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ローゼンベルク家の食卓

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2008年4月の日記

【3-7】a day without anythig

2008/04/04 18:48 三話十海
  • 特別なことは何もない。けれどそれなりにしあわせな一日。
  • ちょっと人が増えてるので人物紹介を個別に設けてあります。
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【3-7-0】登場人物

2008/04/04 18:52 三話十海
【ヒウェル・メイリール】
 フリーの記者。25歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。
 口先と舌先、指先を駆使して世を渡る、小悪党と言う言葉がぴったりのこずるい男。
 最初にオティアを拾って来た張本人。
 もはや報われないことはステイタスとして定着した。

【オティア・セーブル】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 極度の人間不信だが、ヒウェルには徐々に心を開きつつある……が。
 口数は少なく喋る言葉は鋭い。
 ヒウェルと出会ったことで彼自身はもとより周囲の人々の運命が変わって行く。
 ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。
 記憶力と観察力に優れ、我流ながらそこそこ護身術も使える。

【シエン・セーブル】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
 外見はオティアとほぼ同じ。
 オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
 最初の事件で撃たれたディフをオティアと二人で治癒させた。
 ディフに懐きつつある。
 料理が好き。とくに中華。

【レオンハルト・ローゼンベルク】
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフとは恋人同士。
 恋人と双子に害為す者に対してはとてもとても心が狭い。
 不適切な発言は華麗にスルー。

【ディフォレスト・マクラウド】
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。25歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 がっちりした骨格に適度な筋肉のついた頑丈そうな体格。(実際、丈夫)
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢。
 レオンとは恋人同士。
 双子に対して母親のような愛情を抱きつつある……らしい。
 今回2種類ほどニックネームが増えた。

【アレックス】
 フルネームはアレックス・J・オーウェン。
 レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
 有能。万能。瞳の色は水色。

【デイビット】
 熱いハートをたぎらせた陽気で女性に優しいラテン系弁護士。
 ジーノ&ローゼンベルク法律事務所の共同経営者。
 レオンのロウスクールの先輩。

【レイモンド】
 微妙に暴走しがちな体育会系弁護士。笑うと歯が光る。
 ジーノ&ローゼンベルク法律事務所に所属。
 レオンとはロウスクールの同期生。

【エリック】
 シスコ市警の科学捜査官。ディフの警官時代の後輩、22歳。
 ライトブロンド、瞳は青緑色、身長186cm。
 金属フレームの眼鏡着用。
 地道に支持者を獲得しつつあるバイキングの末裔。



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【3-7-1】がしゃん!/midnight

2008/04/04 18:54 三話十海
 がしゃん。

 夜の静寂の中、何かの割れる音が響く。シエンはびくっとして目を開けた……ベッドに横たわったまま。

 がったーんっ……

 続いて今度はもっと派手に何かをひっくり返す音がした。カラコロと何やら固いものが床の上を転がる気配も伝わってくる。

(誰か来た? まさか、泥棒?)

 布団の中で肩をつかんで堅く身を縮める。隣のベッドでオティアが起きあがる気配がした。

「オティア……」
「見てくる」

 何故? 何を? 言葉を交わす必要なんてない。お互いの考えは手にとるようにわかる。

(お前のことは、俺が守る)


 ※ ※ ※ ※


 足音を忍ばせてリビングに行く。灯りはついていた。
 のぞきこむと、床の上に物が散乱している。包帯や傷薬、軟膏、湿布薬、ガーゼ。
 そしてフタの開いた状態で転がった救急箱の傍らに、レオンが立っていた。

「あ」
「……やあ」

 こっちを見て、ばつの悪そうな顔で、笑った。右手の人さし指に小さな切り傷。
 ひと目見てオティアはおおよその事態を把握した。

 最初の「がしゃん」で何かを壊して。片付けようとして指を切って。手当をしようとして……二次災害を引き起こしたってとこか。
 こんな時に真っ先にすっ飛んで来る奴の姿が見えないのが不思議と言えば不思議だが、少し考えてすぐ、納得が行った。

 泥棒でも強盗でもないとわかったのだろう。びくびくしながらシエンがやってきて、背後からそろりと顔を出した。

「レオン?」
「驚かせてしまったかな、すまない」


 ※  ※  ※  ※

 オティアが床の上を片付けている間、シエンはレオンの指の傷を消毒して絆創膏を巻いた。

「はい、おしまい」
「ありがとう」

 救急箱のフタを閉めてから、ふときょろきょろと周囲見回して、シエンはきょとんと首をかしげた。

「ディフは?」
「ああ、今日はもう帰ったよ」

(帰った?)
(どこに?)

 キッチンの皿の破片を回収し、ちり取りを抱えたオティアがやってきてぼそりと言った。

「隣だろ」
「あ」

 そう、ディフの自宅は隣の部屋。

 だけどいつも朝、起きると台所に立っていて朝ご飯を作っているし。夜、おやすみを言う時もリビングか台所にいる。

 レオンが帰っている時は寄り添って。たまにヒウェルと何か話し込んでる時もある。
 この部屋を出て行く時は「行ってきます」。
 入ってくるときは「ただいま」。

 自分やオティア、レオンが戻ってきたときはもちろん「お帰り」。
 朝も夜もこの部屋に居て、自分の部屋に戻るのはそれこそ眠る時だけ……退院してからはそれさえも滅多になくなってきた。

 だからなんだ。「帰った」ってレオンに言われて、どこに行ったんだろうと思ってしまったのは。

(何で、ディフはわざわざ隣に帰ってるんだろ?) 


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【3-7-2】ちいさな鍋/breakfast

2008/04/04 18:55 三話十海
 翌朝。
 ディフはいつものように朝食の用意をしに来て、いつものようにお早うのキスを交わして……レオンの指の絆創膏に気づいた。

「どうしたんだ、これ」
「ああ、いや…」

 ばつの悪そうな顔をするレオンの手をとり、絆創膏の上からそっとキスをした。
 まさにその瞬間。

「おはよー」

 シエンがリビングに入ってきた。

「っあ、えと、んと………」

 その場で十センチ飛び上がりたいのをかろうじて自制し、速やかにレオンの手を離す。自分の手を背後に隠し、精一杯さりげない風を装った。

「………おはよう」
「何やってんだ」

 後ろでオティアの声がした。

(隠した意味がねぇっ!)


 ※  ※  ※  ※


 朝食の席で双子から昨夜の顛末を聞くと、ディフは歯を見せて豪快に笑い、ぽんぽんとレオンの肩を叩いた。

「不可抗力ってやつだろ、気にすんな、レオン」
「ああ……」

 相変わらず、ばつの悪そうな顔で言葉少なに朝食を口に運ぶ。そんなレオンの横顔を見ていると何だか懐かしくなってきた。

 この顔、高校の時によく見たな。
 パンを焦がした時とか。シャツのボタンつけ直そうとして指に針刺した時とか。
 自分でも失敗したなって思ってるんだ……。
 最近滅多にしなくなっていたのにな。何だか得をした気分になってきたよ、レオン。

 顔がほころぶ。

(ああ、まったく可愛いったらありゃしない)


 ※ ※ ※ ※


 朝食の片付けをしていてふと、小さな鍋を見つけた。

(こんなのあったっけ?)

 首をかしげつつ手にとってみる。
 軽い。
 けっこう使い込まれている。
 表面の焦げ方や内側の傷のつき方から察するに、炒め物、焚き物、煮物……ありとあらゆる用途に使い倒されているらしい。
 それにしても、軽い。

「あ、もしかして……シエンか?」

 そう言えば何度かこれを使っていた。
 何気なく「米を炊いてくれるか」と言ったらいそいそとこの鍋を出してきたのだ。いつも自分が使うオレンジの鋳物の鍋ではなく。

「そうか、あの子の手にはこれぐらいの大きさと重さがちょうどいいんだ」

 真新しい食器洗い機に皿と洗剤をセットし、スイッチを入れる。

「そーいやこいつも帰ってきたら増えてたんだよな……」

 おそらく自分がいない間の家事分担を軽減すべく導入されたのだろう。
 言い出しっぺは……多分、ヒウェルだな。

「あれ?」
「む」

 リビングの方で双子が何やら顔をつきあわせている。
 エプロンを外しながらそれとなく見てみる。袖をまくって腕を並べているようだ。

「おや?」

 シエンの方が、若干……だが、明らかに筋肉がついている。
 どうやら四週間の間、重たい調理器具を上げ下げしている間に自然と鍛えられてしまったらしい。
 さながら、一日ごとに伸びる麻の苗を飛び越す間に足腰が鍛えられるニンジャのように。

(って言うかあれ実話なのか?)

 あやうく浮遊しかけたイマジネーションの尻尾をひっつかみ、現実に引き戻して考える。
 そう言えばあの子ら、運動不足なんだな。ほとんど外に出てないし。

「ふむ」

 幸い、このマンションには屋内ジムが付属している。自分も時々、いやしょっちゅう利用している。さすがに子ども二人だけで行かせるのはちょっと考えものだが……。

 頭の中で今日のスケジュールを確認する。予定通りに運べば夕方は早めに上がれそうだ。
 エリックに頼んだ分析結果がいつ出るかが勝負ってとこだな。

(後で電話入れとくか)


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【3-7-3】双子と執事/afternoon tea

2008/04/04 18:57 三話十海
 ユニオン・スクエア近くのオフィスビルの一室。
 ドアのガラスに金色の文字で『ジーノ&ローゼンベルク法律事務所』と書かれた事務所、さらにその奥のキッチンで、てきぱきと手を動かす灰色の髪の男が居た。

 ぴしっと背筋を伸ばして、ダークグレイのスーツに身を包んだ彼の名はアレックス・J・オーウェン。
 もう20年以上もレオンに付き従う忠実な元執事で、現在は法律事務所の秘書を勤めている。

 台の上に並べた直径3インチ半(約9cm)の小さいタルト台が10個、生地はしっかりめに焼き上げて、甘さは極力控えめに。

 デイビットさまとレイモンドさまは3つずつ。
 デイビットさまの分にはカスタードクリームとアーモンドクリームをたっぷりと。フルーツは添える程度でよいだろう。あのお方は見かけによらず甘党でいらっしゃるから。

 こちらの二つにはストロベリー、ラズベリー、ブルーベリー、ダークチェリー、リンゴにオレンジ。フレッシュな味と食感を活かしたフルーツを山盛りにして……お二人とも、甘いものは苦手でいらっしゃるから。

 手際良く人数分のフルーツタルトを準備し、茶葉をティーポットに4杯。きっちり4分待ってから温めたカップに注ぐ。
 全て準備を整えると、アレックスはうやうやしく金髪の少年に声をかけた。

「シエンさま、おやつの用意が整いました」

 呼ばれてシエンは苦笑した。

「バイトなのに『さま』は変だよ、アレックス」
「さようでございますか……それでは何とお呼びすれば?」
「さま、も、さん、もいらない。シエンって呼んでくれる?」
「かしこまりました、シエン。それでは参りましょうか」

 皿に盛ったフルーツタルトと紅茶を銀色のトレイに載せ、二人は歩き出した。

「お茶でございます」

 事務室には珍しく、この事務所に所属する弁護士が三人ともそろっていた。
 
「ありがとう、アレックス」

 レオンはちらりと置かれた紅茶とタルトに目をやり、白い薄手のカップに手を伸ばす。
 
「おお、今日はフルーツタルトだね! 君の作るスイーツはどれも絶品だよ、アレックス。世界で二番目にすばらしい!」
「おそれいります」
「一番目はうちのワイフの焼いてくれるパイだがね」
「さようでございますか」

 デイビット・A・ジーノのいつもの決まり文句だ。『うちのワイフは世界一』。
 やや浅黒い肌、ウェーブのかかった黒髪、話す言葉は歯切れがよく、女性にやさしくハートも熱い。1/4混じったラテンの血潮をフルに燃え立たせるこの陽気なハンサム・ガイはレオンのロウスクールの先輩にあたり、事務所の共同経営者でもある。

 そして超の字のつく愛妻家(恐妻家?)なのだった。

「スイーツと言えば……レオン。赤毛の彼。君のスイートハニーはどうしている? もう退院したのか?」

 一瞬、シエンは凍り付きそうになった。


(スイートハニーって。もしかして……)

「元気ですよ」

 レオンはさらりと流してる。慣れっこらしい。

「それは良かった。相変わらず丈夫な男だな!」

 流された方はちっとも気にする様子もなく、むしろ楽しそうにはっはっは、と大声で笑っている。まだこの大音量には慣れない。

(いい人なんだけど……もうちょっと静かにしてくれるといい……かな?)

alex.JPG※月梨さん画、左がデイビットで右がアレックス

「やあ、きれいなタルトだな。食べるのがもったいないよ」
「おそれいります」

 はるか頭上から深みのあるバリトンが降ってきた。野太い笑みを浮かべた口元に白い歯が光る。
 かっ色の肌の巨漢、レイモンド・ライト・ボーマン。学生時代はアメフトの選手だったが試合中の怪我で視力を悪くし、今も眼鏡をかけている。
 レオンのロウスクールの同期生で見かけによらずかなりの頭脳派なのだが……
 
 いまだに体育会系のリズムが抜けず、たまに暴走する。
 岩を刻んだような重厚なボディの内側には重低音で戦いのドラムが轟き、父祖の地アフリカの太陽にも負けない熱い魂が燃えているのだ。

 最初に会った時、微妙に誰かに似てる? と思ったらやっぱりディフと気が合うらしい。

「それでは、ごゆっくり。私どもは下に参りますので」
「ご苦労さま」
「シエン、下に行くのならついでにこれ届けてもらえるかな。マックスに頼まれてた資料だ」
「はい」

 レイモンドから受けとった書類ファイルを抱えてシエンは部屋を出た。
 きちんと一礼するとアレックスは後に続き、静かに事務室のドアを閉めた。

 デイビットが珍しく静かだったのは、口の中をタルトとフルーツとクリームが占拠しているから。

 事務所を出て、エレベーターに向かうアレックスとシエンを廊下を歩く人々が振り返った。中には目を丸くする者もいる。
 ファイルを抱えた少年がとことこ歩く。それ自体はよくある風景だ。このビルの中に数多く存在するメッセンジャーボーイの中には、インラインスケートやローラーボードで廊下を疾走して行く奴らもいる。

 それに比べればいたって大人しい。
 しかし背後に銀色のトレイにのせたフルーツタルトを二人分、うやうやしく捧げ持った執事(にしか見えない)が従っているとなると……。
 オフィスビルにはあまりにも不似合いな光景だが、当人たちはいたって平穏。
 すたすたと歩いてエレベーターに乗り、下のフロアへと降りて行った。


 ※  ※  ※  ※


 同じビルの二階。
 法律事務所に比べるといささか小振りではあるが、所員の数からすると充分な広さの事務所があった。

 ドアにはめ込まれた磨りガラスにはかっちりした書体で『マクラウド探偵事務所』と記されている。
 『ようこそ』とか『あなたの』とか『迅速丁寧』とか『秘密厳守』とか。余計な文字は何一つない。

 中にはどっしりした木製の事務机、少し離れてパソコンの置かれた小さめのスチールのデスクがもう一つ。
 パーテーションで仕切られた一角にはソファとテーブルが並べられている。
 何もかも実用的で頑丈。事務所の中から奥のキッチンに至るまで細かい所まで掃除が行き届いている。
 
(きっと、ディフの部屋もこんな感じなんだろうな)


 オティアがマクラウド探偵事務所でバイトを始めてからもうすぐ一週間が経とうとしていた。
 決心をするまでは少し迷ったが、どっちがどの事務所に行くかはすぐに決まった。

「……俺は探偵」
「じゃあ、俺はレオンのとこ行くね」

 法律事務所で扱うのは『もう起きてしまった』事件だ。生々しい血に染まったナイフや、まだ熱い銃弾との距離は遠い。
 一方、探偵事務所で扱うのは現在進行形の調査だ。シエンにはいささか荷が重い。
 そこまでの相談も、意志の確認もほぼ一瞬で行われていた。

 二人にとってこれは特別なことでも何でもない。物心ついたときからずっとそうだった。
 言葉に出さなくても自然とわかるのだ。お互いの考えていること、伝えたいことが。


 マクラウド探偵事務所は、言うなれば個人的な調査の請負所である。
 煙草の煙の漂う中、ソフト帽にトレンチコートで冷めたコーヒーをすするハードボイルドも。人間離れした頭脳で鮮やかに謎を解く名探偵とも無縁。
 
 どんなに些細な案件でも依頼人のために地道に調べて地道に成果を上げる。
 
 今のところ調査員は所長のディフただ一人。しかし彼は知っている。
 自分一人にできることの限界、それを補完するためにどこの、誰に応援を頼めば良いのかも。
 そして、そのための人脈も知識もちゃんと確保してあるのだった。

 オティアの役目は協力者ならびに依頼人との必要不可欠な連絡役……

 要するに。
 電話番だった。

 採用にあたって言われたことは二つ。
 用件を聞いて、必要ならすぐにかけ直す旨伝えて連絡。原則としてよほどの緊急事態以外はメールを使う。
 それほど急ぎじゃない用件はまとめて定期的にメールする。


 それまでもっぱらパソコン用に使われていたスチールの机がオティアの席としてあてがわれた。
 電話も二つに増やされて、うち一つがオティアのデスクの上に乗っている。

 しかしながらディフが退院して事務所を再開してから、かかってくる電話ときたら判で押したみたいに同じものばかりで。

「はい、マクラウド探偵事務所」
「よう、マックス、生きてたか? ……あれ、声が違うな。君、誰?」

 なるほど、電話番が必要なはずだと納得した。空いてる時間は好きにしていていいと言われているので、本棚に並んだ本を手当たり次第に読み漁る。
 レオンとは微妙に蔵書の種類が違っていた。

 今もそのうちの一冊を読みふけっていると、電話が鳴った。発信者は『CSI:エリック』。どっかで聞いたような名前だな、と思いつつ受話器をとる。

「はい、マクラウド探偵事務所」
「ハロー、シスコ市警のエリック・スヴェンソンって言いますけど。センパイ…所長はいますか?」

 若い男の声だった。少しばかりRが内にこもる感じの独特の発音で、こころもち濁音のアクセントが強いが声そのものは滑らかで聞き取りやすい。

「所長は外出中です。ご用件は…お急ぎですか?」
「んー、たぶんね。この間頼まれていた分析結果があがったって、伝えといてもらえます? そう言えばわかるから」
「了解」
「ありがとう。それじゃ」

 これは急いだ方が良さそうだ。すぐにメールした。
 折り返し返事が来る。文面はひとこと「Thanks」。
 携帯を閉じて、また本を読み始める。いくらもたたないうちに再び電話が鳴った。

 発信者表示は「マクラウド:テキサス」。

(マクラウド……ディフの親戚か?)

 少しためらってから電話をとると、朗らかではきはきした中年の女性の声が流れ出した。

「ハロー、ディー? 留守電山のように入れたはずなのにちっとも返事くれないってどう言うこと?」
「え。あの、すいません」
「あら? あなた……誰?」

 ディー…ディフォレスト……ディフか。

「ディーにしてはずいぶん高くてきれいな声だし。レオンでもないわよね?」
「俺は……………バイトです。最近入りました」

 舌の奥をまさぐり、使い慣れない丁寧な言い回しをどうにかこうにか引っぱり出す。

「所長のお知り合い……いや、ご家族の方ですか」
「そんなに緊張しないでいいのよ。ええ、あの子の母親です。はじめまして」
「あ、はい。伝言をいれられたのは、ここじゃないですよね」
「ええ、自宅の留守電にね。ごめんなさいね、びっくりしたでしょ? そこの電話とるのってあの子かレオンどっちかだから、つい」

「……いえ、えっとそれじゃ、所長に……伝えておきます。今は出ているので」

 ついこの間までディフが入院していたのを、この人はもしかして知らないんだろうか。言わないほうがいいのかな。

「お願いね。ありがとう」
「はい」

 電話を切ってから、挨拶も名乗ることも忘れていたことに気づく。微妙に緊張していたらしい。
 これは……急ぎではないから、次の定時連絡で知らせればいい。

 それにしても。
 つい聞き流してしまったけど、何でレオンがここの電話をとるんだ?

 首をひねりながらドアの前に行き、開けた。
 銀色のトレイを捧げ持ったアレックスを従えてシエンが入ってきた。目の前で急に開いたドアに驚きもせず。目くばせさえすることもなく。

「すぐさまお茶の仕度をいたします。しばしお待ちを」

 勝手知ったると言った様子でアレックスは奥のキッチンへと入って行く。双子は並んでソファに腰かけた。

「ディフのお袋さんから電話があった」
「テキサスの? どんな人だった」
「マイペース」
「……そうなんだ」


 ※ ※ ※ ※



「お茶が入りましたよ」

 甘さを控えたフルーツタルトをひとくち食べると、シエンはぽわっと顔をほころばせた。

「美味しい! アレックス上手だね」
「お気に召して何よりです。よろしければレシピをお教えしましょうか?」
「……うん。俺も作ってみたい」

 オティアは言葉少なにフォークを動かし、黙々とタルトを口に運んでいる。

(ああ……レオンさまのお小さい頃を思い出す)

 金髪の双子を見守りながら、アレックスは秘かに胸を熱くしていた。
 ちらとも表情には出さず、あくまで秘かに、ひっそりと。

(レオンさまが男性に心奪われた日以来あきらめていたが、まさかこんな日が来ようとは……)

 もしも今、事務所に入って来る者がいたら、きっと戸惑うことだろう。
 探偵事務所に来たはずなのに、他所様の家のリビングに入り込んだような錯覚にとらわれて。

 金髪の双子に従う実直そうな執事。
 古い映画か本の中から切りとられたような、真昼のオフィスビルの一角にはおよそ似つかわしくない光景を目にして。


 ※  ※  ※  ※

 その後、事務所に戻ってきた所長に有能少年助手はきっぱりと言い渡した。

「留守電ぐらい確認しろよ」
「……すまん、気をつける」

 こまごまとした用事をすませてから、ディフは時計を確認し、小さくうなずいた。

「少し早いが今日はこれで上がりにしよう。一カ所外に寄って、それから直帰だ」

 オティアがうなずく。

「一緒に来てくれ」
「どこへ?」


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【3-7-4】ジムにて/evening

2008/04/04 18:58 三話十海
 夕方までに小商い三つ、まとめて上げて。
 晩飯まで一寝入りするかそれともシャワーでも浴びるか考えながらぼやーっとエレベーターの前に突っ立っていると……

「お?」
「よお」
「………」

 オティアとディフが並んで出てきた。二人ともトレーニングウェアだ。ディフが黒のジャージにグレイのTシャツ……これはしょっちゅう見なれている。オティアが紺のジャージに白のTシャツ。こっちは新鮮、見られて嬉しい。

「おそろいで、どちらに? ってかもう上がりか? 早いな」
「ジム。ついでに言うとまだ勤務中だ」
「ふーん。俺も運動不足だし、たまには体動かしてみよっかなーっと」
「……好きにしろ」

 オティアは何も言わない。
 沈黙はOKと受け取り、ジムに向かう二人の後を着いて行った。

 フローリングのジム。ぼちぼち使用者で埋まっているエアロバイクやトレーニングマシンの間を抜け、広めのスペースに三人で立つ。
 エクササイズやヨガ、ダンスの練習なんかに使われることを想定して用意されたスペースなのだが(最近はDVDプレイヤーを持ち込んで某鬼軍曹のブートキャンプなんかしてる奴もいる)。
 今回の目的は少しばかり異なるようで。
 
「探偵なんてのは基本的に体力勝負だからな。今んとこデスクワークだがそのうち外回りにも出てもらうかも知れん。簡単な護身術ぐらい覚えてもらっておいた方がこっちも助かる」
「……」

 こくっとオティアがうなずく。
 なるほど、警察仕込みの格闘術のレッスンって訳か。

「で、ヒウェル。お前、着替えないでいいのか」

 俺の服装はと言うといつものくすんだブルーグレイの上下に綿のワイシャツ(本日の色はクリーム色)、細めのリコリス色のタイ。
 仕事の時はこの格好でどこにでも行くし、他の服もだいたいこんなもんだ。いちいち組み合せを考えずにすむ。
 しかし、少しばかり運動に向いてないのも事実。上着を脱いでレッスン用のサイドバーに引っ掛け、腕をまくった。

「ほい、準備完了」
「……ま、いいだろう……ちょっと手伝え」
「へいへい」

 手招きされるまま、ディフと向き合って立った。

「基本はとにかく身を守ること。その時身近にあるものは何でも使う。投げつけられるものは何でも投げろ。それでも逃げ切れずに接近戦になって、相手が刃物持っていたら……上着を脱いで利き腕に巻く」

 はっと気づくと、がっちりした手で右手首を押さえられた。

「こうして武器を持ってる方の手を押さえて、後ろに回して……こう」

 さすがにやばいと思って暴れたが、ちょっとやそっとじゃビクともしない。単に腕力が強いってだけじゃない。人体のポイントをぎっちり押さえて最小限の出力で効率よく俺の動きを封じていやがる!
 本気で抜けらんねぇ。

「いでででっ、おまっ、本気でやるなっ」
「……本気でやったらこんなもんじゃないぞ?」

 ごもっとも。こいつが力任せにぶちかましたらあっと言う間に傷害罪続出。警官時代にやらかしていたら容疑者への『過剰な暴力』で始末書どころじゃ済むまい。

「体格差のある奴を相手にする時は、足を重点的に狙え」

 唐突に押さえ込まれていた腕が解放され、よろっと前につんのめる。

「じゃ、こいつ相手にやってみろ」
「俺かよっ」
「遠慮するな」
「お前が言うなっ」
「俺だととっさに防御しちまうんだよ」
「そうかーそれじゃ練習にならないもんなー……っておいっ」

 言ってる間にディフは後ろに下がって腕を組み、変わってオティアが前に進み出てきた。
 ……いいだろう。
 荒事は苦手だが相手は16の子どもだ、そう簡単にやられやしないぞ。

「………」

 すっとオティアの体が沈む。
 と思ったら足首に軽い衝撃が走り、気づくと床にひっくり返っていた。

「え?」

 おい、こら、ちょっと待て。
 今、俺に何があったんだーっ?

「よし」

 ディフがうなずいている。
 どうやら足を払われたらしいとその時になって気がついた。

「弱すぎる」
「うわーなんかすっごく屈辱的な言われようなんですけどー」

 かろうじて左の肘をついて直撃は免れていた。が、そのぶん肘が痛いの何のって。だがそんなことはおくびにも出さずに素早く起きあがり(少なくとも自分ではそのつもりだ)、ずれた眼鏡の位置を整える。

 オティアがこっちを見てる。
 気づいた? それとも……心配してくれてるのかな。
 俺の視線に気がつくと、すぐにぷいっと目をそらしてしまった。

(ああ、まったく可愛いよお前って奴は)

「今のは不意打ちだったからだ! もう一回やってみろっ」
「もう一回ねぇ……」
「格闘ゲームだって2R勝つまでは勝負がつかんだろーが」

 ディフが表情も変えずにぼそりと言った。

「お前……馬鹿だろ?」

 あ、なんかいつも言ってる台詞をそっくり返された。微妙にシャクにさわる。

「何とでも言え。ほら、ラウンド2!」

 すっとオティアは踏み込むなり、つま先を踏んづけて来やがった。思わず悶絶したところに肘が繰り出され……ボディに入る直前で止まった。

「う……」

 ぴったり鳩尾の真上じゃねえか。さっきと言い、今と言い、こいつ、人の急所ってもんを知ってやがるな?

「練習にならん。違う相手希望」
「……だ、そーですよ」

 悔しいが俺じゃ、歯が立たない。今のもまともに入ってたらと思うと心底ぞっとする。こそこそと後じさりしてディフと交替する。

「わかった」

 うなずくと、奴は無造作に上着を脱いだ。
 まさか、その下、ランシャツじゃなかろうな? ……良かった、半袖Tシャツだ。

 こいつがノースリーブ着るとかなり、その……エロい。
 もともとディフは鍛えてマッチョになるぜ! と言うタイプではなく、単に体を動かすのが好きなだけで。相当量の運動をハイペースでこなしているうちに自然と筋肉がついたのだ。
 全体的に観賞用ではない実用向きのボディと言った感じで、動きそのものは実に大雑把なのだが、何と言うか……。
 服を着ていても裸でいるような色気を無防備にだだ流しにしていて。
 見ていてつい、ベッドの中ではこうもあろう、ああもあろうと、ロクでもない妄想を掻き立てられそうで……目のやり場に困る。
 当人に自覚がないだけに、余計に始末が悪い。
 高校の時っからロッカールームで何人の男(ゲイの奴限定)を硬直させてきたことか。
 昔っからこうなんだが、レオンとくっついてからは更に磨きがかかったような気がする。

 目の前に立ちはだかった厳つい男を見上げると、オティアはちょい、と手招きし、一言。


「come on」
「……やりにくいな……」

 ディフは苦笑したがすぐに表情を引き締めて。すっと前に出るとオティアに向かってつかみかかった。
 妙にオーバーアクションで無駄が多い。なんつー雑な動きだ。俺を押さえ込んだ時とはえらい違いじゃないか。

 
 オティアは繰り出された太い腕の下に頭をくぐらせ、わき腹を狙ってななめに蹴り上げた。

 ばすん、と鈍い音が響く。

 受けたのか、今の蹴り! さすが熱血体力馬鹿、腹筋に力を入れたんだろうが……痛くないのかお前。
 しかもオティアの頭を逆にがっちりと、ラグビーボールみたいに抱え込んでホールドしている。顔色一つ変えていない。

 オティアはちょっとの間じたばたしたが、すぐに力を抜いて大人しくなった。
 しかし戦意は喪失していないようだ。その証拠に、見ろ。締め上げるディフの腕にしっかり手がかかっている。

 ディフはちらりとオティアの様子を確認し、締め上げる腕を緩めた。
 やりにくそうだ。子ども相手だと今ひとつ力の加減がつかめないらしい。

 途端にオティアの身体が跳ね上がり、顔面を狙ってオーバーヘッドで強烈な蹴りを放ってきた。
 つくづくあいつ、喧嘩慣れしてやがる。どこで覚えたんだ?

 渾身のバイスクル・キックを、しかしディフは軽く手で受け流した。
 奴の腕力なら正面から受けることもできるはずなのに、あえて流れをそらしたのは……オティアの身体への反動を最小限に押さえるためだろう。

(ったく俺を相手にしてた時とはえらい違いじゃないか、ええっ?)

「お前の蹴りは俺には軽い。狙うなら体の末端部に力を集中しろ」
「相手を行動不能にするなら、もっと別のやり方がある」
「……そうだな」

 静かに言うとディフは腕にかかってたオティアの手をとり、あっという間に捻って。床にうつ伏せに倒し、膝を背中に載せて押さえ込んでしまった。
 本来ならこのまま手錠を取り出して後ろ手にかけるのだろうな。

「ぐ」
「……今日はここまでにしておこう」

 そう言って手を離して起きあがる。息一つ乱していない。

「………重い」

 オティアは、と言うとクマの敷物みたいに床にへばっている。(サイズ的には子グマかな)


「ヒウェルよりは歯ごたえあったろ?」
「ウェイトのある相手とは最初からこんなふうにやりあったりしないからな……」

 床に伸びているオティアに遠慮がちに、しかし一応、声をかけてみる。

「立てる? それとも手伝おっか?」
「いらねぇ」

 よれよれとオティアは起きあがった。
 うん、まあ……予想の範囲内ではあったね、うん。


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【3-7-5】母との電話/before dinner

2008/04/04 19:02 三話十海
 久しぶりに自宅に戻ると……なるほど、留守電のライトがぺかぺかと光っている。
 全部、母からだ。
 一応、退院してからも何度かこっちで寝てはいるんだがつい、おっくうで後回しにしていた。

 だいたい自宅にかけてくる人間はごくわずかだし、そう言った連中は急ぎの用事なら留守電に残すよりまず、携帯にかけ直してくる。
 しかし母は例外、あくまで彼女は固定電話にかけないと気がすまないらしいのだ。

 久しぶりに受話器をとり、実家の番号を選んでかける。
 この時間なら親父でもなく兄貴でもなく、母がとるはずだ。

「ハロー、ディー!」

 ほらな。

「バイトの子、入ったのね、名前なんて言うの?」

 開口一番、これか。

「オティア」
「そう。ちょっと緊張してるみたいだけど受け答えのきちんとできてる子だし。いいバイトさん入ってくれてよかったわね! あなたへの伝言もちゃんと伝えてくれたし、珍しくあなたから電話がかかってきたし」
「……母さん。用事は?」


「そうそう、そうだったわね! 結婚するのよ!」

 一瞬、頭の中が真っ白になる。

「……誰が?」
「ジェニーよ。あなたの従姉の」
「ああ……彼女か」

 これが姪っ子ならびっくりだが(まだ3歳だぞ)、ジェニーなら納得だ。

「式は、いつ?」
「来週よ」
「そうか、おめでとうって伝えといて。式場の住所は? 花贈るなら自宅の方がいいかな」
「……帰ってくるって言う選択肢はないのね?」
「ん、まあ、それなりに忙しいんだ」
「ランスが会いたがってたわよ」

 ランスロットは一番上の従兄の息子だ。今年17になる。ちびの頃から俺の後をちょこまかくっついてきたもんだ。
 奴に『おじさん』ではなく『お兄さん』と呼ばせなかったのは人生最大の失敗だったが、最近は前ほど気にならなくなってきた。

「そのうち帰るよ、そのうち」
「なら、いいけど……ああ、そうだ。それであなた、入院したってほんと?」
「いや、もう、退院してるし」

 どこから聞いたんだろう。レオンか、ヒウェルってとこだな、多分。
 おそらくヒウェルだ。あいつ妙にお袋に気に入られてたし。


「ハロー、ヒウェル? なんだかディーと最近連絡とれないんだけど」
「あー、あいつちょっと背中すりむいて入院しまして」
「……命にかかわる怪我じゃないのね?」
「今日、見舞いに行きましたけどね。せっせとダンベルで筋トレしてましたよ」
「そう、ありがとう」


 電話を切ってから改めて留守電のメッセージを再生する。
 
『ハロー、ディー。入院したんですって? 命に別状ないってヒウェルが言ってたけど……』
『退院したら連絡ちょうだいね。それじゃ、愛してるわ』

『留守電ぐらい確認しろよ』

 オティアの声が耳の奥に聞こえた。
 ……まったくだ。

 ごめん、母さん。

 時計を見る。
 そろそろ夕食の時間だ。部屋を出て隣に向かった。

「ただいま。すぐ、飯の仕度するからな」


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【3-7-6】食卓にて/dinner

2008/04/04 19:04 三話十海
「腹減ったー。今日の晩飯、何?」

 いつものように夕飯をたかりに訪れたヒウェルは食卓の上をひと目みるなり蒼白になった。

「俺に何か恨みでもあるのかーっ!」

 本日のメインディッシュはサンフランシスコ名物、カニ。
 ぶっとい足に赤い甲羅に丈夫なハサミ。ボイルされたおおぶりの奴が一人一匹ずつ、ずしん、どばん! と皿の上に鎮座していらっしゃる。

「予測通りのリアクションだな……そう言うと思って、お前の分はロブスターにしといてやったぞ」
「サンキュ、助かったぜディフ」
「前々から不思議だったんだ。シスコ出身なのに、なんでそう蟹が苦手なんだい?」
「あの甲羅のブツブツが苦手なんですよ! 見てるだけで、鳥肌が立つ」
「そうかなぁ」

 くすくす笑うレオンを恨めしげににらむと、ヒウェルは目の前の忌々しき物体から目をそらした。

 サンフランシスコではどっちを向いてもアレの看板にお目にかかる。魚屋の店先には必ずアレがでかい顔をして居座っている。
 だからグルメ企画、それも『シスコの一押しシーフード食べ歩きガイド』なんて仕事だけは極力避けているのだ。
 双子は首をかしげて皿の上のカニとロブスターを見比べている。やがてシエンが口を開いた。

「どうちがうの? どっちも赤くてハサミがあるのに」
「ロブスターはカニじゃない。ザリガニだ」
「阿呆か」

 食卓の中央にどん、どんっと大鉢に盛ったパスタが置かれる。ペペロンチーノとカルボナーラの2種類。
 各自の前には取り皿が置かれ、鉢にはトングが添えられている。
 要するに、食いたい奴は食いたいだけとって食え! と言うことだ。
 付け合わせは温野菜と、カボチャのスープ。こころもち緑黄色野菜が多め。カリフラワーは無し。

「できたぞ。冷めないうちに食え」

 最初のうち、双子はカニをどうやって食べればいいのかとまどっていた。
 ディフがばきっと景気良く甲羅を割るのを見てマネしようとしたが、なかなか上手く行かない。苦戦する二人に気づくとディフは立ち上がり、キッチンからカニ用のハサミをとってきた。

「ちょっと貸せ」

 ばき、べきっと甲羅に切れ目を入れて行く。

「ここの切れ目から割るといい。関節の部分で折って、引き出すとうまく取れるぞ」
「ありがと! 今まで一人一匹なんて食べたことなかったから」
「そうか……」

 すぐに二人ともコツをつかみ、手際良くカニを食べ始める様子をディフは目を細めて。ヒウェルは横目で、ちらちらと見守った。(カニの甲羅が直視できないのだ)

「なあ、ディフ。最近、パスタの出現率多くないか」
「オティアの好物なんだ」
「そうなのか?」
「……」

 もくもくと食べている。確かに気に入っているらしい。カルボナーラよりペペロンチーノの方が好みのようだ。

「なるほどね」

 食事が終わってから、シエンがぽつりと言った。

「どうしてレオンとディフは一緒に住んでないの?」

 ディフは思わず食後のコーヒーを吹きそうになる……が、寸前でどうにか踏みとどまった。

「ど……どうしてって……………」
「だって恋人なんでしょ? 隣の部屋に住んでるなら一緒に住んでも大差なさそうだと思って」
「……いかん、疑問に思ったことがなかった!」
「あー……ないんだ」


 カップを片手にレオンが苦笑する。
 本当は、遠慮がちにルームシェアを提案したのだ。ディフがこのマンションに越してくる時に。
 だがその時は、まだ二人は親友で……それでも高校の時ほど気軽に一緒に寝起きするには互いに意識しすぎていて、微妙な距離を保っていた。

 だから隣同士になるのが精一杯。
 恋人になってからも何となくそのまま月日を重ねてしまったのだ。

「……シエン、そいつが一緒に住むようになったら、俺達は出ていくことになるぞ」
「そんなこと、二度と言うな」
「ごめん、そういう理由で追い出されたことあるから」

 シエンが伏し目がちに答える横でオティアがぼそりと言い切った。

「いや普通に考えても誰が新婚家庭にいたいと思うかと」
「出てくつっても離さないから覚悟しとけ……って誰が新婚かーっ」
「あ、そっか……いくら恋人でもやっぱり同棲はじめるっていうと違うしね」
「そうそう」
「俺を無視して勝手に話進めるんじゃねえっ」

 歯をむき出して怒鳴るディフの隣から、やんわりとレオンが声をかける。

「できれば俺のことも忘れないでいてほしいな」
「……あ」

 ちらっとレオンの顔を見て、真っ赤になってぽそぽそと口にする。『一緒に住まない』理由を探しながら。言葉を選びながら。

「…一緒に住んだら…きっと…ますます甘えてしまうから……かな」
「ふぅん?」
「……適度な距離感が…あった方が……いいんだよ…今は。顔見たいと思ったらすぐ鼻つっこみに来られるし…」

 レオンがうなずく。

(そうだな……一緒に住んだら、きっと我慢できなくなる。君を俺だけのものにしたくなる。誰からも引き離されないように。名実ともに一緒に居られるように)

 今年(2005年)の1月から施行されたばかりのパートナー法の存在が頭をよぎる。

 子どもやパートナーを扶養する義務、パートナーが死亡した際に葬儀を行う権利、遺産相続税や贈与税の免除、家庭裁判所を利用する権利、裁判の際パートナーが法廷でパートナーに不利な証言を拒否できる権利、カップルになった学生が家族用の住居を使用する権利など。

 同性のカップルにも結婚とほぼ同程度の権利と責任が認められるようになったのだ。
 
(それでもね。俺は法の絆で君を縛りたくはないんだ。いつかきっと、つらい思いをさせてしまうから)

 だから……ほほ笑みをもって答えとし、彼の意志を肯定するに留める。


「俺はそもそもあまり家にいないから。ここは寝るための場所でしかなかった…少し前までは」
「…今は?」
「毎日一緒に食事してるだろ?」
「……うん………そうだな……」


(あー、もう、子連れで再婚するカップルじゃあるまいし)

 腹の内でつぶやきつつ、ヒウェルは黙々とキッチンで鍋を洗っていた。

 なーに今さらためらってんだろうねえ。高校ん時は2年も同じ部屋で寝起きしてたくせに。
 一緒の部屋にこそ住んでいないが、一ヶ月の間に何日同じベッドに寝てるのかね、君らは?

 ふと視線を感じて振り返ると、オティアがこっちを見ていた。何となくジムでぶつけた左の肘のあたりをうかがってるようだ。
 
 大丈夫だって。

 にまっと笑って左手を振る。
 まだちょっとうずいたが、んな事ぁどーでもいい。

「………」
「?」

 また、ぷいっと目をそらされてしまった。その隣でシエンが不思議そうに首をかしげ、入れ違いにこっちを見てきた。
 もう一度小さく手を振り、洗い物に戻った。
 やばいな。
 今、俺、にやけてるかも。


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【3-7-7】おやすみ/good night

2008/04/04 19:06 三話十海
 その夜、寝室で。
 例によって泊まることになったディフは嬉しそうにレオンにジムでの様子を報告していた。

「いい蹴りしてんな、あいつ。もうちょっと動きをブラッシュアップすりゃかなり使えるぞ」
「そんなタイプには見えないな……意外だね」
「身を守るため、ってかシエンを守るために身につけたんだろ」
「なるほど」
「優秀だよ、オティアは」

 嬉しそうに笑いながらシャツの裾をめくる。わき腹にうっすら青あざが浮いていた。

「すまん、ここ、湿布貼ってくれるか」
「これは、あの子が?」
「避けるのもシャクだったからな。つい大人げなく受けちまった」
「怪我はしないようにしてくれよ…」

 ぺたりと湿布が貼られた瞬間、ディフはわずかに眉をしかめて身をすくませた。

「ぅっ………ああ。気をつける。ヒウェルは思いっきり床に転がされてた」
「ヒウェルまで参加してたのか」
「どこ行くんだって言われたからジムだって言ったら着いてきたんだ。あー俺も最近運動不足だからなー、とか何とか言って」
「なんというか…随分わかりやすくなったじゃないか。ヒウェルも」
「不気味なくらいにな…最初は同じ里子だから同情してんのかなと思ったが。どうもその範疇越えてるような気がして」
「いや、それは気のせいじゃないよ」
「そうなのか? 双子のうち…とくにオティアの後をついてばっかりいるような気がしたんだが…気のせいじゃなかったのか」

 レオンは思った。
 握った手を口もとに当てている。考え込む時のお決まりの仕草だ。ディフには教えないほうがよかったかな。

「かなり本気のようだけどね…ただ」
「ん?」
「当面は交際禁止だな」
「ああ、犯罪だ。未成年だし。それ以前にヒウェルは存在自体がある意味犯罪だ」

 つきあいが長いだけに容赦ない。

「それでなくても、あの子は考えられる限り最悪の性的虐待の経験者だ。普通に恋愛に発展するかどうかもあやしいね」

 ぎりっとディフが唇を噛みしめる。

「そうだな。ヒウェルには一度クギを刺しておくとして……」
「M26破片手榴弾の一発二発投げ込んどいても釣りが来たな」

 喉の奥から大型犬が唸るような声を出した。かなり本気だ。脅しじゃない。

「ディフ」

 たしなめるような声で名前を呼び、わずかに目を細めて視線を合わせる。
 効果てきめん。凶悪な気配が消え失せ、飼い主にしかられた犬のようにうなだれた。

「…………ごめん」
「君の弁護なら、いくらでもするけどね」
「お前の弁護なら心強いや……でも……そんなことさせたくないよ。約束する、レオン。自重する」
「ああ」

 手のひらで頬を包み込み、さらさらしたライトブラウンの髪をかきわけて額に口付ける。
 微笑んで受けてくれた。


(a day without anything/了)


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降りしきる雨みたいに

2008/04/05 15:48 短編十海
「うーわー……」

 現場に到着し、調査用キットを収めたケースを片手に車から降りた瞬間。エリックは思わず空をあおいだ。十字でも切りたい心境。だがあいにくと自分は神父ではない。

 彼の仕事は鑑識だ。現場に行き、どんな些細な証拠も見逃さずに採取し、分析し、真実を探り出す。TVドラマほど華麗にとは行かないが、それでも地道な調査の結果が犯罪を立証し、犯人の有罪が確定すると清々しい充足感に満たされる。

 だが、それも全て、まず最初に調査があってこそ。
 彼は今、よどんだ水の溜まった……そう、そこの水は流れることを半ばあきらめていた。もう随分と長い間……古い水路にいた。
 比喩ではなく、まさに水路の中に。腰まであるゴム長を履いて、防水加工のほどこされたCSIのロゴ入りの上っ張りを着て、ゴム手袋をはめて。

(遺伝子的にはバイキングのしぶとさを受け継いでるはずなんだ、真冬の北海に比べればシスコの水路なんて!)

 ちゃぷん、と跳ねた水が顔に飛ぶ。目元はかろうじてゴーグルで守られているが、あいにくと首筋がフリーだった。

「うう、やっぱり寒い」

 スタイルにこだわらずタオルでも巻いとくべきだったか。
 死体発見の通報が届いたのはランチタイムが終わってすぐのこと。
 駆けつけてみると確かに死体はあった。と、言うか、浮いていた。

 この寒い中、何も水路に浮かばなくても良かろうに……いや、そもそも被害者からしてみれば死体になんかなりたくなかったはずなのだ。(自殺じゃないと仮定しての話)

 水につかっていた割には比較的『しゃん』としている。
 どうやら溺死ではなさそうだ。
 二〇代か三〇代、男性、白人。

 水路に浮いてる死体の写真を撮影する。角度を変えて、何枚も。水のサンプルを採取し、付着物のうち、水から上げたら剥がれてしまいそうなものから集めて行く。綿棒でぬぐい、ピンセットでつまみ、小さな袋に密封してラベルをつけてゆく。

「よし、いいだろう。そろそろ上がるか、エリック」
「Ja」
「え?」
「……OK、キャンベル。あがろっか」

 曾祖父の代に移住して来たエリックの家では、今でもたびたびデンマークの言葉がやり取りされる。
 肯定を意味する二音節のJa! は英語のYesより言いやすかったので、子どもの時の口癖だったのだ。

 今も考え込んでいるとつい、ふっと口をついて出る。

 ハンス・エリック・スヴェンソンは一つの事に集中しすぎるとしょっちゅう周りのことが意識から消えるタイプの人間だった。
 そんな彼にとって、この仕事はある意味天職とも言える。
 ラボの中で研究に没頭する時も。こうして現場で証拠を集める時も。
 

 ※ ※ ※ ※

 
 水から上がると、ことさら寒さが身にしみた。汚水に濡れたゴム長と上っ張り、手袋もそれなりに寒さを防ぐ効果はあったらしい。
 震える歯を噛みしめていると……胸ポケットの携帯が鳴った。

(うー、ダルいなあ。居留守使っちゃおうかなあ……せめて署に戻って熱いシャワー浴びて、人心地ついてからかけなおしたい……)

 サブディスプレイを確認する。送信者は"D"。
 即座に応答。この電話だけは後回しにできない。

「ハロー?」
「よう、エリック」

 張りのあるバリトンが聞こえる。なんでこんな声してるのに可愛いなんて思ってしまうのかな、この人のことを。

「ども、センパイ」
「今、話せるか?」
「……大丈夫ですよ」
「そうか。この間、頼んだ繊維の分析結果な……いつごろ上がるか知りたいんだが」
「あーあれ、ですか……」

 ちらっと隣でゴム長を脱いでいる同僚を見る。

「今、出先なんで、署に戻ったらやっときます」
「そうか。すまんな」
「や、気にしないでください。ついでっすよ、ついで!」
「サンキュ、エリック。そのうち飯でもおごる」
「楽しみにしてます……それじゃ、また」

 電話を切ってからエリックは深い深いため息をついた。

(飯、おごるって……二人っきり? だったらうれしいけど)

 先日、マーガレットの花かご持参で見舞いにいった時、病室で会った弁護士の面影がよぎる。


(きっとあの人が一緒なんだろうな……)

「へっへっへっへっへっへっへ……」

 ふと足元を見ると、黒毛のロングコートシェパードが一匹、尻尾を振っていた。さっきまで捜索にあたっていた警察犬だ。

「やあ、ヒューイ」

 ぶっとい首に腕を回し、がしっと抱きしめた。

「ちょっと温もり分けてもらえる?」
「わう?」

 あー……なんか、癒される。
 

 ※ ※ ※ ※

 
 署に戻ったエリックはさっそくシャワー室に直行した。
 純粋に寒かったと言うのもあるが、それ以上に髪にも身体にもそこはかとなくヘドロくさい水路の臭いがしみついて、いたく他の署員に不評だったのだ。
 着ているものを脱ぎ、腰にタオル一枚だけ巻いてシャワー室に入る。8つあるブースのうち、一つの間仕切りを開けて中に入る。

(ここ、使うのあまり気が進まないんだよな)

 蛇口をひねり、お湯を出した。しばらく手のひらで温度を見てからざーっと勢いよく出す。
 もうもうと白い湯気が立ちのぼり、がちがちに凍り付いていた身体がほぐれてゆく。

「……ふぅ……」

 北欧系特有の透ける様に白い肌。お湯のかかった場所にピンクのドットが浮かび、みるみる広がって行く。
 男性用だから間仕切りなんかほとんどあってないようなものだ。
 最低限見苦しくない程度に胸から腰を覆う程度、それにしたってついてるだけマシと言うもの。

 エリックは背が高い。だからどうしてもはみ出す度合いが高くなる。
 しかし彼がここのシャワーを使うのに気乗りしない理由は別の所にあった。

(ここのシャンプーもボディソープも。除菌性は高いんだけど、香りがきっついんだよな……肌も荒れるし)

 しかし背に腹は変えられない。にゅるにゅると付属のボトルから手のひらにシャンプーをひねり出す。
 ちょっと出過ぎたか。
 いいや。

 あわ立てて頭につける。
 目をとじてわしゃわしゃと、短く堅い金髪を洗い始めた。

(うう……やっぱりにおいがきついな………)

 

 ※ ※ ※ ※

 
 CSIは原則として二人一組で一つの事件を担当する。組み合せは毎回変わり、特定の相棒は決まっていない。
 その日エリックがキャンベルと組んだのもたまたま主任の差配でそうなっただけの話。
 しかしこのことはキャンベルにとって少なからぬ幸運でもあった。

 冷たく淀んだ水路に浸かりはしたものの、こうして同じタイミングで堂々とシャワーを使うことができるのだから。
 さりげなくシャワー室に入るとエリックの隣のブースを目指すふりをして…途中で立ち止まった。

 思った通り、だいぶ胸から上がはみ出してる。
 しかも頭を洗っていらっしゃる。両手を上げていて、なんとも無防備な格好だ。
 お湯を浴びて白い肌がピンク色に染まっている。胸の中央、乳首がとくに濃い。
 思わず口笛を吹きたくなる。

 細いからってひ弱って訳じゃない。
 胸も腹も引き締まってはいるが割れてると言うほどじゃない、そこがまたいい。
 軽くお湯を浴びただけであんなに色づく肌に、キスの一つもしたら一体どうなるんだろう?
 
 すっと目を細める。
 いつもツンツンに尖っている堅めの金髪が、ぐっしょり濡れて額にへばりついている。
 研究室の無機質なライトの下、真剣そのものの眼差しで試験官をのぞくあの知的な表情が、ベッドの中ではどんな風に変わるのか。
 見てみたい気がする。

(自分より背ぇ高い男を押し倒すってのもいいかもしれないな……)

 しかし、どうやらこの男には片想いの相手がいるらしいのだ。
 滅多に自分から声をかける事もなくなったし、時折ため息をついて物思いにふけっている。
 口説くのなら、まずそいつをあきらめさせることから始めなくちゃいけない。

(手始めに今夜誘ってみるか?)

 さりげなく。あくまでさりげなく間仕切りに手をかけると、キャンベルは声をかけた。

「よう、エリック」


 ※  ※  ※ ※


 髪を洗いながらエリックは思い出していた。ついさっき、水路で回収した死体を。
 直接思い出すのではなく、カメラのファインダー越しの記憶を頼りに。

 二の腕に特徴のあるタトゥーがあった。

 詳しく調べてみないとわからないけど……見覚えあるぞ。組織がらみかな?
 入れられた日付は、おそらく入団した日じゃないだろうか。

「なあ、今夜あたり……ヒマか?」

 憶測は禁物、だが自らの記憶という名のデータベースもなかなかどうして馬鹿にしたもんじゃない。
 ゼロをプラスに変えるきっかけにはなる。
 LAほどではないにしろ、ここのところシスコ市内にもそこはかとなく不穏な気配が見え隠れするようになってきた。

「新しい店見つけたんだけど」


 先月、逮捕した容疑者の中にも同じタトゥーをしていた奴がいたような気がする。
 あれは何の事件だったろう? 上がったら調べてみようか。
 それにしても。

(あー、やっぱり、このシャンプー苦手だ。帰ってからもう一度風呂入ろうっと)

 顔をしかめてボディソープを手にとり、わしゃわしゃとあわ立てて身体に塗りたくる。タオルでこすると強烈に甘い香りが広がった。
 純粋に甘いのではなく、鼻の奥にツンとした刺激臭が後を引く。
 相変わらずきつい。でもこれなら水路の淀んだ水とヘドロのにおいを打ち消してくれるだろう。

「おーい、エリックー」

 ざーっとお湯の勢いを強めてボディーソープもシャンプーも、もろともいっぺんに洗い流してゆく。

「……聞いてないのか」

 キャンベルは首をすくめてシャワー室を出た。
 脈無しとなると、こいつのシャワーシーンは見るだに目の毒。早々に退散するに限る。

 無視した訳じゃあるまい。
 気づかなかっただけなのだ。けっこうな勢いでお湯が飛び散っていたし。
 眼鏡もかけていなかったし。

(まったく……あいつは天然だからなあ)

 残らずすすぎ終えるとエリックはお湯を止め、タオルで身体をぬぐいながら間仕切りから出た。
 脱衣所まで来たところでうっかり腰に巻くべきタオルで頭をふいていたことに気づき、慌てて周囲を見回す。
 
 ……良かった、誰もいない。

 さすがに下半身何もつけずに(もっとも上にだって何も着けてないけれど)人前を堂々と歩くのは問題がある。
 いくらここがシャワー室の脱衣所だからって。

(本当に良かった。誰もいなくて)

 ロッカーを開けて眼鏡をとりだし、かける。ぼやけていた視界がクリアになる。


「……あー、その」
「わあ、キャンベル」

 居た。

「これから?」
「ああ、これから」
「そっか。それじゃ、お先に」



 ※  ※  ※ ※



「どうぞ、センパイ、これが例の繊維の分析結果です」
「サンキュ、エリック。無理言って悪かったな。ラボの設備、貸してくれるだけでも良かったのに」
「いいえ。ついでですから! ……せっかくですから」

 内心、どきどきしながら声をかけてみる。

「休憩室でコーヒーでもいかがっすか」
「ん……すまん、今日は時間ないんだ。今度、またな」

 何となく、そんな気がしていた。
 大またで遠ざかる広い背中を。たてがみのような赤毛を黙って見送った。

 通りすぎる他の署員達とも気さくに笑みを交わし、手を振っている。そうだ、こう言う人だった。
 あの笑顔はオレだけに向けられたものじゃない。
 もっと近くにいた頃。バッジをつけていた時でさえ、あの人とオレの間にあったのは信頼と友情でしかなかった。

 すっぱり諦めるつもりでいたんだ。
 それなのに。
 何で。
 あんなに、色っぽさに磨きがかかっちゃってるんだろう、センパイってば。

 深いため息が漏れる。

(これじゃ生殺しだ……)

「よう、エリック。すまんがちょっとこいつの面倒見ててくれるか?」
「どーぞ」
「たのんだ。すぐ戻るから」

 足早にトイレに入って行く相手は爆発物処理班のハンドラー。手渡されたぶっといリードの先には、茶色い顔と尻尾、黒い背中のシェパードが一頭。
 きちっと後足を折り曲げて座っている。

「やあ、デューイ」
「わふっ」

 爆弾探知犬である。水路の捜索に駆り出されたヒューイとは母犬の同じ兄弟犬。
 もう一頭ルーイと名付けられた探知犬がいたが、惜しくも二年前に殉職している。
 彼が、一瞬。ほんの一瞬早く反応したおかげで処理中の警官はからくも死を免れたのだ。

「………ちょっと温もり分けてくれる?」

 両手でがしっとぶっとい首を抱きしめる。

 ああ。何となく似てるなあ。この骨太でごっつい感じが……
 ばったんばったんと丈夫そうな太い尻尾が床を叩いている。
 うん、似てるな。仕事以外ではやたらフレンドリーなとこも。

「あ……水死体の検死報告聞きにいかなきゃ」

 名残を惜しみつつ、エリックは手をほどいて立ち上がった。

「遺留品も分析しないとな……あー、これで何日間、あったかいご飯食べてないだろ……」

「わふ」

 たしっと爆弾探知犬がでかい前足を膝の上に乗せてきた。
 しっかりと右手で握り、堅い握手を交わした。

「……ありがとな、デューイ」



(降りしきる雨みたいに/了)

【side1】ライオンとクマ

2008/04/11 20:27 番外十海
  • 時期は【3-1】の直後。
  • ディフが入院中のエピソード。双子(withヒウェル)とレオン、それぞれのお見舞い風景。

【side1-1】ふたごのおみまい

2008/04/11 20:28 番外十海
「見舞い?」
「うん。何がいいかな」

 ヒウェルは皿を洗う手を止め首をひねっている。
 シエンはちょこんと首をかしげたまま、答えを待った。
 朝食の片付けをしながら、思い切って聞いてみたのだ。ディフのお見舞いに行きたいんだけれど、何を持って行けばいいだろう、と。

「クマ」
「えっ?」
「冗談だよ。花……は、警察ん時の友だちが持ってきてくれたらしいな」
「そうなんだ」
「まあ、病院に行く途中で何か探してくか」
「……うん……それでもいいけど……」

 シエンはオティアと顔を見合わせた。
 ……どうしよう。
 まだ人の多い所は苦手なのだ。

「センスのいい雑貨屋知ってるんだ。穴場だから、あんまし客の来ない店なんだけどな」
「うん!」

 ほっとして体の力を抜いた。

 しかし、ヒウェルが言わなかったことが一つある。件の雑貨屋が対象としているのは……主に女性客なのだ。

(ま、いっか。シエンの選んだものならディフも文句を言わないだろう)



  ※  ※  ※  ※


「よぉ」

 ディフはベッドの上にうつぶせになって寝ていた。
 まだ背中が痛いのかな。
 
 とことこと近づくと、シエンは大事に抱えてきた見舞いの品をさし出した。

「………これ、おみまい」
「え? 俺に?」
「うん」

 ディフは目を丸くしながらさし出されたプレゼントを。真っ白な毛並みのライオンのぬいぐるみを、大事そうに両手で受けとめてくれた。

「………かわいいなあ………ありがとう」

 家猫ほどの大きさで、スフィンクスのように伏せた格好をしている。適度にリアルで、毛並み……とくにたてがみがふかふかしていて、とても手触りがいい。
 選んだ理由はそれだけじゃない。

 Lion……Leo……Leonhard。

「レオンか、これ」

 わかってくれたらしい。

「その…たまたま、見つけたから」
「ふふ……可愛いよ。すっげえ可愛い。ありがとな、シエン」
「うん」

 ライオンを抱えて、目を細めている。よかった、気に入ってくれたみたいだ。
 ベッドのそばに花が置かれている。白と黄色の目玉焼きそっくりの配色の花とアイビィの葉っぱを組み合わせた可愛らしい花かごだ。
 あれが、警察の友だちが持ってきてくれた花かな。
 そしてその隣には、なぜか……クマが一匹。
 黒いボタンの目の、茶色い、ぬいぐるみのクマ。

kuma.jpg


「あ」
「あー、その……こ、これは、レオンが……くれたんだ…………10年前に」
「そっか」

 だからヒウェルがクマ、なんて言ったんだ。大きさもライオンと同じくらい、並べて置くのにちょうどいい。
 よかった。
 お店でぱっと見た瞬間、これがいいなって思ったのだ。

「それ、口に入れても安全なオーガニック素材なんだって。染料をほとんど使ってないから白いんだよ」
「そうか。ありがとな、気ぃ使ってくれて」



 そもそも、その仕様自体が乳幼児用だったりするのだが。突っ込むべきヒウェルは現在、喫煙所でヤニの補給中。
 少し後ろに下がった位置から見守るオティアも、あえて口にはしない。
 故にシエンもディフもにこにこ笑み交わしつつなごやかに、ふんわかほんわか空気が流れてゆく。



「みんなで料理してるって? お前、中華得意なんだってな」
「うん。アレックスがつくってくれたり、ヒウェルがつくってくれたりするけど……俺も、ちょっとだけ」
「美味いって言ってたぞ、ヒウェル。……ピーマン食ったんだってな、あいつが」
「うん、ちんじゃおろーす」
「それ、ものすっごくピーマンの含有率高くないか」
「え。うーん……ピーマン4個ぐらい」
「……信じられん…よっぽど気に入ったんだな、お前の料理」
「そうなの?」
「ミートローフにみじん切りにして混ぜても避けて食ってた」
「そうなんだ…」

 ライオンを抱え込み、ふかふかしたたてがみに顔をうずめて、ディフがぽつりとつぶやいた。

「……さみしいよ。早く帰りたい」
「……」

 シエンはちらりとオティアの方を振り返る。オティアが肩をすくめて前に出てきた。
 双子が手をさしのべてくるのに気づくと、ディフはゆるく首を横に振った。

「……ありがとな。その気持ちだけで充分うれしい」
「…うん…」

 シエンはそーっと手を引き、オティアは何事もなかったようにまた元のポジションに戻った。
 ディフはぽん、と白いライオンの頭を手のひらでつつみこみ、顔中くしゃくしゃに笑みくずしてきた。
 上機嫌のゴールデン・レトリバーそっくりの、やわらかな笑顔で。

「こいつもいるしな」
「うん」

 しばらく話してから、双子はヒウェルに連れられて帰って行った。

「また来るね」

 ドアの所でシエンが小さく手を振った。

 一人っきりになってから、ライオンを撫でながらディフは秘かに胸の奥を熱くしていた。

 優しい子だ。
 ほんとうに。

 部屋を飛び出した時のやつれた状態と比べて、見違えるほどふっくらしていた。顔色もいい。健康そうだった。
 アレックスやレオン、ヒウェルがきちんと世話をしてくれているのだろう。

 ほっと安堵の息をついた。
 病室の中が急に静かになってしまった。ため息、もう一つ。今度はさみしくて。

 早く帰りたいのは本当だ。けれど、ここで力を使わせたらまたあの子たちの負担になる。
 銃で撃たれた傷を治した直後、オティアはとても疲れていたし、シエンにいたっては気を失ってしまった。

 幸い、己の頑丈さには自信がある。体力なんか余ってるくらいだし。
 おとなしく治療に専念して早く治そう……夕方になればレオンも来てくれるし。
 
 大事そうに白いライオンを抱えると、ディフは目を閉じた。




(ふたごのおみまい/了)


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【side1-2】★レオンのお見舞い

2008/04/11 20:31 番外十海
 夕方。仕事を早めに切り上げたレオンが病室に入って行くと、ベッド脇のぬいぐるみが二匹に増えていた。

kuma.jpg


 一匹は見なれた茶色のクマ。少し色あせていい具合に風合いが出ている。ところどころ繕ったあとがある。
 もう一匹は、真新しい白いライオン。大きさも同じくらいで何となく『お似合い』の1ペアと言った趣きだ。
 なにげなくクマをライオンの背に乗せてみる。

「……何やってんだ、レオン」
「丁度いいサイズだなと思って」
「うん。シエンがくれた」

 シエン、か。苦笑しながらレオンはクマの鼻を軽くつついた。

「そうか。じゃあ、このクマは連れて帰ろうかな」
「やだ!」

 口をへの字に曲げているが迫力も柄の悪さも皆無。歯も食いしばっていないし、声も『地獄の番犬』の唸り声にはほど遠い。
 どちらかと言うとあどけない、拗ねたような顔をしている。高校生の時に戻ってしまったみたいだ。

「……………………それ、お前だよ、レオン」

 クマをおんぶしたライオンを見て、頬を赤くしている。

「ライオンだから?」
「……うん」

 クマを横において、今度はライオンを抱き上げてみた。

「似合うぞ、レオン」
「柔らかいね」
「オーガニック素材でできてるから、口に入れても安全なんだと」
「乳児用かい? それで白いのか」
「……うん。染料をほとんど使ってないから…………そうか、それ乳児用なんだ……」
「少し大きいから、もう少し育った子供向けかな。」
「どーすっかな、俺ぶっちぎりで対象年齢オーバーだ」
「いいじゃないか。対象年齢なんてあってないようなものだよ」
「そうだな。お前も似合ってるもんな」

 枕を抱えてうつぶせに横たわり、にこにこしながら見上げてくるディフの背中の上に、ぽんっとライオンを乗せてみた。

「うん。いいんじゃないかな」
「待てこらっ! かわいい、とか思ってるだろ、その顔」
「うん。可愛いよ」

 真っ赤になって口をぱくぱくさせている。

(おやおや、予測していたんじゃなかったのかい、俺の答えを)

 ライオンを抱き上げ、元の位置に……クマの隣に戻した。ディフは枕に顔を埋めてしまった。こっちを見ようともしない。

(しょうがないなあ)

 ベッドの横に椅子をだしてきて、座る。そろりと手が伸びてきて、手探りで膝を撫でてきた。
 おや? と思っているとさらにもそもそと這い上がり……手を握ってきた。

(なるほど、こうしたかったのか)


 そっと握りかえすとディフの指に力がこもり、ようやく顔を上げた。

「なあ、前から不思議に思ってたんだけど。お前、何でクマのぬいぐるみなんかくれたんだ?」
「さあ。忘れた。もう昔の話だし」

 嘘だ。本当は、ちゃんと覚えている。
 忘れるはずがない。

(君が探していたからだよ)


 ※ ※ ※ ※


 ディフには面白い『寝ぼけ癖』がある。
 夜中にぬぼーっと起き出して、クマのぬいぐるみを探すのだ。もちろん、朝になっても当人はほとんど何も覚えていない。

 最初にこの現象に出くわした夜のことを今でもはっきり覚えている。学生寮のベッドの中でふと気配を感じて目を開けると、ディフがぼーっと枕元に立っていたのだ。
 頭はくしゃくしゃ、とろんとした目は半開き。白地に青の細い縞模様のパジャマでボタンは上三つ開けっ放し、上着が左肩から半分ほどずり落ちた状態で。

『俺のクマどこ?』
『クマ?』
『うん。俺のクマ……茶色で耳がかたっぽとれてるやつ』

 わけがわからず、こちらも寝起きのぼんやりした頭で首をかしげていると……。
 いきなり熱い体が抱きついてきた。

『っ、ディフっ?』
『………あった』

 そのまますやすやと眠ってしまった。しあわせそうなほほ笑みまで浮かべて。

 それまでは彼に友だち以上の気持ちなんか持っていなかった。犬みたいに尻尾を振って懐いて来るディフを、少しばかり疎ましくさえ思っていた。
 だから素っ気ない言葉と態度で冷たい壁を張る。それでも彼は変わらずほほ笑みかけてくる。

 今まで誰からも与えられたことのない、まっすぐな信頼。何の見返りも求めず、期待もしない無条件の好意。
 アレックスとは少し違っていた。
 何があってもディフは自分を裏切らない。裏切ろうと考えさえしないだろう。

『ディフ……起きてくれよ』

 押しのけようとすると、目を閉じたまま小さく首を横に振って。ぐいぐいと顔をすり寄せてきた。
 子どもみたいに体温の高い体にすっぽり包み込まれる。動けない。
 同じベッドの中でしっかりと抱きしめられ、二人を隔てるのは薄い寝間着と下着のみ。

 無意識に張り巡らせていた冷たい防護壁に、音もなく小さなヒビが入った。
 密着した体から伝わるゆるやかな熱に、つかの間身を委ねていた。
 何をしているのか。自分でもそれと気づく前に手を伸ばし、わずかに波打つ柔らかな髪をなでてていた。

『ん……』

 小さく声を漏らし、くいっと手に顔をすり付けて来る。その瞬間、理性と甘美な微熱との間に一騎打ちが展開され、理性が勝利を収めた。

『ごめんよ』

 わずかにディフの腕が緩んだ隙にベッドから押し出し(その頃はまだ彼を抱き上げるだけの力がなかったのだ)布団を持ってきて上からかけた。
 そして自分はベッドの奥深くにもぐりこみ、まんじりともせず夜を明かし……翌日、すぐにアレックスに電話した。

『ハロー、アレックス? 大至急、準備してほしいものがあるんだ』

 リクエストを告げると、聞き返されることもなく即座に返事が返ってきた。

『かしこまりました。早速、オーダーメイドの一点ものをドイツのシュタイフ本社からお取り寄せして……』
『そんなに待てない。とにかく急いでくれ』
『かしこまりました』

 アレックスは有能だった。
 ただちに要求通りの品物を手配し、届けてくれた。
 その甲斐あって二度目にディフの『俺のクマどこ?』が出た時、レオンはすかさず、クマを渡すことができたのだ。

『ほら、これ』
『……あった』

 満足げにクマを抱えたままディフは自分のベッドに戻って行き、すやすやと眠ってしまった。
 そして翌朝になるとクマのことなんかケロリと忘れ、元気よく飛び起きていた。

 床の上に転がったクマを拾い上げるとレオンは自分のクローゼットにしまい、次の機会にそなえた。
 その後もたびたびクマは出動し、レオンが卒業する時にディフに手渡されたのである。

『どうしたんだ、これ』
『あげるよ』
『いいのか?』
『ああ』
『……ありがとな。大事にする』


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【side1-3】そして、退院の日

2008/04/11 20:33 番外十海
「……ただ今」
「お帰り」

 そんな訳で、ディフが退院したとき。

「今から病院にいくところだったんだが……」
「……待ちきれなかった」
「しょうがないな……先に家に戻っててくれ。気をつけて。荷物は貰おうか?」
「大丈夫、自分で運ぶよ。でも、ありがとな、レオン」

 ライオンとクマ、新旧2体のぬいぐるみが一緒になって帰還していたのだった。
 クマは鞄の中に。白いライオンは……しっかりと腕に抱えられて。

 長い赤毛をなびかせて、ライオンのぬいぐるみを抱えて悠々と歩くディフの姿を、道行く人がけっこう注目していたりしたのだが……。
 当人はまったく気にしていないし。
 レオンももちろん、気にするはずがなく。

「しょうがないなあ……」

 ハンドルを握りながら、くすくすと笑っていたのだった。


(了)


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【3-8】ペペロンチーノ

2008/04/13 0:25 三話十海
  • 【3-7】の数日後のできごと。
  • 穏やかに続いてきた『食卓』に訪れる一つのうねり、その最初の一波。

【3-8-1】母との電話

2008/04/13 0:27 三話十海
 赤々とした西日は既に地上と空の境目ををわずかに染めるに留まり。
 窓の外に広がるサンフランシスコの空は、西の薔薇色から南のラベンダーブルーと徐々に青みを増してゆき、東の空には既に藍色の夜が広がっていた。

 レオンの部屋から見た時は、もう少し薔薇色の部分が少なかった。ドア一つずれただけで窓の外の風景も微妙に違うのだ。

 もっともこのところ滅多になくなっていた。
 この時間にディフォレスト・マクラウドが自分の部屋にいる事なんて。

 深く呼吸するとディフは受話器をとり、短縮ダイヤルの二番、すなわち実家の番号を押した。

「ハロー、ディー?」
「やあ、母さん」
「珍しいわね、あなたから電話くれるなんて」
「うん……まあ、たまにはね。この間の電話で言い忘れていたこともあったし」
「まあ、何かしら」

 さあ、ここからが正念場だ。ぐっと腹に力を入れて、精一杯『普通の』声を出す。

「オティアのことなんだ。ほんとはただのバイトじゃない。もう一人、シエンって子が一緒で……双子の兄弟なんだ」
「あら、そうだったの。二人ともあなたの所で?」
「いや、シエンはレオンの事務所に行ってる。それで……二人とも今、レオンの部屋に住んでるんだ」

 しばしの沈黙。母なりに考えているらしい。矢継ぎ早に言葉を続けたい。だがいっぺんに言ったらおそらく混乱させてしまうだろう。
 ここはじっと我慢。我慢だ、ディフォレスト。

「レオンの……親戚のお子さん、なのかしら?」
「いや。レオンの手がけた事件に関わってた子どもたちで……身よりがないんだ。行く所がないから、レオンが引き取った」

 再び沈黙。ただし、かすかにうなずく気配がした。よし、いい傾向だ。

「それで……ほら、レオンの奴、家事、苦手だろ? だから俺が毎日隣に通って、世話してるんだ。飯作ったり、洗濯したり……」
「うん、うん、あなたレオンのこともしょっちゅう世話焼いてたものね。高校生の時から、ず〜っと」
「うん……一人も二人も三人も同じだから」
「ふふっ、そうね、同じ、かもね」

 笑ってる。少し胸の奥が疼いた。
 双子の世話をしているのは確かだが、今自分が口にした言葉と事実は微妙にマッチしていない。何よりレオンと自分の関係も母はまだ知らないのだ。
 後ろめたさを胸の奥に押し込んで、本題を切り出す。

「それで、ね、母さん。今年はその、クリスマスもニューイヤーも、帰れそうにないんだ」
「そう……残念だけど、しかたないわね。育児って年中無休ですもの。」
「ごめん」
「いいのよ、ディー」

 良かった。声が長調だ。頭の片隅で小さなファンファーレが聞こえた。

「よっぽど可愛いのね」
「うん! 二人ともいい子なんだ。最初はガリガリに痩せてたけど、今じゃすっかり健康になって……」

 微妙に今、主語が省かれていたような気がしないでもないが、些細な問題だ。
 ほっとした途端、今まで言いたかった言葉があとからあとから流れ出す。

「シエンはもの静かな優しい子で、一緒に飯、作ってるんだ。ビスケットも焼いた。中華料理が得意で、ちっちゃな鍋でいそいそ作ってる。俺が入院してた時は、見舞いにライオンのぬいぐるみをプレゼントしてくれたんだ」
「まあ、可愛いわね」
「オティアはすげえ頭が切れる子でね。事務所のアシスタントとしても有能だし、俺が教えたことを片っ端からどんどん吸収してく。本読むのが大好きで……」
「確かに有能ね!」
「ああ。いい子たちだよ……」

 目を細めると、ディフは自分でも気づかぬまま、うっとりとほほ笑んでいた。目もとを和ませ、目尻を下げて。口角を上げて。
 尻尾があったら、わさわさと力いっぱい左右に振っていたろう。

 喉の奥から滑らかな声がこぼれる。ベルベットのようにしなやかで、あらゆるものを柔らかく包み込むあたたかな声が。

「子どもって不思議だよな。あんなにちっちゃくて、やわらかで、華奢なのに、ちゃんと人間のパーツがひとそろい揃ってる。においもふわっとしてて、大人とは違う」
「可愛くてしかたない?」
「うん」
「あなた、ランスが生まれた時も。ナンシーの時も、同じこと言ってたわよ?」
「そうだっけ?」
「ええ。あなたきっと、自分の子どもが生まれた時も同じ事を言うわね」

 どきりとした。冷たい指で心臓をわしづかみにされたような心地がする。一瞬で笑みがかき消えた。

(ごめん、母さん。俺はもう、女性を愛することはできないんだ。いや、男でも女でも関係ない。ただ一人、レオン以外は……)

 一番大事なことは、やっぱり言えなかった。

「ところで……。あなた、こんな時間に電話していていいの? 夕飯作ってるんでしょ?」
「ああ、大丈夫。今日の飯は、ヒウェルが作ってるから」
「まあああ! ヒウェルが? 脱いだ靴下を丸めて床に放り出して、絶対に片付けないあのヒウェルが?」
「そう、あのヒウェルが」
「いったいどうしちゃったの、あなたたち」
 
 声が1オクターブ上がってる。よっぽど驚いたらしい。

「……まあ、いろいろあったんだよ。いろいろね」

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【3-8-2】茹で過ぎは食えたもんじゃねえ

2008/04/13 0:28 三話十海
 ガキの頃からサンフランシスコに住んでいて、一つ悟ったことがある。
 きっちりアルデンテにゆで上がったパスタを食いたいと思ったら、まず家で作るに限るってことだ。
 だいたい店で出されるやつはぐだぐだに茹だりすぎていて、口ん中でもたつくわ、胃の中でトグロ巻くわで食えたもんじゃねえ。

 専門のイタリアンレストランに行けばソースはそこそこ美味いのが食えるし、ゆで加減も若干マシなのだが……それにしたって俺の基準からすりゃ充分、茹ですぎだ。

 だから、オティアがパスタが好きらしいとわかった時、自分で作ることにしたんだ。

「どうしたんだ、それ」

 必要な材料を買い込んできて。ウォールナットの無垢材で作られたでっかいダイニングテーブルの上にどすん、と置いたらディフの奴は目を丸くして首をかしげた。

「今日の夕飯は俺が作るよ」
「……お前、正気か?」
「失礼だなー。いっつも食わせてもらってばっかじゃ悪いからさ……って何デコに触ってんだよ」
「いや、熱でもあるんじゃないかと思って」
「おい」
「だいたいお前、家事なんか滅多にしないだろ。腹減ったらチョコバーかじってしのぐし、靴下脱いだら丸めて床に放り出しっぱなしで、絶対片付けないし……」
「そーなんだ」

 シエンがうなずいている。

「高校ん時の話をいつまでもひきずるなっ! 俺だって多少は成長したぞ?」
「本当か? お前、今も自分の部屋は……」
「はい、ストーップ!」

 早々にディフをキッチンから追い出すと、何やらぶつぶつ言いながら自分の部屋に戻って行った。

「何を作るの?」
「ペペロンチーノ」
「この間カニと一緒に食べた、あれ?」
「そう、あれ」

 うなずくと、シエンは心配そうに左肘のあたりに視線を向けてきた。少しだけ伏し目がちに。

「腕、もう大丈夫?」
「ああ、すっかり!」

 ぶんぶんと回してみせると、シエンはうなずいて小さく

「そう……良かったね」

 と、つぶやいた。微妙に視線を背後に……黙々とテーブルを拭いているオティアに向けて。

「ヒウェル、エプロンしなくて大丈夫?」
「ああ」

 ジャケットを脱ぎ、シャツ(本日の色は極めて薄い桜色)の腕をまくった。

「ほい、これで準備完了」
「それで……いいんだ」
「俺はディフほど髪の毛長くないからな。くくる必要もないし」
「あー……」

 シエンが何やら言いたげな視線を向けてきたが、結局何も言わずに自分のエプロンをつけていた。

「よし、始めるか」

 寸胴鍋いっぱいに水を入れて、ぐらぐらわかしていたらいきなり鼻がむずむずして。

「ぶぇっくしょいっ」

 派手なくしゃみをぶちかましていた。
 すかさずシエンが小さな声で言ってくれた。

「お大事に」
「ありがとさん。ったく、誰かウワサしてんのかぁ?」

 ぎろりとオティアがにらんでくる。

「鍋の前でやってんじゃねー」
「……わーったよ、気ぃつける」
「うつったらシメる」
「……………………細心の注意を払います」

 にらまれた。
 怒られた。
 でも、自分から話しかけてくれた。それだけで胸が躍り、顔がほころぶ。

 鍋に塩をひとつまみぱらっと入れて、大量のパスタをぞろりと投入する。お湯に浸かったところからくたくたと折れ曲がるのを、軽くトングで混ぜる。

「菜箸使わないの?」
「こっちのが楽」

 五人分のパスタが湯の中にまんべんなく浸った所で、ひまわりの形をしたキッチンタイマーをきりっと回して、かっきり11分にセットする。
 およそ男ばかりの部屋に似つかわしくない、厚さ1インチほどの黄色いお花の形のタイマー。丈夫で長持ち、今時珍しい回転式。ディフの入院中に新しく買ったものだ。



 かつてこの家には、キッチンタイマーなんて洒落た道具は存在しなかった。
 ディフの奴はパスタを茹でるのも腕時計のクロノグラフで計るから。時限爆弾の残り時間でも計る時みたいにそりゃもう、真剣に。

 ついでに言うと、ここの台所にある鍋はどれもこれも重量級で。シエンはいつも重たい鍋を両手で苦労しながら上げ下げしていた。
 時にはオティアと二人がかりで、一つの鍋を抱えて。
 パスタを茹でる時なんざ、寸胴鍋をコンロに乗せてからヤカンでちまちま水を入れていた。(水が入ってると重くて持ち上げられないのだ)
 だからタイマーと一緒に小さめの鍋を買った。あの子でも楽に扱えるような、軽い奴を。

「これ使うといい」
 そう言ってテーブルの上に乗せるとすごくうれしそうに笑って「……ありがと」と言って。大喜びで鍋を洗って火にかけていた。
 


「オティア。吹きこぼれないように見張っててくれるか?」

 黙ってこくっとうなずいた。
 よし、これでこっちはOK。
 その間に赤唐辛子を刻む。一人1本……いや、2本いっとくか。続いてベーコンを細切りにして。皮を剥いたニンニクは薄切りに。
 包丁とまな板を洗ってから(臭いが着くとディフがうるさいのだ)、フライパンでがーっと炒める。
 その間にシエンは隣でレタスをちぎってはボウルに張った氷水にくぐらせていた。

「あ……サラダか。サンキュ」
「うん。野菜もとらないとね」

 着々と双子の食育は進んでいるようだ。手際良くトマトを切り終えると、ちっちゃな鍋をとりだして。
 お湯を沸かし、アスパラを茹ではじめた。
 マメだな。俺ならそこで手ー抜いて、パスタと一緒にゆでちまうよ。

 チリリリリリリリリ!

 レトロなベル音が鳴り響く。11分経過、パスタのゆで上がり。
 一本つまみとって口に入れる。
 あちち!

 堅からず、柔かすぎず、芯は残ってない……よし、いい感じだ。

 ほんとは一本とってびしっと壁に投げつけて、張り付くかどうかで判定したいとこだが下手にやったら……後が怖い、ディフが怖い。
 鍋つかみを両手にはめて、慎重に寸胴鍋を持ち上げる。ここでひっくり返したら大惨事だ。そーっと、そーっと。
 さすがに五人分は、重い。シンクまで運んでゆき、あらかじめセットしておいたザルの上に流す。
 ちまちまトングで落すなんて面倒なことやってらんない。大量のお湯とパスタを、ざばーっといっぺんに。
 絶対、こうした方が美味いと信じている。(根拠はないが)

 もうもうと真っ白な湯気が噴き上がり、一瞬視界が真っ白になった。

「うわぷっ」
「……眼鏡ぐらい外しとけ」
「るっさい、今外そうと思ったとこだよ」

 眼鏡を外して、たたんでキッチンカウンターに乗せる。ちょっとばかり世界がぼんやりしてしまったが、文字を読む訳じゃあるまいし。どうにかなるだろ。
 だいたい俺の目は近視と言うより乱視が強いのだ。裸眼だと人の顔の細かい表情や文字を判別するのは難しいが、物の輪郭や色、形そのものは比較的よく見える。包丁を使うのはさすがにきついが、刻むべきものはもう全部刻んである。
 よし、問題なし。

 フライパンにオリーブオイルを引いて、バターをひとかけら。ベーコンと薄切りガーリックを炒めた。
 人類で最初にベーコンを発明した奴に感謝したいね。ちょいと火を通しただけで美味そうなにおいがぶわぶわっと大発生。
 そこにガーリックが加わった日にゃあ……吸血鬼じゃなくてよかったと心底思う。
 火が通った所にパスタを投入、一気にがーっといためて塩胡椒を振って。
 仕上げに刻んだ赤唐辛子を散らす。ちょい、と味見して……

「んむ、完ぺき」
「ヒウェルもけっこう料理できるよねー……」
「まあな。これでも一人暮らし、そこそこ長いから」
「皿も鍋も洗わないけどな」

 ぬっと背後から厳つい赤毛が鼻つっこんできやがった。

「だって学生の時はお前がやってくれたし」
「放っておくと部屋ん中が魔窟になるからだ! だいったいお前ときたら読んだ本片っ端から部屋の床に放り出して絶対片付けないし」
「あれは置いてあるんだ。放り出したんじゃない」
「どうだか? ……シエン、皿出してくれ」
「うん」

 大きめの平皿にペペロンチーノ、少し深めの小皿にサラダ。

「飲み物なんにするー?」

 シエンに聞かれ、相変わらず黙々とフォークとスプーンを並べていたオティアがぼそりと答えた。

「……水でいい」
「OK、水な」

 炭酸無しのボトルウォーターを取り出し、大きめのグラスについで、とりあえず一人一杯ずつ。

「粉チーズ使う奴いる?」
「一応テーブルに出しとけ」
「わーった」

 皿に盛りつけたペペロンチーノとサラダが五人分、でっかいダイニングテーブルに並んだのを確認してから眼鏡をかけ直す。

「よーし、できたぞ」

 不意に背後で声がした。

「……今夜はヒウェルが作ったんだって?」
「わあ、レオン、いつからそこに」
「さっきから」

 ※ ※ ※ ※

 食ってる間中、気になってしかたなかった。何がって、オティアのことに決まってる。
 ディフの入院中に何度か飯は作ってきたが、今日は特別だ。こいつのために、作った。こいつに食べて欲しくて。
 相変わらず表情は動かさないが黙々と食って、二皿目をよそっている。信じられない、基本的に小食のこいつが!
 シエンが目を丸くしている。
 ディフも。
 レオンでさえ意外そうに「ほう」と小さな声を出した。
 食卓の視線がそこはかとなくオティアに集中している。

 肋骨の内側でばっくんばっくん飛び跳ねる心臓をなだめつつ、聞いてみる。

「……うまいか?」
「……まぁまぁ」
「そうか!」

 最上級のほめ言葉だ。

「オティア、スパゲティ好きだよね」
「……」
「そうか…好きなのか……また作るよ」
「うん」

 シエンの隣でオティアが小さくうなずいた。ちらっと。ほんの短い間、確かにこっちを見ていた。

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【3-8-3】ヒウェルの告白

2008/04/13 0:29 三話十海
 舞い上がったまんま上の空で食後のコーヒーを流し込んで。鍋と皿を洗うと言ったらディフの奴はまた目を丸くした。

「……ほんっとに熱ないのか、お前」
「いいから体温計しまえよ、ディー」
「ええい、その呼び方はやめろ!」

 くわっと歯ぁ剥いて怒鳴ってるが動揺してるな。耳まで赤くしてうろたえてやがる。
 一本とったぜ、してやったり。

 気分よく台所で鍋とフライパンを洗っていると、食べ終わった食器を持ってオティアがやってきて……そのまま、洗い始めた。
 ざっと皿を軽く洗ってから食器洗浄機に並べて行く。
 何のことはない、いつもこいつのやってる事だ。強いて違いをあげるとしたら今日はいつも一緒のシエンがいない。
 ディフもいない。レオンは言うにおよばず。
 今、キッチンにいるのは俺とオティアの二人っきりだ。

 これはある意味、チャンスかもしれない。

 ざばざばと景気良くフライパンを洗って、すすいで。ペーパータオルで拭ってからかるくガス台であぶって水気を完全に飛ばす。
 一旦手を休めて、オティアに声をかけた。

「なあ、オティア」

 こっちを見た。

「月並みな質問だけどお前、恋人とかいる?」
「は?」
「いないんだな?」
「考えたこともねーよ」
「ふーん」

 ひと呼吸置いて、続ける。本当に言いたかった一言を。できる限りさりげなく、いつもの軽やかさを保ったまま。

「それじゃあ、俺が立候補してもいいわけだよな?」
「はあ?」

 一歩近づき、上体を曲げて。ほんの少しスモークのかかった紫の瞳をのぞきこんだ。
 瞳孔が拡大し、いつもより若干深みを増したアメジストの鏡に……不自然なくらい爽やかな笑みを浮かべた自分の顔が写っていた。
 自分がどれほど彼に近づいていたのかその時初めて気づいた。
 ったく、何ムキになってんだ……。

 声のトーンを落して、囁きかけた。

「お前が好きだってことだよ。恋人になりたいんだ」
「何を、バカなことを」

 つい、と目をそらされた。
 ああ、予想通りの反応だ。お前ならきっとそう言うと思ったよ。ここですんなり聞き届けられてもいささか物足りない。
 ほんと、怒った顔も可愛い奴だ。

「本気なんだけどなぁ……」

 オティアは黙々と皿を軽く水ですすいでは食器洗浄機に並べる作業をくり返して行く。いつもより少しだけ乱暴で、皿やフォークがカチャカチャと耳障りな音を立てる。
 最後の一枚までセットしてからバタンと蓋を閉めて。スイッチを入れた。

「………オティア?」
「二度と言うな」

 そのまま俺には目もくれずに素通りし、自分の部屋へと行ってしまった。

(おい)
(待て)

 今、いったい何があったのだ。
 俺は何をしくじった。
 まちがったボタンを押したのか。
 くそ……わからない。
 わからない!

 切り立ったガラスの絶壁に指ひっかけて、上に登ろうと足掻いてる気分だ。

「オティアっ?」

 シエンが慌てて追いかける。
 続いて追いかけようとしたが、リビングで足が止まった。
 情けない話だが、その時になってようやく、混乱した俺の脳みそはさっき目の拾った光景を理解することができたのだ。

 まだ新しい食器洗浄機。ピカピカの銀色の表面が、鏡みたいに彼の顔を写していた。
 相変わらずのポーカーフェイス、表情は変わらない。けれど紫の瞳の奥に……凄まじいまでの苦い絶望が沈んでいた。
 あの目。
 初めて会った時も、あんな風な目をしていた。
 いや、あの時よりある意味酷い。
 溺れながらすがりついた手を無理矢理振り払われて、水の底に沈んで行く瞬間……人はあんな目をするのかもしれない。

「やっちまった……」

 唇を噛んで立ち尽くす。濡れた手のままで。
 視界の隅でレオンとディフが一瞬だけ目を合わせ、レオン一人が立ち上がるのが見えた。

「ヒウェル。書斎に」

 静かな声。穏やかな声。だが、逆らうことはできなかった。

次へ→【3-8-4】あの子達には時間が必要だ

【3-8-4】あの子達には時間が必要だ

2008/04/13 0:30 三話十海
 背の高いどっしりした本棚が、部屋の壁を埋め尽くしている。
 分厚い本がすき間無くびっしりと並び、窓を背にして木製のデスクが置かれている。デスクの色も本棚も、フローリングの床も、色調は全て同じ、ブラックコーヒーみたいな落ちついた濃いめのかっ色。
 だが適度にやわらかく、決して人の心を圧迫しない。
 何もかも調和が取れていて落ちつくはずのこの部屋だが、今の俺は……ひどく落ちつかない。

 レオンに続いて部屋に入ると、ドアを閉めるように身振りで言われた。
 あー、なんか校長室に呼び出されるのってこんな気分かな。
 幸いにして学生時代にその憂き目を見たことだけはない。清廉潔白な学生生活だったと言い張るつもりはさらさらないが、それなりに要領は良かったのだ。
 いつでも、どんな時でも、口先と手先と舌先でくぐり抜けてきた。
 重たい波もするりと斜めに構えてすり抜けて、決して正面からは向き合わない。それが俺の遣り口であり、信条だった。

「あー……その……」

 口を開きかけた途中で透き通ったかっ色の瞳に見据えられた。
 うわ。
 動けねえ……。

「ヒウェル」

 たしなめるように名前を呼ばれた瞬間、とっさに口走っていた。

「何もしていませんよ」

 馬鹿か、俺は。これじゃ自白したも同じだろうが!

 レオンは何も言わない。ただ、黙ってこっちを見ているだけだ。すっと鼻筋の通った端正な顔立ち。切れ長のかっ色の瞳。これだけの美人と二人っきりで見つめ合うってのは考えようによっちゃものすごく美味しい状況なのだが。
 中味を知ってるだけに……楽しむどころじゃない。じわりじわりと追いつめられて、言わずにはいられなくなる。
 内に秘められた刃が鞘から抜かれるその前に。

(ほんとはこの男、弁護士より検事の方が向いてるんじゃなかろうか?)
 
「ただ……言っただけです。お前が好きだって。恋人になりたいって」

 まるで検察側の証人に反対尋問する時そっくりの口調で言われた。

「君がこれまでつきあってきた相手とは違うんだ」

 おいおい、いきなりそれかよ!

「んな事ぁ、あなたに言われるまでもなくわかってますよ」

 語尾をあまり強くできなかったのは、ふつふつと沸いて来る後悔とうしろめたさのせいだろうか。


「あの子のことを思うならもっと慎重になるんだね」


 あー、もうこの男は。
 穏やかな声とこのやたらめったらきれいな面構えで淡々と正論ぶつけてくるから苦手なんだよ。ぐるりと張り巡らされた包囲網を、1インチ単位でせばめられて、気がつくと手足をみっちり鉄条網に絡めとられてるんだ。
(そう言や鉄条網ってもともと薔薇のトゲを模して作られたんだっけな。それともイバラだったっけか?)

 ああ、くそ一服やりてえなあ……
 今、そんなこと言ったら最後、即刻に有罪ふっとばして断罪されそうな気もするが。

 だからって素直に謝るのもシャクなので、ひょいと片手を眼鏡の縁にかけ。

「慎重……ねえ……」

 斜めに下げたフレームの、上辺をかすめて視線を送り、口を歪めて言葉を返す。

「……慎重にしましたよ? ええ、俺の基準からすればかなり!」
「俺の基準でいえば、まず告白自体がはやすぎる。今はまだ、性的行為を連想させるすべてのことが彼を傷つける」


 ぐっと唇を噛んで黙るしかなかった。
 指先にくしゃくしゃの紙の感触が蘇る。
 一度丸めたのをもう一度伸ばしたり。破れたのを張り合せたり。ところどころに涙のにじんだ、ぼろぼろの紙片の束が、すーっと目の前を流れてゆく。

 そうだ。
 俺は、知っている。施設の職員とグルになった『仲買人』から売り飛ばされた先で、オティアの身に何が起こったか。おそらくは俺たち三人の中で誰よりも早く、詳しく。

「この間は俺とディフのことでも、ひどく不快感を示してたからね。気をつけてはいるんだが」
「あ……」

 恋人同士の甘い抱擁の名残でさえ、今のオティアには忌わしい記憶に直結しているのだ。
 それを知っているはずなのに、俺は。

『お前、今、恋人いる?』
『それじゃ、俺が立候補してもいいわけだよな?』

 俺って男は、つい今しがた、全力でそのスイッチを押してしまったんだ……。
 よりに寄って軽口めかした言葉と表情で。

『俺とちょっと遊ばないか?』
『初めてって訳じゃあるまいし。どうせ誰とでも簡単に寝るんだろう?』

 あいつの心の中ではおそらく、こんな風に聞こえてしまったはずだ。
 舌の奥が、苦い。

Damn!」

 罵りの言葉とともに拳で壁を叩く。衝撃が肘に響いた。無意識のうちに左手を使っていたらしい。こんな時でも商売道具……文字を書く右手を庇っている。そんな自分の要領のよさが。冷めた頭が。
 何度も危機を回避するのに役立ったはずの己の特性が、今はむしろ厭わしい。

「やっちまった……」

 ずきずきうずく手で髪の毛をかきむしっていた。

「ディフもそうだが、君も、気になるからといって構いすぎるのは禁物だよ」


 拳を握り、床をにらむ。
 ちょうどこの辺りにオティアが座っていた。紫の瞳を見開いて、本のページにびっしり並んだ文字を夢中になって追いかけていた。焼きたてのホットビスケットをかじりながら。
 たった数日前のことなのに、百年前のことのように遠い。

「怖いんだ……放っておくと……すーっと遠ざかって……そのまま二度と手の届かないとこに行っちまいそうで」

 オティアは気まぐれに餌を食いにくる猫みたいな奴だ。確かに今はすぐ傍にいる。けれど、今日眠って明日の朝起きたらふいっと姿を消していて。
 もう二度と会えなくなるんじゃないか。
 不安でたまらなくなる。居ても立っても居られなくなる。

 俺も。
 レオンも。
 ディフでさえ双子にとってはただの他人、無関係な第三者だ。
 一見安定したように見える今の生活が、明日。いや、一時間後も続いている保証は………どこにも、ない。

 俺たちは他人の集合体に過ぎないのだ。たまたま同じ部屋に居合わせて、同じ食卓を囲んでいるだけの。

「無理矢理手元に置こうとしても、傷が増えるだけだ。お互いに」

 のろのろと顔を上げて言葉を返す。いつもは軽やかに動く舌が、なんだか鉛みたいに重い。

「だから待てってことですか」
「あの子達には時間が必要だ」

 口もとに笑みが浮かぶ。苦い錠剤を含んだまま、無理矢理口角をつりあげたような不格好な笑いが。

「あなたが奴を待ったように?」
「……俺は、待っていたわけではなかったけどね」
「あー、そう言やそうだよな。下手すりゃ一生友だちのままだったかもしれないもんな」
「人は欲が深い。満足できずに、次を求めてしまう」

 何やら哲学的なことを言って来やがった。一瞬、ぽかんとしてから……猛烈に、呆きれた。
 今さら何言ってんだ、この男は!

「……次? これ以上何を求めるって言うんです。もう奴にはあなたしか見えていないのに」
「今はね。何にしろ、それを自分で抑制することも必要だ。相手があることなら、なおさら」

 俺に、と言うよりむしろ自分自身に言い聞かせているように聞こえた。だからなのか。
 さっきより素直に、レオンの言葉にうなずくことができた。

「抑制か。一番苦手な言葉だ。でも………試してみよう……あの子のために」
「長期戦になりそうだね」


 レオンが自分の抱えるディフへの友情以上の想いに気づいたのは高校の時。
 以来ずっと親友で居続けて、やっと本物の恋人同士になったのは一年前のこと、俺は二人の始まりから今に至るまでずっと見ていた。
 ディフの鈍さも、レオンの忍耐強さもいやと言うほど知っている。
 だけど。
 だけどなあ。

 俺はあなたほど忍耐強くないんだよ、レオン!

 第一もう、言っちまったんだ。何事もなかったフリして『お友達から始めましょう』なんて申し出ることもできやしねえ……。
 無理だ。

「あなたほどじゃない」

 十年近くも待つなんて。勘弁してくれ。

「……そうあって欲しい……なぁ」

「幸運を祈ってるよ……おやすみ」

 その言葉は否応無しにこの会見の終わりを意味していた。

「おやすみなさい」
「ああ、それからヒウェル」
「何でしょう?」

 ドアのところで振り返ると、レオンにさらりと言い渡された。

「三日間出入り禁止」
「執行猶予は?」
「無し」

 実刑判決かよ。やっぱりこいつ、検事の方が向いてるんじゃないか?

「情状酌量の余地は」
「無し」
「……弁護士呼んでください」



(ペペロンチーノ/了)


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