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ローゼンベルク家の食卓

【ex10-17】夜朱けの晩に

2010/05/03 0:04 番外十海
 
「くっ」

 蹄の一撃が右手を直撃する。デリンジャーがたたき落とされ、光の粒になって消えた。

「あ……」

 四方八方から夢魔の手が一斉に伸びる。銃を失った今、羊子に身を守る術はない。あっと言う間に捕まれ、式を呼ぶ暇もなく引きずり倒された。

「離せぇっ」

 死に物狂いで暴れた。引っかいた。掻きむしった。大人しく捕まる気はさらさらなかった。だが、か弱い手足で懸命にもがいたところで、悲しいくらいに無力。かえって夢魔の嗜虐心を煽るばかり。

「大人しくおし、この小娘がっ」
「おお元気がいいね、可愛いねえ。そう言う子は……」

 しゅるしゅると手足に何か細長いものがまとわりつく。一瞬、蛇かと鳥肌が立つ。だがよく見れば植物だ。蔦だ。

「っ、これは! あっ、離せっ」

 手首をからめとられ、高々とつり下げられた。袖がたれさがり、腕が付け根近くまであらわになった。さらに足首にも蔦が絡みつき、動きを封じられる。あまつさえ蔦から染み出す紫の樹液がじわじわと肌に浸透し、動こうとする力を封じて行く。奪って行く。

 手から、足から力が抜け、だらりと垂れ下がる。だが意志の力を振り絞り、きっとにらみつけた。

「貴様……あの時の……」

 忘れもしない。風見と二人で狩った、黒いコウモリの翼の生えた夢魔だ。交通事故で手術中、大量の出血で亡くなった娘の父親に巣くった忌まわしい吸血の鬼。
 
「覚えていてくれたんだね。嬉しいよ……ほら、これをご覧。お前が撃った傷だ」

 闇が凝縮したような人影がのしかかってくる。背に生えた蝙蝠の翼をマントのようにはためかせて。
 目も耳も鼻もない。全て真っ黒に塗りつぶされた顔にはただ、ぞろりと白い牙の生えた、三日月型に裂けた口だけがあった。そして、額にぽっかり開いた穴が一つ。じくじくと膿みただれ、うじがわき、どす黒い血がにじみ出している。

「痛いんだ。血が止まらないんだ。お前の血で癒してくれ」
「う……ぁ……」

 指先が咽をなでる。じゅるり、と真っ赤な舌がくりだされ、舌なめずりをした。

「きれいなのどだね、お嬢さん」
「あっ」

 ぷつっと咽の皮膚を夢魔の牙が食い破る。痛みはない。ただ、破られた感触と、吸われる音は克明に肌に伝わってくる。

 じゅるる、じゅう、じゅじゅじゅ……ずぃいい……。

 力が吸い取られて行く。鋼のような手足に押さえ込まれ、身じろぎさえできない。
 意識が霞む。視界がぼやける。今にもすうっと暗い底の無い穴の中に吸い込まれそうだ。

「全部吸うなよ」
「そうともさ、後がつかえてるんだからね?」
「何、何、がっつく事もなかろう。こいつはもう逃げられない」
「そうともさ。ゆるゆると吸い尽くしてやろうじゃないか。時間をかけて、ゆるゆるとね」

 ささやく夢魔どもの声が、ぼんやりとどこか遠くに聞こえる。まるで水の向こうのざわめきみたいに。

 じゅるり。
 また一口、命がすすり取られた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 パキーンと甲高い音をたて、勾玉が砕けた。砕けた破片はきらきらと灯りを反射しながら飛び散った。

「先生っ」

 身じろぎもせず眠る羊子が、いきなりビクっと痙攣した。背筋をのけぞらせ、空ろに目を開き、ガクガクと震える。

 ぶわっと亀裂の底から濃密な瘴気が吹き上がり、その刹那、彼らは見た。現実と二重写しになった、悪夢の中の羊子の姿を……。身にまとう装束は泥にまみれて乱されて。手、足、胸、首、腰、胴体。体中いたるところに、うねうねと蠢くどす黒い蔦のようなものが巻き付いている。

 唇がわずかに動き、かすれた声がこぼれた。途切れ途切れに、絶え絶えに……。

「や……め……」

 夢の中の羊子が顔をゆがめ、身もだえした。周囲が泡立ち、ごぼっと肉のひだのようなやわらかな突起がわき出す。肉厚の植物にも似たそれは、粘液をしたたらせてじわじわと獲物の体を包みこみ、ゆるりゆるりとこねまわす。
 現実の羊子がうっすらと汗を浮かべて身じろぎする。袴が乱れ、白いふくらはぎがこぼれ落ちる。

 夢魔の群れは明らかに、手の内に捕らえた生贄をいたぶることを楽しんでいた。じっくりと時間をかけてしゃぶりつくすつもりなのだ。

 三上はゆっくりと剣を抜いた。苦い失望を噛みつぶしながら。

(間に合わなかったか、カルヴィン・ランドールJr……もう少し骨のある男と思ったが)

 切っ先を向ける。だがその先は螺旋の亀裂ではない。蠢く悪夢の蔦でもない。
 眠る羊子の喉元だ。

「三上さんっ」
「何を?」
「このまま夢魔に飲み込まれれば……結城さんは悪夢と現実を繋ぐ扉となる。彼女を入り口にして悪夢が大々的に浸食を始めてしまう」

 ぬるり、と幻の蔦が羊子の体をなで上げる。びくん、とほっそりした体が反り返り、震えた。

「あるいは……悪夢使いに成り果てる……」

 むしろその可能性の方が、高い。忌まわしいことに。

「そんな事、絶対にさせない!」
「ええ。そんな事は、羊子先生も望まない。君たちなら、わかるでしょう? 目覚めた時、彼女がナイトメアに乗っ取られていたら。その時は………我々のすべきことは一つだ」

 がったん!
 社殿の扉が、たわむ。誰かがしたたか体当たりをかませたように、外側から内側に向かってめきめきと軋んでいる。三上はちらとも切っ先を揺らさず、外の相手に向けてぴしりと鋭く言い放った。

「あなたも分かっているでしょう……? 蒼太くん」

 だん、と床板を叩く音、一つ。それきり外の気配は静まり返った。 
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「ふぅ……あぁ……」 

 ぐったりした羊子の咽に牙を埋めていた夢魔が口を放し、愉悦のため息をもらした。ぬらぬらと濡れた牙からぽとりと赤い雫が滴り落ちる。

「ちくしょう、いいにおいだ」
「ああ、もう我慢できない」

 装束の袖が。袴の裾がまくりあげられ、なでまわされる。腕に、足に牙が食い込む。

「ぁっ、や……め…ろっ」

 ぷつり、ぷつりと尖った固い突起に柔らかな肌と肉をこじ開けられ、抉られる。こぼれる血を容赦なくすすられた。舐められた。

「く……う……ぁ……あっ」
「あったかいね……」
「甘いねぇ……」
「一滴のこらず、すすってやるよ」

 不意に、右足首に絡みつく蔦がきりきりと引き絞られ、片足がつり下げられた。
 袴が太もものあたりまでめくりあげられ、足の内側にねっとりした舌が侵入する。

「あっ」

 そいつの意図に気付いた瞬間、嫌悪感に鳥肌が立った。背筋が震えた。

「よせっ、何をっ!」
「ああ、そんなに怯えなくてもいいんだよぉ。ちょっと味見するだけだからね」
「や…いや……ぁうっ」
「ん……いいにおいだ、たまんねぇなあ……」

 じゅるり、と粘液をからめた舌が伸びる。羊子はマヒした体で身もだえし、泣き叫んだ。できるものならそうしたかった。だが、思うように声が出ない。舌がしびれて、動かない。

「あ、ぁ、や……だ……っ」

 ぐい、と横合いから別の夢魔が舌を掴んだ。内もものすぐそばで、びちゃっと粘つく液が飛び散る。

「急くな、味が濁る」
「へっ。気取りやがって」
「上の口で、我慢しな」
「しょうがねぇなあ」
「い……や……ぁ」

 びちゃり。

 かすれた悲鳴を挙げた口に粘液をしたたらせた触手がねじ込まれ、声を封じる。

「う……ふぐっ、ぅうっ」

 為す術もなく口内を蹂躙され、目の縁に涙がにじんだ。

(悔しい……こんな奴らに!)

 歯を食いしばることすらできない。滴る粘液が咽の奥に流れ込み、咽せる。
 顔に、咽に、胸に。いく筋も流れ落ちるのは、忌まわしい夢魔の唾液なのか、それとも己の涙か。せめて歯を立て、噛みついてやりたいと思った。だけど顎に力が入らない。

「おや、ご覧よ。この女ときたら、口につっこまれたモノをしゃぶってるよ」
「ああ、本当だ。よだれまでたらして……あきれたねぇ」
「そんなにコレが気に入ったかい、お嬢ちゃん? いいぜ、好きなだけ味わいな、そら……」
「んう、ぐぅっ」

 口の中の触手が煽動し、舌を吸い上げられた。

(嫌だ。嫌だ、嫌だ!)

 夢の力を使い果たせば、通常のドリームダイブなら外にはじき飛ばされる。だけど、今は……。
 己の末路を予測し、羊子は心の底から怯えた。真っ黒な絶望が胸の中を埋め尽くしてゆく。

(い……や……だ……)

 ぽろりとこぼれ落ちる涙を、夢魔の舌が舐め取った。

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