▼ 【4-18-7】せめてその涙を
バレンタインの翌日、センパイから電話がかかってきた。
「土曜日に、来い」
「事務所に?」
「家だ」
「……了解」
そして今、ドアの前に居る。先月、ここに来た時はシエンと一緒だった。10ポンド入りのコメ、徳用のベーコン、エビ、そして特売のパスタ。豪快にショッピングカートに放り込んだ食材が、ずっしり詰まった重たい買い物袋を抱えてエレベーターからここまで歩いてきた。
腕は今にも肩から抜けそうにギシギシきしんでいたけれど、心臓は喜びに打ち震えていた。
あの時は花園の入り口に見えた扉が、今は凍てつく絶壁さながらに堅く、冷たく立ちはだかっている。
これは、決別ではない。
どすん、と拳で左胸を叩き、自分に言い聞かせる。
これからもシエンと会い続けたいなら、ここを乗り越えなきゃいけない。どんなにあの人になじられても。怒鳴りつけられても。疎まれても、後には退かない。(ごめん、センパイ)
背筋を伸ばし、呼び鈴に手を伸ばす。
即座にインターフォン越しに呼ばれた。
「エリックか」
「はい」
ドアが開く。
……いた。
気のせいだろうか。赤い髪の毛がもわもわと逆立ってるように見える。
ヘーゼルの瞳の奥にちろちろと緑の炎が揺れている。首筋の『薔薇の花びら』は……やっぱり、うっすら赤い。
「こんにちは」
じろりと睨みつけてから、黙ってオレに背を向けて、ずかずかと歩いてゆく。居間に通じるドアの前でちらりと振り返り、顎をしゃくった。
ついて来いってことだ。全身から燃え上がるオーラにあえて気付かぬフリをして、のこのこと尻尾を振ってついて行く。
「眼鏡外せ」
居間に入るなり開口一番、真顔で言われた。
「……やっぱ殴るんですか」
「一発にしといてやる」
「一発で充分すぎですっ!」
「いいから、外せ……」
「はい……」
しかたない。オレはそれだけのことをしてしまったんだから。
眼鏡を外し、足を開いて踏ん張った。
ぼやけた視界の中でごっつい拳が握られる。藍色のセーターの下で腕の筋肉が波打ち、盛り上がるのがはっきりとわかった。
「どうぞ」
目を閉じ、歯を食いしばった。
ばちーん!
すさまじい衝撃に頭蓋骨がゆさぶられ、閉じた瞼の裏でパシっと火花が散った。体が半回転したものの床に倒れるには至らず、歯も折れてない。何より頬に当たった感触……
目を開ける。振り切った拳は、開いていた。
「えっ、平手っすか、センパイ?」
「そんなにグーで殴られたいか?」
「いえっ、滅相もない!」
背中をつたい落ちる嫌〜な汗を感じつつ、眼鏡をかけ直す。左の頬がじんじん熱い。きっとばっちり手形ついてるんだろうな。
鼻の奥から鉄サビのにおいが込み上げ、鼻腔を通り、たらっと流れ落ちる。手の甲にぽつっと赤い斑点が散った。
やばいよ、鼻血出てる。
無言でさし出されたボックスティッシュを引き出し、鼻をぬぐう。
「……シエンと話、させてください」
ティッシュ越しにくぐもった声で告げると、ぎろっと目をむいてにらみつけてきた。ぐいとヘの字に引っ張った口の奥で、ごりっと歯と歯のこすれる音が聞こえた。
わあ、センパイ。そんな怖い顔初めて見ましたよ。かえって警察にいた時より凄みが増してる。
すっかり主夫が板についてるかと思ったけど……あの子のためならそう言う顔もするんですね。
もう一発来るかな。
半ば覚悟を決めていたら、Dはふっと息を吐き、口を開いた。
「ドア越しなら、な」
「かまいません」
「来い」
うなずき、更に奥に通される。居間を抜けて廊下を奥に。この辺りには始めて足を踏み入れる。未知のゾーンだ。
前に来た時、シエンがリゾットを運んでいったのとは反対方向だ。
……そうか、こっちが子ども部屋なんだ。
一つのドアの前で立ち止まると、センパイはそっとノックして声をかけた。
「シエン」
「……ディフ?」
「ああ。エリックも一緒だ」
「………」
「お前と話したいと言ってる。どうする?」
答えの返ってくるまでの時間が、十年にも、百年にも感じられた。
「……話す」
「わかった」
のっしのっしとこっちに歩いてくると、センパイはぐいっと親指で子ども部屋のドアを示した。
「話せ」
「ありがとうございます」
背後に大動物の気配を感じつつ、ドアに近づく。
ちら、と振り返るときっちり二歩分離れた位置に立ち、腕組みしてこっちを見てる。付き添い……いや、見張り、か。
「……シエン」
そろり、と扉の向こうで小さな生き物の動く気配が伝わってきた。
はやる心を押さえてじっと待つ。ひたすら待つ。
やがて、震える声が返ってきた。
「ごめんね」
何度もシエンはくり返した。
ごめんね。
ごめんね。
か細い声で、何度も、何度も。
「ごめんね……」
こんな時まで謝るのか、君は……。
ドアに手を当て、わずかな隙間に顔を寄せる。
「君は……悪くない………シエン。君は、悪くない」
悪いのはオレなんだ。君を怯やかし、追いつめたのはオレなんだから。でもそんな事を言ったら君はまた謝るのだろう。
「……もう一度……チャンスをくれるかな……」
震える喉から、つとめて穏やかな声を出す。
「ごめ……なさい…」
声が、途切れる。咽の震えを感じた。まとわりつく涙の気配も。
(泣いているのか)
「オレもあやまる。ごめん、シエン」
「………エリック」
「また、君とコーヒー飲みたいよ……君がいないとさみしいよ……」
「エリック、エリック」
「今は………君の涙、ふいてあげられるほどそばに行けないけど……」
手帳から一枚はぎとり、ひと言『いつもの店で待ってる』と走り書きしてハンカチに挟んだ。
「ちょっとだけ、ドア、開けるよ」
ドアのすき間からハンカチをさし出す。
沈黙のまま時間が過ぎてゆく。
ほんの5分ほどだったがオレには永遠に等しい長さに思えた。
軽い足音が近づいてきて、だれかがハンカチを掴む気配がした。手を離すと、そのまますうっと部屋の中に引き込まれて行く。
「……ありがとう」
背後で咳払いが聞こえる。時間切れか。何ってベタな知らせ方。だけど問答無用で襟首ひっつかまれて引きずり出されるよかマシと思おう。
扉を閉め、居間に戻る。
子ども部屋に通じる廊下のドアを閉めると、センパイは振り向きもせず、言った。
「ちょっと待ってろ」
「はい」
のしのしとキッチンに歩いていったと思ったら、すぐに引き返してきた。ひんやりとした物体が、ぐいと左の頬に押しつけられる。
「冷たっ」
「やる」
何かと思えば、袋詰めの冷凍グリーンピースだった。なるほど、合理的だ。冷たい上に可変性があり、顔の曲面にフィットする。
頬からぐいぐいと熱が吸い取られて行く……どんだけ熱くなってたんだか。
「お前は悪くないと、シエンは言った。だから俺は、あの子の主張を受け入れる事にする」
「ありがとうございます」
だから、平手だったのか。
「また干からびそうになったら、飯食いに来い」
「……はい」
二度と来るなって言われたら、何て答えようか。そればかり考えていた。
その時、気付いたのだ。いつの間にかこの人のことを『男』じゃなくて『親』として見てるってことに。
ゆるく波打つ赤い髪よりも。滑らかな雪花石膏のうなじに浮かぶ薔薇の花びらよりも。シエンにもう会えなくなったらどうしようって、その事でひたすら、頭がいっぱいだった。
「何、じろじろ見てる」
「いえっ、何でもありません! それじゃ……また」
※ ※ ※ ※
オティアは手のひらのハンカチに視線を落とした。
吸水性のよさそうな生成りの木綿。シンプルでこの上もなく実用的、生地はしゃんとしてるし、洗いたて。持ち主の几帳面さを伺わせる。かさり、と中に紙の手触りがあった。
メモをしのばせたか。
開くと、中には『いつもの店で待ってる』とだけ記されていた。
(あいつ……!)
どうする。
いっそ捨ててやろうか。
ちらりとベッドの上に目を向ける。
シエンが毛布をかぶり、オーレをかき抱いてうずくまっている。どうしても、触れられなかった。受け取ることができなかったのだ。
だが、泣きぬれた紫の瞳は、じっとハンカチを見つめている。そして、手のひらにはしっかりとピスタチオグリーンの手袋をにぎっていた。
………しかたない。
オティアはシエンの机の引き出しを開け、ハンカチを置いて、また閉めた。中に挟み込まれたメモもそのままで。
そ、と毛布が動いた。小さく、ほんの僅かではあったけれど、確かにうなずいていた。
泣きながら、怯えながらもシエンは感じていた。エリックは、ヒウェルやディフとは違うと。
自分を上から守ろうとするんじゃない。同じ地面に立って、同じ目線で見ている。
腕を捕まれ、引き戻されたあの瞬間。手のひらから痛いほど伝わってきた。包み込むような温かさとは違っていた。もっと熱くて、強かった。青と緑の入り交じる海色の瞳に引き込まれ、溺れそうになった。事実、ほんの短い間だったけれど思ったのだ。このまま溺れてしまっても構わない、と。
誘拐されたときの恐怖がすぐに押し寄せてきて、全てを飲み込んでしまったけれど……。
『エリックは悪くない。悪くない』
『……そうか』
『エリックは悪くないんだ』
『うん。わかった』
誰かを喜ばせる為なんかじゃない。安心させる為でもない。
身代わりでもない。
エリックが求めているのは、自分だけ。まっすぐ俺を見て、迷わず手を伸ばしてくれた。
(嬉しかった)
(だけど、それ以上に怖かった。たった一人で、自分の本当の心をさらして彼と向き合うのが……)
白い子猫に顔を寄せる。ぽろりとこぼれた温かな雫を、小さな舌がぺろりと受け止めてくれた。
行かないで。行かないで。
顔が見たい。追いかけたい、だけど、動けない。
外に出るのが、怖い。
「……ック……」
「に?」
か細い声でささやかれる名前に、オーレはちょこん、と首をかしげた。自分でもない。王子様でもない。所長さんとも違う、馴染みのない名前に。
※ ※ ※ ※
声さえ聞ければそれでいいって思っていた。だけど、そうじゃなかった。声を聞くなり、胸が焦がれた。
顔が見たい。一目でいい。少しくすんだ金色の髪、やわらかな紫の瞳。両手でコーヒーのカップを抱えて、ふわふわのミルクを飲む姿。ちょっと戸惑ったようなほほ笑み。
『参ったなあ、コーヒーかける気満々?』
『ごめん、かけないように気をつける』
『かけられても、別にいいけどね』
シエン。
さっき会ったばかりなのに、もう恋しくてたまらない。
やっぱりドア越しなんかじゃ、ダメだ。
切り裂かれるような痛みが教えてくれる。お前の心臓は、ここに在るのだと。
毛布をかぶり、ベッドにうずくまる少年と、寒空の下、背を丸めてとぼとぼ歩くバイキングの末裔。
自分で思っているよりもずっと強く、二人は想い合っていた。そのことに気付いたのは、皮肉にも試練が訪れた時だった。
(苦いコーヒー/了)
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