▼ 【ex10-19】夢と今の合間
水が流れている。
さらさらと。
さらさらと。
静かなせせらぎのほとり。広がる優しい枝の合間から、ほろほろと淡い金色の木漏れ日が降り注ぐ、柔らかな草の上にいた。
身につけたものを全て失っていたけれど、ヨーコは無事だった。一瞬、目をそらすことを忘れていた。
すんなりと伸びた手足。ほっそりした首筋。つるりとした胸の中央にはぽちりと小さなばら色のつぼみが宿り、くびれた腰から足にかけてはふっくらと丸く……。
自分の周囲にいるどんな女性とも違う。
少年の肢体に似て非なる不思議な肉体がそこに在った。神話に謳われるニンフやウンディーネ……少女に似た姿をした精霊たちはこんな形をしているのだろうか?
肩に、うなじにまとわりつく黒髪が肌のなめらかさ、白さを際立たせている。ごく自然に丸い小さな肩を手のひらで包み込み、抱き寄せようとしてはっとする。
指先に直に伝わる肌の温もりに。
(何てことだ、彼女は裸じゃないか!)
急いで身に付けたマントを脱ぎ、濡れた裸身をくるりと包む。ずぶぬれなのは同じだが、少なくとも裸ではなくなる!
ヨーコはぱちぱちとまばたきをして。着せかけられたマントを両手でかきあわせ、うっすらと頬を染め……口を開いた。
「おばか! あぶない事して!」
「そりゃ、するだろう!」
「引きずり込まれたら、どうするか!」
ぱしゃっと川面で魚が跳ねた。
かっかとほお骨の内側で熱がたぎる。慎み深さも大人の思慮も忘れ、矢継ぎ早に言い返していた。
「大事な友達が危険に曝されているのを放っておけと? 助けられるかも知れない力が私にある状態で?」
眉をしかめ、にらみつける。
「冗談じゃない!」
ヨーコもまた、きっと唇をかみしめ、にらみ返してくる。髪の毛がわしゃわしゃと逆立っていた。
そのまましばらくにらみ合ううち、ふるっと彼女の瞳が揺れた。
「うん……そうだよね……そう言う人だった……」
(だから、好きになった)
ヨーコは手のひらを広い胸に当て、愛おしさと感謝をこめてそっとなでさすった。次いでぺたりと顔を埋め、気高い心臓の脈打つ音に耳をすませる。次第に逆立っていた髪の毛が勢いを失い、ふわりと肩に、背に舞い降りた。
「………………来てくれてうれしいよ、カル。ありがとう」
胸元に押し当てられる、生きた体の確かな手触りと温かさ。ささやきとともに伝わるかすかな振動に、ようやくランドールの心は落ち着きを取り戻した。
「すまない、大きな声を出して」
深く息を吐き出す。
色のない砂漠で、彼女を必死で探した時の焦りと喪失がまだどこかに残っているのだろう。ともすれば幼い日の喪失の記憶と結びつき、この瞬間にも積み重なった時間を突き破り、噴き出しそうになる。
すっぽりと抱きしめ、髪を撫でた。背中を撫でた。
できるだけ多くヨーコに触れ、存在を確かめずにはいられなかった。
「Cal……Calvin……」
やわらかな声が耳をくすぐる。何故だろう? 今、君を抱きしめているのは私のはずなのに。
君に包まれているように感じる。
「本当は、こういう時はサリーの方が君には楽なんだろうけれど……来る段階では、私の方が良いと思ったんだ」
「いいの」
ヨーコが顔を上げた。
「あなたが来てくれて、嬉しい」
つやつやと濡れた瞳の中に、穏やかな光の粒が踊っている。星のように、揺れる水面の煌めきのように。
じっとのぞきこんだまま、かろうじて意識のみ外側に向けようと努力してみる。
「……神父様はまだしも、若者二人は……少なくともコウイチは飛んできそうだけれど……向こうも何かあったのだろうか」
「たぶん、私の体を守ってくれているのだと思う。それに………」
ふっと目元が和らぎ、サクランボのような唇の合間から白い歯がこぼれ落ちた。
「あの子たち、ちゃんと来てくれたよ?」
リボンを運び、導いた風。
星の陣を引き、道を開いた五本のナイフと電光のライン。夢魔の動きを封じた光の雨……
(なるほど、確かに彼らはあの場に居たんだ)
今、この場にいるのは二人。だれの目を気にすることもない。
今、この瞬間は。
手のひらで頬を包みこむ。
彼女は確かに、ここにいる。
「素敵な所ね」
「ああ、気持ちのいい場所だね」
「うん。おだやかで、とても安らぐ……ここは、あなたの夢なのかな」
「君の夢かもしれない」
ヨーコは手を伸ばし、頬を撫でてくれた。
「髪の毛くくってない所、初めて見た」
「みっともない所を見られてしまったね」
「ううん。似合ってる。何って言うか……華麗で荘厳。王子様みたい」
「そうかな」
ほっそりした指が髪の間を通り抜け、細やかな光の粒が弾けてこぼれる。何やらくすぐったい。
お返しとばかりに彼女の髪を撫で梳いた。はらはらと小さな花が。小指の先ほどの花びらが散り出でる。果実のような爽かな酸味と、甘さの入り交じった香りが舌先に触れる……やっぱりくすぐったい。
「気持ちのいい場所だね……」
「ああ、もう少しだけ、居たい……かな」
どちらからともなく指をからめ、握りあった。
降り注ぐ木漏れ日が輝きを増し、見えるもの、触れるもの全てが光の中に溶けて行く。
(ああ。もうすぐ夢が終る)
夢からさめる間際に耳元に囁かれる。
「Thanx,Cal……」
その言葉で十分だった。じりじりと焼ける熾き火は……もう、ない。
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