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2008年3月の日記

【2-4】俺は記者なんだよ

2008/03/13 1:13 二話十海
 あれから三日経ったがオティアは一向に部屋から出てこない。
 こっちから出向いても、シエンがドアの前に踏ん張っていて通してくれない。

「オティアはだめだよ」

 見てくれは可愛い番人さんだが中味はオティアと変わらず頑固で。断固として通してくれない。

「…しょうがねぇなあ…」

 また一日、無駄にしちまうのか。
 一服やりたい心境だが双子の部屋の周りでは禁煙をきつく言い渡されている。舌打ちするのが関の山だ。

「……………もう来ないで。無理に聞き出そうとするなら、もう来ないで!」


「優しく聞いても話そうとしないのはそっちだろう? 別に無理強いした覚えは…ないぜ」


「それでどれだけオティアが苦しんでるのか、わかってない!」

 体を折り曲げて、はらわたから絞り出すような声で叫んでいる。この子でも、こんなに激しい声を出すことがあるんだな。

 紫の瞳の奥に激しい怒りと、それよりもなお強い怯えが揺れている。
 いや、荒れ狂ってるって言った方がいいな、既にこのレベルは。

 まるで追いつめられて逃げ場を無くした小動物だ。
 ここは同情すべきだろうか。それとも敢えて冷静に突き進むべきか……。
 ほんの少しだけ迷う。
 どうすればいいって? わかり切ったことじゃないか。
 取材対象の感情に捕われるな。引きずり込まれたら最後、自分の立ち位置を見誤る。

 かと言って、ここで上辺だけとりつくろって『優しいひと』に見せかけるのは論外だ。やろうと思えばできないこともないんだが、少なくともこいつらと向き合う時は……その手のごまかしは打ちたくない。


「ああ…わからないよ……あいにくと俺は凡人でね」

 屈み込み、シエンと同じ高さに目線を合わせる。ひとこと、ひとこと、噛んで含める様にして話しかけた。

「俺は…記者なんだよ。ソーシャルワーカーでもカウンセラーでもない…」

 にらまれた。
 そんな所だろうな。予想の範囲内だ。

「じゃあな、シエン。またな」

 答えを聞かず、背を向けて歩き出す。リビングでディフとばったり出くわした。
 
 にらまれた。

 今日はよくにらまれる日だ。
 おーおー、地獄の番犬みたいな面しやがって、今にも噛み付きそうだぜ。実際出るとしたら牙じゃなくて拳だろうけどな。

 ……やっぱ聞かれたかな、さっきの会話。

 肩をすくめてすれ違い、足早に部屋を出た。


  ※  ※  ※  ※


 ヒウェルと入れ違いに双子の部屋に向かった。
 俺の足音を聞きつけるとシエンは慌てて部屋に入ってしまった。

 閉ざされたドアをノックをしようとして、結局できずに引き下がる。

 夕食の時間になっても双子は部屋から出てこない。
 二人ぶんの食事をトレイに乗せて廊下に置いておいたが、まったく手がつけられていない。
 さすがに心配になって声をかけてみた。

「シエン。オティア?」

 返事が無い。
 細くドアを開けて中のぞきこんでみると、一つのベッドの中で二人、ぴったりとくっついて眠っていた。
 まるでお互いを守ろうとするように。

「…………」

 きりきりと胸が締めつけられた。
 できるのものなら傍に行って、抱きしめてやりたいと思った。けれど、俺はまだそこまであの子たちに受け入れられていない。ここで近づいたところで、怯えさせるだけだ。(あいにくと自分の柄の悪さには自信がある)

 だから何もせず、静かにドアを閉めて。手つかずの夕食を下げる。

 リビングのソファに座ると、ため息がもれた。
 ちらりと時計を見る。

 まだレオンは帰ってこない。とてもじゃないが自分の部屋に引き上げる気になれず、そのまま待つことにした。
 
 あの子たちを二人っきり、暗い家の中に置き去りにしたくない。

 しちゃいけない。

 今はまだ、その手を握ることはできないけれど。せめて……レオンの帰るまでは。

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【2-5】Postman

2008/03/13 1:19 二話十海
 あれから一週間。
 双子は一度も部屋から出てこない。少なくとも俺がレオンの家にいる間は。

「あいつら飯、食ってるのか?」

 聞いたらディフはむすっとした顔で

「少しな」

 と答える。そしてまた黙って飯を食う。
 ここんとこずっと、同じ部屋にこそいないが双子につきっきりらしい。ほとんど自分の部屋にも戻らずに。
 ディフが仕事の時はアレックスが来て、交替で付きっきり。

 こいつを出し抜くぐらいその気になれば簡単だ。しかし、何かを守ろうとする時の暴れっぷりもよく知っている。あえて危険を侵したくはなかった。

 それに……唯一、引き綱を握ってるレオンも今回ばかりは止めないだろう。

「ごちそーさん」
「皿はキッチンに運んどけよ」
「へいへーい」

 汚れた皿をシンクにつっこみ、ふと横を見る。俺がさっき食ったのとは別にスープが用意してあった。
 あれが双子の分か……ほんとに少ししか食ってないんだな……。

 舌の奥がやけに苦い。
 胸がむかつく。

 ヤニが切れたか。それともカフェインか。早いとこヤサに戻って補給しよう。
 そうすりゃすぐに直るさ……。


 自宅に戻り、煙草をふかす。
 一本、二本、まだ収まらない。
 三本、四本。吸い殻ばかりが増えて行く。仕事はいっこうにはかどらない。

「コーヒーでも入れるか……思いっきり濃いやつ」

 キーボードから手を離してのびをしたその時、呼び鈴が鳴った。

「はいはい」

 レオンかな。
 また説教でもたれにきたか。ぐいっと煙草を灰皿にねじ込み、立ち上がる。積み上げた資料がばさばさと床に落ちた。
 舌打ちしつつ雑に脇に除けてとりあえず通り抜けるすき間を作っている間に、また鳴った。

 よっぽどお急ぎらしい。

「今開けますって……あれ?」

 予想に反して立っていたのはシエン。
 何を言えばいいのか。
 何を聞けばいいのか。

 とっさに声が出てこなかった。
 阿呆みたいに突っ立ってると、シエンがぐいっと両手に抱えた紙の束をつきつけてきた。

「……なんだ、これ?」

 受けとる。
 大きさも紙質も不揃いで、しかもえらくよれよれだ。

「…渡したからね」

 それだけ言うと、後ろも見ずに走って行った。

 デスクの前に戻り、書かれた内容に目を通す。

 オティアの書いたものだった。
 俺たちと出会う前に自分の身に起きたことが綴られていた。

 ところどころ支離滅裂で、文法も構成もあったもんじゃない。
 それ故に生々しい。
 自分の中に刻まれた消えない記憶を紙に叩き付けるように文字にしている。一度書いた部分をぎっちり横線で塗りつぶしたり。

 あきらかにペン先が潰れたんじゃないかと思うような、刺し跡があったり。
 紙そのものをぐしゃりとにぎりつぶし、また広げたのも何枚か混じっていた。
 びりびりに引き裂いたのを丁寧に張り合せたページもあった。

 筆跡の壮絶さとは裏腹に、文体そのものは淡々としている。
 何をされたのか。『撮影所』に居た男たちの人数、服装、撮影所に使われていた倉庫の場所。
 あらゆる部分がかなり正確で、細かい。

「観察力あるんだな、あいつ…」

 所々、ちょっと紙がよれってたり、字がにじんでたり、一部判読不可能な場所もある。
 涙の跡だ。

 時折、微妙に筆跡の違う紙が混じっている。
 ここは……シエンが代筆したのだろうか。

 双子がもがき苦しんでいる痕跡がありありと……書かれた事実以上に紙の状態に現れていて。
 じりじりと石炭の火を飲み込んで。内側から腑が灼けるような気がした。

 読みながら何度か眼鏡を外し、顔を覆う。

「きったねえ字……」

 乱れてかすれた文字の向こうに、胎児みたいに体を丸めたオティアの姿が見える。
 紫の瞳を見開いて。
 血が出るほど唇を噛みしめて。

 畜生。
 あいつはたった十六なのに。
 これが既に起きてしまったことだって事が、あまりに悔しくて。何もできなかった自分がもどかしくて。
 喉の奥から塩辛い波がせり上がる。

「くそ……読みづらいったら……ありゃしねえ」

 目の前が滲む。きっと目が疲れてるんだ。
 それだけだ。

  ※  ※  ※  ※  ※

 それからも何度か同じようなメモが届いた。
 メッセンジャーはシエン。いつも目が真っ赤で、来るたびにやつれて行く。
 渡すだけ渡して、返事もしないで帰って行く。
 ある日、ためらいがちに声をかけた。

「シエン……その………これだけの資料があれば……もう充分だ。ありがとう」

 ちょっとだけ足を止めて振り返る。けれどやはり何も言わない。

「後は…俺がやる……ごめん……」

 黙ったまま。歩いていってしまった。

 たった十六の子どもが。
 必死で二人、支え合って。
 ここまでもがき苦しんで教えてくれたんだ。
 何が何でも潰してやる、きれいに終わらせてやる。
 
 俺は警官でもソーシャルワーカーでもカウンセラーでもない。だから俺のやり方でやる。

 いつもならここでレオンとバトンタッチするところだ。最低でもディフに応援を頼むだろう。
 だが行き先と、相手の人数がわかってるんだ。

 気をつけさえすれば俺一人でもやれると見た。

 俺一人でやらなきゃいけないと思った。

 逃げ足の早さには自信がある。しかし万が一の場合には備えておこう。

 オティアのメモをまとめてファイルして、封筒に入れて。

『レオンへ』と宛名を書いてデスクの上に乗せる。

 俺の身に何かあったとき、この部屋に入るのはレオンかディフ、あの二人のうちどちらかだ。
 必ず彼の手に渡る。

 オティアの書いた地図はやたらと正確だった。目的地の地図上の座標はすぐに突き止めることができた。
 財布と携帯と、ボイスレコーダーと、カメラ、ノート、ペン、そして小型のマグライト。
 そして忘れちゃいけない、煙草とライター。

 必要なものだけ懐に突っ込んで車に乗り込んだ。

「さて……戦闘開始だ」

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【2-6】潜入

2008/03/13 1:23 二話十海
 16の少年がトラックの荷台で餓えと乾きに苛まれながら辿ってきた道のりは、フリーウェイをすっ飛ばせば二時間ほどの距離でしかなかった。

(あちこち配送先に立寄りしながら走ってきたんだ。直通ならこんなもんだろう)

 道から少し外れた茂みの中に車を隠す。
 最寄りの道路標識と、目印になりそうな看板(おあつらえ向きに冷凍グリンピースのばかでかい立て看板があった)を携帯のカメラで撮影してからディフ宛のメールを作成する。
 文面はいたって簡単、これから潜入する倉庫の座標だけ。
 件名は『SOS』。

 もう一通はレオンに宛てて。こちらも文面は至って簡単。
『デスクの上、封筒の中』

 不覚にもメールを打つ指が震えた。

 今さらながら、一人で来たことにビビっているらしい。
 なに、様子を見るだけだ。証拠写真を撮ったらすぐ退散すればいい。
 
 書き終えたメールに写真を添付して下書きフォルダに放り込んだ。
 念のためだ、念のため。使うとは限らない。

 ※   ※   ※   ※

 舗装されていない横道をざかざかと林の中に向かって入って行くと……木々の間に、ぬっと灰色の屋根が現れた。
 あれだな。

 道に刻まれたタイヤの跡から察するに、頻繁にでかい車が出入りしてると見た。
 用心しながら近づいて行く。

 ボロい倉庫の脇に少し離れて同じくらいボロい二階建ての管理棟がくっついている。
 辺りには何台かの車が雑に停めてあった。

 確かオティアのメモによると撮影現場は倉庫の方だった。

 慎重に足を運び、窓のそばに忍び寄る。が、ご丁寧に真っ黒に塗りつぶされている。
 不健康なこった。よっぽど太陽の光がお好きじゃないらしい。
 そろりそろりと入り口に回る。

 入り口のシャッターは空いていた。
 薄暗い倉庫の中は真ん中を通路が通っていて両脇に小部屋が並んでいる。
 
 どうする。
 やっぱ、部屋ん中に入らないと証拠にゃならないよな……。
 そろそろと通路に足を踏み入れる。
 数歩進むと外の光は届かなくなり、今にも寿命の来そうなへたれた蛍光灯の明かりだけが頼りになる。
 たったそれだけのことなのに外から遮断され、建物の壁と言う結界の中に閉じ込められたような息苦しさを覚える。

 ただでさえ狭い通路の中に、これまた乱雑に段ボール箱が積み上げてあるもんだから余計に狭い。

 ったく、どんだけ無精者がそろってんだ。
 日頃の自分の行いを棚に上げつつそろそろ進んでいると……。
 ぎぃ、と蝶番のきしむ音がした。
 ドアの開く前ぶれだ。

 とっさに積みあがった段ボール箱の陰に身を潜める。
 派手なシャツの上に黒いレザーのジャケットを雑に羽織った男が出てきた。
 ドアの向こうに人の気配がした。一人じゃない。怯えて息を潜めているような。
 上着のポケットからマグライトを取り出した。

(おそらく奴は一度背を向ける。その時がチャンスだ)

 予想通り、男は通路側に背を向けてドアを閉め、鍵をかけようとした。すかさず走りより、マグの柄を振り下ろす。

 小型のやつだがそれなりに重みはある。

 ごいんっと鈍い音。確かな手応え。
 ちょっとばかり手の芯がしびれたが、大したことじゃない。
 昏倒した男の脈を見る。

 …よし、生きてる。まあ俺の腕力だとこんなもんだよ。
 倒れた男のベルトとタイを外して手足を手際良く縛り上げるとポケットを探る。財布と、車の鍵、部屋の鍵。

 速やかにドアを開けて中にすべりこみ、気絶した男を引きずり込む。けっこう重いな……。
 ドアを閉めて、ふっとひと息、周囲を見回す。

 予想通りの光景が待っていた。怯えた目をした子どもが5人。うち二人が女の子。年頃は十五、六歳ってとこか……上手い選択だ。家出してもおかしくない年齢の子を狙ってやがる。

(ええい、胸くそ悪い)

 部屋の隅には寝床代わりらしいマットレスと、椅子が転がっている。どうやら宿舎――いや、監房に行き当たったらしい。
 
 まいったね。証人を見つけちまったよ。さて、こいつは幸運と言うべきか、不運と言うべきか。
 子どもたちは一言もしゃべらず、互いにぴったりひっつきあって、体を縮めてこっちを見ている。
 乱れた髪の毛をかきあげ、にじんだ汗を拭う。自然と口元に笑みが浮かんだ。

 幸運、ってことにしとくか、とりあえず。

「さーて……この中に車の運転ができる子はいるかな?」

  ※  ※  ※  ※  ※

 それから数分後。表に停まっていた車のうち一台がエンジンをふかし、やたらとでかい音を立てて走り出す。

「ガキが逃げやがった!」

『撮影所』の男たちはてんでに車に乗り込み、追いかけた。

 車はフリーウェイには出ようともせず。近くの町からも遠ざかるようにして走って行く。
 ついには追いつめられて細い林道に入り込み、灌木の茂みに突っ込んで止まった。

「手間掛けさせやがって……出ろ! おら、さっさと出てきやがれ!」

 でかい拳銃をふりまわし、どかどかと車体を蹴りつける。

「わかった、わかったって。今外に出るからさ。撃たないでくれよ?」

 ひしゃげた運転席のドアが開き、乗っていた人間が出てきた。
 背は高いが貧弱で、安物のスーツに細いネクタイのにやけた顔の黒髪の男が一人。

「お前、誰だっ」
「……おい、ガキがいないぞっ」
「何っ?」

 ありがたいことに幸運は二度続いてくれた。
 捕えられていた子どもたちの中に、運転できる子が一人いたのだ。


  ※  ※  ※  ※  ※


 一番年かさの男の子に自分の車のキーと、予備の携帯を渡す。

「いいかい、俺が奴らの車で逃げる。きっと追いかけてくるはずだ。奴らが出払ったら……この車で、逆の方角に逃げろ」
「落ちついたら、携帯のこの番号にかけるんだ。俺の知り合いの弁護士に繋がる。きっと力になってくれるから……いいね?」

 子どもに渡した携帯は、以前、ディフが爆弾で吹っ飛ばされた際にレオンに連絡をとったときの番号を使ってる。
「この番号でかけてきたときは緊急事態」を意味する、エマージェンシーコール専用の電話だ。スルーされることはないはずだ。


  ※  ※  ※  ※  ※


「ガキはどこだ」

「さあね。そんなにガキが好きか? 大人を相手にする度胸はないってか? そうだよな、お前らは子どもを苛めるぐらいがせいぜいだ……」

「この……」

「弱い者いじめしか能のない腰抜けだよ。男の風上にも置けない腑抜け……ぐっ」

 つま先が腹にめり込む。既に押さえる必要もないぐらいにボコボコにされて、倉庫の床に転がされていた。

 今のは……けっこう効いたなあ……。

 眼鏡はとっくに無くしている。
 追いつめられて車が茂みの中に突っ込んだ時、エアバックですっ飛ばされたのだ。
 持ち物は全て、上着ごと持ってかれた。かろうじて携帯にロックをかける時間があったのが幸い。

 最初は子どもらの行き先や、俺の目的、警察に連絡したのかどうか。そう言ったことを聞き出そうと殴っていたはずなんだが、皆さん次第に頭に血が昇ってきたらしい。

 わずかにあった目的意識もすっ飛んで、今はただ俺を傷めつけることが最優先事項になってるようだ。
 ひと思いに銃の一発でキレイに終わらせよう、なんて意識すらすっ飛ばしているらしい。

 よっぽど悔しかったんだなぁ……俺に裏かかれたことが。

 ざまあみやがれ。

 口元にうっすら笑みが浮かぶ。

「何笑ってやがる!」

 与えられる投打の波が一段と激しくなった。
 やばい、墓穴掘ったかな……。

 体の奥で何かが軋む。鼻の奥も喉も鉄サビの臭いでいっぱいだ。息をするたびにわき腹に鈍い痛みが走る。

 殴られているのがだんだん他人の体のような気がしてきた。
 やばいかも知れない。
 だが、必要な情報は送った。レオンとディフがきっちりケリをつけてくれるはずだ。

 お前は、自由だ、オティア。
 陽の光の下を歩いて行け。

DSCF0043.png

 できればもう一度……会いたかったよ………。

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【2-7】ヒウェルSOS

2008/03/13 1:26 二話十海
 なぜ、その時部屋を出ようと思ったのか。はっきりとはわからない。

 強いて言えばただ漠然と『いやな感じがして』、オティアは久しぶりに一人で自分の部屋を出た。
 
 静かに廊下を抜け、リビングをのぞきこむ。意図的に足音を忍ばせたつもりはなく、自然と自分の気配を消すのが習慣になっていた。

 わずかに差し込む西日が部屋の片隅をうっすらと赤く染めている。珍しくディフの姿がない。

 ここ数日、かすかに気配は感じていた。彼が仕事で出ている時はアレックスが入れ替わりで居た。
 今はただ、ソファの上に上着だけが置かれている。肩から落してばさりと置いた形がそのまま残っていて、まるで脱皮した抜け殻みたいだ。

 バイク乗りが着ているような、やたら分厚くて頑丈なレザーの上着。
 本人を見ているとそれほどでもないのだが、こうして『殻』だけ見ていると改めて思う。

 無駄にでかい図体だな、と……。

 その瞬間、携帯が鳴った。
 上着の胸ポケットから短く5秒ほど。いかにも実用本意の面白みのない着信音だったが、聞いた瞬間、ざわっと胸の奥が波立った。

 少し迷ってから手を伸ばす。ほんの少し触れただけなのに指先に、ずしりと革の重みがかかる。
 ポケットから携帯を取り出し、開いた。

phone.JPG

 送信者はヒウェル。
 件名は……『SOS』

 即座に自分の携帯に転送した。機種は違うものの同じ会社の製品だったのが幸いし、ちょっとした試行錯誤はあったものの楽に操作できた。

 足音を忍ばせて……今度は意図的に……自分の部屋に引き返す。さっきは気づかなかったがレオンの部屋のドアが細く開いていた。
 中をのぞきこむと……無人、ただし人の居た名残は歴然と残っている。
 ベッドが乱れ、床の上に服が散らばっていた。

 耳をすますとかすかに、バスルームから水音が聞こえる。

 貴重な休みに恋人同士が同じ家の中に居るとしたら、やることなんか決まってる。
 しばらくは出て来ないだろうが……急がなければ。
 見つかったら、まちがいなく止められる。

 出かける支度をしていると、シエンに袖をつかまれた。

「俺も行く」
「ダメだ、お前は残れ」
「絶対一人でなんか、行かせない」
「……わかった」

 二人で手をとり、そっと抜け出す。途中でディフの上着に携帯を戻し、入れ違いに財布を抜き取った。
 移動するには現金とカードが必要になる。

 この時点では二人とも、まだ自由になる金を持っていなかったのだ。

『借ります。後で必ず返す。ごめんね』

 シエンが走り書きして、ポケットに入れた。


   ※  ※  ※  ※  ※
 
 シャワーから上がり、脱衣所で水気の残る髪をタオルで拭いていると。先に寝室に戻っていたレオンが引き返してきた。

「どうした?」

 ぎゅっと口を引き締しめ、厳しい顔をしている。ただごとじゃないとすぐにわかった。

「これを……」

 携帯をさし出して来た。ヒウェルからのメールが届いている。
 件名はいたってシンプル、「SOS」。
 いつも『ヤバいことになったら』送ってくる、奴からのメールだ。

 速攻でリビングに走り、上着のポケットから自分の携帯を取り出した。

 同じタイトルのメールが届いている。
 座標と最寄りの道路標識、目印になるでかい看板。フォーマット通りだ、まちがいない。
 
「……あ……オティア? シエン!」

 気配がない。部屋にもいない。
 クローゼットを見る。
 上着と靴がきっちり二人分無くなってる。
 いやな予感がした。

「レオン! 双子が」
「ああ。他の部屋にもいない。きっと外に出たんだろう」

 開封ずみになっていたメール。俺とレオン以外の誰かが開けたとすれば、双子以外にはあり得ない。
 送信者はヒウェル。だとしたら……見たのは、おそらくオティアだ。

「あいつら、無茶しやがって……」

 上着を羽織る。銃は……自分の部屋か。

「ディフ」
「追いかける。後で落ち合おう」

 レオンに一声かけて飛び出した。
 自分の部屋に立寄り、保管庫から拳銃を取り出す。装填数を確かめ、セーフティをかけて、ベルトのホルスターにねじ込んだ。
 地下の駐車場までのエレベーターがやけにのろのろと感じられた。

 扉が開くなり駆け出して車に乗り込み、発進。
 地響きにも似たエンジン音が地下に轟く。

 スロープを上がってゲートを潜り、外に出ると……一面に広がるどす黒い赤が目に飛び込んできた。暮れ始めた空。灰色の雲を透かして西の空が赤々と染まっている。まるで血がにじんだような不吉な色だ。

 ……ええい、縁起でもない。

 しばらく車を走らせ、フリーウェイの入り口まで来たところで初めて気づく。
 懐が妙に軽い。
 携帯はある。だが……。

「あ……サイフがねえっ?」

 代わりにかさっと指先に折り畳んだ紙が触れる。

 予備のカードと、小銭少々。
 別にとりわけといて良かったとつくづく思った。

 移動するには金がいる。
 未成年が長距離バスのチケットを買うにはカードも必要だ。そこまで見越して財布ごと抜き取っていったのだろう。
 しかし……暗証番号、わかるのか?

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【2-8】Bitter trip

2008/03/13 1:28 二話十海
 オティアの記憶を頼りに路線を探し、バスターミナルでチケットを二枚買った。

 カードの暗証番号はすぐに察しがついた。
 レオンの誕生日を入れたら一発だった。
 ディフときたら、ご丁寧に携帯のアドレス帳にレオンの誕生日も入力してあったのだ。

 人ごみに紛れてバスに乗り込み、二人でぴったりと身を寄せ合って座席に座った。
 ごう音と共にバスが走り出す。
 あの時たどってきた風景が、逆の方向に流れてゆく。もう二度と引き返したくない場所に向かって……。


  ※   ※  ※  ※  ※


 レオンはヒウェルの部屋に居た。

『デスクの上、封筒の中』

 確かにあった。自分宛の封筒。中におさめられたファイルに目を通す。
 読み進むうち、顔から血の気が引くのがはっきりと分った。

「これは……ディフに見せなくて良かったと言うべきかな……ん?」

 電話が鳴った。発信者は『ヒウェル緊急』。

「ハロー」

 返事はない。

「ヒウェル?」
「っ……あのっ、えっと、弁護士さん……だよねっ?」

 子どもの声だ。少年、しかし双子ではない。しかもかなり動揺している。

「あの人が、言ってたっ。あな、あなたなら、助けてくれるって、だから、だからオレっ」

「落ちついて……そうだよ。私は彼の友人だ」

 ヒウェル、いったい何をやらかしたんだい?

 動揺する子どもに話しかけながら、小脇にファイルを抱えて部屋を飛び出した。もう片方の手で別の携帯を取り出す。

「アレックス。車を回してくれ。大至急だ」

 次の電話はFBIへ。
 シエンの救出以来、担当捜査官とは何かとマメに連絡を取り合っていたのだ。

 アレックスの運転する車に乗り込み、走り出す。

「いいかい。今、警察の人に連絡をとったから……そこを動かずにじっと助けを待っているんだよ?」
「うん……うん……」

 子どもの方はこれでいい。
 さて……もう一本、電話しておかないと。


  ※   ※  ※  ※  ※


 フリーウェイを飛ばしていると携帯が鳴った。
 独特の着信音。
 レオンからだ。インカムで受ける。
 ジャック・バウアーを気取って携帯片手に運転する芸当に挑むつもりはなかった。今みたいにギリギリの局面ではなおさらだ。

「どうした、レオン?」
「ディフ。行き先変更だ。これから指示する場所に向かってくれ。住所は……」

 指示された座標と住所をざっと頭の中で地図に置き換え、目をむく。

「……ってそれ方向違うだろう! 遠回りになる。冗談じゃねえ!」
「ディフ、落ちついて。俺の話を聞いてくれ……ヒウェルの携帯から電話があったんだ。緊急用の番号から」

 淡々とした口調で事実を告げて行く。水みたいにしーんと落ちついたレオンの声を聞いているうちに、ぐらぐら煮え立ってた脳みそがいい具合に冷えて行く。

「ヒウェルが逃がした子どもたちが助けを待っている。既に地元の警察には連絡した。保護されるまでの間でいい、彼らをガードしてやってくれ」
「でも」
「ディフ」

 わずかにトーンが変わる。どことなくたしなめるような口調で名前を呼ばれた。どんな顔してるか……TV通話なんざ使わなくてもはっきり見える。

「返事は?」
「……わかったよ」

 不承不承に答えを返す。舌打ちもため息もこぼさなかった自分を褒めてやりたい気分だ。

「ただし、少しばかり距離は置くぜ?」

 何度も言うが己の柄の悪さには自信がある。特に今はさぞかし目つきも鋭く、凶悪になってるだろう。双子のことが(ついでにヒウェルのことが)気がかりで。眉間にばっちり皺も刻まれているはずだ。
 警官の制服を着てる時ならともかく、今、怯えた子どもたちの前に鼻面ぬっと突き出したら……まちがいなく、恐がる。きっと、泣く。

 電話の向こうでうなずく気配がして、わずかに笑いを含んだ声が返ってくる。

「……充分だ。それじゃ、また後で」

 路肩に車を寄せ、カーナビに行き先を入力した。ドライブインの駐車場か。人の出入りはそれなりに多そうだ。
 がっとアクセルを踏み込む。今さら警察に未練はないが、この時ばかりはサイレンを鳴らせないのがもどかしかった。


  ※  ※  ※  ※  ※

 ディフが子どもたちの護衛に向かう間、双子はバスを降りていた。

 バスターミナルを出て歩き出す。目印の巨大な冷凍グリーンピースの看板は案外すぐに見つかった。
 輸送の便宜を計るため、問題の倉庫はフリーウェイの近くにあったのだ。
 少なくとも建設当初は純粋にそういった意図のもとに。

 黙って歩く。
 並んで歩く。
 辺りはすっかり暗くなっていた。外灯と通りすぎる車のヘッドライト、そしてライトアップされた看板の灯りと。
 わずかな光源を頼りに歩く。
 二人でしっかり支え合って。

 と、言うより……ほとんどシエンがオティアを支えていた。
 バスを降りるころから次第にオティアの顔色は悪くなる一方で、看板の下までやって来た時は真っ青になっていた。息をするのもつらそうだ。時折細かく肩が震える。

「もう、無理だよ」
「……ここからは俺一人で行く。お前は待ってろ」

 激しくかぶりを振るシエンの手に、オティアは自分の携帯とディフの財布を押し付けた。

「あいつら、お前のことは知らない。俺が出ていけば、もう仲間はいないと思って安心するだろう。その間に探偵か、弁護士と連絡とれ」
「でも……」
「俺は殺されないから大丈夫」

 はっきりと理由があるわけじゃない。でもなぜだかそんな気がした。
 小さくうなずくシエンをその場に残して、オティアは歩き出した。二度と戻りたくなかった忌まわしい場所につづく、細い道を。

 オティアの背中が遠ざかる。
 まだ少しふらふらしている。すぐにでも駆け寄って支えてやりたかった。
 やがて、木々の闇の中に飲み込まれて見えなくなった。

 シエンは声もなく立ち尽くし、ただ一人闇を見つめていた。


  ※  ※  ※  ※  ※


 指定されたドライブインの駐車場のすみっこに、見覚えのある車が停まっていた。03年型のトヨタのセダン、色はシルバーグレイ。

 ナンバープレートを確認する。
 ……間違いない、ヒウェルの車だ。

 中には子どもが5人乗っていた。ぴたりと身を寄せ合って震えている。
 10mほど離れた場所に車を停めて見守った。何かあったら、いつでも飛び出せるように身構えて。

 せめてレオンの半分でもいい、穏やかな顔つきなら。ヒウェルの三分の一でもいい、巧みに口が回ったら。
 いや、いや、今さら無いものねだりをしてもしょうがない。
 自分にできることに専念しよう。

 しばらくしてパトカーと救急車がやってきた。サイレンは鳴らさずに。ちらっと見たが婦人警官もいるようだ。
 よかった、これでひと安心だ。
 子どもたちが無事保護されたのを見届け、エンジンをかけた瞬間に携帯が鳴った。


  ※  ※  ※  ※  ※


「オティア……」

 震える声でつぶやき、シエンは自分の携帯を取り出した。
 強ばる指で電源を入れた。


 誰に知らせればいいんだろう。
 レオン?
 それとも……。

 束縛を断ち切り、冷たい台の上から解放してくれた温かいがっしりした手。
 服を全て脱がされ、裸で震えていた自分を包み込んでくれたぶかぶかの上着。
 ほんの時たま、穏やかな笑みを浮かべるヘーゼルブラウンの瞳。ふかふかの大型犬の毛並みにも似た赤い髪。
 
 メモリーダイヤルから一つを選び出し……発信。
 1回、2回、3回鳴って、4回目に低い声が答えた。

「シエンか」
「ディフ……」

 涙がこぼれそうになる。

「今、どこだ?」
「看板の……下……オティアが」
「わかった。すぐ、迎えに行く」
「うん」

 つーっと頬を温かな雫が滑り落ちて行く。
 もう声が出ない。うなずくことしかできない。ごめんなさいって、伝えたいのに。言いたいのに。

「待ってろ」
「う……ん」

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【2-9】ここで死なれたら寝覚めが悪い

2008/03/13 1:29 二話十海
 倉庫にたどり着いた時はもう、足を運ぶのさえやっとになっていて。
 あえて『抵抗できない』ふりをする必要も無くなっていた。

 ふらふらと管理棟の前を歩いているとすぐにドアが開いて、見覚えのある男たちが出てきた。

「てめえはっ」

 問答無用で平手打ち。一瞬、目から火花が散った。のろのろと見上げる。

「手間かけさせやがって……」

「おい、あまり傷をつけるなよ。『商品』はもう、そいつしかいないんだ」

「わかってらあ。けっ、あんのスかした眼鏡野郎のせいで……」

 何故自分がここにいるのか。何をしているのか。毛ほども疑っていない。もとより『スかした眼鏡野郎』との関連性など、考えてもいないようだ。

 単純な奴らで助かった。

 結局、きついのは最初の一発だけで。あとは腕をひねられたり、小突き回されたりする程度で終わった。
 ここにいる間にされたことに比べれば大した事じゃない。

「どうする、こいつ」

「『宿舎』にぶちこんどけ」


  ※  ※  ※  ※  ※


「………ってえなあもお……」

 唇が腫れている。手足は鉛を詰めたみたいに重く、あちこち嫌な熱を持っている。
 ちょっとでも動かそうとするとまず鈍痛が走り、続いてズキンと鋭いのが来る。

 くそ、あいつら思いっきり殴りやがって。
 
 眼球を動かして部屋の中を見回す。眼鏡がないのでよくわからないが、どうやらさっきまで子どもたちの閉じ込められていた部屋に居るらしい。

 さしあたって監禁しとくことに決めたって訳か。
 いつまで生きてられるか疑問だが。

 おそらく死体の隠し場所でも探しているのか、あるいは……抜けた『出演者』の穴をどう埋めるかで慌てているのかもしれない。

 ざまあみやがれ。

 くくっと喉の奥から笑いが漏れる。肋がきしみ、顔をしかめた。

「あーくそ……一服やりてえなあ……」

 掠れた声でぼやいていると、がちゃんと鍵の回る音がして。ドアが開き、また閉まった。

 ああ、ついにその時が来たか。

 最後の一服を許可するほど連中が寛容とは思えないが、ダメモトで交渉だけでもしてみるか……。

 足音がコンクリートの床に響く。やけに軽い。さほど広くもない部屋だ。すぐに隣までやってきた。
 のろのろと見上げる。

「あ……」

 かすむ視界に写るのは、少しくすんだ金色の髪。やさしく煙る紫の瞳。

「オティア……くそっ、とうとう幻覚見えてきたか……」

 口の端が青黒く腫れて血がにじんでる。血の気の失せた顔。初めて会った時に比べればマシだが、ふらふらして今にも倒れそうだ。

「……ひどい顔してやがる……こんな時ぐらい笑ってくれてもいいだろうに……」
「バカなこと言ってんじゃねー」
「え……本物? …何で来た……」

「死なれたら寝覚めが悪い」

 ああ。少しは俺のこと気にかけていてくれたのか……嬉しいよ。でもなあ、オティア。

 お前が今。
 ここに居たら。

 意味ないだろうが!

 待てよ。ここにいるのが本物ってことは顔の傷も本物だと言うことか。
 かっと体内をアドレナリンがかけめぐる。
 誰にやられたかなんて、聞くまでもない。

「…殴られたのかっ」


 起きあがろうとした瞬間、体中のありとあらゆる場所が悲鳴をあげやがった。
 押さえ切れなかった『本物の悲鳴』が喉の奥で耳障りな音を立てる。

「たいしたことない」


 程度の問題じゃないんだよ……くそ、お前が殴られたってことが我慢できない。
 二度と奴らに手を出させたくなかったのに。

(そもそもお前、何でここに居るんだ?)

(俺がメールしたのはディフとレオンで……あ、まさか……)

 こいつが今、住んでるのはレオンの部屋。ディフはここんとこずっとリビングに常駐。
 しかも奴はしょっちゅう脱いだ上着をそこらに放り出す。

(…………見たのか、携帯)

 ミスった。オティアの行動力と直感をあなどっていた。


「…ハンカチ貸してやりたいんだけど…無くしちまったらしい…救急セットもどっかいっちまった」

 妙な具合に腹の底がひきつれる。しゃべるだけで人間、体力削れるもんなんだな……。

「…いらないだろ、そんなの」
「だってお前…殴られて」

 お、笑った。
 なんか皮肉っぽい笑みだが、とにかく笑った。

「何……だよその顔」
「人の怪我心配してる場合か」
「あー………そーゆー意味か………確かに色男が台無しだ…な」

 また無表情に戻っちまった。
 視線の温度が氷点下まで下がってる感じだ……。

 見捨てとけばよかったって、本気で思ってるだろ、お前。

(……そうだよ。俺のことなんか見捨てちまえばよかったんだ。お前に恩を着せて、凄まじい記憶を無理矢理引きずり出した酷い男だ)

(ここで俺が死ねばすっぱり縁が切れたんだぞ。この先二度とお前を煩わせることもなかったはずなんだ)

 咳き込んで、血を吐いた。
 どうやら、もう声を出すのも無理っぽい。

 喉がぜいぜい鳴ってる。鉄サビのにおいとどろりとした塩辛い波がからみつき、息の出入りを妨げる。
 肺はぺしゃんこになった風船みたいだ。いくら息を吸っても膨らまない。

 シャレにならんぞ、この状況。
 自分の吐いた血で溺れそうだ……せめてあの二人がたどり着くまで、お前を守りたいのに。

(しゃべることさえできなくなったら俺に何が残るのだろう?)

 すっとオティアの顔が近づいてくる。傍らに膝をついて、屈み込んで、手を触れてきた。
 
「う……」

 今にも潰れるかと思った胸の痛みが、すっと和らぐ。堪え難い手足の軋みが少し収まり、だいぶ呼吸が楽になった。

「え……これ……どうして? 一人なのに?」
「揃ってなきゃ何もできないってわけじゃない…ただ完治は無理だ」
「充分だよ……ありがとうな、オティア」

 体が動かせれば上等だ。床に手をつき、起きあがる。

「ぐっ」

 よし、いいぞ……痛いって事は生きてる証拠だ。
 裂けたシャツの袖で口元の血を拭う。

 ふいっとオティアが目をそらし、塗りつぶされた窓の外に視線を向けた。

「どうした?」
 
「シエンが……探偵連れてくる」
「ってことは、そろそろ一騒動あるな」

 壁に手をつき、立ち上がる。

「あいつ元々、爆弾の専門家だからさ、こーゆー時、どうしても行動が派手になるんだ」
「……こっちに被害がこなきゃ別にいい」
「監禁場所は建物の入り口から遠い、だから入り口なら問題ないだろとか言ってさ。一度なんか大型トラックで突っ込んできたことが」
「犯罪だろ。派手だな」
「まー手榴弾とかバズーカを持ち出さないだけまだマシと」

 言った瞬間。管理棟の方角からドカーンとごう音が轟いた。
 安普請の壁が、天井がぐらぐら揺れてガラス窓がびりびり震える。
 
 爆弾……だよな、これ。

「……進歩のない奴」

 いや、むしろグレードアップしてると言うべきか?

「……あいつ、シエンに怪我させてたら殺す…っ」

 オティアが言い終えるか終えないかのうちに、低いエンジンの轟く音、タイヤのきしる音が聞こえて……
 
 ガシャーンと、金属のシャッターがひしゃげてぶっとぶような音が(いや、そのものが)聞こえてきた。
 今度は車で突っ込んできたな……。

「ディフ〜〜〜〜」

 10年以上つきあってて一つ学んだことがある。奴の辞書に、隠密行動と言う文字はない。

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【2-10】DefのDは破壊のD

2008/03/13 1:30 二話十海
 ばかでっかい冷凍グリーンピースの看板の下に車を止めて外に出る。

「シエン。どこだ?」

 そっと、支柱の陰から小さな姿が立ち上がる。

 ……いた。

 紫の瞳に涙が盛り上がっている。白い頬にいく筋も、流れた後がある。
 ぎりっと胸の奥が締めつけられる。できるものなら抱きしめてやりたいが、俺はまだそれを許されるほどこの子の近くには行けない。

 せめて、微笑みかける。
 彼の心を埋め尽くす不安がすこしでも軽くなるように。

「……心配すんな。オティアは助け出す。必ずな。………ついでにヒウェルも」


 不安そうな顔でこくんと頷いた。


「レオンが来るまで、ここでで待ってるか? それとも」

 続く言葉は自分でもまともとは思えなかった。
 けれどシエンを助けに行く時、オティアは一緒に来ると言ったのだ。
 立場が逆になった今、彼が同じことを思わないとどうして言える?

「一緒に来るか?」
「……行く…」
「わかった。傍を離れるな」

 やっぱりな。
 ここまでずっと支え合ってきた二人だ。


「お前のことは、俺が守る」

 涙を拭ってやることができないのなら、せめてお前の盾となろう。
 
 うなずくシエンに歩調を合わせて歩き出す。

 轍の刻まれた細い道を歩き、林の中に分け入って行く。じきに灰色の倉庫が見えた。
 ホルスターから銃を引き抜き、セーフティを外す。両手で握り、銃口を下に向けて注意深く進む。

「オティアは……どこだ?」
「あっち」
 
 倉庫の方か。ってことは管理棟にいるのが犯人一味だな。

 さて、どうする。
 拳銃一丁でできることなんかたかが知れてる。こう言う時は……原則、相手の持ち物を最大限に活用する。

 見回すと車が何台か停まっていた。
 いかにもぞんざいな駐車の仕方だ。鼻面の向きがてんてんばらばら。がーっと走ってきて、ロクに確認もせず適当にとめたんだろう。

 ……良い傾向だ。

 ざっと見て、一番でかい車に忍び寄る。
 戦車みたいに頑丈な角張った車体の四輪駆動車――ハマーだ。ついてる、これなら警官時代に何度も運転した。
 さらにラッキーなことに、乗っていた奴はキーをさしたまま、ロックもかけずに降りていた。よほど慌てていたのか、あるいはイラついていたのか。

 乗り込み、後部座席に目をやるとプラスチックの箱がいくつか無造作に置かれている。
 ぞんざいにしめられたフタのすき間から、見なれたものがのぞいていた。

 慎重に開けて取り出す。
 思わず小さく口笛を吹きそうになった。

 暴徒制圧用のスタングレネードだ……直接の殺傷力はないが、ごう音と閃光で食らえば行動不能に陥る。
 何に使うつもりだったんだろう?

 知ったことじゃないが、有る物はありがたく使わせてもらおう。
 一個抜き取り、車を降りる。

「いいか、助手席に乗って、伏せてろ。耳をふさいで、目を閉じているんだ」
「……うん」
「すぐ戻る」

 管理棟に忍び寄った。
 ピンを抜き、3秒数えて中に放り込む。窓ガラスが割れる。ごとりと床に落ちる気配。

 2秒、1秒……

 ジャケットを頭からひっかぶり、地面に突っ伏す。

 ゼロ。

 ごう音とともに夜の暗がりが一瞬、まばゆく照らされる。
 部屋ん中に雷でも落ちたような派手な閃光。ほぼ同時に爆風に窓ガラスがたわみ、内側から粉々に吹き飛ばされる。

 成功。
 跳ね起きるとダッシュしてハマーの運転席に飛び乗った。

「しっかりつかまってろ。行くぞ」

 エンジンスタート。一発でかかる。
 アクセルを踏んで、突っ走る。目標は……倉庫の入り口だ。

「ディフ、シャッター閉まってる!」
「すぐ開く」

 耳障りな悲鳴を挙げて安普請のシャッターがひしゃげて吹っ飛ぶ。
 ハマーの車体には擦り傷がついただけ。
 持ち主が文句を言いそうだがこっちの知ったことじゃない。

 外に飛び出し、ちらっと助手席を見る。
 真っ青な顔をしている。今にも倒れそうだ。

「……ここで待ってろ。すぐもどる。いいね?」
「……や、だ……いく」

 よろめきながら車の外に出てきた。

「……走れるか?」

 
 こくっとうなずく。

「よし……ついてこい」

 薄暗い廊下を走り抜ける。スタングレネードの効果が切れるのと、オティアとヒウェルを救出するのと、どっちが早いか、かなりギリギリだ。
 シエンが気がかりだが、あまりペースを落してもいられない。

 ちらっと後ろを振り返る。
 荒く息をついて、それでも懸命に走ってくる。

「オティアはどこだ?」

 震える指がドアの一つを指さした。
 意外に近い。

「ここで待ってろ…帰りはまた走るんだ。中休みとっとけ。いざとなったら車まで抱えてくぞ」


 返事はない。壁によりかかり、膝に手をついて体まげて、必死で息を整えている。

 問題のドアに近づく。
 チャチな鍵だ。これなら銃を使うまでもない。

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【2-11】Twin-Tornado

2008/03/13 1:31 二話十海
 オティアは扉に飛びつき、鍵を念動力で開けようと試みた。最初に逃げた時はそうやって扉を開けたのだ。
 繊細な作業なので集中が必要、今みたいな状況にははなはだ不向きなのだが。

 手間取っている間にだかだかと重たい足音が近づいて来る。

 お迎えだ。
 ヒウェルはとっさにオティアを引っ張ってドアの前から遠ざける。

 その直後に、巨大な生き物が体当たりをかませてきた。
 ぐわっとドアがきしむ。

「な、何だ?」
「ディフだよ」

 めき、びし、ばき……。
 がごん!

 ガタのきてた蝶番がきしんで壊れて、ノブ側を支点にドアが開く。
 ちらりとひらめく赤い髪が見えた。

「ほらな」

 足があがり、とどめとばかりに蹴りつける。
 半壊したドアが今度こそきれいに吹っ飛んだ。

「ヒウェル! 無事か? 死んでないかっ?」

 ある意味失礼な言い方だ。

 ぽそっとオティアが答える。

「残念だけど生きてる」

 お前も大概に失礼だね、おい。

「君ら……」

「迎えに来た。帰るぞ」
「…シエンは」
「一緒に来た。そこの廊下の突き当たりで待ってる」

 オティアは物も言わずにすっと廊下に飛び出した。慌てて俺とディフも後を追う。

「待てよ、オティア!」


 走って行くと曲がり角にシエンが立っている。
 おかしい。
 表情が凍り付いている。近づくオティアを見て小さく視線を左右に揺らす。

 来ちゃいけない、とでも言うように。

 オティアが立ち止まる。

 ちらっとディフの目を見る。奴もうなずき、銃を構えた。
 果たして……すぐ後ろから、拳銃を握った手がにゅっと出てきた。銃口はぴたりとシエンの頭につきつけられている。


「銃を降ろせ、その子を離せ!」
「そっちこそ捨てろ! ガキをこっちに寄こせ……」

 よりによって俺が最初に殴り倒した男だった。
 あーあ、こりゃもう交渉の余地はねえわ。

「ディフ……それ、降ろせよ」
「ここで捨てたら、全員殺される」

 迷いのない声だ。
 シグ・ザウエルを両手で構え、ぴたりと狙いをつけている。教科書通りのポーズだ。ぴくりとも震えていない。
 つくづく警察で銃の撃ち方習った人間だよなと思い知らされる。
 拳銃を握っても冷静でいられるよう、みっちり訓練されているんだ。

「どうせこの騒ぎだ、俺は上に消される! 道連れは多い方が楽しいぜ……」

 しかしながら相手はそうでもないようで。
 目が完ぺきにイっちまってる。いつぶち切れてもおかしくはない。

 幸い、男はシエンより背が高い……ディフもそのことを察しているのだろう。
 撃つ気だ。

 だが、どっちが先だ?

 いきなり相手の持ってる銃が、誰かにつかまれたかのようにぐいっと、不自然な角度で跳ね上がる。

「うぉっ」

 暴発した相手の弾が壁に当たって跳ねて。オティアを掠める。

「オティアっ」

 なりふりかまわず駆け寄った。
 ほぼ同時にディフが引き金を引く。
 腹に響く低い銃声とともに、男の腕の付け根近くに赤黒い穴が開いた。

「……当たったね」
「当てたんだ」

 ディフは構えを崩さず倒れた男に近づき、拳銃を蹴り飛ばした。

 シエンは目を見開いたまま、身じろぎもしない。オティアが黙って近づく。
 どちらからともなく手を握り合った。

 じりじりと進み、廊下の曲がり角に立った瞬間。前方からじゃきっと撃鉄の音が聞こえた。しかも一つじゃない。

 ほっと息つく間もなく最悪の事態に陥ったことを知った。
 いくつもの銃口がこっちを狙っていた。

「くそ……時間切れか」
「もしかして、最初の一発、スタングレネード?」
「ああ」

 ってことはこいつ、俺のデスクの上の封筒の中味は読んでないな。
 あれ見てたら、間違いなく手榴弾を投げ込んでいただろうから。
 幸いと言うべきか。
 不幸と言うべきか。

「……弾、あと何発残ってる?」
「12」
「……足りないねえ、一人一発だとしても」

 じわじわと銃口の壁が迫ってくる。

「最悪、あの子らが逃げる時間だけでも稼ぎたいとこだが…」

「んー、率の低い賭けだが、手伝いましょうか…」

 床に落ちていた拳銃を拾い上げ、構えた。
 グロックか。多分9mmってとこだな。
 運がいい。これがマグナムやパイソンならお手上げだが、こいつなら俺の細腕でもどうにか扱える。

「こう言う状況でも言うべきなのかな。銃を降ろせ、って」
「やめとけ」

 やめとくべきだった。
 気の早い奴の撃った一発がシエンの金髪を掠めて舞い上がらせる。

 心臓が縮み上がった。

 ディフが喉の奥でぞっとするような唸り声を挙げ、発砲した男に銃を向けた。

 撃つか。撃たれるか。
 覚悟を決めた。

 倉庫の中にひしひしと殺気がたちこめ、高まって行く。
 二発目の銃声を聞き終わるまで生きていられるだろうか?

 ふわりと、金色の光が視界の隅をよぎる。
 髪だ。
 金色の髪が二人ぶん、風にでも舞い上がったみたいに逆立ち、波打っている。

 見開かれたアメジストの瞳、四つ。
 瞳孔が拡大して深みを増した紫色の奥底で、あらゆる色が明滅し、たがいに打ち消し合い、虹のように煌めきながらうねっていた。

 双子の中で荒れ狂う何かが、今にも解き放たれようとしていた。

「うぉっ」
「何だっ」

 通路いっぱいに積み上げられた荷物がぐらぐら揺れて、男たちの上に崩れ落ちる。
 キィイイイ、と甲高い音を立てて空気が震え、ポップコーンが弾けるみたいな音を立てて蛍光灯が破裂する。

 続いて窓がいくつかばりばりとふっとんで、ガラスの破片が降り注いできた。

「……偶然…じゃ、ないよな」
「うわっ、まさか……お前たちかっ」

 返事はない。双子は手を取り合ったまま硬直し、ぴくりとも動こうとしない。
 ばんっと真上で蛍光灯が吹っ飛ぶ。とっさに飛びつき、覆いかぶさる。背中にチクチクと何かが刺さる感触があった。

 ぐらぐらと地震さながらに建物全体が震える。
 もう、犯人一味は俺たちのことなんか構っていられない。まっくらになった狭い通路で、我れ先に外に出ようと慌てふためき逃げ惑う。

 混乱の最中、ディフは経験(+野生のカン)で危険を察知していた。他の人間よりほんの少し早くだけ。

 その瞬間、確かに聞いた。
 建物を支える決定的な何かがきしみ、崩れる音を。
 今まで何度か聞いたことがある。

 崩れる。
 外に出る時間はない。

 思考が凄まじい早さで駆け巡る。

 落ち着け。
『爆心地』があの二人だとするなら……一番被害の少なそうな場所は……。

 ぐい、と双子を抱えるヒウェルをひっつかむ。

「ここか!」

 二本の支柱の間にできた、わずかな壁の窪み。
 最悪、天井が落ちてきてもここならまず柱で止まる。支柱が崩れても、倒れるより先に互いにぶつかり、直撃は避けられるはずだ。

 ……あくまで理論通りに行けばの話。だが、迷っている時間はない。

 避難場所に退避した直後に、巨大なミキサーの中にまるごと叩き込まれたみたいにそこらの物が飛び交う。

 背中にばらばらとがれきが落ちてくる。必死で踏ん張った。
 俺が支えていれば下の3人は直撃を免れる。俺が倒れてもヒウェルが居る。
 
 いくつかでかい瓦礫が落ちてきた。しかしぶつかる直前に、妙に不自然な角度で逸れた。
 見えない手がはじき飛ばしたように。

 双子の力か?
 あまり重いものは動かせないはずだ。
 こんなことまでやって大丈夫なのか?

 その瞬間、めきっと壁がきしみ、ゆがんで剥がれて……天井が落ちてきた。

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【2-12】clear!

2008/03/13 1:32 二話十海
 レオンが警官隊とFBIとともに駆けつけた時。
『撮影所』は跡形も無く瓦礫の山と化していた。
 
 ひと目見た途端、レオンの脳裏にあの日の記憶が蘇る。
 ディフが爆発に巻き込まれて病院に駆けつけた時のことが。

 顔から血の気が引いた。

「ディフ……」

 掠れた声で呟く。サイレンの音に紛れてほとんど他人の耳には聞こえないかすかなつぶやきに応えるように、がしゃん、と。
 ひと際大きなスレートの破片が持ち上がり、人懐っこい笑顔が現れた。

「よお、レオン」
「ディフ…っ」

 駆け寄ろうとして警官に止められる。
 瓦礫の下から這い出すと、ディフはさらにがしゃがしゃと破片を取りのけてヒウェルと双子を引っ張り出した。

「要救助者3名、うち2名は未成年だ。爆発物は……たぶんクリアだな」

 その後も警官隊の手で容疑者一味が次々と『発掘』されて行く。
 何が原因かは、薄々察しがついた。
 
 爆発物はないと言い切った。ディフは原因を知っている。おそらくはヒウェルも……双子も。

 救急車のサイレンが近づいて来る。
 双子は疲労困憊といった様子でぐったりしてたものの、ほとんどかすり傷だった。
 ヒウェルは……殴られた怪我が深刻らしい。救護班の応急処置を受けながら、じっとオティアの顔を見上げている。

「寿命が縮んだよ……」
「大丈夫だよ、レオン。バイク乗り用のジャケット着てきたから。けっこう防御力高いんだぜ、これ…それに、倉庫も安普請で……助かった……」

 ぐらり、と腕の中にディフの体がよりかかる。甘えてすり寄って来るのとはまるで違う。
 
「ディフ?」

 べっとりと手のひらに血がついた。
 ジャケットの背に一筋、細い……長い裂け目があった。

「救護班!」

「ディフ……」

 ぐったりしていたシエンが目を開け、よろよろと起きあがろうとする。
 ディフのまぶたが動き、うっすらと目を開けた。

「心配……ない……ちょっとばかり……くらっと来ただけだ」

 穏やかな笑みが広がる。子犬を見守る母犬そっくりのやわらかな眼差し。子猫をなめる親猫のような優しい声。

「大丈夫だよ……シエン。大丈夫だから……」

 その瞬間、レオンは悟った。

 彼(シエン)はひな鳥だ。
 恋人ではない。

 ……困ったな。
 こんな状況なのに……ほほ笑んでしまいそうだ。

 ディフが体を預けて来る。
 傷にさわらぬよう、腕を回して支えた。
 
 本当に、困ったね。

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【2-13】たからさがし

2008/03/13 1:34 二話十海
 
「奇跡ですね」

 金髪の科学捜査官から言われたが、曖昧に笑ってやり過ごした。

 崩れた壁やら天井の下敷きになって、それでも命に関わる怪我を負わずにすんだのは奇跡なんかじゃない。
 双子が守ってくれたからだ。

 瓦礫の下から引っ張り出されて俺とディフはそのまま病院に直行して入院。

 消耗しきってぐったりしていたものの、『奇跡的』にかすり傷だった(おそらくお互いに怪我を治療したのだろう)双子は一晩だけ検査のために入院し、翌日、無事にレオンのマンションに引き上げて行った。

 ディフは俺たちを引っ張り出したくせに、一番重症だった。
 文字通り体を張って盾になったのだ。

(無茶と言うか。無謀と言うか。ほんっとにつくづく後先考えないおせっかいな暴走野郎だよ、あの男は!)

(……だから放っとけねえっつの)

 背中に打撲傷、裂傷、数知れず。中でもとりわけジャケットを切り裂いてざっくり来たのがけっこう深かった。
 おそらく跡が残るだろう。

「サムライみたいだな。後ろからってのがちとしまらないが」

 当人は笑い飛ばしていたが、レオンは少し辛そうな顔をしていた。

 時々、双子がレオンに連れられて見舞いに来るたびにほんの少しずつ体が楽になって行った。
 隠れて治してくれていたようだ。

 おかげで一週間ほどで俺は退院し、現場検証にも立ち会うことができた。



  ※  ※  ※  ※



 冗談みたいに晴れた日だった。

 カリフォルニアの冬は他の土地に比べて温暖だと言うが、物心ついた時からこの土地に住んでる身としては、やはりそれなりに寒い。
 今日みたいに風の強い日はなおさらだ。
 薄手のトレンチコートではいささか役不足。気取らずダウンジャケット羽織ってくりゃ良かったか。

 空は青い。
 磨きぬいたターコイズみたいにどこまでも青く、鋭く、見上げていると目に染みる。

 オティアを苦しめた『撮影所』は、地上からきれいさっぱり消え失せていた。
 今となってはへしゃげた鉄骨やくだけたガラス、板切れ、木切れ、金属片、その他雑多なガラクタの山と成り果てて。

 いずれ真っ平らな更地になるだろう。

 まだあちこちに絆創膏が残っているが、ようやく包帯とはおさらばした体を引きずり、予備の眼鏡をかけて瓦礫の中をうろつき回る。

 チカっと足元で何かが銀色に光る。屈み込んで掘り出した。
 ……外れ。
 しゃくに障るほどぴかぴかの、半分に欠けたナットが一つ。
 ぽい、と放り出す。ま、期待はしてなかったがね。

「……あーこれはもう…見つかんねーかもなあ…」
「なにやってんだ」
「んー……ライター……さすがに携帯は無理だろうけど、残ってないかなーとか思ってな」
「ライター……ああ、赤い模様のついた、あれか」
「ああ。携帯と一緒に取り上げられちまってな」

 そう言えばこいつと初めて会った時も、目の前で火ぃつけたっけな。
 さすがに記憶力がいい。
 Zippoのオイルライター、ウェールズを象徴する赤いグリフォンの紋様入り。イニシャルさえ彫ってない、どうってことない量産品だが……里親の家を出る時、親父から贈られた、記念の品だ。

 若い頃軍隊に居た人らしく、ガツンと机の縁にぶつけて『唯一の傷』をつけてから渡してくれた。
 それまで注がれた愛情と温もりの記憶が全て凝縮した、大事な贈り物。

(親と言うより友だちみたいな間柄だったけど、俺にとっては最高の両親だった)

「やたら頑丈だから、もしかしたら潰れず残ってないかなって……」

 オティアはぐるりとあたりを見回して、すたすたと歩き出した。

「あ、おい、どこ行くんだ?」
「こっちが俺らが居た部屋…だからこっちが事務所のあと」
「わかるのかっ?」
「…確率の問題だ。あるとしたらこのへん…」

 言われた場所にひざまずき、掘り始める。
 犬みたいに素手で。
 細かい破片をとりわけ、指先でまさぐって。

「……CSIにひろわれてねぇ?」

 尖った釘や針金、ガラスや金属の欠片で皮膚が切り裂かれる。けれど手を止めるつもりはなかった。



  ※  ※  ※  ※


 ……だめだ、こいつ、聞いてねえ。

 軽く肩をすくめると、オティアはその辺りを適当にほじくり返した。
 すぐにシエンも走って来る。
 三人で物も言わずに瓦礫の山を掘り返した。たった一つの『たからもの』を探して。

「…あった」
「……え?」

 ヒウェルは立ち上がり、よれよれとオティアに近づいた。黙ってさし出された手の中には、四角い銀色のライター。
 少しばかり擦り傷が増えていたが、間違いない。
 赤いグリフォンの紋様。
 思い出の傷。

「あった……………」

 傷だらけの手で受けとった。ぽとり、とライターの上に雫が落ちる。

 090709_0045~01.JPG
 ※月梨さん画「見つけた!」

「……りが……と…………ありがとう……オティア…ありがとう…」
「……あぁ」

 両手でぎゅっとライターを握りしめて、ヒウェルは泣いていた。レオンでさえ初めて見るような、心の底から無防備な泣きっぷりで。

 オティアは少し離れてシエンと一緒に見ていた。

 こいつでも、こんな風に泣くことがあるのか。

 シエンが小さな声で「よかったね」とつぶやく。
 ヒウェルはうなずき、ぐいっと袖口で涙を拭うとハンカチでライターを拭い、大事そうに左胸のポケットに入れた。

 にぃっと口もとがつり上がり、にやけた笑いをかたちづくる。

「さぁて……殴られた借りは返しとかないとな。じっくりしっかり書かせていただくぜ」



(永久(とわ)に消さんこの忌まわしき場所を/了)

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【第三話】ローゼンベルク家のお品書き

2008/03/16 4:17 三話十海
  • 三話は短いエピソードの連作形式で。
  • ほぼノンストップで突っ走ってきた一、二話とは少しばかりおもむきを変えて、まったりと双子と大人三人の日常生活の話をお届けします。
  • 『食卓』のタイトルはこの辺りからのストーリー展開に由来していたりします。
  • 【3-1】と【3-1-2】は同じ内容です。BL要素が苦手な方は通常版をお読みいただくと吉。
  • 登場人物にエリックの項目を追加しました。(2008-03-28)
  • 完結。
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【attenntion!】タイトルに『★★★』の入っている作品には男性同士のベッドシーンが含まれています。十八歳未満の方、および男性同士の恋愛描写がNGの方は閲覧をお控えください。
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【3-2】チンジャオロースー

2008/03/16 4:20 三話十海
 はっきり言ってピーマンはあまり得意じゃない。

 苦いし。色がどぎついし、何よりあの臭いがいただけない。

 パセリにセロリにローズマリー、苦手な食い物は多々あれどアレだけは別格。どんなに細かく粉砕されていてもひとくち食えば苦みを感じる。

 子どもの時分はそれでもガマンして食っていたが、晴れて大人になった今、無理して食う必要もないだろう。

 そう思っていたんだが。

 何だって今。
 渡された買い物メモのトップに書かれているのだ?
 あの忌々し緑のスカスカ野郎の名前が……『ピーマン』と。

 昨日も書いてあったから見ないふりしてやりすごした。
 だが今日の分にもしっかり書いてある。

「ったくあいつら、知ってて書いてるんじゃなかろうな」

  ※  ※  ※  ※

 ディフォレスト・マクラウドの仕切る食卓において禁忌とされているのはレオンの苦手な食い物だけだった。
 奴自身も実はカリフラワーが苦手なのだが(ブロッコリーはばくばく食うくせに!)、それにしたってレオンが食いたいと言えば喜んで出すだろう。

「俺の皿にピーマン入れんじゃねえ! ついでにローズマリーとセロリもお断りだ!」

 何度か抗議したものの馬耳東風、右から左に豪快にスルー。一向に聞き入れられた試しはない。

 ディフが入院したことでローゼンベルク家の食卓は一つの重大な選択を迫られた。

 他の誰ぞが作るか(レオンを除く……何でもそつなくこなす男だが料理に関しては壊滅的)。
 宅配かテイクアウトでピザか中華でも調達するか。

 あるいは、開き直ってずっとシリアルバーとサプリメントでしのぐか、だ。

 最終兵器としてアレックスと言う強力な助っ人が控えているのだが、彼にも仕事がある。さすがに毎日って訳にも行かない。
 テイクアウトの中華は論外、アレはもう一生分、釣りがくるほど食った。

 さてどうしたものか?

 救世主は意外な所に存在した。

「ただいま」

 買って来たものを食卓にどん、と降ろす。シエンがとことこと真っ先に寄ってきて、袋の中をのぞきこんだ。
 
「ピーマンは?」
「………すまん、また忘れちまった」

 素知らぬ顔でそっぽを向き、わざとらしく眼鏡のレンズなんか拭いてみる。

「ってか別になくてもいいだろメインの食材じゃないんだし?」


 少し遅れてオティアが顔を出し、露骨に肩をすくめた。

「ほらやっぱり」

 シエンがしゅん、と肩を落す。

「ちんじゃおろーすーがたべたい……」
「……ピーマン抜きじゃ……だめか?」
「阿呆か」

 問答無用でばっさりきっぱり。ある意味こいつの突っ込みはレオンよりきつい。

「じゃあ、俺買って…きてもいいかな?」
「わかった! 俺が行くから!」
「………もうつくってあるのでもいい……よ」

 シエンはすっかり暗くなった窓の外を見ながら言った。ほとんどあきらめたような口ぶりで。

「テイクアウトできる中華屋とかないのか?」
「却下だ」

 あるにはあるし、電話一本で宅配もしてくれるんだけどね、オティア。
 俺は以前に三ヶ月、朝昼晩、ずーっとあの店の中華をテイクアウトしてたんだ。

 もう充分食った。これ以上はひとくちだってごめんだ。


「大丈夫、すぐもどるから!」
「あ…」

 超特急で飛び出した。ただし、行き先は中華の店じゃない。

 さほど大きくない店だが、つやつやに磨かれたリンゴにジャガイモ、イキのいいブロッコリーやカボチャ、エンドウマメが台の上にぎっしり並んでる。

 個人経営の青果店は基本的に近所のスーパーよりほんの少しだけ閉店時間が遅いのだ。
 ちょっとばかり割高になるが、その分、品物は大きくて色つやも良い。

「ばんわー。そこの緑のやつ……一山もらえる?」

 つやつやのほっぺたのカミさんが目をぱちくりした。

「あらまあ、ヒウェル。それ、ピーマンよ? まさかリンゴとまちがえてないわよね?」
「……ないない」

 俺がいっつもこの店で買ってるのはもっぱらリンゴなのだ。
 出先からの帰り道とか。逆に朝早く出る時とか。ふらっと店先に立ち寄り、手のひらにすっぽり入るほどの小ぶりなやつを一個だけバラで買ってかじりながら歩くのだ。(これもスーパーではちょいとやりにくい)

「はい、どうぞ。おまけしといたよ!」
「……ありがとう」

 微妙にひきつった笑顔で礼を言い、店を出た。


  ※  ※  ※  ※


「帰ったぞ!」

 キッチンに直行して、カウンターの上にどさりと袋を降ろす。緑色の忌まわしきアレがごろごろと転がり出した。

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 ほんっと、いいツヤで、無駄に肉厚ででっかいのばっかりごろごろと……しかも一個だけ黄色いのが混じってる。

 ……これか、おまけってのは。

「これ、どうしたの?」
「2ブロック先に八百屋があるんだよ。ちと高いけどな」

 ピーマンに手を伸ばしながら、シエンが申し訳なさそうに目を伏せた。

「ありがとう……ごめん、ね」
「気にすんな。お前に何ぞあったら俺がディフに殴られる」
「謝ることないだろ、そいつが悪いんだから」
「…………………確かに事実だが人に言われると腹立つなおい」

 オティアはぷいと顔をそらすとピーマンを抱えて調理台に向かう。途中でちらりとこっちを見た。と、思ったら……。

「邪魔」

 首をすくめてリビングに退却した。

  ※  ※  ※  ※

 目の前の皿にアレが乗っている。

 チンジャオロースー。
 具材のほとんどがアレの細切りと言う、断固として許しがたい構造をした料理だ。
 多少、肉とタケノコが入ってるからってどうにかなるもんじゃない。

 しかし……今夜の夕食はこいつがメインなのだ。他に選択肢はない。それに第一、作ったのはオティアとシエンの二人。

(どうして拒むことができようか。いや、ない!)

 震える手で箸を伸ばして細切りのアレをつまむ。ソースを多めにからめて。肉とタケノコと一緒くたにして口の中に放り込んだ。

「あ、テイクアウトの奴より断然美味い」


 必要以上に油っこくないし、何より塩味がきつくない。
 テイクアウトの中華は食った後やたらと喉がかわくのだ。

 添えられたライスはさすがに箸では食えず、フォークを使う。
 しかし双子は器用に箸を操り、食べている。つまむのも、すくうのも、切り分けるのも自由自在だ。

「………箸の使い方上手いな。どこで覚えた?」

 オティアがぼそりと答える。

「三番目の母親はチャイニーズだった」
「ああ、それで、か…って、三番目?」


 シエンが首をかしげる。

「んっと、なんていえばいいのかな……」

 するりとオティアが後を引き継ぐ。


「里親が不気味がってそこらじゅうたらいまわしにされてたから」
「なるほどね……」



「あいつらがいると薄気味悪い出来事が続いて……」

「小さな頃から、泣き出すとあっちこっちから物が飛んできて。いつも二人してひっついて、何もかも見透かしたような目をしやがる!」

「里親から何度戻されたと思う。押し付けられたこっちはいい迷惑さ、だからバラバラに引き離して、二度と戻らない場所に送り込んでやったんだ!」

「他の連中だって内心ほっとしてるんじゃないか? 厄介払いができたって……」

「俺は正しいことをしたんだ。正しいことをしたんだよ!」


 頭の中のページをひっくり返し、オティア・セーブル、シエン・セーブルのデータを呼び出す。

「実の親はもうどっちも死んだけどね」

 確かにその通り。父の名はヒース、母はメリッサ。生家の姓はガーランド。

 現在の姓のセーブル家に居た2年ほどは平和な生活をしていたが、セーブルの両親が事故で亡くなってしまった。
 その時すでに正式に養子にはいっていたが、様々な事情もからんで相続権を放棄している。

 そして……あの施設に送られた。


「……多分、ここが最後だから。レオンは何があったってお前たちを他所に回すようなマネはしないさ」


「ふん、どーだか」
「……」

 オティアはそっぽを向き、シエンはだまってうつむいた。
 やっと当たりを引いたんだ。少しはくつろげと言いたいとこだが……まだ難しかろう。

「……ごちそーさん、美味かった」

 余ったライスをシエンがいそいそと三角に丸めている。
 軽く塩をつけて、海苔を巻いて。
 寿司とはちょっと形が違う。

「あ……ライスボール?」
「うん。これはレオンのぶん」
「……マメだね」
「うん、ここでは普通にごはん食べられるから嬉しい」
「……そうか……」

 他に言葉が見つからない。今までどんな暮らしをしてきたのか。容易に想像がつくだけに。

「シエン、中華好きか?」
「うん! ほんとは中華鍋で作りたかったんだけど、重くて」
「ああ、確かに」
「ここの家の台所ってほとんど何でもそろってるけど……道具が全体的になんっていうか、こう」
「でかくて、重たいだろ?」
「うん」
「ディフが使ってるからな。奴にしてみりゃ、軽いんだろうけど」

 そもそもレオンはほとんど料理をしないから、ここにある道具はほとんどディフが自分の部屋から持ち込んだものなのだ。
 5キロ+αの鋳物の鍋を片手であおるのは……ちとシエンにはハードル高そうだ。

 と、ここまで考えてからふと気になってたずねてみた。

「お前ら、朝飯はどうしてるんだ?」
「あれ」

 指さす方向にはあにはからんや。巨大な徳用のシリアルの箱がどん、っと鎮座しておられた。

「あとは……これ」

 ばっくん、と冷凍庫が開く。
 レンジで加熱して食うタイプのプレート入り料理の盛り合わせ……言わゆるレンジミールって奴がぎっしり。

 レオンの料理スキルを考慮すりゃあ妥当な選択ではあるんだが。
 これじゃあ、あんまりに、何つーか……。
 
 あれだな。

『ママが入院しちゃって子ども二人抱えたパパが途方に暮れてるご家庭の食卓』だよ。

「たまにアレックスが作りに来てくれるけど」
「レオン、リアクション薄いだろ」
「うん」

 報われねえなあ、有能執事。
 

  ※  ※  ※  ※


 翌朝。
 キッチンに顔を出したレオンは目を丸くした。

「ヒウェル?」
「あ、おはようございます。もーちょっとで焼けますから」

 滅多に見られぬものを見てしまった。
 相変わらず適度にヨレたシャツの袖をめくり、ヒウェルが甲斐甲斐しくパンケーキを焼いていたのだ。

「けっこう体が覚えてるもんなんだなぁ……」
「ヒウェルが朝、用意してるなんて珍しいね」
「あいつらにレンジミールばっかり食わせる訳にも行かないっしょ。シリアルだけってのも味気ないし」

「コーヒー入れるよ」
「頼んます。コーヒーとお茶は、あなたが入れるのが一番美味い」

 穏やかに頬笑むと、レオンはコリコリと軽快な音を立ててミルで豆をひき始めた。

 どう言う風の吹き回しだろう? きちんと卵とベーコンまで沿えている。
 ガス台の上ではことこととオレンジ色の鍋が湯気を吹いている。
 
「……これは?」
「ニンジンのポタージュスープ。あいつら放っておくと緑黄色野菜あまりとらないから」
「マメだね」
「なぁに、茹でてミキサーでガーっとやりゃあ一発です。茹でる時に米ひとつまみ入れりゃとろみもつくし」
「……マメだね」
「お袋の直伝。あの人、けっこー作り方がアバウトってか大らかだったから」

 その大らかさでヒウェルがゲイだとカミングアウトしたときも逃げたり叫んだりせず、さっくり受け入れてくれた。
 つくづく自分は大当たりを引いたと、天に感謝せずにはいられない。

「よし、できたぞ。皿、並べろ」


(チンジャオロースー/了)

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記事リスト

【3-1-1】★ちょっとしたおまけ

2008/03/16 4:22 三話十海
「え?」

 入院中の『ママ』は目を丸くした。

「みんなで料理してるって……ヒウェルも?」
「ああ」
「信じらんねぇ……ゆで卵の殻剥くのもめんどくさがってる奴が」
「しばらくレンジミールとシリアルでしのいでただろう? そうしたら、子供にそればっかりじゃ駄目だって言われて」
「それあいつが言ったのか?」
「ああ」

 ぱちくりとまばたきして。軽く拳を握って口元に当て、今聞いたばかりの事実を反すうする。

「三食テイクアウトで三ヶ月過ごしてたくせに……」
「それにあの子達も案外料理はできるね。前にもやってたんだろうな」
「……ふうん……台所に…立つようになったんだ」

 頬が緩む。何だか胸の奥がくすぐったい。ああ……そうか。嬉しいんだ、俺。

(おやおや、何て可愛い顔で笑ってるのかな、この子は)
 
「俺は手伝えないからどうも申し訳なくて」
「いいんじゃないか? それぞれ適材適所ってもんがあるし。それにな、レオン。お前が怪我でもしたらと思うと気が気じゃない」
「そこまで不器用じゃないぞ……」
「どうだか?」

 ディフはレオンの手をとると軽く唇を押し当て、にまっと笑った。

(拗ねたような顔してやがる。まったくお前ってばつくづく可愛いよ)


(ちょっとしたおまけ/了)

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【3-0】登場人物

2008/03/16 4:37 三話十海
【ヒウェル・メイリール】
 フリーの記者。25歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。
 口先と舌先、指先を駆使して世を渡る、小悪党と言う言葉がぴったりのこずるい男。
 最初にオティアを拾って来た張本人。
 報われないことがステイタスになりつつある、本編の主な語り手。

【オティア・セーブル】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 極度の人間不信だが、ヒウェルには徐々に心を開きつつある……が。
 口数は少なく喋る言葉は鋭い。
 ヒウェルと出会ったことで彼自身はもとより周囲の人々の運命が変わって行く。
 ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。

【シエン・セーブル】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
 外見はオティアとほぼ同じ。
 オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
 最初の事件で撃たれたディフをオティアと二人で治癒させた。
 ディフに懐きつつある。

【レオンハルト・ローゼンベルク】
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフとは恋人同士。
 恋人と双子に害為す者に対してはとてもとても心が狭い。

【ディフォレスト・マクラウド】
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。25歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 がっちりした骨格に適度な筋肉のついた頑丈そうな体格。(実際、丈夫)
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢。
 レオンとは恋人同士。
 双子に対して母親のような愛情を抱きつつある……らしい。

【アレックス】
 レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
 有能。万能。

【エリック】
 シスコ市警の科学捜査官。ディフの警官時代の後輩、22歳。
 ライトブロンド、瞳は青緑色、身長186cm。
 金属フレームの眼鏡着用。
 地道に支持者を獲得しつつあるバイキングの末裔。


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BL要素が苦手な方はこちら→【3-1-2】マーガレットの花かご(通常版)

【3-3】okayusan

2008/03/21 19:16 三話十海
 入院してからそろそろ三週間。
 ベッドにずーっと横になってるのもさることながら、飯がいただけない。
 基本的に好き嫌いはない。カリフラワーが苦手なくらいで何でも食えるタイプなのだが……病院の飯は、なあ。

 最初の頃はプリンとかオートミールばかりで正直、閉口した。
 脂っこいべとっとしたペースト状の物体を口に運びながら、いつものアレが食いたいなと胸のうちでぼやいたもんだ。
 米と塩と卵さえありゃ簡単にできるんだが、さすがに病室で作る訳にも行かないし。

 最初にそいつの作り方を教わったのは15歳、高校一年の時だった。


 ※  ※  ※  ※


 高校に入って最初の年、十一月の終わり頃。
 ルームメイトのレオンが風邪で寝込んだ。

 どう考えても俺のがうつったとしか思えないんだが、あいつは黙って医務室に行き、ドクターの診察を受けて。
 薬をもらってきて、やっぱり黙ってベッドで寝ていた。

 飯時になるとよろよろと起きあがってきたので

「寝てろよ」と言うと

「いい。食堂で食べる」

 立ち上がって歩き出そうとして……すぐにふらっと倒れそうになった。すかさず支える。寝間着越しでも体が熱いのがはっきりわかる。

「……無理だろ」

 首を振って俺を手で押しのけて歩き出そうとする。とんだ意地っ張りだ。まっすぐ歩くことさえろくにできてないじゃないか。
 ほら、またよろけてる……ってか転ぶ!

 考えるより先に体が動いていた。
 気がつくとレオンの背中と膝に手を回し、抱き上げていた。ディズニー映画のお姫様でも抱き上げるみたいに……。

(意外に軽かった)

「いいか、レオン。食堂までこのまま運ばれてくか。それともここで大人しくしてるか。今選べ!」
「………わかったよ」

 降ろせと言われたけれどあえて聞こえないふりをして、ベッドまで運んで横たえた。

「食堂のおばちゃんから何かもらってくる。いい子で寝てろよ?」


 ※  ※  ※  ※


 ……えらそうに言い切って出て来たのはいいんだが。

 いざ何をもらうかとなると選択に困る。
 ちなみに学生寮の本日の夕飯は魚と貝のフライに付け合わせは大量のマッシュポテト。スープはマカロニとトマトの入ったミネストローネ。

 スープだけでも、と思ったんだがどろっとして油がギトギト浮いていて、あまり病人の口に合いそうにない。

 と言うか、レオンの場合は寮で出される飯はことごとく口に合っていないようで、何食ってもいい顔をしたためしがない。

 俺がたまに朝飯を作ると、ものすごく嬉しそうに笑って「君は料理が上手いんだな」と言ってくれる。
 それが嬉しくてまた作る。
 
(……そうだな、何か作ろう……)

 寝込んだ時、お袋が食わせてくれたのは何だったっけ。
 スープ。
 チキンより牛乳とコーンのが好きだった。

 すりおろしたリンゴ。
 アイスクリーム。
 薄い味付けの卵のリゾット。

 幸い、鍋はある。テキサスから出てくる時、実家から一つ持参したやつが。

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 直径約7インチのがっちり丈夫なホウロウびきの鋳物の鍋、色はカボチャみたいなオレンジ色。

 親父とお袋の新婚時代は大活躍したものの、家族が増えてからは小さすぎてすっかり出番が無くなってたのでもらってきたのだ。

(何せ男二人の兄弟だ。7インチ程度の鍋では到底足りやしない)

 一人で使うには丁度いい。

 ただしこの鍋、やたらと頑丈で他の人間の基準からすると、とんでもなく重たいらしい。

 最初のルームメイトがキッチンの調理台からどかそうとした際にうっかり蓋を足の上に落っことし、それが原因で俺は入学一ヶ月目にして部屋を追い出されるハメになった。

 時期外れに寮の部屋なんざ他に空いてるはずもなく。当時二人部屋を一人で使っていた二年生がいたので否応無くそこに移された。
 それが彼……レオンハルト・ローゼンベルクだった。


 さて材料はどうするか……ちょっと考えて、クラスに日本からの留学生がいたことを思い出した。
 料理が得意らしく、しょっちゅう黒い謎のシートでまいた変わった形のライスボールとか(タワラガタと言うらしい)、魚の切り身や甘辛く煮た野菜を混ぜたスシなんかを作っては持参し、ランチタイムに食わせてくれた。

 彼女なら、米を常備してるんじゃないかな。

 携帯を取り出し、電話をかけてみる。

「ハロー、ちょっと頼みがあるんだけどいいかな?」


 ※  ※  ※  ※


 女子寮ってのはいつ来てもどきどきするね。
 まだ男子閉め出しの時間には間があるが、閉店間際のスーパーに駆け込んでる気分だ。

 目的の部屋に行き、ドアをノックする。

「ハイ、マックス」
「やあ、ヨーコ。ごめんな、無理な頼みして」
「いいけど……何に使うの、米」
「うん、ルームメイトが風邪で寝込んでるから」
「ああ……おかゆさん、作るんだ?」
「オカユサン?」
「うん。こっちで言うところのリゾット? 日本では寝込んだ時の定番メニューなんだよ」
「ふうん……作り方、わかるか?」

 彼女はくいっと眼鏡の位置を整えて、俺の手の中にある物に視線を注いだ。

「その鍋で作るの?」
「うん。これしか持ってないし」
「ちょっと待っててね」

 ヨーコはすたすたと部屋の奥に入って行き、同室の子と何やらひそひそ話していたけれど……何を話してるのかまではよく聞こえなかった。


 ※  ※  ※  ※


「ね、ね、あれ、あんたのクラスのマックスでしょ? 体は厳ついけど、顔はけっこー可愛いじゃない!」
「んー、確かに顔はそこそこ、性格も可愛いつーか素朴なんだけど……いま一つ小動物的な何かが足りない」
「えー、あたしは余裕でOKだけどなー。声かけちゃおっかな」
「いや、夜の女子寮にル・クルーゼの鍋持ってくる時点で脈ないと思うよ……」

(しかも寝込んでるルームメイト(当然男)に夕飯作るために)


 ※  ※  ※  ※


「はいお待たせ、米」

 ヨーコはカップに入れた米をざらざらと鍋の中に入れてくれた。

「とりあえず一回分。足りなかったらまた明日あげるから」
「サンキュ。恩に着る」

 ぺらりと一枚、メモを渡される。

「あと、こっちはその鍋でおかゆさん炊くときの分量ね」
「うわあ、助かるよ。お袋に電話する手間が省けた」

(うわ、何、そのヒマワリみたいな笑顔全開はっ! 反則級だあ……)

「これ日本のお米だから……こっちのお米とは微妙に水加減、違うし」
「確かに、ちょっとずんどうってか、背が低いな。ほんとにありがとな、ヨーコ。後で改めてお礼させてくれ」

(ああ……惜しいなあ。これでもーちょっとミニマムなら言うことないんだけど、この子)

「You are welcome!(どーいたしまして!)」

 鍋をかかえて足早に寮を出た。
 すれ違う女の子の目線が何だか妙に集中してるような……いや、いや、気のせいだろ。
 
 俺がかかえてるのはただの鍋。
 別に珍獣の卵じゃないんだから。


 ※  ※  ※  ※


 部屋に戻り、そっとレオンの様子をうかがう。
 よく眠っていた。


 こいつを見てると、実家の飾り棚に置いてある陶器の人形を思い出す。ロイヤルコペンハーゲンの、白一色の。

doll2.jpg

 鼻筋のすっと通った貴族的な顔立ち。気高く、高貴で。一つだけ違うのは件の人形が伏し目がちに斜め後ろを見ていることだ。レオンはいつも前を見つめている。
 透き通ったかっ色の瞳で。

 よく『男にしとくには惜しい美形』なんて言い方があるけど、こいつの場合はそうじゃない。
 骨格がしっかりしていて、むしろ男『だから』きれいなんだとつくづく思う。色も白くて肌もなめらかで……。

 たぶん、地色は俺の方がむしろ白いくらいなのだろう。しかしながらこっちは日焼けしていてけっこうザラザラ、生傷も多い。そこ行くとレオンは温室の中で傷ひとつなく咲く薔薇の花みたいだ。

 最初に顔を合わせた時、こいつは礼儀正しく挨拶はしてくれた。でも妙に素っ気なかった。

「レオンハルト・ローゼンベルク? どっちも長ったらしい名前だな。舌噛みそうだ。レオンって呼ぶけどいいよな?」
「……ああ」
「俺のことはマックスでいい。あ、ディフって呼ぶ奴もいる。どっちでも言いやすい方でいいや」
「気がむいたらね」

 その時、俺は思ったんだ。

 こいつとこれから寝ても覚めても同じ部屋で過ごすのか。
 もしかしたらそいつは……すごく楽しいことなんじゃないかって。

「ん……」

 レオンが眉をしかめて小さくうめく。

 熱のせいで肌がほんのり赤い。だいぶ汗かいてるな……着替えさせた方がいいんだろうか。

(いや、さすがにそれは遠慮した方が良いだろう)

 軽く汗をふいて、水で濡らしたタオルを額に乗せて。パジャマのボタン、上一つだけ開ける。
 少しは楽になったんだろうか。表情が穏やかになった。

 ほっとしてキッチンに戻った。


 ※  ※  ※  ※


 米を軽く洗って水気を切る。
 ヨーコが入れてくれた米は180CC、だから……水の分量は5カップ(アメリカの1カップは240cc)。一緒に鍋に入れて火にかけて。

 沸騰したところで弱火にして……

「触らずに30分待つ、と。いいな、これ、楽で」

 最初は水の方が多くて、ほんとにこれでちゃんとできるのか不安になったけれど、信じて待つ。
 気長に待つ。

 すかすかの水がとろりと粘りを帯びてきて、米も白くふっくらと膨らみ、水気と混じり合って行く。
 
 そして30分がすぎると……。

「おお、ちゃんとできてる」

 卵を入れて、軽く混ぜて、塩で薄く味をつけた。粉チーズは……無くてもいいな。って言うかむしろ無い方がいい。
 
 皿にもりつけ、スプーンを沿えて。トレイに乗せて運んでいった。

「……レオン。起きてるか?」
「ああ」

 レオンはゆっくりと起きあがり、額のタオルに手をやった。

「これ……君が?」
「うん。俺が寝込んだ時、お前もやってくれたろ?」
「……ああ」
「飯、できたぞ。食えるか?」
「ああ……いいにおいだ」
「熱いから、気をつけてな」
「これ、何だい? リゾット?」

 皿の中味を見て、目をぱちぱちさせて、不思議そうに首をかしげている。

「オカユサン」
「え?」
「日本から留学してる娘が教えてくれた。病気の時の定番メニューなんだと」
「ふうん……」

 スプーンですくいとったオカユサンをふー、ふーと吹いて。少しずつ口に入れて、ゆっくりゆっくり食べている。
 何となく見てたら顔が緩んできて、気がつくとにこにこ笑ってた。

 ごめん、不謹慎だよな。
 お前が寝込んでるのに。

「味、薄かったら塩足すぞ」
「いや、ちょうどいいよ」

 そしてレオンは笑った。
 ちょっと汗ばみ、やつれていたけれど……。しみじみと嬉しそうにほほ笑んだ。

 かっ色の瞳が……入れたばかりの紅茶みたいだ。透き通っていて、あったかい。
 きれいだ、と思った。

「そうか……遠慮せずたっぷり食え」
「一度にそんなには無理だよ、ディフ」
「……え?」

 ずっとディフォレストって言ってたのに。その前はマクラウド。

「君がそう呼べって言っただろ? それに長い名前は……」
「舌噛みそうになる」
「……うん、まあ、そんな所」


 ※  ※  ※  ※


 その後、ヨーコは帰国して高校の教師になった。
 今でも時々、メールのやり取りをしている。
 なぜか教え子たちからは『メリィさん』と呼ばれているらしい。

 あの時教わったオカユサンは、若干のアレンジを加えつつ寝込んだ時の定番食を勤めている。

 そして、あの日以来、レオンは俺のことをディフと呼んでいる。
 今もずっと、変わらずに。


(okayusan/了)


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※月梨さん画、右が看護夫ディフ、左が風邪ひきレオン、下がヨーコ。


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【3-4】ホット・ビスケット

2008/03/22 9:51 三話十海
 感謝祭も終わり、十一月も終わりに近づき、そろそろ気の早いクリスマスのデコレーションが町中にぽつぽつと顔を出すころ。

「……お帰り」
「ただいま」

 ディフが帰ってきた。

 恋人同士の再会はあたたかい部屋ではなく、寒風吹きすさぶ路上。片方は車の運転席、片方は大荷物かかえて歩道の上で。抱き合うのはおろかキスもろくにできやしない、色気皆無のシチュエーションだった。

 レオンが病院に迎えに行こうと地下の駐車場から車を出して。表通りに出たところで、迎えに行くはずだった当人が肩にでかいスポーツバッグを下げて悠々と坂道を登ってくるのに出くわしたのだ。
 慌てて車を路肩に寄せると、ディフもにこにこしながら近づいてきて再会の挨拶となった次第。

「今から病院に行くところだったんだが……」

 ディフはぱちぱちとまばたきすると、人懐っこい笑みを浮かべて答えた。ほんの少しはずかしそうに。

「……待ちきれなかった」
「しょうがないな」

「先に家に戻っててくれ。気をつけて。荷物は貰おうか?」
「大丈夫、自分で運ぶよ。でも、ありがとな、レオン」

 手を振って、走り出す。
 ハンドルを握ったまま、レオンはくすくすと笑っていた。

(まったく、あの子ときたら……体がなまるからって歩いて来たんだろうな)

 入院証明書とか。その他もろもろの保険に必要な書類のことになんか、ちらとも考えが向いていないに違いない。

「しょうがないなあ……」

 そう言いながらもレオンの顔からはしばらく、楽しげな微笑みが消えなかった。


 ※  ※  ※  ※


「ただいま」
「お帰りー」

 マンションに着くなりディフはまず、自分の部屋より先にレオンの部屋に直行した。
 シエンが少し驚いた様子で迎えに出る。
 やや遅れてオティアが顔を出す。

 シエンはちょこんと首を傾げて赤毛の頑丈な男を見上げた。
 少し色が白いのはあまり外に出られなかったせいだろうか。
 髪の毛が伸びて肩を通り越し、背中まで流れている。
 すそに行くにつれゆるやかなウエーブが広がり、なんだかゴールデンレトリバーみたいだ。

 撫でてみたいな……。

 ちらっと、思った。
 でも思うだけ。

「どうした?」
「ん……髪、のびたね」
「ああ。しばらく床屋行くのさぼってたからな」

 ふと、ディフは双子の着ている服に目をとめた。
 そろいのセーター、オティアが青と白、シエンが茶色と白。レオンの買ってきたカシミア100%の高級品。いい感じに「風合い」が出ている。

 しまった。

 胸の奥でひそかに舌打ちした。
 この子らの冬物はこのセーターと、『撮影所』の事件の前に自分が買ってきたフリース、合計二枚だけ。おそらく交互に着ていたのだろう。あとは秋物の重ね着でしのいだか。

「あー……その、参考までに聞くが、そのセーター……誰が洗ったんだ?」

 双子は顔を見合わせ、シエンが答えた。

「アレックス」

 やっぱりな。
 
 丁寧に手洗いで洗ったのだろう。縮みもへたれもせず、ふんわりパーフェクトに。さすが万能執事だ。
 しかし、毎日毎日、彼の有能さに甘えっぱなしってわけにも行くまい。

「よ、お帰りディフ……てうぉっとぉ!」

 ぬぼーっとヒウェルがリビングに入ってきて、床の上に置きっぱなしになっていたバッグに足をぶつけた。
 ガゴン! と何やら固い音がして、顔をしかめてとびあがった。

「ってぇなあ! ……何が入ってるんだ、これ!」
「ああ、これ」

 ファスナーを開けてディフが取り出したのは……ダンベル。しかもサイズ違いで2組ほど。さらにエキスパンダーまで。

「何で、帰宅したばっかの元入院患者の荷物にこんなもんが入ってんだよ」
「ベッドから動けなかったし、せめて腕の筋力だけでも維持しとこうと思って」

(この、ばか力め)


 ※  ※  ※  ※


 夕食の後、ディフは双子の顔を見ながら、遠慮勝ちに切り出してみた。

「そろそろ十二月だし……冬物そろえようと思うんだ。コートとか、厚手の靴下とか……あとネルのシャツとかフリースも、何枚か」
「え、でも、冬物ならレオンのくれたこれと、ディフが前に買ってくれたのがあるし」
「まー確かにそれはいいものだが……洗濯が大変だから。もっと楽に洗えてすぐ乾くのがあった方がいい。まとめ買いすると安いんだ」


 するとシエンは眉尻をさげてちょっとこまったような顔をした。

「そういうのよくわかんないから任せていい?」
「明日、一緒に…買い物来てくれると助かるんだが。サイズも合わせやすいし」


 シエンがオティアの方を見ている。オティアはぱっと見無表情だが、どうやらあまり乗り気ではないらしい。
 と、言うかそもそも明後日の方角……レオンの書斎の方に視線を向けている。外に出る気はなさそうだ。

「えっと……俺だけいればいい?」

 途端にオティアの態度が変わった。

「ちょっとまて」
「できれば二人とも。冬ものはかさばる。三人居た方がいい」

 双子は黙って顔を見合わせた。

「…………」
「…………」
「…………しょーがねーな」

 ……よし。


 ※  ※  ※  ※


 買い物は大抵、事務所のそばのSOMA地区のモールですませる。
 マンションからはケーブルカーで行けるが、今回は三人分、それも冬物だ。
 帰りが大荷物になるのは目に見えている。

 よって、車で行くことに決めた。

 バックミラーの角度を合わせながらディフは後部座席をうかがった。
 二人並んでちょこんと座っている。なんだかやけに車が大きく見える。ほんの二ヶ月前のことだった……同じ車に二人を乗せて、夜道を走ってレオンの部屋に戻ってきたのは。

(あの時は、こんな風に自分が子どもの世話を焼いてる姿なんざ想像もできなかった)

 地下の駐車場を出ると、ゆるく溶いた白い絵の具を塗ったような冬の青空が広がっていた。

 モールの駐車場で空きを探していると、すっと二人がある一点を指さした。

「そこの車、出る」

 大当たり。
 空いた場所に車を滑り込ませて外に出た。

「はぐれたら携帯で連絡しろよ」
「………」
「うん」

 ざかざかと歩き出すディフの後ろを、二人は手をつないでとことこと着いて来る。

 オティアも、シエンも、最初のうちはアレックスが買ってきた子供用の携帯を使っていた。しかしさすがに機能的にいろいろ足りなくなってきたのか、撮影所の一件の後で買い替えたらしい。

 そもそも子ども用の携帯はボタンの間隔が狭くて。いかに小柄とは言え、十六の少年の手にはいささか小さすぎるのだ。

 オティアが目の覚めるような青、シエンのは霧の中に優しく霞む森の木々にも似た緑色。
 今のところ電話帳に登録されているのは互いの分と。レオンと、ディフと、アレックス、そしてヒウェルの番号とアドレスのみ。

 ディフは思った。
 そのうち、同じ年頃の友だちもできればいいのだが。学校にも行かせてやりたいが……今は通信教育って手もあるし。

(って何で俺がそこで悩む? これはどっちかっつうとレオンの役割だろう!)

 ちらりと後ろを確認する。双子はちゃんと着いてきているが、若干顔が赤く息も早い。そこはかとなくつらそうだ。
 その時になって自分の歩くペースと歩幅が人よりいささか上を行ってることを思い出し、歩調をゆるめた。

 シエンがほっとした表情を浮かべた。
 これからはこのペースで歩こうと心に決めた。
 
 大手の洋品店に入ると双子はぎゅっと強く手を握ったまま、きょろきょろと周囲を見回している。
 物珍しいと言うよりは、草食動物が安全を確認しているようで、どこか落ちつかない。

「あんまし買い物とか…来たことないのか?」
「施設では基本的に古着だったし…んー、ちょっとぐらいはあるけど、だいぶ前かな」
「じゃあ結構驚くぞ。物価あがってるから」

 コートの値段を見るなり、シエンは小さく声をあげ、首を横に振った。

「こんな高いの買わなくていいよ!」

 実はレオンの買ってきたセーターはさらにその三倍ぐらいはするのだが。あえて言わないことにする。

「必要経費は養育費としてレオンから渡されてる。遠慮するな。風邪引いて医者にかかるよか安いさ」
「でも……」
「気になるんだったら、バイトしてみるか? レオンの事務所か、俺んとこで。ちょうどアシスタント探してるとこだったんだ」
「バイト? ……できるかな?」
「若いんだ、すぐ覚えるさ」

 双子は顔を見合わせしばらくそのまま。やがてシエンが口をひらいた。

「少し考えさせて」
「ああ。気が向いたらいつでも声かけてくれ」

 時折、二人の(と言うか主にシエンの)意見を聞きながら選んだのは定番中の定番、ダッフルコートだった。

「…これ、どうかな。このクリーム色のやつ。瞳の色にも、髪の色にもマッチしてる…」
「うん」
「こっちの紺色はオティアに。色違うから区別もつく」
「……ああ」

 その他、厚手のシャツや靴下もまとめて買う。

「穴が開いたりボタンとれたりしたら遠慮無く言えよ。つけ直すから」
「……うん……あの、ディフ」

 自分用に、と厚手の開衿シャツやらTシャツをまとめてカートに入れるディフに、シエンがおずおずと声をかける。

「いいの? こんなにたくさん、買ってもらって」
「まとめて買うと割引がきく。俺の分も買ってるからな」
「ん……」

 大量の荷物を抱えて店を出る頃には、シエンがだいぶへばってよろよろしていた。荷物多さと言うよりむしろ人の多さにあてられたようだ。
 ディフは後ろに引き返し、上体をかがめてのぞきこんだ。

「大丈夫か?」

 むっと言う表情で瓜二つの顔が目の前に割って入る。
 オティアだ。
 実際にはほとんど表情は動いていないのだが背後のオーラがめらめらと主張している。
『シエンに近づくな』と。

(参ったな、こいつかなり神経ピリピリさせているぞ)

 ディフは困ったレトリバーのような顔をして少し後にさがった。
 無理もない。今までほとんどマンションの部屋から出ていなかったのだ。見知らぬ場所で、大勢の人間に囲まれて。

(いきなりハードル高かったかな……)

「少し、休憩してくか。荷物多いし」

 オープンカフェの傍を通った時に何気なく提案してみた。
 オティアは今にもへたりこみそうなシエンの様子をじっと見て、それからうなずいた。

 ちょいと寒いが日よけの傘には小型のヒーターが仕込んである。
 今日は風もそれほど強くないし、陽射しも温かい。それほど寒さは感じない。

「何飲む?」
「…………」
「……………コーラでいい」
「OK、コーラな。何か軽く腹に入れてくか?」

 デザートのページを開いてメニューを見せる。二人とも微妙に困ったような表情を浮かべている。
 ディフはピンと来た。以前、デートに誘った女の子で甘いものを控えている子がいた。
 彼女がちょうどこんな感じの反応を見せたな、と。

「あ……もしかして……甘いの苦手か?」

「えっと…俺は食べられるけど…オティアは」
「そうなのか?」
「いいよコーラで」
「……俺が腹減ってるし。一人で食うと……寂しい」

 上から順番にメニューを見て行く。ケーキは論外。バナナスプリットやサンデーなんかもってのほかだ。
 ドーナッツもアウト。
 と、なると。

 ホットビスケット指さし、聞いてみる。

「これなら甘くないぞ」
「…ん」

 やがて、運ばれてきた特大サイズのホットカプチーノを飲みながらさりげなく様子をうかがってみる。

 双子はコーラちびちびとすすっている。どうやらさして好きと言う訳ではないらしい。
 どんな飲み物なのか、メニューを読んでもわからなかったのか。他に知っているものがなかったのか。
 あるいはいい加減疲れていて考えるのが面倒くさかったのかもしれない。

 しかしホットビスケットは気に入ったようだ。
 シエンはときどき添えられたクリームを少しだけつけているが、オティアはそのまま。
 両手で抱えてちまちまと食べている。

 内側のしっとりした部分が好きらしい。そのうち二人ともビスケットを手でちぎって食べ始めた。
 視線すら合わせていないのにぴったり同じタイミングで、ディフは見ていて思わず声を立てて笑いそうになった。

(なるほど、こっちは気に入ったんだな……)
(これなら、家でも作れそうだ)


 ※  ※  ※  ※


 そして数日後。
 ローゼンベルク家のキッチンで並んで粉をこねるシエンとディフの姿があった。
 きっちりと髪の毛を後ろで一つに束ねて(これはディフの方だけ)エプロンをつけ、腕まくり。

「混ぜてオーブンで焼くだけだからな。ミートローフと同じだ、基本は」
「そうかなぁ……」
「まあこっちの方が力は少ないけどな。粉だから」

 ふるった粉類とバターを、北欧製の大きな黄色いボウルにまとめていれて。指先でバターをつぶすようにしながら粉となじませる。
 卵と牛乳を入れて、スプーンでおおまかに混ぜたら軽く打ち粉をした台にとり、のばしては畳んで。
 のばしてはたたんで。
 20回ほどこねる。

「まだ半分残ってるけど」
「少し味を変えようと思ってな。これ入れて、混ぜてくれ」

 すりおろしたレモンの皮を加えて粉とバターをなじませる。
 牛乳の代わりに生クリームを少しだけ。

「なんか、口の中、すっぱくなってきちゃった」
「……俺もだ」

 何となく顔を見合わせて笑った。

「ディフ……ほっぺに粉ついてる」
「あ」

 ごしごしと手の甲でぬぐい、混ぜた生地を長方形に伸ばしてナイフでジグザグに。三角形に切って行く。

「そっち半分やってみるか? シエン」
「うん」
「刃をあてて、一気に押し切るんだ」
「……こう?」
「そうそう、上手いぞ」

 できあがったビスケットを天板に並べて、刷毛で軽く表面に牛乳を塗る。
 あらかじめ356°Fに余熱したオーブンで18分ほど焼く。

「ねー、ディフ、なんか……ふくらんだら割れてきちゃったよ?」
「ああ、それは気にすんな。店で食った奴も割れてただろ」
「そっか。そうだね」


 焼き上がった頃、玄関の呼び鈴が鳴る。

「客か?」
「ヒウェルだよ、きっと」

 シエンがとことこと走って行き、覗き穴から外を確認する。

 ……正解。

 何となく誰が来るのかわかるのだ。顔を見る前から、いつも。

「よ、シエン」
「ヒウェル」

 リビングに入るなり、ヒウェルはくんくんと鼻をうごめかせて見回した。

「男ばっかの部屋でなぜか菓子の焼けるにおいがする……」
「ホットビスケット焼いたんだ」
「……お前が?」
「うん。ディフと二人で。お茶入れてくるね」

(買ってきたの、あっため直した訳じゃ……ないよな)

 やや複雑な面持ちで首をかしげていると、キッチンからぬっとご本尊がお出ましになられた。

「よぉ」
「飯にはまだ早いぞ」
「いいじゃん、たまにはティータイムに来ても」
「食い物のにおいを嗅ぎ付けて来やがったか……」
「まさか。たまたまだよ、たまたま!」

 言えない。本当は、オティアの顔を見たくて来ただけだなんて。
 その肝心の相手は姿が見えず、ヒウェルは小さくため息をついた。

 焼きたてのビスケットと紅茶の組み合せは、コーラよりずっと美味しい。

「微妙に大きさが違うな。こっちのちっちゃいのはシエンが作ったのか?」

 こくこくと金髪頭がうなずく。
 思わずヒウェルは琥珀色の目を細め、含みのない素直な笑みを顔いっぱいに浮かべていた。

「すごいな。美味いよ」
「これ簡単だったから……」
「そーなのか?」
「材料混ぜて、オーブンで焼くだけだからな。ミートローフと同じだ、基本は」

(それ以前にミートローフをマメに焼く野郎そのものが希少なんだよ!)

 この分だとクリスマスには七面鳥はおろか、ケーキぐらい余裕で焼いちゃうんじゃなかろか、この男は。

「いいなこれ、気に入った」
「うん、手軽だし……焼きたてだとやっぱり美味しいね」

 自分の分を食べ終わると、シエンは「ごちそうさま」と言って小さめのビスケットを皿に載せてとことこと奥に入って行く。

「……オティア、また書斎か」
「うん。読み出したら止まらなくなっちゃったみたい」
「また?」
「うん、また」

 ヒウェルはなんとはなしにシエンの後をついてゆき、細く開いたドアから中をのぞきこんだ。

 書斎と言ってもレオンの書斎で並んでいるのは当然、難解で分厚い本ばかりなのだが。
 床の上に座り込み、ホットビスケットをかじりながらページをめくっている。
 紫の瞳が食い入るように、びっしり紙の上に並んだ細かい文字を追っている。

「……俺、なんかあの子らの見分けつきそうな気がする……今なら」
「服の色で、か?」
「いや、そうじゃなくて」

 あとでレオンがビスケットの欠片…いやそれはないか。
 ほんのりにおいが書斎に残ってるのに気づいたら、どんな顔するだろうか。

 想像しただけでおかしくて、ヒウェルはくすくす笑っていた。
 オティアの邪魔をしないよう、声をしのばせて。

 そんな悪友の姿を、デイフは不思議そうに首をかしげて見ていた。


(ホットビスケット/了)



次へ→【3-7】a day without anythig

夜の出来事→【3-5】★★★退院祝い(前編)
(注:男性同士のベッドシーンを含みます)

【番外編】

2008/03/25 21:36 番外十海
  • 語り手がレギュラーメンバー以外、もしくは時系列が本編と異なるお話【ex】と
  • 本編の進行に直接関係ない枝葉の話【side】を集めたコーナーです。
  • 下に行くほど新しい話。
  • 不定期更新。
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記事リスト

【ex1】有能執事かく語れりpart1

2008/03/25 21:40 番外十海
 ぼっちゃまが恋していらっしゃる。

 お相手は高校時代の後輩。
 性格も真面目で面倒見もいい。私の目から見てもまっすぐで気持ちのいい気性の持ち主だ。体も健康そのもの、料理も上手い。
 きちんとした家のお子さんで(父上はテキサスで警察署長をしておられると聞いた)実に申し分のない相手と言っていいだろう。
 だが……。

『 男 』だ 。


 ※  ※  ※  ※


 私の名はアレックス・J・オーウェン。
 職業は執事。

 父祖の地ヨーロッパに居る頃より代々、ローゼンベルク家に付き従ってきた一族の末裔である。

 現在はローゼンベルク家のご嫡男にして唯一の直系跡継ぎ、レオンハルトさまにお仕えしている。

 初めてレオンさま(もったいなくもこうお呼びすることを許されている)にお会いしたのは20歳の時だった。

080326_0214~01.JPG
※月梨さん画『レオンぼっちゃま』の肖像

 当時ぼっちゃまはまだ五つ。ぱっちりしたかっ色の瞳にさらりとしたライトブラウンの髪、幼いながらも端正な顔立ち。さすがクラリッサお嬢さまの血を引いていらっしゃるだけのことはある。
 さながら遠き独逸の湖畔に建つ城の窓辺にたたずむ、貴族の姫君を思わせるようなたいへん愛くるしいお子さまだった。

 滅多に笑わず、誰にも心を許さない、気の難しいお子でもあったが……私の前ではほんの少しだけ、閉ざされた心の扉を開いてくださった。

 そんなレオンさまが高校に進学なさる時、本家を離れたいとおっしゃった。
 しばらく一人になりたいのだと。

 そこで、ローゼンベルクのご嫡男が通うにしては格式はいささか劣るものの、寮設備の整った伝統ある学校を探し出した。
 原則二人一部屋と言うことだったが、特別に一人で使えるように手配した。レオンさまが気兼ねなくお一人で過ごせるように。

 寮に入っておられる間は定期的に連絡をとり、必要なものはないかとマメに確認し、学校の様子もお聞きした。
 最初の一年目は何事もなく平穏無事に過ぎたのだが、二年目の十月に変化が訪れた。

 何か必要なものはないかと電話した際、滅多に不満を口になさらないレオンさまがおっしゃったのだ。

「同室にガサツな男がはいってきた」

 何と言うことだ! せっかく一人部屋を確保したのに!
 
 学校の近くに部屋を借りた方がよいのではないか。いや、いっそ転校を……。
 いろいろ思い悩んでいる間に月日は流れ、いつしかレオンさまは同室の男に対する不満を口になさらなくなって行った。

 じっと耐えておられるのだろうか。おいたわしい。

 そして、次の年の夏休み。

「本家には戻らない。このまま寮ですごす」
「さようでございますか」
「昼間は図書館に行くから、何か軽くつまめそうな物をもってきてくれ」
「かしこまりました」

 滅多に『こうしてほしい』とおっしゃらないあの方が。珍しいこともあるものだ。
 心をこめてマドレーヌやマフィン、クッキーを焼いてお届けした。

「アレックス。次はマドレーヌを多めにしてくれないか? 気に入ったみたいだ」
「それはようございました」

 はて。今、微妙に主語が省かれていたような……。



 ※  ※  ※  ※


 高校の寮は州外から来ている生徒が多いこともあり、夏休みも閉まることはない。
 それを幸い、郊外の牧場でバイトを始めた。家畜の世話も厩舎の掃除も、伯父の家の手伝いで慣れている。

 空いてる時間は自由に馬に乗っていいってのも気に入った。
 何より新鮮な卵や牛乳、バターを分けてもらえるのが嬉しい。朝飯に使うとレオンが喜んでくれるから。

「ただいま」
「お帰り、ディフ……焼けたね」
「一日中外で動いてるからな。お前は相変わらず白いよな」
「図書館にいるからね……今お茶を入れるよ」
「うん!」

 紅茶もコーヒーも、レオンがいれてくれるのが一番美味い。味も香りもクリアでミルクを入れるのがもったいないくらいだ。
 滅多に外でコーヒーを飲みたいと思わなくなった。
 紅茶と一緒に焼き菓子が出てきた。伏せた貝殻の形をしたやつ。この間初めて食った時、あまり美味くてびっくりした。

「美味いな、これ、ほんと! ありがとな、レオン」
「いや……。気に入ってくれてよかったよ。まだたくさんあるから」

 確かにたくさんある。だがこいつは自分で食べるのはせいぜい一つか二つで後は全部俺にくれる。
 いいのかな。
 これ、店で売ってるのとは違う。ホームメイドだよな。レオンのために心をこめて焼いたんだ。そう言う味がする。
 でも……誰が作ってるんだろう?


 ※  ※  ※  ※


 高校を卒業するまでの二年間、レオンさまは穏やかでよいお顔をなさっておられた。
 このままシスコ市内に住み続けたい。大学で法律を学び、将来は弁護士になりたいとおっしゃるので部屋を用意した。
 必要最小限の物を、との仰せだったが不自由な思いはさせられない。

 幸い、ノブヒルのグレース大聖堂の近くにローゼンベルク家の所有する数多い不動産の一つがあった。
 庭付きのコンドミニアム、6階建て。
 土地から建物まで全てレオンさまの名義に変更し、最上階の部屋数件分を改築して6ベッドルーム、4バスルームのお住まいを用意して。応接セットも客間も遊戯室も書斎も全て整えた。
 本家のお屋敷には遠く及ばないものの、仮住まいの役目は充分果たしてくれるに違いない。

「ご苦労さま、アレックス」
「おそれ入ります」
「夏休みにしばらく友人を招待したい。準備してくれ」

 お友達!
 レオンさまにお友達が………。
 胸の内が熱くなったが執事たるもののつとめ。表面にはちらとも出さず、ただ静かにうなずく。
 ああ、クラリッサお嬢さまがこのことを知ったらどんなにかお喜びになられるだろう……。

「かしこまりました」 


 ※  ※  ※  ※


「んが」

 すとん、と落ちた顎がもどらない。

 ノブヒルのマンションに引っ越したとレオンは言っていた。
 大学に通うのに便利だからと。

 だけどこいつは……。
 絶対、学生が学校に通うためにちょいと借りるような部屋とはランクが違う。(ってそもそも借りたとも言ってなかったような?)
 急に不安になってきた。
 のこのこ入ってったら俺、ドアマンにつまみ出されるんじゃなかろうか。

 おそるおそる入り口に立ち、インターフォンで教えられた番号の部屋を呼び出す。

『はい』

 レオンの声じゃない。落ちついた大人の男の人だ。一気に緊張がピークに跳ね上がる。

「あーその……レオンに……。高校ん時の友だちでマクラウドって言います」
『うかがっております。どうぞ、奥のエレベーターで最上階にお進みください、マクラウドさま』
「りょっ、了解っ」

 さまって。
 生まれて初めてだ、そんな風に呼ばれたの。
 背中が何だかむずがゆい。

 裏返った声で返事をして、ブリキの木こりみたいにギクシャクした動きでエレベーターに乗った。


 ※  ※  ※  ※


 呼び鈴が鳴った瞬間、レオンさまはぱっと立って玄関に走って行かれた。
 いささかとまどっておられたようだが、無事にマクラウドさまが着いたらしい。

「うわ……マンションの中に屋敷がある…」
「大げさだよ。そんなに大したもんじゃない」
「映画やドラマだと執事が出てきそうだよな……わ」
「いらっしゃいませ」

 骨組みのしっかりした頑丈そうな体つき。背丈はレオンさまと同じくらいだろうか。
 顔立ちはまだあどけない。ゆるくウェーブのかかった赤毛にヘーゼルの瞳、頬にうっすら散ったそばかすはそろそろ消え始めている。

「ほんものだ……」
「アレックスだよ。アレックス、こちらディフォレスト・マクラウドだ」
「そうか、あなたがアレックスだったのか」
「はい、これからはお会いすることも多いと思いますので、お見知りおきを」
「あ、いや、いえ、俺の方こそっ、よ……よろしくお願いします」

 いささか空回りの感はあるが礼儀正しい。何よりレオンさまに対して実に誠実、かつ好意的だ。

 ああ、よかった。
 よいお友達がいて。

「え? 一人で住むのか? こんな広いとこに」
「ああ」

 しばらく彼は手を握って口元に当て、考え込んでいた。

「……さみしくないか、レオン」
「慣れてるよ」
「こんなでっかい食卓で…一人で飯食うのか?」

 ぽん、と手のひらでダイニングテーブルの表面を叩いた。
 北欧から取り寄せたウォールナットの無垢材で作った一点もののオーダーメイド。

「余裕で7人ぐらい座れそうだ」
「……そうだな」

 しばらくレオンさまの顔をじっと見てから、彼は跳ねるような足どりでキッチンまで歩いて行った。

「キッチンも広いよな! わ、こんなにでっかいオーブンまでついてる」

 はしゃいでいる。台所の設備を見てはしゃぐハイティーンの男子と言うのも珍しい。
 そんな彼を見守るレオンさまの笑顔の何と幸せそうなことか。

「何でも作れそうだ」
「好きに使っていいよ。……君の時間のある時に」

「サンキュ、レオン。またミートパイ焼くよ。それともミートローフの方がいいか? あれ、パイ皮がない分作るの楽だからな!」

 ミートパイやらミートローフを焼くハイティーンの男子と言うのも……かなり、珍しい。

「すげえ、ダッチオーブンまである。何でもそろってるな、ここの台所」

 彼が背を向けた瞬間、レオンさまの表情が微妙に……揺らいだ。
 ほとんど無意識なのだろう。くっと拳が握られる。まるで何かを懸命に堪えておられるように。

 まさか。
 これは……。
 いや、そんなことは、あるはずがない。
 あってはならない!


080326_0231~01.JPG
※月梨さん画『マクラウドさまとぼっちゃま』2ショットの図


 ※  ※  ※  ※


 その後、マクラウドさまがお帰りになられると、レオンさまは大変お寂しそうにため息をついておられた。

 滅多にご自分の感情を表に現すことのないレオンさまが。

 まちがいない。
 レオンさまは恋をしていらっしゃる。

 いささか大雑把な所はあるが礼儀正しいし、性根も真っすぐで料理も上手い。何よりレオンさまに対してこの上もなく誠実だ。
 ああ、神よ。
 これで……彼がでさえなければ!

 幸いマクラウドさまはまだレオンさまの想いに気づいていない様子。

 これは………見守るしかないのだろうか。

 以前、父から言われた言葉を思い出す。「主をお諌めして、正しい道に導くのも執事のつとめ」と。

 私の名はアレックス・J・オーウェン。
 レオンハルト・ローゼンベルクさまにお仕えする執事である。


(有能執事かく語れりpart1/了)


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【3-5】★★★退院祝い(前編)

2008/03/26 21:09 三話十海
 キスだけで体が疼くことがある。
 
 ずっと、ただの慣用句だと思っていた。恋愛小説だのソープドラマの決まり文句。

(それだけで燃え上がってりゃ世話ないぜ!)
 
 ただのファンタジーだと思っていた。
 レオンとベッドを共にするまでは。

 触れあう肌の熱さ、流れる汗、すぐそばで聞こえる息づかい、彼の手、指、髪……舌。温かいだけじゃない、濡れて艶めくかっ色の瞳。それらの記憶がキスを引き金に再生され、体中の細胞の一つ一つに触れあった時の感触を呼び覚ます。

 そうなると……。
 火が灯って、消えない。
 体に刻まれた記憶と同じか、もっと強い刺激が与えられるまで欲しがり続けるのだ。いつまでも。いつまでも。


 ※  ※  ※  ※


「お帰り!」
「ただ今」

 病院から戻ってきたレオンを出迎えた。
 入院していたのは俺の方なのだが、保険やら何やらの手続きに必要な書類をとってきてくれたのだ。

「なんだか立場があべこべだね」
「いいじゃねえか。細かい事は気にすんな!」

 笑みを交わし、親しみをこめて肩を叩く。本当はこのまま抱き合い唇を重ねたい。重ねるだけじゃ終わらない。もっと深く。もっと強く。だが……今はまだ日が高い。

 その程度の事、大した抑制効果がある訳じゃないんだが。
 最大の問題は同じ部屋の中にオティアと、シエンと、何故かヒウェルまでいるってことだろう。
 肩を並べて居間に入る。並んで腰を降ろして、話をする。飽きることなくレオンに見入る。わずかな表情の変化にも胸が踊る。
 
 面会時間はいつまでか、なんてもう気にしないでいいんだ。
 
「あ……」
「ん……」

 また、目が合った。さっきからやけに目が合う。
 もしかして俺のことずっと見てるのか? お前も。

 まただ。
 にこっとほほ笑みかけてきた。ちらりと白い歯の奥にピンク色の舌がひらめくのが見えてしまった。
 まいったね。何て可愛い顔してやがる。もしも今、二人っきりだったら……日が高かろうが、ここが居間のソファの上だろうが、かまうもんか。迷わず押し倒してる。

 軽く下唇を内側に吸い、歯で押さえる。

 キスだけで体が疼く。
 それ以前に、キスの記憶だけで疼く時もあるんだ……な。

 
 ※  ※  ※  ※


 夕食の後、双子と話し、コートを買いにでかける約束をとりつける。
 部屋に戻る二人を見送りながらほっと胸をなでおろした。オティアが一緒に来てくれるかどうか、正直不安だったんだ。
 良かった。

 そっと後ろから肩を押さえられ、耳元で囁かれる。

「今夜は泊まって行くんだろう?」

 それだけの事なのに、温かな吐息とともに吹き込まれる低い声が、耳から体の奥まで伝わり、じわじわと広がって行く。
 肌の表面が細かく波打つような感触に背筋が震え、気がつくとうなずいていた。

(ったく何がっついてんだ!)

 気恥ずかしさをごまかしたくて、わざと明るい声を出す。

「あ、そうだ、パジャマとってこないとな。ジーンズで添い寝すると固いって文句言うだろ、お前」
「……そんなもの、必要無い」

 肩に置かれた手が首筋をなであげ、そのままするりと頬を撫でられた。

「っ!」

 やばい……もう限界だ。レオンを引き寄せ、夢中でキスしていた。
 重ねた唇の間に情けないくらいに激しくなった自分の呼吸が響く。もう、止まらない。
 病室でもキスはした。けれど少し深くしようとすると、いつもレオンにやんわりとさえぎられてしまった。

(後が……つらいだろう?)

 言葉より雄弁に瞳が語る。
 勝ち目のない反対尋問なんざ、しかける余裕は到底なかった。

 ここはもう病院じゃない。
 誰も見ていない。

 それでも何やらいけないことをしているようで、柄にも無くどぎまぎしながら舌を差し入れる。
 
「ぅうっ?」

 逆に捕まり、吸い上げられた。
 ゆるく頬に添えられていた指先で髪の毛をかきあげられる。毛先がうなじを滑る感触に思わずびくん、とすくみあがっていた。

「んんっ」

 やばい……声、出ちまった。

 そのまましばらく弄ばれてからやっと唇が解放される。さんざん絡み合った舌と舌の間につーっと透明な糸が垂れる。
 なんだかひどく淫らな眺めで、いたたまれず目をそらす。
 頭の芯がぼうっと痺れている。膝に力が入らない。今にも足元からふわっと浮き上がり、どこかに吸い込まれて行きそうな気分だ。
 いかん……酸素が足りない。

「は……はぁ……はぁっ……」

 必死で息を整えていると、わずかに笑いを含んだ声でささやかれた。

「最初の勢いはどうしたのかな」
「う……うるさい……お前のキスが……エロすぎるんだよっ」
「褒め言葉だと思っておくよ」


 レオンは思った。


 クリーム色がかった明るい茶色。ミルクティをそのまま透明にしたような瞳が、うっすら緑を帯びている。本来の温かさを保ったまま……いや、さらに熱く濡れ溶けてつやつや光っている。

 いい具合に蕩けてるね。可愛くてたまらないよ。

「ベッドに行こう」

 答えを聞くより早く彼の背に手を回し、肩から上着をすべり落す。
 シャツの上から触れる体は既に熱く火照り、細かく震えていた。そのままダンスでも踊るような格好で歩き始めると、彼の喉の奥から小さなうめき声がこぼれた。

 少し……強引だったかな。

 この前、ベッドを共にしたのは一ヶ月ほど前。余韻に浸る間もなく君は飛び出して行った。まさか、あの後あんなことになるなんて。
 ずいぶんと長い事お預けを食らってしまったね……君も。俺も。

「ぁ」

 もつれあって倒れこんだ体が二人分。ベッドがかすかに軋る。
 優しく横たえる余裕がなかった。
 腕の下、白いシーツの上にゆるくウェーブのかかった赤い髪が乱れて広がる。前に抱き合った時は首筋を覆い肩に軽くつく程度だったが……今は先端が肩を通り越し、少し背中にかかっている。
 まるでちっちゃな翼でも広げたみたいだ。
 片手でシャツの襟元を押さえている。もしかして、恥ずかしいのかい?

(君の体のことなんか、君自身よりよく知っているのに)

「なんだかこの眺めも、すごく、久しぶりな気がするね」
「……そうだな……あの日以来か」
「無事に退院できてよかった。おめでとう」

 シーツの上にひろがる髪を一房すくいとり、キスした。もとより髪の毛に感覚などありはしない。動きが皮膚に伝わるだけなのだが。ディフにとっては、それさえも充分な刺激になってしまうらしい。

「んっ……………」

 目を細めて、ぴくりと震えた。

「ごめんな、心配かけて。ありがとう……」

 手を伸ばし、頬を撫でてきた。

「嬉しいよ。お前の傍に戻って来られて」
「君がいないと……やっぱり、だめだ」


 レオンの言葉を聞いた瞬間、胸の奥がずきりと小さく疼いた。


 同じ言葉を以前も聞いた。その時、俺はお前への気持ちを認めることができなくて。
 気づいていながら気づかないふりをして、まだ目をそらしていた。

 お前は、自分の気持ちを何度も伝えてくれていたのに。
 とっくにお前のことしか見えていなかったのに。

 くしゃっとレオンの髪を撫で、そのまま引き寄せ、胸に抱きしめる。

「お前だけだ……レオン」

 素直に抱かれてくれた。あずけられた肌の温もりと確かな重さに安堵する。
 絹みたいにさらさらしたライトブラウンの髪をかきわけ、額に口付けた。

「こうして触れたいのも。触れられたいのも。お前だけだ、レオン……愛してる……」
「愛してるよ」

 唇が重なる。
 どちらからともなく。もう誰も止めない。止める必要もない。

 キスだけで体が疼く。今がその時だ。


 ※  ※  ※  ※


「ん…ぅ…っ……んんっ」

 最初のうち、ディフは目を細めて嬉しそうにキスを受けていた。今はもう違う。
 四週間の入院生活の間に本来の白さを取り戻した肌に、うっすらと紅が入っている。

 赤毛の彼はブルネットの自分に比べて色素が薄いのだ。
 ほんの、少しだけ。
 こうして重ねてみるとよくわかる。

 喉の奥から漏れる艶めいた吐息に誘われるようにして服に手をかけ、はだけてゆく。露になった肌に唇を這わせると、焦れたような悲鳴があがった。

 体をよじる。
 布がこすれる。
 また、声が上がる。どんどん追いつめられて行くようだ。

 まいったな、別に苛めている訳じゃないのに。

 ああ、すっかり乳首が固く尖っている。まだ全然触っていないんだけどなあ。

「どこ……見て……る」

 小さく笑って顔を寄せ、舌先で突いた。

「ぁんっ」

 妙に可愛い声が聞こえた。歯を食いしばって声を殺す、その余裕すら無くなっているらしい。

「い……いきなり何しやがるっ」

 それはもしかして睨んでいるのか。それとも誘っているのかな?
 乱れた髪の合間にのぞく左の首筋に、薔薇の花びらほどの大きさの火傷の痕が、ほんのり赤く浮び上がっている。

(今は、怒っているせいじゃない)
(知っているのは……俺だけだ)

「いきなりじゃなきゃいいのかな。……これから、ほら。この尖ってきてるところに触るよ?」
「ぃっ」

 言われてる間に直視できなくなってしまったのだろう。ぷい、と横を向いてしまった。
 けれどすぐに横目でちらっと見上げきて、それから小さくうなずく。

「可愛いな。君は」

 耳元に囁きながら予告した通りに指先でつまむ。

「あっ」

 背中が反り返り、片手がつかまる場所を探してシーツの上をさまよっている。
 何を迷っている? 俺にすがりつけばいいのに。

「か……可愛いとか………言う……な…」
「それじゃあ……なんて言ってほしい?」

 耳たぶを口に含み、そっと歯を当てる。

「うぁっ……あっぁっ……」

 びくびくと陸に挙げられた魚みたいに震えてから、ディフはレオンの肩に手をかけ、目を見あげ……言った。
 すっかり乱れた呼吸にともすれば途切れそうになる声を懸命に繋げて。

「言わせろ。お前は……最高に……可愛い」

 ふっと、涼しげな目元が細められる。

(笑った?)

「すぐに喋ることもできなくなるから……今のうちに言っておくといい」
「なっ………」

(俺は何をされてしまうんだろう?)

 ぞくっと背筋に震えが走る。

(何をされてもいい。レオンになら)

 既にシャツのボタンは全て外され、下のTシャツもまくり上げられ、ジーンズのジッパーも降ろされていた。
 ゆるめられ、もはやほとんど体を覆う役目をはたしていなかった服を自分の手で取り去る。
 身につけたものを一枚残らず脱ぎ捨て、ともすれば体を隠そうとする両手を広げて全てをさらけだした。

 レオンの目の前に。

「お前が欲しい。今、すぐに」
「それは君だけじゃない……」

 彼の体が離れて行く。シャツに手をかけて、脱ぎ始めた。その時になって初めてレオンがまだきちんと服を着ていたことに気づき、今更ながら恥ずかしくなってきた。

 が……正直なもので、目が離せない。
 既に半分ほど起ちあがっていた足の間の"息子"にはどんどん熱い血流が集まって行く。

「きれいだな……」

 ほとんどため息のような声が漏れた。
 服を着てるとわかりづらいがレオンは意外に筋肉質だ。高校の頃は俺よりずっと細かったが今は違う。
 鹿狩りの猟犬にも似たしなやかな体躯はいつまで見ていても飽きない。もちろん、触れても。

 そんなことを考えていたら、すっかり脱ぎ終わったレオンがのしかかって、キスしてきた。
 唇と唇が触れあうだけの軽いキス。だが互いの体が直に触れあう。
 ざわりと肌が泡立ち、皮膚の内側に炭酸のはじけるような刺激が染み込んで行く。たまらず、もじもじと身をよじっていた。
 手が下に滑り降りて行く。

(あ、ちょっと待てお前、どこに触ってるんだ!)


後編に続く

【3-6】★★★退院祝い(後編)

2008/03/26 21:12 三話十海
 細くしなやかな指が痛いほど堅く張りつめた逸物をくすぐり、思わず目を閉じた。すぐに指が離れて行く。
 ほっと息をついたその瞬間、指とはまるで違った何かがこすりつけられてくる。もっと熱くて、太くて、濡れていて……堅い。

(まさか、お前、自分のでっ!)

「あ……何を……んっ…あんっ」
「ああ。言うのを忘れたかな……」



 おや、腰がひいてるじゃないか。逃げないでくれ、可愛い人。
 肩を押さえる手にわずかに力を込める。
 あまり感じやすいのも考えものだね……。

「ほら、もっと擦るよ」
「もっとって……」

 視線が左右に泳いだ。

「だ、だめだ、そんなことされたらっ」
「嫌?」
「ち……が……」

 息が荒くなっている。摺り合わせている物も何やら堅さを増して、脈打ちはじめているようだ。先端からは透明な雫が溢れて、とろとろと伝い落ちている。

「出そ……う…ずっと…してなくて……」

 切なげに目を細めて、それでも目線はそらさず、じっと見上げてくる。強すぎる刺激に、ともすれば体が逃げそうになるのを懸命にこらえているのだろう。
 震えながらも手をのばしてすがりついてくる。
 恥じらう表情とストレートな物言い。何という矛盾。だがかえって身の内にたぎる欲情が煽られる。

「構わないよ……俺も、そうだから……」

 自分と、彼と。脈打つペニスを重ねてにぎり、勢い良く擦りあげる。

「あ、あ、あ、あっ、レオンっ、よせ、あ、もっ…出る……んんっ」

 堅く目を閉じたまま髪を振り乱し、足の先までピン、と体を突っ張らせて。勢いよく白いどろりとした精を吐き出した。
 かなり濃い。
 本当に……我慢してたんだな。
 自分一人でどうにかしようなんて、欠片ほども考えなかったのだろうね、君は。

「くっ……あぁ、可愛い……よ、んぅ…っ」

 二人分の『ミルク』が彼の体を汚して行く。

「ふ…あ………」

 顔まで白い飛沫で汚しながらディフは恍惚とした表情を浮かべ、細かく身を震わせた。うっすらと目を開き、見上げて……口元がかすかにほころんだ。一筋噛みしめられていた赤い髪が解放され、はらりとシーツにこぼれ落ちる。

 ふとイタズラ心がわきあがり、胸に飛び散る雫に手を伸ばして、塗り広げてみた。

「は……あぁ……」


 粘度の高い熱い雫がほとばしる。浴びた瞬間、頭の中で何かが弾けた。余韻に浸る間もなくレオンの指がぬるりとしたそれを塗り広げて行く。
 楽しそうな目、してる。
 あの顔してる時に逃げると、きっと手をひいてしまう。今、ここで放り出されたら……考えただけで気が狂いそうだ。
 また、体が逃げそうになる。片手でシーツぎっちり握って耐えた。
 
「足……開いて」

 震えながらうなずく。だめだ、もうレオンの顔がまともに見られない。目を伏せながらもそろりと足を開く……少しだけ。
 恥ずかしかった。
 果てたばかりの前を見られるのが。
 既に別の刺激を期待してひくついている後ろを晒すのが。
 想像しただけで身が縮み……火照る。

 太ももを撫でられる。どんなに静かに息をしようとしても、レオンの手が動くたびに喉が震える。あえいでしまう。
 膝の裏に手が入ってきて、キスされた。関節の内側、薄い皮膚の交差する場所を狙って。

「あうっ」

 抗議しようとしたはずが、実際に出たのはかすれた悲鳴。びくっと背中が反り返る。

(何度目だろう?)

「こんなところも感じるんだね……」
「ち……が……お前が……触る…から」

 舌が足先に下がって行く。肌の上にひやりとしたラインを描いて。

「よ……せ……そんなとこ………」

 嘘だ。
 
「は……あ……んっ」

 さっきありったけの熱を吐き出したはずの獣が、もう半分ほど首をもたげている。
 足首を掴んで持ち上げられる……こんどはふくらはぎのほうに舌が滑って行く。

「な……んで……足なんか……んんっ」

 たまらず身をよじる。が、がっちり掴まれて逃げられない。

「ほら、こっちも……」
 
 さっきとは反対側の足にもキスされた。

「や……あっ」

 嘘……だろ。
 足にキスされてるだけで、なんで、こんなに熱くなるんだ。
 ああ、もう、痛いほど堅くなってる。信じらんねぇ、さっきイったばかりなのに!

 レオンの唇がじりじりと内股に降りて行く。
 見られている……。
 思っただけで、堅く張りつめたペニスがぴくりと震えた。

「あ」

 ふっとキスが離れた。思わず詰めていた息を吐き出す。

「はぁ……あぁ……」

 全力疾走した後のようにぜいぜいと大きく息をつく。目を閉じたまま、何度も。
 不意に足の間にとろりとした液体が滴り落ちてきた。

「ひっ、な、何だっ」
「ローションだよ……久しぶりだから、忘れちゃったかな」

 熱い疼きが走り抜ける。ローションを塗り付けられた所から頭のてっぺんまで。通りすぎる場所をことごとく赤く染めながら。

「わ……忘れるわけ……な……い……」
「ちゃんとほぐさないと…いけないから」

 たっぷりローションを絡められた指が、後ろの入り口を撫でる。
 言葉にならない悲鳴がほとばしる。

「まだこれからだよ、ディフ」

 低い声が囁く。
 俺をディフと呼ぶのはごく限られた人間だけだ。
 ヒウェルと。オティアと、シエン……そしてレオン。
 
 ベッドの中で呼ぶのは、レオンただ一人。


 目をぎゅっとつぶって首を横にふる。後ろの口が震えて息でもするように開閉し、撫でさするレオンの指にキスしている。

(ずっと、そこに触って欲しかった)

「力を抜いて」
「ぅ…わ……かった……」

 息を吐いて、力を抜こうとする。焦っているせいか、なかなか上手く行かない。
 数度目にやっと成功すると、待ちかねたようにレオンの指がするりと中に忍び込んできた。

「あうぅっ」
 
 ペニスの根本から先端にかけて甘美な刺激が走る。懸命にこらえたが、先走りがちょろりとにじむ。
 見られたろうか……。
 気づかないはずがない。あんな近くから見ているのだから。

「もう我慢できないのかな……」

 さぐるように指が動く。

「は…あ……あっ……そ……こ……」

 お前の言う通りだ、レオン。もう我慢できない。もっと欲しい。
 後ろがひくつき、うねり、指をくわえこんで吸い込む。もっと奥を。もっと強く触って欲しい。
 かき回して欲しい。

(いっそ言ってしまった方がいいんだろうか?)


 だめだ。淫らな所作をねだる自分の声を、自分の耳で聞くなんて……そんなの想像しただけで恥ずかしくて頭がおかしくなりそうだ。

「我慢しなくてもいいよ」

 優しく囁かれ、後ろを弄る指が増やされる。

「くっ、う………あ……ひっ、んっ、う、あっ、ぁあっ」

 もう、止まらない。
 腰をくねらせ、自分からレオンの指を抜き差しするようにして動いていた。
 丹念に後ろを弄られながら、喉から首筋の傷跡まで丁寧にキスされる。

 皮膚の薄い火傷の跡の上を吸われた瞬間、我慢も恥じらいもプライドも臨界点を突破した。

「も……だめ…だ……指じゃ……っ」

 言葉とは裏腹にアヌスは熱心に指に絡み付き、キャンディでもしゃぶるみたいにまとわりついている。
 少し笑った気配がして、ゆっくり引き抜かれた。

「ぁあうっ」

 背中が反り返って、イきそうになるのを必死で堪えた。足の間に意識が持って行かれる。心臓が降りてきたみたいにその部分が激しく脈打っている。

(これ以上焦らされたら……きっと、俺はどんな淫らな願いもためらわずに口にしてしまうだろう)

「ディフ。挿れるよ……」

 失われた指を求めてなおも狂おしく蠢く場所に、ようやく熱い塊が押し付けられた。
 はっと息を飲み瞼をひらく。目の前の景色が雨の日の窓越しの景色みたいにぼうっとにじんでいる。

「来てくれ…レオン」



 潤み切ったヘーゼルブラウンの瞳。混じる緑の色合いがさっきよりも濃くなっている。
 とろけるような、そのくせあどけない表情でほほ笑みかけてきた。

 笑み返し、ぐい、とひと息に彼の中に押し入る。
 甲高い悲鳴が上がり、しがみついてきた。

「ぁ………く…う……」
「ああ……ディフ……君は、最高だ……」



 名前を呼ばれるたびにアヌスが蠢き、迎え入れたレオンを更に奥へと誘う。そこだけ、別の生き物が体内に棲みついたように。

 しがみつく腕に力が入る。震えながらレオンの胸に顔をうずめ、ちろりと舐めた。

 病室で一人で寝ている間、一晩ごとに彼の肌身の記憶がおぼろになるようで……寂しかった。

(そうだ、この味だ)

 かっ色の瞳が細められ、引き締まった身体がゆっくりと動き始める。灼熱の塊が抉る。体の中のもっとも柔らかく、鋭敏な場所を。

「んっ…あ……あぁ……俺も……お前がいないと……ダメ…だ。自分の半分を…どこかに……忘れたみたいで……ぁ」
「ディフ……っ」
「寂しかった……」

 一段と強く抱きしめられる。
 彼は俺の中に居て、俺は彼の中に居る。そのことが、たまらなく嬉しかった。

「愛してる……君が、俺のすべてだよ……」
「俺から離れるなよ、レオン」
「もちろん」
「病室で何度もお前の夢見てた……」

 なめらかな肌が汗ばみ、いつもきちんと整えられているライトブラウンの髪が乱れて額や頬に張り付いている。
 たまらなく淫らで、息をのむほど美しい。

「それは……あとで、ゆっくり聞かせて……もらうよ」

 それは……ちょっと、困る。心臓がどくんと脈打ち、一緒になって後ろがきゅっと締まった。

「く……」

 こみ上げる何かを耐えるようにレオンが眉を寄せ、呻いた。その声にまた後ろが締まる。
 ぐい、と押さえ込まれ、堰を切った様に動きが激しくなった。

「あっ、あっ、あっあっあっっ…レオンっ……そんなにっ……あっ、あぁっ!」

 にじんでいた涙が後から後から沸き出して、ぼろぼろと溢れる。体の下でシーツがよじれる。肌が擦られ、また新たな疼きがわき上がる。
 無防備な鳴き声をあげながら夢中になってレオンの動きに合わせて腰をくねらせていた。
 少しでも彼を感じたい。逃したくない。
 離れたくない。
 重なり合った体の間でペニスが擦られる。前と後ろから攻め立てられ、意識が……溶ける。

「ディフ……ディフ、くぅ‥‥っ」

 名前を呼ばれ、深々と奥までつきあげられた瞬間。完全に理性を手放した。

「レオン……っっ」

 びくびくと痙攣しながらレオンの背中に爪を立て、しがみつく。
 熱い、粘つく衝撃が体の中心を駆け抜け、ペニスの先端からほとばしる。
 体のありとあらゆる部分が束縛から解き放たれて行く。

 ぶるっとレオンが震えて、また俺の名前を呼んだ。掠れた声で。
 
 ああ、お前も今、イってるんだな。
 わかるよ。
 お前の吐き出した熱が俺の中に溢れて広がって……すごくあったかい。

「ふ……ぁ………………」



 またディフが震えている。本当に感じやすいな、君は……。
 ここまで感度が磨かれてしまったのは、持って生まれた体質だろうか。それとも俺のせいだろうか?

 うっすら涙を浮かべて、しあわせそうにほほ笑んでいる。

 天使のほほ笑み……と言うには、いささか艶がありすぎるかな。

(君のその顔は俺だけのものだ)

 汗ばむ背に腕を回して抱きしめ、そっと指先でなぞる。背中に走る真新しい傷跡を。

「ん……」

 子猫のようにすり寄り、胸に顔を埋めてきた。

 いっそ鎧でも着せておきたい。二十四時間、目の届く所に置いておきたい。だが、そんなことをしたら君を潰してしまうだろう。

「すっかり汚れてしまったね。もう少し落ちついたら、一緒にシャワーを浴びよう」

 黙ってこくこくと頷いている。汗の雫の浮いた首筋の火傷の跡が、赤い。まるで露を含んだ薔薇の花びらだ。

 ほんとうに、正直だな、君は。

 体も。
 心も。

「レオン……愛してる」
「ああ。俺も、愛してるよ」



  ※  ※  ※  ※


 真夜中を少し過ぎたころ。
 のどの乾きを覚え、オティアはリビングにやってきた。
 ソファの上に何やら黒い生き物がうずくまっている。一瞬、ぎょっとした。

 目をこらすと、何のことはない。
 まだ新しいスタンディングカラーのライダースジャケット、色は黒。ソファの上に無造作に脱ぎ捨てられている。
 肩から落してばさりと置いた形がそのまま残っていた。

 この光景は以前にも見たことがある。ディフの『抜け殻』だ。

「……またかよ」

 キッチンで水を飲み、灯りを消して部屋に戻る。

 今度は電話は鳴らなかった。


(退院祝い/了)


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