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ローゼンベルク家の食卓

【4-18】苦いコーヒー

2010/05/28 1:23 四話十海
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【4-18-0】登場人物

2010/05/28 1:25 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
 
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【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 コーヒースタンドで何度か出会い、話すうち『エビの人』ことエリックの存在を受け入れつつあった。
 けれど、彼はついに知ってしまう。何故、エリックが自分を見ていたのか。
 何故、こんなに優しいのか……。
  
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【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 外見はほぼシエンと同じ。飼い猫のオーレはエドワーズ古書店の猫、リズの娘。
 ヒウェルへの突っ込みは容赦無いが、マメに世話を焼く一面も。
 バイキング警報発令中。前回の終盤でコーヒーを飲みに行くシエンにくっついてスタバに参上。
 直接対決の時が迫る。
 
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【エリック/Hans-Eric-Svensson】 
 シスコ市警の科学捜査官。ディフの警官時代の後輩、23歳。
 ライトブロンド、瞳は青緑色、身長186cm。
 金属フレームの眼鏡着用。好物はエビ。
 デンマーク人の祖父を持つバイキングの末裔。寒さにも極めて強い。
 かつては赤毛のセンパイに片思いしていたが、告白もできずに終った。
 だけど今はシエンだけを見つめている。
 もう、彼だけしか目に入らない。
 
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【オーレ/Oule】
 四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
 白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
 最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
 趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
 事務所に置いてきぼりにされてちょっぴり不満。
 
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【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。27歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 爽やかな笑顔の裏で実はかなりの激情家。嫁に近づく不埒な輩には容赦無い。
 増してそいつがシエンにまでちょっかい出してるとなると……。
 
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【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 エリックは信頼している後輩だが、息子にちょっかい出してるとなると話は別。
 
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【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 職業はフリーのジャーナリスト。黒髪にアンバーアイ、眼鏡着用。
 今回、出番無し。名前が出ただけマシと言うべきか?
 
illustrated by Kasuri
 
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【4-18-1】ソイラテにしてみる

2010/05/28 1:26 四話十海
 
 炊いた米と、茹でたエビ、細く切ったニンジンとキュウリとオムレツ、そしてレタス。ひとまとめにして海苔でくるんで、きっちり巻いて。輪切りにして、ランチボックスにきゅっと詰める。
 今日の弁当は巻きずし。一つずつ口に運び、お茶をすする。日本からの土産でもらったグリーンティーだ。コメにはよく合う。
 すっかりを食べ終ると、オティアは自分の分のカップを流しに運び、洗って片づけて。それから携帯と財布をポケットに収め、所長を振り返った。

「コーヒー飲んでくる」
「ん、行ってこい」

 チリン。足下で、鈴が鳴る。オーレが咽を鳴らしながら尻尾をまきつけ、足の間ですりすりと8の字を描いている。

「……ごめんな」 

 オティアは小さな白い猫を抱き上げるとディフに渡し、入れ違いに青い傘を受け取った。

「そら、こいつを忘れるな」
「ん」
「みゃーっっ」

 白いふかふかの毛皮を撫でると、くるっときびすを返し、足早に事務所を出て行った。
 置いてきぼりをくらったオーレは青い目を半月型にして耳を伏せ、ぺしたん、ぺしたん、とディフを尻尾で叩いた。それから顔を見上げて、かぱっとピンク色の口を開けた。

「んにゃーっっ!」
「……心配するな」

 ディフはほんの少し、眉を寄せながらもほほ笑んで小猫の頭をなでてやった。がっしりした指で耳の付け根をこりこりとかいてやった。

「シエンの付き添いだよ」
「にゅ」

 もごもごと口の中で何かつぶやきつつ、オーレはディフの懐に潜り込み、ごそごそと丸くなった。

「よしよし、そこで寝てろ」

 所長はどかっとソファに腰を降ろし、新聞に手を伸ばした。
 窓の外には灰色の雲が垂れ下がり、しとしとと細い雨が降っている。強くもならず、弱くもならず、朝からずっと、途切れる間もなくしとしとと。
 雨の日の猫はとことん眠い。じきに懐の奥から、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 エレベーターが一階に着いた。ドアが開くなり、シエンとオティアは並んで歩き出す。号令もかけていないのにぴったりと同じ歩調で、互いに視線も合わせずに。ビルの出入り口の所で、どちらからともなく手にした傘を開く。
 深みのある森の緑と、矢車菊の青。寄り添う二つの傘の内側に、ぱらぱらと雨粒が布に弾ける音が響く。申し合わせたように緑色の丸い看板の下でひょいと曲って中に入る。

 そこに、エリックが居た。

 禁煙エリアのテーブルに腰かけて。すぐにこっちに気付き、手を振ってきた。
 傘を畳むやいなや、シエンはまっすぐに歩いてゆき、自分からエリックに声をかけた。

「パソコン、どうだった?」
「うん……初期化した。全部まっしろ」

 オティアはさっさとコーヒーを買いに行ってしまった。こっちをちら、とも見ようともしない。シエンはまゆ根を寄せてきゅっと目を閉じ、頭を下げた。

「ごめんね!」
「え? どうして君が謝るの?」

(だって原因は……俺たちだから)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 遡ること前日。
 シエンとオティアはやはり同じ時刻に、同じ店にいた。そしてこれまた同じテーブルでランチを取っていたエリックはいち早くシエンに気付き、笑顔で手を振って……あれ、と首をかしげたのだった。

 ややくすんだ金色の髪、うっすらと雲をまとい、優しく霞む夜明けの紫の瞳。そっくりの顔が二つ並んでいる。
 ただし、器の造作こそ同じだが満たされている水の温度と質感はそれぞれ微妙に異なる。外見の類似性に惑わされずに向き合えば、おのずと違いは見えてくる。
 シエンは戸惑いながらも軽く右手を掲げ、挨拶を返した。それからオティアとそろってカウンターに向かい、飲み物を注文した。

「カフェラテのショートを二つ、一つはソイミルクで」
「はい、かしこまりました。ショートのカフェラテとソイラテですね。あちらの赤いランプの下でお待ちください」

 ソイミルクで。
 その言葉を聞いた瞬間、オティアはぴくっと眉を震わせた。が、何も言わず自分のカフェラテを受け取り、シエンから少し遅れて歩いて行った。

「やあ」
「こんにちは」

 ちらりとエリックの手元の紙カップに視線を走らせると………「Soymilk」と書かれている。シエンと同じだ。
 何となく面白くない。むすっとしてどすん、とバイキング野郎の真向かいに腰を降ろした。やや遅れてシエンが隣に座る。ちょっと困ったような表情で。
 エリックの前にはコーヒー以外のものも乗っていた。白い薄手のノートパソコンが1台、フタの部分にかじりかけのリンゴが明るく浮かび上がっている。ヒウェルが使っているのと同じマークだ。
 
「仕事中?」
「いや、これはプライベート用のマシンだから……」

 そう言って、エリックはポケットから白いコードをとり出した。

「ほら、この間バッテリーが残り少ないって言ってたから、充電用に、ね」
「あ、うん、ありがとう」

 シエンは素直にコートのポケットからiPodを取り出した。イヤホンがささったままになっている。持ち歩いてるらしい。しかも、頻繁に使っているらしい。
 ますますもって、面白くない。

「ちょっと貸して」
「はい」

 エリックは慣れた手つきでコードを差し込み、iPodを白いノートパソコンに接続した。ブゥン……と微かな音がして、iPodの画面に「接続中」の文字が浮かぶ。

「これで大丈夫だよ。しばらく時間かかるけど」
「よかった。けっこう残り少なくなってたから、どきどきしながら聞いてたんだ」
「リラックスミュージックなのに?」
「本末転倒?」
「かもね」

 軽やかに言葉を交わしつつ、シエンはソイラテを口に含んだ。

「……ソイミルクって、あっさりしてるんだね」
「そうだね、植物性だから」
「思ったより、大豆っぽくない」
「コーヒーの香りが強いからかな……知ってる? ソイミルクって、豆腐の材料なんだよ」
「えっ、豆腐!?」

 ぎょっと目を見開いて、まじまじと紙カップの中を凝視している。
 ああ、可愛いな。
 くすっと笑うと、エリックは何食わぬ顔で続けた。

「海水から抽出したミネラルを加えて、凝固させると豆腐になるんだ。もっとも、コーヒーに使うのよりずっと濃いやつだけどね。かなり豆っぽい味がするし」
「飲んだこと、あるの?」
「ちょっとだけ。探求心が抑えられなくて……」
「え、つまり、エリック、豆腐を手作りしたってこと?」
「……うん。実験キットがあるんだ。豆腐の手作りセット」

 しばしの沈黙。
 オティアはカフェラテをず……とすすってから、ぼそりと言った。

「それ、子供用だろ」
「……実は」
「えーと……子どもの頃の話?」
「いや、去年」
「え? え? え?」

 目をぱちくりさせながら、首をかしげている。小鳥みたいに。今まで何の疑問も持たずにしていたことが、急に気恥ずかしくなってきた。

「趣味って言うか、気晴らしって言うか……休みの日に、ちょこちょことチャレンジしてるんだ。トイザラスで買ってきて」
「仕事で毎日、実験してるのに?」
「うん。何か、大人になってから無性にもう一度やりたくなっちゃうんだよね、ああ言うのって」

 やれやれ、ご苦労なことだ。
 オティアはふーっとため息をついた。
 こいつ、ヒウェルと似た者同士、いい勝負だ。
 今でこそ仕事と私生活をきっちり分けているけれど、ディフも警察に居た時はこんな感じだったんだろうか?

「できあがった豆腐は、食べたの?」
「うん。塩ふって、スプーンですくって」
「それだけ?」
「調理法、わかんなくて……」
「いろいろあるよ。そのまま切って味噌スープに入れても美味しいし、すりつぶしてひき肉と混ぜてミートボールにしたり……そこまで凝らなくても、麻婆豆腐にしてもいいし。シンプルに、ソイソースだけで食べるのも有りだって、サリーが」
「応用性のある食材なんだね」

 趣味と仕事の境目がない。典型的なワーカーホリックだ。それなのに、何だってこう、シエンと会話が弾んでいるのか。
 ますますもって、面白くない。

「ちょっとごめん、冷えちゃったみたい」
「どうぞ」

 シエンが席を立つと、エリックはパソコンの画面に目を落とし、キーボードに指を走らせた。
 オティアはずいっと身を乗り出し、低い声で……ただし、店内のBGMに負けないように、腹の底から力を入れてささやきかけた。

「シエンに近づくな」

 エリックは手を止め、顔をあげた。

「あいつ、好きな奴がいたんだ。だけどそいつは、今は別の奴と付き合ってる。だから……」

 不用意に刺激するな。おびやかすな。言おうとした矢先にさらり言葉を挟まれる。重ねた書類の間に一枚、すうっとまっさらな紙を滑り入れられたような心地がした。

「だったら、オレにもチャンスはあるってことだよね」

 気負いの無い口調で、余計な力は微塵も入っていない。しかし、決して軽々しく口にしたのでもない。その証拠に、青みを帯びた緑の瞳はちらとも揺らがず、ひたとこっちを見据えている。

 オティアはぎりっと奥歯を噛みしめた。
 子どものざれ言と軽くあしらわれたのなら、まだ反撃の余地もある。相手の油断を突くこともできる。
 だが、エリックは逃げずに正面から受け止めている……オティアの言葉の意味する事を。底に含ませた微妙な感情の揺れまでも察しているかのような口ぶりだった。

 こいつ、あくまで退くつもりはないってことか。だが、こっちも後には退けない。
 務めて淡々と言葉をつなぎ、伝えるべきことを伝えた。

「あいつに何かあったら……殺す」
「覚えておくよ」

 その瞬間。二人の間には怯えも、おごりも、同情も存在しなかった。
 大人と子どもではない。警察官と民間人でもない。ただ対等の立場にある『個人』と『個人』の意志が交わされていた。
 
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【4-18-2】制服警官ディフ

2010/05/28 1:27 四話十海
 
 戻ってくるなり、シエンが言った。

「………大丈夫?」
「ん? ああ、大丈夫だよ」

 そのひと事で張りつめた空気が緩む。ほんの少し残ってはいたけれど、とにかく今にも破裂しそうな険悪な状態からは抜け出した。

「あ……これ、充電、終ったよ」
「ありがとう」

 接続を解除し、コードを外すと、エリックは白いつるりとした平たい箱を少年の手に滑り込ませた。

「ついでに何曲か新しいのを入れておいたよ」
「えっ、そんなことできるの?」

 シエンはくるくると指先を箱の表面のリング状のパネルに走らせ、収録された曲を表示した。
 確かに、見覚えのない曲名が増えている。それも一曲や二曲ではない。
 
(ただ充電してるだけじゃなかったんだ!)

 素直に感嘆の言葉を口にする。

「すごいね、このパソコン。音楽を自由に出し入れできるなんて」
「趣味用のだからね。仕事用だとこうは行かない」

 ほめられ、エリックもまんざらでもないらしい。嬉しそうに目を細めてパソコンのトラックバッドに指を載せた。
 くるくると回して、滑らせて、画面の下に並んだアイコンの一つをちょん、と叩く。

「音楽だけじゃなくて、こう言うのも入ってる」
「あ……」

 画面の中に、碁盤の目のように小さな写真が並んでいる。カーソルがその中の一つに載ったと思ったら、テーブルの上に並べたカードみたいにずらっと何枚もの紺色の制服を着た人たちの写真が展開された。

 オティアがわずかに顔をしかめる。
 これは、ちょっと……言いかけたシエンの目が、一枚の写真にすうっと吸い寄せられた。
 がっちりした体つき、首は太く、胸板が厚く、肩幅も広い。そして、日の光を浴びた鮮やかな赤い髪。ぐいっと口を一直線に結び、厳しい表情をしている。ヘーゼルブラウンの瞳は鋭い光を宿し、まっすぐに前を見据えていた。
 と、言うか、睨んでいた。

「これ、もしかしてディフ?」
「そうだよ。5年前の写真だから、爆発物処理班にいた頃だね」
「制服着てるよ?」
「式典の時の写真なんだ。だから盛装してる」

 改めて写真を見る。
 きっちりしたネイビーブルーの制服。サイズがあっているはずなのに、何となくきつそうに見えるのはどうしてだろう。元々は制服警官だったんだから、毎日着ていたはずなのに。

「窮屈そうだな……って言うか、あまり似合わない……」

 よく見ると、着ている服は普段見かける警察官の制服と微妙に形が違う。生地が厚手でボタンの数が多く、白い手袋までしている。

(そうか、これ、礼装用なんだ)

 ディフのすぐ隣にひょろりと背の高い金髪の警察官が居た。こちらはきつそう、と言うことはないが、やっぱり服が体に馴染んでいない。

「あれ? こっちのはもしかして」
「そう、オレ」
「……慣れてない?」
「実は。制服ってあまり着る機会がないしね」

 オティアはむすっとして画面を眺めていた。

 写真は嫌いだ。今はもう存在しない、忌まわしい『撮影所』の記憶につながるから。

 それなのに、いきなりこんなものを広げるなんて……これが他人のパソコンじゃなかったら、即座に電源を落としてやりたい所だが。
 初めて見る、警察官時代のディフの姿にほんの少し、興味を引かれる。厳つい体に厳つい顔、全身からひしひしと剣呑な圧迫感がにじみ出している。レオンの部屋で最初に会った時も、こんな表情をしていた。
 あの時は、ただただ柄の悪そうな男で、てっきりやばい筋の人間かと思った。
 この写真も、制服を着ていなければやっぱり同じように思ったことだろう。

(あれ?)

 見覚えのある人物がもう一人写っていた。濃い金髪にライムグリーンの瞳、おだやかな表情の紳士然とした男性。

(Mr.エドワーズだ……)

 意識が画面に向いた、その時だ。
 画面いっぱいに一枚の写真が広がった。

「で、こっちが式典直後の写真」

 ディフだ。『うえー』っと顔をしかめ、襟をぐいぐいひっぱって緩めている。タイはほどかれ、首の周りに引っかかったまま。ボタンは上三つ外され、くつろげた襟からは鎖骨のあたりまで肌があらわになっていた。
 
「……………」

 オティアの眉の間に深い皺が刻まれた。
 こう言う仕草をしている時のディフは、無自覚にある種の色気を漂わせる
 別に誰かにセクシーな姿を見せつけよう、なんて意識はカケラほどもない。それはわかっているのだが……。

「よっぽど窮屈だったんだろうね」

 エリックがさらりと言った。こいつも自覚していないらしい。自分がどれほど危険なブツを所持してるか。
 シエンはしばらく迷っていたが、遠慮がちにそ、と切り出した。

「こう言う写真は……ちょっと……まずいと思う」
「え?」

 すかさずオティアが冷たく言い放つ。

「レオンに抹殺されるな」
「えーっと……」

(参ったな、Mr.ローゼンベルクってそんなに嫉妬深い人なのか? ただの職場のスナップ写真じゃないか)

 そもそも、エリックにとってレオンハルト・ローゼンベルクは穏やかな物腰と言葉で冷静に退路を塞ぐ知略に長けた弁護士だった。
 愛しい配偶者の為とは言え、よもやそんなに激しい感情を燃やす男だったなんて。

「もしかしてこれもダメ?」

 すっとまた一枚、別の写真が拡大表示される。
 ラスベガスで行われる、毎年恒例120マイルの警官砂漠駅伝。退職するまで、ディフォレスト・マクラウドは常にサンフランシスコ市警察の生え抜きの選手だった。彼がいたからこそ、SFPD爆発物処理班はLAのSES特殊強化部隊や、NYPDのSWATとほぼ互角に張り合う事ができたのだ。
 写真には、目を閉じてグレイのTシャツ一の上からざぶざぶと、ボトルの水を被るディフの姿が写っていた。
 担当地区を走り終えた直後の一枚だ。強烈な日差しの中、流れ落ちる水は髪を濡らし、肌を濡らし、グレイの柔らかな布を濡らし、ぺっとりと体に貼り付かせている。
 最悪だ。
 警戒心のかけらもない大ざっぱな動き。無防備にさらけ出された体。
 オティアは凍えるような目つきでエリックを睨んだ。

「棺桶の準備しとけ」

 その言葉が終るか終らないかのうちに、ぷつっとMacBookの電源が落ちた。

「え?」
「あれっ?」

 エリックは目をぱちくり。驚きはしたが、慌ててはいない。

「またか……」
「また……って?」
「あー、うん、これ初期ロットだからね。いきなり電源が落ちる不具合があったんだ。Firmwareをアップデートしてからは、こんなことなかったんだけど……やっぱりきちんと修理に出すべきかなぁ」

 ぶつぶつ言いながらエリックは電源スイッチを押した。

「……あれ?」

 動かない。

「RAMクリアしないとダメ……か?」

 キィを押しながら電源を入れる。
 ウンともスンとも動かない。そもそも通電している気配すら感じない。

「あれ? あれれ?」

「ごめんね」
「え。何で君が謝るの? 君のせいじゃないよ」
「うん、でも……」

 シエンにはよくわかっていた。何が起きたのか、どうしてパソコンの電源が切れたのか。
 オティアの顔から一切の表情が消えている。カタカタと、手も触れていないのにコーヒーの紙カップが細かく振動を始めている。
 いけない、このままじゃ、暴走しちゃう。早くこの場を離れなきゃ………

(でも)

 エリックのパソコンを壊してしまったことも気掛かりだ。元はと言えば、自分のために持ってきてくれたのだ。
 ディフの写真を見せたのだって、昔の彼がどんなだったか、以前たずねたのを覚えていたから。
『写真』と言うものがオティアにどんな影響を与えるか。エリックは知らない。知るはずもない。

「昼休み、そろそろ終るんでしょ? オレも行かないと」

 エリックがパソコンを抱えて立ち上がった。この人はいつもそうだ。俺が困らないように、一歩早く動く。するりと素早く、自分から。

「うん……」

 ごめんねって言った方がいいのかな。それとも、バイバイ?
 迷っていたら、やっぱり先に言われてしまった。

「またね、シエン」
「……ん」

 白っぽいコートが店を出て行く。
 白いパソコンの入った平たいかばんを抱えて、すたすたと。ドアを潜り、外に出て歩き始めるその動きを、じっと目で追ってると……ガラス越しに目が合ってしまった。
 にこっと笑って、手を振ってきた。
 無意識のうちに手を揚げて、振っていた。低い位置で、小さく。

「……帰るぞ」
「あ、うん」

 事務所に戻る間、オティアはいらいらしていた。
 写真は嫌いだ。
 自分が写ってなければどうにか我慢できるようになってはいたが、あんな、いやらしい姿は論外だ。
 目にした瞬間、頭の中で色のない火花が迸り、実体のない腕を振り上げ、パソコンを殴りつけていた。
 
 それだけじゃない。
 わざわざ帰ると、口に出して伝えなければいけなかった。あの金髪眼鏡のバイキングを目で追っていたシエンに……。

 冷静さを取り戻すにつれ、オティアは残念に思わずにはいられなかった。
 やはりあの写真、消すべきじゃなかった。レオンに言いつければ、奴を抹殺する事ができたのだから。

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【4-18-3】全てが白に返る

2010/05/28 1:30 四話十海
 
 コーヒースタンドを出ると、エリックはその足でApplストアに向かった。さすがに本拠地だけあってサンフランシスコのリンゴのロゴのパソコンショップは充実している。だがどんなに設備がしっかりしていても、直せないトラブルと言うのは確かに存在するのだった。

「データが全て消えていますね」
「全部って……OSも、ハードディスクの中味も、全部ってことですか?」
「はい」
「真っ白に」
「そうなりますね……残念ながら」

 幸い、AppleCareプランには加入していたし、家に帰ればデスクトップ型のコンピューターもある。仕事には使っていない、あくまでプライベート用だ。業務に支障はない……うん、大丈夫。
 半ば夢を見ているような心地のまま、エリックは淡々とパソコンの修理を申し込んだ。
 ついでに懸念のヒートシンクの修理と、赤っぽく変色してきたキーボードとトラックバッドの周辺部のパネルの交換も申請して。
 せっかく来たのだから、と店内を一通り見て回ることにする。iPodのコーナーを通りかかった時、ふっと一抹のさみしさが胸を噛む。

(シエンの為に集めた曲……全部消えちゃったんだなあ……)

 何だか急に気力ががくっと落ちてしまった。急に周りの景色が色あせ、流れるBGMも、人のざわめきも間に一枚、壁を挟んだように遠くなる。それ以上見て回る気にもなれず、足早に店を出た。
 ぼーっとしたままケーブルカーに乗り込み、デッキに立って揺られていると。乗り込んできた女の子が、肩にかけたポシェットから平べったい板チョコに似た何かを取り出た。くるくると巻き付けたコードをほどき、イヤホンを耳に入れた時点で気付く。
 iPod nanoだ。
 そして、思い出す。

(曲なら、残ってるじゃないか。シエンの持ってるiPodに!)

 次に会った時、逆にパソコンに移せばいい。
 うん、そうだ、どうして気付かなかったんだろう。

 口元がゆるみ、目尻が下がり、いつしかエリックはにこにこと笑っていた。
 センパイの写真が消えちゃったのはちょっと残念だけど、会えなくなった訳じゃない。一番、無くしたくないものはちゃんと残っているんだから。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 次の日は、朝から雨が降っていた。しとしとと降りしきる冷たい水の雫をかい潜り、いつものコーヒースタンドに向かった。
 小エビのサンドイッチとブルーベリーのパイを食べ、ソイラテをすすっていると、青い傘と緑の傘が並んで近づいてくる。色の組み合わせでもしかして、と胸が高鳴った。顔を見たら、やっぱり彼だった。
 目が合う。
 手を振ると、シエンの目元がわずかにほころび、小さく手を振り返してくれた……昨日と同じように。
 店に入ると傘を畳むのもそこそこに、まっすぐ歩いてきたのでちょっと驚いた。
 どうしたんだろう? いつもは自分の分のコーヒーを買って、いかにも『ついで』と言う感じで近づいて来るのに。ちょっぴり思い詰めた表情をしてるのも気になる。
 
「パソコン、どうだった?」
「うん……初期化した。全部まっしろ」

 オティアはさっさとコーヒーを買いに行ってしまった。こっちをちら、とも見ようともしない。シエンはまゆ根を寄せてきゅっと目を閉じ、頭を下げた。

「ハードディスクドライブの接続部分が外れて……中味が飛んじゃってね。物理的に破損してたわけじゃないから、OSの再インストールで済みそうなんだけど、ついでにあちこち直してもらおうと思って」
「ごめんね!」
「え? どうして君が謝るの?」
「だって……俺のために持ってきてくれたのに……あんな……」
「君のせいじゃないよ」
「でも……ごめんなさい」

 何にでも謝る子だ。責任感が強いんだろうか。

「いや。これで、良かったんだよ」
「えっ?」

 失われたものを思い返す。部署こそ違うけれど、同じ警察官だった。
 まだ誰のものでもなかった頃のあの人と。何に隔てられることもなく、彼に恋していた自分。
 だけど今は、違う。
 センパイは……ディフォレスト・マクラウドは、他の男の伴侶だ。彼には彼の家庭がある。

「いつまでも未練たらしく、あんなもん持ってちゃいけないんだ。かえってすっきりしたよ」

(どう言う意味なんだろう? 未練って?)

 少し内側にこもった、濁音の強い発音。低く穏やかで、よく響く。決して怒鳴らないけれど、強い力を秘めている。照れている時は、もごもごっとこもる感じが強くなる。そんなエリックの声が、いつしか耳に馴染んでいた。心地よいと感じるようになっていた
 だから、わかってしまう。悟ってしまう。
 彼の言葉の向こう側にある、心の動きが。

 頭の奥でうっすらと形になりかけていた。けれど、目をそらしていた事実が今、はっきりと目の前に現れる。

(エリックはディフの後輩。でも、それだけじゃ……なかったんだ……)

「そう……だったんだ……」
「シエン?」

 ただの頼れる先輩じゃない。仲の良い友人じゃない。ディフは、エリックにとって特別な人だったんだ。まぶしくて、くすぐったくて、その人と居るだけで、胸がどきどきするような。きゅっと締めつけられる。

(エリックは、ディフのことが好きだったんだ………)

 ぐにゃりと目に見えるものが歪んでゆく。店の照明が、ちかっ、ちかっと点滅していると思った。だけど点滅していたのは、自分の視界だった。看板や、メニューの文字が読めない。見えているのに文字として認識できない。

(俺のことを助けてくれたのも。優しくしてくれるのも、全部ディフの為だったんだ……)

 こんなこと、前にもあった気がする。

(同じだ!)

 霧に閉ざされた十月の終わりの日。ゆらゆら揺れる、オレンジ色のカボチャのランタン。
 あの夜、ヒウェルは迷わずオティアを探しに飛び出して行った……振り返りもせずに。わかってたんだ。ヒウェルが優しくしてくれるのは、自分がオティアの双子の兄弟だからだって。

(同じ、なんだ……)

 見ているのは、俺じゃない。自分の好きな誰かのためにほほ笑みかけるだけなんだ。
 ヒウェルも。

 エリックも!

「俺じゃ、ないんだ……」

 かすれた声が唇からこぼれ落ちる。エリックが首を左右に振り、紙くずを丸めたように、くしゃり、と顔を歪めた。

「ちがうんだ、シエン」

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【4-18-4】ごめんなさい!

2010/05/28 1:31 四話十海
 
「ちがうって、どうちがうの?」
「………」

 初めて口ごもり、明確な答えを避けた。視線もそらしてる。こんなエリック、見たくなかった……。

「いつから知ってたの? 俺が、だれなのか」
「君の名前を知ったのは……一昨年の十月。初めて会ったのは、去年の八月……センパイの結婚式だ」
「あ……」

 記憶の中に在る、顔すら定かではないおぼろな影が急にはっきりと形をとり、目の前の青年と重なる。

「あの時の……」

 会場から抜け出したオティアを探して、レストランの駐車場でやっと追いついた。その時、オティアの前に立ちふさがっていた背の高い人。あの時はオティアをなだめるのに必死で、ほとんど注意を払っていなかった。

 エリックだったんだ。
 
「去年の十一月に、現場からの帰りにこの店に寄った。その時、君が一人で座ってるのを見つけた。すぐわかったよ。センパイの世話している双子の一人だって」
「だから、声をかけたの? 感謝祭明けの金曜日の夕方に会った時に」
「うん」

 うなずくとエリックはまっすぐに見つめてきた。

「やっぱり一人で座っていたから、気になって……コーヒー一杯飲む間でいい、君の近くに居ようと思ったんだ」

 きれいな目。青と緑が交じりあい、光の加減でどちらにも見える。今はほとんど青に近い。その瞳が本当に、俺だけを見つめてくれていたらよかったのに!

 咽が震える。問い返そうとした声が、途中でかすれて消えてしまう。

「あの日の夜。仕事が終わって家に帰る途中、君を見つけた。柄の悪い連中に絡まれてたから、声をかけたんだ」

(やっぱりディフの為? それとも、警察官だから?)

 指が冷たい。膝がガクガクと揺れる。お腹の底から凍えるような振動がこみあげる。歯を食いしばっても、止まらない。
 強ばった指を無理やり動かしてポケットから取り出した。ついさっきエリックから受け取った、つるりとした平べったい箱を。やわらかな音の波を奏でる精密な機械。
 いっそ時間を戻して、これを受け取った瞬間に戻れたら……。
 カチリ、と固い音がした。iPodを握る手が、テーブルに触れている。そ、と力を入れて、エリックに向けて押しやった。巻き付けたコードが指の下でよじれる。

「………これ、返す」
「シエン?」
「ごめんなさい……」
「……なんで、謝るの、シエン?」
「もう、会わない」
「どうして……!」

 その瞬間、ハンス・エリック・スヴェンソンは氷河のど真ん中に叩き込まれたような気分になった。

「本当に………ただ偶然ここで会って………友達になれたらよかったね」
「違う、違うんだ。最初に君を見かけたのは本当にたまたまで。オレ、君だけを見てる。センパイの代わりなんかじゃない!」

 びくっとシエンはすくみあがった。同時にオティアががくっとテーブルに突っ伏す。

『君だけを見てる』

 まっすぐな目。まっすぐな言葉。自分だけを視ている。他の誰かのためなんかじゃない。自分だけに。
 どちらも求めていたはずだった。得られないことを嘆いていたはずだった。
 それなのに……

(怖い!)

 沸き起こるのは嬉しさではなく、凍えるような恐怖。
 音、色、形、空気の含む温かさ、コーヒーの香り。自分を包む全ての現実が歪み、ざらりとした紙やすりに変わり、切りつけてくる。むき出しの心臓を、指先を容赦なく削り取る。
 わなわなと震えながら首を左右に振り、後ずさる。
 今まで誰も踏み込まなかった安全圏。オティアとだけ共有してきた静かな繭の中にいきなり、彼が入ってきた。
 ここに居てはいけない。これ以上、エリックの目を見てはいけない。海色の瞳に捕まる、その前に!

 身を翻し、飛び出した。

「待って、シエン!」

 背後で彼が呼んでる。
 どっと冷たい雨が顔に当たる。
 誰にも見られたくない………遠くに行きたい。十一月の最初の日、ケーブルカーを乗り過ごした時みたいに。あの時は行き先が決まっていた、だけど今は。

 どこでもないどこかに。だれもいないどこかに。

 消えてしまいたい。
 消えてしまいたい。
 消えて……
 消、え、て
 
 ほとばしる感情が引き鉄となり、シエンの奥に潜む力を解き放つ。十一月の最初の日、誰にも見つからずに遠くオークランドの動物園まで移動した時のように。かつてオティアが撮影所から逃げ出した時と同じように。

『消えてしまいたい』

 その想いが膜となり、壁となり、シエンをすっぽりと包み込み、他者の意識から彼の存在を切り離す。
 一瞬の揺らぎ、そして少年の姿が『消えた』。無論、物理的に消失したわけではないし、光を透過して透明になったわけでもない。視覚がとらえても、脳が認識しないのだ。彼かそこに存在していると。
 
 道行く人も、車を運転する人も、ケーブルカーの運転手にもシエンは見えない。彼の立てる音も聞こえない。気配すら感じない。
 冷静に歩いていれば問題ない。『消えている』自覚が無くても、自分から危険を避けることができる。ぶつからないように、注意することができる……あるいは、車や自転車、ケーブルカーの前に飛び出さないことも。
 だが、今のシエンには周りが見えていなかった。うつむいて、ほとんど前も見ずに走っていた。

 クリーム色のコートを着た少年が走ってゆく。うつむき、足下だけを見て、傘もささずに、冷たい雨の中を。
 道行く人は誰も彼の存在を認識していない。そこにいることを知らない。
 ただ一人、息せききって追いかける、バイキングの末裔以外は。

「待って、シエン!」

 他者の意識を遮断する壁が完全に閉じられる直前。エリックは全神経を少年に集中していた。だから、彼には見えていた。
 シエンだけを見ていたから、『不可視の呪文』はエリックには効かなかったのだ。

 ハンス・エリック・スヴェンソンは警察官だが、科学者だ。もともと肉弾戦や追跡ダッシュはあまり得意ではない。だが先祖代々受け継がれた頑丈さと暇を見つけては体を動かすマメさが幸いし、それなりに高い基礎体力を維持することに成功していた。
 何より寒さへの耐性と持久力がずば抜けていた。
 初手こそ出遅れたが、すぐさま追いかけて飛び出した。傘もささず、降りしきる冷たい雨のまっただ中へ。
 ほっそりと小さな金髪の少年を追いかけて。今、この瞬間見つめているのは。想っているのはただ一人。

「シエン!」

 道行く人が何事かと振り返る。だが肝心の呼ばれた相手はちらともこちらを見ず、ただがむしゃらに走ってゆく。
 何てことだ、シエン、君、全然周りが見えていないのか?
 横合いの店から出てきた男性が、減速もせず、避けもせずに無造作に踏み出す。にゅっと前方に傘をつき出し、開閉ボタンを押した。
 ばすん。
 バネ仕掛けが作動し、傘が開く。いけない、あの角度ではシエンの顔に当たる!
 しかし触れる寸前、ぱしっと傘が弾かれた。まるで目に見えない腕が振り払ったように、勢い良く。

「わっ」
(えっ?)

 口を開け、ポカーンと路面に落ちた傘を見つめる男性の横を走り抜ける。

(どうなってるんだ?)

 何が起こったのか理解していない。シエンの存在にまるきり気付いていないようだ。いや、この男性だけじゃない。シエンの走る先々で、何人もの通行人が不意に弾かれ、よろけ、驚いている。

(どうして、誰もシエンに気付かない?)

 これじゃあ、まるで……彼の姿が見えていないようだ。

(いや、そんな事はあり得ない。あるはずがない)
 
 異変はそれだけではなかった。

「きゃっ」
「わっ?」

 シエンが走り抜けた瞬間、パシーンと街灯が割れる。周囲の人が顔をかばって身をすくめ、悲鳴をあげた。かと思えば窓ガラスにぴしり、と蜘蛛の巣状のヒビが入る。
 小石でも飛んだか? いや、あのタイミングではあり得ない。そもそも少年一人が走っただけで、あんな衝撃は起きない。
 新聞スタンドの前を横切った直後、風もないのに店先に積まれた新聞や雑誌がぶわっと巻き上げられて飛び散った。

 一体、何が起きているのか。異変の原因は、今、自分が追いかけている金髪の少年なのか……? 少なくとも、波の最先端にいることは確か。だが、どうして? どうやって?
 確固たる現実がぐにゃりと歪み、意識が揺らぐ。
 その刹那、シエンの姿がすうっと希薄になり、消失した。

「まさかっ」

 慌てて目をこらす。良かった、いる。
 汗をかいて、眼鏡が曇ったか。雨粒がレンズに貼り付いて、視界が歪んだせいかな。眼鏡って不便だ、こう言う時は……でも外す暇も、立ち止まってふき取る暇も惜しい。そんなことをしたら……

 じりじりと苦い熱が爪を立て、胸の底を掻きむしる。

(彼を見失ってしまう。ここで見失ったら二度と戻らない、きっと!)

 逆回しのモノクロフィルムの中、君の姿だけが確かな色を放っている。無くしたくない。失うのは嫌だ。
 シエン。
 シエン。
 オレの目の前から消えないで、お願いだ。

 シエンはうつむいたまま、急に方角を変えて車道に飛び出した。道を横切るつもりか。でも歩行者用の信号は赤だ! 
 タクシーが彼めがけて突っ込んでくる。ブレーキをかける気配は微塵もない。やはり見えていないのか?

 一気に水の中を駆け抜け、腕を伸ばす。指の中にほっそりした肩の感触をとらえた。やった、触った!
 ぐいっと引き戻す。

 その瞬間、パァン、とクラクションが鳴った。
 雨が舗道を叩いている。ぱらぱらと顔に当たり、頬をつたい、首筋を流れる。袖から滴り落ちる。ぜい、ぜいと大量の空気が咽を出入りするざらつく音が二つ。一つは己の中に低く響き、もう一つは手のひらを通してか細く伝わってくる。
 寝苦しい夢の中にも似た、奇妙な乖離感が……消えた。

 だが。

「…………」
「あ」

 紫の瞳が見上げている。体中の肉も腱も皮膚も全て強ばらせ、立ち尽くしている。
 しまった!

 ぶぅんと一気に記憶が巻き戻り、2006年の十一月に焦点が合う。
 サンフランシスコ周辺の地図上に表示された赤い点。添えられた行方不明の未成年者の顔写真と名前。その中に、彼がいた。

(そうだ、この子は誘拐の被害者だった!)

 救出後に作成された調書の記述を思い出す。

『道を歩いていたところを背後から突然、捕まれて、車の中に引きずり込まれ……』

(俺は……何てことを!)

 エリックはぎくしゃくと指を動かし、シエンの肩から己の手を引きはがした。激しい後悔が全身をむしばみ、かみ砕く。

「ごめ……ん……」
「っ!」

 ひゅうっと咽を鳴らして空気を吸い込むと、シエンは両の手を泳がせ、わらわらと空中を掻きむしった。目に見えない何かを振り払おうとしているように見えた。
 いけない。
 パニックを起こしている。
 ためらいながらもエリックはじりっと歩を進めた。
 その瞬間、シエンの瞳孔が限界までぎゅん、と開いた。黒みと深みを増した紫の瞳の奥に、純粋な恐怖がうねるのが見えた。

 靴の表面がアスファルトを叩き、びしゃっと水が散る。さっきまでのが疾走だとしたら、今度のは迷走だ。よれよれしながら右に左にジグザグに、路地の細い方へ、人通りの少ない方へと逃げ込んで行く。追いつめられた小動物みたいに。
 幸い、今度は周りの人間はちゃんとシエンを認識しているようだった。顔をしかめながらも体をかわし、衝突を避けている。
 エリックはため息をつくと、再び走り出した。ただし、今度は意図的に距離を保って。追いすがるのではなく、ガードするために。

 さっきより距離がある。にも関わらず、今度はシエンの後ろ姿が霞んだり、視界から消えることはなかった。

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【4-18-5】Lost-Boy

2010/05/28 1:32 四話十海
 
「ぐ……」

 オティアは咽の奥で一声呻くと、テーブルにだん、と手を着いて半身を起こした。

「あいつ……」

 凄まじい衝撃だった。
 シエンを無意識に庇ったのが原因だ。本来、彼が受けるはずだった恐怖と不安、悲しみ。負の感情の入り交じった苦い爆弾をほとんど自分が受け止めてしまった。
 
「あンのバイキングめ……」

 昨日、あれほどシエンに近づくなと言ったのに、いきなりだ。いきなり、あんな近くに割り込んで来るなんて!

(物理的な距離の問題じゃない。遠慮もためらいもなく、ずかずかと自分たちの安全圏に踏み込んできた)

 頭の中に吹き出す悪態の数々を、ぐっと飲み下す。今はそれよりもやらなきゃいけない事がある。
 よれよれと携帯をひっぱりだし、短縮ボタンを押す。2コール目の途中で出た。聞き慣れた穏やかな低い声。

「どうした」

 深呼吸一つ。淡々と言うべきことを伝える。

「シエンがパニック起こして、外に飛び出した」
「おまえは大丈夫なのか!」
「心配ない……ちょっと休んだら、事務所に戻る。シエンのがやばい」
「……わかった。スタバに居るんだな?」
「ああ」
「シエンはどっちに行った」
「………」

 目を閉じる。
 ずっきん、と頭の奥でトゲだらけの塊が転がった。眉をしかめて、さらに『潜る』。
 ぽつりと光の点が見えた。ものすごい勢いでこの場所から遠ざかっている。目を開き、光の動いていた方角を確かめる。

「……南。通りに沿って走ってる」
「わかった。すぐ行く。お前はそこを動くな。アレックスに迎えに行かせる」
「OK………」

 電話を切る。
 これでいい。行くと言ったら、ディフはすぐ動く。自分は……もう少しだけ休んでいよう。アレックスが来るまで、もう少しだけ。
 
 テーブルの上には、きちんと畳んだピスタチオグリーンの手袋と、白いiPodが取り残されていた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「はあっ、は、は……はぁ……」

 くらくらする。
 もう、足に力が入らない。
 ここは、どこなんだろう。

 冷たい雨が頬を打つ。
 髪も顔も手も足も、服もぐっしょりと濡れている。指先がかじかんでいる。傘も、手袋も置いてきてしまった。
 
 冷えきった手足を動かし、よろよろと近くのビルの軒先に座り込んだ。雨がほんの少し遮られる。

(怖いよ。寒いよ。助けて。助けて!)

 無意識のうちにポケットをまさぐり、携帯を取り出した。指がなかなかうまく動かない。歯でストラップをくわえて、両手の爪を立て、無理やり開いた。
 夢中でボタンを押して、電話帳のDの項目を呼び出す。一番上の一人を選び、かけた。
 一昨年の十一月。遠ざかるオティアの背を見送った後、冷凍グリーンピースの看板の下にうずくまり、電話をかけた。あの時と、同じ人に……。
 最初のコールが終るか終らないかのうちに、聞き慣れた低い声が答えてくれた。

「シエン」
「………ディフ!」
「今、どこにいる?」

 声を聞いた途端、だーっと涙がこぼれた。温かくてしょっぱい。今まで顔を濡らしていたのは雨だったのだと始めて気付く。

「わか、わかんない、わかんない……」
「大丈夫」

 静かな声だった。ディフが言うのなら、大丈夫なんだと思った。

「赤……赤い壁………でこぼこしてる……四角いのが、重なって」
「レンガか」
「うん……」
「番地、わかるか?」

 しゃくりあげながら近くの電柱の標識を読み上げる。

「わかった。すぐに行く。待ってろ」
「うん……うんっ……あ、待って、切らないでっ」
「つなげておく。だから心配すんな」
「うんっ! は……はやく……来て」
「……ああ。大急ぎで、迎えに行く」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 背の高い、ひょろりとした人影がたたずんでいた。シエンがうずくまる軒先からほんの少し離れたゴミ箱の影、白っぽいベージュのコートを羽織り、傘もささずに。 
 エリックはほっと胸をなでおろした。
 いい場所に逃げ込んでくれた。あそこなら、雨の何割かは防げる……ここよりはずっとマシだ。
 襟首から入った雨粒は身に付けたものをことごとく湿らせ、ズボンの足首かだぼとぼとと滴り落ちる。

 やれやれ。この『足首からぼとぼと』ってのが一番みじめなんだ。

 目をこらして、シエンの様子を観察する。携帯を取り出した。開いて、電話をかけている。ふと思いついて自分の携帯からセンパイにかけてみた。
 予感的中、話し中。
 
(やっぱりな)

 そのまま現在位置をキープしつつ、張り込みを続けていると……。
 いくらも経たないうちに、のっし、のっしと大股で歩いてくる人物が近づいて来るのが見えた。大きな傘をさしていて、顔は見えない。だが黒いライダーズジャケットに見覚えがあった。第一、あの歩き方は見間違えるはずがない。

 シエンが立ち上がった。
 傘をさしていた人物が、駆け寄ってきた。ちらりと鮮やかな赤い髪が見える。
 ディフォレスト・マクラウドは、まっすぐ飛びつくような愚かなマネはしなかった。少し手前で歩調をゆるめ、よく通る、だが静かな声で呼びかけた。

「シエン!」

 君をさがしている。
 俺はここだ、と。
 くしゃっとシエンの顔が崩れる。表情を無くし、凍りついていた顔が……感情を取り戻した。

「まま!」

 叫びながら飛びつき、すがりついた。大きくて頑丈で、あったかい腕の中に。

「まま……」
「………シエン」

 傘が、路面に落ちる。
 怯えきったひな鳥は、やっと親鳥の懐に潜り込んだ。決して自分を放り出さない、守ってくれる、あたたかな翼の下に。

「ディフ………ディフ………」
「大丈夫だ。もう、大丈夫だから………」

 ディフはシエンを抱きしめ、背中を撫でた。大きな手のひらでゆっくりと。

「エリックは悪くない……悪くない………」
「……うん……」

 その瞬間、ぎゅんっと口の端がめくれあがり、ちらりと白い歯がのぞく。幸い、当のエリックからは見えない角度だったが……。

(そーかぁ、原因は奴かー!)

 何があったかは分からない。だがエリックはこの子と親しくなりつつあったし、オティアはスターバックスから電話をかけてきた。
 そして、エリックとシエンはよく件の店で会うと聞いた覚えがある。たまに顔を合わせて、一緒にコーヒーを飲んでいるのだと。
 察するに、今日はただ「コーヒーを飲む」だけでは終らなかったようだ。

(あンのバイキング野郎め、のほほんとした面で何やらかした!)

 ふるっと腕の中で小さな体が震える。
 いけない。こんなに雨に濡れて、冷えきって。

「帰ろう」
「うん」

 ディフは傘を拾い上げ、シエンの上にさしかけた。降りしきる冷たい雨を遮って、2人は寄り添い、歩き出す。
 わが家を目指して。

(……センパイ)

 エリックは秘かに安堵の息をついた。
 四年前の七月、泣きじゃくるルースを抱きしめて、雨の中にじっとたたずむあの人に傘をさしかけた。だが今回は自分の出る幕はなかったようだ。
 ぼたぼたと雫を垂らして歩き始める……彼らとは逆の方角に。
 未練がましくちらりと振り返ると、センパイはシエンの肩を抱いて支え、シエンは完全に身を委ねていた。そこに居れば安全なのだと。

 ため息一つ。
 はたと思い出す。

「あ……iPod忘れた」

 すっかり水浸しになった靴の中、がぼがぼ足が音を立てて泳ぐ。
 ばかだ。
 オレは、救いようのない大ばかだ……涙も出やしない。

 ひと足ごとに自己嫌悪を刻みつつようやくスターバックスに戻ってくると、オティアの姿は既になかった。店員に尋ねると、メモを一枚手渡された。

『お忘れ物は当方でお預かりしております。ご用の際は、ジーノ&ローゼンベルク法律事務所まで A.オーウェン』
 

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【4-18-6】VS心の狭い人

2010/05/28 1:35 四話十海
 
 水浸しのままアパートに戻り、シャワーを浴びる。
 熱い湯を顔に受け、かなり長い間、ぼーっとしていた。ただ湯が流れるにまかせ、洗うことも拭うことも忘れていた。
 浴室を出て乾いた服に着替え、コーヒーメーカーにフィルターと、豆と、水をセットする。こころもち濃いめに。スイッチを入れてから、おそるおそる伏せた携帯を表に返してみる。

 ……着信無し。

 こぼれたため息は失望なのか、安堵なのかわからない。
 とん、とん、と携帯の表面を人さし指で叩く。何度も叩く。
 連絡をしなければいけない。それは、わかっていた。だが、だれに?
 シエンの番号もメールアドレスも知っている。だけど今、かけていいものか。余計に怯えさせてしまうのではないか。今はそっとしておくべきなんじゃないか?
 
(言い訳だ。見苦しい。もし、拒絶されていたら……それが怖いだけなんだ)
 
 落ち着け、ハンス・エリック。
 とにかくシエンに電話するのは、好ましくない。メールもあの子はあまり使わないと言っていた。
 オティア……は、オレのことを快く思っていないし、そもそもアドレスも番号も知らない。知っているのは、あとは……

(h?)

 知らぬ仲ではないし、そこそこ親しいのも事実だ。だが、何故、自分がシエンのことを気にかけているのか。いかにして関わっているのか、まずはそこから説明しなきゃいけない。
 却下。
 この問題を共有できるほど、彼とはまだ親しくはない。
 
(センパイ……しかないよな……)

 一番、親しいのはあの人だ。信頼しているのも。信頼してくれているのも。
 少なくとも、これまではそうだった。だが、『息子』にちょっかい出した揚げ句に雨の中追い掛け回し、肩をつかんで引き戻した今となっては……。
 果たして、これまでの『信頼』と『友情』をどこまでアテにしていいものか。無論、彼は一度信頼した相手を拒絶したり、裏切ったりすることは絶対にない。だが、シエンへの母性と愛情はおそらく、それに勝る。

『まま!』

 呼ばれた瞬間の彼の表情が全てを物語っていた。最初こそ両目が見開かれ、驚いていた。だが、瞬時に愛おしさと喜びが湧き出し、温かな泉のようにヘーゼルブラウンの瞳を満たし……何の疑問も、ためらいもなく答えていた。
 要するに、今のシエンにとっての母親役は、あの人に他ならないってことだ。当人もそれを受け入れてる。
 
「はぁ……」

 額に手を当て、椅子にへたりこむ。
 マッチョな腕力と胆力に裏打ちされた母性の塊。ある意味、最強の『まま』じゃないか。

 ごぼっ、がぼっ、ごぼぼっ。

 コーヒーメーカーが勢い良く蒸気を噴き上げる。中味をカップに注ぎ、ブラックのまま飲み干した。
 時計を見る。
 少し早いけれど、そろそろ出勤しようかな。デスクワークがだいぶたまってたし。

「うん、それがいい」

 見え見えの言い訳をしながら携帯をポケットに突っ込み、上着を羽織った。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 目を覚ますともう昼過ぎだった。別に寝過ごした訳ではない。夜番の月はだいたいこんなもんだ。
 窓の外には相変わらず鉛色の雲。だが幸いなことに雨は止んでいた。
 激務なのもある意味ありがたい。仕事を言い訳にできる……電話も、メールも送らずにいられることの。
 だが、さすがにこれ以上引き伸ばすことはできない。今日、連絡しなければ、シエンとの繋がりは完全に絶たれてしまう。

(それだけは、嫌だ。絶対に!)

 深く呼吸をすると、エリックは携帯を開き……かけた。
 コール音が鳴っている。一回、二回、三回、四回。まだ出ない。取り込み中かな。後でかけ直そうか。それともメールにしようかな?

「エリック」

 わあ。出ちゃった。

「あ、その、えっと」

 低ぅい声だ。地の底から轟く、地獄の番犬のうなり声。やっぱり怒ってる? 怒ってるよな。

「話せ」
「……はい」

 挨拶をする暇もなかった。昨日、起きたことの一部始終を根こそぎ聞き出された。取り調べさながらに、これ以上ないってくらいに的確に、簡潔に。
 何があったかは、だいたいシエン本人とオティアから聞いてるはずだ。それなのに俺の視点からも証言を聞くあたり、いかにもセンパイらしい。警察にいた時の習性がしっかり根付いてるんだ。
 先入観に捕らわれず、加害者、被害者、目撃者から話を聞く。(この場合のオレの役割がどれかは……)
 こっちも現役の捜査官だ。的確に事実を伝える。できうる限り客観的に、自分の主観に捕らわれずに。したこと、見たこと、聞いたこと、起きたこと。
 全て話し終えると、ほんの少しの間沈黙があった。

「……センパイ?」
「わかった。何があったのか、理解した。お前が、意図的にあの子を傷つけようとしたんじゃないってことは、な」
「………すみません」
「謝るな」

 怖いくらいに静かな口調だ。まだ、怒ってる。
 いっそ電話を切って逃げ出したい。だけどここで引き下がる訳には行かないんだ、断固として。
 ええい、ヴァルハラのご先祖様、ご加護を!

「シエンは……」
「今日は休ませた」
「そう……ですか」
「にゃーっっ」

 かすかに猫の声がする。オーレだ。彼女はオティアと一緒に事務所に通っているから、声がしても不思議はない。だけどいつもより微妙に遠かった。おそらく、間に壁やドアを挟んでいる。
 
「あの、もしかして、自宅、ですか」
「そうだ」

 つまり、あれだ。マクラウド探偵事務所は本日臨時休業ってこと……か。シエンは予想してる以上に具合がよくないらしい。雨に打たれたせいだろうか。熱でも出したんだろうか。過去の恐ろしい体験をえぐり出されて、苦しんでるんじゃないか。
 胸が切り裂かれる。
 いずれにせよ、原因は、オレだ。
 とっさに当たり障りのない話題を口にしていた。

「あのー、それで、ですね。オレ、スタバに忘れ物しちゃって」
「それならアレックスが回収した。レオンの事務所で預かってるそうだ」

 うん、それは知ってます、D。大事なのはその先なんです。

「にゃーーーおおおうっ!」

 また、オーレの声がした。さっきより近い。明らかにセンパイを呼んでいる……と言うか、呼びに来たのか。

「みゃーっ!」

 三度目の鳴き声は、すぐそばで聞こえた。足下にいるんだろう。チリン、と甲高い鈴の音まで電話に入ってきた。

「……後で取りに伺います」
「わかった。レオンには話を通しておく」
「ありがとうございます。それじゃ」

 持ってきてください、なんて、とてもじゃないが言える状態じゃなかった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 朝食後、腹をくくってジーノ&ローゼンベルク法律事務所に出頭した。
 自分から荒れ狂う海に飛び込む道を選んでしまったような気がしないでもないが、ここで逃げたら元も子もない。
 虎の巣穴に入らなければ、虎の児を手に入れることはできないんだ。
 オーディンとヴァルハラのご先祖の加護あらんことを。いざ赴かん、敵地(アウェー)へ。

 入って行くと、水色の瞳に銀髪の、物静かな男性が出迎えてくれた。何度か会ったことがある。アレックス・オーウェン、Mr.ローゼンベルクの秘書で、昨日のメモの署名の主だ。

「こんにちは。あの……」

 サンフランシスコ市警の、と言いかけてぐっと飲み込む。今日はプライベートだ、慌てるな。

「ハンス・エリック・スヴェンソンと言います」
「はい、伺っております。どうぞ、こちらへ」

 ちょ、ちょっと待った!
 内心、慌てた。単にiPodを引き取って帰るだけのはずが……うやうやしく奥に通されちゃったよ!
 
「スヴェンソンさまがおいでになりました」
「ご苦労。入ってくれ」

 案内されたのはオフィスではなく、応接室だった。依頼人と会って、打ち合わせをするための部屋。
 手前には革張りのソファとローテーブル、窓際にはもっと背の高い会議用のテーブルが置かれている。こっちはおそらく、仕事の話をするのに使うのだろう。書類を広げたり、ノートパソコンを置いたりして。
 窓を背にして、上質のスーツを着こなした、すらりとした男が立っていた。

「やぁ。いらっしゃい」

 出た、心の狭い人。

 触れた瞬間、切れそうな抜き身の刃が、すうっと皮膚の上を滑ってゆく。いつもの指先ではなく、頚動脈の上を。
 オレ、生きてこの部屋出られるかな……。

「あの……その……こ、こんにちは」

 その、地獄の番犬でさえ手懐けそうな笑顔がかえって怖い。今まで何度か取調室で対峙してきたけど、ここまで得体のしれない威圧感はなかった。麗しい笑顔を見せたことはなかった。
 そうか、これが『私情』ってやつか!
 ようやく合点が行った。
 これは、レオンハルト・ローゼンベルクの意志なのだ。オレと言う人間と、仕事抜きでサシで話すために呼びつけた。

「君の忘れ物はこれだ。確かめてくれ」

 デスクの上にiPodがきちんと乗っている。
 スイッチを入れ、リングの上に指を滑らせる。ああ、よかった。シエンのために集めた曲が、きちんと並んでいる。昨日、新しく入れたばかりの曲も……。
 ちらりと視線をMr.ローゼンベルクに向ける。穏やかにほほ笑みながらじっとこっちを見守っている……ように見える。いやむしろ監視されてると言った方がいい。一挙一動、わずかな表情の動きにいたるまで。
 iPodの中味もチェックされてるだろうな。いや、絶対された。仮にオレが彼の立場なら間違いなくそうしてる。
 こいつには、音楽だけじゃなくて画像も保存できるのだから。

「そうです。まちがいありません。ありがとうございました。お手数おかけしました」
「ところで、スヴェンソンくん」
「……はい」

 来た。

「薄々は気づいていたと思うが、うちの子達は臆病でね」
「………………」
「小さい頃からずいぶん辛い目にあってきたらしい。だから人をなかなか信用できない。実は俺もまだ完全には信用してもらってない」

 唇を噛んでうつむく。

「気長にやることだね。その気があるなら、だが」
「オレは……シエンを傷つけました。警察官としての配慮に欠ける行動をとってしまった」
「どんなトラウマがあるかなんて、なかなか解るものではないからね。今回は、少しまずかったとは思うが」
「申し訳ありません」

 やわらかな表現を選び、決してオレを責めない。だが、過ちを犯した事実は的確に指摘する。逃げ場はない。
 逃げるつもりもない。

「シエンがね。家に戻った後、ディフに繰り返し言っていたそうだよ」
「何……て?」
「エリックは悪くない、と」

 最初は彼の言葉が理解できなかった。ただ、穏やかな声が耳に入ってきただけで。
 一つ一つの音が繋がり、言葉となり、意味を成すにつれ、目の奥にじわじわと塩辛い波がこみ上げて来た。
 シエン……君って子は。

「オティアは別の意見だったようだけどね」
「シエンの言葉が聞けただけで……オレ……オレっ」

 やばい、泣きそうだ。しっかりしろ、ハンス・エリック。彼の目の前で涙なんか見せる訳に行かない。

(君の安全を確保するため、なんてのは大義名分だ)

「ぐっ」

(本当はオレは………逃げてゆく君を、引き戻しただけ。捕まえただけだ!)

「もう少し落ち着いたら、一度会ってやってくれ。あの子も気にしているようだから」
「はいっ! ありがとうございます、ローゼンベルクさんっ」

 もたなかった。ぼろっと塩辛い雫が一粒、こぼれ落ちた。完敗だ、Mr.ローゼンベルク。

「ただし、言動は慎重にお願いするよ。この事でこれ以上、つらい思いはさせたくない」

 誰を、とは具体的には口にしなかった。ただ、透き通った明るい茶色の瞳でじっと見据えてきただけ。
 言わずともわかっているのだろう? 言外に念を押された気がした。

「胸に刻んでおきます。忘れません」

 まだ君につながる道は閉ざされていないのなら、シエン。

「もう、二度と……」

 一歩ずつ、君に近づこう。もう、ごまかしたりしない。隠したりしない。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「……ふむ」 

 ひょろ長い後ろ姿がドアの向こうに消えると、レオンは小さく息を吐き出した。
 まずは一勝だ。とりあえず出方を見守るとしようじゃないか、スヴェンソンくん。
 これでもだいぶ手加減はしたのだよ。
 正直に言うと、君には二度と近づいて欲しくはない。だが、そうするとシエンが回復しない可能性がある。

(仕方がないね)
 
 双子の幸せと平穏は、すなわちディフの幸せであり、それこそレオンにとっての最優先事項だ。その為なら多少の妥協は許容範囲だ。これも、バイキングが現在進行形で懸想している相手がシエンと判明すればこそ。

 だが、もしも、ヒウェルが同じようなことをやらかしたとしたら……。
 くっと唇の端が持ち上がる。

 そうだな。10年ぐらい故郷に帰るといいよ。ああ、もちろんウェールズだ。

(いきなり父祖の地に帰れとーっ? カンベンしてください……もちろん、冗談ですよねっ? レオンっ?)

「ふふっ」

 言われた瞬間のヒウェルの顔を想像し、レオンは一人くすくす笑っていた。実に楽しそうに、この上もなく美しい笑顔で笑っていたのだった。
 
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【4-18-7】せめてその涙を

2010/05/28 1:36 四話十海
 
 バレンタインの翌日、センパイから電話がかかってきた。

「土曜日に、来い」
「事務所に?」
「家だ」
「……了解」

 そして今、ドアの前に居る。先月、ここに来た時はシエンと一緒だった。10ポンド入りのコメ、徳用のベーコン、エビ、そして特売のパスタ。豪快にショッピングカートに放り込んだ食材が、ずっしり詰まった重たい買い物袋を抱えてエレベーターからここまで歩いてきた。
 腕は今にも肩から抜けそうにギシギシきしんでいたけれど、心臓は喜びに打ち震えていた。
 あの時は花園の入り口に見えた扉が、今は凍てつく絶壁さながらに堅く、冷たく立ちはだかっている。
 
 これは、決別ではない。

 どすん、と拳で左胸を叩き、自分に言い聞かせる。
 これからもシエンと会い続けたいなら、ここを乗り越えなきゃいけない。どんなにあの人になじられても。怒鳴りつけられても。疎まれても、後には退かない。(ごめん、センパイ)

 背筋を伸ばし、呼び鈴に手を伸ばす。
 即座にインターフォン越しに呼ばれた。

「エリックか」
「はい」

 ドアが開く。
 ……いた。
 気のせいだろうか。赤い髪の毛がもわもわと逆立ってるように見える。
 ヘーゼルの瞳の奥にちろちろと緑の炎が揺れている。首筋の『薔薇の花びら』は……やっぱり、うっすら赤い。

「こんにちは」

 じろりと睨みつけてから、黙ってオレに背を向けて、ずかずかと歩いてゆく。居間に通じるドアの前でちらりと振り返り、顎をしゃくった。
 ついて来いってことだ。全身から燃え上がるオーラにあえて気付かぬフリをして、のこのこと尻尾を振ってついて行く。

「眼鏡外せ」

 居間に入るなり開口一番、真顔で言われた。

「……やっぱ殴るんですか」
「一発にしといてやる」
「一発で充分すぎですっ!」
「いいから、外せ……」
「はい……」

 しかたない。オレはそれだけのことをしてしまったんだから。
 眼鏡を外し、足を開いて踏ん張った。
 ぼやけた視界の中でごっつい拳が握られる。藍色のセーターの下で腕の筋肉が波打ち、盛り上がるのがはっきりとわかった。

「どうぞ」

 目を閉じ、歯を食いしばった。

 ばちーん!

 すさまじい衝撃に頭蓋骨がゆさぶられ、閉じた瞼の裏でパシっと火花が散った。体が半回転したものの床に倒れるには至らず、歯も折れてない。何より頬に当たった感触……
 目を開ける。振り切った拳は、開いていた。

「えっ、平手っすか、センパイ?」
「そんなにグーで殴られたいか?」
「いえっ、滅相もない!」

 背中をつたい落ちる嫌〜な汗を感じつつ、眼鏡をかけ直す。左の頬がじんじん熱い。きっとばっちり手形ついてるんだろうな。
 鼻の奥から鉄サビのにおいが込み上げ、鼻腔を通り、たらっと流れ落ちる。手の甲にぽつっと赤い斑点が散った。
 やばいよ、鼻血出てる。
 無言でさし出されたボックスティッシュを引き出し、鼻をぬぐう。

「……シエンと話、させてください」

 ティッシュ越しにくぐもった声で告げると、ぎろっと目をむいてにらみつけてきた。ぐいとヘの字に引っ張った口の奥で、ごりっと歯と歯のこすれる音が聞こえた。
 わあ、センパイ。そんな怖い顔初めて見ましたよ。かえって警察にいた時より凄みが増してる。
 すっかり主夫が板についてるかと思ったけど……あの子のためならそう言う顔もするんですね。
 もう一発来るかな。
 半ば覚悟を決めていたら、Dはふっと息を吐き、口を開いた。

「ドア越しなら、な」
「かまいません」
「来い」

 うなずき、更に奥に通される。居間を抜けて廊下を奥に。この辺りには始めて足を踏み入れる。未知のゾーンだ。
 前に来た時、シエンがリゾットを運んでいったのとは反対方向だ。
 ……そうか、こっちが子ども部屋なんだ。
 一つのドアの前で立ち止まると、センパイはそっとノックして声をかけた。

「シエン」
「……ディフ?」
「ああ。エリックも一緒だ」
「………」
「お前と話したいと言ってる。どうする?」

 答えの返ってくるまでの時間が、十年にも、百年にも感じられた。

「……話す」
「わかった」 

 のっしのっしとこっちに歩いてくると、センパイはぐいっと親指で子ども部屋のドアを示した。

「話せ」
「ありがとうございます」

 背後に大動物の気配を感じつつ、ドアに近づく。
 ちら、と振り返るときっちり二歩分離れた位置に立ち、腕組みしてこっちを見てる。付き添い……いや、見張り、か。

「……シエン」

 そろり、と扉の向こうで小さな生き物の動く気配が伝わってきた。
 はやる心を押さえてじっと待つ。ひたすら待つ。
 やがて、震える声が返ってきた。

「ごめんね」

 何度もシエンはくり返した。
 ごめんね。
 ごめんね。
 か細い声で、何度も、何度も。

「ごめんね……」

 こんな時まで謝るのか、君は……。
 ドアに手を当て、わずかな隙間に顔を寄せる。

「君は……悪くない………シエン。君は、悪くない」

 悪いのはオレなんだ。君を怯やかし、追いつめたのはオレなんだから。でもそんな事を言ったら君はまた謝るのだろう。

「……もう一度……チャンスをくれるかな……」

 震える喉から、つとめて穏やかな声を出す。

「ごめ……なさい…」

 声が、途切れる。咽の震えを感じた。まとわりつく涙の気配も。

(泣いているのか)

「オレもあやまる。ごめん、シエン」
「………エリック」
「また、君とコーヒー飲みたいよ……君がいないとさみしいよ……」
「エリック、エリック」
「今は………君の涙、ふいてあげられるほどそばに行けないけど……」

 手帳から一枚はぎとり、ひと言『いつもの店で待ってる』と走り書きしてハンカチに挟んだ。

「ちょっとだけ、ドア、開けるよ」

 ドアのすき間からハンカチをさし出す。
 沈黙のまま時間が過ぎてゆく。
 ほんの5分ほどだったがオレには永遠に等しい長さに思えた。
 軽い足音が近づいてきて、だれかがハンカチを掴む気配がした。手を離すと、そのまますうっと部屋の中に引き込まれて行く。

「……ありがとう」

 背後で咳払いが聞こえる。時間切れか。何ってベタな知らせ方。だけど問答無用で襟首ひっつかまれて引きずり出されるよかマシと思おう。
 扉を閉め、居間に戻る。
 子ども部屋に通じる廊下のドアを閉めると、センパイは振り向きもせず、言った。

「ちょっと待ってろ」
「はい」

 のしのしとキッチンに歩いていったと思ったら、すぐに引き返してきた。ひんやりとした物体が、ぐいと左の頬に押しつけられる。

「冷たっ」
「やる」

 何かと思えば、袋詰めの冷凍グリーンピースだった。なるほど、合理的だ。冷たい上に可変性があり、顔の曲面にフィットする。
 頬からぐいぐいと熱が吸い取られて行く……どんだけ熱くなってたんだか。

「お前は悪くないと、シエンは言った。だから俺は、あの子の主張を受け入れる事にする」
「ありがとうございます」

 だから、平手だったのか。

「また干からびそうになったら、飯食いに来い」
「……はい」

 二度と来るなって言われたら、何て答えようか。そればかり考えていた。
 その時、気付いたのだ。いつの間にかこの人のことを『男』じゃなくて『親』として見てるってことに。
 ゆるく波打つ赤い髪よりも。滑らかな雪花石膏のうなじに浮かぶ薔薇の花びらよりも。シエンにもう会えなくなったらどうしようって、その事でひたすら、頭がいっぱいだった。

「何、じろじろ見てる」
「いえっ、何でもありません! それじゃ……また」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 オティアは手のひらのハンカチに視線を落とした。
 吸水性のよさそうな生成りの木綿。シンプルでこの上もなく実用的、生地はしゃんとしてるし、洗いたて。持ち主の几帳面さを伺わせる。かさり、と中に紙の手触りがあった。
 メモをしのばせたか。
 開くと、中には『いつもの店で待ってる』とだけ記されていた。

(あいつ……!)

 どうする。
 いっそ捨ててやろうか。

 ちらりとベッドの上に目を向ける。
 シエンが毛布をかぶり、オーレをかき抱いてうずくまっている。どうしても、触れられなかった。受け取ることができなかったのだ。
 だが、泣きぬれた紫の瞳は、じっとハンカチを見つめている。そして、手のひらにはしっかりとピスタチオグリーンの手袋をにぎっていた。

 ………しかたない。

 オティアはシエンの机の引き出しを開け、ハンカチを置いて、また閉めた。中に挟み込まれたメモもそのままで。
 そ、と毛布が動いた。小さく、ほんの僅かではあったけれど、確かにうなずいていた。

 泣きながら、怯えながらもシエンは感じていた。エリックは、ヒウェルやディフとは違うと。
 自分を上から守ろうとするんじゃない。同じ地面に立って、同じ目線で見ている。
 腕を捕まれ、引き戻されたあの瞬間。手のひらから痛いほど伝わってきた。包み込むような温かさとは違っていた。もっと熱くて、強かった。青と緑の入り交じる海色の瞳に引き込まれ、溺れそうになった。事実、ほんの短い間だったけれど思ったのだ。このまま溺れてしまっても構わない、と。
 誘拐されたときの恐怖がすぐに押し寄せてきて、全てを飲み込んでしまったけれど……。

『エリックは悪くない。悪くない』
『……そうか』
『エリックは悪くないんだ』
『うん。わかった』

 誰かを喜ばせる為なんかじゃない。安心させる為でもない。
 身代わりでもない。
 エリックが求めているのは、自分だけ。まっすぐ俺を見て、迷わず手を伸ばしてくれた。

(嬉しかった)
(だけど、それ以上に怖かった。たった一人で、自分の本当の心をさらして彼と向き合うのが……)

 白い子猫に顔を寄せる。ぽろりとこぼれた温かな雫を、小さな舌がぺろりと受け止めてくれた。

 行かないで。行かないで。
 顔が見たい。追いかけたい、だけど、動けない。
 外に出るのが、怖い。
  
「……ック……」
「に?」

 か細い声でささやかれる名前に、オーレはちょこん、と首をかしげた。自分でもない。王子様でもない。所長さんとも違う、馴染みのない名前に。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 声さえ聞ければそれでいいって思っていた。だけど、そうじゃなかった。声を聞くなり、胸が焦がれた。
 顔が見たい。一目でいい。少しくすんだ金色の髪、やわらかな紫の瞳。両手でコーヒーのカップを抱えて、ふわふわのミルクを飲む姿。ちょっと戸惑ったようなほほ笑み。

『参ったなあ、コーヒーかける気満々?』
『ごめん、かけないように気をつける』
『かけられても、別にいいけどね』

 シエン。
 さっき会ったばかりなのに、もう恋しくてたまらない。
 やっぱりドア越しなんかじゃ、ダメだ。
 切り裂かれるような痛みが教えてくれる。お前の心臓は、ここに在るのだと。
 
 毛布をかぶり、ベッドにうずくまる少年と、寒空の下、背を丸めてとぼとぼ歩くバイキングの末裔。
 自分で思っているよりもずっと強く、二人は想い合っていた。そのことに気付いたのは、皮肉にも試練が訪れた時だった。


(苦いコーヒー/了)

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ボーイミーツボーイ

2010/05/28 1:48 短編十海
  • 拍手お礼用短編の再録。ロイと風見、幼い日の出会い。
 
 ロイ・アーバンシュタインは昔から素直な少年だった。

 そして昔から祖父を心から尊敬し、慕っていた。愛していた。
 彼は幼い頃、繊細で神経の細い子だった。人見知りで引っ込み思案。些細な刺激に怯え、夜はあまり寝つけず、食も細く、季節の変わり目にはしょっちゅう熱を出していた。そこで両親の住むワシントンDCを離れ、気候の良いカリフォルニアに住む祖父の元で過ごすことが多かった。

 毎晩のようにロイはおじい様の広いあったかい膝に乗り、おじい様が出演した映画のビデオを見て過ごした。
 結果として小さなロイ少年にとってのヒーローが、スーパーマンやバットマンより断然、ニンジャであり、サムライになって行ったのは自然な成り行きだったと言えよう。

「すごいや、おじい様、あの人、あんなに高くジャンプしてる。わお、素手で石を真っ二つにしたよ!」
「あれはニンジャだよ、ロイ」
「ニンジャ! すごいなー、かっこいいなー」

 青い瞳をきらきらさせて、幼いロイは祖父に言った。

「ボク、大きくなったらニンジャになりたい!」
「そうか!」

 おじい様はロイの頭を撫でて豪快に笑った。

「よし、では私の親友が日本にいる。優れた武道家だ。もうすぐ夏休みだし、お前、彼のところで修業してみるかい?」
「うん!」

 引っ込み思案な孫の驚異的とも言える積極性に、有頂天になったおじい様は速攻で親友に連絡をとり……準備万端、訪日の手はずを整えた。

 こうして幼いロイ少年は祖父に連れられて海を渡り、はるばると日本へ武術修業に赴いたのだった。
 瓦屋根のあるどっしりした門をくぐると、現れたのはまるで映画のセットに出てくるような古い武家屋敷。本物の石灯籠、ふんわりとやわらかな緑のコケ。澄んだ水をたたえた池には、色とりどりのニシキゴイが泳いでいる。

(すごい、ここは本当にサムライの家なんだ!)

 ロイは目を輝かせてきょろきょろしながら広い庭を歩き回った。力強い曲線を描く松の木に見とれ、近づいてゆくと。

「やあ、とう!」

 鋭い気合いとともに、びゅん、びゅん、と刀を振る音が聞こえてくる。そう、とっさに刀だと思った。それ以外に考えられなかった。
 松の木の幹に手をかけて、そおっとのぞきこむと……。

「やあ、とう!」

 キモノを着た少年が一人、きびきびした動きで竹刀を振っていた。涼やかなまなざしはきっと前を見つめ、背筋がぴしりと伸びている。自分と同じぐらいの年ごろだろうか。手も、足も引き締まり、丈夫そうだ。
 そして、この太刀筋……直感で悟った。
 本物だ。
 手にしているのは竹刀、だけどこの子はまぎれもなく斬っている。

(サムライだ……サムライがいる!)

「ん?」
 
 気配に気付いたらしい。
 ちっちゃなサムライボーイは素振りの手を休め、無造作に汗をぬぐうとロイを見て、にこっと笑った。その瞬間、ロイの心臓は目に見えない矢に射貫かれていた。

「やあ!」

 どきどきする心臓を両手で押さえつつ、ロイは進み出た。いつものシャイな自分をすっかり忘れていた。
 
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 illustrated by Kasuri
 
「ハ、ハロー……」
「君、アーバンシュタインさんとこのお孫さんだろ?」
「う、ウン」
「やっぱりな! じっちゃんから聞いてたよ。俺は光一!」
「ボクはロイ」
「よろしくな、ロイ!」
「ウン!」

 Boy meets Boy。
 こうして二人は出会った。

 一緒の部屋で寝起きして、ご飯を食べるのも一緒。ラジオ体操も一緒。稽古をするのも一緒。お風呂も一緒。どこに行くにも一緒。
 風見光一の祖父は、彼に親友の孫の面倒を見るように言いつけていた。何より光一自身も、ロイと言う友だちができたのが嬉しくてたまらなかった。

 同じ年ごろの少年では、初めてだったのだ。自分と同じレベルで野を駆け、竹刀を振るい、木に登ることのできる『仲間』を得たのは……。あるいは、身のうちに秘めた素質が、この頃から既に秘かに呼び合っていたのかも知れない。
 
 ほどなく、彼らは固い絆で結ばれた親友になった。
 光一の祖父の教えには、武道のみならず、書道や茶道と言った精神を研ぎ澄ます鍛練も含まれていた。最初は慣れない筆と墨に戸惑ったものの、少年たちは熱心に自分の名前を練習した。
 勢い余って紙からはみ出したり。あるいは筆に墨をつけすぎて、紙が破けたり。さんざん失敗を繰り返し、やっと納得の行く一枚ができあがった時はロイと光一は顔を見合わせてにっこり笑った。

 多少、文字がまちがってはいたけれど、光一の祖父は大きな花丸をくれた。

 毎日、二人は修業し、勉強し、終ってからは裏の山で夢中になって遊び回った。
 夏が終るころには、引っ込み思案で体の弱かったロイ少年は真っ黒に日焼けして、見違えるほど丈夫になっていた。

 しかし、楽しい時間はあっと言う間に過ぎてゆく。
 やがて夏休みは終わりに近づき、ロイがアメリカに帰る時がやってきた。
 二人とも別れが悲しくてわんわん泣いた。一緒になって庭の松の木にしがみつき、双方の祖父がひっぱってもがっちり掴まり、離れようとしなかった。
 孫の成長を喜ぶ一方でそのあまりの意志の強さに困り果て、ロイの祖父は言った。

「わかった。お前が一人前のニンジャになったら、その時また、日本に来なさい。コウイチと一緒に、日本の学校に通いなさい」
「そうだ、ロイくん、ぜひ、そうしたまえ! 私も待っているぞ」
「………ホント?」
「ああ、約束する。武士に二言はない」
「だから、その前に一度アメリカに帰ってこい。日本で一人で生活できるように、アメリカでしっかり勉強するんだ」

 青い瞳に涙をいっぱいにためて、ロイはこくんとうなずき、親友と指切りをした。

「離れていても、俺たち親友だからな!」
「ウン! コウイチ、ボク、一生懸命修業する。立派なニンジャになって、必ず日本に戻ってくる!」

 そもそも最初はニンジャになるために日本に来たんだろう、とか。それじゃ本末転倒だろう! とか。純真で一途なロイ少年はカケラほども考えつかなかった。

 そして、現在。

「ロイくん、風見くん?」
「あらあら、まあまあ」
「よく寝てること」
「これじゃお部屋に運ぶのは無理ね」
「お布団もってきてあげましょう」
「そうしましょう」
「でも、その前に」
 
 結城神社の居間で、ロイと風見はぴったり寄り添って眠っていた。
 ぱしゃり。
 二人の母さんたちの構えた携帯の画面の中、幼いあの日と同じようにしっかりと手を握り、しあわせそうにほほ笑んで。

(ボーイ・ミーツ・ボーイ/了)

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