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ローゼンベルク家の食卓

【4-21-2】レモンで洗え

2010/11/06 16:47 四話十海
 
 ラボに戻ってからは脇目もふらずに作業に没頭、全力でゴミに浸かっていたショットガンの分析を終らせた。(あまり長い間接触していたい物体ではなかったし)おかげで、残業はわずか三時間に留まった。夕食はスープヌードル以外のものを口に入れられそうだ。途中で食べるか、デリで何か買ってくか……。家で作ると言う選択肢は早々に除外した。
 外に出ると春の夜の風はふわっと柔らかく、洗いたてのタオルみたいにすっぽりと疲れた体を包んでくれる。だがその後がちょっぴり問題だ。
 吹き抜ける風は体と髪に染みついた生ゴミの残り香を拡散させ、道行く人々の流れをエリックから遠ざける。

(まだ臭ってるんだ……)

 自分では気付かないだけに厄介だ。迷惑をかけるのも申し訳ないし、見知らぬ人とは言え、自分を避ける姿を見るのも何やら心が痛む。さっきの女の人なんか思い切り顔をしかめていた。
 自然と人通りの少ない方、少ない方へと向かう。ふらぁりふらり、ゆらりゆらりと足を運び、ふと気付けば人も車も少ない石畳の道を歩いていた。

「……あれ? オレ、いったいドコにいるんだろう?」

 絵はがきに出てきそうな、昔ながらのこじんまりとした商店街だった。街灯に浮かぶ建物は、ギリシャ風の真ん中がぷっくり膨らんだ柱に支えられた石造り。高層ビルとはほど遠く、二階建てからせいぜい三階建て止まり。すぐそばから美味そうなシーフード料理の香りが漂ってきた。緑とオレンジの壁の小さなレストラン。看板にはエビとカニとアサリが踊っている。思わずふらっと引き寄せられるが、窓から店の中を見てはたと我に返った。

(そうだ、今はオレ、くさいんだ)

 食べ物屋に入るのは甚だ不向き。食事を楽しんでる人たちに不快な思いをさせちゃいけない。後ろ髪を引かれる思いでレストランの前を通り過ぎる。何だかマッチ売りの少女になった気分だ。
 やっぱり店で買って持ち帰った方が賢明だな。パン屋かデリでもないものか。ほどなく前を通りかかった店からは、ほんのりと甘い小麦の焼ける香りが漂ってきた。が、しかし。何と言うことだろう、ちょうどシャッターを降ろしている最中だった!

(……残念)

 空きっ腹を抱えてさらに歩く。からっぽの胃袋がキリキリしてきた。自然と上体が前に傾き、うつむいてしまう。生花の香りの残る赤レンガ造りの建物の前を通り過ぎ(きっと花屋だ)、砂岩造りの建物の前にさしかかる。ここの店はまだ煌々と明かりが灯っていた。何の店なんだろう?
 顔を近づけた窓の向こう側に、白いほっそりとした猫が優雅に座っていた。

(猫の店?)

 青い瞳がこちらを見上げて一声、にゃーと鳴いた。

「あれ? リズ?」
「に」

 窓の向こうにはきちんと整頓された本の壁。上体を起こし、改めて視線を上に向けると……ぴかぴかに磨かれたブロンズの看板が目に入った。

『エドワーズ古書店』

 元同僚、EEEことエドワード・エヴェン・エドワーズの店だ。
 いつの間にこんな所まで来てしまったんだろう? 幸い、まだ店は開いてる。何を買うあてがある訳でもなかったけれど、このまま一人のアパートに帰るのも何やら物寂しい。幸い、他にお客もいないようだし。

 コロロローン……。

 優しく響くドアベルに迎えられて、古い紙と糊、布と革のにおいの溶けた穏やかな空気の中に入って行く。濃い金髪にライムグリーンの瞳、やや面長の男がカウンターに置かれたノートパソコンを叩いている。洗濯され、きちんとアイロンのかかった白いシャツにグレイのズボン、黒地にグレイのストライプのベストを身に着けた姿は、制服を着ていた時とほとんどかわらないレベルの規律正しさを備えていた。
 
「いらっしゃい……おや、エリック」
「ども、こんばんわ、EEE」
「仕事、じゃないようだね。珍しいな」

 最後に会ったのは去年のクリスマス前。教会で起きた事件の捜査中だった。あの時もらったジンジャークッキーは美味かったな……
 いけない、いけない。どうも思考パターンが食べ物に直結してる。

「あー……近くまで来たもんで」
 
 すりっと足下に柔らかな毛皮が忍び寄る。

「にゃあん」
「やあ、リズ」

 優雅にしっぽを巻き付けるリズを抱き上げた。

「あ……あったかいなぁ……ふかふかしてる……」
「みゅ」

 白い背中に顔を埋める。何時間ぶりの温もりだろう……自分以外の生き物の。実家のタイガーもふさふさだけど、もっとコシがあって、硬い。一本一本がしなやかで、ふわふわした綿菓子みたいなリズの手触りとは違う。骨格も。筋肉のつき方も。そして親子だけあって、オーレと同じだった。シエンが料理をしている間、あの小さな王女様のお守りしていた事が懐かしく思い出される。

「……エリック?」
「あ、はい」

 いけない、つい物思いにふけってしまった。

「けっこう遅い時間までやってるんですね」
「仕事帰りに寄る人も多いからね」
「なるほど」
「エリック」
「何でしょう」
「もしかして、ゴミ箱で証拠品を探したのかな」
「…………やっぱにおいます?」
「リズが……ね」

 ひょい、と屈みこんでリズの顔をのぞき込むと……鼻に皺を寄せ、目をすがめて口を半開きにしていた。何て言ってるのかは見ただけでわかる。

『ちょっと、何なの、この臭いはっ』

「……ごめん」
「レモンだよ、エリック。そう言う時は、レモンで洗うんだ」
 
 ※ ※ ※ ※
 
 横に半分に切ったレモンを四個。ザルに入れてバスルームに持ち込んだ。
 淡いクリーム色に紺色をちりばめて、壁と床に星と花を描いた浴室は、造りは古風だが手入れが行き届いている。設備も最新式で使いやすい。熱いお湯をざばざば浴びて、絞ったレモンで髪を洗った。輪切りにしたレモンで手を、足を、胸をまんべんなくこすった。酸っぱい香りがモザイクタイルの花園に満ち、ぴりぴりと咽に染みる。うっかり絞ったばかりの汁が目を直撃し、慌てて洗い流した。

 これぐらい強烈な方がいいんだ、きっと。

 八切れのレモンが搾りかすになるまで洗ってから、ようやくシャワーを止めてタオルに手を伸ばした。借り物なのだ、臭いをしみ込ませる訳にはいかない。
 念入りに浴室の床を湯で流し、もそもそと服を着てリビングに戻った。

「さっぱりしたかな?」
「はい、だいぶスッキリしました。すいません、EEE」
「気にするな」
「にゃ……」

 そろりそろりとリズが近寄ってくる。

「やあ、リズ! もう臭くないよ!」

 かがみこんで手を伸ばす。リズは指先に鼻を寄せておもむろに匂いをかぎ……耳を伏せ、ぴゅーっと逃げていった。

「あ……」

 そうだ、猫は柑橘類が苦手だった。

「……すまん、エリック」
「いえ、お気になさらず」

 ため息をついた拍子に、ぐぎゅうっと派手に腹が鳴った。おや、とエドワーズが首をかしげる。

「夕飯は?」
「あー……食べるのを忘れていました」
「そうじゃないかと、思ったんだ。二人分用意しておいたよ」
「ありがとうございます!」

 壁際のダイニングテーブルの上には、バケットを縦割りにして輪切りのハムとトマトにレタス、アボカドとチーズを挟んだ豪快なサンドイッチが載っていた。二人分、と言うだけあって確かに二つに切り分けられている。
 スープカップに満たされたトマトスープは缶詰めのレトルト。しかしながらさすがイギリス生まれ、紅茶はティーバッグではなく茶葉をポットで4分、濃いめに入れたのを出してくれた。

「ミルクと砂糖はどうする?」
「ストレートでお願いします」
「了解」

 向かい合って大型サンドイッチにがもっとかぶりつく。バケットの皮がぱりぱりとはがれ、口の端からこぼれ落ちる。無言でわっしわっしとサンドイッチを咀嚼するエリックとエドワーズを、ひっそりとリズが見守っていた。自分用の皿に盛られたドライフードをかりかりとかじり、ちろりと口の周りを舐めて。
 独身男が二人そろっても、やっぱり献立は独身男なのだった。

「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
 
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