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ローゼンベルク家の食卓

【ex10-16】いついつ出やる

2010/05/03 0:02 番外十海
 
「かはぁっ」

 ごぼっと水面に顔を出し、息とともに塩辛い水を吐く。浮力を失った手足がずしりと重い。まるで砂を詰めた袋だ。濡れた衣服が絡みつき、なおさらに体を地面に引きずり下ろす。震える手を筋肉と言うよりほとんど意志の力で無理やり動かし、岸辺にはい上がった。

 振り向くとそこは、水の涸れた川床で……自分がたった今はい出してきたのは、どんよりと濁った浅い水たまりでしかなかった。

 何て不条理、だが、これが夢の中。

 手のひらで川岸の岩をつかみ、いつもの三倍くらい重たいに体を引きずり上げる。膝をつき、空を見上げた。
 どんよりと重たいにび色の空。何だかおかしいな、と思ったら写真を継ぎはぎに貼り付けたみたいにチラとも雲が動かない。しかも、同じ形、同じ濃度の空が延々と繰り返している。
 かろうじて立体感はあるようだが……。
 立ち上がるとべしゃり、と緋色の袴が地面を叩く。なんだか金魚のひれみたいだ。
 
(何、考えてるのかな。こんな時に)
 
 一歩、また一歩と足を運ぶ。だらりとたれた腕、力なく動かす足、冷えきった顎、胸、腹。全身から滴る水が、乾いた荒れ地に染み込んで行く。草一本生えていない。見渡す限り肉を練り合わせたような形の岩がごろごろ転がっている。
 こりゃまた何とも殺風景、だが乾いているだけマシだと思おう。少々、乾き過ぎな気がしないでもないけれど。

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 濡れた装束が体に貼り付き、なまじ裸でいるより肌の感触が生々しい。かろうじて足袋ははいているが、草履はどこに行ったやら。足首の回りがぱかぱか言っている。外れた小鉤(こはぜ)を止め直したいところだが、ここで屈みこんだら最後、そのまま動けなくなりそうな気がする。
 そして、風が。
 ひっきりなしに吹きすさぶ生臭い風が、どんどん体温を奪っている。指がかじかんで、止め直そうにもおそらくうまく動くまい。

「……ああ……」

 どれほど歩き回っただろう。袴も足袋も、すっかり砂にまみれてじゃりじゃりに汚れた頃、ようやく、風をしのげそうな大きさの岩を見つけた。岩陰に寄り掛かってうずくまり、凍えた手足をさする。
 だが一向に暖まらない。

「たき火が欲しいな……」

 意識が言葉に方向づけられ、収束し、一つのイメージに固まった。
 指先に箱に入ったマッチが現れる。一本取り出し、しゅっと箱の脇ににこすりつけた。灯った小さな火が膨らみ、広がり、たき火になった。
 うん、上出来。うまく誘導できたもんだよ。
 オレンジ色の炎にかじかんだ手足をかざした。

「……あったかいなあ……」

 誰かが笑った。
 声を立てずに、口を歪めて。見えた訳ではない。だが気配でわかる。
 身構えた刹那、たき火の向こう側にどんよりと瘴気が凝り固まり、一群れの影が滲み出した。
 しゅうしゅうと、空気の漏れるような声でつぶやいている。ささやいてくる。呻いている。

『待ってたよ』
『今度こそそそそそぉおぉおぉぉ、お前ぇぇぇのぉのどをぉぉ切り裂いてやるぅうぅうぅうぅうぅ』
『赤い血をすすってやる』

 目を凝らす。眼鏡は失ったがここは夢の中だ。意志の力が像を結び、本質を見通す。うごめく影は、いずれもどこか、見覚えがあるように思えた。
 ぱちん!
 たきぎがはぜた。つかの間炎が燃え上がり、影の群を照らし出す。
 山羊の角と蹄のある足、禿鷹の嘴と翼、黒いコウモリめいた翼……見覚えあるも道理。かつて狩ってきた夢魔どもだ!

「どいつもこいつも、往生際が悪い……」

 無造作に右手を懐に突っ込み、岩を背に立ち上がった。

「こんな所まで付きまといやがって、うっとぉしい」

 火が徐々に小さくなって行く。たき火を実体化させる時間が限界に近づいてきているのだ。再度集中する時間は、もうない。
 一本。
 また一本、炎もろとも、燃えていた枝が消失する。そのたびに影の群がじわり、と囲みをせばめてくる。
 最後の一本が消えた瞬間、一体が翼を広げて襲ってきた。

「くっけぇえええ!」
「とっとと消えろ!」

 光る目のど真ん中に一発、撃ち込む。極彩色の羽根をまき散らし、禿鷹に似た姿の夢魔が地に落ち、飛び散った。

「当たりに来てくれて、ありがとう……」

 にっと口角を釣り上げると、羊子はデリンジャーを水平に構えて狙いを付けた。

「気をつけろ」
「気を付けろ、この女の銃は痛いぞ」
「取り囲め」
「逃がすな」
「逃がすな」
「守りは居ない。いずれ力尽きる」

 影がぶわっと膨れ上り、うわん、うわわんと雲のような群が押し寄せてきた。歪つな羽虫と黒い山羊……夢魔の使い魔どもだ。羊子は矢継ぎ早に銃を連射し、片っ端から撃ち落とした。

「このっ、ちまちま、ちまちま、うっとおしい!」

 体勢を立て直そうと一歩後に下がる。と……足がずりっと崖の縁を踏んだ。

「なっ?」

 背にしていたはずの岩が消えていた。そこにあるのは切り立った断崖絶壁。
 
「追いつめた」
「追いつめた」
「もう、逃げられない」

 ごうごうと容赦なく風が吹きつける。足を踏ん張ってかろうじて、落とされぬよう踏みとどまる。砂ぼこりが舞い上がり、目に染みる。石の一粒、水の一滴、一陣の風い至るまで、全て自分の敵なのか。
 どうっと叩きつける空気の壁に、よろりと後ろに押された。
 からからと小石が転げ落ちる。崖の下は底知れぬ奈落。落ちて死ぬか。過去の亡霊に喰い尽くされるか。

「どっちもごめんだ!」

 忍び寄る一体を、ばんっと撃ち抜く。

 ぎぃ、ぎぃ。
 ぎちちち、ぎしぃ。くぅ、ぐるるうぅるう………。

 獣の声とも、枯れ木やガラスのきしる音ともつかぬ不気味な音が、ざわりざわりと押し寄せて来る。羊子は乱れた襟をぐいとかき寄せ、顔を揚げた。

「さあ、次に撃たれたいのは、どいつだ!」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 ぽそり、と足が乾いた土にめり込む。振り向くと自分の後ろには点々と足跡が続いている。

 あれからどれほど時間が経過したのだろう。進めども進めども乾いた土、乾いた石、草一本生えていない。
 ここはまるで、砂漠だ。失恋の逃避行からの帰り道、一人で歩いたあの寂しい岩の道。
 うつむくと、ばさり、と伸び放題の髪の毛がこぼれ落ち、カーテンみたいに顔の回りを覆った。
 暗く区切られた狭い空間の中、意識がふらりと混濁する。

 元々、ヨーコなんて女性は存在しないのではないか? あれは、遠くから見かけた面影を元に、自分が作り上げた幻で……。
 赤いリボンが消えたのが何よりの証拠じゃないか。

(居もしない相手を探しても無駄なこと)

 信じて、支えて、叱咤して。家族とも、友人とも、恋人とも違う、穏やかで満たされた絆。

『カルヴィン。カル!』

 澄んだ心地よい声が名前を呼ぶ。クリスマスの前の夜、甘く香る温もりに包まれ、眠った記憶も。
 胸の奥をやわらかな指先でなでられるような日々も所詮は全て幻、忘れてしまえばそれで終る。
 舌の奥に何日かは名残の苦さが残るだろうが、それだけだ。

(忘れてしまえ。この喪失の痛みを、一秒でも早く、忘れて……)

 ランドールのまとう色彩が徐々に変わっていた。足下から色味を失い、灰色に色あせて行く。周囲の景色に同化して行く。

(なかったんだ。最初からなかったものを失う訳がない。だから苦しくはないんだ……)

 ひらり……ふわり。灰色の中に鮮やかな色がひらめく。顔を上げると何としたことか。立ち枯れた木の枝に、細いリボンがひっかかっているではないか!

「あった!」

 ランドールは風よりも早く走った。ひらめくマントの裏地がつややかな赤を取り戻し、灰色の景色を切り裂いた。
 白く干からびた葉も小枝もそのままに、白骨のように立ち枯れた川辺の木立にリボンが揺れている。後少し……もう少し……
 見つけた!
 彼女の痕跡だ。

「違う……これは、青い」

 失望すると同時に青いリボンはくたくたと色あせ、崩れてしまった。伸ばした指の先で、空中に溶け入るように消えてしまった。
 さっきまでそこに在ったのに。
 触れることもできなかった。

「あ」

 どぉん、と鈍い衝撃に打たれる。遠く響く雷のような不吉な響きに揺さぶられ、ちかっ、ちかっと瞼の裏側に閃光が走る。
 ……だが音は聞こえない。
 この喪失感。以前にも経験した。ずっと昔、自分は確かに探していた! 誰か、大事な人を。

「ここは……」

 目の前の景色と記憶の中の情景が結びつく。
 ここは、子どもの頃住んでいた家の庭だ。サンフランシスコの郊外の広い家……母の為に父が建てた。広々とした庭には草木が生い茂り、小川が流れ、屋敷のエントランスから並木道が延びていた。

 そうだ、この道だ。
 手のひらを握る。
 ぎゅっと握った手で、ごしごしと目をこすりながら歩いていた。後から後から涙がこぼれ、泣き過ぎて咽が干からびていた……。
 そして、小川のほとりで、こうして枝にひっかかっていた青いリボンを見つけたのだ。

(あの頃の自分は無力で小さくて。リボンの持ち主を見つけ出すことができなかった)
(あれは……誰なんだ?)

「ふふっ」
「誰だ?」

 密やかな笑い声を聞いた。振り向くと、視界の端を白い裾が掠めた。軽い足音とともに華奢な人影が駆けてゆく。幻のようにゆらゆらと、奇妙に縮尺の大きな灰色の景色の向こう側を。

「待ってくれ!」

 彼女は……そうだ、女の子だ。まだ幼い少女。ちらりとこっちを振り向いた。いや、振り向こうとした。
 だが顔は見えない。ただ風にゆらめく金色の長い髪と青い瞳のみが記憶に映り、消えた。

 消えて、しまった。

『ああ! …………! 私の………!』
「母さん」

 母が泣いている。青いリボンを握りしめ、身をよじり泣き叫んでいる。
 自分も悲しい。青いリボンに白いドレス、日の光にきらめく金の髪。自分は、その人が大好きだった。いなくなって、悲しかった。
 それ以上に、母が悲しい顔をしているのがつらかった。

『カルヴィン。ここにいたのね。ああ、よかった……母様から離れてはだめよ……』

 あの頃の母は少しでも自分が離れると、半狂乱になって探し回った。穏やかで優しく、力強い母が。あんなにも弱く、ぼろぼろになる姿を見るのは苦しかった。
 恐ろしかった。

「大丈夫だよ、母様。僕がいる」

 だから己に誓ったのだ。母を守らなければ。強くならなければ。もう二度と、大切な人を失わないために。

『いい子ね……カルヴィン。いい子』

 優しい手が髪を撫でる。ほっそりした指先が、銀色に光る鎖を首にかけてくれた。

『これをあげる。いつも身に付けているのよ。決して手放してはだめ……』

(……そうだ、あの時、母がくれたんだ)

 鉄の十字架に銀の鈴。ずっと身に付けてきたお守りを。魔女に小さな子どもに変えられたあの時も、守ってくれた。

 チリン……と胸元で鈴が鳴る。
 それに応えて鈴の音がもう一つ、足下……いや、水の底からだ。

 見下ろすと、水の向こうにもう一つ、別の空が広がっていた。

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