▼ 【ex10-14】かごめかごめ
彼女が立っていた。押し寄せる黒い水の壁の前に、白い袖と赤い裾、長い黒い髪をなびかせて。
「早く、こっちへ!」
手をさしのべる。彼女も手をのばし………ふと、動きを止め、振り返った。
「ヨーコ!」
轟音とともに漆黒の津波が崩れ落ち、彼女を飲み込んだ。
※ ※ ※ ※
布越しに差し込む真昼の光。
すぐに現状は理解できる。ここはサンフランシスコだ。ヨーコのいる日本は遠い海の彼方。だが、それは身体だけだ。
彼女の本質とも言うべき精神体は今、悪夢の手の内にある。
「シモーヌさんは?」
「ああ……大丈夫だ。眠っている」
眠るシモーヌ・アルベールはやつれてはいたけれど、鬼気迫る死相は消えていた。少なくとも、彼女を救うことはできたのだ。
「良かった………」
「サリー」
肩に置かれたランドールの手に、そっとサリーは自らの手のひらを重ねた。
「ヨーコさんを迎えに行きます。このままじゃ、悪夢の底に飲み込まれてしまう。すぐに連れ戻さないと……」
「いや」
ランドールはきっぱりとした口調で告げ、首を横に振った。
「私が行く。君は道を開いてくれ」
「でも」
「君ではだめだ。つながりが強すぎて、引っ張られる」
「……わかりました」
(ランドールさんの判断は、正しい)
仮に今自分が日本に居たとしても、やはり止められるだろう。
深く呼吸をして、鈴を手に取った。
(待っていて、よーこちゃん)
ランドールは胸ポケットから手帳を取り出し、開いた。ページの間にはさんだ赤い絹のリボン。初めて夢の中を歩いた時、彼女に渡された……こんな風に。
しなやかな布を、くるりと左手に巻き付けた。
「始めよう」
「はい」
鈴の音が鳴る。サリーの手元から一つ。ランドールの胸元から一つ。二つの鈴は重なり一つとなり、海の向こうのもう一つと響きあう。
祈りの言葉は必要ない。ただ、求める人の名を呼ぶだけでよかった。
「……よーこちゃん……」
※ ※ ※ ※
「く」
わずかにうめくと、三上蓮は床から身を起こした。かろうじて膝をついただけで持ちこたえたが、段差を踏み抜いたような衝撃がまだ残っている。
「大丈夫ですか……ロイくん、風見くん」
「平気……です」
「何ノ、これしきっ」
多少、よれた感はあるものの声はしっかりしている。振り返りはしない。よろけた姿を見ずにいるのが武士の情けと言うものだろう。
それよりも、気掛かりなのは……。
「結城さん」
返事はなかった。
花が一輪、落ちている。目の前の畳の上に巫女装束の白い袖が。緋色の袴が広がって、まるでぽとりと地面に落ちた椿の花だ。白と赤の入り交じった四海波……彼女の一番好きな花だと聞いたのは、ついこの間のことだった。
「羊子先生っ」
「センセイっ」
目を閉じてうつぶせに横たわり、生徒の呼びかけにもぴくりとも反応しない。
最悪の事態だ。
結城羊子の精神はナイトメアの引き起こした津波に巻き込まれ、悪夢の奥底へと引き込まれた。夢魔の眠りの中、深い昏睡状態に陥っている。
「結城さん……失礼」
注意深く抱き起こして仰向けに寝かせる。襟元と袴の裾を整えていると、か細い澄んだ音色が聞こえた。体を安定させ、手を離してからもまだ聞こえる。
リー……ン………リ、リ、リィン………。
鈴が鳴っていた。
巫女装束の胸元に光る、薄紅色の勾玉。その隣に添えられた、小さな金色の鈴が。
「どうやら、Mr.ランドールがダイブしたようですね」
「どうしてわかるんですか?」
「おそらく、結城くんが中継しているのでしょう。ほら、鈴が鳴っている」
「ホントだ!」
「これ………」
風見光一は思い出していた。
あれは昨年のクリスマス休暇に、早朝のスーパーマーケットで自分がこの手で鎖にとりつけ、お守りに渡した鈴だ。サクヤさんも、ランドールさんもおそろいのを持っている。
「俺が渡した鈴だ……」
「ずっと、身に付けていたのでしょうね」
「……っっ!」
うつむき、唇を噛む。
ロイが、きっと顔をあげた。
「ボクたちも、早く行きましょう!」
「ええ、急いで……むっ!」
ぐらっと、社殿の中の空気が。空間が揺れる。羊子の髪を束ねていた組み紐が、ぱつっと切れて黒髪が広がる。
あまつさえ、額にぽつっと小さな傷が生じた。
「これは、まずい」
びきっ!
畳に亀裂が生じた。横たわる羊子を中心に、びき、めき、びき、と広がる。さながら蛇が這いずる姿も似た、歪な螺旋を描き出す。
「せえいっ!」
風見はとっさに愛剣十六夜丸を引き抜き、亀裂の先端に突き立てた。
手応え有り。
裂け目に沿ってぬらぬらと、禍々しい波動がのたうつのを感じた。渾身の力で押さえ込む。が、凄まじい力だ。ぐらぐら揺れる。しかし突き立てた刃は微動だにしない。
「くっ……」
「コウイチ!」
ロイは迷わず袖口に仕込んだクナイを繰り出し、突き立ててた。
抜き身の日本刀、それも神に捧げられた刀と純粋な鉄。二本の刃に縫い止められ、見えない蛇の勢いがわずかに削がれる。
「持ちこたえてください、あと少し!」
三上の手のひらから炎が走り、畳の表面に六芒星を焼き付ける。
篭目紋。
魔物封じの印が螺旋の亀裂を囲い込み、侵攻が止まった。
「ふう……もう大丈夫ですよ……当面は……」
三上はじっと亀裂の奥を睨んだ。わずかに眉の間に皺が寄る。
悪夢の中で大きな変動が起きたようだ。力のバランスが崩れ、『夢の結界』が不安定な状態になっている。今、結界が崩れれば、結城さんのみならず、救出に行った社長も戻れなくなる。
「これではこちらは動けませんね……。仕方ありません、我々はここで結界の維持に専念しましょう。ああ、お手数ですが二人とも、その刃は抜かないでください」
「わかりました」
「承知」
社殿の扉の向こうで人の動く気配がした。一瞬、緊張が走る。だが、それは三人ともよく知った人間のものだった。
「あ」
「もしかして」
ほどなく壁越しによどみない読経の声が響き、風見とロイは刃の先で蠢く夢魔の気配が弱まるのを感じた。
「……助っ人が来てくれたようですね。心強い」
三上は十字架を逆手に構え、羊子の枕元に跪いた。事あらばいつでも動けるよう、身構えて。
静かな寝顔だ。それこそ人形のように空っぽで、穏やかすぎる。確かに体はそこにあるはずなのに、欠片ほども感じることができない。
結城羊子と言う女性の存在を。
左手を伸ばし、指先で額に浮いた赤い雫をぬぐう。皮肉なことだ。唯一、傷を治せる能力の持ち主が今、夢魔の眠りに捕らわれているとは。
(恐れていたことが起きてしまいましたね、結城さん)
予兆はあった。
しかし彼女の意志の強さが、それを表に出さなかった。
(うかつでした。私が感知していたよりずっと強く、あなたは夢魔に共鳴していたのですね)
まったく、困った意地っ張りの羊さんだ。
支え切れるつもりでいた。だが、彼女はもう『ちっちゃなよーこ』でも。新米ハンターの『メリィちゃん』でもない。
かくなる上は、ランドール社長に全てを託すしかあるまい。
飲まれた悪夢が悪夢なだけに、彼でなければ連れ戻せそうにない。彼が行ってくれているのは、むしろありがたいくらいだ。
ついでに少しくらいは進展してくれているといいが。
(むしろそっちの方が心配、ですか……ね)
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