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ローゼンベルク家の食卓

【ex10-15】篭の中の羊は

2010/05/03 0:01 番外十海
 
 リ、リィ………ン。

 鈴の音が一つになり、景色が変わった。

(寒い)

 周囲は灰色の霧が立ちこめている。古い映画のフィルムのようにざらりとした粒子の粗い霧だった。
 ついさっき、夢魔と対峙した海岸とは明らかに異なっている。足の下はじっとりした砂浜ではなく、固い土だ。空気のにおいも海辺の生臭さはない。冷たく、乾いている……こんなに霧が出ているのに。

(ここは……どこだ?)

 空はどんよりと灰色の曇り空。だが、生きた空ではない。古い写真を切り張りしたような、動きのない平べったい空だ。
 見えるものは全て色を失い、まるで月の光の写す影絵だ。確かにこの景色には見覚えがある。だが思い出そうとした瞬間、記憶がするりと指の間をすりぬけ消えてしまう。

 ざあっと風が吹く。
 髪が吹き散らされ、マントが翻った。

 赤い裏地の黒い吸血鬼のマント。髪は長く伸び、舌先でさぐる犬歯は鋭く尖っている。
 この姿、確かに夢の中に入ったのだ。しかし、これは本当に『同じ』夢なのだろうか。彼女の消えた場所に戻ることができたのだろうか?
 あまりにも違い過ぎる。
 確かに巻き付けたはずの赤いリボンは、左手から消えていた。いつものように髪を束ねてもいない。

 彼女の痕跡が……消えた。
 目をこらしても。耳をすましても。冷たく乾いた風を嗅いでも、彼女を感じることができない。

(このまま君を永久に失ってしまうのか?)

 じりじりと喪失感が胸を食い荒らしてゆく。食われた後は黒い空ろな穴になる。
 悪夢が現実になってしまった……いや、正に自分は今、悪夢のただ中にいるのだ。
 日本とアメリカに離れていた程度では、まだ引き裂かれたうちには入らなかったのだ。あの時は、遠い日本に確かに彼女が存在していた。同じ時間の流れの中を生きていた!

 だが、今は……。

 彼女を呼ぼうにも舌が強ばる。口にした瞬間、その名前すら自分の中から抜け落ちてしまうのではないか? 
 無意識に胸元をまさぐった。現実の自分が身に付けた、十字架と鈴のあるはずの場所を。

(リ……ン……)

「!」

 かすかに。
 ほんのかすかに、鈴の音を聞いた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ふわふわと漂っている。
 黒いガラスみたいな水の中に浮かんでいる。上も下も右も左も水、水、水。息はできる。寒くもない。
 確かに水の中にいるはずなのに……手足に抵抗と浮力を感じる。髪も、装束の袖も、袴もふわりと舞い上がり、翻っている。

(あ)

 やわらかな、繊維の束が足の先に触れた。まるで猫とすれ違ったようなくすぐったい感触。と……周囲を包み込む黒さが密度を増した。
 いつしか羊子を包む海水は黒く、みっしりとまとわりつく髪の毛に覆い尽くされていた。水の中に髪の毛が漂っているのか。それとも、髪の毛が水を含んでいるのか。
 服の内側にまで入り込み、手、肘、二の腕、足首、太ももをやさしく撫でる。それはぬるりとして暖かく、いつまでも包まれたくなるような心地よさだった。

「おいで」
「っ!」

 はっと目を開ける。
 美しい女の顔があった。初めて見た時と同じ、真珠色のつるりと美しい水妖の顔。石膏像のような首筋、すらりと伸びた肩、手………背筋が震えるほどに魅惑的な造形の、半人半蛇がほほ笑み、手をのばす。
 ほっそりした指先で顎の先を支えられた。

「あなたも私と同じ」
「違う」
「わかっているのよ。恋しい人に裏切られた、かわいそうな女」

 やめろ、聞きたくない! 彼女から目をそらしたい、だけどそらせない。手足はしびれ、指一本動かせない。かすれた声を咽から絞り出すのが精一杯。

「カルは………………私を裏切ってなんか、いな……い」
「寂しいんでしょう? 悲しいんでしょう?」
「寂しいけれど。悲しいけれど。それはあの人のせいじゃない!」
「私たちは同じ」

(私は君に嘘はつかない)
(優しい嘘なんか、ついてあげない)

「違う!」
「同じだよ。どんなに思っても。願っても。あなたの愛する人は、あなたを愛してはくれない。見てはくれない。あなたがどんなに苦しんでいるか、彼は理解してくれやしないんだ。どれほどの痛みに苛まれているのかも……わからない。想像すらできないんだよ」
「あ………」

 苦い針が何本も胸を貫き、かきまわす。心臓をぐちゃぐちゃに突き崩し、原形も留めぬほどにこねまわす。

「ち……が……う……っ」
「わかってるくせに。お前はあいつを百回殺してもおつりがくるくらいに酷いことをされてるよ。そろそろ代償を払わせてもいい頃合いじゃないか。そうだろ?」
「やめろ、やめろ、聞きたくない!」

 目に見えない塊が腹の底からせり上がり、咽を塞ぐ。息が詰まり、舌が口から押し出された。

「ぐ……うぅっ」

 一つのベッドの中で温もりを共有したあの夜。その先に何が待受けているのかなんて知りもせず、ただ彼の温かさに甘えて溶けた。

(いっそあの時、彼の腕に包まれたまま、目がさめなければよかった……)

 メリジューヌが、笑った。眼球のない、閉ざされた真珠色の目元を歪ませて。

「私の手をお取り。一緒になろう。そうすればお前の愛する人を引きずりこんであげるよ。暗い、静かな水の中で二人っきり。ずうっと彼を独り占めできるよ……」

(ずうっと……独り占め……?)

 甘美な誘惑、だがそれ以上の恐怖が紫の閃光となり、眼球の裏側から網膜の表面に突き抜けた。

「……断る」

 ぎりっと唇を噛みしめた。
 青い月光に染まる森。あの夜、初めて恋した男を永久に失った。彼はもう、どこにもいない。どこにも、どこにも……。

 熱い、塩からい水がこぼれる。その強烈な塩の味がぴしりと意識の横っ面を張り倒し、腐った甘さを吹き飛ばす。

「カルが私を振り向いてくれなくてもいい」

 ぼろぼろと涙がこぼれる。頬から首筋へと伝い落ち、皮膚に染み込む。硬直し、自由を失っていた体が感覚を取り戻して行く。

 瞼の裏にちかっ、ちかっと過去の情景が翻る。
 風花の散るゴールデンゲートブリッジ公園の展望台。

(君を抱きしめる手を………私は、失くしてしまったのかな………)

 クリスマスでにぎわうユニオン・スクエア。表通りに面した宝石店のショーウィンドウの前。

(君を失いたくないと……私が言うのは、卑怯だね。でも……)

 再び巡り合った夢の中。記憶から再構成された、幻のフェリービルディング前の広場。

(会いたかった!)

 彼は、そこに居た。

「………あの人が、お日さまの光の中で、笑って生きていてくれれば……」

(君は来てはいけない。残って後に続く者を導け)

「………今と言う時間の中に存在してくれるなら。私は、それだけでいい」

 夢魔が口元を歪めてあざ笑う。ぽってりと官能的な唇の間から、乱ぐい歯がのぞいた。

「強がりをお言いでないよ。本当は自分の好きな男を引きずり込みたいくせに。自分だけのものにしたいくせに!」

 真珠色の手が頬を包み込み、ぐい、と引き寄せられる。指がにゅうっと伸びて顔中をまさぐった……ひたひたと、蜘蛛の足のように。

「ああ、そうだ、あの男が懸想してる奴がいたね。テリーとか言う……」
「っ!」
「そいつを殺してあげるよ。食ってあげるよ。そうすれば、恋しい男はおまえのものだ。どうだい? それこそ夢のような話じゃないか!」


『ずるいよ、カル……こんなことしても………どうせ、テリーの方が好みなんでしょ?』
『そうだよ』

 テリーがいなければ……。

「だめ!」

 それが自分を懐柔する夢魔の嘘。毒を飲ませるための、甘い罠と分かっていても、心のどこかで「うん」と答えたい自分がいる。
 そうだったらいいのに。
 甘美な幻想に浸り、夢想する、愚かで生臭い蛇がいる。

(私と、こいつは……同じだ。同じなんだ)

 だからこそ見える。理解できる。こいつの本質が。

 どんなに求めても。
 むさぼっても、結局は一人ぼっち。誰も愛することはできない。誰からも愛されることもない。差し伸べられた手に背を向けて、自ら闇に沈み、泣き叫ぶ。
 ぬるり、とまとわりつく黒髪の密度が増した。肌にとろりと溶け込み、触れているのが自分の髪なのか彼女の髪なのか……ふんわり霞んで境目が消える。区別をつけることすら、意味のない事に思えて来る。

「おいで、いっしょに水の底に沈もう。いっしょに眠ろう……」

 夢魔が顔を寄せてくる。うっすら開いた唇で、キスをしようと引き寄せる。

「………」

 もうすぐ、唇と唇が、触れる。メリジューヌは目を細めてほくそ笑んでいた。もうじき、新たな獲物を手に入れると。
 羊子は手をさしのべ、夢魔の頬をなで……にやりと笑った。
 
「いいえ。沈むのはあなた一人」

 ぴたりとデリンジャーを額に押し付け、引きがねを引く。
 ドン!
 反動でメリジューヌはのけ反った。ぽつりと額に開いた穴から、真っ黒な水が噴き出す。砕け散った真珠色の鱗が飛び散り、羊子の顔を掠める。
 髪を結う組み紐が弾け、額にぷつっと小さな切り傷ができた。

「馬鹿な子……やせ我慢して……」
「ああ、やせ我慢だよ。強がりだよ! でもね、私がそうしたいの。私が望んでいるの! だから無理を承知で押し通すんだ。そのためなら、己の中の蛇をも撃って捨てる!」
「きしゃああっ!」

 金切り声をあげてメリジューヌはぶわっと膨れ上り、干からびた。ぞろりと爪の伸びた手で掴み掛かる。
 既に広げた手のひらの大きさが羊子を覆い尽くすほどだ。圧倒的な大きさ、逃げることはできない。捕まったら最後、ちっぽけなチョウチョみたいに、ひとたまりもなく握りつぶされてしまう。
 
 だが。
 今にも鍵爪が羊子を捕らえようとした刹那、銀色の光が二筋、夢魔の顔を貫いた。

「ひぎゃあっ」
 
 二発目の銃声が響く。
 一瞬で百年が過ぎたようだった。瞬く間に巨大な夢魔は骨と化し塵と、崩れ………消えた。

「…………おやすみ………」

 何故だろう。
 心の中を探しても、見つからない。

 彼女への怒りも。
 あざけりも。
 怖気が立つほどの、嫌悪感さえも。

 全て消えていた。ただ、ただ悲しく、空っぽだった。

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