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ローゼンベルク家の食卓

【4-18-4】ごめんなさい!

2010/05/28 1:31 四話十海
 
「ちがうって、どうちがうの?」
「………」

 初めて口ごもり、明確な答えを避けた。視線もそらしてる。こんなエリック、見たくなかった……。

「いつから知ってたの? 俺が、だれなのか」
「君の名前を知ったのは……一昨年の十月。初めて会ったのは、去年の八月……センパイの結婚式だ」
「あ……」

 記憶の中に在る、顔すら定かではないおぼろな影が急にはっきりと形をとり、目の前の青年と重なる。

「あの時の……」

 会場から抜け出したオティアを探して、レストランの駐車場でやっと追いついた。その時、オティアの前に立ちふさがっていた背の高い人。あの時はオティアをなだめるのに必死で、ほとんど注意を払っていなかった。

 エリックだったんだ。
 
「去年の十一月に、現場からの帰りにこの店に寄った。その時、君が一人で座ってるのを見つけた。すぐわかったよ。センパイの世話している双子の一人だって」
「だから、声をかけたの? 感謝祭明けの金曜日の夕方に会った時に」
「うん」

 うなずくとエリックはまっすぐに見つめてきた。

「やっぱり一人で座っていたから、気になって……コーヒー一杯飲む間でいい、君の近くに居ようと思ったんだ」

 きれいな目。青と緑が交じりあい、光の加減でどちらにも見える。今はほとんど青に近い。その瞳が本当に、俺だけを見つめてくれていたらよかったのに!

 咽が震える。問い返そうとした声が、途中でかすれて消えてしまう。

「あの日の夜。仕事が終わって家に帰る途中、君を見つけた。柄の悪い連中に絡まれてたから、声をかけたんだ」

(やっぱりディフの為? それとも、警察官だから?)

 指が冷たい。膝がガクガクと揺れる。お腹の底から凍えるような振動がこみあげる。歯を食いしばっても、止まらない。
 強ばった指を無理やり動かしてポケットから取り出した。ついさっきエリックから受け取った、つるりとした平べったい箱を。やわらかな音の波を奏でる精密な機械。
 いっそ時間を戻して、これを受け取った瞬間に戻れたら……。
 カチリ、と固い音がした。iPodを握る手が、テーブルに触れている。そ、と力を入れて、エリックに向けて押しやった。巻き付けたコードが指の下でよじれる。

「………これ、返す」
「シエン?」
「ごめんなさい……」
「……なんで、謝るの、シエン?」
「もう、会わない」
「どうして……!」

 その瞬間、ハンス・エリック・スヴェンソンは氷河のど真ん中に叩き込まれたような気分になった。

「本当に………ただ偶然ここで会って………友達になれたらよかったね」
「違う、違うんだ。最初に君を見かけたのは本当にたまたまで。オレ、君だけを見てる。センパイの代わりなんかじゃない!」

 びくっとシエンはすくみあがった。同時にオティアががくっとテーブルに突っ伏す。

『君だけを見てる』

 まっすぐな目。まっすぐな言葉。自分だけを視ている。他の誰かのためなんかじゃない。自分だけに。
 どちらも求めていたはずだった。得られないことを嘆いていたはずだった。
 それなのに……

(怖い!)

 沸き起こるのは嬉しさではなく、凍えるような恐怖。
 音、色、形、空気の含む温かさ、コーヒーの香り。自分を包む全ての現実が歪み、ざらりとした紙やすりに変わり、切りつけてくる。むき出しの心臓を、指先を容赦なく削り取る。
 わなわなと震えながら首を左右に振り、後ずさる。
 今まで誰も踏み込まなかった安全圏。オティアとだけ共有してきた静かな繭の中にいきなり、彼が入ってきた。
 ここに居てはいけない。これ以上、エリックの目を見てはいけない。海色の瞳に捕まる、その前に!

 身を翻し、飛び出した。

「待って、シエン!」

 背後で彼が呼んでる。
 どっと冷たい雨が顔に当たる。
 誰にも見られたくない………遠くに行きたい。十一月の最初の日、ケーブルカーを乗り過ごした時みたいに。あの時は行き先が決まっていた、だけど今は。

 どこでもないどこかに。だれもいないどこかに。

 消えてしまいたい。
 消えてしまいたい。
 消えて……
 消、え、て
 
 ほとばしる感情が引き鉄となり、シエンの奥に潜む力を解き放つ。十一月の最初の日、誰にも見つからずに遠くオークランドの動物園まで移動した時のように。かつてオティアが撮影所から逃げ出した時と同じように。

『消えてしまいたい』

 その想いが膜となり、壁となり、シエンをすっぽりと包み込み、他者の意識から彼の存在を切り離す。
 一瞬の揺らぎ、そして少年の姿が『消えた』。無論、物理的に消失したわけではないし、光を透過して透明になったわけでもない。視覚がとらえても、脳が認識しないのだ。彼かそこに存在していると。
 
 道行く人も、車を運転する人も、ケーブルカーの運転手にもシエンは見えない。彼の立てる音も聞こえない。気配すら感じない。
 冷静に歩いていれば問題ない。『消えている』自覚が無くても、自分から危険を避けることができる。ぶつからないように、注意することができる……あるいは、車や自転車、ケーブルカーの前に飛び出さないことも。
 だが、今のシエンには周りが見えていなかった。うつむいて、ほとんど前も見ずに走っていた。

 クリーム色のコートを着た少年が走ってゆく。うつむき、足下だけを見て、傘もささずに、冷たい雨の中を。
 道行く人は誰も彼の存在を認識していない。そこにいることを知らない。
 ただ一人、息せききって追いかける、バイキングの末裔以外は。

「待って、シエン!」

 他者の意識を遮断する壁が完全に閉じられる直前。エリックは全神経を少年に集中していた。だから、彼には見えていた。
 シエンだけを見ていたから、『不可視の呪文』はエリックには効かなかったのだ。

 ハンス・エリック・スヴェンソンは警察官だが、科学者だ。もともと肉弾戦や追跡ダッシュはあまり得意ではない。だが先祖代々受け継がれた頑丈さと暇を見つけては体を動かすマメさが幸いし、それなりに高い基礎体力を維持することに成功していた。
 何より寒さへの耐性と持久力がずば抜けていた。
 初手こそ出遅れたが、すぐさま追いかけて飛び出した。傘もささず、降りしきる冷たい雨のまっただ中へ。
 ほっそりと小さな金髪の少年を追いかけて。今、この瞬間見つめているのは。想っているのはただ一人。

「シエン!」

 道行く人が何事かと振り返る。だが肝心の呼ばれた相手はちらともこちらを見ず、ただがむしゃらに走ってゆく。
 何てことだ、シエン、君、全然周りが見えていないのか?
 横合いの店から出てきた男性が、減速もせず、避けもせずに無造作に踏み出す。にゅっと前方に傘をつき出し、開閉ボタンを押した。
 ばすん。
 バネ仕掛けが作動し、傘が開く。いけない、あの角度ではシエンの顔に当たる!
 しかし触れる寸前、ぱしっと傘が弾かれた。まるで目に見えない腕が振り払ったように、勢い良く。

「わっ」
(えっ?)

 口を開け、ポカーンと路面に落ちた傘を見つめる男性の横を走り抜ける。

(どうなってるんだ?)

 何が起こったのか理解していない。シエンの存在にまるきり気付いていないようだ。いや、この男性だけじゃない。シエンの走る先々で、何人もの通行人が不意に弾かれ、よろけ、驚いている。

(どうして、誰もシエンに気付かない?)

 これじゃあ、まるで……彼の姿が見えていないようだ。

(いや、そんな事はあり得ない。あるはずがない)
 
 異変はそれだけではなかった。

「きゃっ」
「わっ?」

 シエンが走り抜けた瞬間、パシーンと街灯が割れる。周囲の人が顔をかばって身をすくめ、悲鳴をあげた。かと思えば窓ガラスにぴしり、と蜘蛛の巣状のヒビが入る。
 小石でも飛んだか? いや、あのタイミングではあり得ない。そもそも少年一人が走っただけで、あんな衝撃は起きない。
 新聞スタンドの前を横切った直後、風もないのに店先に積まれた新聞や雑誌がぶわっと巻き上げられて飛び散った。

 一体、何が起きているのか。異変の原因は、今、自分が追いかけている金髪の少年なのか……? 少なくとも、波の最先端にいることは確か。だが、どうして? どうやって?
 確固たる現実がぐにゃりと歪み、意識が揺らぐ。
 その刹那、シエンの姿がすうっと希薄になり、消失した。

「まさかっ」

 慌てて目をこらす。良かった、いる。
 汗をかいて、眼鏡が曇ったか。雨粒がレンズに貼り付いて、視界が歪んだせいかな。眼鏡って不便だ、こう言う時は……でも外す暇も、立ち止まってふき取る暇も惜しい。そんなことをしたら……

 じりじりと苦い熱が爪を立て、胸の底を掻きむしる。

(彼を見失ってしまう。ここで見失ったら二度と戻らない、きっと!)

 逆回しのモノクロフィルムの中、君の姿だけが確かな色を放っている。無くしたくない。失うのは嫌だ。
 シエン。
 シエン。
 オレの目の前から消えないで、お願いだ。

 シエンはうつむいたまま、急に方角を変えて車道に飛び出した。道を横切るつもりか。でも歩行者用の信号は赤だ! 
 タクシーが彼めがけて突っ込んでくる。ブレーキをかける気配は微塵もない。やはり見えていないのか?

 一気に水の中を駆け抜け、腕を伸ばす。指の中にほっそりした肩の感触をとらえた。やった、触った!
 ぐいっと引き戻す。

 その瞬間、パァン、とクラクションが鳴った。
 雨が舗道を叩いている。ぱらぱらと顔に当たり、頬をつたい、首筋を流れる。袖から滴り落ちる。ぜい、ぜいと大量の空気が咽を出入りするざらつく音が二つ。一つは己の中に低く響き、もう一つは手のひらを通してか細く伝わってくる。
 寝苦しい夢の中にも似た、奇妙な乖離感が……消えた。

 だが。

「…………」
「あ」

 紫の瞳が見上げている。体中の肉も腱も皮膚も全て強ばらせ、立ち尽くしている。
 しまった!

 ぶぅんと一気に記憶が巻き戻り、2006年の十一月に焦点が合う。
 サンフランシスコ周辺の地図上に表示された赤い点。添えられた行方不明の未成年者の顔写真と名前。その中に、彼がいた。

(そうだ、この子は誘拐の被害者だった!)

 救出後に作成された調書の記述を思い出す。

『道を歩いていたところを背後から突然、捕まれて、車の中に引きずり込まれ……』

(俺は……何てことを!)

 エリックはぎくしゃくと指を動かし、シエンの肩から己の手を引きはがした。激しい後悔が全身をむしばみ、かみ砕く。

「ごめ……ん……」
「っ!」

 ひゅうっと咽を鳴らして空気を吸い込むと、シエンは両の手を泳がせ、わらわらと空中を掻きむしった。目に見えない何かを振り払おうとしているように見えた。
 いけない。
 パニックを起こしている。
 ためらいながらもエリックはじりっと歩を進めた。
 その瞬間、シエンの瞳孔が限界までぎゅん、と開いた。黒みと深みを増した紫の瞳の奥に、純粋な恐怖がうねるのが見えた。

 靴の表面がアスファルトを叩き、びしゃっと水が散る。さっきまでのが疾走だとしたら、今度のは迷走だ。よれよれしながら右に左にジグザグに、路地の細い方へ、人通りの少ない方へと逃げ込んで行く。追いつめられた小動物みたいに。
 幸い、今度は周りの人間はちゃんとシエンを認識しているようだった。顔をしかめながらも体をかわし、衝突を避けている。
 エリックはため息をつくと、再び走り出した。ただし、今度は意図的に距離を保って。追いすがるのではなく、ガードするために。

 さっきより距離がある。にも関わらず、今度はシエンの後ろ姿が霞んだり、視界から消えることはなかった。

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