ようこそゲストさん

ローゼンベルク家の食卓

コーヒーゾンビのささやかな幸せ

2010/11/06 17:00 短編十海
  • 拍手お礼用短編の再録。
  • 2007年3月、ひな祭りの後の出来事。オティアからヒウェルへのささやかな贈り物。
 
 三月に入り、振り払っても振り払ってもまとわりついていた重苦しい鉛色の霧がやっと晴れた。
 ようやく意識がクリアになって、ふと気付くと……ヒウェルがゾンビになっていた。別に珍しいことじゃない。締め切り前の定例行事だが、今回はゾンビ期間がやたらと長い。

「ランチとる間、場所貸してくれ……」

 スターバックスの昼時の混雑にもまれただけで、ほぼ力尽きたらしい。ぼろぼろになった眼鏡ゾンビは事務所に入るなりソファの上に崩れ落ちた。
 オティアがちらりと目を向けて、何事もなかったようにファイルの整理に戻る。
 ここ数日、シエンのコンディションはだいぶ良くなってきた。お陰でオティアも在宅勤務の傍ら、事務所に顔を出せるようになった。家との行き来には、クリスマスにレオンから贈られた自転車を使っている。いい傾向だ。運動不足の解消にもなるし、オーレも気に入ってるらしい。
 正式に町中で自転車に乗るのは初めてだと言うので、初日の前にみっちり交通ルールを教え込んだ。猫を頭の上に乗せて走るのは危険だからやめとけ、せめてカゴにしろ。暗くなったら即点灯、自転車便のメッセンジャーの真似はするな、等々。

「……ぼろぼろだな、ヒウェル」
「うん、ぼろぼろ。締め切り直前に、うっかり爆睡しちまってさ……目が覚めたら、携帯に着信記録がたまってるし、ファックスが山になってるし、パソコンのメールがもう、すごい事になっていて………」
「仕上げにジョーイがドアの外でにっこり、ってか?」
「いや、今回の担当はトリッシュ」
「ああ……そりゃ厳しいな……」

 敏腕編集者トリッシュはレイモンドの恋人だ。彼氏の前ではキュートに恥じらう恋する乙女。だが仕事となると容赦はしない。相手がヒウェルならなおさらだ。

「もー前の仕事の締め切りぶっちぎって書いてるうちに、次の仕事が入ってきちゃった、みたいな?」

 しょぼしょぼ目を細め、背中を丸めて紙コップからコーヒーをすすっている。

 ず、ず、ず、ずぅじゅいいいいい。

 不気味に響く音を聞いていると、もはやこいつの飲んでるのが本当にコーヒーなのかどうかすら疑わしくなってくる。

 ずごごご、じゅびび、じゅるっ。

「んじゃ、俺、そろそろ行くわ。この後取材一件入ってるから」
「大丈夫か?」
「あー、うん多分……夕飯までには帰るから」

 オティアがファイルを繰る手を止めて顔を上げる。ドアの所でヒウェルが立ち止まり、振り向いた。ほんの一瞬、紫の瞳と眼鏡の奥の琥珀色の瞳が重なる。

「じゃあ……な」

 コーヒーゾンビの顔に生気が蘇り、微笑らしきものが浮かんだ。ひらひらと手を振ると、ヒウェルはドアを開けて出て行った。相変わらず姿勢が悪い。しかも明らかに足取りがよれている。膝に力が入ってないな、ありゃ。

 ふと見ると、スターバックスの紙コップがテーブルの上に置き去りにされている。
 あいつ、相当参ってるな……。
 白地に緑の丸いロゴ。サイズはヴェンティ、最大級。もちろんミルクもソイミルクも入っていない。オティアが手を伸ばして持ち上げ、軽く左右に振った。ほとんど音はしない。
 なるほど、もう飲み尽くして空っぽだから執着しなかったんだな。

 オティアは紙コップを持ってとことこと簡易キッチンに歩いて行く。プラスチックの蓋を紙製の本体から外し、分別してゴミ箱に入れようとして……動きが止まった。

「どうした?」
「………」

 黙ってカップをこっちに向けた。近づき、のぞきこむ。強烈なカフェインの臭気が顔面を直撃した。
 どろりとした黒い液体がカップの底にとぐろを巻いている。俺の基準からすればあり得ない濃度だ。信じられない密度だ。一体、エスプレッソを何ショット追加したんだ、ヒウェル!

「……あいつ、こんなの飲んでるのか」

 オーレが眉間に皺をよせて口を開け、耳を伏せてと、と、と、と後ずさる。
 オティアは猛烈な勢いで蛇口をひねり、危険な黒い液体を洗い流したがそれでも臭いは抜けない。ばたばたと窓を開けて空気を入れ替えた。
 すぐ下の通りをよれよれと歩いて行く眼鏡ゾンビの後ろ姿がちらりと見えた。

 やれやれ。
 無事に取材先にたどり着けるんだろうか?
 肩をすくめてデスクに戻ると……オティアが広げた新聞を手に取り、何やら真剣な表情で一ヶ所を睨んでいる。

「どうした?」
「ん……」

 まさか、悩み相談のコーナーでも読んでるんじゃあるまいな?
 のぞきこむと、とある記事をとん、と指さした。

「カフェインの常用とその依存性……か」
「ん」

 即座にヒウェルの顔が浮かぶ。この子もそうだったんだろう。
 居住まいを正してじっくり読んでみる。
 カフェインを常用していると、体が刺激に慣れてしまい、次第に効かなくなってくる。飲んでも効果がないから、さらに濃いコーヒーを飲むようになり、回数も増える。だが実際にはカフェインによる覚醒効果は着実に薄れている。
 口にした時の味や香り、コーヒーを『飲む』と言う行為で効いた気になっているだけなのだ、と。
 
「これは……ヤバいな」
「カフェインの致死量は成人で5〜10g、コーヒーはおおよそ一杯で100mg」
「むぅ」

 拳を軽くにぎり、口元に当てる。室内には、未だにヒウェルの飲み残しの強烈な臭気が居座っていた。

「あいつの『一杯』は、100mgどころじゃないな……量も、密度も」
「コーヒー依存症でも死にはしない、問題は……」
「カフェインか」

 こくっとうなずいた。

「牛乳や砂糖を加えて胃壁を保護するのが望ましい、とある。ブラックは避けた方がいいと」
「……ないな」
「ないな」

 しばし沈黙。そう言えば猫背ってのは無意識に内蔵を。胃をかばう動作なんだよな………。
 今んとこ、夕飯はちゃんと家で食ってるが、朝と昼はどうなってるんだ、あいつ。今日だって、ランチタイムと言いつつコーヒーしか飲んでいなかった。

「ディフ」
「何だ?」
「飲んで効いた気になっているだけなら、中味がどうでも関係ない気がする」
「プラシーボか。ふむ、試してみる価値はあるな」
 
 
 ※ ※ ※ ※ 


「……はっ」

 いかんいかん。キーボード打ちながらマジで寝ていた。画面上には意味不明な記号が並んでいる

 割とよくある話だが、メンズランジエリーの取材に行っただけのはずだったのに、現場についてみたら何故か『体験取材』になっていた。

「ハロー、Mr.メイリール! トリッシュから話は聞いてるわ。今回のアナタの獲物はこれよ!」

 大柄でゴージャスな美人店主、Ms.ドールが見立ててくれたのは、イチゴ模様のキャミソールとショーツと………ブラジャーのセットだった。

「えっと、あの、こ、これは……」
「うちの一番の売れ筋商品なの。日本からの直輸入品よ!」
「はあ……日本の下着メーカーは優秀だそうですし……」

 どんどんセリフが棒読みになって行く。背筋にたらりとしたたる汗を無視して、かろうじて笑顔は崩さなかった自分を褒めてやりたい。

「欲しいと言うことはね、必要なことなのよ。試してごらんなさいな。優しい気分になれるわよ!」

 有無を言わさぬ笑顔と迫力満点のウィンクに抗う気力は、既になかった。押し付けられたランジェリーを手に否応なく更衣室に追い込まれ、試着を試みたが、後ろのホックに手が届かない!
 揚げ句の果てに自分から助けを求め、店長にきちんと着せていただくと言う体たらく。
 ちっくっしょお、ジョーイめ。こいつはいったいどんな羞恥プレイだ!

『君以外に適任者はいないよ!』とか何とか調子のいい事言いやがって。俺以外のライターは、全員ばっくれたんだな? そうなんだな? 

(賢明な判断だ)

 何つーか、こう………どっと疲れた。精神的にも、肉体的にも。

「………一杯やるか」

 椅子から立ち上がった瞬間、ぐらぐらっと世界が揺れた。

「おっと」

 かろうじて壁に手をつき、転倒を免れる。やばいなあ。視界がぐーるぐる回ってる。
 ってか焦点が微妙に合わない。文字が見えているのに、読めないし。写真を見ても、絵を見ても、図形が図形として認識できてないよ。これは、もしかして、かなりやばいんじゃないか?

 台所までの距離がひどく長く感じられる。
 がんばれ、ヒウェル。もう少しだ。コーヒー豆さえセットして、後は水入れてスイッチいれれば機械が全部やってくれるんだ。今、一番必要なもの……かぐわしいカフェインが飲めるんだ。

 コーヒー豆をストックしている缶を開ける。なんか妙に軽いな、でもあと一回分ぐらいはあったろう。えい、くそ、指にうまく力が入らない。こう言う時は、優秀な機密性が恨めしいぜ。

「っせいっ」

 がっぱん、と缶が開く。
 何てこったい! 空っぽじゃねえか……。

 あー、そう言えば切れてたんだよな……スタバに行ったついでに補給しとこうと思って……忘れてた……。
 がくり、と力が抜ける。もう一度出かける気力はないし。しゃあない、飯食いに行く時に、ディフんとこで分けてもらおう……。
 しかし、飲めないとなると余計飲みたくなるよなぁ。
 よれよれとデスクに戻る途中で呼び鈴が鳴った。一瞬、びっくんと心臓がすくみあがる。まさかトリッシュ、取り立てに来たかっ?

 いや、いや、落ち着け。
 彼女は滅多に直接は来ない。既にその『滅多に』な状況になってる気がするが……
 また、呼び鈴が鳴った。

「……いないのか?」

 オティア!

「いるいる、います、いるから!」

 一足飛びに玄関にすっ飛んで行き、ドアを開けた。

「……やあ」
「……どけ」

 両手に何やら抱えている。言われるまま、道を開けると、とことことまっすぐに入ってきた。

「え、な、何? 何か用?」
「用があるから来た」

 抱えているのは袋が二つ。しかも、すごくいいにおいがする……。片方は甘くて、もう片方は……。

(こ、これはもしかしてっ?)

 ああ、これはもしかして夢じゃないのか。今、この瞬間、俺が咽から手がでるほど欲しがってるアレの香りがするじゃないかっ!
 ぱっかん、とオティアはコーヒー缶を開けて、袋の封を切り、中味を注ぎ込んだ。サラサラサラリと軽やかな音が響く。
 まちがいない。
 こいつは……

 コーヒーだ!

 さらに、奇跡は続いた。コーヒーメーカーに粉をセットして水を入れて、かちりとスイッチを入れている。
 ごぼごぼ、がぼっと蒸気が上がり、褐色の雫が。天上の甘露が、ぽとぽとと滴り落ちる。

「……さんきゅ。豆、ちょうど切れてたから……助かった」
「ん」

 コーヒー豆の袋をきちんとたたみ、続いてもう一つの紙袋をあける。バターと小麦粉の焼けるにおい。貝殻の形のきつね色の焼き菓子が転がりでた。

「あ……マドレーヌ」
「アレックスが焼いた」
「そ、そうか」
「皿、借りるぞ」
「あ、うん、食器棚にあるから」

 かちゃかちゃっと引き出し、マドレーヌを並べた。ほぼ同じタイミングでがぼっとお湯が吹き上がり、コーヒーメーカーが止まった。

「……カップはこれでいいんだな?」
「うん」

 赤いグリフォンのカップをざっと水でゆすぎ、たぱたぱとコーヒーを注いでいる。
 ああ神様、これが夢なら覚めないでくれ!

 オティアが。あのオティアが俺のためにコーヒーを入れてくれた。カップに注いでくれた。マドレーヌを皿に盛ってくれた!
 しかもテーブルの上に、マグカップと皿を並べてるじゃないか!

「オティア……」
「冷めないうちに、食え」
「あ、うん……ありがとう」

 一緒に食べてかないか? 声をかけるより早く、オティアはくるりと背を向けて。

「じゃあな」

 きちんと袋をたたみ、すたすたと出ていった。

「………」

 ばたん、とドアが閉まる。
 ふるふると震える手でカップを持ち上げる。うん、あったかい。夢じゃない、現実だ。おそるおそるすすってみる。
 熱い。苦い。心地よい。
 ほんの少しねっとりとしたコーヒーの香りが、口から咽、胃袋へと流れ落ちる。

「嗚呼……美味いなあ………」

 ふはーっと吐きだす。胃袋があったまると、何だ急に腹が減った。ばくばくとマドレーヌを食う。むせそうになって、またコーヒーを飲む。苦いのと、甘いのが交じり合ってさらに食欲がそそられる。
 あっと言う間に食べ切っていた。そう言えばしばらく、固形物食ってなかったなあ……昨日の夕飯食って以来。

  
 残りのコーヒーは、時間をかけて少しずつ飲んだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ただいま」
「お帰り。ご苦労」
「……んむ」
「袋、回収してきたか?」
「うん」
「OK、完璧だ」

 例の新聞記事を読んだ後、ディフがディカフェ(カフェイン除去ずみ)のコーヒーを買ってきた。
 
「これをあいつの缶に入れてこい。袋見られるとバレるから、持ち帰れ」
「わかった」

 ちょうどアレックスの焼いてくれたマドレーヌが届いた所だった。あの記事には空きっ腹にコーヒーを飲むより何か胃に入れた方がいいと書いてあった。ついでだから持って行くことにする。
 コーヒー豆を缶に入れて、一回分入れて飲ませてしまった。

 銘柄はいつもと同じだが、ディカフェだ。味も香りもすっかり同じではないだろう。人から勧められれば、多少の違和感には気付かないものだ。しかも、タイミングよくコーヒーのストックが切れていた。今ごろ、何も考えずに飲んでいるはずだ。

「オティア。紅茶とコーヒーと緑茶、どっちがいい?」
「……紅茶」
「OK」

 まくっと焼き立てのマドレーヌをかじり、熱い紅茶をすすると、オティアはほっと息をついた。
 
 デカフェのカフェイン含量は、通常のコーヒー豆中の0.2%以下。これで、少しは体への負担が軽減されるはずだ。
 あいつからもらった「探偵セット」はけっこう楽しめた。だいぶ間があいたけれど、これぐらいのお返しはしてもいいだろう。

(コーヒーゾンビのささやかな幸せ/了)

次へ→サリー先生のわすれもの
拍手する