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ローゼンベルク家の食卓

【4-18-6】VS心の狭い人

2010/05/28 1:35 四話十海
 
 水浸しのままアパートに戻り、シャワーを浴びる。
 熱い湯を顔に受け、かなり長い間、ぼーっとしていた。ただ湯が流れるにまかせ、洗うことも拭うことも忘れていた。
 浴室を出て乾いた服に着替え、コーヒーメーカーにフィルターと、豆と、水をセットする。こころもち濃いめに。スイッチを入れてから、おそるおそる伏せた携帯を表に返してみる。

 ……着信無し。

 こぼれたため息は失望なのか、安堵なのかわからない。
 とん、とん、と携帯の表面を人さし指で叩く。何度も叩く。
 連絡をしなければいけない。それは、わかっていた。だが、だれに?
 シエンの番号もメールアドレスも知っている。だけど今、かけていいものか。余計に怯えさせてしまうのではないか。今はそっとしておくべきなんじゃないか?
 
(言い訳だ。見苦しい。もし、拒絶されていたら……それが怖いだけなんだ)
 
 落ち着け、ハンス・エリック。
 とにかくシエンに電話するのは、好ましくない。メールもあの子はあまり使わないと言っていた。
 オティア……は、オレのことを快く思っていないし、そもそもアドレスも番号も知らない。知っているのは、あとは……

(h?)

 知らぬ仲ではないし、そこそこ親しいのも事実だ。だが、何故、自分がシエンのことを気にかけているのか。いかにして関わっているのか、まずはそこから説明しなきゃいけない。
 却下。
 この問題を共有できるほど、彼とはまだ親しくはない。
 
(センパイ……しかないよな……)

 一番、親しいのはあの人だ。信頼しているのも。信頼してくれているのも。
 少なくとも、これまではそうだった。だが、『息子』にちょっかい出した揚げ句に雨の中追い掛け回し、肩をつかんで引き戻した今となっては……。
 果たして、これまでの『信頼』と『友情』をどこまでアテにしていいものか。無論、彼は一度信頼した相手を拒絶したり、裏切ったりすることは絶対にない。だが、シエンへの母性と愛情はおそらく、それに勝る。

『まま!』

 呼ばれた瞬間の彼の表情が全てを物語っていた。最初こそ両目が見開かれ、驚いていた。だが、瞬時に愛おしさと喜びが湧き出し、温かな泉のようにヘーゼルブラウンの瞳を満たし……何の疑問も、ためらいもなく答えていた。
 要するに、今のシエンにとっての母親役は、あの人に他ならないってことだ。当人もそれを受け入れてる。
 
「はぁ……」

 額に手を当て、椅子にへたりこむ。
 マッチョな腕力と胆力に裏打ちされた母性の塊。ある意味、最強の『まま』じゃないか。

 ごぼっ、がぼっ、ごぼぼっ。

 コーヒーメーカーが勢い良く蒸気を噴き上げる。中味をカップに注ぎ、ブラックのまま飲み干した。
 時計を見る。
 少し早いけれど、そろそろ出勤しようかな。デスクワークがだいぶたまってたし。

「うん、それがいい」

 見え見えの言い訳をしながら携帯をポケットに突っ込み、上着を羽織った。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 目を覚ますともう昼過ぎだった。別に寝過ごした訳ではない。夜番の月はだいたいこんなもんだ。
 窓の外には相変わらず鉛色の雲。だが幸いなことに雨は止んでいた。
 激務なのもある意味ありがたい。仕事を言い訳にできる……電話も、メールも送らずにいられることの。
 だが、さすがにこれ以上引き伸ばすことはできない。今日、連絡しなければ、シエンとの繋がりは完全に絶たれてしまう。

(それだけは、嫌だ。絶対に!)

 深く呼吸をすると、エリックは携帯を開き……かけた。
 コール音が鳴っている。一回、二回、三回、四回。まだ出ない。取り込み中かな。後でかけ直そうか。それともメールにしようかな?

「エリック」

 わあ。出ちゃった。

「あ、その、えっと」

 低ぅい声だ。地の底から轟く、地獄の番犬のうなり声。やっぱり怒ってる? 怒ってるよな。

「話せ」
「……はい」

 挨拶をする暇もなかった。昨日、起きたことの一部始終を根こそぎ聞き出された。取り調べさながらに、これ以上ないってくらいに的確に、簡潔に。
 何があったかは、だいたいシエン本人とオティアから聞いてるはずだ。それなのに俺の視点からも証言を聞くあたり、いかにもセンパイらしい。警察にいた時の習性がしっかり根付いてるんだ。
 先入観に捕らわれず、加害者、被害者、目撃者から話を聞く。(この場合のオレの役割がどれかは……)
 こっちも現役の捜査官だ。的確に事実を伝える。できうる限り客観的に、自分の主観に捕らわれずに。したこと、見たこと、聞いたこと、起きたこと。
 全て話し終えると、ほんの少しの間沈黙があった。

「……センパイ?」
「わかった。何があったのか、理解した。お前が、意図的にあの子を傷つけようとしたんじゃないってことは、な」
「………すみません」
「謝るな」

 怖いくらいに静かな口調だ。まだ、怒ってる。
 いっそ電話を切って逃げ出したい。だけどここで引き下がる訳には行かないんだ、断固として。
 ええい、ヴァルハラのご先祖様、ご加護を!

「シエンは……」
「今日は休ませた」
「そう……ですか」
「にゃーっっ」

 かすかに猫の声がする。オーレだ。彼女はオティアと一緒に事務所に通っているから、声がしても不思議はない。だけどいつもより微妙に遠かった。おそらく、間に壁やドアを挟んでいる。
 
「あの、もしかして、自宅、ですか」
「そうだ」

 つまり、あれだ。マクラウド探偵事務所は本日臨時休業ってこと……か。シエンは予想してる以上に具合がよくないらしい。雨に打たれたせいだろうか。熱でも出したんだろうか。過去の恐ろしい体験をえぐり出されて、苦しんでるんじゃないか。
 胸が切り裂かれる。
 いずれにせよ、原因は、オレだ。
 とっさに当たり障りのない話題を口にしていた。

「あのー、それで、ですね。オレ、スタバに忘れ物しちゃって」
「それならアレックスが回収した。レオンの事務所で預かってるそうだ」

 うん、それは知ってます、D。大事なのはその先なんです。

「にゃーーーおおおうっ!」

 また、オーレの声がした。さっきより近い。明らかにセンパイを呼んでいる……と言うか、呼びに来たのか。

「みゃーっ!」

 三度目の鳴き声は、すぐそばで聞こえた。足下にいるんだろう。チリン、と甲高い鈴の音まで電話に入ってきた。

「……後で取りに伺います」
「わかった。レオンには話を通しておく」
「ありがとうございます。それじゃ」

 持ってきてください、なんて、とてもじゃないが言える状態じゃなかった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 朝食後、腹をくくってジーノ&ローゼンベルク法律事務所に出頭した。
 自分から荒れ狂う海に飛び込む道を選んでしまったような気がしないでもないが、ここで逃げたら元も子もない。
 虎の巣穴に入らなければ、虎の児を手に入れることはできないんだ。
 オーディンとヴァルハラのご先祖の加護あらんことを。いざ赴かん、敵地(アウェー)へ。

 入って行くと、水色の瞳に銀髪の、物静かな男性が出迎えてくれた。何度か会ったことがある。アレックス・オーウェン、Mr.ローゼンベルクの秘書で、昨日のメモの署名の主だ。

「こんにちは。あの……」

 サンフランシスコ市警の、と言いかけてぐっと飲み込む。今日はプライベートだ、慌てるな。

「ハンス・エリック・スヴェンソンと言います」
「はい、伺っております。どうぞ、こちらへ」

 ちょ、ちょっと待った!
 内心、慌てた。単にiPodを引き取って帰るだけのはずが……うやうやしく奥に通されちゃったよ!
 
「スヴェンソンさまがおいでになりました」
「ご苦労。入ってくれ」

 案内されたのはオフィスではなく、応接室だった。依頼人と会って、打ち合わせをするための部屋。
 手前には革張りのソファとローテーブル、窓際にはもっと背の高い会議用のテーブルが置かれている。こっちはおそらく、仕事の話をするのに使うのだろう。書類を広げたり、ノートパソコンを置いたりして。
 窓を背にして、上質のスーツを着こなした、すらりとした男が立っていた。

「やぁ。いらっしゃい」

 出た、心の狭い人。

 触れた瞬間、切れそうな抜き身の刃が、すうっと皮膚の上を滑ってゆく。いつもの指先ではなく、頚動脈の上を。
 オレ、生きてこの部屋出られるかな……。

「あの……その……こ、こんにちは」

 その、地獄の番犬でさえ手懐けそうな笑顔がかえって怖い。今まで何度か取調室で対峙してきたけど、ここまで得体のしれない威圧感はなかった。麗しい笑顔を見せたことはなかった。
 そうか、これが『私情』ってやつか!
 ようやく合点が行った。
 これは、レオンハルト・ローゼンベルクの意志なのだ。オレと言う人間と、仕事抜きでサシで話すために呼びつけた。

「君の忘れ物はこれだ。確かめてくれ」

 デスクの上にiPodがきちんと乗っている。
 スイッチを入れ、リングの上に指を滑らせる。ああ、よかった。シエンのために集めた曲が、きちんと並んでいる。昨日、新しく入れたばかりの曲も……。
 ちらりと視線をMr.ローゼンベルクに向ける。穏やかにほほ笑みながらじっとこっちを見守っている……ように見える。いやむしろ監視されてると言った方がいい。一挙一動、わずかな表情の動きにいたるまで。
 iPodの中味もチェックされてるだろうな。いや、絶対された。仮にオレが彼の立場なら間違いなくそうしてる。
 こいつには、音楽だけじゃなくて画像も保存できるのだから。

「そうです。まちがいありません。ありがとうございました。お手数おかけしました」
「ところで、スヴェンソンくん」
「……はい」

 来た。

「薄々は気づいていたと思うが、うちの子達は臆病でね」
「………………」
「小さい頃からずいぶん辛い目にあってきたらしい。だから人をなかなか信用できない。実は俺もまだ完全には信用してもらってない」

 唇を噛んでうつむく。

「気長にやることだね。その気があるなら、だが」
「オレは……シエンを傷つけました。警察官としての配慮に欠ける行動をとってしまった」
「どんなトラウマがあるかなんて、なかなか解るものではないからね。今回は、少しまずかったとは思うが」
「申し訳ありません」

 やわらかな表現を選び、決してオレを責めない。だが、過ちを犯した事実は的確に指摘する。逃げ場はない。
 逃げるつもりもない。

「シエンがね。家に戻った後、ディフに繰り返し言っていたそうだよ」
「何……て?」
「エリックは悪くない、と」

 最初は彼の言葉が理解できなかった。ただ、穏やかな声が耳に入ってきただけで。
 一つ一つの音が繋がり、言葉となり、意味を成すにつれ、目の奥にじわじわと塩辛い波がこみ上げて来た。
 シエン……君って子は。

「オティアは別の意見だったようだけどね」
「シエンの言葉が聞けただけで……オレ……オレっ」

 やばい、泣きそうだ。しっかりしろ、ハンス・エリック。彼の目の前で涙なんか見せる訳に行かない。

(君の安全を確保するため、なんてのは大義名分だ)

「ぐっ」

(本当はオレは………逃げてゆく君を、引き戻しただけ。捕まえただけだ!)

「もう少し落ち着いたら、一度会ってやってくれ。あの子も気にしているようだから」
「はいっ! ありがとうございます、ローゼンベルクさんっ」

 もたなかった。ぼろっと塩辛い雫が一粒、こぼれ落ちた。完敗だ、Mr.ローゼンベルク。

「ただし、言動は慎重にお願いするよ。この事でこれ以上、つらい思いはさせたくない」

 誰を、とは具体的には口にしなかった。ただ、透き通った明るい茶色の瞳でじっと見据えてきただけ。
 言わずともわかっているのだろう? 言外に念を押された気がした。

「胸に刻んでおきます。忘れません」

 まだ君につながる道は閉ざされていないのなら、シエン。

「もう、二度と……」

 一歩ずつ、君に近づこう。もう、ごまかしたりしない。隠したりしない。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「……ふむ」 

 ひょろ長い後ろ姿がドアの向こうに消えると、レオンは小さく息を吐き出した。
 まずは一勝だ。とりあえず出方を見守るとしようじゃないか、スヴェンソンくん。
 これでもだいぶ手加減はしたのだよ。
 正直に言うと、君には二度と近づいて欲しくはない。だが、そうするとシエンが回復しない可能性がある。

(仕方がないね)
 
 双子の幸せと平穏は、すなわちディフの幸せであり、それこそレオンにとっての最優先事項だ。その為なら多少の妥協は許容範囲だ。これも、バイキングが現在進行形で懸想している相手がシエンと判明すればこそ。

 だが、もしも、ヒウェルが同じようなことをやらかしたとしたら……。
 くっと唇の端が持ち上がる。

 そうだな。10年ぐらい故郷に帰るといいよ。ああ、もちろんウェールズだ。

(いきなり父祖の地に帰れとーっ? カンベンしてください……もちろん、冗談ですよねっ? レオンっ?)

「ふふっ」

 言われた瞬間のヒウェルの顔を想像し、レオンは一人くすくす笑っていた。実に楽しそうに、この上もなく美しい笑顔で笑っていたのだった。
 
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