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ローゼンベルク家の食卓

【ex10-18】狼と羊が出会った

2010/05/03 0:05 番外十海
 
 結城サクヤは自らの夢の中に居た。

 柔らかな緑の草木に守られた、こんこんと湧く澄んだ泉のほとり。そこは慣れ親しんだ結城神社の奥によく似た、おだやかな光にあふれる清らかな場所だった。
 巫女装束をまとい、泉のほとりに跪くサクヤの手からは、赤い細い糸が伸びている。
 先端に結びつけられた金色の鈴が水面に軽く触れ、さらさらと白い玉砂利の合間から湧き出す水の流れに合わせ、リ、リリリ……とかすかな音を奏でている。
 どこか、心臓の鼓動にも似たリズムで。

 不意に素足を何匹ものヒルが這い登るような悪寒を感じる。ぎょっとして振り払うが、何もついていない……自分の足には。

(まさか!)

 泉の表面が真っ黒に濁り、見るもおぞましい光景が映し出された。
 肉厚のねばつく触手にからめ捕られ、為す術もなく嬲られる羊子の姿が。

「よーこちゃん!」

 我を忘れて手を伸ばす。
 と。
 ごぼぉっと水が波立ち、粘つく実体をそなえてまとわりついてきた。

「しまった!」

 逃れる間もなかった。水面に映る羊子と全く同じように四肢に半透明な触手が絡みつき、自由を奪う。もがけばもがくほど強く、深く侵入し、いたずらに装束がはだけられてゆく。

「くっ、離せ、離せぇっ」

 ぬるぬるとねばつく触手が肌の上を這いずる。ねっとりと糸を引き、頬を。首筋を、胸元をなで回す。
 あまつさえ、袴の内側に潜り込み、ももの付け根あたりをまさぐっている奴もいる。柔らかな先端が幾重にも枝分かれし、一本一本が舌先のように広がり、ぴちゃぴちゃと湿った音を立てている。
 かと思えば吸い付き、ちゅくちゅくとすすっている奴も……。

「く……あうっ」

 おぞましさ鳥肌が立つ。自分も触ったことのないような場所を、執拗に触手の先端が掠める。そのたびに得体のしれない感触が背筋を駆け抜け、ぞくっと震えた。
 何故、そこを触るのか。何故、そこを触られて、そんな反応が起きるのか。わからない。おそろしい……おぞましい。

「や……め……」
(や……め……)

 自分の声に重なりもう一つ、弱々しいうめき声を聞いた。

(同じことを、よーこちゃんもされてるんだ!)
 
 かっと怒りが込み上げる。だがあざ笑うようにさらに太い触手が胸元にねじこまれる。枝分かれした先端が乳首に巻き付き、ひねり上げた。

「うぅっ!」

 唇の端を噛みしめ、のけぞる。その拍子に巫女装束の襟がゆるみ、くずれて広がった。

(しめた!)

 無理やり右の袖を抜き取った。肩から胸にかけて滑らかな裸身がさらされる。待ちかねたように胸に触手がはりつき、もみしだくような動きでなでさする。無理やり高められた肌の感覚が逆流し、煮えたぎり、今にも神経が焼き切れそうだ。
 だが、片手が自由になった。人さし指と中指をぴんと立て、残りの三本を握り『刀印』を結んだ。

「待ってて、よーこちゃん……」

 確かに自分たちの絆は強い。一人が闇に捕らわれれば、もう一人も引きずり込まれる危険がある。だが、逆に二人で立ち向かう事もできるのだ。執拗に肌をまさぐる触手の感触に身震いしながらも、意識を集中した。
 瞼の底にぽつりぽつりと浮かぶ光の粒を集めて、練り上げて、指先のただ一点に集めて……

「鋭!」

 解き放つ。
 青白い光がサクヤの全身を駆け巡り、おぞましい触手を切れ切れに弾き飛ばした。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 締め切られた深夜の社殿を、時ならぬ月の光が照らす。満月よりほんの少しおだやかな、十六夜の月の光が。
 いや、その光は空から降りてきたのではない。風見光一の手にした清らかな剣……『十六夜丸』の銘を持つ刀から放たれていた。

「約束したんだ……先生を守るって」

 ぎりっと歯を食いしばり、柄を握る両手に力を込める。今なお瘴気を噴き上げる、螺旋の亀裂をはったとにらみ付けた。

「俺は、諦めない。最後の一秒まで、退かない。逃げない。投げ出さない。きっと、先生もそうする!」

 顔を上げるや、風見は相棒の青い瞳を見据えた。

「行くぞ、ロイ!」
「おお!」

 うなずき交わし、ロイは左手を懐に滑り込ませる。引き出された時、彼の五本の指の間にはそれぞれ一本ずつクナイが握られていた。

「十六夜丸、力を貸してくれ……」

 螺旋の亀裂に刀を突き立てたまま、風見光一はりん、と声を張り上げた。

「風よ、魔なるものを押し流せ!」
 
 持てる力の全てを振り絞り、たたき込む。刀身がひときわ輝きを増した。
 同時にロイは左手に構えたクナイを全て亀裂の底に打ち込んだ。さらに気合い一閃、畳の表面に左手を叩きつける。

「心威発剄……破ぁっ!!」

 ばん!
 明らかに。少年一人が叩いたにしては巨大すぎる衝撃が走り、畳が浮き上がる。

 ひっそりと、風見とロイの動きに紛れるように三上蓮は十字を切り、祝福を与える時と同じ所作をした。ぽとり、と淡く光る雫が神父の指先からこぼれ落ち、亀裂の奥に吸い込まれる。

「多少なりとも、援護になればいいんですがね……」

 つぶやく彼の目は静かに。極めて静かに、獲物を見据える狩人の炎を宿していた。
 できれば自ら乗込み、あいつらを一刀両断に切り捨ててやりたい所だが、それは不可能だ。だから、その代わり……持てる力の全てを一滴に凝縮し、最上の一撃を送った。

(悔い改めるがいい。裁きが終った時、まだ嘆く心が残っていればの話だが)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 ランドールは吸い寄せられるように川面に屈みこんだ。
 水の向こうに広がるのは嵐の直前のような、黄色く濁った雲の立ちこめる奇妙に明るい空と、草一本生えていない岩地だ。
 ごろごろと転がる岩は、さながら苦痛に身をよじる人の群れ。

 ……いや。今、何かが動いた!
 さらに顔を近づけると、不意にびゅうっと風が吹き抜ける。水の向こうから……まさか、そんなあり得ない!

「っ!」

 風に乗って、ひらりと細長い赤い色が飛び出してきた。とっさに受け止める。しなやかな布が手首に優しく寄り添った。
 リボンだ。
 彼女の、赤いリボン。

「ヨーコ!」

 ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ……
 空から何かが降りてくる。
 固く尖った小さなナイフが全部で5本、切っ先を下に水の表面に垂直に突き立った。
 さらに、水の表面にチカっと音もなく稲光が走り、ナイフを拠点に光のラインを描く……星の形に。
 導かれるまま、ランドールはラインの目指す最後の一点に手を伸ばした。
 指先から光がこぼれ落ちる。

 リィ……ン……。

 鉄の十字架と銀の鈴が形を結び、すうっと水の表面に突き立った。
 6つの拠点を光のラインがつなぎ、水面に六芒星を……篭目の紋を描き出す。その瞬間、ランドールは見つけた。
 探し求めた人の姿を。

 だが、その時、彼女は……。

 ぞろり、と口の中で牙が伸びる。咽の奥で低いうなり声が轟く。意識を遥かに上回る勢いと早さで何かとんでもない悪態をついたようだが、既にその声は人の言葉を為していなかった。己の内側に荒れ狂う怒りに身を任せ、ランドールははっしと右手を水面に叩きつけた。
 それが、どんな結果をもたらすのか、予想だにせずに。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

(……ちゃん)

 ぼんやりと、誰かに呼ばれた気がした。瞼が震える。だが、ずっしりと重くて動かせない。。

(よ……こちゃ……)

 呼んでいる。気のせいなんかじゃない。消えかけた意識を奮い起こし、渾身の力を振り絞って瞼をこじ開けた。。
 ぽつり。
 澄んだ雫一粒、額に落ちる。その刹那、はっきりとサクヤの声を聞いた。

『よーこちゃん!』
(サクヤちゃん!)

 夢魔の群は、凍りついていた。降り注ぐ細やかな光の雨に打たれ、羊子の手足に牙を埋めたまま動きを止めている。
 まるで塩の柱にでもなったみたいに。

 ぱしゃり!
 清々しい風が水の雫をまき散らす。水とともにぱらぱらと光の種が周囲に降り注ぎ……ふっくらと水を吸った地面が盛り上がり、割れた。
 まるでフィルムの早回しを見ているようだった。鋭いトゲをはやした緑のイバラが、勢いよくわき出でる。何本も。何本も。
 凍えていた時間が唐突に動き出す。
 大地を話って噴き出した巨大なイバラがのたうち、声なき声で吠える。生き物のように明確な意志を備え、夢魔の群に襲いかかる。
 咽に牙を埋めていた夢魔の体を締め上げ、あっと言う間に握りつぶした。

「ぐぅえええええ」

 口を蹂躙していた一体が、うめき、のけ反り、離れて行く。
 ぼこぼこと体の表面が泡立ち、膨れ上ったと思ったら、内側から無数のトゲがあふれ出した。残ったのは、ぼろぼろのゴム風船の残骸みたいな灰色の切れ端ばかり。
 手足をからめ捕っていた毒の蔦は、一本残らずみずみずしい緑のイバラに絡みつかれ……一ミリ単位の正確さでむしられ、千切り取られて行く。
 ぼろりぼろりと毒蔦の断片が落ちるたびに、頭上に高々とつるされた本体がかすれた声で悲鳴を挙げた。
 それに比べれば、山羊角の魔女を始めとする夢魔たちは比較的恵まれていたと言えよう。てんでに頭をかかえ、空ろな目でひぃひぃと泣きわめくだけで済んでいたのだから……内面に荒れ狂う衝撃がいかほどのものかは、計り知れないが。

「これは……あ」

 戒めから解放され、地面に崩れ落ちる。これほど体のすぐそばで荒れ狂っているのに、茨のトゲは髪の毛一筋ほども羊子を傷つけていなかった。
 乱れた装束をかきあわせながら立ち上がる。踏み出そうとすると膝がかくんと曲り、よろけた。噛まれた傷から血が滴り、毒に焼かれた皮膚がヒリヒリと引きつれる。
 何より困ったことに、手足に力が入らない……一秒でも早くこの場から遠くに離れたいのに、上手く体が動かせない。

「ヨーコ!」

 目を向ける。さっきまで真っ暗な奈落にしか見えなかった崖の下が、今は澄んだ水をたたえている。
 そして、水の向こうに彼がいた。
 青い瞳、波打つ黒髪。夢の中を自在に歩くその姿は、刻まれた傷を乗り越え、受け継いだ血を誇りに思う気高い心と、弱者を守る強い意志の証。

 自分の存在が揺らぎ、消失する危機を知覚した瞬間。ひと目でいいから会いたいと願った、唯一の人がいた。

「カ……ル……!」
「飛べ。早く!」

 迷わず飛んだ。
 同時にランドールもまた、水中へと身を踊らせた。
 巫女装束の裾が、袖が広がる。水しぶきが散り、漆黒のマントが翻る。
 彼と我、我と彼女。間に横たわる水の中で二人は互いに受け止め、支え合い……取り戻した。
 失われた色を。生きる力を。

 泡立つ水が媒介となり、意識の底に沈んでいた記憶を表層に呼び覚ます。
 青いリボン。風にたなびく金の髪。青い瞳を涙で腫らし、失われただれかを探していた母の記憶。
 守らねばと思った。
 だが、それだけではなかった。

(あの日からずっと恐れていた………大切な人を失うことを)

 それ故に守られるだけに終らず、共に戦えるだけの強さを愛すべき相手に求めた……少なくとも自分と同じだけの、身を守る強さを。
 結果として女性は「守る存在」「敬う存在」ただそれだけ。愛する対象から外れ、男性を選ぶようになっていた。

(いつから性別や外見にとらわれていたのだろう?)

 はじめて、ヨーコ・ユウキと言う存在を認識した日の記憶がよみがえる。熱い閉ざされた箱の中で体験した出来事を。
 彼女は言った。『あなたは私が守る。だから私を守って!』そして、その通りにやり遂げた。
 傷だらけになって、恐怖に震えながらも夢魔に挑み、打ち勝った。

『怖いよ。余裕なんてない、いつだってギリギリ。こんなこと辞めたい、絶対無理だって、いつも内心、泣きべそかきながら思ってるの。生きて戻ったら、こんなこともう二度とやるもんか! って』

(そうだ、確かに羊子は女性だ。肉体的には弱い。感情に振り回される脆さもある)
(だが、その一方では自分など及びもしない強さを備えている。自分の弱さを知り、決して目をそらさない)
(知恵を研ぎ澄まし、機転を利かせて……しなやかに困難を乗り越える)

 何てことだ。
 己は男を愛する男なのだと公言し、自由を謳歌しているつもりでいた。だが、殻にとらわれていたのは自分だ。
 自分なのだ。

『あなたが好きです、カルヴィン・ランドールJr。あなたが男でも女でもそれ以外の生き物でも、この気持ちは変わらない』

 むしろ、ヨーコこそが性別の違いにとらわれていなかった。見た目や財力に惹かれるのでもなく。何の見返りも求めず、ただ自分と言う存在を慕っていた……

(同じだ)
(私がアレックスに恋していた時と同じ……なんだ)

 想うことはあっても、想われたのは初めてだった。
 それ故に彼女の強さ、凛々しさに惹かれながら怖じ気づいた。
 たじろいだ。
 まっすぐに、あまりにも純度の高い、無垢な想いをつきつけられた瞬間に。

 泡立つ水が鎮まる。
 彼女はそこにいた。
 指をすり抜けてなどいない。暗い水の中に沈んでもいない。確かに今、自分の腕の中に。そして、自分もまた、彼女の腕の中に居た。

「君を永遠に失ったかと思った」
「………いなくなったりしないよ……」

 まっすぐな瞳が見つめ返してくれる。もう二度と思わない。思うものか。君が居もしない幻だなんて!

「ここに、居るよ」
「ヨーコ……」

 ごぼり、ごぼ、がぼごぼ。
 不吉な水音が追ってくる。
 ちらりと振り向くとヨーコはぎゅっと眉間に皺を寄せ、顔をしかめた。

「しつっこいなあ……」

 だが、怯えてはいない。その口調がいかにも彼女らしくて、こんな状況なのにむずむずと笑みが込み上げてくる。口元がくすぐったくて仕方がない。
 いびつな影絵を練り合わせたような。タチの悪い冗談みたいなゾンビの塊が追ってくる。もう、どんな形をしているのか自分でもよく分かっていないらしい。
 ぼろぼろと崩れながら、それでもがむしゃらに水をかきわけ、追いすがってくる。

「カル、つかまって!」

 ヨーコの巫女装束が形を変える。袖が、袴がくるくると伸びて薄くなり、魚のひれのように広がった。

(人魚だ……)

「行くよ」
「ああ」

 しっかりと抱きあい、供に水をかきわけ、泳ぐ。二人の力が溶け合い、まるで一匹の魚になったようにのびのびと翔んだ。透き通った水の中を、自由自在に駆け抜けた。

「えーっと……どっちに行けばいいんだ? 私も、カルも飛び込んで潜ってきたんだから……上? それとも、下?」
「明るい方に行こう。ここは夢の中だ、上も下も、関係ない」
「うわ、すっごい正論!」
「……あっちだ」
「OK!」

 赤い尾を打ち振り、人魚が泳ぎ出す。すいすいと身をくねらせ、軽々と。ほんのりと明るい水面(?)目指して。

「こんなに自分の体が上手く動いたことって、ないかもしれない」
「ああ……私もだ。実に爽快だ」
「うん。すっごく気分いい!」

 顔を見合わせ、笑った。
 それでも夢魔の数は多く、執拗に追って来る。自らの崩壊の生み出す最後の力を全て、追跡に注ぎ込んでいるのだろうか。ぼろぼろと自分の欠片を落しながら追ってくる。

「く……あと少し……」
「あっ」

 半ば肉がそげ落ち、骨ののぞいた手が尾の先を掴む。だが次の瞬間、羊子は身をくねらせ、あっさりと掴まれた衣装を脱ぎ捨てた。

 リン!

 淡く光る水面から、赤い糸が降りてくる。先端には小さな金色の鈴。ランドールは左手でヨーコをかき抱き、右手を差し伸べた。
 赤い糸と金の鈴はくるりくるりとランドールの手首に巻き付き、くいっと引っぱり上げる。
 しっかり抱きあったまま、二人は光の中へ飛び出した。

『捕まえた』
『逃がさない、逃がさないぃいい!』

 崩壊する夢魔の群れの中に、白い小袖に緋色の袴……羊子の身につけていた巫女装束だけがふわりと残り、切れ切れに引き裂かれて行った。

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