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ローゼンベルク家の食卓

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2008年5月の日記

【side3】チョコレート・サンデー

2008/05/03 22:11 番外十海

【attenntion!】タイトルに『★★★』の入っている作品には男性同士のベッドシーンが含まれています。十八歳未満の方、および男性同士の恋愛描写がNGの方は閲覧をお控えください。

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【side3-1】今夜の飯はいらない

2008/05/03 22:16 番外十海
 ポケットから携帯を出して、アドレス帳からDの項目を選ぶ。
 選択肢は三つ。事務所か、自宅か、携帯か。

 事務所にかければオティアが取るかもしれない。
 あ、いや、ちょっと待て……発信者名を見てそのまま無視するって可能性もあるな。ってかその方が高い。
 所長がいる時は言葉少なに呼ぶだろう。あるいは、オティアより先にディフが自分からとるかもしれない。
 どのみち、かなりさみしい結果になるのは目に見えてるし。好き好んでそんな思いをすることもなかろう。

 だから携帯の番号を選び、発信した。
 かけてから『あ、もしかしたら取り込み中で出られないかも』と気づいた。

 1回、2回、3回。

 やっぱメールにするか。かえってその方が気が楽だ。
 皮肉なもので、そう思った瞬間にディフが電話に出ちまった。

「どうした?」
「ああ、いや、大した用事じゃないんだけどさ……今、外か?」
「ああ」
「話して大丈夫かな」
「だから出た」

 そうだよな。
 腹をくくって用件を切り出す。

「今夜は取材だから、俺、夕飯いらない」
「わかった」
「それだけだ。じゃあ、な」
「おう、気をつけてな」

 電話を切った瞬間、ふう、とため息がもれた。嘘をついてるわけじゃない。だが真実のみを話した訳でもない。
 約束の時間まではまだ少し間がある。何か腹に入れてくか……。

 さて何を食おうか。
 歩きながら考える。今夜の仕事は場合によっちゃ帰りにアルコールの入る可能性がある。車で行く訳にはいかない。

 サンドイッチか、バーガー、ブリトー、ドーナッツ。どうせ一人で飯食うんだとにかく手っ取り早く食えるものがいい。
 ふらふら歩いていると、青い看板を見つけた。Nestleのアイスクリームスタンドだ。
 十二月にしちゃ、そこそこあったかい日だった。

 たまにはいいか。

「コーンで、ダブル……チョコミントとロッキーロード」
「トッピングは?」
「そうだな、チョコレートソース」
「ホイップは?」

 そーいやここのスタンドはオプションの数が豊富だった。うかつにうなずいていると、コーンアイスを食おうとしたはずがほとんどチョコレートサンデーに、なんて状態になりかねない。

「………無しで」
「サンバは?」

 サンバってのはニワトリの卵より二回りほど小さな菓子だ。マシュマロを卵の殻みたいに薄いチョコレートで包んであって、そのまま食っても美味い。

「お願いしよっかな」
「一つ? 二つ?」
「……一つで」

 そう、こいつも油断してるとデフォルトで二つついてくるんだっけ。
 店員は慣れた手つきでカシャっとサンバを半分つぶすようにしてアイスに乗っけた。

「ほい、おまちどう」
「サンクス」

 はたと気がつくと、マシュマロとナッツの入ったチョコレートアイスの上にさらにチョコシロップがかかって。さらにその上に半壊したチョコレートでコーティングしたマシュマロが乗っかってると言う、けっこうヘヴィな状態ができあがっていた。
 セーブしたつもりだったんだが……腹減ってる時にこの手の食い物をオーダーしちゃいかんよなあ。

 社会に出て自分で稼ぐようになってるから余計に危険だよ。
 心置きなく金を使えるようになった(ある程度は)から、その気になりゃいくらでもオプションを追加できるからな。
 いや、いっそチョコレートサンデーにした方が早かったかもしれない。

 手元から濃厚なチョコレートの甘い香りがたちのぼる。
 道を歩きながらアイスに口をつけた。
 舌の上にアイスの冷たさと、少しぬるめのチョコレートシロップがとろけて広がる。
 さすがにチョコレートばかり三倍がけはちと甘かったかな……。

『そんなにチョコばっか食って飽きないのか、お前』

 頭の中でディフが言う。あきれたような口調で。さっき電話で聞いたのより高くて、にごりのない少年の声で。

 言われるたびに答えたもんだ。

『うん。好きなもんはいくら食っても飽きないね』


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【side3-2】★チョコレート・サンデーでもどう?

2008/05/03 22:22 番外十海
 高校のころ、よく近所のソーダファウンテン(ソーダとデザートと軽食が中心の食堂)にディフと二人でアイスを食いに行ったもんだ。
 ほんとはサンデーにしたかったけど、そこは懐具合と要相談。普段はせいぜい、チョコレートアイスにチョコシロップとチョコチップをオプションでかけるぐらいが関の山だった。

「そんなにチョコばっか食って飽きないのか、お前」
「うん。好きなもんはいくら食っても飽きないね」

 そう言うディフもずーっとバニラアイスをコーンで食ってばっかりいたから人のことは言えないと思う。
 思えばあの頃から奴のアイスの食い方はどこかしらエロかったんだが当時は俺もそのことには気づかなかった。

 理由は簡単。まだ知らなかったんだ。自分がゲイだって。

 自分で言うのも何だが、高校時代の俺はそこそこ女の子に好かれた。それも上級生に。
 来るものを拒む理由なんざある訳もなく、にっこり笑ってよろしくWelcome。
 そのうちディフもホッケークラブに入って放課後忙しくなって、自然とソーダファウンテンに出かける時は上級生のお姉様とご一緒にってことが多くなり、チョコレートサンデーをおごってもらう機会も増えていった。

 そんな毎日の中にもぽこっと空白の日はある。

 その日、たまたま俺は一人でソーダファウンテンに行った。ディフはホッケーの練習で、お付き合いしている女の子も予定が合わなかったのだな。

 アイスクリームのケースの前で財布の中身と相談しつつ何を食おうか悩んでいると、不意になめらかな声で話しかけられた。

「君、うちの学校の子だよね。一年生?」

 何気ない一言なのに、まるで音楽でも聞いてるような心地よい声で、店のざわめきの中をくぐり抜け、すうっと耳に届き心に響いた。
 つられて声のする方に顔を向けると、さらさらした赤みがかった金髪にサファイアの瞳、白い陶磁器みたいな肌のたおやかな美人がほほ笑んでいた。

 ……男だったけど。

 年は一つか二つ上、ってことは上級生だな、たぶん。

「そーですけど」
「やっぱりね。見覚えあると思ったんだ。今一人?」
「ええ、まあ」

 それがアッシュ・ボーモントとの出会いだった。
 もっとも後になって聞いたんだが向こうはそれより前から俺のことをご存知だったらしい。

「一緒にチョコレートサンデーでもどう?」
「いや、俺、今金なくて」
「おごるよ」

 タダほど怖い物はない、と言いたい所だが好物の前には警戒心がゆるむ。
 世の中には男に惚れる男もいると、知識として知ってはいたが実感はなかった。まあ人目もあるし、店の中なら妙な事にゃーなるまいと、ありがたくごちそうになることにした。

 で、同じテーブルで向かい合って、学校の話なんかしながら二人してチョコレートサンデー食って。
 けっこう共通の知り合いなんかもいることがわかったりしてそこそこ楽しいひとときを過ごし、さてそろそろおいとましようかと思ったら……。
 

「……チョコ、ついてる」

 鮮やかな青い瞳でまじまじとのぞきこまれ、白いほっそりした指でつうっと頬をなでられた。

(やばっ!)

 その瞬間、背筋がぞわっとなった。嫌悪と言うより、むしろ気持ち良くて。
 アッシュはぺろっと指先をなめて、ほほ笑みかけてきた。

「それじゃまた学校で、ね。ヒウェル」


 ※ ※ ※ ※


 その言葉通り、その後もたびたびアッシュとは出くわすようになった。時には学食で。あるいは学校の廊下、図書館、各種店舗で。
 いつの間にやらストロベリー・ブロンドの髪も、青い瞳もすっかり見なれて生活の一部になった頃、次のステップが訪れた。

「週末、僕の家に遊びに来ないか?」
「先輩の家に?」
「うん。君の他にもクラスの友だちが何人かくるけど」
「……いいっすよ」

 当時は俺も素直な子だった。
 別段疑いもせずに約束の時間に遊びに行くと、先方の両親は外出中。来るはずだった他の友だちも

「ああ、急に都合が悪くなったらしくって」で、結局二人っきり。

 何っかこれって女の子を誘う時の手口に似てないか? なんて思ってると……。
 アッシュは冷蔵庫を開けて何やらカチャカチャとやり出して。やがて濃密なチョコレートの香りが漂い始めた。

choco2.jpg

 ガラスの器にアイスクリームが三種類山盛り。チョコミントとチョコレート、チップドチョコとチョコづくし。
 さらにその上にとろ〜りと大量にチョコシロップをかけて、ぱらりとアーモンドクランチを散らす。
 スプレー式のホイップクリームをぷしゅーっと乗せて、しあげに瓶詰めのチェリーを一粒。

「召し上がれ」
「いただきまーす」

 ソファに座ってお手製のチョコレートサンデーを食ってる俺を、彼はにこにこしながら見守っていた。

(やっぱこれ女の子誘う時の手口じゃねーか? もしかして俺、誘われてる?)

「ごちそうさまでした」

 さすがに若干の懸念を抱きつつもしっかり食べ終わった所で、肩を抱かれた。

「チョコ……ついてる」

 何となく予想していた展開だった。しかし、直に顔を寄せてぺろりと舐められるのはさすがに想定外。

「あ……」
「可愛いよ、ヒウェル」

 うろたえた所を押し倒され、そのままキスされた。彼がさっきまで飲んでいたジンジャーエールの味がした。

(ま、いっか。美人だし。この際だから男も一度試してみよう)


 で、試してみたら案外いけちゃったんだな、これが。


 こうしてアッシュとの『おつきあい』が始まってからひと月ほどたった頃。
 ディフからデートに誘われた。
 と言っても1on1じゃない。気になる女の子がいるけれどいきなり二人っきりってのは照れくさい。だから2対2でWデートしたいんだ、ともちかけられたのだ。

「あー、せっかくだけど俺、今つきあってる人いるから」
「そうか。それじゃ、彼女連れてこいよ」
「いや、彼女じゃなくって……彼なんだよね」
「彼?」
「うん。三年の男子。俺、ゲイなんだ」

 あーららら目、丸くして硬直しちゃってるよ、この赤毛さんは。まあしかたないよな、テキサス生まれだし。この手の話にゃ馴染みも薄かろう。

「別に珍しいことじゃないさ。サンフランシスコではな」
「そ、そうか」

 薄すぎてあっさり素直に信じちゃったらしい。

「…………………む」

 かと思ったら拳を握って、口んとこに当てて何やら考え込んでやがる。

「何だよ、深刻な顔して」
「なあ、正直に教えてくれ。俺ってゲイ好きのするタイプか?」

 ちょっとだけ迷う。
 まあ、アレだな、確かにこいつはふつーにストレートに女の子が好きな奴だ。
 でも、なあ。
 今ならわかる。お前のアイスの食い方、それヤバいよ。
 舌伸ばしてぺろぺろ舐めて、口のまわりに白いのぺたぺたつけちゃって。さすがに気づいたかな、と思ったら手の甲でぐいっと拭って、親指舐めてるし。
 ストレートの男女ならどーってことない。食べ方が下手だな、子どもだなあ、と思うだけだろうが、ゲイの目から見ると激しく『そそる』。
 またこいつが目ぇ細めてうっとり幸せそうな表情するから……。
 単にアイスが好きなだけなんだってわかっちゃいるが、ついろくでもない方向に想像力が突っ走る。アイス以外の物を舐めてる姿を想像しちまう。
 わざとやっても。狙ってもこうは行くまい。
 下手に意識しちゃったら、かえって危険だよな、こーゆータイプは。だからとりあえずさらりと否定してみる。

「全然」
「そうか……」
「まちがってもお前は男ゴコロをそそるタイプじゃないから」
「そうか」

 ほっとしているらしい。何があったんだ、ディフ。

「相手の女の子、脈有りなんだろ? そーゆー時は1on1でデートしたいって言え、チャンスだから!」
「でも俺、女の子連れてけるようなとこ知らないし」
「そらしょうがないわな、テキサスから出てきたばっかなんだし? 素直に言っちゃえ。『俺、どこいったらいいかわかんないから教えて』って」
「む……」

 あ、また考え込んでるし。女の子に頼るってことにまだ抵抗があるようだ。意地っ張りだねえ。
 まあこの体格で腕っ節も強いんだから(しかも当人に自覚があるだけに)無理もない。どれ、ここは一つコツを教えてやるとするか。

「なあ、ディフ。相手が男でも女でも、王女様みたいに扱ってみろ」
「王女様?」
「そう。敬って、大切にして、しんどい時は遠慮なく寄りかかって、わからない時は素直に教えを乞うんだ。でもいざとなったら守る。全力でな」
「……わかった、やってみる」

 この時『恋愛で』と限定しなかったのは生涯最大の失敗……だったような気がしないでもないが。

(まさかレオン相手に応用してたとは! 素直すぎにも程がある)

 その後、ディフはそこそこ女の子にモテるようになったんだから効果はあったと思うべきだろう。
 ただ、男相手に妙な吸引力を発揮するようになったのは計算外だった。

 アッシュとの付き合いは彼が卒業するまで続いた。

 その後は俺も何となく決まった相手と付き合う気になれなくて。
 2年に進級してからは特定の恋人を作らず、もっぱら偶然の出会いを楽しみ、適当に遊ぶことにした。
 男でも女でもアッシュほどの美人にはおいそれとお目にかかれなかったし。レオンハルト・ローゼンベルクに手を出すほど俺は命知らずではなく……ディフとの友情も失いたくなかったのだ。

 ある時、たまたま声をかけてきた上級生(男)を何気なくリードをとって逆に押し倒してみた。
 キス一つで自分の腕の中で相手が熱く濡れ溶けて行く手応えをはっきり感じた。わずかに唇を離した時、うるんだ瞳で相手が可愛く喘いだ瞬間……自分の中で何かが目覚めた。

 その夜、家に帰ってから里親に告げた。

「ママ。俺、どうやら男の方が好きみたいなんだ」

 サンフランシスコと言う土地柄か。あるいは持って生まれた大らかな性格故か。お袋は逃げも叫びもせずにさっくりうなずいた。

「ああ、やっぱりね。なんとなくそんな気はしていたのよ。HIVの検査だけは受けときなさいね」
「うん」


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【side3-3】ここまでは仕事

2008/05/03 22:25 番外十海
 カストロ通りがゲイ・コミュニティの本拠地なのは事実だが、何もシスコのゲイが全てその場所にだけ存在する訳じゃない。
 レインボーフラッグこそ背負っちゃいないが空気のようにさりげなく、そこら中に居ると言っても過言ではないだろう。

 同好の士が顔を合わせて。普通に飲んで、肩のこらない話をして、意気投合したらベッドの中へご一緒するも自由。飲むだけでさよならももちろん有り。
 そんな大人の出会いの場所になる店も、ごく普通に存在する。しかしながら一定のルールは確かに存在し、店の中でコトに及べば手が後ろに回る。あくまでここは飲んで話すだけ、それ以上は店を出てからどうぞ……と、言う訳だ。

 その日俺が取材でやってきた店もそんな場所の一つだった。

 通りに面したブロンズ色の階段を降りてゆくと、ステンドグラスをはめ込んだ分厚い木の扉に突き当たる。
 半分地下に埋もれた店内はそれほど広くはない。濃いめの茶色を基調にした市松模様の床と家具類は人の目と体を柔らかく受けとめて、いい具合にくつろがせてくれる。

「よう、ヒウェル」
「ども、おひさしぶりです」 

 約束の時間より少し早めに顔を出すと、バーテン兼店主がひょいと片手を上げて迎えてくれた。
 大学時代、俺は勉学の傍らこの店でバイトして、学費の一部を稼いでいたのである。賄いが食えるから食費も浮いたし、カクテルや酒のつまみの作り方も覚えた。
 なかなか実入りのよいバイトであった……あらゆる意味で。

「早かったな。まだ店開けてないぞ」
「問題ないですよ、話聞きたいのはあなたで客じゃないし。手伝いましょうか?」

 腕まくりしてカウンターの内側に入る。

「ついでにインタビュー始めてもいいすかね」
「かまわないよ。むしろ、それが目当てなんだろ?」
「まぁね」

 ボイスレコーダーを取り出し、カウンターに置く。
 インタビューと言っても肩ひじ張った話をするわけじゃなく。グラスを磨いたり。テーブルを拭いたり。準備をしながら、世間話をするみたいにして言葉を交わす。
 実際、録音したことの6割近くは他愛のないおしゃべりだ。
 しかし、その中にたまにこちらの仕込んでおいた質問なんかよりよほど気の利いた事が出てきたりするから面白い。

「相変わらず手際がいいな。転職するならいつでも面倒みるぜ?」
「ありがとーございます」

 一通り話を聞いて、開店準備もあらかた終わった所で店主がぽそりと聞いてきた。

「ところでこの録音……聞くのはお前さんだけ、か?」
「ええ。アポとるのも、インタビューするのも、テープ起こしするのも書くのも写真撮るのも俺一人、オールセルフです」
「それじゃあ、何言ってもかまわないよな」
「……ええ、まあ、どうぞ?」

 こほん、と軽く咳払いすると店主はちらりとこちらを見上げて。かすかに白い歯を見せて、笑った。

「そーいやお前さん、バイトの後でよく客を口説いていたよな」
「…………バレてました?」
「まあな。あの頃はお前さん目当ての客もそこそこ増えていたし。お前も仕事中に口説くことだけはしなかったもんな」

 そう、俺が口説くのはあくまで勤務時間外。店の中ではあくまで客と店員、ルールは守った。それ故に大目に見てくれていたらしい。
 言うなればここは、バイト先であると同時にかつての俺の狩り場でもあった。

(だから何となく後ろめたかったのだ)
(あわよくば仕事帰りに……なんてことも考えてなかったとは言い切れない)


「ところでこれ、何の取材だったっけ」
「新聞の日曜版」
「いいのかね? うちみたいな『独特』な店」
「いいんじゃないすか? ゲイの集まる店をってことで俺にお鉢が回ってきたんだし。それにゲイだって日曜版は読みますよ」
「ま、そりゃそうだ」


 ※ ※ ※ ※



 やがて店が始まり、ちらりほらりと客が訪れてきた。
 手持ちのカメラで仕事中の店主の写真を撮る。

 この角度か……いや、こっちからのも捨てがたいな。
 ああ、もうちょっと濃い目の酒持ってる絵が欲しい。一枚撮って、これだと思って見ているうちにまた欲が出る。夢中になってシャッターを切っていると、不意に話しかけられた。

 音楽的な響きのなめらかな声で。店の喧噪をすうっとくぐり抜け、記憶の底にすとんと届いた。

「もしかして、ヒウェル?」

 顔を上げると、仕立ての良い明るいベージュのスーツを着たすらりとした男が立っていた。赤みがかった金髪、わすれな草の花にも似た鮮やかな青い瞳。

「……アッシュ?」
「やっぱりヒウェルだ。久しぶりだね。もしかして仕事中?」
「あ、いや。もう終わります」

 相変わらず美人だな。ってか、ますます磨きがかかってる。着ているものの趣味もいい。あの頃の毛並みの良さそのままに、少年から一人前の男になったって感じだ。

 いいね。
 すごく、いい。

 ぱちぱちとまばたきすると、アッシュはちょこんと首をかしげた。

「そっか……それじゃあ、一緒にチョコレートサンデーでもどう?」
「すっごく魅惑的なお申し出ですけど先輩、ここ、飲み屋ですよ?」
「うん、だから、僕の家で」

 ああ、なるほど。そう言う意味か。彼も今はフリーってことらしい。きっと冷蔵庫にはチョコシロップと瓶詰めチェリーとアイスが常備してあるのだろう。基本的な手口は変わってないんだな、この王子様は。

 カメラをしまって立ち上がる。邪気のない笑顔を浮かべて。

「いいですね! ごちそうになっちゃおっかなー」

 店主が目を丸くしてこっちを見てる。彼にだけ見えるよう体をひねり、眼鏡の位置を直すフリをしながら口元に指を当てて笑みかけた。
 軽く肩をすくめられる。

 ここまでは仕事。でも、これからは……。

「それじゃ、出ようか」
「はい、先輩」

 にこにこしながらアッシュと連れ立ち、店を出た。


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【side3-4】★★★絹のネクタイ(1)

2008/05/03 22:28 番外十海
 店を出て歩き出す。
 メインストリートから角ひとつ曲がり、細い道に入ったところで腕をからめ、半ばすがりつくようにして体を預けた。
 かすかに笑う気配がした。

「どうしたんだい、ヒウェル」
「待てない」

 目を細めてのびあがり、耳元に囁く。甘えた子犬が鼻を鳴らすような声で。ここ数年ほどのあいだとんと出番がなかったが、まだ錆び付いてはいなかったようだ。それとも、彼が相手だからだろうか?

「ホテル……行きましょう、先輩」
「わかったよ。行こう」

 思った通りだ。この人の目に写る俺は、未だに可愛い下級生のままなんだ。
 腕をからめたまま歩き出す。

(そう、家じゃ困るんですよ、先輩。思いっきり声も出せませんから、ね)

 あえて行き先はアッシュに任せてみた。彼がどんなホテルを選ぶのか少々興味があったし、この時点ではまだ思わせておく必要がある。
 リードをとっているのは、あくまで彼自身だと。

 誘(いざな)われたのは、俺が今まで足を踏み入れたことのないような趣味のいい……しかしながら、格式の高さにビビらずにすむ程度にカジュアルなホテルだった。適度に表通りから引っ込んだ場所にあって、出入りに気を使わずに済む。
 アッシュは慣れた感じでさくさくフロントで鍵を受け取り、俺を先導してエレベーターに乗った。
 なるほど、常連さんって訳ですか。
 服装や態度からして、大企業の若き重役候補ってやつかな。確かこの人の父親はシリコンバレーのでかい会社の重役だったはずだ。

 部屋に入った所でわざと体をすり寄せ、甘えた声で呼びかける。

「先輩……」
「どうしたんだい。積極的だね」

 優しくほほ笑んでる。
 ああ、今すぐにでもその金色の髪に指をからめたい。抱き寄せて体中なで回してやりたい。が、我慢だ。
 もう少しの辛抱だ。

「俺だってもう大人ですよ」
「そうだね。何だか新鮮だよ。ネクタイしめてる君って」
「それは……先輩もですよ」

 手を伸ばして、そっとタイに触れた。すべすべしてるな。おそらく絹だ。指をからめて、しごくようにして撫で下ろしつつ小さく出した舌で唇の周りを舐め回した。

「よく似合ってる」

 ぐい、と引き寄せられ、キスされた。
 この人には珍しく強引な動きだが、誘いをかけた自覚はある。目を閉じてうっすらと唇を開くと待ちかねたように舌が差し入れられた。
 力を抜き、委ねた。
 見てみたいな。いったい今どんな表情(かお)してるのだろう。口の中で彼の舌が踊り、柔らかな先端でくすぐられる。
 まるでダンスでもしているみたいに軽く、穏やかな動き……記憶の中にあるのと同じ、優しいキスだ。
 やっぱりあなたって人は、どこまでも王子様なんだなあ、アッシュ。

「ん……」

 わずかに唇が離される。ゆっくり目を開いた。

「相変わらずキスうまいっすね、先輩。くらくらした」

 白い頬にうっすら紅がさしている。青い瞳はつやつやと濡れて輝き、わずかに息が荒い。頬に手をのばし、軽くなでると優しくほほ笑まれた。

「でもね……今の俺は、それだけじゃ足りないんだ」
「っ、ヒウェル?」

 ぐいと肩をつかんでベッドに押し倒す。はっと息を飲む気配がして、サファイアの瞳が見開かれる。驚いてるな? いい顔だ。
 目を開けたままのしかかり、唇を奪った。

「ん……うっ」

 深く重ねて今度は俺から舌をねじ込み、むさぼるようにして舐め回す。逃げようとする相手の舌を押さえ込み、根本から先端まで執拗に舐め上げた。くり返し何度も。赤みがかった金髪に指をからめてなで回すと、絡めた舌がびくびく震えてかすかな震動が伝わって来た。

「う……ううっ、うっ」

 顔、しかめてる。さすがに苦しいかな。少し顔を浮かせて重なりを浅くして、その代わりに重ね合わせた舌を互いの口に出入りさせてみる。
 わざと派手な水音を立て、唇の表面をこするようにして。
 押しのけようとした手の動きが止まり、背中に回されて……すがりついて来た。余韻を楽しみつつ唇を離す。どちらのものとも知れぬだ液があふれて、端正な白い顔を汚していた。

「く……うん……はぁ……あ……」

 顔はもとより首筋、耳、まで赤くしながら喘いでいる。きっちりとスーツに包まれた体もさぞいい色に染まってるだろう。
 想像もできなかったな。この人が俺の腕の中でこんな表情(かお)を見せてくれるなんて。

「確かに思い出は美しい。だけど後ろばっか見てちゃだめですよ、アッシュ」

 上着の中に手を差し入れて、シャツの上からなで回しながら脱がせてゆき、肩から滑り落した。
 襟元からタイをほどいて抜き取る。

「じっくり味わってください、今の俺を」

 体の前で白い手首を合わせて。やさしく腕を上にさしあげ、きっちりと縛った。ほどいたばかりの絹のネクタイで。

「あ……何……を……っ」
「恐がらないで。あなたを傷つけるような事はしません」

 無防備にさらされた喉をくすぐり、うなじに舌をはわせた。

「一緒に気持ち良くなりましょう。ね、先輩?」
「よ……せ……ヒウェルっ」
「いいんですか? ここで止めても?」

 くりっと膝で足の間を刺激すると、くぐもった悲鳴があがった。思った通りだ。もうしっかり熱くなってる。悔しげに唇を噛むと、アッシュはにらみつけてきた。
 ああ、まったく何ていい顔してるんだろう。背筋がぞくぞくする。

「思い出に浸るのは今夜だけにしましょう。帰ったらお互いに全て忘れるってことで。OK?」
「わかったよ……好きにすればいい」

 ぷい、と顔を背けられた。

「可愛いですよ、アッシュ。待っててください。すぐ、脱がせてあげますから」

 それが必ずしも真実ではないってことは俺自身が一番よく知っている。ズボンのベルトを外し、金具を外してジッパーを引き下ろす。
 慌ただしくシャツの裾を引き抜き、ボタンを外してゆく。前をすっかり開けてしまうと、肌着をたくしあげた。


「ああ、残念。きっちりアンダーシャツ着てるんだ……ちょっと期待してたんですけどね。シャツの下ヌードじゃないかなって」
「何を、馬鹿な事をっ」

 陶磁器のようになめらかな白い胸を露出させ、まずは存分に目で楽しませてもらった。

「明るい所であなたの体をしみじみ見るのって、初めてですよね。俺とする時はいつも部屋を暗くしていたから。もったいないことしましたよね……こんなにきれいなものを隠していたなんて」
「きれいだなんて……言うな……」
「だって本当のことですから?」

 だいぶ息が乱れてきたな。鎖骨に合わせて舌を這わせてみる。

「このラインなんか、最高」

 びくっと震えてすくみあがった。いい反応だ。意識の隅でちらりと思う。もしかしてこの人、ずーっとタチばっかりやってたんだろうか?
 こんな風に弄られることに、あんまり慣れてないような気がする。

「乳首、こんなにいい色してたんですね、先輩。ピンク色で、すごく美味しそうだ」
「ばかっ、何……言ってるっ」

 囁きながら顔を寄せてゆき、ふっと息を吹きかける。

「あうっ」
「ほんと、美味しそうだ。もう我慢できない」

 たっぷりだ液を含ませた舌で舐め上げると、のけぞった喉から高い悲鳴がほとばしる。口に含んで軽く歯で挟み、舌でつつきまわした。
 逃げないよう、しっかりと押さえ込んで。

「あ………あぁっ、だ、め、だ、ヒウェルっ」
「ん……何がダメ、なんですか? ああ、そうか」

 にやりと笑ってもう片方に手を伸ばした。

「こっちがお留守でしたね。すみません、気がつかなくて」
「ち……が……あぁっ」

 片方は口で。もう片方は指で。交互に入れ替えつつ、たっぷりと愛でてさしあげた。
 男でも胸は感じるのだ。
 ただ弄り方にコツがあるだけで。
 最初から無闇に強くこね回せばいいってもんじゃない。まずは羽毛でくすぐるような微弱な刺激を与え続ける。ゆるゆると弄られる間に皮膚が温められて、慣らされて、そのうちもっと強い刺激を欲しがるようになる。そこまで追いつめて、さらにもう少し焦らしてから初めて強烈な一撃を与える。

 何もこれは乳首に限ったことじゃない。
 かつては何度も触れあった体だが、その時はいつも俺が触れられるばかりだった。今は違う。

 胸、わき腹、肋の間。
 じわじわと唇と指を滑らせ、まだ衣服を取り去っていない場所をまさぐる。指先に熱い、ぬるりとした堅いものが触れた。

「は…あ……あぁっ、や、めっ」


 腕の下で背中をのけぞらせて身悶えしている。
 ん……いいね。実に正直だ。いっそこのままイかせてしまおうか。
 下着の中で果てさせて、このきれいな体を汚してみたい……つかの間、そんな誘惑に駆られるが、かろうじて思いとどまる。
 ゆっくりと。
 余計な刺激を与えないようにゆっくりと。
 ズボンのジッパーをさげて、脱がせて行く。腰、太もも、膝、足首となでおろしながら丁寧に。靴も、靴下も片方ずつ抜き取り、仕上げに指先にキスをした。

「ひ、あ、あぁんっ」
「おや。もしかしてここにキスされるの初めてですか?」

 うるんだ瞳できっとにらまれる。

「当たり前だっ、そんな、変態じみたことっ」
「わあ、怖い顔」

 じゅくっと吸い付き、舐め回す。左の小指から順番に一本ずつしゃぶってゆくと、右の人さし指に到達する頃には悪態が愛らしい喘ぎに変わり……左の小指を口から引き抜いた時には、腰を覆う紺色のボクサーパンツの中では何かがすっかり堅くなり、布地を持ち上げていた。
 かなり窮屈そうだ。
 試みに布地の上から手のひらをあててくりくりとなで回すと、陸にあげた魚みたいにびくびくと震え、身をよじった。
 目の縁にうっすら涙がにじんでいる。ちょっと刺激が強すぎたかな。

「腰、浮かせて」

 囁くと、素直に従ってきた。

「ありがと、先輩」

 素早く下着をずり降ろし、足首から抜き取る。解放されたペニスがぷるんと震えて顔を出した。

「わお。すっかり準備OKって感じですね。それとも、縛られて感じてました?」
「ばかっ」
「あ、傷つくなあ、その言い方……」

 太ももの間に手を入れて、内股をくすぐりながら押し広げる。さほど力はいらなかった。

「は……ああ……や……め…」

 のしかかり、顔を寄せる。
 ああ……やめろと言ってるくせに、期待してるじゃないか。
 顔を背けてはいるけれど、体を見ればわかる。次に何をされるのか。これからどうされるのか。気になって仕方がないのだろう。

「……不公平だ」

 ぽつりと言われた。

「え?」
「君も……脱げよ。僕だけだなんて不公平だ」
「なるほど。一理ありますね」

 さくさくと上着を脱ぎ、タイを緩めた。シャツのボタンを上三つほど開け、ベルトを外して……全部脱いだ。
 ただし、下だけ。
 そう、全部だ。ズボンも下着も、靴も靴下も、全て。上は着たまま、当然眼鏡も外さない。

「……脱ぎましたよ。これで公平ですよね?」
「っ、君って奴はっ」

 抗議の声を無視して一旦背中を向けて、備え付けの冷蔵庫を開けてみる。

「ああ、いいものがあった」

 取り出したボトルを手にゆらりと体を起こし、アッシュの目の前でわざと音を立ててキャップを開けた。

「何を……」
「先輩、お好きでしたよね。ジンジャーエール」

 程よく冷えた泡立つ金色の液体を、白い体に注ぐ。

「ひ……あ……よせ……」
「ありゃ? お気に召しませんでした? しょうがないな。すぐお拭きしましょう」

 顔を寄せ、舌を伸ばして舐める。鎖骨、胸、腹、肋、へその窪みも忘れず、下腹部に至るまで丁寧に。炭酸の弾ける微弱な刺激がけっこう効いたらしい。さっきとは微妙に異なる悲鳴が上がった。
 暴れ方もけっこう派手で、しっかり押さえなくちゃいけなかった。
 そのくせ張りつめたペニスは一向に萎える気配もなく、それどころか先端からとろとろと透明な雫すら垂らしている。

 要するに、気に入ったってことらしい。
 だったらもっと味わわせてさしあげようじゃないか。

 くいっとジンジャーエールを一口含み、そのまましゃぶった。
 すべすべした足の間で堅くなって震える、彼の一番敏感な部分。生まれて初めて俺に、男と寝る快楽を教えてくれた物を、両手で支えて。

「あ……や、何……を……ひ、う、あ、あぁっ」

 根本に指を絡めて軽くしごき、先端を舌先でなで回して尿道に差し込む。
 くぐもった水音を立てながら唇で軽く挟み、そのままゆるゆると抜き差ししていると、次第にアッシュの声が切羽詰まって行った。

「も……だめ……だ………出る……ヒウェル……お願い……だ……もう……許して……くれっ」

 ごくり、と口に含んだジンジャーエールを飲み下す。

「だめです。俺の中でイってください」

 舌なめずりしてペニスを奥まで飲み込み、吸い上げながら先端までしごき上げる。

「あ……あぁーっっ」

 無防備な絶叫とともにどくどくと、熱いものが口の中に吐き出された。わざと喉を鳴らして飲み込む。舌先を差し入れて丹念に舐めとると果てたばかりのペニスが口の中でぴくりと震え、余波を吐き出した。

「ん……先輩のって……こう言う味だったんですねぇ……すっかり忘れてた」
「は……あ……あぁ……」
「時にこっちの方は、使ってるのかな」


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【side3-5】★★★絹のネクタイ(2)

2008/05/03 22:29 番外十海
 足を押し広げて後ろの口を露出させてみる。

「やあっ」

 ん、いいね……濃いピンクになって、震えてるじゃないか。金魚の口みたいに、内側から押し広げられて、ぷっと開いてはまた閉じる。試しに指を這わせてみた。

「あ………やめろってばっ」

 微妙に、堅い。経験がないって訳じゃなさそうだが、最近はあまりお使いになっていないらしい。

「ああ、これは、じっくり解してあげなきゃいけませんね……」
「やめてくれ……ヒウェル」
「恐がらないで、アッシュ」

 顎に手をあて、のぞきこむ。怯え切った青い瞳を。

「初めての夜、あなたはあんなに優しくしてくれたじゃないですか。あなたを裏切るようなマネはしませんよ。だから力抜いて。ね?」
「…………」

 すっかり潤んだ目が見上げてきて、それから、こくん、とうなずいた。

「……いい子だ」

 髪の毛を撫でてから額にキスをして、再び足の間に屈み込む。
 指か。舌か……やっぱ舌だな、うん。

「や……あぁっ、よせっ、そこは………あぁんっ」

 上にキスしたときより、反応が良かった。結構ネコの素質あるんじゃないか、この人?
 舌先で襞をかきわけながら吸ってみる。
 縛られた体で身悶えし、閉じた両目から涙をぼろぼろこぼした。指で広げて舌をさしこむと、ぎゅうっと締めつけられた。

「先輩。そんなに締め付けないで……舌がイっちまいます」
「しょうがないだろ……君が……あ……弄るから……」
「あなたが敏感すぎるんだ」

 びくっとすくみあがったところに指を入れて、そっと動かした。

「あ………ああ……う……くぅ………」
「そう……そうだ、それでいい……」

 次第にぽってりと充血し、指に吸い付いて来る内壁の感触を確かめながら動きを強めて行く。そろそろ二本目を入れようかと思った時。

「ヒ……ウェル………」
「ん。どうしました、アッシュ。きついですか?」
「ち……がう……」

 弱々しく首を横に振る。

「も……がまんできない…………」
「いけませんよ。じっくり解さないとつらいって、あなたが教えてくれたんですよ?」
「いい………から……」
「でも、ねえ」
「早くっ、も、耐えられないんだっ! 欲しいんだっ」

 にいっと口の端がつり上がる。

「何が欲しいんですか、アッシュ?」
「っ」

 真っ赤になって口をつぐんでしまった。いいね、ここで素直に折れられてもつまらない。耳もとに口をよせ、息を吹きかける。

「ひっ」
「言ってください。でなきゃ、わからない」
「あ……あ……」

 左右に視線が泳ぐ。縛られた両手が、何かにすがりつくように空を握る。

「教えてください。ね、先輩」

 くっと唇を噛んだ。おそらく最後のためらいだ。もうすぐ、だ。
 もうじき、花びらみたいな唇がほどけてこぼれ落ちる。
 淫らなお願いが。

「入れてくれ……君……の……」
「俺の?」

 青い瞳が俺の足の間に向けられる。
 
「君の、ペニス……」
「よくできました」

 にっこりほほ笑むと脱ぎ捨てた上着のポケットをまさぐり、財布を取り出す。コンドームを一枚引き出すと、パッケージを口にくわえてピリっと開けた。
 すがりつくように見上げてくる彼の目の前で、必要以上に慎重に。

「着けとかないとね……後が大変でしょう?」

 ぬるりとしたピンク色の薄い膜を、ゆっくりと、すでに臨戦態勢になっている自分の逸物に被せてゆく。

「あ……は……やく……」
「ん……そうしたいのはヤマヤマなんですがね」

 半端にはだけたシャツを軽くつまむ。
 もちろん、俺のじゃない。

「いい生地使ってるなあ。俺の着てる安物とはえらい違いだ。やっぱりこれ、汚すとまずいですよねぇ」

 素早く手首をほどき、シャツを引き抜く。布がこすれるだけでもつらいのだろう。白い喉が震える。
 着ているものを全て取り去ってから、改めて今度は後ろ手に縛り上げた。

「く……こう言うのが、趣味なのか、君はっ」
「ええ。大好きなんです」

 にっこりとほほ笑み、膝の上に乗せるようにして抱き寄せた。
 ただし、後ろから。

「あ……」
「俺、変態ですから」

 尻の双丘に手を当てて押し広げ、露出させたアヌスにペニスの先端をあてがう。

「ん……いい感じに蕩けてますね」
「く……う………い……いい加減にしろっ」

 強気な言葉、しかしほとんど鳴き声だ。たまらないね。

「さっさと、やればいいだろうっ」
「OK、アッシュ。あなたのお望みのままに」

 腰に手を当てて引き寄せて、ぐいっと後ろから貫いた。

「ひぃっ、あ、あ、ああ………」

 膝の上で震えている。やっぱきつかったんだろうなあ。無理しちゃって……。
 根本まで入れてからしばらく抱きすくめ、首筋に、頬に柔らかなキスを落す。震えが収まるまで、じっと。

「……けよ」
「はい?」
「動けよっ」
「わかりましたよ。でもね、その前に」
「なん……だ……」
「前、見て」
「前って……あっ」

 よく見えるように脚を広げてあげた。
 部屋にそなえつけの鏡に映る彼の姿を。後ろから抱きすくめられるようにしてベッドの上に座り込み、俺に貫かれた有り様を。

「あ……や……だ……こんな…………」
「目、閉じないで。せっかくこんなきれいな体してるのだもの。見なきゃもったいないじゃないですか。ねえ、アッシュ?」
「ばかっ、変態っ」

 その通り。さっきも言った。
 しかし体は正直だ。脚の間でペニスは高々と首をもたげ、後ろはぐいぐいと俺を締めつける。

「そんな口叩けるのなら大丈夫ですね。お望み通り動いて差し上げますよ」

 ぐいと腰を押さえ込み、ベッドのスプリングを活かして突き上げる。
 
「あ、あ、ああっ、や、ひ、う、んんっ」

 もはや意地を張るのはあきらめたのだろうか。無防備な悲鳴があがり、白い体が踊る。鏡に写る自分の姿から目をそらさずに。
 素直な人だ。ここはやっぱり、それなりにごほうびをあげるべきだろうな。
 手を回してペニスをこすってやった。

「ひぃっ、ん、ああっ、いいっ、気持ち……いいっ、あ、あ、ヒウェル、ヒウェルぅっ」
「いいですよ……ほら、もっと腰を振って。気持ちのいいとこ、教えてください。好きなだけ、突いてあげますから」

 言われるままに彼は腰をくねらせた。

「ん、あ、そこ、いいっ、もっと突いてっ」
「ここ……ですね」

 いい、と言われた場所を狙って勢い良く突き上げる。

「あ、あ、やあっ、あ、や、んんっ、いいっ、気持ち……い……あ、あ、あ、ひ、や、あぁんっ、もっと……く…、あ、ああ」


 ああ、なんかすっげえ可愛い声で鳴いてるよ。
 思えばこの人は俺と寝る時、一度だってここまで乱れてはくれなかったなあ……。

「も、出る、出るうっ」

 ぐいっと奥まで貫きながら、彼のペニスを根本から先端までしごきあげる。

「ひゃあ、あ、あ、あぁんっ」

 喉をのけぞらせて震えると、白い粘つく熱い液体がほとばしり……彼の顔にまで雫が飛んだ。
 強烈に締めつけられて思わずこっちもイきそうになる、が、寸でのところで堪えた。

「気持ち……よかったですか……先輩」

 視線を宙に彷徨わせたまま、アッシュはとろんとした目で鏡越しに俺の目を見つめて、こくんとうなずいた。

「それじゃあ、次は、俺の番だ」
「えっ」

 汗ばむ白い背中に手をあてて、うつ伏せに押し倒す。
 たった今、彼の精液が飛び散ったシーツの上に。

「ひっ」

 そのまま背後から伸しかかり、獣の姿勢で突いた。今度はさっきより自由に動ける。
 達したばかりで鋭敏になった体を容赦無く抉り、突き上げる。

「ぃ、う、ぐ、あ、や、も、やめ、あ、あ、あぁっ」
「可愛い……な……アッシュ……ほんとに……う……ん……」

 ぐいと奥まで突き入れて、ずっとこらえていた欲情を一気に解き放った。

「く……うぅっ」

 体の奥がら溢れ出す熱をどくどくと、薄いゴムの膜越しに注ぎ込んだ。全部出たかな、と思ったところを不意に締めつけられて、またとくんと出る。


「う……あぁ……」

 最後の一滴まで吐き出してから、ずるりと引き抜いた。コンドームを抜き取り、きゅっと縛った。
 かなり……多い。
 ここんとこずっとご無沙汰だったからなあ。
 支えを失い、ぐったりとベッドの上に突っ伏したアッシュの手をほどいて一言囁く。

「……素敵でしたよ、アッシュ。可愛い人だ」


 ふと思いついて、彼の上着のポケットをまさぐる。
 あった。
 携帯を開いて、かしゃりと一枚。快楽の余韻に酔うあられもない艶姿を写し、ついでに待ち受け画面に設定しておいた。
 次にこいつを開くのはいつだろう。
 どんな顔をするのだろう。

 だいぶ温くなったジンジャーエールのボトルをとり、残りを一気に喉に流し込む。
 さて、帰る前に念入りにシャワー浴びなくちゃな。

「あ……ヒウェ……ル……」

 ベッドの上にうつぶせになったまま、何やらまた色っぽい表情であえいでる。まだ体が疼いているらしい。
 そっと髪を撫で、そのまま首筋から肩、背中、腰へと撫で下ろす。

「ん、あんっ」

 くるりとひっくり返して仰向けにすると、よろよろと腕を伸ばして、すがりついてきた。
 のしかかり、唇を重ねる。

 思い出に浸るのは今夜だけ。帰ったら全て忘れよう。
 でも、その前に……もう一度。



(チョコレートサンデー/了)


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君は臆病者じゃない

2008/05/04 11:24 短編十海
 Web拍手御礼用の短編を再収録。
 本編の始まる2年前、ディフが警察を辞めた直後のお話。
 まだ恋人になる前だった二人。

「……よいしょっと」

 署のロッカーから持ち帰った私物を部屋に運び込む。
 できるだけ余計な荷物は置かないようにしていたつもりだが、けっこうな量があった。
 班の連中からは、せん別に腕時計を贈られた。例の事故でずっと使ってたやつが壊れてしまったから、代わりに、と。

 真新しい時計を腕にはめてみる。
 オメガのスピードマスタープロフェッショナル、文字盤は黒。
 頑強な手巻き式、世界で最初に月に降り立った腕時計。裏蓋にはシーホースの浮き彫りと、『THE FIRST WATCH WORN ON THE MOON』のロゴ。

 参ったな。これ、俺が使ってたやつよりグレード高いじゃないか! ったく、安月給で無理しやがって。

 バンドの長さを調節していると、携帯が鳴った。
 送信者は「ダンカン・マクラウド」……親父だ。少しためらってから開いて。応答ボタンを押し、耳に当てる。

「ハロー?」
「警察を辞めたそうだな、ディフォレスト」

 いきなり本名で呼んできた。堅い口調、重たい声だ。つり上がった眉が。眉間の皺が、見えるような気がした。

「………ああ。昨日づけで辞表を出した」
「中途半端な覚悟でバッジを着けるなと言ったはずだ。命の危険があるのはわかっていた事だろう」
「父さん………」
「この、臆病者が!」

 電話越しに怒鳴られた。びくっとすくみあがる。
 のこぎりみたいにギザギザで、そのくせ切れ味の悪い刃物で容赦無くぶったぎられたような気がした。


 腹の底からひしひしと熱が失われ、凍り付いてゆく。
 息が苦しい……。
 視界に写るのは、自分のつま先と部屋の床。目に見えない手で頭をぐいと押さえられ、知らぬ間にうつむいていた。

 久しぶりの親子の対話が、これか。
 声の激しさより、言われた言葉が胸に突き刺さる。

『臆病者』

 この世で一番言われたくない言葉だ。特に父さん、あなたには。
 一度だって俺は目の前に立ちふさがる敵や困難、降り掛かる危険から逃げたことはない。少なくとも自分の意志で立ち向かえる時はそうしてきたし、それが俺の誇りでもあった。

 振り絞っていたのは、勇気と言うよりむしろ意地だったのかもしれないけれど……。
 俺は、俺なりに真剣だった。
 
 だけど。
 もう、二度とレオンにあんな悲しい顔はさせたくない。
 そのためなら、どんなことでもする。どんな代償も喜んで払おう。

 だから黙って父の言葉を受けとめる。
 言い訳はしない。処理中の爆弾が爆発し、死にかけた。退院した直後に辞表を出したことは逃れようのない事実なのだから。

「恥を知れ、ディフォレスト」
「父さん」
「お前のような息子を育てたことを、私は一生悔やむだろう。お前に勇気と言う物の本当の意味を教えてやることができなかった」
「……っ」

 謝罪の言葉だけはどうしても、最後まで口にすることができなかった。


 ※  ※  ※  ※


 その夜遅く。
 レオンが部屋に戻り、電気のスイッチを入れると、ひっそりと居間のソファにうずくまる影が居た。
 別に不思議はない。隣の部屋に住んでいるし、自由に出入りできるよう、合鍵も渡してある。

「……ディフ」

 のろのろと顔を上げた。
 
「どうしたんだい、明かりもつけないで」
 
 いきなり、しがみついてきた。
 どくん、と胸の中で心臓が縮み上がる。
 久しぶりだった。彼とこんな風に触れあうのは。

 ディフが爆発事故で入院して以来、少しずつ二人の距離は変わりつつあった。親友と言うには近く。恋人と呼ぶにはまだ遠く。

 溺れる子どものようにぎゅっと服を握りしめ、すがりついてくる。
 想いを封印し、ずっと親友でいようと心に決めたのはレオン自身。けれど自ら立てた誓いが今にも揺らぎそうで、懸命に自制心を振り絞る。

「俺は……臆病者なんかじゃ……ない……」

 低い、かすれた声でそれだけ言うと黙ってしまった。
 歯を食いしばり、震えている。
 抱きしめて、髪を撫でた。首筋を覆う絆創膏の下の、真新しい火傷の跡に触れぬよう、細心の注意を払って。
 ディフは喉の奥で小さくうめき、胸に顔を埋めてきた。

 ほんの少しの間、学生時代に……ただの親友同士に戻ったような気がした。


 ※  ※  ※  ※


 
 時間が流れて行く。

 ディフの左手首に巻かれた真新しい時計が、正確無比な動きで時を刻む。秒針の回るかすかな震動さえ聞き取れそうな静けさの中で。
 レオンはずっと抱きしめていた。
 肩の震えが収まり、乱れた呼吸が穏やかになるまで、ずっと。

 やがて彼は顔を上げ、赤くなった目をごしごしと拳でこすり、はずかしそうに言った。

「サンキュ、レオン」
「こすっちゃだめだよ」
「あ……うん。顔、洗ってくる」

 手を離し、ざかざか洗面所に歩いて行くとディフは蛇口をひねり、ばしゃばしゃと勢い良く顔を洗った。
 洗ってからシャツの袖をまくるのを忘れていたことに気づく。
 胸も、腹も、だいぶ濡れている……と言うよりもはや乾いている場所の方が少ない。

 ミスった。
 舌打ちするとシャツを脱ぎ、下に着ていた白いTシャツ一枚になる。
 タオルで顔を拭い、鏡を見ると……嫌でも首の絆創膏に目が行く。

 おそらく跡が残るだろうと医者に言われた。別に今さら傷跡の一つ二つ増えたところでどうってことはないのだが、この場所はちと目立ちすぎる。
 客受けもあまり良くなさそうだし、何より、見るたびにレオンが悲しげな顔をする。
 幸い、後ろ髪を伸ばせばカバーできそうな位置だ。

(伸ばしてみるか。もう警察官じゃないんだし)
 
 鏡に映る自分と目が合う。白目の部分は赤く充血し、瞳はうっすらと緑に染まっている。
 だが……表情は穏やかだ。
 さっきまであれほど己の中で荒れ狂っていた冷たい嵐が、今はきれいに凪いでいた。

 その時、思った。

 誰に何と罵られようが。
 何があろうが。
 レオンが居るなら、俺は大丈夫かもしれない……と。

 脱いだシャツを肩にかけ、居間に戻った。



 ※  ※  ※  ※


「ディフ」

 戻るなり名前を呼ばれる。
 透き通ったかっ色の瞳が見つめていた。いれたばかりの紅茶みたいにあったかい。
 素直に思った。
 何てきれいなんだろう。

「何だ?」
「君が臆病者じゃないのは俺がちゃんと知ってるよ」

 それは、ディフが今、何よりも求めていた言葉だった。まっすぐに胸の中に飛び込んで、冷えきった心臓を貫いて。
 じんわりと温める。
 凍り付いた魂を溶かしてゆく。

「……不意打ちだぞ……レオン」

 ぼろっと涙がこぼれる。止まらない。
 そのくせ、顔がほころんでしまう。ほほ笑んでしまう。

「ありがとな、レオン。吹っ切れた。親父に何言われても、もう気にしねえ!」

 だまってレオンがハンカチをさし出してくれた。受け取り、顔を拭う。

「……もう一度、顔洗ってくる」
「そうだね。そうした方がいい」

 はずかしそうに首をすくめると、ディフは洗面所に引き返して行った。



 そうだ。俺は、大丈夫だ。
 何度、踏みにじられたって、罵られたって、立ち上がれる。


 レオン、お前がいてくれるなら。



(君は臆病者じゃない/了)

【3-10-5】クリスマスとニューイヤー

2008/05/08 19:07 三話十海
 買い物の帰りに、本屋の前を通りかかった時、ディフが言った。

「ちょっと寄ってかないか?」って。
 
 あまり大きくない、人の少ないお店だったから落ちついて選ぶことができた。
 好きなのを選んでいいと言われて、少し迷ってから結局料理の本を選んだ。

「それでいいのか」
「うん、いっぱい載ってるし」
「オティアは?」
「あそこ」

 辞書を熱心に読んでるのを指さす。

「……面白いか、それ」
「まあまあ」
「じゃあ……それな」

 自分でお金を払おうとしたら、いいんだ、と言われた。

「どうして?」
「クリスマスだから、な」
「あ」

 ぶっきらぼうに答えていたけれど、ほんのりと頬の辺りが赤くなってた。
 照れくさかったのかな。
 渡された本はツリーの下に置かれてはいなかったし、リボンもついてはいないけれど、赤と緑の紙袋に入っていた。
 何年ぶりだろう。
 クリスマスプレゼントをもらうのなんて。


 ※ ※ ※ ※


 ほんとうに、この家に来てからびっくりすることばかり次々と起きる。 

 でも一番驚いたのは、オティアのことかな。
 警戒心をほとんど見せずに暮らしていて、本当に驚いた。
 あの工場から俺が助け出されるまで、二週間ほどここで過ごしていたらしいけれど、そんなに短い時間の間に知らない人の中で、知らない家で落ちついて暮らせるようになるなんて。
 今までのオティアからは考えられないことだった。

 そのおかげで、俺も『ここは大丈夫なんだ』って思えたんだ。

 ディフの撃たれた傷を治したのも、後から考えて失敗したかなって思ったんだけど……。
 でも、ディフもレオンもヒウェルも…感謝してくれて。怖がったり、気持ち悪がったりしなかった。

「まあ、そう言うこともあるんだろう」
「“彼女”に比べりゃお前さんたちなんざ可愛いもんだしな」

 なんて、妙に落ちついていて。
 まるで以前にも経験したことがあるような口ぶりで、すうっと受け入れられてしまった。

 おまけに、ここに居るのも事件の整理がつくまでだけかと思っていたら、事情徴収があらかた終わりかけた頃にレオンが言ったんだ。
「良ければずっと居てほしい」って。
 ディフは何も言わなかったけど、レオンの隣でうなずいていた。

 ちょっとだけ嬉しかった。でも、二人とも独身だし、里親登録なんて無理に決まってる。いったい、どうするんだろうと聞いたら、レオンが教えてくれた。

 俺達が育ちすぎてるせいで(それとおそらく過去の経歴のせいで)、適当な里親が見つからないって連絡があったんだって。
 だから、児童保護局と警察と検事とレオンで相談した結果、レオンが後見人兼保護者で、18歳まで面倒みるってことになったのだと。

 俺達は養子でもなく、保護児童でもない、なんとなく中途半端な立場になった。


 ※ ※ ※ ※


 クリスマスのお祝いは、レオンの誕生日と一緒だった。
 朝は教会のミサに行った。
 ヒウェルも一緒についてきたけれど、牧師さんのお話の途中で居眠りして、ディフに小突かれていた。
(一緒に来たのは、きっとオティアがいるからだ)


 やがて年が明けて、2006年が始まった。
 明日で休暇も終わりと言う日、ソーシャルワーカーのヨシカワさんがやってきた。

 面倒見のいいふくふくしたおばさんで、年齢は四十歳くらいかな? 日系の人って若く見えるから、よくわからないや。
 俺たちの担当になった人なんだけど、たまたま顔を合わせたヒウェルが珍しく背筋を伸ばして、ものすごくかしこまって挨拶していた。

「昔、世話になったんだよ……」

 そんなに長く勤めてるんだ。
 今日、彼女がやってきたのは、俺たちの学校のこと。
 高校は義務教育だから行かないといけない。けれど、俺もオティアも行く気にならなかった。
 レオンはすぐに編入手続きできるよって言ってくれた。でも学校に行けなかった時期もあったし、ずっと転校を繰り返してたから、あまり良い思い出もない。
 ……本当を言うと、学校はできれば行きたい場所じゃない。

 落ち着くまではってずっと保留にしてもらってたけど、先にバイトはじめちゃったから、ディフが気にしてるみたいだ。


「だったらホームスクーリングを考えてみたらどうかしら? 家で勉強することもできるのよ」

 そう言って、ヨシカワさんは学校の資料を渡してくれた。

「それから……この間のこと、考えてみてくれた?」

 俺も、オティアも、カウンセリングに行くように薦められている。
 レオンも同じ考えみたいだけど、強く言われたことはない。

「……ごめんなさい」
「そう。じゃあ気が向いたらいつでも連絡してね」

 彼女は決して無理強いはしない。いくつかの選択肢を示すだけで、あとは辛抱強く待ってくれる。俺たちが自分から動き出すのを。
 何となく、ヒウェルがこの人の前ではきちんとしてる理由がわかるような気がする。

 
 確かに俺たちは普通じゃ考えられないくらい恐ろしい経験をした。

 道を歩いていて、いきなり後ろからぐいっと捕まえられて、暗い車の中に押し込まれ、連れて行かれた。
 あの山の中の工場に……。

 今でも人に触られるのは恐ろしい。

 俺もそうだけど、オティアが…落ち着いているのは、なんだか怖くもある。俺なんかよりずっと、酷い目にあったのに。
 以前はもっと、いつでも気を張っていたし、他人のために心を配るなんてことは一切なかった。

 あの施設で別れてから、ほんの少し会わない間に、なんだかすごく変わってしまったんじゃないかって思う。


 ずっと、一緒だった。
 二人で一人。お互いがこの世界で唯一の大切な存在。
 同じものを見て。
 同じことを思って。
 同じステップで歩いてきた。

 すぐ隣にいるはずなのに、このごろは二人が別々の『一人』になる瞬間が、少しずつ増えているような気がする。 

 それは、良いことなんだろうけど……。
 
 もうすぐ夕飯の時間だ。手伝いに行かなきゃ。
 すっとオティアが本を閉じて立ち上がる。
 いつものように並んでキッチンに向かった。


 今の生活は楽しい。
 でも時々、すごく不安になる。
 ある日ふっと何もかも夢のように消えてしまうんじゃないかって。

 ずっと前に、セーブルのパパとママが亡くなった時みたいに。



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【3-10-6】踏み込まれたくないこと

2008/05/08 19:08 三話十海
 年が明けた。
 結局、お袋に前もって言っておいたようにクリスマスもニューイヤーも実家には帰らず、カードとプレゼントだけ送った。
 休暇の間はずっと隣に詰めっぱなしで、双子と過ごす時間が増えた。
 もちろん、レオンとも。

 だから気づいたのだろう。シエンの変化に。
 朝のミルクを飲む時も、食後のお茶を飲む時も、赤いグリフォンのマグカップを嬉しそうに両手で抱え込んで。
 飲み終わると大事そうに洗って食器棚にしまう。
 あいつがほほ笑みかけてる相手はカップじゃない。問題はカップをくれた奴なんだと気づくのに、いくらも時間はかからなかった。
 
 夕食の後、ヒウェルが帰ってから思い切って聞いてみた。

「もしかしてシエン、お前……ヒウェルのこと気になってたりする、か?」
「…別に、そんなことは…」
「家族の中で隠し事ってのは無しにしようぜ」

 言ってしまってから急に不安になる。こめかみが疼く。やたらと脈拍が早い。
 俺にとって、双子は家族だ。でもシエンはどう思っているのだろう?
 確信さえ持てぬまま、早まったことを口にしてしまったのではなかろうか。ああ、でも今さら後戻りはできやしないし。
 沈黙がやけに長く感じられる。冷や汗が流れそうだ。

「そんなんじゃないんだ。ただ……ちょっと、寂しい…かな…」
「オティアをとられるみたいで?」
「…」

 うつむいてしまった。

「シエン?」

 かがんで下からじーっと見上げると、顔をそむけてそのまま部屋を出て行こうとする。

「ごめん…なさい…」
「待てよ。なんであやまる?」
「今は…言いたく…ない」
「……そうか」

 もふっと頭をなでた。
 シエンはいつも謝る。ちっとも悪いことなんかしていないのに。ごめんなさい、を聞くたびにチクリと胸の奥がうずく。

「な……悩みがあるなら………ママに言ってみろ……言うだけでも楽になることって、あるから、さ」

 決死の覚悟で言った言葉に答えは返ってこなかった。
 すっと俺の手の下から抜け出し、行っちまった。

 どうしようか。
 このまま放っておいた方がいいんだろうか。もしかして俺は、出すぎたマネをしようとしてるのだろうか?
 迷いながら部屋の前まで行く。ドアは開いていた。のぞきこむと、ベッドの上に座ってぼんやりしている。

「……シエン?」

 遠慮がちにノックすると、のろのろと顔を上げた。

「…ぁ」
「ごめん。でも心配なんだ」
「大丈夫、だから」
「大丈夫って顔じゃないぞ」

 部屋の中に足を踏み入れる。

「俺、過保護かな」
「誰だって、踏み込まれたくないことは、あるだろ」
「前に約束したろ。お前は俺が守るって。あれは…まだ有効だからな。この先ずっとだ」
「……」

 シエンにしては珍しく厳しい顔つきでにらまれた。
 やっちまった。
 だけどここで尻尾を巻いて逃げ出す訳には行かない。自分の打ったはずれ弾の行方は最後まで見届けよう。だからそらさず、見返した。
 鋭い煌めきを宿した、紫の瞳を。

「誤解すんな。そう言う意味じゃない」
「どういう意味でもいいけど。無条件にそういう言葉を信じられるような育ち方をしてないんだ、俺達は」
「……すまん」
「出てって。でないと、酷いこと言ってしまいそうで……怖い」

 背中を向けて部屋を出ようとして、一旦足を止める。

「どんな酷いこと言われても。信じられないって言われても……俺はお前を守るよ………それだけでいい」

 部屋を出ると廊下でオティアとばったり顔を合わせた。
 にらまれる。
 さっきのシエンそっくりの表情だ。

「早く行ってやれ」とだけ言って、足早にリビングに戻った。

(ちくしょう、やっちまった)

 奥歯を噛みしめる。閉じた喉の奥で己を恥じる気持ちと、悔しさと、苛立ちがうずまき、荒れ狂う。
 親父に罵倒された時だって、今ほど堪えはしなかった。


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【3-10-7】ぱぱとまま

2008/05/08 19:09 三話十海
 リビングには誰もいなかった。
 どうする? このまま自分の部屋に戻るか?

 迷ってから、書斎に向かい、小さくドアをノックした。

「どうぞ。遠慮しなくていいよ、これは仕事じゃないから」
「……そうか」

 ほっとして中に入る。
 机に座ってレオンが書類の束を読んでいた。昼間、ソーシャルワーカーから渡された学校の資料だ。

「色々見てみたけれど……まず本人達の希望を聞かないとだめだな」

 ぽい、とまとめて机の上にほうりだした。

「言ってくれるかな。自分たちから、こうしたいって。あの子たちがどうしてほしいのか。何を必要としているのか。答えにたどり着くまでの道が…長い」
「まだ遠慮もあるだろうしね。どんな方法をとるにせよ」

 机の上に学校の案内書がぱらりと広がる。まるでトランプだな。
 手を伸ばし、手のひらを滑らせる。
 けっこうな数があるもんだ。

「……たまに思うよ。何やってるんだろう、俺って」
「そうだな。不思議な関係ではあるね。」
「独身で、子どももいなくて、しかもゲイの男が見ず知らずの子どもの世話する。普通じゃないよな」

 ついさっき見たばかりのシエンの顔を。言われた言葉を思い出す。
 浮かぶ笑いが苦さを含む。
 あの子は俺を『まま』だと言った。レオンが『ぱぱ』だと。うれしくてつい鵜呑みにしちまったけど……。

「あの子達から見たら、君も俺も、ただの第三者だからね」

 レオンの言葉にうなずく。
 そうだ。
 その通りなんだ。何故、その明確な事実が見えなかったんだろう? どうかしてる。我ながら呆れるよ、心底。
 シエンの言う『ぱぱ』も。『まま』も。子どもが親を呼ぶ時の『パパ』や『ママ』とは微妙に意味合いが違う。
 ただの記号、この家の中で果たしている役割を言い表したに過ぎない。
 俺はまだ、あの子たちの『親』を演じるには未熟すぎる。
 フリすらできていないのだ。
 ヒウェルみたいに同じ境遇にいたわけでもない。信用しろって方が難しい。まして悩みを打ち明けろ、だなんて……虫が良すぎる。

 警戒されて当然なんだ。

「…………レオン」
「何だい?」
「これまで何度かあの子たちみたいな子どもを保護したことがある。でも警察の役目はあくまで犯罪の追求だ」
「ああ」
「保護した子を相応しい施設かしかるべき人間に渡して、その先は……手が届かない。その子が幸せかどうか、判断するのは俺の役目じゃない」

 ぎりっと唇を噛み締める。苦い記憶を紐解きながら。

「明らかに不幸になるとわかっているのに、黙って見送るしかなかったケースもある」
「それが法律だからね」

 うなずき、言葉を続けた。

「シエンとオティア。再会した二人が抱き合ってるの見て思ったんだ。この子たちは自分で受けとめたいって。他の誰かに渡すんじゃない。俺のこの手で、大人になるまで守りたいって」
「ある意味丁度良かったというのかな。あの子たちを引き取る里親が見つからなかったのは」
「……幸運……だったのかな………。似てるんだ。十年前に、お前と初めて会った時の感じに……」

 ためらってから手をのばし、レオンの髪の毛を撫でる。目の前の彼の向こうに、出会った頃の『彼』を。十六歳の少年の面影をなぞりながら。


「俺かい?」
「ああ。あの時お前、十六だったろ? 双子と同じ年だ」

 あの時、漠然と感じたのだ。
 彼には何か欠けているものがある。
 自分でもそれと知らずに求めているものがある。ひょっとしたらそれは、俺が持っていて……分ち合うことができるんじゃないかって。

「突然同室者ができるって聞いてびっくりしたけどね」
「ん……一緒の部屋の奴がさ。鍋のフタ足におっことして。謝ったんだけど『もうお前みたいなガサツな奴とは一秒だって同室はお断りだー!』ってえっらい剣幕でね」
「それで俺のところに来たのか」
「まあ……な。他に空きがなかったんだ。時期が時期だったし。そんな理由でアパート暮らしを許可してくれるような親父じゃなかったし」


 レオンがほほ笑む。それだけで、喉の奥で荒れ狂っていた苦い嵐がすうっと収まるような気がした。

「幸運だったというべきなのかな」
「そう思ってくれるのか?」

 頬に手を当ててじっとのぞきこんだ。透き通ったかっ色の瞳を。入れたばかりの紅茶みたいにあったかくて、いつまで見ていても飽きない。

「君に会わなければ、今ここでこうしていることもなかった」


 かすかな笑みが口元に浮かぶ。もう、さっきみたいに苦さを含んではいない。


「あの子達だって、助けられなかっただろ?」
「……うん……。多分、お前と、ヒウェルと、俺と。一人欠けても無理だった」
「俺達もあの子達に助けられてる」


 こくっとうなずいて肩に頭を預けた。


「時間はかかるだろうが……あの子達にもきっとわかるさ」
「そうあってほしいと願ってる」

 目を閉じて手をにぎった。

「ありがとな、レオン」


 握り合わせた手に温かく、柔らかな感触が押し当てられる。顔を上げ、うっすらと目をひらいてほほ笑みかける。
 騎士が贈るような、手の甲へのキス。
 似合い過ぎだ、レオン。握ってるのがごっつい野郎の手ってあたりがちとしまらないが。

 やばいな、顔が、熱くなってきた。
 ほんの少しだけ。


 結局、その夜もレオンの部屋に泊まった。


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【3-10-8】最低な俺

2008/05/08 19:13 三話十海
 小さい頃、夜中にふっと目を覚まして眠れなくなる事があった。
 確かに目を覚ましているはずなのに、部屋ん中はしーんと静まり返って。見えるもの全てが黒に近い濃い紺色に塗りつぶされていて。
 まだ、さっき見ていた夢の中にいるような気がした。
 電気のスイッチをひねればすぐに明るくなって、そんな錯覚、消し飛んでしまう。わかってるのにベッドの中から動くことができず、ひっそりと息をひそめていた。

 ひしひしと目に見えない壁みたいなものが四方八方から押し寄せてきて、ちょっとでも動いたら最後、つぶされそうで……怖くて指一本動かせなかった。
 そんな時、できるだけ楽しいことを空想して気を紛らわせたもんだ。
 
 俺は一人じゃない。この家に泊まりにきてるだけなんだ。
 メイリールの両親はまだ生きていて、遠くの町に住んでいる。兄弟だって生まれてる。
 妹がいいかな……いや、弟だな。
 弟はまだちっちゃいから両親と一緒にいて、ずっと待ってるんだ。いつの日か、俺が会いに行くのを。
 だから俺は一人じゃない。

 そうやって幻の家族の思い出を心に描きながら時間をつぶした。気まぐれな眠気がまた戻ってくるその瞬間まで。


 ※ ※ ※ ※


 年が明けて二週間ほど経ったある日。馴染みの編集者が打ち合わせに来たんだが(俺の事務所は自宅と兼ねてる)、ドア開けるなり言いやがった。

「おやあ? 部屋、まちがえたかな」
「ジョーイ……大概に失礼な言い草だねおい」
「いや、だってお前、部屋ん中に陽の光がさしてるし! 何てったって壁が見えるし、床もある。こいつあ驚きだね。どんな奇跡が起きたんだ?」

 いい奴なんだけどなあ。微妙に、うるさいんだよこの男は。
 確かに部屋が見違えるほど片付いてたのは認めよう。昨日、シエンが来てくれたばかりなのだから。

「コーヒー飲むか?」
「いや、遠慮しとく。いやあ、しかし、あの魔窟がここまで人間の住処になるとはねえ」
「ジョーイ。仕事の話、しようぜ」
「そうだった」

 ざらっと書類鞄の中から取り出したのは分厚い封筒。その中からは大量の文字の印刷された紙の束。字詰めもページ割りもできあがりの本と同じ……いわゆるゲラ刷りってやつだ。
 クリスマス休暇前に突貫でやってたやつがようやくここまで形になったのである。

「なー、どーせこれって作家先生の直しも入ってんだろー? 先生が自分でやればいいじゃん、ゲラ刷りのチェックなんて」
「なあ、ヒウェル。そのえらーい作家先生が原稿書く暇ないからってんでお前さんに仕事依頼したのよ?」
「ああ、そうだったな」

 実名の出ない分、ギャラはいい。その点、ここの出版社は考慮してくれてるので助かっている。たまにどう考えたって割の合わないやっすい原稿料で使いつぶされる事もあるのだ。

「そんな忙しい人が。いちいちチェックなんかしてる暇あるわけないだろ」
「……ま、そりゃそーだ」
「それに、ゲラの確認はウチじゃ書いた本人にやらせるのがモットーなのよ。ゴーストだろうと、実名だろうとね」
「へいへい」

 赤ペン片手に俺がゲラ刷りの文字を細かくチェックしている間中、ジョーイはぐるぐると部屋の中を歩き回る。檻の中のクマみたいに、うろうろ、ぐるぐると。

「ジョーイ」
「何だい、もう終わった?」
「いや……気が散るんだけど」
「おおっと、こりゃ失礼。何しろ、今までのお前さんの部屋ときたら、『狂王の試練場』もかくやって魔窟だったしなあ」
「大げさだなあ。地下十層もないぞ?」
「歩きたくても、歩く場所がなかった。それをここまできれいにするなんてさ。これはもう……」

 いきなりばっと両手を広げて天を仰ぎやがった。まるで宗教画のパロディみたいに半端にうやうやしげな表情をうかべて。

「愛だよ。愛の力しかない」

 たっぷり五秒ほど硬直してから奴のそばに歩み寄り、ぱたぱたと目の前で手を振った。

「もっしもーし、もどってこーい」
「恋人、できたんだろ?」
「あ……いや……そんなんじゃ……ないんだ」
「隠すな。ひと目見りゃわかるって! 遊び人は返上か? 憎いね、この、このこのっ!」
「………仕事しようぜ、ジョーイ」
「おっと」

 幸か不幸かけっこう時間的に切羽詰まってたもんだから。その後は二人とも一心不乱に仕事をして、2時間後にげっそりした顔でジョーイはチェックの終わったゲラ刷りの束を抱えて帰って行った。

「それじゃあ、またな」
「おつかれさーん」

 送り出してから、ふう、とため息をつく。改めてきちんと片付いた部屋の中を見回し

「………俺って…最低だぁ……」

 頭を抱えた。


 ※ ※ ※ ※


 そんなことがあってから三日後。
 今やすっかりおなじみになった、パステルグリーンのストライプのエプロンがちょこまかと動き回り、甲斐甲斐しく掃除をしている。
 本当に楽しそうに。
 心の底から楽しそうに。

(胸が痛い)

「シエン」
「なぁに?」
「……カプチーノ、飲むか」
「うん」

 手をとめてうれしそうに近づいて来る。

「お前が掃除してくれたおかげで、カプチーノメーカーが発掘できたから」

cafee.jpg

 金属製の二層式のヤカンに似た器にコーヒーと牛乳を入れて、火にかける。内部はサイフォンになっていて、5分ほどでジュワーっと泡立ったミルクが噴き上がってくる。
 頃合いを見計らって、フタを開けて密封状態を解除する。けっこうコツがいるのだが、今回は上手いこといったらしい。

「よし、できたっと……」

 ふわふわにあわ立てたミルクの入ったコーヒーをひとくち飲むなり、シエンはぱあっと顔を輝かせた。

「これすごい美味しい!」
「そうか……あ」

 ひょい、とティッシュを引き抜いてさし出す。

「口…ミルクついてる」
「あ……ありがと……」

 ほんのりと頬を染めて拭いている。

 あ、くそ。
 可愛いなあ……。
 
 弟はまだちっちゃいから両親と一緒にいて、ずっと待ってるんだ。いつの日か、俺が会いに行くのを。

『もう掃除には来なくていいよ』
 何故、その一言が言えないのか。

 言えない。絶対に言えない。言ったらきっと、こいつを泣かせちまう。
 それだけは、できない。
 したくない。

(だからって、このままでいいはずがない)

 両手でカップを抱えて、こくこくとカプチーノを飲むシエンを見守りながら、意を決して口を開く。
 よし、言うぞ。

「飲みたくなったら、言ってくれ。いつでも作るよ……カプチーノ」
「うん」

 …………………………………………………………………………だめだ。

(やっぱり俺って、最低かもしれない)


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【3-10-9】love,you…

2008/05/08 19:14 三話十海
 白いマグカップに描かれた鮮やかな赤い幻の獣。
 ヒウェルのルーツ、ウェールズの象徴、赤いグリフォン(ほんとはドラゴン)。がーっと開けた口から尖った舌なんか突き出して、おせじにも可愛いとは言いがたいご面相の怪獣を大事そうに抱えて、シエンが食後の紅茶を飲んでいる。

 すっかりローゼンベルク家の食卓ではおなじみになった光景だ。
 
(どうしたものか)

 何気ない食後の会話の合間、ほんの一瞬眉根がさがり、少し困ったような顔になる。
 そんなヒウェルの姿をオティアがじっと見ていた。

(ん?)

 気配を感じて視線を向けると、何事もなかったように飲み終わったカップを手に、キッチンへと歩いて行く。
 いつものことだ。だが今日ばかりは見送ることができず、席を立ち……自分もカップを手に後をついていった。

 この家の食卓とキッチンの間にはドアはない。ただ壁と家具の配置でそれとなく視線と声の流れが遮られているだけで。
 
 それでも二人きりだ。
 本当に久しぶりだ。
 もしかしたら、あの時以来かもしれない。

「なあ、オティア」
「いいかげんにしろ」

 鋭い声にびくっとすくみあがる。
 馬鹿な。たかが16の子どもの言葉で金縛りか?
 だが……本気で惚れた相手だ。こっちに背中を向けていて、オティアがどんな表情をしているのかはわからない。
 それでも、張りつめて力の入った肩と背中を見ればすぐにわかる。
 苛々しているって。

 こいつは知っている。
 知らないはずがないんだ。二人っきりの兄弟、しかも思ってることは口に出さなくても通じ合う間柄なんだから。

(シエンが俺のこと気にしてるのが気に食わないのか)
(それともお前、俺のことを少しは気にかけてくれてるのか? ……それが、自分でも気に食わなくて、そんなに苛立ってるのか)
(どっちなんだ。それとも、両方か?)

 喉の奥から掠れた音を絞り出し、言葉の切れはしを綴り合わせる。

「………しかたないだろ………俺……お前が好きなんだから……」
「好きなら全部許されるとでも思ってんのか」


 ぎりっと唇を噛む。
 痛いとこ突かれたな…。

 だけど、答えは決まってる。
 最初っから一つしかない。他に変えるつもりもない。

「……お前……なんだよ…お前だけなんだ…」
「とっととあきらめろ。しつこいんだよ」
「できるかよ。あきらめるなんて」
「なら黙ってろ。いちいち相手すんのもしんどいんだよ」
「オティア」


 声が重い。膝が細かく震える。
 今の俺は、ものすごく思い詰めた表情してるんじゃないかな。


「話は終りだ。もう……二度とそんなことで煩わせるな」


 一歩近づく。
 それまで俺の方を見もしなかったのが、ようやく顔を挙げた。

「そんなに俺のこと、嫌いか?」

 せめて泣くとまでは行かないにせよ悲しげな顔でもできてりゃいいんだが。困ったことにかたっぽの口の端がくっと上がっちまう。

(何だってこんな時に俺は微笑ってるんだろう)

「別に。嫌いじゃない………うざいけど」
「……お前の瞳……きれいだな。くっきりした紫じゃない。ほんの少し霞んでいて、優しい色だ。夜明けの空の雲みたいだ」
「それがうざいっていってんだよ」
「その言葉さえ愛おしくてたまらない」
「どんな変態だよ!」

 また顔を背けてしまった。

「平行線だな。通じないとは思ったけど」
「通じてるさ」

 力いっぱい抱きしめる。拒まれることを半ば予想していたのだが暴れもせず、小柄な体がすっぽりと腕の中に収まった。
 オティアは叫びも罵りもしなかった。
 ただ、冷えた声で一言。

「……離せ」

 体が強ばっている。怖くてフリーズしてるんだな……すまない、オティア。ほんの少しでいい、時間をくれ。
 もう二度とお前を煩わせたりしない。
 これで……最後だから。

「一度だけ聞け。一度聞いたら忘れてくれていい」


 聞いた後でもしお前が一言、二度と来るなと言うのなら、俺は消えるよ。
 部屋も荷物も何もかもそのままにして、行き先も告げずにひっそりと……二度とお前の目の前には姿を現さない。
 だから、言わせてくれ。

 意を決して告げる。彼の返答次第では、永久の別離にもなり得る言葉を、耳元に。
 ため息にも似た、かすれた小さな声で。


「love,you」


 それだけ伝えて、手を離した。

 オティアは完全に背中を向けてしまった。一言もしゃべらない。

「じゃあな」

 震える喉を押さえ込んで。いつもの調子で声をかけ、キッチンを出て。
 そのまま食卓には戻らず、部屋を出た。

 拒まれなかったことをせめて幸いと思おう。少なくとも失踪まがいの引っ越しをやらかすって選択肢は、選ばずに……済んだのだから。

(赤いグリフォン中編/了)

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【ex2】ファーストミッション

2008/05/12 0:16 番外十海
  • 本編開始よりさかのぼること3年前、2001年から2002年にかけてのお話。
  • 当時はまだレオンはロウスクールの学生でディフは警察官でした。二人の間柄は恋人ではなくてあくまで親友。
  • ヒウェルは大学を出て新聞社に勤めたばかりの新米記者。この頃はまだ堅気だったのです。

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【ex2-1】ルースと呼ばれた子

2008/05/12 0:21 番外十海
 9月のはじめの、やたらと暑い日だった。
 たまたま出先でディフと会った。
 昼休みだと言うので一緒に飯を食い、その後スタンドでアイスでも食うかってことになった。

「ロッキーロードにトッピングはホットファッジで」
「……相変わらずだな。そんなにチョコばっか食って飽きないのか?」
「別に。好きなものはいくら食っても飽きないし?」

 たあいのない話をしていてふと、妙な気配を感じた。
 どうも、その……視線を感じる。それも微妙にいかがわしい気配のまとわりつく視線。新聞や雑誌の陰からちらちらと、ポルノ映画のポスターを盗み見ているような。
 原因は……ディフだった。
 
 警官の制服と言やアダルトショップのコスプレ衣装の定番中の定番だ。
 もっとも、こいつの場合はコスプレじゃなくて本物なんだが。

 ネイビーブルーの制服きた警察官が、舌つきだしてバニラアイスをぺろぺろと丹念になめたり。
 コーンの奥に入り込んだアイスを目を細めて舌つっこんでなめたり。
 しまいにゃコーンの下を噛み切ってこぼれたのを口で受けとめて食ったり。

 頬についたのを指ですくいとって口に入れて、指をぺろっと舐めて……。
 見られていると意識してるでもなし。見てる相手に狙って色気をふりまいてる訳でもない。ただ、いつものようにあるがままに振る舞ってるだけ、これが奴にとっての自然体なのだ。
 わかっちゃいるんだが………。

 大人になって、警察で揉まれてこいつもずいぶん強面になった。いい加減改善されてるだろうと思ったが甘かった。
 むしろ高校の時とくらべて格段にグレードアップしてやがる!
 あまりのエロさに硬直し、ふと思いついてカメラを取り出し、写真に撮った。

「何撮ってんだ」
「いや、ちょっとね。日常の記録ってやつ?」
「ふーん?」

 この写真、後日レオンに売りつけてみよう。いくらで買ってくれるかな?

「Hi、マックス! いいもの食べてるじゃん」

 軽快な声とともに弾むような足どりで女の子が走ってきた。
 浅黒い肌にカールしたブロンズの髪。年齢は14、5歳ってとこか。
 ちょいと痩せっぽちで前歯が大きく見えるがいい骨格をしてる。あと3〜4年もすりゃ美人になりそうだ。

「よう、ルーシー」
「もう、ルースって呼んでって言ってるじゃない」

 女の子は両手を腰に当ててぷっと口をとがらせた。

「その名前、のたーっとしてて好きじゃないの。ぜんっぜんCOOLじゃないし」
「OK、ルース」
「いい加減、覚えてよね!」
「すまん、つい」

 くすくす笑ってやがる。あ、もしかしてこの男、わざと言ってるのか? ルーシーって……。

(小学生か、お前はっ!)

「いいの? ポリスがバニラアイスなんか食べてて」
「お巡りさんだってアイスぐらい食うさ。それに今は休み時間だ。食うか?」
「うん!」
「何がいい?」
「ロッキーロード!」

 エロい食い方していたのが、がらりと雰囲気が変わってる。
 内心、ほっとした。

(そっか……こいつ、子どもの前だと男の顔から保護者の顔になるんだ)

「あ、この子はルースってんだ。相棒の娘。こいつはヒウェル、俺の高校の同級生」
「よろしく、ルース」
「あ! あなたが靴下丸めて脱ぎ捨てて、絶対片付けないヒウェル?」
「………そ、俺」

 いったいこいつはこの子に俺のことをどーゆー風に話したのか。
 わずかにひきつった笑いを浮かべつつ、三人で並んでアイスを食った。


「他にも知ってるよ、あなたの事。ウェールズ系で、カメラが好きで、チョコが好き」
「うんうん、よく知ってるねぇ……君も、ロッキーロード好きなんだ、ルーシ……?」

 むっとした顔でにらんできた。
 あー、確かにこりゃ可愛い。つい、やりたくなるディフの気持ちもわかる。

「……ス」
「うん。大好き。ダイエット中なんだけどね、今日は特別」
「ダイエットぉ? 君みたいなスマートな子がこれ以上細くなってどーすんの」
「んー、理想のウェストサイズまであともーちょっとなんだよね」

 久々に新鮮な会話だ。いかにもティーンエイジャーの女の子らしいや。
 アイスを食べ終わったところで、ふう、とルースがため息をついた。

「どうした、ルース。食った分のカロリーが気になるんならその分動けばいいだろ」

 いかにも体育会系なディフの発言に、ルースは微妙な笑顔で首を横に振った。

「そうじゃなくって。お弁当のことで、ちょっと……ね」
「弁当? 学食で食えば十分だろ」
「………そうじゃないの。最近、みんなと半分ずつ取り替えっこして食べるのが流行ってるから」
「へえ、最近じゃジュニアハイでもそんなことやってんだ」
「懐かしいなあ、俺もやったよ……小学校ん時」

「んー、男の子がやってるのとはちょーっと違うんだなぁ。それやらないと、女の子のグループから微妙に浮いちゃうって感じ?」
「ああ、なるほどね」
「そうなのか?」
「そうなんだよ。アイス、ごちそうさま。それじゃ、またね!」

 ルースを見送った後もまだディフは首をかしげていた。

「弁当と女の友情……どこがどう、つながってるんだ?」
「深く考えるな。あの年頃の女の子ってのは謎に満ちてるんだよ」
「そうだな……まあ、何にせよ弁当がため息の原因なら、あの子がしょげるのも無理ないか」

 ふう、と小さくため息をつくと、ディフはぐいっと手の甲で口元をぬぐった。

「あの子の父親はいい奴だが料理はあまり得意じゃないからな……奴が持たせる弁当と言や、ピーナッツバターにジェリーのサンドイッチがせいぜいだろうから」

 その口ぶりから何となく察した。
 ルースの家に母親はいない。父親と二人暮らしなのだと。


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【ex2-2】赤い髪のマックス1

2008/05/12 0:23 番外十海
 パパの相棒、マックスはすごく大きくて、がっしりしていて、目つきも鋭くて。
 最初会った時は怖かった。
 でも笑うと可愛い。
 ちょっとふわふわした赤い髪の毛はママに似てる。

 大人のくせに時々、同い年の男の子より子どもっぽい。かと思うと優しくて、あったかくて。
 でも、私のことを決して子どもあつかいしなかった。
 友だちとしていつも同じ目線で話してくれた。

 アイスをおごってもらった日の翌日、水曜日の朝。朝ご飯の途中で玄関のチャイムが鳴った。

「こんな朝っぱらに……誰だ?」

 パパが不機嫌そうにドアを開けたら、マックスが立っていた。

「よ、おはよう」
「マックス? どうしたんだ。今日は非番だろ」
「お互いに、な。ルースいるか?」
「あ、ああ」

 食べかけのトーストを放り出して玄関に走って行った。

「Hi!」
「よう、ルース! 良かった、間に合ったな。ほら、これ」

 かさっと紙袋を手渡された。ずっしりと重い。
 いいにおいがする。

「……え、これ……お弁当!?」
「ついでだよ、ついで。夕べ、ミートローフ焼いたから」

 ミートローフと野菜と卵のサンドイッチ。
 きちんと四つに切り分けてある。

「これなら分けて食うのに楽だろ? さすがにランチボックスまでは手が回らなかったけど」
「ありがとう!」

 がっしりした背中に腕を回して抱きついた。
 ごつごつしていて、堅いけど、あったかい。

「マックス……大好き……」
「ああ。俺も大好きだよ、ルース」

 見上げると、うれしそうにほほ笑んでいた。ヘーゼルブラウンの瞳を細めて、ご機嫌なゴールデンレトリバーそっくりの表情で。
 ほんと、こう言う時っていつものおっかない顔が嘘みたい……男の人だけど、やっぱりママに似てるな。


 ※ ※ ※ ※


 何てこった。

 娘と抱き合い、顔中笑み崩す相棒の姿を見ながらパリスは秘かに驚き、とまどっていた。

 最初にこいつが配属されて自分の相棒になった時は、何とも生意気そうな新人が来やがったと、正直うっとおしく思った。
 どうせテキサスレンジャーかぶれの、腕っ節の強さを鼻にかけたタフガイ気取りの男だろうと。

 一緒に勤務するうちに、そんな先入観はあっさり消えたのだが。
 実際彼の腕力は強かったが、最小限の労力で効率よく容疑者を取り押さえるやり方を心得ていた。
 たまに行き過ぎることもあったが、二言三言、助言を与えると素直に聞いて、二度と同じ失敗はくり返さなかった。
 殴られても。時にはナイフで切られても決して膝をつかず、犯人を逮捕してから「血が出てるぞ」と指摘するとそこで初めて痛そうな顔をする。

 つくづく無鉄砲な奴だと呆れ、同時に丈夫な男だと感心したもんだ。
 どこまでも一本気で、真っすぐで。長い事町を巡るうちに誰もが身につける灰色にも染まらず、真っ白なまま。それ故に敵も多いが降り掛かった火の粉は自らの手で払い、決して自分を曲げようとはしない。
 だが、相棒の自分に対してはどこまでも誠実で、裏切らない。
 彼から向けられる無条件の好意と信頼に最初のうちこそとまどったが、今ではすっかり空気を呼吸するように自然に受け入れている。

 
 110906_0012~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 そんな男に。
 何故か今、妻の面影が重なる。自分を捨てて恋人と去って行った女の姿が。

(馬鹿な。錯覚だ)

 ああ。しかし……。
 何てきれいな髪の毛してやがるんだろうなあ、こいつは。赤くて、艶やかで、ほんの少しウェーブがかかっている
 ほんとにそっくりだよ。
 あの女に。


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【ex2-3】赤い髪のマックス2

2008/05/12 0:25 番外十海
「その制服も、じきに見納めだな」

 ロッカールームでフレディに言われた。
 年末の休暇が開ければ俺は爆発物処理班に移ることが決まっていた。

 911テロの後、市警察ではテロ対策でCSIと爆発物処理班の規模の拡大と人員の増強が行われた。
 爆発物処理班の班長は俺と同じスコティッシュで、以前から懇意にしてもらっていた。その彼が直々に俺をスカウトしてくれたのだ。

「マックス。君は化学と機械工学の学位をとってるそうだな。うちに……来るつもりはないか?」
「これからサンフランシスコで起きるであろう爆発のうち、一つでもいい。未然に防ぎたい。君の力を貸してくれ」

 チーフのその一言で転属を決意したが、パトロール警官にまったくの未練がないかと言えば嘘になる。
 何よりフレディと別の部署になるのが残念だった。警官として現場で必要なことは全て彼から教わった。新人としてこの署に配属されて以来、ずっと相棒で、友だちだった。そのコンビも、もうじき終わる。

「そうだな……まあ、式典の時なんかは着る訳だし。ガキの頃から憧れてたから、ちょっぴり寂しいけどな」
「俺も寂しいよ。お前、よく似合ってるし」
「ん……まあ、あれだ。CHiPsとどっちに入るか迷ったんだけど、あっちは制服、茶色だろ? 髪の色に合わないんだよ。どことなくぼけた感じになっちまう」
「あきれた奴だ。そんな理由で市警察に入ったのか!」
「高校生ん時の話だって! 勘弁してくれよ」

 フレディはポン、と肩に手を置いて顔を寄せてきた。

「お前、きれいな髪の毛してるな」
「そうかぁ?」
「伸ばさないのか」
「よせよ、ロンゲの警察官なんてしまらねぇ。俺の髪の毛、変なクセついてっからな。伸ばすと犬みたいだぞ、きっと」
「そんなことないだろ」

 肩にかかっていた手がすっと首筋をかすめて上に上がり、くしゃり、と髪の毛をなでられた。
 うわ、くすぐってぇ。
 思わず首をすくめる。

「本当に、きれいな赤毛だよ、お前は……」
「よせって。子どもじゃないんだから」
「赤毛の人間って気性が激しいんだってな……」
「ああ、よくそう言われる」
「ベッドの中でも」
「………そりゃ初耳だ」

 おいおい、警察のロッカールームでわい談か? 高校生じゃあるまいし。
 にやりと笑ったフレディが、また何やらロクでもないことを言いかけた所で奴の携帯が鳴った。

「鳴ってるぞ」
「……ああ。ったくこんな時に」

 ディスプレイを見るなり舌打ちして、俺の髪の毛から手を放し、離れて行った。

「今はまだ署内にいるんだ……ああ、後でかけ直す」

 込み入った電話らしい。
 一旦背中を向けて制服を脱いで。私服のシャツに袖を通しながらちらりと奴の方を振り返る。
 目が合った。
 薄い水色の瞳。どこか鋼鉄の輝きにも似ている。
 いつも隣で俺のことを見守ってくれた瞳が、なぜか……初めて見る、奇妙な光を宿しているように思えた。
 俺の視線に気づくと軽く手を振り、早足で部屋を出て行った。

 何だか、あまり感じのいい電話じゃなかった。

 心配だよ、フレディ。お前、まさかヤバい事に足つっこんでたり、しないよ……な?


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【ex2-4】アレックスは見た

2008/05/12 0:30 番外十海
 2002年2月。

 マクラウドさまの引っ越し準備は着々と進んでいる。
 あの方がレオンさまと同じマンションに引っ越したいと言い出した時は心の底からほっとした。あの方と離れている間、レオンさまは痛々しいほどに荒んだ生活をなさっておられたから……。
 これで、レオンさまも落ちつかれることだろう。
 すぐさま隣の部屋をご用意し、ロウスクールでの勉学と法律事務所でのバイトに忙しいレオンさまに成り代わり準備に手をつくした。

 今日もマクラウドさまのアパートを訪れたのだが、いかにも実用本意のがっちりしたシンプルな家具ばかりで。
 あの方らしいと思ってみていると、ふと風変わりな物体を見つけた。
 クマのぬいぐるみだ。だいぶ年季が入っている。

 はて……どこかで見たことがあるような……。

「すまんね、アレックス。わざわざ足運んでもらって」
「いえ。それが私の勤めでございますから……時に、マクラウドさま。何か必要なものはありませんか?」
「んー……」

 荷造りの始まった部屋の中をぐるりと見回していらっしゃる。

「今あるものだけで充分……あ、いや、ちょっと待て。本棚、しっかりしたの、用意してもらえるかな」
「本棚でございますか?」
「うん。一部屋まるごと書庫にしたいんだ」
「さようでございますか。どのお部屋をお使いになる予定ですか?」

 書庫に使う部屋と、収める本の量を確認してからアパートを出た。

 やはりあのクマは見覚えがある。しかしレオンさまに渡したはずのクマが、なぜマクラウドさまの部屋にあるのだろう……。
 首をかしげながら階段を降りて駐車場に向かう途中で……視線を感じた。
 さりげなく目を向ける。
 街路樹の陰に男が一人立っていた。ほとんど灰色に近い鋭い水色の瞳にブロンズ色の髪、浅黒い肌。ギリシャ系かイタリア系の血が混じっているのだろうか。
 
 こちらの視線に気づくと、ぷいと目をそらして足早に去って行く。
 妙だ。
 男が視界から消えてから、彼の居た位置に立ってみた。
 
「これは……」

 マクラウドさまの部屋の窓がよく見える。カーテンが開いていれば部屋の中まで見えそうではないか。ふと足元を見ると、真新しい吸い殻が何本も散らばっていた。
 そうとうな時間をこの場所ですごしていたようだ。

 レオンさまにお知らせするべきだろう。一刻も早く。


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【ex2-5】レオンは見た

2008/05/12 0:33 番外十海
 アレックスから不審な男の報告を受けて以来、できるだけ時間を作ってディフのアパートを訪れることにした。
 主に水曜日……彼の非番の日に。すっかりそれが習慣になった、四月のある日。

「悪ぃな、お前にまで手伝わせて。飯、食ってくだろ?」

 午前中いっぱい引っ越しの準備をしてひと息入れると、ディフはいつものようにエプロンをつけて甲斐甲斐しく食事の仕度を始めた。
 
「何か手伝おうか?」
「いや、いい、休んでいてくれ」
「……わかったよ」

 仕方がないか。
 俺は料理には……と言うより家事全般に、壊滅的に向いていないのだから。素直にリビングに行き、ソファに腰かけて見るともなしに新聞を読んでいると、呼び鈴が鳴った。
 ディフが手を拭きながら大またで部屋を横切り、覗き穴から外を確認してから玄関を開けた。

「よう、フレディ」
「………客がいたのか」
「うん、学生時代からの友だちがな。前に話したことあったろ、レオンハルト・ローゼンベルクだ」
「ああ……覚えているよ」

 新聞を置いて、玄関の方を見る。
 刹那、視線がかち合った。
 ブロンズ色の髪の毛、水色の瞳、浅黒い肌………あの男か!
 
「あ、ちょうど飯できたんだ、食ってくか?」
「いや、いい。近くまで来たついでに寄っただけだから。じゃあ、またな」
「おう、ルースによろしくな」

 ドアの閉まる直前、男は刺すような目を向けてきた。むき出しの敵意に一瞬、背筋がぞくりと震えた。

「誰だい、今のは」
「同僚だよ。同じ署の。去年まで相棒だったんだ。いい奴だよ」
「そう………か」

 いい奴だって?
 君は気づいていないのか。
 
 ……そうだろうな。
 君はいつでも誰に対しても誠実で、裏表がない。一度信用した相手のことは決して疑わず、自分も誠意を尽くす。
 一本気で単純、と言ってしまえばそれまでだけど。

 ローゼンベルクのどろどろとした『家族』の騙し合いを見慣れた俺には、君が天使に見えたよ。
 だけど君が君のやり方で生きて行くには優しくない世界だから……。


 君を守りたい。親友として。

(それでいいんだ。そうあり続けようと自分に誓った)

 そのためならどんな手段も使う。あらゆる物を利用しよう。
 そのまっさらな魂が汚れぬように……。



 ※ ※ ※ ※


 パリスはアパートを出て歩き出した。
 街路樹の下の『定位置』にはとてもじゃないが立っていられなかった。

 レオンハルト・ローゼンベルクの名前は何度か聞いたことがあった。高校時代のルームメイトで、今でも親友なのだと。
 嘘をつくな、マックス。あれが親友だって? 冗談じゃない……。

 求めても。
 願っても。
 奴の心は他の男に向けられている。

 お前も同じなのか。
 俺を捨てて出ていったあの女と。

 目を閉じると艶やかな赤い髪の毛がまぶたの裏に翻る。
 今頃、ローゼンベルクの指があの柔らかな赤色をかき上げているのだろうか。

 腹立たしい。忌々しい………許せない。
 気が狂いそうだ。
 お前が他の奴を見ているなんて。俺以外の男の前で、あんな嬉しそうな顔してるなんて我慢できないよ、マックス。
 天使のような純情そうな顔をして、しっかり男をくわえこんでいやがったか。

 腹の底からふつふつと、青黒い炎が噴き上がる。

『お前をねじ伏せてやりたい』
『屈服させて。打ちのめして。徹底的に汚してやりたい……』

 ああ………そうだ。
 手に入らぬものならば、いっそ自分で壊してしまおうか。
 他の奴なんかで代用せずに。


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【ex2-6】ヒウェル釣られる1

2008/05/12 0:37 番外十海
 勉学の甲斐あって無事に大学を卒業、さらに一応成績優秀だったおかげでいわゆる一流の新聞社に潜り込むことができた。
 できたけど、それだけ。
 新米の俺に回ってくる仕事と言や、イベントの取材やらインテリアやグルメ、ペットの紹介記事とか実に細々としたお仕事ばっかりで……。
 このままじゃダメなんだ。与えられた仕事をこなすだけじゃ。
 自分から狩りに出なけりゃ、事件を射止めることなぞできやしない。とは言え、道を歩いていてそうおいそれとど派手な事件に出くわすはずもなく、悶々としているうちに日は流れて行く。

 その日も、ガーデニングと、キルトと創作パイの展示発表会の記事なんぞをたらたらとまとめていた所に携帯が鳴った。
 こりゃまた珍しい。『姫』から電話かかってくることなんざ滅多になかったのに。

「ハロー、レオン?」
「やあ、ヒウェル。念願の記者になれたそうだね、おめでとう」
「そりゃどーも。どーにかバーテンにならずにすみました、おかげさんで」
「ところで、面白い話があるんだ。とある警察官の不祥事について……聞きたいかい?」
「詳しく聞かせてください」

 手帳を引っぱり出してページをめくる。どうやら運が向いてきた。それとも罠か?
 どっちでもいい。
 とりあえず食い付いてから考えよう。

「俺が世話になってる事務所で担当した被疑者がね。ああ女性だったんだが……とある警察官に、事情聴取にかこつけてハラスメントを受けていたんだよ」
「セクシャルな?」
「まあね」

 どっちかと言うとゴシップ誌向きなような気がしないでもないが。いつの時代も人はこの手の話題を読みたがる。
 金を払って新聞を買う読者であれ。ネット上のニュースの見出しを何気なくクリックして流し読みする読者であれ。
 この手の話題には、ほぼ必ず食い付く。加害者がサンフランシスコ市警察の警官となればなおさらに、二重のスキャンダルに夢中になる。

「で、その警察官の名前は? ああ、ご心配なく、そのご婦人の名前はチラとも出しゃしませんよ。加害者の名前さえわかればいい」

 そう、ここで大事なのはむしろ被害者より加害者(いや、容疑者か?)が誰であるか、だ。
 獲物はそいつだ。

「君ならそう言うと思ったよ……フレデリック・パリスだ」


 ※ ※ ※ ※


 電話を切ってからレオンは小さく安堵の息をついた。
 これでいい。

 あれからも度々、アパートの周囲でパリスとすれ違った。先輩弁護士のデイビットについて市警察に行った際にも。
 その度に敵意と悪意をむき出しにした目を向けて来たが、もう恐ろしいとは思わなかった。

 彼が手を染めていたのは、被疑者へのセクハラだけではない。対象も女性だけではなかった。
 巡回区域のチンピラから上前を跳ね、さらにそれを束ねる犯罪組織とも繋がり、目こぼしと情報の見返りに恩恵を受けていたような腐った男だった。突けばいくらでも膿みが出そうだ。
 こんな奴と相棒だったのかと思うと寒気がした。

 だが、そんな男だからこそ、ディフに惹かれもしたのだろう。暗闇の中にいると星はことさらに明るく、輝いて見えるものだ。

(俺も……ある意味、彼と同じ、なのかな)

 だからこそ、恋人として触れることはしないと決意した。どんなに狂おしくこの身が……魂が、彼を求めても。
 
 時々、途中経過を確認するべきかもしれないな。詰まっているようなら、次のヒントを与えてやろう。もっとも、ヒウェルなら放っておいてもいろいろ探り出しそうな気がするけれど。
 さしあたって自分はディフの身辺の安全にさえ気を配っていればいい。


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