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ローゼンベルク家の食卓

風邪引きサクヤちゃん

2012/07/17 2:01 短編十海
  • 拍手お礼用短編の再録。サンフランシスコでディフが寝込んでいたのと同じ頃、サクヤちゃんも風邪を引いて熱を出し、寝込んでいました。
  • 一人奥座敷で眠るサクヤちゃんの枕元に、やって来たのは……。
 
 こん、こん、こんっ。
 狐が鳴いてる。
 ちょっとちがう。
 狐はこんな声出さない。
 これは絵本の中で作られた『狐の声』。

 こん、こん、こん。

 やっぱり、ちがう。この音は今、自分の咽から押し出されてるんだ。

 1995年11月半ば。結城サクヤは熱を出して寝込んでいた。看病と移動が楽なように自分の部屋ではなく、一階の日当たりの良い、庭に面した和室に布団を敷いて。

(久しぶりだなあ……)

 小さい頃は体が弱くてしょっちゅう、こんな風に熱を出して寝込んでいた。母やおじさん、おばさんが神社の仕事で忙しい時は、必ずよーこちゃんがそばに居た。

(お見舞いにセミの抜け殻持ってきたこともあったなあ……お煎餅の缶いっぱいに)

 今は、よーこちゃんは遠いアメリカに行っちゃったけど……猫たちと犬が一緒に居てくれる。ふかふかのあったかい体で寄り添ってくれる。
 時々手を伸ばして、ふわふわの背中を撫でた。一人じゃない。そう思うと、安心できる。

 熱で頭はぼわぼわに煮えて膨らんで、思い出すのは悲しいことや辛いことばかり。
 鼻の奥に、濃い赤色のトゲトゲしたものが居座ってる。鼻をかんでも、うがいをしても消えない。もうずーっと離れてくれないんじゃないかなこれ。
 くしゃみと咳で体がきしむ。咳するのがつらい。痛い。咳が出そう……と言う前触れが出た段階で怖くなる。がまんしても止められず、そんな時の咳は結局、余計に苦しい。
 お医者さんにも行ったし、薬ももらった。だけど飲んだからすぐに効いてくれるってものじゃない。
 じっと横になって、回復を待つしかない。今はそんな時だ。
 眠ろう。
 とにかく、眠ろう。
 眠ってしまえば、その間は少なくとも解放される。この頭の奥が軋むような痛みからは……。
 目を閉じてじっとしていると、とろとろと意識が霞み始めた。そのまま力を抜いて、まどろみの中に降りて行く。ああ、よかった、これでちょっとは楽になれる、と思ったんだけど。

 甘かった。
 つるつる滑りやすいプールサイドに必死でしがみついていた。爪を立てても、指に力をこめても、ずるっと滑って落ちてしまう。
 塩辛い水の中でもがいて、浮かび上がって、首を伸ばす。
 やっとはい上がったと思ったら、またつるっと滑って後戻り。追いつめられてもがく。落ちる。もがく。一番嫌な瞬間が繰り返しループする。
 夢の中でも、苦しいのが続いてる。
 ぜい、ぜい、ひゅううう……と咽の奥から嫌な音がしている。

「く、る、し……」

 吸っても吐いても空気が通らない。
 息が、できない。

「た、す、け、て」

 ぴた、と頬に優しい手があてられた。

「あ」

 腫れ上がっていた咽が、すーっと楽になって、息ができるようになった。塩辛い水のプールも、つるつるの壁も消える。あったかい空気の中にぽわぽわと浮かんでいた。オレンジ色の淡い光に包まれて……。

 ぽやーっとしながら目を開ける。眠る前により、ちょっと楽になっていた。
 枕元に誰かいた。猫だけじゃない。犬だけじゃない。人間が、部屋の中にいる。おじさんかな、と思ったけど違うみたいだ。もっと背が低くい。髪の毛はふわふわした茶色で、心配そうにのぞき込む目は、目尻が下がっていてちょっと眠そうだ。

「よ、サクヤ」
「ゆーじさん?」

 まだ夢を見てるんだろうか?
 本当は昨日、おじさんと一緒に『エンブレイス』に行く予定だった。だけど熱を出してしまって行けなかったのだ。残念だなって思ってたから、ゆーじさんが夢に出てきたのかな。
 でも、だったらどうして自分の家なんだろう。お店じゃなくて……。

「何で俺の家にいるの? ゆーじさんがいるのはお店だよ?」
「……」

 ゆーじさんはきょとんとした顔で何か言いかけた。だけどそれより早く、ばさばさっと音がして真っ黒な翼が割り込んできた。真っ黒なくちばし、真っ黒な足。
 カラスだ。
 それもただのカラスじゃない。

「へーい、サクヤー! ないすとぅーみーちゅー!」

 人間の言葉でしゃべってる。

「あーいたかったぜべいべぇ!」
「え、え、クロウ? 何でここにいるのっ?」
「Youに会いに来たに決まってるじゃーん!  あいにーぢゅー、ゆーにーぢゅみー! 愛し合ってるかーいっ」
「こら。静かにしろ」

 ぺちっとゆーじさんが後ろから、クロウの頭を手のひらで叩いた。

「あうちっ!」
「大げさな声出すんじゃねえ! それほど強く叩いてねぇだろが」
「くわわっ、どーぶつぎゃくたいはんたーいっ」
「人聞きの悪ぃ冗談抜かすな!」

 いっぺんに目が覚めた。

「やっぱりゆーじさんだ」
「おう。寝込んだって聞いたからな。見舞いに来た」
「いぇーっ、お見舞い、お、み、ま、いーっ」
「うるせえ」

 またぺちっと叩かれてる。そんな一人と一羽の様子を、神社の三匹の猫……おはぎとみつまめ、いそべの三匹がちょっと離れた所から見ていた。三匹ともうつ伏せにうずくまり、前足を畳んできちんと香箱を作って。
 微妙な距離と、そろいもそろってぴっと臥せられた耳が語っていた。

(あ、うるさいの来た)
(うるさいの来た)

「どれ、熱は下がったかな」

 ゆーじさんは手をのばして頬に触れた。さっき、夢の中で優しい手が触れていた場所だ。

「んー、まだちょっと熱いな……冷えぴとシート、取り換えておくか」
「うん」

 おでこに貼った冷却ジェルシートは、すっかり乾いて落ち葉みたいに干からびていた。
 ちょっと引っ張っただけで、簡単にはがれてしまった。ゆーじさんは枕元に置かれた新しい袋を開けて、一枚取り出して、裏の透明なシートをはがす。けっこうコツがいるんだけど、さらっとはがしてる。

「ほれ、でこ出せ」
「ん」

 目を閉じて顎を引く。心持ち前に突き出されたおでこに、ぺとり、とやわらかなシートが触れる。
 さらにその上から、ふっくらした手のひらが丁寧にシートを押さえてくれた。

(気持ちいい……)

 うっすら開けた目に、ゆーじさんの顔が写る。さっきより近い。眼鏡無しでこの人を見るのは初めてだった。
 顎の回りがぽわぽわと、うっすら灰色に霞んでる。最初は汚れてるのかなと思ったけど、よく見たらちがっていた。

(ヒゲ?)

 剃りわすれたのかな。
 伸ばしてるのかな。
 どっちだろう?

「あ、薬のまなきゃ」
「起きられるか?」
「うん……」

 のそっと体を起こそうとしたら、上手く力が入らなかった。ずるりと崩れ落ちそうになった体が途中で止まる。

「あれ?」

 あったかい腕が、支えてくれてる。ゆーじさんが抱き留めてくれたんだなってわかるまでに、ちょっとだけ時間がかかってしまった。

「慌てなくていいから。ゆっくり、ゆっくりとな?」
「う、うん」

 すぐそばで響く穏やかな声。何だかとっても気持ちいい。
 ゆっくり、ゆっくり、あわてずに。
 ゆーじさんに支えられて布団の上に起き上がる。枕元のお盆に置かれた薬と水に手を伸ばそうとすると。
 
「あ、ちょっと待った」
「え?」

 ゆーじさんは、銀色の保冷バッグからちっちゃな丸いタッパーを取り出した。大きさはアイスクリームのカップぐらいで、多分陶器でできている。蓋を外すと、そのまま食器として使えるタイプのだ。
 小さなスプーンを添えて渡してくれた。

「これ、何?」
「シャーベットだ。薬飲む前に、何か腹に入れておいた方がいいだろ?」
「ありがとう」

 ひんやり甘いりんごのシャーベット。ちょびっとシナモンが入っていて、口に入れると淡雪みたいに溶けた。
 鼻と咽がすーっとした。火照った体に気持ちいい。どんなに冷やしても届かなかった、咽の奥が楽になる。

「これ、ゆーじさんが作ったの?」
「ああ」
「すごいなー」
「割と作るの楽だぞ。リンゴをジューサーでガーっとやって、砂糖で軽く煮て、ヨーグルトと混ぜて冷やすだけだから」
「そうなの?」
「ジュース使うと、もっと早い。あ、凍らす途中で時々かきまぜるの忘れるずにな」
「泡立て器で?」
「いや、へらのがやりやすい」
「今度作ってみる!」

 目を輝かせて話を聞くサクヤを見ながら、神楽裕二は思っていた。
 来て良かった、と。

「その前に風邪治さないとな?」
「……うん」

 薬を飲んで横になると、ぱたぱたとクロウが枕元に降りてきた。

「こもりうたうたってやろっかーっ?」
「よさんか!」
「うぐわっ」
「寝てろ、サクヤ。こいつは俺が押さえてるから」
「んぐぐぐぐぐ」

 むんずとくちばしを押さえられ、クロウは目を白黒。おかしくて、くすくす笑いながら目を閉じた。

「おやすみなさい」
「おやすみ」

 治った後に楽しいことが待ってると思うと、不思議と眠るのも怖くなくなった。

  ※

 ちょうどその頃、サンフランシスコの聖アーシェラ高校女子寮では……。
 一人の女生徒がおっかなびっくり、ルームメイトを見守っていた。今日は朝から元気がなかった。さらに夕食後、部屋に戻ったらいきなり机につっぷしてしまったのだ。
 眼鏡も外さず、そのまま。

(居眠り?)
(気絶?)
(どうしよう、誰か呼んで来た方がいいかな)

 おろおろしていると、急にがばっと起き上がった。
 
「よ、ヨーコ……大丈夫?」
「うん、平気」
「そう、なら、いいけど」

 やっぱり体調良くないのかな。いや、ひょっとしたら落ち込んでるのかも? そろそろホームシックにかかる頃合いだし。
 同じアメリカから来た自分だって寂しいんだもの。ましてこの子は、他の国から来たんだから。

「えーと、んーっと」

 この子を元気づけるには、やっぱり……

「フローズンヨーグルト食べる?」
「食べる!」

 よし、成功。

「さんくす、カリー。心配かけてごめんね」

 結城羊子は眼鏡を外して、ふっと吹いて。きゅっきゅとティッシュでレンズを拭うとかけ直し……

「もう、大丈夫」

 ほほ笑んだのだった。

(風邪引きサクヤちゃん/了)

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