口元に当てる。
大事に、大事に飲んだ。冷たいカップに注いだからだろうか。レオンの入れてくれたお茶は、確かに少しまろやかな味がした。
「……美味い」
うん、こんなに美味いお茶毎日飲んでるんだから、寮の食事が口に合わないのも無理ないよな。
あれ? あいつ、何でこっちをじっと見てるんだろう。
俺の顔に何かついてるのかな。
「ありがとな、美味かった」
レオンはそっと頷いてくれた。
ああ、そうか。
透き通った赤みがかった褐色。入れたばかりの紅茶の色は、レオンの瞳と同じなんだ。
※
レオンは正直驚いていた。
抽出時間の間、まさかマクラウド相手に紅茶談義をしてしまうなんて。本でも読もうとしていたのに、結局ページも開かず終わってしまった。
(いったい、何であんな事を?)
聖アーシェラ高校に入学し、寮で食事をした最初の夜も大概に驚いたが……。
まったくもって、あれは衝撃だった。
紅茶を飲もうとしたら、プラスチックのカップに入ったお湯と、ティーバッグが出てきたのだ。
手を着けずに部屋に戻り、即座にアレックスに電話を入れた。
食事が酷いのはもうあきらめた。だからせめて紅茶だけでも、自分で入れて、口に合うレベルのものを飲みたいと訴えた。切実に。
アレックスは万事に置いてパーフェクトだった。
落としても割れない銅のティーポットに、湯を沸かす銅のヤカン。比較的割れにくい丈夫なヘレンドのティーカップ。カトラリーは全てスターリングシルバー。
即座に茶葉と道具一式揃えて、翌日にはもう届けてくれた。
おかげで、紅茶だけは『口に合う』ものを飲むことができる。
むしろ『紅茶で』命を繋いでいると言っても過言ではない。
家を離れたいと言い出したのも。学校の寮に住むと言ったのも自分だ。食事が不味い。その程度の不便は享受して然るべきだろう。頭ではわかっていても、そこは思春期の少年だ。
『食べる事』そのものに興味がないとは言え、それも一定のレベルを保っていればこそ。
毎日続けば、ストレスは膨大に膨れ上る。食後のティータイムは、レオンにとって希少な癒しの時間だったのだ。
それにしても。
まさかテキサス生まれのガサツ者に紅茶の味がわかるなんて……夢にも思わなかった。
(ああ見えて、味覚と嗅覚は鋭いのかも知れない)
(野生動物なら、それも当然、か)
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▼ 【5-3-5】ディフ買い物に行く
些細な出来事ではあったけれど、紅茶の一件は確実に一つの区切りとなった。
何故ならそれ以降、レオンがマイケル・フレイザー寮長に苦情を言う回数は劇的に減ったからだ。(マイクにとって、そしてディフにとっても幸運なことに!)
それからと言うもの、ディフは時間さえ合えばレオンと同じテーブルで食事をとるようになった。夕食のみならず、時には朝食までも。
レオンは若干、迷惑そうな素振りを見せたものの、強固に拒絶することもなく。
寮生たちが冷や冷やしながら見守る中、氷の『姫』と赤毛の野生児が一緒に食事をする風景は、徐々に日々の暮らしに馴染んで行った。
食事の後は(別々にではあったけれど)部屋に戻る。
大抵、レオンの方が先になる。
ディフが戻ると、レオンが紅茶を入れている。そのまま何となく一緒に飲む。
レオンにしてみればあくまで「ついで」だ。もともと二杯分入れて、自分で全部飲んでいたところを半分、ディフに飲ませているのに過ぎない。
赤毛のルームメイトは飽きもせずにレオンが紅茶を入れる手際を見守り、しきりに感心する。
「まるで化学の実験みたいだな!」
微妙な表現だ。正確で手際がいい、とでも言いたいのだろうか?
体育会系の学生にしては珍しく、マクラウドは勉強は真面目にやっている。ただ、得意不得意は目に見えてはっきりしていた。
数学はそれなりにできるようだが国語は苦手、歴史は時々欠伸をする。
だが、化学に関しては別格だった。これが同じ人間かと思うほど目覚ましい集中力を発揮し、明らかに授業より先まで読み進めている。科学雑誌も愛読しているようだ。
以上の事実を鑑みて、どうやら褒め言葉らしい、と判断することにした。
紅茶を飲む時は、厚手のマグカップを両手で抱えてしみじみ味わっている。茶葉の違いや入れ方の変化にもちゃんと気付き、反応してくる。
悪い気はしない。
レオンハルト・ローゼンベルクとて人間である。
いかに他人に無関心と言えども、自分のした事が他人に評価される実感を得るのは、やはり嬉しいことなのだ。
一方、ディフにとってもこの食後のティータイムは楽しい時間だった。
友人たちとの他愛のないおしゃべりや、談話室でのひと時より優先するだけの価値は充分にあった。
飲み終わってまだ時間があったら、もう一度談話室まで足を運べばいいのだから。
寮の食堂や、学食とは比べ物にならないくらい、クリアな味と香りの美味い紅茶が飲める。
それに、紅茶を入れる時のレオンの仕草は見ていて気持ちいい。飲む時は目に見えて険しさが薄らぎ、とても穏やかな顔をしている。
(こいつ、別に飲み食いするのが嫌いな訳じゃないんだな)
(ちゃんと、飲む楽しみを。味わう楽しみを知ってるんだ……口に合うものさえ手に入れば)
※
2人の少年宛にそれぞれ荷物が届いたのは、そんなある日のことだった。
レオンには市内に住む執事のアレックスから。ディフには、テキサスの実家から。
それぞれ受けとった箱をベッドの上に載せて、開封する。
「お」
ディフ宛の箱には、冬物の厚手の靴下やネルのシャツにセーター、手袋が詰まっていた。
みっちり分厚いセーターを広げ、首を傾げる。
「シスコでこんなの使うかなぁ……」
「冷え込む日もある。あっても困るものではないだろう」
「そっか」
さらりと答えるレオンの箱からは、四角い缶に入った紅茶と、布に包まれたティースプーンにフォークが一そろい。
「……それ、いつも紅茶入れる時に使ってる奴だろ?」
「ああ、これは」
レオンは簡易キッチンの食器棚から、全く同じ銀のカトラリーを1セット取り出し、入れ替えていた。
「スペアだ」
「スペア?」
「銀器は、使うと曇るから」
「そーなんだ」
寮生の中には、まったく自分で洗濯もせず、実家から着替えが届くたびに汚れ物を送り返す『強者』もいる。だが、それとは明らかにレベルが違うような気がした。
(うん、さすがに銀のスプーンと汚れた靴下を一緒にしちゃいけないよな)
冬物の衣類をクローゼットに収めていると、荷物の底から、小さなタッパーが出てきた。
「あれ?」
どうやら、冬物衣類を衝撃吸収材(shockabsorber)代わりに使ったらしい。
ぴっちり密封されたタッパーの中には、小麦粉を焼いて作った平べったい丸や四角。
見慣れた手作りのクッキーが入っていた。添えられたカードには母の字が並んでいる。
『無事に着いたらおめでとう! お友だちと一緒に食べてね』
奇跡的にクッキーは無事だった。
ディフォレスト・マクラウドは素直な息子だった。食後のお茶の時間に、母から届いたクッキーを皿に載せて出してみた。
「これは?」
「家から送ってきたんだ。お袋の手作りだ。余計なもんは入ってないから美味いぞ?」
「……」
レオンは迷った。
勧められたものを断るのは、礼儀に反する。また、今日の夕食は揚物がメインだったのでいつもに増して食が進まず、少しばかり空腹だった。
「もらおう」
一つつまんで口に入れる。
「あ……」
それは、ほんとうに久しぶりにレオンが口にしたお手製(ホームメイド)の味だった。小麦粉と、砂糖と、牛乳、バター、少量のナッツ。余計なものは入っていない。過度に甘くない。ちくちくと口を刺す妙な刺激もない。家で焼いたクッキーならではの、素直な味。
万事につけて完ぺきなアレックスには遠く及ばなかったけど……
だからこそ、ほうっと肩の力が抜けるような、やわらかな味。
※
翌日。
タッパーに詰まったマクラウド母お手製のクッキーは、聖アーシェラ高校の一年生の教室でふるまわれていた。
「んー、んまい!」
「ホームメイドのクッキーってさ、絶対、家で焼かないとこの味にならないんだよねー」
「何当たり前のこと言ってんの」
「あ、でもそれ何となくわかる。ウチの味とはちょっと違うんだけどさ。やっぱ『家で焼いた』クッキーなんだよな」
「そーそー、お店で売ってるのとは、違うのな。 舌の上にチクチクするものがない!」
「うれしいな、これヘーゼルナッツじゃん! 日本じゃなかなか手に入らないんだ!」
「うっそ、信じらんない!」
「チョコチップ入ってないよ、チョコチップ……」
「お前はどんだけチョコ食う気だ!」
クッキー談義の最中、何気なくヒウェルは尋ねてみた。
「で、どーよ。新しいルームメイトとはその後、上手く行ってる訳?」
「うん。出てけ、とか言われてないし」
「そーゆーレベルかよ……」
「夕食の後、俺の分も紅茶いれてくれるようになった」
「ふーん?」
ぴくり、と眉をはね上げるとヒウェルは眼鏡の位置を整えた。
(こいつは、ひょっとしてひょっとすると。進歩なんじゃないか?)
ディフの根無し草的な住宅事情を、彼は大いに心配していたのだ。いざとなったら、いつでも里親に頼み込めるように。『しばらく友だち泊めてもいい?』と。
「良かったじゃないか!」
「でもさー、あいつの使ってるお茶っ葉って多分すげー高いと思うんだ。昨日、ちらっと届いた缶見たんだけど。クリスマスのギフトなんかで、たまにもらうようなレベルの奴だった!」
「どーゆー基準だ」
「でも何となくわかる」
ヨーコがまじめ腐った顔でうなずいた。
「自分の家じゃ、まず買わないようなレベルの高級品ってことね?」
「そう、そうなんだよ! だから俺、なんかでお返ししたいなって思って」
友人一同、無言で顔を見合わせる。
『何て律義な奴なんだ』
『ってか、遠慮するって選択肢は、ないんだ』
わざわざ言葉に出さずとも、何となく通じ合っていたのは皆、それだけディフのことをよく理解しているからだ。
「……いいんじゃない?」
「うん。でも金出すのはやめとけ?」
「えー。一番楽なのに……お茶代半分出すぜ、とかさ」
「落ち着け。そもそも、とんでもない高級品なんだろ? お前、半分も出せるのか?」
「……無理」
がっくり肩を落とすディフの背中を、ぽん、とヨーコの小さな手が叩く。
「こう言う時は、消え物の方が、お互い気負わずにすむよ、マックス」
「消え物?」
ディフは目をまんまるにして首をかしげた。
「透明遮蔽装置(クローキングデバイス)でもつけろってか!」
「……………いや、そーゆー意味じゃなくてね」
ヨーコは眼鏡を外して眉の間をもみほぐし、掛け直した。
ああ、そうか。この子には難しい言い回しは不向きなんだ。思考が直球過ぎて、日本人的な遠回しな表現は、素通りしてしまうのだ……多分。
「よーするに飲み食いするもの、ってこと」
「あー」
ぽん、と手を叩いてる。今度は通じたらしい。
※
その日の放課後、ディフは買い物に出かけた。いつも牛乳を買うスーパーマーケットで、パンと卵と、ベーコンを買った。
「……あ」
慌てて塩とコショウ、マーガリンをカゴに入れる。さらにトマトケチャップと砂糖も追加。家の台所と違って、寮のキッチンには何もないんだ。
(えーっと、後何があったっけ……)
首をひねっても出てこない。もうちょっと手伝いをしとけばよかったか、と後悔する。
(いいや、足りないのがあったら、食堂から借りてこよう)
「っと、道具も要るな!」
幸い、皿やフォークは部屋に備え付けのがあった。
いつも前を素通りするキッチン用品の売り場の前で、今日は腕組みして仁王立ち。
ためつすがめつ品定め。
「フライパンと、フライ返し……は絶対に必要だな!」
そして忘れちゃいけない、木のフォーク。(これが一番肝心だ!)
「うーん、結構な出費になるぞ……厳しいなあ」
でも、ここで買っておけば、ずっと使える。
「……よしっ!」
8インチサイズのフッ素加工フライパン、12ドル(およそ950円)でお買い上げ。
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▼ 【5-3-6】食卓のはじまり
その日、レオンハルト・ローゼンベルクは肉の焼ける香ばしいにおいで目を覚ました。
眠りから覚醒に至る直前の、あたたかな乳白色の海を漂いながら意識の片隅で考えた。
(何が焼けているんだろう?)
ほわほわと記憶の泡が浮かんでくる。屋敷の食堂で、銀の器から白磁の皿に、うやうやしくアレックスがとりわけてくれたベーコンと卵。薄切りを2切れ、半熟のオムレツをきっちり卵一つ分。こんがりと焼いたトーストに紅茶を添えて……。
がいん!
金属と金属のぶつかるやかましい音に、いきなり意識が引き上げられる。過去から今へ、眠りの海から覚醒の岸辺へ。
ぱちりと目を開ける。
キッチンで大動物の動く気配がした。ベッドの上に身を起こし、寝起きの目を細めて凝視すると……
(何をやってるんだ、あいつ)
マクラウドだ。首をすくめて今、まさに、おそるおそるこちらを振り返った所。皴の寄った眉根を起点に、眉毛が顔の外側に向かってきゅうっと下りのラインを描いている。
「ごめん、起こしちゃったか?」
見ればわかるだろうに。何故、わざわざ聞く。憮然として言い返す。
「……何してる」
「ベーコン焼いてる」
手に持ったフライパンには長いベーコンが四枚乗っかっている。表面は赤く焼け、じゅうじゅうと油のはぜる音が聞こえてきた。なるほど、においの出所はあそこか。
「何枚食う?」
「何故、聞く」
ぱちくりとまばたきした。ヘーゼルブラウンの瞳が瞼に隠れ、また表れる。
「一人分作るのも、二人分作るのも同じだから」
なるほど。
ついぞ使った事のない、部屋に備え付けのオーブントースターが赤く光っていた。余熱しているらしい。シンクの台には、明るいベージュ色の殻の卵が二個、転がっている。
卵とベーコン、そしてトースト。見た所、食堂の食事よりずっとシンプルだ。だがベーコンはアレックスが焼いてくれたものより、長い。
「一枚でいい」
「OK!」
ぼんやりした頭でバスルームに入り、歯を磨く。ミントの香りに刺激され、徐々に思考がはっきりして来た。
(あいつ、何だっていきなり朝食なんか作り始めたんだろう?)
顔を洗い、着替えを終える頃には、キッチンテーブルの上の皿にはスクランブルエッグが載っていた。正直、ちょっと意外だった。ゆで卵か、せいぜい目玉焼きだろうと思っていたのに。しかもぷるっとしていて鮮やかな黄色をしてる。
目の前で得意げな顔をしているこのガサツな野生児が作ったとは、にわかには信じられなかった。
「トースト何枚食う?」
見せられた食パンは、レオンの基準からすればかなり分厚かった。
「半分でいい」
「OK! お前小食だなー」
「君に比べればね……場所を空けてもらえるか?」
「うん」
狭い台所ですれ違うと、鍋のヤカンに水を汲んでコンロにかけた。
パンを食べるには、飲み物が必要だ。マクラウドは牛乳で充分だと考えているようだが、自分はそれでは物足りない。
「トーストにマーガリン塗るか?」
「いや、そのままでいい」
※
「できたぞ! さめないうちに食え!」
小さなキッチンテーブルに、机の椅子を持ってきて向かい合って座った。
こんな風に正面から向かい合うのは始めてだった。今まで食後の紅茶を飲む時は、それぞれの机に座って飲んでいたからだ。(ディフはたまにベッドの上)
だけど今日は紅茶だけじゃない。
白い丸い皿の上には、カリカリに焼いたベーコンと、黄色いスクランブルエッグ。
レオンの分はベーコン一枚、厚切りトースト半分、スクランブルエッグの味付けは塩とコショウのみ。
ディフの分はベーコン二枚に、マーガリンを塗った厚切りトースト一枚と半、スクランブルエッグにはケチャップが追加されている。
「あ」
スクランブルエッグを口に入れると、レオンはほわっと顔をほころばせた。
卵と、牛乳、塩とコショウ。余計なものが入っていない。過度に油ぎってもいない。意外なほど柔らかく、ふんわりしていた。
「……どうした?」
どぎまぎしながらディフがたずねる。
最初は目玉焼きにする予定だった。だけど、どうひっくり返していいのかわからなくて、結局こうなった。
でもスクランブルエッグは得意なんだ。何てったって8才の時から作ってるんだから。
初めのうちこそ失敗して、パサパサのパリパリにしてしまったが今はそんな事は滅多にない。
目を大きく開いて、すはー、すはーっと鼻息で自分の前髪を吹き上げながら首を傾げる。
期待と不安でアドレナリンをぶいぶい分泌する赤毛のルームメイトの目の前で、レオンは……
「君は、料理が上手いんだな」
明るい褐色の目を細め、頬の緊張を解いた。唇がゆるやかに、優しい上向きの曲線を描く。
(笑った!)
(レオンが笑った! 初めて笑ったー!)
不安から一転、ディフの頭の中にぱあっと花が咲き乱れた。白い花びらに囲まれた黄色い花糸。マーガレットの花が一面に。
(うわー、うわー、うわー、レオン、さいっこーに、可愛い! さいっこーにきれいだ!)
(どうしよう。すっげえ嬉しい。全力で走り回りたい気分だ!)
目鼻の周りに散ったそばかすをくっきりと浮かび上がらせ、ディフは顔いっぱいに笑っていた。
頬を赤くして、目尻を下げ、白い歯を見せて、文字通りパワー全開で。
生えていたら絶対、しっぽも振っているだろう。目にも止まらぬ早さでぶんぶんと。
それは、レオンハルト・ローゼンベルクが生まれて初めて返された、純粋で無垢な『喜び』だった。
自らの言葉が。表情の変化が呼び起こしたとは、露ほども知らぬままに。
「また、作るよ!」
※
こうして『食卓』が始まった。
最初はたった二人きり。聖ガブリエル寮の三階、突き当たりの角の部屋で。
トーストと、スクランブルエッグとベーコン、ストレートの紅茶を添えて……。
後に『家族の食卓』に至る道のりの、小さな、最初の一歩。
(Tea for two/了)
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▼ 留守番サクヤちゃん
- 拍手お礼短編の再録。1995年10月、【5-2】お前はレオン、俺はディフのちょっと後の出来事。
- よーこちゃんがアメリカに行ってしまって一人寂しいサクヤちゃん。すっかり犬や猫としか喋らなくなってしまいました。
- ある日、おじさんに連れられて思い切ってお出かけしたところ……
「よーこちゃんといっしょじゃなきゃ、やー!」
ちっちゃい頃、自分はそう言って泣いたらしい。
三つ年上の従姉と引き離されるたびに、目にいっぱい涙をためて。咎められた記憶はほとんどない。おそらく唯一の『わがまま』だったからだろう。
何より従姉本人が真っ先に飛んできて、手を握ってくれたのだ。大人たちが反応するより、ずっと早く。
生まれた時からずっと一緒だった。一緒に歩けば姉妹と間違われるほどそっくりで、着ているものはおそろいかお下がり。離れ離れになるなんて想像したこともなかった。1995年の夏までは。
八月の終わりによーこちゃんは、アメリカに行ってしまったのだ……。
※
とある土曜日の昼下がり。黒い詰襟の学生服を着た少年が、とことこと神社の石段を登っていた。ほっそりした肩や華奢な背中や足腰は、分厚い黒い上着を支えるにはいささか頼りないように見える。だが足取りにはいささかの揺らぎもなく、すっ、すっと石段を登ってゆく。心持ち左の端に寄って、決して真ん中は歩かない。そこは神様の通る道だから。
「ふぅ……」
十月とは言え、ついこの間衣替えが済んだばかり。さすがに晴れた日にこうして体を動かすと、じっとりと汗がにじんでくる。軽く額を拭うと、結城朔也は神殿に向かって一礼。二の鳥居の手前で左に曲がり、林の奥へと続く細い道を歩いて行った。
曲がり角の手前には、小さな木の看板が立っていた。曰く、『社務所にご用の方はこちらへどうぞ』と。
林の中に分け入る小さな道は、社務所の手前でさらに三つに枝分かれしていた。
一本はそのまま結城神社の社務所と、それに隣接した宮司一家の住居……いわゆる母屋へ。もう一本は泊まり客を通すための離れへ。そして三本目は朔也と母の住むもう一軒の家へと通じている。
自宅の玄関先で朔也は立ち止まり、カタンと郵便受けを開けた。
門柱に取り付けられたアルミの四角い箱は空っぽ。念のため手を入れてまさぐってみたけど、ぺったんとした金属の底が振れただけ。
「はぁ……」
ため息がこぼれる。従姉のよーこちゃんがアメリカに留学してはや一ヶ月。郵便受けをチェックするのがすっかり習慣になってしまった。
日本を発った次の日、社務所のパソコンにメールが届いた。学校のアドレスからただ一言、『無事についたよ、元気です』って。その後、ハガキが二回届いた。一枚目はゴールデンゲートブリッジのポストカードで、二枚目は文字でびっしりと日々の出来事がつづられていた。寮の同じ部屋の子と仲よくなったし、クラスの子とも話せるようになってきた。今度は一人歩きに挑戦してみたいと……。
(よーこちゃん、どんどん知らない所に行っちゃうのかな)
ちょっぴり心細い。けれどその一方で安心してもいた。アメリカで暮らすよーこちゃんは、とっても生き生きしていて楽しそうだから。それに、自分との繋がりは何があったって。どんなに離れていても、決して途切れはしないのだから。
四日ほど前にも夢を見た。
アーチ型の柱が並び、まぶしい日の光が差しこむ通路でガラスが割れて、誰かが怪我をした。
夢の中の自分はとことこと近づき、傷口に手を当てていた。だってその子は自分を助けてくれたから。
赤い巻き毛に白い肌、背の高いがっちりした男の子。あれはいったい誰だったんだろう?
家に入り、鞄を部屋に置いて着替える。さすがに半袖はもう寒い。
(あ、そうだ)
ひょっとしたら、メールが来てるかもしれない。
わずかな期待を抱きつつ母屋に行くと、社務所には誰もいなかった。机の上のパソコンを立ち上げてみたけれど、受信はゼロ。
しかたないよね。よーこちゃんだって忙しいんだ。そんなにしょっちゅう手紙出せるはずがない。
それに……自分だって返事かけるほど、毎日楽しいことがある訳じゃないし。
三度目のため息をついて、ぼんやりと縁側に腰を降ろす。庭のカエデがだいぶ赤くなってきた。
アメリカにも、カエデってあるのかな……甘いシロップがとれるんだっけ。
あ、でもあれはカナダだったかな?
そんなことを考えていたら、ふにっと手首にひんやりした物が押し付けられる。猫の鼻先だ。白茶と白黒、そして真っ黒、合計三匹。ふわふわの毛玉がするすると近づき、我先に膝に登ってくる。
「……ただいま、おはぎ、みつまめ、いそべ」
めいめいかぱっとピンクの口を開いて、口々に話しかけてきた。
「みゃー」
「み」
「にゃう」
「そっか、そんなことがあったんだ」
「にゃっ」
猫たちの話を、朔也はただ静かに聞いていた。時折あいずちを打ったり頷いたりしながら。
そのうち、白黒模様のいそべが、にゅうっと伸び上がって玄関の方を向いた。
「にー」
「あ、新十郎さん」
ほどなく。のっしのっしと金色の毛並みをなびかせて、堂々たる体格の犬が入ってきた。ゴールデンレトリバーだ。買い物カゴをくわえ、首輪には大きな鈴が下がっている。
「お帰り、お使いごくろうさま」
「うふ」
「今日から、衣替えだから……」
「にゃー」
「み」
「にゅーっ」
「わう」
カゴをサクヤに預けると、『新十郎さん』はわっさわっさと尻尾を左右に振ったのだった。
「うん、ちょっと待っててね」
台所に行き、冷蔵庫に中味をしまう。木綿豆腐一丁、カレイの切り身が四人分、大根とキャベツと、そしてリンゴ……これはぽちのおやつ用。てきぱきとしまいながら、ふっと気になった。
アメリカでは、何食べてるのかな。やっぱりお肉が多いのかな?
よーこちゃんなら好き嫌いないから大丈夫だろうな……。
にぼしの入った缶を手にとり、お茶の間に戻る。猫たちがつぴーんと尻尾を立てて寄ってきた。でも、まずは新十郎さんに。これはお使いのご褒美だから。
「はい、新十郎さん」
「わう」
一つかみ手に乗せて差し出すと、行儀良く鼻面をつけてばりばりと食べた。ほぼ二口。
「みー」
「みうー」
「んにゃーっ」
待ちかねた猫たちににぼしを配り、ついでに自分もご相伴にあずかっていると……
「サクヤくん」
「はい?」
おじさんが。よーこの父で神社の宮司でもある羊司が声をかけてきた。ものすごく遠慮しながら。
「明日、私の恩師を訪ねるのだけど、よかったら、その……」
こくっと咽を鳴らしてる。
「一緒に来てみないかい? とっても優しい人で……猫とカラスを飼ってるんだ」
(猫とカラス……でも知らない人……)
サクヤは少し考えた。羊司おじさんはその間、じっと待っていた。
(知らない人……)
すると。白黒の『いそべ』がにゅうっと伸び上がり、ぽふっとサクヤの膝に手を置いて。顏を見上げて一声
「みゃ」と鳴いた。まるで『行ってごらんなさい』とでも言うように。
「……うん」
※
翌日、日曜日。おじさんの運転する車で連れて行かれたのは、ありふれた三階建ての雑居ビルだった。
外壁は永年の風雨にさらされ、昔風の余裕のある……ある意味遊びと装飾の多い造りと相まって、石造りの古い洋館のような雰囲気を醸し出している。
「こっちだよ」
鉄の手すりに支えられた上がり段を登る。アーチ型に石が組まれた戸口の上部にはステンドグラス、その下には木枠にガラスがはめ込まれた両開きの扉が収まっていた。
軒先に下がる磨き抜かれた真鍮のプレートに曰く「Embrace」。その下の電気じかけの置き看板はもっと今風の書体で、カタカナで読みが振ってあった。
(エンブレイス……どう言う意味なんだろう)
かららん、とドアベルが優しくも深い音色を奏でる。始めて来た場所のはずなのに、どこか懐かしいような感覚を覚えた。ベルの音の根底に流れる響きが、同じなのだ。とても身近な鈴の音に。
(あ)
この鈴、神社の鈴と同じ感じがする。
磨き抜かれた木の床とカウンターは深みのある焦げ茶色。店内に置かれたテーブルと椅子も全て同じ色の木材で作られている。
淡い色調の草花模様の壁紙は目に優しく、陽の光を含んだ香りすらほんのりと漂ってくるような心地がする。
どこからかカチ、コチと規則正しい音が聞こえる。見回すと、壁に小さな振り子時計がかかっていた。
「こんにちは、藤野先生」
カウンターの向こうの、きれいな銀髪の小柄なおばあさんにおじさんが挨拶する。
「あら、まあ可愛いお客さんね」
「この子はサクヤくんと言いまして、義姉の息子です」
「そう、桜子さんの」
うなずくと、おばあさん……藤野先生はこっちを見下ろしてにっこりと笑いかけてくれた。
「いらっしゃい、サクヤちゃん。お母様によく似てらっしゃるわね」
この人は、母を知ってるんだ。おそらくは藤枝おばさんも。思ったよりずっと、親しい人だったらしい。
藤野先生の後からもう一人出てきた。男の人だった。
肩にはカラスが止まり、足下には黒い猫が寄り添い、くるりと尻尾を巻き付けている。髪の毛はちょっぴり茶色がかっていて、ココアみたいな色だ。くりくりとした焦げ茶の瞳を見てると、境内で見つけたドングリを思い出す。背はあまり高くない。
自分よりは多分、年上だろう。
「この子は私の孫よ。裕二って言うの」
「……こんにちは」
「おう」
よかった、二人とも怖そうな人じゃなくて。
おじさんと藤野先生が話している間、サクヤはすみっこのテーブルに座っていた。すかさず黒い猫が膝に乗り、カラスはぱたぱたと飛んできて隣の椅子の背もたれに止まった。
「くわっ、くわわっ」
「みゃ」
「うん。よろしくね」
カラスの名前はクロウ、猫の名前はキミ。どっちもカタカナで書くらしい。
話していると……と言うかもっぱらカラスの話を聞いていると、ことんとテーブルにクッキーと紅茶が置かれた。
プレーンのと、チョコチップとマーブル、三種類。裕二さんだ。ぺこりと頭を下げる。
どうしよう。
何か、話しないといけないのかな。
ほんの一瞬緊張した。けれど裕二さんはうなずき返しただけで、一言もしゃべらず隣のテーブルに座って本を読み始めた。
ほっとして力を抜くと、カラスがばさっと翼を広げた。
「くわ、くわ……ちょーだいっ!」
「……はい、どうぞ」
プレーンクッキーを小さく割って差し出すと、器用につまみ上げてかつかつ食べた。
犬や猫に食べさせるのとは違う。堅い嘴が手のひらに軽く触れる感触が何だかくすぐったい。と、思っていたら……
「こーけこっこー!」
え、鶏?
「んめへへへへへっ!」
今度は羊。そっくりだ! 時々、カラスの中には他の生き物の鳴き声を真似するのがいる。でもここまで真に迫ったのは初めて聞いた。
「……すごいね」
『おうさっ! これぐらい朝飯前よ! もういっちょクッキーおくんな』
もう一枚、割ろうとすると……
『おおっと、ちっさくしないでいいから。丸っと一枚、どーんとおくんな!』
「……うん」
言われるまま、クッキーを丸ごと一枚差し出してみた。するとカラスはばくっとくわえてテーブルの上に置いて。足で押さえ、嘴でカツカツと砕いて食べ始めた。大きめのクッキーがものすごい早さで無くなった。
『ごっそーさん! ところでサクヤは年、いくつだ?』
「十三歳」
『そっか、中学生かー。ってことは彼女いるのか、カノジョ!』
「……え?」
『つってもただの代名詞じゃねーぞ! ガールフレンド、ぶっちゃけ恋人っつー意味のカノジョだからな! 手ーつないだり、一緒に登下校したり、とーぜんちゅーも』
ぺしっと横合いから手が伸びてきて、カラスの嘴を人さし指で軽く弾く。
「こら、あんまり悪い事教えんなよ?」
カラスはくわっと口を開いてぎゃんぎゃん言い返した。
『ってぇなあ! 何しやがんでぇ、クソゆーじ!』
すとん、としなやかな影が椅子の背に飛び上がった。長い尻尾がひゅうんとしなる。
次の瞬間、漆黒の前足が絶妙の猫パンチを叩き込み、さっと引っ込んだ。
「く、くわぁ……」
形勢不利と見てとって、カラスはこそこそとサクヤの背後に潜り込む。羽根があったかい。くすぐったい。
思わずくすっと笑ってから、サクヤはびっくり目を見開いた。確かにクロウは人の言葉をしゃべる事ができるし、意味もわかってる。でも、さっきのは違ってた!
「いま……」
「ん、どうした?」
「しゃべってた?」
「ああ」
裕二さんは事も無げにうなずき、猫の頭を撫でた。
「長い付き合いだからな」
穏やかな声が。眼差しが教えてくれた。それは、この人にとっては特別なことではない。普通のことなのだと
(動物と話せるのは、自分だけじゃなかった)
(ここでは、隠す必要、ないんだ……)
ほわっとほほ笑むと、サクヤはクッキーを手にとり、ぽふっと口に入れたのだった。
(よかった、サクヤくん)
甥っ子がクッキーをかじり、紅茶を飲む姿を見ながら羊司もほっとしていた。
羊子が留学してから一ヶ月。サクヤくんはしょんぼりして元気がなかった。見た目は変わらないが、生まれた時から一緒に暮らしている家族なのだ。些細な変化もよくわかる。
元々口数の多い子ではなかったが、最近ではほとんど人間と話さなくなってしまった。
(本当に久しぶりに、家族以外の人と話してる。思い切ってつれてきて良かった……)
※
月曜日、家に帰ると郵便受けにハガキが入っていた。
触っただけでわかる。よーこちゃんからだ!
初めて一人でサンフランシスコの町にお出かけした、と書かれていた。ホットドッグを買いに行く途中で、お巡りさんと話した。金髪に緑の瞳の男の人だった、と。
『お巡りさんに会うのは初めてじゃなかったんだけど。もう、何回も君何歳、一人で何やってんのって質問されてきたけれど。この金髪のお巡りさんは、ちゃんと大人扱いしてくれました』
『若いのに、しっかりした人です』
相変わらず外見で苦労してるらしい。向こうの高校には制服がないから、尚更だろう。
夕飯の後、返事を書いた。
『日曜日に、おじさんの先生の家に行きました。黒い猫とカラスがいました』
『カラスはすごくおしゃべりで、物まねが得意でした』
『先生のお孫さんで、高校生ぐらいのお兄さんがいて、クッキーをごちそしてくれました』
………また行ってみようかな。
迷ったけれど、結局書かずに手紙を結んだ。
『それではお元気で。 サクヤ』
(留守番サクヤちゃん/了)
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