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ローゼンベルク家の食卓

メッセージ欄

2010年5月の日記

【ex10】水の向こうは空の色(後編)

2010/05/02 23:58 番外十海
  • 夢魔『メリジューヌ』を追って、悪夢の中にダイブした6人の狩人たち。偽りの記憶を打ち砕き、無事に取り憑かれた女性を救い出したかに見えたが。
  • 夢魔は最後の力を振り絞って巨大な津波を巻き起こし、自らの崩壊に狩人たちを巻き込もうとする。
  • 『あなたは私と同じ……』夢魔の呼びかけに羊子が振り向き、漆黒の津波に飲み込まれ、消えた。
  • 今回は番外編中の番外編、【ex8】桑港悪夢狩り紀行【ex5】熱い閉ざされた箱と同じ背景世界に基づくお話で、いつもの『食卓』の世界観とは少しだけ、別の世界にシフトしています。
  • 書いてる人間が変わらないので基本は同じ流れなのですが、ほとんどスピンオフ作品と言っていいかもしれません。
  • 海外ドラマで言うと、「CSI」や「フルハウス」よりはむしろ「デッドゾーン」寄りです。
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【ex10-14】かごめかごめ

2010/05/03 0:00 番外十海
 
 彼女が立っていた。押し寄せる黒い水の壁の前に、白い袖と赤い裾、長い黒い髪をなびかせて。
 
「早く、こっちへ!」

 手をさしのべる。彼女も手をのばし………ふと、動きを止め、振り返った。

「ヨーコ!」

 轟音とともに漆黒の津波が崩れ落ち、彼女を飲み込んだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 布越しに差し込む真昼の光。
 すぐに現状は理解できる。ここはサンフランシスコだ。ヨーコのいる日本は遠い海の彼方。だが、それは身体だけだ。
 彼女の本質とも言うべき精神体は今、悪夢の手の内にある。

「シモーヌさんは?」
「ああ……大丈夫だ。眠っている」

 眠るシモーヌ・アルベールはやつれてはいたけれど、鬼気迫る死相は消えていた。少なくとも、彼女を救うことはできたのだ。

「良かった………」
「サリー」

 肩に置かれたランドールの手に、そっとサリーは自らの手のひらを重ねた。

「ヨーコさんを迎えに行きます。このままじゃ、悪夢の底に飲み込まれてしまう。すぐに連れ戻さないと……」
「いや」

 ランドールはきっぱりとした口調で告げ、首を横に振った。

「私が行く。君は道を開いてくれ」
「でも」
「君ではだめだ。つながりが強すぎて、引っ張られる」
「……わかりました」

(ランドールさんの判断は、正しい)

 仮に今自分が日本に居たとしても、やはり止められるだろう。
 深く呼吸をして、鈴を手に取った。

(待っていて、よーこちゃん)

 ランドールは胸ポケットから手帳を取り出し、開いた。ページの間にはさんだ赤い絹のリボン。初めて夢の中を歩いた時、彼女に渡された……こんな風に。
 しなやかな布を、くるりと左手に巻き付けた。

「始めよう」
「はい」

 鈴の音が鳴る。サリーの手元から一つ。ランドールの胸元から一つ。二つの鈴は重なり一つとなり、海の向こうのもう一つと響きあう。
 祈りの言葉は必要ない。ただ、求める人の名を呼ぶだけでよかった。

「……よーこちゃん……」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「く」

 わずかにうめくと、三上蓮は床から身を起こした。かろうじて膝をついただけで持ちこたえたが、段差を踏み抜いたような衝撃がまだ残っている。

「大丈夫ですか……ロイくん、風見くん」
「平気……です」
「何ノ、これしきっ」

 多少、よれた感はあるものの声はしっかりしている。振り返りはしない。よろけた姿を見ずにいるのが武士の情けと言うものだろう。
 それよりも、気掛かりなのは……。

「結城さん」

 返事はなかった。
 花が一輪、落ちている。目の前の畳の上に巫女装束の白い袖が。緋色の袴が広がって、まるでぽとりと地面に落ちた椿の花だ。白と赤の入り交じった四海波……彼女の一番好きな花だと聞いたのは、ついこの間のことだった。

「羊子先生っ」
「センセイっ」

 目を閉じてうつぶせに横たわり、生徒の呼びかけにもぴくりとも反応しない。
 最悪の事態だ。
 結城羊子の精神はナイトメアの引き起こした津波に巻き込まれ、悪夢の奥底へと引き込まれた。夢魔の眠りの中、深い昏睡状態に陥っている。

「結城さん……失礼」

 注意深く抱き起こして仰向けに寝かせる。襟元と袴の裾を整えていると、か細い澄んだ音色が聞こえた。体を安定させ、手を離してからもまだ聞こえる。

 リー……ン………リ、リ、リィン………。

 鈴が鳴っていた。
 巫女装束の胸元に光る、薄紅色の勾玉。その隣に添えられた、小さな金色の鈴が。

「どうやら、Mr.ランドールがダイブしたようですね」
「どうしてわかるんですか?」
「おそらく、結城くんが中継しているのでしょう。ほら、鈴が鳴っている」
「ホントだ!」
「これ………」

 風見光一は思い出していた。
 あれは昨年のクリスマス休暇に、早朝のスーパーマーケットで自分がこの手で鎖にとりつけ、お守りに渡した鈴だ。サクヤさんも、ランドールさんもおそろいのを持っている。

「俺が渡した鈴だ……」
「ずっと、身に付けていたのでしょうね」
「……っっ!」

 うつむき、唇を噛む。
 ロイが、きっと顔をあげた。

「ボクたちも、早く行きましょう!」
「ええ、急いで……むっ!」

 ぐらっと、社殿の中の空気が。空間が揺れる。羊子の髪を束ねていた組み紐が、ぱつっと切れて黒髪が広がる。
 あまつさえ、額にぽつっと小さな傷が生じた。

「これは、まずい」

 びきっ!
 畳に亀裂が生じた。横たわる羊子を中心に、びき、めき、びき、と広がる。さながら蛇が這いずる姿も似た、歪な螺旋を描き出す。

「せえいっ!」

 風見はとっさに愛剣十六夜丸を引き抜き、亀裂の先端に突き立てた。
 手応え有り。
 裂け目に沿ってぬらぬらと、禍々しい波動がのたうつのを感じた。渾身の力で押さえ込む。が、凄まじい力だ。ぐらぐら揺れる。しかし突き立てた刃は微動だにしない。

「くっ……」
「コウイチ!」

 ロイは迷わず袖口に仕込んだクナイを繰り出し、突き立ててた。
 抜き身の日本刀、それも神に捧げられた刀と純粋な鉄。二本の刃に縫い止められ、見えない蛇の勢いがわずかに削がれる。

「持ちこたえてください、あと少し!」

 三上の手のひらから炎が走り、畳の表面に六芒星を焼き付ける。
 篭目紋。
 魔物封じの印が螺旋の亀裂を囲い込み、侵攻が止まった。

「ふう……もう大丈夫ですよ……当面は……」

 三上はじっと亀裂の奥を睨んだ。わずかに眉の間に皺が寄る。
 悪夢の中で大きな変動が起きたようだ。力のバランスが崩れ、『夢の結界』が不安定な状態になっている。今、結界が崩れれば、結城さんのみならず、救出に行った社長も戻れなくなる。

「これではこちらは動けませんね……。仕方ありません、我々はここで結界の維持に専念しましょう。ああ、お手数ですが二人とも、その刃は抜かないでください」
「わかりました」
「承知」

 社殿の扉の向こうで人の動く気配がした。一瞬、緊張が走る。だが、それは三人ともよく知った人間のものだった。

「あ」
「もしかして」

 ほどなく壁越しによどみない読経の声が響き、風見とロイは刃の先で蠢く夢魔の気配が弱まるのを感じた。

「……助っ人が来てくれたようですね。心強い」

 三上は十字架を逆手に構え、羊子の枕元に跪いた。事あらばいつでも動けるよう、身構えて。
 静かな寝顔だ。それこそ人形のように空っぽで、穏やかすぎる。確かに体はそこにあるはずなのに、欠片ほども感じることができない。
 結城羊子と言う女性の存在を。
 左手を伸ばし、指先で額に浮いた赤い雫をぬぐう。皮肉なことだ。唯一、傷を治せる能力の持ち主が今、夢魔の眠りに捕らわれているとは。

(恐れていたことが起きてしまいましたね、結城さん)

 予兆はあった。
 しかし彼女の意志の強さが、それを表に出さなかった。

(うかつでした。私が感知していたよりずっと強く、あなたは夢魔に共鳴していたのですね)

 まったく、困った意地っ張りの羊さんだ。
 支え切れるつもりでいた。だが、彼女はもう『ちっちゃなよーこ』でも。新米ハンターの『メリィちゃん』でもない。

 かくなる上は、ランドール社長に全てを託すしかあるまい。
 飲まれた悪夢が悪夢なだけに、彼でなければ連れ戻せそうにない。彼が行ってくれているのは、むしろありがたいくらいだ。
 ついでに少しくらいは進展してくれているといいが。

(むしろそっちの方が心配、ですか……ね)


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【ex10-15】篭の中の羊は

2010/05/03 0:01 番外十海
 
 リ、リィ………ン。

 鈴の音が一つになり、景色が変わった。

(寒い)

 周囲は灰色の霧が立ちこめている。古い映画のフィルムのようにざらりとした粒子の粗い霧だった。
 ついさっき、夢魔と対峙した海岸とは明らかに異なっている。足の下はじっとりした砂浜ではなく、固い土だ。空気のにおいも海辺の生臭さはない。冷たく、乾いている……こんなに霧が出ているのに。

(ここは……どこだ?)

 空はどんよりと灰色の曇り空。だが、生きた空ではない。古い写真を切り張りしたような、動きのない平べったい空だ。
 見えるものは全て色を失い、まるで月の光の写す影絵だ。確かにこの景色には見覚えがある。だが思い出そうとした瞬間、記憶がするりと指の間をすりぬけ消えてしまう。

 ざあっと風が吹く。
 髪が吹き散らされ、マントが翻った。

 赤い裏地の黒い吸血鬼のマント。髪は長く伸び、舌先でさぐる犬歯は鋭く尖っている。
 この姿、確かに夢の中に入ったのだ。しかし、これは本当に『同じ』夢なのだろうか。彼女の消えた場所に戻ることができたのだろうか?
 あまりにも違い過ぎる。
 確かに巻き付けたはずの赤いリボンは、左手から消えていた。いつものように髪を束ねてもいない。

 彼女の痕跡が……消えた。
 目をこらしても。耳をすましても。冷たく乾いた風を嗅いでも、彼女を感じることができない。

(このまま君を永久に失ってしまうのか?)

 じりじりと喪失感が胸を食い荒らしてゆく。食われた後は黒い空ろな穴になる。
 悪夢が現実になってしまった……いや、正に自分は今、悪夢のただ中にいるのだ。
 日本とアメリカに離れていた程度では、まだ引き裂かれたうちには入らなかったのだ。あの時は、遠い日本に確かに彼女が存在していた。同じ時間の流れの中を生きていた!

 だが、今は……。

 彼女を呼ぼうにも舌が強ばる。口にした瞬間、その名前すら自分の中から抜け落ちてしまうのではないか? 
 無意識に胸元をまさぐった。現実の自分が身に付けた、十字架と鈴のあるはずの場所を。

(リ……ン……)

「!」

 かすかに。
 ほんのかすかに、鈴の音を聞いた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ふわふわと漂っている。
 黒いガラスみたいな水の中に浮かんでいる。上も下も右も左も水、水、水。息はできる。寒くもない。
 確かに水の中にいるはずなのに……手足に抵抗と浮力を感じる。髪も、装束の袖も、袴もふわりと舞い上がり、翻っている。

(あ)

 やわらかな、繊維の束が足の先に触れた。まるで猫とすれ違ったようなくすぐったい感触。と……周囲を包み込む黒さが密度を増した。
 いつしか羊子を包む海水は黒く、みっしりとまとわりつく髪の毛に覆い尽くされていた。水の中に髪の毛が漂っているのか。それとも、髪の毛が水を含んでいるのか。
 服の内側にまで入り込み、手、肘、二の腕、足首、太ももをやさしく撫でる。それはぬるりとして暖かく、いつまでも包まれたくなるような心地よさだった。

「おいで」
「っ!」

 はっと目を開ける。
 美しい女の顔があった。初めて見た時と同じ、真珠色のつるりと美しい水妖の顔。石膏像のような首筋、すらりと伸びた肩、手………背筋が震えるほどに魅惑的な造形の、半人半蛇がほほ笑み、手をのばす。
 ほっそりした指先で顎の先を支えられた。

「あなたも私と同じ」
「違う」
「わかっているのよ。恋しい人に裏切られた、かわいそうな女」

 やめろ、聞きたくない! 彼女から目をそらしたい、だけどそらせない。手足はしびれ、指一本動かせない。かすれた声を咽から絞り出すのが精一杯。

「カルは………………私を裏切ってなんか、いな……い」
「寂しいんでしょう? 悲しいんでしょう?」
「寂しいけれど。悲しいけれど。それはあの人のせいじゃない!」
「私たちは同じ」

(私は君に嘘はつかない)
(優しい嘘なんか、ついてあげない)

「違う!」
「同じだよ。どんなに思っても。願っても。あなたの愛する人は、あなたを愛してはくれない。見てはくれない。あなたがどんなに苦しんでいるか、彼は理解してくれやしないんだ。どれほどの痛みに苛まれているのかも……わからない。想像すらできないんだよ」
「あ………」

 苦い針が何本も胸を貫き、かきまわす。心臓をぐちゃぐちゃに突き崩し、原形も留めぬほどにこねまわす。

「ち……が……う……っ」
「わかってるくせに。お前はあいつを百回殺してもおつりがくるくらいに酷いことをされてるよ。そろそろ代償を払わせてもいい頃合いじゃないか。そうだろ?」
「やめろ、やめろ、聞きたくない!」

 目に見えない塊が腹の底からせり上がり、咽を塞ぐ。息が詰まり、舌が口から押し出された。

「ぐ……うぅっ」

 一つのベッドの中で温もりを共有したあの夜。その先に何が待受けているのかなんて知りもせず、ただ彼の温かさに甘えて溶けた。

(いっそあの時、彼の腕に包まれたまま、目がさめなければよかった……)

 メリジューヌが、笑った。眼球のない、閉ざされた真珠色の目元を歪ませて。

「私の手をお取り。一緒になろう。そうすればお前の愛する人を引きずりこんであげるよ。暗い、静かな水の中で二人っきり。ずうっと彼を独り占めできるよ……」

(ずうっと……独り占め……?)

 甘美な誘惑、だがそれ以上の恐怖が紫の閃光となり、眼球の裏側から網膜の表面に突き抜けた。

「……断る」

 ぎりっと唇を噛みしめた。
 青い月光に染まる森。あの夜、初めて恋した男を永久に失った。彼はもう、どこにもいない。どこにも、どこにも……。

 熱い、塩からい水がこぼれる。その強烈な塩の味がぴしりと意識の横っ面を張り倒し、腐った甘さを吹き飛ばす。

「カルが私を振り向いてくれなくてもいい」

 ぼろぼろと涙がこぼれる。頬から首筋へと伝い落ち、皮膚に染み込む。硬直し、自由を失っていた体が感覚を取り戻して行く。

 瞼の裏にちかっ、ちかっと過去の情景が翻る。
 風花の散るゴールデンゲートブリッジ公園の展望台。

(君を抱きしめる手を………私は、失くしてしまったのかな………)

 クリスマスでにぎわうユニオン・スクエア。表通りに面した宝石店のショーウィンドウの前。

(君を失いたくないと……私が言うのは、卑怯だね。でも……)

 再び巡り合った夢の中。記憶から再構成された、幻のフェリービルディング前の広場。

(会いたかった!)

 彼は、そこに居た。

「………あの人が、お日さまの光の中で、笑って生きていてくれれば……」

(君は来てはいけない。残って後に続く者を導け)

「………今と言う時間の中に存在してくれるなら。私は、それだけでいい」

 夢魔が口元を歪めてあざ笑う。ぽってりと官能的な唇の間から、乱ぐい歯がのぞいた。

「強がりをお言いでないよ。本当は自分の好きな男を引きずり込みたいくせに。自分だけのものにしたいくせに!」

 真珠色の手が頬を包み込み、ぐい、と引き寄せられる。指がにゅうっと伸びて顔中をまさぐった……ひたひたと、蜘蛛の足のように。

「ああ、そうだ、あの男が懸想してる奴がいたね。テリーとか言う……」
「っ!」
「そいつを殺してあげるよ。食ってあげるよ。そうすれば、恋しい男はおまえのものだ。どうだい? それこそ夢のような話じゃないか!」


『ずるいよ、カル……こんなことしても………どうせ、テリーの方が好みなんでしょ?』
『そうだよ』

 テリーがいなければ……。

「だめ!」

 それが自分を懐柔する夢魔の嘘。毒を飲ませるための、甘い罠と分かっていても、心のどこかで「うん」と答えたい自分がいる。
 そうだったらいいのに。
 甘美な幻想に浸り、夢想する、愚かで生臭い蛇がいる。

(私と、こいつは……同じだ。同じなんだ)

 だからこそ見える。理解できる。こいつの本質が。

 どんなに求めても。
 むさぼっても、結局は一人ぼっち。誰も愛することはできない。誰からも愛されることもない。差し伸べられた手に背を向けて、自ら闇に沈み、泣き叫ぶ。
 ぬるり、とまとわりつく黒髪の密度が増した。肌にとろりと溶け込み、触れているのが自分の髪なのか彼女の髪なのか……ふんわり霞んで境目が消える。区別をつけることすら、意味のない事に思えて来る。

「おいで、いっしょに水の底に沈もう。いっしょに眠ろう……」

 夢魔が顔を寄せてくる。うっすら開いた唇で、キスをしようと引き寄せる。

「………」

 もうすぐ、唇と唇が、触れる。メリジューヌは目を細めてほくそ笑んでいた。もうじき、新たな獲物を手に入れると。
 羊子は手をさしのべ、夢魔の頬をなで……にやりと笑った。
 
「いいえ。沈むのはあなた一人」

 ぴたりとデリンジャーを額に押し付け、引きがねを引く。
 ドン!
 反動でメリジューヌはのけ反った。ぽつりと額に開いた穴から、真っ黒な水が噴き出す。砕け散った真珠色の鱗が飛び散り、羊子の顔を掠める。
 髪を結う組み紐が弾け、額にぷつっと小さな切り傷ができた。

「馬鹿な子……やせ我慢して……」
「ああ、やせ我慢だよ。強がりだよ! でもね、私がそうしたいの。私が望んでいるの! だから無理を承知で押し通すんだ。そのためなら、己の中の蛇をも撃って捨てる!」
「きしゃああっ!」

 金切り声をあげてメリジューヌはぶわっと膨れ上り、干からびた。ぞろりと爪の伸びた手で掴み掛かる。
 既に広げた手のひらの大きさが羊子を覆い尽くすほどだ。圧倒的な大きさ、逃げることはできない。捕まったら最後、ちっぽけなチョウチョみたいに、ひとたまりもなく握りつぶされてしまう。
 
 だが。
 今にも鍵爪が羊子を捕らえようとした刹那、銀色の光が二筋、夢魔の顔を貫いた。

「ひぎゃあっ」
 
 二発目の銃声が響く。
 一瞬で百年が過ぎたようだった。瞬く間に巨大な夢魔は骨と化し塵と、崩れ………消えた。

「…………おやすみ………」

 何故だろう。
 心の中を探しても、見つからない。

 彼女への怒りも。
 あざけりも。
 怖気が立つほどの、嫌悪感さえも。

 全て消えていた。ただ、ただ悲しく、空っぽだった。

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【ex10-16】いついつ出やる

2010/05/03 0:02 番外十海
 
「かはぁっ」

 ごぼっと水面に顔を出し、息とともに塩辛い水を吐く。浮力を失った手足がずしりと重い。まるで砂を詰めた袋だ。濡れた衣服が絡みつき、なおさらに体を地面に引きずり下ろす。震える手を筋肉と言うよりほとんど意志の力で無理やり動かし、岸辺にはい上がった。

 振り向くとそこは、水の涸れた川床で……自分がたった今はい出してきたのは、どんよりと濁った浅い水たまりでしかなかった。

 何て不条理、だが、これが夢の中。

 手のひらで川岸の岩をつかみ、いつもの三倍くらい重たいに体を引きずり上げる。膝をつき、空を見上げた。
 どんよりと重たいにび色の空。何だかおかしいな、と思ったら写真を継ぎはぎに貼り付けたみたいにチラとも雲が動かない。しかも、同じ形、同じ濃度の空が延々と繰り返している。
 かろうじて立体感はあるようだが……。
 立ち上がるとべしゃり、と緋色の袴が地面を叩く。なんだか金魚のひれみたいだ。
 
(何、考えてるのかな。こんな時に)
 
 一歩、また一歩と足を運ぶ。だらりとたれた腕、力なく動かす足、冷えきった顎、胸、腹。全身から滴る水が、乾いた荒れ地に染み込んで行く。草一本生えていない。見渡す限り肉を練り合わせたような形の岩がごろごろ転がっている。
 こりゃまた何とも殺風景、だが乾いているだけマシだと思おう。少々、乾き過ぎな気がしないでもないけれど。

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 濡れた装束が体に貼り付き、なまじ裸でいるより肌の感触が生々しい。かろうじて足袋ははいているが、草履はどこに行ったやら。足首の回りがぱかぱか言っている。外れた小鉤(こはぜ)を止め直したいところだが、ここで屈みこんだら最後、そのまま動けなくなりそうな気がする。
 そして、風が。
 ひっきりなしに吹きすさぶ生臭い風が、どんどん体温を奪っている。指がかじかんで、止め直そうにもおそらくうまく動くまい。

「……ああ……」

 どれほど歩き回っただろう。袴も足袋も、すっかり砂にまみれてじゃりじゃりに汚れた頃、ようやく、風をしのげそうな大きさの岩を見つけた。岩陰に寄り掛かってうずくまり、凍えた手足をさする。
 だが一向に暖まらない。

「たき火が欲しいな……」

 意識が言葉に方向づけられ、収束し、一つのイメージに固まった。
 指先に箱に入ったマッチが現れる。一本取り出し、しゅっと箱の脇ににこすりつけた。灯った小さな火が膨らみ、広がり、たき火になった。
 うん、上出来。うまく誘導できたもんだよ。
 オレンジ色の炎にかじかんだ手足をかざした。

「……あったかいなあ……」

 誰かが笑った。
 声を立てずに、口を歪めて。見えた訳ではない。だが気配でわかる。
 身構えた刹那、たき火の向こう側にどんよりと瘴気が凝り固まり、一群れの影が滲み出した。
 しゅうしゅうと、空気の漏れるような声でつぶやいている。ささやいてくる。呻いている。

『待ってたよ』
『今度こそそそそそぉおぉおぉぉ、お前ぇぇぇのぉのどをぉぉ切り裂いてやるぅうぅうぅうぅうぅ』
『赤い血をすすってやる』

 目を凝らす。眼鏡は失ったがここは夢の中だ。意志の力が像を結び、本質を見通す。うごめく影は、いずれもどこか、見覚えがあるように思えた。
 ぱちん!
 たきぎがはぜた。つかの間炎が燃え上がり、影の群を照らし出す。
 山羊の角と蹄のある足、禿鷹の嘴と翼、黒いコウモリめいた翼……見覚えあるも道理。かつて狩ってきた夢魔どもだ!

「どいつもこいつも、往生際が悪い……」

 無造作に右手を懐に突っ込み、岩を背に立ち上がった。

「こんな所まで付きまといやがって、うっとぉしい」

 火が徐々に小さくなって行く。たき火を実体化させる時間が限界に近づいてきているのだ。再度集中する時間は、もうない。
 一本。
 また一本、炎もろとも、燃えていた枝が消失する。そのたびに影の群がじわり、と囲みをせばめてくる。
 最後の一本が消えた瞬間、一体が翼を広げて襲ってきた。

「くっけぇえええ!」
「とっとと消えろ!」

 光る目のど真ん中に一発、撃ち込む。極彩色の羽根をまき散らし、禿鷹に似た姿の夢魔が地に落ち、飛び散った。

「当たりに来てくれて、ありがとう……」

 にっと口角を釣り上げると、羊子はデリンジャーを水平に構えて狙いを付けた。

「気をつけろ」
「気を付けろ、この女の銃は痛いぞ」
「取り囲め」
「逃がすな」
「逃がすな」
「守りは居ない。いずれ力尽きる」

 影がぶわっと膨れ上り、うわん、うわわんと雲のような群が押し寄せてきた。歪つな羽虫と黒い山羊……夢魔の使い魔どもだ。羊子は矢継ぎ早に銃を連射し、片っ端から撃ち落とした。

「このっ、ちまちま、ちまちま、うっとおしい!」

 体勢を立て直そうと一歩後に下がる。と……足がずりっと崖の縁を踏んだ。

「なっ?」

 背にしていたはずの岩が消えていた。そこにあるのは切り立った断崖絶壁。
 
「追いつめた」
「追いつめた」
「もう、逃げられない」

 ごうごうと容赦なく風が吹きつける。足を踏ん張ってかろうじて、落とされぬよう踏みとどまる。砂ぼこりが舞い上がり、目に染みる。石の一粒、水の一滴、一陣の風い至るまで、全て自分の敵なのか。
 どうっと叩きつける空気の壁に、よろりと後ろに押された。
 からからと小石が転げ落ちる。崖の下は底知れぬ奈落。落ちて死ぬか。過去の亡霊に喰い尽くされるか。

「どっちもごめんだ!」

 忍び寄る一体を、ばんっと撃ち抜く。

 ぎぃ、ぎぃ。
 ぎちちち、ぎしぃ。くぅ、ぐるるうぅるう………。

 獣の声とも、枯れ木やガラスのきしる音ともつかぬ不気味な音が、ざわりざわりと押し寄せて来る。羊子は乱れた襟をぐいとかき寄せ、顔を揚げた。

「さあ、次に撃たれたいのは、どいつだ!」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 ぽそり、と足が乾いた土にめり込む。振り向くと自分の後ろには点々と足跡が続いている。

 あれからどれほど時間が経過したのだろう。進めども進めども乾いた土、乾いた石、草一本生えていない。
 ここはまるで、砂漠だ。失恋の逃避行からの帰り道、一人で歩いたあの寂しい岩の道。
 うつむくと、ばさり、と伸び放題の髪の毛がこぼれ落ち、カーテンみたいに顔の回りを覆った。
 暗く区切られた狭い空間の中、意識がふらりと混濁する。

 元々、ヨーコなんて女性は存在しないのではないか? あれは、遠くから見かけた面影を元に、自分が作り上げた幻で……。
 赤いリボンが消えたのが何よりの証拠じゃないか。

(居もしない相手を探しても無駄なこと)

 信じて、支えて、叱咤して。家族とも、友人とも、恋人とも違う、穏やかで満たされた絆。

『カルヴィン。カル!』

 澄んだ心地よい声が名前を呼ぶ。クリスマスの前の夜、甘く香る温もりに包まれ、眠った記憶も。
 胸の奥をやわらかな指先でなでられるような日々も所詮は全て幻、忘れてしまえばそれで終る。
 舌の奥に何日かは名残の苦さが残るだろうが、それだけだ。

(忘れてしまえ。この喪失の痛みを、一秒でも早く、忘れて……)

 ランドールのまとう色彩が徐々に変わっていた。足下から色味を失い、灰色に色あせて行く。周囲の景色に同化して行く。

(なかったんだ。最初からなかったものを失う訳がない。だから苦しくはないんだ……)

 ひらり……ふわり。灰色の中に鮮やかな色がひらめく。顔を上げると何としたことか。立ち枯れた木の枝に、細いリボンがひっかかっているではないか!

「あった!」

 ランドールは風よりも早く走った。ひらめくマントの裏地がつややかな赤を取り戻し、灰色の景色を切り裂いた。
 白く干からびた葉も小枝もそのままに、白骨のように立ち枯れた川辺の木立にリボンが揺れている。後少し……もう少し……
 見つけた!
 彼女の痕跡だ。

「違う……これは、青い」

 失望すると同時に青いリボンはくたくたと色あせ、崩れてしまった。伸ばした指の先で、空中に溶け入るように消えてしまった。
 さっきまでそこに在ったのに。
 触れることもできなかった。

「あ」

 どぉん、と鈍い衝撃に打たれる。遠く響く雷のような不吉な響きに揺さぶられ、ちかっ、ちかっと瞼の裏側に閃光が走る。
 ……だが音は聞こえない。
 この喪失感。以前にも経験した。ずっと昔、自分は確かに探していた! 誰か、大事な人を。

「ここは……」

 目の前の景色と記憶の中の情景が結びつく。
 ここは、子どもの頃住んでいた家の庭だ。サンフランシスコの郊外の広い家……母の為に父が建てた。広々とした庭には草木が生い茂り、小川が流れ、屋敷のエントランスから並木道が延びていた。

 そうだ、この道だ。
 手のひらを握る。
 ぎゅっと握った手で、ごしごしと目をこすりながら歩いていた。後から後から涙がこぼれ、泣き過ぎて咽が干からびていた……。
 そして、小川のほとりで、こうして枝にひっかかっていた青いリボンを見つけたのだ。

(あの頃の自分は無力で小さくて。リボンの持ち主を見つけ出すことができなかった)
(あれは……誰なんだ?)

「ふふっ」
「誰だ?」

 密やかな笑い声を聞いた。振り向くと、視界の端を白い裾が掠めた。軽い足音とともに華奢な人影が駆けてゆく。幻のようにゆらゆらと、奇妙に縮尺の大きな灰色の景色の向こう側を。

「待ってくれ!」

 彼女は……そうだ、女の子だ。まだ幼い少女。ちらりとこっちを振り向いた。いや、振り向こうとした。
 だが顔は見えない。ただ風にゆらめく金色の長い髪と青い瞳のみが記憶に映り、消えた。

 消えて、しまった。

『ああ! …………! 私の………!』
「母さん」

 母が泣いている。青いリボンを握りしめ、身をよじり泣き叫んでいる。
 自分も悲しい。青いリボンに白いドレス、日の光にきらめく金の髪。自分は、その人が大好きだった。いなくなって、悲しかった。
 それ以上に、母が悲しい顔をしているのがつらかった。

『カルヴィン。ここにいたのね。ああ、よかった……母様から離れてはだめよ……』

 あの頃の母は少しでも自分が離れると、半狂乱になって探し回った。穏やかで優しく、力強い母が。あんなにも弱く、ぼろぼろになる姿を見るのは苦しかった。
 恐ろしかった。

「大丈夫だよ、母様。僕がいる」

 だから己に誓ったのだ。母を守らなければ。強くならなければ。もう二度と、大切な人を失わないために。

『いい子ね……カルヴィン。いい子』

 優しい手が髪を撫でる。ほっそりした指先が、銀色に光る鎖を首にかけてくれた。

『これをあげる。いつも身に付けているのよ。決して手放してはだめ……』

(……そうだ、あの時、母がくれたんだ)

 鉄の十字架に銀の鈴。ずっと身に付けてきたお守りを。魔女に小さな子どもに変えられたあの時も、守ってくれた。

 チリン……と胸元で鈴が鳴る。
 それに応えて鈴の音がもう一つ、足下……いや、水の底からだ。

 見下ろすと、水の向こうにもう一つ、別の空が広がっていた。

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【ex10-17】夜朱けの晩に

2010/05/03 0:04 番外十海
 
「くっ」

 蹄の一撃が右手を直撃する。デリンジャーがたたき落とされ、光の粒になって消えた。

「あ……」

 四方八方から夢魔の手が一斉に伸びる。銃を失った今、羊子に身を守る術はない。あっと言う間に捕まれ、式を呼ぶ暇もなく引きずり倒された。

「離せぇっ」

 死に物狂いで暴れた。引っかいた。掻きむしった。大人しく捕まる気はさらさらなかった。だが、か弱い手足で懸命にもがいたところで、悲しいくらいに無力。かえって夢魔の嗜虐心を煽るばかり。

「大人しくおし、この小娘がっ」
「おお元気がいいね、可愛いねえ。そう言う子は……」

 しゅるしゅると手足に何か細長いものがまとわりつく。一瞬、蛇かと鳥肌が立つ。だがよく見れば植物だ。蔦だ。

「っ、これは! あっ、離せっ」

 手首をからめとられ、高々とつり下げられた。袖がたれさがり、腕が付け根近くまであらわになった。さらに足首にも蔦が絡みつき、動きを封じられる。あまつさえ蔦から染み出す紫の樹液がじわじわと肌に浸透し、動こうとする力を封じて行く。奪って行く。

 手から、足から力が抜け、だらりと垂れ下がる。だが意志の力を振り絞り、きっとにらみつけた。

「貴様……あの時の……」

 忘れもしない。風見と二人で狩った、黒いコウモリの翼の生えた夢魔だ。交通事故で手術中、大量の出血で亡くなった娘の父親に巣くった忌まわしい吸血の鬼。
 
「覚えていてくれたんだね。嬉しいよ……ほら、これをご覧。お前が撃った傷だ」

 闇が凝縮したような人影がのしかかってくる。背に生えた蝙蝠の翼をマントのようにはためかせて。
 目も耳も鼻もない。全て真っ黒に塗りつぶされた顔にはただ、ぞろりと白い牙の生えた、三日月型に裂けた口だけがあった。そして、額にぽっかり開いた穴が一つ。じくじくと膿みただれ、うじがわき、どす黒い血がにじみ出している。

「痛いんだ。血が止まらないんだ。お前の血で癒してくれ」
「う……ぁ……」

 指先が咽をなでる。じゅるり、と真っ赤な舌がくりだされ、舌なめずりをした。

「きれいなのどだね、お嬢さん」
「あっ」

 ぷつっと咽の皮膚を夢魔の牙が食い破る。痛みはない。ただ、破られた感触と、吸われる音は克明に肌に伝わってくる。

 じゅるる、じゅう、じゅじゅじゅ……ずぃいい……。

 力が吸い取られて行く。鋼のような手足に押さえ込まれ、身じろぎさえできない。
 意識が霞む。視界がぼやける。今にもすうっと暗い底の無い穴の中に吸い込まれそうだ。

「全部吸うなよ」
「そうともさ、後がつかえてるんだからね?」
「何、何、がっつく事もなかろう。こいつはもう逃げられない」
「そうともさ。ゆるゆると吸い尽くしてやろうじゃないか。時間をかけて、ゆるゆるとね」

 ささやく夢魔どもの声が、ぼんやりとどこか遠くに聞こえる。まるで水の向こうのざわめきみたいに。

 じゅるり。
 また一口、命がすすり取られた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 パキーンと甲高い音をたて、勾玉が砕けた。砕けた破片はきらきらと灯りを反射しながら飛び散った。

「先生っ」

 身じろぎもせず眠る羊子が、いきなりビクっと痙攣した。背筋をのけぞらせ、空ろに目を開き、ガクガクと震える。

 ぶわっと亀裂の底から濃密な瘴気が吹き上がり、その刹那、彼らは見た。現実と二重写しになった、悪夢の中の羊子の姿を……。身にまとう装束は泥にまみれて乱されて。手、足、胸、首、腰、胴体。体中いたるところに、うねうねと蠢くどす黒い蔦のようなものが巻き付いている。

 唇がわずかに動き、かすれた声がこぼれた。途切れ途切れに、絶え絶えに……。

「や……め……」

 夢の中の羊子が顔をゆがめ、身もだえした。周囲が泡立ち、ごぼっと肉のひだのようなやわらかな突起がわき出す。肉厚の植物にも似たそれは、粘液をしたたらせてじわじわと獲物の体を包みこみ、ゆるりゆるりとこねまわす。
 現実の羊子がうっすらと汗を浮かべて身じろぎする。袴が乱れ、白いふくらはぎがこぼれ落ちる。

 夢魔の群れは明らかに、手の内に捕らえた生贄をいたぶることを楽しんでいた。じっくりと時間をかけてしゃぶりつくすつもりなのだ。

 三上はゆっくりと剣を抜いた。苦い失望を噛みつぶしながら。

(間に合わなかったか、カルヴィン・ランドールJr……もう少し骨のある男と思ったが)

 切っ先を向ける。だがその先は螺旋の亀裂ではない。蠢く悪夢の蔦でもない。
 眠る羊子の喉元だ。

「三上さんっ」
「何を?」
「このまま夢魔に飲み込まれれば……結城さんは悪夢と現実を繋ぐ扉となる。彼女を入り口にして悪夢が大々的に浸食を始めてしまう」

 ぬるり、と幻の蔦が羊子の体をなで上げる。びくん、とほっそりした体が反り返り、震えた。

「あるいは……悪夢使いに成り果てる……」

 むしろその可能性の方が、高い。忌まわしいことに。

「そんな事、絶対にさせない!」
「ええ。そんな事は、羊子先生も望まない。君たちなら、わかるでしょう? 目覚めた時、彼女がナイトメアに乗っ取られていたら。その時は………我々のすべきことは一つだ」

 がったん!
 社殿の扉が、たわむ。誰かがしたたか体当たりをかませたように、外側から内側に向かってめきめきと軋んでいる。三上はちらとも切っ先を揺らさず、外の相手に向けてぴしりと鋭く言い放った。

「あなたも分かっているでしょう……? 蒼太くん」

 だん、と床板を叩く音、一つ。それきり外の気配は静まり返った。 
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「ふぅ……あぁ……」 

 ぐったりした羊子の咽に牙を埋めていた夢魔が口を放し、愉悦のため息をもらした。ぬらぬらと濡れた牙からぽとりと赤い雫が滴り落ちる。

「ちくしょう、いいにおいだ」
「ああ、もう我慢できない」

 装束の袖が。袴の裾がまくりあげられ、なでまわされる。腕に、足に牙が食い込む。

「ぁっ、や……め…ろっ」

 ぷつり、ぷつりと尖った固い突起に柔らかな肌と肉をこじ開けられ、抉られる。こぼれる血を容赦なくすすられた。舐められた。

「く……う……ぁ……あっ」
「あったかいね……」
「甘いねぇ……」
「一滴のこらず、すすってやるよ」

 不意に、右足首に絡みつく蔦がきりきりと引き絞られ、片足がつり下げられた。
 袴が太もものあたりまでめくりあげられ、足の内側にねっとりした舌が侵入する。

「あっ」

 そいつの意図に気付いた瞬間、嫌悪感に鳥肌が立った。背筋が震えた。

「よせっ、何をっ!」
「ああ、そんなに怯えなくてもいいんだよぉ。ちょっと味見するだけだからね」
「や…いや……ぁうっ」
「ん……いいにおいだ、たまんねぇなあ……」

 じゅるり、と粘液をからめた舌が伸びる。羊子はマヒした体で身もだえし、泣き叫んだ。できるものならそうしたかった。だが、思うように声が出ない。舌がしびれて、動かない。

「あ、ぁ、や……だ……っ」

 ぐい、と横合いから別の夢魔が舌を掴んだ。内もものすぐそばで、びちゃっと粘つく液が飛び散る。

「急くな、味が濁る」
「へっ。気取りやがって」
「上の口で、我慢しな」
「しょうがねぇなあ」
「い……や……ぁ」

 びちゃり。

 かすれた悲鳴を挙げた口に粘液をしたたらせた触手がねじ込まれ、声を封じる。

「う……ふぐっ、ぅうっ」

 為す術もなく口内を蹂躙され、目の縁に涙がにじんだ。

(悔しい……こんな奴らに!)

 歯を食いしばることすらできない。滴る粘液が咽の奥に流れ込み、咽せる。
 顔に、咽に、胸に。いく筋も流れ落ちるのは、忌まわしい夢魔の唾液なのか、それとも己の涙か。せめて歯を立て、噛みついてやりたいと思った。だけど顎に力が入らない。

「おや、ご覧よ。この女ときたら、口につっこまれたモノをしゃぶってるよ」
「ああ、本当だ。よだれまでたらして……あきれたねぇ」
「そんなにコレが気に入ったかい、お嬢ちゃん? いいぜ、好きなだけ味わいな、そら……」
「んう、ぐぅっ」

 口の中の触手が煽動し、舌を吸い上げられた。

(嫌だ。嫌だ、嫌だ!)

 夢の力を使い果たせば、通常のドリームダイブなら外にはじき飛ばされる。だけど、今は……。
 己の末路を予測し、羊子は心の底から怯えた。真っ黒な絶望が胸の中を埋め尽くしてゆく。

(い……や……だ……)

 ぽろりとこぼれ落ちる涙を、夢魔の舌が舐め取った。

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【ex10-18】狼と羊が出会った

2010/05/03 0:05 番外十海
 
 結城サクヤは自らの夢の中に居た。

 柔らかな緑の草木に守られた、こんこんと湧く澄んだ泉のほとり。そこは慣れ親しんだ結城神社の奥によく似た、おだやかな光にあふれる清らかな場所だった。
 巫女装束をまとい、泉のほとりに跪くサクヤの手からは、赤い細い糸が伸びている。
 先端に結びつけられた金色の鈴が水面に軽く触れ、さらさらと白い玉砂利の合間から湧き出す水の流れに合わせ、リ、リリリ……とかすかな音を奏でている。
 どこか、心臓の鼓動にも似たリズムで。

 不意に素足を何匹ものヒルが這い登るような悪寒を感じる。ぎょっとして振り払うが、何もついていない……自分の足には。

(まさか!)

 泉の表面が真っ黒に濁り、見るもおぞましい光景が映し出された。
 肉厚のねばつく触手にからめ捕られ、為す術もなく嬲られる羊子の姿が。

「よーこちゃん!」

 我を忘れて手を伸ばす。
 と。
 ごぼぉっと水が波立ち、粘つく実体をそなえてまとわりついてきた。

「しまった!」

 逃れる間もなかった。水面に映る羊子と全く同じように四肢に半透明な触手が絡みつき、自由を奪う。もがけばもがくほど強く、深く侵入し、いたずらに装束がはだけられてゆく。

「くっ、離せ、離せぇっ」

 ぬるぬるとねばつく触手が肌の上を這いずる。ねっとりと糸を引き、頬を。首筋を、胸元をなで回す。
 あまつさえ、袴の内側に潜り込み、ももの付け根あたりをまさぐっている奴もいる。柔らかな先端が幾重にも枝分かれし、一本一本が舌先のように広がり、ぴちゃぴちゃと湿った音を立てている。
 かと思えば吸い付き、ちゅくちゅくとすすっている奴も……。

「く……あうっ」

 おぞましさ鳥肌が立つ。自分も触ったことのないような場所を、執拗に触手の先端が掠める。そのたびに得体のしれない感触が背筋を駆け抜け、ぞくっと震えた。
 何故、そこを触るのか。何故、そこを触られて、そんな反応が起きるのか。わからない。おそろしい……おぞましい。

「や……め……」
(や……め……)

 自分の声に重なりもう一つ、弱々しいうめき声を聞いた。

(同じことを、よーこちゃんもされてるんだ!)
 
 かっと怒りが込み上げる。だがあざ笑うようにさらに太い触手が胸元にねじこまれる。枝分かれした先端が乳首に巻き付き、ひねり上げた。

「うぅっ!」

 唇の端を噛みしめ、のけぞる。その拍子に巫女装束の襟がゆるみ、くずれて広がった。

(しめた!)

 無理やり右の袖を抜き取った。肩から胸にかけて滑らかな裸身がさらされる。待ちかねたように胸に触手がはりつき、もみしだくような動きでなでさする。無理やり高められた肌の感覚が逆流し、煮えたぎり、今にも神経が焼き切れそうだ。
 だが、片手が自由になった。人さし指と中指をぴんと立て、残りの三本を握り『刀印』を結んだ。

「待ってて、よーこちゃん……」

 確かに自分たちの絆は強い。一人が闇に捕らわれれば、もう一人も引きずり込まれる危険がある。だが、逆に二人で立ち向かう事もできるのだ。執拗に肌をまさぐる触手の感触に身震いしながらも、意識を集中した。
 瞼の底にぽつりぽつりと浮かぶ光の粒を集めて、練り上げて、指先のただ一点に集めて……

「鋭!」

 解き放つ。
 青白い光がサクヤの全身を駆け巡り、おぞましい触手を切れ切れに弾き飛ばした。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 締め切られた深夜の社殿を、時ならぬ月の光が照らす。満月よりほんの少しおだやかな、十六夜の月の光が。
 いや、その光は空から降りてきたのではない。風見光一の手にした清らかな剣……『十六夜丸』の銘を持つ刀から放たれていた。

「約束したんだ……先生を守るって」

 ぎりっと歯を食いしばり、柄を握る両手に力を込める。今なお瘴気を噴き上げる、螺旋の亀裂をはったとにらみ付けた。

「俺は、諦めない。最後の一秒まで、退かない。逃げない。投げ出さない。きっと、先生もそうする!」

 顔を上げるや、風見は相棒の青い瞳を見据えた。

「行くぞ、ロイ!」
「おお!」

 うなずき交わし、ロイは左手を懐に滑り込ませる。引き出された時、彼の五本の指の間にはそれぞれ一本ずつクナイが握られていた。

「十六夜丸、力を貸してくれ……」

 螺旋の亀裂に刀を突き立てたまま、風見光一はりん、と声を張り上げた。

「風よ、魔なるものを押し流せ!」
 
 持てる力の全てを振り絞り、たたき込む。刀身がひときわ輝きを増した。
 同時にロイは左手に構えたクナイを全て亀裂の底に打ち込んだ。さらに気合い一閃、畳の表面に左手を叩きつける。

「心威発剄……破ぁっ!!」

 ばん!
 明らかに。少年一人が叩いたにしては巨大すぎる衝撃が走り、畳が浮き上がる。

 ひっそりと、風見とロイの動きに紛れるように三上蓮は十字を切り、祝福を与える時と同じ所作をした。ぽとり、と淡く光る雫が神父の指先からこぼれ落ち、亀裂の奥に吸い込まれる。

「多少なりとも、援護になればいいんですがね……」

 つぶやく彼の目は静かに。極めて静かに、獲物を見据える狩人の炎を宿していた。
 できれば自ら乗込み、あいつらを一刀両断に切り捨ててやりたい所だが、それは不可能だ。だから、その代わり……持てる力の全てを一滴に凝縮し、最上の一撃を送った。

(悔い改めるがいい。裁きが終った時、まだ嘆く心が残っていればの話だが)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 ランドールは吸い寄せられるように川面に屈みこんだ。
 水の向こうに広がるのは嵐の直前のような、黄色く濁った雲の立ちこめる奇妙に明るい空と、草一本生えていない岩地だ。
 ごろごろと転がる岩は、さながら苦痛に身をよじる人の群れ。

 ……いや。今、何かが動いた!
 さらに顔を近づけると、不意にびゅうっと風が吹き抜ける。水の向こうから……まさか、そんなあり得ない!

「っ!」

 風に乗って、ひらりと細長い赤い色が飛び出してきた。とっさに受け止める。しなやかな布が手首に優しく寄り添った。
 リボンだ。
 彼女の、赤いリボン。

「ヨーコ!」

 ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ……
 空から何かが降りてくる。
 固く尖った小さなナイフが全部で5本、切っ先を下に水の表面に垂直に突き立った。
 さらに、水の表面にチカっと音もなく稲光が走り、ナイフを拠点に光のラインを描く……星の形に。
 導かれるまま、ランドールはラインの目指す最後の一点に手を伸ばした。
 指先から光がこぼれ落ちる。

 リィ……ン……。

 鉄の十字架と銀の鈴が形を結び、すうっと水の表面に突き立った。
 6つの拠点を光のラインがつなぎ、水面に六芒星を……篭目の紋を描き出す。その瞬間、ランドールは見つけた。
 探し求めた人の姿を。

 だが、その時、彼女は……。

 ぞろり、と口の中で牙が伸びる。咽の奥で低いうなり声が轟く。意識を遥かに上回る勢いと早さで何かとんでもない悪態をついたようだが、既にその声は人の言葉を為していなかった。己の内側に荒れ狂う怒りに身を任せ、ランドールははっしと右手を水面に叩きつけた。
 それが、どんな結果をもたらすのか、予想だにせずに。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

(……ちゃん)

 ぼんやりと、誰かに呼ばれた気がした。瞼が震える。だが、ずっしりと重くて動かせない。。

(よ……こちゃ……)

 呼んでいる。気のせいなんかじゃない。消えかけた意識を奮い起こし、渾身の力を振り絞って瞼をこじ開けた。。
 ぽつり。
 澄んだ雫一粒、額に落ちる。その刹那、はっきりとサクヤの声を聞いた。

『よーこちゃん!』
(サクヤちゃん!)

 夢魔の群は、凍りついていた。降り注ぐ細やかな光の雨に打たれ、羊子の手足に牙を埋めたまま動きを止めている。
 まるで塩の柱にでもなったみたいに。

 ぱしゃり!
 清々しい風が水の雫をまき散らす。水とともにぱらぱらと光の種が周囲に降り注ぎ……ふっくらと水を吸った地面が盛り上がり、割れた。
 まるでフィルムの早回しを見ているようだった。鋭いトゲをはやした緑のイバラが、勢いよくわき出でる。何本も。何本も。
 凍えていた時間が唐突に動き出す。
 大地を話って噴き出した巨大なイバラがのたうち、声なき声で吠える。生き物のように明確な意志を備え、夢魔の群に襲いかかる。
 咽に牙を埋めていた夢魔の体を締め上げ、あっと言う間に握りつぶした。

「ぐぅえええええ」

 口を蹂躙していた一体が、うめき、のけ反り、離れて行く。
 ぼこぼこと体の表面が泡立ち、膨れ上ったと思ったら、内側から無数のトゲがあふれ出した。残ったのは、ぼろぼろのゴム風船の残骸みたいな灰色の切れ端ばかり。
 手足をからめ捕っていた毒の蔦は、一本残らずみずみずしい緑のイバラに絡みつかれ……一ミリ単位の正確さでむしられ、千切り取られて行く。
 ぼろりぼろりと毒蔦の断片が落ちるたびに、頭上に高々とつるされた本体がかすれた声で悲鳴を挙げた。
 それに比べれば、山羊角の魔女を始めとする夢魔たちは比較的恵まれていたと言えよう。てんでに頭をかかえ、空ろな目でひぃひぃと泣きわめくだけで済んでいたのだから……内面に荒れ狂う衝撃がいかほどのものかは、計り知れないが。

「これは……あ」

 戒めから解放され、地面に崩れ落ちる。これほど体のすぐそばで荒れ狂っているのに、茨のトゲは髪の毛一筋ほども羊子を傷つけていなかった。
 乱れた装束をかきあわせながら立ち上がる。踏み出そうとすると膝がかくんと曲り、よろけた。噛まれた傷から血が滴り、毒に焼かれた皮膚がヒリヒリと引きつれる。
 何より困ったことに、手足に力が入らない……一秒でも早くこの場から遠くに離れたいのに、上手く体が動かせない。

「ヨーコ!」

 目を向ける。さっきまで真っ暗な奈落にしか見えなかった崖の下が、今は澄んだ水をたたえている。
 そして、水の向こうに彼がいた。
 青い瞳、波打つ黒髪。夢の中を自在に歩くその姿は、刻まれた傷を乗り越え、受け継いだ血を誇りに思う気高い心と、弱者を守る強い意志の証。

 自分の存在が揺らぎ、消失する危機を知覚した瞬間。ひと目でいいから会いたいと願った、唯一の人がいた。

「カ……ル……!」
「飛べ。早く!」

 迷わず飛んだ。
 同時にランドールもまた、水中へと身を踊らせた。
 巫女装束の裾が、袖が広がる。水しぶきが散り、漆黒のマントが翻る。
 彼と我、我と彼女。間に横たわる水の中で二人は互いに受け止め、支え合い……取り戻した。
 失われた色を。生きる力を。

 泡立つ水が媒介となり、意識の底に沈んでいた記憶を表層に呼び覚ます。
 青いリボン。風にたなびく金の髪。青い瞳を涙で腫らし、失われただれかを探していた母の記憶。
 守らねばと思った。
 だが、それだけではなかった。

(あの日からずっと恐れていた………大切な人を失うことを)

 それ故に守られるだけに終らず、共に戦えるだけの強さを愛すべき相手に求めた……少なくとも自分と同じだけの、身を守る強さを。
 結果として女性は「守る存在」「敬う存在」ただそれだけ。愛する対象から外れ、男性を選ぶようになっていた。

(いつから性別や外見にとらわれていたのだろう?)

 はじめて、ヨーコ・ユウキと言う存在を認識した日の記憶がよみがえる。熱い閉ざされた箱の中で体験した出来事を。
 彼女は言った。『あなたは私が守る。だから私を守って!』そして、その通りにやり遂げた。
 傷だらけになって、恐怖に震えながらも夢魔に挑み、打ち勝った。

『怖いよ。余裕なんてない、いつだってギリギリ。こんなこと辞めたい、絶対無理だって、いつも内心、泣きべそかきながら思ってるの。生きて戻ったら、こんなこともう二度とやるもんか! って』

(そうだ、確かに羊子は女性だ。肉体的には弱い。感情に振り回される脆さもある)
(だが、その一方では自分など及びもしない強さを備えている。自分の弱さを知り、決して目をそらさない)
(知恵を研ぎ澄まし、機転を利かせて……しなやかに困難を乗り越える)

 何てことだ。
 己は男を愛する男なのだと公言し、自由を謳歌しているつもりでいた。だが、殻にとらわれていたのは自分だ。
 自分なのだ。

『あなたが好きです、カルヴィン・ランドールJr。あなたが男でも女でもそれ以外の生き物でも、この気持ちは変わらない』

 むしろ、ヨーコこそが性別の違いにとらわれていなかった。見た目や財力に惹かれるのでもなく。何の見返りも求めず、ただ自分と言う存在を慕っていた……

(同じだ)
(私がアレックスに恋していた時と同じ……なんだ)

 想うことはあっても、想われたのは初めてだった。
 それ故に彼女の強さ、凛々しさに惹かれながら怖じ気づいた。
 たじろいだ。
 まっすぐに、あまりにも純度の高い、無垢な想いをつきつけられた瞬間に。

 泡立つ水が鎮まる。
 彼女はそこにいた。
 指をすり抜けてなどいない。暗い水の中に沈んでもいない。確かに今、自分の腕の中に。そして、自分もまた、彼女の腕の中に居た。

「君を永遠に失ったかと思った」
「………いなくなったりしないよ……」

 まっすぐな瞳が見つめ返してくれる。もう二度と思わない。思うものか。君が居もしない幻だなんて!

「ここに、居るよ」
「ヨーコ……」

 ごぼり、ごぼ、がぼごぼ。
 不吉な水音が追ってくる。
 ちらりと振り向くとヨーコはぎゅっと眉間に皺を寄せ、顔をしかめた。

「しつっこいなあ……」

 だが、怯えてはいない。その口調がいかにも彼女らしくて、こんな状況なのにむずむずと笑みが込み上げてくる。口元がくすぐったくて仕方がない。
 いびつな影絵を練り合わせたような。タチの悪い冗談みたいなゾンビの塊が追ってくる。もう、どんな形をしているのか自分でもよく分かっていないらしい。
 ぼろぼろと崩れながら、それでもがむしゃらに水をかきわけ、追いすがってくる。

「カル、つかまって!」

 ヨーコの巫女装束が形を変える。袖が、袴がくるくると伸びて薄くなり、魚のひれのように広がった。

(人魚だ……)

「行くよ」
「ああ」

 しっかりと抱きあい、供に水をかきわけ、泳ぐ。二人の力が溶け合い、まるで一匹の魚になったようにのびのびと翔んだ。透き通った水の中を、自由自在に駆け抜けた。

「えーっと……どっちに行けばいいんだ? 私も、カルも飛び込んで潜ってきたんだから……上? それとも、下?」
「明るい方に行こう。ここは夢の中だ、上も下も、関係ない」
「うわ、すっごい正論!」
「……あっちだ」
「OK!」

 赤い尾を打ち振り、人魚が泳ぎ出す。すいすいと身をくねらせ、軽々と。ほんのりと明るい水面(?)目指して。

「こんなに自分の体が上手く動いたことって、ないかもしれない」
「ああ……私もだ。実に爽快だ」
「うん。すっごく気分いい!」

 顔を見合わせ、笑った。
 それでも夢魔の数は多く、執拗に追って来る。自らの崩壊の生み出す最後の力を全て、追跡に注ぎ込んでいるのだろうか。ぼろぼろと自分の欠片を落しながら追ってくる。

「く……あと少し……」
「あっ」

 半ば肉がそげ落ち、骨ののぞいた手が尾の先を掴む。だが次の瞬間、羊子は身をくねらせ、あっさりと掴まれた衣装を脱ぎ捨てた。

 リン!

 淡く光る水面から、赤い糸が降りてくる。先端には小さな金色の鈴。ランドールは左手でヨーコをかき抱き、右手を差し伸べた。
 赤い糸と金の鈴はくるりくるりとランドールの手首に巻き付き、くいっと引っぱり上げる。
 しっかり抱きあったまま、二人は光の中へ飛び出した。

『捕まえた』
『逃がさない、逃がさないぃいい!』

 崩壊する夢魔の群れの中に、白い小袖に緋色の袴……羊子の身につけていた巫女装束だけがふわりと残り、切れ切れに引き裂かれて行った。

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【ex10-19】夢と今の合間

2010/05/03 0:06 番外十海
 
 水が流れている。
 さらさらと。
 さらさらと。

 静かなせせらぎのほとり。広がる優しい枝の合間から、ほろほろと淡い金色の木漏れ日が降り注ぐ、柔らかな草の上にいた。
 身につけたものを全て失っていたけれど、ヨーコは無事だった。一瞬、目をそらすことを忘れていた。

 すんなりと伸びた手足。ほっそりした首筋。つるりとした胸の中央にはぽちりと小さなばら色のつぼみが宿り、くびれた腰から足にかけてはふっくらと丸く……。
 自分の周囲にいるどんな女性とも違う。
 少年の肢体に似て非なる不思議な肉体がそこに在った。神話に謳われるニンフやウンディーネ……少女に似た姿をした精霊たちはこんな形をしているのだろうか?
 肩に、うなじにまとわりつく黒髪が肌のなめらかさ、白さを際立たせている。ごく自然に丸い小さな肩を手のひらで包み込み、抱き寄せようとしてはっとする。
 指先に直に伝わる肌の温もりに。
 
(何てことだ、彼女は裸じゃないか!)

 急いで身に付けたマントを脱ぎ、濡れた裸身をくるりと包む。ずぶぬれなのは同じだが、少なくとも裸ではなくなる!
 ヨーコはぱちぱちとまばたきをして。着せかけられたマントを両手でかきあわせ、うっすらと頬を染め……口を開いた。

「おばか! あぶない事して!」
「そりゃ、するだろう!」
「引きずり込まれたら、どうするか!」

 ぱしゃっと川面で魚が跳ねた。
 かっかとほお骨の内側で熱がたぎる。慎み深さも大人の思慮も忘れ、矢継ぎ早に言い返していた。

「大事な友達が危険に曝されているのを放っておけと? 助けられるかも知れない力が私にある状態で?」

 眉をしかめ、にらみつける。

「冗談じゃない!」

 ヨーコもまた、きっと唇をかみしめ、にらみ返してくる。髪の毛がわしゃわしゃと逆立っていた。
 そのまましばらくにらみ合ううち、ふるっと彼女の瞳が揺れた。

「うん……そうだよね……そう言う人だった……」

(だから、好きになった)

 ヨーコは手のひらを広い胸に当て、愛おしさと感謝をこめてそっとなでさすった。次いでぺたりと顔を埋め、気高い心臓の脈打つ音に耳をすませる。次第に逆立っていた髪の毛が勢いを失い、ふわりと肩に、背に舞い降りた。

「………………来てくれてうれしいよ、カル。ありがとう」

 胸元に押し当てられる、生きた体の確かな手触りと温かさ。ささやきとともに伝わるかすかな振動に、ようやくランドールの心は落ち着きを取り戻した。

「すまない、大きな声を出して」

 深く息を吐き出す。
 色のない砂漠で、彼女を必死で探した時の焦りと喪失がまだどこかに残っているのだろう。ともすれば幼い日の喪失の記憶と結びつき、この瞬間にも積み重なった時間を突き破り、噴き出しそうになる。
 すっぽりと抱きしめ、髪を撫でた。背中を撫でた。
 できるだけ多くヨーコに触れ、存在を確かめずにはいられなかった。

「Cal……Calvin……」

 やわらかな声が耳をくすぐる。何故だろう? 今、君を抱きしめているのは私のはずなのに。
 君に包まれているように感じる。

「本当は、こういう時はサリーの方が君には楽なんだろうけれど……来る段階では、私の方が良いと思ったんだ」
「いいの」

 ヨーコが顔を上げた。

「あなたが来てくれて、嬉しい」

 つやつやと濡れた瞳の中に、穏やかな光の粒が踊っている。星のように、揺れる水面の煌めきのように。
 じっとのぞきこんだまま、かろうじて意識のみ外側に向けようと努力してみる。

「……神父様はまだしも、若者二人は……少なくともコウイチは飛んできそうだけれど……向こうも何かあったのだろうか」
「たぶん、私の体を守ってくれているのだと思う。それに………」

 ふっと目元が和らぎ、サクランボのような唇の合間から白い歯がこぼれ落ちた。

「あの子たち、ちゃんと来てくれたよ?」

 リボンを運び、導いた風。
 星の陣を引き、道を開いた五本のナイフと電光のライン。夢魔の動きを封じた光の雨……

(なるほど、確かに彼らはあの場に居たんだ)

 今、この場にいるのは二人。だれの目を気にすることもない。
 今、この瞬間は。

 手のひらで頬を包みこむ。
 彼女は確かに、ここにいる。

「素敵な所ね」
「ああ、気持ちのいい場所だね」
「うん。おだやかで、とても安らぐ……ここは、あなたの夢なのかな」
「君の夢かもしれない」

 ヨーコは手を伸ばし、頬を撫でてくれた。

「髪の毛くくってない所、初めて見た」
「みっともない所を見られてしまったね」
「ううん。似合ってる。何って言うか……華麗で荘厳。王子様みたい」
「そうかな」

 ほっそりした指が髪の間を通り抜け、細やかな光の粒が弾けてこぼれる。何やらくすぐったい。
 お返しとばかりに彼女の髪を撫で梳いた。はらはらと小さな花が。小指の先ほどの花びらが散り出でる。果実のような爽かな酸味と、甘さの入り交じった香りが舌先に触れる……やっぱりくすぐったい。

「気持ちのいい場所だね……」
「ああ、もう少しだけ、居たい……かな」

 どちらからともなく指をからめ、握りあった。
 降り注ぐ木漏れ日が輝きを増し、見えるもの、触れるもの全てが光の中に溶けて行く。

(ああ。もうすぐ夢が終る)
 
 夢からさめる間際に耳元に囁かれる。

「Thanx,Cal……」

 その言葉で十分だった。じりじりと焼ける熾き火は……もう、ない。

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【ex10-20】後ろの正面だぁれ

2010/05/03 0:08 番外十海
 
 動いた。

 三上蓮は剣を構える手をわずかにゆるめ、視線を転じた。

 固く閉ざされたまぶたが、ほんの少しだけ。一瞬、痙攣の前触れかと身構えたが、先刻の一撃以来、亀裂の侵食は止まっている。
 羊子も静かに眠っている。
 見た限りは。

 また、動いている?
 ずいっと顔を寄せた。どんなかすかな動きも見逃すまいと。

 ぱちりと目が開く。黒目の大きな瞳が、はっきりと見返してきた。
 
 ああ。
 彼女だ。

 剣を握る手から力が抜ける。つかの間、表情を取り繕うことを忘れていた。
 数時間分の不安と緊張が一気にほどける。それなのに、この羊さんと来たら! じとーっとにらんでおられる。

「……顔が近いぞ、レン」
「あなたが悪夢に飲まれそうでしたので。いざというときの備えですよ」
「………そうか」
「お帰りなさい」

 妙に密度の濃い視線を感じ、ちらっと肩越しに背後を振り返ると……こっちもにらんでいた。
 彼らの基準でも、近過ぎたらしい。
 いそいそと体をよけ、道を空ける。傍らをすり抜け、風見とロイが飛びついた。

「よーこ先生っ」
「センセイっ」

 自分より背の高い生徒二人にしがみつかれ、ちっちゃな『よーこ先生』の体はぐらぐら揺れた。ちょっとだけびっくりした表情を見せたがそれも一瞬。すぐに顔をくしゃくしゃに笑みくずし、金髪と黒髪、二つの頭をなでまわしている。

「すまん……心配かけた」

 床に刻まれた螺旋の亀裂は消えていた。悪夢の侵食が、修復されたのだ。三上の焼き付けた篭目紋もろとも、まるでそれ自体が夢だったように……。
 いや、あるいはあの時、この社殿そのものが半ば悪夢の中に飲まれかけていたのかも知れない。

「ありがとな、風見。ありがとな、ロイ」

(あー、あー、あー……、そうですか。私にはにらみつけただけで感謝の言葉もなしですか……やれやれ。私だって、けっこう頑張ったんですよ?)

 至極妥当な結果ではあるのだが。そこはかとなく、納得行かない。

「まぁ、その様子でしたら辛うじてMr.ランドールは間に合ったようですね?」
「っっ!」

 これぐらいの反撃は、許されるだろう、うん。
 ぎっと社殿の扉が開き、雲水姿の細身の青年が飛び込んできた。づかづかと歩いてきて、ぎっと三上をにらみ付けたが、にらまれた方はどこ吹く風。細い目でにこにこと笑み返している。
 しばし二人はにらみ合った。と言うか、一方的に雲水が神父を睨んでいた。
 が。

「蒼太……来てくれたのか」
「羊子さんっ」

 巫女のひと言であっさりお開きになったのだった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 その頃、サンフランシスコでは。

「う……ん……」

 シモーヌ・アルベールが意識を取り戻していた。

「気がついたかい、Miss.シモーヌ」
「だ……れ?」
「ランドールだよ。君と同じ会社で働いてる」
「なぜ……ここに」
「君の同僚たちが心配していたんだ。休暇が明けたのに、会社に出てこなかっただろう? 連絡も無し、電話にも出なかったし」
「ああ……」
「もう、心配いらないよ。ゆっくり眠りたまえ」
「……はい……ありがとう……」

 すやすやと眠るシモーヌの傍らでは、サリーがいそいそと布を取り外していた。次第に部屋の中に日の光が差し込んで来る。

「こんなに明るい部屋だったんですね、ここ」
「ああ。気持ちのいい部屋だね」

 淀んだ海の匂いも。じっとりと肌にまとわりつく濡れた髪の気配も。全て部屋から消えうせていた。
 そして織り機にかかった織りかけの布も。窓を塞ぎ、床に敷き詰められていた布も。全て糸一本に至るまで、にごりの無い青に戻っていた。
 晴れた日の空を写した、カリフォルニアの海の色に。

「もう安心ですね。じき、救急車が来るし」
「ああ、助かったよ、君が獣医師で」
 
 911に連絡をしたのはサリーだった。てきぱきとシモーヌの状態を説明し、指示をあおぎ、必要な措置を取ってくれた。

「人間も、動物も生き物ですし。応急処置ぐらいは、できますから……あ、でも何て言って説明しよう、ここにいる理由」
「無断欠勤をした社員の家を訪れたら、返事が無かった。鍵も開けっぱなしで、中に入ると倒れていた。だいたい、こんな所かな」
「……そうですね。それがいい」

 ふとサリーはランドールを見上げ、小さく首をかしげた。

「あれ? ランドールさん、セーターどこに置いてきたんですか?」
「あ……」

 今日は寒い日だった。最初に来た時は、厚手の白いセーターを着ていたはずなのに。
 ああ、そうか。きっと、よーこちゃんを助ける時に変身したんだ。

「また、脱いじゃったんですか?」
「ん……まあ、そんな所だね」
「でも、だいぶ上達しましたね! 他はちゃんと着てるし!」
「そ、そうかな」
「はい!」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 日本、綾河岸市、午前2:00。
 羊子は風呂を浴びて寝巻きに着替え、寝室に引き上げた。ふすまを閉めるより早く携帯が鳴る……サクヤからだ。

「よーこちゃん」
「サクヤちゃん」

 同時におかえり、と言っていた。
 電話越しに『お』の音が重なる。海を越える時間差を挟み、輪唱みたいにきれいにそろった。

「無事でよかった」
「……うん、ありがとう……シモーヌさんは?」
「病院に運んだよ。睡眠不足と脱水症状で衰弱がひどくて。しばらく入院するけど……命に別状はないよ」
「そっか、よかった。おつかれさま」
「よーこちゃん」
「何?」
「もう、大丈夫だよね」
「……うん。もう、大丈夫」

 ※ ※ ※ ※
 
 風見光一とロイ・アーバンシュタインは神社の居間ですやすやと眠っていた。
 しっかりと手を握りあい、ぴたりと寄り添って。

 社殿から引き上げて、あたたかな部屋で熱い茶をすすり、ほっと顔を見合わせた所で、風見がぎゅうっと相棒にしがみついたのだ。

「やったな、ロイ!」
「……うん」
「ははっ」

 たまたまその場には、他に誰もいなかった。だからこそ一気に緊張から解放されたのだろう。
 そのまま、風見はすうっと眠ってしまった。
 さながら、猫じゃらしに前足をのばしたまま眠る子猫のように。

「コ……コウイチ?」

 急に静かになった風見の体が、ぐいっと寄り掛かってくる。ロイの心臓は肋骨を破って飛び出さんばかりに高鳴った。
 しかし、すぐにおだやかな寝息をたてる親友に気付いて顔をほころばせる。
 首をひねってつややかな黒髪に顔をうずめ、ささやいた。

「オツカレさま」
 
 しかしながら。極限まで力を放出して、疲れていたのは彼も同じだった。先生を助け出した安心感から、張りつめていた気力がぷしゅっと抜けたのも。
 そのままロイはこてん、と風見によりかかり、すやすやと寝入ってしまった。ほとんど気絶するようにして……幸せそうな笑みを浮かべて。
 
 そして今。寄り添って眠る二人の少年の様子を、桜子と藤枝がのぞきこんでいた。

「ロイくん、風見くん?」
「あらあら、まあまあ」
「よく寝てること」
「これじゃお部屋に運ぶのは無理ね」
「お布団もってきてあげましょう」
「そうしましょう」
「でも、その前に」

 二人の母さんたちは、瓜二つの顔を見合わせ、にまっと笑い……同時に携帯を開いたのだった。

 ※ ※ ※ ※

 まったく同じ頃、羊子もまた携帯を片手に悩んでいた。

(電話、しようかな。した方がいいのかな)

 無論、相手はサクヤではない。彼とはほんの今し方まで話していた。もっとも、今電話をかけるかどうか迷っている相手にしたところで少し前まで一緒に居たのだが……。

(ええい、迷っていてもしかたない! ここは一つ!)

 勢い良く携帯を開き、ボタンを押そうと身構えた瞬間、画面が点滅した。

「わわわっ」

 送信者は『ランドール』。互いに番号を交換した頃にはまだ、愛称で呼ぶほど親しくはなかったのだ。

「……は……Hello」
「ヨーコ」
「カル」
「風邪を引かないように、すぐ躯を温めるんだ。良いね」

 開口一番、これだ。水に濡れたのも。服を脱いだのも、あくまで夢の中できごとで、現実じゃないのに……

「うん……お風呂入って着替えたから、安心して」
「そうか。よかった」

 ほっとする気配が伝わってくる。全力で心配していてくれたのだ、この人は。さっきの台詞にしても、電話が通じたらすぐ伝えようとスタンバイしていたのだろう。
 苦笑する? 呆れる? とんでもない。
 うれしかった。

「………あのね………その……んと…………」

 過剰に感激するのでもなく。恥ずかしがるのでもなく、意地を張って拒絶するなどもっての他。
 ただ、うれしかった。

「……ありがとう、カル」

 電話の向こうで、彼女がささやいた。
 ありがとう、と。
 夢の中でも同じ言葉を聞いた。
 二つの言葉が重なり、教えてくれる。まちがいなくあの時、自分とヨーコは一緒にいたのだと。
『君の助けになれたのが…私で良かった』言いそうになって、思い直して微妙に言葉を組み替えた。

「……うん。私が…君の助けになれて良かった」
「来てくれて……………うれしかった」
「何度でも行くよ。君だって、私を助けてくれたろう? 熱い、閉ざされた箱の中で」
「……うん」
「そっちではもう遅い時刻だね。ゆっくり休みなさい」
「あなたも、無理はしないで」
「ああ。今日は定時で上がることにしよう」
「ん、そうしなさい」

 ちょっぴり教師風を吹かしてから、羊子は電話口にささやいた。ため息よりも秘かに、やわらかな声を送った。

「おやすみ」
「……おやすみ」

 電話を切る。
 ほうっとため息をつく暇もなく、背後から声をかけられた。

「おすみですか」
「ひゃいっ?」

 その場で飛び跳ねた拍子に、携帯がつるんと手から飛び出す。慌ててキャッチ、またつるり。

「うおわっ。ったたた、わーっ」
「まぁまぁ、とりあえず落ち着いてメリィちゃん」

 華麗な(?)ジャグリングを披露する羊子を見ながら、三上蓮は平静を取り繕うと努めた。それでもこみあげる笑いを100%こらえることはできず、くくっと咽の奥から小さな声が漏れる。

(……駄目だ、反応が面白すぎる。これ以上ここにいたら、限界が……)

「だから! メリィちゃん言うなって……ってか、い、いつからそこに居た!」

 やっとのことで携帯を確保、じとーっとにらみつける。が、妙だ。三上の姿がぽやーっとして、焦点があわない。

「誤解しないでください? 単にこれを、ね。洗面所に忘れてたので、届けに来たんですよ」
「あ」

 手を伸ばし、三上はひょい、と赤いフレームの眼鏡をタンスの上に置いた。
 羊子は珍しくパジャマを着ていた。いつもは和装の寝巻きなのに。さらに言うなら、上に着ている白いセーターは明らかに男ものだ。
 悪夢から目覚めた時、既に彼女の体を包んでいた。あれは、どこから来たのだろう? 
 じっくりと目測し、本来、これを着ている人間の体格を割り出してみると、やはりと言うべきか。予想していた人間と合致した。

 なるほど。
 三上の口元に会心の笑みが浮かぶ。
 少しは進展があったようだ。 

「何、にまにましてる」
「失礼だなあ。私はもともとこう言う顔ですよ?」

 ひょい、と身をかがめてのしかかり、耳元でささやいた。

「ね、言ったでしょう?『諦めなければ、目はあるかも』って」
「………」

 勝った。
 耳まで真っ赤になってる。

「では、おやすみなさい」
「……オヤスミ」

 静かな足取りで部屋に戻る間、三上の頭の中では、ずっと一つのメロディーが流れていた。

(メリーちゃんの羊、羊、羊……)

 かろうじて、心の中で歌い続けることで抑制していた。今にも自分の中からあふれそうな感情を。

(メリーちゃんの羊、かわいいな……)

 もう少しで、自分の部屋だ。幸い、隣室を使っている風見くんとロイくんは居間で寝ている。多少騒いだところで迷惑になる気遣いはあるまい。

(メリーちゃんの羊、かわいいな……)

 ゴール。
 自室に戻ると、三上はすうっと息を吸い込み………

 爆笑した。
 実に晴れ晴れとした気持ちで、笑ったのだった。

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【ex10-21】悪夢在る所、必ず!

2010/05/03 0:09 番外十海
 
 三日後。
 
 よく晴れた土曜日。真っ青な空の下、木立の中にすっくと立つログハウスのテラスで、犬を連れた家族連れがくつろいでいる。
 金色の日差しを浴びて、毛の長い犬がころんと寝転がる。まるで絵本にしたくなるような情景だった。

「今日はみんな外に出てるね」
「風がないからかな。お日さまも照ってるし、犬は外の方が好きだから」

 結城羊子は、教え子二人を伴って再びドッグカフェ「しあわせのしっぽ」を訪れた。
 先週は食事をすますのもそこそこに慌ただしく店を出なければならなかったし、がんばった風見とロイへのねぎらいの意味もあった。

「こんにちはー」
「やあ、いらっしゃい!」
「ジャック!」

 青い瞳のシベリアンハスキーは、ちゃんと覚えていてくれた。
 太いしっぽをわっさわっさと振って、出迎えてくれた。

「うふ、うふっ、うふ」
「やん、くすぐったい……あ、こらっ、そんなとこに鼻つっこんじゃだめ!」

 言ったところで手加減無し。全然いやがっていないのは、犬にもよくわかってるのだ。
 風見とロイも万事心得たもので、さっさとテラスに面した窓際の席に座り、すました顔でメニューを開いている。
 おかげで羊子は心置きなく、看板犬とたわむれることができた。

「ジャックー」
「わう」
「ジャックー」
「わうん」
「鼻ながいねー」
「へっへっへ」
「尻尾ふといねー」
「へっへっへっへっへ」
「筋肉質だねー、むっきむきだねー」
「うふ」

 ほとんど会話が噛みあっていないようで、何やら通じるものがあるらしい。羊子に話しかけられるたびにジャックの尻尾の動きはますます激しくなり、とうとう肩に前足をのせて顔をなめはじめた。

「あ、こら!」

 見かねてヒゲのマスターが叱咤する。が、風見はにこにこと首を横に振った。

「いいんです、喜んでますから」
「そうですか……なら、いいんですが……やあ、それにしてもワイルドなお嬢さんだ」
「ええけっこうたくましいですよ、見かけと違って」
「そうみたいですね」

 羊子は負けじとジャックにしがみつき、一緒になって床にころんと転がっていたのだった。
 
「先週から思っていたんですが、珍しい学校ですね」
「え? そうですか?」
「ええ、男子だけ制服があって女子は私服だなんて」
「あー……はは、は……」
「同じクラスなんですか?」
「ええ、まあ」

 風見とロイは笑顔で受け流した。

(確かに同じクラス、だけど……)
(生徒じゃなくて、担任の先生なんデス!)

 タータンチェックの巻きスカートに黒のスパッツを重ねばき、生成りのハイネックのセーターに、カフェオレ色のジャケット(襟大きめのピューリタンカラー)なぞを羽織った姿はどう見ても、女子高生なんだけど……。

「って言うか、この場合はスパッツが原因か?」
「スパッツだネ」

 むくっと羊子が起き上がった。一瞬、風見とロイはひやりとした。ごく小さい声で話してたはずなんだけど、聞こえちゃったか?
 青い瞳の黒い犬を背後に従え、すっ、すっとまっすぐに歩いてくる。迷いの無い足取りでテーブルの脇を通りすぎ、そのままテラスに出てしまった。

「え?」
「アレ?」

 こっちを向いて、ちょい、ちょい、と手招きしている。言われるまま、近づいた。

「ほら」

 手すりにつかまりのびあがり、すっと一点を指さした。
 さらさらの空気の中に伸びる腕。ほっそりした指の導く先に視線を向けると……。
 遊歩道を見覚えのある人たちが通りかかった所だった。がっちりした、岩を刻んだようなゴードン氏と、華奢で小柄なグレース夫人。ふっくら丸いお腹を手のひらで支え、二人よりそって歩いている。
 たがいに手をしっかり握って、晴れ晴れとした表情で。話す声はここまでは聞こえない。だが幸せそうだ。まとわりつく影は跡形もなく、憂いの表情も消えている。
 ベネット夫妻の姿が見えたのは、ほんの短い間だった。
 呼び止める暇もなく、二人の姿は木立の向こうへと消えて行く。おそらく家に帰るところだろう。

 三人は静かに笑みを交わした。
 風見がぽつりと言った。

「三上さんと蒼太さんも来ればよかったのになー」

 ロイがうなずく。

「蒼太さんがすーっと来てすーっと帰るのはいつもの事だけど。三上さんまでいきなり居なくなっちゃって、ビックリしたヨ」

 事件の翌朝。
 不覚にも居間で目覚めた後、社への参拝をすませてから部屋に戻った少年二人は、隣室のふすまが開け放たれているのに気付いた。
 いるはずの人の気配はなく、遠慮しつつ中をうかがうと……
 きちんと片づけられた部屋の文机の上に、一通の置き手紙があった。宛名の中に自分たちの名も連ねられていたので、開封してみると。

『長い間お世話になりました。
 高原より誘いがあったので本職に戻ります。
 ご用の際は教会まで。 三上』

「……あれだけ残して行っちゃうなんて……さ……」

 さみしげな風見の肩を、羊子がぱすん、と叩く。

「まあ今生の別れって訳でなし。近いうちに会えるよ、たぶん……」

 サムズアップを決めつつほほ笑む羊子の胸元には、白桃色の勾玉と、金色の鈴が揺れていた。

「悪夢在る所、ナイトメア・ハンターは必ず現れる。そうだろ?」
「そうですね!」
「ハイ!」
 
 ロイと風見も笑顔でサムズアップを返した。 
 
 実の所、羊子はちゃんと知っていたのだ。あの日、三上蓮がひっそりと神社を去ろうとしていたのを。


 ※ ※ ※ ※
 
 
 夜明けより少し前。
 神父服にトレンチコートを羽織り、古びた革のトランク一つさげ、十字架を背負った人影が大股で歩いていた。大鳥居前で振り返り、深々と一礼。再び歩き出そうとすると………目の前に、ちっぽけな手乗りサイズの巫女さんが浮いている。

「……おや」

 顔は羊子に瓜二つ。何やらぷんすかむくれている。ちょん、と指先でつつくと鈴に戻り、ちりん、と手のひらに転がった。

「こら、そこの夜逃げ神父」

 背後から声をかけられる。

「夜逃げとは心外な。今は朝ですよ?」
「混ぜっ返すな」

 さり、さり、と軽い足音が玉砂利を踏んで近づいてくる。長い黒髪は結いもせず、パジャマの上から羽織った白いセーターの上にさらさらとこぼれるまま。足下を見ると、何としたことか。素足に草履を履いただけだ。

「水臭いぞ。だまって行くつもりか?」

 鈴に戻ったちっちゃな分身と同じ顔でにらんでる。いや、元がこっちなんだから当然か。

「手紙を残してきましたので……昨夜のこともあるし皆さんお疲れでしょうし……はい、これ」

 鈴を返そうと屈みこむと、彼女はひょいと腕を広げて抱きついてきた。初めて会った日のように精一杯のびあがって。

「……ありがとう、レン」

 トランクを握る手が離れる。使い込まれた革の表面が、敷き詰められた石の玉を叩く。ほっそりとした腰に手を巻き付け、抱き返していた。

「いけませんよ、こんなことをしては」
「よく言う。拗ねた顔してたくせに」
「見てたんですか。酷い人だ」

 柔らかな吐息が当たる。胸元から首筋を伝い、ほのかな温もりを含んだ香りが立ち昇る。笑っているのか、単に息を吐いただけなのか……。

『決めた。わたし、レンと結婚する』
『結婚して……レンの家族になってあげる』
『そうすれば、もうさみしくないよね』

 ぽん、ぽんと手のひらで背中を叩いた。肩に手を当て、そっと体を離す。

 そうだ、これでいい。
 これぐらいの距離がなければ、顔を見ることはできない。

「いけませんね。若い娘さんがそんな格好でのこのこと出歩いて。早朝は冷える。早くお戻りなさい」
「大丈夫、セーター着てるし、ほら」

 胸元からもこっと三毛猫が顔を出す。

「おや、おタマさん」
「うん、おタマさん」
「にゃ」
「道理で。妙にふかっとしていたと……」
「何だとっ?」

 むきーっとふくれた顔の前に、ひょいと鈴を差し出した。

「これ、お返しします」

 羊子は鈴ごと両手で包み込み、そっと押し返してきた。

「………いいの。あなたが持っていて」

 ほほ笑む彼女の胸元で、金色の鈴と勾玉が触れ合い、ちり……とかすかな音色を奏でる。
 砕け散ったはずの勾玉は、悪夢の侵食が消失すると同時に元に戻っていた。

 いや、正確にはほんの少し、変化している。
 白桃色の表面に一筋、鮮やかな青が宿っていた。

(もう、大丈夫ですね。私がここで果たすべき役目は、終った)

「では、ありがたく」

 別れの言葉は、どちらも口にしなかった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 サンフランシスコ、金曜日、21:00。
 ランドールは懲りずに押しかけてきた親友チャールズ・デントンと共につまみをかじりつつ、グラスを傾けていた。
 さすがに今回はいつぞやほどグダグダにはならず、ウィスキーをソーダで割る余裕がある……今の所は。

 二人が代わる代わるに手をつっこんでいるのは、チャーリーが持参した「デントン・ローストナッツ」のマスタードオニオン味の大入り缶。
 彼の会社で、曽祖父の代から作り続けている定番商品だ。キッチンから皿を持ってきたら、既にチャーリーはさっさと開けて直にポリポリやっていた。

「色々食べ比べてみたが、やはり君の所のが一番美味いよ、チャーリー」
「そうだろう、そうだろう! こと、ピーナッツにかけちゃうちの会社は決して妥協しないからね!」
「なるほど、さすがピーナッツバターの王子様、だ」
「そう言う君は繊維の王子様だね!」

 ピーナッツバターの王子様。
 彼の実家が、ピーナッツバターを主力商品としていたのをからかってつけられた学生時代のあだ名だった。ところがチャーリーときたら、怒るどころか胸を張って言い放ったのだ。

『そうとも。僕の家は曽祖父の代からピーナッツバターと共に歩み続けてきた。まさしく、僕はピーナッツバターの王子様だ!』

 あれから6年。彼は家業を受け継ぎ、ピーナッツバターの王様に即位した。そしてあの頃と変わらぬ大らかさと快活さでもって、今なおランドールのよき友でいてくれている。
 遠慮や建前と言うものは、自分たちの間には存在しない。

「グラスが空いてるよ、カル」
「君こそ」

 とくとくと酒を注ぎ、次いでソーダ、仕上げにレモンをきゅっとしぼる。どちらともなくグラスを掲げ、かちりと合わせた所で携帯が鳴った。
 メールだ。

「ちょっと失礼」

 この音、コウイチからだ。まさか、またヨーコの身に何かトラブルが? 
 いや、いや、落ち着け。緊急ならまず直接、電話が来るはずだ。

 開いた画面を見るなり、ランドールはほっと安堵した。

『今週も犬カフェにランチに来ました』

 だが、添付された写真を見てがく然とする。ヨーコが。狼に似た、ピンと耳のたった黒い犬に抱きついている。あまつさえ、その黒っぽい毛皮に顔をうずめてうっとりしている!

「ヨーコ……そんなシベリアンハスキーなんかに!」
「お?」

 チャーリーがのっそりとのぞき込んでくる。そこに次のメールが届いた。矢継ぎ早に開ける。

『常連さんの犬と遊んでいます』

「あっ、こっちの写真はボルゾイじゃないか……くっ、今度はアイリッシュウルフハウンド。よりによって……っ!」
「あー、どっちも狼狩りの犬だねえ」
「ああ、そうだね」
「あ、またハスキーだ。このイヌがお気に入りらしいね、彼女。見てごらんよ、ちゅーしてる!」
「ちゅー? 単に舐めてるだけだろう。親愛の情を示す、犬にとってはごく普通の行為だ」
「つまり好きってことだよね」
「………」

 どうしたことだ。先週の写真と今、目の前に届いた写真とにどんな違いがあると言うのか。犬の種類が多いからか。写真の数が増えたからか。とにかく、この前とは違ったモヤっとした苛立ちを覚える。
 自分と同じ、青い瞳の黒い犬を抱きしめている彼女を見て『可愛いなあ』と素直にほほ笑むことが、できない。

(ヨーコ。そんなに毛皮が好きなら、私に抱きつけばいいじゃないか……それを、どこの馬の骨とも知れない犬なんかに!)

 そうだ、『犬』だ。どれほど外見が似ていようと(いや、似てない。断じて似てない!)あれは『犬』だ。
 狼ではない!

 ふと、シャツの襟元からのぞく自分の胸に目を向ける。
 そういえば、彼女はこの胸毛を気に入っていた様だった。一緒に寝た時も、顔をうずめていた。

(まさかヨーコ……私は犬達と同じ括りなんじゃ……)

「チャーリー」
「何だい?」

 おもむろにシャツの前を開き、友人の手をとって自分の胸へ乗せてみる。

「私の胸毛をどう思う?」

 チャーリーはまじめ腐ってふさふさと親友の胸をなで、しかる後にゆっくりと頷き、厳かに答えた。

「うん、ふさふさしてるね。動物みたいだ。女の子は好きだよねー、犬とか猫とかぬいぐるみとか、ふさふさしたのが!」

(やっぱり!)

「チャーリー」
「何だい?」
「正直に答えてくれ。私は、犬っぽいと思うか?」
「えっ、自覚なかったのっ?」

 ランドールは目をむいてにらみ付けた。めくりあげた唇の間から、白い犬歯がちらりとのぞく。

(うんうん、どこから見ても立派な犬だよ……)

 この瞬間、いい具合にアルコールでほどけたチャーリーの頭に一つの天啓が閃いた。

(カル……そうか! 君は、ワンちゃんプレイ(Puppy Play)に目覚めていたんだね! ご主人はもちろん、彼女だ。そうなんだね?)

「そんなに睨むなよ。ビーフジャーキー食べるかい?」
「……もらう」

 憮然として、がしがしとジャーキーをかじる友人を、チャールズ・デントンはなまあたたかいまなざしで見守った。

(ああ、いけないなあ、ご主人様以外の人間からほいほい餌もらっちゃあ……まだまだ修業が足りないな。がんばってヨーコにせっせと尽くしてくれたまえ、親友!)

「カルヴィン。何があっても僕たちは友だちだよ」
「あ、ああ……ありがとう」


 分かりあっているようで、二人の頭の中は微妙にすれちがっていた。

「グラスが空いたよ、カル」
「君こそ」

 今度は氷もソーダも入らなかった。

(水の向こうは空の色/了)
 

「チャールズ」
「何だい?」
「……犬を飼おうと思うんだ」
「え?」

(おしまい)

 →その頃、サリーちゃんは……

 next episode→【ex11】ぽち参上!

★★君を包む柔らかな灯

2010/05/03 0:11 短編十海
 
「……ん……」

 密やかな振動に眠りの底から呼び起こされる。
 腕の中に抱いていたしなやかな体が、もそもそと抜け出す気配。うっすらと目を開けると、枕元のサイドランプが放つやわらかな灯りに包まれて、レオンがぽやーっとした顔で座っていた。視線を宙にさまよわせ、髪の毛はくしゃくしゃのままで。
 まだ半分、眠っているらしい。
 ああ、可愛いなあ……。うつぶせになったまま片目を開けて見守った。
 
 papamama3.jpg
 illsutrated by Kasuri
 
 こいつ、これから何をするつもりなのかな。ここまで起き上がってるってことは、したい事があるに違いない。
 トイレに行くなら問題はない。ただこのままベッドの中で戻るのを待てばいい。だけど、のどが渇いた、水を飲みに行こうかな、なんて考えているとしたら話は別だ。
 ざっと頭の中でシミュレーションしてみる。
 このままふらふらとキッチンまで歩いて行って、ぽやーっとして思考の回らない頭で手探りで冷蔵庫を開けて、水のボトルをとり出す。フタを開けて、コップに注いで……。
 
 ガシャン。
 運が良ければ、ゴトン。いずれにせよ、やらかす。

 レオンはごそごそとガウンを羽織り、足をスリッパに突っ込み、ほてほてと歩いてゆく……バスルームではなく、寝室の出入り口に向かって。
 やっぱ水か。
 
「レオン」

 ドアノブに手をかけたまま、ゆるっとした動きで振り返った。目をしぱしぱさせて、まぶしそうにこっちを見てる。

「ああ………起こしてしまったかな」
「気にすんな」

 ベッドから滑り降り、ガウンを羽織った。微妙に丈が足りない……左胸を確認すると、イニシャルの縫い取りが『D』ではなく『L』だった。
 やれやれ、無防備にもほどがあるぞ、レオン。
 大股に部屋を横切り、隣に立つ。

「俺もちょうど、のどが渇いたところだ」
「ん……」

 こてん、と肩に顔を寄りかからせてくる。さらさらした髪の毛に顔をうずめてキスをして。
 二人で寄り添い、廊下に出た。

「今夜は冷えるね」
「ああ、冷えるな」

 肩に手をかけ、包み込む。レオンの身体をすっぽりと腕の中に。
 キッチンには、夕食後に仕込んだトルティーヤの香りがまだほんのり漂っていた。

「いいにおいだ」
「明日の弁当用だ」
「楽しみにしてるよ」

 シエンは夕食は一人遅れてとった。けれど、ランチの下ごしらえは一緒に手伝ってくれた。
 冷蔵庫からクリスタルカイザーのボトルをとり出し、コップに注ぐ。二つのうち片方をレオンに手渡した。

「そら」
「ありがとう」

 向かい合って水を飲む。ゆるく上下する咽の動きを見守った。
 最近、乾燥してるからな。寝室にも水、置いとくか。そうすりゃ、キッチンまで出なくてもその場で飲める。
 空になったコップを受け取り、軽くゆすいで食器カゴに立て掛けた。

「……」
「どうした、レオン」

 ぺろり、と胸元を舐められる。

「っ、なにをっ」
「こぼれてた」

 さらっと言いやがったな、こいつ!

「舐めたら、意味ないだろ」
「俺には、ある」

 すました顔で言うと、レオンは当然と言う顔つきでキスしてきた。逃げる理由はなかった。

「……これはおやすみのキスなのかな。おはようのキスなのかな」
「両方、だ」
「冷えてきたね」
「ああ、冷えてきたな」

 しんしんと忍び寄る夜の冷気に急かされ、ベッドに戻る。ガウンを脱ぐ段になってレオンは始めて首をかしげた。ようやく気付いたらしい。

「こっちは、君のだった」
「ああ」

 脱いだのをばさっと顔にかけてやる。

「わぷ」
「そっちがお前のだ」
「……」

 むっとした顔をすると、レオンはがばっと掴みかってきた。あっと思った時はスプリングがきしみ、ベッドに押し倒されていた。
 ゆるゆるとキスをして、互いに撫であい、まさぐりあう。じきにベッドの中に二人分の体熱が立ちこめて行く。
 
 もう、寒くはない。
 

(君を包むやわらかな灯/了)

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ポップコーンフラワー

2010/05/03 0:13 短編十海
 
 
 土曜日。サリーは久しぶりにのんびりと買い物に出かけることにした。
 バスと市電を乗り継いで、フェリービルディングに。今日はファーマーズマーケットの開かれる日だ。

 四角い時計塔を囲んだ赤レンガの広場には、新鮮な果物や農産物や乳製品のぎっしり並んだ屋台がひしめいている。
 バークレーに居た頃に通っていた、美味しいパン屋さんも出店を出している。
 一人暮らしだからそんなにたくさん食材は買わないけれど、見ているだけでけっこう楽しい。
 ビーズや手作りのカゴ、編み物に織物、木を削ってつくった箱や椅子。手作りの品物を並べたクラフトショップあるし、古本や古着やレコードを並べている店もある。

 きょろきょろしながら歩いていると、ふわんっと香ばしいトウモロコシのにおいが漂ってきた。ポップコーンだ。いつも通るたびに「美味しそうだなあ」と思うのだけど、とにかく量が尋常じゃない。
 枕かと思うくらいの袋に大粒のポップコーンがぎっしり、1サイズオンリー、小分けなし。とてもじゃないけれど食べきれない。

 子どもの頃もそうだった。
 神社のお祭りの屋台。よーこちゃんに手を引かれて二人で回った。わたあめ、リンゴ飴、チョコバナナにホットドッグ。お祭りの時だけ売っている食べ物は、とてもキラキラしていて。味よりもまず、買ってもらったって言うことそのものが嬉しかった。
 ……なぜか、わたあめの袋はいつも女の子用だったけど。よーこちゃんとおそろいだったから、気にしてなかったなあ。
 そもそも着てた浴衣からしてピンクだったし。金魚とか、ウサギとか、朝顔の模様だったし。

 つい、ちっちゃい頃のこと思い出してしまうのは、先日の事件の名残だろう。どちらかがピンチに陥ると、互いに助け合おうと無意識に共鳴するのだ。
 夢が終ってからも、しばらくは影響が残る。クリスマスみたいに二人一緒に酔っぱらってしまう時もあるけど(後で大変だった)それほど悪いことばかりじゃないと思ってる。
 だってよーこちゃん、あれでけっこう素直じゃないんだ。ちょっとは自分の気持ちに正直になってくれるといいんだけどな……。

「わっ」
「あ、失礼っ」

 ぱらぱらっと白くて軽やかなものが降ってくる。とってもいいにおいだ。
 でも、これ、何? 花びら?

 ぽろぽろと転がり落ちてきたものを手にとってみる。

「あ……ポップコーン……」
「すみません、うっかりして!」

 顔を上げる。
 ライムグリーンの瞳に濃い金色の髪。土曜日のラフな服装の人たちの中にまじり、きちんとしたコートとベスト、シャツとネクタイはほんの少し際立って見えた。

「エドワーズさん………」
「え? あ」

 ぱちぱちとまばたきしてる。

「サリー先生」
「はい! こんにちは」
「あ、こ、こんにちは」
「珍しいところでお会いしますね」
「ええ……ジャムの買い置きが切れてしまいまして……」

 もごもごと口の中でつぶやいている。あれ、どうしたんだろう。顔が赤い。

「そ、それに友人が、手作り製本のクラフトショップを出したので、手伝いに」
「そうだったんですか! やっぱり本屋さんですか?」
「いえ。警官時代の友人です。先日退職して、趣味で製本をやってみたいと言うので、私が手ほどきしました」
「なるほどー」
「あー、その……」

 よく見ると、エドワーズさんは大袋入りのポップコーンを抱えている。細長い袋にぎっしりつまった、それこそ大きめの枕みたいなのを。
 そうか、これだったんだ。さっきぱらぱらと花びらみたいに降ってきたのは。

「お好きなんですね、ポップコーン」
「は、はい、子どもの頃、買ってもらったのが懐かしくて。久しぶりに、つい」

 子ども? 
 あ、いや、そうだ。エドワーズさんにだって子どもの頃があるはずだ。
 でも、ちょっと想像できないなあ……。
 どんな子だったんだろう。やっぱり背、高かったのかな。そうだ、確かバンドやってったて……あ、でもそれはけっこう育ってからだよね。

 まじまじと見ていると、エドワーズさんの顔はますます真っ赤になって行く。

「どうしたんですか?」
「あ、いや、その……」

 すうっと屈みこんで顔を寄せてくる。ライムグリーンの瞳が。やや面長の顔が、予想以上に近づいてくる。なぜだか直視できず、視線をさまよわせる……。
 
(あ)

 耳たぶに、透明な粒が光っている。この前見た時はよくわからなかったけど、確かにあれはピアスだ。
 
(エドワーズさんが、ピアスをしている)

 ここはカリフォルニアだ。ピアスぐらい、身に付けてる人はいくらでもいる。学校の友だちにも。病院のスタッフにも。
 だけど、こんな風にきちんとした服装をした紳士の耳に、ピアスが光ってるのを見ると……今さらながらに、どきっとした。

「失礼」

 まさにそのタイミングで、しなやかな長い指が、髪の毛の間を通り抜ける。耳たぶのすぐそばを……掠めた。

「っ!」

 ほろほろと髪の毛の間から、花びらが散り咲いた。白くて、小さくて……くすぐったい。わずかな酸味の混じった甘い、果実に似た香りが舌先に触れる。

「……あ……」

 その瞬間、真冬の海辺、しかもまだ午前中の空気の中にいるのに……
 まるで春の日だまりにいるような、ほわっとした温かさを感じた。ハチミツをたっぷり入れたレモネードを飲んだ時みたいに、胸の奥がくすぐったい。

「その、髪の毛に、ついていましたので」
「え? え、えっと」
「ポップコーン」
「あ……」

 花びらじゃ、なかったんだ。
 俺、頭にポップコーンつけたまま、話してたんだ。ずっとエドワーズさんは見てたんだ……。

 かあっと頬が熱くなる。
 恥ずかしい!

 きゅーっと全身が縮こまる。ああ、どうしよう、もうどこかテーブルの下にでも潜り込んでしまいたい!
 そうだ、落ち着け、と、とにかくお礼を言わないと。

「サリー……先生」
「ありがとう……ございました」

 よし、言えた。

「いえ、元は私がこぼしたのですから……あの、よろしかったらいかがですか?」

 そ、と袋をさし出してくれた。

「え、いいんですか?」
「懐かしさにつられて買ってしまいましたが、やはり一人では多すぎる。一緒に食べていただければ、助かります」
「……はい! それじゃ、いただきます」

 そろっと手を入れる。まだほんの少し温かい。ぽりっと噛むと、新鮮なコーンの甘さが口の中に弾けた。ほどよい塩味に混じった柑橘系の酸味が一滴。レモンとはちょっと違う。きっとライムだ。

「んー、美味しい……これいっぺん食べてみたかったんだ……そばを通ると、いいにおいがするし!」
「ははっ、それはよかった」
「もうちょっと、いただいてもいいですか?」
「どうぞ、どうぞ」

 ちょっぴり意外だった。いつもきちんとしてるエドワーズさんが、立ったままポップコーンを買い食いするなんて。
 でも、ここでは大抵みんな、歩きながら何か食べているから、あまり目立たない。変に見えない。
 だからごく自然に、エドワーズさんと並んで歩いていた。ときどき手を入れて、袋からポップコーンをつまんでかじる。
 会話の合間に、ポリポリと軽やかな音が聞こえる。

「あ、キャラメルアップルだ。懐かしいなー」
「日本にも、あるのですか?」
「ええ、キャラメルじゃなくて、透明なシロップを使ったのが。子どもの頃、水晶玉みたいにきらきらしてるのがきれいで、ねだって買ってもらったことがあったんです。でも、結局食べきれなかった」
「リンゴを一個、丸ごとですからね……確かにけっこうお腹にたまる食べ物だ」
「一度口をつけた食べものは残しちゃいけないって言われてるし。夏だったから、どんどんアメが溶けてべたべた垂れ下がってくる。途方に暮れてたら、よーこちゃんが『じゃ、わたしが食べるー』って、ばきばきとあっと言う間に!」
「それは頼もしい」
「ええ。それ以来、約束ができたんです。リンゴ飴を買ってもらう時は必ず二人で一個! って」
 
 子どもの頃の思い出話。退屈かなって思ったけど、エドワーズさんはにこにこして聞いてくれた。相づちをうちながら、心の底から楽しそうに。

 やがて、古いレコードの並んでいるテントの前を通りかかった。

「……失礼、ちょっといいですか」
「はい、どうぞ」

 立ち止まって、熱心にレコードを見て、お店の人と早口で何かしゃべってる……。
 好きなのかな。クラッシックかな? それともジャズ?
 ひょいと手元をのぞき込む。

 ちがった。
 クラッシックでもビートルズでもない。レッドツェッペリンの「天国への階段」だった。

「あ、これ、知ってる……懐かしいなあ」
「え、これも、ですか?」
「伯父の書斎にあったんです。CDじゃなくて、レコードで」
「……なかなかにアグレッシブな趣味の伯父さまですね」
「よーこちゃんのお父さんです」
「ああ、なるほど」

 結局、エドワーズさんはそのレコードを買っていた。

「同じのを持ってるんですけどね……LPレコードも。CDも。ただレコードは経年劣化でどうしても脆くなる。だからいい状態のを見つけるとどうしても、手が出てしまうんです」
「いいと思いますよ。欲しいなって思ったときめきと、タイミングが奇跡みたいにぴったり合う時って、あるもの。あ、この辺は本も同じかな?」
「なるほど、確かにそうだ!」
「そう言えば、ジャケットは見たことがあったけど、これだって意識して聞いたことなかったな……」
「意外に聞き始めると、『ああ、この曲だ』って思うかも知れませんね」
「そうかも……子どもの時、聞いてたりして」
「実に興味深い曲ですよ。穏やかな旋律がずっと続いていて。このまま穏やかな曲が続くのかと思うと、終盤でがらりと曲調が変わる。打って変わって激しく叩きつけるような音に変わり、最後はまたしっとりとボーカルのソロで締めくくる……何度聞いても、飽きません」

 エドワーズさん、すごく舌の動きが滑らかだ。目をきらきらさせて、うっすら頬まで染めちゃってるよ!
 この人でも、こんなに熱く語ることってあるんだ。
 本と、猫以外のことで。

「っと、失礼、愚にも付かぬことを、ぺらぺらと」
「いえ、面白いです。何だかちょっと聞いてみたくなったな……CDじゃなくて、レコードで」

 エドワーズさんは俺の顔を見て、目を細めて、ほんの少し唇の端を上に上げた。笑おうと意識する前に、嬉しいきもちがほんのりと顔ににじみ出てしまった……そんなほほ笑みだった。

「いいですね。ぜひレコードで聞いてください」
「あの………」

 聞いてみたいけど、レコードが置いてあるのは日本の伯父さんの家だ。この間里帰りしちゃったし、もうしばらく帰国の予定はない。

「今度、お店で聞かせてもらってもいいですか?」

(え?)
(ちょっと待って、俺、今、何て言った?)
(わああーっっ!)

 何て大胆な。これじゃ、ほとんどよーこちゃんの行動パターンだよ……。

 きっと、まだ共鳴が残ってるんだ。そうに違いない。
 エドワーズさん、呆れてるよ。どうしよう、今ならまだ訂正できる、かな?

「あ、えと、その、あの」
「……ぜひ、いらしてください。お待ちしています」
「あ……」

 良かった……。

「それでは、友人が待っていますので。またいずれ……サリー先生」
「はい。あ、ポップコーンごちそうさまでした!」

 きちっと胸に手を当てて一礼すると、エドワーズさんはテントの一つに向かって歩いていった。きっとあそこがお友だちのクラフトショップなんだ。

 どうしたんだろう。
 何だか胸がどきどき言ってる。しかも、ちょっぴりさみしい。
 いつもは「さよなら」を言うのは俺の方からだった。
 お店に行く時は、買い物をして「それじゃ、また」って。
 リズをつれてエドワーズさんが病院に来る時は「もう大丈夫ですよ。お大事に」。だけど今日はちがっていた。先に別れの挨拶を口にしたのは、彼の方だった。

 言われた瞬間、思ってしまった。
 まだほんの少し、一緒に居たいって。

 家に帰ってから気付く。
 今日はエドワーズさんと、猫の話をしなかった。自分たちのことだけ、話していたな………。

(ポップコーンフラワー/了)

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五月の二番目の日曜日

2010/05/11 1:54 短編十海
 
 水曜日、いつものように夕食に現れたヒウェルが、食堂の壁に貼ったカレンダーをじーっと見ていた。サリーからもらった猫のイラストと病院のロゴマーク入りのやつ。
 クレヨンで塗った、絵本みたいなシンプルな絵柄が可愛い。五月の猫は白地に黒のぶち模様の入った子猫が二匹と白い親猫が一匹、ぴったりよりそった後ろ姿。ちょこんと座って、互いに尻尾をからめている。

「その絵、気に入ったの?」
「あ、いや、確かに可愛いけど」

 ヒウェルはひょろ長い指を伸ばすと上から二番目、左端の升目を指さし、ぽつりと言った。

「……そろそろ花とカード準備しとかないとな、って思ってさ」
「何で?」
「うん、今週の日曜日は……」

 指先が、小さな四角い枠の中に印刷された赤い文字をなぞる。
 Mother's Day

「……だろ?」

 次の日。シエンは事務所でアレックスに尋ねてみた。

「母の日って、何をするの?」
「母の日でございますか」

 有能執事はいつもと変わらぬよどみなさで答えた。が、ほんの少し頬に赤みがさしていた。

「わが家では……朝食はソフィアに代わって私が作り、花束を贈る予定を立てております」
「そっか、だからヒウェルも花を準備するって言ってたんだね」
「はい。家を出られてからは毎年、カードと花を送っているとうかがっております」

 シエンはそっと目を伏せ、記憶の欠片をたぐり寄せた。

「そう言えば、俺も……前のママにお花あげたことある。ティッシュでつくったやつだけど」

 子どもの小さな手で作ったティッシュの花を、ママは両手でそっと包み込んで受け取って、顔を寄せ、うっとりと目を閉じた。においなんかするはずのない紙の花なのに。それから目を細ーく開けて、『ありがとう』って言ってくれた。

「……母の日にはお母さんに花を贈るんだね」

 アレックスは静かにうなずき、控えめながらも同意を示した。

「生花ならカーネーションですね。色もたくさんありますよ」
「そっか……うん、ありがとう、アレックス」
「恐れ入ります」

 そして土曜日。
 オティアとシエンは花を買いに行った。花屋の店先には、赤に白、紫、オレンジ、黄色に緑。アレックスの言葉通り、ありとあらゆる色のカーネーションが咲き乱れていた。まるで大箱にぎっしり詰まったクレヨンみたいに。
 花のサイズも何種類もあって、スプレーとか、小花とか大輪とか……『ふつうの大きさはこれです』って、どこかに書いてあれば助かるのに。あまりに選択肢が多すぎて、とまどう。

「どれにすればいいのかな……」

 つい、口に出してしまう。
 髪の色に合わせるなら赤かオレンジだけど、何だか華やか過ぎて、あまり合わないような気がする。白……はあっさりし過ぎてるし、紫は、ちょっときつい。
 クリーム色か緑、かな。
 じっと顔を寄せてしみじみ見比べる。候補にしぼった二色の花を。
 緑の花って初めて見た。どこか野菜みたいで、今一華やかさには欠ける。けれど優しげで、爽かで、そばに置いてあるときっと、和む。
 よし、決めた。

「これを、ください」

 オティアが黙って別の一角に視線を向ける。一目見るなり、シエンは迷わず付け加えた。

「こっちの白い花も一緒にお願いします」
「はい、かしこまりました」
 
 お店のお姉さんは、ちょっぴり不思議そうな顔をしていたけれど、選んだ花をきれいにアレンジしてくれた。
 かすみ草とマーガレットを加えて藤のバスケットにふわりと活けた緑のカーネーションは、かすかにバニラに似た香りがした。
 ディフに見つからないように、オティアの部屋にこっそりしまうことにする。

「これ、預かって」
「………ああ」
「にゃー」

 オーレが飛んできて、くんくんとにおいを嗅いで、バスケットにそろっと小さな前足を伸ばす。

「いじるな」
「みゅ」

 不満そうに耳を伏せた。でも青い瞳は相変わらず狙っている。ヒゲをぴーんと前に突き出し、尻尾をひゅんひゅんしならせて、やる気満々だ。
 オティアはしばらく考えて、ケージの中に花かごを入れた。これでオーレは悪戯できない。

 さて、次は朝ご飯の用意だ。ディフが起きてこないうちに二人だけで作らなくちゃいけない。
 これは、けっこう難しい。朝早くから動いていたら、まず気付かれてしまう。あくまで準備を始めるのはいつもの時間通り、だけどその時、ディフがまだ寝室から出ていないのが理想的。
 レオンに相談したら、余裕たっぷりの表情で頷いてくれた。

「任せておいてくれ」

 これで準備OK。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 日曜日。
 朝の光の中、うっすら目を開けるともうキスされていた。いや、キスされたから起きたんだろうか。
 珍しいな、こいつが俺より早く起きてるなんて……
 ぽやーっと考えながらうっとりと唇を重ね、角度を変え、舌先を重ねてつついたり、くすぐったり。ようやく口が自由になった頃には、すっかり呼吸が乱れ、心拍数もいい具合に上がっていた。

「……おはよう」
「おはよう」

 連れ立ってバスルームに入り、朝の光の中でシャワーを浴びる。互いの手にボディーソープをつけてなで回した。洗ってるのか、抱き合ってるのか、かなりあいまいだが、結果として洗えてるんだからよしとしよう。
 ぬるめのお湯を浴びながら抱き合うのが何とも心地よくて、つい時間の経過を忘れていた。

 やばいな、ちょっと、ゆっくりしすぎたか。
 朝飯の仕度が遅れちまう。

 手早く体を拭き、シャツに手を通す。洗面所を出ようとしたら、ぐい、と肩を押さえられた。

「レオンっ?」
「いけないよ。髪の毛がまだ乾いていないじゃないか……」
「あ……」

 濡れた髪の間に手のひらが差し込まれ、すくいあげるようにしてなで上げられた。
 首筋がひんやりと朝の空気にさらされる。指先で耳たぶをくすぐられた。

「う、よ、よせって」
「うん、まだ湿ってるね」
「あ」

 腰に腕がまきつき、引き寄せられた。左の首筋に、あたたかな唇が押し当てられる。湯上がりで赤く浮かび上がっているであろう『薔薇の花びら』を丹念に吸われ、なめられた。

「あ……ふ……んっ……」
「ん……」

 やばい、膝の力が抜けそうだ……。
 洗面台にしがみついて体を支え、呼吸を整えていると、ばさりとタオルが降ってきた。

「しっかり乾かさないと。今朝は朝食のことは心配しないで。いいね?」
「う……わ……わかった……」

 ほくそ笑む気配がして、静かな足音が洗面所を出ていった。
 言われた通りごしごしと髪を拭き、ドライヤーを吹きつける。何だってあいつ、今朝はやけに、じっくり……絡んできたんだろう。

「……ふぅ」

 ふわっと乾いた髪をツゲのブラシで丹念に梳き、後ろで一つにゴムでまとめる。
 腕時計を確認すると、だいぶ時間が経過していた。朝食のことは心配するなって言われたけれど。子どもたちに任せっぱなしって訳にもいかないだろ!
 足早に寝室を出て食堂に向かう。キッチンからは既に、シエンとオティアが忙しく立ち働く気配が伝わってくる。

「すまん、遅くなった……」

 エプロンに手をのばそうとすると、シエンにちょん、と腕を押さえられた。

「……え?」
「今朝は、俺たちがやっとくから。ディフは座って待ってて」
「あ……うん」
「ほら、座って!」

 背中を押され、すとんと食卓のいつもの椅子に座る。キッチンでは双子がちょこまかと動き回り、パンを切り、野菜を刻んでいる。
 コンロの上では鍋がことこと言っている。
 どうにも落ち着かなくてもぞもぞしていると、レオンがすとん、と隣に座り、肩を抱いてきた。

「ん……どうした?」

 誘われるまま顔を寄せる。頬を手のひらで包まれ、ゆっくりと向きを変えられた。

「あ……」

 テーブルの上に、カーネーションの花かごが乗っていた。バニラに似たほのかに甘い香りに包まれて……。色はメロンシャーベットのような優しげな緑色。ふわふわしたかすみ草と、マーガレットの白がよく映える。かごはリボンで飾られ、「Thanks!」と書かれたカードが添えられていた。

「そっか……そうだったのか……」

 もわもわと沸き起こる照れ臭さと。あとからあとからにじみ出すどうしようもない嬉しさに、口元がふにゃふにゃと妙な具合にゆるんでしまう。
 スリッパの中でもじもじと足の指を握って、開いてを繰り返し。一方で手を髪の毛の間に突っ込み、ひたすらかき回した。

 でき上がった朝食をトレイに載せて、シエンとオティアが運んできた。こんがり焼いた厚切りトーストにベーコンエッグ、トマトとアスパラのサラダにコーンスープ。
 俺の好きなものばかりだ。
 何てこった。目元がかっかと火照り、視界がぼんやりと霞んでいる。うっかりすると、ぽろっとあったかい雫がこぼれ落ちそうだ。

「あー……その……えっと………」

 オティアと、シエン、そしてレオン。
 3人の顔を見ていたらふっと、言うべき言葉が見つかった。その途端、あっさりと口元がほほ笑みの形に落ち着いた。

「ありがとう」

 今日は五月の第二日曜日。
 母の日。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 昼食も双子が作り、俺はずっと居間でレオンと一緒だった。そわそわして落ち着かないでいたら、レオンにぐいっと引き寄せられて。結局、昼食ができ上がるまでぴたっと肩を寄せ合い、ソファに並んで座っていた。テーブルの上に載せられた花かごを愛でながら。
 
 そして午後。オティアは図書館に行く、と言って外出し、シエンも付いていった。
 何せ本の宝庫だ。夢中になって読み続け、閉館時間になってもどこぞに潜り込んで気付かれないまま、なんてことになりかねない。

「だから、俺も一緒に行く」
「……うん、そうだな。その方が安全だ。気を付けてな」
「うん。行ってきます」

 双子を送り出すやいなや、背後から優しい腕が巻き付いてきた。甘く低い響きが耳をくすぐり、朝方の甘美な震えを呼び覚ます。

「ベッドに行こうか。それとも、バスルームで今朝の続きをするかい?」
「さて、どっちにするかな………」

 誘われるまま歩き出す。Noと言う選択肢は、ない。


(五月の二番目の日曜日/了)

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【4-18】苦いコーヒー

2010/05/28 1:23 四話十海

【4-18-0】登場人物

2010/05/28 1:25 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
 
 sien.jpg
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 コーヒースタンドで何度か出会い、話すうち『エビの人』ことエリックの存在を受け入れつつあった。
 けれど、彼はついに知ってしまう。何故、エリックが自分を見ていたのか。
 何故、こんなに優しいのか……。
  
 oteia.jpg
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 外見はほぼシエンと同じ。飼い猫のオーレはエドワーズ古書店の猫、リズの娘。
 ヒウェルへの突っ込みは容赦無いが、マメに世話を焼く一面も。
 バイキング警報発令中。前回の終盤でコーヒーを飲みに行くシエンにくっついてスタバに参上。
 直接対決の時が迫る。
 
 e.jpg
【エリック/Hans-Eric-Svensson】 
 シスコ市警の科学捜査官。ディフの警官時代の後輩、23歳。
 ライトブロンド、瞳は青緑色、身長186cm。
 金属フレームの眼鏡着用。好物はエビ。
 デンマーク人の祖父を持つバイキングの末裔。寒さにも極めて強い。
 かつては赤毛のセンパイに片思いしていたが、告白もできずに終った。
 だけど今はシエンだけを見つめている。
 もう、彼だけしか目に入らない。
 
 oule.jpg
【オーレ/Oule】
 四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
 白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
 最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
 趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
 事務所に置いてきぼりにされてちょっぴり不満。
 
 leon.jpg
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。27歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 爽やかな笑顔の裏で実はかなりの激情家。嫁に近づく不埒な輩には容赦無い。
 増してそいつがシエンにまでちょっかい出してるとなると……。
 
 def.jpg 
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 エリックは信頼している後輩だが、息子にちょっかい出してるとなると話は別。
 
 h.jpg
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 職業はフリーのジャーナリスト。黒髪にアンバーアイ、眼鏡着用。
 今回、出番無し。名前が出ただけマシと言うべきか?
 
illustrated by Kasuri
 
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【4-18-1】ソイラテにしてみる

2010/05/28 1:26 四話十海
 
 炊いた米と、茹でたエビ、細く切ったニンジンとキュウリとオムレツ、そしてレタス。ひとまとめにして海苔でくるんで、きっちり巻いて。輪切りにして、ランチボックスにきゅっと詰める。
 今日の弁当は巻きずし。一つずつ口に運び、お茶をすする。日本からの土産でもらったグリーンティーだ。コメにはよく合う。
 すっかりを食べ終ると、オティアは自分の分のカップを流しに運び、洗って片づけて。それから携帯と財布をポケットに収め、所長を振り返った。

「コーヒー飲んでくる」
「ん、行ってこい」

 チリン。足下で、鈴が鳴る。オーレが咽を鳴らしながら尻尾をまきつけ、足の間ですりすりと8の字を描いている。

「……ごめんな」 

 オティアは小さな白い猫を抱き上げるとディフに渡し、入れ違いに青い傘を受け取った。

「そら、こいつを忘れるな」
「ん」
「みゃーっっ」

 白いふかふかの毛皮を撫でると、くるっときびすを返し、足早に事務所を出て行った。
 置いてきぼりをくらったオーレは青い目を半月型にして耳を伏せ、ぺしたん、ぺしたん、とディフを尻尾で叩いた。それから顔を見上げて、かぱっとピンク色の口を開けた。

「んにゃーっっ!」
「……心配するな」

 ディフはほんの少し、眉を寄せながらもほほ笑んで小猫の頭をなでてやった。がっしりした指で耳の付け根をこりこりとかいてやった。

「シエンの付き添いだよ」
「にゅ」

 もごもごと口の中で何かつぶやきつつ、オーレはディフの懐に潜り込み、ごそごそと丸くなった。

「よしよし、そこで寝てろ」

 所長はどかっとソファに腰を降ろし、新聞に手を伸ばした。
 窓の外には灰色の雲が垂れ下がり、しとしとと細い雨が降っている。強くもならず、弱くもならず、朝からずっと、途切れる間もなくしとしとと。
 雨の日の猫はとことん眠い。じきに懐の奥から、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 エレベーターが一階に着いた。ドアが開くなり、シエンとオティアは並んで歩き出す。号令もかけていないのにぴったりと同じ歩調で、互いに視線も合わせずに。ビルの出入り口の所で、どちらからともなく手にした傘を開く。
 深みのある森の緑と、矢車菊の青。寄り添う二つの傘の内側に、ぱらぱらと雨粒が布に弾ける音が響く。申し合わせたように緑色の丸い看板の下でひょいと曲って中に入る。

 そこに、エリックが居た。

 禁煙エリアのテーブルに腰かけて。すぐにこっちに気付き、手を振ってきた。
 傘を畳むやいなや、シエンはまっすぐに歩いてゆき、自分からエリックに声をかけた。

「パソコン、どうだった?」
「うん……初期化した。全部まっしろ」

 オティアはさっさとコーヒーを買いに行ってしまった。こっちをちら、とも見ようともしない。シエンはまゆ根を寄せてきゅっと目を閉じ、頭を下げた。

「ごめんね!」
「え? どうして君が謝るの?」

(だって原因は……俺たちだから)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 遡ること前日。
 シエンとオティアはやはり同じ時刻に、同じ店にいた。そしてこれまた同じテーブルでランチを取っていたエリックはいち早くシエンに気付き、笑顔で手を振って……あれ、と首をかしげたのだった。

 ややくすんだ金色の髪、うっすらと雲をまとい、優しく霞む夜明けの紫の瞳。そっくりの顔が二つ並んでいる。
 ただし、器の造作こそ同じだが満たされている水の温度と質感はそれぞれ微妙に異なる。外見の類似性に惑わされずに向き合えば、おのずと違いは見えてくる。
 シエンは戸惑いながらも軽く右手を掲げ、挨拶を返した。それからオティアとそろってカウンターに向かい、飲み物を注文した。

「カフェラテのショートを二つ、一つはソイミルクで」
「はい、かしこまりました。ショートのカフェラテとソイラテですね。あちらの赤いランプの下でお待ちください」

 ソイミルクで。
 その言葉を聞いた瞬間、オティアはぴくっと眉を震わせた。が、何も言わず自分のカフェラテを受け取り、シエンから少し遅れて歩いて行った。

「やあ」
「こんにちは」

 ちらりとエリックの手元の紙カップに視線を走らせると………「Soymilk」と書かれている。シエンと同じだ。
 何となく面白くない。むすっとしてどすん、とバイキング野郎の真向かいに腰を降ろした。やや遅れてシエンが隣に座る。ちょっと困ったような表情で。
 エリックの前にはコーヒー以外のものも乗っていた。白い薄手のノートパソコンが1台、フタの部分にかじりかけのリンゴが明るく浮かび上がっている。ヒウェルが使っているのと同じマークだ。
 
「仕事中?」
「いや、これはプライベート用のマシンだから……」

 そう言って、エリックはポケットから白いコードをとり出した。

「ほら、この間バッテリーが残り少ないって言ってたから、充電用に、ね」
「あ、うん、ありがとう」

 シエンは素直にコートのポケットからiPodを取り出した。イヤホンがささったままになっている。持ち歩いてるらしい。しかも、頻繁に使っているらしい。
 ますますもって、面白くない。

「ちょっと貸して」
「はい」

 エリックは慣れた手つきでコードを差し込み、iPodを白いノートパソコンに接続した。ブゥン……と微かな音がして、iPodの画面に「接続中」の文字が浮かぶ。

「これで大丈夫だよ。しばらく時間かかるけど」
「よかった。けっこう残り少なくなってたから、どきどきしながら聞いてたんだ」
「リラックスミュージックなのに?」
「本末転倒?」
「かもね」

 軽やかに言葉を交わしつつ、シエンはソイラテを口に含んだ。

「……ソイミルクって、あっさりしてるんだね」
「そうだね、植物性だから」
「思ったより、大豆っぽくない」
「コーヒーの香りが強いからかな……知ってる? ソイミルクって、豆腐の材料なんだよ」
「えっ、豆腐!?」

 ぎょっと目を見開いて、まじまじと紙カップの中を凝視している。
 ああ、可愛いな。
 くすっと笑うと、エリックは何食わぬ顔で続けた。

「海水から抽出したミネラルを加えて、凝固させると豆腐になるんだ。もっとも、コーヒーに使うのよりずっと濃いやつだけどね。かなり豆っぽい味がするし」
「飲んだこと、あるの?」
「ちょっとだけ。探求心が抑えられなくて……」
「え、つまり、エリック、豆腐を手作りしたってこと?」
「……うん。実験キットがあるんだ。豆腐の手作りセット」

 しばしの沈黙。
 オティアはカフェラテをず……とすすってから、ぼそりと言った。

「それ、子供用だろ」
「……実は」
「えーと……子どもの頃の話?」
「いや、去年」
「え? え? え?」

 目をぱちくりさせながら、首をかしげている。小鳥みたいに。今まで何の疑問も持たずにしていたことが、急に気恥ずかしくなってきた。

「趣味って言うか、気晴らしって言うか……休みの日に、ちょこちょことチャレンジしてるんだ。トイザラスで買ってきて」
「仕事で毎日、実験してるのに?」
「うん。何か、大人になってから無性にもう一度やりたくなっちゃうんだよね、ああ言うのって」

 やれやれ、ご苦労なことだ。
 オティアはふーっとため息をついた。
 こいつ、ヒウェルと似た者同士、いい勝負だ。
 今でこそ仕事と私生活をきっちり分けているけれど、ディフも警察に居た時はこんな感じだったんだろうか?

「できあがった豆腐は、食べたの?」
「うん。塩ふって、スプーンですくって」
「それだけ?」
「調理法、わかんなくて……」
「いろいろあるよ。そのまま切って味噌スープに入れても美味しいし、すりつぶしてひき肉と混ぜてミートボールにしたり……そこまで凝らなくても、麻婆豆腐にしてもいいし。シンプルに、ソイソースだけで食べるのも有りだって、サリーが」
「応用性のある食材なんだね」

 趣味と仕事の境目がない。典型的なワーカーホリックだ。それなのに、何だってこう、シエンと会話が弾んでいるのか。
 ますますもって、面白くない。

「ちょっとごめん、冷えちゃったみたい」
「どうぞ」

 シエンが席を立つと、エリックはパソコンの画面に目を落とし、キーボードに指を走らせた。
 オティアはずいっと身を乗り出し、低い声で……ただし、店内のBGMに負けないように、腹の底から力を入れてささやきかけた。

「シエンに近づくな」

 エリックは手を止め、顔をあげた。

「あいつ、好きな奴がいたんだ。だけどそいつは、今は別の奴と付き合ってる。だから……」

 不用意に刺激するな。おびやかすな。言おうとした矢先にさらり言葉を挟まれる。重ねた書類の間に一枚、すうっとまっさらな紙を滑り入れられたような心地がした。

「だったら、オレにもチャンスはあるってことだよね」

 気負いの無い口調で、余計な力は微塵も入っていない。しかし、決して軽々しく口にしたのでもない。その証拠に、青みを帯びた緑の瞳はちらとも揺らがず、ひたとこっちを見据えている。

 オティアはぎりっと奥歯を噛みしめた。
 子どものざれ言と軽くあしらわれたのなら、まだ反撃の余地もある。相手の油断を突くこともできる。
 だが、エリックは逃げずに正面から受け止めている……オティアの言葉の意味する事を。底に含ませた微妙な感情の揺れまでも察しているかのような口ぶりだった。

 こいつ、あくまで退くつもりはないってことか。だが、こっちも後には退けない。
 務めて淡々と言葉をつなぎ、伝えるべきことを伝えた。

「あいつに何かあったら……殺す」
「覚えておくよ」

 その瞬間。二人の間には怯えも、おごりも、同情も存在しなかった。
 大人と子どもではない。警察官と民間人でもない。ただ対等の立場にある『個人』と『個人』の意志が交わされていた。
 
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【4-18-2】制服警官ディフ

2010/05/28 1:27 四話十海
 
 戻ってくるなり、シエンが言った。

「………大丈夫?」
「ん? ああ、大丈夫だよ」

 そのひと事で張りつめた空気が緩む。ほんの少し残ってはいたけれど、とにかく今にも破裂しそうな険悪な状態からは抜け出した。

「あ……これ、充電、終ったよ」
「ありがとう」

 接続を解除し、コードを外すと、エリックは白いつるりとした平たい箱を少年の手に滑り込ませた。

「ついでに何曲か新しいのを入れておいたよ」
「えっ、そんなことできるの?」

 シエンはくるくると指先を箱の表面のリング状のパネルに走らせ、収録された曲を表示した。
 確かに、見覚えのない曲名が増えている。それも一曲や二曲ではない。
 
(ただ充電してるだけじゃなかったんだ!)

 素直に感嘆の言葉を口にする。

「すごいね、このパソコン。音楽を自由に出し入れできるなんて」
「趣味用のだからね。仕事用だとこうは行かない」

 ほめられ、エリックもまんざらでもないらしい。嬉しそうに目を細めてパソコンのトラックバッドに指を載せた。
 くるくると回して、滑らせて、画面の下に並んだアイコンの一つをちょん、と叩く。

「音楽だけじゃなくて、こう言うのも入ってる」
「あ……」

 画面の中に、碁盤の目のように小さな写真が並んでいる。カーソルがその中の一つに載ったと思ったら、テーブルの上に並べたカードみたいにずらっと何枚もの紺色の制服を着た人たちの写真が展開された。

 オティアがわずかに顔をしかめる。
 これは、ちょっと……言いかけたシエンの目が、一枚の写真にすうっと吸い寄せられた。
 がっちりした体つき、首は太く、胸板が厚く、肩幅も広い。そして、日の光を浴びた鮮やかな赤い髪。ぐいっと口を一直線に結び、厳しい表情をしている。ヘーゼルブラウンの瞳は鋭い光を宿し、まっすぐに前を見据えていた。
 と、言うか、睨んでいた。

「これ、もしかしてディフ?」
「そうだよ。5年前の写真だから、爆発物処理班にいた頃だね」
「制服着てるよ?」
「式典の時の写真なんだ。だから盛装してる」

 改めて写真を見る。
 きっちりしたネイビーブルーの制服。サイズがあっているはずなのに、何となくきつそうに見えるのはどうしてだろう。元々は制服警官だったんだから、毎日着ていたはずなのに。

「窮屈そうだな……って言うか、あまり似合わない……」

 よく見ると、着ている服は普段見かける警察官の制服と微妙に形が違う。生地が厚手でボタンの数が多く、白い手袋までしている。

(そうか、これ、礼装用なんだ)

 ディフのすぐ隣にひょろりと背の高い金髪の警察官が居た。こちらはきつそう、と言うことはないが、やっぱり服が体に馴染んでいない。

「あれ? こっちのはもしかして」
「そう、オレ」
「……慣れてない?」
「実は。制服ってあまり着る機会がないしね」

 オティアはむすっとして画面を眺めていた。

 写真は嫌いだ。今はもう存在しない、忌まわしい『撮影所』の記憶につながるから。

 それなのに、いきなりこんなものを広げるなんて……これが他人のパソコンじゃなかったら、即座に電源を落としてやりたい所だが。
 初めて見る、警察官時代のディフの姿にほんの少し、興味を引かれる。厳つい体に厳つい顔、全身からひしひしと剣呑な圧迫感がにじみ出している。レオンの部屋で最初に会った時も、こんな表情をしていた。
 あの時は、ただただ柄の悪そうな男で、てっきりやばい筋の人間かと思った。
 この写真も、制服を着ていなければやっぱり同じように思ったことだろう。

(あれ?)

 見覚えのある人物がもう一人写っていた。濃い金髪にライムグリーンの瞳、おだやかな表情の紳士然とした男性。

(Mr.エドワーズだ……)

 意識が画面に向いた、その時だ。
 画面いっぱいに一枚の写真が広がった。

「で、こっちが式典直後の写真」

 ディフだ。『うえー』っと顔をしかめ、襟をぐいぐいひっぱって緩めている。タイはほどかれ、首の周りに引っかかったまま。ボタンは上三つ外され、くつろげた襟からは鎖骨のあたりまで肌があらわになっていた。
 
「……………」

 オティアの眉の間に深い皺が刻まれた。
 こう言う仕草をしている時のディフは、無自覚にある種の色気を漂わせる
 別に誰かにセクシーな姿を見せつけよう、なんて意識はカケラほどもない。それはわかっているのだが……。

「よっぽど窮屈だったんだろうね」

 エリックがさらりと言った。こいつも自覚していないらしい。自分がどれほど危険なブツを所持してるか。
 シエンはしばらく迷っていたが、遠慮がちにそ、と切り出した。

「こう言う写真は……ちょっと……まずいと思う」
「え?」

 すかさずオティアが冷たく言い放つ。

「レオンに抹殺されるな」
「えーっと……」

(参ったな、Mr.ローゼンベルクってそんなに嫉妬深い人なのか? ただの職場のスナップ写真じゃないか)

 そもそも、エリックにとってレオンハルト・ローゼンベルクは穏やかな物腰と言葉で冷静に退路を塞ぐ知略に長けた弁護士だった。
 愛しい配偶者の為とは言え、よもやそんなに激しい感情を燃やす男だったなんて。

「もしかしてこれもダメ?」

 すっとまた一枚、別の写真が拡大表示される。
 ラスベガスで行われる、毎年恒例120マイルの警官砂漠駅伝。退職するまで、ディフォレスト・マクラウドは常にサンフランシスコ市警察の生え抜きの選手だった。彼がいたからこそ、SFPD爆発物処理班はLAのSES特殊強化部隊や、NYPDのSWATとほぼ互角に張り合う事ができたのだ。
 写真には、目を閉じてグレイのTシャツ一の上からざぶざぶと、ボトルの水を被るディフの姿が写っていた。
 担当地区を走り終えた直後の一枚だ。強烈な日差しの中、流れ落ちる水は髪を濡らし、肌を濡らし、グレイの柔らかな布を濡らし、ぺっとりと体に貼り付かせている。
 最悪だ。
 警戒心のかけらもない大ざっぱな動き。無防備にさらけ出された体。
 オティアは凍えるような目つきでエリックを睨んだ。

「棺桶の準備しとけ」

 その言葉が終るか終らないかのうちに、ぷつっとMacBookの電源が落ちた。

「え?」
「あれっ?」

 エリックは目をぱちくり。驚きはしたが、慌ててはいない。

「またか……」
「また……って?」
「あー、うん、これ初期ロットだからね。いきなり電源が落ちる不具合があったんだ。Firmwareをアップデートしてからは、こんなことなかったんだけど……やっぱりきちんと修理に出すべきかなぁ」

 ぶつぶつ言いながらエリックは電源スイッチを押した。

「……あれ?」

 動かない。

「RAMクリアしないとダメ……か?」

 キィを押しながら電源を入れる。
 ウンともスンとも動かない。そもそも通電している気配すら感じない。

「あれ? あれれ?」

「ごめんね」
「え。何で君が謝るの? 君のせいじゃないよ」
「うん、でも……」

 シエンにはよくわかっていた。何が起きたのか、どうしてパソコンの電源が切れたのか。
 オティアの顔から一切の表情が消えている。カタカタと、手も触れていないのにコーヒーの紙カップが細かく振動を始めている。
 いけない、このままじゃ、暴走しちゃう。早くこの場を離れなきゃ………

(でも)

 エリックのパソコンを壊してしまったことも気掛かりだ。元はと言えば、自分のために持ってきてくれたのだ。
 ディフの写真を見せたのだって、昔の彼がどんなだったか、以前たずねたのを覚えていたから。
『写真』と言うものがオティアにどんな影響を与えるか。エリックは知らない。知るはずもない。

「昼休み、そろそろ終るんでしょ? オレも行かないと」

 エリックがパソコンを抱えて立ち上がった。この人はいつもそうだ。俺が困らないように、一歩早く動く。するりと素早く、自分から。

「うん……」

 ごめんねって言った方がいいのかな。それとも、バイバイ?
 迷っていたら、やっぱり先に言われてしまった。

「またね、シエン」
「……ん」

 白っぽいコートが店を出て行く。
 白いパソコンの入った平たいかばんを抱えて、すたすたと。ドアを潜り、外に出て歩き始めるその動きを、じっと目で追ってると……ガラス越しに目が合ってしまった。
 にこっと笑って、手を振ってきた。
 無意識のうちに手を揚げて、振っていた。低い位置で、小さく。

「……帰るぞ」
「あ、うん」

 事務所に戻る間、オティアはいらいらしていた。
 写真は嫌いだ。
 自分が写ってなければどうにか我慢できるようになってはいたが、あんな、いやらしい姿は論外だ。
 目にした瞬間、頭の中で色のない火花が迸り、実体のない腕を振り上げ、パソコンを殴りつけていた。
 
 それだけじゃない。
 わざわざ帰ると、口に出して伝えなければいけなかった。あの金髪眼鏡のバイキングを目で追っていたシエンに……。

 冷静さを取り戻すにつれ、オティアは残念に思わずにはいられなかった。
 やはりあの写真、消すべきじゃなかった。レオンに言いつければ、奴を抹殺する事ができたのだから。

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【4-18-3】全てが白に返る

2010/05/28 1:30 四話十海
 
 コーヒースタンドを出ると、エリックはその足でApplストアに向かった。さすがに本拠地だけあってサンフランシスコのリンゴのロゴのパソコンショップは充実している。だがどんなに設備がしっかりしていても、直せないトラブルと言うのは確かに存在するのだった。

「データが全て消えていますね」
「全部って……OSも、ハードディスクの中味も、全部ってことですか?」
「はい」
「真っ白に」
「そうなりますね……残念ながら」

 幸い、AppleCareプランには加入していたし、家に帰ればデスクトップ型のコンピューターもある。仕事には使っていない、あくまでプライベート用だ。業務に支障はない……うん、大丈夫。
 半ば夢を見ているような心地のまま、エリックは淡々とパソコンの修理を申し込んだ。
 ついでに懸念のヒートシンクの修理と、赤っぽく変色してきたキーボードとトラックバッドの周辺部のパネルの交換も申請して。
 せっかく来たのだから、と店内を一通り見て回ることにする。iPodのコーナーを通りかかった時、ふっと一抹のさみしさが胸を噛む。

(シエンの為に集めた曲……全部消えちゃったんだなあ……)

 何だか急に気力ががくっと落ちてしまった。急に周りの景色が色あせ、流れるBGMも、人のざわめきも間に一枚、壁を挟んだように遠くなる。それ以上見て回る気にもなれず、足早に店を出た。
 ぼーっとしたままケーブルカーに乗り込み、デッキに立って揺られていると。乗り込んできた女の子が、肩にかけたポシェットから平べったい板チョコに似た何かを取り出た。くるくると巻き付けたコードをほどき、イヤホンを耳に入れた時点で気付く。
 iPod nanoだ。
 そして、思い出す。

(曲なら、残ってるじゃないか。シエンの持ってるiPodに!)

 次に会った時、逆にパソコンに移せばいい。
 うん、そうだ、どうして気付かなかったんだろう。

 口元がゆるみ、目尻が下がり、いつしかエリックはにこにこと笑っていた。
 センパイの写真が消えちゃったのはちょっと残念だけど、会えなくなった訳じゃない。一番、無くしたくないものはちゃんと残っているんだから。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 次の日は、朝から雨が降っていた。しとしとと降りしきる冷たい水の雫をかい潜り、いつものコーヒースタンドに向かった。
 小エビのサンドイッチとブルーベリーのパイを食べ、ソイラテをすすっていると、青い傘と緑の傘が並んで近づいてくる。色の組み合わせでもしかして、と胸が高鳴った。顔を見たら、やっぱり彼だった。
 目が合う。
 手を振ると、シエンの目元がわずかにほころび、小さく手を振り返してくれた……昨日と同じように。
 店に入ると傘を畳むのもそこそこに、まっすぐ歩いてきたのでちょっと驚いた。
 どうしたんだろう? いつもは自分の分のコーヒーを買って、いかにも『ついで』と言う感じで近づいて来るのに。ちょっぴり思い詰めた表情をしてるのも気になる。
 
「パソコン、どうだった?」
「うん……初期化した。全部まっしろ」

 オティアはさっさとコーヒーを買いに行ってしまった。こっちをちら、とも見ようともしない。シエンはまゆ根を寄せてきゅっと目を閉じ、頭を下げた。

「ハードディスクドライブの接続部分が外れて……中味が飛んじゃってね。物理的に破損してたわけじゃないから、OSの再インストールで済みそうなんだけど、ついでにあちこち直してもらおうと思って」
「ごめんね!」
「え? どうして君が謝るの?」
「だって……俺のために持ってきてくれたのに……あんな……」
「君のせいじゃないよ」
「でも……ごめんなさい」

 何にでも謝る子だ。責任感が強いんだろうか。

「いや。これで、良かったんだよ」
「えっ?」

 失われたものを思い返す。部署こそ違うけれど、同じ警察官だった。
 まだ誰のものでもなかった頃のあの人と。何に隔てられることもなく、彼に恋していた自分。
 だけど今は、違う。
 センパイは……ディフォレスト・マクラウドは、他の男の伴侶だ。彼には彼の家庭がある。

「いつまでも未練たらしく、あんなもん持ってちゃいけないんだ。かえってすっきりしたよ」

(どう言う意味なんだろう? 未練って?)

 少し内側にこもった、濁音の強い発音。低く穏やかで、よく響く。決して怒鳴らないけれど、強い力を秘めている。照れている時は、もごもごっとこもる感じが強くなる。そんなエリックの声が、いつしか耳に馴染んでいた。心地よいと感じるようになっていた
 だから、わかってしまう。悟ってしまう。
 彼の言葉の向こう側にある、心の動きが。

 頭の奥でうっすらと形になりかけていた。けれど、目をそらしていた事実が今、はっきりと目の前に現れる。

(エリックはディフの後輩。でも、それだけじゃ……なかったんだ……)

「そう……だったんだ……」
「シエン?」

 ただの頼れる先輩じゃない。仲の良い友人じゃない。ディフは、エリックにとって特別な人だったんだ。まぶしくて、くすぐったくて、その人と居るだけで、胸がどきどきするような。きゅっと締めつけられる。

(エリックは、ディフのことが好きだったんだ………)

 ぐにゃりと目に見えるものが歪んでゆく。店の照明が、ちかっ、ちかっと点滅していると思った。だけど点滅していたのは、自分の視界だった。看板や、メニューの文字が読めない。見えているのに文字として認識できない。

(俺のことを助けてくれたのも。優しくしてくれるのも、全部ディフの為だったんだ……)

 こんなこと、前にもあった気がする。

(同じだ!)

 霧に閉ざされた十月の終わりの日。ゆらゆら揺れる、オレンジ色のカボチャのランタン。
 あの夜、ヒウェルは迷わずオティアを探しに飛び出して行った……振り返りもせずに。わかってたんだ。ヒウェルが優しくしてくれるのは、自分がオティアの双子の兄弟だからだって。

(同じ、なんだ……)

 見ているのは、俺じゃない。自分の好きな誰かのためにほほ笑みかけるだけなんだ。
 ヒウェルも。

 エリックも!

「俺じゃ、ないんだ……」

 かすれた声が唇からこぼれ落ちる。エリックが首を左右に振り、紙くずを丸めたように、くしゃり、と顔を歪めた。

「ちがうんだ、シエン」

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【4-18-4】ごめんなさい!

2010/05/28 1:31 四話十海
 
「ちがうって、どうちがうの?」
「………」

 初めて口ごもり、明確な答えを避けた。視線もそらしてる。こんなエリック、見たくなかった……。

「いつから知ってたの? 俺が、だれなのか」
「君の名前を知ったのは……一昨年の十月。初めて会ったのは、去年の八月……センパイの結婚式だ」
「あ……」

 記憶の中に在る、顔すら定かではないおぼろな影が急にはっきりと形をとり、目の前の青年と重なる。

「あの時の……」

 会場から抜け出したオティアを探して、レストランの駐車場でやっと追いついた。その時、オティアの前に立ちふさがっていた背の高い人。あの時はオティアをなだめるのに必死で、ほとんど注意を払っていなかった。

 エリックだったんだ。
 
「去年の十一月に、現場からの帰りにこの店に寄った。その時、君が一人で座ってるのを見つけた。すぐわかったよ。センパイの世話している双子の一人だって」
「だから、声をかけたの? 感謝祭明けの金曜日の夕方に会った時に」
「うん」

 うなずくとエリックはまっすぐに見つめてきた。

「やっぱり一人で座っていたから、気になって……コーヒー一杯飲む間でいい、君の近くに居ようと思ったんだ」

 きれいな目。青と緑が交じりあい、光の加減でどちらにも見える。今はほとんど青に近い。その瞳が本当に、俺だけを見つめてくれていたらよかったのに!

 咽が震える。問い返そうとした声が、途中でかすれて消えてしまう。

「あの日の夜。仕事が終わって家に帰る途中、君を見つけた。柄の悪い連中に絡まれてたから、声をかけたんだ」

(やっぱりディフの為? それとも、警察官だから?)

 指が冷たい。膝がガクガクと揺れる。お腹の底から凍えるような振動がこみあげる。歯を食いしばっても、止まらない。
 強ばった指を無理やり動かしてポケットから取り出した。ついさっきエリックから受け取った、つるりとした平べったい箱を。やわらかな音の波を奏でる精密な機械。
 いっそ時間を戻して、これを受け取った瞬間に戻れたら……。
 カチリ、と固い音がした。iPodを握る手が、テーブルに触れている。そ、と力を入れて、エリックに向けて押しやった。巻き付けたコードが指の下でよじれる。

「………これ、返す」
「シエン?」
「ごめんなさい……」
「……なんで、謝るの、シエン?」
「もう、会わない」
「どうして……!」

 その瞬間、ハンス・エリック・スヴェンソンは氷河のど真ん中に叩き込まれたような気分になった。

「本当に………ただ偶然ここで会って………友達になれたらよかったね」
「違う、違うんだ。最初に君を見かけたのは本当にたまたまで。オレ、君だけを見てる。センパイの代わりなんかじゃない!」

 びくっとシエンはすくみあがった。同時にオティアががくっとテーブルに突っ伏す。

『君だけを見てる』

 まっすぐな目。まっすぐな言葉。自分だけを視ている。他の誰かのためなんかじゃない。自分だけに。
 どちらも求めていたはずだった。得られないことを嘆いていたはずだった。
 それなのに……

(怖い!)

 沸き起こるのは嬉しさではなく、凍えるような恐怖。
 音、色、形、空気の含む温かさ、コーヒーの香り。自分を包む全ての現実が歪み、ざらりとした紙やすりに変わり、切りつけてくる。むき出しの心臓を、指先を容赦なく削り取る。
 わなわなと震えながら首を左右に振り、後ずさる。
 今まで誰も踏み込まなかった安全圏。オティアとだけ共有してきた静かな繭の中にいきなり、彼が入ってきた。
 ここに居てはいけない。これ以上、エリックの目を見てはいけない。海色の瞳に捕まる、その前に!

 身を翻し、飛び出した。

「待って、シエン!」

 背後で彼が呼んでる。
 どっと冷たい雨が顔に当たる。
 誰にも見られたくない………遠くに行きたい。十一月の最初の日、ケーブルカーを乗り過ごした時みたいに。あの時は行き先が決まっていた、だけど今は。

 どこでもないどこかに。だれもいないどこかに。

 消えてしまいたい。
 消えてしまいたい。
 消えて……
 消、え、て
 
 ほとばしる感情が引き鉄となり、シエンの奥に潜む力を解き放つ。十一月の最初の日、誰にも見つからずに遠くオークランドの動物園まで移動した時のように。かつてオティアが撮影所から逃げ出した時と同じように。

『消えてしまいたい』

 その想いが膜となり、壁となり、シエンをすっぽりと包み込み、他者の意識から彼の存在を切り離す。
 一瞬の揺らぎ、そして少年の姿が『消えた』。無論、物理的に消失したわけではないし、光を透過して透明になったわけでもない。視覚がとらえても、脳が認識しないのだ。彼かそこに存在していると。
 
 道行く人も、車を運転する人も、ケーブルカーの運転手にもシエンは見えない。彼の立てる音も聞こえない。気配すら感じない。
 冷静に歩いていれば問題ない。『消えている』自覚が無くても、自分から危険を避けることができる。ぶつからないように、注意することができる……あるいは、車や自転車、ケーブルカーの前に飛び出さないことも。
 だが、今のシエンには周りが見えていなかった。うつむいて、ほとんど前も見ずに走っていた。

 クリーム色のコートを着た少年が走ってゆく。うつむき、足下だけを見て、傘もささずに、冷たい雨の中を。
 道行く人は誰も彼の存在を認識していない。そこにいることを知らない。
 ただ一人、息せききって追いかける、バイキングの末裔以外は。

「待って、シエン!」

 他者の意識を遮断する壁が完全に閉じられる直前。エリックは全神経を少年に集中していた。だから、彼には見えていた。
 シエンだけを見ていたから、『不可視の呪文』はエリックには効かなかったのだ。

 ハンス・エリック・スヴェンソンは警察官だが、科学者だ。もともと肉弾戦や追跡ダッシュはあまり得意ではない。だが先祖代々受け継がれた頑丈さと暇を見つけては体を動かすマメさが幸いし、それなりに高い基礎体力を維持することに成功していた。
 何より寒さへの耐性と持久力がずば抜けていた。
 初手こそ出遅れたが、すぐさま追いかけて飛び出した。傘もささず、降りしきる冷たい雨のまっただ中へ。
 ほっそりと小さな金髪の少年を追いかけて。今、この瞬間見つめているのは。想っているのはただ一人。

「シエン!」

 道行く人が何事かと振り返る。だが肝心の呼ばれた相手はちらともこちらを見ず、ただがむしゃらに走ってゆく。
 何てことだ、シエン、君、全然周りが見えていないのか?
 横合いの店から出てきた男性が、減速もせず、避けもせずに無造作に踏み出す。にゅっと前方に傘をつき出し、開閉ボタンを押した。
 ばすん。
 バネ仕掛けが作動し、傘が開く。いけない、あの角度ではシエンの顔に当たる!
 しかし触れる寸前、ぱしっと傘が弾かれた。まるで目に見えない腕が振り払ったように、勢い良く。

「わっ」
(えっ?)

 口を開け、ポカーンと路面に落ちた傘を見つめる男性の横を走り抜ける。

(どうなってるんだ?)

 何が起こったのか理解していない。シエンの存在にまるきり気付いていないようだ。いや、この男性だけじゃない。シエンの走る先々で、何人もの通行人が不意に弾かれ、よろけ、驚いている。

(どうして、誰もシエンに気付かない?)

 これじゃあ、まるで……彼の姿が見えていないようだ。

(いや、そんな事はあり得ない。あるはずがない)
 
 異変はそれだけではなかった。

「きゃっ」
「わっ?」

 シエンが走り抜けた瞬間、パシーンと街灯が割れる。周囲の人が顔をかばって身をすくめ、悲鳴をあげた。かと思えば窓ガラスにぴしり、と蜘蛛の巣状のヒビが入る。
 小石でも飛んだか? いや、あのタイミングではあり得ない。そもそも少年一人が走っただけで、あんな衝撃は起きない。
 新聞スタンドの前を横切った直後、風もないのに店先に積まれた新聞や雑誌がぶわっと巻き上げられて飛び散った。

 一体、何が起きているのか。異変の原因は、今、自分が追いかけている金髪の少年なのか……? 少なくとも、波の最先端にいることは確か。だが、どうして? どうやって?
 確固たる現実がぐにゃりと歪み、意識が揺らぐ。
 その刹那、シエンの姿がすうっと希薄になり、消失した。

「まさかっ」

 慌てて目をこらす。良かった、いる。
 汗をかいて、眼鏡が曇ったか。雨粒がレンズに貼り付いて、視界が歪んだせいかな。眼鏡って不便だ、こう言う時は……でも外す暇も、立ち止まってふき取る暇も惜しい。そんなことをしたら……

 じりじりと苦い熱が爪を立て、胸の底を掻きむしる。

(彼を見失ってしまう。ここで見失ったら二度と戻らない、きっと!)

 逆回しのモノクロフィルムの中、君の姿だけが確かな色を放っている。無くしたくない。失うのは嫌だ。
 シエン。
 シエン。
 オレの目の前から消えないで、お願いだ。

 シエンはうつむいたまま、急に方角を変えて車道に飛び出した。道を横切るつもりか。でも歩行者用の信号は赤だ! 
 タクシーが彼めがけて突っ込んでくる。ブレーキをかける気配は微塵もない。やはり見えていないのか?

 一気に水の中を駆け抜け、腕を伸ばす。指の中にほっそりした肩の感触をとらえた。やった、触った!
 ぐいっと引き戻す。

 その瞬間、パァン、とクラクションが鳴った。
 雨が舗道を叩いている。ぱらぱらと顔に当たり、頬をつたい、首筋を流れる。袖から滴り落ちる。ぜい、ぜいと大量の空気が咽を出入りするざらつく音が二つ。一つは己の中に低く響き、もう一つは手のひらを通してか細く伝わってくる。
 寝苦しい夢の中にも似た、奇妙な乖離感が……消えた。

 だが。

「…………」
「あ」

 紫の瞳が見上げている。体中の肉も腱も皮膚も全て強ばらせ、立ち尽くしている。
 しまった!

 ぶぅんと一気に記憶が巻き戻り、2006年の十一月に焦点が合う。
 サンフランシスコ周辺の地図上に表示された赤い点。添えられた行方不明の未成年者の顔写真と名前。その中に、彼がいた。

(そうだ、この子は誘拐の被害者だった!)

 救出後に作成された調書の記述を思い出す。

『道を歩いていたところを背後から突然、捕まれて、車の中に引きずり込まれ……』

(俺は……何てことを!)

 エリックはぎくしゃくと指を動かし、シエンの肩から己の手を引きはがした。激しい後悔が全身をむしばみ、かみ砕く。

「ごめ……ん……」
「っ!」

 ひゅうっと咽を鳴らして空気を吸い込むと、シエンは両の手を泳がせ、わらわらと空中を掻きむしった。目に見えない何かを振り払おうとしているように見えた。
 いけない。
 パニックを起こしている。
 ためらいながらもエリックはじりっと歩を進めた。
 その瞬間、シエンの瞳孔が限界までぎゅん、と開いた。黒みと深みを増した紫の瞳の奥に、純粋な恐怖がうねるのが見えた。

 靴の表面がアスファルトを叩き、びしゃっと水が散る。さっきまでのが疾走だとしたら、今度のは迷走だ。よれよれしながら右に左にジグザグに、路地の細い方へ、人通りの少ない方へと逃げ込んで行く。追いつめられた小動物みたいに。
 幸い、今度は周りの人間はちゃんとシエンを認識しているようだった。顔をしかめながらも体をかわし、衝突を避けている。
 エリックはため息をつくと、再び走り出した。ただし、今度は意図的に距離を保って。追いすがるのではなく、ガードするために。

 さっきより距離がある。にも関わらず、今度はシエンの後ろ姿が霞んだり、視界から消えることはなかった。

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【4-18-5】Lost-Boy

2010/05/28 1:32 四話十海
 
「ぐ……」

 オティアは咽の奥で一声呻くと、テーブルにだん、と手を着いて半身を起こした。

「あいつ……」

 凄まじい衝撃だった。
 シエンを無意識に庇ったのが原因だ。本来、彼が受けるはずだった恐怖と不安、悲しみ。負の感情の入り交じった苦い爆弾をほとんど自分が受け止めてしまった。
 
「あンのバイキングめ……」

 昨日、あれほどシエンに近づくなと言ったのに、いきなりだ。いきなり、あんな近くに割り込んで来るなんて!

(物理的な距離の問題じゃない。遠慮もためらいもなく、ずかずかと自分たちの安全圏に踏み込んできた)

 頭の中に吹き出す悪態の数々を、ぐっと飲み下す。今はそれよりもやらなきゃいけない事がある。
 よれよれと携帯をひっぱりだし、短縮ボタンを押す。2コール目の途中で出た。聞き慣れた穏やかな低い声。

「どうした」

 深呼吸一つ。淡々と言うべきことを伝える。

「シエンがパニック起こして、外に飛び出した」
「おまえは大丈夫なのか!」
「心配ない……ちょっと休んだら、事務所に戻る。シエンのがやばい」
「……わかった。スタバに居るんだな?」
「ああ」
「シエンはどっちに行った」
「………」

 目を閉じる。
 ずっきん、と頭の奥でトゲだらけの塊が転がった。眉をしかめて、さらに『潜る』。
 ぽつりと光の点が見えた。ものすごい勢いでこの場所から遠ざかっている。目を開き、光の動いていた方角を確かめる。

「……南。通りに沿って走ってる」
「わかった。すぐ行く。お前はそこを動くな。アレックスに迎えに行かせる」
「OK………」

 電話を切る。
 これでいい。行くと言ったら、ディフはすぐ動く。自分は……もう少しだけ休んでいよう。アレックスが来るまで、もう少しだけ。
 
 テーブルの上には、きちんと畳んだピスタチオグリーンの手袋と、白いiPodが取り残されていた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「はあっ、は、は……はぁ……」

 くらくらする。
 もう、足に力が入らない。
 ここは、どこなんだろう。

 冷たい雨が頬を打つ。
 髪も顔も手も足も、服もぐっしょりと濡れている。指先がかじかんでいる。傘も、手袋も置いてきてしまった。
 
 冷えきった手足を動かし、よろよろと近くのビルの軒先に座り込んだ。雨がほんの少し遮られる。

(怖いよ。寒いよ。助けて。助けて!)

 無意識のうちにポケットをまさぐり、携帯を取り出した。指がなかなかうまく動かない。歯でストラップをくわえて、両手の爪を立て、無理やり開いた。
 夢中でボタンを押して、電話帳のDの項目を呼び出す。一番上の一人を選び、かけた。
 一昨年の十一月。遠ざかるオティアの背を見送った後、冷凍グリーンピースの看板の下にうずくまり、電話をかけた。あの時と、同じ人に……。
 最初のコールが終るか終らないかのうちに、聞き慣れた低い声が答えてくれた。

「シエン」
「………ディフ!」
「今、どこにいる?」

 声を聞いた途端、だーっと涙がこぼれた。温かくてしょっぱい。今まで顔を濡らしていたのは雨だったのだと始めて気付く。

「わか、わかんない、わかんない……」
「大丈夫」

 静かな声だった。ディフが言うのなら、大丈夫なんだと思った。

「赤……赤い壁………でこぼこしてる……四角いのが、重なって」
「レンガか」
「うん……」
「番地、わかるか?」

 しゃくりあげながら近くの電柱の標識を読み上げる。

「わかった。すぐに行く。待ってろ」
「うん……うんっ……あ、待って、切らないでっ」
「つなげておく。だから心配すんな」
「うんっ! は……はやく……来て」
「……ああ。大急ぎで、迎えに行く」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 背の高い、ひょろりとした人影がたたずんでいた。シエンがうずくまる軒先からほんの少し離れたゴミ箱の影、白っぽいベージュのコートを羽織り、傘もささずに。 
 エリックはほっと胸をなでおろした。
 いい場所に逃げ込んでくれた。あそこなら、雨の何割かは防げる……ここよりはずっとマシだ。
 襟首から入った雨粒は身に付けたものをことごとく湿らせ、ズボンの足首かだぼとぼとと滴り落ちる。

 やれやれ。この『足首からぼとぼと』ってのが一番みじめなんだ。

 目をこらして、シエンの様子を観察する。携帯を取り出した。開いて、電話をかけている。ふと思いついて自分の携帯からセンパイにかけてみた。
 予感的中、話し中。
 
(やっぱりな)

 そのまま現在位置をキープしつつ、張り込みを続けていると……。
 いくらも経たないうちに、のっし、のっしと大股で歩いてくる人物が近づいて来るのが見えた。大きな傘をさしていて、顔は見えない。だが黒いライダーズジャケットに見覚えがあった。第一、あの歩き方は見間違えるはずがない。

 シエンが立ち上がった。
 傘をさしていた人物が、駆け寄ってきた。ちらりと鮮やかな赤い髪が見える。
 ディフォレスト・マクラウドは、まっすぐ飛びつくような愚かなマネはしなかった。少し手前で歩調をゆるめ、よく通る、だが静かな声で呼びかけた。

「シエン!」

 君をさがしている。
 俺はここだ、と。
 くしゃっとシエンの顔が崩れる。表情を無くし、凍りついていた顔が……感情を取り戻した。

「まま!」

 叫びながら飛びつき、すがりついた。大きくて頑丈で、あったかい腕の中に。

「まま……」
「………シエン」

 傘が、路面に落ちる。
 怯えきったひな鳥は、やっと親鳥の懐に潜り込んだ。決して自分を放り出さない、守ってくれる、あたたかな翼の下に。

「ディフ………ディフ………」
「大丈夫だ。もう、大丈夫だから………」

 ディフはシエンを抱きしめ、背中を撫でた。大きな手のひらでゆっくりと。

「エリックは悪くない……悪くない………」
「……うん……」

 その瞬間、ぎゅんっと口の端がめくれあがり、ちらりと白い歯がのぞく。幸い、当のエリックからは見えない角度だったが……。

(そーかぁ、原因は奴かー!)

 何があったかは分からない。だがエリックはこの子と親しくなりつつあったし、オティアはスターバックスから電話をかけてきた。
 そして、エリックとシエンはよく件の店で会うと聞いた覚えがある。たまに顔を合わせて、一緒にコーヒーを飲んでいるのだと。
 察するに、今日はただ「コーヒーを飲む」だけでは終らなかったようだ。

(あンのバイキング野郎め、のほほんとした面で何やらかした!)

 ふるっと腕の中で小さな体が震える。
 いけない。こんなに雨に濡れて、冷えきって。

「帰ろう」
「うん」

 ディフは傘を拾い上げ、シエンの上にさしかけた。降りしきる冷たい雨を遮って、2人は寄り添い、歩き出す。
 わが家を目指して。

(……センパイ)

 エリックは秘かに安堵の息をついた。
 四年前の七月、泣きじゃくるルースを抱きしめて、雨の中にじっとたたずむあの人に傘をさしかけた。だが今回は自分の出る幕はなかったようだ。
 ぼたぼたと雫を垂らして歩き始める……彼らとは逆の方角に。
 未練がましくちらりと振り返ると、センパイはシエンの肩を抱いて支え、シエンは完全に身を委ねていた。そこに居れば安全なのだと。

 ため息一つ。
 はたと思い出す。

「あ……iPod忘れた」

 すっかり水浸しになった靴の中、がぼがぼ足が音を立てて泳ぐ。
 ばかだ。
 オレは、救いようのない大ばかだ……涙も出やしない。

 ひと足ごとに自己嫌悪を刻みつつようやくスターバックスに戻ってくると、オティアの姿は既になかった。店員に尋ねると、メモを一枚手渡された。

『お忘れ物は当方でお預かりしております。ご用の際は、ジーノ&ローゼンベルク法律事務所まで A.オーウェン』
 

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【4-18-6】VS心の狭い人

2010/05/28 1:35 四話十海
 
 水浸しのままアパートに戻り、シャワーを浴びる。
 熱い湯を顔に受け、かなり長い間、ぼーっとしていた。ただ湯が流れるにまかせ、洗うことも拭うことも忘れていた。
 浴室を出て乾いた服に着替え、コーヒーメーカーにフィルターと、豆と、水をセットする。こころもち濃いめに。スイッチを入れてから、おそるおそる伏せた携帯を表に返してみる。

 ……着信無し。

 こぼれたため息は失望なのか、安堵なのかわからない。
 とん、とん、と携帯の表面を人さし指で叩く。何度も叩く。
 連絡をしなければいけない。それは、わかっていた。だが、だれに?
 シエンの番号もメールアドレスも知っている。だけど今、かけていいものか。余計に怯えさせてしまうのではないか。今はそっとしておくべきなんじゃないか?
 
(言い訳だ。見苦しい。もし、拒絶されていたら……それが怖いだけなんだ)
 
 落ち着け、ハンス・エリック。
 とにかくシエンに電話するのは、好ましくない。メールもあの子はあまり使わないと言っていた。
 オティア……は、オレのことを快く思っていないし、そもそもアドレスも番号も知らない。知っているのは、あとは……

(h?)

 知らぬ仲ではないし、そこそこ親しいのも事実だ。だが、何故、自分がシエンのことを気にかけているのか。いかにして関わっているのか、まずはそこから説明しなきゃいけない。
 却下。
 この問題を共有できるほど、彼とはまだ親しくはない。
 
(センパイ……しかないよな……)

 一番、親しいのはあの人だ。信頼しているのも。信頼してくれているのも。
 少なくとも、これまではそうだった。だが、『息子』にちょっかい出した揚げ句に雨の中追い掛け回し、肩をつかんで引き戻した今となっては……。
 果たして、これまでの『信頼』と『友情』をどこまでアテにしていいものか。無論、彼は一度信頼した相手を拒絶したり、裏切ったりすることは絶対にない。だが、シエンへの母性と愛情はおそらく、それに勝る。

『まま!』

 呼ばれた瞬間の彼の表情が全てを物語っていた。最初こそ両目が見開かれ、驚いていた。だが、瞬時に愛おしさと喜びが湧き出し、温かな泉のようにヘーゼルブラウンの瞳を満たし……何の疑問も、ためらいもなく答えていた。
 要するに、今のシエンにとっての母親役は、あの人に他ならないってことだ。当人もそれを受け入れてる。
 
「はぁ……」

 額に手を当て、椅子にへたりこむ。
 マッチョな腕力と胆力に裏打ちされた母性の塊。ある意味、最強の『まま』じゃないか。

 ごぼっ、がぼっ、ごぼぼっ。

 コーヒーメーカーが勢い良く蒸気を噴き上げる。中味をカップに注ぎ、ブラックのまま飲み干した。
 時計を見る。
 少し早いけれど、そろそろ出勤しようかな。デスクワークがだいぶたまってたし。

「うん、それがいい」

 見え見えの言い訳をしながら携帯をポケットに突っ込み、上着を羽織った。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 目を覚ますともう昼過ぎだった。別に寝過ごした訳ではない。夜番の月はだいたいこんなもんだ。
 窓の外には相変わらず鉛色の雲。だが幸いなことに雨は止んでいた。
 激務なのもある意味ありがたい。仕事を言い訳にできる……電話も、メールも送らずにいられることの。
 だが、さすがにこれ以上引き伸ばすことはできない。今日、連絡しなければ、シエンとの繋がりは完全に絶たれてしまう。

(それだけは、嫌だ。絶対に!)

 深く呼吸をすると、エリックは携帯を開き……かけた。
 コール音が鳴っている。一回、二回、三回、四回。まだ出ない。取り込み中かな。後でかけ直そうか。それともメールにしようかな?

「エリック」

 わあ。出ちゃった。

「あ、その、えっと」

 低ぅい声だ。地の底から轟く、地獄の番犬のうなり声。やっぱり怒ってる? 怒ってるよな。

「話せ」
「……はい」

 挨拶をする暇もなかった。昨日、起きたことの一部始終を根こそぎ聞き出された。取り調べさながらに、これ以上ないってくらいに的確に、簡潔に。
 何があったかは、だいたいシエン本人とオティアから聞いてるはずだ。それなのに俺の視点からも証言を聞くあたり、いかにもセンパイらしい。警察にいた時の習性がしっかり根付いてるんだ。
 先入観に捕らわれず、加害者、被害者、目撃者から話を聞く。(この場合のオレの役割がどれかは……)
 こっちも現役の捜査官だ。的確に事実を伝える。できうる限り客観的に、自分の主観に捕らわれずに。したこと、見たこと、聞いたこと、起きたこと。
 全て話し終えると、ほんの少しの間沈黙があった。

「……センパイ?」
「わかった。何があったのか、理解した。お前が、意図的にあの子を傷つけようとしたんじゃないってことは、な」
「………すみません」
「謝るな」

 怖いくらいに静かな口調だ。まだ、怒ってる。
 いっそ電話を切って逃げ出したい。だけどここで引き下がる訳には行かないんだ、断固として。
 ええい、ヴァルハラのご先祖様、ご加護を!

「シエンは……」
「今日は休ませた」
「そう……ですか」
「にゃーっっ」

 かすかに猫の声がする。オーレだ。彼女はオティアと一緒に事務所に通っているから、声がしても不思議はない。だけどいつもより微妙に遠かった。おそらく、間に壁やドアを挟んでいる。
 
「あの、もしかして、自宅、ですか」
「そうだ」

 つまり、あれだ。マクラウド探偵事務所は本日臨時休業ってこと……か。シエンは予想してる以上に具合がよくないらしい。雨に打たれたせいだろうか。熱でも出したんだろうか。過去の恐ろしい体験をえぐり出されて、苦しんでるんじゃないか。
 胸が切り裂かれる。
 いずれにせよ、原因は、オレだ。
 とっさに当たり障りのない話題を口にしていた。

「あのー、それで、ですね。オレ、スタバに忘れ物しちゃって」
「それならアレックスが回収した。レオンの事務所で預かってるそうだ」

 うん、それは知ってます、D。大事なのはその先なんです。

「にゃーーーおおおうっ!」

 また、オーレの声がした。さっきより近い。明らかにセンパイを呼んでいる……と言うか、呼びに来たのか。

「みゃーっ!」

 三度目の鳴き声は、すぐそばで聞こえた。足下にいるんだろう。チリン、と甲高い鈴の音まで電話に入ってきた。

「……後で取りに伺います」
「わかった。レオンには話を通しておく」
「ありがとうございます。それじゃ」

 持ってきてください、なんて、とてもじゃないが言える状態じゃなかった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 朝食後、腹をくくってジーノ&ローゼンベルク法律事務所に出頭した。
 自分から荒れ狂う海に飛び込む道を選んでしまったような気がしないでもないが、ここで逃げたら元も子もない。
 虎の巣穴に入らなければ、虎の児を手に入れることはできないんだ。
 オーディンとヴァルハラのご先祖の加護あらんことを。いざ赴かん、敵地(アウェー)へ。

 入って行くと、水色の瞳に銀髪の、物静かな男性が出迎えてくれた。何度か会ったことがある。アレックス・オーウェン、Mr.ローゼンベルクの秘書で、昨日のメモの署名の主だ。

「こんにちは。あの……」

 サンフランシスコ市警の、と言いかけてぐっと飲み込む。今日はプライベートだ、慌てるな。

「ハンス・エリック・スヴェンソンと言います」
「はい、伺っております。どうぞ、こちらへ」

 ちょ、ちょっと待った!
 内心、慌てた。単にiPodを引き取って帰るだけのはずが……うやうやしく奥に通されちゃったよ!
 
「スヴェンソンさまがおいでになりました」
「ご苦労。入ってくれ」

 案内されたのはオフィスではなく、応接室だった。依頼人と会って、打ち合わせをするための部屋。
 手前には革張りのソファとローテーブル、窓際にはもっと背の高い会議用のテーブルが置かれている。こっちはおそらく、仕事の話をするのに使うのだろう。書類を広げたり、ノートパソコンを置いたりして。
 窓を背にして、上質のスーツを着こなした、すらりとした男が立っていた。

「やぁ。いらっしゃい」

 出た、心の狭い人。

 触れた瞬間、切れそうな抜き身の刃が、すうっと皮膚の上を滑ってゆく。いつもの指先ではなく、頚動脈の上を。
 オレ、生きてこの部屋出られるかな……。

「あの……その……こ、こんにちは」

 その、地獄の番犬でさえ手懐けそうな笑顔がかえって怖い。今まで何度か取調室で対峙してきたけど、ここまで得体のしれない威圧感はなかった。麗しい笑顔を見せたことはなかった。
 そうか、これが『私情』ってやつか!
 ようやく合点が行った。
 これは、レオンハルト・ローゼンベルクの意志なのだ。オレと言う人間と、仕事抜きでサシで話すために呼びつけた。

「君の忘れ物はこれだ。確かめてくれ」

 デスクの上にiPodがきちんと乗っている。
 スイッチを入れ、リングの上に指を滑らせる。ああ、よかった。シエンのために集めた曲が、きちんと並んでいる。昨日、新しく入れたばかりの曲も……。
 ちらりと視線をMr.ローゼンベルクに向ける。穏やかにほほ笑みながらじっとこっちを見守っている……ように見える。いやむしろ監視されてると言った方がいい。一挙一動、わずかな表情の動きにいたるまで。
 iPodの中味もチェックされてるだろうな。いや、絶対された。仮にオレが彼の立場なら間違いなくそうしてる。
 こいつには、音楽だけじゃなくて画像も保存できるのだから。

「そうです。まちがいありません。ありがとうございました。お手数おかけしました」
「ところで、スヴェンソンくん」
「……はい」

 来た。

「薄々は気づいていたと思うが、うちの子達は臆病でね」
「………………」
「小さい頃からずいぶん辛い目にあってきたらしい。だから人をなかなか信用できない。実は俺もまだ完全には信用してもらってない」

 唇を噛んでうつむく。

「気長にやることだね。その気があるなら、だが」
「オレは……シエンを傷つけました。警察官としての配慮に欠ける行動をとってしまった」
「どんなトラウマがあるかなんて、なかなか解るものではないからね。今回は、少しまずかったとは思うが」
「申し訳ありません」

 やわらかな表現を選び、決してオレを責めない。だが、過ちを犯した事実は的確に指摘する。逃げ場はない。
 逃げるつもりもない。

「シエンがね。家に戻った後、ディフに繰り返し言っていたそうだよ」
「何……て?」
「エリックは悪くない、と」

 最初は彼の言葉が理解できなかった。ただ、穏やかな声が耳に入ってきただけで。
 一つ一つの音が繋がり、言葉となり、意味を成すにつれ、目の奥にじわじわと塩辛い波がこみ上げて来た。
 シエン……君って子は。

「オティアは別の意見だったようだけどね」
「シエンの言葉が聞けただけで……オレ……オレっ」

 やばい、泣きそうだ。しっかりしろ、ハンス・エリック。彼の目の前で涙なんか見せる訳に行かない。

(君の安全を確保するため、なんてのは大義名分だ)

「ぐっ」

(本当はオレは………逃げてゆく君を、引き戻しただけ。捕まえただけだ!)

「もう少し落ち着いたら、一度会ってやってくれ。あの子も気にしているようだから」
「はいっ! ありがとうございます、ローゼンベルクさんっ」

 もたなかった。ぼろっと塩辛い雫が一粒、こぼれ落ちた。完敗だ、Mr.ローゼンベルク。

「ただし、言動は慎重にお願いするよ。この事でこれ以上、つらい思いはさせたくない」

 誰を、とは具体的には口にしなかった。ただ、透き通った明るい茶色の瞳でじっと見据えてきただけ。
 言わずともわかっているのだろう? 言外に念を押された気がした。

「胸に刻んでおきます。忘れません」

 まだ君につながる道は閉ざされていないのなら、シエン。

「もう、二度と……」

 一歩ずつ、君に近づこう。もう、ごまかしたりしない。隠したりしない。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「……ふむ」 

 ひょろ長い後ろ姿がドアの向こうに消えると、レオンは小さく息を吐き出した。
 まずは一勝だ。とりあえず出方を見守るとしようじゃないか、スヴェンソンくん。
 これでもだいぶ手加減はしたのだよ。
 正直に言うと、君には二度と近づいて欲しくはない。だが、そうするとシエンが回復しない可能性がある。

(仕方がないね)
 
 双子の幸せと平穏は、すなわちディフの幸せであり、それこそレオンにとっての最優先事項だ。その為なら多少の妥協は許容範囲だ。これも、バイキングが現在進行形で懸想している相手がシエンと判明すればこそ。

 だが、もしも、ヒウェルが同じようなことをやらかしたとしたら……。
 くっと唇の端が持ち上がる。

 そうだな。10年ぐらい故郷に帰るといいよ。ああ、もちろんウェールズだ。

(いきなり父祖の地に帰れとーっ? カンベンしてください……もちろん、冗談ですよねっ? レオンっ?)

「ふふっ」

 言われた瞬間のヒウェルの顔を想像し、レオンは一人くすくす笑っていた。実に楽しそうに、この上もなく美しい笑顔で笑っていたのだった。
 
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