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ローゼンベルク家の食卓

【3-10-5】クリスマスとニューイヤー

2008/05/08 19:07 三話十海
 買い物の帰りに、本屋の前を通りかかった時、ディフが言った。

「ちょっと寄ってかないか?」って。
 
 あまり大きくない、人の少ないお店だったから落ちついて選ぶことができた。
 好きなのを選んでいいと言われて、少し迷ってから結局料理の本を選んだ。

「それでいいのか」
「うん、いっぱい載ってるし」
「オティアは?」
「あそこ」

 辞書を熱心に読んでるのを指さす。

「……面白いか、それ」
「まあまあ」
「じゃあ……それな」

 自分でお金を払おうとしたら、いいんだ、と言われた。

「どうして?」
「クリスマスだから、な」
「あ」

 ぶっきらぼうに答えていたけれど、ほんのりと頬の辺りが赤くなってた。
 照れくさかったのかな。
 渡された本はツリーの下に置かれてはいなかったし、リボンもついてはいないけれど、赤と緑の紙袋に入っていた。
 何年ぶりだろう。
 クリスマスプレゼントをもらうのなんて。


 ※ ※ ※ ※


 ほんとうに、この家に来てからびっくりすることばかり次々と起きる。 

 でも一番驚いたのは、オティアのことかな。
 警戒心をほとんど見せずに暮らしていて、本当に驚いた。
 あの工場から俺が助け出されるまで、二週間ほどここで過ごしていたらしいけれど、そんなに短い時間の間に知らない人の中で、知らない家で落ちついて暮らせるようになるなんて。
 今までのオティアからは考えられないことだった。

 そのおかげで、俺も『ここは大丈夫なんだ』って思えたんだ。

 ディフの撃たれた傷を治したのも、後から考えて失敗したかなって思ったんだけど……。
 でも、ディフもレオンもヒウェルも…感謝してくれて。怖がったり、気持ち悪がったりしなかった。

「まあ、そう言うこともあるんだろう」
「“彼女”に比べりゃお前さんたちなんざ可愛いもんだしな」

 なんて、妙に落ちついていて。
 まるで以前にも経験したことがあるような口ぶりで、すうっと受け入れられてしまった。

 おまけに、ここに居るのも事件の整理がつくまでだけかと思っていたら、事情徴収があらかた終わりかけた頃にレオンが言ったんだ。
「良ければずっと居てほしい」って。
 ディフは何も言わなかったけど、レオンの隣でうなずいていた。

 ちょっとだけ嬉しかった。でも、二人とも独身だし、里親登録なんて無理に決まってる。いったい、どうするんだろうと聞いたら、レオンが教えてくれた。

 俺達が育ちすぎてるせいで(それとおそらく過去の経歴のせいで)、適当な里親が見つからないって連絡があったんだって。
 だから、児童保護局と警察と検事とレオンで相談した結果、レオンが後見人兼保護者で、18歳まで面倒みるってことになったのだと。

 俺達は養子でもなく、保護児童でもない、なんとなく中途半端な立場になった。


 ※ ※ ※ ※


 クリスマスのお祝いは、レオンの誕生日と一緒だった。
 朝は教会のミサに行った。
 ヒウェルも一緒についてきたけれど、牧師さんのお話の途中で居眠りして、ディフに小突かれていた。
(一緒に来たのは、きっとオティアがいるからだ)


 やがて年が明けて、2006年が始まった。
 明日で休暇も終わりと言う日、ソーシャルワーカーのヨシカワさんがやってきた。

 面倒見のいいふくふくしたおばさんで、年齢は四十歳くらいかな? 日系の人って若く見えるから、よくわからないや。
 俺たちの担当になった人なんだけど、たまたま顔を合わせたヒウェルが珍しく背筋を伸ばして、ものすごくかしこまって挨拶していた。

「昔、世話になったんだよ……」

 そんなに長く勤めてるんだ。
 今日、彼女がやってきたのは、俺たちの学校のこと。
 高校は義務教育だから行かないといけない。けれど、俺もオティアも行く気にならなかった。
 レオンはすぐに編入手続きできるよって言ってくれた。でも学校に行けなかった時期もあったし、ずっと転校を繰り返してたから、あまり良い思い出もない。
 ……本当を言うと、学校はできれば行きたい場所じゃない。

 落ち着くまではってずっと保留にしてもらってたけど、先にバイトはじめちゃったから、ディフが気にしてるみたいだ。


「だったらホームスクーリングを考えてみたらどうかしら? 家で勉強することもできるのよ」

 そう言って、ヨシカワさんは学校の資料を渡してくれた。

「それから……この間のこと、考えてみてくれた?」

 俺も、オティアも、カウンセリングに行くように薦められている。
 レオンも同じ考えみたいだけど、強く言われたことはない。

「……ごめんなさい」
「そう。じゃあ気が向いたらいつでも連絡してね」

 彼女は決して無理強いはしない。いくつかの選択肢を示すだけで、あとは辛抱強く待ってくれる。俺たちが自分から動き出すのを。
 何となく、ヒウェルがこの人の前ではきちんとしてる理由がわかるような気がする。

 
 確かに俺たちは普通じゃ考えられないくらい恐ろしい経験をした。

 道を歩いていて、いきなり後ろからぐいっと捕まえられて、暗い車の中に押し込まれ、連れて行かれた。
 あの山の中の工場に……。

 今でも人に触られるのは恐ろしい。

 俺もそうだけど、オティアが…落ち着いているのは、なんだか怖くもある。俺なんかよりずっと、酷い目にあったのに。
 以前はもっと、いつでも気を張っていたし、他人のために心を配るなんてことは一切なかった。

 あの施設で別れてから、ほんの少し会わない間に、なんだかすごく変わってしまったんじゃないかって思う。


 ずっと、一緒だった。
 二人で一人。お互いがこの世界で唯一の大切な存在。
 同じものを見て。
 同じことを思って。
 同じステップで歩いてきた。

 すぐ隣にいるはずなのに、このごろは二人が別々の『一人』になる瞬間が、少しずつ増えているような気がする。 

 それは、良いことなんだろうけど……。
 
 もうすぐ夕飯の時間だ。手伝いに行かなきゃ。
 すっとオティアが本を閉じて立ち上がる。
 いつものように並んでキッチンに向かった。


 今の生活は楽しい。
 でも時々、すごく不安になる。
 ある日ふっと何もかも夢のように消えてしまうんじゃないかって。

 ずっと前に、セーブルのパパとママが亡くなった時みたいに。



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【3-10-6】踏み込まれたくないこと

2008/05/08 19:08 三話十海
 年が明けた。
 結局、お袋に前もって言っておいたようにクリスマスもニューイヤーも実家には帰らず、カードとプレゼントだけ送った。
 休暇の間はずっと隣に詰めっぱなしで、双子と過ごす時間が増えた。
 もちろん、レオンとも。

 だから気づいたのだろう。シエンの変化に。
 朝のミルクを飲む時も、食後のお茶を飲む時も、赤いグリフォンのマグカップを嬉しそうに両手で抱え込んで。
 飲み終わると大事そうに洗って食器棚にしまう。
 あいつがほほ笑みかけてる相手はカップじゃない。問題はカップをくれた奴なんだと気づくのに、いくらも時間はかからなかった。
 
 夕食の後、ヒウェルが帰ってから思い切って聞いてみた。

「もしかしてシエン、お前……ヒウェルのこと気になってたりする、か?」
「…別に、そんなことは…」
「家族の中で隠し事ってのは無しにしようぜ」

 言ってしまってから急に不安になる。こめかみが疼く。やたらと脈拍が早い。
 俺にとって、双子は家族だ。でもシエンはどう思っているのだろう?
 確信さえ持てぬまま、早まったことを口にしてしまったのではなかろうか。ああ、でも今さら後戻りはできやしないし。
 沈黙がやけに長く感じられる。冷や汗が流れそうだ。

「そんなんじゃないんだ。ただ……ちょっと、寂しい…かな…」
「オティアをとられるみたいで?」
「…」

 うつむいてしまった。

「シエン?」

 かがんで下からじーっと見上げると、顔をそむけてそのまま部屋を出て行こうとする。

「ごめん…なさい…」
「待てよ。なんであやまる?」
「今は…言いたく…ない」
「……そうか」

 もふっと頭をなでた。
 シエンはいつも謝る。ちっとも悪いことなんかしていないのに。ごめんなさい、を聞くたびにチクリと胸の奥がうずく。

「な……悩みがあるなら………ママに言ってみろ……言うだけでも楽になることって、あるから、さ」

 決死の覚悟で言った言葉に答えは返ってこなかった。
 すっと俺の手の下から抜け出し、行っちまった。

 どうしようか。
 このまま放っておいた方がいいんだろうか。もしかして俺は、出すぎたマネをしようとしてるのだろうか?
 迷いながら部屋の前まで行く。ドアは開いていた。のぞきこむと、ベッドの上に座ってぼんやりしている。

「……シエン?」

 遠慮がちにノックすると、のろのろと顔を上げた。

「…ぁ」
「ごめん。でも心配なんだ」
「大丈夫、だから」
「大丈夫って顔じゃないぞ」

 部屋の中に足を踏み入れる。

「俺、過保護かな」
「誰だって、踏み込まれたくないことは、あるだろ」
「前に約束したろ。お前は俺が守るって。あれは…まだ有効だからな。この先ずっとだ」
「……」

 シエンにしては珍しく厳しい顔つきでにらまれた。
 やっちまった。
 だけどここで尻尾を巻いて逃げ出す訳には行かない。自分の打ったはずれ弾の行方は最後まで見届けよう。だからそらさず、見返した。
 鋭い煌めきを宿した、紫の瞳を。

「誤解すんな。そう言う意味じゃない」
「どういう意味でもいいけど。無条件にそういう言葉を信じられるような育ち方をしてないんだ、俺達は」
「……すまん」
「出てって。でないと、酷いこと言ってしまいそうで……怖い」

 背中を向けて部屋を出ようとして、一旦足を止める。

「どんな酷いこと言われても。信じられないって言われても……俺はお前を守るよ………それだけでいい」

 部屋を出ると廊下でオティアとばったり顔を合わせた。
 にらまれる。
 さっきのシエンそっくりの表情だ。

「早く行ってやれ」とだけ言って、足早にリビングに戻った。

(ちくしょう、やっちまった)

 奥歯を噛みしめる。閉じた喉の奥で己を恥じる気持ちと、悔しさと、苛立ちがうずまき、荒れ狂う。
 親父に罵倒された時だって、今ほど堪えはしなかった。


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【3-10-7】ぱぱとまま

2008/05/08 19:09 三話十海
 リビングには誰もいなかった。
 どうする? このまま自分の部屋に戻るか?

 迷ってから、書斎に向かい、小さくドアをノックした。

「どうぞ。遠慮しなくていいよ、これは仕事じゃないから」
「……そうか」

 ほっとして中に入る。
 机に座ってレオンが書類の束を読んでいた。昼間、ソーシャルワーカーから渡された学校の資料だ。

「色々見てみたけれど……まず本人達の希望を聞かないとだめだな」

 ぽい、とまとめて机の上にほうりだした。

「言ってくれるかな。自分たちから、こうしたいって。あの子たちがどうしてほしいのか。何を必要としているのか。答えにたどり着くまでの道が…長い」
「まだ遠慮もあるだろうしね。どんな方法をとるにせよ」

 机の上に学校の案内書がぱらりと広がる。まるでトランプだな。
 手を伸ばし、手のひらを滑らせる。
 けっこうな数があるもんだ。

「……たまに思うよ。何やってるんだろう、俺って」
「そうだな。不思議な関係ではあるね。」
「独身で、子どももいなくて、しかもゲイの男が見ず知らずの子どもの世話する。普通じゃないよな」

 ついさっき見たばかりのシエンの顔を。言われた言葉を思い出す。
 浮かぶ笑いが苦さを含む。
 あの子は俺を『まま』だと言った。レオンが『ぱぱ』だと。うれしくてつい鵜呑みにしちまったけど……。

「あの子達から見たら、君も俺も、ただの第三者だからね」

 レオンの言葉にうなずく。
 そうだ。
 その通りなんだ。何故、その明確な事実が見えなかったんだろう? どうかしてる。我ながら呆れるよ、心底。
 シエンの言う『ぱぱ』も。『まま』も。子どもが親を呼ぶ時の『パパ』や『ママ』とは微妙に意味合いが違う。
 ただの記号、この家の中で果たしている役割を言い表したに過ぎない。
 俺はまだ、あの子たちの『親』を演じるには未熟すぎる。
 フリすらできていないのだ。
 ヒウェルみたいに同じ境遇にいたわけでもない。信用しろって方が難しい。まして悩みを打ち明けろ、だなんて……虫が良すぎる。

 警戒されて当然なんだ。

「…………レオン」
「何だい?」
「これまで何度かあの子たちみたいな子どもを保護したことがある。でも警察の役目はあくまで犯罪の追求だ」
「ああ」
「保護した子を相応しい施設かしかるべき人間に渡して、その先は……手が届かない。その子が幸せかどうか、判断するのは俺の役目じゃない」

 ぎりっと唇を噛み締める。苦い記憶を紐解きながら。

「明らかに不幸になるとわかっているのに、黙って見送るしかなかったケースもある」
「それが法律だからね」

 うなずき、言葉を続けた。

「シエンとオティア。再会した二人が抱き合ってるの見て思ったんだ。この子たちは自分で受けとめたいって。他の誰かに渡すんじゃない。俺のこの手で、大人になるまで守りたいって」
「ある意味丁度良かったというのかな。あの子たちを引き取る里親が見つからなかったのは」
「……幸運……だったのかな………。似てるんだ。十年前に、お前と初めて会った時の感じに……」

 ためらってから手をのばし、レオンの髪の毛を撫でる。目の前の彼の向こうに、出会った頃の『彼』を。十六歳の少年の面影をなぞりながら。


「俺かい?」
「ああ。あの時お前、十六だったろ? 双子と同じ年だ」

 あの時、漠然と感じたのだ。
 彼には何か欠けているものがある。
 自分でもそれと知らずに求めているものがある。ひょっとしたらそれは、俺が持っていて……分ち合うことができるんじゃないかって。

「突然同室者ができるって聞いてびっくりしたけどね」
「ん……一緒の部屋の奴がさ。鍋のフタ足におっことして。謝ったんだけど『もうお前みたいなガサツな奴とは一秒だって同室はお断りだー!』ってえっらい剣幕でね」
「それで俺のところに来たのか」
「まあ……な。他に空きがなかったんだ。時期が時期だったし。そんな理由でアパート暮らしを許可してくれるような親父じゃなかったし」


 レオンがほほ笑む。それだけで、喉の奥で荒れ狂っていた苦い嵐がすうっと収まるような気がした。

「幸運だったというべきなのかな」
「そう思ってくれるのか?」

 頬に手を当ててじっとのぞきこんだ。透き通ったかっ色の瞳を。入れたばかりの紅茶みたいにあったかくて、いつまで見ていても飽きない。

「君に会わなければ、今ここでこうしていることもなかった」


 かすかな笑みが口元に浮かぶ。もう、さっきみたいに苦さを含んではいない。


「あの子達だって、助けられなかっただろ?」
「……うん……。多分、お前と、ヒウェルと、俺と。一人欠けても無理だった」
「俺達もあの子達に助けられてる」


 こくっとうなずいて肩に頭を預けた。


「時間はかかるだろうが……あの子達にもきっとわかるさ」
「そうあってほしいと願ってる」

 目を閉じて手をにぎった。

「ありがとな、レオン」


 握り合わせた手に温かく、柔らかな感触が押し当てられる。顔を上げ、うっすらと目をひらいてほほ笑みかける。
 騎士が贈るような、手の甲へのキス。
 似合い過ぎだ、レオン。握ってるのがごっつい野郎の手ってあたりがちとしまらないが。

 やばいな、顔が、熱くなってきた。
 ほんの少しだけ。


 結局、その夜もレオンの部屋に泊まった。


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【3-10-8】最低な俺

2008/05/08 19:13 三話十海
 小さい頃、夜中にふっと目を覚まして眠れなくなる事があった。
 確かに目を覚ましているはずなのに、部屋ん中はしーんと静まり返って。見えるもの全てが黒に近い濃い紺色に塗りつぶされていて。
 まだ、さっき見ていた夢の中にいるような気がした。
 電気のスイッチをひねればすぐに明るくなって、そんな錯覚、消し飛んでしまう。わかってるのにベッドの中から動くことができず、ひっそりと息をひそめていた。

 ひしひしと目に見えない壁みたいなものが四方八方から押し寄せてきて、ちょっとでも動いたら最後、つぶされそうで……怖くて指一本動かせなかった。
 そんな時、できるだけ楽しいことを空想して気を紛らわせたもんだ。
 
 俺は一人じゃない。この家に泊まりにきてるだけなんだ。
 メイリールの両親はまだ生きていて、遠くの町に住んでいる。兄弟だって生まれてる。
 妹がいいかな……いや、弟だな。
 弟はまだちっちゃいから両親と一緒にいて、ずっと待ってるんだ。いつの日か、俺が会いに行くのを。
 だから俺は一人じゃない。

 そうやって幻の家族の思い出を心に描きながら時間をつぶした。気まぐれな眠気がまた戻ってくるその瞬間まで。


 ※ ※ ※ ※


 年が明けて二週間ほど経ったある日。馴染みの編集者が打ち合わせに来たんだが(俺の事務所は自宅と兼ねてる)、ドア開けるなり言いやがった。

「おやあ? 部屋、まちがえたかな」
「ジョーイ……大概に失礼な言い草だねおい」
「いや、だってお前、部屋ん中に陽の光がさしてるし! 何てったって壁が見えるし、床もある。こいつあ驚きだね。どんな奇跡が起きたんだ?」

 いい奴なんだけどなあ。微妙に、うるさいんだよこの男は。
 確かに部屋が見違えるほど片付いてたのは認めよう。昨日、シエンが来てくれたばかりなのだから。

「コーヒー飲むか?」
「いや、遠慮しとく。いやあ、しかし、あの魔窟がここまで人間の住処になるとはねえ」
「ジョーイ。仕事の話、しようぜ」
「そうだった」

 ざらっと書類鞄の中から取り出したのは分厚い封筒。その中からは大量の文字の印刷された紙の束。字詰めもページ割りもできあがりの本と同じ……いわゆるゲラ刷りってやつだ。
 クリスマス休暇前に突貫でやってたやつがようやくここまで形になったのである。

「なー、どーせこれって作家先生の直しも入ってんだろー? 先生が自分でやればいいじゃん、ゲラ刷りのチェックなんて」
「なあ、ヒウェル。そのえらーい作家先生が原稿書く暇ないからってんでお前さんに仕事依頼したのよ?」
「ああ、そうだったな」

 実名の出ない分、ギャラはいい。その点、ここの出版社は考慮してくれてるので助かっている。たまにどう考えたって割の合わないやっすい原稿料で使いつぶされる事もあるのだ。

「そんな忙しい人が。いちいちチェックなんかしてる暇あるわけないだろ」
「……ま、そりゃそーだ」
「それに、ゲラの確認はウチじゃ書いた本人にやらせるのがモットーなのよ。ゴーストだろうと、実名だろうとね」
「へいへい」

 赤ペン片手に俺がゲラ刷りの文字を細かくチェックしている間中、ジョーイはぐるぐると部屋の中を歩き回る。檻の中のクマみたいに、うろうろ、ぐるぐると。

「ジョーイ」
「何だい、もう終わった?」
「いや……気が散るんだけど」
「おおっと、こりゃ失礼。何しろ、今までのお前さんの部屋ときたら、『狂王の試練場』もかくやって魔窟だったしなあ」
「大げさだなあ。地下十層もないぞ?」
「歩きたくても、歩く場所がなかった。それをここまできれいにするなんてさ。これはもう……」

 いきなりばっと両手を広げて天を仰ぎやがった。まるで宗教画のパロディみたいに半端にうやうやしげな表情をうかべて。

「愛だよ。愛の力しかない」

 たっぷり五秒ほど硬直してから奴のそばに歩み寄り、ぱたぱたと目の前で手を振った。

「もっしもーし、もどってこーい」
「恋人、できたんだろ?」
「あ……いや……そんなんじゃ……ないんだ」
「隠すな。ひと目見りゃわかるって! 遊び人は返上か? 憎いね、この、このこのっ!」
「………仕事しようぜ、ジョーイ」
「おっと」

 幸か不幸かけっこう時間的に切羽詰まってたもんだから。その後は二人とも一心不乱に仕事をして、2時間後にげっそりした顔でジョーイはチェックの終わったゲラ刷りの束を抱えて帰って行った。

「それじゃあ、またな」
「おつかれさーん」

 送り出してから、ふう、とため息をつく。改めてきちんと片付いた部屋の中を見回し

「………俺って…最低だぁ……」

 頭を抱えた。


 ※ ※ ※ ※


 そんなことがあってから三日後。
 今やすっかりおなじみになった、パステルグリーンのストライプのエプロンがちょこまかと動き回り、甲斐甲斐しく掃除をしている。
 本当に楽しそうに。
 心の底から楽しそうに。

(胸が痛い)

「シエン」
「なぁに?」
「……カプチーノ、飲むか」
「うん」

 手をとめてうれしそうに近づいて来る。

「お前が掃除してくれたおかげで、カプチーノメーカーが発掘できたから」

cafee.jpg

 金属製の二層式のヤカンに似た器にコーヒーと牛乳を入れて、火にかける。内部はサイフォンになっていて、5分ほどでジュワーっと泡立ったミルクが噴き上がってくる。
 頃合いを見計らって、フタを開けて密封状態を解除する。けっこうコツがいるのだが、今回は上手いこといったらしい。

「よし、できたっと……」

 ふわふわにあわ立てたミルクの入ったコーヒーをひとくち飲むなり、シエンはぱあっと顔を輝かせた。

「これすごい美味しい!」
「そうか……あ」

 ひょい、とティッシュを引き抜いてさし出す。

「口…ミルクついてる」
「あ……ありがと……」

 ほんのりと頬を染めて拭いている。

 あ、くそ。
 可愛いなあ……。
 
 弟はまだちっちゃいから両親と一緒にいて、ずっと待ってるんだ。いつの日か、俺が会いに行くのを。

『もう掃除には来なくていいよ』
 何故、その一言が言えないのか。

 言えない。絶対に言えない。言ったらきっと、こいつを泣かせちまう。
 それだけは、できない。
 したくない。

(だからって、このままでいいはずがない)

 両手でカップを抱えて、こくこくとカプチーノを飲むシエンを見守りながら、意を決して口を開く。
 よし、言うぞ。

「飲みたくなったら、言ってくれ。いつでも作るよ……カプチーノ」
「うん」

 …………………………………………………………………………だめだ。

(やっぱり俺って、最低かもしれない)


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【3-10-9】love,you…

2008/05/08 19:14 三話十海
 白いマグカップに描かれた鮮やかな赤い幻の獣。
 ヒウェルのルーツ、ウェールズの象徴、赤いグリフォン(ほんとはドラゴン)。がーっと開けた口から尖った舌なんか突き出して、おせじにも可愛いとは言いがたいご面相の怪獣を大事そうに抱えて、シエンが食後の紅茶を飲んでいる。

 すっかりローゼンベルク家の食卓ではおなじみになった光景だ。
 
(どうしたものか)

 何気ない食後の会話の合間、ほんの一瞬眉根がさがり、少し困ったような顔になる。
 そんなヒウェルの姿をオティアがじっと見ていた。

(ん?)

 気配を感じて視線を向けると、何事もなかったように飲み終わったカップを手に、キッチンへと歩いて行く。
 いつものことだ。だが今日ばかりは見送ることができず、席を立ち……自分もカップを手に後をついていった。

 この家の食卓とキッチンの間にはドアはない。ただ壁と家具の配置でそれとなく視線と声の流れが遮られているだけで。
 
 それでも二人きりだ。
 本当に久しぶりだ。
 もしかしたら、あの時以来かもしれない。

「なあ、オティア」
「いいかげんにしろ」

 鋭い声にびくっとすくみあがる。
 馬鹿な。たかが16の子どもの言葉で金縛りか?
 だが……本気で惚れた相手だ。こっちに背中を向けていて、オティアがどんな表情をしているのかはわからない。
 それでも、張りつめて力の入った肩と背中を見ればすぐにわかる。
 苛々しているって。

 こいつは知っている。
 知らないはずがないんだ。二人っきりの兄弟、しかも思ってることは口に出さなくても通じ合う間柄なんだから。

(シエンが俺のこと気にしてるのが気に食わないのか)
(それともお前、俺のことを少しは気にかけてくれてるのか? ……それが、自分でも気に食わなくて、そんなに苛立ってるのか)
(どっちなんだ。それとも、両方か?)

 喉の奥から掠れた音を絞り出し、言葉の切れはしを綴り合わせる。

「………しかたないだろ………俺……お前が好きなんだから……」
「好きなら全部許されるとでも思ってんのか」


 ぎりっと唇を噛む。
 痛いとこ突かれたな…。

 だけど、答えは決まってる。
 最初っから一つしかない。他に変えるつもりもない。

「……お前……なんだよ…お前だけなんだ…」
「とっととあきらめろ。しつこいんだよ」
「できるかよ。あきらめるなんて」
「なら黙ってろ。いちいち相手すんのもしんどいんだよ」
「オティア」


 声が重い。膝が細かく震える。
 今の俺は、ものすごく思い詰めた表情してるんじゃないかな。


「話は終りだ。もう……二度とそんなことで煩わせるな」


 一歩近づく。
 それまで俺の方を見もしなかったのが、ようやく顔を挙げた。

「そんなに俺のこと、嫌いか?」

 せめて泣くとまでは行かないにせよ悲しげな顔でもできてりゃいいんだが。困ったことにかたっぽの口の端がくっと上がっちまう。

(何だってこんな時に俺は微笑ってるんだろう)

「別に。嫌いじゃない………うざいけど」
「……お前の瞳……きれいだな。くっきりした紫じゃない。ほんの少し霞んでいて、優しい色だ。夜明けの空の雲みたいだ」
「それがうざいっていってんだよ」
「その言葉さえ愛おしくてたまらない」
「どんな変態だよ!」

 また顔を背けてしまった。

「平行線だな。通じないとは思ったけど」
「通じてるさ」

 力いっぱい抱きしめる。拒まれることを半ば予想していたのだが暴れもせず、小柄な体がすっぽりと腕の中に収まった。
 オティアは叫びも罵りもしなかった。
 ただ、冷えた声で一言。

「……離せ」

 体が強ばっている。怖くてフリーズしてるんだな……すまない、オティア。ほんの少しでいい、時間をくれ。
 もう二度とお前を煩わせたりしない。
 これで……最後だから。

「一度だけ聞け。一度聞いたら忘れてくれていい」


 聞いた後でもしお前が一言、二度と来るなと言うのなら、俺は消えるよ。
 部屋も荷物も何もかもそのままにして、行き先も告げずにひっそりと……二度とお前の目の前には姿を現さない。
 だから、言わせてくれ。

 意を決して告げる。彼の返答次第では、永久の別離にもなり得る言葉を、耳元に。
 ため息にも似た、かすれた小さな声で。


「love,you」


 それだけ伝えて、手を離した。

 オティアは完全に背中を向けてしまった。一言もしゃべらない。

「じゃあな」

 震える喉を押さえ込んで。いつもの調子で声をかけ、キッチンを出て。
 そのまま食卓には戻らず、部屋を出た。

 拒まれなかったことをせめて幸いと思おう。少なくとも失踪まがいの引っ越しをやらかすって選択肢は、選ばずに……済んだのだから。

(赤いグリフォン中編/了)

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