▼ 【side12】スケーターズ狂騒曲
- 2007年1月の第四日曜日。サリーちゃん達がエドワーズさんのお店に絵本を引き取り行ったのと同じ日の出来事です。
- 一家そろってお出かけ。
土曜日の夕方。いつもよりちょいと早めに上に行くと、居間でレオンとディフが向かいあっていた。
例によって例のごとく、いや、いつもにも増して滴るような濃密な甘いオーラが漂っている。
ディフはエプロンをつけたままだ。察するに今夜は煮込み料理かオーブン料理。仕込みを済ませて後は双子にキッチンを任せ、自分はレオンにかかりっきりと見た。
ずかずか入ってくのもためらわれ(と言うか怖くて)、戸口にたたずみ観察と決め込む。
「そうだ、上手いぞ、レオン、その調子だ」
何故かレオンはよろよろと、生まれたての子鹿みたいにおぼつかない足取りで歩いている。真剣な顔つきだ。
一歩ごとに体が揺れ、見ていてあぶなっかしくて仕方ない。
……はて。いつもと視線の位置が微妙に違ってる。
心なしか背が高くなってないか、こいつ?
「あ」
「おっと」
カーペットの縁でつまづいた。ぐらっと傾いだ体をすかさずディフが受け止める。
「大丈夫か?」
「ああ……ありがとう」
レオンは、ディフの腕の中に包み込まれたまま、うっとり見上げている。そのまま二人は見つめあい、ごく自然に顔を寄せて……ああ、このままだと唇が触れるよ。
多分、もっとがっつり行く。
「あー、その」
さすがに気が引けて声をかけてみる。が、しっかり無視してキスしやがった。
舌を入れるまではやらないが、まったくこっちを気にする素振りはない。
ディフの手のひらがレオンの背を撫で、レオンはゆるく波打つ赤い髪に指をからめて愛おしげに撫でさする。そのままたっぷり5秒は経過しただろうか。
二人はようやく唇を離し、俺の存在を認識してくれた。
「よう」
「やあ、ヒウェル。早いね」
肩をすくめてやりすごす……だけなのも何かシャクなのでひと言反撃を試みる。
「ダンスのお稽古?」
「いや、スケートの練習だ」
なるほど。よろよろしてるのも道理、レオンが履いているのはスケート靴だった。
しかもごっついアイスホッケー用。いい具合に年季が入っているが、丁寧に手入れされていてピカピカだ。待てよ、こいつは何となく見覚えがある……そうだ、ディフが高校時代に使ってたやつだ。
足のサイズを考えりゃ、妥当な選択だよな、うん。
「部屋ん中でやって、意味がある訳?」
「ああ。まずは床の上で立つことから始めるのが基本だ」
「へー」
「お前もやってみるか? 俺の貸してやるから」
そう言ってディフは床の上に置いてあったもう一足を指さした。
こっちは大人になってから買ったやつだろう。レオンの履いてるのに比べて新しい。買ってからせいぜい2、3年ってとこか。
「いや……遠慮しとくよ。サイズも合わないし」
たとえサイズが合ったとしても、ディフの靴を借りるだなんて! そんな空恐ろしい愚行、百万ドル積まれたってごめんだ。見ろ、レオンが笑ってる……この上もなくにこやかに。
背筋をつすーっと冷たい汗がしたたり落ちる。
「本番まで楽しみにしとく」
「賢明な選択だね」
「にう!」
キッチンの入り口に、オーレを肩に乗せてオティアが立っていた。
俺たちが目を向けると、ひと言、ぼそりと報告した。
「焼けた」
「わかった」
メインディッシュはミートパイだった。
※ ※ ※ ※
そもそも何だってレオンがスケートの練習なんか始めたのか? これには若干込み入った事情がある。
この週末、冬季限定のユニオン・スクエアの屋外スケートリンクでディーンが初めてのスケートに挑戦する予定だった。
パパに教えてもらうのを楽しみにしていたのだが。
あろうことかアレックスが風邪をこじらせて寝込んでしまったのだ。
『私はいいから、二人だけて行ってきなさい』とアレックスは言ったらしいが、寝込んだ夫をソフィアが一人残して行くことなぞできるはずもない。
すっかりしょげ返ったディーンを見かねて、ディフが申し出た。
「俺が連れてこうか? スケートなら教えられると思うんだ。学生時代にやってたし」
今思えば、運動不足になりがちな双子をスケートに連れ出すきっかけを、あいつ自身も探していたのかもしれない。
双子は双子で、ディフがケーブルテレビでホッケーの試合を見てる時は素通りするが、フィギュアスケートの時は立ち止まって眺めるようになっていた。
やっぱり気になったのだろうか。産みの両親がフィギュアスケーターだったことが。
ともあれ、オティアとシエンは「一緒に行くか?」とのディフに問いかけにうなずいた。
そしてさらに意外なことに、レオンまでが行くと言い出したのだ。「たまには気晴らしもいいね」とか何とか言って……。
かくして。
俺と、オティアとシエン、ディフとレオン、そしてディーン。総勢6人の遠征チームが結成されたのだった。
※ ※ ※ ※
日曜日。澄んだ空気はぴりぴりと頬を刺すほどに冷たく、空にはうっすらと綿をはいたような雲が広がっていた。
折からの寒波襲来で、リンクのコンディションは絶好調。一方で人間はダウンジャケットに手袋、マフラー、ニット帽で完全防寒。
「うう、寒い」
「そんな薄着でいるからだ」
「いや、運動するからこれぐらいがいいかなーと思って」
さすがにワイシャツ、ネクタイの上にダウンジャケットってのはきつかったかな……。セーターぐらい着ておくべきだったか。
防寒具がすぐに出るような位置になかったんだよな。まさかカリフォルニアでこんなに冷え込むなんて、思ってなかったから。
加えて自主的にこのくそ寒い中、野外スケートリンクにのこのこ出てくるなんざ想定外もいいとこだ。
(何で俺、こんなとこにいるんだろう……)
決まってる。オティアがいるからだ。今この瞬間、俺の目の前でベンチに腰かけスケート靴をてきぱきと履いている金髪さんがいるからだ。
ちなみに双子とディーンと俺の靴はレンタル。レオンはディフのお下がり使用、ディフはマイシューズ。
「何でディフとレオンの靴は俺のとちがうの?」
「こいつはアイスホッケー用だ」
「じゃあ、これは?」
「それはフィギュア用。初心者に向いてるんだ」
ディーンは目をかがやかせて両手をたたいた。
「フィギュア知ってる! くるくるーって回るの、くるくるーって! これはいてれば、くるくるできる?」
「上手くなればな。まずは、歩く練習からだ」
「うん!」
全員の靴を確認してからディフはおもむろに言った。
「よし、じゃあ、まずは床の上で立ってみようか」
ひょい、と双子が立ち上がる。最初のうちこそ互いに支え合っていたが、直にコツをつかんでそれぞれ一人で自立した。
驚いたのはディーンの奴だ。立ち上がるのはおろか、いきなり歩き出しやがった! よちよちとアヒルの子みたいにお尻を振ってバランスをとりながら、とことこと。
「おい、ディーンっ、大丈夫か?」
「うん」
ケロっとしてやがる。
目の前でディフがのっしのっしと普通に歩いてるもんだから、何の疑問も持たずに自分もできるもんだと考えたらしい。
さすが3歳児、怖い物知らずっつーか、素直っつーか……マネできねーや。
レオンはと言うと、立ち上がりで若干ふらついた。すかさずディフが腰に手を回し、支える。レオンもごく自然に幅広い肩に腕を回して身を寄せた。
あー……なるほど。
そう言う訳か。何だってこいつがスケートに行くだなんて自分から言い出したのか、わかったぞ。
公然とディフにひっつく絶好の機会を、この男が逃すはずがないんだ。
「おいヒウェル」
「はい?」
「いつまで座ってるんだ」
「あー、はいはい、今立とうと思ったとこ、今、今ね!」
既にオティアも、シエンもすたすたと歩き出している。ディーンはそわそわ、うずうずリンクに通じるゲートに視線は釘付け。一秒でも早く氷の上に出たいんだろうな。
オティアもじっとこっちを見ている。早くしろ、と言わんばかりに。
(くそ、何なんだこのプレッシャーは!)
(ようし、俺だっていい大人なんだ、お子様に負けてどうする。やってやろうじゃないか!)
「っしゃあ!」
気合いを入れてえいやっと立ちあがった………気持ちだけは。
「ヒウェル……」
「みなまで言うな」
「お前、もしかしてスケートするの、初めてか」
「ストック無しでやるのは」
しばし沈黙。
さらりとレオンに言われた。
「ひょっとして、スキーとまちがえてないかい?」
「ジョークですってば!」
「ダウト。目一杯本気だったろ」
「う……むむむ」
気まずさをがりがり噛んで飲み込み、開き直る。
「しょうがないだろ。カリフォルニア育ちなんだから!」
※ ※ ※ ※
あんまりお子様たちをお待たせするのも心苦しいので、へっぴり腰を無理やり引きずり、氷の上に出た。
膝を曲げ、腰を落として、がにまたで、一歩ずつ慎重に……
「うお、滑る!」
「……滑りに来たんだろうが」
ディーンはころんころんと転びながらも、きゃっきゃとはしゃいでいた。氷の上に尻餅ついても、痛いと言うよりまず面白がる。
オティアとシエンは慎重に氷の上に足を載せ、注意深く踏み出した……最初の2、3歩は。
ディフに一通り基礎を教わると、すぐに一人ですいーっと滑り始めた。
こいつら本当に初心者か?
あるいは……。
記憶すら定かではない遠い昔。リンクの脇で両親が滑るのを見て、覚えていたのかもしれない。
そこにケーブルテレビの中継と実地指導が加われば、後はもう言うことなしってとこか。
レオンに関しては、言うまでもなくディフがつきっきり。手とり足取り下にも置かぬエスコート、いや指導でめきめき上達している。元々レオンも運動神経いいしな。
そして30分も経過する頃には……。
「……いつまで手すりにしがみついてんだ?」
「ほ、ほっとけ! 俺は、ここが好きなんだよ!」
目の前をすいーっとディーンが滑って行く。短い足をちゃっちゃと交互に蹴り出して。さっきまでは、ほとんど歩くだけだったのに、もういっちょ前に滑ってやがる。
その姿をレオンが携帯で撮影していた。氷の上に立って、ちょこまか動く被写体を写すなんて……難易度の高いことを平然とやってのけてるよ、この男は!
「くそー……」
リンクに来た時は、俺と同じレベルの初心者だったくせに! きりっと口の端を噛みしめ、遠ざかるディーンをジト目でにらむ。
「裏切り者……」
「大人げないぞ、おまえ」
「うるへー」
双子はまるで十年前から氷の上に居たように、直線もカーブも自由自在。エッジを使ってじゃっと氷を蹴り、鮮やかなターンまで切ってやがる。
ああ。来た時はディフ以外は全員、俺と同じレベルだったはずなのに。
なぜ、たかだか30分足らずの間にかくも差が開くのか。
「くそう、これが格差社会って奴か」
「何、わけの分からんことを言ってるんだ。来い」
「おわ」
襟首をひっつかまれ、問答無用でべりっと手すりから引きはがされる。
「このままじゃ、埒が明かん。支えてやるから」
「い、いいのか?」
「レオンもだいぶ慣れてきたからな」
にっこり笑ってこっち見てるんですけど……すごーく怖いんですけど……
あ、やめて、手、振らないでください、お願いだから。
ビビりながらもディフに捕まれた手を振り払えるはずもなく。引っ張られるまま、おっかなびっくり手すりから離れて氷の上を滑り始める。リンクの外周にそって、ゆっくりと。
「右、左、右、左。無理に止まるな、体重を掛けて前に出ろ。そうだ、その調子だ」
「な、なんだ、簡単じゃないか」
「そりゃ良かった」
あっと思った時は既に遅く。つすーっと方向を変えられ、リンクの中央に連れ出されていた。
「うわ、ディフ、ちょっと待った、こ、これはっ」
「そーら、まずは習うより慣れろだ!」
どーんと背中を押される。
「ぎゃーっ、やめろーっっ」
為す術もなく悲鳴をあげ、立ったままざざーと滑って行く。周囲の景色がものすごい勢いで後ろにすっ飛んで行く。
あ、オティアがこっちを見てる。頼む、助けてくれ!
「……」
ちらっと見て……スルーしやがった。
「うわーっ、止めてくれーっ」
つるりん、びったん。
濡れた氷の上に突っ伏す俺の傍らに、レオンとディフがすいっとすべり寄ってきた。
「スケートの基本は『転ぶことを恐れるな』だ」
「確かに。見事な転びっぷりだね」
「くそ、ひと事だと思って……」
しゃーっと氷の音も軽やかに、小さな影が近づいてくる。もうお尻をよちよち振ってるアヒルの子じゃない。ちっぽけながらいっぱしの白鳥だ。
「ヒウェル、大丈夫?」
「……うん、大丈夫……ありがとな、ディーン」
よれっと顔を上げると、ディーンに付き添ってシエンとオティアが立っていた。へろへろと手を振る。
シエンはほっとしたようにため息をつき、オティアはぷいっと目をそらす。だけど俺が立ち上がるまで、そばに居てくれた。
「怪我、ないか?」
「うん、大丈夫。ありがとな」
「……」
※ ※ ※ ※
夕方。
ソフィアが迎えに来た。
「Hi!」
「やあ、ソフィア。アレックスの具合はもういいのかい?」
「はい、おかげさまで熱は下がりました。明日は仕事に出られそうです」
「そうか。安心したよ」
「あ、お見舞いのメールありがとうございました。ディーンの初滑りの動画を見て、すごく喜んでました」
メールまで打ってたのか……どんだけ余裕あったんだ、レオン。
「ディーンはいい子にしてた?」
「ああ。すっかりいっぱしのスケーターだ」
「えへっ」
わしわしとでっかい手のひらで頭をなでられ、ディーンは照れくさそうに笑っている。
「がんばったのね」
「うん、がんばった!」
「寒かったでしょう? 熱いコーヒーを持ってきたの」
「ありがたい!」
リンク脇のテントの下に並ぶベンチに腰を降ろす。氷上を吹き抜ける風はことさらに冷たさを増し、銀色の魔法瓶から注がれるコーヒーの湯気がくっきりと白く際立つ。
いつの間にか俺たちの口からも、白いもやが出ていた。
「はい、どうぞ」
「サンキュ!」
香しい褐色がビロードのように口からのど、胃袋へと滑り降りる。
俺の基準からすればいささか薄口だが……とにかくコーヒーだ。カフェインだ。何より今は、この熱さがありがたい。
「はぁ……運動の後の一杯は最高だな!」
何かみんなして微妙な顔でこっちを見てるけど、気にしないことにする。
ディーンは保温マグに入ったココアを抱え(さすがにコーヒーはまだ早い)ちびちびすすりながら、目を輝かせて報告していた。
「オティアとシエンがすごいんだよ! くるくる回ってたんだよ!」
「え! スピンなんかいつ覚えたの? 確か、二人ともスケートは初めてだったはずじゃ……」
「ん」
「テレビで見たから……」
そう、双子は帰る頃にはスピンまでマスターしていたのだ。フィギュアの中継を見て、動きを覚えていたらしい。
並んで片足を上げ、上体を水平に倒して絶妙のバランスでくるくる周るオティアとシエンは周囲から称賛のまなざしと、惜しみない拍手を浴びていた。
「見れば誰でもできるってもんじゃないわ。すごい、すごい!」
「そうかな……」
ソフィアは紫の瞳を見つめ返し、ゆっくりとうなずいた。
「ええ」
その瞬間、シエンははにかみながらもほほ笑んでいた。そしてオティアもほんの少しだけ。兄弟に比べればほんの微かではあったけれど、照れていた。目元を和ませ、いつも堅く引き結んでいる口をほんの少し、ほほ笑みに近づけて。
ソフィアからの称賛を、とまどいながらも素直に受け止めているように思えた。
「ディフはね、じゃじゃーってものすごいスピードだったよ! レオンと一緒に、じゃじゃーって!」
「まあ素敵」
「ヒウェルは……」
「俺がどーしたって?」
ベンチにすわってコーヒーをすする俺の背中を、ぽんっとちっちゃな手が叩く。
「まあ、がんばれ」
「……ありがとう」
(三歳児にはげまされる俺って。三歳児に!)
こうして、ローゼンベルク家の初めてのスケート遠征は(俺以外は)まずまずの好成績を収めた。
それから、オティアとシエンは……
フィギュアスケートの中継を眺める時間が、ちょっとだけ増えたみたいだった。
(スケーターズ狂騒曲/了)
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