▼ 【5-3-6】食卓のはじまり
その日、レオンハルト・ローゼンベルクは肉の焼ける香ばしいにおいで目を覚ました。
眠りから覚醒に至る直前の、あたたかな乳白色の海を漂いながら意識の片隅で考えた。
(何が焼けているんだろう?)
ほわほわと記憶の泡が浮かんでくる。屋敷の食堂で、銀の器から白磁の皿に、うやうやしくアレックスがとりわけてくれたベーコンと卵。薄切りを2切れ、半熟のオムレツをきっちり卵一つ分。こんがりと焼いたトーストに紅茶を添えて……。
がいん!
金属と金属のぶつかるやかましい音に、いきなり意識が引き上げられる。過去から今へ、眠りの海から覚醒の岸辺へ。
ぱちりと目を開ける。
キッチンで大動物の動く気配がした。ベッドの上に身を起こし、寝起きの目を細めて凝視すると……
(何をやってるんだ、あいつ)
マクラウドだ。首をすくめて今、まさに、おそるおそるこちらを振り返った所。皴の寄った眉根を起点に、眉毛が顔の外側に向かってきゅうっと下りのラインを描いている。
「ごめん、起こしちゃったか?」
見ればわかるだろうに。何故、わざわざ聞く。憮然として言い返す。
「……何してる」
「ベーコン焼いてる」
手に持ったフライパンには長いベーコンが四枚乗っかっている。表面は赤く焼け、じゅうじゅうと油のはぜる音が聞こえてきた。なるほど、においの出所はあそこか。
「何枚食う?」
「何故、聞く」
ぱちくりとまばたきした。ヘーゼルブラウンの瞳が瞼に隠れ、また表れる。
「一人分作るのも、二人分作るのも同じだから」
なるほど。
ついぞ使った事のない、部屋に備え付けのオーブントースターが赤く光っていた。余熱しているらしい。シンクの台には、明るいベージュ色の殻の卵が二個、転がっている。
卵とベーコン、そしてトースト。見た所、食堂の食事よりずっとシンプルだ。だがベーコンはアレックスが焼いてくれたものより、長い。
「一枚でいい」
「OK!」
ぼんやりした頭でバスルームに入り、歯を磨く。ミントの香りに刺激され、徐々に思考がはっきりして来た。
(あいつ、何だっていきなり朝食なんか作り始めたんだろう?)
顔を洗い、着替えを終える頃には、キッチンテーブルの上の皿にはスクランブルエッグが載っていた。正直、ちょっと意外だった。ゆで卵か、せいぜい目玉焼きだろうと思っていたのに。しかもぷるっとしていて鮮やかな黄色をしてる。
目の前で得意げな顔をしているこのガサツな野生児が作ったとは、にわかには信じられなかった。
「トースト何枚食う?」
見せられた食パンは、レオンの基準からすればかなり分厚かった。
「半分でいい」
「OK! お前小食だなー」
「君に比べればね……場所を空けてもらえるか?」
「うん」
狭い台所ですれ違うと、鍋のヤカンに水を汲んでコンロにかけた。
パンを食べるには、飲み物が必要だ。マクラウドは牛乳で充分だと考えているようだが、自分はそれでは物足りない。
「トーストにマーガリン塗るか?」
「いや、そのままでいい」
※
「できたぞ! さめないうちに食え!」
小さなキッチンテーブルに、机の椅子を持ってきて向かい合って座った。
こんな風に正面から向かい合うのは始めてだった。今まで食後の紅茶を飲む時は、それぞれの机に座って飲んでいたからだ。(ディフはたまにベッドの上)
だけど今日は紅茶だけじゃない。
白い丸い皿の上には、カリカリに焼いたベーコンと、黄色いスクランブルエッグ。
レオンの分はベーコン一枚、厚切りトースト半分、スクランブルエッグの味付けは塩とコショウのみ。
ディフの分はベーコン二枚に、マーガリンを塗った厚切りトースト一枚と半、スクランブルエッグにはケチャップが追加されている。
「あ」
スクランブルエッグを口に入れると、レオンはほわっと顔をほころばせた。
卵と、牛乳、塩とコショウ。余計なものが入っていない。過度に油ぎってもいない。意外なほど柔らかく、ふんわりしていた。
「……どうした?」
どぎまぎしながらディフがたずねる。
最初は目玉焼きにする予定だった。だけど、どうひっくり返していいのかわからなくて、結局こうなった。
でもスクランブルエッグは得意なんだ。何てったって8才の時から作ってるんだから。
初めのうちこそ失敗して、パサパサのパリパリにしてしまったが今はそんな事は滅多にない。
目を大きく開いて、すはー、すはーっと鼻息で自分の前髪を吹き上げながら首を傾げる。
期待と不安でアドレナリンをぶいぶい分泌する赤毛のルームメイトの目の前で、レオンは……
「君は、料理が上手いんだな」
明るい褐色の目を細め、頬の緊張を解いた。唇がゆるやかに、優しい上向きの曲線を描く。
(笑った!)
(レオンが笑った! 初めて笑ったー!)
不安から一転、ディフの頭の中にぱあっと花が咲き乱れた。白い花びらに囲まれた黄色い花糸。マーガレットの花が一面に。
(うわー、うわー、うわー、レオン、さいっこーに、可愛い! さいっこーにきれいだ!)
(どうしよう。すっげえ嬉しい。全力で走り回りたい気分だ!)
目鼻の周りに散ったそばかすをくっきりと浮かび上がらせ、ディフは顔いっぱいに笑っていた。
頬を赤くして、目尻を下げ、白い歯を見せて、文字通りパワー全開で。
生えていたら絶対、しっぽも振っているだろう。目にも止まらぬ早さでぶんぶんと。
それは、レオンハルト・ローゼンベルクが生まれて初めて返された、純粋で無垢な『喜び』だった。
自らの言葉が。表情の変化が呼び起こしたとは、露ほども知らぬままに。
「また、作るよ!」
※
こうして『食卓』が始まった。
最初はたった二人きり。聖ガブリエル寮の三階、突き当たりの角の部屋で。
トーストと、スクランブルエッグとベーコン、ストレートの紅茶を添えて……。
後に『家族の食卓』に至る道のりの、小さな、最初の一歩。
(Tea for two/了)
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