ようこそゲストさん

ローゼンベルク家の食卓

【3-12-1】レイモンド失敗す

2008/05/31 22:12 三話十海
 2月の終わり。バレンタインデーの賑わいも通りすぎたある日の午後。晴れてはいたが風は冷たく、厚手のセーターやマフラー、手袋無しに表を歩くのは辛い。
 朝夕の冷え込みは衣服も皮膚も肉ももろとも貫いて、骨の中心にまで染み通るほどだった。

 白っぽい光の差し込む近代的なオフィスの一室で、電話が鳴った。金髪に紫の瞳の小柄な少年がおずおずと手を伸ばそうとするが、それより早くすっと、灰色の髪の男が進み出た。年の頃は四十代、ダークグレイのスーツを寸分の隙もなく着こなしている。

「あ、アレックス」
「シエンさま、ここは私が」

 水色の瞳が電話機のディスプレイに向けられる。

 非通知。

 別に珍しいことではない。初めて法律事務所に相談を持ちかけるお客の中には、自分の素性を明かしたがらない者も多い。
 受話器を取り、耳に当てた。

「はい、こちらジーノ&ローゼンベルク法律事務所でございます」

 返事はない。
 しばらく時間を置いて、さらにひと呼吸置いてから、言葉を続けてみる。

「よろしければ、ご用件を承りますが………」

 ぶつっと切れた。
 見事なくらいに典型的な無言電話だ。

「これで何度目だろう………」

 受話器を置き、眉をしかめる。おずおずと横からシエンがのぞきこむ。

「最近、多いね」
「そうですね……」

 アレックスは穏やかにほほ笑んだ。

「しばらくは電話の応対には私が出ましょう。シエンさまは奥で資料の整理をお願いできますか?」
「ん……」

 こくっとうなずくと、シエンは奥へと入って行く。

(今日は一日元気がない。やはり不安になっておられるのだろうか)

 早めにお返しした方がいいかもしれない。マクラウドさまに迎えに来ていただこうか。
 考えている矢先にまた、電話が鳴った。
 非通知で。

「………はい、こちらジーノ&ローゼンベルク法律事務所でございます」


 ※ ※ ※ ※


 資料を収めた本棚の並ぶ部屋に入り、ドアをしめるとシエンはほっと安堵の息をついた。
 電話の音を聞くのが怖かった。
 受話器の向こうの沈黙が嫌だった。

 今日はレオンはデイビットと一緒にサクラメントに出張していていない。事務所に所属するもう一人の弁護士、レイモンドも出先からまだ戻っていない。
 ディフもずっと外に出ている。ヒウェルもここ二三日、ほとんど事務所に顔を出さない……仕事が忙しいらしい。
 だから余計に心細い。
 
 しっかりしなきゃ。
 事務所にはアレックスもいるし、下の階にはオティアもいる。
 大丈夫。夕方にはディフも帰ってくるんだから。

 でも……何だか、だるい。頭がぽーっとして、目の前がゆれる。地震かな、と思ったけど違った。部屋の中のものはちっとも動いていない。

(疲れてるのかな)

 片手にファイルを抱えたまま本棚にもう片方の手をつき、体を支えていると……。
 不意に、後ろからばーんと背中をたたかれた。

「やあ、シエン。どうした、ぼーっとして!」
「ぃっ!」

 一瞬で頭の中に記憶が蘇る。暗い路地を歩いていて、いきなり後ろから車の中にひきずりこまれた。
 必死でもがいても押さえ込まれて、あの山奥の工場に連れて行かれた。
 誰も助けてくれなかった。
 誰も。
 誰も。

(逃げなきゃ! 隠れなきゃ!)

「シエン、どうした? どこか怪我したのか! 痛いのか!」
「やあっ」

 手にしたファイルを放り出していた。白い紙がぱらぱらと飛び散る。
 夢中で部屋の隅に逃げ込み、うずくまった。

(恐い、恐い、恐い!)

「おい……シエン?」

 レイモンドは慌てた。部屋に入った時、こちらに背中を向けている彼に気づいたのだが、振り向きもしなかった。どうやらノックが聞こえなかったらしい。
 何をぼんやりしてるんだろう、と思いながらもいつものように近づき、背中をそっと(彼の基準からしてみれば極めてそっと)叩いて挨拶したのだが。

「だ、大丈夫だから、怒ってないからっ」

 とにかく、距離をとろう。
 後じさりして部屋の反対側へ退避し、机の陰にかくれる。あいにくとだいぶはみ出していたが……とにかくかくれる。
 シエンはすっかりパニックを起こしてうずくまり、震えている。心配だが、ここで自分が近づいたら逆効果だ。
 どうしよう。
 どうすればいい?
 
「いかがなさいましたか」

 救い主が表れた。

「アレックス! たのむ、助けてくれ!」

 張り上げられる大声に、またシエンがびくっと身をすくませる。
 アレックスはすばやく部屋を見回し、およその事態を察した。


「落ち着いてください、しばらくお静かに」
「わ、わかった」


 有能秘書が静かな声でシエンに話しかけるのを、レイモンドは机のかげから見守った。
 アレックスはそっとシエンに近づいた。が、ふるふると首を横に振り、ますます怯えて両手で頭を抱えてしまった。
 やむなく4フィート(120cm)ほど距離を置いてひざまづき、声をかける。

「シエンさま」
「やだ……やだ………こわい……こわい……」


(これは困った。すっかり怯えておられる。さて、どうしたものか?)

 困惑するアレックスの目の前を、すっと人影が横切る。いつの間に来ていたのだろう。瓜二つの金髪の少年がシエンの隣に膝をついていた。

(オティアさま?)

 オティアが黙ってさし出した手を握ると、シエンは震えながらもゆっくり立ち上がった。
 しっかりと手を握り合ったままアレックスのそばに歩み寄るとオティアが顔を上げ、視線を合わせてきた。

「しばらく奥でお休みになった方がよろしいでしょう」


 オティアがうなずく。

「では、こちらへ……」

 部屋を出る間際にオティアはちらりとレイモンドに目を向けた。

「すまん」

 縮こまって謝罪の言葉を口にする巨漢の弁護士から目をそらすと、オティアは何事もなかったかのようシエンと連れ立ってすたすたと奥に入って行く。その後を静かにアレックスが着いて行く。最後に一礼して、ドアを閉めた。
 行き先はおそらく仮眠室だ。

 見送ってから、レイモンドは盛大にため息をついた。

「はあ……また……子どもを泣かせてしまった……」


 いかつい外見とは裏腹に彼は子ども好きだった。
 しかしながら6フィートを軽く越える身長と、岩を刻んだようなごっついかっ色のボディ、そして鋭い顔つきと大きな低い声が災いして怖がられてしまう。うかつにのしのしと近づいて、

「おお、可愛い子だな! 坊主、名前は!」

 なぞと声でもかけようものなら、たいてい火がついたように泣かれる。
 転がってきたボールを投げ返せばつい昔とった杵柄で豪速球で投げてしまい、結果としてまた怯えさせる。

 ただでさえこうなのに……うっかりしていた。
 シエンがどんなに恐ろしい経験をしたか、知っているはずなのに。

「ごめんよ……」

 閉まったドアに向かってつぶやくと、彼は床に散らばるファイルを拾い上げた。


次へ→【3-12-2】双子早退
拍手する