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2010年4月の日記

【side13】踊るペーパードール

2010/04/03 3:12 番外十海
  • エイプリルフール+イースターの季節イベント短編。
  • もともとは四月一日用ネタ短編として書き始めたはずが、長くなって番外編にステップアップ。
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【side13-1】★四月一日限定販売

2010/04/03 3:14 番外十海
 
「エドワーズさんっ!」

 エドワード・エヴェン・エドワーズは自分の身に何が起きたのか、理解できずにいた。
 いつものように夕飯を終え、ささやかな娯楽の一時をすごした後、シャワーを浴びて。横着してパンツを履いてタオルを首にかけた状態で寝室に入り、ベッドに腰かけ……

 ようとして、いきなり引き倒されたのだ。
 
(落ち着け、エドワード、まずは状況を把握するんだ!)

 背後でスプリングが軋む。どうやら仰向けになっているようだ。そして上には温かく、ほっそりした生き物がのしかかっている。だがリズにしては大きすぎる!
 目を開くと、見慣れた天井の代わりにつやつやした卵方の顔、さらりとした黒髪、眼鏡がすぐそばにあった。

「さっ、サリー先生っ?」

 うるんだ目。耳たぶまで赤くそめ、着ているのはいつぞや写真で見たジンジャのユニフォームだ。

「俺のこと、どう思ってるんですか……はっきりしてください」
「どうって……むぐっ」

 唇を奪われた。
 あまつさえ、吸われ、なめられている。
 いけない。こんなことをしてはいけない! 思っても体は正直に反応する。恋しい人がのしかかり、キスしているのだ。男としてきわめて自然な成り行きと言えよう。

「ん……ふっ……」

 とろけんばかりの笑みを浮かべて唇を離すと、サリーは指先でくりくりと胸の突起をもてあそびはじめた。
 さらに、緋色の袴に包まれた膝が、下着の内側でたぎり始めた彼の『息子』をくりっとさすりあげる。

「いけません……サリー先生……こんなことは……うっ」
「ひどいや、エドワード」

 サリーはぐいっとのしかかり、顔をよせてきた。あわてて目をそらす。が、それがかえっていけなかった。乱れた白い着物の襟からのぞく、滑らかな陶器の肌が。淡い明かりに浮かび上がる華奢な鎖骨が、視界を占領する。

「っ!」
「あの時は……」

 やわらかな唇が耳たぶを食む。

「サクヤって言ってくれたのに」

 せつせつと訴える甘いささやきに、エドワーズの忍耐は振り切れた。サリーの肩をつかみ、引き寄せ、猛然とベッドに押し倒す。

「サクヤ……っ」

 ジ リ リ リ リ リリリリリィン!

「う……」

 ベルの音が寝起きの脳みそをシェイクする。強烈に、けたたましく。
 長いことベルが鳴る直前に起きていたから、この音を聞くのはずいぶん久しぶりだ。
 べちっと叩いてスイッチを切り、起き上がる。5:05……5分もあの音を聞いていたのか。

「……おはよう、リズ」
「みゃ」

 ベッドから降りようとして、違和感に気付く。足の付け根が妙にねばつき、不自然に下着がはりく。それこそもう、長い間縁のなかった気まずい湿り気。
 いちいち見て確認する気にはなれなかったし、その必要もない。何が起きたのかはわかりきっていた。

「何てことだ」

 深いため息がこぼれ落ちる。

「この年になって………しかも………」

(サリー先生の夢を見て、こんなっ)

 いたたまれずエドワーズはバスルームに駆け込んだ。
 罪悪感にさいなまれつつ、ざばざばと下着を洗うその間、リズがずっとドアの向こうで鳴いていた。

「にゃーお、みゃーう、ふみゃーおおおう」

 気まずい洗濯を終えてようやく浴室のドアを開ける。白い毛皮がするりとが飛び込んできた。

「みゃ、みゃ、みゃ?」

 見上げる透き通った青い瞳が、痛い。直視できず、目をそらした。

「にゃあ」

 柔らかな前足がズボンの裾をちょい、と引く。ぎこちなく首を回してほほ笑みかけた。

「ああ、心配かけてしまったね。大丈夫だよ、リズ……」

 手にした濡れた布をタオルでくるみ、洗濯機に放り込む。
 洗剤は、いつもより多めに入れた。


 ※ ※ ※ ※


「あ、もしもし、お母さん?」
「あらサクヤちゃん、元気?」

 返事が返ってくるまでに1秒ほどタイムラグがある。携帯一本で気軽に話しているけれど、やはり海を隔てた向こう側なのだ。

「うん、元気だよ。荷物ありがとうね、無事届いた」
「そう! 海苔もお抹茶もちょっと多めに入れておいたわ」
「ありがとう。それで……ちょっと聞きたいんだけど」

 サリーはテーブルの上にざらっと、トランプみたいに扇型に広がる細長い紙の束に視線を向ける。
 透明のビニール袋に入ったステッカー、これは、まだわかる。実家の結城神社のお守りだ。好きな所にはりつけるステッカータイプ。だが、セットで入っているもう一枚が問題だ。

「何で、俺の写真がお守りとセットになってるの?」

 しかも、白衣(はくえ)に緋袴の巫女姿。神社のご神獣であり、かけがえのない家族である鹿の「ぽち」と並んでにこにこ笑っている。眼鏡をかけ、くつろいだ表情をしているからおそらくご祈祷の最中ではない。
 プライベートな時間の写真だろう。

「あーそれねー」
 
 あっけらかんと母は応えた。

「男の娘(こ)巫女さんお守りステッカーよ。四月一日用に限定で売り出したの!」
「……はい?」
「お正月の時の写真を、パソコンで、ちょいちょいっとね? お遊び企画で作ってみたんだけど、これがけっこう人気でねー」
「ねー?」

 ああ、母がWになってる。すぐそばに藤枝おばさんもいるんだ。

「いつの間に……」
「昨日だけで売り切れちゃった。意外に男の人に売れたのよねー」
「大成功だったわ!」

 きゃっきゃとはしゃぐ母たちの声に混じり、低いため息が聞こえた。

「すまん、サクヤくん。止められなかった」
「いいんです、おじさん……」

 目に浮かぶようだ。

『よーこちゃんの写真は使えないわよねー』
『公務員ですもの。副業扱いになっちゃうものね』
『じゃあ、サクヤちゃんのを使いましょう』
『そうしましょう』
『いや……それはちょっと……』
『あっ、この写真がいいわ!』
『ほんと、ぽちと一緒だといい顔するわね、あの子』

 伯父貴の制止を軽々と振り切って、着々と計画が進んでいったにちがいない。
 それにしても、限定と言う割にはずいぶんな数を送り付けてきてくれたもんだ。いったい全部で何枚作ったんだろう?

「それで、これ、どうしろと?」
「ああ、そっちでは人気があるんでしょ? そう言う和風のステッカーって!」
「うん……まあ……」
「お友だちに配ったら?」
「そうだね……」

 写真はともかく、守り札は普通に使える。
 明日にでもディフの事務所に持って行こう。彼に渡せば、双子のために使ってくれるはずだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「へえ、面白いな、これ。ホームメイドのステッカーか。ありがとな!」

 赤毛の探偵所長は思った通り素直に喜んでくれた。

「それで、この写真は……」

 巫女姿の写真と自分の顔を交互に見ている。言うべき言葉を探しているようだ。

「ベースボールカード、みたいなものか?」
「いや、これは気にしないで」

 ささっと写真だけ抜き取った。

「これ、どこに貼ればいいんだ?」
「うーんと……」

 部屋を見回し、オティアの使うパソコンに目をつける。

「ここかな」
「OK」

 ディフが守り札をオティアに渡す。少年はほっそりした手を器用に動かし、液晶モニターの裏側にぺたり、と貼り付けた。

(よかった。母さんたちの気まぐれも、これで役に立つ)

 その日の夜、シャワーから上がって髪をふいていると電話がかかってきた。ディフからだ。

「よう、サリー。ちょっといいかな」
「ええ、いいですよ。どうしました?」
「うん、それが今日持ってきてくれたステッカーな。あれ、EEEが見て……」
「エドワーズさん……事務所に来てたんですか……」
「ああ。たまたま近くまで来たんでオーレの顔見にがてら寄ってった。君が来たすぐ後だ」
「そう……なんだ」

(もうちょっと居ればよかったかな)

「それで。あのステッカー、ものすごく気に入ったみたいなんだ」
「エドワーズさんが?」
「うん。よかったら、あいつ用にもう一枚、用立ててもらえると嬉しいんだが……まだ、あるか?」
「ありますよ」

 そりゃもう、たくさん。
 束で。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 翌日、サリーはさっそく、お守りステッカーを探偵事務所に届けに行った。

「はい、どうぞ」
「ありがとう。あいつも喜ぶよ」
「エドワーズさんって和風もの意外に好きなんですね」
「そうだな。あいつ昔はばりばりのハードロッカーだったんだけど、今は伝統のものが好きらしい。うん、特に和!」
「そういえばお店にも日本の本があったなぁ」

 和やかに語らうサリーとディフを、オティアが微妙な表情で見ていた。

『このステッカーは?』
『サリーからもらったんだ。写真もついてたな、ベースボールカードみたいなやつが』
『ほう。神社の写真かな?』
『いや、サリーの。ハカマ着てた』
『サリー先生がっ』

 事務所に来た時、エドワーズはディフとこんな会話をしていた。
 サリーの名前を聞くなり、そわそわして、ため息をついて。オーレをなでながらしみじみと言ったのだ。
『見てみたかったな……』と。
 今、サリーがディフに渡したのはステッカーだけ。と言うか、写真は最初から持ってこなかったらしい。

(あれは、多分、Mr.エドワーズが期待しているものとは違う)

 思ったのだが。

「キモノの柄見本とか、古い画集とか集めてるみたいだぞ」
「浮世絵なんかはこちらの人にも人気ありますしねー」
「そう言や浮世絵の画集を仕入れた、とか言っていたな……写真じゃなくて、版画のやつ」
「わあ、すごいな! 日本でも滅多に手に入らないですよ! 見てみたいな……」

 紅茶片手にほのぼのと語らう二人を見て、結局、言うのをやめたのだった。

次へ→【side13-2】巡り巡って

【side13-2】巡り巡って

2010/04/03 3:15 番外十海
 
「ランドールさん、これどうぞ、使ってください。お守りです」
「ありがとう……」

 ランドールは手渡されたステッカーをしみじみと観察し、添えられたもう一枚を手にとった。

「この写真も、お守りなのかな?」
「あー、それ、は……」

 サリーはつ、と目をそらす。

「それは、母さんが勝手に。サービス品らしいですよ」
「そうか……………」

 さらにしみじみ観察。しかる後、ぽつりとつぶやいた。

「これは、君の写真だけ……なのかな?」
「よーこちゃんは教師だから、そういうの出せないんですよ」
「そうなのか」
「日本だと教師の……というか公務員の副業は禁じられてるので。おかげで最近はそういうの全部俺の写真でやられちゃうんですよね。神社の取材とか、お祭りのポスターとかも」
「なるほど!」

 ならば、他の男がうかつにヨーコの巫女姿を目にする心配もない訳だ。
 ランドールはいたく上機嫌でうなずいた。
 日本通の社員から仕入れた情報によると、巫女の装束とはある種の男性にとって、すさまじい吸引力を発揮する衣装なのだと言う。 
 彼はその吸引力を『MOE』と表現していた。
 意味はわからないが、何やらとてつもなく強烈だと言うのはわかった。
 アメリカでも消防士や警察官、神父、カウボーイ等、特定の衣装の需要が(本来の目的とは別に)存在する。それと同じなのだろう。

 納得しているランドールの手元から、サリーはさっさと危険な写真を回収した。

「もう一枚もらえるかな。日本通の社員に贈りたいんだ。彼には世話になってるからね」
「どうぞ」

 すました顔でサリーはお守りステッカーのみ抜き取り、手渡すのだった。

(後で、分けておこう……その方がいちいち説明しないで済むし)
 
 ※ ※ ※ ※
 
「あれ、サリーどーしたんだこれ」

 テリーの声を聞いた瞬間、正直『しまった』と思った。
 お守りステッカーを大学に持って行く前に、自分の写真だけ取り分けておいたのをデスクの上に出しっぱなしにしてあったのだ。

「えーっと……実家のお守り」

 何食わぬ顔でさりげなく、話題をお守りステッカーの方に誘導する。

「へー。いいな、エキゾチックで!」
「一枚あげようか?」
「うん、さんきゅ!」

 喜々としてテリーはお守りステッカーを台紙からはがし、自分のノートパソコンに貼り付けた。

「うん、決まってる!」

 ものすごく嬉しそうだ。

「そっか、よかったね」
「こっちのも、もらっていいか?」
「えっ」

 既にテリーの手の中には、巫女さんステッカーがずらぁりと扇みたいに広がっていた。改めて自分の巫女姿が並んでいるのを見ると……くらくらする。

「何に使うの!」
「ミッシィが喜ぶ」
「う」
この間の弁当、感激してたぞ」

 引っ込み思案なテリーの小さな妹は、サリーによく懐いていた。
 つらい体験からほとんど他人と話そうとしないミッシィにとって、サリーは家族以外で心を許せる数少ない大人の一人なのだ。

「うーん……それなら……」
「サンキュ!」

 テリーは上機嫌で写真を持ち帰った。
 後で『妹たちがすげーよろこんだ! ありがとな!』とメールが来た。
 多分、バービー人形のステッカーとか。紙の着せ替え人形(paper doll)と同じ扱いなんだろう。かわいい動物(ぽち)も一緒に写ってるし……。
 そう思うことにした。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 三日後、エドワーズ古書店にて。

「いらっしゃいませ、今日は何をお探しですか?」
「こんちわ、Mr.エドワーズ。よ、リズ! 今日も美人さんだな」
「にゃー」
「今日は買い物に来たんじゃないんだ。届けもの、頼まれちゃって」

 テリーはカウンターに歩み寄ると、鞄からクリアファイルを取りだした。中には画用紙を切り抜いて作ったカードが一枚。
 クレヨンで丁寧に彩色され、卵の形をしている。
 イースターのカードだ。そうだ、今日は四月八日だった。

「これ、ミッシィから、あなたへ」
「Missミッシィから?」

 カードの内側にはクレヨンで『イースターおめでとう 本のお医者さんへ ミッシィ』と書かれていた。一文字ごとに色を変えていて、まるで花畑だ。
 そして中央には美しいシールが貼られている。ひと目見るなり、エドワーズの心臓は早鐘をつくように激しく高鳴った。

「こ、これはっ」
「ああ、うん、サリーのステッカーな。ミッシィのお気に入りなんだ」
「そう………ですか……」

 マックスからステッカーを受け取った時は、写真がついていなかった。ちょっぴりがっかりしたが、それでもあの人につながると思うと嬉しかった。
 見るチャンスはないだろうと諦めていたサリー先生の写真が今、ここにある。
 クレヨンで描かれた色とりどりの文字と花、そしてハートのマークに囲まれてほほ笑んでいる。さながらペーパードールシートのように。
 
 paperdoll.jpg
 
 耳たぶを赤く染めながらエドワーズはカードを受け取り、撫でた。手のひらでそっと、愛おしさと感謝をこめて。

「ありがとうございます。大切にします」

(踊るペーパードール/了)

次へ→【ex10】水の向こうは空の色(前編)

★★★夜に奏でる

2010/04/10 22:05 短編十海
 
  • このページには男性同士のベッドシーン「しか」ありません。
  • 十八歳以下の方、ならびに男性同士の恋愛がNGと言う方は閲覧をお控えください。
 
 
 
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 illustrated by Kasuri


「レオン……いつまで指しゃぶってるんだ……うっ」

 答えの代わりに、ちゅぷっと吸い上げられた。

「っくっ」

 笑ってる。
 ふさふさしたまつげの下からのぞく瞳は、明らかに今の状況を観察し……楽しんでいる。

「いい加減……ちゃんとキス……させ……ろ……」

 乱れた息の合間から切れ切れにささやく。
 もどかしくてなめまわした。どんな彫刻家にも再現できそうにない、形の良い唇の周りを。それなのに奴は知らんふりしてしつこく指をしゃぶってる。
 指先に舌をからめてくすぐってる。その動きが、別の場所を舐める感触を生々しく呼び起こす。
 首筋に赤く浮かぶ火傷跡。耳たぶ。鎖骨のライン、胸板、乳首、足の指。背中の『翼』は特に念入りに。キスして、舐めて、またキスをする。
 そして、全ての熱が凝縮する足の間の……。

「レオ……ン……んっ」

 夢中になって舌を動かした。たっぷり唾液をからめて、ぺちゃぺちゃと湿った音を立てる。
 本当はそのかわいい唇の中に突っ込んでやりたい。思う存分なめまわして、お前の舌を吸い上げてやりたい。

「う……ん……」

 レオンがこくりと何かを飲み下す。わずかに上下するそのなめらかな咽を舐めあげた。
 二人分の唾液が混じりあってつ……と口の端からこぼれ落ち、火照った肌を濡らした。

100406_0157~01.JPG
illustrated by Kasuri
 
 胸を。背筋を。腹を通って足の間に熱い血流が流れ込み、飢えた獣がむくりと立ち上がる。
 痛いくらいに張りつめている。

「んっ……ふ……は、ふ、ぅ、んぅっ」

 俺はもしかして変態なんじゃないか? 見られてるだけで。指をしゃぶられてるだけで、全然関係ない場所がこんなに堅くなっちまうなんて……。

「あ」

 後ろの穴が、生き物みたいに呼吸を始めている。

 さっきまで腰に巻き付き、押さえ込んでいたレオンの左手はじりじりと滑り降り、太ももをなで回している。
 気持ちいい……だけど物足りない。
 もっと触ってくれ。もっと……奥を。もっと強く。
 遠慮なんかするな。
 弄れ。

「ん、あぅっ」

 いきなり、握られる。反り返る背筋を押さえ込まれ、唇をむさぼられた。

「う……くぅ……」
「ん」

 ずるいぞ、レオン。ああ、でもやっと……キスできた……
 しゃぶりつくされ、すっかり赤く濡れた右手を背に回し、抱き寄せた。
 その瞬間。

「ぃっ!」

 ぬるりとした水音とともに、痛みにも似た快感に襲われる。瞬時に瞳孔が拡散し、瞼が限界まで跳ね上がる。
 ばか、いきなりそんなに強く、しごく奴があるかっ!

「う、ぅ、くぅ」

 がっちり押さえこまれてろくに首を振ることができない。言い返そうにもくぐもったうめき声が漏れるばかり。

「ふ……んふぅ」

 ペニスに巻き付けられた指がもぞりと波打ち、根元から先端にかけて、絞るように蠢いた。
 
「く、う、うぅっ」

 体中さんざんいじり回されて溜まりに溜まった熱がどっと一点に集中し、濡れそぼった先端から込み上げる。だが、出口がない。レオンの指がぴたりと先端をふさいでる。
 為す術もなくぴくぴくと震えていると、念入りに舌を吸い上げられた。新たな波が込み上げる。
 身じろぎすればするほど強くつかまれる。もみしだかれる。たまらず悶え、また追いつめられる……逃げられない。

「う、う、ううーっ」

 ようやく口が解放された。むさぼる深い口付けが、何度も小刻みに与えられる、小鳥みたい優しいキスに変わる。
 しかし、無慈悲な指は相変わらず俺をしっかり捕まえたまま、ゆるむ気配がない。

「なん……で……も……許し……」
「ガマンして。もう少し」
「う……」

 すぐそばでほほ笑むレオンの顔がぼんやりと霞んでる。涙がにじんでるんだ。
 目元にキスされ、舐められる。

「ふぁっ」

 くすぐったい。
 思わず首をすくめた。

「かわいいな」
「ふ……」

 笑っちまった。
 爆発寸前まで弄られ、追いつめられて。揚げ句に出口を封じられ、荒れ狂う欲情に嘖まれながら、つい。

「かわいいのは、お前の方だ」
「そうかな」
「そうだよ……」

 ああ、その顔だ。最高にかわいい。うっとりと見つめながら鼻先にキスをした。頬に。額に。口をとがらせ、それこそ小鳥のさえずりみたいな音を聞かせてやった。
 不意にペニスを握っていた指が離れ、解放される。イく寸前のもどかしさを抱えたまま……収まることも、達することもできない。

「は……は……はー……あぁ……」

 すがりついて、必死で息を整えた。

「大丈夫かい?」
「あ、ああ」
「そう……か…」

 くるりとひっくり返され、ベッドにうつぶせに押し倒されていた。

「っ、レオンっ? く、うっ」

 起き上がる間もなく肩を押さえこまれる。ばさりと散った髪の毛が、無造作にかきわけられるのがわかった。

「きれいだ……とても」

 見られている。剥き出しの体を。肌に刻んだライオンと翼を。声だけでわかる。お前が今、どんな表情(かお)をしてるのかも。

「いい色になってる」

 声が近づいてくる。翼の付け根に手のひらが触れ、なでまわされ……ぎりっと爪を立てられた。

「っくっ」

 歯を食いしばってこらえる。それでも全身を襲う細かな震えは押さえきれなかった。火照り、研ぎ澄まされた肌が食い込む爪の数まで数え上げ、突き立てられた針の記憶を呼び覚ます。

『動くなよ? 余計に痛い思いをすることになるぜ』
『お前に似合いのを入れてやったよ』

 巻き戻る時間を必死で引き止め、意識をそらした。目に見えぬ堅い何かがのど元を押し上げてくる。たまらずかすれた声を振り絞った。

「レ……オ……ン」

 不意にレオンの手が離れ、爪のかわりに暖かな唇が押し付けられた。

「ぁ……」

 うっすらと唇を開き、息を吐く。滑る舌先が。繰り返し与えられる口付けが、背に刻まれた柔らかな翼の形を教えてくれる。
 そこにあるのは隷属の刻印ではない。二人だけの秘密なのだと。

「来てくれ。今すぐ、お前が欲しい!」
「まだ早いよ。ちゃんと、ほぐさないと」
「いいから!」

 自分から足を開いて高々と腰をあげ、後ろに回した指でアヌスを広げた。

「も……待ちきれないんだ……たのむっ」

 肩越しに振り返った視界の隅で、レオンがうなずくのがわかった。

「君が、望むのなら」

 ぐいと腰を引き寄せられ、堅いものが入り口に当てがわれた。開いた指の先に濡れた彼を感じた。

「あ……ひっ!?」

 息を吐く暇もなく、一気に貫かれた。入り口の皮膚が引っ張られ、内側に向かって絞り込まれる。

「う、あ、あうっ」

 稲妻が走る。
 堅く締まった内部を抉られる衝撃が、背骨を突き抜けた。
 歯をくいしばっても押さえられない。咽の奥からくぐもった音が漏れる。呻いているのか、鳴いているのか、自分でもわからない。
 たまらず両手を前につき、シーツに顔をすり付けた。握りしめる指の間で布地がぐしゃりと皺になる。

「ぐ……う……うぅ」
「あぁ……ディフ……っ」

 俺の中でレオンが震えてる。
 お前も、ずっと我慢してたんだな。嬉しいよ……。
 そっと振り返る。気配が伝わったのだろうか。レオンは閉じていた目をひらき、ほほ笑んでくれた。
 ごそっと前に手が回され、萎えかけたペニスをいじり回される。手のひらで包み込み、もみしだかれる。

「く、うあ、あ、んっ」

 たまらず、再びシーツに突っ伏す。

「な、何……をっ」
「元気がない。やっぱりきつかったようだね……」

 妙に楽しそうな口調だった。顔は見えないがきっとほくそ笑んでる。

「ごめんよ」
「っ、全然、悪いとか思ってないだろ、お前っ」
「うん、実はそうなんだ……ああ、だいぶ堅くなってきたね」
「あっ、あ、あ、ああっ」

 前をいじられる度に、後ろが絞まる。自分の意志とは関係なく、くい、くい、と打ち込まれたレオンのペニスにしゃぶりつく。

「そろそろ……いいかな……」

 すっかり勢いを取り戻した息子から手を離すと、レオンは改めて俺の尻をがっちりと抱え込んだ。

「いい眺めだ」
「っ?」

 言われて不意に気付く。今、俺はどんな格好をしてるんだろう?
 シーツに顔を押し付けて、尻を高々と掲げている。
 じわじわと腹の底がむずがゆくなってきた。
 そんな、プレイボーイのグラビアみたいな格好を、いつの間に!

「ちょ、ちょっと待て、レオン。この格好はっ! せめて、もうちょっと、ポジションチェンジを」

 支離滅裂に口走りつつ起こしかけた上半身を、ぐいっと押さえ込まれる。体がシーツにめり込むほど強く。

「あうっ」
「………待てない」

 低く押し殺した声でささやくやいなや、レオンは猛然と動き始めた。
 さながら交わる獣のように。本能のまま腰を振り立て、突き入れる。がくんがくんと体が容赦なくゆすられる。
 猛り立つ熱塊が後ろを出入りし、こする。えぐる。尻に打ち付けられるレオンの身体と俺の間で、ぱん、ぱん、と音がする。肉と肉がぶつかって、あられもない声が押し出される。

「あ、あ、やっ、あ、ん、くっ、うぐっ、ふ、あうっ、あっあっ、あっ」

 ローションもゴムもない。生の体と体が直にこすれ合う凄まじい快楽に溺れ、夢中になって腰をゆすった。声をあげた。

「お、ぅっあ、あうっ、レ……オ……ン」

 レオン。
 レオン。
 見てくれ。聞いて、感じてくれ。どれほどの甘い衝撃が俺の中に荒れ狂っているか……。

(お前のためなら、どんなことでもする)
(獣にもなる)

 haru3.jpg
illustrated by Kasuri
 
「あ、あ、あー、あー、あー」

 もう、かすれた咽からはAの音しか出ない。
 突き上げられる後ろから、もどかしいような熱が体内を伝わり、触ってもいないペニスがどんどん膨れ上がる。
 一方で腰が勝手にガクガクと揺れ、全身の毛穴と言う毛穴から、玉のような汗が噴き出し、重なる肌身を濡らす。

「んくっ、ううっ、あ、はふ、あう、レ、オ、ンっ」
「ディフ……」
「う、あ、あ、あ、あっ、あっ、あっ」

 最初の絶頂に達した時、奇妙なことに前からは何も出なかった。
 体中の筋肉が内側に引き絞られるような奇妙な感覚の中、腰が不規則に上下し、時間が止まる。
 貫かれたアヌスの奥に、意識が一気に吸い込まれる。

「レオンっ!」
「く、ううんっ、ディ……フっ」
「あ。あっ」

 身も心も真っ白に焼き尽くされながら、彼が俺の中に放つのを感じた。
 手は届かない。だけど確かに今、お前を抱きしめている……。

「は……あ……あぁ……」

 急速に力が抜ける。
 射精こそしていなかったが、強烈なエクスタシーを感じた。しかし熱は引かず、昇りつめた意識が覚めることもない。ぽやーっと暖かな春の日差しにも似た充足感に包まれていた。
 頬をあたたかな雫が伝い落ちている。
 気だるい。ゆですぎのパスタにでもなった気分だ。だけど、すごく……気持ちいい。

「ふ……あ……あぁ……」

 深く息をしながら震える手を背後に伸ばす。汗ばむレオンの腰をなで、引き寄せた。

「ディフ……」
「ん……レオン」
「おや? 君はまだ、堅いままだね……」

 ごそっとしなやかな指が蠢く。

「よせ、どこ触ってっ、くっ!」
「大丈夫、夜はまだ長いんだ……」
「っ!」

 ひそやかな忍び笑いと共に、耳たぶを噛まれる。

「じっくり、愛し合おう」
「う……ん……」
 
 ぬるぬるとぬれそぼった指が、そろりと咽をなでる。

「鳴き過ぎて声が枯れても」

 顎を這い登り、唇をなぞり……

「離さないよ、ディフ」

 ずぷりと、ねじ込まれる。
 今度は俺がしゃぶる番だった。
 
(夜に奏でる/了)

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【4-17】レッドホットチキンスープ

2010/04/17 17:35 四話十海
  • 2007年、2月。休みの日にスケートに出かけたエリックが出会ったのは探し人……ではなく、悪戦苦闘する黒髪のへたれ眼鏡だった。

【4-17-0】登場人物

2010/04/17 17:37 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
 
 sien.jpg
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 コーヒースタンドで何度か出会い、話すうち『エビの人』ことエリックの存在を受け入れつつある。
 けれど彼は未だに思っている。あくまで『たまたま』会っているだけなのだと。
 
 oteia.jpg
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 外見はほぼシエンと同じ。飼い猫のオーレはエドワーズ古書店の猫、リズの娘。
 ヒウェルへの突っ込みは容赦無いが、マメに世話を焼く一面も。
 バイキング警報発令中。
 
 e.jpg
【エリック/Hans-Eric-Svensson】 
 シスコ市警の科学捜査官。ディフの警官時代の後輩、23歳。
 ライトブロンド、瞳は青緑色、身長186cm。
 金属フレームの眼鏡着用。好物はエビ。
 デンマーク人の祖父を持つバイキングの末裔。寒さにも極めて強い。
 
 oule.jpg
【オーレ/Oule】
 四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
 白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
 最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
 趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
 ヒウェルには容赦無い。

 leon.jpg
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。27歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 爽やかな笑顔の裏で実はかなりの激情家。嫁にちょっかい出す輩には容赦無い。
 趣味はヒ苛め。
 
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【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 学生時代はアイスホッケーをやっていた。
 見慣れないピスタチオグリーンの手袋が、どこから来たのか気になっている。
 
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【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 職業はフリーのジャーナリスト。黒髪にアンバーアイ、眼鏡着用。
 最近、すっかり一人でご飯を食べるのが寂しくなった26歳。
 レオンとディフとは高校時代からの友人。
 先日スケートに初挑戦して見事に惨敗。
 三歳児にすら負けたのがいたく屈辱で今回リベンジに挑んでみた。

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【テリオス・ノースウッド】
 通称テリー。熱血系おにいちゃん。
 栗色の髪にターコイズブルーの瞳。
 獣医学部の大学院生、専門はイヌ科。
 サリーの大学の友人だが周りからは彼氏と思われているらしい。
 基本的に面倒見が良く、女の子に甘い。
 早くに両親を亡くして里親の元で育ったため、血のつながらない兄弟や姉妹が大勢いる。
 
【ビリー】
 シエンの中学の同級生で、今は遊び仲間。
 親に虐待され、里子に出される。
 
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【4-17-1】バイキング滑る!

2010/04/17 17:38 四話十海
 
 水曜日の午後。天気がいいのでユニオン・スクエアに行った。と言っても買い物じゃない。コーヒーを飲みに行くのでもない(帰りにちらっと寄ってもいいかな、とは思ってる)
 滑るために。
 
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 illsutrated by Kasuri
 
 一月からずっと厳しい寒さが続き、屋外スケートリンクのコンディションは絶好調。
 滑るのはずいぶんと久しぶりだけど、じいちゃん仕込みのウィンタースポーツの腕はまだ衰えていない……はずだ。いや、むしろ足かな?
 元々スケートは好きなんだ。子どもの頃はそれこそ暇を見つけては滑ってたし、大人になってからも冬場、体を動かすのはジムより、公園のランニングロードより、氷の上。一応、靴も自前のを揃えてる。

 さて、まずは軽く準備運動。しかる後リンクの入場料を払って靴を履き替え、さっそうと氷の上に滑り出す。
 一年ぶりの滑走だ。ジャーっと懐かしい音とともに景色が背後に飛ぶ。冷たい、かわいた空気が頬を撫でる。
 少しずつ速度を上げながら人の流れに乗り、外周に沿って回った。平日だが、人は多い。学校帰りの子どものみならず、仕事の合間にちょいと滑りに来る人もいるんだろう。あるいは、休みが不規則な職場とか。
 
 一周もすれば、じきに感覚は取り戻せる。周囲を眺める余裕も出てくる。
 もこもこのダウンジャケットを着た人の群れ。鮮やかな赤や黄色、青、ピンクにオレンジ。鮮やかなビタミンカラーをかきわけくぐりぬけ、森に溶け込む穏やかなアースカラーを探した。帽子からわずかにのぞく金髪とすれちがう度、ぐいっと目が引き寄せられる。

 来てる……かな……シエン。

 あれからも彼とは週に一度、運が良ければ二度、スターバックスで一緒にコーヒーを飲む日が続いてる。もっとも約束してる訳じゃないから、必ず会えるとは限らない。運良く会えても、いつ急な呼び出しがかかるかわからない。
 わずかコーヒー一杯飲む間の、大切なひととき。とりとめのない事を話したり、この間貸した、iPodの使い方を説明したり。
 この頃は「休みの日は何してる?」なんて話題も口にするようになっていた。
 シエンにしてみれば一緒にいる間、話が途切れないように話題を探していたって感じだったけど……。それでも自分の体験を、家族以外に話せることが新鮮で、楽しそうでもあった。

 この間はサリーとテリー(サリー先生の友だちだそうだ)と一緒に犬を見に行ったって聞いた。大きな犬がいっぱいいたけれど、一番大きなのはデイビットの家のベアトリスだった、と。

「ヒューイやデューイより大きいのに、デイビットはちっちゃなお姫さまって呼んでるんだ」
「ギャップがすごいね。一度聞いたら忘れそうにないや」
「うん。なのに、ディフも、サリーも、テリーもみんなして言うんだ。『なるほど、確かにちっちゃいな』って!」

 先週はスケート。始めて滑った。氷の上を、体が走るより早く動くのが楽しかった、ケーブルテレビの中継で見たスピンを思いきって試してみた。
 どきどきしたけど上手く行った!

「見てる人が拍手して、ちょっぴり恥ずかしかった……」
「嬉しかった?」
「んー……………うん!」

 目を輝かせて話す彼の愛らしい事と言ったら! きっと自分じゃ気がついてないんだろうな……。
 楽しい経験ってのは、自分以外の誰かに伝えることでより強く、色鮮やかに記憶に残る。
 ほんの少しでいい、オレが君の毎日を彩る手助けができているとしたら。

 これほど嬉しいことって、ないよ、シエン。

「……ふぅ」

 一周したけど、探し人の姿はなかった。いいさ、もとより分の悪い賭けだった。最も完全なスカと言う訳でもなく、一応見覚えのある顔がいるにはいた。
 ひょろりとした黒髪、眼鏡、カーキ色のダウンジャケットの下はワイシャツにネクタイ。へっぴり腰で手すりにしがみつき、よろよろふらふら、カタツムリの這う速度よりゆっくり微速前進。

 やれやれ。どうやら、力いっぱいジョーカーを引いたらしいや。
 まあ、知りあいなんだし。目があっちゃった以上、無視するわけにも行かないか。
 近づいて、手前でざーっとブレーキをかける。減速成功、上手い具合に目標の目の前で停止した。

「やあh。手すりの掃除ですか?」
「見てわかんねーのかバイキング。リンクでする事と言やあ一つだろうがよ!」
「……一応スケート靴ははいてるようですが?」

 むっとしてる。頑張ってるつもりなんだろうな……努力がまるきり反映されてないっぽいけど。

「初めてでそれぐらいできれば、上出来ですよ」
「…………」

 あ、さらにむすーとした顔になった。口をヘの字に曲げちゃってるよ。

「もしかして、二回目……ですか?」
「しょうがねえだろ。初めてスケート靴履いたのが、先週なんだからっ」
「はー、なるほど。二回目ねぇ」
「この間来た時ぁ全員初心者だったんだぜ。それなのに、みんなして俺を置いてきぼりにしやがって!」
「だから練習しに来た、と」
「おお、秘密の特訓だ!」

 これだけ大々的にやってて、秘密も何もないと思うんだけどなあ……。

(あれ、ちょっと待て? 先週はじめて?)

「あの、つかぬ事お聞きしますが、h」
「おう、何だ、バイキング」
「みんなって、ダレ?」

 ぱちぱちとまばたきすると、hはさも当然って口調でつらつら言ってのけた。

「レオンと、オティアとシエン、それからディーン」

 match。

 その四人が一緒だったってことは、もう一人も一緒だったってことだ。
 なるほど……この人は、センパイと、シエンと一緒にスケートに行ったんだ。
 シエンと一緒に。

 シ エ ン と、一 緒 に。

 目の前の男に、目を輝かせてスケートの話をするシエンの顔がダブる。
 オレがこんなにも必死で探し求める相手と、この人は当たり前って顔して毎日一緒に夕飯食べている。しかも、スケートにまで行ったんだ。

(わあ、なんか、面白くないぞ)

「なあ、エリック。教えてくれよ。いったいどーやったらそんなにジャーコジャーコ滑れるんだ!」
「わかりました教えてあげます」

 ぐいっと襟首をひっつかんで手すりから引きはがす。

「ぐえっ、ちょ、ちょっと、待てこれはっ」
「はーい、力抜いてー。手でどこかにつかまってちゃ、いつまでたっても一人で滑れませんよ?」
「う、ふ、わ、わかった」

 さすがに襟首はあんまりだな、と思い直してダウンジャケットのフードをつかむ。

「じゃ、支えてますから。まずはゆーっくり歩くことから始めましょう」
「う、うん。離すなよ? 絶対離すなよっ?」
「はいはい、じゃあまず右……左……あ、基礎はわかってるみたいですね」
「ま、まーな」

 フードをつかんで支えたまま、男二人でくっついて、そろりそろりとまず一周。へっぴり腰だけど、向上心は大したもんだ。
 気迫で体力をカバーしようって姿勢は立派だと思う……ほとんどカバーできてないけど。根本的に体動かすってことになれてないよ、この人は。ほら、もう息が上がってきた。

「大丈夫ですか、h?」
「お、おう……だいじょ……ぶ……」
「そうですか」

 本人が大丈夫って言ってるんだから気を使う道理はない、か。いい大人なんだし。

「それじゃ、そろそろ次のステップに進みましょうか」
「次か?」
「はい」

 フードをつかむ手を離す。

「一人で立ってみてください」
「おっ、と、と、う、うー、うー、うー……」

 hは四苦八苦しながら手をばたつかせていたが、どうにか。だいぶ腰が低いけれど、どうにか自力で立った。

「ど、どーだ。立ったぞ!」
「おみごと」

 ぱちぱちと手を叩く。

「それじゃ、もうちょっと前傾姿勢をとって……」
「こ、こうか?」
「はい、OK。それでは」

 再び襟首をつかんで、一旦後ろに引いて……どーんっと前に突き出した。

「うぎゃああああああああああああああああああああ」

 平日だし。空いてるし。大丈夫だよね。
 晴れ晴れとした気分で遠ざかる背に手を振った。

「習うより慣れるのが一番ですよ、h」
「おっ、覚えてやがれーっっっとととつぉわっ!」

 けっこうな勢いで彼は滑り続け、リンクの反対側の壁にぶつかって止まった。
 いや、正確にはぶつかる前に止まろうと努力はしたらしい。前のめりににつんのめり、膝から順に氷の上に突っ伏して、最終的には熊皮の敷物みたいに長々とのびていた。
 
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 illsutrated by Kasuri 

 びろーんと伸びたきり、動かない。さすがに心配になってそばに滑り寄ってみる。

「……h?」
「…………」

 むくっと起き上がった。ざっと見た限りでは目立った傷はなさそうだ。上手い具合に受け身とってたもんな。

「あー、ちょっと強過ぎましたね、すみません」
「お前、ぜんっぜん悪いと思ってねぇだろ!」
「ははっ」

 そうかも。

「おわびにおごりますよ」
「ったりめーだっ!」
 
 
 ※ ※ ※※
 
 
 特訓の甲斐あって、夕方にはhは一人でどうにか、リンクの外周を一周できるようになった。生まれたての子鹿……と言うにはいささかトウが立ってる足取りではあったけど、かろうじて手すり磨きからは卒業した。大した進歩だ。
 健闘を讃えて約束通り、リンク脇のスタンドでおごった。

「どうぞ」
「……なあエリック。おごってもらって言うのも何だけど……何で、アイス」
「ひと滑りした後は、咽が渇くじゃないですか」
「貴様……俺に何か恨みでもあるのかーっ」

 他意はない。単に自分が食べたいものと同じものをおごっただけだ。ソフトアイス(日本で言うところのソフトクリーム)にチョコレートパウダー、チェリーにマシュマロをトッピングして。

「ちくしょう、バイキングめ………」

 文句言いつつ、がちがち震えながら一心不乱に食べてる。結局好きなんだな、アイス。
 
「美味いな、これ」
「美味いでしょ」
 
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【4-17-2】巨大ミノムシ現る

2010/04/17 17:45 四話十海
 
 部屋に戻って真っ先にしたことは、ぐっしょり濡れた服を上から下までまるっとお取り換えすることだった。まあ上半身はだいぶマシだったんだ、ダウンジャケット着てたおかげで。しかし下は防水対策は皆無。じっとりびっとり足に貼り付き、ひしひしと熱を奪ってくれた。
 乾いた服に着替えた程度じゃ、体の芯まで染み透る寒さはちっとも収まらず、とにかく着るものを探して部屋中ふらふらゾンビのようにさまよい歩く。あったかいもの、あったかいもの、とにかくあったかいもの。

「あー……」

 ぼやけた目でソファの上の鮮やかな縞模様を眺める。あったかさは申し分ない。いまいち機動性に欠けるが、この際だ。これでいいや。
 ぐらぐら揺れる意識をどうにか奮い起こしてデスクの前に座る。さてと、出かけた分は、きっちり進めとかないとな。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
  
「ふーっ!」
 
 飯を食いに上に行ったら、ひと目見るなりオーレに唸られた。
 背中を丸め全身の毛を逆立て、俺をにらんでとっ、とととっと斜め歩き。青い瞳をらんらんに光らせ、全身全霊で叫んでやがる。

『あやしい! あやしい! あやしい!』

 あんまり騒がしいもんだから、オティアが出てきて……固まった。

「何、してる」
「あ"……」

 説明しようとしたら、一瞬のどの奥がくっついて上手く声が出せなかった。

「んが、あががっ、げほっ」

 オーレをかかえてオティアはささっと後ずさり。うんうん、正しい判断だ……。

「どうした、ヒウェル」

 あ。
 まま、来た。
 ……で、やっぱ目ぇ丸くしてぼーぜんとする訳ね。あ、あ、拳握って口んとこに当ててるよ。

「何だ、その格好……」
「ちょっと待て、今説明するから」

 咳き込んだ拍子にゆるんだ縁を、よいしょっと体に巻き付ける。

「……寒かったんだ」
「ああ、それはわかる」
「着替えようにもダウンジャケット、ぐっしょり濡れててさ。セーターも洗ったばっかで、まだ乾いてなくて……」
「で、ブランケットをぐるぐる巻きつけた、と」
「うん」
「自主的に、す巻きになったと」
「うん」
「その格好で、ここまで来たのか」
「だって、寒くてさあ…」

 ずびっと鼻をすする。
 ただいまの俺の服装。とりあえず乾いてるシャツとズボン。動きにくいからってんで置いてったおかげで、無事だったマフラーでのど元をぐるぐる。さらにその上からブランケットをぐるーりぐるりと巻き付けて、はい、できあがり。
 巨大ミノムシ、もしくはブリトーファッションとでも名付けてこの冬流行らせたろか?
 あー、いかんな、いい加減、脳みそ沸いてる……。

 ぼーっとしてたら、べしんと濡れタオルがかぶせられた。

「さんきゅー」

 ずびっと鼻をすすって顔を拭いて(かろうじて眼鏡を外すのを思い出すには間に合った)頭に乗せる。かっかかっかとのぼせていた脳天がしゅわーっと楽になった。

「ふぅ……」
「お前……そもそも、何やらかしたんだ」
「スケートの練習」
「それだけか?」
「それだけだよー。軽〜くすっ転んで、仕上げにアイス食って帰ってきた」

 ああ。ディフとオティアの目線が……冷たい。レオンは明らかに面白がってる。
 ディフが目を三白眼にしてじとーっとねめつけてきた。
 次のひと言、何となく予想がつくような気がする。

「阿呆か!」

 ほらな。

「う、うるへー。最近運動不足だから、ちょーどいいかなって思ったんだよ!」
「運動は大いに喜ばしいことだがな、ヒウェル。お前ただでさえ冷えやすいんだから、もっと防寒に気を使え。体を大事にしろ」
「……うん」
「食欲はあるのか?」
「うん、一応」
「そうか。じゃあ胃腸には来てないんだな……そら」

 背中を押されてぼふんと座らされたのは、暖房がいちばん効く、この部屋で一番あったかい場所だった。

「できたら呼んでやるから。休んでろ」
「うん……さんきゅ」

 ディフがキッチンに戻るのを見計らって、レオンがぽつりと言った。これ以上ないつーくらいににこやかに、ほほ笑みつつ。

「似合うよ、そのファッション」
「どーも」
「金門橋の下に沈めたくなるね」

 ぞぞっと背筋に寒気が走ったのは、熱のせいだけじゃない。
  
 
 ※ ※ ※ ※ 
 
 
 ディフがキッチンに入って行くと、一足先に戻ったオティアが鳥肉を一部とりわけていた。
 本来なら、サリーから教わった『カラアゲ』……日本風フライドチキンにする所だったが、さすがに揚物は食べづらいだろう。オカユさんを作るのには、いささか時間が足りない。
 オティアも概ね同じことを考えたようだ。一人分の鳥肉を一口大に切り分けて小鍋に入れて、固形スープのもとを放り込んでいる。

「オティア」

 振り向いたところに、ぽんっとニンニクを放り投げる。造作もなく左手でキャッチ。いい腕だ。

「そいつも入れてやれ。すり下ろしてな」
「ん」

 こくっとうなずくと、オティアはガラス瓶からトウガラシを大量につかみ出した。
 辛味の基準はヒウェルの基準。これぐらいはお約束。
  
 
 ※ ※ ※ ※ 
 
 
 夕食は、俺の分だけチキンスープだった。ニンニクと赤トウガラシをたっぷり入れた、熱々のピリ辛。

「うめぇ………しみじあったまる……」
「それ食ったらおとなしく寝ろよ」
「うん」
「さんざん苦労したようだけれど、肝心のスケートの成果はどうだったんだい?」
「あー……うん、どうにか……一人で滑れるように、なった」

 一瞬、食卓の上に沈黙が訪れ、みんなして意外そうな表情でこっちを見てきやがった。

「ほんとだって。エリックに教わったんだ!」

 どうにか信用させたいあまり、いらんことまで口走ったと気付いた時にはもう遅い。
 一瞬浮かんだ『まさか!』がぱたぱたと、『あー、納得』に切り替わる。

「たまたま滑りに行ったら、あいつと出くわして、それで、その……」
「よかったね、滑れるようになって」
「う、うん……さんきゅ」
「エリック、スケート得意なんだ」
「ああ、Myシューズも持ってた。かーなーりスパルタでさ……いや、むしろバイキング式か?」
「じいさんに仕込まれたらしいぞ?」
「うえっ、やっぱ直伝かよ!」
「?」
「エリックのじいさんは、デンマーク人なんだ」

 そして、夕食後。精一杯さりげなくオティアに近づき、そっとささやいた。

「スープ、ありがとな。んまかった」
「……」

 こくっとうなずく気配がする。じわーっと胸の奥があったかくなった。
 が。
 ささやかな幸せを噛みしめる暇もなく、無慈悲な判決が下された。

「ヒウェル」
「はい、何でしょう」
「治るまで、出入り禁止」
「うっ」

 よろっと来たとこに、ままが追い討ち。

「オティアとシエン、それにレオンに伝染ったらことだろ?」
「あー、はい、はい、確かにそうですねっ」
「飯は運んでやるから」
「……うん」
 
 ずるずると毛布を引きずり、歩き出したところに背後から、ちりっと迫る鈴の音一つ。あっと思った時には既に遅く、鮮やかなダイブ&キックで床につっぷしていた。

「く……」
「オーレ、容赦ないな」
「弱ってる敵を叩くのは戦略の基本だよ」
「違いない」

 しなやかな足音が顔のすぐそばを通り抜け、仕上げに長いしっぽでびしっと額を叩かれた。

 あー……こんな風に倒れるのは何度めだろう、今日の俺。

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【4-17-3】探し物

2010/04/17 17:46 四話十海
 
 木曜日の夕方、出勤前にスターバックスに立ち寄ってみた。何て幸運。シエンが居た!
 はやる心を押さえて食料と飲み物を買い、半ば雲を踏むような気分で彼の居るテーブルへと歩み寄る。

「Hi,シエン」
「Good evening」
「ここ、いいかな」
「……うん」

 トレイの上には小エビのサンドイッチにヨーグルトにリンゴ、ソイラテのグランデ。シエンが見て首をかしげた。

「それ、夕ご飯?」
「いや朝ご飯。これから出勤なんだ」
「あ、そうか、夜勤なんだ。大変だね」
「うん、大変。だけど困ったことばかりじゃないよ」

 初めてセーブル兄弟の名前を知ったのは、一昨年の十一月。センパイとhが持ち込んできた一つの事件がきっかけだった。

「たまにはいいこともあるからね」

 街角での暴行事件を発端に、発砲、児童保護施設の職員による人身売買斡旋、誘拐、麻薬の製造工場と違法武器の販売網の摘発。あれよあれよと言う間に事態は雪だるまみたいに膨れ上り、最後はFBIまで関わる大事件に発展した。
 hときたら、事情聴取にかこつけて捜査に強引に首をつっこみやりたい放題、し放題。全てはシエンを(その時はオティアと入れ替わっていたなんて知らなかった)探すため。しまいにゃほとんど自分で仕切ってた。
 いつ、主任にばれるかと冷や冷やしたけれど……
 この双子の一件に関しては、巻き込んでくれて感謝してる。

(オレのささやかな苦労が君の救出につながった。おかげで今、こうして一緒に居られる)

「……そう、たまには、ね」
「ふうん?」

 上機嫌でサンドイッチをほお張り、ラテを流し込む。

「今日はハチミツ、入れないの?」
「うん、ヨーグルトが甘いから」
「プレーンじゃなかったんだ……」
「今日のはバニラブルーベリー。君はプレーンの方が好き?」
「そうだね。家はいつもプレーンだし」
「そっか」
「エリックっていつも、何かしら乳製品食べてる?」
「あー、そうかも、とりあえずこれ食ってれば栄養確保できるし……あれ、ソイミルクって乳製品かな」
「んー、植物性?」

 ほんと、他愛の無いことしゃべってるなあ。次、いつ会えるかわからないのに、何してんだろ、俺?
 ああ、でも。
 君と共有できる空気がすごく、心地よい。
 いつまでも、この距離を保っていたい気もする。だけどその反面、わかってもいるんだ。このままでは、決して自分の望む位置に行き着くことはできない。君がいつか、誰かの手を取る瞬間を黙って見てなくちゃいけないって。
 笑顔で見送り、それで終ってしまう。
 そんなのは、嫌だ。

 ああ、もうじき最後の一口を飲み終わってしまう。
 シエン。
 もっと君の近くに行きたい。
 そのことを知っても君は、オレを拒まずにいてくれるだろうか。男としての生々しい好意を知ってもなお。
 正直、怖いよ。
 一緒にいる時間が長くなればなるほど、見守るだけで終らないって、自分でわかってるから。今日は、その日は来ない。だけど必ず、訪れる。次に会う時だろうか。それとも一週間先、一ヶ月先か。運命のダイスは気まぐれだ。いつ当たり目が来るかはわからない。

 空気が動く。
 ドアが開いてまた新しいお客が店に入って来た。幾度となく繰り返されてきた動きだけれど、今回はシエンの反応が違った。
 それとなく目を向けると、同じくらいの年ごろの男の子が二人入ってきた。店内を見回し、こっちに目を向け、手を振った……シエンに向かって。シエンもうなずく。知り合いらしい。
 不審そうにオレを見てる。茶色い髪の子なんか、あからさまに『うぇー』って顔してる。オトナを煙たがる種類の子だ。おそらくオレが警官だと知れば、敬遠するだろう。

「そろそろ行かないと……それじゃ、シエン、またね」
「ん」
 
 
 ※ ※ ※ ※


 店の中に入ってすぐ、ビリーはシエンを見つけた。だけど彼は一人ではなかった。

(誰だ? 絡まれてるのか?)

 一瞬、顔が強ばる。だが、改めてよく見ると、相手の男は背は高いものの、のほほんとしたお気楽そうな奴で……目を細めてにこにこしている。どことなく浮世ばなれしていて、見たところ暇な大学生ってところだろうか。
 どうする。大人よりはマシだが、面倒くさいな。
 顔をしかめて見ていると、上手い具合にちょうど帰る所だったらしい。二言三言話してからトレイを持って立ち上がり、こっちに向かって歩いてきた。

「………」

 脇によって道を開ける。すれ違った時、かすかに薬品のにおいがした。こぼしたとか付けたのではなく、日常的に服や髪の毛にまとわりつくにおい。何度か嗅いだことがある。

(理系……医学生……か?)

 そう言えば着てるものもどことなく白衣っぽい。
 のっぽの医学生は、さほどこちらを気にする風もなく(ありがたいことに!)すたすたと歩いて店を出ていった。外に出る直前、ポケットから携帯をひっぱり出して耳に当てていた。
 ちらっとEで始まる名前が聞こえた、ような気がした。

「よ、シエン。知りあいか?」
「うん、ちょっとね」
「あ、俺コーヒー買ってくる」
「おう」

 ポケットに両手を突っ込んだまま、ユージーンがふらっとカウンターに歩いてゆく間、自分はシエンの向かいに腰を降ろした。

「このごろあんまし顔見せねーな。家、厳しいのか」
「そう言う訳じゃないけど、何となく……ままが風邪ひいて、寝込んだりしたし」
「そっか」

 正直、こいつに会えてほっとした。
 シエンのいない間もユージーンやその他の『友だち』と顔を合わせて適当に遊んでいた。時には知り合いの知り合い、あるいはまったくの初対面の奴までくわわり、けっこうなグループになることもあった。
 気が向けばアドレスも交換するけれど、名前もロクに覚えてない。一時、一緒にいて適当に遊べばそれでおしまい。
『またな』と言って別れるけれど、また会うとは欠片ほども期待はしていない。

 第一、会った時に同じ相手だって見分けられるかもわからない。

 そこそこに楽しい。時間もつぶせる……だけど、それだけだ。

「よ、おまっとさん」

 ふわっとコーヒーの香りに我に返る。

「行くか」
「うん」

 三人で並んで歩き出した。

「今日はどこ行く。久しぶりにカラオケ行くか? 新しい曲入ってるぞ!」

(何だろう。俺、今日、すごくはしゃいでる)

 顔がわかる。名前がわかる。今より前に共有してきた時間がある。そんな三人でいる温かさを経験した後では、二人は妙に寂しかった。つまらなかった。
 一人ぼっちはなおさらに。
 刻一刻と街は暗がりに包まれ、まぶしいネオンが輝き始める。
 一件の店の前を通り過ぎる瞬間、ちょうど明かりが消えた。暗がりを背に、ガラス窓に顔が写る。まったくの不意打ちだった。

(あ)

 楽しい話をしている真っ最中のはずなのに、妙に乾いて、くたびれて……空っぽだった。

「どうしたん、ビリー?」
「い、いや、何でもねえっ! あー、俺も何か買ってくりゃよかったなーっ。ユージーン、コーヒーひとくちくれよっ!」
「これブラックだぞ」
「げ、いらねっ」
「そこのデリで何か買ってこう?」
「そうだなっ」

(俺はほんとは、どこに行きたいんだろう?)


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【4-17-4】二日後に時間差で

2010/04/17 17:47 四話十海
 
 ニンニクをたっぷり効かせた、真っ赤な熱いチキンスープ。翌日の朝も鍋に入った奴を二食分、ディフが届けてくれた。
 ありがたくいただき、ぐっすり眠った。お陰で二日後には熱も鼻水もすっきりクリア、空になった鍋をきれいに洗って(俺基準で)返しに行くことができるまでに回復した。だが、その頃にはまた別の刺客が忍び寄っていたのだった。ひっそりと、音も無く。
 
「よ………スープありがとな」
「……どうしたヒウェル。まだどっか具合悪いのか?」
「ちょっと、な……」

 ふくらはぎ、太もも、そして何故か腰から背中にかけてびっしりと、トゲの生えた見えない針金が絡みつき、一歩あるくごとにギシギシ、みしみし軋む、痛む。
 自分では滑らかに動いてるつもりなんだが、どう頑張っても結果は「スリラー」みたいな動きになっちまう。 

「筋肉痛、か」
「……実は」
「今ごろ?」
「悪かったな!」
「お前……二十代でそれは……」
「皆まで言うな」

 くいっとディフは右手の親指でソファを示した。

「そこに横になれ」
「へ? いや、そこまで酷くないし」
「マッサージしてやる。ちょっとは楽になるだろ」

 ぞわぁっと背筋が凍りつく。ちら、と視線を横に走らせると……レオンがほほ笑んでいた。そりゃもうこれ以上ないつーくらいに美しい笑顔で。

「い、いや、いい! 大丈夫! 明日、マッサージの体験取材に行くことになってるし!」
「……そうか。今夜はじっくり風呂に入ってあっためろよ?」
「うん、ありがとなっ」

 怖い。
 すぐそこで、笑顔全開でこっち見てるレオンが……怖い。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 次の日、ジョーイから指定された店に行く。ユニオン・スクエアの小さな気持ちのいい店で、買い物のついでとか。昼休みや会社の行き帰りにふらっと入れそうなヒーリング・サロン。ゆるーっとした音楽とほんのりと良い香りの混じる空気、調整された柔らかな照明に包まれて、肌触りのいい椅子に座る。
 靴と靴下を脱ぎ、ほっそりした女性の手で足を念入りにオイルでマッサージされ……

 木の棒で、ぐりん! と足の裏を突かれた。

 ずぎゅうんっと、衝撃が背骨を駆け抜ける。目の奥でちかっと光の粒がまたたき、体中の毛穴が縮み上がる。
 むず痒い、痛い、くすぐったい、いや、やっぱり痛い!

「おああああっ」

 ひじ掛けをつかんでのたうっていると、施術士さんがさらっと聞いてきた。

「あ、痛いですか?」
「す、少し」
「じゃ、指でやりましょう」
「お、お願いします」

 地獄と煉獄の違いぐらいしかなかった。突き方も、突く場所も変わらない以上、やっぱりどうやっても痛いもんは痛い。
 しかも、痛いつってもこの人全然気にしねえし!

「痛いのは承知の上、遠慮なく全力でやってください、とうかがっておりますので!」

 ちくしょう、ジョーイめ。だから社内に希望者誰も居なかったんだな。気付いたところで後の祭り。

「体中ぼろぼろですねー。ここ、肝臓のツボ」
「あだだだ」
「胃」
「ほあだだだだだ!」
「目!」
「!!!!!!!!」

 もはや声にならない。

「パソコン使う方ってお仕事柄、ここが弱い方が多いんですよね。あとこことか」
「っっっ」
 
 ありとあらゆるツボを一通り体験させていただいて、終ったころにはいい具合にぼろぼろのよれんよれん。
 っかしいなあ。俺、健康になりたかったはずなのに……。
 お土産にハーブティーとお香とアロマオイルをいただき、礼を言って店を出る。

「お?」

 歩き出してみたら、足が軽かった。ギクシャク、よろよろのスリラー状態がかなり改善されている!

「そっか、痛いけどきいてるんだ……」

 渡された「足ツボの図」を取り出して見ながら歩く。悪いところに丸印をつけてくれたんだが、ほぼ全面埋まってるように見えるのは気のせいか。
 前を見ないで歩いていたせいか、どんっと誰かにぶつかった。

「っと、失礼」
「いや、こっちこそ」

 あれ、聞き覚えのある声だな。
 顔をあげると、褐色の髪にターコイズブルーの瞳の青年が、気まずそうに手にした携帯を閉じた所。

「テリーじゃねぇか。何やってんだ、こんなとこで」
「人、探してるんだ」
「おいおい、穏やかじゃないな。男か? 女か?」
「男。つーかBoy」
「ほう?」

 そいつはますます穏やかじゃない。ぴくっと厄介事のアンテナが反応してる。テリーはこっちを見て、何か言いかけたんだがそれより早く、ぐうーっと腹が鳴った。

「……ここで会ったんも何かの縁だ。飯おごるよ」
「さんきゅ」

 と言ってもこっちも取材の帰りだし。向こうもそわそわしていたんで道路脇のホットドッグスタンドで合意した。
 フライドオニオン、マスタード、ケチャップ。たっぷりかけた熱々のをほお張る。

「ん……んまい」
「もしかして、これが今日始めての食事、か?」
「いや、そうって訳じゃないんだけど。言われてみりゃ朝も昼もあんましっかり食ってなかったかな」
「そう……か」

 よほど大事な相手を探してるらしい。さりげなく話を向けてみる。

「探してるって、誰?」
「弟」
「年は?」
「十七」
「そいつぁ難しい」
「だろ? お袋が心配してる」
「いい息子だな」
「育ててもらった恩がある」
「月500ドルの、政府からの報酬とは別に?」
「………」

 口の動きが止まり、微妙にテリーの表情が強ばった。
 伺ってるな。
 ……いいだろう。この機会に今までお互いに何となく感じ取ってきた『共通点』を、そろそろ表にしとくか。お互いに。

「うちは、俺一人だけだったんだ。だから兄弟はいない。気難しい子だったし、親は火事で死んじまって、他に身内もいなかったから」
「……だいたい似たようなもんだな。うちは、事故で二親とも」
「そうか」

 こいつにしちゃ珍しく歯切れの悪い口調だ、言葉の端をあいまいに濁している。まあ、あまり詳しく思い出したい話でもないだろうし、な。
 いずれにせよ……
 引き取られるあてのない子どもが、一つの里親の家に落ち着いていられる。これがどれほど幸運な出来事なのか、よく知っているのは分かった。お互い、言葉にするまでもなく。

「十七か。ちょうど意地張ってる頃あいだな」
「うん。意地張って、帰ってこない。けっこう育ってから家に来たから、余計に」
「だからお前さんが探してるのか」
「まあな。一緒に世話になってた奴の中には……ふらっと出てって、そのまま帰ってこなかった奴もいるし」

 低い声で言うと、テリーは無造作にホットドッグを噛み千切った。頬に飛んだケチャップと脂をぐいっと手の甲でぬぐい、がつがつ噛んで、ごくっと飲み下す。
 その間、俺はと言うと黙って見守っていた。自分の分を、もそもそ噛みながら。

「俺は、あいつみたいに親に殴られてた訳じゃない。そういう意味では、本当に理解してやれないのかも……」

 しばらくの間、俺たちはホットドッグを食うことに専念した。

 わかってほしい。だけど「気持ちはわかる」なんて言われたらまず反発する。乾いてギザギザの気持ちのまっただ中。生のタマネギよりもツンツン尖って突っ張って、口に咽に、目に突き刺さる。

 最後の一口を飲み込んでから、もう一つ食うかと聞いてみた。

「もらう……いや、やっぱ、パンはいいや。ソーセージだけ」
「OK」

 二つ目は、俺はコーヒーだけ付き合うことにした。

「テリー」
「ん?」
「……ついてる」

 さし出したペーパーナプキンでごしごしと口の周りをぬぐってる。

「いや、そこじゃない。ここ」
「マジか、そんなとこまで? 参ったなぁ……」
「なあ、テリー」
「まだついてるのか?」
「少なくとも、親よりは近い位置にいる」

 そして、同じ里子だ。里親との微妙な距離感も体験している。

「……わからないんだ」
「何が?」
「あいつを見つけた時、何て言えばいいのか。まだ、わからない……」
「お兄ちゃんが迎えに来てくれた方が、その子もきっと……ちょっとだけ、意地張らずにすむさ」
「そっかな」
「俺だったら、そう思う」
「……」
「弟の名前、何てんだ?」

 ぽかん、としたコマドリの卵色の瞳に向かい、ぱちっとウィンクしてやった。

「こう見えてもそれなりに顔は広いんだ。手伝える事、あるかも知れないぜ?」
「ビリー。これ、写真……」
「気を付けてみるよ。見つけたら、君に連絡する」
「ああ。サンキュ、ヒウェル!」
 
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【4-17-5】真昼のコーヒーブレイク

2010/04/17 17:48 四話十海
 
 その日、マクラウド探偵事務所の所長はデスクワークに忙殺されていた。
 午前中の業務を終えると有能少年助手が湯を沸かす。マグに注いだ紅茶を二人分用意したら、お次は猫の番だ。
 ドライフードと缶詰め、新鮮な水をセットすると、待ちかねたように白い猫がすりより、皿に鼻を突っ込む。
 カリカリとフードをかじる軽やかな音をBGMに、ディフとオティアはそろって中央のテーブルに座り、弁当を開けた。
 今ごろはシエンとレオンも上の事務所で同じものを開けているだろう。
 
 本日の献立はブリトー(burrito)。小麦で焼いた皮(トルティーヤ)でくるっとおかずを巻いた、サンフランシスコ風の軽食だ。サリーに言わせると「巻きずしとお好み焼きの合体したサンドイッチ風」の食べ物らしい。
 小振りなのをオティアとシエン二本ずつ、ディフとレオンは三本ずつ。
 濃いめに味付けしたライスに昨夜の残りのチリ、茹でたインゲンマメに揚げたジャガイモと細切りキャベツをぎっしり巻きこんだのはディフが作った分。春雨やキュウリ、アルファルフアに茹でたササミとアボカドを巻き込んだ細目のは、シエンが巻いた分。
 形を作るのに、以前サリーからもらった寿司を巻く道具を使ったらきれいに巻けた。

 始めて作った時、レオンはあきらかに戸惑っていた。ディフが作るまでは食べたことなんかなかったし、食べ物をまるごとかじるのに抵抗があったからだ。
 以来、大きいのを一本どん! ではなく小振りのを二本、ローゼンベルク家のキッチンではそれが定番になっている。

 弁当を食べ終ると、オティアは自分の分のカップを流しに運び、洗って片づけて。それから携帯と財布をポケットに収めると、所長を振り返った。

「コーヒー飲んでくる」
「ん、行ってこい」

 チリン。
 鈴を鳴らしてオーレが飛んでくる。

『おでかけ、おでかけ、あたしも一緒なんでしょ?』
「……ごめんな」 

 オティアは小さな白い猫を抱き上げると、ディフに渡した。

「気をつけてな」
「みゃーっっ」

 ピンクの口をかぱっと開けるオーレを撫でると、くるっときびすを返し、事務所を出た。甲高い猫の声に、後ろ髪を引かれる思いで廊下を歩く。早足で歩く。
 ちょうど降りてきたエレベーターに乗り込むと、シエンが居た。いや、居るとわかっていたからこのタイミングで出てきたのだ。シエンもそのことは知っている。

 エレベーターが一階に着いた。二人はひと言も話さず、視線を合わせることもなくビルから出て、同時に手袋をはめた。オティアは青、シエンはピスタチオグリーン。すたすたと歩いて行き、何の打ち合わせもしないまま、緑色の丸い看板の下でひょいと曲ってドアをくぐった。

 コーヒーの香る空気の中。
 そこに、エリックが居た。


(レッドホットチキンスープ/了)

【4-18】苦いコーヒーに続く

うわさのヒウェ子

2010/04/17 17:55 短編十海
 
  • 拍手お礼用短編の再録。実は★★★夜に奏でると同じ日の夕食時の出来事でした。
  • 女装して一番アレなのは誰だろう? と言う話題から月梨さんが描いちゃったイラストに調子に乗ってテキストをつけて出来上がったお話。
  • タイトルの元ネタがわかった方は、おそらく同世代。
 
 土曜日は少し早めに上に行くことにしている。
 夕食の時間が早いからだ。加えていつもより凝った献立が出ることが多い。デザートにも気合いが入ってる。いかにも週末! って感じで年がいもなくウキウキしちまう。
 第一、これくらいのメリハリがないと、つい忘れちまうものな。締め切りまでの残り日数以外の日にちの数え方ってものを。

「腹減った。今日の飯なに?」
「まだ少しかかるよ」
「さいですか……それじゃ」

 どっかとリビングのソファに腰を降ろす。携帯を出すか、新聞をめくるか、さてどっちにしよう。
 すると。珍しいことにレオンが雑誌を一冊テーブルに載せ、すっと指先でこっちに押しやってきた。

「お、ありがとうございます」

 ごく自然に手にとり、ぺらりと開いて……硬直した。

「こ、これは………」
「ああ、うん。雑誌の整理をしていて見つけたんだ。懐かしいだろ?」

 懐かしい?
 冗談じゃないよ! 目に入るたび、この雑誌はことごとくこの世から抹殺してきたと言うにーっ!
 俺は本来写す側の人間だ。滅多に自ら被写体になることはない。だがたまには例外もある。その中で最も記憶に留めたくないケースがこれだ。

「……何固まってるんだ」

 もわっと美味そうなにおいが漂ってきたと思ったら、さっと背後からがっしりした手が雑誌を奪い取ってしまった。

「ああっ」

 100410_0201~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 
 ディフはまじまじととあるページ(折り目つけてたのは誰だ! いや、聞くまでもない)を凝視して。

「……ぷっ」

 盛大に噴き出しやがった。

「……ぷっ、ぶわははははっ、何だこれは!」
「あーあー、もーいっそ爆笑してくれた方がすっきりすらぁ!」

 何てこったい聖ウィニフレッド様(ウェールズの守護聖人)。爆笑を聞きつけ、双子まで出てきちまった!
 涙を流して豪快に笑いこけるディフを見て首をかしげてる。
 やがてシエンがひょいと手元をのぞきこみ………………硬直した。

「これ………ヒウェル、だよ、ね?」
「ちっ、ちがうんだっ、これは、趣味とかそう言うんじゃなくてっ、仕事! 仕事なんだよっ」

 ばばっとディフの手から雑誌を奪い取り、別のページを開く。そこには身長2m近い、岩を刻んだようなアフリカ系の美女(?)がオレンジのサマードレスを着て仁王立ち。当日、「スコーピオン・クイーン」の伝説を打ち立てた写真が見開きで掲載されていた。

「ほら、俺だけじゃない!」
「わっ、レイモンド!」
「うん……そう、レイ………」

 何かただならぬ気配を感じたのだろう。ぽとっと、オーレの口からエビのぬいぐるみが落ちた。
 そして飼い主は………絶対零度のまなざしでこっちを見てる。

「言い訳じゃなくて、本当に仕事なんだってば! 一昨年の四月一日に、ジョーイとトリッシュの勤めてる雑誌社で男女逆転デイってイベントがあってだね!」

 男女逆転デイ。
 読んで字のごとく、男女逆の扮装をして一日すごす。小学校や幼稚園で、社会勉強と余興を兼ねて行うイベントだ。
 男の子と女の子の違いや共通点を体で覚え、相互理解を深めようってことらしんだが……子どもの時はもっぱらはしゃいでた。
 で、成長とともに余興の割合が増えて行き、そのうち自主的にやり始めるようになる訳だ……ハロウィンとか文化祭、あるいは寮のパーティーの馬鹿騒ぎとして。

 さらに、いい年こいた大人がやらかすと……金にあかせてこり出す分、悪ノリ度に拍車がかかってすんごいことになる。
 うっかりその日が四月一日ってことを忘れ、わざわざ徹夜明けに原稿と写真を届けに行ったのがそもそものまちがいだった。
 徹夜明けでぼーっとした俺の襟首を、ジョーイがむんずとつかまえ、女性陣に売り渡してくれやがった。

「ウィッグはいらないわよね」
「そーね。十分長いもの。まーこの髪! 無駄にツヤツヤしちゃってにくったらしい」
「せっかくだからリボンもつけちゃえ」
「体が細いからタイトなデザインは似あいそうにないわね。ニットにしましょ!」
「何、あんたスネ毛ないの? 卑怯だわ!」
「まーお肌かさかさじゃないの。それにこのクマ! パックしときましょ」

 あれよあれよと言う間に着替えさせられ、パックにクリーム、化粧までされて。
 はっと気付くと写真を撮られていた。隣にいる巨大なスコーピオン・クイーンがレイモンドだと気付くまでにしばらくかかった。

 一ヶ月後、束で届けられた見本誌はことごとく抹殺した、はずだった。
 レイモンド経由でレオンの事務所にも行ってたのか………! いや、予想すべきだった。

「……あ、もしかして、このお下げの女の人は、ジョーイ?」
「うん。それ、ヅラ」
「こっちの、スーツ着てんのはトリッシュか」
「そ」
「で、これは……………」
「ええい、しみじみ見るなーっ!」

 シエンは小さな声でぽつりと

「…………………すごいね」とつぶやいた。
「うん、すごいだろ」

 ちりん、と鈴が鳴る。オティアが床にかがみこんでエビのぬいぐるみを拾ってる所だった。目があうと、肩をすくめてふ、と軽くため息をついた。
 
 ※ ※ ※ ※
  
 オティアは思った。
 仕事なら、しかたない。周りの男性陣に比べれば、穏やかと言うか、マシなレベル……と言えなくもない。目もうつろだし、あいつの言う通り、ぼーっとしてるうちに否応なしに女装させられたのだろう。
 気の毒………いや、同情する必要もないか。

 そもそも、その仕事からして好きでやってるんだから。

「で、こっちが去年の分」
「レオンーっ!」

 100410_0205~01.JPG
 illustrated by Kasuri

 前言撤回。

(だめだ、こいつは)

 ぷいっとそっぽを向くと、オティアはすたすたとキッチンへと向かった。ちらとも振り返らず、まっすぐに。
 
 
(うわさのヒウェ子/了)

【ex10】水の向こうは空の色(前編)

2010/04/25 16:23 番外十海
attention!
こちらの作品は2010年に書かれたものです。
事件のモチーフに一部、1989年にサンフランシスコで起きたロマ・プリータ地震を取りあげています。
お読みの際にはその旨あらかじめご了承ください。
  • 番外編。夢守りの狩人たち、再び。ランドールとヨーコ、互いに離れ難い絆を感じながらもサンフランシスコ空港で別れた二人もまた……。
  • 大切な人が手をすり抜けて行く。沈んでしまった。二度と戻らない。暗い水のほとりに座り、鳴き叫ぶ……
  • 不吉な夢は夢魔の蠢く前触れ。日本とサンフランシスコ、遠く離れた二つの土地で狩人たちは動き出す。目的は一つ。「夢魔を狩り、人を救え」
  • 今回は番外編中の番外編、【ex8】桑港悪夢狩り紀行【ex5】熱い閉ざされた箱と同じ背景世界に基づくお話で、いつもの『食卓』の世界観とは少しだけ、別の世界にシフトしています。
  • 書いてる人間が変わらないので基本は同じ流れなのですが、ほとんどスピンオフ作品と言っていいかもしれません。
  • 海外ドラマで言うと、「CSI」や「フルハウス」よりはむしろ「デッドゾーン」寄りです。

【ex10-0】登場人物

2010/04/25 16:24 番外十海
 
 sally02.jpg
【結城朔也】
 アメリカでの愛称はサリー。
 サンフランシスコに留学中の23歳、癒し系獣医。
 従姉の羊子とは母親同士が双子の姉妹で顔立ちがよく似ている。
 巫女さん姿がよく似合う。
 
 yoko.jpg
【結城羊子】
 通称ヨーコ、サクヤの従姉。26歳。
 小動物系女教師、期間限定で巫女さんもやります。
 高校時代、サンフランシスコに留学していた。
 現在は日本で高校教師をしているが、うっかりすると生徒に間違われる。
 NGワードは「ちっちゃくてつるぺた」「メリィちゃん」
 
 cal.jpg
【カルヴィン・ランドールJr】
 純情系青年社長。ハンサムでゲイでお金持ち。
 サンフランシスコ在住の33歳、通称カル。
 骨の髄からとことん紳士。全ての女性は彼にとって敬うべき「レディ」。
 風見とは海と世代を越えたメル友同士。
 狼とコウモリに変身し、吸血鬼を彷彿とさせるドリームイメージ(夢の中の分身)を持つ。
 
 kazami.jpg
【風見光一】
 目元涼やか若様系高校生。羊子の教え子でサクヤの後輩。17歳。
 家が剣道場をやっている。自身も剣術をたしなみ、幼い頃から祖父に鍛えられた。
 幼なじみのロイとは祖父同士が親友で、現在は同級生。
 剣を携えた若武者のドリームイメージを有す。
 律義で一途でちょっぴり天然。
 
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【ロイ・アーバンシュタイン】
 はにかみ暴走系留学生。風見の幼なじみで親友、17歳。
 金髪に青い目のアメリカ人、箸を使いこなし時代劇と歴史に精通した日本通。
 祖父は映画俳優で親日家、小さい頃に風見家にステイしていたことがある。
 現在は日本に留学中。いろいろまちがった方向に迷走中。
 ニンジャのドリームイメージを持ち、密かに風見を仕えるべき『主』と決めている。
 兄弟子とか、先輩とかいろいろ気になる人が出てきて落ち着かない今日この頃。 
 
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【三上蓮】
 ちょっぴり腹黒い糸目のお兄さん。
 本職は神父だが現在、結城神社に潜伏中。浅葱の袴の神官姿も板についてきた。
 天涯孤独で教会で育てられた過去を持つ。
 29歳、大柄で意外に鍛えている。
 風見の祖父より剣術の手ほどきを受け、兄弟子にあたる。
 羊子、サクヤとは学生時代から面識あり。
 発火能力の持ち主なだけに火種をまくのが得意。
 発火能力の持ち主なだけに激辛料理を好む。
 
 telly.jpg
【テリオス・ノースウッド】
 通称テリー。熱血系おにいちゃん。
 栗色の髪にターコイズブルーの瞳。
 獣医学部の大学院生、専門はイヌ科。
 サリーの大学の友人だが周りからは彼氏と思われているらしい。
 基本的に面倒見が良く、女の子に甘い。
 社長がサリーに手を出そうとしている、と誤解して絶賛警戒中。
 
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【ex10-1】かすかに、彼方に

2010/04/25 16:30 番外十海
 
 何の夢を見たんだろう。

 覚えているのは喪失の痛み。しっかり握っていたはずの大事な人の手が、するりと抜け落ち、沈んでゆく。
 止められない。

 確かに手の中にあった存在が、今はどこにもいない。
 何もできず、ひざまずいてのぞきこむ……底知れぬ暗い水の向こうを。いくら目をこらしても、あの人の姿は影も形もない。声を枯らして叫んでも返事は無い。こだますら返らない。

 ただ、暗く淀んだ水が揺れているだけ。

「う……」

 重苦しさに耐えかねて目を開ける。薄暗い部屋の中、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
 ああ、ここは居間だ。ソファの上で寝てしまったのか。

「んがぁ………ごご……」

 床の上でいびきをかいてる奴がいる。こんなことをやらかす相手は一人しかいないし、声も音も聞き覚えがありすぎる。
 大学の寮に住んでいた四年間、聞き続けていたのだから当然だ。
 チャールズ・デントンは昨夜蹴落とした姿勢のまま、床の上に仰向けにひっくり返って爆睡していた。酔った揚げ句に脱いだシャツとセーターはかろうじて、自分がかけた位置にある。

 ずきん、とこめかみの内側で鉛玉が転がる。まだ酒が残っているようだ。
 あの後、一人で飲み続けたのが敗因か……それとも、飲み慣れない外国の酒をあおった為か。口当たりのよさについ、二人で一瓶、空にしてしまった。その後、勢いに任せていったい何本あけたのやら。

 床に転がる瓶の間をよろめく足取りで通り抜け、窓際に立つ。 
 カーテンを開けるなり、白い冬の光が目を射た。まぶたの裏側がちくちくと痛い。

 目を細めて、遠くに霞む海を眺めた。

『ゴールンデンゲートブリッジ公園に行きたいな……』

 いまだにはっきりと動かない頭の中でくるりと、伏せられていたカードが表に返った。
 クリスマスが終り、彼女たちは帰ってしまった。だから、こんなにも寂しいのだ。

「っ!」

 無意識に拳を握った。
 寂しさが呼び水となったのか。不意にぐうっと鉛色の海面がせり上がり、真っ二つに割れた。
 不吉な夢の名残をしたたらせ、真っ黒な塊が浮上する。
 手のひらをすり抜けていったのは………彼女ではないのか?

『君を抱きしめる腕を、私は無くしてしまったのかな』
『無くしちゃったの?』

 あの時返されたのは問いかけと、すがりつく切なる願い。確たる証を得られぬまま、自分は彼女を送りだした。

 大切な存在が指の間をすりぬけて、暗い水底に沈んでゆく。どんなに手を伸ばしても、もう届かない。

 じりじりと真っ赤な熾き火が胸を焼く。焼かれた後はぽっかりと、色さえ無くした穴になる。
 声が、聞きたい。顔が見たい。携帯の画面の中の小さな画像なんかじゃない、生きて、動いている君に会いたい。

 会って、確かめたい。確かめずにはいられない。それ以外に、止める術はない。今、この瞬間、胸の中にじわじわと広がる焦りと空しさを。

『君を抱きしめる腕を、私は……』

(こんなによれよれになっている私を見たら、きっと呆れるだろうな)

 叱られるかもしれない。
 それでもいい。むしろ、そうしてほしいくらいだ……。
 会いたい人との間には茫々たる海原が横たわり、刻む時間にすら9時間の隔たりがある。自分はやっと起きたばかりなのに、彼女はもう明日の向こう側にいるのだ。
 乾いた唇が動き、かすれた音がこぼれ落ちる。

「ヨ………コ……」

 今すぐに会いたいのに。
 君は、あまりに遠い。

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【ex10-2】遥かなる青い瞳よ

2010/04/25 16:31 番外十海
 
 何の夢を見たんだろう。
 
 実体のない水をくぐり抜け、ゆるゆると浮かび上がる。身を包む灰色が薄れ、白い光に変わって行く。
 意識を取り戻した瞬間、胸からのどにかけて苦い痛みが走り抜けた。出発点は、あるべきものがえぐり取られたようにぽっかり開いたうつろな穴。
 いったいどれほどの間、自分はあの人と共に過ごしたのだろう……物理的な法則に従い、物質で構成されたこの確固たる現のただ中で。
 数えればわずか1週間にも満たない。それなのに。

 彼がそばに居ないことが今、何よりも寂しい。

「……っ」

 身に付けたものをむしり取り、浴室にかけこんだ。
 すりガラスの窓を開け放ち、朝の光を全身に浴びた。
 冷気がぴりぴりと肌を刺し、皮膚の表面に細かい粒が浮かぶ。なだらかな傾斜を描く隆起の中央にぷちっと、鋭敏な感覚が凝り固まった。
 蛇口をひねり、勢い良くシャワーを浴びる。

 水音に紛れ、知らぬ間に彼の名をつぶやいていた。わずか二つの音節で構成される短い名の中に、十や二十では及びもつかぬ。百でも千でもまだ足りぬ、万感の想いをこめて。

「カル………」

 今すぐ声が聞きたい。顔が見たい。サファイアよりも青い瞳を見上げて、波打つ柔らかな黒髪に触れたい。
 わかってる。あの懐かしい坂の街は、はるか海の向こう側。
 あなたは、あまりに遠い。

(だけど)

 彼は、生きている。
 窓越しに空を見上げた。ただでさえ小さな浴室の窓と生け垣に切り取られた、ちっぽけな青空を。
 彼は生きている。遠いかすかな夢の中ではなく、今自分が見上げているのと同じ空の下で。
 左の胸に手のひらを重ね、とくとくと脈打つ心臓を包み込む。

(進め、進め、前に進め。喪失の痛みに、追いつかれぬよう……)

 風呂から上がると、携帯の着信ライトが点滅していた。つ、と手にとり開く。メールが一通届いていた。差出人は風見光一、高校の教え子だ。

(何かあったか?)

 昨夜のあの幽かな夢は、ひょっとして……夢魔の蠢く予兆ではないのか。
 口を引き結び、背筋を正してメールを開くと。

『今日はお弁当持たずに学校に来てください。久しぶりに外でお昼ご飯食べましょう!(^_^)』

「なぁんだ……」 

 ほにゃっと顔がゆるんだ。今日は土曜日、学校は午前中で終る。いつもなら昼食をとり、そのまま『部活』(と称した訓練)に入る所なのだが。
 
「いいでしょう……」

 くすくす笑いながら、羊子は携帯を置き、はらりと体に巻いたバスタオルを取り去った。
 ラーメンぐらいなら、おごってやろっかな。クリスマスから正月にかけて、あの子らすごーくがんばったものな。
 
「……うん。餃子もつけちゃうぞ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「それじゃ、みんな、気をつけて帰れよ。また来週!」
 
 そして、放課後。
 てきぱきと帰り支度を整えて校門に向かうと、既に風見光一とロイ・アーバンシュタインが待っていた。

「よっ、お待たせ」

 すちゃっと片手をあげて駆け寄った。

「お待ちしてまシタ」
「何食う? 昇竜軒のラーメンか? それともファミレス? ハンバーガー? お好み焼き?」
「あー、それが、ちょっと遠出しようかと思いまして……」
「へ?」 
「よきお店を見つけたのデ、是非、ヨーコ先生をお連れいたしたく!」
「はぁ……」

 これはちょっぴり予想外。いい店見つけたから、お連れする、だなんて。

「まるでデートだな」
「What's?」
「えっ、いや、俺はそんなつもりじゃなくてっ」
「わーってるって!」

 ころころと笑いながら羊子はんしょっと伸び上がり、ばしばしと教え子どもの背中を叩いた。

「じゃ、行こうか!」

 駅まで徒歩で15分。さらに私鉄で2駅下り、降り立ったのは通い慣れた綾河岸の駅。
 羊子とサクヤの実家であり、風見とロイがバイトをしている結城神社のある街だ。

「どこに行くのかと思ったらまあ……。まさかうちの神社で昼飯いただこうってんじゃあるまいね?」
「いえ、チガイマス!」
「こちらにどうぞ」

 導かれるまま駅の北口に降り、舗装された道を歩きだす。その一角はかつては森林公園とは名ばかりの雑木林がうっそうと生い茂り、濁ったドブ川の流れるうら寂しい場所だった。
 が。
 今やかつてのドブ川は美しいせせらぎに姿を変え、水の流れに沿って赤レンガの遊歩道が続いていた。雑木林は一部を残して切り開かれ、水面にはキラキラと光の粒が踊っている。

「うわー、きれいになっちゃったなあ。昔はこの辺り、昼間も薄暗くってさ」
「そうなんだ」
「女の子は一人で歩いちゃいけませんって言われてた」

 ずーっと昔ここで、ドブ川に飛び込んだ子がいた。沈みかけた段ボール箱の中で、にーにー鳴く子猫を助けるために。
 ガラスの欠片でざっくり足を切ったけど、抱えた子猫を放さなかった。

『サクヤちゃん、怪我っ、怪我してるってば。どうしよう、血がっ』
『大丈夫、もう痛くない……あ、あれ?』
『え? あれれ?』

 差し伸べた手のひらの下で、傷はきれいに消えていた。自分が何をしたのか、あの頃はまだ理解できなかった。

 しばらく歩き続けると、沿道には真新しい住宅街が広がり始めた。
 さらにひょいと曲って細い道に入って行くと……かつての雑木林を上手く活かして刈り整えた木立の中に、山小屋風のログハウスが一軒現れた。

「ここです」
「ふわぁ……」

 羊子はぽかーんと口を開け、ログハウスをしみじみと観察した。
 半分に切った丸太に、木を削った文字を組み込んだ看板が見える。『Café tail of happiness』

「信じられん。まさか綾河岸市に、こんなこじゃれたカフェができるなんて!」
「先生、先生」
「いくら地元だからって、それはあんまりなんじゃあ……」
「って言うか、君らがカフェ飯を選ぶってことにまず、びっくりだ」
「やった」

 風見がガッツポーズをとっている。

「先生の意表をついた!」
「快挙だネ!」
「おいおい。小学生か、君らは……」

 苦笑しながら入り口の階段を上り、「しあわせのしっぽ」のドアを開ける。
 カランカラーン。
 金属製のドアベルの音色に迎えられ、中に入ると……。

「っ!」

 羊子は息を飲み、立ち尽くした。
 あんなにも願い求めた青い瞳が、そこにあった。やわらかな黒い毛並みに縁取られ、優しく見つめている。

「あ……」

 太いしっぽがばたん、ばたたん、とリズミカルにフローリングの床を叩く。エプロンをつけた、恰幅のいいヒゲの男性がほほ笑みかけてきた。

「いらっしゃいませ」

 見回すと店内のお客は人間だけではなかった。椅子の脇、あるいはテーブルの下。床に敷かれたマットの上に控えるさまざまな大きさの犬、犬、犬。
 大きいの、小さいの、その中間。ぴんと立った耳、たれた耳、半分たれた耳。もさもさ、ふわふわ、あるいはツヤツヤ。座ってるの、ねそべってるの、ひっくり返ってるの。いずれも飼い主の足下でご機嫌だ。

「ドッグカフェなんですよ、ここ」
「じゃあ……この犬(こ)は」
「看板犬のジャックくんデス」

 がっしりした足。ふかふかの黒い毛皮。ぴんと立った耳。
 そうだ、この犬は見覚えがある。正月に神社に来ていた。ご祈祷の最中にも青い瞳が頭から離れず、信じられないような失敗をやらかした……。

「そっか……あの時の……」

 ヒゲのマスターはじっと羊子を見て、しばらく首をかしげていたが、やがてぽん、と拳で手のひらを叩いた。

「おや、だれかと思えばあなたは、結城神社の巫女さん」
「……はい、あの節はとんだ失礼を」

 思いだしただけで、きゅーっと縮こまって頭を下げる。

「いやいや、お気になさらず。三名様ですか?」
「はい」
「店内とテラス席、どちらになさいますか?」

 ちらっと羊子は青い瞳の黒いハスキー犬に視線を走らせる。

「……店内で」
「ではこちらに」

 窓際の日当たりのよい席に案内される。椅子とテーブルは建物にふさわしくどちらも木製。さらさらしていて手触りが良く、椅子に腰かけるとほどよく体を包み込み、支えてくれる。

「あれ、この感じ……」

 テーブルの表面をなでると、羊子はうなずいた。

「そうだね。レオンとマックスのとこの食卓と似てる」

 しあわせのしっぽには、しあわせな食卓がよく似合う。
 麻布張りの、絵本のような表紙のメニューを開いてのぞきこむ。

「何にする? 昼時だから、やっぱりランチセットか?」
「そうですね」

 ランチの内容は『本日のパスタ』とスープにサラダとデザート。パスタは好みでオムライスかドリア、ピラフに変更可。そして、仕上げにお好みの飲み物を一つ。
 
「んー、んー、どれにしよっかな……すいません、この本日のパスタって今日は何なんですか?」
「イタリアンスパゲティです」
「え?」
「えーと……」

 ヒゲのマスターはこりこりと耳の後ろをかいてから、ちょっぴり恥ずかしそうにほほ笑んだ。

「こちらに写真がありまして……はい」
「え、鉄板?」
「はい、鉄板です」

 それは何とも不思議な料理だった。
 ステーキ用の鉄板の上に、薄焼き卵に乗った、ケチャップ味のスパゲティが盛りつけられている。
 具は薄切りタマネキにピーマン、そして赤いウィンナー。しかも、ご丁寧にタコさんの形になっている。

「わ、かわいい」
「えーっと、これはもしかして……ナポリタン?」
「はい、ナポリタンです」
「そりゃ、確かにナポリはイタリアだけど……」
「名古屋の伝統的な喫茶店メニューなんです。学生時代に向こうに住んでまして、よく食べてました」
「なるほど。イタリア料理じゃなくて、由緒正しい名古屋料理なんデスネ!」

 ヒゲのマスターはぱちぱちとまばたきして、うれしそうに相好を崩した。

「……です!」

 ランチは三人とも、イタリアンスパゲティを選んだ。

「何飲む?」
「俺は、アイスティーを」
「僕はホットコーヒー」
「私は、キャラメルラテ、ホットで」
「はい、かしこまりました。ランチセット三つ、本日のパスタで。お飲み物はアイスティー一つとコーヒー、ホットで一つ、キャラメルラテ、ホット一つですね」
「はい。あの……それで……」

 こくっと羊子はのどを鳴らした。落ち着いて。普通に、普通に、さりげなく……。

「ご飯出てくるまで、ジャックくんと遊んでいてもいいですか?」
「はい、どうぞ! ジャック、おいで」

 のっそりとハスキー犬が近づいてきた。
 ふるふると震えながら羊子は椅子から降りて床に座り込み、そっと手を出した。

「うふっ?」

 大きくて、長い鼻面が手のひらに押し付けられる。がっちり堅くて、鼻先がひやりと冷たい。
 ぺろり、と幅広の舌で手をなめられた。

「ひゃっ」

 わっさわっさと尻尾が左右に揺れる。触っていいよ、と言う合図だ。

「よしよし……いい子ね……」

 頑丈な首筋の後ろを撫でると、ジャックは自分からぐいっと体をすり寄せてきた。

「きゃっ」
「あ」

 よろけた羊子はとっさにジャックの首筋にしがみついた。風見とロイが支えるより早く。がっしりしたハスキー犬はびくともしない。うれしそうに尻尾を振り、ヨーコの顔をなめまわした。

「もぉ。力強いなぁ、君は」
「わふっ」
「んー……ふかふかしてる……」

 銀色に縁取られた黒い毛皮にだきついて、もふもふと顔をうずめる。

「お日さまのにおいがする……」

 うっとりする先生の姿を見て、風見とロイはほっと胸をなで下ろした。

(よかった、元気出たみたいだ)
(このお店に連れてきて、正解だったネ)
 
「よーこ先生ー」
「んー?」

 視線がこっちに来たところで、カシャリと携帯で写す。
 うん、いい絵が撮れた。幸せそうだ。
 いつものようにメールで送った。一通はサクヤに。そしてもう一通は……。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
「………おや?」

 とっぷりと日の暮れたサンフランシスコで、カルヴィン・ランドールJrは携帯を取りだした。この着信音は、コウイチからだ。

『犬カフェでランチしてます』

 メールに添付された写真を見て、思わず顔がほころぶ。
 ヨーコだ。大きな黒い犬にしがみついて、しあわせそうにほほ笑んでる。

「はは……大きな犬とくっついてると、本当に子どもみたいだな」

 それはあくまで小さな画面の中の映像にすぎない。だけど、今、この瞬間、彼女の生きる時間のひとひらなのだ。 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 「ふはーっ、ごちそうさまー」

 デザートのチーズケーキまで、残さずぺろりと平らげてから(それでも先生の基準からすればかなり小食だったのだが)、羊子は満足げにため息をつき、くいっと口元をナプキンでぬぐった。

「卵と、スパゲッティのトマト味の組み合わせが、絶妙だった!」
「そうですね、まろやかって言うか、オムライス風?」
「懐かしい味だったネ」
「そっかー、アメリカにはミートボールスパゲティってのもあるしな」
「ハイ。アメリカのお袋の味デス」

 トマトソースで煮込んだミートボールをスパゲティにからめて食べる。当然ながらイタリアンスパゲティ同様、イタリアには存在しない。

「えっと……」

 もじもじしながら、羊子はまたちらっと看板犬ジャックに視線を向ける。

「もーちょっとだけ……」
「どうぞ」
「その為の犬カフェですカラ!」
「う、うん」

 床に降りて、歩き出そうとした瞬間。

「う?」

 携帯が鳴った。着信メロディは賛美歌103番 「牧人 羊を(The First Noel)」。この曲に指定してある送信者は一人しかいない。

「はい羊子」
「ああ、結城さん」

 いつもと同じ、飄々と落ち着き払った声。だが、奥にぴしっと張りつめた糸のような気配を感じる。即座に羊子はスイッチを切り替えた。
 ただならぬ空気を察したのだろう。風見とロイも居住まいを正し、表情を引き締めた。

「今、どこです」
「綾河岸駅北口の犬カフェ」
「ああ、じゃあ近いですね」

 何故そこにいるのか? 何しに来たのか。質問は一切なし、即座に三上は必要なことのみ、簡潔に伝えてきた。

「夢守り神社に来てください。可及的速やかに」

 そのひと言で全て事足りる。
 素早く羊子は風見とロイと見交わし、うなずいた。

「わかった。すぐ行く」

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【ex10-3】神父or神主?

2010/04/25 16:32 番外十海
 
 犬カフェへの電話に先立つこと一時間余り。
 三上蓮は神社を目指して綾河岸市のメインストリートを歩いていた。子ども時代を過ごした教会に赴き、育ての親でもある高原神父を訪ねての帰り道であった。
 黒い詰め襟に白いカラーの神父服の上に、ライトベージュのトレンチコートを羽織り、背中に十字架を背負って歩く彼の姿はもはやこの界隈では誰も意に介さない。
 それだけ馴染んでしまったと言うことだなのだろう。去年の年末から結城神社にとどまって既にひと月になろうとしている。

(宮司さんご一家のご好意に甘えて、すっかり長居してしまった……)

 教会を訪ねた際、高原神父から空きが出たので神父として赴任してこないかともちかけられていた。
 
(そろそろ潮時、でしょうね)
(ああ、でも、一つだけ気掛かりなことが)

 赤ずきん。
 うさぎを抱えて森の中、今にも迷子になりそうな小さな『よーこ』。

 サンフランシスコから帰国して以来、結城羊子は表面上はシャンとしているものの、時折、普段の彼女からは信じられないようなミスをやらかす。
 それが、気掛かりの種だった。

(彼女はチームの司令塔だ。普段なら笑えるミスも、時と場合によっては命取りになりかねない)
(なまじ意志が強い人なだけにギリギリまで堪えて。限界を突破した瞬間、突然崩れてしまう恐れがある……)

 どうしたものか。

 いっそ、社長をそそのかしてはっきりさせてやろうか? きっちり終るにせよ。前に進むにせよ。
 今の状態を長く続けるのは、あまり、よろしくない。だが、そうするにしても、今の自分には彼に対する伝手がない。
 こればかりはメールでも電話でも心もとない。直接、顔を合わせて言葉を交わすのが一番、確実なのだ。

 さて、どうしたものだろうか……。

 考え込んでいると、不意に声をかけられた。適度に遠慮をしつつ、絶対の信頼をよせた声でひとこと。

「Father(神父さま)?」

 神父さま。その響きに懐かしささえ覚える。思えばこの一月余りと言うもの、もっぱらこう呼ばれることの方が多かった。
『神主さん』、と。

「はい、何でしょう?」

 話しかけてきたのは、30代とおぼしき男性だった。褐色の肌にカールのかかった黒い髪、がっしりした頑丈そうな骨組み。
 おそらくアフリカ系か。こころなしか、厳つい肩を縮めてそわそわと落ち着きがない。かなり不安そうだ。日本語も、あまり堪能ではないらしい……来日して間も無いのだろう。

 珍しいことではない。この服装で歩いていると、しょっちゅう外国人に道を聞かれる。神父服は万国共通の安全保証章なのだ。

「実ハ道に迷ってしまいまして」
「ああ、それはお困りでしょう。どちらに行かれるのですか?」
「ユメモリジンジャへ」

 すうっと目を細める(元から細いが)
 その名を口にすると言うことはすなわち、彼にとって必要と言うことだ。

 長い長い石段を上った先の、こんもり茂った緑の森の懐奥深く、その神社は在った。
 ひっそりと。
 森の空気に溶け込むようにして、ひっそりと。
 土地の神、龍の神、そして雷の神を御祭神にいただくその社は『夢守り神社』と呼ばれ、悪夢を祓い、すこやかな眠りをもたらすとして古くから近在の人々に厚く信奉されている。

 普段は記憶の底に埋もれていても、必要とされる時には何故かふっと心に思い浮かぶ。
 その名を代々の祭祀の一族にちなみ、結城神社と云う。
 しかしながら、口伝の中の呼び名は地図上には記されていない。

「夢守り神社、ですか……」
「はい、そこに、夢のガーディアンがいると聞きました」
「ええ、悪夢払いの神社です」
「キリスト教徒でもいいんでしょうか」
「ええ、一向に問題ありませんよ。日本の宗教は懐が深いですから」

 静かに胸に手をあてて、コートの胸ポケットに入れた聖書に触れる。

「ちょうど私も向かっている所です。ご一緒しましょう」
「アリガトウゴザイマス!」
 
 男性を案内して結城神社に赴き、社務所に通した。わらわらと寄ってくる猫たちを、厳つい顔をほころばせて撫でていた。

「お茶をどうぞ」
「ありがとうございます……」

 おそるおそる湯飲みをのぞき込んでいる。やはり緑茶より紅茶の方がよかっただろうか。
 しかし次の瞬間、男性は安堵の表情を浮かべてずぞっとお茶を一口、また一口。一息に飲み干し、ふーっと深く息を吐いた。
 よほどのどが乾いていたらしい。

「もう一杯いかがです?」
「はい、お願いします。ここは気持ちの良い空気ですね。苦しいの、ちょっと直りました」

 しきりに首のあたりをさすっている……。目をこらすと、おぼろげな影のようなものがまとわりついていた。
 大当たりだ。

「英語に堪能な者を呼びますので、少々お待ちください」

 
 ※ ※ ※ ※
 

 電話を受けた羊子、風見、ロイは直ちに神社に向かった。

「ただいまー」
「おかえりなさい」
「待ってたわ」

 ひょい、ひょい、と瓜二つの女性が顔を出す。小柄な体躯といい、年齢を感じさせないリスのような容貌といい、羊子によく似ている。
 それもそのはず、一人は羊子の母、藤枝。今一人はサクヤの母、桜子。
 一卵性の双子なのである。

「こんにちは」
「お世話にナリマス」

 風見とロイもきちっと背筋を正して一礼した。

「ささ、こっちよ」

 ちょこまかと歩く双子の巫女さんに案内されたのは、何故か客人の通される奥座敷ではなく、住居に使われている居間だった。
 あれ、と思うまもなく、ささっと畳まれた白衣(はくえ)と袴が人数分、きっちり三着差し出される。

「ささ、着替えて、着替えて」
「何で?」
「神社の関係者としてお話を伺う方が、自然な流れでしょう? 先方も話しやすいでしょうし」

 なるほど、一理ある。めいめい手を伸ばして装束を受け取ったが。

「あの……すいません……また、袴が赤いんですけど」

 風見が遠慮がちに問いかけると、W母さんsはけろっとした顔でいけしゃあしゃあと代わりの袴を差し出した。

「あらごめんなさい、うっかりしてたわ。はい、浅葱色の袴」
「アリガトうございます」
「おかーさん! おば様も! いっつもいっつも白々しいんだから!」

 娘の突っ込みもどこ吹く風と、藤枝と桜子は顔をみあわせる。ちょこんと首をかしげるその仕草は、二十代の娘息子がいるとは思えないほど愛らしい。

「えー、ロイくん似合ってたのにー」
「風見くんもきっと似合うのにー。ねー?」
「ねー?」
「はいはい、ちゃっちゃと着替えて仕事、仕事!」

 一同、白衣と袴に着替えて静々と奥座敷に向かう。
 訳ありの客人はみな、ここに通されるのだ。中庭に面し、さんさんと日の差し込む心地よい部屋にはストーブが灯され、冬の最中でありながら春の日だまりのような温かさに満ちていた。
 座卓には岩を刻んだような厳つい黒人男性と、三上が向かいあって座っている。

(ん?)

 部屋に一歩足を踏み入れた刹那。羊子はあり得ざるにおいを嗅いだ。
 そう、確かにそれは今、この場所にはあまりにもそぐわないものであった。
 ぬるりとした、藻のこびりついたコンクリートの壁。よせては返す波すらも、立ちこめる腐臭を運び去ることはできない。
 淀み、濁った海水のにおい。
 風見とロイもまた、はっとした面持ちで目配せしてきた。

(やはりな)

 小さくうなずき、何食わぬ顔で畳に手をつき、きちっと一礼した。

「……お待たせいたしました」
「やあ、来ましたね」

 三上はにこやかにほほ笑むと頭(こうべ)を巡らせ、三人の視線を客人に誘導した。

「改めてご紹介いたしましょう、こちらはゴードン・ベネットさんです」
「よろしくお願いいたします」

 かくして。
 羊子とロイを通じ、日本語と英語を交えながらゴードン・ベネット氏は事の子細を語り始めた。
 彼自身はアメリカ生まれのアメリカ育ち、妻のグレース夫人は日本人の祖母を持つクォーターであること。
 もとはカリフォルニアに住んでいたが、おばあさんの縁をたどってこの土地に引っ越してきた。今は地元の紡績会社に勤めている。

「ああ、綾河岸は絹織物の名産地ですからね」
「はい。妻のグランマは、綾河岸紬の優れた織り手だったそうです。今は引退してしまいましたが」
「そりゃすごい。重要無形文化財の担い手だったんですね」
「はい」
 
 しぱしぱとまばたきすると、ゴードンははにかむような笑みを浮かべた。

「妻も、祖母の技をたいへん誇りにしています」
「………」

(アメリカンにしちゃ、えらく謙虚な人だなあ……)
(意外に日本に馴染むの、早いかも知れない)

 皮肉なことに、そう言った人間ほど夢魔の侵入を容易く許してしまうものなのだ。過剰なまでの自己主張は、時には侵入者を阻む強固な壁となる。

「日本にいらしてから、どれくらいになりますか?」
「あれは、妻が安定期に入った頃でしから……三ヶ月になりますね」
「まあ、赤ちゃんがお生まれになるんですね! おめでとうございます」
「ありがとうございます」

 ゴードン氏はあきらかに照れていた。目を細め、ちらっと白い歯を見せてほほえみながらくしくしと頭をかいている。 

(……あ、かわいい)

 180cmは優に超えているであろう偉丈夫相手に、思わずそんな形容詞が心に浮かぶ。
 しかし次の瞬間、彼は眉をよせて目を伏せ、ふうっとため息をついた。

「慣れない環境のせいか、どうも最近、疲れやすくて。眠ったと思うと妙な夢を見て、すぐに飛び起きる日が続いているのです」
「ああ。それはお疲れでしょう」
「ええ。毎晩ほとんど眠った気がしません。起きていても目まいと頭痛に悩まされて……妻と生まれてくる子どものために、がんばらないといけないのに」

 控えめで実直な人柄、加えて生真面目。しかも己の『正しさ』を振りかざす押しつけがましさは、微塵もない。
 人間なら好感を覚える相手だが、夢魔にとっては………格好の標的、それも『美味しい獲物』の部類に入るタイプだ。

「先ほどカリフォルニア、とおっしゃいましたが、どちらにお住まいでしたか?」
「サンフランシスコです」

 その瞬間、三上の片方の眉がわずかにぴくっと跳ねた。

(サンフランシスコといえば結城くんとか社長のいるところでしたっけ)

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【ex10-4】蠢く影は真珠の鱗

2010/04/25 16:33 番外十海
 
「先ほどカリフォルニア、とおっしゃいましたが、どちらにお住まいでしたか?」
「サンフランシスコです」
「っ!」

 不覚にも羊子はすくみあがった。
 クリスマスの夜の記憶の欠片が、街灯の明かりを反射する夜の雨のようにチカチカと瞬く。
 あるいは、暗い水の中にひらめく魚の鱗みたいに。

『ずるいよ、カル。こんなことしても……』
『………そうだね』

 いけない。集中しなければ!
 クリスマスの出来事をひとまとめにして、思考の隅っこに押しやる。その刹那、部屋の空気が変わった。
 ついさっき感じた、よどんだ海水のにおいがほんのわずかに密度を増し……ゴードン氏の首から腕、胸にかけて巻き付くおぼろな影が、ゆらりと濃くなる。

 羊子は瞳をこらした。つかの間、形を為したおぼろな影の正体を見通そうと試みる。
 まず見えたのは、真珠色の鱗。びっしりと太い胴体を覆い、くねる度にからり、ざらりと軋む。
 ………嫌な音だ。
 おぞましさにぞうっと総毛立つ。しかし同時に、美しいとも感じていた。

(これは……女……いや、ヘビ?)

 ゆらっと水の中、長い長い黒髪が広がり、ぽっかりと白い顔が浮かぶ。
 ぽってりした唇、顔の中央にまっすぐに通った鼻。ほお骨は高く、全体的に彫りの深いくっきりした面差し……美しい女をそのまま真珠貝に閉じこめ、長い年月をかけてでき上がったような顔だった。

(両方、か………)

 濡れた髪の毛が、あり得ざる水のゆらぎに乗ってふわふわと漂ってくる。このままでは、先端が触れる。

(来るな!)

 ぎりっと奥歯を食いしばる。

 りん!

 結城羊子は微動だにしなかった。
 にもかかわらず首にかけた鈴が鳴り、影は霧散した。
 だが、消えてはいない。

(……あぶない所でした)

 三上は眉を寄せ、ひそかに張りつめていた力を抜いた。
 神社の結界の中でこれだけの影響力を発揮するとは……今回の相手、なかなかに歯ごたえがありそうだ。
 風見とロイがはっと表情を引き締めた。いきなり鈴が鳴ったのでびっくりしたのだろう。
 彼らにしてみればそうとしか思えない状況だった。まだ若く、経験も浅い二人の狩人にとっては。

 急速に希薄になりつつある女面の蛇に向かって、改めて意識を集中する。
 ノイズ混じりのラジオのように、途切れ途切れに思考が伝わってきた。

「返せ……かえ……せ…………」

(……返せ? 一体、何をでしょうね)

「か……え………」

 女面の蛇は完全に形を失った。来た時と同じように薄いもやとなってゴードン氏の首のまわりにまとわりついている。
 つかの間、はっきりと見えた顔立ちは、白人女性の特徴が強く表れていた。
 と、なれば。
 悪夢の根幹は、アメリカにある可能性が高い。

「そうですか、サンフランシスコに、ね。思わぬ所で懐かしい地名が出てきましたね、結城さん」
「………」
「結城さん?」
「え、あ、はいっ」

 正座したままぴょっくんと跳ね上がり、羊子は背筋を伸ばした。まるでびっくりした子猫だ。

「彼女は高校生の時、サンフランシスコに留学していたんですよ」
「おお、そうだったのですか」
「え、ええ……今もイトコが向こうに留学中です。友人も多いし……」

 こくん、と細いのどが上下する。

「先月も、行ってきたばかりなんです」

 そう言って、羊子はほほ笑んだ。舌の奥に残る苦い記憶を飲み込んで。

「それ、で。向こうではどちらにお勤めだったんですか?」
「ランドール紡績です」

(ああっ!)
(禁句デス!)

 この瞬間、室内の空気にぴしっと、目に見えぬヒビのようなものが走った。
 風見とロイは表情を引き締め、とっさに身構えていた。

「シスコでも繊維のお仕事、なさってたんですね」
「ハイ。妻と出会った場所でもあります」
「まあ、社内結婚?」
「はい……恋愛には、オープンな会社でしたし」
「うんうん、そうでしょうね、さすがカリフォルニア!」

 真っ向から地雷原に飛び込んだにも関わらず、羊子は持てる根性の全てを振り絞って持ちこたえていた。
 一方で三上は眉をぴくっと、さっきより高くはね上げていた。

(おや、妙な縁があったものですね。しかし、これはありがたい)

 伝手を得る機会が向こうから飛び込んできてくれるとは。
 青い瞳の青年社長。目下のところ、『メリィちゃん』の心をかき乱す一番の原因。
 この機会に、少なくとも知己にはなっておくことにしよう。
 そうすれば、今すぐには無理としても今後『メリィちゃん』のことをはっきりさせていくことができるし、何より後々の役にも立つかもしれない。この先、潜伏先を海外に広げないとも限らないのだから。

「で……カリフォルニアからこちらに引っ越してから、奇妙な夢を見るようになった、と」
「ハイ」

 三上はうなずき、静かな深みのある声でじわり、と語りかけた。

「それは、どのような夢でしたか?」
「………それは……」
「どんな小さな事でもいい。どんなにあいまいな事でもいい。言葉にすれば、それだけ安心できると思うのです。得体のしれぬものより、形の定まった物の方が、怖くないですからね?」
「確かに、その通りです」

 ゴードンは腕組みをして眉間に皺をよせた。懸命に、自分の中をただよう曖昧模糊とした悪夢の記憶を表す言葉を探しているようだった。

「……水」

 鈴を振るのにも似た声で、羊子がささやく。

「はい?」
「夢を思い出すのって、水をのぞきこむのに似ていますよね。水面がちらちらと揺れて、すぐそばにあるのにはっきりと見えない」
「おぉ……そうです。水です!」

 ゴードンは大きく、何度も頷きwaterと言う単語を繰り返した。

「水の夢。私が見ているのは、まさにそれなのです。透き通ったきれいな水ではない。どちらかと言うと、どんよりと濁って……いくら目をこらしても、底が見えない」
「つまり、あなたは水面から中をのぞきこんでいるのですね? 夢の中で」
「……おお……確かにそうです!」

 ごつごつした太い指を何度も握っては開いている。

「何か大切なものが、落ちてしまって。濁った水をのぞきこみ、探している。そんな夢です……」
「そう、それでいい。続けてください」
 
 Fatherに促され、ゴードンはぽつり、ぽつりと語り続ける。

「この頃は、起きている時も水をのぞき込むと……ゆらめく奇妙な影が見えるような気がして」
「ほう?」
「最初は、光の反射かと思いました。けれど、明らかに動き方が異質なのです。何かがこう、自分の意志で動いているような……」

 目を閉じ、ごくり、とのどを鳴らした。

「そう、確かにあれは生きています。水の中の生き物です」
「なぜ、そう思うのですか?」
「鱗があるから」

 くっと羊子は拳を握りしめた。巫女装束の袖の中、爪が手のひらに食い込む。

「うねうねと、鱗のある生き物が身をくねらせているのです。姿ははっきり見えないが、目が離せない……気分が悪くなって、すうっと引き込まれそうになってしまうのです……おかしいですね、こんな話」
「いいえ。ここは、夢を守る神社ですもの」

 羊子はにっこりとほほ笑み、一同の顔を見渡した。真っ先に風見が力強くうなずき、続いてロイがぶんぶんと頭を縦に。最後に三上が鷹揚にほほ笑み、口を開いた。

「ここでは夢の話は、毎日の暮らしや仕事の話、家族との絆と同じくらい大切で、意味のある物なのですよ」
「……ありがとうございます」

 ゴードンはしぱしぱとまばたきして、ぐっとぬるくなったお茶を飲み干した。

「次第に影はありとあらゆる『水面』に現れるようになってきました。バスタブやコップの水や、朝、顔を洗う水、遊歩道の水路やコーヒーカップの中にまで……だから、水が怖かった。雨の日は、できるだけ地面を見ないようにして歩きました」
「お風呂は?」
「シャワーしか使っていません」
「うわ、冷えるのに」
「そうですね、ちょっと寒いです」

 くすっと笑っている。

「この三ヶ月と言うもの、ほとんど水は口にしていません。目をつぶって飲んでも、吐いてしまうことがほとんどで」
「それはそれは。さぞかし、おつらいことでしょう。今までどうやって水分を補給してこられたのですか?」
「スポーツドリンクやお茶なら、どうにか。水ほどひどくはないので、我慢できるレベルです」
「やっぱり『うっ』となっちゃうんだ」
「ええ。間違えて腐った水を口にしたような嫌悪感をこらえて飲み込んでいます。コーラやソーダ、ビールは平気でしたね」

 どうやら、混ぜ物が多くなって純粋な水から遠ざかれば遠ざかるほど、悪夢の影響は少なくなるらしい。口にできる水分を求めて試行錯誤を重ねてきたのだろう。

「しかし、コーラやソーダはあまり好きではなくて……飲むと余計にのどが乾きます」
「そりゃそうだ」
「今のところ、牛乳やジュースでしのいでます。日本は飲み物の種類がたくさんあって助かります!」

 ここまで言い終えると、ゴードンはふうっとため息をつき、目を伏せた。
 
「あの影が、次第にはっきりと実体を得ているような気がするんです」

 声のトーンが徐々に下がっている。

「今朝はとうとう、あれが女性だと……それも髪の長い女性だと言うことまでわかってしまいました」
「なぜ、そう思われたのですか?」
「濡れた髪がね」

 がっしりした褐色の手で、しきりに首の周りをさすっている。

「こう、ぬるりと肌に貼り付いてきたんです。起きてからも、その感触がはっきりと残っていました」
「それで、この神社に?」
「はい。彼女がどんな顔をしているのか。知るのが……恐ろしい。お恥ずかしながら、今朝は顔を洗うのも怖くてできなかった」
「……の、割にはさっぱりしてらっしゃるようですが」
「洗顔用のウェットティッシュと歯磨きガムで、どうにか。日本って本当にきれい好きな国ですね」
「あー、なるほど……」

 ゴードン氏は空になった湯飲みを見下ろし、ほっと顔をほころばせた。

「このまま、ずっと水もお茶も飲めないのかと諦めかけてたのですが……ここの神社の水は平気でした。怖くないです」
「奥の森のわき水を使ってるんですよ。そうだ、少しお持ち帰りになるとよろしいでしょう」
「ありがとうございます」
「よし、それじゃ風見、ロイ」
「はい」
「ハイ」
「ひとっ走り水くんできてくれ。台所に使ってないペットボトルがあるから」
「了解! 早速くんできます」

 風見はすっくと立ち上がり、金髪の相棒の方に向き直った。

「行こう、ロイ」
「御意!」

 二人はゴードン氏に目礼し、すっすっとまっすぐに部屋を出て行った。もちろん畳のへりは踏まずに、速やかに。

「わざわざ、ありがとうございます」
「いえいえ、お気になさらず。大して手間はかかりませんから」

 実の所、泉の湧く奥の院まではけっこうな距離があるのだが……風見とロイの足なら、さほど時間はかからない。

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【ex10-5】何が見えた?

2010/04/25 16:34 番外十海
 
「さて、と……その間に」

 三上は改めて居住まいを正し、ゴードン氏に向き直った。

「実は私、カウンセラーの資格も持っていまして。これも何かのご縁でしょうし、ちょっと診てさしあげましょう」
「おお、ありがとうございます。日本では、カウンセラーにかかるのは一般的なことではないようで」

 さもありなん。アメリカでは、かかりつけのカウンセラーのいる人間はさほど珍しくはない。
 そもそもカウンセラーにかかるのは、医者にかかるうちには入らない。だが日本では別だ。気軽に相談できる相手もいない。
 最善の策としてゴードン氏が「ユメモリジンジャ」を訪れたのは、きわめて自然な成り行きであったろう。

「それじゃ、私、しばらく席を外すね」

 羊子は素早く立ち上がろうとした。が。

「待ってください」

 それより早く、三上の手が肩に乗せられる。指先にわずかに力がこもり、羊子は動きを止めた。
 なぜ?
 視線で問いかける。

「あなたが通訳しなくて、誰がするんですか」
「あ……そうだった……」

 つ、と目をそらし、羊子はふたたび正座した。

「ごめん」
「いえ。それではお願いします」

(おやおや)

 そっぽを向いてしまった。きゅうっと唇の端を噛みしめ、頬がわずかに紅潮している。
 拗ねているのか、悔しいのか。
 いずれにせよ、ランドール紡績の社名を聞いて動揺したようだ。それでも風見とロイの前では気を張っていた。二人が席を外してわずかに気がゆるんだ……おそらく、そんな所だろう。

(困ったことをしてくれましたね、Mr.ランドール……)

 やはり、彼とは一度きっちり話しておかねばならぬ。現実の地表においても、夢の中でも、その確かさに何ら変わりはない。
 そう、夢の守り人であり、狩人でもある自分たちにとっては。

 その時。

「にゃーっ」

 すっと廊下に面した雪見障子を引き開けて、やわらかな生き物が部屋に入ってきた。

「あ、こら、タマ」

 羊子が立ち上がり、細く開いた障子を閉める。

「もう、開けたんなら、閉めなさい?」
「にーっ」

 三毛猫は何やら不満げに耳をふせ、ぴこぽこと短い尻尾を左右に振った。

「おお、ジャパニーズボブテイル!」

 ゴードンは満面笑み崩してちょこん、と首をかしげ、三毛猫の一挙一動を見守っている。

(うわっ、この人猫好きだ!)

 三毛猫はぽてぽてとゴードンに近づき、当然、と言う顔で彼の膝に乗っかって。前足をたたんでうずくまった。

「ほああ………」

 ついさっきまでの不安げな表情はどこへやら。小声で話しかけながら、とろけきった表情で猫を撫ではじめた。

「キティ、キティ、キティ」
「その子は玉緒って言います。タマって呼んでるけど」
「おお。おタマさんですか」

(どこで覚えたんだろうなあ、そう言う表現)

 よほどの日本好きなのか。あるいは日本語を年配の人から習ってるのかも知れない……奥さんのおばあさんとか。
 三毛猫はうっとりと目を細めて、ごろごろとのどを鳴らし始めた。あきらかに猫を撫でるのに慣れた手つきだった。

(筋金入りだあ……)

「猫、お好きなんですね」
「はい、大好きです」

 カウンセリングはまず、相手の心をリラックスさせることから始まる。
 しかしながら猫の出現により、ゴードン氏の緊張もとまどいも一気に取り払われたようだった。

 羊子を通じて、時に日本語を交えつつ、ゴードン・ベネットはぽつり、ぽつりと語り始めた。
 心の中に抱え込んでいた不安を吐きだし、話す。三上は時折相づちを打ち、さりげなく導きはするものの、基本的には聞き役に徹した。
 やがて、密閉されていたゴードン氏の『不安』に出口がぽこっと開いた。あふれだす言葉と意識が、内側に溜まっていた澱(おり)を押し出し、洗い流す。

「今の職場の人も、妻の親族も、近所の人も、よくしてくれます。しかし生まれた国を離れて、異国に移り住んで……やっぱり心細い。ですが、どうしても、私たちはこうしなければならなかったのです」
「なるほど。あながしなければならかなったのは……ここに来ることですか? それとも、サンフランシスコを離れること?」

 ゴードン氏はしばし口をつぐみ、猫をなでた。三上はじっと待った。

「シスコを出ること、です。あの街を離れて、新しく出発したかった」
「ふむ。新しい出発は、いかがでしょう、順調だと思いますか?」
「はい!」

 迷いのない声だった。まっすぐに三上の目を見つめていた。

「妻を愛しています。世界で一番、大切な女性です。やはり、この町にきて、正解でした」

 前向きな言動とは裏腹に、ちらりと思い詰めた表情が浮かぶ。

(思ったよりダメージが大きいか……)

 彼は、実直で真面目な人間だ。しかし、得てしてそう言ったタイプの人間は、頑張りすぎる傾向が強い。
 外側はしっかりしているが、その分内側に侵食が進む。しかもなまじ残った外側が頑丈なだけに、ギリギリまで持ちこたえてしまう。

(念のため、もうちょっと回復させておいた方がよさそうですね……)

「んみ?」

 タマがぴくっと耳を立てる。ほどなく、隣室との境のふすまの向こうに人の気配がした。

「ただいま戻りました」
「おつかれ」

 すうっと音もなくふすまが開く。風見とロイがきちっと正座して控えていた。彼らの目の前には、透き通った水を満たした2リットルサイズのペットボトルが2本。水晶の塊のように穏やかな光をたたえている。

「ああ、ちょうど良いところに……風見くん」
「はい」
「戻ったところ申し訳ありませんが、ゴードンさんにもう一杯、お茶を入れてさしあげてくださいますか」
「イエ、そんなお構いなく」

 恐縮するゴードンに向かい風見光一は誇らしげに胸をはり、堂々と答えた。

「任せてください。お茶をたてるのは得意なんです」
「彼のおばあさまは茶道の先生をしてらっしゃるんですよ」
「サドー! おお、それはスバラシイ!」

 羊子は小さくうなずくと、立ち上がった。

「母から道具借りてくるね」

 すれ違いざまひょいと手を伸ばし、金髪と黒髪、それぞれに絡まる小枝と葉っぱをつまみとった。

「あ……」
「お疲れさん」
「では、私はお湯を沸かしてきましょう」

 ほどなくして。

 座敷に据えられた茶釜にしゅんしゅんと湯が沸き、風見光一は厳かな面持ちで茶を立てた。
 茶道具は羊子の母から借りたもの。袱紗が赤いのはこの際気にしないことにする。
 慎重な手つきで茶さじを操り、桜の樹皮細工の棗(なつめ)から抹茶をすくって腕に入れる。
 馴染みのない人でも飲みやすいよう、薄めに立てる。いわゆる「お薄」と言う奴だ。
 茶杓で茶釜のお湯をすくいとり、静かに注いで茶筅で混ぜる……。腕の中で泡立つ深い緑色と向き合い、思念を一つに絞り込む。

『癒したい。この人の内側に刻まれた、見えない傷を』

「……どうぞ」

 ゴードンは目を輝かせて畳の上に置かれた茶わんと、その内側の抹茶を見つめている。

「コレは、どうやって飲むのですか?」
「こうやって、手のひらにお茶わんをのせて、回すんです」
「こう、ですか?」
「そうそう、もう一回」

 味と香りを楽しみながら茶を飲み干すと、ゴードンはしみじみとため息をついた。

「ああ……fantastic!」

 楽しそうだ。張りつめたものが、だいぶ抜けてきた。
  
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 茶をふるまった後、ゴードン氏を伴って一同は本殿に赴き、神社に詣でた。
 羊子の父であり宮司である結城羊治が祝詞をあげる中、ゴードンは慎重な面持ちで背筋を伸ばし、熱心に祈っていた。
 参拝が終ってから、宮司はおもむろに三方に乗せた鈴をささげ持ち、進み出る。

「これは、『夢守りの鈴』と言って、この神社のタリスマンです。悪い夢を退け、おだやかな眠りを守ってくれます」
「おお、ありがとうございます……」

 ゴードン氏は大きな手のひらに、ちいさな鈴を乗せてころころ転がした。
 ちりりん。
 赤い紐の先端で、金色の鈴が軽やかな音色を奏でる。

「キュートなタリスマンですね」
「それから、こちらも」

 羊子が白い和紙に包まれた小さめの日本酒の瓶を。風見とロイがペットボトルに入れた神社のわき水を持って進み出る。

「水を飲む時は神社の水を混ぜて。お風呂にはこのお神酒を入れるとよいですよ」
「ありがとうございます」

 岩を刻んだような背中が遠ざかるのを見送りながら、風見がぽつりとつぶやいた。

「いい人ですね」
「……ああ。だからこそ、夢魔にとっちゃ『美味しいごはん』なんだ」
「これで、当面は大丈夫、ですよね」
「応急措置ですけどね」
「……十分だ。さて、作戦会議と行こうか?」

 社務所に戻り、居間のこたつに潜り込む。急に温度の下がったこたつの中で、『みゃっ』『にゃうっ』と不満げな声があがる。

「あ、ごめん」
「失礼シマス」

 猫団子を避けつつ、落ち着いたところでお互いの見えたもの、感じたものを話しあう。

 おぼろに感じ取ったのは女の顔、真珠色の鱗、ヘビの胴体、ゆらめく長い黒髪。
 今はまだゴードン氏は悪夢にうなされるだけ。だが少しずつ悪夢が現実に染み出している。

「どう思う? このケース、悪夢の宿主(レミング)が、ゴードンさんの夢に侵入して苦しめてると見た」
「同感です。取りついているのは、おそらく女性だ」
「半分蛇の、ね……」
「確かにアレは蛇。それも海ヘビだと思いマス」
「同感」
「今回の事件の鍵は、水だね」
「それも海の水ですね。あともう一つ、気になったことが」
「何?」
「その、半分蛇で半分女の夢魔なんですが……ゴードンさんに巻き付いて、こうささやいてたんです」

 しばし言葉を区切ってから、三上蓮はひと言、ひと言、己の読み取った夢魔の思念を言葉にした。

「返せ、と」
「うーん……蛇の体に、まとわりつく髪の毛、それに返せ、か………」

 羊子はこつこつと指先で額を叩き、首をひねった。

「女の嫉妬?」
「前の恋人?」
「不倫……と、言う可能性もありますね………」

 一同顔を見合わせ、すぐに首を左右に振った。

「ないないない」
「無理でしょうねえ、ゴードンさんには」

 すっと三上は右手を掲げ、人さし指を立てた。

「それからもう一つだけ、気になったことが」
「コロンボか!」
「すいません、今気付いたもので」
「……ま、そう言うことなら……で、何?」
「夜よりも、むしろ昼間の方が影響が強いように思えてならないんです。それだけ現実への侵食が強まった、とも考えられますが……」

 確かに。夜の夢はただ『奇妙な夢』と表現していたが、明け方や昼間にまとわりついてきた『影』は、より具体的なイメージを伴っていた。
 憑依の初期段階において、夢魔は宿主が眠っている時により強く力を発揮する。夜の夢の中では、起きている時よりも理性の締めつけゆるみ、秘めたる願望や欲望があらわになるためだ。

「つまり、夢魔の宿主が眠っているのは、『昼間』にあたる時間なんだ」
「夜起きて、働いてる?」
「あるいは、時差がある……そうか!」

 はっとした表情で風見が叫ぶ。

「宿主は、アメリカにいるんだ!」
「ええ……私も、そう思います」

 三上は静かにうなずいた。

「あの夢魔の顔立ちは、白人女性の特徴を備えていた」

(これは、なんともタイミングのいい)

 口元に笑みが浮かぶ。

 海外でのサポートが必要となるとまずは結城くんだろうが、彼一人ではやや心もとない。となれば、彼の補助ができるのは事実上社長しかいないだろう。
 社会的な影響力もあるし、財力も高い。この点ではロイくんの祖父もかなりものだが、何と言っても映画スター。潜入捜査をしようにも、あまりに目立ちすぎる。(当人は喜んでやりそうだが)

 いつものにこやかな「神父の微笑」とほとんど見分けがつかない穏やかなほほ笑みの内側で、三上は秘かに戦闘準備を始めることにした。

 カルヴィン・ランドールJrとの邂逅に備えて。

「結城さん」
「……わかった」

 羊子は懐から携帯を取りだした。いつものようにボタンを押そうとして、一瞬戸惑う。

(犠牲者がランドール紡績の関係者なんだから、まずはカルにかけるべき、なんだろうな………)
(でも……)

 さっき、言えなかったことがある。
 心が揺れたあの瞬間。半蛇の女妖の黒髪がゆらりと広がり、触れそうになった。
 敵対者への威嚇と言うより、まるで………自分を招くように蠢いていた。

(気のせいだ。そんな事、あるわけがない!)

 懸命に否定しながらも、不安をぬぐい去ることができない。それがただの憶測ではないことは、自分が一番良く知っている。
 今、あの人の声を聞いたら。
 心の波がもっと大きく波打って、崩れてしまうのではないか。また、あの夢魔を呼び寄せてしまうのではないか……。

 携帯片手に戸惑っていると、やにわにとんでもない爆弾が投下された。

「結城くん一人では少し不安ですよね。かと言ってロイくんのお祖父さんでは目立ちすぎますし……例の社長に頼ってみてはどうでしょう?」

 一瞬、羊子は硬直した。束ねた黒髪がぶわっと逆立つような心地がする。まるでびっくりした猫みたいに。

「………?!」

 そんな彼女を察してか、風見光一もまた、ぎょっとこたつの中ですくみ上がった。

「ラ、ランドールさんにですか……確かにサクヤさん一人じゃ大変なのはわかりますけど………」
「ええ、そのランドール氏にです。万一悪夢と戦うことにでもなったら、やはり一人では厳しいでしょうしね」

 ああ、さっきから心臓に悪い名前が連呼されているような気がする。
 そう言えば帰国してからこっち、だれも自分の前では彼の名前を口にしようとしていなかった。

(すまん、風見。おまえにまで気ぃ使わせて)
(って言うか、三上さん、事情全部知ってるくせに)

 そらせていた目線を、顎をとってくいっと向けられた気がした。しかるべき位置に、優しい指先で……しかし、断固とした動きで。

「そうだね」

 抑揚のない声で返事をすると、羊子はギクシャクした動きで携帯を開き、ボタンを押した。

(さて、どちらにかけるでしょうね……)

「やっほー、サクヤちゃん元気?」
「うん、元気だよ。どうしたの、よーこちゃん」

(ああ、やはり結城くんでしたか)

 サクヤの声を聞いたら、何だかしゃきっとした。遠く離れているのに、手をとりあって支えてくれたような気がした。

「事件だよ。根っこはたぶん、そっちにある」

 きっぱりと言い切る羊子の口調に、もはや迷いはなかった。

「あなたとカルの協力が必要なの」

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【ex10-6】これよりシスコ側のターン

2010/04/25 16:35 番外十海
 
 土曜日の夕方。カリフォルニア大学サンフランシスコ校のキャンパスを足早に歩く結城サクヤの姿があった。
 待ち合わせ場所まで、ケーブルカーとバスを乗り継いで20分。大丈夫、間に合うはずだ。

「よぉ、サリー」
「あ……テリー」

 内心、しまった、と思った。ちょっとした誤解から、彼はこれから会いに行く相手のことをあまり快く思っていないのだ。

「夕飯、まだだろ?」
「あ……うん」

 しまった、パート2。もう食べたって言っておけばよかった。

「一緒に飯食わないか?」
「ごめん、今日はちょっとこれから、人と会う約束が……」

 わずかに口ごもるサリーの様子に、テリーは何やらピン、と来てしまったようだ。これも身に付いた『おにいちゃん』本能のなせる技か。

「……あいつか」
「そうだけど」

 すぱっと答える。

(考えてみれば隠す必要なんてないんだ。ランドールさんとは『任務』の話をするだけなんだし、夕飯を食べるのもたまたまその時間に会うからだし……)

 土曜日の午後にカフェで待ち合わせして、同じテーブルについて。談笑しつつ一緒に食事をする……しかも夕飯。相手はハンサムでゲイでお金持ち、加えて評判の『遊び人』。
 サリーは欠片ほども意識していないが、はたから見れば立派なデートである。
 そして、テリーも同じ結論にたどり着いたのだった。

「俺も一緒に行く」
「え、でも……」
「飯はどこかで食わなきゃいけないんだ。それとも俺が一緒にいると、何か不都合があるのか?」
「いや……別に……」
「だったらいいだろ?」
 
 困った。
 ターコイズブルーの瞳が、断固たる意志の光を放っている。こうなったら、テリーはがんとして後に引かない。
 急がないと待ち合わせの時間に遅れてしまう。ただでさえ、こっちは日本より9時間出遅れているのに。

「しょうがないな……一緒に来てもいいけど、一つ約束してくれる?」
「ああ」
「わかんない内容でも、大事な話だから口を出さないでね」
「わかったよ」

 OK。これで安心だ。
 テリーは約束は守ってくれる。いつでも必ず。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 待ち合わせ場所のカフェに着いたのは、ランドールの方が少し早かった。
 コーヒーだけではなく、カリフォルニアワインやビールも気軽に楽しめるセルフサービス式の店だ。オーダーは後回しにしてまず、席を取る。幸い、隅の禁煙席が空いていた。

(飲み物を買うのは、サリーが来てからにしよう)

 今日の会合は『任務』……すなわち夢魔狩りの打ち合わせだ。わかってはいたが、それでもちょっぴり心が弾む。
 サリーはヨーコの従弟だ。顔立ち、仕草、そして声の根本的な響き。二人はそれこそ姉弟と言っていいほどよく似ている。
 ヨーコに会えないこの寂しさも、彼と会えば少しは癒されるだろう。

「……ん」

 店のドアが開き、見慣れた顔が入ってきた。さらりとしたストレートの黒い髪。卵形のつやつやした顔、くりっとした黒い瞳、ほっそりした手足、なだらかな肩。
 待ち人が現れた。

「こんばんは」
「やあ、サリー………」

 記憶と言うのは、思ったよりあてにならないものだ。
 こうして直に向き合うと、サリーはとてもおだやかで、ふんわりしていて……秘めたる芯の強さこそあるものの、研ぎ澄まされた朝の空気のような、ぴりっとした鋭さにはほど遠い。
 何より、においが違う。

「どうかしましたか?」
「あ、いや………」

 ランドールは軽く肩をすくめてまゆ根を寄せ、ため息まじりに答えた。

「意外に似てないんだな、と思ってね」

(わ、なんか今、さりげに失礼なこと言われた気がする)

 誰に似てるのか、なんていちいち確認するまでもない。
 しかし。
 サリーの背後に付き従うもう一人を確認した途端、ランドールはぴょこっと顔を上げ、ぶんぶんと尻尾を全開で振った。

「やあ、テリーくん!」
「よぉ」
「君も一緒だったのか」
「残念ながら」
「いや、うれしいよ。座りたまえ」
「失礼します」

 サリーがランドールの向かいに座ろうとした。が、テリーは満面の笑みをうかべてぐいっと押しのけ、自分が代わりにその位置に座ってしまった。
 やむなくサリーはランドールと対角線上に腰を降ろした。

(困ったな……ランドールさんの近くに行きたいのに)

 しかたない。できるだけ顔を寄せて話しかけよう。

 一方でランドールは上機嫌。うきうきしながらメニュー片手にテリーに話しかけた。

「とりあえず、何か飲むかい?」
 
 テリーがぎろっと目をむいてにらみつけてくる。
 その表情に、マーメイド・ラグーンでの一件を思い出した。どうやら、酒を警戒しているらしい。

「……あ、いえ今日は」
「そうか………では失礼して、私はコーヒーを頂こう。テリー君はどうする?」
「み………」

 水、と言おうとした瞬間、入れ立てのエスプレッソの芳香がふわぁん、と漂ってきた。

「………カプチーノ」
「あ、それじゃ俺もカフェラテ。コーヒーならいいよね?」
「ああ、コーヒーならな」
「OK、それじゃコーヒー一つとカプチーノ、カフェラテだね」

 ランドールが椅子から立ち上がるやいなや、テリーがポケットから小銭を取り出し、かちりとテーブルに並べた。

「これ、俺の分」

 断固たる口調とまなざしで『おごってもらう気はない』と主張している。
 サリーがちょこんと首をかしげた。

「あれ、テリー、マイマグは使わないの?」
「ああ、今日は持ってきてない」
「おや、いつもはマイマグなのかい?」
「ええ、まあ……ちょっと安くなるし。けっこう気に入ってるんで」
「ほう」
「ロイからのプレゼントなんですよ」
「ニンジャのプリント入りなんだ」
「ニンジャの?」
「絵じゃなくて、漢字ですよ。見た目はシンプルだけど、インパクトはあるかな?」

 にこにこしながらサリーは言葉を続けた。

「俺のと対になってるんです」
「そう……か……それは、良かったね」

(あれ?)

 一瞬、ランドールの声のトーンがわずかに揺れた。ちょっぴりがっかりしたような。拗ねたような気配を感じた。

(ひょっとしてランドールさん、うらやましいのかな……ニンジャマグ)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「お待たせ。サリーはカフェラテだったね」
「ありがとうございます」

 まずサリーにラテを渡し、続いてふわっと盛り上がるミルクの泡に、褐色の渦巻きの浮かぶカプチーノのカップを手にとる。

「それから、これは……」

 差し出されたテリーの手が、するりと宙をかく。カップに届く瞬間、わずかにランドールが手を引いたのだ。

「っと……失敬」
「どーも」

 むっとした顔でテリーは今度こそカプチーノを確保した。

(わあ、大人げない)

 湯気の立つラテをひとくちすするとサリーはおもむろに身を乗り出し、声をひそめた。

「実はヨーコさんから連絡がきて……」

 ランドールの耳ぴくっと動く。

「ヨーコからっ?」

 ずきり、と鈍い痛みが心臓を噛む。
 先日、見たばかりの気掛かりな夢の記憶がひらめいた。暗い水の中で月の光を反射する、魚の鱗のようにチカチカと……。

 大事なものが指の間からすり抜ける。どんなに手を伸ばしても、届かない。

 何だかここ数日と言うもの、同じ夢を繰り返して見ているような気がした。しかも日を追うごとに、漠然とした喪失感が徐々に強くなっている。

(もしや、彼女の身に何かトラブルが?)

 落ち着け、落ち着け。ここでうかつに事件が、なんて口にしたらテリーくんを驚かせてしまう。もっと穏やかで、一般的な言い回しを考えるんだ。

「その………私に、何か手助けできるような事が……起きたのかな?」
「はい。内容がすこし複雑だったので、英語だと説明しづらかったみたいですね。概要はこちらに」

 サリーは鞄から折り畳んだ紙をさし出した。まるで仕事用の書類でもやりとりするかのようにさりげなく。
 あらかじめ、事件の概要と調べるべき事柄をまとめてプリントアウトしておいたのだ。

「そうか……ありがとう」

 書類に目通しするなり、きりっとランドールの表情が引き締まる。大会社を取り仕切る、『社長』の顔に切り替わる。

「なるほど、確かにこれは私の役目だね」
「わかったことがあれば、メールで全員に送ってもらったほうがいいかな。時差は気にせずに」
「わかった………………」

(何なんだ、こいつら!)

 互いに身を乗り出して親しげに、傍から聞いていてわけのわからない話をしている。
 しかも、かなり真剣に。
 そんな二人を見ながら、テリーはがぶがぶとコーヒーを飲んだ。いくらカフェインを補給しても一向に気が収まらない。
 とうとう、テリーはむすっとした顔で席を立った。

「どこ行くの、テリー?」
「……トイレ」

 サリーとランドールは顔を見合わせた。
 テリーには悪いけど、チャンスだ! これでしばらくは心置きなく事件のことを話せる。

「それで。この情報収集の作戦なんですけど」
「ああ、いつでもOKだ。さすがに日曜は休みだから、あまり人がいないが……」
「できるだけ急いだ方がいいですね。月曜日に実行しましょう」
「わかった」

 顔を寄せ、ひそひそと込み入った話をする二人の姿はぱっと見、愛をささやいてるように見えなくもない。
 だが幸いにして、この現場を目撃して一番、ダメージを受けそうな人物はこの場には居なかった。

「やっぱり………毎回裸になるのは問題ですよね。今回は俺がやりますから」
「う………む、済まない。固定観念とは厄介なものだな………」
「服を着たまま出来る様になれば、色々と便利ですし」
「……と言うか、いちいち裸になってると、色々と不利益だな……有難う、でもはっきり言ってくれて構わないよ」

 ちらちらと漏れ聞こえる内容も、服を脱ぐの、着たままできるのと、かなり怪しい。しかし本人たちはいたって真剣だ。

「後は、そうだな……サリー。くれぐれも私の秘書に見つからないように気をつけてくれたまえ」
「えっ、そんなに怖い人なんですか?」
「いや。彼女はエレガントで有能で、節度を心得た女性だよ」
「あ、女の人なんだ」
「うむ。ただ、その……可愛いものに目が無くてね」
「あ……なるほど……」

(そう言う意味、なんだ)

「注意します」
「うん」
「……っと」

 二人は申し合わせたように、ぱたっと話をやめた。

「……お帰り、テリー」
「ん」

(何なんだ、こいつら。俺に聞かれちゃまずい話でもしてたのかっ)

 むすっとした顔でテリーは再び腰を降ろした……ランドールの真向かいに。

「話、もう終ったのか?」
「うん、だいたいは」
「そっか。いい加減、俺、腹減ったんだけど」
「私もだよ。君たちも食事はまだなんだね?」

 おかまいなく!
 用意した台詞が声になる前に、ぐうううう、と派手にテリーの腹の虫が返事をしていた。

 くすっと笑うとランドールは壁際に立てかけてあったメニューをとり、差し伸べた。

「ここのピザはなかなか美味いよ。新鮮なバジルと岩塩ベースの味付けで、試してみる価値はある。サンドイッチもいけるね。だが、バーガーは避けた方が無難だ」
「そんなに、ひどい味なのかっ?」
「いや。サイズが尋常じゃない」
「ああ、そう言うことなら、俺はバーガーで」
「サリーは何にする?」
「んー、ピザはクリスピータイプですか?」
「ああ」
「じゃ、マルガリータのSサイズを一つ。テリー、シェアしよ?」
「おう、かまわないぞ」
「では、私もピザにしよう……ジェノベーゼのLサイズを」

 注文しようとランドールが席を立つより早く、さっとテリーが立ち上がっていた。

「俺も行く」
「ありがとう!」
 
 100311_1132~01.JPG
 illustrated by Kasuri 

 屈託の無い笑顔でうなずくと、ランドールもまた立ち上がり……二人で並んでカウンターに向かって歩き出す。
 一人はこの上もなく上機嫌。もう一人はこの上もなくご機嫌斜めで。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ごちそうさま……ほんとにピザ、美味しかったです。ぱりっとしててて!」
「そうか、気に入ってくれて嬉しいよ」
「んー、俺はもーちょっとこってりチーズとソースがかかってた方が……」
「えー。俺にはあれぐらいが丁度良かったよ。小麦の味が、しっかり出てるし」
「おまえ、そーゆーの好きだよな」
「うん、和食に通じるものがあるし?」

 ランドールはほくほくと上機嫌だった。
 期待したほど、ヨーコ分の補給はできなかったが、それを補って余りある収穫があった。テリーと一緒にコーヒーを飲み、夕食まで食べたのだ!

 ……支払いはあくまで、個人個人だったけれど。
 大口を開けてバーガーにかぶりつく姿を、こんなに間近に見られるなんて。

「んじゃ、飯食ったし。とっとと帰るぞ、サリー」
「え、あ、うん」
「用事はもう終ったんだろ?」
「うん……一応」

 サリーは申し訳なさそうにランドールに一礼して立ち上がった。

(気にすることはないよ。今夜は十分、楽しかった)

 ランドールはサリーに手を振り、ちら、とテリーの顔を見ていたずらっぽい笑みを浮かべた。靴下を口いっぱいにほお張った、やんちゃな仔犬(パピー)の顔で。

「今度は是非、見せて欲しいな……その、ニンジャマグとやらを」
「ああ。機会があったら、いくらでも見せてやるぜっ」

(こいつ、次のデートの約束のつもりかっ)

 引きつり笑顔でテリーはずいっとランドールとサリーの間に肩を割り込ませた。

(サリーに手は出させないぞ、遊び人め!)

「『俺の』ニンジャマグをな!」
「楽しみにしているよ」

 二人の思惑は物の見事にすれ違っているのだが……結果として事態はランドールの望む方向に動いていたりするのだった。
 意図することなく、きわめてナチュラルに。
 一方でサリーは。

(ランドールさんとテリー、ちょっとは親しくなれたみたいだ……良かった)

 こっちもある意味、ずれていた。

(それにしても意外だったな。ランドールさんが、ニンジャグッズに興味があったなんて)

 後でロイに聞いてみようと思った。『あの湯飲み、どこで見つけたの?』って。
 
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