▼ 【ex10-21】悪夢在る所、必ず!
三日後。
よく晴れた土曜日。真っ青な空の下、木立の中にすっくと立つログハウスのテラスで、犬を連れた家族連れがくつろいでいる。
金色の日差しを浴びて、毛の長い犬がころんと寝転がる。まるで絵本にしたくなるような情景だった。
「今日はみんな外に出てるね」
「風がないからかな。お日さまも照ってるし、犬は外の方が好きだから」
結城羊子は、教え子二人を伴って再びドッグカフェ「しあわせのしっぽ」を訪れた。
先週は食事をすますのもそこそこに慌ただしく店を出なければならなかったし、がんばった風見とロイへのねぎらいの意味もあった。
「こんにちはー」
「やあ、いらっしゃい!」
「ジャック!」
青い瞳のシベリアンハスキーは、ちゃんと覚えていてくれた。
太いしっぽをわっさわっさと振って、出迎えてくれた。
「うふ、うふっ、うふ」
「やん、くすぐったい……あ、こらっ、そんなとこに鼻つっこんじゃだめ!」
言ったところで手加減無し。全然いやがっていないのは、犬にもよくわかってるのだ。
風見とロイも万事心得たもので、さっさとテラスに面した窓際の席に座り、すました顔でメニューを開いている。
おかげで羊子は心置きなく、看板犬とたわむれることができた。
「ジャックー」
「わう」
「ジャックー」
「わうん」
「鼻ながいねー」
「へっへっへ」
「尻尾ふといねー」
「へっへっへっへっへ」
「筋肉質だねー、むっきむきだねー」
「うふ」
ほとんど会話が噛みあっていないようで、何やら通じるものがあるらしい。羊子に話しかけられるたびにジャックの尻尾の動きはますます激しくなり、とうとう肩に前足をのせて顔をなめはじめた。
「あ、こら!」
見かねてヒゲのマスターが叱咤する。が、風見はにこにこと首を横に振った。
「いいんです、喜んでますから」
「そうですか……なら、いいんですが……やあ、それにしてもワイルドなお嬢さんだ」
「ええけっこうたくましいですよ、見かけと違って」
「そうみたいですね」
羊子は負けじとジャックにしがみつき、一緒になって床にころんと転がっていたのだった。
「先週から思っていたんですが、珍しい学校ですね」
「え? そうですか?」
「ええ、男子だけ制服があって女子は私服だなんて」
「あー……はは、は……」
「同じクラスなんですか?」
「ええ、まあ」
風見とロイは笑顔で受け流した。
(確かに同じクラス、だけど……)
(生徒じゃなくて、担任の先生なんデス!)
タータンチェックの巻きスカートに黒のスパッツを重ねばき、生成りのハイネックのセーターに、カフェオレ色のジャケット(襟大きめのピューリタンカラー)なぞを羽織った姿はどう見ても、女子高生なんだけど……。
「って言うか、この場合はスパッツが原因か?」
「スパッツだネ」
むくっと羊子が起き上がった。一瞬、風見とロイはひやりとした。ごく小さい声で話してたはずなんだけど、聞こえちゃったか?
青い瞳の黒い犬を背後に従え、すっ、すっとまっすぐに歩いてくる。迷いの無い足取りでテーブルの脇を通りすぎ、そのままテラスに出てしまった。
「え?」
「アレ?」
こっちを向いて、ちょい、ちょい、と手招きしている。言われるまま、近づいた。
「ほら」
手すりにつかまりのびあがり、すっと一点を指さした。
さらさらの空気の中に伸びる腕。ほっそりした指の導く先に視線を向けると……。
遊歩道を見覚えのある人たちが通りかかった所だった。がっちりした、岩を刻んだようなゴードン氏と、華奢で小柄なグレース夫人。ふっくら丸いお腹を手のひらで支え、二人よりそって歩いている。
たがいに手をしっかり握って、晴れ晴れとした表情で。話す声はここまでは聞こえない。だが幸せそうだ。まとわりつく影は跡形もなく、憂いの表情も消えている。
ベネット夫妻の姿が見えたのは、ほんの短い間だった。
呼び止める暇もなく、二人の姿は木立の向こうへと消えて行く。おそらく家に帰るところだろう。
三人は静かに笑みを交わした。
風見がぽつりと言った。
「三上さんと蒼太さんも来ればよかったのになー」
ロイがうなずく。
「蒼太さんがすーっと来てすーっと帰るのはいつもの事だけど。三上さんまでいきなり居なくなっちゃって、ビックリしたヨ」
事件の翌朝。
不覚にも居間で目覚めた後、社への参拝をすませてから部屋に戻った少年二人は、隣室のふすまが開け放たれているのに気付いた。
いるはずの人の気配はなく、遠慮しつつ中をうかがうと……
きちんと片づけられた部屋の文机の上に、一通の置き手紙があった。宛名の中に自分たちの名も連ねられていたので、開封してみると。
『長い間お世話になりました。
高原より誘いがあったので本職に戻ります。
ご用の際は教会まで。 三上』
「……あれだけ残して行っちゃうなんて……さ……」
さみしげな風見の肩を、羊子がぱすん、と叩く。
「まあ今生の別れって訳でなし。近いうちに会えるよ、たぶん……」
サムズアップを決めつつほほ笑む羊子の胸元には、白桃色の勾玉と、金色の鈴が揺れていた。
「悪夢在る所、ナイトメア・ハンターは必ず現れる。そうだろ?」
「そうですね!」
「ハイ!」
ロイと風見も笑顔でサムズアップを返した。
実の所、羊子はちゃんと知っていたのだ。あの日、三上蓮がひっそりと神社を去ろうとしていたのを。
※ ※ ※ ※
夜明けより少し前。
神父服にトレンチコートを羽織り、古びた革のトランク一つさげ、十字架を背負った人影が大股で歩いていた。大鳥居前で振り返り、深々と一礼。再び歩き出そうとすると………目の前に、ちっぽけな手乗りサイズの巫女さんが浮いている。
「……おや」
顔は羊子に瓜二つ。何やらぷんすかむくれている。ちょん、と指先でつつくと鈴に戻り、ちりん、と手のひらに転がった。
「こら、そこの夜逃げ神父」
背後から声をかけられる。
「夜逃げとは心外な。今は朝ですよ?」
「混ぜっ返すな」
さり、さり、と軽い足音が玉砂利を踏んで近づいてくる。長い黒髪は結いもせず、パジャマの上から羽織った白いセーターの上にさらさらとこぼれるまま。足下を見ると、何としたことか。素足に草履を履いただけだ。
「水臭いぞ。だまって行くつもりか?」
鈴に戻ったちっちゃな分身と同じ顔でにらんでる。いや、元がこっちなんだから当然か。
「手紙を残してきましたので……昨夜のこともあるし皆さんお疲れでしょうし……はい、これ」
鈴を返そうと屈みこむと、彼女はひょいと腕を広げて抱きついてきた。初めて会った日のように精一杯のびあがって。
「……ありがとう、レン」
トランクを握る手が離れる。使い込まれた革の表面が、敷き詰められた石の玉を叩く。ほっそりとした腰に手を巻き付け、抱き返していた。
「いけませんよ、こんなことをしては」
「よく言う。拗ねた顔してたくせに」
「見てたんですか。酷い人だ」
柔らかな吐息が当たる。胸元から首筋を伝い、ほのかな温もりを含んだ香りが立ち昇る。笑っているのか、単に息を吐いただけなのか……。
『決めた。わたし、レンと結婚する』
『結婚して……レンの家族になってあげる』
『そうすれば、もうさみしくないよね』
ぽん、ぽんと手のひらで背中を叩いた。肩に手を当て、そっと体を離す。
そうだ、これでいい。
これぐらいの距離がなければ、顔を見ることはできない。
「いけませんね。若い娘さんがそんな格好でのこのこと出歩いて。早朝は冷える。早くお戻りなさい」
「大丈夫、セーター着てるし、ほら」
胸元からもこっと三毛猫が顔を出す。
「おや、おタマさん」
「うん、おタマさん」
「にゃ」
「道理で。妙にふかっとしていたと……」
「何だとっ?」
むきーっとふくれた顔の前に、ひょいと鈴を差し出した。
「これ、お返しします」
羊子は鈴ごと両手で包み込み、そっと押し返してきた。
「………いいの。あなたが持っていて」
ほほ笑む彼女の胸元で、金色の鈴と勾玉が触れ合い、ちり……とかすかな音色を奏でる。
砕け散ったはずの勾玉は、悪夢の侵食が消失すると同時に元に戻っていた。
いや、正確にはほんの少し、変化している。
白桃色の表面に一筋、鮮やかな青が宿っていた。
(もう、大丈夫ですね。私がここで果たすべき役目は、終った)
「では、ありがたく」
別れの言葉は、どちらも口にしなかった。
※ ※ ※ ※
サンフランシスコ、金曜日、21:00。
ランドールは懲りずに押しかけてきた親友チャールズ・デントンと共につまみをかじりつつ、グラスを傾けていた。
さすがに今回はいつぞやほどグダグダにはならず、ウィスキーをソーダで割る余裕がある……今の所は。
二人が代わる代わるに手をつっこんでいるのは、チャーリーが持参した「デントン・ローストナッツ」のマスタードオニオン味の大入り缶。
彼の会社で、曽祖父の代から作り続けている定番商品だ。キッチンから皿を持ってきたら、既にチャーリーはさっさと開けて直にポリポリやっていた。
「色々食べ比べてみたが、やはり君の所のが一番美味いよ、チャーリー」
「そうだろう、そうだろう! こと、ピーナッツにかけちゃうちの会社は決して妥協しないからね!」
「なるほど、さすがピーナッツバターの王子様、だ」
「そう言う君は繊維の王子様だね!」
ピーナッツバターの王子様。
彼の実家が、ピーナッツバターを主力商品としていたのをからかってつけられた学生時代のあだ名だった。ところがチャーリーときたら、怒るどころか胸を張って言い放ったのだ。
『そうとも。僕の家は曽祖父の代からピーナッツバターと共に歩み続けてきた。まさしく、僕はピーナッツバターの王子様だ!』
あれから6年。彼は家業を受け継ぎ、ピーナッツバターの王様に即位した。そしてあの頃と変わらぬ大らかさと快活さでもって、今なおランドールのよき友でいてくれている。
遠慮や建前と言うものは、自分たちの間には存在しない。
「グラスが空いてるよ、カル」
「君こそ」
とくとくと酒を注ぎ、次いでソーダ、仕上げにレモンをきゅっとしぼる。どちらともなくグラスを掲げ、かちりと合わせた所で携帯が鳴った。
メールだ。
「ちょっと失礼」
この音、コウイチからだ。まさか、またヨーコの身に何かトラブルが?
いや、いや、落ち着け。緊急ならまず直接、電話が来るはずだ。
開いた画面を見るなり、ランドールはほっと安堵した。
『今週も犬カフェにランチに来ました』
だが、添付された写真を見てがく然とする。ヨーコが。狼に似た、ピンと耳のたった黒い犬に抱きついている。あまつさえ、その黒っぽい毛皮に顔をうずめてうっとりしている!
「ヨーコ……そんなシベリアンハスキーなんかに!」
「お?」
チャーリーがのっそりとのぞき込んでくる。そこに次のメールが届いた。矢継ぎ早に開ける。
『常連さんの犬と遊んでいます』
「あっ、こっちの写真はボルゾイじゃないか……くっ、今度はアイリッシュウルフハウンド。よりによって……っ!」
「あー、どっちも狼狩りの犬だねえ」
「ああ、そうだね」
「あ、またハスキーだ。このイヌがお気に入りらしいね、彼女。見てごらんよ、ちゅーしてる!」
「ちゅー? 単に舐めてるだけだろう。親愛の情を示す、犬にとってはごく普通の行為だ」
「つまり好きってことだよね」
「………」
どうしたことだ。先週の写真と今、目の前に届いた写真とにどんな違いがあると言うのか。犬の種類が多いからか。写真の数が増えたからか。とにかく、この前とは違ったモヤっとした苛立ちを覚える。
自分と同じ、青い瞳の黒い犬を抱きしめている彼女を見て『可愛いなあ』と素直にほほ笑むことが、できない。
(ヨーコ。そんなに毛皮が好きなら、私に抱きつけばいいじゃないか……それを、どこの馬の骨とも知れない犬なんかに!)
そうだ、『犬』だ。どれほど外見が似ていようと(いや、似てない。断じて似てない!)あれは『犬』だ。
狼ではない!
ふと、シャツの襟元からのぞく自分の胸に目を向ける。
そういえば、彼女はこの胸毛を気に入っていた様だった。一緒に寝た時も、顔をうずめていた。
(まさかヨーコ……私は犬達と同じ括りなんじゃ……)
「チャーリー」
「何だい?」
おもむろにシャツの前を開き、友人の手をとって自分の胸へ乗せてみる。
「私の胸毛をどう思う?」
チャーリーはまじめ腐ってふさふさと親友の胸をなで、しかる後にゆっくりと頷き、厳かに答えた。
「うん、ふさふさしてるね。動物みたいだ。女の子は好きだよねー、犬とか猫とかぬいぐるみとか、ふさふさしたのが!」
(やっぱり!)
「チャーリー」
「何だい?」
「正直に答えてくれ。私は、犬っぽいと思うか?」
「えっ、自覚なかったのっ?」
ランドールは目をむいてにらみ付けた。めくりあげた唇の間から、白い犬歯がちらりとのぞく。
(うんうん、どこから見ても立派な犬だよ……)
この瞬間、いい具合にアルコールでほどけたチャーリーの頭に一つの天啓が閃いた。
(カル……そうか! 君は、ワンちゃんプレイ(Puppy Play)に目覚めていたんだね! ご主人はもちろん、彼女だ。そうなんだね?)
「そんなに睨むなよ。ビーフジャーキー食べるかい?」
「……もらう」
憮然として、がしがしとジャーキーをかじる友人を、チャールズ・デントンはなまあたたかいまなざしで見守った。
(ああ、いけないなあ、ご主人様以外の人間からほいほい餌もらっちゃあ……まだまだ修業が足りないな。がんばってヨーコにせっせと尽くしてくれたまえ、親友!)
「カルヴィン。何があっても僕たちは友だちだよ」
「あ、ああ……ありがとう」
分かりあっているようで、二人の頭の中は微妙にすれちがっていた。
「グラスが空いたよ、カル」
「君こそ」
今度は氷もソーダも入らなかった。
(水の向こうは空の色/了)
「チャールズ」
「何だい?」
「……犬を飼おうと思うんだ」
「え?」
(おしまい)
→その頃、サリーちゃんは……
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