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ローゼンベルク家の食卓

うたた寝-オティアの場合

2011/03/21 0:10 短編十海
 
 オティアは困惑していた。ひざの上の猫を抱えて、ほんの少しばかり。

 向かいの席では、ヒウェルが一心不乱にノートパソコンを打っている。
 夕食の時間より少し早めにふらりとやってきて

「悪ぃ、ちょっと時間詰まってるんだ、場所貸してくれ」

 とか言ってカタカタやり出して。
 食後の紅茶を飲んでからまたこっちに戻り、そのまま続きを始めた。
 本宅の居間には珍しく早く帰ったレオンがいたから、それなりに気を使ったのだろうか? だったらおとなしく自分の部屋で仕事をすればいいだろうに。

 まあいい。
 それ自体は別に困ったことじゃない。ただ黙って向きあってるより気が紛れるし、こっちもこっちで好きなことができる。
 これまでもこいつが仕事をしてるのを目にしたことはあった。だが、改めてこうして正面から見ると………

(『あれ』はまだ、本気じゃなかったんだな)
 
 目が半分、虚ろになっている。画面全体を見ているからだろう。単に自分が今打ってる文字のみならず、その前の部分とのつながりをも確かめているのだ。何について書いているかはわからない。だが真剣なのは確かだ。
 普段は居てもせいぜい1時間かそこらだ。それなのに今日は仕事を再開してから3時間、一言もしゃべらず打ち続けている。まばたきはおろか、呼吸も忘れてるんじゃないか?
 と、思ったら今度はやにわに目を閉じて考え込み、微動だにしなくなった。
 見ていても一向に動かないので、手元の本に視線を戻す。そのうちカタカタとキーをタイプする音が再開し、ああまた書いてるんだな、と気付く。

 単調な音を聞いているうちに、眠くなってきた。
 時計を確認する。
 もう、薬を飲む時間だった。
 台所に行き、ケースから今夜の分を取り出して水で流し込む。だいたい20分もすれば眠くなる。
 居間からはカタカタと言う音がまだ聞こえてくる……
 ヒウェルの意識はまだあっち側にトリップしたままらしい。

 しかたがないのでソファに戻り、ほおづえをついて眺めた。
 
「みゃうぅん」

 ひょい、とオーレが飛び乗ってきて足の間で丸くなる。
 あったかいすべすべした毛並みを撫でているうちに、とろとろと眠気が押し寄せてきた……
 
    ※
 
「ふぅ……」

 最後の1センテンスを打ち込むと、ヒウェルは大きく息を吐き、背筋をそらせた。
 ぼき、みし、ぺき。
 背骨が鳴る。
 ゆっくりを首を左右に傾ける。
 眼鏡を外してまぶたの上から目を押さえ、軽くマッサージしてから再びをかけ直す。

 と。

(お?)

 オティアがゆれていた。
 ソファにすわったままひじ掛けにほおづえをつき、こっくりこっくりと舟を漕いでいる。
 急にかくっと前にのめり、はたと目を開けた……半分だけ。

「オティア」
「………あ?」

 紫の瞳はとろーんと霞み、微妙に焦点が合っていない。
 極めてレアな状況だ! こいつがこんな表情してるなんて……しかも、俺の目の前で!

「眠い?」
「んー」

 ほわほわと雲の中を泳ぐような動きで口を開いた。

「くすり、のんだ……ねる……」

 しまった。もうそんな時間か!
 時計を見ると、23時30分……ほんの30分のつもりが、3時間と30分経っていた。
 
(やばい、またタイムワープしちまった!)

 いつもこうなのだ。原稿が佳境に入ると時間を飛び越えてしまう。
 大事なこと、到底忘れるはずがないと信じているはずのことがすっぽり脳みそから抜け落ち、目の前の画面と指と頭以外の物体が消失する。
 脳内に浮かぶ言葉を、指を通じてデジタルな紙面に打ち込む作業に没頭してしまう。

「そっか……おやすみ」
 
 オティアはこてん、とソファに横になり、アンモナイトみたいにもそもそと体を丸めた。すかさず腕の中に白い毛皮がしゅるん、と流れ込む。一人と一匹はまるで一匹の生き物みたいに寄り添って、まんまるになって目を閉じた。
 
(くそっ、可愛すぎるぜっ)

 感動にうちふるえて……いる場合じゃない。

「おいおい、こんなとこで寝るなよお前。ちゃんとベッドに行かないとっ」
「んー……」

 聞いちゃいねえ! しかも、もふもふとオーレの毛皮に顔をうずめちまった。寒いのか、鼻先。

「しょうがねぇなあ……」

 うたた寝の責任は自分にある。かくなる上は、ちゃんとベッドまでお連れするしかあるまい。そーっと手を伸ばして抱き上げようとした。が。
 指先が触れるより早く、にゅっとオーレがかま首を持ち上げ、カッと牙を剥いた。耳が完全に後ろに寝ている。ものすごく目つきが悪い。
 声は出ていない。だが、シャーっと咽の奥から威嚇の音が吹きつけられる。

「わかった、わかった……」

 手のひらを立てて『降参』を示しっつ後ずさり。
 …………まだこっち、にらんでるし。背中の毛、逆立ってるし。
 美人が台無しだよ、オーレさんやい。

(しかたない)

 足音をしのばせて寝室へ。
 本人をお連れするのが無理ならば、毛布を持ってくるしかあるまい。ついでに枕元に置かれた青い時計に手を伸ばす。
 忘れもしない去年の9月の誕生日、シスコ中探し回った揚げ句にようやくフリーマーケットで見つけた青い目覚まし時計。

(ずっと使ってくれてるんだな)

 青い時計をテーブルに載せ、そっとオティアに毛布をかける。
 うっすら目をあけてこっちを見ている。と思ったらもそもそと口を動かし、小さな小さな声でぽそり、とささやいてきた。ほとんど声になっていなかったけれど、幸い自分は唇が読めるし、耳もいい。

『Good night(おやすみ)』

「………ああ」

 とろとろと微睡む姿を見守った。もう、一晩中このまま過ごしたいとさえ思ったが、自分がここにいる限りこいつは熟睡できないだろう。
 静かに静かにノートパソコンを閉じて小脇にかかえ、明かりを落とす。
 静かに静かにドアを開け、静かに静かに廊下を歩き、本宅に戻る。

 と。

「よぉ、ヒウェル」

 満面の笑みを浮かべた赤毛さんが腕組みして、どーんと仁王立ちして待っていた。
 身振りでくいっとサイドテーブルを示す。

「あ、はい、置けってことですね」

 ノートパソコンを置くやいなや、首筋にぶっとい腕が巻き付いてきた。

「今何時だと思ってる」
「23時35分」
「その時間まで、あの子の部屋に居座るとはどーゆー了見だ。あぁん?」

 うーわー。笑顔だけど目が笑ってない。声もいつもより低くてドスが利いている。
 まさしく地獄の番犬、なう。
 
「そ、それは、その……」

 助けを求めてちらりと視線をさまよわせる。
 牙を剥いた地獄の番犬の向こう側で、レオンが穏やかにほほ笑んでいた。
 ぴしぃっと心臓が凍りつく。
 一方で思考は分泌するアドレナリンによって加速され、急速にカチカチと音を立てて回り出す。

 オティアが心配でディフがここに居る、と言うことは。必然的に彼が寝室に引き上げる時間が遅くなると言うことで。
 イコール、夫婦二人っきりの時間も遅くなる。
 結果。

 レオンもご機嫌斜め。
 ディフの手綱を押さえるつもりは、さらさらない、と。

 瞬時に腹をくくり、ヒウエルは正直にありのままを自白した。

「仕事に夢中になってたら、時間の経過を忘れてまして」
「ほう」
「オティアが薬飲んだの、気付かなかっ……」

 ヘッドロックが速やかにオクトパスホールドに組み直され、ぎちぎちぎちっと締め上げられる。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ」

 ぱぱににらまれ、ままに技をかけられて、サイレンモードで平謝り。
 全身の骨と言う骨をぎちぎち言わせながらも、ヒウェルは秘かに幸せだった。

(丸まってうとうとするオティアが可愛かった)
(俺におやすみって言ってくれた!)
 
 110402_2152~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 
 笑顔こそ引きつっていたものの、ひたひたと胸の内を満たす幸せに打ち震えていたのだった。

(うたた寝-オティアの場合/了)

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