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ローゼンベルク家の食卓

【3-10-8】最低な俺

2008/05/08 19:13 三話十海
 小さい頃、夜中にふっと目を覚まして眠れなくなる事があった。
 確かに目を覚ましているはずなのに、部屋ん中はしーんと静まり返って。見えるもの全てが黒に近い濃い紺色に塗りつぶされていて。
 まだ、さっき見ていた夢の中にいるような気がした。
 電気のスイッチをひねればすぐに明るくなって、そんな錯覚、消し飛んでしまう。わかってるのにベッドの中から動くことができず、ひっそりと息をひそめていた。

 ひしひしと目に見えない壁みたいなものが四方八方から押し寄せてきて、ちょっとでも動いたら最後、つぶされそうで……怖くて指一本動かせなかった。
 そんな時、できるだけ楽しいことを空想して気を紛らわせたもんだ。
 
 俺は一人じゃない。この家に泊まりにきてるだけなんだ。
 メイリールの両親はまだ生きていて、遠くの町に住んでいる。兄弟だって生まれてる。
 妹がいいかな……いや、弟だな。
 弟はまだちっちゃいから両親と一緒にいて、ずっと待ってるんだ。いつの日か、俺が会いに行くのを。
 だから俺は一人じゃない。

 そうやって幻の家族の思い出を心に描きながら時間をつぶした。気まぐれな眠気がまた戻ってくるその瞬間まで。


 ※ ※ ※ ※


 年が明けて二週間ほど経ったある日。馴染みの編集者が打ち合わせに来たんだが(俺の事務所は自宅と兼ねてる)、ドア開けるなり言いやがった。

「おやあ? 部屋、まちがえたかな」
「ジョーイ……大概に失礼な言い草だねおい」
「いや、だってお前、部屋ん中に陽の光がさしてるし! 何てったって壁が見えるし、床もある。こいつあ驚きだね。どんな奇跡が起きたんだ?」

 いい奴なんだけどなあ。微妙に、うるさいんだよこの男は。
 確かに部屋が見違えるほど片付いてたのは認めよう。昨日、シエンが来てくれたばかりなのだから。

「コーヒー飲むか?」
「いや、遠慮しとく。いやあ、しかし、あの魔窟がここまで人間の住処になるとはねえ」
「ジョーイ。仕事の話、しようぜ」
「そうだった」

 ざらっと書類鞄の中から取り出したのは分厚い封筒。その中からは大量の文字の印刷された紙の束。字詰めもページ割りもできあがりの本と同じ……いわゆるゲラ刷りってやつだ。
 クリスマス休暇前に突貫でやってたやつがようやくここまで形になったのである。

「なー、どーせこれって作家先生の直しも入ってんだろー? 先生が自分でやればいいじゃん、ゲラ刷りのチェックなんて」
「なあ、ヒウェル。そのえらーい作家先生が原稿書く暇ないからってんでお前さんに仕事依頼したのよ?」
「ああ、そうだったな」

 実名の出ない分、ギャラはいい。その点、ここの出版社は考慮してくれてるので助かっている。たまにどう考えたって割の合わないやっすい原稿料で使いつぶされる事もあるのだ。

「そんな忙しい人が。いちいちチェックなんかしてる暇あるわけないだろ」
「……ま、そりゃそーだ」
「それに、ゲラの確認はウチじゃ書いた本人にやらせるのがモットーなのよ。ゴーストだろうと、実名だろうとね」
「へいへい」

 赤ペン片手に俺がゲラ刷りの文字を細かくチェックしている間中、ジョーイはぐるぐると部屋の中を歩き回る。檻の中のクマみたいに、うろうろ、ぐるぐると。

「ジョーイ」
「何だい、もう終わった?」
「いや……気が散るんだけど」
「おおっと、こりゃ失礼。何しろ、今までのお前さんの部屋ときたら、『狂王の試練場』もかくやって魔窟だったしなあ」
「大げさだなあ。地下十層もないぞ?」
「歩きたくても、歩く場所がなかった。それをここまできれいにするなんてさ。これはもう……」

 いきなりばっと両手を広げて天を仰ぎやがった。まるで宗教画のパロディみたいに半端にうやうやしげな表情をうかべて。

「愛だよ。愛の力しかない」

 たっぷり五秒ほど硬直してから奴のそばに歩み寄り、ぱたぱたと目の前で手を振った。

「もっしもーし、もどってこーい」
「恋人、できたんだろ?」
「あ……いや……そんなんじゃ……ないんだ」
「隠すな。ひと目見りゃわかるって! 遊び人は返上か? 憎いね、この、このこのっ!」
「………仕事しようぜ、ジョーイ」
「おっと」

 幸か不幸かけっこう時間的に切羽詰まってたもんだから。その後は二人とも一心不乱に仕事をして、2時間後にげっそりした顔でジョーイはチェックの終わったゲラ刷りの束を抱えて帰って行った。

「それじゃあ、またな」
「おつかれさーん」

 送り出してから、ふう、とため息をつく。改めてきちんと片付いた部屋の中を見回し

「………俺って…最低だぁ……」

 頭を抱えた。


 ※ ※ ※ ※


 そんなことがあってから三日後。
 今やすっかりおなじみになった、パステルグリーンのストライプのエプロンがちょこまかと動き回り、甲斐甲斐しく掃除をしている。
 本当に楽しそうに。
 心の底から楽しそうに。

(胸が痛い)

「シエン」
「なぁに?」
「……カプチーノ、飲むか」
「うん」

 手をとめてうれしそうに近づいて来る。

「お前が掃除してくれたおかげで、カプチーノメーカーが発掘できたから」

cafee.jpg

 金属製の二層式のヤカンに似た器にコーヒーと牛乳を入れて、火にかける。内部はサイフォンになっていて、5分ほどでジュワーっと泡立ったミルクが噴き上がってくる。
 頃合いを見計らって、フタを開けて密封状態を解除する。けっこうコツがいるのだが、今回は上手いこといったらしい。

「よし、できたっと……」

 ふわふわにあわ立てたミルクの入ったコーヒーをひとくち飲むなり、シエンはぱあっと顔を輝かせた。

「これすごい美味しい!」
「そうか……あ」

 ひょい、とティッシュを引き抜いてさし出す。

「口…ミルクついてる」
「あ……ありがと……」

 ほんのりと頬を染めて拭いている。

 あ、くそ。
 可愛いなあ……。
 
 弟はまだちっちゃいから両親と一緒にいて、ずっと待ってるんだ。いつの日か、俺が会いに行くのを。

『もう掃除には来なくていいよ』
 何故、その一言が言えないのか。

 言えない。絶対に言えない。言ったらきっと、こいつを泣かせちまう。
 それだけは、できない。
 したくない。

(だからって、このままでいいはずがない)

 両手でカップを抱えて、こくこくとカプチーノを飲むシエンを見守りながら、意を決して口を開く。
 よし、言うぞ。

「飲みたくなったら、言ってくれ。いつでも作るよ……カプチーノ」
「うん」

 …………………………………………………………………………だめだ。

(やっぱり俺って、最低かもしれない)


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