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ローゼンベルク家の食卓

【3-12-1】レイモンド失敗す

2008/05/31 22:12 三話十海
 2月の終わり。バレンタインデーの賑わいも通りすぎたある日の午後。晴れてはいたが風は冷たく、厚手のセーターやマフラー、手袋無しに表を歩くのは辛い。
 朝夕の冷え込みは衣服も皮膚も肉ももろとも貫いて、骨の中心にまで染み通るほどだった。

 白っぽい光の差し込む近代的なオフィスの一室で、電話が鳴った。金髪に紫の瞳の小柄な少年がおずおずと手を伸ばそうとするが、それより早くすっと、灰色の髪の男が進み出た。年の頃は四十代、ダークグレイのスーツを寸分の隙もなく着こなしている。

「あ、アレックス」
「シエンさま、ここは私が」

 水色の瞳が電話機のディスプレイに向けられる。

 非通知。

 別に珍しいことではない。初めて法律事務所に相談を持ちかけるお客の中には、自分の素性を明かしたがらない者も多い。
 受話器を取り、耳に当てた。

「はい、こちらジーノ&ローゼンベルク法律事務所でございます」

 返事はない。
 しばらく時間を置いて、さらにひと呼吸置いてから、言葉を続けてみる。

「よろしければ、ご用件を承りますが………」

 ぶつっと切れた。
 見事なくらいに典型的な無言電話だ。

「これで何度目だろう………」

 受話器を置き、眉をしかめる。おずおずと横からシエンがのぞきこむ。

「最近、多いね」
「そうですね……」

 アレックスは穏やかにほほ笑んだ。

「しばらくは電話の応対には私が出ましょう。シエンさまは奥で資料の整理をお願いできますか?」
「ん……」

 こくっとうなずくと、シエンは奥へと入って行く。

(今日は一日元気がない。やはり不安になっておられるのだろうか)

 早めにお返しした方がいいかもしれない。マクラウドさまに迎えに来ていただこうか。
 考えている矢先にまた、電話が鳴った。
 非通知で。

「………はい、こちらジーノ&ローゼンベルク法律事務所でございます」


 ※ ※ ※ ※


 資料を収めた本棚の並ぶ部屋に入り、ドアをしめるとシエンはほっと安堵の息をついた。
 電話の音を聞くのが怖かった。
 受話器の向こうの沈黙が嫌だった。

 今日はレオンはデイビットと一緒にサクラメントに出張していていない。事務所に所属するもう一人の弁護士、レイモンドも出先からまだ戻っていない。
 ディフもずっと外に出ている。ヒウェルもここ二三日、ほとんど事務所に顔を出さない……仕事が忙しいらしい。
 だから余計に心細い。
 
 しっかりしなきゃ。
 事務所にはアレックスもいるし、下の階にはオティアもいる。
 大丈夫。夕方にはディフも帰ってくるんだから。

 でも……何だか、だるい。頭がぽーっとして、目の前がゆれる。地震かな、と思ったけど違った。部屋の中のものはちっとも動いていない。

(疲れてるのかな)

 片手にファイルを抱えたまま本棚にもう片方の手をつき、体を支えていると……。
 不意に、後ろからばーんと背中をたたかれた。

「やあ、シエン。どうした、ぼーっとして!」
「ぃっ!」

 一瞬で頭の中に記憶が蘇る。暗い路地を歩いていて、いきなり後ろから車の中にひきずりこまれた。
 必死でもがいても押さえ込まれて、あの山奥の工場に連れて行かれた。
 誰も助けてくれなかった。
 誰も。
 誰も。

(逃げなきゃ! 隠れなきゃ!)

「シエン、どうした? どこか怪我したのか! 痛いのか!」
「やあっ」

 手にしたファイルを放り出していた。白い紙がぱらぱらと飛び散る。
 夢中で部屋の隅に逃げ込み、うずくまった。

(恐い、恐い、恐い!)

「おい……シエン?」

 レイモンドは慌てた。部屋に入った時、こちらに背中を向けている彼に気づいたのだが、振り向きもしなかった。どうやらノックが聞こえなかったらしい。
 何をぼんやりしてるんだろう、と思いながらもいつものように近づき、背中をそっと(彼の基準からしてみれば極めてそっと)叩いて挨拶したのだが。

「だ、大丈夫だから、怒ってないからっ」

 とにかく、距離をとろう。
 後じさりして部屋の反対側へ退避し、机の陰にかくれる。あいにくとだいぶはみ出していたが……とにかくかくれる。
 シエンはすっかりパニックを起こしてうずくまり、震えている。心配だが、ここで自分が近づいたら逆効果だ。
 どうしよう。
 どうすればいい?
 
「いかがなさいましたか」

 救い主が表れた。

「アレックス! たのむ、助けてくれ!」

 張り上げられる大声に、またシエンがびくっと身をすくませる。
 アレックスはすばやく部屋を見回し、およその事態を察した。


「落ち着いてください、しばらくお静かに」
「わ、わかった」


 有能秘書が静かな声でシエンに話しかけるのを、レイモンドは机のかげから見守った。
 アレックスはそっとシエンに近づいた。が、ふるふると首を横に振り、ますます怯えて両手で頭を抱えてしまった。
 やむなく4フィート(120cm)ほど距離を置いてひざまづき、声をかける。

「シエンさま」
「やだ……やだ………こわい……こわい……」


(これは困った。すっかり怯えておられる。さて、どうしたものか?)

 困惑するアレックスの目の前を、すっと人影が横切る。いつの間に来ていたのだろう。瓜二つの金髪の少年がシエンの隣に膝をついていた。

(オティアさま?)

 オティアが黙ってさし出した手を握ると、シエンは震えながらもゆっくり立ち上がった。
 しっかりと手を握り合ったままアレックスのそばに歩み寄るとオティアが顔を上げ、視線を合わせてきた。

「しばらく奥でお休みになった方がよろしいでしょう」


 オティアがうなずく。

「では、こちらへ……」

 部屋を出る間際にオティアはちらりとレイモンドに目を向けた。

「すまん」

 縮こまって謝罪の言葉を口にする巨漢の弁護士から目をそらすと、オティアは何事もなかったかのようシエンと連れ立ってすたすたと奥に入って行く。その後を静かにアレックスが着いて行く。最後に一礼して、ドアを閉めた。
 行き先はおそらく仮眠室だ。

 見送ってから、レイモンドは盛大にため息をついた。

「はあ……また……子どもを泣かせてしまった……」


 いかつい外見とは裏腹に彼は子ども好きだった。
 しかしながら6フィートを軽く越える身長と、岩を刻んだようなごっついかっ色のボディ、そして鋭い顔つきと大きな低い声が災いして怖がられてしまう。うかつにのしのしと近づいて、

「おお、可愛い子だな! 坊主、名前は!」

 なぞと声でもかけようものなら、たいてい火がついたように泣かれる。
 転がってきたボールを投げ返せばつい昔とった杵柄で豪速球で投げてしまい、結果としてまた怯えさせる。

 ただでさえこうなのに……うっかりしていた。
 シエンがどんなに恐ろしい経験をしたか、知っているはずなのに。

「ごめんよ……」

 閉まったドアに向かってつぶやくと、彼は床に散らばるファイルを拾い上げた。


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【3-12-2】双子早退

2008/05/31 22:13 三話十海
「失礼いたします」

 捧げ持つ銀色のトレイの上にはカップに入ったホットミルク。静かに部屋に入るとベッドに横たわる金髪の少年にうやうやしくさし出した。

「……どうぞ」

 震える手が受け取り、こくっと一口ふくんだ。

 良い傾向だ。こう言う時はとにかく、あたたかいものを取るに限る。
 血の気を失った頬に少しずつ赤みがさして行く。
 安堵の息をつき、ベッドの傍らに付き添うオティアさまを見て……はっとした。

 いつもと同じポーカーフェイスだが……微妙に汗ばんでおられる。目も潤んでいるようだ。この寒い日に……もしかして、熱があるのではないか?

「お二人とも、今日はもう、お帰りになりますか?」

 お二人は顔を見合わせ、うなずいた。

「それではしばらくお待ちください……」

 事務所に戻り、電話をかける。
 レオンさまはサクラメントに出張中だから、マクラウドさまの携帯に。しかし電源が切られている。おそらく張り込み中なのだろう。
 留守電に伝言を残すことにした。

「アレックスです。オティアさまとシエンさまが体調がお悪いようなので早退させます。私が付き添っておりますので、ご心配なく」

 これで良い。ではお二人を迎えに行こう。


 ※ ※ ※ ※


 マンションに着いた頃には、お二人はぐったりしてほとんど口を聞かなくなっていた。
 ぴたりと寄り添い、手をとりあって、お互いに支え合うようにして車から降りる。背後から見守りつつ最上階に向かった。

 お二人を部屋にお連れして、パジャマに着替えさせ、ベッドに寝かせる。一度キッチンに戻ってから氷枕を二人分、用意した。
 タオルにくるんだ氷枕を頭の下に入れると、シエンさまがうっすらと目を開け、小さな声で「ありがとう」と言った。
 良かった。パニックはひとまず収まってきたようだ。

 体温計で代わる代わる熱を計ると、二人ともきっちり同じ、100°F(約38℃)。
 できるだけ早く薬を飲ませたい所だが、その前に何か胃に入れておいた方が良いだろう。

「何か、食べたいものはありますか?」
「ん………」
「薬を飲む前に、何かお食べになった方がよろしいかと。アイスクリームやゼリーなど、さっぱりしたものはいかがでしょう」
「………じゃあ、アイス………バニラ」
「かしこまりました。オティアさまは?」
「……べつに、なにも」
「さようでございますか。それではキッチンにおりますので、ご用がありましたらいつでもお呼びください」

 一礼してキッチンに戻る。
 
 何年ぶりだろう。
 この部屋で誰かが寝込むのは。

 頭の中で素早く必要なものをリストアップする。水分とビタミンの補給用にオレンジジュースとスポーツドリンク、それからシエンさまからのリクエスト……バニラのアイスクリーム。
 お二人を部屋に残して行くなどもっての他、買い出しの間、誰かに付き添っていただかねばなるまい。
 携帯をとりだし、Mの項目を呼び出し、電話をかけた。

「やあアレックス? どうしたい、珍しいね」

 しゃがれた声だ。あのお方はもう少し煙草をお控えになった方が良い。胃を溶かしそうなほど濃いコーヒーも。

「メイリールさま、一つお手伝いをお願いしたいのですが……今、お忙しいでしょうか?」
「うん? まあ、そこそこね。で、手伝いって何よ」
「実はオティアさまとシエンさまが熱を出されまして。先ほど家に戻った所なのですが……」
「5分待て。そっちに上がってく」

 電話が切れたと思ったら5分も経たないうちに呼び鈴が鳴った。
 ドアを開けると、ノートパソコンを抱えたメイリールさまが立っておられた。白地に青のストライプのシャツ、ゆるく締めた細いタイ、ブルーグレイのズボン。いつも通りの適度にリラックスした服装で。

「双子が寝込んだって?」
「はい。それで私、これから買い物に出かけますので」
「OK、留守番は引き受けた」

 おやおや、まだ何も言っていないのに。しかし、話は早いに越したことはない。

「こちらにタオルと、予備の氷枕を用意してありますので……よろしくお願いいたします」
「任せろ」

 マクラウドさまにも伝言を残した旨お伝えし、部屋を出た。
 それにしても、よほど慌てて部屋を出てきたのだろう。
 メイリールさまは片方の足には革靴を、もう片方の足にはスリッパを履いておられた。
 エレベーターの中でつい、くすっと小さく笑みがこぼれてしまった。

 あの方にしては、珍しい。

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【3-12-3】ヒウェル看病

2008/05/31 22:23 三話十海
 アレックスを見送ってから、ふと足元の違和感に気づく。

「あ」

 何てこったい。かたっぽスリッパでかたっぽ革靴じゃねえか。たかが双子の発熱程度で、何あわてふためいてるんだ?
 とにかくこのままじゃ歩きづらくてしかたない。とりあえず両方脱いで、来客用のスリッパにはき替えたが、どうにも上等すぎて足に馴染まない。
 そもそもこの家にあがりこむ時、客用のスリッパなんざはいた試しがなかった。

「……とりあえず仕事、区切りまでやっとくか」

 食卓にかけてノーパソを開く。あわてふためいて出てきたから、書いた分のバックアップすらとっていなかった。
 途中で落したらどうするつもりだったんだ。まったく、不用心にもほどがある。
 一区切りつくまでやったらあいつらの様子を見に行って………。

 用事があったら呼ぶように言っておいたとアレックスは言っていた。けれど、あいつらそもそも遠慮しいだから苦しいからって声かけてくれるんだろうか。
 それ以前に二人そろって熱があるんだ。聞こえるような声出せるのか? こっちまで呼びに来ることができるのか?
 二人して息も絶え絶えにベッドの中でぐったりしてやしないか。

 そんなことを考えてるうちに、はっと気づくと画面右上の時計が30分経過していた。
 かたやエディタ上の文字は、一行増えただけ。

 …………………………………………………………いかん。まっっったく集中できん。
 とりあえず保存して。
 パソコンを閉じて、立ち上がった。

 見てくるだけだ。
 ちらっと様子を見てくるだけだ。

 アレックスの用意してくれた予備の氷枕二つ、タオルでくるんで、抱えて部屋に向かった。


 ※ ※ ※ ※

 
 ノックしてからそろっと部屋に入る。双子は隣り合ったベッドに横たわり、ぐったりと目を閉じていた。
 顔が赤い。のろのろとまぶたがあがり、とろんとした目が二組、こっちを見た。

「………ヒウェル?」
「よ、シエン。アレックスに、応援たのまれた」

 オティアは何も言わない。すぐに、ぷいっと目をそらせてしまったが構わず歩み寄る。

「氷枕、新しいの持って来た。替えるぞ」

 双子のベッドのうち、オティアの方が若干、ドアに近い。だからこっちに先に行くんだ、それが自然な流れだろう?
 胸の内で見え見えの言い訳をつぶやきつつ手を伸ばすと、オティアは頭をずらして起きあがろうとした。
 しかし動きはまるで粘着質の液体の中を動くように緩慢で……動くのが辛いのだと一目で知れた。

「そのままでいい。ちょっとだけ、触るぞ」

 軽く手を頭の後ろに差し入れて持ち上げる。指に触れる金色の髪の毛はじっとりと濡れていた。
 アレックスの用意した氷枕はたかだか30分の間にすっかり溶けていたが、きちんとタオルにくるまれていて水滴が漏れた気配はない。
 それに濡れているのは主に髪の毛の根本の部分、地肌に近い場所。おそらくこの湿り気は汗だ。

 氷枕を入れ替えつつそれとなく観察すると、頬にも、額にも汗がにじんでいる。
 熱の下がる前ぶれの汗ならまだいいが、体調不良から来る嫌な汗だと厄介だ。いずれにせよこのまま放っておいたら衣服に染み付き、体を冷やしてしまう。

「汗……拭いとくか? 軽く」

 答えはない。
 浴室に行き、タオルを二本とってきた。

「ふ……拭くぞ」

 なぜ、そこでどもるか。緊張しすぎだ。何、意識してやがる。
 そっと、そっと、極力そっと。タオルを近づけ、軽く顔を拭く。
 手が震えた。

「ん……」

 目を閉じて、気持ち良さそうにしている。やっぱり気持ち悪かったんだな、このじっとりが。少し勇気づけられ、首筋をタオルで撫でた。

「けっこう汗かいてるな………着替えた方が………いい」

 答えはない。
 クローゼットを開けて、下着とパジャマを二人分取り出す。細かいチェックのパジャマを二着。オティアは白地に淡い水色、シエンのは白に近いベージュとクリーム色。なぜかこう言う時もそろいのを選んでしまう。

「………さてと」

 ごくり、と口の中にわいた唾を飲み込む。大きく深呼吸してから、普通なら言った瞬間に殴り倒されても文句の言えない一言を口にする。

「脱がすぞ」

 パジャマのボタンに手をかけたまま、約2秒ほど待機。
 ……沈黙のまま。
 拒絶の兆しは、無し。
 一つ、一つ、ボタンを外して行くが、オティアはなすがまま、されるがまま。あまつさえ、すっかりボタンを外し終えたパジャマの上着を肩から外そうとすると、自分から協力して腕を抜き取った。

 ああ、神様。これが夢なら覚めないでくれ。
 すっかり汗を吸って重くなったアンダーシャツを汗ばんだ体から取り去る。

 大人になり切る前の少年独特の、すんなりした身体が目の前に露になる。

 それなりに筋肉はついているが、肩や胸のあたりはやはりまだ少し肉付きが薄く、それでいてほのかな丸みがある。
 どことなくあどけなさが残っていて、つるりと皮を剥いたばかりの桃みたいにみずみずしい。
 あと5〜6年もすればすっかり大人の体ができ上がるのだろうが、今は……天使みたいだ。

 もし人の一生の間に与えられる幸運の量が決まっているのなら、今日の俺はこの先十年分の幸運を使い切ってるだろう。
 この一瞬で。
 それでも構わない。
 構うもんか。

 熱のせいでうっすらと上気した肌をタオルでぬぐう。
 そうだ、これは看病。看病なんだから、勘違いするなよ、ヒウェル。
 必死に自分に言い聞かせても、視線が吸い寄せられてしまう。

 左の鎖骨のすぐ下に、ぽつっと小さなホクロがあった。何気なく。いや、ついうっかりと手を伸ばして、触れた。
 タオル越しに。
 熱のせいで高くなった体温が伝わってくるような気がして、息を飲む。

「ぅ……」

 ふるっと小さくオティアが体を震わせる。
 あ。
 寒いんだ。

「ごめん、すぐ、終わるから」

 さっ、さっと、素早く胸、腹、背中と汗をふき取り、乾いた下着とパジャマを着せる。
 ズボンを抜き取る時少しだけ、自分を見失いそうになった。
 無防備にオティアの脚が目の前にあるもんだから……しかもベッドの上だし。それでも遠慮して上の方からは視線をそらせた。
 が。
 この年になって初めて思い知らされた。
 惚れた相手の体ってのは、たとえつま先だろうと普段見えてない場所ってだけでこうも心をかき乱すものなんだって。

 象牙を削りだしたようなつま先に見惚れていると、ふと視線を感じた。
 隣のベッドからシエンがじっとこっちを見ていた。

「すまん、待たせて。すぐ、そっちに行くからな」

 それからはさくさくとノンストップで手を動かし、すっかり着替えの終わったオティアを元通り布団に寝かせた。

「……おわったぞ……」
「ん……」

 目を閉じたまま小さくうなずく。こいつがこんなに素直になるなんてな……まるで初めて会ったあの日みたいだ。
 そっと手を伸ばして、額に張り付く金色の髪の毛を整えた。

(ずっと、こうしたかったんだ)

 ふう、とため息をついてから隣のベッドに向かう。
 今度はシエンの番だ。

「おまたせ。じゃ、汗ふこうな」

 とろりと潤んだ紫の瞳が見上げてきた。頬がうっすらと紅潮してる……。
 ああ。
 試練の時、パート2。
 しっかりしろ、ヒウェル。これは看病、看病なんだからな!


「濡れた服……脱がすよ」
「うん」


 オティアの時とまったく同じ光景がくり返されるが、二度目だからって免疫ができる訳じゃない。
 こめかみの中でずっくんずっくん暴れ回る血液の流れを無理矢理深呼吸で押さえ込み、シエンのパジャマ脱がせて、汗をふいた。
 つい左の鎖骨の下に目が行ってしまう。

 ホクロはなかった。

 視線を感じたのだろうか。
 シエンは頬を染めて目を閉じて、そっと顔を横に向けた。まるで初夜の床の花嫁さながらに……ってお目にかかったことはないが。

 いや、そもそもこの状況下でその比喩は問題あるだろ!

「………ヒウェル……?」
「あ、何でも無い…うん」


 平静を装いつつ、てきぱきと手を動かした。指先に触れるしっとりと汗ばんだ肌の感触、ゆだねられる体の重さからつとめて意識をそらせて。

「ありがと……ごめん、ね」
「謝るな。ありがとう、だけでいい。OK?」
「……ん」

 きちんと乾いた寝間着に着替えさせて、氷枕を取り替えて、そっと寝かせる。

「ほい、こっちもおわり」

 布団をかぶせると、シエンは小さな声で「ありがと」と言った。


「……どういたしまして」

 脱がせた服を抱えて部屋を出て。ギクシャクと歩いてリビングに行き、とりあえずソフアの上に重ねる。
 それからまた、油の切れたブリキの木こりみたいな動きでキッチンに向かい、500mlボトル入りの水を2本取り出して双子の部屋に向かう。


「水、ここに置いとくから。もっと欲しくなったら……携帯鳴らせ」


 それから、すっかりぬるくなった氷枕を抱えて今度こそ部屋を出て、ドアを閉めた。


 ※ ※ ※ ※


 リビングに戻り、さっきソファの上に積んでおいた下着とパジャマを抱えて洗濯室に向かう。
 腕の中に抱えた衣服からほのかに残り香が立ちのぼり鼻腔をくすぐる。

 嗅覚ってのは厄介だ。
 その瞬間、見たばかりの二人の裸身が鮮やかに頭の中にリプレイ&フラッシュバック。
 やばい、やばい、絶対にやばい。
 一秒でも早くこの危険物を処理しなければ!

「っせい!」

 まとめて洗濯機に放り込み、ほう、とひと息。ずっくんずっくんとうずくこめかみを押さえつつキッチンに引き返す。

「お」

 アレックスが買って来たものを冷蔵庫に入れていた。

「おや、メイリールさま、そちらにおられましたか」
「ん、ちょっと洗濯室にね。おかえり、アレックス」
「お疲れさまでした。留守中、変わりはございませんでしたか?」
「ああ、いたって平穏、変わりな………」

 ぼとっと何かが床に落ちた。
 喉の奥、鼻の奥を濃厚な鉄サビ臭が満たし、鼻の穴から生暖かいしょっぱい液体がぼとぼとと垂れる。
 まいったな、鼻水か?

 足元に鮮やかな赤い色が散っていた。

 鼻血。
 しかも、今頃。

「う………」

 原因は言わずもがな。
 十代のガキか、俺は。
 直接見た瞬間じゃなくて思い出しヌードで出るあたり微妙にスレてるっつーか……ズレてると言うか。
 どうしたもんか?
 途方に暮れていると、すっと目の前にティッシュの箱がさし出された。

「どうぞ」
「どうも」

 俺が鼻血をぬぐってる間、アレックスはてきぱきと床の血痕を拭き取り、きれいさっぱり消し去ってくれた。そりゃもうルミノールテストでもかけなきゃわからないくらいに跡形もなく。
 さらに水で冷やしたタオルをさし出し、さりげなく居間のソファを示して一言。

「おつかれさまでした。しばらくお休みになられてはいかがでしょう」
「……そうさせてもらうよ。ありがとう、アレックス」

 最高に気まずい気分でソファに深く腰かけ上を向き、眼鏡を外してタオルで顔の上半分を冷やす。
 キッチンの方角からは、しばらく何やらカチャカチャ食器を動かす気配がしていた。
 やがて冷蔵庫の扉が閉まり、静かな足音がリビングを通り抜け、双子の部屋へと歩いて行く。

 まったく彼は優秀だ。余計なことは何一つ言わない。
 そのことが、ひたすらありがたかった。


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【3-12-4】まま帰宅

2008/05/31 22:24 三話十海
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 ガラスの器にバニラのアイスクリームをぽこりと丸く盛りつけて。薬と、水を二人分、トレイに乗せて運ぶ。
 
「失礼いたします」

 部屋に入ると、お二人とも乾いた寝間着を着ておられた。出て行く前とは柄が違う。おそらくメイリールさまが着替えさせたのだろう。
 と、言うことはあの鼻血の原因は………。
 まあ、まだお若いのだ。やむを得まい。

「どうぞ。薬を飲む前に、お食べください。足りなければまたお持ちしますので」
「ありがと……」

 少なめに盛りつけたアイスを、シエンさまは少しずつお食べになられた。一口ずつ、大事そうに。

「冷たい……美味しい」

 オティアさまは一口、二口食べると目を閉じて首を横に振って

「もう、いい」

 とおっしゃった。

「では、こちらのお薬を」
「ん」

 氷枕は冷たかった。こちらもメイリールさまが替えてくださったのだろう。
 薬を飲ませてしまうと、あとはもう、他にすることはなさそうだった。お二人を寝かせてから、下がることにした。


 ※ ※ ※ ※


 リビングで濡れタオル乗っけて休んでると、どかどかと凄まじい足音が近づいてきた。
 グリズリーか、バッファローか。ミノタウロスか、トロールか。とにかく鼻息荒げた大型の生き物が突進して来る。
 ほどなくドアが開いてご当人が入って来やがった。
 タオルをずらして、ちらりと見上げる。
 赤いたてがみを振り乱し、黒のライダースジャケットを羽織ったヘーゼルアイの厳つい野郎が両足を踏ん張って立っていた。

「よお、お帰り、まま」
「誰が貴様のままだ!」

 この寒いのに汗ばんで息切らしてるよ。まさかこいつ、地下の駐車場から一気に階段駆け上がってきたのか?
 エレベーターが降りてくるのすら待ち切れずに。

「双子なら心配ないよ。アレックスが面倒見てる」
「……そうか」

 ふう、と大きく息をつくと、ディフはぱちぱちとまばたきして、ちょこんと首をかしげた。

「お前も熱、あるのか?」
「ん……まあね、ちょっとした育児疲れってやつ?」
「何訳のわからんこと言っとるんだ」
「お帰りなさいませ、マクラウドさま」

 のそっと起きあがって眼鏡をかけ直す。銀色のトレイを捧げ持ったアレックスが立っていた。
 トレイの上にはガラスの器と空になったコップが二つ。器の一つには少し溶けたバニラアイスが乗っていて、ほんの一口か二口、だれかが食べた痕跡があった。

「アレックス。二人の容態は?」
「おそらく風邪でしょう。お薬を飲ませておきましたので、心配ないかと……今はお休みになっておられます」
「そう……か。ありがとな、アレックス。世話かけた」
「おそれ入ります」

 足音を忍ばせてディフは双子の部屋の方に歩いて行く。その間にアレックスはキッチンへ。
 残っていたアイスはおそらくオティアの分だろう。あいつはシエン以上に甘いものが苦手だから。
 アイスを口に入れたこと自体、奇跡に近い。それだけ二人ともいつもの状態じゃないんだ。

「……おさまりましたか?」
「おさまったよ、おかげさんで」
「それはよろしゅうございました」

 しばらくして、ディフが戻って来た。

「どうだった?」
「……眠ってた」
「そっか。あ、汗かいた服、洗濯機に入れといたから」
「お前が?」
「……うん、俺が」
 
 限界まで目を見開いて、まじまじとこっちを見てやがる。
 信じられないって顔だな。
 はいはい、どーせ俺は脱いだ靴下丸めて放り出して、絶対片付けない男ですよ……。

「サンキュ、ヒウェル」

 参ったね。ヒマワリが満開になったみたいな笑顔でお礼言いやがった。
 秘かに用意していた反論は出番を失い、宙に消えた。

「どーいたしまして」

 その夜の夕食、双子の分は『おかゆさん』だった。この間、サリーが置いてってくれた米で作ったらしい。適度に冷まして、ちょっとずつ器に盛りつけたのをアレックスが部屋まで運んで行った。

「何遠慮してんだよ、まま」
「……いいんだよ、これで。俺よりアレックスが行った方が……あいつら、リラックスできるから」

 そう言ってディフはほほ笑んだ。ちょっぴり寂しげに、目を伏せて。


 ※ ※ ※ ※


 その日はありがたくも夕食をごちそうになり、客間に泊まることになった。
 一度はご辞退申し上げたのだが、マクラウドさまに是非にと引き留められたのだ。

「君が居てくれた方がオティアもシエンもが安心する。だから頼むよ、アレックス」
「かしこまりました」

 そして、深夜。
 廊下を通るかすかな気配に気づき、ドアを開ける。マクラウドさまが双子の部屋に入って行く所だった。
 何かお手伝いすることがあるかもしれない。念のため、ドアの前で待機する。
 しばらくすると出てきて、こちらに気づき、よ、と軽く片手を上げられた。相変わらず気さくな方だ。

「……いかがでしたか?」
「ん。よく眠ってた。熱も下がったみたいだったし」
「それはよろしゅうございました」
「君のおかげだよ。ありがとな」

 ふっとほほ笑むそのお顔は、まるで子犬を見守る母犬のような穏やかな表情だった。
 かつてはレオンさまお一人に向けられていた愛情が、今ではオティアさまとシエンさまにも惜しみなく注がれている。
 しかも分たれて小さくなるどころか、ますます大きくなっている。

 神の御手は時として気まぐれだ。
 かくも豊かな母性をこの偉丈夫にお与えになるとは。

「それじゃおやすみ、アレックス」
「おやすみなさいませ、マクラウドさま」


(バニラアイス/了)

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