▼ さんふらん通信「ぱぱは戸惑う」
- サイト開設5周年を祝して、読者の皆様にあふれる感謝とともにささやかなお話を贈ります。
- ちょっぴり不思議な力を持った双子と、熱血漢なままと、美人なぱぱ、そして周りの人たちのほんわりした何気ないいつもの日常。
- サンフラン(San-Fra)はサンフランシスコ(San Francisco)の略称です。
さらさらと柔らかな絹のような髪の毛。大理石の女神像を思わせる端正で、なおかつ怜悧な知性の輝きを秘めた顔立ち、透き通る紅茶色の瞳。
美貌の弁護士、レオンハルト・ローゼンベルクは戸惑っていた。
キッチンの床の一角を凝視したまま、その優美な細い眉をしかめて途方に暮れていた。
原因は、つやつやに磨かれたフローリングの上にぽとりと落ちた紐状の物体。鮮やかな若葉色のそれは、大人の小指ほどの太さと長さがあり、動いていた。
にゅっ、にゅっと、動いていた。
くねっていた。
要するにそいつはキャベツの切れっ端でもなければ紐でもなく、増して茹で過ぎたホウレンソウ入りパスタでもなければ、スナップエンドウでもない。
れっきとした生き物、いわゆる「青虫」と言う存在だったのだ。
(……困った)
くわしい種類はわからないが一応、知識として鱗翅類の幼虫だと理解はしている。問題は何故、それがマンションの六階のキッチンにいるのか、と言うことだ。
可能性はいくつか考えられる。
その1。
ベランダの家庭菜園から紛れ込んだ。土も葉っぱもあるから、有り得ない事ではない。ディフとシエンがこまめに手入れをしているが、
「それでもどっからともなく卵産みにやって来るんだ。あいつら根性あるな」
って事らしい。
可能性、その2。
ファーマーズマーケットから買ってきた『新鮮』な野菜にくっついて来たのがこぼれ落ちた。
畑からほとんど人の手を経ずにやってきたのだ、こう言ったことはままある。
「新鮮な印だ。虫が食うほど上手い野菜だってことだろ!」
どちらの場合もディフは動じる事なく青虫を回収し、紙にくるんでぽいっとゴミ箱に入れていた。
自分はいつもそれを見守っていただけだ。触れたことなんか一度もない。
だから、困っている。
いつも青虫の対応を任せているディフは今、シエンと一緒に買い物に出かけているのだ!
にゅっ、にゅっ、にゅっ。
青虫がのたうつ。
眉間の皴が深くなる。
どうする。電話するか?
「ハロー、キッチンの床の上に青虫がいるんだけど帰ってきてくれないか」
いや、駄目だ。一家の主がたかだか青虫一匹でワイフを電話で呼び戻すなんて! あらゆる意味で駄目過ぎる。
アレックスを呼ぶ事も考えたが、子供の頃ならいざ知らず、いい年の大人が「青虫を取って」なんて執事に言えるだろうか?
第三の選択として、ヒウェルを呼ぶのはどうだろう。……いや、無しだ。駄目だ。うかつに彼に借りを作ったら、後々まで何かにつけて言われるに決まってる。
『そーいやレオン、あん時の青虫には度肝を抜かれましたよねぇ』と得意げに。
却下だ。あいつに得意そうな顔をさせるぐらいなら、青虫を素手で掴んだ方がよっぽどましだ。
やったことがないだけで、サリーのように『苦手』と言う程じゃない。
ここは家長の尊厳をかけて、自分で解決するしかない。
意を決して屈みこみ、伸ばしたその指先で……
にゅっ!
「………」
青虫が派手にのたうち、レオンは硬直した。
この不規則に動くぐにぐにした生き物に触れるなんて、考えただけで虫酸が走る。(青虫だなだけに)
床に膝をついて、手を伸ばしたまま途方に暮れていると。
ちりっと鈴の音が聞こえた。
刹那、白い旋風がかけぬけ、青虫が消える。いや、実際には移動していたのだ。得意げにこっちを振り返る、白い猫の口に!
「…………オーレ」
白いほっそりした猫は、とことことレオンの目の前に歩いてきてきちっと座った。
しっかりと青虫をくわえて、期待に目を輝かせている!
だが、獲物はまだ動いていた。
にゅっ。にゅっ。にゅっ。
(どうしよう。どうすればいい!)
正直、猫は苦手だ。虫はもっと苦手だ。苦手なものが、苦手なものをくわえている。この厄介な連鎖からどうやって抜け出せばいいんだ!
その時、意外な方向から救い主が現われた!
「オーレ」
食堂の入り口に、くすんだ金髪に紫の瞳の小柄な少年が立っている。珍しい事に双子の片割れは買い出しに行かず、家に残っていたようだ。
愛しの『おうじさま』によばれ、オーレはたたたたたっと小走りに駆け寄った。得意げに鼻面を膨らませ、しっぽをつぴーんっと立てて細かく震わせている。
「よくやったな」
オティアは平然と青虫を受け取るとティッシュでくるみ、すたすたと食器カゴの方へと歩いて行く。
「……これでいいか」
洗い終わって干してあったピクルスの空き瓶を選び、テーブルに乗せた。
さらに冷蔵庫からキャベツを持ち出し、外側の葉をちぎって瓶に入れて、その上にぽいっと青虫を放り込む。
仕上げに瓶の口にキッチンペーパーを被せ、手際よく輪ゴムで止めた。
「どうするんだい、それ」
「ディーンに持ってく。これはモンシロチョウの幼虫だ。観察の役に立つ」
執事の息子ディーン・オーウェンは好奇心旺盛な4歳児。目下の所、昆虫図鑑が愛読書なのだった。
床に屈みこむと、オティアは改めてオーレの頭を、耳の後ろ、顎の下を撫で回した。オーレはうっとりと目を細め、ぐいぐいとオティアの手に顔をすりつけている。結果として、ものすごい力でオティアの手に体がこすられるが、当猫はいたって上機嫌。ごろごろ咽を鳴らしている。
撫でられているのか、自分から撫でさせているのか、あるいはその両方か。
「行くぞ」
オティアはひょいっと白い猫を抱きあげて、襟巻きみたいに首にくるりと巻き付ける。
そのまま青虫入りの瓶を手に、キッチンを出て行った。見送ってから、レオンはほーっと胸をなで下ろした。
レオンハルト・ローゼンベルクは一つ、学んだ。
(なるほど、ああすればよいのだな)と。
今後も青虫が落ちていたら、まずオーレを連れて来よう。自分はただ、受け取ればいい。それで万事、解決だ。
ただし、ティッシュは………2枚重ねておこう。
※
その後。
帰宅したシエンの目の前にオティアはとんっとピクルスの空き瓶を置いた。
「どうしたの、これ」
「落ちてた。オーレに噛まれてるんだ」
「むー……」
シエンは腕組みして、キャベツの葉っぱに乗っかった青虫をにらんだ。
「治せると思うか?」
「塞ぐだけなら?」
瓶の中で、ショリショリとキャベツをかじる青虫をじーっと見つめて、双子はどちらからともなく手を伸ばし、瓶の口にかざした。
青虫の治療と言う、前代未聞のチャレンジが始まろうとしていた。
一時間後。
疲労困ぱいしながらも、爽やかな表情のオティアがオーウェン家の呼び鈴を押した。
父親に呼ばれたディーンはピクルス瓶の中味を見るなり飛び上がって大喜び。
何度も「すげえ!」と「ありがとう!」を連発する息子をアレックスとソフィアはほほ笑ましく見守った。
……ただし、ソフィアはほんのちょっと離れた所から。
(さんふらん通信「ぱぱは戸惑う」/了)
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