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ローゼンベルク家の食卓

【ex10-15】篭の中の羊は

2010/05/03 0:01 番外十海
 
 リ、リィ………ン。

 鈴の音が一つになり、景色が変わった。

(寒い)

 周囲は灰色の霧が立ちこめている。古い映画のフィルムのようにざらりとした粒子の粗い霧だった。
 ついさっき、夢魔と対峙した海岸とは明らかに異なっている。足の下はじっとりした砂浜ではなく、固い土だ。空気のにおいも海辺の生臭さはない。冷たく、乾いている……こんなに霧が出ているのに。

(ここは……どこだ?)

 空はどんよりと灰色の曇り空。だが、生きた空ではない。古い写真を切り張りしたような、動きのない平べったい空だ。
 見えるものは全て色を失い、まるで月の光の写す影絵だ。確かにこの景色には見覚えがある。だが思い出そうとした瞬間、記憶がするりと指の間をすりぬけ消えてしまう。

 ざあっと風が吹く。
 髪が吹き散らされ、マントが翻った。

 赤い裏地の黒い吸血鬼のマント。髪は長く伸び、舌先でさぐる犬歯は鋭く尖っている。
 この姿、確かに夢の中に入ったのだ。しかし、これは本当に『同じ』夢なのだろうか。彼女の消えた場所に戻ることができたのだろうか?
 あまりにも違い過ぎる。
 確かに巻き付けたはずの赤いリボンは、左手から消えていた。いつものように髪を束ねてもいない。

 彼女の痕跡が……消えた。
 目をこらしても。耳をすましても。冷たく乾いた風を嗅いでも、彼女を感じることができない。

(このまま君を永久に失ってしまうのか?)

 じりじりと喪失感が胸を食い荒らしてゆく。食われた後は黒い空ろな穴になる。
 悪夢が現実になってしまった……いや、正に自分は今、悪夢のただ中にいるのだ。
 日本とアメリカに離れていた程度では、まだ引き裂かれたうちには入らなかったのだ。あの時は、遠い日本に確かに彼女が存在していた。同じ時間の流れの中を生きていた!

 だが、今は……。

 彼女を呼ぼうにも舌が強ばる。口にした瞬間、その名前すら自分の中から抜け落ちてしまうのではないか? 
 無意識に胸元をまさぐった。現実の自分が身に付けた、十字架と鈴のあるはずの場所を。

(リ……ン……)

「!」

 かすかに。
 ほんのかすかに、鈴の音を聞いた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ふわふわと漂っている。
 黒いガラスみたいな水の中に浮かんでいる。上も下も右も左も水、水、水。息はできる。寒くもない。
 確かに水の中にいるはずなのに……手足に抵抗と浮力を感じる。髪も、装束の袖も、袴もふわりと舞い上がり、翻っている。

(あ)

 やわらかな、繊維の束が足の先に触れた。まるで猫とすれ違ったようなくすぐったい感触。と……周囲を包み込む黒さが密度を増した。
 いつしか羊子を包む海水は黒く、みっしりとまとわりつく髪の毛に覆い尽くされていた。水の中に髪の毛が漂っているのか。それとも、髪の毛が水を含んでいるのか。
 服の内側にまで入り込み、手、肘、二の腕、足首、太ももをやさしく撫でる。それはぬるりとして暖かく、いつまでも包まれたくなるような心地よさだった。

「おいで」
「っ!」

 はっと目を開ける。
 美しい女の顔があった。初めて見た時と同じ、真珠色のつるりと美しい水妖の顔。石膏像のような首筋、すらりと伸びた肩、手………背筋が震えるほどに魅惑的な造形の、半人半蛇がほほ笑み、手をのばす。
 ほっそりした指先で顎の先を支えられた。

「あなたも私と同じ」
「違う」
「わかっているのよ。恋しい人に裏切られた、かわいそうな女」

 やめろ、聞きたくない! 彼女から目をそらしたい、だけどそらせない。手足はしびれ、指一本動かせない。かすれた声を咽から絞り出すのが精一杯。

「カルは………………私を裏切ってなんか、いな……い」
「寂しいんでしょう? 悲しいんでしょう?」
「寂しいけれど。悲しいけれど。それはあの人のせいじゃない!」
「私たちは同じ」

(私は君に嘘はつかない)
(優しい嘘なんか、ついてあげない)

「違う!」
「同じだよ。どんなに思っても。願っても。あなたの愛する人は、あなたを愛してはくれない。見てはくれない。あなたがどんなに苦しんでいるか、彼は理解してくれやしないんだ。どれほどの痛みに苛まれているのかも……わからない。想像すらできないんだよ」
「あ………」

 苦い針が何本も胸を貫き、かきまわす。心臓をぐちゃぐちゃに突き崩し、原形も留めぬほどにこねまわす。

「ち……が……う……っ」
「わかってるくせに。お前はあいつを百回殺してもおつりがくるくらいに酷いことをされてるよ。そろそろ代償を払わせてもいい頃合いじゃないか。そうだろ?」
「やめろ、やめろ、聞きたくない!」

 目に見えない塊が腹の底からせり上がり、咽を塞ぐ。息が詰まり、舌が口から押し出された。

「ぐ……うぅっ」

 一つのベッドの中で温もりを共有したあの夜。その先に何が待受けているのかなんて知りもせず、ただ彼の温かさに甘えて溶けた。

(いっそあの時、彼の腕に包まれたまま、目がさめなければよかった……)

 メリジューヌが、笑った。眼球のない、閉ざされた真珠色の目元を歪ませて。

「私の手をお取り。一緒になろう。そうすればお前の愛する人を引きずりこんであげるよ。暗い、静かな水の中で二人っきり。ずうっと彼を独り占めできるよ……」

(ずうっと……独り占め……?)

 甘美な誘惑、だがそれ以上の恐怖が紫の閃光となり、眼球の裏側から網膜の表面に突き抜けた。

「……断る」

 ぎりっと唇を噛みしめた。
 青い月光に染まる森。あの夜、初めて恋した男を永久に失った。彼はもう、どこにもいない。どこにも、どこにも……。

 熱い、塩からい水がこぼれる。その強烈な塩の味がぴしりと意識の横っ面を張り倒し、腐った甘さを吹き飛ばす。

「カルが私を振り向いてくれなくてもいい」

 ぼろぼろと涙がこぼれる。頬から首筋へと伝い落ち、皮膚に染み込む。硬直し、自由を失っていた体が感覚を取り戻して行く。

 瞼の裏にちかっ、ちかっと過去の情景が翻る。
 風花の散るゴールデンゲートブリッジ公園の展望台。

(君を抱きしめる手を………私は、失くしてしまったのかな………)

 クリスマスでにぎわうユニオン・スクエア。表通りに面した宝石店のショーウィンドウの前。

(君を失いたくないと……私が言うのは、卑怯だね。でも……)

 再び巡り合った夢の中。記憶から再構成された、幻のフェリービルディング前の広場。

(会いたかった!)

 彼は、そこに居た。

「………あの人が、お日さまの光の中で、笑って生きていてくれれば……」

(君は来てはいけない。残って後に続く者を導け)

「………今と言う時間の中に存在してくれるなら。私は、それだけでいい」

 夢魔が口元を歪めてあざ笑う。ぽってりと官能的な唇の間から、乱ぐい歯がのぞいた。

「強がりをお言いでないよ。本当は自分の好きな男を引きずり込みたいくせに。自分だけのものにしたいくせに!」

 真珠色の手が頬を包み込み、ぐい、と引き寄せられる。指がにゅうっと伸びて顔中をまさぐった……ひたひたと、蜘蛛の足のように。

「ああ、そうだ、あの男が懸想してる奴がいたね。テリーとか言う……」
「っ!」
「そいつを殺してあげるよ。食ってあげるよ。そうすれば、恋しい男はおまえのものだ。どうだい? それこそ夢のような話じゃないか!」


『ずるいよ、カル……こんなことしても………どうせ、テリーの方が好みなんでしょ?』
『そうだよ』

 テリーがいなければ……。

「だめ!」

 それが自分を懐柔する夢魔の嘘。毒を飲ませるための、甘い罠と分かっていても、心のどこかで「うん」と答えたい自分がいる。
 そうだったらいいのに。
 甘美な幻想に浸り、夢想する、愚かで生臭い蛇がいる。

(私と、こいつは……同じだ。同じなんだ)

 だからこそ見える。理解できる。こいつの本質が。

 どんなに求めても。
 むさぼっても、結局は一人ぼっち。誰も愛することはできない。誰からも愛されることもない。差し伸べられた手に背を向けて、自ら闇に沈み、泣き叫ぶ。
 ぬるり、とまとわりつく黒髪の密度が増した。肌にとろりと溶け込み、触れているのが自分の髪なのか彼女の髪なのか……ふんわり霞んで境目が消える。区別をつけることすら、意味のない事に思えて来る。

「おいで、いっしょに水の底に沈もう。いっしょに眠ろう……」

 夢魔が顔を寄せてくる。うっすら開いた唇で、キスをしようと引き寄せる。

「………」

 もうすぐ、唇と唇が、触れる。メリジューヌは目を細めてほくそ笑んでいた。もうじき、新たな獲物を手に入れると。
 羊子は手をさしのべ、夢魔の頬をなで……にやりと笑った。
 
「いいえ。沈むのはあなた一人」

 ぴたりとデリンジャーを額に押し付け、引きがねを引く。
 ドン!
 反動でメリジューヌはのけ反った。ぽつりと額に開いた穴から、真っ黒な水が噴き出す。砕け散った真珠色の鱗が飛び散り、羊子の顔を掠める。
 髪を結う組み紐が弾け、額にぷつっと小さな切り傷ができた。

「馬鹿な子……やせ我慢して……」
「ああ、やせ我慢だよ。強がりだよ! でもね、私がそうしたいの。私が望んでいるの! だから無理を承知で押し通すんだ。そのためなら、己の中の蛇をも撃って捨てる!」
「きしゃああっ!」

 金切り声をあげてメリジューヌはぶわっと膨れ上り、干からびた。ぞろりと爪の伸びた手で掴み掛かる。
 既に広げた手のひらの大きさが羊子を覆い尽くすほどだ。圧倒的な大きさ、逃げることはできない。捕まったら最後、ちっぽけなチョウチョみたいに、ひとたまりもなく握りつぶされてしまう。
 
 だが。
 今にも鍵爪が羊子を捕らえようとした刹那、銀色の光が二筋、夢魔の顔を貫いた。

「ひぎゃあっ」
 
 二発目の銃声が響く。
 一瞬で百年が過ぎたようだった。瞬く間に巨大な夢魔は骨と化し塵と、崩れ………消えた。

「…………おやすみ………」

 何故だろう。
 心の中を探しても、見つからない。

 彼女への怒りも。
 あざけりも。
 怖気が立つほどの、嫌悪感さえも。

 全て消えていた。ただ、ただ悲しく、空っぽだった。

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【ex10-16】いついつ出やる

2010/05/03 0:02 番外十海
 
「かはぁっ」

 ごぼっと水面に顔を出し、息とともに塩辛い水を吐く。浮力を失った手足がずしりと重い。まるで砂を詰めた袋だ。濡れた衣服が絡みつき、なおさらに体を地面に引きずり下ろす。震える手を筋肉と言うよりほとんど意志の力で無理やり動かし、岸辺にはい上がった。

 振り向くとそこは、水の涸れた川床で……自分がたった今はい出してきたのは、どんよりと濁った浅い水たまりでしかなかった。

 何て不条理、だが、これが夢の中。

 手のひらで川岸の岩をつかみ、いつもの三倍くらい重たいに体を引きずり上げる。膝をつき、空を見上げた。
 どんよりと重たいにび色の空。何だかおかしいな、と思ったら写真を継ぎはぎに貼り付けたみたいにチラとも雲が動かない。しかも、同じ形、同じ濃度の空が延々と繰り返している。
 かろうじて立体感はあるようだが……。
 立ち上がるとべしゃり、と緋色の袴が地面を叩く。なんだか金魚のひれみたいだ。
 
(何、考えてるのかな。こんな時に)
 
 一歩、また一歩と足を運ぶ。だらりとたれた腕、力なく動かす足、冷えきった顎、胸、腹。全身から滴る水が、乾いた荒れ地に染み込んで行く。草一本生えていない。見渡す限り肉を練り合わせたような形の岩がごろごろ転がっている。
 こりゃまた何とも殺風景、だが乾いているだけマシだと思おう。少々、乾き過ぎな気がしないでもないけれど。

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 濡れた装束が体に貼り付き、なまじ裸でいるより肌の感触が生々しい。かろうじて足袋ははいているが、草履はどこに行ったやら。足首の回りがぱかぱか言っている。外れた小鉤(こはぜ)を止め直したいところだが、ここで屈みこんだら最後、そのまま動けなくなりそうな気がする。
 そして、風が。
 ひっきりなしに吹きすさぶ生臭い風が、どんどん体温を奪っている。指がかじかんで、止め直そうにもおそらくうまく動くまい。

「……ああ……」

 どれほど歩き回っただろう。袴も足袋も、すっかり砂にまみれてじゃりじゃりに汚れた頃、ようやく、風をしのげそうな大きさの岩を見つけた。岩陰に寄り掛かってうずくまり、凍えた手足をさする。
 だが一向に暖まらない。

「たき火が欲しいな……」

 意識が言葉に方向づけられ、収束し、一つのイメージに固まった。
 指先に箱に入ったマッチが現れる。一本取り出し、しゅっと箱の脇ににこすりつけた。灯った小さな火が膨らみ、広がり、たき火になった。
 うん、上出来。うまく誘導できたもんだよ。
 オレンジ色の炎にかじかんだ手足をかざした。

「……あったかいなあ……」

 誰かが笑った。
 声を立てずに、口を歪めて。見えた訳ではない。だが気配でわかる。
 身構えた刹那、たき火の向こう側にどんよりと瘴気が凝り固まり、一群れの影が滲み出した。
 しゅうしゅうと、空気の漏れるような声でつぶやいている。ささやいてくる。呻いている。

『待ってたよ』
『今度こそそそそそぉおぉおぉぉ、お前ぇぇぇのぉのどをぉぉ切り裂いてやるぅうぅうぅうぅうぅ』
『赤い血をすすってやる』

 目を凝らす。眼鏡は失ったがここは夢の中だ。意志の力が像を結び、本質を見通す。うごめく影は、いずれもどこか、見覚えがあるように思えた。
 ぱちん!
 たきぎがはぜた。つかの間炎が燃え上がり、影の群を照らし出す。
 山羊の角と蹄のある足、禿鷹の嘴と翼、黒いコウモリめいた翼……見覚えあるも道理。かつて狩ってきた夢魔どもだ!

「どいつもこいつも、往生際が悪い……」

 無造作に右手を懐に突っ込み、岩を背に立ち上がった。

「こんな所まで付きまといやがって、うっとぉしい」

 火が徐々に小さくなって行く。たき火を実体化させる時間が限界に近づいてきているのだ。再度集中する時間は、もうない。
 一本。
 また一本、炎もろとも、燃えていた枝が消失する。そのたびに影の群がじわり、と囲みをせばめてくる。
 最後の一本が消えた瞬間、一体が翼を広げて襲ってきた。

「くっけぇえええ!」
「とっとと消えろ!」

 光る目のど真ん中に一発、撃ち込む。極彩色の羽根をまき散らし、禿鷹に似た姿の夢魔が地に落ち、飛び散った。

「当たりに来てくれて、ありがとう……」

 にっと口角を釣り上げると、羊子はデリンジャーを水平に構えて狙いを付けた。

「気をつけろ」
「気を付けろ、この女の銃は痛いぞ」
「取り囲め」
「逃がすな」
「逃がすな」
「守りは居ない。いずれ力尽きる」

 影がぶわっと膨れ上り、うわん、うわわんと雲のような群が押し寄せてきた。歪つな羽虫と黒い山羊……夢魔の使い魔どもだ。羊子は矢継ぎ早に銃を連射し、片っ端から撃ち落とした。

「このっ、ちまちま、ちまちま、うっとおしい!」

 体勢を立て直そうと一歩後に下がる。と……足がずりっと崖の縁を踏んだ。

「なっ?」

 背にしていたはずの岩が消えていた。そこにあるのは切り立った断崖絶壁。
 
「追いつめた」
「追いつめた」
「もう、逃げられない」

 ごうごうと容赦なく風が吹きつける。足を踏ん張ってかろうじて、落とされぬよう踏みとどまる。砂ぼこりが舞い上がり、目に染みる。石の一粒、水の一滴、一陣の風い至るまで、全て自分の敵なのか。
 どうっと叩きつける空気の壁に、よろりと後ろに押された。
 からからと小石が転げ落ちる。崖の下は底知れぬ奈落。落ちて死ぬか。過去の亡霊に喰い尽くされるか。

「どっちもごめんだ!」

 忍び寄る一体を、ばんっと撃ち抜く。

 ぎぃ、ぎぃ。
 ぎちちち、ぎしぃ。くぅ、ぐるるうぅるう………。

 獣の声とも、枯れ木やガラスのきしる音ともつかぬ不気味な音が、ざわりざわりと押し寄せて来る。羊子は乱れた襟をぐいとかき寄せ、顔を揚げた。

「さあ、次に撃たれたいのは、どいつだ!」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 ぽそり、と足が乾いた土にめり込む。振り向くと自分の後ろには点々と足跡が続いている。

 あれからどれほど時間が経過したのだろう。進めども進めども乾いた土、乾いた石、草一本生えていない。
 ここはまるで、砂漠だ。失恋の逃避行からの帰り道、一人で歩いたあの寂しい岩の道。
 うつむくと、ばさり、と伸び放題の髪の毛がこぼれ落ち、カーテンみたいに顔の回りを覆った。
 暗く区切られた狭い空間の中、意識がふらりと混濁する。

 元々、ヨーコなんて女性は存在しないのではないか? あれは、遠くから見かけた面影を元に、自分が作り上げた幻で……。
 赤いリボンが消えたのが何よりの証拠じゃないか。

(居もしない相手を探しても無駄なこと)

 信じて、支えて、叱咤して。家族とも、友人とも、恋人とも違う、穏やかで満たされた絆。

『カルヴィン。カル!』

 澄んだ心地よい声が名前を呼ぶ。クリスマスの前の夜、甘く香る温もりに包まれ、眠った記憶も。
 胸の奥をやわらかな指先でなでられるような日々も所詮は全て幻、忘れてしまえばそれで終る。
 舌の奥に何日かは名残の苦さが残るだろうが、それだけだ。

(忘れてしまえ。この喪失の痛みを、一秒でも早く、忘れて……)

 ランドールのまとう色彩が徐々に変わっていた。足下から色味を失い、灰色に色あせて行く。周囲の景色に同化して行く。

(なかったんだ。最初からなかったものを失う訳がない。だから苦しくはないんだ……)

 ひらり……ふわり。灰色の中に鮮やかな色がひらめく。顔を上げると何としたことか。立ち枯れた木の枝に、細いリボンがひっかかっているではないか!

「あった!」

 ランドールは風よりも早く走った。ひらめくマントの裏地がつややかな赤を取り戻し、灰色の景色を切り裂いた。
 白く干からびた葉も小枝もそのままに、白骨のように立ち枯れた川辺の木立にリボンが揺れている。後少し……もう少し……
 見つけた!
 彼女の痕跡だ。

「違う……これは、青い」

 失望すると同時に青いリボンはくたくたと色あせ、崩れてしまった。伸ばした指の先で、空中に溶け入るように消えてしまった。
 さっきまでそこに在ったのに。
 触れることもできなかった。

「あ」

 どぉん、と鈍い衝撃に打たれる。遠く響く雷のような不吉な響きに揺さぶられ、ちかっ、ちかっと瞼の裏側に閃光が走る。
 ……だが音は聞こえない。
 この喪失感。以前にも経験した。ずっと昔、自分は確かに探していた! 誰か、大事な人を。

「ここは……」

 目の前の景色と記憶の中の情景が結びつく。
 ここは、子どもの頃住んでいた家の庭だ。サンフランシスコの郊外の広い家……母の為に父が建てた。広々とした庭には草木が生い茂り、小川が流れ、屋敷のエントランスから並木道が延びていた。

 そうだ、この道だ。
 手のひらを握る。
 ぎゅっと握った手で、ごしごしと目をこすりながら歩いていた。後から後から涙がこぼれ、泣き過ぎて咽が干からびていた……。
 そして、小川のほとりで、こうして枝にひっかかっていた青いリボンを見つけたのだ。

(あの頃の自分は無力で小さくて。リボンの持ち主を見つけ出すことができなかった)
(あれは……誰なんだ?)

「ふふっ」
「誰だ?」

 密やかな笑い声を聞いた。振り向くと、視界の端を白い裾が掠めた。軽い足音とともに華奢な人影が駆けてゆく。幻のようにゆらゆらと、奇妙に縮尺の大きな灰色の景色の向こう側を。

「待ってくれ!」

 彼女は……そうだ、女の子だ。まだ幼い少女。ちらりとこっちを振り向いた。いや、振り向こうとした。
 だが顔は見えない。ただ風にゆらめく金色の長い髪と青い瞳のみが記憶に映り、消えた。

 消えて、しまった。

『ああ! …………! 私の………!』
「母さん」

 母が泣いている。青いリボンを握りしめ、身をよじり泣き叫んでいる。
 自分も悲しい。青いリボンに白いドレス、日の光にきらめく金の髪。自分は、その人が大好きだった。いなくなって、悲しかった。
 それ以上に、母が悲しい顔をしているのがつらかった。

『カルヴィン。ここにいたのね。ああ、よかった……母様から離れてはだめよ……』

 あの頃の母は少しでも自分が離れると、半狂乱になって探し回った。穏やかで優しく、力強い母が。あんなにも弱く、ぼろぼろになる姿を見るのは苦しかった。
 恐ろしかった。

「大丈夫だよ、母様。僕がいる」

 だから己に誓ったのだ。母を守らなければ。強くならなければ。もう二度と、大切な人を失わないために。

『いい子ね……カルヴィン。いい子』

 優しい手が髪を撫でる。ほっそりした指先が、銀色に光る鎖を首にかけてくれた。

『これをあげる。いつも身に付けているのよ。決して手放してはだめ……』

(……そうだ、あの時、母がくれたんだ)

 鉄の十字架に銀の鈴。ずっと身に付けてきたお守りを。魔女に小さな子どもに変えられたあの時も、守ってくれた。

 チリン……と胸元で鈴が鳴る。
 それに応えて鈴の音がもう一つ、足下……いや、水の底からだ。

 見下ろすと、水の向こうにもう一つ、別の空が広がっていた。

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【ex10-17】夜朱けの晩に

2010/05/03 0:04 番外十海
 
「くっ」

 蹄の一撃が右手を直撃する。デリンジャーがたたき落とされ、光の粒になって消えた。

「あ……」

 四方八方から夢魔の手が一斉に伸びる。銃を失った今、羊子に身を守る術はない。あっと言う間に捕まれ、式を呼ぶ暇もなく引きずり倒された。

「離せぇっ」

 死に物狂いで暴れた。引っかいた。掻きむしった。大人しく捕まる気はさらさらなかった。だが、か弱い手足で懸命にもがいたところで、悲しいくらいに無力。かえって夢魔の嗜虐心を煽るばかり。

「大人しくおし、この小娘がっ」
「おお元気がいいね、可愛いねえ。そう言う子は……」

 しゅるしゅると手足に何か細長いものがまとわりつく。一瞬、蛇かと鳥肌が立つ。だがよく見れば植物だ。蔦だ。

「っ、これは! あっ、離せっ」

 手首をからめとられ、高々とつり下げられた。袖がたれさがり、腕が付け根近くまであらわになった。さらに足首にも蔦が絡みつき、動きを封じられる。あまつさえ蔦から染み出す紫の樹液がじわじわと肌に浸透し、動こうとする力を封じて行く。奪って行く。

 手から、足から力が抜け、だらりと垂れ下がる。だが意志の力を振り絞り、きっとにらみつけた。

「貴様……あの時の……」

 忘れもしない。風見と二人で狩った、黒いコウモリの翼の生えた夢魔だ。交通事故で手術中、大量の出血で亡くなった娘の父親に巣くった忌まわしい吸血の鬼。
 
「覚えていてくれたんだね。嬉しいよ……ほら、これをご覧。お前が撃った傷だ」

 闇が凝縮したような人影がのしかかってくる。背に生えた蝙蝠の翼をマントのようにはためかせて。
 目も耳も鼻もない。全て真っ黒に塗りつぶされた顔にはただ、ぞろりと白い牙の生えた、三日月型に裂けた口だけがあった。そして、額にぽっかり開いた穴が一つ。じくじくと膿みただれ、うじがわき、どす黒い血がにじみ出している。

「痛いんだ。血が止まらないんだ。お前の血で癒してくれ」
「う……ぁ……」

 指先が咽をなでる。じゅるり、と真っ赤な舌がくりだされ、舌なめずりをした。

「きれいなのどだね、お嬢さん」
「あっ」

 ぷつっと咽の皮膚を夢魔の牙が食い破る。痛みはない。ただ、破られた感触と、吸われる音は克明に肌に伝わってくる。

 じゅるる、じゅう、じゅじゅじゅ……ずぃいい……。

 力が吸い取られて行く。鋼のような手足に押さえ込まれ、身じろぎさえできない。
 意識が霞む。視界がぼやける。今にもすうっと暗い底の無い穴の中に吸い込まれそうだ。

「全部吸うなよ」
「そうともさ、後がつかえてるんだからね?」
「何、何、がっつく事もなかろう。こいつはもう逃げられない」
「そうともさ。ゆるゆると吸い尽くしてやろうじゃないか。時間をかけて、ゆるゆるとね」

 ささやく夢魔どもの声が、ぼんやりとどこか遠くに聞こえる。まるで水の向こうのざわめきみたいに。

 じゅるり。
 また一口、命がすすり取られた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 パキーンと甲高い音をたて、勾玉が砕けた。砕けた破片はきらきらと灯りを反射しながら飛び散った。

「先生っ」

 身じろぎもせず眠る羊子が、いきなりビクっと痙攣した。背筋をのけぞらせ、空ろに目を開き、ガクガクと震える。

 ぶわっと亀裂の底から濃密な瘴気が吹き上がり、その刹那、彼らは見た。現実と二重写しになった、悪夢の中の羊子の姿を……。身にまとう装束は泥にまみれて乱されて。手、足、胸、首、腰、胴体。体中いたるところに、うねうねと蠢くどす黒い蔦のようなものが巻き付いている。

 唇がわずかに動き、かすれた声がこぼれた。途切れ途切れに、絶え絶えに……。

「や……め……」

 夢の中の羊子が顔をゆがめ、身もだえした。周囲が泡立ち、ごぼっと肉のひだのようなやわらかな突起がわき出す。肉厚の植物にも似たそれは、粘液をしたたらせてじわじわと獲物の体を包みこみ、ゆるりゆるりとこねまわす。
 現実の羊子がうっすらと汗を浮かべて身じろぎする。袴が乱れ、白いふくらはぎがこぼれ落ちる。

 夢魔の群れは明らかに、手の内に捕らえた生贄をいたぶることを楽しんでいた。じっくりと時間をかけてしゃぶりつくすつもりなのだ。

 三上はゆっくりと剣を抜いた。苦い失望を噛みつぶしながら。

(間に合わなかったか、カルヴィン・ランドールJr……もう少し骨のある男と思ったが)

 切っ先を向ける。だがその先は螺旋の亀裂ではない。蠢く悪夢の蔦でもない。
 眠る羊子の喉元だ。

「三上さんっ」
「何を?」
「このまま夢魔に飲み込まれれば……結城さんは悪夢と現実を繋ぐ扉となる。彼女を入り口にして悪夢が大々的に浸食を始めてしまう」

 ぬるり、と幻の蔦が羊子の体をなで上げる。びくん、とほっそりした体が反り返り、震えた。

「あるいは……悪夢使いに成り果てる……」

 むしろその可能性の方が、高い。忌まわしいことに。

「そんな事、絶対にさせない!」
「ええ。そんな事は、羊子先生も望まない。君たちなら、わかるでしょう? 目覚めた時、彼女がナイトメアに乗っ取られていたら。その時は………我々のすべきことは一つだ」

 がったん!
 社殿の扉が、たわむ。誰かがしたたか体当たりをかませたように、外側から内側に向かってめきめきと軋んでいる。三上はちらとも切っ先を揺らさず、外の相手に向けてぴしりと鋭く言い放った。

「あなたも分かっているでしょう……? 蒼太くん」

 だん、と床板を叩く音、一つ。それきり外の気配は静まり返った。 
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「ふぅ……あぁ……」 

 ぐったりした羊子の咽に牙を埋めていた夢魔が口を放し、愉悦のため息をもらした。ぬらぬらと濡れた牙からぽとりと赤い雫が滴り落ちる。

「ちくしょう、いいにおいだ」
「ああ、もう我慢できない」

 装束の袖が。袴の裾がまくりあげられ、なでまわされる。腕に、足に牙が食い込む。

「ぁっ、や……め…ろっ」

 ぷつり、ぷつりと尖った固い突起に柔らかな肌と肉をこじ開けられ、抉られる。こぼれる血を容赦なくすすられた。舐められた。

「く……う……ぁ……あっ」
「あったかいね……」
「甘いねぇ……」
「一滴のこらず、すすってやるよ」

 不意に、右足首に絡みつく蔦がきりきりと引き絞られ、片足がつり下げられた。
 袴が太もものあたりまでめくりあげられ、足の内側にねっとりした舌が侵入する。

「あっ」

 そいつの意図に気付いた瞬間、嫌悪感に鳥肌が立った。背筋が震えた。

「よせっ、何をっ!」
「ああ、そんなに怯えなくてもいいんだよぉ。ちょっと味見するだけだからね」
「や…いや……ぁうっ」
「ん……いいにおいだ、たまんねぇなあ……」

 じゅるり、と粘液をからめた舌が伸びる。羊子はマヒした体で身もだえし、泣き叫んだ。できるものならそうしたかった。だが、思うように声が出ない。舌がしびれて、動かない。

「あ、ぁ、や……だ……っ」

 ぐい、と横合いから別の夢魔が舌を掴んだ。内もものすぐそばで、びちゃっと粘つく液が飛び散る。

「急くな、味が濁る」
「へっ。気取りやがって」
「上の口で、我慢しな」
「しょうがねぇなあ」
「い……や……ぁ」

 びちゃり。

 かすれた悲鳴を挙げた口に粘液をしたたらせた触手がねじ込まれ、声を封じる。

「う……ふぐっ、ぅうっ」

 為す術もなく口内を蹂躙され、目の縁に涙がにじんだ。

(悔しい……こんな奴らに!)

 歯を食いしばることすらできない。滴る粘液が咽の奥に流れ込み、咽せる。
 顔に、咽に、胸に。いく筋も流れ落ちるのは、忌まわしい夢魔の唾液なのか、それとも己の涙か。せめて歯を立て、噛みついてやりたいと思った。だけど顎に力が入らない。

「おや、ご覧よ。この女ときたら、口につっこまれたモノをしゃぶってるよ」
「ああ、本当だ。よだれまでたらして……あきれたねぇ」
「そんなにコレが気に入ったかい、お嬢ちゃん? いいぜ、好きなだけ味わいな、そら……」
「んう、ぐぅっ」

 口の中の触手が煽動し、舌を吸い上げられた。

(嫌だ。嫌だ、嫌だ!)

 夢の力を使い果たせば、通常のドリームダイブなら外にはじき飛ばされる。だけど、今は……。
 己の末路を予測し、羊子は心の底から怯えた。真っ黒な絶望が胸の中を埋め尽くしてゆく。

(い……や……だ……)

 ぽろりとこぼれ落ちる涙を、夢魔の舌が舐め取った。

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【ex10-18】狼と羊が出会った

2010/05/03 0:05 番外十海
 
 結城サクヤは自らの夢の中に居た。

 柔らかな緑の草木に守られた、こんこんと湧く澄んだ泉のほとり。そこは慣れ親しんだ結城神社の奥によく似た、おだやかな光にあふれる清らかな場所だった。
 巫女装束をまとい、泉のほとりに跪くサクヤの手からは、赤い細い糸が伸びている。
 先端に結びつけられた金色の鈴が水面に軽く触れ、さらさらと白い玉砂利の合間から湧き出す水の流れに合わせ、リ、リリリ……とかすかな音を奏でている。
 どこか、心臓の鼓動にも似たリズムで。

 不意に素足を何匹ものヒルが這い登るような悪寒を感じる。ぎょっとして振り払うが、何もついていない……自分の足には。

(まさか!)

 泉の表面が真っ黒に濁り、見るもおぞましい光景が映し出された。
 肉厚のねばつく触手にからめ捕られ、為す術もなく嬲られる羊子の姿が。

「よーこちゃん!」

 我を忘れて手を伸ばす。
 と。
 ごぼぉっと水が波立ち、粘つく実体をそなえてまとわりついてきた。

「しまった!」

 逃れる間もなかった。水面に映る羊子と全く同じように四肢に半透明な触手が絡みつき、自由を奪う。もがけばもがくほど強く、深く侵入し、いたずらに装束がはだけられてゆく。

「くっ、離せ、離せぇっ」

 ぬるぬるとねばつく触手が肌の上を這いずる。ねっとりと糸を引き、頬を。首筋を、胸元をなで回す。
 あまつさえ、袴の内側に潜り込み、ももの付け根あたりをまさぐっている奴もいる。柔らかな先端が幾重にも枝分かれし、一本一本が舌先のように広がり、ぴちゃぴちゃと湿った音を立てている。
 かと思えば吸い付き、ちゅくちゅくとすすっている奴も……。

「く……あうっ」

 おぞましさ鳥肌が立つ。自分も触ったことのないような場所を、執拗に触手の先端が掠める。そのたびに得体のしれない感触が背筋を駆け抜け、ぞくっと震えた。
 何故、そこを触るのか。何故、そこを触られて、そんな反応が起きるのか。わからない。おそろしい……おぞましい。

「や……め……」
(や……め……)

 自分の声に重なりもう一つ、弱々しいうめき声を聞いた。

(同じことを、よーこちゃんもされてるんだ!)
 
 かっと怒りが込み上げる。だがあざ笑うようにさらに太い触手が胸元にねじこまれる。枝分かれした先端が乳首に巻き付き、ひねり上げた。

「うぅっ!」

 唇の端を噛みしめ、のけぞる。その拍子に巫女装束の襟がゆるみ、くずれて広がった。

(しめた!)

 無理やり右の袖を抜き取った。肩から胸にかけて滑らかな裸身がさらされる。待ちかねたように胸に触手がはりつき、もみしだくような動きでなでさする。無理やり高められた肌の感覚が逆流し、煮えたぎり、今にも神経が焼き切れそうだ。
 だが、片手が自由になった。人さし指と中指をぴんと立て、残りの三本を握り『刀印』を結んだ。

「待ってて、よーこちゃん……」

 確かに自分たちの絆は強い。一人が闇に捕らわれれば、もう一人も引きずり込まれる危険がある。だが、逆に二人で立ち向かう事もできるのだ。執拗に肌をまさぐる触手の感触に身震いしながらも、意識を集中した。
 瞼の底にぽつりぽつりと浮かぶ光の粒を集めて、練り上げて、指先のただ一点に集めて……

「鋭!」

 解き放つ。
 青白い光がサクヤの全身を駆け巡り、おぞましい触手を切れ切れに弾き飛ばした。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 締め切られた深夜の社殿を、時ならぬ月の光が照らす。満月よりほんの少しおだやかな、十六夜の月の光が。
 いや、その光は空から降りてきたのではない。風見光一の手にした清らかな剣……『十六夜丸』の銘を持つ刀から放たれていた。

「約束したんだ……先生を守るって」

 ぎりっと歯を食いしばり、柄を握る両手に力を込める。今なお瘴気を噴き上げる、螺旋の亀裂をはったとにらみ付けた。

「俺は、諦めない。最後の一秒まで、退かない。逃げない。投げ出さない。きっと、先生もそうする!」

 顔を上げるや、風見は相棒の青い瞳を見据えた。

「行くぞ、ロイ!」
「おお!」

 うなずき交わし、ロイは左手を懐に滑り込ませる。引き出された時、彼の五本の指の間にはそれぞれ一本ずつクナイが握られていた。

「十六夜丸、力を貸してくれ……」

 螺旋の亀裂に刀を突き立てたまま、風見光一はりん、と声を張り上げた。

「風よ、魔なるものを押し流せ!」
 
 持てる力の全てを振り絞り、たたき込む。刀身がひときわ輝きを増した。
 同時にロイは左手に構えたクナイを全て亀裂の底に打ち込んだ。さらに気合い一閃、畳の表面に左手を叩きつける。

「心威発剄……破ぁっ!!」

 ばん!
 明らかに。少年一人が叩いたにしては巨大すぎる衝撃が走り、畳が浮き上がる。

 ひっそりと、風見とロイの動きに紛れるように三上蓮は十字を切り、祝福を与える時と同じ所作をした。ぽとり、と淡く光る雫が神父の指先からこぼれ落ち、亀裂の奥に吸い込まれる。

「多少なりとも、援護になればいいんですがね……」

 つぶやく彼の目は静かに。極めて静かに、獲物を見据える狩人の炎を宿していた。
 できれば自ら乗込み、あいつらを一刀両断に切り捨ててやりたい所だが、それは不可能だ。だから、その代わり……持てる力の全てを一滴に凝縮し、最上の一撃を送った。

(悔い改めるがいい。裁きが終った時、まだ嘆く心が残っていればの話だが)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 ランドールは吸い寄せられるように川面に屈みこんだ。
 水の向こうに広がるのは嵐の直前のような、黄色く濁った雲の立ちこめる奇妙に明るい空と、草一本生えていない岩地だ。
 ごろごろと転がる岩は、さながら苦痛に身をよじる人の群れ。

 ……いや。今、何かが動いた!
 さらに顔を近づけると、不意にびゅうっと風が吹き抜ける。水の向こうから……まさか、そんなあり得ない!

「っ!」

 風に乗って、ひらりと細長い赤い色が飛び出してきた。とっさに受け止める。しなやかな布が手首に優しく寄り添った。
 リボンだ。
 彼女の、赤いリボン。

「ヨーコ!」

 ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ……
 空から何かが降りてくる。
 固く尖った小さなナイフが全部で5本、切っ先を下に水の表面に垂直に突き立った。
 さらに、水の表面にチカっと音もなく稲光が走り、ナイフを拠点に光のラインを描く……星の形に。
 導かれるまま、ランドールはラインの目指す最後の一点に手を伸ばした。
 指先から光がこぼれ落ちる。

 リィ……ン……。

 鉄の十字架と銀の鈴が形を結び、すうっと水の表面に突き立った。
 6つの拠点を光のラインがつなぎ、水面に六芒星を……篭目の紋を描き出す。その瞬間、ランドールは見つけた。
 探し求めた人の姿を。

 だが、その時、彼女は……。

 ぞろり、と口の中で牙が伸びる。咽の奥で低いうなり声が轟く。意識を遥かに上回る勢いと早さで何かとんでもない悪態をついたようだが、既にその声は人の言葉を為していなかった。己の内側に荒れ狂う怒りに身を任せ、ランドールははっしと右手を水面に叩きつけた。
 それが、どんな結果をもたらすのか、予想だにせずに。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

(……ちゃん)

 ぼんやりと、誰かに呼ばれた気がした。瞼が震える。だが、ずっしりと重くて動かせない。。

(よ……こちゃ……)

 呼んでいる。気のせいなんかじゃない。消えかけた意識を奮い起こし、渾身の力を振り絞って瞼をこじ開けた。。
 ぽつり。
 澄んだ雫一粒、額に落ちる。その刹那、はっきりとサクヤの声を聞いた。

『よーこちゃん!』
(サクヤちゃん!)

 夢魔の群は、凍りついていた。降り注ぐ細やかな光の雨に打たれ、羊子の手足に牙を埋めたまま動きを止めている。
 まるで塩の柱にでもなったみたいに。

 ぱしゃり!
 清々しい風が水の雫をまき散らす。水とともにぱらぱらと光の種が周囲に降り注ぎ……ふっくらと水を吸った地面が盛り上がり、割れた。
 まるでフィルムの早回しを見ているようだった。鋭いトゲをはやした緑のイバラが、勢いよくわき出でる。何本も。何本も。
 凍えていた時間が唐突に動き出す。
 大地を話って噴き出した巨大なイバラがのたうち、声なき声で吠える。生き物のように明確な意志を備え、夢魔の群に襲いかかる。
 咽に牙を埋めていた夢魔の体を締め上げ、あっと言う間に握りつぶした。

「ぐぅえええええ」

 口を蹂躙していた一体が、うめき、のけ反り、離れて行く。
 ぼこぼこと体の表面が泡立ち、膨れ上ったと思ったら、内側から無数のトゲがあふれ出した。残ったのは、ぼろぼろのゴム風船の残骸みたいな灰色の切れ端ばかり。
 手足をからめ捕っていた毒の蔦は、一本残らずみずみずしい緑のイバラに絡みつかれ……一ミリ単位の正確さでむしられ、千切り取られて行く。
 ぼろりぼろりと毒蔦の断片が落ちるたびに、頭上に高々とつるされた本体がかすれた声で悲鳴を挙げた。
 それに比べれば、山羊角の魔女を始めとする夢魔たちは比較的恵まれていたと言えよう。てんでに頭をかかえ、空ろな目でひぃひぃと泣きわめくだけで済んでいたのだから……内面に荒れ狂う衝撃がいかほどのものかは、計り知れないが。

「これは……あ」

 戒めから解放され、地面に崩れ落ちる。これほど体のすぐそばで荒れ狂っているのに、茨のトゲは髪の毛一筋ほども羊子を傷つけていなかった。
 乱れた装束をかきあわせながら立ち上がる。踏み出そうとすると膝がかくんと曲り、よろけた。噛まれた傷から血が滴り、毒に焼かれた皮膚がヒリヒリと引きつれる。
 何より困ったことに、手足に力が入らない……一秒でも早くこの場から遠くに離れたいのに、上手く体が動かせない。

「ヨーコ!」

 目を向ける。さっきまで真っ暗な奈落にしか見えなかった崖の下が、今は澄んだ水をたたえている。
 そして、水の向こうに彼がいた。
 青い瞳、波打つ黒髪。夢の中を自在に歩くその姿は、刻まれた傷を乗り越え、受け継いだ血を誇りに思う気高い心と、弱者を守る強い意志の証。

 自分の存在が揺らぎ、消失する危機を知覚した瞬間。ひと目でいいから会いたいと願った、唯一の人がいた。

「カ……ル……!」
「飛べ。早く!」

 迷わず飛んだ。
 同時にランドールもまた、水中へと身を踊らせた。
 巫女装束の裾が、袖が広がる。水しぶきが散り、漆黒のマントが翻る。
 彼と我、我と彼女。間に横たわる水の中で二人は互いに受け止め、支え合い……取り戻した。
 失われた色を。生きる力を。

 泡立つ水が媒介となり、意識の底に沈んでいた記憶を表層に呼び覚ます。
 青いリボン。風にたなびく金の髪。青い瞳を涙で腫らし、失われただれかを探していた母の記憶。
 守らねばと思った。
 だが、それだけではなかった。

(あの日からずっと恐れていた………大切な人を失うことを)

 それ故に守られるだけに終らず、共に戦えるだけの強さを愛すべき相手に求めた……少なくとも自分と同じだけの、身を守る強さを。
 結果として女性は「守る存在」「敬う存在」ただそれだけ。愛する対象から外れ、男性を選ぶようになっていた。

(いつから性別や外見にとらわれていたのだろう?)

 はじめて、ヨーコ・ユウキと言う存在を認識した日の記憶がよみがえる。熱い閉ざされた箱の中で体験した出来事を。
 彼女は言った。『あなたは私が守る。だから私を守って!』そして、その通りにやり遂げた。
 傷だらけになって、恐怖に震えながらも夢魔に挑み、打ち勝った。

『怖いよ。余裕なんてない、いつだってギリギリ。こんなこと辞めたい、絶対無理だって、いつも内心、泣きべそかきながら思ってるの。生きて戻ったら、こんなこともう二度とやるもんか! って』

(そうだ、確かに羊子は女性だ。肉体的には弱い。感情に振り回される脆さもある)
(だが、その一方では自分など及びもしない強さを備えている。自分の弱さを知り、決して目をそらさない)
(知恵を研ぎ澄まし、機転を利かせて……しなやかに困難を乗り越える)

 何てことだ。
 己は男を愛する男なのだと公言し、自由を謳歌しているつもりでいた。だが、殻にとらわれていたのは自分だ。
 自分なのだ。

『あなたが好きです、カルヴィン・ランドールJr。あなたが男でも女でもそれ以外の生き物でも、この気持ちは変わらない』

 むしろ、ヨーコこそが性別の違いにとらわれていなかった。見た目や財力に惹かれるのでもなく。何の見返りも求めず、ただ自分と言う存在を慕っていた……

(同じだ)
(私がアレックスに恋していた時と同じ……なんだ)

 想うことはあっても、想われたのは初めてだった。
 それ故に彼女の強さ、凛々しさに惹かれながら怖じ気づいた。
 たじろいだ。
 まっすぐに、あまりにも純度の高い、無垢な想いをつきつけられた瞬間に。

 泡立つ水が鎮まる。
 彼女はそこにいた。
 指をすり抜けてなどいない。暗い水の中に沈んでもいない。確かに今、自分の腕の中に。そして、自分もまた、彼女の腕の中に居た。

「君を永遠に失ったかと思った」
「………いなくなったりしないよ……」

 まっすぐな瞳が見つめ返してくれる。もう二度と思わない。思うものか。君が居もしない幻だなんて!

「ここに、居るよ」
「ヨーコ……」

 ごぼり、ごぼ、がぼごぼ。
 不吉な水音が追ってくる。
 ちらりと振り向くとヨーコはぎゅっと眉間に皺を寄せ、顔をしかめた。

「しつっこいなあ……」

 だが、怯えてはいない。その口調がいかにも彼女らしくて、こんな状況なのにむずむずと笑みが込み上げてくる。口元がくすぐったくて仕方がない。
 いびつな影絵を練り合わせたような。タチの悪い冗談みたいなゾンビの塊が追ってくる。もう、どんな形をしているのか自分でもよく分かっていないらしい。
 ぼろぼろと崩れながら、それでもがむしゃらに水をかきわけ、追いすがってくる。

「カル、つかまって!」

 ヨーコの巫女装束が形を変える。袖が、袴がくるくると伸びて薄くなり、魚のひれのように広がった。

(人魚だ……)

「行くよ」
「ああ」

 しっかりと抱きあい、供に水をかきわけ、泳ぐ。二人の力が溶け合い、まるで一匹の魚になったようにのびのびと翔んだ。透き通った水の中を、自由自在に駆け抜けた。

「えーっと……どっちに行けばいいんだ? 私も、カルも飛び込んで潜ってきたんだから……上? それとも、下?」
「明るい方に行こう。ここは夢の中だ、上も下も、関係ない」
「うわ、すっごい正論!」
「……あっちだ」
「OK!」

 赤い尾を打ち振り、人魚が泳ぎ出す。すいすいと身をくねらせ、軽々と。ほんのりと明るい水面(?)目指して。

「こんなに自分の体が上手く動いたことって、ないかもしれない」
「ああ……私もだ。実に爽快だ」
「うん。すっごく気分いい!」

 顔を見合わせ、笑った。
 それでも夢魔の数は多く、執拗に追って来る。自らの崩壊の生み出す最後の力を全て、追跡に注ぎ込んでいるのだろうか。ぼろぼろと自分の欠片を落しながら追ってくる。

「く……あと少し……」
「あっ」

 半ば肉がそげ落ち、骨ののぞいた手が尾の先を掴む。だが次の瞬間、羊子は身をくねらせ、あっさりと掴まれた衣装を脱ぎ捨てた。

 リン!

 淡く光る水面から、赤い糸が降りてくる。先端には小さな金色の鈴。ランドールは左手でヨーコをかき抱き、右手を差し伸べた。
 赤い糸と金の鈴はくるりくるりとランドールの手首に巻き付き、くいっと引っぱり上げる。
 しっかり抱きあったまま、二人は光の中へ飛び出した。

『捕まえた』
『逃がさない、逃がさないぃいい!』

 崩壊する夢魔の群れの中に、白い小袖に緋色の袴……羊子の身につけていた巫女装束だけがふわりと残り、切れ切れに引き裂かれて行った。

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【ex10-19】夢と今の合間

2010/05/03 0:06 番外十海
 
 水が流れている。
 さらさらと。
 さらさらと。

 静かなせせらぎのほとり。広がる優しい枝の合間から、ほろほろと淡い金色の木漏れ日が降り注ぐ、柔らかな草の上にいた。
 身につけたものを全て失っていたけれど、ヨーコは無事だった。一瞬、目をそらすことを忘れていた。

 すんなりと伸びた手足。ほっそりした首筋。つるりとした胸の中央にはぽちりと小さなばら色のつぼみが宿り、くびれた腰から足にかけてはふっくらと丸く……。
 自分の周囲にいるどんな女性とも違う。
 少年の肢体に似て非なる不思議な肉体がそこに在った。神話に謳われるニンフやウンディーネ……少女に似た姿をした精霊たちはこんな形をしているのだろうか?
 肩に、うなじにまとわりつく黒髪が肌のなめらかさ、白さを際立たせている。ごく自然に丸い小さな肩を手のひらで包み込み、抱き寄せようとしてはっとする。
 指先に直に伝わる肌の温もりに。
 
(何てことだ、彼女は裸じゃないか!)

 急いで身に付けたマントを脱ぎ、濡れた裸身をくるりと包む。ずぶぬれなのは同じだが、少なくとも裸ではなくなる!
 ヨーコはぱちぱちとまばたきをして。着せかけられたマントを両手でかきあわせ、うっすらと頬を染め……口を開いた。

「おばか! あぶない事して!」
「そりゃ、するだろう!」
「引きずり込まれたら、どうするか!」

 ぱしゃっと川面で魚が跳ねた。
 かっかとほお骨の内側で熱がたぎる。慎み深さも大人の思慮も忘れ、矢継ぎ早に言い返していた。

「大事な友達が危険に曝されているのを放っておけと? 助けられるかも知れない力が私にある状態で?」

 眉をしかめ、にらみつける。

「冗談じゃない!」

 ヨーコもまた、きっと唇をかみしめ、にらみ返してくる。髪の毛がわしゃわしゃと逆立っていた。
 そのまましばらくにらみ合ううち、ふるっと彼女の瞳が揺れた。

「うん……そうだよね……そう言う人だった……」

(だから、好きになった)

 ヨーコは手のひらを広い胸に当て、愛おしさと感謝をこめてそっとなでさすった。次いでぺたりと顔を埋め、気高い心臓の脈打つ音に耳をすませる。次第に逆立っていた髪の毛が勢いを失い、ふわりと肩に、背に舞い降りた。

「………………来てくれてうれしいよ、カル。ありがとう」

 胸元に押し当てられる、生きた体の確かな手触りと温かさ。ささやきとともに伝わるかすかな振動に、ようやくランドールの心は落ち着きを取り戻した。

「すまない、大きな声を出して」

 深く息を吐き出す。
 色のない砂漠で、彼女を必死で探した時の焦りと喪失がまだどこかに残っているのだろう。ともすれば幼い日の喪失の記憶と結びつき、この瞬間にも積み重なった時間を突き破り、噴き出しそうになる。
 すっぽりと抱きしめ、髪を撫でた。背中を撫でた。
 できるだけ多くヨーコに触れ、存在を確かめずにはいられなかった。

「Cal……Calvin……」

 やわらかな声が耳をくすぐる。何故だろう? 今、君を抱きしめているのは私のはずなのに。
 君に包まれているように感じる。

「本当は、こういう時はサリーの方が君には楽なんだろうけれど……来る段階では、私の方が良いと思ったんだ」
「いいの」

 ヨーコが顔を上げた。

「あなたが来てくれて、嬉しい」

 つやつやと濡れた瞳の中に、穏やかな光の粒が踊っている。星のように、揺れる水面の煌めきのように。
 じっとのぞきこんだまま、かろうじて意識のみ外側に向けようと努力してみる。

「……神父様はまだしも、若者二人は……少なくともコウイチは飛んできそうだけれど……向こうも何かあったのだろうか」
「たぶん、私の体を守ってくれているのだと思う。それに………」

 ふっと目元が和らぎ、サクランボのような唇の合間から白い歯がこぼれ落ちた。

「あの子たち、ちゃんと来てくれたよ?」

 リボンを運び、導いた風。
 星の陣を引き、道を開いた五本のナイフと電光のライン。夢魔の動きを封じた光の雨……

(なるほど、確かに彼らはあの場に居たんだ)

 今、この場にいるのは二人。だれの目を気にすることもない。
 今、この瞬間は。

 手のひらで頬を包みこむ。
 彼女は確かに、ここにいる。

「素敵な所ね」
「ああ、気持ちのいい場所だね」
「うん。おだやかで、とても安らぐ……ここは、あなたの夢なのかな」
「君の夢かもしれない」

 ヨーコは手を伸ばし、頬を撫でてくれた。

「髪の毛くくってない所、初めて見た」
「みっともない所を見られてしまったね」
「ううん。似合ってる。何って言うか……華麗で荘厳。王子様みたい」
「そうかな」

 ほっそりした指が髪の間を通り抜け、細やかな光の粒が弾けてこぼれる。何やらくすぐったい。
 お返しとばかりに彼女の髪を撫で梳いた。はらはらと小さな花が。小指の先ほどの花びらが散り出でる。果実のような爽かな酸味と、甘さの入り交じった香りが舌先に触れる……やっぱりくすぐったい。

「気持ちのいい場所だね……」
「ああ、もう少しだけ、居たい……かな」

 どちらからともなく指をからめ、握りあった。
 降り注ぐ木漏れ日が輝きを増し、見えるもの、触れるもの全てが光の中に溶けて行く。

(ああ。もうすぐ夢が終る)
 
 夢からさめる間際に耳元に囁かれる。

「Thanx,Cal……」

 その言葉で十分だった。じりじりと焼ける熾き火は……もう、ない。

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【ex10-20】後ろの正面だぁれ

2010/05/03 0:08 番外十海
 
 動いた。

 三上蓮は剣を構える手をわずかにゆるめ、視線を転じた。

 固く閉ざされたまぶたが、ほんの少しだけ。一瞬、痙攣の前触れかと身構えたが、先刻の一撃以来、亀裂の侵食は止まっている。
 羊子も静かに眠っている。
 見た限りは。

 また、動いている?
 ずいっと顔を寄せた。どんなかすかな動きも見逃すまいと。

 ぱちりと目が開く。黒目の大きな瞳が、はっきりと見返してきた。
 
 ああ。
 彼女だ。

 剣を握る手から力が抜ける。つかの間、表情を取り繕うことを忘れていた。
 数時間分の不安と緊張が一気にほどける。それなのに、この羊さんと来たら! じとーっとにらんでおられる。

「……顔が近いぞ、レン」
「あなたが悪夢に飲まれそうでしたので。いざというときの備えですよ」
「………そうか」
「お帰りなさい」

 妙に密度の濃い視線を感じ、ちらっと肩越しに背後を振り返ると……こっちもにらんでいた。
 彼らの基準でも、近過ぎたらしい。
 いそいそと体をよけ、道を空ける。傍らをすり抜け、風見とロイが飛びついた。

「よーこ先生っ」
「センセイっ」

 自分より背の高い生徒二人にしがみつかれ、ちっちゃな『よーこ先生』の体はぐらぐら揺れた。ちょっとだけびっくりした表情を見せたがそれも一瞬。すぐに顔をくしゃくしゃに笑みくずし、金髪と黒髪、二つの頭をなでまわしている。

「すまん……心配かけた」

 床に刻まれた螺旋の亀裂は消えていた。悪夢の侵食が、修復されたのだ。三上の焼き付けた篭目紋もろとも、まるでそれ自体が夢だったように……。
 いや、あるいはあの時、この社殿そのものが半ば悪夢の中に飲まれかけていたのかも知れない。

「ありがとな、風見。ありがとな、ロイ」

(あー、あー、あー……、そうですか。私にはにらみつけただけで感謝の言葉もなしですか……やれやれ。私だって、けっこう頑張ったんですよ?)

 至極妥当な結果ではあるのだが。そこはかとなく、納得行かない。

「まぁ、その様子でしたら辛うじてMr.ランドールは間に合ったようですね?」
「っっ!」

 これぐらいの反撃は、許されるだろう、うん。
 ぎっと社殿の扉が開き、雲水姿の細身の青年が飛び込んできた。づかづかと歩いてきて、ぎっと三上をにらみ付けたが、にらまれた方はどこ吹く風。細い目でにこにこと笑み返している。
 しばし二人はにらみ合った。と言うか、一方的に雲水が神父を睨んでいた。
 が。

「蒼太……来てくれたのか」
「羊子さんっ」

 巫女のひと言であっさりお開きになったのだった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 その頃、サンフランシスコでは。

「う……ん……」

 シモーヌ・アルベールが意識を取り戻していた。

「気がついたかい、Miss.シモーヌ」
「だ……れ?」
「ランドールだよ。君と同じ会社で働いてる」
「なぜ……ここに」
「君の同僚たちが心配していたんだ。休暇が明けたのに、会社に出てこなかっただろう? 連絡も無し、電話にも出なかったし」
「ああ……」
「もう、心配いらないよ。ゆっくり眠りたまえ」
「……はい……ありがとう……」

 すやすやと眠るシモーヌの傍らでは、サリーがいそいそと布を取り外していた。次第に部屋の中に日の光が差し込んで来る。

「こんなに明るい部屋だったんですね、ここ」
「ああ。気持ちのいい部屋だね」

 淀んだ海の匂いも。じっとりと肌にまとわりつく濡れた髪の気配も。全て部屋から消えうせていた。
 そして織り機にかかった織りかけの布も。窓を塞ぎ、床に敷き詰められていた布も。全て糸一本に至るまで、にごりの無い青に戻っていた。
 晴れた日の空を写した、カリフォルニアの海の色に。

「もう安心ですね。じき、救急車が来るし」
「ああ、助かったよ、君が獣医師で」
 
 911に連絡をしたのはサリーだった。てきぱきとシモーヌの状態を説明し、指示をあおぎ、必要な措置を取ってくれた。

「人間も、動物も生き物ですし。応急処置ぐらいは、できますから……あ、でも何て言って説明しよう、ここにいる理由」
「無断欠勤をした社員の家を訪れたら、返事が無かった。鍵も開けっぱなしで、中に入ると倒れていた。だいたい、こんな所かな」
「……そうですね。それがいい」

 ふとサリーはランドールを見上げ、小さく首をかしげた。

「あれ? ランドールさん、セーターどこに置いてきたんですか?」
「あ……」

 今日は寒い日だった。最初に来た時は、厚手の白いセーターを着ていたはずなのに。
 ああ、そうか。きっと、よーこちゃんを助ける時に変身したんだ。

「また、脱いじゃったんですか?」
「ん……まあ、そんな所だね」
「でも、だいぶ上達しましたね! 他はちゃんと着てるし!」
「そ、そうかな」
「はい!」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 日本、綾河岸市、午前2:00。
 羊子は風呂を浴びて寝巻きに着替え、寝室に引き上げた。ふすまを閉めるより早く携帯が鳴る……サクヤからだ。

「よーこちゃん」
「サクヤちゃん」

 同時におかえり、と言っていた。
 電話越しに『お』の音が重なる。海を越える時間差を挟み、輪唱みたいにきれいにそろった。

「無事でよかった」
「……うん、ありがとう……シモーヌさんは?」
「病院に運んだよ。睡眠不足と脱水症状で衰弱がひどくて。しばらく入院するけど……命に別状はないよ」
「そっか、よかった。おつかれさま」
「よーこちゃん」
「何?」
「もう、大丈夫だよね」
「……うん。もう、大丈夫」

 ※ ※ ※ ※
 
 風見光一とロイ・アーバンシュタインは神社の居間ですやすやと眠っていた。
 しっかりと手を握りあい、ぴたりと寄り添って。

 社殿から引き上げて、あたたかな部屋で熱い茶をすすり、ほっと顔を見合わせた所で、風見がぎゅうっと相棒にしがみついたのだ。

「やったな、ロイ!」
「……うん」
「ははっ」

 たまたまその場には、他に誰もいなかった。だからこそ一気に緊張から解放されたのだろう。
 そのまま、風見はすうっと眠ってしまった。
 さながら、猫じゃらしに前足をのばしたまま眠る子猫のように。

「コ……コウイチ?」

 急に静かになった風見の体が、ぐいっと寄り掛かってくる。ロイの心臓は肋骨を破って飛び出さんばかりに高鳴った。
 しかし、すぐにおだやかな寝息をたてる親友に気付いて顔をほころばせる。
 首をひねってつややかな黒髪に顔をうずめ、ささやいた。

「オツカレさま」
 
 しかしながら。極限まで力を放出して、疲れていたのは彼も同じだった。先生を助け出した安心感から、張りつめていた気力がぷしゅっと抜けたのも。
 そのままロイはこてん、と風見によりかかり、すやすやと寝入ってしまった。ほとんど気絶するようにして……幸せそうな笑みを浮かべて。
 
 そして今。寄り添って眠る二人の少年の様子を、桜子と藤枝がのぞきこんでいた。

「ロイくん、風見くん?」
「あらあら、まあまあ」
「よく寝てること」
「これじゃお部屋に運ぶのは無理ね」
「お布団もってきてあげましょう」
「そうしましょう」
「でも、その前に」

 二人の母さんたちは、瓜二つの顔を見合わせ、にまっと笑い……同時に携帯を開いたのだった。

 ※ ※ ※ ※

 まったく同じ頃、羊子もまた携帯を片手に悩んでいた。

(電話、しようかな。した方がいいのかな)

 無論、相手はサクヤではない。彼とはほんの今し方まで話していた。もっとも、今電話をかけるかどうか迷っている相手にしたところで少し前まで一緒に居たのだが……。

(ええい、迷っていてもしかたない! ここは一つ!)

 勢い良く携帯を開き、ボタンを押そうと身構えた瞬間、画面が点滅した。

「わわわっ」

 送信者は『ランドール』。互いに番号を交換した頃にはまだ、愛称で呼ぶほど親しくはなかったのだ。

「……は……Hello」
「ヨーコ」
「カル」
「風邪を引かないように、すぐ躯を温めるんだ。良いね」

 開口一番、これだ。水に濡れたのも。服を脱いだのも、あくまで夢の中できごとで、現実じゃないのに……

「うん……お風呂入って着替えたから、安心して」
「そうか。よかった」

 ほっとする気配が伝わってくる。全力で心配していてくれたのだ、この人は。さっきの台詞にしても、電話が通じたらすぐ伝えようとスタンバイしていたのだろう。
 苦笑する? 呆れる? とんでもない。
 うれしかった。

「………あのね………その……んと…………」

 過剰に感激するのでもなく。恥ずかしがるのでもなく、意地を張って拒絶するなどもっての他。
 ただ、うれしかった。

「……ありがとう、カル」

 電話の向こうで、彼女がささやいた。
 ありがとう、と。
 夢の中でも同じ言葉を聞いた。
 二つの言葉が重なり、教えてくれる。まちがいなくあの時、自分とヨーコは一緒にいたのだと。
『君の助けになれたのが…私で良かった』言いそうになって、思い直して微妙に言葉を組み替えた。

「……うん。私が…君の助けになれて良かった」
「来てくれて……………うれしかった」
「何度でも行くよ。君だって、私を助けてくれたろう? 熱い、閉ざされた箱の中で」
「……うん」
「そっちではもう遅い時刻だね。ゆっくり休みなさい」
「あなたも、無理はしないで」
「ああ。今日は定時で上がることにしよう」
「ん、そうしなさい」

 ちょっぴり教師風を吹かしてから、羊子は電話口にささやいた。ため息よりも秘かに、やわらかな声を送った。

「おやすみ」
「……おやすみ」

 電話を切る。
 ほうっとため息をつく暇もなく、背後から声をかけられた。

「おすみですか」
「ひゃいっ?」

 その場で飛び跳ねた拍子に、携帯がつるんと手から飛び出す。慌ててキャッチ、またつるり。

「うおわっ。ったたた、わーっ」
「まぁまぁ、とりあえず落ち着いてメリィちゃん」

 華麗な(?)ジャグリングを披露する羊子を見ながら、三上蓮は平静を取り繕うと努めた。それでもこみあげる笑いを100%こらえることはできず、くくっと咽の奥から小さな声が漏れる。

(……駄目だ、反応が面白すぎる。これ以上ここにいたら、限界が……)

「だから! メリィちゃん言うなって……ってか、い、いつからそこに居た!」

 やっとのことで携帯を確保、じとーっとにらみつける。が、妙だ。三上の姿がぽやーっとして、焦点があわない。

「誤解しないでください? 単にこれを、ね。洗面所に忘れてたので、届けに来たんですよ」
「あ」

 手を伸ばし、三上はひょい、と赤いフレームの眼鏡をタンスの上に置いた。
 羊子は珍しくパジャマを着ていた。いつもは和装の寝巻きなのに。さらに言うなら、上に着ている白いセーターは明らかに男ものだ。
 悪夢から目覚めた時、既に彼女の体を包んでいた。あれは、どこから来たのだろう? 
 じっくりと目測し、本来、これを着ている人間の体格を割り出してみると、やはりと言うべきか。予想していた人間と合致した。

 なるほど。
 三上の口元に会心の笑みが浮かぶ。
 少しは進展があったようだ。 

「何、にまにましてる」
「失礼だなあ。私はもともとこう言う顔ですよ?」

 ひょい、と身をかがめてのしかかり、耳元でささやいた。

「ね、言ったでしょう?『諦めなければ、目はあるかも』って」
「………」

 勝った。
 耳まで真っ赤になってる。

「では、おやすみなさい」
「……オヤスミ」

 静かな足取りで部屋に戻る間、三上の頭の中では、ずっと一つのメロディーが流れていた。

(メリーちゃんの羊、羊、羊……)

 かろうじて、心の中で歌い続けることで抑制していた。今にも自分の中からあふれそうな感情を。

(メリーちゃんの羊、かわいいな……)

 もう少しで、自分の部屋だ。幸い、隣室を使っている風見くんとロイくんは居間で寝ている。多少騒いだところで迷惑になる気遣いはあるまい。

(メリーちゃんの羊、かわいいな……)

 ゴール。
 自室に戻ると、三上はすうっと息を吸い込み………

 爆笑した。
 実に晴れ晴れとした気持ちで、笑ったのだった。

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【ex10-21】悪夢在る所、必ず!

2010/05/03 0:09 番外十海
 
 三日後。
 
 よく晴れた土曜日。真っ青な空の下、木立の中にすっくと立つログハウスのテラスで、犬を連れた家族連れがくつろいでいる。
 金色の日差しを浴びて、毛の長い犬がころんと寝転がる。まるで絵本にしたくなるような情景だった。

「今日はみんな外に出てるね」
「風がないからかな。お日さまも照ってるし、犬は外の方が好きだから」

 結城羊子は、教え子二人を伴って再びドッグカフェ「しあわせのしっぽ」を訪れた。
 先週は食事をすますのもそこそこに慌ただしく店を出なければならなかったし、がんばった風見とロイへのねぎらいの意味もあった。

「こんにちはー」
「やあ、いらっしゃい!」
「ジャック!」

 青い瞳のシベリアンハスキーは、ちゃんと覚えていてくれた。
 太いしっぽをわっさわっさと振って、出迎えてくれた。

「うふ、うふっ、うふ」
「やん、くすぐったい……あ、こらっ、そんなとこに鼻つっこんじゃだめ!」

 言ったところで手加減無し。全然いやがっていないのは、犬にもよくわかってるのだ。
 風見とロイも万事心得たもので、さっさとテラスに面した窓際の席に座り、すました顔でメニューを開いている。
 おかげで羊子は心置きなく、看板犬とたわむれることができた。

「ジャックー」
「わう」
「ジャックー」
「わうん」
「鼻ながいねー」
「へっへっへ」
「尻尾ふといねー」
「へっへっへっへっへ」
「筋肉質だねー、むっきむきだねー」
「うふ」

 ほとんど会話が噛みあっていないようで、何やら通じるものがあるらしい。羊子に話しかけられるたびにジャックの尻尾の動きはますます激しくなり、とうとう肩に前足をのせて顔をなめはじめた。

「あ、こら!」

 見かねてヒゲのマスターが叱咤する。が、風見はにこにこと首を横に振った。

「いいんです、喜んでますから」
「そうですか……なら、いいんですが……やあ、それにしてもワイルドなお嬢さんだ」
「ええけっこうたくましいですよ、見かけと違って」
「そうみたいですね」

 羊子は負けじとジャックにしがみつき、一緒になって床にころんと転がっていたのだった。
 
「先週から思っていたんですが、珍しい学校ですね」
「え? そうですか?」
「ええ、男子だけ制服があって女子は私服だなんて」
「あー……はは、は……」
「同じクラスなんですか?」
「ええ、まあ」

 風見とロイは笑顔で受け流した。

(確かに同じクラス、だけど……)
(生徒じゃなくて、担任の先生なんデス!)

 タータンチェックの巻きスカートに黒のスパッツを重ねばき、生成りのハイネックのセーターに、カフェオレ色のジャケット(襟大きめのピューリタンカラー)なぞを羽織った姿はどう見ても、女子高生なんだけど……。

「って言うか、この場合はスパッツが原因か?」
「スパッツだネ」

 むくっと羊子が起き上がった。一瞬、風見とロイはひやりとした。ごく小さい声で話してたはずなんだけど、聞こえちゃったか?
 青い瞳の黒い犬を背後に従え、すっ、すっとまっすぐに歩いてくる。迷いの無い足取りでテーブルの脇を通りすぎ、そのままテラスに出てしまった。

「え?」
「アレ?」

 こっちを向いて、ちょい、ちょい、と手招きしている。言われるまま、近づいた。

「ほら」

 手すりにつかまりのびあがり、すっと一点を指さした。
 さらさらの空気の中に伸びる腕。ほっそりした指の導く先に視線を向けると……。
 遊歩道を見覚えのある人たちが通りかかった所だった。がっちりした、岩を刻んだようなゴードン氏と、華奢で小柄なグレース夫人。ふっくら丸いお腹を手のひらで支え、二人よりそって歩いている。
 たがいに手をしっかり握って、晴れ晴れとした表情で。話す声はここまでは聞こえない。だが幸せそうだ。まとわりつく影は跡形もなく、憂いの表情も消えている。
 ベネット夫妻の姿が見えたのは、ほんの短い間だった。
 呼び止める暇もなく、二人の姿は木立の向こうへと消えて行く。おそらく家に帰るところだろう。

 三人は静かに笑みを交わした。
 風見がぽつりと言った。

「三上さんと蒼太さんも来ればよかったのになー」

 ロイがうなずく。

「蒼太さんがすーっと来てすーっと帰るのはいつもの事だけど。三上さんまでいきなり居なくなっちゃって、ビックリしたヨ」

 事件の翌朝。
 不覚にも居間で目覚めた後、社への参拝をすませてから部屋に戻った少年二人は、隣室のふすまが開け放たれているのに気付いた。
 いるはずの人の気配はなく、遠慮しつつ中をうかがうと……
 きちんと片づけられた部屋の文机の上に、一通の置き手紙があった。宛名の中に自分たちの名も連ねられていたので、開封してみると。

『長い間お世話になりました。
 高原より誘いがあったので本職に戻ります。
 ご用の際は教会まで。 三上』

「……あれだけ残して行っちゃうなんて……さ……」

 さみしげな風見の肩を、羊子がぱすん、と叩く。

「まあ今生の別れって訳でなし。近いうちに会えるよ、たぶん……」

 サムズアップを決めつつほほ笑む羊子の胸元には、白桃色の勾玉と、金色の鈴が揺れていた。

「悪夢在る所、ナイトメア・ハンターは必ず現れる。そうだろ?」
「そうですね!」
「ハイ!」
 
 ロイと風見も笑顔でサムズアップを返した。 
 
 実の所、羊子はちゃんと知っていたのだ。あの日、三上蓮がひっそりと神社を去ろうとしていたのを。


 ※ ※ ※ ※
 
 
 夜明けより少し前。
 神父服にトレンチコートを羽織り、古びた革のトランク一つさげ、十字架を背負った人影が大股で歩いていた。大鳥居前で振り返り、深々と一礼。再び歩き出そうとすると………目の前に、ちっぽけな手乗りサイズの巫女さんが浮いている。

「……おや」

 顔は羊子に瓜二つ。何やらぷんすかむくれている。ちょん、と指先でつつくと鈴に戻り、ちりん、と手のひらに転がった。

「こら、そこの夜逃げ神父」

 背後から声をかけられる。

「夜逃げとは心外な。今は朝ですよ?」
「混ぜっ返すな」

 さり、さり、と軽い足音が玉砂利を踏んで近づいてくる。長い黒髪は結いもせず、パジャマの上から羽織った白いセーターの上にさらさらとこぼれるまま。足下を見ると、何としたことか。素足に草履を履いただけだ。

「水臭いぞ。だまって行くつもりか?」

 鈴に戻ったちっちゃな分身と同じ顔でにらんでる。いや、元がこっちなんだから当然か。

「手紙を残してきましたので……昨夜のこともあるし皆さんお疲れでしょうし……はい、これ」

 鈴を返そうと屈みこむと、彼女はひょいと腕を広げて抱きついてきた。初めて会った日のように精一杯のびあがって。

「……ありがとう、レン」

 トランクを握る手が離れる。使い込まれた革の表面が、敷き詰められた石の玉を叩く。ほっそりとした腰に手を巻き付け、抱き返していた。

「いけませんよ、こんなことをしては」
「よく言う。拗ねた顔してたくせに」
「見てたんですか。酷い人だ」

 柔らかな吐息が当たる。胸元から首筋を伝い、ほのかな温もりを含んだ香りが立ち昇る。笑っているのか、単に息を吐いただけなのか……。

『決めた。わたし、レンと結婚する』
『結婚して……レンの家族になってあげる』
『そうすれば、もうさみしくないよね』

 ぽん、ぽんと手のひらで背中を叩いた。肩に手を当て、そっと体を離す。

 そうだ、これでいい。
 これぐらいの距離がなければ、顔を見ることはできない。

「いけませんね。若い娘さんがそんな格好でのこのこと出歩いて。早朝は冷える。早くお戻りなさい」
「大丈夫、セーター着てるし、ほら」

 胸元からもこっと三毛猫が顔を出す。

「おや、おタマさん」
「うん、おタマさん」
「にゃ」
「道理で。妙にふかっとしていたと……」
「何だとっ?」

 むきーっとふくれた顔の前に、ひょいと鈴を差し出した。

「これ、お返しします」

 羊子は鈴ごと両手で包み込み、そっと押し返してきた。

「………いいの。あなたが持っていて」

 ほほ笑む彼女の胸元で、金色の鈴と勾玉が触れ合い、ちり……とかすかな音色を奏でる。
 砕け散ったはずの勾玉は、悪夢の侵食が消失すると同時に元に戻っていた。

 いや、正確にはほんの少し、変化している。
 白桃色の表面に一筋、鮮やかな青が宿っていた。

(もう、大丈夫ですね。私がここで果たすべき役目は、終った)

「では、ありがたく」

 別れの言葉は、どちらも口にしなかった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 サンフランシスコ、金曜日、21:00。
 ランドールは懲りずに押しかけてきた親友チャールズ・デントンと共につまみをかじりつつ、グラスを傾けていた。
 さすがに今回はいつぞやほどグダグダにはならず、ウィスキーをソーダで割る余裕がある……今の所は。

 二人が代わる代わるに手をつっこんでいるのは、チャーリーが持参した「デントン・ローストナッツ」のマスタードオニオン味の大入り缶。
 彼の会社で、曽祖父の代から作り続けている定番商品だ。キッチンから皿を持ってきたら、既にチャーリーはさっさと開けて直にポリポリやっていた。

「色々食べ比べてみたが、やはり君の所のが一番美味いよ、チャーリー」
「そうだろう、そうだろう! こと、ピーナッツにかけちゃうちの会社は決して妥協しないからね!」
「なるほど、さすがピーナッツバターの王子様、だ」
「そう言う君は繊維の王子様だね!」

 ピーナッツバターの王子様。
 彼の実家が、ピーナッツバターを主力商品としていたのをからかってつけられた学生時代のあだ名だった。ところがチャーリーときたら、怒るどころか胸を張って言い放ったのだ。

『そうとも。僕の家は曽祖父の代からピーナッツバターと共に歩み続けてきた。まさしく、僕はピーナッツバターの王子様だ!』

 あれから6年。彼は家業を受け継ぎ、ピーナッツバターの王様に即位した。そしてあの頃と変わらぬ大らかさと快活さでもって、今なおランドールのよき友でいてくれている。
 遠慮や建前と言うものは、自分たちの間には存在しない。

「グラスが空いてるよ、カル」
「君こそ」

 とくとくと酒を注ぎ、次いでソーダ、仕上げにレモンをきゅっとしぼる。どちらともなくグラスを掲げ、かちりと合わせた所で携帯が鳴った。
 メールだ。

「ちょっと失礼」

 この音、コウイチからだ。まさか、またヨーコの身に何かトラブルが? 
 いや、いや、落ち着け。緊急ならまず直接、電話が来るはずだ。

 開いた画面を見るなり、ランドールはほっと安堵した。

『今週も犬カフェにランチに来ました』

 だが、添付された写真を見てがく然とする。ヨーコが。狼に似た、ピンと耳のたった黒い犬に抱きついている。あまつさえ、その黒っぽい毛皮に顔をうずめてうっとりしている!

「ヨーコ……そんなシベリアンハスキーなんかに!」
「お?」

 チャーリーがのっそりとのぞき込んでくる。そこに次のメールが届いた。矢継ぎ早に開ける。

『常連さんの犬と遊んでいます』

「あっ、こっちの写真はボルゾイじゃないか……くっ、今度はアイリッシュウルフハウンド。よりによって……っ!」
「あー、どっちも狼狩りの犬だねえ」
「ああ、そうだね」
「あ、またハスキーだ。このイヌがお気に入りらしいね、彼女。見てごらんよ、ちゅーしてる!」
「ちゅー? 単に舐めてるだけだろう。親愛の情を示す、犬にとってはごく普通の行為だ」
「つまり好きってことだよね」
「………」

 どうしたことだ。先週の写真と今、目の前に届いた写真とにどんな違いがあると言うのか。犬の種類が多いからか。写真の数が増えたからか。とにかく、この前とは違ったモヤっとした苛立ちを覚える。
 自分と同じ、青い瞳の黒い犬を抱きしめている彼女を見て『可愛いなあ』と素直にほほ笑むことが、できない。

(ヨーコ。そんなに毛皮が好きなら、私に抱きつけばいいじゃないか……それを、どこの馬の骨とも知れない犬なんかに!)

 そうだ、『犬』だ。どれほど外見が似ていようと(いや、似てない。断じて似てない!)あれは『犬』だ。
 狼ではない!

 ふと、シャツの襟元からのぞく自分の胸に目を向ける。
 そういえば、彼女はこの胸毛を気に入っていた様だった。一緒に寝た時も、顔をうずめていた。

(まさかヨーコ……私は犬達と同じ括りなんじゃ……)

「チャーリー」
「何だい?」

 おもむろにシャツの前を開き、友人の手をとって自分の胸へ乗せてみる。

「私の胸毛をどう思う?」

 チャーリーはまじめ腐ってふさふさと親友の胸をなで、しかる後にゆっくりと頷き、厳かに答えた。

「うん、ふさふさしてるね。動物みたいだ。女の子は好きだよねー、犬とか猫とかぬいぐるみとか、ふさふさしたのが!」

(やっぱり!)

「チャーリー」
「何だい?」
「正直に答えてくれ。私は、犬っぽいと思うか?」
「えっ、自覚なかったのっ?」

 ランドールは目をむいてにらみ付けた。めくりあげた唇の間から、白い犬歯がちらりとのぞく。

(うんうん、どこから見ても立派な犬だよ……)

 この瞬間、いい具合にアルコールでほどけたチャーリーの頭に一つの天啓が閃いた。

(カル……そうか! 君は、ワンちゃんプレイ(Puppy Play)に目覚めていたんだね! ご主人はもちろん、彼女だ。そうなんだね?)

「そんなに睨むなよ。ビーフジャーキー食べるかい?」
「……もらう」

 憮然として、がしがしとジャーキーをかじる友人を、チャールズ・デントンはなまあたたかいまなざしで見守った。

(ああ、いけないなあ、ご主人様以外の人間からほいほい餌もらっちゃあ……まだまだ修業が足りないな。がんばってヨーコにせっせと尽くしてくれたまえ、親友!)

「カルヴィン。何があっても僕たちは友だちだよ」
「あ、ああ……ありがとう」


 分かりあっているようで、二人の頭の中は微妙にすれちがっていた。

「グラスが空いたよ、カル」
「君こそ」

 今度は氷もソーダも入らなかった。

(水の向こうは空の色/了)
 

「チャールズ」
「何だい?」
「……犬を飼おうと思うんだ」
「え?」

(おしまい)

 →その頃、サリーちゃんは……

 next episode→【ex11】ぽち参上!

★★君を包む柔らかな灯

2010/05/03 0:11 短編十海
 
「……ん……」

 密やかな振動に眠りの底から呼び起こされる。
 腕の中に抱いていたしなやかな体が、もそもそと抜け出す気配。うっすらと目を開けると、枕元のサイドランプが放つやわらかな灯りに包まれて、レオンがぽやーっとした顔で座っていた。視線を宙にさまよわせ、髪の毛はくしゃくしゃのままで。
 まだ半分、眠っているらしい。
 ああ、可愛いなあ……。うつぶせになったまま片目を開けて見守った。
 
 papamama3.jpg
 illsutrated by Kasuri
 
 こいつ、これから何をするつもりなのかな。ここまで起き上がってるってことは、したい事があるに違いない。
 トイレに行くなら問題はない。ただこのままベッドの中で戻るのを待てばいい。だけど、のどが渇いた、水を飲みに行こうかな、なんて考えているとしたら話は別だ。
 ざっと頭の中でシミュレーションしてみる。
 このままふらふらとキッチンまで歩いて行って、ぽやーっとして思考の回らない頭で手探りで冷蔵庫を開けて、水のボトルをとり出す。フタを開けて、コップに注いで……。
 
 ガシャン。
 運が良ければ、ゴトン。いずれにせよ、やらかす。

 レオンはごそごそとガウンを羽織り、足をスリッパに突っ込み、ほてほてと歩いてゆく……バスルームではなく、寝室の出入り口に向かって。
 やっぱ水か。
 
「レオン」

 ドアノブに手をかけたまま、ゆるっとした動きで振り返った。目をしぱしぱさせて、まぶしそうにこっちを見てる。

「ああ………起こしてしまったかな」
「気にすんな」

 ベッドから滑り降り、ガウンを羽織った。微妙に丈が足りない……左胸を確認すると、イニシャルの縫い取りが『D』ではなく『L』だった。
 やれやれ、無防備にもほどがあるぞ、レオン。
 大股に部屋を横切り、隣に立つ。

「俺もちょうど、のどが渇いたところだ」
「ん……」

 こてん、と肩に顔を寄りかからせてくる。さらさらした髪の毛に顔をうずめてキスをして。
 二人で寄り添い、廊下に出た。

「今夜は冷えるね」
「ああ、冷えるな」

 肩に手をかけ、包み込む。レオンの身体をすっぽりと腕の中に。
 キッチンには、夕食後に仕込んだトルティーヤの香りがまだほんのり漂っていた。

「いいにおいだ」
「明日の弁当用だ」
「楽しみにしてるよ」

 シエンは夕食は一人遅れてとった。けれど、ランチの下ごしらえは一緒に手伝ってくれた。
 冷蔵庫からクリスタルカイザーのボトルをとり出し、コップに注ぐ。二つのうち片方をレオンに手渡した。

「そら」
「ありがとう」

 向かい合って水を飲む。ゆるく上下する咽の動きを見守った。
 最近、乾燥してるからな。寝室にも水、置いとくか。そうすりゃ、キッチンまで出なくてもその場で飲める。
 空になったコップを受け取り、軽くゆすいで食器カゴに立て掛けた。

「……」
「どうした、レオン」

 ぺろり、と胸元を舐められる。

「っ、なにをっ」
「こぼれてた」

 さらっと言いやがったな、こいつ!

「舐めたら、意味ないだろ」
「俺には、ある」

 すました顔で言うと、レオンは当然と言う顔つきでキスしてきた。逃げる理由はなかった。

「……これはおやすみのキスなのかな。おはようのキスなのかな」
「両方、だ」
「冷えてきたね」
「ああ、冷えてきたな」

 しんしんと忍び寄る夜の冷気に急かされ、ベッドに戻る。ガウンを脱ぐ段になってレオンは始めて首をかしげた。ようやく気付いたらしい。

「こっちは、君のだった」
「ああ」

 脱いだのをばさっと顔にかけてやる。

「わぷ」
「そっちがお前のだ」
「……」

 むっとした顔をすると、レオンはがばっと掴みかってきた。あっと思った時はスプリングがきしみ、ベッドに押し倒されていた。
 ゆるゆるとキスをして、互いに撫であい、まさぐりあう。じきにベッドの中に二人分の体熱が立ちこめて行く。
 
 もう、寒くはない。
 

(君を包むやわらかな灯/了)

次へ→うわさのヒウェ子

ポップコーンフラワー

2010/05/03 0:13 短編十海
 
 
 土曜日。サリーは久しぶりにのんびりと買い物に出かけることにした。
 バスと市電を乗り継いで、フェリービルディングに。今日はファーマーズマーケットの開かれる日だ。

 四角い時計塔を囲んだ赤レンガの広場には、新鮮な果物や農産物や乳製品のぎっしり並んだ屋台がひしめいている。
 バークレーに居た頃に通っていた、美味しいパン屋さんも出店を出している。
 一人暮らしだからそんなにたくさん食材は買わないけれど、見ているだけでけっこう楽しい。
 ビーズや手作りのカゴ、編み物に織物、木を削ってつくった箱や椅子。手作りの品物を並べたクラフトショップあるし、古本や古着やレコードを並べている店もある。

 きょろきょろしながら歩いていると、ふわんっと香ばしいトウモロコシのにおいが漂ってきた。ポップコーンだ。いつも通るたびに「美味しそうだなあ」と思うのだけど、とにかく量が尋常じゃない。
 枕かと思うくらいの袋に大粒のポップコーンがぎっしり、1サイズオンリー、小分けなし。とてもじゃないけれど食べきれない。

 子どもの頃もそうだった。
 神社のお祭りの屋台。よーこちゃんに手を引かれて二人で回った。わたあめ、リンゴ飴、チョコバナナにホットドッグ。お祭りの時だけ売っている食べ物は、とてもキラキラしていて。味よりもまず、買ってもらったって言うことそのものが嬉しかった。
 ……なぜか、わたあめの袋はいつも女の子用だったけど。よーこちゃんとおそろいだったから、気にしてなかったなあ。
 そもそも着てた浴衣からしてピンクだったし。金魚とか、ウサギとか、朝顔の模様だったし。

 つい、ちっちゃい頃のこと思い出してしまうのは、先日の事件の名残だろう。どちらかがピンチに陥ると、互いに助け合おうと無意識に共鳴するのだ。
 夢が終ってからも、しばらくは影響が残る。クリスマスみたいに二人一緒に酔っぱらってしまう時もあるけど(後で大変だった)それほど悪いことばかりじゃないと思ってる。
 だってよーこちゃん、あれでけっこう素直じゃないんだ。ちょっとは自分の気持ちに正直になってくれるといいんだけどな……。

「わっ」
「あ、失礼っ」

 ぱらぱらっと白くて軽やかなものが降ってくる。とってもいいにおいだ。
 でも、これ、何? 花びら?

 ぽろぽろと転がり落ちてきたものを手にとってみる。

「あ……ポップコーン……」
「すみません、うっかりして!」

 顔を上げる。
 ライムグリーンの瞳に濃い金色の髪。土曜日のラフな服装の人たちの中にまじり、きちんとしたコートとベスト、シャツとネクタイはほんの少し際立って見えた。

「エドワーズさん………」
「え? あ」

 ぱちぱちとまばたきしてる。

「サリー先生」
「はい! こんにちは」
「あ、こ、こんにちは」
「珍しいところでお会いしますね」
「ええ……ジャムの買い置きが切れてしまいまして……」

 もごもごと口の中でつぶやいている。あれ、どうしたんだろう。顔が赤い。

「そ、それに友人が、手作り製本のクラフトショップを出したので、手伝いに」
「そうだったんですか! やっぱり本屋さんですか?」
「いえ。警官時代の友人です。先日退職して、趣味で製本をやってみたいと言うので、私が手ほどきしました」
「なるほどー」
「あー、その……」

 よく見ると、エドワーズさんは大袋入りのポップコーンを抱えている。細長い袋にぎっしりつまった、それこそ大きめの枕みたいなのを。
 そうか、これだったんだ。さっきぱらぱらと花びらみたいに降ってきたのは。

「お好きなんですね、ポップコーン」
「は、はい、子どもの頃、買ってもらったのが懐かしくて。久しぶりに、つい」

 子ども? 
 あ、いや、そうだ。エドワーズさんにだって子どもの頃があるはずだ。
 でも、ちょっと想像できないなあ……。
 どんな子だったんだろう。やっぱり背、高かったのかな。そうだ、確かバンドやってったて……あ、でもそれはけっこう育ってからだよね。

 まじまじと見ていると、エドワーズさんの顔はますます真っ赤になって行く。

「どうしたんですか?」
「あ、いや、その……」

 すうっと屈みこんで顔を寄せてくる。ライムグリーンの瞳が。やや面長の顔が、予想以上に近づいてくる。なぜだか直視できず、視線をさまよわせる……。
 
(あ)

 耳たぶに、透明な粒が光っている。この前見た時はよくわからなかったけど、確かにあれはピアスだ。
 
(エドワーズさんが、ピアスをしている)

 ここはカリフォルニアだ。ピアスぐらい、身に付けてる人はいくらでもいる。学校の友だちにも。病院のスタッフにも。
 だけど、こんな風にきちんとした服装をした紳士の耳に、ピアスが光ってるのを見ると……今さらながらに、どきっとした。

「失礼」

 まさにそのタイミングで、しなやかな長い指が、髪の毛の間を通り抜ける。耳たぶのすぐそばを……掠めた。

「っ!」

 ほろほろと髪の毛の間から、花びらが散り咲いた。白くて、小さくて……くすぐったい。わずかな酸味の混じった甘い、果実に似た香りが舌先に触れる。

「……あ……」

 その瞬間、真冬の海辺、しかもまだ午前中の空気の中にいるのに……
 まるで春の日だまりにいるような、ほわっとした温かさを感じた。ハチミツをたっぷり入れたレモネードを飲んだ時みたいに、胸の奥がくすぐったい。

「その、髪の毛に、ついていましたので」
「え? え、えっと」
「ポップコーン」
「あ……」

 花びらじゃ、なかったんだ。
 俺、頭にポップコーンつけたまま、話してたんだ。ずっとエドワーズさんは見てたんだ……。

 かあっと頬が熱くなる。
 恥ずかしい!

 きゅーっと全身が縮こまる。ああ、どうしよう、もうどこかテーブルの下にでも潜り込んでしまいたい!
 そうだ、落ち着け、と、とにかくお礼を言わないと。

「サリー……先生」
「ありがとう……ございました」

 よし、言えた。

「いえ、元は私がこぼしたのですから……あの、よろしかったらいかがですか?」

 そ、と袋をさし出してくれた。

「え、いいんですか?」
「懐かしさにつられて買ってしまいましたが、やはり一人では多すぎる。一緒に食べていただければ、助かります」
「……はい! それじゃ、いただきます」

 そろっと手を入れる。まだほんの少し温かい。ぽりっと噛むと、新鮮なコーンの甘さが口の中に弾けた。ほどよい塩味に混じった柑橘系の酸味が一滴。レモンとはちょっと違う。きっとライムだ。

「んー、美味しい……これいっぺん食べてみたかったんだ……そばを通ると、いいにおいがするし!」
「ははっ、それはよかった」
「もうちょっと、いただいてもいいですか?」
「どうぞ、どうぞ」

 ちょっぴり意外だった。いつもきちんとしてるエドワーズさんが、立ったままポップコーンを買い食いするなんて。
 でも、ここでは大抵みんな、歩きながら何か食べているから、あまり目立たない。変に見えない。
 だからごく自然に、エドワーズさんと並んで歩いていた。ときどき手を入れて、袋からポップコーンをつまんでかじる。
 会話の合間に、ポリポリと軽やかな音が聞こえる。

「あ、キャラメルアップルだ。懐かしいなー」
「日本にも、あるのですか?」
「ええ、キャラメルじゃなくて、透明なシロップを使ったのが。子どもの頃、水晶玉みたいにきらきらしてるのがきれいで、ねだって買ってもらったことがあったんです。でも、結局食べきれなかった」
「リンゴを一個、丸ごとですからね……確かにけっこうお腹にたまる食べ物だ」
「一度口をつけた食べものは残しちゃいけないって言われてるし。夏だったから、どんどんアメが溶けてべたべた垂れ下がってくる。途方に暮れてたら、よーこちゃんが『じゃ、わたしが食べるー』って、ばきばきとあっと言う間に!」
「それは頼もしい」
「ええ。それ以来、約束ができたんです。リンゴ飴を買ってもらう時は必ず二人で一個! って」
 
 子どもの頃の思い出話。退屈かなって思ったけど、エドワーズさんはにこにこして聞いてくれた。相づちをうちながら、心の底から楽しそうに。

 やがて、古いレコードの並んでいるテントの前を通りかかった。

「……失礼、ちょっといいですか」
「はい、どうぞ」

 立ち止まって、熱心にレコードを見て、お店の人と早口で何かしゃべってる……。
 好きなのかな。クラッシックかな? それともジャズ?
 ひょいと手元をのぞき込む。

 ちがった。
 クラッシックでもビートルズでもない。レッドツェッペリンの「天国への階段」だった。

「あ、これ、知ってる……懐かしいなあ」
「え、これも、ですか?」
「伯父の書斎にあったんです。CDじゃなくて、レコードで」
「……なかなかにアグレッシブな趣味の伯父さまですね」
「よーこちゃんのお父さんです」
「ああ、なるほど」

 結局、エドワーズさんはそのレコードを買っていた。

「同じのを持ってるんですけどね……LPレコードも。CDも。ただレコードは経年劣化でどうしても脆くなる。だからいい状態のを見つけるとどうしても、手が出てしまうんです」
「いいと思いますよ。欲しいなって思ったときめきと、タイミングが奇跡みたいにぴったり合う時って、あるもの。あ、この辺は本も同じかな?」
「なるほど、確かにそうだ!」
「そう言えば、ジャケットは見たことがあったけど、これだって意識して聞いたことなかったな……」
「意外に聞き始めると、『ああ、この曲だ』って思うかも知れませんね」
「そうかも……子どもの時、聞いてたりして」
「実に興味深い曲ですよ。穏やかな旋律がずっと続いていて。このまま穏やかな曲が続くのかと思うと、終盤でがらりと曲調が変わる。打って変わって激しく叩きつけるような音に変わり、最後はまたしっとりとボーカルのソロで締めくくる……何度聞いても、飽きません」

 エドワーズさん、すごく舌の動きが滑らかだ。目をきらきらさせて、うっすら頬まで染めちゃってるよ!
 この人でも、こんなに熱く語ることってあるんだ。
 本と、猫以外のことで。

「っと、失礼、愚にも付かぬことを、ぺらぺらと」
「いえ、面白いです。何だかちょっと聞いてみたくなったな……CDじゃなくて、レコードで」

 エドワーズさんは俺の顔を見て、目を細めて、ほんの少し唇の端を上に上げた。笑おうと意識する前に、嬉しいきもちがほんのりと顔ににじみ出てしまった……そんなほほ笑みだった。

「いいですね。ぜひレコードで聞いてください」
「あの………」

 聞いてみたいけど、レコードが置いてあるのは日本の伯父さんの家だ。この間里帰りしちゃったし、もうしばらく帰国の予定はない。

「今度、お店で聞かせてもらってもいいですか?」

(え?)
(ちょっと待って、俺、今、何て言った?)
(わああーっっ!)

 何て大胆な。これじゃ、ほとんどよーこちゃんの行動パターンだよ……。

 きっと、まだ共鳴が残ってるんだ。そうに違いない。
 エドワーズさん、呆れてるよ。どうしよう、今ならまだ訂正できる、かな?

「あ、えと、その、あの」
「……ぜひ、いらしてください。お待ちしています」
「あ……」

 良かった……。

「それでは、友人が待っていますので。またいずれ……サリー先生」
「はい。あ、ポップコーンごちそうさまでした!」

 きちっと胸に手を当てて一礼すると、エドワーズさんはテントの一つに向かって歩いていった。きっとあそこがお友だちのクラフトショップなんだ。

 どうしたんだろう。
 何だか胸がどきどき言ってる。しかも、ちょっぴりさみしい。
 いつもは「さよなら」を言うのは俺の方からだった。
 お店に行く時は、買い物をして「それじゃ、また」って。
 リズをつれてエドワーズさんが病院に来る時は「もう大丈夫ですよ。お大事に」。だけど今日はちがっていた。先に別れの挨拶を口にしたのは、彼の方だった。

 言われた瞬間、思ってしまった。
 まだほんの少し、一緒に居たいって。

 家に帰ってから気付く。
 今日はエドワーズさんと、猫の話をしなかった。自分たちのことだけ、話していたな………。

(ポップコーンフラワー/了)

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