▼ 【ex10-20】後ろの正面だぁれ
動いた。
三上蓮は剣を構える手をわずかにゆるめ、視線を転じた。
固く閉ざされたまぶたが、ほんの少しだけ。一瞬、痙攣の前触れかと身構えたが、先刻の一撃以来、亀裂の侵食は止まっている。
羊子も静かに眠っている。
見た限りは。
また、動いている?
ずいっと顔を寄せた。どんなかすかな動きも見逃すまいと。
ぱちりと目が開く。黒目の大きな瞳が、はっきりと見返してきた。
ああ。
彼女だ。
剣を握る手から力が抜ける。つかの間、表情を取り繕うことを忘れていた。
数時間分の不安と緊張が一気にほどける。それなのに、この羊さんと来たら! じとーっとにらんでおられる。
「……顔が近いぞ、レン」
「あなたが悪夢に飲まれそうでしたので。いざというときの備えですよ」
「………そうか」
「お帰りなさい」
妙に密度の濃い視線を感じ、ちらっと肩越しに背後を振り返ると……こっちもにらんでいた。
彼らの基準でも、近過ぎたらしい。
いそいそと体をよけ、道を空ける。傍らをすり抜け、風見とロイが飛びついた。
「よーこ先生っ」
「センセイっ」
自分より背の高い生徒二人にしがみつかれ、ちっちゃな『よーこ先生』の体はぐらぐら揺れた。ちょっとだけびっくりした表情を見せたがそれも一瞬。すぐに顔をくしゃくしゃに笑みくずし、金髪と黒髪、二つの頭をなでまわしている。
「すまん……心配かけた」
床に刻まれた螺旋の亀裂は消えていた。悪夢の侵食が、修復されたのだ。三上の焼き付けた篭目紋もろとも、まるでそれ自体が夢だったように……。
いや、あるいはあの時、この社殿そのものが半ば悪夢の中に飲まれかけていたのかも知れない。
「ありがとな、風見。ありがとな、ロイ」
(あー、あー、あー……、そうですか。私にはにらみつけただけで感謝の言葉もなしですか……やれやれ。私だって、けっこう頑張ったんですよ?)
至極妥当な結果ではあるのだが。そこはかとなく、納得行かない。
「まぁ、その様子でしたら辛うじてMr.ランドールは間に合ったようですね?」
「っっ!」
これぐらいの反撃は、許されるだろう、うん。
ぎっと社殿の扉が開き、雲水姿の細身の青年が飛び込んできた。づかづかと歩いてきて、ぎっと三上をにらみ付けたが、にらまれた方はどこ吹く風。細い目でにこにこと笑み返している。
しばし二人はにらみ合った。と言うか、一方的に雲水が神父を睨んでいた。
が。
「蒼太……来てくれたのか」
「羊子さんっ」
巫女のひと言であっさりお開きになったのだった。
※ ※ ※ ※
その頃、サンフランシスコでは。
「う……ん……」
シモーヌ・アルベールが意識を取り戻していた。
「気がついたかい、Miss.シモーヌ」
「だ……れ?」
「ランドールだよ。君と同じ会社で働いてる」
「なぜ……ここに」
「君の同僚たちが心配していたんだ。休暇が明けたのに、会社に出てこなかっただろう? 連絡も無し、電話にも出なかったし」
「ああ……」
「もう、心配いらないよ。ゆっくり眠りたまえ」
「……はい……ありがとう……」
すやすやと眠るシモーヌの傍らでは、サリーがいそいそと布を取り外していた。次第に部屋の中に日の光が差し込んで来る。
「こんなに明るい部屋だったんですね、ここ」
「ああ。気持ちのいい部屋だね」
淀んだ海の匂いも。じっとりと肌にまとわりつく濡れた髪の気配も。全て部屋から消えうせていた。
そして織り機にかかった織りかけの布も。窓を塞ぎ、床に敷き詰められていた布も。全て糸一本に至るまで、にごりの無い青に戻っていた。
晴れた日の空を写した、カリフォルニアの海の色に。
「もう安心ですね。じき、救急車が来るし」
「ああ、助かったよ、君が獣医師で」
911に連絡をしたのはサリーだった。てきぱきとシモーヌの状態を説明し、指示をあおぎ、必要な措置を取ってくれた。
「人間も、動物も生き物ですし。応急処置ぐらいは、できますから……あ、でも何て言って説明しよう、ここにいる理由」
「無断欠勤をした社員の家を訪れたら、返事が無かった。鍵も開けっぱなしで、中に入ると倒れていた。だいたい、こんな所かな」
「……そうですね。それがいい」
ふとサリーはランドールを見上げ、小さく首をかしげた。
「あれ? ランドールさん、セーターどこに置いてきたんですか?」
「あ……」
今日は寒い日だった。最初に来た時は、厚手の白いセーターを着ていたはずなのに。
ああ、そうか。きっと、よーこちゃんを助ける時に変身したんだ。
「また、脱いじゃったんですか?」
「ん……まあ、そんな所だね」
「でも、だいぶ上達しましたね! 他はちゃんと着てるし!」
「そ、そうかな」
「はい!」
※ ※ ※ ※
日本、綾河岸市、午前2:00。
羊子は風呂を浴びて寝巻きに着替え、寝室に引き上げた。ふすまを閉めるより早く携帯が鳴る……サクヤからだ。
「よーこちゃん」
「サクヤちゃん」
同時におかえり、と言っていた。
電話越しに『お』の音が重なる。海を越える時間差を挟み、輪唱みたいにきれいにそろった。
「無事でよかった」
「……うん、ありがとう……シモーヌさんは?」
「病院に運んだよ。睡眠不足と脱水症状で衰弱がひどくて。しばらく入院するけど……命に別状はないよ」
「そっか、よかった。おつかれさま」
「よーこちゃん」
「何?」
「もう、大丈夫だよね」
「……うん。もう、大丈夫」
※ ※ ※ ※
風見光一とロイ・アーバンシュタインは神社の居間ですやすやと眠っていた。
しっかりと手を握りあい、ぴたりと寄り添って。
社殿から引き上げて、あたたかな部屋で熱い茶をすすり、ほっと顔を見合わせた所で、風見がぎゅうっと相棒にしがみついたのだ。
「やったな、ロイ!」
「……うん」
「ははっ」
たまたまその場には、他に誰もいなかった。だからこそ一気に緊張から解放されたのだろう。
そのまま、風見はすうっと眠ってしまった。
さながら、猫じゃらしに前足をのばしたまま眠る子猫のように。
「コ……コウイチ?」
急に静かになった風見の体が、ぐいっと寄り掛かってくる。ロイの心臓は肋骨を破って飛び出さんばかりに高鳴った。
しかし、すぐにおだやかな寝息をたてる親友に気付いて顔をほころばせる。
首をひねってつややかな黒髪に顔をうずめ、ささやいた。
「オツカレさま」
しかしながら。極限まで力を放出して、疲れていたのは彼も同じだった。先生を助け出した安心感から、張りつめていた気力がぷしゅっと抜けたのも。
そのままロイはこてん、と風見によりかかり、すやすやと寝入ってしまった。ほとんど気絶するようにして……幸せそうな笑みを浮かべて。
そして今。寄り添って眠る二人の少年の様子を、桜子と藤枝がのぞきこんでいた。
「ロイくん、風見くん?」
「あらあら、まあまあ」
「よく寝てること」
「これじゃお部屋に運ぶのは無理ね」
「お布団もってきてあげましょう」
「そうしましょう」
「でも、その前に」
二人の母さんたちは、瓜二つの顔を見合わせ、にまっと笑い……同時に携帯を開いたのだった。
※ ※ ※ ※
まったく同じ頃、羊子もまた携帯を片手に悩んでいた。
(電話、しようかな。した方がいいのかな)
無論、相手はサクヤではない。彼とはほんの今し方まで話していた。もっとも、今電話をかけるかどうか迷っている相手にしたところで少し前まで一緒に居たのだが……。
(ええい、迷っていてもしかたない! ここは一つ!)
勢い良く携帯を開き、ボタンを押そうと身構えた瞬間、画面が点滅した。
「わわわっ」
送信者は『ランドール』。互いに番号を交換した頃にはまだ、愛称で呼ぶほど親しくはなかったのだ。
「……は……Hello」
「ヨーコ」
「カル」
「風邪を引かないように、すぐ躯を温めるんだ。良いね」
開口一番、これだ。水に濡れたのも。服を脱いだのも、あくまで夢の中できごとで、現実じゃないのに……
「うん……お風呂入って着替えたから、安心して」
「そうか。よかった」
ほっとする気配が伝わってくる。全力で心配していてくれたのだ、この人は。さっきの台詞にしても、電話が通じたらすぐ伝えようとスタンバイしていたのだろう。
苦笑する? 呆れる? とんでもない。
うれしかった。
「………あのね………その……んと…………」
過剰に感激するのでもなく。恥ずかしがるのでもなく、意地を張って拒絶するなどもっての他。
ただ、うれしかった。
「……ありがとう、カル」
電話の向こうで、彼女がささやいた。
ありがとう、と。
夢の中でも同じ言葉を聞いた。
二つの言葉が重なり、教えてくれる。まちがいなくあの時、自分とヨーコは一緒にいたのだと。
『君の助けになれたのが…私で良かった』言いそうになって、思い直して微妙に言葉を組み替えた。
「……うん。私が…君の助けになれて良かった」
「来てくれて……………うれしかった」
「何度でも行くよ。君だって、私を助けてくれたろう? 熱い、閉ざされた箱の中で」
「……うん」
「そっちではもう遅い時刻だね。ゆっくり休みなさい」
「あなたも、無理はしないで」
「ああ。今日は定時で上がることにしよう」
「ん、そうしなさい」
ちょっぴり教師風を吹かしてから、羊子は電話口にささやいた。ため息よりも秘かに、やわらかな声を送った。
「おやすみ」
「……おやすみ」
電話を切る。
ほうっとため息をつく暇もなく、背後から声をかけられた。
「おすみですか」
「ひゃいっ?」
その場で飛び跳ねた拍子に、携帯がつるんと手から飛び出す。慌ててキャッチ、またつるり。
「うおわっ。ったたた、わーっ」
「まぁまぁ、とりあえず落ち着いてメリィちゃん」
華麗な(?)ジャグリングを披露する羊子を見ながら、三上蓮は平静を取り繕うと努めた。それでもこみあげる笑いを100%こらえることはできず、くくっと咽の奥から小さな声が漏れる。
(……駄目だ、反応が面白すぎる。これ以上ここにいたら、限界が……)
「だから! メリィちゃん言うなって……ってか、い、いつからそこに居た!」
やっとのことで携帯を確保、じとーっとにらみつける。が、妙だ。三上の姿がぽやーっとして、焦点があわない。
「誤解しないでください? 単にこれを、ね。洗面所に忘れてたので、届けに来たんですよ」
「あ」
手を伸ばし、三上はひょい、と赤いフレームの眼鏡をタンスの上に置いた。
羊子は珍しくパジャマを着ていた。いつもは和装の寝巻きなのに。さらに言うなら、上に着ている白いセーターは明らかに男ものだ。
悪夢から目覚めた時、既に彼女の体を包んでいた。あれは、どこから来たのだろう?
じっくりと目測し、本来、これを着ている人間の体格を割り出してみると、やはりと言うべきか。予想していた人間と合致した。
なるほど。
三上の口元に会心の笑みが浮かぶ。
少しは進展があったようだ。
「何、にまにましてる」
「失礼だなあ。私はもともとこう言う顔ですよ?」
ひょい、と身をかがめてのしかかり、耳元でささやいた。
「ね、言ったでしょう?『諦めなければ、目はあるかも』って」
「………」
勝った。
耳まで真っ赤になってる。
「では、おやすみなさい」
「……オヤスミ」
静かな足取りで部屋に戻る間、三上の頭の中では、ずっと一つのメロディーが流れていた。
(メリーちゃんの羊、羊、羊……)
かろうじて、心の中で歌い続けることで抑制していた。今にも自分の中からあふれそうな感情を。
(メリーちゃんの羊、かわいいな……)
もう少しで、自分の部屋だ。幸い、隣室を使っている風見くんとロイくんは居間で寝ている。多少騒いだところで迷惑になる気遣いはあるまい。
(メリーちゃんの羊、かわいいな……)
ゴール。
自室に戻ると、三上はすうっと息を吸い込み………
爆笑した。
実に晴れ晴れとした気持ちで、笑ったのだった。
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