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ローゼンベルク家の食卓

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2010年11月の日記

【4-21】テイクアウトpart1

2010/11/06 16:40 四話十海
  • 2007年、3月から5月にかけてのエピソード。
  • シエンとエリックは一度離れてしまった絆をもう一度、繋いでゆく。季節の移ろいとともに、ゆるやかに。糸が切れてばらばらになったビーズを一粒ずつ、新たな糸に通すように。
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【4-21-0】登場人物

2010/11/06 16:42 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
 
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【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 人との接触を恐れ、家から出られなくなっていたが、家族の愛情に支えられ、閉ざされた心の扉を開いた。
 エリックの呼び声を聞くたびに、少しずつ繭の外へと歩み出す。
 
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【エリック/Hans-Eric-Svensson】 
 シスコ市警の科学捜査官。ディフの警官時代の後輩、24歳。
 ライトブロンド、瞳は青緑色、身長186cm。
 金属フレームの眼鏡着用。好物はエビ。
 デンマーク人の祖父を持つバイキングの末裔。寒さにも極めて強い。
 少し困ったような顔でほほ笑む金髪の少年にぞっこん参ってる。
 会いたい、けれど傷つけるのが怖い。
 それでも会いたいから、呼びかける。決して、あきらめない。
 
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【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 外見はほぼシエンと同じ。飼い猫のオーレはエドワーズ古書店の猫、リズの娘。
 ヒウェルへの突っ込みは容赦無いが、マメに世話を焼く一面も。
 ずっとシエンと二人だけで生きてきた。互いを唯一の存在として。
 内に秘めた思いと願いは言葉を介せずとも伝わる。
 だから、動く。時には自分が気付くよりも早く、強く。
 
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【オーレ/Oule】
 四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
 白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
 最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
 趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
 日々性格が「女王様」化しつつある。
 得意技は跳び蹴り、標的は言わずと知れたへたれ眼鏡。
 
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【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン、弁護士、27歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 爽やかな笑顔の裏で実はかなりの激情家。嫁に近づく不埒な輩には容赦無い。
 
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【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。大きな温かな翼を広げて迷い子を包み込む。
 
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【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 職業はフリーのジャーナリスト。黒髪にアンバーアイ、ひょろ長猫背の不健康大王。
 レオンの後輩でディフとは高校時代からの友人。腹を割って話し合える間柄。
 オティアにぞっこん参ってるへたれ眼鏡。
 特技は『いらんひと言で痛い目を見る』こと。
 締め切り明けはゾンビ。カニが怖い。とにかく怖い。
 
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【エドワード・エヴェン・エドワーズ/Edward-Even-Edwars】
 通称EEE、英国生まれ、カリフォルニア育ち。
 濃いめの金髪にライムグリーンの瞳。
 元サンフランシスコ市警察の内勤巡査でディフとレオンの友人。
 現在は父親から受け継いだ古書店の店主。やや引きこもり気味。
 飼い猫のリズは家族であり、よき相談相手。
 若い頃は相当にやんちゃをしていた。
 サリー先生のことが何かと気になるものの、バツイチな自分に今ひとつ自信の持てない36歳。
 
【リズ】
 本名エリザベス。
 真っ白で瞳はブルー、手足と尻尾に薄い茶色の混じるほっそりした美人猫。
 エドワーズ古書店の本を代々ネズミから守ってきた由緒正しい書店猫で、エドワーズのよき相談相手。
 6匹の子猫がいるが、それぞれもらわれて行った。
 末娘のオーレはオティアの元へ。
  
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【ディーン/Dean-Owen】
 ソフィアの息子。アレックスは義父にあたる。
 鳶色の髪に濃い茶色の瞳、物怖じしない3歳児。
 猫好きだけど、なかなかオーレに近づいてもらえない。

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【テリオス・ノースウッド】
 通称テリー。熱血系おにいちゃん。
 栗色の髪にターコイズブルーの瞳。
 獣医学部の大学院生、専門はイヌ科。
 サリーの大学の友人だが周りからは彼氏と思われているらしい。
 基本的に面倒見が良く、女の子に甘い。
 早くに両親を亡くして里親の元で育ったため、血のつながらない兄弟や姉妹が大勢いる。
 
【ビリー】
 双子の中学の同級生。
 親に虐待され、里子に出される。
 行き場を見失い、かつてはシエンと一緒に夜の街をさまよっていた。
 テリーと一緒にドッグシッターのバイトをしている。
 
【サンダー】
 レオンベルガー犬の血を引く真っ黒な子犬。
 ランドール社長はボス、テリー先生は恩人、ビリーはおれのこぶん。
 
illustrated by Kasuri
 
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【4-21-1】三月のバイキング

2010/11/06 16:45 四話十海
 
「ああ……いい天気だな」
 
 見上げた青空を背景に、羽音を響かせ、ぷーんと虫が横切ってゆく。あれがミツバチなら良かったのに……せめてアブ。だけどあいにくそうじゃない。あれはハエ。まちがいなくハエ。どこから見てもハエ。

 枝の先でレモンがそのままシャーベットになりそうな寒気もようやくやわらぎ、久しぶりにコートも手袋も無しで出かけたくなるような土曜日の午後。ぽかぽかとあたたかい陽射しを浴びて、エリックはたたずんでいた……
 ごみ捨て場のまっただ中に。
 
 逃げ場に詰まった犯人が、殺人の凶器をとんでもない場所に放り込んでくれたのだ。食べ残しのピザとかポテト、カニの殻、コーヒーの紙コップ、その他ありとあらゆる週末のお楽しみの残骸をぶち込んだゴミ用コンテナの中に。
 小型のナイフやアイスピックの類いでないのは幸いだった。ショットガンなら探すのは(比較的)楽なはずだ。何てったってサイズが21インチ(約53センチメートル)もあるんだから……銃身がカットオフされてないと想定しての話。
 この見渡す限りの悪臭を放つ汚物の山も、元は万全の衛生管理の下に作られて、歓声と笑顔と共に迎え入れられた物なんだな、と思うと空しいような、寂しいような、何ともやるせない気持ちになってくる。
 今、足下のブーツの下でねちょっとつぶれたのは何だろう。ガムかな。溶けたキャンディ、それともキャラメル入りのカップケーキかな?
 マスクを通して流れ込んでくる悪臭は、幸い最初ほどは強烈には感じなくなってきた。それでも上には上があるもので、たまに掘り返した所からぶわっと押し寄せる腐臭に何度か咽の奥に酸っぱい物が込み上げた。

 気温と生ものの発酵する熱で、ゴミ用コンテナの中にはサウナ並の熱気が充満している。機密性抜群の汚染防護服の中は、レンジで加熱中の冷凍食品といい勝負。密封されたパッケージの中で蒸し煮にされて、汗がどぼどぼ湧いて出る。首筋、手首、足首を伝い落ち、乾いて白い粒になる。
 汚れ防止用のゴーグルはもちろん、その下につけた眼鏡もさっきから曇っているが、ここで外して拭いたらどんなに悲惨な結果が待っているか……。うつむいて、足下のゴミに手をつっこむ。曇ったレンズに汗の玉がこぼれ落ちる。
 曇りが洗い落とされ、歪んではいるがとりあえず見えるようになった。よし、問題無し。

 ぐしゃ、ぐしゃりとピザの空き箱や、テイクアウトの中華のパッケージをかき分けていると、ころりと白い紙コップが転がり出してきた。表面に印刷された緑色の丸の中に、黒地に白抜きで人魚がプリントされている。

「あ……」

 とくん、と心臓が揺れた。スターバックスの紙コップだ。
 ちょっぴりくすんだサンドブロンドの髪に紫の瞳。ほほ笑んでいても、いつも困ったような表情が抜けなかった。眉の辺りに、口元に辺りに、ほのかにまとわりついて消えなくて……。何を聞いても、話しても、どこか薄い殻が挟まっているようで。それがもどかしくもあり、くすぐったくもあった。皮肉なことに、彼の『ほんとうの顔』に触れたのは二月のあの時が初めてだった。
 雨の中、飛び出す直前のやりとりが脳裏に蘇る。

『………これ、返す』
『もう、会わない』
『ごめんなさい……』
『本当に………ただ偶然ここで会って………友達になれたらよかったね』

 また会いたいと伝えた。返事はもらえなかったけど、名前を呼んでくれた。会えずに居る間にただでさえ長くはない二月は駆け足で過ぎ去り、とうとう月が変わってしまった。

「はぁ……」

 深いため息がこぼれる。
 すぐそばで作業をしていたキャンベルは、バイキングの末裔が世にも不景気な顔でどんよりとうなだれるのを目撃した。
 気持ちはわかる。誰だってこんなよく晴れた週末に、ゴミ箱漁りなんかしたくはない。だが、それが仕事なのだ。

「ほぉら、しっかりしろ、エリック!」

 とん、と軽く背中をどやしつける。そう、あくまで軽く。だが、物思いにふけっていたエリックは完全に不意をつかれた。
 ひょろ長い背中が、ぐらぁりと傾く。バランスを崩してそのまま、べしゃあっとうつぶせにゴミの山に突っ伏した。

「……あ」
「……………ごめん」

 ようやく正気に戻って焦点を結んだ視線の先に、にょっきりとハンドルのような物が突きだしていた。

「……あった」
「何」

 ゴミ山から突きだしたハンドルに手をかけ、ずぼっと引っこ抜く。さながら王の剣のように。

「あったぁ!」
「でかした、エリック!」

 二時間に及ぶ苦難と悪臭に満ちた捜索は実を結び、ゴミまみれのエリックは同僚達からとても感謝された。
 しかし、それと染みついた臭気とは当然のことながらまた別の問題だったりする訳で。帰りの道中はまだ良かった。同じ車内に乗ってる人間は、全員、コンテナの中をはいずり回ったゴミ仲間だから。いい加減、鼻がマヒしていたし自分も相手も同じくらい臭うと分かっているから文句も言わない。
 だが署に戻ればすれ違う人は皆露骨に顔をしかめて逃げ出し、至るところで消臭スプレーをまき散らされた。
 廊下を歩けば行き交う人々が左右にさーっと分かれて道を開ける。モーセに導かれる気分を味わいつつ、無言のうちに捜査班一同はシャワー室に直行し、速やかに強力な殺菌石けんと熱いお湯の洗礼を受けた。

「ふぅ……」

 歯を磨き、顔も手足もまんべんなく洗い、服も着替えて、ようやく清々しい気分を取り戻す。乾いた衣服と清浄な空気のありがたみをかみしめつつ、エリックは休憩室に向かった。
 何度もうがいをしたはずなんだけど、まだ咽や鼻の奥にゴミの臭いが居座ってる気がする。
 タバコをたしなむ署員は猛烈な勢いでタバコを吹かしていたけれど、あいにくと自分にはその手は使えない。
 早いとこコーヒーを流し込んで、洗い流そう。
 途中、ふさふさの黒い生き物が廊下に座っていた。ロングコートのシェパード、警察犬のヒューイだ。よくしたものでハンドラーが自動販売機で買い物をしている間、きちんと座って待っている。

「やあ、ヒューイ」

 長い顔を上げて、ぱたぱたとしっぽを振った。撫でようと手を伸ばすと、湿った鼻を近づけてくん、くん、とにおいをかがれる。

「あ……ごめん、まだにおう?」

 くんくん、くんくんくん、くんくんくん。
 手の甲に鼻がぺたぺた当たるほど、ものすごく真剣に嗅がれている。

「えっと……ヒューイ?」
「…………」

 耳を伏せ、じと目でにらまれた。と思ったら、ぷいっと後ろを向いてしまった。生ゴミと殺菌石けんのコラボがお気に召さなかったらしい。

「振られちゃった……か」

 ため息をついて休憩室に入る。コーヒーを入れて湯を沸かし、備蓄していたスープヌードル(カップラーメン)を一個取り出した。封を切ると、乾燥した麺の上に小指の爪先よりまだ小さな、くるっと丸まったシーフードが入っている。
 ちっぽけだけど、エビが入ってるからちょっと嬉しい。
 お湯を注いで待つこと三分。その間に携帯を確認してみた。
 メールも無し。着信も無し。いつもと同じだ。ため息一つついてフォークを取り、できあがったヌードルをすすった。

(勤務明けたら、センパイの事務所にいってみよーかな。でも、誰も居なかったら……気まずいなー……ってゆーか今日は土曜日じゃないか)

 事務所は休みだ。
 あの人が一人で切り盛りしていた頃は、日曜だろうと土曜日だろうと、仕事のある時は深夜まで開いていたのだけれど。
 今はもう、違う。
 ずぞ、と最後の一口をすする。勢いの割に麺が短かかった。びしっと端っこが口に当たり、汁が眼鏡に跳ねる。

「あー……あ」

 背中を丸めてもそもそとペーパーナプキンでレンズを拭う。
 だめだ。油をたっぷり含んだスープの染みは、拭いてもかえって広がるばかり。仕方なく外してシンクで洗剤をつけて洗っていると、キャンベルが顔を出した。

「エリック」
「やあキャンベル」
「主任が回収してきた銃の分析はまだか、ってさ」
「……そう」

 せっかく洗ったばかりなんだけど、もう一度アレに触らなきゃいけないのか……気が重い。
 眼鏡の水気をふき取り、顔に乗せる。
 OK、視界はクリアだ。問題無し。だけど気持ちは、クリアとはほど遠い。

「わかった、すぐ行くよ」
 
 携帯をポケットに押し込み、部屋を出た。
 
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【4-21-2】レモンで洗え

2010/11/06 16:47 四話十海
 
 ラボに戻ってからは脇目もふらずに作業に没頭、全力でゴミに浸かっていたショットガンの分析を終らせた。(あまり長い間接触していたい物体ではなかったし)おかげで、残業はわずか三時間に留まった。夕食はスープヌードル以外のものを口に入れられそうだ。途中で食べるか、デリで何か買ってくか……。家で作ると言う選択肢は早々に除外した。
 外に出ると春の夜の風はふわっと柔らかく、洗いたてのタオルみたいにすっぽりと疲れた体を包んでくれる。だがその後がちょっぴり問題だ。
 吹き抜ける風は体と髪に染みついた生ゴミの残り香を拡散させ、道行く人々の流れをエリックから遠ざける。

(まだ臭ってるんだ……)

 自分では気付かないだけに厄介だ。迷惑をかけるのも申し訳ないし、見知らぬ人とは言え、自分を避ける姿を見るのも何やら心が痛む。さっきの女の人なんか思い切り顔をしかめていた。
 自然と人通りの少ない方、少ない方へと向かう。ふらぁりふらり、ゆらりゆらりと足を運び、ふと気付けば人も車も少ない石畳の道を歩いていた。

「……あれ? オレ、いったいドコにいるんだろう?」

 絵はがきに出てきそうな、昔ながらのこじんまりとした商店街だった。街灯に浮かぶ建物は、ギリシャ風の真ん中がぷっくり膨らんだ柱に支えられた石造り。高層ビルとはほど遠く、二階建てからせいぜい三階建て止まり。すぐそばから美味そうなシーフード料理の香りが漂ってきた。緑とオレンジの壁の小さなレストラン。看板にはエビとカニとアサリが踊っている。思わずふらっと引き寄せられるが、窓から店の中を見てはたと我に返った。

(そうだ、今はオレ、くさいんだ)

 食べ物屋に入るのは甚だ不向き。食事を楽しんでる人たちに不快な思いをさせちゃいけない。後ろ髪を引かれる思いでレストランの前を通り過ぎる。何だかマッチ売りの少女になった気分だ。
 やっぱり店で買って持ち帰った方が賢明だな。パン屋かデリでもないものか。ほどなく前を通りかかった店からは、ほんのりと甘い小麦の焼ける香りが漂ってきた。が、しかし。何と言うことだろう、ちょうどシャッターを降ろしている最中だった!

(……残念)

 空きっ腹を抱えてさらに歩く。からっぽの胃袋がキリキリしてきた。自然と上体が前に傾き、うつむいてしまう。生花の香りの残る赤レンガ造りの建物の前を通り過ぎ(きっと花屋だ)、砂岩造りの建物の前にさしかかる。ここの店はまだ煌々と明かりが灯っていた。何の店なんだろう?
 顔を近づけた窓の向こう側に、白いほっそりとした猫が優雅に座っていた。

(猫の店?)

 青い瞳がこちらを見上げて一声、にゃーと鳴いた。

「あれ? リズ?」
「に」

 窓の向こうにはきちんと整頓された本の壁。上体を起こし、改めて視線を上に向けると……ぴかぴかに磨かれたブロンズの看板が目に入った。

『エドワーズ古書店』

 元同僚、EEEことエドワード・エヴェン・エドワーズの店だ。
 いつの間にこんな所まで来てしまったんだろう? 幸い、まだ店は開いてる。何を買うあてがある訳でもなかったけれど、このまま一人のアパートに帰るのも何やら物寂しい。幸い、他にお客もいないようだし。

 コロロローン……。

 優しく響くドアベルに迎えられて、古い紙と糊、布と革のにおいの溶けた穏やかな空気の中に入って行く。濃い金髪にライムグリーンの瞳、やや面長の男がカウンターに置かれたノートパソコンを叩いている。洗濯され、きちんとアイロンのかかった白いシャツにグレイのズボン、黒地にグレイのストライプのベストを身に着けた姿は、制服を着ていた時とほとんどかわらないレベルの規律正しさを備えていた。
 
「いらっしゃい……おや、エリック」
「ども、こんばんわ、EEE」
「仕事、じゃないようだね。珍しいな」

 最後に会ったのは去年のクリスマス前。教会で起きた事件の捜査中だった。あの時もらったジンジャークッキーは美味かったな……
 いけない、いけない。どうも思考パターンが食べ物に直結してる。

「あー……近くまで来たもんで」
 
 すりっと足下に柔らかな毛皮が忍び寄る。

「にゃあん」
「やあ、リズ」

 優雅にしっぽを巻き付けるリズを抱き上げた。

「あ……あったかいなぁ……ふかふかしてる……」
「みゅ」

 白い背中に顔を埋める。何時間ぶりの温もりだろう……自分以外の生き物の。実家のタイガーもふさふさだけど、もっとコシがあって、硬い。一本一本がしなやかで、ふわふわした綿菓子みたいなリズの手触りとは違う。骨格も。筋肉のつき方も。そして親子だけあって、オーレと同じだった。シエンが料理をしている間、あの小さな王女様のお守りしていた事が懐かしく思い出される。

「……エリック?」
「あ、はい」

 いけない、つい物思いにふけってしまった。

「けっこう遅い時間までやってるんですね」
「仕事帰りに寄る人も多いからね」
「なるほど」
「エリック」
「何でしょう」
「もしかして、ゴミ箱で証拠品を探したのかな」
「…………やっぱにおいます?」
「リズが……ね」

 ひょい、と屈みこんでリズの顔をのぞき込むと……鼻に皺を寄せ、目をすがめて口を半開きにしていた。何て言ってるのかは見ただけでわかる。

『ちょっと、何なの、この臭いはっ』

「……ごめん」
「レモンだよ、エリック。そう言う時は、レモンで洗うんだ」
 
 ※ ※ ※ ※
 
 横に半分に切ったレモンを四個。ザルに入れてバスルームに持ち込んだ。
 淡いクリーム色に紺色をちりばめて、壁と床に星と花を描いた浴室は、造りは古風だが手入れが行き届いている。設備も最新式で使いやすい。熱いお湯をざばざば浴びて、絞ったレモンで髪を洗った。輪切りにしたレモンで手を、足を、胸をまんべんなくこすった。酸っぱい香りがモザイクタイルの花園に満ち、ぴりぴりと咽に染みる。うっかり絞ったばかりの汁が目を直撃し、慌てて洗い流した。

 これぐらい強烈な方がいいんだ、きっと。

 八切れのレモンが搾りかすになるまで洗ってから、ようやくシャワーを止めてタオルに手を伸ばした。借り物なのだ、臭いをしみ込ませる訳にはいかない。
 念入りに浴室の床を湯で流し、もそもそと服を着てリビングに戻った。

「さっぱりしたかな?」
「はい、だいぶスッキリしました。すいません、EEE」
「気にするな」
「にゃ……」

 そろりそろりとリズが近寄ってくる。

「やあ、リズ! もう臭くないよ!」

 かがみこんで手を伸ばす。リズは指先に鼻を寄せておもむろに匂いをかぎ……耳を伏せ、ぴゅーっと逃げていった。

「あ……」

 そうだ、猫は柑橘類が苦手だった。

「……すまん、エリック」
「いえ、お気になさらず」

 ため息をついた拍子に、ぐぎゅうっと派手に腹が鳴った。おや、とエドワーズが首をかしげる。

「夕飯は?」
「あー……食べるのを忘れていました」
「そうじゃないかと、思ったんだ。二人分用意しておいたよ」
「ありがとうございます!」

 壁際のダイニングテーブルの上には、バケットを縦割りにして輪切りのハムとトマトにレタス、アボカドとチーズを挟んだ豪快なサンドイッチが載っていた。二人分、と言うだけあって確かに二つに切り分けられている。
 スープカップに満たされたトマトスープは缶詰めのレトルト。しかしながらさすがイギリス生まれ、紅茶はティーバッグではなく茶葉をポットで4分、濃いめに入れたのを出してくれた。

「ミルクと砂糖はどうする?」
「ストレートでお願いします」
「了解」

 向かい合って大型サンドイッチにがもっとかぶりつく。バケットの皮がぱりぱりとはがれ、口の端からこぼれ落ちる。無言でわっしわっしとサンドイッチを咀嚼するエリックとエドワーズを、ひっそりとリズが見守っていた。自分用の皿に盛られたドライフードをかりかりとかじり、ちろりと口の周りを舐めて。
 独身男が二人そろっても、やっぱり献立は独身男なのだった。

「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
 
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【4-21-3】結局一人ぼっち

2010/11/06 16:50 四話十海
 
 EEEの作ってくれた英国式バケットサンドはとても美味しかった。正直に感想と称賛を口にすると、彼はライムグリーンの瞳を細めて嬉しそうに、そしてちょっぴり残念そうにほほ笑んだ。

「残念ながら英国式には、一味足りない」
「え? 何か秘密の隠し味でも?」
「マーマイトが入っていないんだ」
「マーマレード?」
「マーマイト。ビールの酵母から作ったスプレッドだよ」
「何だか健康によさそうですね」
「うん、とても栄養があるよ。薄めてスープにしてもいい」
「便利そうだな。ミソみたいだ」
「確かに便利な食材だが、味に癖があってね……」

 そう言ってエドワーズは顔を伏せた。

「つい、いつもの癖で入れそうになって」
「ええ」
「リズに止められた」
「………」

 白い猫は既に夕食を終え、優雅に毛繕いをしていた。自分のことが話題に出たのに気付いたのか、顔を挙げて小さく「みゃ」と鳴いた……まるで「その通り」と言わんばかりに。猫の言うことには逆らわないに限る。そのすさまじき味わいは想像するにとどめ、大人しく紅茶を飲んだ。

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 四分蒸しの濃く入れた紅茶はかなりストロングで、熱と苦さがしっかりと体に活を入れてくれた。おかげで来たときとは打って変わった堂々たる足取りでエドワーズ古書店を後にすることができた。しかしながら、やはり紅茶は紅茶、いざとなるとコーヒーが恋しくなってくる。表通りに戻ってから、エリックの足取りは自然と丸い緑の看板へと引き寄せられていた。
 ……なんてのは単なる言い訳だ。
 
 かすかな期待を抱いてドアを潜り、まず店内を見回した。すこしくすんだ金髪と紫の瞳、優しいアースカラーのコートを探した。このひと月余りの日々、何度繰り返したかわからない儀式。だが求める面影は今日も見つからない。
 OK、想定内。だが、きっとハズレだと予測しながらも止めることができない。1%の希望を捨てることができない。

「ソイラテの……トールを一つ、泡多めで」

 紙コップを受け取り、シナモンとハチミツを追加しながらふと思う。いい加減、マイタンブラーを持ち込むべきなんだろうな。余裕で元が取れるくらい、通い続けているもの。
 だがタンブラー持参だと如何にも期待してるみたいで照れ臭いような、じれったいような気分が倍増してしまう。
 あくまで、たまたま立ち寄っただけなんだと言い訳する事ができがなくなってしまう。
 我ながら往生際が悪いよな……その『たまたま』が積み重なって毎日になっているって言うのに。

「……あ」

 物思いにふけっている間に、大量のハチミツが投下されてしまった。糖分は脳を活性化させる。にしても入れ過ぎた。
 ふわふわのソイミルクをすする。比重の関係で過剰に投与されたハチミツは底に沈み、泡の部分は比較的、影響が出ていない。だが下に近づくにつれて次第に甘みが強くなって行く。

『もともと甘いのに足さなくても』
『試してみたくなるじゃない。それに、適度な糖分は脳の活動を促進するし?』

 ああ。何をしてもシエンのことばかり思いだす。いっそ自分からメールなり電話なりすりゃいいんだ。シエンに直接でなきゃ、センパイに!
 衝動に駆られてポケットから携帯を取り出す。開いて、キーに指をかけて………
 指先から力が抜ける。
 だめだ。
 意気地無しめ。結局、怖がってるんだ。
 何が怖い? それもわかっている。考える時間はたっぷりあった。自分からアプローチを仕掛けて、決定的な拒絶を返されるのが恐ろしいのだ。

『元気がないね、エリック。何かあったのかい?』

 サンドイッチをかじりながらさり気なくEEEに聞かれた。彼は観察力に長け、人の機微を見抜くのに優れている。警察官だった時も今も変わらずに。

『仕事が忙しくて。今日なんかこのあったかい中でゴミ箱漁りですよ!』

 ある意味正しい。でも全部ではない。EEEも察したようだった。けれどあえて追求はしてこなかった。ただ食後の紅茶を飲みながら、しみじみと口にしただけ。

『エリック。伝えることを怠ってはいけないよ……言わなくても想いが伝わる、なんて事はただの幻想だ。気付いてないだけなんだ』
『実際には言葉以外の何かでちゃんと伝えようとしているし、相手も読みとろうと必死になっている。だから通じるんだ』
『ほんのひと言。そう、呆れるほど些細なことを言わずにいたために、決定的にすれ違ってしまう場合も……あるんだよ』

 あの時はただの世間話ぐらいにしか思わなかった。だが今、一人になってみると何気ない言葉の一つ一つがしんしんとしみ込んで来る。
 あれは、EEE自身の経験なのだろうか。

(夫として? それとも警察官として?)

 じゅういいいいい、とソイラテをすする。この辺りに来ると、すさまじく甘い。コーヒーを飲んでいるのかハチミツを飲んでいるのかわからなくなってきた。

(もう一杯追加しようかな……ブラックで、スモールサイズで)

 扉が開く。とっさに目を向けてしまう。こんな時間に、シエンが来るはずがないってわかっているのにどうしても見てしまう。

(あれ?)

 入ってきたのは、全くの見知らぬ相手ではなかった。つやつやの黒髪にフレーム大きめの眼鏡。褐色の瞳の優しげな顔立ちの日本人。仕草がたおやかで、それでいて背筋がぴしっと伸びていて、それ故に雑踏の中でも周りからくっきりと面影が際立つ。

「サリー先生だ」

 スモールサイズの紙コップを受け取り、ちょこんとカウンター席に座って隣に荷物を置いた。
 大きめのカボチャほどのサイズと形の布包み。重くないのかな。運ぶの手伝ってあげた方がいいんじゃないかな、あんなにほっそりした華奢な人なんだから……。あ。「ふーっ」とかため息ついてる。やっぱり重いんだな。
 うん、決めた。手伝おう。
 立ち上ろうとした正にその時、一人の青年が現れた。茶色の髪にターコイズブルーの瞳の快活そうな青年が、親しげにサリー先生にほほ笑み、手を振った。

「よ、待たせたな、サリー」
「テリー! ううん、ほとんど今来た所だし」
「じゃ、行くか」

 テリーと呼ばれた青年はごく自然に荷物を運び、二人並んで店を出て行く。

(ああ……そうか、彼を待ってたんだ。友だちかな。それとも、彼氏……かな)

 せっかく知ってる人が来てたのに、挨拶を交わすことさえできなかった。
 取り残された寂しさが呼び水となり、押し殺していた感情がどっと湧きあがる。
 シエンに会いたい。冷えきった紙コップを両手で包む。不覚にも涙が出そうだ。会えないことがこんなに辛いなんて。

 シエンに会いたい。その気持ちは、彼の部屋を後にしたあの瞬間からこれっぽっちも変わらない。時間の経過とともに劣化するどころか、どんどん強くなる。
 だけど、それを伝えることで、シエンにプレッシャーをかけてしまうのではないか。
 また、怯えさせてしまうのではないか。それが、怖いのだ。恐ろしいのだ。

 既に自分は一度、彼に恐怖を与えてしまっている。逃げ出そうと……道路に飛び出そうとしたシエンを捕まえようと、腕をつかんだ時に。振り返った時の怯えた表情が、忘れられない。

 じわっと視界がにじんできた。
 ぱちぱちとまばたきし、眼鏡を外して眉間に手を当てる。今、目が充血しているのは疲れてるだけなのだと自分に言い聞かせる。
 自分は泣いてなんかいない。この涙は寂しさ、哀しさ、悔しさのせいなんかじゃない。
 ささやかな見栄と嘘は、ついたそばから脆くも崩れ落ちる。いっそ人目もはばからず、すすり泣いてしまえばすっきりするかな……

 ぐしゃっと手の中で紙コップが潰れる。無意識のうちに握りつぶしていた。噛みしめていた奥歯がぎしぎしと軋む。
 やぱい、やぱいぞ、自制しろ、エリック。
 深く呼吸して、思い返す。穏やかなライムグリーンの瞳を。母音のきっちりとしたイギリス風の発音を。

『言わなくても想いが伝わる、なんて事はただの幻想だ』

 そうだ。オレはずっと自分に都合のいいファンタジーの中に逃げ込んでいた。シエンのためなんだって、みっともないごまかしを打って。
 伝えなければ、伝わらない。言わなければわからない。

(オレは『言葉以外の何か』で、ちゃんと伝えようとしているだろうか?)

 自分の気持ち。今、この瞬間もシエンに会いたい……その『些細なひと言』を。

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【4-21-4】今日はイースター

2010/11/06 16:51 四話十海
 
 ホット・クロス・バンズ
 ホット・クロス・バンズ

 1つで1ペニー、2つで1ペニー

 ホット・クロス・バンズ

 ディーンが歌いながら部屋の中を跳ね回っている。もこもことズボンに包まれたお尻をふりふり、テーブルの下やソファの後ろ、カーテンの影に潜り込む。動きが止まったな、と思ったらすっくと立ち上り、ほこらしげに右手を掲げて胸を張る。

「あったー!」

 ちっちゃな手のひらには、くっきりしたブルーとピンクのだんだら模様に塗られたイースター・エッグがしっかりと握られていた。レオンとディフ、アレックスとソフィア、そしてヒウェル。見守る大人たちが惜しみなく賞賛の拍手を送る。得意そうに戦利品をバスケットに収めると、ディーンは再び、果敢にクエストに挑んでいった。

 今日は4月8日、イースター。アレックス一家を招いての昼食会、食事の前に「卵探しゲーム」が開催された。
 しましま模様に水玉、顔を描いたり花やハート、ウサギを描いたり。派手に塗られた卵は昔は本物の卵や、卵形のチョコレートが使われていたが、今はプラスチックのカプセルに取って代わっている。中にお菓子や玩具を入れて、大人が隠し、子供が探すのが基本ルール。
 だがオティアはきっぱりと、シエンは遠慮しながらも辞退し、隠す方に回った。

「どこに隠してあるか、すぐわかっちゃうから」
「ああ……」

 探しているのはディーン一人。

 嬢ちゃんがいないのなら、坊ちゃんにあげとくれ

 1つで1ペニー、2つで1ペニー

 ホット・クロス・バンズ

 片手に抱えた黒ウサギのぬいぐるみは、縫製の微妙な歪みのせいでやさぐれているような、にらみ付けているような、とにかく兎相のよろしくない顔つきをしていた。だがディーンはいたってお気に入り。しっかり抱えて一緒になって卵を探している。さらに、その後を白いしっぽが追跡していた。ちりちりと鈴を鳴らしてしなやかに。
 オーレだ。
 ぴーんとしっぽをたてて後をついて行く。ひげを前ならえにして、ひゅるんひゅるんとディーンの手足の間をすりぬける。
 卵を隠している時はオティアの後になり先になり、とくいげに家中飛び回っていたのに……今はすっかり探すのに夢中だ。
 子猫と子供は熱心になりすぎて、だんだん隠した場所とはずれた方向へ。大人たちが予測もしないようなすき間へと潜り込んで行く。
 現に今も、ぷりっとした丸いお尻がソファの下にもそもそと……さすがにウサギは入らなかったのか、床に置いてある。

「ストーップ、ディーン、ストップ、ストップ!」
「へ?」

 慌ててヒウェルがズボンの裾をつかむ。その間にディフが素早くウサギを移動させた。

「ウサギが、あの辺が怪しいって言ってるぜ?」

 ディーンはもこもこと後じさり、鼻のてっぺんやおでこに綿ぼこりをくっつけたまま、ちょこんと首をかしげた。
 褐色の瞳が怪訝そうに部屋の中を見回し……キャンディポットの前にちょこんと座ったウサギを見つけた。

「そこかーっ」

 普段は棚の高い位置に置かれた蓋つきのホウロウのツボが、珍しくローテーブルの上に置かれている。いつもは触っちゃいけないと言われている禁断の場所なだけに、感心にも手をつけなかったらしい。
 たーっと走り寄って手を伸ばし、ディフの顔を見上げた。

「開けていい?」
「どうぞ、どうぞ」
「本当に?」
「今日は特別だ。イースターだからな」

 ほっとした顔でディーンは厳かにツボの蓋に手をかけて、慎重に持ち上げると中をのぞきこんだ」

「おお!」

 ずぼっと手を突っ込み獲物を掴むなり、顔を輝かせ、高々と掲げた。

「最後の卵、ゲットだぜ!」

 金色に塗られた十二個目の卵。これにてコンプリート、ゲーム終了、昼食へ。
 ディフと双子、そしてソフィアが腕を振るった料理がイースターの食卓を飾る。ラム肉のロースト、ディーン用にミートローフ、豆のサラダに茹でたジャガイモ。ワンタンと春雨のスープはシエンが担当した中華風。
 シエンの「作品」はもう一つあった。白いふかふかの生地に食紅で描いたぽちっと赤い瞳、きゅっとつまんだ長い耳、うずくまった兎そっくりの形の蒸し饅頭。中味は卵で作ったしっとりなめらかな黄身の餡、イースターにぴったりだ。蒸かしたてのあつあつの兎まんは好評で、瞬く間に無くなった。
 そして忘れちゃいけないホット・クロスバンズ。
 ソフィアは万事心得ていて、二種類のパンを焼いてきてくれた。オティアも食べやすいように、リンゴ抜き、甘さ控えめのパン。伝統的なドライフルーツと砂糖をたっぷり効かせたパンは、ディーンとヒウェルが大喜びでかぶりついた。

 昼食の後、ディーンは意気揚々と戦利品のチェックにとりかかり、卵を開けるたびにチョコレートや、キャンディ、ちっちゃなロボット、ポケモンのカードに歓声を挙げた。

「これはオプティマス・プライムだよ。これはピカチュウ!」

 一つ一つ取り出してテーブルに並べ、相棒の黒ウサギに説明している。オーレがちょろりと手を出して、すかさずオティアに止められた。
 一方、大人たちはメールボックスから回収してきたイースターのカードを選り分けていた。クリスマスの時より、微妙に枚数が増えている。それだけ、双子が外の人たちと関わる機会が増えたからだ。
 家族全員に宛てて、ディビットとレイモンドから。さらに一通、テキサスから届いたカードがあった。

「あ……母さんからだ」

 何故かカードには、お決まりのウサギでもなく、卵でもなく、茶色いクマのぬいぐるみの写真が貼り付けてあった。

「これは……クマ?」
「クマだな」
「クマだね」

 かなり年季が入っているらしく、元は茶色だった毛皮はだいぶ色が抜けてカフェオレ色に近くなっている。黒いボタンの目もおそらく何度もつけ直しているのだろう。そして、なぜか左の耳は青いギンガムチェックの布でできていた。
 ディフは恥ずかしそうに頬を染め、しぱしぱとまばたきした。

「うん……クマだ」

 はるばる海を越えて、日本から届いたカードもある。ヨーコとロイ、コウイチから連名で。卵色の紙に、うずくまって幸せそうに眠る鼻の長い生き物が描かれている。それを見た瞬間、レオンも、ディフも、シエンも、オティアも、何故かほわっと柔らかな毛布にくるまれたような、幸せな気分になったのだった。
 ソーシャルワーカーのヨシカワさんから贈られたカードは卵の形に鮮やかな縞模様。サリーからは、雪の中にちょこんとうずくまるウサギの絵。オムレツみたいなアーモンド型に、ぽちっと木の実でできた赤い瞳、耳は細長い緑の葉っぱだ。

「これ、雪でできてるのかな」
「多分そうだな。雪だるま(Snow man)のウサギ版ってとこか」
「じゃあ雪ウサギ(Snow rabbit)?」
「だ、な……あれ?」

 ヒウェルは二枚のポストカードを並べて、しみじみと見比べた。ヨーコから届いた分と、サリーから届いた分。

「これ、もしかして同じ文字じゃないのか?」
「本当だ、形が同じっぽいな」
「日本のイースターの挨拶か?」

 レオンはじっと文字を見て、ゆるやかに首を横に振った。

「いや、日本にはイースターの風習はないんじゃないかな」
「春の挨拶か?」
 
 残念ながら、この場に日本語の読める人間はいなかった。協議の結果、後でサリーに聞いてみよう! と言うことになる。
 二枚のカードに書かれていたのは、悪夢を祓い、健やかな眠りを祈るおまじないの言葉だった。

『見し夢を 獏の餌食となすからに 心は晴れし 曙の空 悪夢退散 安眠祈願』

 そしてテリーからは、一面の黄色をバックにオレンジのワンピースを着た、白い小さなウサギの絵。

「あ……なんか懐かしいの来た」

 ひょいとのぞきこむなり、ディーンが嬉しそうに叫んだ。

「みっふぃー!」
「そうね、ミッフィーね」
「でも、何で、ミッフィー?」
「おや、こっちのも何か、やけに可愛いの来たぞ?」

 ピンクのカードには、エプロンドレスを着た金髪の少女と白いウサギが描かれている。まるで砂糖菓子みたいな色合いだ。

「俺と、オティアとシエン宛てだな」
「誰からだ?」
「マージョリー・ドナ・スミス」
「マージだ」

 ぽつりとオティアが言った。

「アニマル・シェルターの」
「ああ!」
「何、ボランティアの女子大生?」
「いや、最古参のオバちゃんだ」
「わお……」

 オーウェン家からは、卵型に切り抜いた画用紙にクレヨンで彩色した手書きのカードが一枚、アレックス自らがうやうやしく銀のトレイに載せて配達した。描いたのはもちろん、ディーン画伯だ。

「ウサギ、か」
「ウサギだよ!」

 カードの真ん中に描かれた黒いウサギは、手足がひょろ長く、とてもとても目つきが悪い。

「あ、このウサギもしかして」

 大人たちの目が一斉に、ディーンの抱えたぬいぐるみに向けられた。

「いえーっす!」

 ディーンは満面の笑みを浮かべて、やさぐれウサギをたかだかと両手で掲げる。その姿を見守りながら、ヒウェルは妙に嬉しそうににまにまと笑っていた。

「っと……これはオティアとオーレ宛だな。そら」
「Thanks」

 受け取る前から、誰から届いたのかは大体予想がついていた。
 白い封筒には、きちんと並んだEの署名。Mr.エドワーズからだ。
 封を開けると、中には卵の形に切り抜かれた白い紙が入っていた。さらっとした手触りは、おそらく和紙だ。以前、サリーからもらったことがある。カードの表面には細い筆で、流れるような筆致で、黒の濃淡だけで描いた兎の絵が描かれていた。どことなくサリーやヨーコたちのカードに似ている……おそらく日本の絵なのだ。
 両手で細い草を振り回してるのが一匹。ころんとひっくり返ってるのが一匹。二匹とも楽しそうだ。
 シンプルだが、実に奥深い。

 オーレに見せると熱心ににおいをかぎ、くいくいと顔をすり寄せた。
 
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【4-21-5】そして四月に手紙を書いた

2010/11/06 16:52 四話十海
 
 テーブルの上には、最後の一通が残っている。
 レオン宛ではない。ディフに届いたのでもない。家族全体でもなければ、オティアに宛てたものでもない。

 宛名は『シエン・セーブル』。差出人は、ハンス・エリック・スヴェンソン。

 メールはあまり好きじゃないって言っていた。住所は知っている。だから手紙を書こう。
 返事が来なくてもいい。来れば嬉しい。
 しかしながら、犯罪者相手に一歩も引かないバイキングの末裔が手紙一通書く勇気を振り絞るまでに、実に一カ月もの時間がかかってしまったのだった。

 そして今、シエンはテーブルに置かれた封筒を遠巻きに見ていた。近づくことも、のぞきこむこともせず、ただ見ているだけ。
 ディフは「シエン宛てだぞ」と言ってテーブルに置いただけで、さほど気にする風もなく。今は静かに自分宛のカードを読んでいる……あくまで、表面上は。
 どいつもこいつも、焦れったい。
 オティアはすっと封筒を手に取ると、つかつかとシエンに歩み寄り、黙って手渡した。

「……ありがと」

 シエンは丁寧に封を切った。中にはイースター用のカードではなく、ごく普通のコピー用紙が入っていた。折り紙のような正確さできちっと折り畳まれている。開くと現れたのはボールペンで丹念に描かれた絵。文字は一つも書かれていない。
 
 眼鏡をかけたのっぽのウサギがぽつんと一匹で、紙コップに入ったコーヒーを飲んでいる。背景は実に正確に描写されていて、ひと目でどこかわかった。

(あの店だ……)

 まだエビの人としか知らなかった彼と出会って、コーヒーを飲んで、話した場所。ディフの昔の写真を見て、オティアがパソコンの中味を消してしまって、それから……。

 シエンはウサギの絵を部屋に持ち帰り、大切にしまった。
 ピスタチオグリーンの手袋と一緒に、机の引き出しに。
 

 ※ ※ ※ ※
 

 アレックス一家が帰ってから、オティアはディフに声をかけた。

「ディフ」
「どうした?」
「Mr.エドワーズに、イースターカードの返事を書きたい」
「……わかった」

 ディフはすぐにシンプルなカードを持ってきてくれた。事務所で返礼用に使っているのと同じ、クリーム色のシンプルなカードだ。
 Happy Easter(イースターおめでとう)と、金色で文字がプリントされているだけ。卵も、兎も描かれていない。
 
「これでいいか?」
「これでいい。ありがとう」

 キッチンテーブルに腰かけ、首を捻る。挨拶の言葉は既に印刷されている。さて、何を書こう? 名前以外に。
 Mr.エドワーズも、エリックも、兎の絵を描いていた。黒一色の線だけで、あれだけ表現できるのだ。実に興味深い。
 試してみよう。あいにくと家に兎はいない。だが白くてふわふわした生き物なら、オーレがいる。Mr.エドワーズも、兎よりオーレの絵の方が喜んでくれるはずだ。

 カードに描く前に、まず試作を試みる。ノートにいくつか試し書きをしてみた。猫の姿は見慣れている。覚えている通り、正確にペンで線を引けばいいと思ったのだが、今一、うまく行かない。耳があって、髭があって、丸い体に長いしっぽ、足が四本、胴体の左側に少しゆがんだ丸いぶち。確かにオーレの特徴を描いているはずなのだが、どうにもこう……実物通りにならない。何が足りないのだろう?

「お、猫、描いてるのか?」

 ヒウェルがのぞきこんできた。むすっと黙ったまま、うなずく。

「オーレか?」
「そうだ」
「なるほどね……あ、一枚紙、もらうよ」

 ヒウェルはポケットからライムグリーンの万年筆をとりだし、さらさらとノートに走らせた。

「骨格を見ながら描くんだ。だいたい、こんな感じだな。ここが首で、胴体。肘、踵、と……」
「………」
「猫ってのは基本的に、丸の集まりだ。骨組みの上に丸を肉付けして行くといい……こんな感じに」

 何てことだ。ざっと無造作にペンで線を引いただけなのに、確かに猫に見える。しかも自分が描いたのより、しっかりした構造をしている。

「……ふむ」

 ため息をつくと、オティアはノートを閉じた。
 
「あれ、描くのやめちゃうのか」
「ん」

 正確に猫を描くのに、付け焼き刃では難しそうだ。こっちは後で練習するとしよう……こいつの見てない所で。
 それはそれとして、Mr.エドワーズへの返事をどうするか、だ。
 白紙のカードを前に考えていると、オーレがふにっと手首に鼻をくっつけて、においをかいできた。

 そうだ。カードよりオーレを直接、連れて行った方がいいかもしれない。9月にこの家に来てから7カ月、すっかり大きくなった。Mr.エドワーズはこの間事務所に来たけれど、リズはそうも行かない。
 きっと、喜んでくれるだろう。
 
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【4-21-6】繭の外へ

2010/11/06 16:54 四話十海
 
 イースターの休暇が終った日。

「シエン、本当に大丈夫か?」
「うん、オティアも一緒だし」
「そう……だな。うん、何かあったらすぐに戻ってくるんだぞ?」
「うん」

 シエンは初めて、自分の意志で外に出た。オティアと二人一緒に、しっかりと手をつないで。それともう一匹。

「にーう」

 オティアが肩にかけたキャリーバッグには、きちんとオーレが待機している。このお嬢さんは双子が外に出かける仕度を始めるなり、さーっと飛んできてバッグの中にするりと収まったのだ。

「よし、それじゃ行ってこい」
「いってきます」
「ん」

 ディフは野太い笑みを浮かべて手を振り、双子と子猫を見守った。だがドアが閉まるなり、急にそわそわして傍らのレオンに向き直った。

「大丈夫かな。まだ早すぎやしないか?」
「大丈夫だよ」

 やれやれ、思った通りだ。家を出る時間を遅らせて良かった。
 ぽん、ぽん、と肩を叩くがディフはまだ落ち着かない。しきりとドアの方を伺い、手にした携帯に目を走らせる。あの子たちはまだ、エレベーターにも乗っていないだろうに!

「ディフ」
「何だ?」

 振り向いた所を引き寄せ、唇を奪った。びっくりしてる。完全に不意を討たれたらしい。使い古された手口だが、彼には効果てきめんだ。何度キスしても、何度抱きしめても、熟れることはあっても慣れる事はない。キスをする度に驚き、喜び、応えてくれる。
 夫婦が行ってきます、のキスをするのに誰はばかる必要があるだろう? それに今回は彼をリラックスさせて、落ち着かせると言う重要な役目があるのだ。念入りに。丁寧に……
 レオンハルト・ローゼンベルクは思う存分、妻の赤い髪をなで回し、触り心地のよい体を抱きしめた。キスの角度を変える隙に零れる乱れた吐息に。可愛いあえぎに聞きほれた。貪るように深い口付けを終えてからも離れることなくふにふにと触れ合わせ、柔らかな唇の感触を味わった。
 長い長い「行ってきますのキス」が終った頃には、双子と子猫はとっくにエレベーターを降り、ロビーを通り抜け、歩き出していた。

 抜けるような青空を目指し、どこまでも伸びてゆく坂道を。

 まぶしい光を浴びて、歩く。二月の木枯らしは今は遠く、やわらかな風は花と緑の香りを含んで通り過ぎる。1ブロック歩いたところでオティアがちらりと目を向けてきた。

「……大丈夫、まだ行けるよ」

 本当はわざわざ声に出す必要はない。思うだけで通じる。だけど、自分の声で、はっきりと伝えたかった。自分の耳で聞きたかった。

「……OK」

 オティアはうなずき、また歩き出す。
 やがてビルの合間からひょっこりと古びた石造りの建物が現れた。尖った三角の屋根を間に挟んだ四角い塔。壁面に花の形のような、雪の結晶のような円形の窓が開き、アーチに囲まれた入り口の扉はガラス張りで、ピカピカと輝いていた。
 目を細めて丸い窓を見上げる。花模様を形作るフレームの奥にはめ込まれたガラスは、無色透明ではないようだ。かすかに色がついている。それも一色ではない。細かい色の欠片がパズルのように組み合わさっている。
 どちらからともなく、同じ言葉を口にしていた。

「ステンドグラスだ」
 
 ※ ※ ※ ※
 
 携帯が鳴るなり、ディフは速攻で開いた。着信音でオティアからだとわかるより早く……液晶ディスプレイが点滅した瞬間に既に手が動いていた。

「どうした、今どこだ! ……え……何?」

 電話の向こうから、聞き慣れた鐘の音が聞こえてくる。ディーン、ドーン……と深みのある、低い音色が。

「グレース大聖堂まで行ったのか……」
「ひとやすみしたら、帰る」
「うん、わかった。気を付けてな」
「それじゃ」

 携帯を閉じてふーっと盛大に息を吐きだした。いきなりあんな所まで歩くなんて。ずっと家に閉じこもっていたのに、体力が持つかどうか心配だった。念のため、車のキーを持ってずっと待機してたんだが、その必要もなかったようだ。

 イースターはキリストの復活を祝う祭り。古くは春の訪れと木々の芽吹き、生命そのものを祝う日だったと言う。

 ともあれ、シエンは少しずつ体を慣らしながら活動範囲を広げていった。五月にはフルタイムではないもののバイトに復帰し、オティアと二人で花屋にカーネーションを買いに行けるまでになった。

 そして五月の三番目の週、よく晴れた土曜日。

 サングラスをかけた、剣呑な顔つきの二人組が並んで腕組みをしていた。フェリービルディング前の赤レンガを敷き詰めた広場に仁王立ち。一人は背が高く、がっしりしとした体格。ゆるく波打つ赤いたてがみをなびかせて、黒革のライダーズジャケットを羽織った姿はさながら長髪のマイケル・ナイト。隣のGジャンを着た金髪は相方に比べてほっそりと小さく見えるが、それでも丈夫そうな体つきで、血色も良い。サングラスの向こうから油断なく、ぎりっと周囲を睨む姿は小型ながら州知事もかくやと言わんばかりのど迫力。

 口をヘの字に結び、四方ににらみを効かせる二人組の真ん中ではシエンがちょこんと屈みこみ、屋台の野菜を品定めしていた。
 目の前には、真っ赤に熟れたつやつやのトマトが山になっていた。

「ディフ、ディフ」
「ん、どうした」
「これがいい」
「OK」

 ひょい、とサングラスをずらすと、ターミネーター1号は屋台の主に声をかけた。

「このトマトを一山と、それから、そこのジャガイモを一袋くれ」
「はい、まいどあり!」
 
 布袋に入ったジャガイモをひょいと担ぎ、次の屋台へと向かう。トマトはつぶさないように二等分して、シエンとオティアが半分ずつ袋に入れた。

「エコバッグ、足りなくなってきたね」
「よし、そこでカゴを買って行こう」

 土曜日と火曜日、この広場では市場(ファーマーズマーケット)が開かれる。テントの屋根の下にギンガムチェックのクロスを敷いたテーブルが設置され、新鮮な果物や野菜、乳製品や海産物、パンやポップコーン、コーヒーにホットドッグに揚げたてのドーナッツが並ぶのだ。
 食べ物ばかりではない。
 古本や古いレコードを売っている出店もあれば、ビーズや木工製品、手作りの家具やカゴやアクセサリーを売るクラフトショップ、果てはガレージの中味をそのまま持ち寄ったような『アンティークショップ』もある。
 きっちり編まれた手作りのカゴは大きく頑丈で、大量のジャガイモとみっしり巻いた大玉キャベツを入れてもびくともしなかった。

 磯の香りの強い一角にさしかかると、とある屋台でディフが足を止めた。
 細長い、ざらざらの二枚貝がうず高く積み上げられている。まるで大急ぎで作った石垣のようにぎっしりと。

「お、牡蛎だ」
「どうやって食べるの?」
「焼いてもいいし、チャウダーにしても美味い」
「……」

 すぐ傍に置かれた焼き網の上で、半分に剥かれた牡蛎がぱちぱちと音を立てていた。焼き立てのをその場で買って、ほお張る客も多いのだ。
 双子はちらりと牡蛎の山に視線を走らせ、それからじっと顔を見合わせた。

「クラムチャウダーの方が好きか」
「……うん」

 そっと目をそらすシエンの横で、オティアがこっくりとうなずき……ふと、ある一角に目を向けた。

「あ」

 地面に置かれたプラスチックの青いプール。浅く張られた水の中で、平べったい扇型の甲羅の生き物がわしゃわしゃと蠢いていた。

「……カニ」
「ああ、カニだな」
「………冷凍じゃない」
「うん、新鮮だ」

 土曜日の夕食用に、新鮮なイチョウガニ四匹、お買い上げ。

「ヒウェルの分はどうする?」
「スパムの缶詰めでも開けとくか」
「それは……ちょっと……」
「ははっ、冗談、冗談だ。このタラを一匹。それと、そっちの小エビも」

 小エビは言わずと知れたオーレへのお土産だ。そして、ぷりっとした白身の魚は……

「フライにして、タルタルソースをかけてやろう。付け合わせにジャガイモも揚げて」
「揚物ばっかりだな」
「ヒウェルの好物なんだ」
「……野菜、足りないんじゃ」
「心配ない。グリーンピースとトマトも食わせとく」

 ファーマーズマーケットは一種の魔法だ。いつものスーパーに売っている物が違う形で、見たことのない物の隣に並んでいる。あれも買おう、これも試してみようと、つい手が出てしまう。自家製のハチミツ、オリーブオイル、日本のマッシュルーム(シイタケと言うらしい)にナスにリンゴ。
 買い物が終った頃には、三人とも両手にけっこうな量の荷物を抱えていた。これもまた、ファーマーズマーケットの醍醐味。ゆっさゆっさと両手に抱えた袋とカゴを揺らしつつ、慎重に駐車場へと足を運ぶ。市場の立つ日は近くのビルの駐車場が、マーケット用に解放される。少し歩く覚悟をすれば、車を停める所は意外に楽に見つかるのだ。

 マーケットの賑わいが遠ざかり、買い物帰りの人と普通の通行人や観光客の割合が半々になった頃。
 行く手から、もっさもっさと黒い生き物が坂道を上がってきた。

「あ」

 犬だ。かなり大きい。レトリバーの成犬ぐらいはあるだろうか。だがずんぐりむっくりとした体つきは、明らかに子犬だ。
 耳は垂れ、ふさふさの毛並みは真っ黒。左目のあたりに一筋、斜めに白いラインが走っている。黒過ぎて、しかも逆光になっていて表情がまったく見えない。開いた口から伸びた赤い舌、ひらめく尖った白い歯だけがぼうっと浮かび上がって見える。
 大きな体と筋肉をフルに活かし、黒い犬はのっし、のっしと順調に引っ張っていた……リードを持つ少年を。

「……まずいな」

 ディフがずいっと一歩前に出て、双子と犬の間に入った。さらにその背後でオティアがシエンのカバーに入る。
 あの少年、犬を制御できていない。かろうじて突っ走ってはいないが、前に出られている時点で既にリーダーシップを奪われてる。懐いてはいるが従ってはいない。暴走したら危険だ。
 シエンもまた、犬を連れた少年を見ていた。

「あ」

 その瞬間、わずかに体が揺らぎ、伸び切ったエコバックからぽとりと、真っ赤な丸い野菜が落ちる。
 トマトだ。
 市場で買ったばかりの新鮮なトマトはアスファルトの路面で軽くバウンドし、ころころと転がって行く……まっすぐに黒い巨大な犬めがけて。途端に犬がぴーんと耳をあげ、きらきらと目を輝かせた。

「うわっ、サンダー、すとっぷ、すとーっぷ!」

 制止する少年を軽々と振り切って、黒い子犬が走り出そうとしたその瞬間。

「サンダー、ストップ!」

 ブルネットの青年が足早に歩み寄り、ぴしり、と一声命じる。その途端、生きたテディベアはぴたりと動きを止めた。

「座れ」

 もこもこと黒い毛皮が動く。サンダーと呼ばれた犬はきちっと後足をたたんで座り、ぱったぱったとしっぽを振った。
 だが、やはりトマトが気になるのか、ちら、ちらっと目を向けている。青年はさらに厳しい口調でコマンドを発した。

「サンダー、伏せ!」

 怒られたのがわかるのだろう。しおしおと耳を伏せ、ぺたり、と地面に伏せた。
 青年はようやくふーっと肩の力を抜くと顔を上げた。

「ごめん、びっくりしたろ?」
「ああ、もう大丈夫だ」

 ディフもまた構えを解き、サングラスを外して笑いかけた。

「いつ犬飼ったんだ、テリー?」
「いや、こいつは預かりもん。ドッグシッターしてるんだ」
「なるほど」
「弟に手伝ってもらってるんだけど、まだ慣れてなくってさ。あ、名前はビリーっての。ビリー、ディフだ」
「やあ、ビリー」
「……どーも」
「そっちの金髪はオティアとシエン」

 ビリーはくしゃくしゃと髪の毛をかき回し、視線をそらせてふてくされたような口調でひと言。

「……知ってる」
「え」
「えっ?」

 目をぱちくりさせたディフとテリーに向かって、オティアがぽそりと言った。

「中学が、同じだった」
「……なるほど」

 本当はそれだけじゃない。ディフもテリーも、薄々何か感じ取っている。
 だが、今はこれでいい。自分たちとビリーとは前からの知り合いだった。それだけ伝えれば、十分だ。
 
「この犬はサンダー。アニマルシェルターで保護した犬で、今は新しい飼い主の所に居る」
「アダプションされたんだ」
「うん。マージおばちゃんの仲介でな」
「でっかい犬だな! でもまだパピーなんだろ?」
「うん。生後五カ月ぐらいじゃないかな」
「トマト凝視してよだれたらしてるぞ?」
「好物なんだ」
「なるほど」

 ディフはひょいとトマトを拾い上げた。土にまみれて半分潰れている。

「……食わせてやってもいいか?」
「ああ、かまわないよ。サンダー!」

(とまと、とまと、とまとーっ)

 真っ赤なトマトは5秒で犬の腹に消えた。
 
「すごい……もう食べちゃった」
「よっぽど好きなんだな」
「猫と違うね。オーレはちょっとずつ食べるのに」
「根本的に、口のサイズが違うからな」

 改めて見ると、太くて短い鼻面(マズル)といい、丸っこい頭、つぶらな瞳といい、サンダーはテディベアそっくりだ。
 わっさわっさとしっぽを振る巨大な黒いテディベアを見て、ディフは秘かに、いや、かなりうずうずしていた。

「……なでてもいい……か?」
「どうぞ」

 もとより、サンダーにも異存はなかった。
 オティアとディフが思う存分、犬をなで回している間、ビリーがひっそりとシエンに囁いた。

「あれが、お前の家族か?」

 犬に慣れた相手と判断するや、サンダーの動きは目に見えて遠慮がなくなっていた。高速でぶんぶんしっぽを振りながら右に、左にステップ。と、思ったら、今度はごろりとひっくり返ってお腹を見せている。
 遊んでくれる人と会えたのが嬉しくてたまらないらしい。ディフとオティアは並んでしゃがみこみ、わしわしとサンダーの腹をなで回した。
 ディフは顔中くしゃくしゃにして笑ってる。オティアの表情も柔らかい。二人とも、市場で自分をガードしてた時の厳つい顔が嘘みたいだ。
 シエンの口元がほころぶ。それは本当にかすかな、けれど開きはじめた花びらを包む春の陽射しのような、ほんのりと温かい笑みだった。

「うん。あれが、俺の………家族だよ」
「……そっか」

 ビリーはうなずき、それからくいっとテリーに向かって親指をしゃくって言ったのだった。

「あれが、俺の兄貴だ」

 精一杯さり気なく、左右の頬をトマトみたいに真っ赤に染めて。


(テイクアウトpat1/了)

to becontinued

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コーヒーゾンビのささやかな幸せ

2010/11/06 17:00 短編十海
  • 拍手お礼用短編の再録。
  • 2007年3月、ひな祭りの後の出来事。オティアからヒウェルへのささやかな贈り物。
 
 三月に入り、振り払っても振り払ってもまとわりついていた重苦しい鉛色の霧がやっと晴れた。
 ようやく意識がクリアになって、ふと気付くと……ヒウェルがゾンビになっていた。別に珍しいことじゃない。締め切り前の定例行事だが、今回はゾンビ期間がやたらと長い。

「ランチとる間、場所貸してくれ……」

 スターバックスの昼時の混雑にもまれただけで、ほぼ力尽きたらしい。ぼろぼろになった眼鏡ゾンビは事務所に入るなりソファの上に崩れ落ちた。
 オティアがちらりと目を向けて、何事もなかったようにファイルの整理に戻る。
 ここ数日、シエンのコンディションはだいぶ良くなってきた。お陰でオティアも在宅勤務の傍ら、事務所に顔を出せるようになった。家との行き来には、クリスマスにレオンから贈られた自転車を使っている。いい傾向だ。運動不足の解消にもなるし、オーレも気に入ってるらしい。
 正式に町中で自転車に乗るのは初めてだと言うので、初日の前にみっちり交通ルールを教え込んだ。猫を頭の上に乗せて走るのは危険だからやめとけ、せめてカゴにしろ。暗くなったら即点灯、自転車便のメッセンジャーの真似はするな、等々。

「……ぼろぼろだな、ヒウェル」
「うん、ぼろぼろ。締め切り直前に、うっかり爆睡しちまってさ……目が覚めたら、携帯に着信記録がたまってるし、ファックスが山になってるし、パソコンのメールがもう、すごい事になっていて………」
「仕上げにジョーイがドアの外でにっこり、ってか?」
「いや、今回の担当はトリッシュ」
「ああ……そりゃ厳しいな……」

 敏腕編集者トリッシュはレイモンドの恋人だ。彼氏の前ではキュートに恥じらう恋する乙女。だが仕事となると容赦はしない。相手がヒウェルならなおさらだ。

「もー前の仕事の締め切りぶっちぎって書いてるうちに、次の仕事が入ってきちゃった、みたいな?」

 しょぼしょぼ目を細め、背中を丸めて紙コップからコーヒーをすすっている。

 ず、ず、ず、ずぅじゅいいいいい。

 不気味に響く音を聞いていると、もはやこいつの飲んでるのが本当にコーヒーなのかどうかすら疑わしくなってくる。

 ずごごご、じゅびび、じゅるっ。

「んじゃ、俺、そろそろ行くわ。この後取材一件入ってるから」
「大丈夫か?」
「あー、うん多分……夕飯までには帰るから」

 オティアがファイルを繰る手を止めて顔を上げる。ドアの所でヒウェルが立ち止まり、振り向いた。ほんの一瞬、紫の瞳と眼鏡の奥の琥珀色の瞳が重なる。

「じゃあ……な」

 コーヒーゾンビの顔に生気が蘇り、微笑らしきものが浮かんだ。ひらひらと手を振ると、ヒウェルはドアを開けて出て行った。相変わらず姿勢が悪い。しかも明らかに足取りがよれている。膝に力が入ってないな、ありゃ。

 ふと見ると、スターバックスの紙コップがテーブルの上に置き去りにされている。
 あいつ、相当参ってるな……。
 白地に緑の丸いロゴ。サイズはヴェンティ、最大級。もちろんミルクもソイミルクも入っていない。オティアが手を伸ばして持ち上げ、軽く左右に振った。ほとんど音はしない。
 なるほど、もう飲み尽くして空っぽだから執着しなかったんだな。

 オティアは紙コップを持ってとことこと簡易キッチンに歩いて行く。プラスチックの蓋を紙製の本体から外し、分別してゴミ箱に入れようとして……動きが止まった。

「どうした?」
「………」

 黙ってカップをこっちに向けた。近づき、のぞきこむ。強烈なカフェインの臭気が顔面を直撃した。
 どろりとした黒い液体がカップの底にとぐろを巻いている。俺の基準からすればあり得ない濃度だ。信じられない密度だ。一体、エスプレッソを何ショット追加したんだ、ヒウェル!

「……あいつ、こんなの飲んでるのか」

 オーレが眉間に皺をよせて口を開け、耳を伏せてと、と、と、と後ずさる。
 オティアは猛烈な勢いで蛇口をひねり、危険な黒い液体を洗い流したがそれでも臭いは抜けない。ばたばたと窓を開けて空気を入れ替えた。
 すぐ下の通りをよれよれと歩いて行く眼鏡ゾンビの後ろ姿がちらりと見えた。

 やれやれ。
 無事に取材先にたどり着けるんだろうか?
 肩をすくめてデスクに戻ると……オティアが広げた新聞を手に取り、何やら真剣な表情で一ヶ所を睨んでいる。

「どうした?」
「ん……」

 まさか、悩み相談のコーナーでも読んでるんじゃあるまいな?
 のぞきこむと、とある記事をとん、と指さした。

「カフェインの常用とその依存性……か」
「ん」

 即座にヒウェルの顔が浮かぶ。この子もそうだったんだろう。
 居住まいを正してじっくり読んでみる。
 カフェインを常用していると、体が刺激に慣れてしまい、次第に効かなくなってくる。飲んでも効果がないから、さらに濃いコーヒーを飲むようになり、回数も増える。だが実際にはカフェインによる覚醒効果は着実に薄れている。
 口にした時の味や香り、コーヒーを『飲む』と言う行為で効いた気になっているだけなのだ、と。
 
「これは……ヤバいな」
「カフェインの致死量は成人で5〜10g、コーヒーはおおよそ一杯で100mg」
「むぅ」

 拳を軽くにぎり、口元に当てる。室内には、未だにヒウェルの飲み残しの強烈な臭気が居座っていた。

「あいつの『一杯』は、100mgどころじゃないな……量も、密度も」
「コーヒー依存症でも死にはしない、問題は……」
「カフェインか」

 こくっとうなずいた。

「牛乳や砂糖を加えて胃壁を保護するのが望ましい、とある。ブラックは避けた方がいいと」
「……ないな」
「ないな」

 しばし沈黙。そう言えば猫背ってのは無意識に内蔵を。胃をかばう動作なんだよな………。
 今んとこ、夕飯はちゃんと家で食ってるが、朝と昼はどうなってるんだ、あいつ。今日だって、ランチタイムと言いつつコーヒーしか飲んでいなかった。

「ディフ」
「何だ?」
「飲んで効いた気になっているだけなら、中味がどうでも関係ない気がする」
「プラシーボか。ふむ、試してみる価値はあるな」
 
 
 ※ ※ ※ ※ 


「……はっ」

 いかんいかん。キーボード打ちながらマジで寝ていた。画面上には意味不明な記号が並んでいる

 割とよくある話だが、メンズランジエリーの取材に行っただけのはずだったのに、現場についてみたら何故か『体験取材』になっていた。

「ハロー、Mr.メイリール! トリッシュから話は聞いてるわ。今回のアナタの獲物はこれよ!」

 大柄でゴージャスな美人店主、Ms.ドールが見立ててくれたのは、イチゴ模様のキャミソールとショーツと………ブラジャーのセットだった。

「えっと、あの、こ、これは……」
「うちの一番の売れ筋商品なの。日本からの直輸入品よ!」
「はあ……日本の下着メーカーは優秀だそうですし……」

 どんどんセリフが棒読みになって行く。背筋にたらりとしたたる汗を無視して、かろうじて笑顔は崩さなかった自分を褒めてやりたい。

「欲しいと言うことはね、必要なことなのよ。試してごらんなさいな。優しい気分になれるわよ!」

 有無を言わさぬ笑顔と迫力満点のウィンクに抗う気力は、既になかった。押し付けられたランジェリーを手に否応なく更衣室に追い込まれ、試着を試みたが、後ろのホックに手が届かない!
 揚げ句の果てに自分から助けを求め、店長にきちんと着せていただくと言う体たらく。
 ちっくっしょお、ジョーイめ。こいつはいったいどんな羞恥プレイだ!

『君以外に適任者はいないよ!』とか何とか調子のいい事言いやがって。俺以外のライターは、全員ばっくれたんだな? そうなんだな? 

(賢明な判断だ)

 何つーか、こう………どっと疲れた。精神的にも、肉体的にも。

「………一杯やるか」

 椅子から立ち上がった瞬間、ぐらぐらっと世界が揺れた。

「おっと」

 かろうじて壁に手をつき、転倒を免れる。やばいなあ。視界がぐーるぐる回ってる。
 ってか焦点が微妙に合わない。文字が見えているのに、読めないし。写真を見ても、絵を見ても、図形が図形として認識できてないよ。これは、もしかして、かなりやばいんじゃないか?

 台所までの距離がひどく長く感じられる。
 がんばれ、ヒウェル。もう少しだ。コーヒー豆さえセットして、後は水入れてスイッチいれれば機械が全部やってくれるんだ。今、一番必要なもの……かぐわしいカフェインが飲めるんだ。

 コーヒー豆をストックしている缶を開ける。なんか妙に軽いな、でもあと一回分ぐらいはあったろう。えい、くそ、指にうまく力が入らない。こう言う時は、優秀な機密性が恨めしいぜ。

「っせいっ」

 がっぱん、と缶が開く。
 何てこったい! 空っぽじゃねえか……。

 あー、そう言えば切れてたんだよな……スタバに行ったついでに補給しとこうと思って……忘れてた……。
 がくり、と力が抜ける。もう一度出かける気力はないし。しゃあない、飯食いに行く時に、ディフんとこで分けてもらおう……。
 しかし、飲めないとなると余計飲みたくなるよなぁ。
 よれよれとデスクに戻る途中で呼び鈴が鳴った。一瞬、びっくんと心臓がすくみあがる。まさかトリッシュ、取り立てに来たかっ?

 いや、いや、落ち着け。
 彼女は滅多に直接は来ない。既にその『滅多に』な状況になってる気がするが……
 また、呼び鈴が鳴った。

「……いないのか?」

 オティア!

「いるいる、います、いるから!」

 一足飛びに玄関にすっ飛んで行き、ドアを開けた。

「……やあ」
「……どけ」

 両手に何やら抱えている。言われるまま、道を開けると、とことことまっすぐに入ってきた。

「え、な、何? 何か用?」
「用があるから来た」

 抱えているのは袋が二つ。しかも、すごくいいにおいがする……。片方は甘くて、もう片方は……。

(こ、これはもしかしてっ?)

 ああ、これはもしかして夢じゃないのか。今、この瞬間、俺が咽から手がでるほど欲しがってるアレの香りがするじゃないかっ!
 ぱっかん、とオティアはコーヒー缶を開けて、袋の封を切り、中味を注ぎ込んだ。サラサラサラリと軽やかな音が響く。
 まちがいない。
 こいつは……

 コーヒーだ!

 さらに、奇跡は続いた。コーヒーメーカーに粉をセットして水を入れて、かちりとスイッチを入れている。
 ごぼごぼ、がぼっと蒸気が上がり、褐色の雫が。天上の甘露が、ぽとぽとと滴り落ちる。

「……さんきゅ。豆、ちょうど切れてたから……助かった」
「ん」

 コーヒー豆の袋をきちんとたたみ、続いてもう一つの紙袋をあける。バターと小麦粉の焼けるにおい。貝殻の形のきつね色の焼き菓子が転がりでた。

「あ……マドレーヌ」
「アレックスが焼いた」
「そ、そうか」
「皿、借りるぞ」
「あ、うん、食器棚にあるから」

 かちゃかちゃっと引き出し、マドレーヌを並べた。ほぼ同じタイミングでがぼっとお湯が吹き上がり、コーヒーメーカーが止まった。

「……カップはこれでいいんだな?」
「うん」

 赤いグリフォンのカップをざっと水でゆすぎ、たぱたぱとコーヒーを注いでいる。
 ああ神様、これが夢なら覚めないでくれ!

 オティアが。あのオティアが俺のためにコーヒーを入れてくれた。カップに注いでくれた。マドレーヌを皿に盛ってくれた!
 しかもテーブルの上に、マグカップと皿を並べてるじゃないか!

「オティア……」
「冷めないうちに、食え」
「あ、うん……ありがとう」

 一緒に食べてかないか? 声をかけるより早く、オティアはくるりと背を向けて。

「じゃあな」

 きちんと袋をたたみ、すたすたと出ていった。

「………」

 ばたん、とドアが閉まる。
 ふるふると震える手でカップを持ち上げる。うん、あったかい。夢じゃない、現実だ。おそるおそるすすってみる。
 熱い。苦い。心地よい。
 ほんの少しねっとりとしたコーヒーの香りが、口から咽、胃袋へと流れ落ちる。

「嗚呼……美味いなあ………」

 ふはーっと吐きだす。胃袋があったまると、何だ急に腹が減った。ばくばくとマドレーヌを食う。むせそうになって、またコーヒーを飲む。苦いのと、甘いのが交じり合ってさらに食欲がそそられる。
 あっと言う間に食べ切っていた。そう言えばしばらく、固形物食ってなかったなあ……昨日の夕飯食って以来。

  
 残りのコーヒーは、時間をかけて少しずつ飲んだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ただいま」
「お帰り。ご苦労」
「……んむ」
「袋、回収してきたか?」
「うん」
「OK、完璧だ」

 例の新聞記事を読んだ後、ディフがディカフェ(カフェイン除去ずみ)のコーヒーを買ってきた。
 
「これをあいつの缶に入れてこい。袋見られるとバレるから、持ち帰れ」
「わかった」

 ちょうどアレックスの焼いてくれたマドレーヌが届いた所だった。あの記事には空きっ腹にコーヒーを飲むより何か胃に入れた方がいいと書いてあった。ついでだから持って行くことにする。
 コーヒー豆を缶に入れて、一回分入れて飲ませてしまった。

 銘柄はいつもと同じだが、ディカフェだ。味も香りもすっかり同じではないだろう。人から勧められれば、多少の違和感には気付かないものだ。しかも、タイミングよくコーヒーのストックが切れていた。今ごろ、何も考えずに飲んでいるはずだ。

「オティア。紅茶とコーヒーと緑茶、どっちがいい?」
「……紅茶」
「OK」

 まくっと焼き立てのマドレーヌをかじり、熱い紅茶をすすると、オティアはほっと息をついた。
 
 デカフェのカフェイン含量は、通常のコーヒー豆中の0.2%以下。これで、少しは体への負担が軽減されるはずだ。
 あいつからもらった「探偵セット」はけっこう楽しめた。だいぶ間があいたけれど、これぐらいのお返しはしてもいいだろう。

(コーヒーゾンビのささやかな幸せ/了)

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