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ローゼンベルク家の食卓

アフターミッション

2008/05/23 19:07 短編十海

 フレデリック・パリスが逮捕された日の夜。
 その日『カリフォルニアの青空』は一日中鉛色の雲に閉ざされ、7月だと言うのに冷たい雨が降っていた。
 自宅に戻っていたレオンは重たい足音を聞いた。

 足を引きずる様な足音が、エレベーターから出て廊下を歩いて来る。
 あのエレベーターを使うのは3人しかいない。自分と、アレックスと、そしてディフだ。
 アレックスは既に自室に下がっている。だとしたら、上がってくるのは一人しかいない。

 いつもディフが帰ってくる時は、エレベーターから自分の部屋のドアまでリズミカルに大またで歩いて行く。
 しかし今夜の足音はまるで別人だ。
 やはりこたえたのだろう。こたえないはずがない。そうと知って為した事だ。全てはディフを守るために。
 悔いはない。

 だが、それでも彼が今、悲しい顔をしているのかと思うと胸の底が少し、痛んだ。
 リビングの片隅に設置されたミニバーへと足を運び、棚に並ぶ酒の瓶に目を走らせる。琥珀色の液体を満たしたボトルを一本選んで取り出した。


 ※ ※ ※ ※


「……よぉ、レオン」

 元気がないな。塩で揉んだレタスみたいだ。耳を伏せて、しょんぼりうなだれた犬にも似ている。

「いい酒をもらったんだ。一緒にどうだい?」

 手の中のボトルに目をとめると、ディフは嬉しそうにほほ笑んだ。

「いいねぇ。入れよ」

 彼の後をついてリビングに入る。
 引っ越して間もない部屋は既にきっちり片付けられていた。警察の激務の間によくぞここまで、とも思うがもともとあまり物が無かったからだろう。
 例外は本。
 意外に彼の蔵書は多かった。警察学校の教科書やカレッジの参考書、爆発物処理班に移動が決まってからは新しい部署の仕事を覚えるため、片っ端から本を読みまくって必要な知識を吸収していったらしい。

 そして……もう一つ。台所用品も実に充実していたのだった。

「座っててくれ。グラス、持って来るから」
「ああ」

 ソファに腰かけていると間もなく、グラスを二つと銀色のアイスペールをぶらさげて戻ってきた。フタを開けると透き通った氷がカラコロと心地よい音を立てる。

「いくつだ?」
「そうだな……とりあえず、二つ」

 曇り一つないカットグラスに氷を入れて、とろりとした琥珀色の酒を注ぐ。手にとったグラスを軽く触れ合わせてから各々の口に運んだ。

「ああ、いい香りだ」

 ディフはバーボンよりスコッチを好む。 身の内に流れるスコティッシュの血が呼ぶのだろうか。あるいは水が合うのか。
 水もソーダも入れず、ただ氷だけ浮かべてくいくいと飲む。そして自分の中を満たす深い香りに目を閉じて感じ入るのだ。
 いつもはそんな風にして酒そのものを愛おしむように飲んでいるのだが……今夜は、心無しかピッチが早い。

 原因の一端が自分にもあると知っているから、レオンも止めずに付き合った。
 黙って盃を重ねていると、インターフォンが鳴った。

 のっそりとディフが立ち上がり、受話器を取る。

「あぁ……来いよ。今、レオンと飲んでる。うん。じゃ、また後で」
「誰か来るのかい?」


 ※ ※ ※ ※


 居間に通されるなりヒウェルは目を剥いた。

(ハイランド・パークの40年ものじゃねえか! こいつら、自分より年季の入った酒を、くいくいくいくいと惜しげもなく!)

「お前ら………なんっつー雑な飲み方を………」
「大丈夫、足りなかったらまた持ってくるから」
「そう言う問題じゃねーっ!」

 ため口叩いてから相手がレオンだと気づき、ほんの少しだけ焦った。が、今はそれどころじゃない。

「飲むなとは言わん。水かソーダで割れ。でなきゃ、せめて、腹に何ぞ入れてから飲め!」

 レオンは肩をすくめ、ディフはしばらくヒウェルの顔を見てから……何事もなかったかのように、くいっと飲んだ。氷も何も入れずに。

(こいつ……割る気ないな?)

 ちらりと見たウィスキーのボトルは既に半分以上空いていた。見ている間にさらに一杯注いでくいっと飲んだ。
 一息に。
 いつもはこんなにピッチの早い奴じゃない。
 原因を作ったのが他ならぬ自分の書いた記事だとわかっているだけに、止められない。

「ああ、もう……台所借りるぞっ」


 ※ ※ ※ ※


 ヒウェルがキッチンに行ってしまうとディフはグラスを置き、ぽつりとつぶやいた。

「……電話……来たんだ…ロッカールームで…」
「うん」
「嫌な感じがした……あの時……何で話しかけなかったんだろう…」

 目を伏せている。透き通ったヘーゼルの瞳が半ば閉じた瞼の陰になり、暗い憂いの色を帯びる。
 
(話しかけてもおそらく何も変わらなかっただろうな)
(君と出会うよりずっと前から、彼は悪事に手を染めていたんだから)

 思っても口には出せない。言える訳がない。

「人生はそんなことの積み重ねだね。言えなかったことなんていくらでもある……」

 まばたきするとディフは眉根を寄せ、まなじりを下げた。今にも泣き出しそうな切なげな表情で自分の両手を見つめ、ぐっと握る。

「………あの子の手の感触が…忘れられないんだ」

 口の端がほんの少し歪み、震えている。必死で堪えているのだろう。
 黙ったまま肩を寄せる。手を伸ばし、ゆるやかに波打つ赤い髪をなでた。それと知らずに初めて抱き合った夜のように。

 ディフはゆっくりとこちらを見ると手を伸ばし、きゅっと服を掴んだ。
 震える声が囁く。

「お前は……急にいなくなったりするなよ、レオン?」
「ああ……約束する」

 ほっとした顔でほほ笑んで、こてんと肩に頭を乗せてきた。


 ※ ※ ※ ※


 料理は滅多にしないがバイト先で習い覚えた酒のつまみなら手慣れたもんだ。

 冷蔵庫を開けると、さすがに充実している。とりあえず卵を4つ。オレンジ色の鍋に水を注いで火にかけ、ボイルする。
 卵がゆで上がるまでの間にトマトを1cmの輪切りにして。
 ツナ缶にみじん切りにしたタマネギとマヨネーズ、塩、こしょうを加えて混ぜ合わせ、輪切りにしたトマトの上に盛って、仕上げにパセリを散らす。

 ゆであがった卵を取り出し、一旦冷水にひたしてから殻を剥いて、横に二つに切る。
 まずは白身の先端をちょいと水平に削いですわりを良くして。
 さらに黄身を取り出し、白身の切片も一緒くたにすりつぶしてカラシと酢とウスターソースと塩、こしょうを混ぜて練り合わせる。


 店で出すなら、こいつを口金のついた袋に入れてきゅっと絞り出す所だが……。
 どうせ食うのはぐだぐだの酔っぱらいだ。気取る事もあるまい。
 白身のくぼみに適当にスプーンで盛りつけ、仕上げにパプリカを散らして、デビルドエッグのできあがり。

 ついでに生のニンジンとキュウリも切ってスティックにしてみた。

「さてっと……こんなとこかな」

 できあがったつまみを大皿に盛りつけ、リビングに戻ると……。
 
 ぴとっと肩寄せ合ってる奴らがいたりする訳で。しかもディフの奴、レオンの肩に頭乗せてもたれかかってやがる。
 何なんだ、この、むずがゆい空気は。
 何やらいたたまれない気分で立ち尽くしていると、レオンがこちらを見て手招きしてきた。言われるまま傍に寄るとひょいと手が伸びてきて、デビルズエッグを一つ取った。

「ほらヒウェルがつくってくれたよ」
「ん……」

 さし出された卵を、ディフは素直にはもっと口に入れた。
 レオンの手から、直に。

 お前って奴はっ! ああ、もう、見てる方が恥ずかしい。
 そーらこんなもん見せつけられたんじゃあパリスの奴も嫉妬に狂いもするよなあ、と妙に納得しているとレオンが苦笑して、ディフから身体を離した。
 ほんの少しだけ。

「まだそんなに飲んでないだろ?」
「……ごめん、横着した」

 恥ずかしそうな顔をして、今度は自分の手で二つ目をとった。
 どうやら気に入ったらしい。
 でもなあ、ディフ。
 口の端に、すりつぶした卵の黄味くっつけてほほ笑むな。
 拭いてくれ。
 頼むから。

「ん?」

 さすがに気づいたらしい。無造作に軽く握った拳でくいっと拭って、じっと見て……
 あ。あ。あー……
 やっぱ舐めたか。

「美味いな、これ」
「そりゃどーも」

 ことん、とつまみを盛りつけた大皿をテーブルに乗せると、レオンが酒瓶を掲げた。

「ああ君は水割り? それともソーダ割りにするかい」
「……ソーダで。あるよな?」
「ああ、冷蔵庫に」

 再びキッチンに向かう。冷蔵庫から缶入りのソーダを一本とり、ついでにグラスを持って居間に戻った。
 まったく、いつもちょこまか動くはずの奴が今日はどっかり座ったまんま、動きゃしねえ。

 ……まあ、仕方ないわな。

 その後、野郎三人で顔つきあわせてぐたぐだ飲んだ。
 1本目のボトルはあっという間に空になり、ディフが爆発物処理班のチーフからもらったとか言う16年ものを出してきて2本目に突入。

「いい酒はストレートで味わうのが一番なんだよー」
「ええい、言ってることは正しいが限度ってものを知れ!」

 用意したつまみは好評で、ばくばく食ってる。もっぱらディフが一人で。レオンはほとんど手をつけない。


(に、してもえらい食いっぷりだな……お前、今日まともに食事してないんじゃないか、もしかして?)

 やがて、豪快にあくびをすると、ディフはぱたっとソファに突っ伏して、すやすやと寝息を立て始めた。
 まったく予想の斜め上を行ってくれるねお前って奴は! ここは、普通ならいびきをかくところだろうがよ。

「そろそろ出ますかね、アレ」

 レオンがすっと立って奥へ歩いて行き、まもなく見なれた茶色の物体を抱えて戻ってきた。ほぼ同時にディフがむくりと起きあがる。


「……俺のクマどこ?」
「ここだよ」
「あった……」

 絶妙のタイミングでぽふっと手渡されたクマを大事そうに抱え込むと、今度こそディフはお休みになられてしまった。


「……片付けますか」
「そうだね」

 アイスペールを手にレオンが立ちあがった瞬間、かろん、とトングが床に落ちた。
 まるで彼の手から逃げ出したみたいに。

「おっと」

 慌てて拾おうとするレオンの手の中でアイスペールがぐらりと傾き、溶けかけた氷が今にもこぼれ落ちそうになる。
 あわてて押さえた。

「………すまないね」
「……俺がやっときますから」
「………じゃあ『こっち』を運んでおく」

「お願いします」


 ※ ※ ※ ※


 注意深くディフを抱き上げると、レオンは寝室へと歩き出した。
 腕の中でディフはクマをしっかりかかえて眠っている。無邪気な顔だ。こうしていると、あの時とちっとも変わらない。

 そっとベッドに横たえるとうっすらと目を開けた。

「レ……オ……」
「ここにいるよ」
「ん……」

 ほっとした表情で顔もふっとすりよせて、手を握られてしまった。試しに引き抜こうとしたけど、骨組みのがっちりした指がしっかりとからみつき、びくともしない。

 困ったな。
 これじゃ、動けない。
 さて、どうしよう?


 ※ ※ ※ ※

 
 皿とグラスを洗い終わってもレオンはまだ戻ってこない。どうしたんだろうと様子を見に行くと。

「やあ、ヒウェル」

『姫』は少し困った顔をして、しっかりとディフに捕まっていた。察するに『俺のクマどこ?』の第二段階が発動したらしい。

「あーその…お助けしましょっか。それとも俺、お邪魔?」
「ああ……ん。助けてくれないかな」
「それじゃ……ちょっと失礼して」

 屈み込んで、ぽしょぽしょと耳打ちする。
 ルームメイトをしていた一年の間、この寝ぼけ癖が出るたびにずーっと俺の声を聞いてたんだ。きっと効果はあるはずだ。

「……な? だから安心しろ」
「うん……」

 効果てきめん。するりと手を放した。

「……何を?」
「レオンはいつだってお前の隣にいる、だから安心しろって」
「……そうか」

 クマ抱えて幸せそうな顔して熟睡してやがる。

「馬鹿だ、こいつ」

 もう聞かれる心配がないと思うと気が抜けて、ぽろりと本音が口からこぼれた。

「俺に恨み言の一つでも吐けば、ちったあすっきりするだろうと思って……わざわざ出向いてやったってぇのに」
「ディフにだってわかってるさ、どうしようもなかったんだって」

 くいっと眼鏡の位置を整えつつレオンの顔をねめつけた。目線を斜めに傾げて。

「……あー、まったく。だから放っとけねーんだ」
「面倒見がいいのはディフだけじゃないね」

 わかってないな。
 へっと笑って軽く首を横に振る。

「あなたも『込み』ってことですよ…‥それじゃ、片付け終わったんで俺は退散します」

 二人並んでディフの部屋を出ると、レオンが鍵を閉めた。(合鍵を持ってると知っても、今さら驚く気にはならなかった)

「おやすみ」
「おやすみなさい……」

 エレベーターの扉が閉まる。
 一人になって、考える。

 あの二人を守ることに少しでも役に立ったのなら、使われるのも悪くないかもしれない。


(アフターミッション/了)


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