▼ 【4-18-5】Lost-Boy
「ぐ……」
オティアは咽の奥で一声呻くと、テーブルにだん、と手を着いて半身を起こした。
「あいつ……」
凄まじい衝撃だった。
シエンを無意識に庇ったのが原因だ。本来、彼が受けるはずだった恐怖と不安、悲しみ。負の感情の入り交じった苦い爆弾をほとんど自分が受け止めてしまった。
「あンのバイキングめ……」
昨日、あれほどシエンに近づくなと言ったのに、いきなりだ。いきなり、あんな近くに割り込んで来るなんて!
(物理的な距離の問題じゃない。遠慮もためらいもなく、ずかずかと自分たちの安全圏に踏み込んできた)
頭の中に吹き出す悪態の数々を、ぐっと飲み下す。今はそれよりもやらなきゃいけない事がある。
よれよれと携帯をひっぱりだし、短縮ボタンを押す。2コール目の途中で出た。聞き慣れた穏やかな低い声。
「どうした」
深呼吸一つ。淡々と言うべきことを伝える。
「シエンがパニック起こして、外に飛び出した」
「おまえは大丈夫なのか!」
「心配ない……ちょっと休んだら、事務所に戻る。シエンのがやばい」
「……わかった。スタバに居るんだな?」
「ああ」
「シエンはどっちに行った」
「………」
目を閉じる。
ずっきん、と頭の奥でトゲだらけの塊が転がった。眉をしかめて、さらに『潜る』。
ぽつりと光の点が見えた。ものすごい勢いでこの場所から遠ざかっている。目を開き、光の動いていた方角を確かめる。
「……南。通りに沿って走ってる」
「わかった。すぐ行く。お前はそこを動くな。アレックスに迎えに行かせる」
「OK………」
電話を切る。
これでいい。行くと言ったら、ディフはすぐ動く。自分は……もう少しだけ休んでいよう。アレックスが来るまで、もう少しだけ。
テーブルの上には、きちんと畳んだピスタチオグリーンの手袋と、白いiPodが取り残されていた。
※ ※ ※ ※
「はあっ、は、は……はぁ……」
くらくらする。
もう、足に力が入らない。
ここは、どこなんだろう。
冷たい雨が頬を打つ。
髪も顔も手も足も、服もぐっしょりと濡れている。指先がかじかんでいる。傘も、手袋も置いてきてしまった。
冷えきった手足を動かし、よろよろと近くのビルの軒先に座り込んだ。雨がほんの少し遮られる。
(怖いよ。寒いよ。助けて。助けて!)
無意識のうちにポケットをまさぐり、携帯を取り出した。指がなかなかうまく動かない。歯でストラップをくわえて、両手の爪を立て、無理やり開いた。
夢中でボタンを押して、電話帳のDの項目を呼び出す。一番上の一人を選び、かけた。
一昨年の十一月。遠ざかるオティアの背を見送った後、冷凍グリーンピースの看板の下にうずくまり、電話をかけた。あの時と、同じ人に……。
最初のコールが終るか終らないかのうちに、聞き慣れた低い声が答えてくれた。
「シエン」
「………ディフ!」
「今、どこにいる?」
声を聞いた途端、だーっと涙がこぼれた。温かくてしょっぱい。今まで顔を濡らしていたのは雨だったのだと始めて気付く。
「わか、わかんない、わかんない……」
「大丈夫」
静かな声だった。ディフが言うのなら、大丈夫なんだと思った。
「赤……赤い壁………でこぼこしてる……四角いのが、重なって」
「レンガか」
「うん……」
「番地、わかるか?」
しゃくりあげながら近くの電柱の標識を読み上げる。
「わかった。すぐに行く。待ってろ」
「うん……うんっ……あ、待って、切らないでっ」
「つなげておく。だから心配すんな」
「うんっ! は……はやく……来て」
「……ああ。大急ぎで、迎えに行く」
※ ※ ※ ※
背の高い、ひょろりとした人影がたたずんでいた。シエンがうずくまる軒先からほんの少し離れたゴミ箱の影、白っぽいベージュのコートを羽織り、傘もささずに。
エリックはほっと胸をなでおろした。
いい場所に逃げ込んでくれた。あそこなら、雨の何割かは防げる……ここよりはずっとマシだ。
襟首から入った雨粒は身に付けたものをことごとく湿らせ、ズボンの足首かだぼとぼとと滴り落ちる。
やれやれ。この『足首からぼとぼと』ってのが一番みじめなんだ。
目をこらして、シエンの様子を観察する。携帯を取り出した。開いて、電話をかけている。ふと思いついて自分の携帯からセンパイにかけてみた。
予感的中、話し中。
(やっぱりな)
そのまま現在位置をキープしつつ、張り込みを続けていると……。
いくらも経たないうちに、のっし、のっしと大股で歩いてくる人物が近づいて来るのが見えた。大きな傘をさしていて、顔は見えない。だが黒いライダーズジャケットに見覚えがあった。第一、あの歩き方は見間違えるはずがない。
シエンが立ち上がった。
傘をさしていた人物が、駆け寄ってきた。ちらりと鮮やかな赤い髪が見える。
ディフォレスト・マクラウドは、まっすぐ飛びつくような愚かなマネはしなかった。少し手前で歩調をゆるめ、よく通る、だが静かな声で呼びかけた。
「シエン!」
君をさがしている。
俺はここだ、と。
くしゃっとシエンの顔が崩れる。表情を無くし、凍りついていた顔が……感情を取り戻した。
「まま!」
叫びながら飛びつき、すがりついた。大きくて頑丈で、あったかい腕の中に。
「まま……」
「………シエン」
傘が、路面に落ちる。
怯えきったひな鳥は、やっと親鳥の懐に潜り込んだ。決して自分を放り出さない、守ってくれる、あたたかな翼の下に。
「ディフ………ディフ………」
「大丈夫だ。もう、大丈夫だから………」
ディフはシエンを抱きしめ、背中を撫でた。大きな手のひらでゆっくりと。
「エリックは悪くない……悪くない………」
「……うん……」
その瞬間、ぎゅんっと口の端がめくれあがり、ちらりと白い歯がのぞく。幸い、当のエリックからは見えない角度だったが……。
(そーかぁ、原因は奴かー!)
何があったかは分からない。だがエリックはこの子と親しくなりつつあったし、オティアはスターバックスから電話をかけてきた。
そして、エリックとシエンはよく件の店で会うと聞いた覚えがある。たまに顔を合わせて、一緒にコーヒーを飲んでいるのだと。
察するに、今日はただ「コーヒーを飲む」だけでは終らなかったようだ。
(あンのバイキング野郎め、のほほんとした面で何やらかした!)
ふるっと腕の中で小さな体が震える。
いけない。こんなに雨に濡れて、冷えきって。
「帰ろう」
「うん」
ディフは傘を拾い上げ、シエンの上にさしかけた。降りしきる冷たい雨を遮って、2人は寄り添い、歩き出す。
わが家を目指して。
(……センパイ)
エリックは秘かに安堵の息をついた。
四年前の七月、泣きじゃくるルースを抱きしめて、雨の中にじっとたたずむあの人に傘をさしかけた。だが今回は自分の出る幕はなかったようだ。
ぼたぼたと雫を垂らして歩き始める……彼らとは逆の方角に。
未練がましくちらりと振り返ると、センパイはシエンの肩を抱いて支え、シエンは完全に身を委ねていた。そこに居れば安全なのだと。
ため息一つ。
はたと思い出す。
「あ……iPod忘れた」
すっかり水浸しになった靴の中、がぼがぼ足が音を立てて泳ぐ。
ばかだ。
オレは、救いようのない大ばかだ……涙も出やしない。
ひと足ごとに自己嫌悪を刻みつつようやくスターバックスに戻ってくると、オティアの姿は既になかった。店員に尋ねると、メモを一枚手渡された。
『お忘れ物は当方でお預かりしております。ご用の際は、ジーノ&ローゼンベルク法律事務所まで A.オーウェン』
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