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ローゼンベルク家の食卓

【4-21-6】繭の外へ

2010/11/06 16:54 四話十海
 
 イースターの休暇が終った日。

「シエン、本当に大丈夫か?」
「うん、オティアも一緒だし」
「そう……だな。うん、何かあったらすぐに戻ってくるんだぞ?」
「うん」

 シエンは初めて、自分の意志で外に出た。オティアと二人一緒に、しっかりと手をつないで。それともう一匹。

「にーう」

 オティアが肩にかけたキャリーバッグには、きちんとオーレが待機している。このお嬢さんは双子が外に出かける仕度を始めるなり、さーっと飛んできてバッグの中にするりと収まったのだ。

「よし、それじゃ行ってこい」
「いってきます」
「ん」

 ディフは野太い笑みを浮かべて手を振り、双子と子猫を見守った。だがドアが閉まるなり、急にそわそわして傍らのレオンに向き直った。

「大丈夫かな。まだ早すぎやしないか?」
「大丈夫だよ」

 やれやれ、思った通りだ。家を出る時間を遅らせて良かった。
 ぽん、ぽん、と肩を叩くがディフはまだ落ち着かない。しきりとドアの方を伺い、手にした携帯に目を走らせる。あの子たちはまだ、エレベーターにも乗っていないだろうに!

「ディフ」
「何だ?」

 振り向いた所を引き寄せ、唇を奪った。びっくりしてる。完全に不意を討たれたらしい。使い古された手口だが、彼には効果てきめんだ。何度キスしても、何度抱きしめても、熟れることはあっても慣れる事はない。キスをする度に驚き、喜び、応えてくれる。
 夫婦が行ってきます、のキスをするのに誰はばかる必要があるだろう? それに今回は彼をリラックスさせて、落ち着かせると言う重要な役目があるのだ。念入りに。丁寧に……
 レオンハルト・ローゼンベルクは思う存分、妻の赤い髪をなで回し、触り心地のよい体を抱きしめた。キスの角度を変える隙に零れる乱れた吐息に。可愛いあえぎに聞きほれた。貪るように深い口付けを終えてからも離れることなくふにふにと触れ合わせ、柔らかな唇の感触を味わった。
 長い長い「行ってきますのキス」が終った頃には、双子と子猫はとっくにエレベーターを降り、ロビーを通り抜け、歩き出していた。

 抜けるような青空を目指し、どこまでも伸びてゆく坂道を。

 まぶしい光を浴びて、歩く。二月の木枯らしは今は遠く、やわらかな風は花と緑の香りを含んで通り過ぎる。1ブロック歩いたところでオティアがちらりと目を向けてきた。

「……大丈夫、まだ行けるよ」

 本当はわざわざ声に出す必要はない。思うだけで通じる。だけど、自分の声で、はっきりと伝えたかった。自分の耳で聞きたかった。

「……OK」

 オティアはうなずき、また歩き出す。
 やがてビルの合間からひょっこりと古びた石造りの建物が現れた。尖った三角の屋根を間に挟んだ四角い塔。壁面に花の形のような、雪の結晶のような円形の窓が開き、アーチに囲まれた入り口の扉はガラス張りで、ピカピカと輝いていた。
 目を細めて丸い窓を見上げる。花模様を形作るフレームの奥にはめ込まれたガラスは、無色透明ではないようだ。かすかに色がついている。それも一色ではない。細かい色の欠片がパズルのように組み合わさっている。
 どちらからともなく、同じ言葉を口にしていた。

「ステンドグラスだ」
 
 ※ ※ ※ ※
 
 携帯が鳴るなり、ディフは速攻で開いた。着信音でオティアからだとわかるより早く……液晶ディスプレイが点滅した瞬間に既に手が動いていた。

「どうした、今どこだ! ……え……何?」

 電話の向こうから、聞き慣れた鐘の音が聞こえてくる。ディーン、ドーン……と深みのある、低い音色が。

「グレース大聖堂まで行ったのか……」
「ひとやすみしたら、帰る」
「うん、わかった。気を付けてな」
「それじゃ」

 携帯を閉じてふーっと盛大に息を吐きだした。いきなりあんな所まで歩くなんて。ずっと家に閉じこもっていたのに、体力が持つかどうか心配だった。念のため、車のキーを持ってずっと待機してたんだが、その必要もなかったようだ。

 イースターはキリストの復活を祝う祭り。古くは春の訪れと木々の芽吹き、生命そのものを祝う日だったと言う。

 ともあれ、シエンは少しずつ体を慣らしながら活動範囲を広げていった。五月にはフルタイムではないもののバイトに復帰し、オティアと二人で花屋にカーネーションを買いに行けるまでになった。

 そして五月の三番目の週、よく晴れた土曜日。

 サングラスをかけた、剣呑な顔つきの二人組が並んで腕組みをしていた。フェリービルディング前の赤レンガを敷き詰めた広場に仁王立ち。一人は背が高く、がっしりしとした体格。ゆるく波打つ赤いたてがみをなびかせて、黒革のライダーズジャケットを羽織った姿はさながら長髪のマイケル・ナイト。隣のGジャンを着た金髪は相方に比べてほっそりと小さく見えるが、それでも丈夫そうな体つきで、血色も良い。サングラスの向こうから油断なく、ぎりっと周囲を睨む姿は小型ながら州知事もかくやと言わんばかりのど迫力。

 口をヘの字に結び、四方ににらみを効かせる二人組の真ん中ではシエンがちょこんと屈みこみ、屋台の野菜を品定めしていた。
 目の前には、真っ赤に熟れたつやつやのトマトが山になっていた。

「ディフ、ディフ」
「ん、どうした」
「これがいい」
「OK」

 ひょい、とサングラスをずらすと、ターミネーター1号は屋台の主に声をかけた。

「このトマトを一山と、それから、そこのジャガイモを一袋くれ」
「はい、まいどあり!」
 
 布袋に入ったジャガイモをひょいと担ぎ、次の屋台へと向かう。トマトはつぶさないように二等分して、シエンとオティアが半分ずつ袋に入れた。

「エコバッグ、足りなくなってきたね」
「よし、そこでカゴを買って行こう」

 土曜日と火曜日、この広場では市場(ファーマーズマーケット)が開かれる。テントの屋根の下にギンガムチェックのクロスを敷いたテーブルが設置され、新鮮な果物や野菜、乳製品や海産物、パンやポップコーン、コーヒーにホットドッグに揚げたてのドーナッツが並ぶのだ。
 食べ物ばかりではない。
 古本や古いレコードを売っている出店もあれば、ビーズや木工製品、手作りの家具やカゴやアクセサリーを売るクラフトショップ、果てはガレージの中味をそのまま持ち寄ったような『アンティークショップ』もある。
 きっちり編まれた手作りのカゴは大きく頑丈で、大量のジャガイモとみっしり巻いた大玉キャベツを入れてもびくともしなかった。

 磯の香りの強い一角にさしかかると、とある屋台でディフが足を止めた。
 細長い、ざらざらの二枚貝がうず高く積み上げられている。まるで大急ぎで作った石垣のようにぎっしりと。

「お、牡蛎だ」
「どうやって食べるの?」
「焼いてもいいし、チャウダーにしても美味い」
「……」

 すぐ傍に置かれた焼き網の上で、半分に剥かれた牡蛎がぱちぱちと音を立てていた。焼き立てのをその場で買って、ほお張る客も多いのだ。
 双子はちらりと牡蛎の山に視線を走らせ、それからじっと顔を見合わせた。

「クラムチャウダーの方が好きか」
「……うん」

 そっと目をそらすシエンの横で、オティアがこっくりとうなずき……ふと、ある一角に目を向けた。

「あ」

 地面に置かれたプラスチックの青いプール。浅く張られた水の中で、平べったい扇型の甲羅の生き物がわしゃわしゃと蠢いていた。

「……カニ」
「ああ、カニだな」
「………冷凍じゃない」
「うん、新鮮だ」

 土曜日の夕食用に、新鮮なイチョウガニ四匹、お買い上げ。

「ヒウェルの分はどうする?」
「スパムの缶詰めでも開けとくか」
「それは……ちょっと……」
「ははっ、冗談、冗談だ。このタラを一匹。それと、そっちの小エビも」

 小エビは言わずと知れたオーレへのお土産だ。そして、ぷりっとした白身の魚は……

「フライにして、タルタルソースをかけてやろう。付け合わせにジャガイモも揚げて」
「揚物ばっかりだな」
「ヒウェルの好物なんだ」
「……野菜、足りないんじゃ」
「心配ない。グリーンピースとトマトも食わせとく」

 ファーマーズマーケットは一種の魔法だ。いつものスーパーに売っている物が違う形で、見たことのない物の隣に並んでいる。あれも買おう、これも試してみようと、つい手が出てしまう。自家製のハチミツ、オリーブオイル、日本のマッシュルーム(シイタケと言うらしい)にナスにリンゴ。
 買い物が終った頃には、三人とも両手にけっこうな量の荷物を抱えていた。これもまた、ファーマーズマーケットの醍醐味。ゆっさゆっさと両手に抱えた袋とカゴを揺らしつつ、慎重に駐車場へと足を運ぶ。市場の立つ日は近くのビルの駐車場が、マーケット用に解放される。少し歩く覚悟をすれば、車を停める所は意外に楽に見つかるのだ。

 マーケットの賑わいが遠ざかり、買い物帰りの人と普通の通行人や観光客の割合が半々になった頃。
 行く手から、もっさもっさと黒い生き物が坂道を上がってきた。

「あ」

 犬だ。かなり大きい。レトリバーの成犬ぐらいはあるだろうか。だがずんぐりむっくりとした体つきは、明らかに子犬だ。
 耳は垂れ、ふさふさの毛並みは真っ黒。左目のあたりに一筋、斜めに白いラインが走っている。黒過ぎて、しかも逆光になっていて表情がまったく見えない。開いた口から伸びた赤い舌、ひらめく尖った白い歯だけがぼうっと浮かび上がって見える。
 大きな体と筋肉をフルに活かし、黒い犬はのっし、のっしと順調に引っ張っていた……リードを持つ少年を。

「……まずいな」

 ディフがずいっと一歩前に出て、双子と犬の間に入った。さらにその背後でオティアがシエンのカバーに入る。
 あの少年、犬を制御できていない。かろうじて突っ走ってはいないが、前に出られている時点で既にリーダーシップを奪われてる。懐いてはいるが従ってはいない。暴走したら危険だ。
 シエンもまた、犬を連れた少年を見ていた。

「あ」

 その瞬間、わずかに体が揺らぎ、伸び切ったエコバックからぽとりと、真っ赤な丸い野菜が落ちる。
 トマトだ。
 市場で買ったばかりの新鮮なトマトはアスファルトの路面で軽くバウンドし、ころころと転がって行く……まっすぐに黒い巨大な犬めがけて。途端に犬がぴーんと耳をあげ、きらきらと目を輝かせた。

「うわっ、サンダー、すとっぷ、すとーっぷ!」

 制止する少年を軽々と振り切って、黒い子犬が走り出そうとしたその瞬間。

「サンダー、ストップ!」

 ブルネットの青年が足早に歩み寄り、ぴしり、と一声命じる。その途端、生きたテディベアはぴたりと動きを止めた。

「座れ」

 もこもこと黒い毛皮が動く。サンダーと呼ばれた犬はきちっと後足をたたんで座り、ぱったぱったとしっぽを振った。
 だが、やはりトマトが気になるのか、ちら、ちらっと目を向けている。青年はさらに厳しい口調でコマンドを発した。

「サンダー、伏せ!」

 怒られたのがわかるのだろう。しおしおと耳を伏せ、ぺたり、と地面に伏せた。
 青年はようやくふーっと肩の力を抜くと顔を上げた。

「ごめん、びっくりしたろ?」
「ああ、もう大丈夫だ」

 ディフもまた構えを解き、サングラスを外して笑いかけた。

「いつ犬飼ったんだ、テリー?」
「いや、こいつは預かりもん。ドッグシッターしてるんだ」
「なるほど」
「弟に手伝ってもらってるんだけど、まだ慣れてなくってさ。あ、名前はビリーっての。ビリー、ディフだ」
「やあ、ビリー」
「……どーも」
「そっちの金髪はオティアとシエン」

 ビリーはくしゃくしゃと髪の毛をかき回し、視線をそらせてふてくされたような口調でひと言。

「……知ってる」
「え」
「えっ?」

 目をぱちくりさせたディフとテリーに向かって、オティアがぽそりと言った。

「中学が、同じだった」
「……なるほど」

 本当はそれだけじゃない。ディフもテリーも、薄々何か感じ取っている。
 だが、今はこれでいい。自分たちとビリーとは前からの知り合いだった。それだけ伝えれば、十分だ。
 
「この犬はサンダー。アニマルシェルターで保護した犬で、今は新しい飼い主の所に居る」
「アダプションされたんだ」
「うん。マージおばちゃんの仲介でな」
「でっかい犬だな! でもまだパピーなんだろ?」
「うん。生後五カ月ぐらいじゃないかな」
「トマト凝視してよだれたらしてるぞ?」
「好物なんだ」
「なるほど」

 ディフはひょいとトマトを拾い上げた。土にまみれて半分潰れている。

「……食わせてやってもいいか?」
「ああ、かまわないよ。サンダー!」

(とまと、とまと、とまとーっ)

 真っ赤なトマトは5秒で犬の腹に消えた。
 
「すごい……もう食べちゃった」
「よっぽど好きなんだな」
「猫と違うね。オーレはちょっとずつ食べるのに」
「根本的に、口のサイズが違うからな」

 改めて見ると、太くて短い鼻面(マズル)といい、丸っこい頭、つぶらな瞳といい、サンダーはテディベアそっくりだ。
 わっさわっさとしっぽを振る巨大な黒いテディベアを見て、ディフは秘かに、いや、かなりうずうずしていた。

「……なでてもいい……か?」
「どうぞ」

 もとより、サンダーにも異存はなかった。
 オティアとディフが思う存分、犬をなで回している間、ビリーがひっそりとシエンに囁いた。

「あれが、お前の家族か?」

 犬に慣れた相手と判断するや、サンダーの動きは目に見えて遠慮がなくなっていた。高速でぶんぶんしっぽを振りながら右に、左にステップ。と、思ったら、今度はごろりとひっくり返ってお腹を見せている。
 遊んでくれる人と会えたのが嬉しくてたまらないらしい。ディフとオティアは並んでしゃがみこみ、わしわしとサンダーの腹をなで回した。
 ディフは顔中くしゃくしゃにして笑ってる。オティアの表情も柔らかい。二人とも、市場で自分をガードしてた時の厳つい顔が嘘みたいだ。
 シエンの口元がほころぶ。それは本当にかすかな、けれど開きはじめた花びらを包む春の陽射しのような、ほんのりと温かい笑みだった。

「うん。あれが、俺の………家族だよ」
「……そっか」

 ビリーはうなずき、それからくいっとテリーに向かって親指をしゃくって言ったのだった。

「あれが、俺の兄貴だ」

 精一杯さり気なく、左右の頬をトマトみたいに真っ赤に染めて。


(テイクアウトpat1/了)

to becontinued

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