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ローゼンベルク家の食卓

【4-18-3】全てが白に返る

2010/05/28 1:30 四話十海
 
 コーヒースタンドを出ると、エリックはその足でApplストアに向かった。さすがに本拠地だけあってサンフランシスコのリンゴのロゴのパソコンショップは充実している。だがどんなに設備がしっかりしていても、直せないトラブルと言うのは確かに存在するのだった。

「データが全て消えていますね」
「全部って……OSも、ハードディスクの中味も、全部ってことですか?」
「はい」
「真っ白に」
「そうなりますね……残念ながら」

 幸い、AppleCareプランには加入していたし、家に帰ればデスクトップ型のコンピューターもある。仕事には使っていない、あくまでプライベート用だ。業務に支障はない……うん、大丈夫。
 半ば夢を見ているような心地のまま、エリックは淡々とパソコンの修理を申し込んだ。
 ついでに懸念のヒートシンクの修理と、赤っぽく変色してきたキーボードとトラックバッドの周辺部のパネルの交換も申請して。
 せっかく来たのだから、と店内を一通り見て回ることにする。iPodのコーナーを通りかかった時、ふっと一抹のさみしさが胸を噛む。

(シエンの為に集めた曲……全部消えちゃったんだなあ……)

 何だか急に気力ががくっと落ちてしまった。急に周りの景色が色あせ、流れるBGMも、人のざわめきも間に一枚、壁を挟んだように遠くなる。それ以上見て回る気にもなれず、足早に店を出た。
 ぼーっとしたままケーブルカーに乗り込み、デッキに立って揺られていると。乗り込んできた女の子が、肩にかけたポシェットから平べったい板チョコに似た何かを取り出た。くるくると巻き付けたコードをほどき、イヤホンを耳に入れた時点で気付く。
 iPod nanoだ。
 そして、思い出す。

(曲なら、残ってるじゃないか。シエンの持ってるiPodに!)

 次に会った時、逆にパソコンに移せばいい。
 うん、そうだ、どうして気付かなかったんだろう。

 口元がゆるみ、目尻が下がり、いつしかエリックはにこにこと笑っていた。
 センパイの写真が消えちゃったのはちょっと残念だけど、会えなくなった訳じゃない。一番、無くしたくないものはちゃんと残っているんだから。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 次の日は、朝から雨が降っていた。しとしとと降りしきる冷たい水の雫をかい潜り、いつものコーヒースタンドに向かった。
 小エビのサンドイッチとブルーベリーのパイを食べ、ソイラテをすすっていると、青い傘と緑の傘が並んで近づいてくる。色の組み合わせでもしかして、と胸が高鳴った。顔を見たら、やっぱり彼だった。
 目が合う。
 手を振ると、シエンの目元がわずかにほころび、小さく手を振り返してくれた……昨日と同じように。
 店に入ると傘を畳むのもそこそこに、まっすぐ歩いてきたのでちょっと驚いた。
 どうしたんだろう? いつもは自分の分のコーヒーを買って、いかにも『ついで』と言う感じで近づいて来るのに。ちょっぴり思い詰めた表情をしてるのも気になる。
 
「パソコン、どうだった?」
「うん……初期化した。全部まっしろ」

 オティアはさっさとコーヒーを買いに行ってしまった。こっちをちら、とも見ようともしない。シエンはまゆ根を寄せてきゅっと目を閉じ、頭を下げた。

「ハードディスクドライブの接続部分が外れて……中味が飛んじゃってね。物理的に破損してたわけじゃないから、OSの再インストールで済みそうなんだけど、ついでにあちこち直してもらおうと思って」
「ごめんね!」
「え? どうして君が謝るの?」
「だって……俺のために持ってきてくれたのに……あんな……」
「君のせいじゃないよ」
「でも……ごめんなさい」

 何にでも謝る子だ。責任感が強いんだろうか。

「いや。これで、良かったんだよ」
「えっ?」

 失われたものを思い返す。部署こそ違うけれど、同じ警察官だった。
 まだ誰のものでもなかった頃のあの人と。何に隔てられることもなく、彼に恋していた自分。
 だけど今は、違う。
 センパイは……ディフォレスト・マクラウドは、他の男の伴侶だ。彼には彼の家庭がある。

「いつまでも未練たらしく、あんなもん持ってちゃいけないんだ。かえってすっきりしたよ」

(どう言う意味なんだろう? 未練って?)

 少し内側にこもった、濁音の強い発音。低く穏やかで、よく響く。決して怒鳴らないけれど、強い力を秘めている。照れている時は、もごもごっとこもる感じが強くなる。そんなエリックの声が、いつしか耳に馴染んでいた。心地よいと感じるようになっていた
 だから、わかってしまう。悟ってしまう。
 彼の言葉の向こう側にある、心の動きが。

 頭の奥でうっすらと形になりかけていた。けれど、目をそらしていた事実が今、はっきりと目の前に現れる。

(エリックはディフの後輩。でも、それだけじゃ……なかったんだ……)

「そう……だったんだ……」
「シエン?」

 ただの頼れる先輩じゃない。仲の良い友人じゃない。ディフは、エリックにとって特別な人だったんだ。まぶしくて、くすぐったくて、その人と居るだけで、胸がどきどきするような。きゅっと締めつけられる。

(エリックは、ディフのことが好きだったんだ………)

 ぐにゃりと目に見えるものが歪んでゆく。店の照明が、ちかっ、ちかっと点滅していると思った。だけど点滅していたのは、自分の視界だった。看板や、メニューの文字が読めない。見えているのに文字として認識できない。

(俺のことを助けてくれたのも。優しくしてくれるのも、全部ディフの為だったんだ……)

 こんなこと、前にもあった気がする。

(同じだ!)

 霧に閉ざされた十月の終わりの日。ゆらゆら揺れる、オレンジ色のカボチャのランタン。
 あの夜、ヒウェルは迷わずオティアを探しに飛び出して行った……振り返りもせずに。わかってたんだ。ヒウェルが優しくしてくれるのは、自分がオティアの双子の兄弟だからだって。

(同じ、なんだ……)

 見ているのは、俺じゃない。自分の好きな誰かのためにほほ笑みかけるだけなんだ。
 ヒウェルも。

 エリックも!

「俺じゃ、ないんだ……」

 かすれた声が唇からこぼれ落ちる。エリックが首を左右に振り、紙くずを丸めたように、くしゃり、と顔を歪めた。

「ちがうんだ、シエン」

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