▼ 君は臆病者じゃない
Web拍手御礼用の短編を再収録。
本編の始まる2年前、ディフが警察を辞めた直後のお話。
まだ恋人になる前だった二人。
「……よいしょっと」
署のロッカーから持ち帰った私物を部屋に運び込む。
できるだけ余計な荷物は置かないようにしていたつもりだが、けっこうな量があった。
班の連中からは、せん別に腕時計を贈られた。例の事故でずっと使ってたやつが壊れてしまったから、代わりに、と。
真新しい時計を腕にはめてみる。
オメガのスピードマスタープロフェッショナル、文字盤は黒。
頑強な手巻き式、世界で最初に月に降り立った腕時計。裏蓋にはシーホースの浮き彫りと、『THE FIRST WATCH WORN ON THE MOON』のロゴ。
参ったな。これ、俺が使ってたやつよりグレード高いじゃないか! ったく、安月給で無理しやがって。
バンドの長さを調節していると、携帯が鳴った。
送信者は「ダンカン・マクラウド」……親父だ。少しためらってから開いて。応答ボタンを押し、耳に当てる。
「ハロー?」
「警察を辞めたそうだな、ディフォレスト」
いきなり本名で呼んできた。堅い口調、重たい声だ。つり上がった眉が。眉間の皺が、見えるような気がした。
「………ああ。昨日づけで辞表を出した」
「中途半端な覚悟でバッジを着けるなと言ったはずだ。命の危険があるのはわかっていた事だろう」
「父さん………」
「この、臆病者が!」
電話越しに怒鳴られた。びくっとすくみあがる。
のこぎりみたいにギザギザで、そのくせ切れ味の悪い刃物で容赦無くぶったぎられたような気がした。
腹の底からひしひしと熱が失われ、凍り付いてゆく。
息が苦しい……。
視界に写るのは、自分のつま先と部屋の床。目に見えない手で頭をぐいと押さえられ、知らぬ間にうつむいていた。
久しぶりの親子の対話が、これか。
声の激しさより、言われた言葉が胸に突き刺さる。
『臆病者』
この世で一番言われたくない言葉だ。特に父さん、あなたには。
一度だって俺は目の前に立ちふさがる敵や困難、降り掛かる危険から逃げたことはない。少なくとも自分の意志で立ち向かえる時はそうしてきたし、それが俺の誇りでもあった。
振り絞っていたのは、勇気と言うよりむしろ意地だったのかもしれないけれど……。
俺は、俺なりに真剣だった。
だけど。
もう、二度とレオンにあんな悲しい顔はさせたくない。
そのためなら、どんなことでもする。どんな代償も喜んで払おう。
だから黙って父の言葉を受けとめる。
言い訳はしない。処理中の爆弾が爆発し、死にかけた。退院した直後に辞表を出したことは逃れようのない事実なのだから。
「恥を知れ、ディフォレスト」
「父さん」
「お前のような息子を育てたことを、私は一生悔やむだろう。お前に勇気と言う物の本当の意味を教えてやることができなかった」
「……っ」
謝罪の言葉だけはどうしても、最後まで口にすることができなかった。
※ ※ ※ ※
その夜遅く。
レオンが部屋に戻り、電気のスイッチを入れると、ひっそりと居間のソファにうずくまる影が居た。
別に不思議はない。隣の部屋に住んでいるし、自由に出入りできるよう、合鍵も渡してある。
「……ディフ」
のろのろと顔を上げた。
「どうしたんだい、明かりもつけないで」
いきなり、しがみついてきた。
どくん、と胸の中で心臓が縮み上がる。
久しぶりだった。彼とこんな風に触れあうのは。
ディフが爆発事故で入院して以来、少しずつ二人の距離は変わりつつあった。親友と言うには近く。恋人と呼ぶにはまだ遠く。
溺れる子どものようにぎゅっと服を握りしめ、すがりついてくる。
想いを封印し、ずっと親友でいようと心に決めたのはレオン自身。けれど自ら立てた誓いが今にも揺らぎそうで、懸命に自制心を振り絞る。
「俺は……臆病者なんかじゃ……ない……」
低い、かすれた声でそれだけ言うと黙ってしまった。
歯を食いしばり、震えている。
抱きしめて、髪を撫でた。首筋を覆う絆創膏の下の、真新しい火傷の跡に触れぬよう、細心の注意を払って。
ディフは喉の奥で小さくうめき、胸に顔を埋めてきた。
ほんの少しの間、学生時代に……ただの親友同士に戻ったような気がした。
※ ※ ※ ※
時間が流れて行く。
ディフの左手首に巻かれた真新しい時計が、正確無比な動きで時を刻む。秒針の回るかすかな震動さえ聞き取れそうな静けさの中で。
レオンはずっと抱きしめていた。
肩の震えが収まり、乱れた呼吸が穏やかになるまで、ずっと。
やがて彼は顔を上げ、赤くなった目をごしごしと拳でこすり、はずかしそうに言った。
「サンキュ、レオン」
「こすっちゃだめだよ」
「あ……うん。顔、洗ってくる」
手を離し、ざかざか洗面所に歩いて行くとディフは蛇口をひねり、ばしゃばしゃと勢い良く顔を洗った。
洗ってからシャツの袖をまくるのを忘れていたことに気づく。
胸も、腹も、だいぶ濡れている……と言うよりもはや乾いている場所の方が少ない。
ミスった。
舌打ちするとシャツを脱ぎ、下に着ていた白いTシャツ一枚になる。
タオルで顔を拭い、鏡を見ると……嫌でも首の絆創膏に目が行く。
おそらく跡が残るだろうと医者に言われた。別に今さら傷跡の一つ二つ増えたところでどうってことはないのだが、この場所はちと目立ちすぎる。
客受けもあまり良くなさそうだし、何より、見るたびにレオンが悲しげな顔をする。
幸い、後ろ髪を伸ばせばカバーできそうな位置だ。
(伸ばしてみるか。もう警察官じゃないんだし)
鏡に映る自分と目が合う。白目の部分は赤く充血し、瞳はうっすらと緑に染まっている。
だが……表情は穏やかだ。
さっきまであれほど己の中で荒れ狂っていた冷たい嵐が、今はきれいに凪いでいた。
その時、思った。
誰に何と罵られようが。
何があろうが。
レオンが居るなら、俺は大丈夫かもしれない……と。
脱いだシャツを肩にかけ、居間に戻った。
※ ※ ※ ※
「ディフ」
戻るなり名前を呼ばれる。
透き通ったかっ色の瞳が見つめていた。いれたばかりの紅茶みたいにあったかい。
素直に思った。
何てきれいなんだろう。
「何だ?」
「君が臆病者じゃないのは俺がちゃんと知ってるよ」
それは、ディフが今、何よりも求めていた言葉だった。まっすぐに胸の中に飛び込んで、冷えきった心臓を貫いて。
じんわりと温める。
凍り付いた魂を溶かしてゆく。
「……不意打ちだぞ……レオン」
ぼろっと涙がこぼれる。止まらない。
そのくせ、顔がほころんでしまう。ほほ笑んでしまう。
「ありがとな、レオン。吹っ切れた。親父に何言われても、もう気にしねえ!」
だまってレオンがハンカチをさし出してくれた。受け取り、顔を拭う。
「……もう一度、顔洗ってくる」
「そうだね。そうした方がいい」
はずかしそうに首をすくめると、ディフは洗面所に引き返して行った。
そうだ。俺は、大丈夫だ。
何度、踏みにじられたって、罵られたって、立ち上がれる。
レオン、お前がいてくれるなら。
(君は臆病者じゃない/了)