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ポップコーンフラワー

2010/05/03 0:13 短編十海
 
 
 土曜日。サリーは久しぶりにのんびりと買い物に出かけることにした。
 バスと市電を乗り継いで、フェリービルディングに。今日はファーマーズマーケットの開かれる日だ。

 四角い時計塔を囲んだ赤レンガの広場には、新鮮な果物や農産物や乳製品のぎっしり並んだ屋台がひしめいている。
 バークレーに居た頃に通っていた、美味しいパン屋さんも出店を出している。
 一人暮らしだからそんなにたくさん食材は買わないけれど、見ているだけでけっこう楽しい。
 ビーズや手作りのカゴ、編み物に織物、木を削ってつくった箱や椅子。手作りの品物を並べたクラフトショップあるし、古本や古着やレコードを並べている店もある。

 きょろきょろしながら歩いていると、ふわんっと香ばしいトウモロコシのにおいが漂ってきた。ポップコーンだ。いつも通るたびに「美味しそうだなあ」と思うのだけど、とにかく量が尋常じゃない。
 枕かと思うくらいの袋に大粒のポップコーンがぎっしり、1サイズオンリー、小分けなし。とてもじゃないけれど食べきれない。

 子どもの頃もそうだった。
 神社のお祭りの屋台。よーこちゃんに手を引かれて二人で回った。わたあめ、リンゴ飴、チョコバナナにホットドッグ。お祭りの時だけ売っている食べ物は、とてもキラキラしていて。味よりもまず、買ってもらったって言うことそのものが嬉しかった。
 ……なぜか、わたあめの袋はいつも女の子用だったけど。よーこちゃんとおそろいだったから、気にしてなかったなあ。
 そもそも着てた浴衣からしてピンクだったし。金魚とか、ウサギとか、朝顔の模様だったし。

 つい、ちっちゃい頃のこと思い出してしまうのは、先日の事件の名残だろう。どちらかがピンチに陥ると、互いに助け合おうと無意識に共鳴するのだ。
 夢が終ってからも、しばらくは影響が残る。クリスマスみたいに二人一緒に酔っぱらってしまう時もあるけど(後で大変だった)それほど悪いことばかりじゃないと思ってる。
 だってよーこちゃん、あれでけっこう素直じゃないんだ。ちょっとは自分の気持ちに正直になってくれるといいんだけどな……。

「わっ」
「あ、失礼っ」

 ぱらぱらっと白くて軽やかなものが降ってくる。とってもいいにおいだ。
 でも、これ、何? 花びら?

 ぽろぽろと転がり落ちてきたものを手にとってみる。

「あ……ポップコーン……」
「すみません、うっかりして!」

 顔を上げる。
 ライムグリーンの瞳に濃い金色の髪。土曜日のラフな服装の人たちの中にまじり、きちんとしたコートとベスト、シャツとネクタイはほんの少し際立って見えた。

「エドワーズさん………」
「え? あ」

 ぱちぱちとまばたきしてる。

「サリー先生」
「はい! こんにちは」
「あ、こ、こんにちは」
「珍しいところでお会いしますね」
「ええ……ジャムの買い置きが切れてしまいまして……」

 もごもごと口の中でつぶやいている。あれ、どうしたんだろう。顔が赤い。

「そ、それに友人が、手作り製本のクラフトショップを出したので、手伝いに」
「そうだったんですか! やっぱり本屋さんですか?」
「いえ。警官時代の友人です。先日退職して、趣味で製本をやってみたいと言うので、私が手ほどきしました」
「なるほどー」
「あー、その……」

 よく見ると、エドワーズさんは大袋入りのポップコーンを抱えている。細長い袋にぎっしりつまった、それこそ大きめの枕みたいなのを。
 そうか、これだったんだ。さっきぱらぱらと花びらみたいに降ってきたのは。

「お好きなんですね、ポップコーン」
「は、はい、子どもの頃、買ってもらったのが懐かしくて。久しぶりに、つい」

 子ども? 
 あ、いや、そうだ。エドワーズさんにだって子どもの頃があるはずだ。
 でも、ちょっと想像できないなあ……。
 どんな子だったんだろう。やっぱり背、高かったのかな。そうだ、確かバンドやってったて……あ、でもそれはけっこう育ってからだよね。

 まじまじと見ていると、エドワーズさんの顔はますます真っ赤になって行く。

「どうしたんですか?」
「あ、いや、その……」

 すうっと屈みこんで顔を寄せてくる。ライムグリーンの瞳が。やや面長の顔が、予想以上に近づいてくる。なぜだか直視できず、視線をさまよわせる……。
 
(あ)

 耳たぶに、透明な粒が光っている。この前見た時はよくわからなかったけど、確かにあれはピアスだ。
 
(エドワーズさんが、ピアスをしている)

 ここはカリフォルニアだ。ピアスぐらい、身に付けてる人はいくらでもいる。学校の友だちにも。病院のスタッフにも。
 だけど、こんな風にきちんとした服装をした紳士の耳に、ピアスが光ってるのを見ると……今さらながらに、どきっとした。

「失礼」

 まさにそのタイミングで、しなやかな長い指が、髪の毛の間を通り抜ける。耳たぶのすぐそばを……掠めた。

「っ!」

 ほろほろと髪の毛の間から、花びらが散り咲いた。白くて、小さくて……くすぐったい。わずかな酸味の混じった甘い、果実に似た香りが舌先に触れる。

「……あ……」

 その瞬間、真冬の海辺、しかもまだ午前中の空気の中にいるのに……
 まるで春の日だまりにいるような、ほわっとした温かさを感じた。ハチミツをたっぷり入れたレモネードを飲んだ時みたいに、胸の奥がくすぐったい。

「その、髪の毛に、ついていましたので」
「え? え、えっと」
「ポップコーン」
「あ……」

 花びらじゃ、なかったんだ。
 俺、頭にポップコーンつけたまま、話してたんだ。ずっとエドワーズさんは見てたんだ……。

 かあっと頬が熱くなる。
 恥ずかしい!

 きゅーっと全身が縮こまる。ああ、どうしよう、もうどこかテーブルの下にでも潜り込んでしまいたい!
 そうだ、落ち着け、と、とにかくお礼を言わないと。

「サリー……先生」
「ありがとう……ございました」

 よし、言えた。

「いえ、元は私がこぼしたのですから……あの、よろしかったらいかがですか?」

 そ、と袋をさし出してくれた。

「え、いいんですか?」
「懐かしさにつられて買ってしまいましたが、やはり一人では多すぎる。一緒に食べていただければ、助かります」
「……はい! それじゃ、いただきます」

 そろっと手を入れる。まだほんの少し温かい。ぽりっと噛むと、新鮮なコーンの甘さが口の中に弾けた。ほどよい塩味に混じった柑橘系の酸味が一滴。レモンとはちょっと違う。きっとライムだ。

「んー、美味しい……これいっぺん食べてみたかったんだ……そばを通ると、いいにおいがするし!」
「ははっ、それはよかった」
「もうちょっと、いただいてもいいですか?」
「どうぞ、どうぞ」

 ちょっぴり意外だった。いつもきちんとしてるエドワーズさんが、立ったままポップコーンを買い食いするなんて。
 でも、ここでは大抵みんな、歩きながら何か食べているから、あまり目立たない。変に見えない。
 だからごく自然に、エドワーズさんと並んで歩いていた。ときどき手を入れて、袋からポップコーンをつまんでかじる。
 会話の合間に、ポリポリと軽やかな音が聞こえる。

「あ、キャラメルアップルだ。懐かしいなー」
「日本にも、あるのですか?」
「ええ、キャラメルじゃなくて、透明なシロップを使ったのが。子どもの頃、水晶玉みたいにきらきらしてるのがきれいで、ねだって買ってもらったことがあったんです。でも、結局食べきれなかった」
「リンゴを一個、丸ごとですからね……確かにけっこうお腹にたまる食べ物だ」
「一度口をつけた食べものは残しちゃいけないって言われてるし。夏だったから、どんどんアメが溶けてべたべた垂れ下がってくる。途方に暮れてたら、よーこちゃんが『じゃ、わたしが食べるー』って、ばきばきとあっと言う間に!」
「それは頼もしい」
「ええ。それ以来、約束ができたんです。リンゴ飴を買ってもらう時は必ず二人で一個! って」
 
 子どもの頃の思い出話。退屈かなって思ったけど、エドワーズさんはにこにこして聞いてくれた。相づちをうちながら、心の底から楽しそうに。

 やがて、古いレコードの並んでいるテントの前を通りかかった。

「……失礼、ちょっといいですか」
「はい、どうぞ」

 立ち止まって、熱心にレコードを見て、お店の人と早口で何かしゃべってる……。
 好きなのかな。クラッシックかな? それともジャズ?
 ひょいと手元をのぞき込む。

 ちがった。
 クラッシックでもビートルズでもない。レッドツェッペリンの「天国への階段」だった。

「あ、これ、知ってる……懐かしいなあ」
「え、これも、ですか?」
「伯父の書斎にあったんです。CDじゃなくて、レコードで」
「……なかなかにアグレッシブな趣味の伯父さまですね」
「よーこちゃんのお父さんです」
「ああ、なるほど」

 結局、エドワーズさんはそのレコードを買っていた。

「同じのを持ってるんですけどね……LPレコードも。CDも。ただレコードは経年劣化でどうしても脆くなる。だからいい状態のを見つけるとどうしても、手が出てしまうんです」
「いいと思いますよ。欲しいなって思ったときめきと、タイミングが奇跡みたいにぴったり合う時って、あるもの。あ、この辺は本も同じかな?」
「なるほど、確かにそうだ!」
「そう言えば、ジャケットは見たことがあったけど、これだって意識して聞いたことなかったな……」
「意外に聞き始めると、『ああ、この曲だ』って思うかも知れませんね」
「そうかも……子どもの時、聞いてたりして」
「実に興味深い曲ですよ。穏やかな旋律がずっと続いていて。このまま穏やかな曲が続くのかと思うと、終盤でがらりと曲調が変わる。打って変わって激しく叩きつけるような音に変わり、最後はまたしっとりとボーカルのソロで締めくくる……何度聞いても、飽きません」

 エドワーズさん、すごく舌の動きが滑らかだ。目をきらきらさせて、うっすら頬まで染めちゃってるよ!
 この人でも、こんなに熱く語ることってあるんだ。
 本と、猫以外のことで。

「っと、失礼、愚にも付かぬことを、ぺらぺらと」
「いえ、面白いです。何だかちょっと聞いてみたくなったな……CDじゃなくて、レコードで」

 エドワーズさんは俺の顔を見て、目を細めて、ほんの少し唇の端を上に上げた。笑おうと意識する前に、嬉しいきもちがほんのりと顔ににじみ出てしまった……そんなほほ笑みだった。

「いいですね。ぜひレコードで聞いてください」
「あの………」

 聞いてみたいけど、レコードが置いてあるのは日本の伯父さんの家だ。この間里帰りしちゃったし、もうしばらく帰国の予定はない。

「今度、お店で聞かせてもらってもいいですか?」

(え?)
(ちょっと待って、俺、今、何て言った?)
(わああーっっ!)

 何て大胆な。これじゃ、ほとんどよーこちゃんの行動パターンだよ……。

 きっと、まだ共鳴が残ってるんだ。そうに違いない。
 エドワーズさん、呆れてるよ。どうしよう、今ならまだ訂正できる、かな?

「あ、えと、その、あの」
「……ぜひ、いらしてください。お待ちしています」
「あ……」

 良かった……。

「それでは、友人が待っていますので。またいずれ……サリー先生」
「はい。あ、ポップコーンごちそうさまでした!」

 きちっと胸に手を当てて一礼すると、エドワーズさんはテントの一つに向かって歩いていった。きっとあそこがお友だちのクラフトショップなんだ。

 どうしたんだろう。
 何だか胸がどきどき言ってる。しかも、ちょっぴりさみしい。
 いつもは「さよなら」を言うのは俺の方からだった。
 お店に行く時は、買い物をして「それじゃ、また」って。
 リズをつれてエドワーズさんが病院に来る時は「もう大丈夫ですよ。お大事に」。だけど今日はちがっていた。先に別れの挨拶を口にしたのは、彼の方だった。

 言われた瞬間、思ってしまった。
 まだほんの少し、一緒に居たいって。

 家に帰ってから気付く。
 今日はエドワーズさんと、猫の話をしなかった。自分たちのことだけ、話していたな………。

(ポップコーンフラワー/了)

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五月の二番目の日曜日

2010/05/11 1:54 短編十海
 
 水曜日、いつものように夕食に現れたヒウェルが、食堂の壁に貼ったカレンダーをじーっと見ていた。サリーからもらった猫のイラストと病院のロゴマーク入りのやつ。
 クレヨンで塗った、絵本みたいなシンプルな絵柄が可愛い。五月の猫は白地に黒のぶち模様の入った子猫が二匹と白い親猫が一匹、ぴったりよりそった後ろ姿。ちょこんと座って、互いに尻尾をからめている。

「その絵、気に入ったの?」
「あ、いや、確かに可愛いけど」

 ヒウェルはひょろ長い指を伸ばすと上から二番目、左端の升目を指さし、ぽつりと言った。

「……そろそろ花とカード準備しとかないとな、って思ってさ」
「何で?」
「うん、今週の日曜日は……」

 指先が、小さな四角い枠の中に印刷された赤い文字をなぞる。
 Mother's Day

「……だろ?」

 次の日。シエンは事務所でアレックスに尋ねてみた。

「母の日って、何をするの?」
「母の日でございますか」

 有能執事はいつもと変わらぬよどみなさで答えた。が、ほんの少し頬に赤みがさしていた。

「わが家では……朝食はソフィアに代わって私が作り、花束を贈る予定を立てております」
「そっか、だからヒウェルも花を準備するって言ってたんだね」
「はい。家を出られてからは毎年、カードと花を送っているとうかがっております」

 シエンはそっと目を伏せ、記憶の欠片をたぐり寄せた。

「そう言えば、俺も……前のママにお花あげたことある。ティッシュでつくったやつだけど」

 子どもの小さな手で作ったティッシュの花を、ママは両手でそっと包み込んで受け取って、顔を寄せ、うっとりと目を閉じた。においなんかするはずのない紙の花なのに。それから目を細ーく開けて、『ありがとう』って言ってくれた。

「……母の日にはお母さんに花を贈るんだね」

 アレックスは静かにうなずき、控えめながらも同意を示した。

「生花ならカーネーションですね。色もたくさんありますよ」
「そっか……うん、ありがとう、アレックス」
「恐れ入ります」

 そして土曜日。
 オティアとシエンは花を買いに行った。花屋の店先には、赤に白、紫、オレンジ、黄色に緑。アレックスの言葉通り、ありとあらゆる色のカーネーションが咲き乱れていた。まるで大箱にぎっしり詰まったクレヨンみたいに。
 花のサイズも何種類もあって、スプレーとか、小花とか大輪とか……『ふつうの大きさはこれです』って、どこかに書いてあれば助かるのに。あまりに選択肢が多すぎて、とまどう。

「どれにすればいいのかな……」

 つい、口に出してしまう。
 髪の色に合わせるなら赤かオレンジだけど、何だか華やか過ぎて、あまり合わないような気がする。白……はあっさりし過ぎてるし、紫は、ちょっときつい。
 クリーム色か緑、かな。
 じっと顔を寄せてしみじみ見比べる。候補にしぼった二色の花を。
 緑の花って初めて見た。どこか野菜みたいで、今一華やかさには欠ける。けれど優しげで、爽かで、そばに置いてあるときっと、和む。
 よし、決めた。

「これを、ください」

 オティアが黙って別の一角に視線を向ける。一目見るなり、シエンは迷わず付け加えた。

「こっちの白い花も一緒にお願いします」
「はい、かしこまりました」
 
 お店のお姉さんは、ちょっぴり不思議そうな顔をしていたけれど、選んだ花をきれいにアレンジしてくれた。
 かすみ草とマーガレットを加えて藤のバスケットにふわりと活けた緑のカーネーションは、かすかにバニラに似た香りがした。
 ディフに見つからないように、オティアの部屋にこっそりしまうことにする。

「これ、預かって」
「………ああ」
「にゃー」

 オーレが飛んできて、くんくんとにおいを嗅いで、バスケットにそろっと小さな前足を伸ばす。

「いじるな」
「みゅ」

 不満そうに耳を伏せた。でも青い瞳は相変わらず狙っている。ヒゲをぴーんと前に突き出し、尻尾をひゅんひゅんしならせて、やる気満々だ。
 オティアはしばらく考えて、ケージの中に花かごを入れた。これでオーレは悪戯できない。

 さて、次は朝ご飯の用意だ。ディフが起きてこないうちに二人だけで作らなくちゃいけない。
 これは、けっこう難しい。朝早くから動いていたら、まず気付かれてしまう。あくまで準備を始めるのはいつもの時間通り、だけどその時、ディフがまだ寝室から出ていないのが理想的。
 レオンに相談したら、余裕たっぷりの表情で頷いてくれた。

「任せておいてくれ」

 これで準備OK。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 日曜日。
 朝の光の中、うっすら目を開けるともうキスされていた。いや、キスされたから起きたんだろうか。
 珍しいな、こいつが俺より早く起きてるなんて……
 ぽやーっと考えながらうっとりと唇を重ね、角度を変え、舌先を重ねてつついたり、くすぐったり。ようやく口が自由になった頃には、すっかり呼吸が乱れ、心拍数もいい具合に上がっていた。

「……おはよう」
「おはよう」

 連れ立ってバスルームに入り、朝の光の中でシャワーを浴びる。互いの手にボディーソープをつけてなで回した。洗ってるのか、抱き合ってるのか、かなりあいまいだが、結果として洗えてるんだからよしとしよう。
 ぬるめのお湯を浴びながら抱き合うのが何とも心地よくて、つい時間の経過を忘れていた。

 やばいな、ちょっと、ゆっくりしすぎたか。
 朝飯の仕度が遅れちまう。

 手早く体を拭き、シャツに手を通す。洗面所を出ようとしたら、ぐい、と肩を押さえられた。

「レオンっ?」
「いけないよ。髪の毛がまだ乾いていないじゃないか……」
「あ……」

 濡れた髪の間に手のひらが差し込まれ、すくいあげるようにしてなで上げられた。
 首筋がひんやりと朝の空気にさらされる。指先で耳たぶをくすぐられた。

「う、よ、よせって」
「うん、まだ湿ってるね」
「あ」

 腰に腕がまきつき、引き寄せられた。左の首筋に、あたたかな唇が押し当てられる。湯上がりで赤く浮かび上がっているであろう『薔薇の花びら』を丹念に吸われ、なめられた。

「あ……ふ……んっ……」
「ん……」

 やばい、膝の力が抜けそうだ……。
 洗面台にしがみついて体を支え、呼吸を整えていると、ばさりとタオルが降ってきた。

「しっかり乾かさないと。今朝は朝食のことは心配しないで。いいね?」
「う……わ……わかった……」

 ほくそ笑む気配がして、静かな足音が洗面所を出ていった。
 言われた通りごしごしと髪を拭き、ドライヤーを吹きつける。何だってあいつ、今朝はやけに、じっくり……絡んできたんだろう。

「……ふぅ」

 ふわっと乾いた髪をツゲのブラシで丹念に梳き、後ろで一つにゴムでまとめる。
 腕時計を確認すると、だいぶ時間が経過していた。朝食のことは心配するなって言われたけれど。子どもたちに任せっぱなしって訳にもいかないだろ!
 足早に寝室を出て食堂に向かう。キッチンからは既に、シエンとオティアが忙しく立ち働く気配が伝わってくる。

「すまん、遅くなった……」

 エプロンに手をのばそうとすると、シエンにちょん、と腕を押さえられた。

「……え?」
「今朝は、俺たちがやっとくから。ディフは座って待ってて」
「あ……うん」
「ほら、座って!」

 背中を押され、すとんと食卓のいつもの椅子に座る。キッチンでは双子がちょこまかと動き回り、パンを切り、野菜を刻んでいる。
 コンロの上では鍋がことこと言っている。
 どうにも落ち着かなくてもぞもぞしていると、レオンがすとん、と隣に座り、肩を抱いてきた。

「ん……どうした?」

 誘われるまま顔を寄せる。頬を手のひらで包まれ、ゆっくりと向きを変えられた。

「あ……」

 テーブルの上に、カーネーションの花かごが乗っていた。バニラに似たほのかに甘い香りに包まれて……。色はメロンシャーベットのような優しげな緑色。ふわふわしたかすみ草と、マーガレットの白がよく映える。かごはリボンで飾られ、「Thanks!」と書かれたカードが添えられていた。

「そっか……そうだったのか……」

 もわもわと沸き起こる照れ臭さと。あとからあとからにじみ出すどうしようもない嬉しさに、口元がふにゃふにゃと妙な具合にゆるんでしまう。
 スリッパの中でもじもじと足の指を握って、開いてを繰り返し。一方で手を髪の毛の間に突っ込み、ひたすらかき回した。

 でき上がった朝食をトレイに載せて、シエンとオティアが運んできた。こんがり焼いた厚切りトーストにベーコンエッグ、トマトとアスパラのサラダにコーンスープ。
 俺の好きなものばかりだ。
 何てこった。目元がかっかと火照り、視界がぼんやりと霞んでいる。うっかりすると、ぽろっとあったかい雫がこぼれ落ちそうだ。

「あー……その……えっと………」

 オティアと、シエン、そしてレオン。
 3人の顔を見ていたらふっと、言うべき言葉が見つかった。その途端、あっさりと口元がほほ笑みの形に落ち着いた。

「ありがとう」

 今日は五月の第二日曜日。
 母の日。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 昼食も双子が作り、俺はずっと居間でレオンと一緒だった。そわそわして落ち着かないでいたら、レオンにぐいっと引き寄せられて。結局、昼食ができ上がるまでぴたっと肩を寄せ合い、ソファに並んで座っていた。テーブルの上に載せられた花かごを愛でながら。
 
 そして午後。オティアは図書館に行く、と言って外出し、シエンも付いていった。
 何せ本の宝庫だ。夢中になって読み続け、閉館時間になってもどこぞに潜り込んで気付かれないまま、なんてことになりかねない。

「だから、俺も一緒に行く」
「……うん、そうだな。その方が安全だ。気を付けてな」
「うん。行ってきます」

 双子を送り出すやいなや、背後から優しい腕が巻き付いてきた。甘く低い響きが耳をくすぐり、朝方の甘美な震えを呼び覚ます。

「ベッドに行こうか。それとも、バスルームで今朝の続きをするかい?」
「さて、どっちにするかな………」

 誘われるまま歩き出す。Noと言う選択肢は、ない。


(五月の二番目の日曜日/了)

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ボーイミーツボーイ

2010/05/28 1:48 短編十海
  • 拍手お礼用短編の再録。ロイと風見、幼い日の出会い。
 
 ロイ・アーバンシュタインは昔から素直な少年だった。

 そして昔から祖父を心から尊敬し、慕っていた。愛していた。
 彼は幼い頃、繊細で神経の細い子だった。人見知りで引っ込み思案。些細な刺激に怯え、夜はあまり寝つけず、食も細く、季節の変わり目にはしょっちゅう熱を出していた。そこで両親の住むワシントンDCを離れ、気候の良いカリフォルニアに住む祖父の元で過ごすことが多かった。

 毎晩のようにロイはおじい様の広いあったかい膝に乗り、おじい様が出演した映画のビデオを見て過ごした。
 結果として小さなロイ少年にとってのヒーローが、スーパーマンやバットマンより断然、ニンジャであり、サムライになって行ったのは自然な成り行きだったと言えよう。

「すごいや、おじい様、あの人、あんなに高くジャンプしてる。わお、素手で石を真っ二つにしたよ!」
「あれはニンジャだよ、ロイ」
「ニンジャ! すごいなー、かっこいいなー」

 青い瞳をきらきらさせて、幼いロイは祖父に言った。

「ボク、大きくなったらニンジャになりたい!」
「そうか!」

 おじい様はロイの頭を撫でて豪快に笑った。

「よし、では私の親友が日本にいる。優れた武道家だ。もうすぐ夏休みだし、お前、彼のところで修業してみるかい?」
「うん!」

 引っ込み思案な孫の驚異的とも言える積極性に、有頂天になったおじい様は速攻で親友に連絡をとり……準備万端、訪日の手はずを整えた。

 こうして幼いロイ少年は祖父に連れられて海を渡り、はるばると日本へ武術修業に赴いたのだった。
 瓦屋根のあるどっしりした門をくぐると、現れたのはまるで映画のセットに出てくるような古い武家屋敷。本物の石灯籠、ふんわりとやわらかな緑のコケ。澄んだ水をたたえた池には、色とりどりのニシキゴイが泳いでいる。

(すごい、ここは本当にサムライの家なんだ!)

 ロイは目を輝かせてきょろきょろしながら広い庭を歩き回った。力強い曲線を描く松の木に見とれ、近づいてゆくと。

「やあ、とう!」

 鋭い気合いとともに、びゅん、びゅん、と刀を振る音が聞こえてくる。そう、とっさに刀だと思った。それ以外に考えられなかった。
 松の木の幹に手をかけて、そおっとのぞきこむと……。

「やあ、とう!」

 キモノを着た少年が一人、きびきびした動きで竹刀を振っていた。涼やかなまなざしはきっと前を見つめ、背筋がぴしりと伸びている。自分と同じぐらいの年ごろだろうか。手も、足も引き締まり、丈夫そうだ。
 そして、この太刀筋……直感で悟った。
 本物だ。
 手にしているのは竹刀、だけどこの子はまぎれもなく斬っている。

(サムライだ……サムライがいる!)

「ん?」
 
 気配に気付いたらしい。
 ちっちゃなサムライボーイは素振りの手を休め、無造作に汗をぬぐうとロイを見て、にこっと笑った。その瞬間、ロイの心臓は目に見えない矢に射貫かれていた。

「やあ!」

 どきどきする心臓を両手で押さえつつ、ロイは進み出た。いつものシャイな自分をすっかり忘れていた。
 
 100320_2342~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 
「ハ、ハロー……」
「君、アーバンシュタインさんとこのお孫さんだろ?」
「う、ウン」
「やっぱりな! じっちゃんから聞いてたよ。俺は光一!」
「ボクはロイ」
「よろしくな、ロイ!」
「ウン!」

 Boy meets Boy。
 こうして二人は出会った。

 一緒の部屋で寝起きして、ご飯を食べるのも一緒。ラジオ体操も一緒。稽古をするのも一緒。お風呂も一緒。どこに行くにも一緒。
 風見光一の祖父は、彼に親友の孫の面倒を見るように言いつけていた。何より光一自身も、ロイと言う友だちができたのが嬉しくてたまらなかった。

 同じ年ごろの少年では、初めてだったのだ。自分と同じレベルで野を駆け、竹刀を振るい、木に登ることのできる『仲間』を得たのは……。あるいは、身のうちに秘めた素質が、この頃から既に秘かに呼び合っていたのかも知れない。
 
 ほどなく、彼らは固い絆で結ばれた親友になった。
 光一の祖父の教えには、武道のみならず、書道や茶道と言った精神を研ぎ澄ます鍛練も含まれていた。最初は慣れない筆と墨に戸惑ったものの、少年たちは熱心に自分の名前を練習した。
 勢い余って紙からはみ出したり。あるいは筆に墨をつけすぎて、紙が破けたり。さんざん失敗を繰り返し、やっと納得の行く一枚ができあがった時はロイと光一は顔を見合わせてにっこり笑った。

 多少、文字がまちがってはいたけれど、光一の祖父は大きな花丸をくれた。

 毎日、二人は修業し、勉強し、終ってからは裏の山で夢中になって遊び回った。
 夏が終るころには、引っ込み思案で体の弱かったロイ少年は真っ黒に日焼けして、見違えるほど丈夫になっていた。

 しかし、楽しい時間はあっと言う間に過ぎてゆく。
 やがて夏休みは終わりに近づき、ロイがアメリカに帰る時がやってきた。
 二人とも別れが悲しくてわんわん泣いた。一緒になって庭の松の木にしがみつき、双方の祖父がひっぱってもがっちり掴まり、離れようとしなかった。
 孫の成長を喜ぶ一方でそのあまりの意志の強さに困り果て、ロイの祖父は言った。

「わかった。お前が一人前のニンジャになったら、その時また、日本に来なさい。コウイチと一緒に、日本の学校に通いなさい」
「そうだ、ロイくん、ぜひ、そうしたまえ! 私も待っているぞ」
「………ホント?」
「ああ、約束する。武士に二言はない」
「だから、その前に一度アメリカに帰ってこい。日本で一人で生活できるように、アメリカでしっかり勉強するんだ」

 青い瞳に涙をいっぱいにためて、ロイはこくんとうなずき、親友と指切りをした。

「離れていても、俺たち親友だからな!」
「ウン! コウイチ、ボク、一生懸命修業する。立派なニンジャになって、必ず日本に戻ってくる!」

 そもそも最初はニンジャになるために日本に来たんだろう、とか。それじゃ本末転倒だろう! とか。純真で一途なロイ少年はカケラほども考えつかなかった。

 そして、現在。

「ロイくん、風見くん?」
「あらあら、まあまあ」
「よく寝てること」
「これじゃお部屋に運ぶのは無理ね」
「お布団もってきてあげましょう」
「そうしましょう」
「でも、その前に」
 
 結城神社の居間で、ロイと風見はぴったり寄り添って眠っていた。
 ぱしゃり。
 二人の母さんたちの構えた携帯の画面の中、幼いあの日と同じようにしっかりと手を握り、しあわせそうにほほ笑んで。

(ボーイ・ミーツ・ボーイ/了)

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期間限定金髪巫女さん

2010/06/25 23:26 短編十海
  • 拍手お礼用短編の再録、2007年1月。【ex10】水の向こうは空の色(後編)の後の出来事。
  • 事件解決直後、緊張から解放されて寄り添って眠っちゃったロイと風見。その寝姿はしっかり写真に撮られて……
  • こんな風に活用されちゃったのでした。
 
 メリジューヌ事件の終結から四日後の土曜日。風見光一とロイは、いつものようにバイトに行った。

「こんにちわ」
「コンニチワ」

 社務所の玄関をくぐると、待ちかねたように瓜二つの巫女姿の女性がにゅっ、にゅっと顔を出した。一人は羊子の母、藤枝。もう一人はサクヤの母、桜子。ちっちゃくてそっくりで可愛い、無敵の母さんsである。

「いらっしゃい、風見くん、ロイくん」
「待ってたわ!」

 三上の去った結城神社はどことなく寂しくて、そしてちょっぴり忙しかった。人手が一人減ったのだから当然だ。

「風見くん、着替えの前に、太一郎さんの散歩をお願いできる?」
「わかりました」
「一時間コースでね」
「はい」
「ロイくんはこっちに来て」
「ハイ」

 風見光一が部屋を出ると、母さんsはにまっと笑ってちょい、とい、と手招きをした。

「何デショウ」
「これ、見て」

 かぱっと携帯を開くと、そこには……

「Oh!」

 無防備に眠りこけるコウイチのどアップが! しかも、自分にこてんと寄り掛かっている。これは……
 びゅうんっと記憶が巻き戻される。四日前に事件が解決した直後。緊張がとけたのと、疲れから居間で眠ってしまった。二人でぴったりと寄り添って。あの夜のほのかな思い出は、ひっそりと胸にしまっておいたはずだった。
 まさか、こんな形で残っていたなんて!

「そ、その写真、ボクのケータイに転送してクダサイ!」
「きっと、そう言うと思ったわ」

 瞳をくるくるさせて、二人の母さんたちはそろって小首をかしげた。

「いいわ、転送してあげる」
「私たちのささやかなお願いを聞いてくれたら、ね?」
「何でもどうぞっ」
「うんうん」
「きっと、そう言ってくれると思ったわ」

 にこにこしながら、藤枝がぴらっと赤い布を広げた。

「あ……」
「まずはこっちに着替えてもらえる?」
「サクヤちゃんも、ヨーコちゃんもいないから、今ひとつ境内に華がないのよねー」
「ねー」
「御意!」

 電光石火、ニンジャの早業。ロイ・アーバンシュタインは、わずか1ミリ秒で巫女装束を装着した。
 もちろん、長くたなびく金色のエクステンションも忘れずに。

「いかがですか!」
「うん、上出来。じゃ、送っておくね」
「ハイっ!」

 ぷちぷちと桜子が携帯を操作する。ほどなくロイの携帯にメールが着信した。

「おお……」

(コウイチの寝顔……コウイチの……コウイチのっ!)

 携帯を開き、送られてきた写真を見て感動に震えていると……そろっと小さな手が伸びてきて、ひょい、と前髪をかきあげた。
 隠されていた、青い瞳があらわになる。

「Nooooooooooooっ!」

 慌ててロイは倍速ダッシュで後ずさり。慌てて前髪をばさばさと下ろして顔を隠した。

「な、な、な、何をするですかーっ」
「んー、さすが、おじい様ゆずりねー」
「美々しいわ」
「麗しいわっ」
「可愛いわー」

 じりじりとW母さんsが迫る。

「隠しておくなんて」
「もったいない!」

 巫女装束を着るのは既に正月で体験済みだ。忍術修業の一環と思えば受け入れられる。コウイチも似合うと言ってくれたし。
 だけど、目を出すとなると! 素顔を晒すとなると!

「そっ、それだけはごカンベンをーっ!」
「んもう、ロイくんってば、シャイなんだからー」
「ケチ!」

 頬をふくらませて拗ねるその顔は、あまりに羊子先生に似ていた。敬愛する先生と同じ顔に、思わず条件反射で『ごめんなさい!』と言いそうになるが……寸でのところで鉄の意志を振り絞った。

「それだけは、ご容赦ツカマツル!」
「しょーがないなー」

 桜子がかぱっと携帯をひらき、ご老公の印籠のように掲げた。

「これが目に入らぬか!」
「ぬおっ」

 そこには、さっきとは別の角度から写されたコウイチの寝姿があった。しかも、顔が寒かったのだろう。右手を軽く握って鼻と口を覆っている。まるで子猫のように、きゅうっと。
 一目見た瞬間、覚悟を決めた。

「お……お手柔らかにお願いシマス」
「うんうん、それでいいのよ。素直な子って」
「だーいすき」

 ロイは観念して両手を降ろし、W母さんsに身を……と言うか髪を委ねたのだった。
 ちっちゃな手がクシを操り、てぎわよく梳かして整える。しかも、気がつくと何やらぺたぺた顔に塗られているような。

「なっ、何をっ」
「あん、動いちゃだめ、ずれちゃうでしょ?」
「大丈夫よ、巫女さんだから、ナチュラル仕上げだからね」
「な、ナチュラルって……いや、いや、お化粧だけハっ」
「……そう」
「やっぱり男の子に女装させるのは無理があったかしら」
「じゃあ、藤島さん……だっけ? あの子にお願いしましょうか」
「そうね、早速よーこちゃんに電話して」
「待ってクダサイ!」

 どっかとあぐらをかくと、ロイは目を閉じた。

「存分にドウゾ!」
「きっとそう言ってくれると思ったんだ」
「はい、しゃべらないでね」

 問答無用で頬をブラシがかすめ、眉が整えられ、口紅が塗られて行く。
 その間、ロイは必死で自分に言い聞かせていた。

(コレハ修業だ! あくまで修業なんだ……修業……修業……)

「はい、できあがりっ」

 おそるおそる目を開けると、目の前にずいっと鏡がつきつけられていた。

「どう?」
 
 100528_2322~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 
「これが……これが、ボク……」

 一瞬、まじまじと見入ってしまう。恐ろしいことに、自分で見ても、ちゃんと女の子に見える。
 
「ささ、それじゃ撮影に行きましょうか」
「撮影って、ええっ?」
「地元のタウン誌から取材が来てるの、今日」
「うちの神社に、金髪の巫女さんがいるって聞きつけたらしくって。ぜひ記事にしたいんですって!」
「インタビューと、写真を撮らせてくださいって!」
「ソ……ソウダッタンデスカ」
「記者さんがお待ちかねよ。まずはぽちとの2ショットからね!」

 ああ。ハメられた。

 涙目でなすがまま、W母さんsに手を引かれて行くロイの脳裏には、なぜか「ドナドナ」がエンドレスで流れていた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ご協力ありがとうございました。それじゃ、見本誌ができあがったらお届けしますので!」
「ハイ、アリガトウゴザイマス」

 大鳥居の前でにこにこしながら見送った。
 取材にやってきたのは二人。記者さんは、さっぱりしてとても気持ちのいい女の人だった。
 インタビューの途中、震える声で「バイトなので、いつもいる訳ではないのデスガ……」と伝えると、笑顔で「わかりました、では本文中にひとこと添えておきますね」とうなずいてくれた。
 カメラマンさんは物静かな男の人で、動物の撮影にも慣れているようだった。おかげで、ぽちもほとんどストレスを感じず、いい顔で写真に収まってくれた。

「……」

 あれだけ近くにいて、話をしたのに。プロのカメラマンが写真もたくさん撮影したのに、どちらにも男とばれなかった。自分の変装技術のレベルの高さに、ちょっぴり自信がついた。
 ついたんだけど。

「はあああ……」

 取材陣の姿が見えなくなった途端、がくっと力が抜けて思わず地面にへたりこむ。
 その時だ。
 ちりりん。鈴の音とともに、大きな四つ足の生き物がのっしのっしと近づく気配がした。

「あれ、ロイ、どうしたんだ?」
「コウイチ……」

 そこには、金色の大型犬を連れた風見の姿があった。結城桜子とサクヤの飼い犬、ゴールデンレトリバー。首輪には大きめの『夢守りの鈴』がつけられている。その名も……

「太一郎さん」
「わふ」

 わっさわっさと長い尻尾が左右に揺れる。

「散歩、終ったの?」
「うん。今日は一時間コースでお願いって言われたし」

 大型犬なだけに、散歩も長いのだった。

「そっか……お疲れさま」
「そっちも何か大変だったみたいだな。タウン誌の取材が来てたんだって?」
「ウンどうしてそれを?」
「参道で写真撮ってた。それにしても、お前……」

 風見は首をかしげてロイを頭のてっぺんからつま先までしみじみと見た。じっくり見た。何度も見た。

(ああっ、コウイチ、そんなに見つめないで……)

「何で、巫女さんになってるんだ?」
「こ、これは、その………」

 ふるっと拳を握って肩を震わせる。言えない。コウイチの寝顔写真と引き換えだなんて、とてもじゃないけど、言えない。

「忍術修業の一環デ!」
「そうか! さすがだな、ロイ! どこから見ても完璧な女装だ!」
「アリガトウ!」

(ほめられた。コウイチにほめられた!)

「久しぶりに見たよ、お前が現実世界で前髪あげてるの……」
「あ」

 風見は顔を近づけて、さらにまじまじと親友を観察した。

「あれ、もしかしてロイ、お化粧してるのか」

 その途端、どーっとこらえていた何かが押し寄せてきて、ロイは背中を向けてしまった。

(ボクは、ボクは何てことをーっ)

 単に女装をしただけではない。写真が(ローカルタウン誌とはいえ)雑誌に載ってしまうのだ。
 今さらながらにこみあげる、強烈な羞恥心と怒濤の後悔。
 がっくりとうつむいていると、ぽふっと肩に手が置かれた。いや、前足だ。金色のふさふさした毛におおわれた、どっしりした前足。

「わう」
「太一郎さん……」

 太一郎さんは、ごろりとロイの目の前で横になり、お腹をさしだした。ツブラな瞳が見上げる。

(さあ、存分にもふりなさい)

「太一郎さーんっ!」

 ロイは迷わず金色のふかふかした腹に顔をうずめ、もふった。もふりまくった。もふらずにはいられなかった。
 そんな親友の姿を見守りながら、風見は思った。

 ロイは太一郎さんと仲がいいなあ、と。

 にこにこしながら、思っていたのだった。

 さらに、そこから少し離れた植え込みの陰では……

「どう、撮れた?」
「ばっちし!」

 にこにこしながら母二人。お顔をちょこんとくっつけて、デジカメのモニターで、今しがた撮影したばかりのほやほやの、『頬を染める金髪巫女さんと犬を連れた少年』のツーショット写真を確認していたりするのだが。

 太一郎さんのもふもふの毛皮に顔を埋めるロイはまだ、その事実を知らない。


(期間限定金髪巫女さん/了)

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科学のココロ

2010/07/26 1:08 短編十海
  • 拍手お礼用短編の再録。
  • 【4-19-6】ドアの向こうにでヒウェルから贈られたプレゼント、オティアはけっこう気に入ったようです。
 
 2月も終わりに近づいたある日、ヒウェルから箱をもらった。やけにきれいな紙で包装され、ご丁寧に青いリボンのかかった箱を、何やらぶつくさ言いながらさし出してきたのだ。

「あー、その、これ……」
「何だ、これ」
「プレゼント」
「もらう理由がない」
「そ、そりゃ、まあ、うん、そろそろ3月だし、バレンタインにしちゃいい加減遅いけどっ、そのっ」
「……」

 バレンタイン。
 しばし記憶をたぐる。
 2月14日……ドクターが往診に来た日だ。確か、あの日は食卓にマーガレットが飾ってあった。おそらくレオンがディフに贈ったんだろう。

「そう言うことか」
「う、うん、そう言うことっ」

 包み紙の下から出てきた箱には、黒地に蛍光緑で「探偵セット」と書かれていた。

「何で探偵セット?」
「探偵だろ? おまえ」
「それはディフだ。俺は助手」
「いちいち細けぇな! 助手だろーがアシスタントだろーが、探偵事務所でお仕事してることに変わりはないだろ!」

 そんな訳で今、オティアの目の前には「探偵セット」がある。中味は指紋採取キットに繊維分析キット、水に溶けるメモ、血液判定薬、簡易顕微鏡に紫外線ペンライトまで入っている。
 今日の分の仕事はもう済ませたし、ホームスクーリングの課題のノルマも片づいた。
 シエンに付き添って家にこもりきりになって以来、びっくりするほど時間が余っているのだ。本でも読むか、と思ったが、ここんとこずっと同じことをしていて、何と言うか……
 メリハリがない。

 ひとつ、こいつを試してみよう。どれから行こう?
 箱の表面には倒れた人型と、射撃の的とおぼしき同心円、そして微妙にいびつな渦巻き状のマークが描かれていた。

「……指紋……か……」

 犯罪捜査でどれだけ重要か、これまでの暮らしで学んできた。知識としては知っていたが、自分の手で実際に採取できるとなると、試してみる価値はある。
 さて、この家で最も人の出入りの多い部屋はどこだろう。やはり……。

 シエンが怪訝そうにこっちを見てる。
 オティアは探偵セットを抱えてとことこと廊下に出た。シエンはちょっと考えてから、後をついていった。
 ドアを開け、居間を見回す。
 うん、やはりここだろうな。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ただいま……帰った……ぞ?」

 帰宅するなり、ディフは目を剥いた。何てこった。ソファの背もたれ、ローテーブル、サイドボードにディーン用のキャンディポットにテレビにキャットウォーク……ありとあらゆる家具が、見慣れた粉にまみれている。極めて粒子の細かい、黒に近い灰色の粉末。

「何………だ、これは」

 ぞわっと髪の毛が逆立ち、心臓が喉元までせり上がる。ダッシュで玄関に取って返したが、『立ち入り禁止』の黄色いテープは無かった。剥がされた痕跡も無し。制服警官も、科学捜査官もうろついていない。

(落ち着け……落ち着け、ディフォレスト)

 今日はソフィアが付き添ってくれている。普段は下の階の自宅にいるが、ランチとおやつの時はこの部屋に来ている。何かあったら、まず彼女から連絡があるはずだ。

 改めて、まぶされている粉を観察する。
 この指紋採取パウダーは、サンフランシスコ市警の鑑識チームが使ってる奴じゃない。色が微妙に違うし、粒子も若干、粗い。
 粉まみれになっている場所を一つ一つ検分して行く。
 最初はどうやら、テーブルの縁から始めたようだ。明らかに慣れていないらしく、大量の粉を使っている。さらにカーペットの上にもこぼしていて、その上を踏んでいた。
 靴跡の大きさから、採取した本人のおよその体格が見えてくる。このサイズに該当するのは二人。そして、この手の実験に興味を持ちそうなのは一人しかいない。

「………オティアか」

 ちりん、と足下で鈴の音がした。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 子ども部屋に行くと、被疑者は採取した指紋をずらっと床に並べて座り込んでいた。
 透明なフィルムに写し取り、指紋が見やすいように裏に白い紙を入れたスリーブ(袋)に収めてある。ご丁寧に一つ一つには採取した場所を書いたラベルが貼り付けてあった。

「どうしたんだ、これ」

 サンプルから目も放さず、傍らの四角い箱を指さした。『探偵セット』……何度もリニューアルを重ねつつ、連綿と続いてきた科学玩具の定番中の定番だ。現にディフ自身も子どもの頃、夢中になって家中を捜査したものだ。

「あー……それ、か……」

 懐かしさと若干の気まずさ、そして母の困り顔を思い出していると、とことことオティアが近づいてきた。

「ディフ、手、見せて」
「ああ」

 言われるまま両手を広げ、手のひらを上にして差し出す。がっしりした指先をオティアはまじまじと観察し、手にしたサンプルと見比べ、うなずいた。

「だいたい合ってる」

 床に置かれたサンプルは、いくつかのグループに分けられていた。

『オティア』『シエン』『レオン』『ディフ』『ヒウェル』『アレックス』『ソフィア』『ディーン』『オーレ』そして『未決』『準未決』。

 自分とシエンの分は、実際に照合して、すぐに分かったのだろう。ディーンはサイズ、オーレは形状で一目瞭然。
 そして今、本人と照合された指紋が『ディフ』の場所に厳かに並べられた。同時に、『準未決』のグループがさっくりと『レオン』と『ヒウェル』の場所に分類される。

「何で、わかったんだ?」
「数の多い大人の指紋は3種類。誰がどれかは大体、予測できていた。ディフの分が確定すれば、残りは必然的に判明する」
「なるほど。だが、ヒウェルとレオンの分はどうやって区別を?」

 オティアは『ヒウェル』に分類された指紋サンプルのうちの一枚をつまみあげた。曰く、『採取場所:キャンディポット』

「……なるほどな」

 レオンはキャンディポットには触らない。
 日ごろの観察と人物の分析が、見事に採取した証拠と結びついている。しばしオティアの優れた洞察力に感心していたものの、はたとディフは我に返った。

「リビングが粉だらけになってたぞ。採取が終ったら、きちんと除去しとけ」
「ああ……」
「お前のにおいがついてるもんだから、オーレが顔をこすりつけて……今、すごいことになりつつある」
 
 リビングに行くと今まさに、粉まみれになったソファのひじ掛けにオーレがぐしぐしと顔をすりつけていた。

「………オーレ」
「にゃー」
 
 キャンディポットも、テーブルも、サイドボードも、キャットウォークも、念入りにこすられていた。
 そして、なおもうっとりとひじ掛けに顔をこすりつけるお姫さまの白い毛皮もまた、黒灰色の粉まみれ。

「………」

 これ以上被害が拡散する前に、オティアは素早くオーレを抱き上げた。

「み?」
「……」

 あどけない顔でちょこんと小首をかしげている。ここで叱ったところで、何で叱られてるのか理解できないだろう。そもそも猫って生き物は、自分が悪い、なんてカケラほども考えやしないのだ。

 いつの間にかシエンが部屋から出てきて、さくさくとリビングの掃除を始めていた。
 お姫さまはケージに隔離され、双子が掃除をしている間、ずっとにゃーにゃーと抗議をしていた。
 そして指紋採取パウダーの除去作業が終ってから、速やかにお風呂に直行したのであった。
 
 夕食時。
 何も知らずにやってきたヒウェルを出迎えたのは、スタンプ台をさし出すオティアだった。

「え、なに、もしかして指紋とるって?」
「ん」
「本格的だなぁ」

 にまにましながらヒウェルは自らスタンプ台に指をぐりぐりと押し付け、台紙に指紋を押した。一本ずつ、丁寧に。
 オティアは提出された指紋をキャンディポットから採取したサンプルと比較し、満足げにうなずいた。
 
(おー、おー、すっげえ夢中になってやがる。ちくしょう、いい顔してるなあ! 可愛いったらありゃしない)

 熱心に指紋を調べるオティアを見て、ヒウェルは有頂天。ひらひらと頭の周りにチョウチョを舞わせつつ、上機嫌でしゃべりまくった。

「このインク、においも質感も警察で使ってるのとそっくりだよな。あれ、なっかなか落ちないんだよなー! ねばねばしてるし、乾燥するの遅いし。これもセットに入ってたのか?」
「いや。これは、ディフが」
「……そっかーディフが持ってきてくれたのかー。本格的だなー」

 要するに、市警察ご用達のインクと同じ物ってことなのだが……幸せに舞い上がったヒウェルは気付かない。ぽーっとしたまま、無意識にシャツで指先を拭っているのにも気付かない。
 さらにゆるみ切った表情のまま、尻尾を立ててしゃなりしゃなりと歩いてきたオーレに手を伸ばす始末。

「お、オーレ、ふわふわだな。風呂に入ったのか?」

(その手で触らないでよ、きぃ!)

 ぴしっと前足が宙を走り、手の甲に赤い筋が刻まれた。

「どーしたお姫さまー。ご機嫌ななめだなー」

 普段なら『いってえええ!』とか『何しやがるー!』と悲鳴が挙がる所なのだが……エンドルフィンでも出まくってるのか、猫なで声でにやにや、にまにま。オーレは尻尾をぼわぼわに膨らませ、背中を丸めて斜めに後じさった。

 この後、舞い上がったへたれ眼鏡はふわふわと雲を踏みつつキッチンに向かい……

「お手伝いいたしましょうかぁ?」
「お、珍しいな」
「そりゃー世話になってるし、俺だって、たまにはね! これ運んでおけばいいのか?」
「ああ、頼む………って…………」
「どーした、まま」
「き、さ、ま」

 双子は、見た。『まま』の赤いたてがみが、沸き起こる怒りのオーラでもわっと逆立つ瞬間を。

「その手であちこち触るなーっ!」

 がっちりした右足がひょろ長い左足に絡みつき、高々と上がった左足が筋肉の盛り上がる膝の内側に首根っこを押さえ込む。ぶっとい右腕はガタのきた腰をがっちりホールド、仕上げに脇の下に抱え込んだか細い腕を、ぎち、ぎち、ぎち、と背中側に引っ張った。

「おごわっ」
「そもそも、今日は貴様の持ち込んだ玩具でえらい目に会った! だがあの子が興味を示すようになったのは進歩だ。感謝する」
「だったらこの手を離せ……ぐぎぎ」
「そこはそれ、それはそれだ」
「ふごっ」

 炸裂するオクトパスホールド(卍がため)。
 容赦なくシメられつつ、それでも幸せなヒウェル・メイリールさん(26)だった。

(科学のココロ/了)

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サリー先生のわすれもの

2010/09/12 17:13 短編十海
 
  • 拍手お礼用短編の再録。番外編【ex11】ぽち参上!直後の出来事。
  • ランドール社長の愛犬サンダー、正式におひろめです。
 
 ぼくはサンダー。
 意外とタフな子犬だ。
 昔の名前はもう忘れた。荒々しく怒鳴る声や重たくて固い靴、雨あられと降り注ぐ、ささくれた四角い棒切れと一緒に。
 大事なのは今。新しい家と新しいボス、そして新しい群のなかまたち。

 ボスは優しくて、サイコーにいかしてる男さ。最初に会ったときは心底ビビってしっぽ巻いたけど……

(わお、何なの! このど迫力! こんな生き物見たことないよ!)

 ケージの奥で歯を剥いて縮こまっていたら、ボスはかがんで体を低くして。そっと手をさしのべてくれたんだ。
 今ではぞっこん。ぼくらはサイコーのコンビだ。ちゃんと毎日、大好物のトマトを食べさせてくれるしね。皮のパリっとしたフレッシュな奴を。ハッスルしながらトマトをくわえて、皿にもどして、また持ち上げる。

(遊んでるんじゃないぞ。味わってるんだ!)

 そんなぼくを見守りながら、ボスは大きな手のひらで優しく頭をなでてくれる。

「リコピンは老化防止………君にはまだ、あまり関係のない栄養素かな?」
「わふっ?」

 トマト美味い! もーサイコー!
 もっとも、これはサリー先生のおかげだ。

「この子、トマトケチャップが気に入ってるそうです。でもケチャップは刺激が強すぎるから、生のトマトをあげてください」

 サリー先生はすごいよ。ちゃんとぼくの言いたいことを理解してくれるんだ。
 テリー先生もかなりのもんだね。彼は犬って生き物の扱いを知りつくしてる。その分こっちの手の内もばれちゃうんだけど……安心できる。信頼できる。二人とも大好きだ。ボスの次にね!

 今週はとってもうれしいことがあった。サリー先生が泊まりに来たんだ。
 すごく大事なお仕事があるから、邪魔しちゃいけないよって言われたんで、寝床(もちろん、ぼく専用!)に座ってじっと待っていた。待ってるうちに、うとうと眠ってしまった。
 目が覚めたら終っていた。ボスもサリー先生もすごく疲れてるみたいだった。

「この部屋を使ってくれ……中にあるものは自由に……」
「はい……おやすみなさい」

 先生はゲストルームへ。ボスは自分のベッドにばたんきゅう。どうしよう。サリー先生のとこに行っちゃおうかな。
 でも、がまんがまん。ゲストルームには入っちゃいけない事になっている。いつものように、ボスの部屋で寝ることにする。ベッドの下のふかふかの毛布がぼくの場所。でもボスはすぐにぐっすり眠っちゃったから、こっそり布団に潜り込んで一緒に眠った。

(あったかいな。あったかいな。お母さんってこんな感じ?)

 次の日の朝早く、海岸まで散歩に行った。二月の海はすごく寒かったけど、サリー先生といっしょ! ボスといっしょ!
 力いっぱい走り回って、しょっぱい波をばしゃばしゃ飛び越えた。
 先生とさよならして、家に戻ると……。

 あれ、何だろうこれ。

 見たことのないものが落ちてる。形はソーセージに似てる。でもぼくの好みからすればちょっと細過ぎるし、第一固くてちっても美味しそうじゃない。試しにかじってみたけど、やっぱり美味しくない。歯の間からつるっと滑って床に落ちた。
 ヘンテコなソーセージ。食べられないソーセージ。
 だけど、サリー先生のにおいがした。
 これはしまっておこう。
 大事に寝床に持ち帰った。

 土曜日の午後、テリー先生がやってきた。
 ビリーも一緒だ。

(よう、おれのこぶん!)
 
 さあワニを投げろ。ボールを投げろ。次はフリスビーだ。かみかみロープも忘れるな!

「今度はこれ投げろってか? さっき持ってきたやつと違ってるぞおい」

 のどが渇いた、水もってこい。くみたてのやつ、ぬるいのは却下。

「はあはあ言ってるな、そろそろ水やっとくか……え、何で飲まない?」

 おやつ持ってるだろ、においでわかるぞ。とっととよこせ、さあ!
 
「座れ、サンダー、座れ……こら、す、わ、れ、って、うわ、よせやめっ」

 どんっと体当たり、芝生に転がった子分から、あっさりおやつを没収した。
 最初っから素直に渡せばよかったのに。
 得意満面でおやつを食べてたら、テリー先生とボスにしかられた。

 ……ごめんなさい。次は手加減します。
 
 ※ ※ ※ ※
 
「すまなかったね、ビリー。中で洗ってくるといい」
「そーする」

 遠慮なく洗面所で顔と手を洗い、ふかふかのやたらと上等そうなタオルで芝生にまみれた服をぬぐった。
 どーせ洗うのは俺じゃないし。

 庭に戻る途中、居間の犬用ベッドの上で何かがチカっと光った。

「何だ……これ……」

 ボールペンだ。つやつやの茶色で、ちょっぴり歯形がついている。

「あいつ、いたずらしやがって! しょうがねぇなあ」

 即座に回収。上着の胸ポケットに突っ込んだ。
 後で返しておこう。
 
 しかしながらその後のサンダーとの攻防戦は一段と激しさを極め、ビリーは拾ったペンのことはころっと忘れて家に帰ってしまったのだった。
 
 ※ ※ ※ ※
 
 ペン、ペン、つやつやのボールペン。一本で赤と青、黒と三色書ける素敵なペン。
 チョコレートみたいにこっくりした茶色に、オレンジ色で文字が描いてある。「カリフォルニア大学動物病院」って読むんだとテリーお兄ちゃんが教えてくれた。
 文字の横には、かわいい足跡。
 子犬かな。
 子猫かな。

 でもこのボールペン、何でこんなところにあるんだろう。
 テリーお兄ちゃんがいっぱいお土産に持ってきてくれたから、一本迷子になっちゃったのかな?
 ちっちゃな手を伸ばすとミッシィは、ソファの上に転がるチョコレート色のペンを拾い上げた。

「……ケガしてる?」

 ちょっぴりベタベタしてる。ぽつぽつと傷もついている。
 洗ってこよう。
 洗面所で丁寧にペンを洗って、拭いて、大事に大事にポーチにしまった。お口をばってんにした、白いウサギの顔の形をしたポーチに。

 ※ ※ ※ ※
 
「こんちわー、Mr.エドワーズ」
「おや、こんにちは、テリー」
「ハロー」
「やあ、Missミッシィも。お会いできて光栄です」
「にゃっ」

 エドワーズは穏やかな笑みを浮かべて兄と妹を迎え入れた。リズも上品に尾をくねらせ、するり、するりとミッシィの足に身体をすりよせる。

「Hi,リズ」
「みーう」
「本日は何をお探しでしょう?」

 ミッシィはアーモンド型の黒い瞳でじーっとエドワーズを見上げ、はっきりした声で告げた。

「絵本をください」
「かしこまりました。ご予算はいかほどですか?」
「2ドルです」

 うやうやしく、児童書と絵本のコーナーに案内する。

「こちらの棚は、どれも2ドル以下となっております」
「サンクス!」
「よろしければ、こちらの踏み台をお使いください」
「はーい!」

 アーモンド型の目をぱっちり開いて、ミッシィは後ろに手を組み、絵本の棚を調べ始めた。
 その隣では、きちんと床に座ったリズが一緒になって本棚を眺めつつ、ぱったぱったとしっぽを振っていた。

「しっかりしたお嬢さんだ。ちゃんとお金の価値を理解している。お母様から預かってきたのですか?」
「いや、トゥースフェアリーに1ドルもらった」
「なるほど」

 夜、抜けた乳歯を枕の下に入れておくと、トゥースフェアリーがやってきて、1ドルと取り換えてくれる。
 子どもの頃を思いだし、エドワーズはふっと目元を和ませた。

「先月と今月で、2本分、貯金してたんだ。前に来た時、どれでも2ドルっての覚えてたんだな」
「それは……とても、光栄です」

 じっくり考えてから、ミッシィは一冊の本を選んで持ってきた。

「これをください」
「ライオンと魔女、ですね。かしこまりました」

 少し彼女には難しいのではないか? とも思ったが、考えてみれば「竜の子ラッキーと音楽師」が読めるのだ。
 わからない所は、家族に聞いて覚えて行くだろう。
 
「ちょうど2ドルになります」

 ミッシィは、肩からさげたポーチのジッパーを開けて、中から1ドル札を二枚とり出した。

「はい!」
「……はい、確かに」

 きっちりと本を袋にいれて、レシートと一緒に渡そうとすると……
 ミッシィはさらにポシェットの中からペンをとり出し、かちっと芯を出した。

「……おや?」
「あー……その……ほら、荷物が届いた時よくやるだろ、受取書にサインをって」

 ペンを片手にそわそわしている妹を横目で見ながら、テリーは照れ臭そうにくしゃくしゃと頭をかいた。

「最近こいつ、自分の名前書けるようになったばかりなんだ」

 ああ! なるほど、そう言うことか。

「それでは、こちらにサインをお願いします」

 エドワーズはレシートの控えをとり出し、余白に指を走らせた。

「そら、よっと」

 テリーはミッシィを抱き上げ、カウンター前のイスに座らせてやった。
 ミッシィは真剣そのものの表情でペンを動かし、一文字、一文字、名前を書いた。

 M , i , s , s ,y

 書き上がったサインをじっくりと見直して、満足げにうなずく。

「はい!」
「ありがとうございます……おや?」
「おや?」

 エドワーズのライムグリーンの瞳と、テリーのターコイズブルーの瞳が、小さな手の中のペンに吸い寄せられる。
 チョコレートみたいにこっくりした茶色に、もぎたての果実みたいなオレンジ色。見慣れた動物病院のロゴマーク、そして肉球の1ポイント。

「これは……」
「動物病院の……」

 クリスマスの挨拶用に、職員や畜主や出入りの業者、学生に配っている品だ。
 テリーはおもむろに胸ポケットから。エドワーズはレジ横のペン立てから同じペンをとり出した。
 ひと目見るなりミッシィは大喜び。

「おなじ!」
「うん、そうだな」
「おそろいですね」
「エドワーズさんと、おにいちゃんと、おそろい!」

 とん、とリズはカウンターに飛び乗り、ふんふん、とミッシィの手の中のペンのにおいを嗅いだ。

「んにゅぅ」

 子犬と、男の子のにおいのついたペン。ちょっぴり歯形のついたそのペンが、サリー先生の忘れ物だと言うことは……

 リズだけが知っている。

(サリー先生の忘れ物/了)

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コーヒーゾンビのささやかな幸せ

2010/11/06 17:00 短編十海
  • 拍手お礼用短編の再録。
  • 2007年3月、ひな祭りの後の出来事。オティアからヒウェルへのささやかな贈り物。
 
 三月に入り、振り払っても振り払ってもまとわりついていた重苦しい鉛色の霧がやっと晴れた。
 ようやく意識がクリアになって、ふと気付くと……ヒウェルがゾンビになっていた。別に珍しいことじゃない。締め切り前の定例行事だが、今回はゾンビ期間がやたらと長い。

「ランチとる間、場所貸してくれ……」

 スターバックスの昼時の混雑にもまれただけで、ほぼ力尽きたらしい。ぼろぼろになった眼鏡ゾンビは事務所に入るなりソファの上に崩れ落ちた。
 オティアがちらりと目を向けて、何事もなかったようにファイルの整理に戻る。
 ここ数日、シエンのコンディションはだいぶ良くなってきた。お陰でオティアも在宅勤務の傍ら、事務所に顔を出せるようになった。家との行き来には、クリスマスにレオンから贈られた自転車を使っている。いい傾向だ。運動不足の解消にもなるし、オーレも気に入ってるらしい。
 正式に町中で自転車に乗るのは初めてだと言うので、初日の前にみっちり交通ルールを教え込んだ。猫を頭の上に乗せて走るのは危険だからやめとけ、せめてカゴにしろ。暗くなったら即点灯、自転車便のメッセンジャーの真似はするな、等々。

「……ぼろぼろだな、ヒウェル」
「うん、ぼろぼろ。締め切り直前に、うっかり爆睡しちまってさ……目が覚めたら、携帯に着信記録がたまってるし、ファックスが山になってるし、パソコンのメールがもう、すごい事になっていて………」
「仕上げにジョーイがドアの外でにっこり、ってか?」
「いや、今回の担当はトリッシュ」
「ああ……そりゃ厳しいな……」

 敏腕編集者トリッシュはレイモンドの恋人だ。彼氏の前ではキュートに恥じらう恋する乙女。だが仕事となると容赦はしない。相手がヒウェルならなおさらだ。

「もー前の仕事の締め切りぶっちぎって書いてるうちに、次の仕事が入ってきちゃった、みたいな?」

 しょぼしょぼ目を細め、背中を丸めて紙コップからコーヒーをすすっている。

 ず、ず、ず、ずぅじゅいいいいい。

 不気味に響く音を聞いていると、もはやこいつの飲んでるのが本当にコーヒーなのかどうかすら疑わしくなってくる。

 ずごごご、じゅびび、じゅるっ。

「んじゃ、俺、そろそろ行くわ。この後取材一件入ってるから」
「大丈夫か?」
「あー、うん多分……夕飯までには帰るから」

 オティアがファイルを繰る手を止めて顔を上げる。ドアの所でヒウェルが立ち止まり、振り向いた。ほんの一瞬、紫の瞳と眼鏡の奥の琥珀色の瞳が重なる。

「じゃあ……な」

 コーヒーゾンビの顔に生気が蘇り、微笑らしきものが浮かんだ。ひらひらと手を振ると、ヒウェルはドアを開けて出て行った。相変わらず姿勢が悪い。しかも明らかに足取りがよれている。膝に力が入ってないな、ありゃ。

 ふと見ると、スターバックスの紙コップがテーブルの上に置き去りにされている。
 あいつ、相当参ってるな……。
 白地に緑の丸いロゴ。サイズはヴェンティ、最大級。もちろんミルクもソイミルクも入っていない。オティアが手を伸ばして持ち上げ、軽く左右に振った。ほとんど音はしない。
 なるほど、もう飲み尽くして空っぽだから執着しなかったんだな。

 オティアは紙コップを持ってとことこと簡易キッチンに歩いて行く。プラスチックの蓋を紙製の本体から外し、分別してゴミ箱に入れようとして……動きが止まった。

「どうした?」
「………」

 黙ってカップをこっちに向けた。近づき、のぞきこむ。強烈なカフェインの臭気が顔面を直撃した。
 どろりとした黒い液体がカップの底にとぐろを巻いている。俺の基準からすればあり得ない濃度だ。信じられない密度だ。一体、エスプレッソを何ショット追加したんだ、ヒウェル!

「……あいつ、こんなの飲んでるのか」

 オーレが眉間に皺をよせて口を開け、耳を伏せてと、と、と、と後ずさる。
 オティアは猛烈な勢いで蛇口をひねり、危険な黒い液体を洗い流したがそれでも臭いは抜けない。ばたばたと窓を開けて空気を入れ替えた。
 すぐ下の通りをよれよれと歩いて行く眼鏡ゾンビの後ろ姿がちらりと見えた。

 やれやれ。
 無事に取材先にたどり着けるんだろうか?
 肩をすくめてデスクに戻ると……オティアが広げた新聞を手に取り、何やら真剣な表情で一ヶ所を睨んでいる。

「どうした?」
「ん……」

 まさか、悩み相談のコーナーでも読んでるんじゃあるまいな?
 のぞきこむと、とある記事をとん、と指さした。

「カフェインの常用とその依存性……か」
「ん」

 即座にヒウェルの顔が浮かぶ。この子もそうだったんだろう。
 居住まいを正してじっくり読んでみる。
 カフェインを常用していると、体が刺激に慣れてしまい、次第に効かなくなってくる。飲んでも効果がないから、さらに濃いコーヒーを飲むようになり、回数も増える。だが実際にはカフェインによる覚醒効果は着実に薄れている。
 口にした時の味や香り、コーヒーを『飲む』と言う行為で効いた気になっているだけなのだ、と。
 
「これは……ヤバいな」
「カフェインの致死量は成人で5〜10g、コーヒーはおおよそ一杯で100mg」
「むぅ」

 拳を軽くにぎり、口元に当てる。室内には、未だにヒウェルの飲み残しの強烈な臭気が居座っていた。

「あいつの『一杯』は、100mgどころじゃないな……量も、密度も」
「コーヒー依存症でも死にはしない、問題は……」
「カフェインか」

 こくっとうなずいた。

「牛乳や砂糖を加えて胃壁を保護するのが望ましい、とある。ブラックは避けた方がいいと」
「……ないな」
「ないな」

 しばし沈黙。そう言えば猫背ってのは無意識に内蔵を。胃をかばう動作なんだよな………。
 今んとこ、夕飯はちゃんと家で食ってるが、朝と昼はどうなってるんだ、あいつ。今日だって、ランチタイムと言いつつコーヒーしか飲んでいなかった。

「ディフ」
「何だ?」
「飲んで効いた気になっているだけなら、中味がどうでも関係ない気がする」
「プラシーボか。ふむ、試してみる価値はあるな」
 
 
 ※ ※ ※ ※ 


「……はっ」

 いかんいかん。キーボード打ちながらマジで寝ていた。画面上には意味不明な記号が並んでいる

 割とよくある話だが、メンズランジエリーの取材に行っただけのはずだったのに、現場についてみたら何故か『体験取材』になっていた。

「ハロー、Mr.メイリール! トリッシュから話は聞いてるわ。今回のアナタの獲物はこれよ!」

 大柄でゴージャスな美人店主、Ms.ドールが見立ててくれたのは、イチゴ模様のキャミソールとショーツと………ブラジャーのセットだった。

「えっと、あの、こ、これは……」
「うちの一番の売れ筋商品なの。日本からの直輸入品よ!」
「はあ……日本の下着メーカーは優秀だそうですし……」

 どんどんセリフが棒読みになって行く。背筋にたらりとしたたる汗を無視して、かろうじて笑顔は崩さなかった自分を褒めてやりたい。

「欲しいと言うことはね、必要なことなのよ。試してごらんなさいな。優しい気分になれるわよ!」

 有無を言わさぬ笑顔と迫力満点のウィンクに抗う気力は、既になかった。押し付けられたランジェリーを手に否応なく更衣室に追い込まれ、試着を試みたが、後ろのホックに手が届かない!
 揚げ句の果てに自分から助けを求め、店長にきちんと着せていただくと言う体たらく。
 ちっくっしょお、ジョーイめ。こいつはいったいどんな羞恥プレイだ!

『君以外に適任者はいないよ!』とか何とか調子のいい事言いやがって。俺以外のライターは、全員ばっくれたんだな? そうなんだな? 

(賢明な判断だ)

 何つーか、こう………どっと疲れた。精神的にも、肉体的にも。

「………一杯やるか」

 椅子から立ち上がった瞬間、ぐらぐらっと世界が揺れた。

「おっと」

 かろうじて壁に手をつき、転倒を免れる。やばいなあ。視界がぐーるぐる回ってる。
 ってか焦点が微妙に合わない。文字が見えているのに、読めないし。写真を見ても、絵を見ても、図形が図形として認識できてないよ。これは、もしかして、かなりやばいんじゃないか?

 台所までの距離がひどく長く感じられる。
 がんばれ、ヒウェル。もう少しだ。コーヒー豆さえセットして、後は水入れてスイッチいれれば機械が全部やってくれるんだ。今、一番必要なもの……かぐわしいカフェインが飲めるんだ。

 コーヒー豆をストックしている缶を開ける。なんか妙に軽いな、でもあと一回分ぐらいはあったろう。えい、くそ、指にうまく力が入らない。こう言う時は、優秀な機密性が恨めしいぜ。

「っせいっ」

 がっぱん、と缶が開く。
 何てこったい! 空っぽじゃねえか……。

 あー、そう言えば切れてたんだよな……スタバに行ったついでに補給しとこうと思って……忘れてた……。
 がくり、と力が抜ける。もう一度出かける気力はないし。しゃあない、飯食いに行く時に、ディフんとこで分けてもらおう……。
 しかし、飲めないとなると余計飲みたくなるよなぁ。
 よれよれとデスクに戻る途中で呼び鈴が鳴った。一瞬、びっくんと心臓がすくみあがる。まさかトリッシュ、取り立てに来たかっ?

 いや、いや、落ち着け。
 彼女は滅多に直接は来ない。既にその『滅多に』な状況になってる気がするが……
 また、呼び鈴が鳴った。

「……いないのか?」

 オティア!

「いるいる、います、いるから!」

 一足飛びに玄関にすっ飛んで行き、ドアを開けた。

「……やあ」
「……どけ」

 両手に何やら抱えている。言われるまま、道を開けると、とことことまっすぐに入ってきた。

「え、な、何? 何か用?」
「用があるから来た」

 抱えているのは袋が二つ。しかも、すごくいいにおいがする……。片方は甘くて、もう片方は……。

(こ、これはもしかしてっ?)

 ああ、これはもしかして夢じゃないのか。今、この瞬間、俺が咽から手がでるほど欲しがってるアレの香りがするじゃないかっ!
 ぱっかん、とオティアはコーヒー缶を開けて、袋の封を切り、中味を注ぎ込んだ。サラサラサラリと軽やかな音が響く。
 まちがいない。
 こいつは……

 コーヒーだ!

 さらに、奇跡は続いた。コーヒーメーカーに粉をセットして水を入れて、かちりとスイッチを入れている。
 ごぼごぼ、がぼっと蒸気が上がり、褐色の雫が。天上の甘露が、ぽとぽとと滴り落ちる。

「……さんきゅ。豆、ちょうど切れてたから……助かった」
「ん」

 コーヒー豆の袋をきちんとたたみ、続いてもう一つの紙袋をあける。バターと小麦粉の焼けるにおい。貝殻の形のきつね色の焼き菓子が転がりでた。

「あ……マドレーヌ」
「アレックスが焼いた」
「そ、そうか」
「皿、借りるぞ」
「あ、うん、食器棚にあるから」

 かちゃかちゃっと引き出し、マドレーヌを並べた。ほぼ同じタイミングでがぼっとお湯が吹き上がり、コーヒーメーカーが止まった。

「……カップはこれでいいんだな?」
「うん」

 赤いグリフォンのカップをざっと水でゆすぎ、たぱたぱとコーヒーを注いでいる。
 ああ神様、これが夢なら覚めないでくれ!

 オティアが。あのオティアが俺のためにコーヒーを入れてくれた。カップに注いでくれた。マドレーヌを皿に盛ってくれた!
 しかもテーブルの上に、マグカップと皿を並べてるじゃないか!

「オティア……」
「冷めないうちに、食え」
「あ、うん……ありがとう」

 一緒に食べてかないか? 声をかけるより早く、オティアはくるりと背を向けて。

「じゃあな」

 きちんと袋をたたみ、すたすたと出ていった。

「………」

 ばたん、とドアが閉まる。
 ふるふると震える手でカップを持ち上げる。うん、あったかい。夢じゃない、現実だ。おそるおそるすすってみる。
 熱い。苦い。心地よい。
 ほんの少しねっとりとしたコーヒーの香りが、口から咽、胃袋へと流れ落ちる。

「嗚呼……美味いなあ………」

 ふはーっと吐きだす。胃袋があったまると、何だ急に腹が減った。ばくばくとマドレーヌを食う。むせそうになって、またコーヒーを飲む。苦いのと、甘いのが交じり合ってさらに食欲がそそられる。
 あっと言う間に食べ切っていた。そう言えばしばらく、固形物食ってなかったなあ……昨日の夕飯食って以来。

  
 残りのコーヒーは、時間をかけて少しずつ飲んだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ただいま」
「お帰り。ご苦労」
「……んむ」
「袋、回収してきたか?」
「うん」
「OK、完璧だ」

 例の新聞記事を読んだ後、ディフがディカフェ(カフェイン除去ずみ)のコーヒーを買ってきた。
 
「これをあいつの缶に入れてこい。袋見られるとバレるから、持ち帰れ」
「わかった」

 ちょうどアレックスの焼いてくれたマドレーヌが届いた所だった。あの記事には空きっ腹にコーヒーを飲むより何か胃に入れた方がいいと書いてあった。ついでだから持って行くことにする。
 コーヒー豆を缶に入れて、一回分入れて飲ませてしまった。

 銘柄はいつもと同じだが、ディカフェだ。味も香りもすっかり同じではないだろう。人から勧められれば、多少の違和感には気付かないものだ。しかも、タイミングよくコーヒーのストックが切れていた。今ごろ、何も考えずに飲んでいるはずだ。

「オティア。紅茶とコーヒーと緑茶、どっちがいい?」
「……紅茶」
「OK」

 まくっと焼き立てのマドレーヌをかじり、熱い紅茶をすすると、オティアはほっと息をついた。
 
 デカフェのカフェイン含量は、通常のコーヒー豆中の0.2%以下。これで、少しは体への負担が軽減されるはずだ。
 あいつからもらった「探偵セット」はけっこう楽しめた。だいぶ間があいたけれど、これぐらいのお返しはしてもいいだろう。

(コーヒーゾンビのささやかな幸せ/了)

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すやすや

2011/02/21 22:42 短編十海
 
  • 拍手御礼短編の再録。
  • 実はちっちゃな子供が苦手なレオンが子守を頼まれてしまいました。
  • 双子は留守、ディフも席を外している中、さてどうなりますか……。
 
 レオンハルト・ローゼンベルクは当惑していた。
 
 110121_0158~01.JPG
 illustrated by Kasuri

 リビングのソファに腰かけ、優雅にひじかけにもたれかかりつつ、手にした本に目を落とす。反対側の手すりによりかかっているのはディーン。ついこの間、四歳になったばかりのアレックスの息子。でれんと手足を投げ出し、熟睡している。
 信じられない。ついさっきまで、きゃっきゃとオーレを追いかけ回していたのに。

 ランチの後、いつものようにバスケットを抱えてディーンが配達にやってきた。中味は焼きたてのクロワッサンとマドレーヌ。いつもは遠くから様子を伺うだけのオーレが、鼻を膨らませて飛びついてきた。

「みゃーっ」
「キティー!」
「おおっと」

 速やかにディフがバスケットを確保、キッチンに退避。その間にディーンは猫を追いかけ、部屋中ぴょんぴょん跳ね回る。
 ソファーの背に駆け上がったオーレに向かって手を伸ばし、いきなり動きが止まったなと思ったら……その場にぱたっと突っ伏してしまったのだ。
 さすがにぎょっとしたが、ディフは落ち着き払ってディーンを抱き上げた。

「心配ない。眠ってるだけだ」
「……そうなのか」
「電池が切れたってやつだな。これぐらいの年の子供にはよくあることだ」

 熟睡する四才児をソファに寝かしつけるディフの姿を、やや遠巻きに見守っていると。

「毛布とってくる。その間見ててくれ」
「わかった」

 約束したから、見ている。可能な限り離れつつ、読書の合間にちらりちらりと横目で見ている。
 正直、落ち着かない。小さな子供は苦手だ。早くディフが戻ってこないか。そわそわと主寝室につながるドアに目を向けていると。

「んー……」

 ディーンが寝返りを打った。しかも、そのままずるりっと滑り落ちる。
 危ない!

 とっさに手を出し、受け止めた。
 熟睡する四才児の体は、流動体だった。溶けたバターみたいにぐにゃぐにゃで、あらぬ方向に垂れ下がる。今にも腕をすり抜け、にゅるんっとこぼれ落ちそうだ。

(何で首がこんな角度に!)

 抱き取ったのはいいものの、どうしても体が逃げてしまう。妙に熱っぽい、湿った体。骨が通ってるんだろうかと思うぐらい、ぐにゃっとした手足。まるで異界の生き物だ。必要以上に触りたくない。かと言って放り出す訳にも行かない。

(こ、これからどうすればいいんだ……)

 今にも崩れそうな流動体生物を抱えたまま、立つことも座ることもできずに固まっていると……
 のっしのっしと大股な足音が近づいてくる。ほどなくドアが開いた。

 ああ、天使が戻ってきた!

「待たせた、レオン。ちょうどいい大きさのがなかなか見つからなくてな」
「ディフ!」

 顔にも声にも、ほっとしたのがにじみ出ている。いや、あふれている。家長の威厳も何もあったもんじゃない。だが構うものか。幸い子供たちは図書館に出かけている。この場にいるのは自分とディフだけだ。

「……大胆な寝相だな」
「うん……ちょっとびっくりしたよ」
「ありがとな、助かった」

 ひょいとディーンを抱き取り、くるんと手際よく毛布でくるんでいる。

「こんな状態でも起きる気配は無し、か。良い度胸してるなあ、ディーン」

 目を細めて顔中笑み崩すと、ディフはすやすや眠るディーンを膝に抱いてぽふっとソファに腰かけた。
 何て優しい眼差しだろう。何て穏やかな横顔だろう。レオンはすかさず妻の隣に座り、ぴと、と身を寄せた。

「どうした、レオン」
「……可愛いな」
「ああ、可愛いな」

 二人の視線は微妙にすれ違っているのだが、まったく問題はない。
 がっしりした肩に手を回し、ふわふわした赤い髪の毛をなでる。優しく指にまとわりつく手触りが、まるで綿菓子みたいだ。くすぐったい。心地よい。

「しばらく寝かせといてやるか」
「ああ、そうだね」

 こう言う時のディフは最高に柔らかく、穏やかな表情を見せる。まるで幼子を見守る天使のように。間近に見ているとひしひしと幸せが胸を満たし、身も心も温かな光に包まれる。
 幸い、ディーンの眠りは深く、目を覚ます気配はない。ゆるく波打つ赤い髪に顔をうずめる。腕の中、愛しい人がくすぐったそうに身をよじる。だが逃げる気配は微塵もない。
 午後の陽射しの中、レオンは存分に幸せに浸るのだった。

(すやすや/了)

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hとOともう一匹

2011/03/14 0:14 短編十海
  • 拍手御礼短編の再録。
  • エリックがレオンに呼び出された後、ヒウェルとオティアの間でこんなやり取りがありました。
  • 実際にはトレンタサイズが出るのは2011年の春なんですが、ネタと言うことで。
 
「スヴェンソンくん」

 食後の紅茶を飲み終わったところで、レオンが眼鏡バイキングに声をかけた。

「ちょっと来てくれるかな。話したいことがあるんだ」
「わかりました」

 うわ、とうとう来たか、書斎への呼び出し。軽く十字を切って見送りつつ、隣の部屋に向かう。
 前を歩く、オティアの後をついて行く。この頃、夕食の後にしばらく彼の部屋で一緒にすごすのが日課になりつつある。
 と言っても特に何をするでもない。居間に座ってぽつりぽつりと言葉を交わす程度だ。
 オティアの部屋のインテリアは、おしなべて丈が低く、床に敷いたラグは上質で肌触りのいいものが揃っている。
 それと言うもの、こいつが床の上でころんころん転がってるからだ。本を読むのも、パソコンを使うのも、床の上。寝ころんだり、ヨガをやる時みたいにあぐらをかいたり。
 よくぞそこまで足が開くと感心する。関節が柔らかいんだろうな。

 そして今、丈の低いソファの上に足を組んで座るオティアの膝の上には、白いお猫さまが丸くなっていらっしゃる。
 俺が部屋にいる時の定位置だ。青い目を光らせ、じっとにらんでいる。
 俺を。
 ちょっと動くと、針みたいな視線が追いかけてくる。

「お前、ほんとに猫に嫌われてるな」
「言うな。それほど嫌われてもいないと思うんだ!」

 子猫の時分に、バスケットに入れて。はるばるエドワーズ古書店からこの家にお連れしたのは、他ならぬこの俺なんだ。留守番してる時は、飯もやってるし。トイレも掃除してるし!
 何よりそのキャットタワーは誰が贈ったものだとお思いか。

「なー。オーレさんや?」

 精一杯、清らかな笑顔を浮かべて手を出す。電光石火、べしっとひっぱたかれた。見事な手さばきだ。白い残像しか見えなかった。
 一拍置いて、手の甲にちっちゃな引っかき傷が浮かぶ。

「………いたひ」
「当たり前だ。バカ」
「バカってゆーな」

 でも、嬉しい。俺を見てくれる。ちゃんと会話してくれる。何より部屋に来ても追い出さない。
 座って、一緒に居てくれる。

「お前、ヤニくさいんだよ」
「歯磨きしたし、消臭剤だってちゃんと吹いてるぞ!」
「動物にごまかしなんか効かねーよ」
「厳しいな……」

 オーレはもわもわに膨らんで俺をにらんでる。ほっそりした体が1.5倍になってる。長い尻尾は鞭のようにしなり、ひゅんひゅんと空を切り――さっきからずーっと俺を叩いてる。ぴしり、ぱしりと、容赦無く。
 所詮は猫の尻尾、痛くも痒くもないけれど。

「どーして俺にだけ攻撃的なのかな、このお姫さまは」
「にーう」
「目つき悪ぃよ、お前」
「そう言うこと言うからだろう」
「……あ」

 口は災いのもと。
 しばし沈黙を置いてから、それとなく口にしてみる。今日、二人きりになったら言おうとしていたことを。

「その……そろそろ切れそうなんだ、アレ」
「ああ」

 アレと言うのはデカフェのコーヒー豆のことだ。煮詰まるようなコーヒーをがぶ飲みし、カフェインの過剰摂取を続けるのは体に良くない、と、二ヶ月前からオティアが差し入れしてくれている。
 一週間ばかり前に、初めてその事実を知らされた時は、顎がかっくん、と落ちたね。
 二ヶ月も、カフェイン抜きのコーヒーを飲んでたのか! って。恐ろしいことに、ちゃんと効いてたあたりが我ながら情けない。

「カフェインがなきゃ、絶対、毎日成り立たないって思ってたんだよな。でもコーヒー飲めれば満足してるし……ってか香りだけでもかなりしゃん、とする」
「末期だな」
「はい、末期です。カフェ中です」

 絶妙のタイミングで、オーレがふんっと鼻を鳴らした。顎をくいっと上げて、鼻先で笑ったみたいに。こいつ、絶対わかってやってるな?

「あー、新しくスタバのサイズが増えたの知ってるか?」
「ああ」
「ヴェンティのさらに上、トレンタってーの。ワインボトル一本分、余裕で入るらしいぜ? あれ、いいよな! おかわりの手間が省けて」
「阿呆か。冷めるだろ」
「えー、電子レンジがあるじゃん」

 じっとーっとにらまれた。斜め上方四十五度に、上目遣いで。

「劣化が気にならないなら、インスタントでも飲んどけ」
「えー」
「お前、コーヒーの善し悪しなんかわかっちゃいないんだろ」
「そんなこと、無いと……思うなあ……………タブン」

 しとろもどろに話してる間に、ちっちゃな引っかき傷は跡形もなく消えていた。
 
   ※
 
 次の日、オティアが俺の部屋に来た。

「お、どうした?」

 つかつかと部屋に入り、テーブルの上にどんっと。1500mlサイズのコーラと見まごうような特大の、インスタントコーヒーの瓶が乗せられた。
 ラベルにはでかでかと「カフェインレス」の文字が。

 やりやがった!

「いや、確かにこれもデカフェだけど」

 オティアはかっぽん、と赤い蓋を開けると中味をさらさらとマグカップに入れた。お湯を注いで、かきまぜて、どんっと目の前に置いた。

「飲め」
「……はい」

 ずぞー、と一口。うん、味も香りも確かにコーヒー豆だよ。ちゃんとコーヒー豆から作ってるし、チコリとかタンポポに比べりゃはるかにコーヒーなんだけど。
 うえええ、と口が歪む。
 決定的な何かが欠けてるのが、ありありと分かっちまう。
 すさまじく……味気ねえ………。

 即座に俺は白旗を振った。
 がばっとテーブルに手をつき、頭を下げる。

「ごめんなさい。私が悪うございました」
「……ふん」

 かさり、と軽い音がする。顔を上げると、どでかいインスタントコーヒーの瓶の隣に、見慣れた袋が置かれていた。
 いつものデカフェだ。ちゃんと、用意しててくれたんだ!

「ありがとうっ」

 やっぱ優しいよお前。ちくしょう、可愛い奴め!

 で、その後インスタントはどうしたかっつーと……飲んでます。時間ないときに。
 真性のカフェ中は、コーヒーの匂いと味と色さえついてりゃ何でもいいんです。せっぱ詰まってる時は。
 
(hとOともう一匹/了)

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留学前夜

2011/03/21 0:09 短編十海
  • 拍手お礼用短編の再録。アメリカへの留学が決まった結城羊子さん(16)と従弟の朔也ちゃん(13)。
  • うれしい、でも寂しい。だけど一番寂しがっているのは………。
 
 1995年、6月。日本、綾河岸市。
 少女が駆けていた。こんもり繁った木々の間を、長い黒髪をなびかせて。
 身につけているのは夏用のセーラー服。白い木綿にブルーグレイのえり、スカートは同色のプリーツスカート。えりとスカートの裾にはそれぞれ白いラインが入っている。
 頬を紅潮させ、藍色のタイを揺らし、軽々と神社の石段を駆け登る。
 大鳥居の前で足を止め、きちっと本殿に向かって一礼。ついでに鳥居の柱に手をついて、くるっと一回転。サイドに流した前髪を留める紺色のバレッタが、木漏れ日を反射して光る。透明なマニキュアで手描きされた猫のニクキュウが、一瞬ぽわっと浮かんだ。
 校則で許された範囲の、ささやかなお洒落。

「ふふっ」

 結城羊子は今、めずらしくはしゃいでいた。
 スキップしそうな勢いで、社務所兼自宅までまっしぐら。勢い良く玄関を開け放ち、ぴょいっと飛び込んだ。

「ただいまーっ!」

 静寂が答える。

「……あれ?」

 家の中が静まり返っていた。珍しいこともあるものだ。いつもこの時間なら、母か伯母の桜子か、どちらか片方が……場合によっては両方が、迎えに出ているはずなのに。
 そう、玄関の戸を開けるより早く。

 首をかしげつつ居間に入って行くと、久しぶりにガラス戸が開け放たれ、ぶーんと扇風機が回っている。
 そして縁側には、父が座っていた。白衣に浅葱の袴の宮司装束で、膝の上に猫を乗せて。三匹いるうちの一匹、頭のてっぺんから丸いしっぽの先まで全身真っ黒な猫。名を『おはぎ』と言う。
 こっちを見上げて、かぱっとピンクの口を開けて一声、「んなー」っと鳴いた。同時に父が顔をあげる。

「……ただ今」
「おかえり」
「母さんと、おばさんは?」
「風見先生と芝居見に行った」

 あー、そう言えば出がけにそんな話をしてたような気がする。

 無論、この「風見先生」は剣術指南の紫狼先生ではない。お茶の先生、すなわち奥方の雪子さんだ。

「あれ、でも午後からじゃなかったっけ?」
「ついでに綾河岸グランドホテルで、懐石ランチをご一緒するそうだ」

 言われてみれば朝、何となくそんな話を聞いたような記憶がないでもない。
 そう、結城羊子は彼女としては極めて珍しいことに、今朝は上の空だったのだ。
 こうしている場合じゃない。母も伯母もいないと言うことは。

「じゃ、お昼作るから待っててね」
「うむ」

 鞄を居間の片隅に置き、ペン立てにささっていたかんざしを取ってくるっとひと巻き。髪の毛をアップに結い上げる。
 いそいそとエプロンを身につけ、台所へ。
 よく晴れた日だった。空気はじっとりと蒸し、濡れた若葉の彼方では、既に気の早い蝉がせわしなく鳴いている。

「さっぱりしたものがいいよね……」

 台所のテーブルの上に、平べったい木箱が置いてある。
 素麺だ。早くもお中元で届いたらしい。

「なーんだ、母さんたち、ちゃんと準備しててくれたんだ」

 しゃらり、と木製のビーズの触れあう音がした。
 振り向くと、従弟の朔也がのれんを潜り、入ってきた所だった。白い半袖のカッターシャツに黒のズボンの制服姿。学校から帰ってまっすぐ母屋に来たようだ。
 ちらっと素麺の箱を見て、黙って冷蔵庫を開けた。麦茶のポットの隣、黄色いキャップの冷水ポットを取り出す。でかでかと貼られたラベルには、達筆な毛筆書きで「めんつゆ」と記されていた。
 前もって、こんぶとかつお節、干し椎茸でだしを取っておいた自家製だ。

 OK、つゆの心配はない。
 後はひたすら茹でるだけ。

 寸胴鍋に大量の水を入れ、コンロにかける。湯が沸くまでの間に、朔也はとんとんとネギを刻みはじめた。
 一方で羊子はめんつゆをほんの少しボウルに注ぎ、玉子を三つ割り入れる。
 二人ともほとんどしゃべらず、さくさくと静かに手を動かした。
 きゅうりを細切りにして、ミョウガとしょうがを千切りに。ミョウガは父専用。薬味の準備が終わり、玉子が焼き上がったところで、ぐらぐらと寸胴鍋から泡が噴き上がる

 二人はどちらからともなく素麺の箱に手をのばし、ぺりぺりと袋を開けた。小分けにされた束を、一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、もう一つ。
 次々に放り込む。ほぐれたところを羊子が菜箸でざっと混ぜ、朔也はざるのを準備に取りかかった。

 素麺がくたくたになり、透明になった頃合いを見計らって火を消す。

「サクヤちゃん、お父さん呼んできて」
「わかった」

 ここからはお父さんの仕事。
 きりっとたすき掛けをした宮司が両手に鍋つみをはめ、重たい寸胴鍋をもちあげる。慎重に流しに運び、おもむろに、巨大な竹のざるにざあっとあけた。
 すかさず羊子が蛇口を捻って水を出す。
 もうもうと白い水蒸気が立ち上る。

「おつかれさまでした」
「うむ」

 おごそかに頷くと、父は再び居間に戻って行った。
 きりっと水で冷やした素麺と薬味三種、薄切りにしただし巻き玉子が三人分。つゆは醤油味、素麺の上に細切りのキュウリを散らす。フルーツの缶詰めは浮かべない方向で。
 二人で手分けしてお盆に乗せ、居間の座卓に運ぶ。縁側には既に猫三匹が待機していた。だんご尻尾の黒猫「おはぎ」、白に点茶模様の「みつまめ」、そして白に黒いぶちの「いそべ」
 猫用のお皿にドライフードを盛り、水を注ぐと、並んで食べ始めた。
 人間三名もそれぞれ卓につき、きちっと手を合わせる。

「たなつものもものきぐさも あまてらす ひのおおかみの めぐみえてこそ」
「いただきます」
「いただきます」

 三匹の猫がドライフードをカリカリかじる音。人間が静かに素麺をすする音が響く。父も、朔也も、ほとんどしゃべらない。
 言い出しにくい。でも、報告しなくちゃ。お父さんだって、本当は私が帰ってきた時からずっと、結果を聞きたくて仕方なかったはずなんだから。
 こくっと口の中の素麺を飲み込む。
 腹をくくれ、羊子!

「あのね……」

 ハシが止まる。父も。朔也も、二人そろって。

「留学、決まった。九月からアメリカに行く」

 朔也が小さくうなずく。

「そっか。おめでと」
「うん、ありがと……」
「アメリカのどこだっけ?」
「サンフランシスコ」
「とおいね」
「うん。飛行機で11時間かかる」

 何もかも知っていたかのような口ぶりだった。
 多分、この子は気付いていたはずだ。自分が神社の境内に入ったその瞬間から、胸がふくらみぱちんと弾けそうなほどの喜びに。
 小さい頃からそうだった。まるで見えない糸電話で繋がっているように、強い感情の動きをお互いに感じることができた。
 片方が泣けばもう片方も泣く。一人が笑えば、もう一人も笑う。
 だからこそ、朔也がいじめられた時は超特急ですっ飛んでいって、いじめっ子を打ちのめすことができたのだ。主に腕力ではなく、言葉と意志の力で。

 今、サクヤはほとんど笑わないし、必要なこと以外は話さない。でも伝わってくる。
 つるつると滑る狭い螺旋階段を登っている途中で、不意に手すりを失ったような不安が……。

 だが表面上は静かに食事が進む。黙々と素麺をすする音だけが聞こえる。

 父はひと言も喋らない。

「……ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」

 食後のお茶をすすっていると、急に父がすっくと立ち上った。ちょうど膝に乗ろうとしていたおはぎが支えを失い、不満げな声を挙げる。

「父さん、ちょっとでてくる」
「はい」
 
 境内の見回りかな? そろそろ参拝客が増える頃だし。
 
  ※  
 
 朔也と二人、昼食の後片づけにとりかかる。お皿を洗っている間に、じりじりとした不安は冷たいあきらめと混じりあい、絡み合って意識の底に沈んだ。
 きゅっと蛇口を閉める。

「一年間。一年間だけだから」
「大丈夫だよ」
「サクヤちゃん……」
「大丈夫」
「……」

(行っちゃいやだ、なんて言えない。言っちゃいけない)
(よーこちゃん、あんなに喜んでいたんだから。大丈夫って言わなきゃ。俺がしょげてたら、よーこちゃんが心配する。何もかも放り出して、飛んで来てしまう)

 羊子はぎゅっと従弟を抱きしめ、頭を撫でた。

「大丈夫だって、言ってるのに」
「……うん」

 静かに離れる。

 ごめんね。
 行かないで。

 舌先まで浮かんだ言葉を、咽の奥に押し込めたまま。

「何て学校?」
「聖アーシェラ高校」
「女子高?」
「ずーっと昔はそうだったみたい」
「ふーん」

 片づけを終え、いつものように『ぽち』におやつをあげに行こうと冷蔵庫を開けると……

「あれ?」

 置いてあるはずのおやつ用に切ったリンゴが、ない。
 お母さんたち忘れてっちゃったのかな。珍しい。
 仕方がないので、もう一個切った。皮はむかない。洗えば十分。

「行こうか」
「うん」

 こんもり繁る鎮守の森。本殿からさらに奥へと分け入ると、フェンスで囲まれた運動場と、ご神獣の厩舎がある。
 結城神社は鹿島神宮の系列だ。従ってここに居るのは神馬ではなく、神鹿。
 何故か代々『ぽち』と名付けられた鹿の世話は、現在は朔也と羊子に任されていた。
 しかし、この日は先客が居た。

(あ)
(あ)

 人の気配を感じて立ち止まる。宮司自らがしゃがみこみ、ぽちにリンゴを与えていた。

「ぽち……羊子がアメリカに留学するんだ。一年もいなくなっちゃうんだよ。寂しくなるなあ」

 ぽちは尻尾をぴーんと立て、さくさくとリンゴを食べている。好物なのだ。
 つややかな首筋を撫でながら、父は深い、深いため息をついた。

「なあ、ぽち。父さん心配なんだよ。あの子が、万が一、金髪で青い瞳の彼氏を連れて帰ってきたらどうしようって」

 その瞬間、朔也と羊子は全く同じことを考えていた。

(ないない)
(ないない)

 とつとつと語る主の言葉を――込められた心情を察したのだろうか。ぽちは、すりっと父の手に顔をすり寄せた。

「いい子だな、ぽち」

 父は柔らかな黒い袋に覆われた角の付け根に手を伸ばし、こりこりとかいてやっている。
 ぽちは気持ちよさそうに目を細め、後脚をぱたぱたと動かした。

(お父さん……)
(おじさん……)

 サクヤはあえて見ないふり。羊子もあえて聞こえないふり
 二人は足音をしのばせてその場を立ち去り、家に引き返したのだった。

「じゃ、俺、帰るから」
「うん、またね」
「うん」

 朔也は居間に置いてあった鞄を持って、自分の家へ。一人残された羊子は余ったリンゴを冷蔵庫にしまい、自分の部屋に引き上げた。

「はぁ……」

 着替える気にもなれず、タイだけ外してころんとベッドにひっくり返る。
 他の部屋と同じく畳敷きの和室。だけど中学に上がった年に無理を言って、ベッドを入れたのだ。
 鞄から留学のパンフレットを取り出し、うつぶせになって目を通す。九月から自分の通う学校の校舎と校庭、そして学生寮の写真……まだ実感がわかない。夢を見ているようだ。

「にゃー」
「おはぎ……みつまめ、いそべ」

 猫が三匹、すりよってきた。座ると、我先に膝に乗って来る。

「重いよ、おはぎさん」
「みー」

 父に比べてずっと小さな羊子の膝は、一匹で満員だ。出遅れたみつまめといそべはパンフレットのにおいを嗅ぎ、ぐしぐしと顔をこすりつけている。
 しっとりした毛並みをなでながら、話しかけた。

「一年だけだから……」
「にう」
「この家は好きよ。神社のお勤めも。でもね、ここに居たら、私は結城神社のお嬢さんのままなの。生まれた時からずっとそうだった」
「み」
「神社から切り離された所で、ありのままの自分を試してみたいんだ。一年だけ。一年間だけでいいから」
「にゃー」
「んにゃっ」
「みーう」
「……ありがとう」

 しっぽをぴーんと立てて震わせて、口をかぱっと開けて鳴く猫たちに囲まれていると……揺らぎかけた決心が、再びしっかりと地面に根を張り、ぴん、と伸びてゆくような心地がした。
 黒と白茶と白黒。毛質も色も異なる猫たちの顎の下を。耳の付け根を。尻尾の根元。それぞれの一番のお気に入りの場所を、かわるがわる撫でた。

「サクヤちゃんと、お父さんをお願いね」
「みぃ」


(留学前夜/了)

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執事と眼鏡と愛妻と

2011/03/21 0:10 短編十海
 
 6月のある土曜日。
 
 夕食を終えてから、ローゼンベルク家の執事にして優秀なる秘書、アレックス・J・オーウェンは自宅でくつろいでいた。
 今ごろは主であるレオンハルト・ローゼンベルクも家族に囲まれ、晩餐を終えている頃合いだろう。
 彼の結婚以来、アレックスの務めは主に仕事上の業務に移行していた。しかし気持ちの上では以前と変わることなく仕えていた。
 主一家は6階、自分たちは5階。階層の違いこそあるものの、同じマンションに住んでいて何かあったらすぐに駆けつける心構えで備えている。
 強いて挙げるとしたら、アレックス自身も家庭を持ち、家族との時間をゆっくりと過ごす余裕が出てきたのが一番の変化であった。

 そう、家族だ。

 居間のソファに腰を降ろし、新聞を広げる。ところが困ったことにどうにもこう、文字に集中できない。
 最近の印刷は質が落ちてきたのだろうか? 何度見直しても活字がにじんでいるように見える。眉をしかめ、じっと紙面に焦点を合わせる……読みづらいこと、この上ない。
 じっとにらんでいるうちに目が乾いてきた。眼球の奥が強ばり、内側から外側に向けて圧迫される。痛みまでは行かないものの、むずむずする。重苦しい。

 一旦目をそらし、眉の間を軽く抑えた。
 どうやら、居間の照明もチラついているようだ。まだまだ十分な明るさがあるように見えるが、近いうちに取り換えた方が良さそうだ。
 と、その時。
 ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
 四才になる息子がやってきて、ソファによじ登る。隣に腰かけるときちっと背筋を伸ばし、まじめくさった顔でおもむろに絵本を開いた。
 どうやら、自分のマネをしているようだ。

(おや)

 可愛いな。
 ほほ笑みつつ、紙面にそれとなく視線を戻す。
 そのまましばらく新聞を読み続け、一区切りついた所で何気なくディーンの様子を横目でうかがってみて……

(なっ!)

 アレックスはがく然とした。
 ディーンが絵本を顔から離して読んでいたのだ! 首をくいっと後ろに反らし、眉間に皴をよせつつ目を細めて。

(何と言うことだ。私は、あんな風にして新聞を読んでいたのか……)

 文字が読みづらいのは、印刷のにじみでも。電球の劣化のせいでもなかった。
 まだまだ若いつもりでいても、四十三歳。老眼の兆しは否めない。
 ため息をつくとアレックスは新聞を伏せた。

「ソフィア」
「どうしたの、アレックス?」
「どうも最近、細かい文字が見づらくてね。そろそろ私も、老眼鏡を作った方がいいのだろうか?」

 この瞬間、有能執事は(実に珍しいことに)己の行動を悔やんだ。
 老眼鏡(senior glass)。その単語を耳にするや否や、妻が目を輝かせ、ず、ず、ずいっとにじり寄ってきたからだ。

「そうね! あなたは特にお仕事で目を酷使するし」

 胸の前できゅっと両手を組み、まるで乙女のようにきらきらと。星のように(しかも一等星)瞳を輝かせている。
 困ったことに、その姿はあまりにも愛らしく、魅力的で……
 逆らえなかった。

「そろそろ『手元用の眼鏡』があっても良いかもしれないわね!」

 そうだ。何もいきなり『老眼鏡』が必要なのではない。自分に必要なのは、あくまで『手元用眼鏡』なのだ。細かい作業をしたり、小さな活字を読むための。そう考えるとほんの少し、気が楽になった。

「どんなフレームがいいだろうか……」
「そうね、そうね、明日はお休みだし、早速眼鏡屋さんに行きましょう?」

 ああ、参ったな。まさかソフィアがこんなに喜ぶとは予想外だ。まるでデートに誘う時のような表情をしている。

「……そうだね、そうしようか」
 
    ※ 
 
 翌日。朝食の席でソフィアはもう、そわそわしていた。
 空を飛ぶような足取りで、バレリーナのようにくるくると掃除、洗濯をすませ、店の開く時間になると、いそいそと外出の仕度を始めた。
 やれやれ。ランチのついでに、と思っていたのだが。これはもう、引き伸ばしている余地はなさそうだ。

「そろそろ、出かけようか」
「はいっ!」

 上着を手にプリマドンナが飛んで来る。少々困ったような笑みをにじませつつ、有能執事は素直に袖を通した。
 修理や調整で通うことを考えると、やはり職場にも家にも近い店がいいだろう。
 考えていると、ソフィアがにっこりと一枚のチラシを広げた。
 まさに、自分が考慮していた条件の店だった。下調べしておいたらしい。

「わかったよ、そこに行ってみようか」

 訪れた眼鏡店で、アレックスは緊張しながら店員に告げた。
 細かい文字が読みづらいので、手元を見る眼鏡が欲しいと。
 店員は適度に控えめな笑みを浮かべ、「かしこまりました」と一言。

「今まで眼鏡をお使いになったことは?」
「いや、これが初めてです」
「では、まず視力の測定を行いますので、こちらへどうぞ」

 検査は20分ほどで終った。
 コイン式の双眼鏡のような装置をのぞき、縦横に交錯するのラインのどちらが濃いか尋ねられる。横だ、と答えると

「では縦のラインが濃く見えたらお知らせください」

 縦が? 濃く? まさか、そんな事があるだろうか。
 かしゃり、かしゃり、と機械の中に仕込まれたレンズが切り替わって行く。次第に縦横のラインの濃淡が変化し、ついには同じになる。

(おお?)

 また、かしゃりとレンズが切り替わる音がした。縦がくっきり見えた。次の瞬間。

「はい、いかがですか?」
「……縦が濃く見えます」

 測定の結果は、乱視が若干入っているとのこと。
 さらに細かな調整の後、焦点を手元に合わせるためのレンズが処方された。

「では、フレームをお選びください」

 紳士ものの眼鏡フレームは、アクセサリーさながらの婦人用に比べるとぐっと数が少ない。色も地味だ。それでも、けっこうな種類があった。

「……これはどうかな」

 手近にあった銀縁のウェリントン型のフレームを手にとる。
 ふむ、値段も予算内だし、適度に丈夫そうだ。とりあえず鼻に乗せてみた。

「いいえ。それは、あなたにはちょっときつ過ぎるわ」

 きりっと表情を引き締めると、ソフィアはずらりと並んだフレームに視線を走らせた。まるで獲物を狙う狩人のように。

「これと、これと、それと……これ。あ、そこの茶色いのも素敵ね!」

 鏡を見ている間に、また新しいのが運ばれてくる。
 次々と眼鏡を試着する夫の横顔を、ソフィアはうっとり見つめていた。飽きることなく、熱心に。

「知らなかったな、君がそんなに眼鏡が好きだったとは」

 わずかに苦笑しながら、アレックスは本日十七個目のフレームを顔に乗せた。

「あら……それは違うわ、アレックス。眼鏡じゃなくて『あなた』が好きなのよ」

 その一言で有能執事は腹をくくった。
 正直言ってこの時点では、100%眼鏡を買うつもりはなかった。これは下見、本番にそなえての予行演習。少なくとも50%はそんな認識でいた。
 まだ自分は若い。
 老眼鏡(シニア・グラス)の世話になるような年齢ではない、と。

 しかし。今、目の前で頬を桜色に染め、活き活きつやつやとまるで少女のように自分を見つめる妻の姿を見てしまうと……。
 眼鏡一つで、ここまで妻を喜ばせることができるのか、と思うと。

 十八個めのフレームは、柔らかなラインのスクエア型。横に長く、視線を動かしてもレンズからはみ出さない。一方でわずかに前方に顔を傾ければ、視線は自ずとレンズの有効範囲から外れる。これなら遠くも見えるだろう。
 何より軽く、しっくり顔に馴染む感じが心地よい。

「これは、どうだろう、ソフィア」

 ソフィアはまじまじと鹿の子色の瞳で夫を見つめ、ぽんっと両手を打ち鳴らした。

「それだわ、アレックス!」

 桜色の唇から、軽やかなさえずりがあふれ出す。

「上のラインがね、あなたの眉に沿っていてとも自然なカーブを描いているの! 色もいいわ。顔色に馴染んでいる。優しい色合いね」
「そ……そうかな」
「ええ、そうですとも!」

 OK。ソフィアが気に入ったのはよくわかった。
 だが念のため、もう一人。最も長い時間を一緒に過ごす人間の意見を聞いておこうではないか。

「ディーン。どう思う?」
 
 息子はぱちぱちとまばたきして、腕組みして、しばらく考え込んでいた。

「かっこいい」
「そうか」
「パパは、それが一番かっこいい」

 うなずくと、アレックスは注意深く顔から眼鏡を外し、傍らに控えていた店員の掲げるトレイに載せた。

「では、フレームはこれでお願いします」
「かしこまりました」
「加工にはどれほど時間がかかりますか?」
「そうですね、レンズに在庫がありますので……40分ほどでお渡しできるかと」
「そうですか、ありがとう」

 眼鏡ができ上がるまで40分。さて、その間どうしようか?
 そうだ、ここから歩いて行ける距離にYerba Buena Gardensがある。

「Zeumの回転木馬に乗りに行こうか」

 たちまち、ディーンとソフィアは顔を輝かせた。

「ええ!」
 
    ※

 幸い、去年のクリスマスに、レオン様からいただいた年間パスポートがある。白いヒゲの子ヤギ、ほぼ実物の馬と同じ大きさの馬、小さな子ども用の馬、そして馬車、キリン、鹿。
 乗り換え取り換え飽きることなく乗り回し、降りた頃にはさすがに三人とも少し足下がふらついていた。
 アイスクリームスタンドで小休止してから、再び眼鏡屋に戻ると……

「お待ちしておりました、オーウェン様」

 厳かにベルベット張りのトレイに載せられて、仕上がったばかりの老眼鏡が出てきた。おそるおそる両手でつるを持ち、左右に開いて、顔に乗せる。
 ふむ……
 段差を踏み抜いた時にも似た、軽い眩暈を感じた。
 深く呼吸し、目を閉じて、もう一度開く。
 さして、変化はないようだが……

「いかがでしょう?」

 さし出された新聞を目にした瞬間、アレックスは思わず

「おお」
 
 と感嘆の声を漏らしていた。
 何と言うことだ。文字がにじみもせず、ぼやけもせず、はっきりと読める。眉根に皴も寄せず、目を細めることなく、楽々と読み進める。

「下を向いてみて、ずれたり下がったりする感じはありませんか?」
「いえ、大丈夫です」
 
 眼鏡を外す。遠くは見えるが近くは雨粒が貼り付いたようににじんでいる。
 ああ。
 まちがいない。
 老眼だ。

 小さくため息をつき、手の中の眼鏡に視線を落とす。

「……これに合うストラップはありますか?」
「はい、こちらにございます」

 今更ながら思い出す。そういえば父親も、自分と同じぐらいの年齢で老眼鏡をかけはじめていたな、と。

(老眼、か……)

 ストラップを選び、何気なく顔をあげると……
 そこにはやはり、頬をつやつやさせてうっとりと見守る妻の姿があった。
 この顔が見られるのなら、老眼も悪くないな、と思った。

  ※

 その後、レストランで少し遅めのランチをとることにした。
 メニューを読む時、試しに老眼鏡をかけてみる。

(おお)

 これは、読みやすい。目をしかめることなく文字が読めると言うのは、実に快適だ。
 そんな夫の姿を見て、ソフィアがおもむろに携帯を開いた。

「あなた、携帯の待受けにしたいから写真とらせて」
「わかった」

 老眼鏡を外そうとすると、そ、と手首を抑えられてしまった。

「いえ、眼鏡は外さないで。むしろかけて!」

 やれやれ。そんな顔して頼まれたら、Noと言える訳がない。

「……わかったよ」
「ありがとう!」

 やや丸みを帯びたスクエア型、縁取りはやわらかな紅茶色。
 まだ馴染みの薄い老眼鏡をかけ、アレックスはほほ笑むのだった。
 ソフィアのために。
 全ては愛しい妻のために。
 
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 illustrated by Kasuri
 

(執事と眼鏡と愛妻と/了)

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うたた寝-オティアの場合

2011/03/21 0:10 短編十海
 
 オティアは困惑していた。ひざの上の猫を抱えて、ほんの少しばかり。

 向かいの席では、ヒウェルが一心不乱にノートパソコンを打っている。
 夕食の時間より少し早めにふらりとやってきて

「悪ぃ、ちょっと時間詰まってるんだ、場所貸してくれ」

 とか言ってカタカタやり出して。
 食後の紅茶を飲んでからまたこっちに戻り、そのまま続きを始めた。
 本宅の居間には珍しく早く帰ったレオンがいたから、それなりに気を使ったのだろうか? だったらおとなしく自分の部屋で仕事をすればいいだろうに。

 まあいい。
 それ自体は別に困ったことじゃない。ただ黙って向きあってるより気が紛れるし、こっちもこっちで好きなことができる。
 これまでもこいつが仕事をしてるのを目にしたことはあった。だが、改めてこうして正面から見ると………

(『あれ』はまだ、本気じゃなかったんだな)
 
 目が半分、虚ろになっている。画面全体を見ているからだろう。単に自分が今打ってる文字のみならず、その前の部分とのつながりをも確かめているのだ。何について書いているかはわからない。だが真剣なのは確かだ。
 普段は居てもせいぜい1時間かそこらだ。それなのに今日は仕事を再開してから3時間、一言もしゃべらず打ち続けている。まばたきはおろか、呼吸も忘れてるんじゃないか?
 と、思ったら今度はやにわに目を閉じて考え込み、微動だにしなくなった。
 見ていても一向に動かないので、手元の本に視線を戻す。そのうちカタカタとキーをタイプする音が再開し、ああまた書いてるんだな、と気付く。

 単調な音を聞いているうちに、眠くなってきた。
 時計を確認する。
 もう、薬を飲む時間だった。
 台所に行き、ケースから今夜の分を取り出して水で流し込む。だいたい20分もすれば眠くなる。
 居間からはカタカタと言う音がまだ聞こえてくる……
 ヒウェルの意識はまだあっち側にトリップしたままらしい。

 しかたがないのでソファに戻り、ほおづえをついて眺めた。
 
「みゃうぅん」

 ひょい、とオーレが飛び乗ってきて足の間で丸くなる。
 あったかいすべすべした毛並みを撫でているうちに、とろとろと眠気が押し寄せてきた……
 
    ※
 
「ふぅ……」

 最後の1センテンスを打ち込むと、ヒウェルは大きく息を吐き、背筋をそらせた。
 ぼき、みし、ぺき。
 背骨が鳴る。
 ゆっくりを首を左右に傾ける。
 眼鏡を外してまぶたの上から目を押さえ、軽くマッサージしてから再びをかけ直す。

 と。

(お?)

 オティアがゆれていた。
 ソファにすわったままひじ掛けにほおづえをつき、こっくりこっくりと舟を漕いでいる。
 急にかくっと前にのめり、はたと目を開けた……半分だけ。

「オティア」
「………あ?」

 紫の瞳はとろーんと霞み、微妙に焦点が合っていない。
 極めてレアな状況だ! こいつがこんな表情してるなんて……しかも、俺の目の前で!

「眠い?」
「んー」

 ほわほわと雲の中を泳ぐような動きで口を開いた。

「くすり、のんだ……ねる……」

 しまった。もうそんな時間か!
 時計を見ると、23時30分……ほんの30分のつもりが、3時間と30分経っていた。
 
(やばい、またタイムワープしちまった!)

 いつもこうなのだ。原稿が佳境に入ると時間を飛び越えてしまう。
 大事なこと、到底忘れるはずがないと信じているはずのことがすっぽり脳みそから抜け落ち、目の前の画面と指と頭以外の物体が消失する。
 脳内に浮かぶ言葉を、指を通じてデジタルな紙面に打ち込む作業に没頭してしまう。

「そっか……おやすみ」
 
 オティアはこてん、とソファに横になり、アンモナイトみたいにもそもそと体を丸めた。すかさず腕の中に白い毛皮がしゅるん、と流れ込む。一人と一匹はまるで一匹の生き物みたいに寄り添って、まんまるになって目を閉じた。
 
(くそっ、可愛すぎるぜっ)

 感動にうちふるえて……いる場合じゃない。

「おいおい、こんなとこで寝るなよお前。ちゃんとベッドに行かないとっ」
「んー……」

 聞いちゃいねえ! しかも、もふもふとオーレの毛皮に顔をうずめちまった。寒いのか、鼻先。

「しょうがねぇなあ……」

 うたた寝の責任は自分にある。かくなる上は、ちゃんとベッドまでお連れするしかあるまい。そーっと手を伸ばして抱き上げようとした。が。
 指先が触れるより早く、にゅっとオーレがかま首を持ち上げ、カッと牙を剥いた。耳が完全に後ろに寝ている。ものすごく目つきが悪い。
 声は出ていない。だが、シャーっと咽の奥から威嚇の音が吹きつけられる。

「わかった、わかった……」

 手のひらを立てて『降参』を示しっつ後ずさり。
 …………まだこっち、にらんでるし。背中の毛、逆立ってるし。
 美人が台無しだよ、オーレさんやい。

(しかたない)

 足音をしのばせて寝室へ。
 本人をお連れするのが無理ならば、毛布を持ってくるしかあるまい。ついでに枕元に置かれた青い時計に手を伸ばす。
 忘れもしない去年の9月の誕生日、シスコ中探し回った揚げ句にようやくフリーマーケットで見つけた青い目覚まし時計。

(ずっと使ってくれてるんだな)

 青い時計をテーブルに載せ、そっとオティアに毛布をかける。
 うっすら目をあけてこっちを見ている。と思ったらもそもそと口を動かし、小さな小さな声でぽそり、とささやいてきた。ほとんど声になっていなかったけれど、幸い自分は唇が読めるし、耳もいい。

『Good night(おやすみ)』

「………ああ」

 とろとろと微睡む姿を見守った。もう、一晩中このまま過ごしたいとさえ思ったが、自分がここにいる限りこいつは熟睡できないだろう。
 静かに静かにノートパソコンを閉じて小脇にかかえ、明かりを落とす。
 静かに静かにドアを開け、静かに静かに廊下を歩き、本宅に戻る。

 と。

「よぉ、ヒウェル」

 満面の笑みを浮かべた赤毛さんが腕組みして、どーんと仁王立ちして待っていた。
 身振りでくいっとサイドテーブルを示す。

「あ、はい、置けってことですね」

 ノートパソコンを置くやいなや、首筋にぶっとい腕が巻き付いてきた。

「今何時だと思ってる」
「23時35分」
「その時間まで、あの子の部屋に居座るとはどーゆー了見だ。あぁん?」

 うーわー。笑顔だけど目が笑ってない。声もいつもより低くてドスが利いている。
 まさしく地獄の番犬、なう。
 
「そ、それは、その……」

 助けを求めてちらりと視線をさまよわせる。
 牙を剥いた地獄の番犬の向こう側で、レオンが穏やかにほほ笑んでいた。
 ぴしぃっと心臓が凍りつく。
 一方で思考は分泌するアドレナリンによって加速され、急速にカチカチと音を立てて回り出す。

 オティアが心配でディフがここに居る、と言うことは。必然的に彼が寝室に引き上げる時間が遅くなると言うことで。
 イコール、夫婦二人っきりの時間も遅くなる。
 結果。

 レオンもご機嫌斜め。
 ディフの手綱を押さえるつもりは、さらさらない、と。

 瞬時に腹をくくり、ヒウエルは正直にありのままを自白した。

「仕事に夢中になってたら、時間の経過を忘れてまして」
「ほう」
「オティアが薬飲んだの、気付かなかっ……」

 ヘッドロックが速やかにオクトパスホールドに組み直され、ぎちぎちぎちっと締め上げられる。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ」

 ぱぱににらまれ、ままに技をかけられて、サイレンモードで平謝り。
 全身の骨と言う骨をぎちぎち言わせながらも、ヒウェルは秘かに幸せだった。

(丸まってうとうとするオティアが可愛かった)
(俺におやすみって言ってくれた!)
 
 110402_2152~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 
 笑顔こそ引きつっていたものの、ひたひたと胸の内を満たす幸せに打ち震えていたのだった。

(うたた寝-オティアの場合/了)

次へ→執事と眼鏡と愛妻と

お父さんの眼鏡

2011/06/13 2:34 短編十海
 
  • 拍手お礼用短編の再録。執事と眼鏡と愛妻とのサイドエピソード。
  • 2007年サンフランシスコ。ディーンくん(4才)はどうやらお父さんの新しい眼鏡が気になって仕方がないようです。
 
 ディーンはパパが大好きだ。
 パパは最高にかっこよくて、いつだってパーフェクトなのだから。
 
 土曜日の夜。
 夕ごはんの後、パパはいつものようにソファに座って新聞を読みはじめた。すかさずディーンも絵本を持ってきて、となりに座る。パパはちらっとディーンを見て、静かに笑って。また新聞を読みはじめた。
 ディーンもマネして絵本をひらく。
 目を細め、まゆの間にしわをよせてページをにらむ。しぱしぱとまばたきをしてから、背中をんーっとそらして絵本を顔から遠ざける。
 クリスマスを過ぎたころから、パパの新聞の読み方がちょっと変わった。
 だからディーンも同じ読み方をする。
 何てったってパパは最高にかっこよくて、いつだってパーフェクトなのだから。

「ディーン……」
「なに、パパ?」
「私は、いつもそんな風に新聞を読んでいるのかい?」
「うん!」
 
   ※

 日曜日。
 パパとママといっしょに朝からお出かけ。行き先は眼鏡屋さん。
 ママはとっても楽しそう。ずらりとならんだ棚の間をくるりくるりと飛び回り、パパの元へと眼鏡を運ぶ。
 まるでミツバチみたいに。バレリーナみたいに。
 パパはちょっぴりこまったような顔をして、次々と眼鏡を顔に乗せていた。

「これは、どうだろう、ソフィア」
「それだわ、アレックス!」

 眼鏡をかけたパパを見て、ママは顔中で笑った。ぱあっとやわらかな、オレンジ色の光があふれるみたいなすてきな笑顔。すごく、すごくうれしそうだ。

「上のラインがね、あなたの眉に沿っていてとも自然なカーブを描いているの! 色もいいわ。顔色に馴染んでいる。優しい色合いね」
「そ……そうかな」
「ええ、そうですとも!」

 ママがうれしいと、ディーンもうれしくなる。

「ディーン。どう思う?」
 
 ディーンはぱちぱちとまばたきして、うで組みして考えた。
 何て答えよう。ママと同じことを言ったんじゃ、つまらない。
 にあってる? サイコーにカワイイ? うーん、ちょっとちがうな。パパなら、そう、やっぱり……

「かっこいい」

 これだ。

「そうか」
「パパは、それが一番かっこいい」
 
   ※
 
 回転木馬でぐるぐる回って、アイスクリームを食べているあいだにパパの眼鏡はできあがっていた。
 すぐにかけるのかな? ちょっぴりどきどきしながら見守ったけれど、新しい眼鏡はケースにしまわれたままだった。

 でも、その後、ランチを食べに入ったレストランでメニューを選ぶ時、パパは眼鏡をかけた。
 ママは目をきらきらさせて、携帯で写真をとった。何枚も、何枚も。

(そうか、あれは字を読むときに使う眼鏡なんだ)

 家に帰って、夕食の後。パパはいつものようにソファで新聞を読み始めた。すかさず絵本を持って隣に座る。

(あ)

 パパはもう、目を細めてもいなければ、首を後ろにそらしてもいない。新聞を顔から遠ざけてもいなかった。
 どうやら、新しい眼鏡には、すっごいパワーがあるらしい。
 新聞を読み終わると、パパはテーブルの上に眼鏡を置いたまま行ってしまった。

 ディーンにとって、眼鏡自体はそれほど珍しいものじゃない。
 おじいちゃんも、友達のヒウェルも、ベビーシッターのサリーもかけている。だけど、パパがかけているとなると話は別だ。とても、気になる。
 どんな風に、見えるんだろう?
 試してみたい。
 ちょっとだけ。ちょっとだけなら。

 そーっと手にとる。
 軽い!
 パパのマネをして、ツルを左右に開いて鼻に乗せる。

「わっ」

 がいんっと頭をどこかにぶつけたような気がした。痛くないけど、くらくらする。天井がゆがんでる。壁がぐにゃぐにゃ曲がっている。

「ふええ……」

 大変だ。早く、どこかにつかまらなきゃ!
 両手をじたばたさせていると。

「ディーン!」

 あ、ママの声だ。
 ひょい、とほっそりした手がのびてきて、眼鏡を外した。

「ふわわわわぁ……」

 まだ世界がぐるぐるまわっている。回転木馬に乗ったときよりすごい。

「ディーン?」

 ママがにらんでいた。

「パパの眼鏡を勝手にいじっちゃだめよ? 大切な物なんだから」
「はぁい……」

 怒られた。

「ごめんなさい」
 
   ※
 
 ディーンは一つ学んだ。眼鏡をかけると、すごいことが起きる。
 いつも自分が見てるのとは、ぜんぜん違う景色が見えるのだ、と。
 一度知ってしまうと、気になってくる。

(ヒウェルの眼鏡は、どうなっているんだろう?)

 試すチャンスは意外に早く訪れた。
 幼稚園から帰ってきて、家のある5階に上がろうとママと一緒にエレベーターに乗ったら、ドアの閉まる直前に急ぎ足で歩いてくる、ひょろ長い姿が見えた。
 ママは『Open』のボタンを押して、ヒウェルがやって来るのを待った。

「さんきゅ、ソフィア。助かった!」
「どういたしまして。三階でいいの?」
「あ、いや、六階で」
「OK。それじゃ、ついでに家にも寄っていってくれない? クロワッサンを焼いたの」
「おお! サンキュー、それすっごい嬉しい!」
「チョコレートワッサンもあるよ!」
「やったね!」

 のびあがってぺしっとハイタッチ。ヒウェルは大人だけど、ディーンに負けないくらい、チョコレートが大好きなのだ。
 
 エレベーターが動いてる間、ヒウェルの頭をじっと見上げる。
 ヒウェルはずっと髪の毛が長かった。でもこの間、急に短くなっててびっくりした。その前は、くりんくりん。いきなりくりんくりん。Mr.ランドールみたいにくりんくりん。

「……どーした、ディーン」

 ヒウェルはくしゃっと自分の後ろ頭をなで上げた。

「やっぱまだ慣れないか、この髪形」
「うん」
「しゃあないさ、俺もまだ慣れてないくらいだからな。妙にスースーするっつーか、落ち着かないっつーか」
「じゃあ、どうしてみじかくしたの?」

 いきなり黙ってしまった。

「………いろいろあったんだよ」

 エレベーターを降りた後で、ヒウェルがぽそりと言った。

「いろいろ……ね」

 廊下を歩く間もちょっと元気がなかった。何だか大変らしい。

「ちょっと待っててね、今、袋に入れるから」
「OKOK。ついでにディフんとこにも配達するよ」
「ありがとう」

 家に戻ると、ママはすぐ台所に行ってしまった。今がチャンスだ。

「あのね、あのね、ヒウェル」
「ん、どーした、ディーン」
「眼鏡……ちょっとだけ、かして」
「へ? 眼鏡?」
「うん」
「わーったよ」

 にまっと笑うとヒウェルは眼鏡を外して………

「そら、気を付けてな」

 膝を折って屈みこみ、ひょい、とディーンの顔に乗せてくれた。ご丁寧にツルがちゃんと耳にかかるようにして。

 その瞬間、世界が歪み、ディーンは再びノックアウトされた。
 パパの眼鏡の時より、ずっと、ずっと強い! 目に見えるものが全部、二重にぶれてる。床も、壁も、天井も、ヒウェルの顔も。しかも、こっちに向かって押し寄せてくる!

「ふえ、ふえふええ……」

 にやにや笑いながらヒウェルはゆらゆらゆれるちっちゃな体を抱き留め、眼鏡を外してやった。

「ちょっとばかり刺激的だったろ?」

 ぱちっと片目をつぶってウィンクして、元通り眼鏡をかけた。ディーンはぺたんと床にすわりこみ、ごしごしと目をこすった。
 
   ※
 
 二度にわたり眼鏡に挑み、二度ともノックアウトされてもディーンの探求心は、いささかも衰えることはなかった。

 次の週末。

「ではサリー様、行って参ります」
「ディーンをよろしくね」
「はい。行ってらっしゃい」
「いってらっしゃーい」

 デートに出かけるパパとママを見送るなり、ディーンはくいくいっとサリーの服のスソをひっぱった。

「サリー、サリー」
「ん、どうしたの?」
「ちょっとでいいから、眼鏡、かして?」
「うん、いいよ。でもその前に」

 サリーはソファに深く腰かけ、ぱたぱたと隣をたたいた。

「ここに座って、ディーン」
「OK」
「じゃあ、目を閉じて」

 ディーンがしっかり座ったのを確認すると、サリーは自分の眼鏡を外して、ゆっくりとディーンの小さな顔にかけてやった。真ん中を鼻に乗せて、左右のツルを耳にかける。

「OK、ディーン。もう目をあけてもいいよ」

 ディーンはいきおいよく目を開けた。

 今度は大丈夫……かな?

 パパの眼鏡やヒウェルの眼鏡のように、ぐらぐらしたりしない。
 ほっそりしたフレームに縁取られ、まるで小さな窓から世界を見ているような気がした。
 おもしろくて、めずらしくて、くるくる部屋中見回していると……

(あれ?)

 何だろう、これ。
 ぐいぐいと、目玉を押されてるような感じがする。何もさわっていないのに。目に見えない指が、ぐいぐいと押してくる。
 何度まばたきしても、取れない。

「大丈夫?」
「目がいたい」
「じゃあ、そろそろ外そうね」
「うん」

 元通り眼鏡をかけるサリーの姿を、ディーンはじっと見守った。

「サリーは……それ、かけてていたくないの?」
「うん。平気だよ」

 うでぐみして考える。不思議でしょうがない。

「パパがね」
「うん」
「ずっとこーやって新聞読んでたのに」

 絵本を手にとり、ぐーっと首を後ろにそらす。

「眼鏡かけたら、そうじゃなくなったんだ。だから、きっとすっごいパワーがあるんだって」
「だから、試してみたの?」
「うん」

 パパと、ヒウェルと、サリー。三人の眼鏡を試してみたけど、全然よく見えなかった。くらくらして、ぐらぐらして、ヒリヒリした。

「どうして、みんな、平気なんだろう……」
「あのね、眼鏡はそのひとのために一個づつつくるんだよ。だからだれかの眼鏡をかけても、ディーンには使えないんだ」
「そ、そうだったのか!」
「お父さんが眼鏡をつくってもらったの、見てたんでしょう?」
「……うん」

 パパはお店の人と二人で、むずかしそうな機械をのぞきこんで話していた。背中しか見えなかったけれど、とっても真剣な声だった。

「ディーンも将来必要になるかもしれないけど、今はなくてもいいものだからね」
「わかった。もう、他の人のめがね、かけない」

 他の人の眼鏡を使っちゃいけない。
 ディーンくん(4才)は三度目にしてようやく学習した。

 しかし、四ヶ月後のハロウィンで……

「はっはっは、待ってたぞ、ディーン・パン!」
「………………ちがう」
「え?」
「メガネ、外して」
「あ、ああ、そうか。海賊が眼鏡かけてちゃおかしいものなー。なかなかチェック厳しいぜ……っておい、ディーン、何クレヨン出して、あ、あ、ああーっ!」

 ヒウェルの眼鏡が、ものの見事に被害に遭う訳なのだが……
 サリーに教えられた教訓はしっかりと活きていた。

 なるほど、確かにイタズラはした。だけど自分では、かけなかったのだから。

(お父さんの眼鏡/了)
 
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カフェモカ

2011/07/26 1:05 短編十海
 
 日曜日は、少し遅めのランチをゆっくりと食べる。それが、昨今のローゼンベルク家の習わしであった。

 朝、『ぱぱ』と『まま』はゆったりと寝室でくつろぎ、その間にオティアとシエンはさくさくと食事を済ませる。
 余裕たっぷりに起きてきたぱぱとままが、仲むつまじく朝食をとる頃合いには、双子はさっさと自分たちの部屋に引き上げ、各々の時間を過ごしていると言う寸法だ。
 昨年の十月以来、一家にのしかかっていた重苦しい雲はようやく薄れ、鉛色の雨雲のすき間から、ぱりっと鮮やかな青空が広がりつつあった。
 その事は、取りも直さず一家の父親役たるレオンの心の平穏にも繋がっていた。双子が安定すれば必然的に『まま』の心配事も減り、結果としてディフを独り占めできる時間が増えるからだ。

      ※  

 本日のランチは手作りのピザ。
 土曜日の午後、ファーマーズマーケットで仕入れてきた「ピザ・ストーン」を早速試してみたのだった。何のことはない、大きめの雑誌ほどの大きさの、四角いセラミックのプレートなのだが。
 これを敷いて焼くと、「普通のオーブンでも石釜で焼いたみたいに」パリっと仕上がると言う。同じマンションの5Fに住むオーウェン家のママにしてパン屋の看板娘、ソフィアから教わって以来、シエンとディフはこのシンプルな調理器具いたく興味をそそられていた。
 しかしながら「わざわざピザ焼くのに専用の機器を買うこともないだろう」と、実際に買うまでには至らずにいたのだが。
 ファーマーズマーケットには、ガレージショップやフリーマーケットがそのまま出張して来たような、個人の出店が多々ある。そんな出店のテーブルの上で、ティーポットとフェイスタオルの間にでんっと鎮座していたのだ。ほとんど使った痕跡のないピザストーンが、半額で。
 ディフがたくましい両腕で豪快にこねあげ、丁寧に伸ばしたピザ生地に双子が具材を載せて行く。同じく昨日、市場で仕入れてきた新鮮なトマトにバジル、チーズ、そして昨夜使った残りの冷凍のエビ。
 きゅっと丸まった白い小エビを、ぱらぱらとピザに載せていると……

「みゃーっ」

 一足飛びに飛んできた、しなやかな白い稲妻。
 青い瞳をらんらんと輝かせてオーレ参上。飼い主が素早くキャッチして肩にまきつける。襟巻きみたいにくるりっと。

「後でな」
「ふみゃぁ、ぐるるるにゃあう」
「お前の分はちゃんとあるから」
「にゅぅるるる」

『おうじさま』に言われちゃしかたない。
 オーレはぶつぶつ不平をもらしつつも、おとなしく爪を収めた。くるりとオティアの首に尻尾を巻き付け、じっと待機の構えに入る。
 そのまま黙々とバジルをちぎるオティアの姿は、台所ではかなり異彩を放っているのだが……もはや慣れっこ、誰も気にしない。少なくともこの家では。

 ピザストーンの効果は抜群。その日のピザは見事にぱりっと焼き上がった。オーレも小エビの切り身と、スープに浸したキャットフードをもらってご満悦。
 ある物を使って、手早く作ったちょっぴりジャンクな「お休みの日」の昼食。きれいさっぱり食べ終えて、さてそろそろ食後のコーヒーの準備をしようかと、レオンは腰を上げた。すると……。

「レオン、頼みがある」

 ディフがそ、と手首に触れてきた。

「何だい?」
「コーヒー、今日は濃いめに入れてくれないか? 俺の分だけじゃなくて、全員」
「かまわないよ。珍しいね?」
「うん、カフェモカにしようと思うんだ」

 カフェモカ。単純にモカの豆を使うと言う意味ではなさそうだ。この場合はおそらくコーヒーのバリエーションの一種だろう。
(珍しいこともあるものだ)
 身近にどっぷり首までカフェインに浸った中毒者がいるせいか、ディフは子どもたちに飲ませるコーヒーの濃度に関しては、殊更に気を配っていた。適度な濃さで、決して濃くなりすぎず。アレンジしてもカフェオレか、カフェラテにするぐらいだったのに。
 怪訝に思いながら、いつもより多めの豆を挽く。手回しのミルで、こりこりとリズミカルに。
 その間に、ディフと双子は冷蔵庫を開けて何やら取り出している。
 パック入りの牛乳(これはいつもの通り)、生クリームにココア、正体のわからない瓶に、小鍋まで準備している。
 おやおや、一体何が始まるのだろう? せいぜい、コーヒーに小さじに一杯か2杯、ぱらっとココアを混ぜる程度のものだと思っていたのに。

「ずいぶん材料が多いね」
「アレックスに教わったんだ。おやつの時間に作ってくれたのを飲んで、オティアが気に入った」
「なるほど、ね……」
「コーヒーだけ飲むより、体によさそうだろ?」

 確かに、胃壁が溶けそうなブラックコーヒーを流し込むのに比べれば、ずっと健康的だ。
 さすがはアレックス、有能だ。よく考えている。
 だが。

(そうか、またあの子たちのため、なのか)

 ディフが望むのなら、どんなリクエストにだって答えよう。だが、自分に向けられるべき心が双子に向けられ、その結果と言うのは正直、あまり面白くない。
 もっとも、これはレオンにしてみれば『ちょっと拗ねている』程度のものだった。以前陥った深刻な飢餓状態に比べれば、ずっと軽いし、根も浅い。
『拗ね』の『す』の字も見せず、レオンは淡々とコーヒー豆を挽き続ける。
 その間にシエンはミルクを温めて、ディフはハンドミキサーで生クリームを泡立てる。オティアは金色の缶からココアをマグに入れ、お湯を少しだけ注いでスプーンで練り始めた。

「うみゃうっ」

 ホイップクリームを見上げて、オーレは舌なめずり。しっぽをつぴーんと立てる。
 背中を丸めてジャンプしようと身構えるが、直前でひょい、とオティアに後ろから抱きかかえられた。

「こら」
「にゅー……」
「腹壊すぞ」

 人数分のマグカップに、お湯で練ったココアを入れて。上から濃いめのコーヒーを注ぐ。さらに温めたミルクとホイップクリームを加えて、仕上げにとろりとシロップを。ただし、オティアの分は無しで。

「このにおいは……ナッツかな?」
「ああ。ヘーゼルナッツのシロップだ」

 にこにこしながらレオンは手を伸ばし、シロップが満たされたガラス瓶をつるりと撫でた。
 シロップの色は、透き通った柔らかなミルクティの色……ヘーゼルブラウン。

「君の瞳の色だね」
「そうかな」
「そうだよ」

 念入りに入れたコーヒーの味は、クリームに負けないくらいにしっかりと苦く、濃厚で。
 ココアの香りと相まって、飲み物とデザートを一緒にとったような満足感がある。

「うん、悪くないね」

 うなずくレオンは至って上機嫌だった。さきほどの些細な不満は、きれいさっぱり晴れていた。

「チョコレートシロップを使うレシピもあったんだが、それだと甘すぎるからな」
「なるほどね」

 それでは『オティアが気に入る』可能性は、まずない。
 食卓に、濃密なコーヒーとチョコレートの香りが漂う。甘さと切り離されてしまえば、その香りは決して不快なものではなく。むしろ、コーヒーとは別の意味で意識をはっきりさせてくれるのだ、とオティアは学んだ。
 それにしても。

「濃いコーヒーと、チョコレート……か」
 何だか誰かを連想せずにいられない組み合わせだった。
「ヒウェルはチョコレート派かな」
「いや、それはないだろう。『コーヒーに混ぜ物? ないね。あり得ないね。邪道だ』とか言うぞ、絶対。いや……」

 ディフは軽く拳をにぎって口元にあてた。

「『ブラック飲みながら、板チョコかじった方がマシだ!』かも、な」

 レオンは改めて手元のマグをのぞき込んだ。
 ミルクにココアにホイップクリーム、仕上げのヘーゼルナッツのシロップは香りづけ程度にほんの少しだけ。

「確かにブラックコーヒーにはほど遠いね」

 きっと、力いっぱい嫌がるだろう。目に浮かぶようだ。
 目元が緩み、形のよい唇の両端がきゅうっと持ち上がる。自然と笑みが浮かんでいた。営業用のスマイルとはまるで違った、心底楽しげな……そして、どこか小悪魔めいたほほ笑みが。

「いいね、気に入った」
 
    ※

 その日の夕食。食後に出てきたコーヒーをひと目見るなり、ヒウェルは絶句した。
 マグカップの中をのぞき込み、においを嗅ぎ、しみじみと観察したところで、ようやく、声が出るようになった。

「何じゃ、こりゃあ!」
「何って、カフェモカだ」
「いや、そりゃわかるって。俺がいくらスタバにつぎ込んでると思うんだ」
 
 ヒウェルは眼鏡を外し、親指と人さし指で眉間をぐっとつまんだ。ぐりぐりと力を入れてもみほぐして後、再び眼鏡をかけ直して一言。 

「何故、それが今、ここにあるのか問いたい」
「レオンが気に入ってるんだ」
「あーそうですか、はい、そうですか」
「たまには気分を変えるのもいいだろ?」

 当然のごとくヒウェルの分もカフェモカなのだった。しかも明らかにホイップクリーム大盛り。

(いやがらせか! いやがらせだな!)

 実際のところ、少しでも胃壁にバリアーを張って、過度のカフェインの摂取を押さえようとする、双子の心遣いに他ならないのだが。

「いやならデカフェのもあるぞ。インスタントのやつが」
「いや、いや、いただきます、いただきますとも!」

 引きつり笑顔でヒウェルはマグを掲げ、満たされたふわふわのクリームをすすった。

「……あ?」
「どうした」
「いや、何でもない」

 好きなものと好きなもの組み合わせ、しかもココアもシロップも良質のものを選んでいる。不味い訳がない。しかしながら、ここで素直に美味いと言うのも何やら『負けた』気がしてむっつりとしかめっ面ですする。
 そんなヒウェルを見ながら、オティアも、シエンも、レオンもディフも、一様に思っていた。
 ああ、美味いんだな、と。
 
 110729_0014~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 
 とっくに底が割れてることなど露知らず。ヒウェルはなおも眉間に皴を寄せたまま、口の周りについた白い泡を、ぺろりとなめるのだった。

(カフェモカ/了)

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留守番サクヤちゃん

2011/11/13 0:08 短編十海
  • 拍手お礼短編の再録。1995年10月、【5-2】お前はレオン、俺はディフのちょっと後の出来事。
  • よーこちゃんがアメリカに行ってしまって一人寂しいサクヤちゃん。すっかり犬や猫としか喋らなくなってしまいました。
  • ある日、おじさんに連れられて思い切ってお出かけしたところ……


「よーこちゃんといっしょじゃなきゃ、やー!」
 
 ちっちゃい頃、自分はそう言って泣いたらしい。
 三つ年上の従姉と引き離されるたびに、目にいっぱい涙をためて。咎められた記憶はほとんどない。おそらく唯一の『わがまま』だったからだろう。
 何より従姉本人が真っ先に飛んできて、手を握ってくれたのだ。大人たちが反応するより、ずっと早く。
 生まれた時からずっと一緒だった。一緒に歩けば姉妹と間違われるほどそっくりで、着ているものはおそろいかお下がり。離れ離れになるなんて想像したこともなかった。1995年の夏までは。
 八月の終わりによーこちゃんは、アメリカに行ってしまったのだ……。
  
   ※

 とある土曜日の昼下がり。黒い詰襟の学生服を着た少年が、とことこと神社の石段を登っていた。ほっそりした肩や華奢な背中や足腰は、分厚い黒い上着を支えるにはいささか頼りないように見える。だが足取りにはいささかの揺らぎもなく、すっ、すっと石段を登ってゆく。心持ち左の端に寄って、決して真ん中は歩かない。そこは神様の通る道だから。

「ふぅ……」

 十月とは言え、ついこの間衣替えが済んだばかり。さすがに晴れた日にこうして体を動かすと、じっとりと汗がにじんでくる。軽く額を拭うと、結城朔也は神殿に向かって一礼。二の鳥居の手前で左に曲がり、林の奥へと続く細い道を歩いて行った。
 曲がり角の手前には、小さな木の看板が立っていた。曰く、『社務所にご用の方はこちらへどうぞ』と。
 林の中に分け入る小さな道は、社務所の手前でさらに三つに枝分かれしていた。
 一本はそのまま結城神社の社務所と、それに隣接した宮司一家の住居……いわゆる母屋へ。もう一本は泊まり客を通すための離れへ。そして三本目は朔也と母の住むもう一軒の家へと通じている。
 自宅の玄関先で朔也は立ち止まり、カタンと郵便受けを開けた。
 門柱に取り付けられたアルミの四角い箱は空っぽ。念のため手を入れてまさぐってみたけど、ぺったんとした金属の底が振れただけ。

「はぁ……」

 ため息がこぼれる。従姉のよーこちゃんがアメリカに留学してはや一ヶ月。郵便受けをチェックするのがすっかり習慣になってしまった。
 日本を発った次の日、社務所のパソコンにメールが届いた。学校のアドレスからただ一言、『無事についたよ、元気です』って。その後、ハガキが二回届いた。一枚目はゴールデンゲートブリッジのポストカードで、二枚目は文字でびっしりと日々の出来事がつづられていた。寮の同じ部屋の子と仲よくなったし、クラスの子とも話せるようになってきた。今度は一人歩きに挑戦してみたいと……。

(よーこちゃん、どんどん知らない所に行っちゃうのかな)

 ちょっぴり心細い。けれどその一方で安心してもいた。アメリカで暮らすよーこちゃんは、とっても生き生きしていて楽しそうだから。それに、自分との繋がりは何があったって。どんなに離れていても、決して途切れはしないのだから。

 四日ほど前にも夢を見た。
 アーチ型の柱が並び、まぶしい日の光が差しこむ通路でガラスが割れて、誰かが怪我をした。
 夢の中の自分はとことこと近づき、傷口に手を当てていた。だってその子は自分を助けてくれたから。
 赤い巻き毛に白い肌、背の高いがっちりした男の子。あれはいったい誰だったんだろう?

 家に入り、鞄を部屋に置いて着替える。さすがに半袖はもう寒い。

(あ、そうだ)

 ひょっとしたら、メールが来てるかもしれない。
 わずかな期待を抱きつつ母屋に行くと、社務所には誰もいなかった。机の上のパソコンを立ち上げてみたけれど、受信はゼロ。

 しかたないよね。よーこちゃんだって忙しいんだ。そんなにしょっちゅう手紙出せるはずがない。
 それに……自分だって返事かけるほど、毎日楽しいことがある訳じゃないし。

 三度目のため息をついて、ぼんやりと縁側に腰を降ろす。庭のカエデがだいぶ赤くなってきた。
 アメリカにも、カエデってあるのかな……甘いシロップがとれるんだっけ。
 あ、でもあれはカナダだったかな?

 そんなことを考えていたら、ふにっと手首にひんやりした物が押し付けられる。猫の鼻先だ。白茶と白黒、そして真っ黒、合計三匹。ふわふわの毛玉がするすると近づき、我先に膝に登ってくる。
 
「……ただいま、おはぎ、みつまめ、いそべ」

 めいめいかぱっとピンクの口を開いて、口々に話しかけてきた。

「みゃー」
「み」
「にゃう」
「そっか、そんなことがあったんだ」
「にゃっ」

 猫たちの話を、朔也はただ静かに聞いていた。時折あいずちを打ったり頷いたりしながら。
 そのうち、白黒模様のいそべが、にゅうっと伸び上がって玄関の方を向いた。

「にー」
「あ、新十郎さん」

 ほどなく。のっしのっしと金色の毛並みをなびかせて、堂々たる体格の犬が入ってきた。ゴールデンレトリバーだ。買い物カゴをくわえ、首輪には大きな鈴が下がっている。

「お帰り、お使いごくろうさま」
「うふ」
「今日から、衣替えだから……」
「にゃー」
「み」
「にゅーっ」
「わう」

 カゴをサクヤに預けると、『新十郎さん』はわっさわっさと尻尾を左右に振ったのだった。

「うん、ちょっと待っててね」

 台所に行き、冷蔵庫に中味をしまう。木綿豆腐一丁、カレイの切り身が四人分、大根とキャベツと、そしてリンゴ……これはぽちのおやつ用。てきぱきとしまいながら、ふっと気になった。

 アメリカでは、何食べてるのかな。やっぱりお肉が多いのかな?
 よーこちゃんなら好き嫌いないから大丈夫だろうな……。
 にぼしの入った缶を手にとり、お茶の間に戻る。猫たちがつぴーんと尻尾を立てて寄ってきた。でも、まずは新十郎さんに。これはお使いのご褒美だから。

「はい、新十郎さん」
「わう」

 一つかみ手に乗せて差し出すと、行儀良く鼻面をつけてばりばりと食べた。ほぼ二口。
 
「みー」
「みうー」
「んにゃーっ」

 待ちかねた猫たちににぼしを配り、ついでに自分もご相伴にあずかっていると……

「サクヤくん」
「はい?」

 おじさんが。よーこの父で神社の宮司でもある羊司が声をかけてきた。ものすごく遠慮しながら。

「明日、私の恩師を訪ねるのだけど、よかったら、その……」

 こくっと咽を鳴らしてる。
 
「一緒に来てみないかい? とっても優しい人で……猫とカラスを飼ってるんだ」

(猫とカラス……でも知らない人……)

 サクヤは少し考えた。羊司おじさんはその間、じっと待っていた。

(知らない人……)

 すると。白黒の『いそべ』がにゅうっと伸び上がり、ぽふっとサクヤの膝に手を置いて。顏を見上げて一声

「みゃ」と鳴いた。まるで『行ってごらんなさい』とでも言うように。

「……うん」
 
    ※
 
 翌日、日曜日。おじさんの運転する車で連れて行かれたのは、ありふれた三階建ての雑居ビルだった。
 外壁は永年の風雨にさらされ、昔風の余裕のある……ある意味遊びと装飾の多い造りと相まって、石造りの古い洋館のような雰囲気を醸し出している。

「こっちだよ」 

 鉄の手すりに支えられた上がり段を登る。アーチ型に石が組まれた戸口の上部にはステンドグラス、その下には木枠にガラスがはめ込まれた両開きの扉が収まっていた。
 軒先に下がる磨き抜かれた真鍮のプレートに曰く「Embrace」。その下の電気じかけの置き看板はもっと今風の書体で、カタカナで読みが振ってあった。

(エンブレイス……どう言う意味なんだろう)

 かららん、とドアベルが優しくも深い音色を奏でる。始めて来た場所のはずなのに、どこか懐かしいような感覚を覚えた。ベルの音の根底に流れる響きが、同じなのだ。とても身近な鈴の音に。

(あ)

 この鈴、神社の鈴と同じ感じがする。

 磨き抜かれた木の床とカウンターは深みのある焦げ茶色。店内に置かれたテーブルと椅子も全て同じ色の木材で作られている。
 淡い色調の草花模様の壁紙は目に優しく、陽の光を含んだ香りすらほんのりと漂ってくるような心地がする。
 どこからかカチ、コチと規則正しい音が聞こえる。見回すと、壁に小さな振り子時計がかかっていた。

「こんにちは、藤野先生」

 カウンターの向こうの、きれいな銀髪の小柄なおばあさんにおじさんが挨拶する。

「あら、まあ可愛いお客さんね」
「この子はサクヤくんと言いまして、義姉の息子です」
「そう、桜子さんの」

 うなずくと、おばあさん……藤野先生はこっちを見下ろしてにっこりと笑いかけてくれた。

「いらっしゃい、サクヤちゃん。お母様によく似てらっしゃるわね」

 この人は、母を知ってるんだ。おそらくは藤枝おばさんも。思ったよりずっと、親しい人だったらしい。
 藤野先生の後からもう一人出てきた。男の人だった。
 肩にはカラスが止まり、足下には黒い猫が寄り添い、くるりと尻尾を巻き付けている。髪の毛はちょっぴり茶色がかっていて、ココアみたいな色だ。くりくりとした焦げ茶の瞳を見てると、境内で見つけたドングリを思い出す。背はあまり高くない。
 自分よりは多分、年上だろう。

「この子は私の孫よ。裕二って言うの」
「……こんにちは」
「おう」

 よかった、二人とも怖そうな人じゃなくて。
 おじさんと藤野先生が話している間、サクヤはすみっこのテーブルに座っていた。すかさず黒い猫が膝に乗り、カラスはぱたぱたと飛んできて隣の椅子の背もたれに止まった。

「くわっ、くわわっ」
「みゃ」
「うん。よろしくね」

 カラスの名前はクロウ、猫の名前はキミ。どっちもカタカナで書くらしい。
 話していると……と言うかもっぱらカラスの話を聞いていると、ことんとテーブルにクッキーと紅茶が置かれた。
 プレーンのと、チョコチップとマーブル、三種類。裕二さんだ。ぺこりと頭を下げる。
 どうしよう。
 何か、話しないといけないのかな。
 ほんの一瞬緊張した。けれど裕二さんはうなずき返しただけで、一言もしゃべらず隣のテーブルに座って本を読み始めた。
 ほっとして力を抜くと、カラスがばさっと翼を広げた。

「くわ、くわ……ちょーだいっ!」
「……はい、どうぞ」

 プレーンクッキーを小さく割って差し出すと、器用につまみ上げてかつかつ食べた。
 犬や猫に食べさせるのとは違う。堅い嘴が手のひらに軽く触れる感触が何だかくすぐったい。と、思っていたら……
 
「こーけこっこー!」

 え、鶏?

「んめへへへへへっ!」

 今度は羊。そっくりだ! 時々、カラスの中には他の生き物の鳴き声を真似するのがいる。でもここまで真に迫ったのは初めて聞いた。

「……すごいね」
『おうさっ! これぐらい朝飯前よ! もういっちょクッキーおくんな』

 もう一枚、割ろうとすると……

『おおっと、ちっさくしないでいいから。丸っと一枚、どーんとおくんな!』
「……うん」

 言われるまま、クッキーを丸ごと一枚差し出してみた。するとカラスはばくっとくわえてテーブルの上に置いて。足で押さえ、嘴でカツカツと砕いて食べ始めた。大きめのクッキーがものすごい早さで無くなった。

『ごっそーさん! ところでサクヤは年、いくつだ?』
「十三歳」
『そっか、中学生かー。ってことは彼女いるのか、カノジョ!』
「……え?」
『つってもただの代名詞じゃねーぞ! ガールフレンド、ぶっちゃけ恋人っつー意味のカノジョだからな! 手ーつないだり、一緒に登下校したり、とーぜんちゅーも』
 
 ぺしっと横合いから手が伸びてきて、カラスの嘴を人さし指で軽く弾く。

「こら、あんまり悪い事教えんなよ?」

 カラスはくわっと口を開いてぎゃんぎゃん言い返した。

『ってぇなあ! 何しやがんでぇ、クソゆーじ!』

 すとん、としなやかな影が椅子の背に飛び上がった。長い尻尾がひゅうんとしなる。
 次の瞬間、漆黒の前足が絶妙の猫パンチを叩き込み、さっと引っ込んだ。

「く、くわぁ……」

 形勢不利と見てとって、カラスはこそこそとサクヤの背後に潜り込む。羽根があったかい。くすぐったい。
 思わずくすっと笑ってから、サクヤはびっくり目を見開いた。確かにクロウは人の言葉をしゃべる事ができるし、意味もわかってる。でも、さっきのは違ってた!

「いま……」
「ん、どうした?」
「しゃべってた?」
「ああ」

 裕二さんは事も無げにうなずき、猫の頭を撫でた。

「長い付き合いだからな」

 穏やかな声が。眼差しが教えてくれた。それは、この人にとっては特別なことではない。普通のことなのだと

(動物と話せるのは、自分だけじゃなかった)
(ここでは、隠す必要、ないんだ……)

 ほわっとほほ笑むと、サクヤはクッキーを手にとり、ぽふっと口に入れたのだった。

(よかった、サクヤくん)

 甥っ子がクッキーをかじり、紅茶を飲む姿を見ながら羊司もほっとしていた。
 羊子が留学してから一ヶ月。サクヤくんはしょんぼりして元気がなかった。見た目は変わらないが、生まれた時から一緒に暮らしている家族なのだ。些細な変化もよくわかる。
 元々口数の多い子ではなかったが、最近ではほとんど人間と話さなくなってしまった。

(本当に久しぶりに、家族以外の人と話してる。思い切ってつれてきて良かった……)

   ※

 月曜日、家に帰ると郵便受けにハガキが入っていた。
 触っただけでわかる。よーこちゃんからだ!
 初めて一人でサンフランシスコの町にお出かけした、と書かれていた。ホットドッグを買いに行く途中で、お巡りさんと話した。金髪に緑の瞳の男の人だった、と。

『お巡りさんに会うのは初めてじゃなかったんだけど。もう、何回も君何歳、一人で何やってんのって質問されてきたけれど。この金髪のお巡りさんは、ちゃんと大人扱いしてくれました』
『若いのに、しっかりした人です』

 相変わらず外見で苦労してるらしい。向こうの高校には制服がないから、尚更だろう。
 夕飯の後、返事を書いた。

『日曜日に、おじさんの先生の家に行きました。黒い猫とカラスがいました』
『カラスはすごくおしゃべりで、物まねが得意でした』
『先生のお孫さんで、高校生ぐらいのお兄さんがいて、クッキーをごちそしてくれました』

 ………また行ってみようかな。
 迷ったけれど、結局書かずに手紙を結んだ。

『それではお元気で。 サクヤ』
 
(留守番サクヤちゃん/了)

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家族の波

2011/11/26 1:04 短編十海
  • 2007年のローゼンベルク一家の日常。
  • 月梨さんのイラストを使い、絵本風にビジュアルノベル化したものをこちらで公開中。5分ほどの短い作品。(PCのみ)MacでもWindowsでも、ブラウザでお楽しみいただけます。
 
 家族にも波はある。
 
 映画になるほどドラマチック、とまでは行かなくても、毎日の暮らしの中で少しずつ。
 浮く日もあれば、沈む日もある。晴れる日もあれば雨の日も、風の強い日もある。
 別々の意志と別々の意識を持った人間が、ずっと一緒に生きているから。

 サンフランシスコに住むローゼンベルクさんの家は、愛情深い料理上手な『まま』と、愛妻家で厳しい『ぱぱ』、そして、ちょっと意地っ張りな双子の四人家族。白い猫を飼っていて、同じマンションの下の階に住んでる友だちがちょくちょく(と言うか毎日?)夕飯を食べに来る。

 毎週、水曜日の午後にままが双子を車に乗せて買い出しに行き、帰りにクリーニング屋に寄ってくる。
 そんなありふれた家族の食卓にも、やっぱり『波』がある。

 たとえば双子がちょっぴり沈んでいる時。
 夕方が近づくにつれて訳も無く心細くなったり、一人でいると水の下にすうっと引き込まれそうな気分になる時は、何となく食堂に行く。
 いつもは自分の部屋でやっている読書やホームスクーリングの宿題を、食卓でするのだ。

(ここにはいつでも、自分の座る場所がある)
(迎えてくれる場所がある)

 どっしりした大きなクルミ材のテーブルに座って、二人一緒に。するとそのうちままが帰って来て、夕食の支度を始める。時間がある時は、食卓に座って新聞を読んだり、料理の本を開いたり。何を話すと言う訳じゃないけれど、一緒にいる。

 ままの元気が無い時は、何となく双子がそばにいる。
 ままは一家を照らすお日さまだ。お日さまが陰れば家の中は暗く、冷えきってしまう。

 食卓に座って向き合って、ジャガイモの皮をむいたり、豆の殻をとったり、ギョウザを包んだり。ゆっくりゆっくり手間ひまかけて、いつもよりじっくり食事の支度をする。そうしうていつもよりほんの少し、一緒にいる時間が長くなる。  
 でもぱぱが帰ってきたら、さくっと選手交代。ただ今のキス、お帰りのキスが長くなっても気にしない。

 ぱぱはローゼンベルク家を支える柱。一家の中心に、すらっと伸びた背の高い樹だ。何があっても冷静で、落ち着いて、決して慌てたりしない。
 そんなしっかり者のぱぱだけど、時には心がカサカサ乾いて、干からびてしまう事もある。

 そんな時、ままはぱぱにぴとっと寄り添う。仕事から帰ってきて、「ただ今」を聞いたその瞬間から。
 ままが言う。

「ここ、しばらく任せてもいいかな」

 双子は静かにうなずいて、キッチンを出る広い背中を見送るのだ。
 ぱぱがちょっとふっくらして、食事に出て来れるようになるまで、夕食の支度は双子の仕事。二人がじっくりハグして、キスできるように。
 夕食が終わって食後の紅茶を飲み終わったら、さくさく手際よくお片づけ。
 そうしていつもより早めにお休みを言って、自分たちの部屋に引き上げる。
 
 ここからは、ぱぱとまま二人の時間。

「レオン」

 ままが自分の広い膝をぱたぱたと叩いてほほ笑みかける。

「Come on!」 
「……君にはかなわないな」

 あったかい膝にこてんと頭を乗せて、ぱぱはぬくぬく、上機嫌。ままのあったかい手で髪を撫でられ、耳の後ろをくすぐられる。カサカサに干からびたハートが潤って、柔らかくなるまでずっと。

 こうして日々の波を乗り越えながら、ゆらゆら、ゆったり時間を重ねて行く。

 サンフランシスコに住むローゼンベルク家のぱぱとままは、どちらも男の人だ。
 双子の本当のお父さんとお母さんは、二人が小さい頃に亡くなった。

『ぱぱ』が父親の役目を。
『まま』が母親の役目を。
 そして双子が子供の役目を。それぞれ果たして、始めて成り立つ『家族』です。
 

(家族の波/了)
 
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留守番サクヤちゃん2

2011/12/21 0:38 短編十海
  • 拍手お礼短編の再録。
  • 95年10月、サクヤちゃんのエンブレイス訪問二度目。見た目で苦労する人がここにもまた一人。
 
 十月も後半に入り、朝夕めっきり冷え込んできたある日のこと。
 結城朔也が学校から帰ると、母屋の居間で母の桜子と、叔母の藤枝が何やら大荷物を広げていた。

「ただいま」
「お帰りなさい」
「サクヤちゃん、いい所に来たわー。ちょっといらっしゃいな」

 手招きされて素直に入って行くと、畳の上には市内のデパートの袋が並び、衣服が広げられている。
 袋の一つが、不規則にがさがさ揺れてるなー、と思ったら、ひょっこりと白に点茶模様の猫が顔を出した。

「みつまめ……何やってるの」
「みゃっ」
「そう、お手伝いしてるんだ」
「うにゃおう」

 気分だけ。あくまで気分だけ。

「どうしたの、これ」
「駅前のデパートでね、冬物セールやってたの」

 何て気が早い。まだ、立冬にもなっていないのに!

「セーターとかお安くなってたから、ぱぱっとそろえちゃったの」
「よーこちゃんに送ってあげようと思ってね」

 ああ、なるほど、そう言うことなんだ。でも、それにしてはやけに枚数が多いような。

「それでね。おそろいでまとめ買いしたんだけど……」

 目の前に、ふわふわのモヘアのセーターが広げられた。同じデザインの色違い、ミントグリーンと、ピンク色。もちろんどっちも女性用。

「どっちがいい?」
「えーっと……俺の? それともよーこちゃんの?」
「決まってるじゃない」

 二人の母は、口をそろえてさえずった。

「サクヤちゃんの分よ!」

 子供の頃は、同じ服を着るまでに時間差があった。まずよーこちゃんが着て、1年か2年経ったら自分が着る。
 しかしながら成長とともに二人の体格差は縮んで行き、今では母も伯母も同じ服を二着まとめ買いしてくる。
 他意はない。その方が安くなるし、何より小さい頃から自分の口癖だったのだ。

『よーこちゃんと同じがいい!』

 今になって思う。元々よーこちゃんが水色とか、グリーンが好きだから成り立っていた事だったんだなって。だけどさすがに、この年でピンクはご勘弁。
 心の中で謝りつつ……

「こっち」

 グリーンを選んだ。

「じゃあこっちをよーこちゃんに送りましょう」
「そうしましょう!」

(ごめんね、よーこちゃん)

 わあ、何だか嬉しそうだ。選択肢のない今がチャンス、とばかりに、ピンク着せたいんだろうなあ、二人とも。

「それでねー、サクヤちゃん」

 ほっとする間もなく、靴下と、マフラーと、毛糸パンツと手袋が並べられていた。

「どっちがいい?」

 選び終わった冬物のあれやこれやを抱えて、部屋に戻る途中でまた呼び止められた。今度は羊司おじさんからだ。

「あー、サクヤくん。今度の日曜、また藤野先生の所に行くんだが……一緒にどうかな」
「はい」
 
     ※
 
 週末はこの秋でも一番の冷え込みで、おろしたての冬物がさっそく役に立ってくれた。

 古い石造りの洋館にも似た雰囲気をまとった、三階建ての雑居ビル。木枠にガラスをはめ込んだどっしりした扉を開けると、和やかなベルの音に出迎えられる。
 占い喫茶「エンブレイス」は秋の金色の陽射しに包まれて、今日も穏やかな時が流れている。

「いらっしゃい、サクヤちゃん」
「こんにちは、藤野先生」

 藤野先生は、羊司おじさんの大学時代の先生だ。歴史と民俗学を教えてくれた人で、伯母さんやお母さんとも親しい。この前、ここに来た後で家に帰って見てみたら、社務所に飾られている写真にちょっと若い頃の先生が写っていた。

「くわあっ!」

 ばさばさっと黒い翼をはためかせ、カラスが肩に舞い降りてきた。

「こんにちは、クロウ」
「さーくーや! さーくーや!」

 人間の言葉で挨拶してから、後はだーっと本来の鴉の言葉に戻ってまくしたてる。

『よっく来たな、待ってたぜー! ちょーどクッキーも焼けたしよ!』
「あ」

 本当だ。バターと小麦粉の焼ける、甘いにおいが漂ってきた。

「よう」
「こんにちは」

 カウンターの奥から、裕二さんがお盆を持って出てきた。お皿に盛ったクッキーと、ポットに入った紅茶を乗せて。

 藤野先生とおじさんが話している間、並んで座ってクッキーをかじる。
 時々、椅子の背に止まったクロウにも一枚渡して、器用にこつこつ割って食べるのを眺める。
 黒い猫のおキミさんは、静かにカウンターの椅子にうずくまり、目を細めていた。足をきっちり折り畳んで、四角くなって。

「……香箱」
「うん、香箱作ってるな」
「あ」
「どうした?」

 ちょうどおキミさんの後ろの壁に、剣がかかっていた。だが見慣れた日本刀ではない。
 柄と刀身、鍔の部分が直角に交差した、幅広の剣。それこそ西洋の騎士や王様が持っているような。ファンタジーの小説に出てくるような剣だ。

「あれは、本物?」
「いや。模造剣だ。刃はついてない。剣の形をしてることが大切なんだ」

 裕二さんはすっと手を掲げて、入り口の扉を指さした。

「そら、あの取っ手の部分。何の形に見える?」
「えーっと……」

 花。いや、違う。あれは炎だ。

「マッチ?」
「あーそう来るか」

 くっ、くっと裕二さんは声をたてて笑った。その隣でクロウもやっぱり、同じように声をたてて笑ってる。って言うかそっくりだ!

「うん、確かに燃えてる棒だな」

 すうっと裕二さんの手が滑り、今度は別の。剣がかかってるのとは反対側の壁を指さした。

「あっちの花瓶が、聖杯だ。んでもってあれが……」

 入り口の真向かい、北側の壁には、小さな『盾』が飾られていた。中央に星を刻んだ金色のコインが埋め込まれている。

「大地の盾」
「うん」
「東に風の剣、南に炎の棒、北に大地の盾、西に水の聖杯」
「あ」

 四つの方角、剣と棒と盾と杯、風と火と土と水……まったく同じではないけれど、とても馴染みの深い何かを思い出す。
 サクヤの頭の中で、ちかっと小さな光がまたたいた。

「結界?」

 ばさあっと翼を広げ、クロウが甲高い声を張り上げた。

「おおあたりー!」

 裕二さんが目を細めてうなずく。

「さすが神社の子だ。鋭いな」

 胸の奥がくすぐったい。ほめられて、ちょっと照れ臭い。でも、うれしい。
 気がつかない間に、サクヤは笑っていた。目を伏せて、ほんの少し、頬を赤らめて。
 照れ隠しにクッキーをとって、ぱくりと口に入れる。

「……あ」
「どうした?」
「これ、ヘーゼルナッツ?」
「ああ、そうだ。よくわかったな」

 よーこちゃんの好きなナッツだ。家にいる時は、よく焼いてくれた。『ヘーゼルナッツのパウダーって、なかなか手に入らないんだよね』って言ってた。

「これもハーブの一種だからな。ちょっとだけど、店でも扱ってるんだ」
 
 カウンターの隅に置かれたバスケットの中に、見覚えのある袋が並んでいた。

(後で教えてあげよう。ここに来れば、買えるよって)

 そのうち、おじさんと、藤野先生のお話も終わったらしい。裕二さんが紅茶とクッキーを運んで行く。

「どうぞ」
「やあ、ありがとう。いただきます」

 おじさんもヘーゼルナッツのクッキーをかじって……「お」と小さくつぶやいた。気がついたらしい。

「どうしました?」
「あ、いや、これヘーゼルナッツのクッキーだね?」
「ええ。あれ、サクヤも同じ反応してたなあ……」
「娘が好物でね。よく焼いてくれたんだ」
「ああ、だからか」

 ふーっとため息をつくと、おじさんは目を細めてしみじみとクッキーを噛みしめた。

「今は、アメリカに行っちゃってるけどね」
「へえ。仕事で?」
「いや。留学。君とだいたい同じくらいの年ごろかな。サクヤくんとは三つ違いで……」

 その瞬間、空気が固まった。それこそピシっと音が聞こえそうなくらいに。
 裕二さんは、二度、三度とまばたきして、それから腕組みしてうーん、と考え込んでしまった。

「……どうかしたのかい、裕二くん」
「いや、何か微妙に計算が合わないよーな気がして」
「ああ」

 静かに紅茶を飲み終えた藤野先生が、にっこり笑ってさらりと言った。

「この子、二十歳過ぎてるのよ」
「ええっ?」

 今度は、おじさんとサクヤが凍りつく番だった。

「いや、その、申し訳ない、こ、これは飛んだ勘違いをっ」
「気にしないで、よくある事だから」

 ああ、なんだかとっても聞き慣れた言葉だ。

(そっかー、裕二さんも、年より若く見られちゃう人だったんだ)
(同じような経験、してるんだなあ)

 ほんと、中学に上がって何がありがたいって、制服があることだ。学生服を着ていれば、間違われないから……小学生にも。女の子にも。

「そ、そうか、裕二君は成人してたんだな! だったら今度一緒に飲みに行こうか!」
「は、はは、そーっすね!」

 おじさんと裕二さんは、何かを吹っ切るように妙に明るく、爽かに笑い合っていた。
 
      ※
 
 家に帰ったら、ちょうど母と藤枝おばさんが荷造りをしている所だった。

「サクヤちゃん、サクヤちゃん。お手紙あるなら、一緒に入れるわよ?」
「うん」

 そして、よーこちゃんにあてて手紙を書いた。

『藤野先生のお店には、神社と同じように結界が張ってあります。穏やかで気持ちのいい空間なのは、守られていたからなんだなってわかりました』
『あと、今日わかったことがもう一つあります。裕二さんは、実は高校生じゃなくて大人の人でした』
『今度、おじさんとお酒を飲みに行く約束をしていました』
『それからヘーゼルナッツのパウダー、エンブレイスで売っていたよ』
 
      ※

 その頃。
 神楽裕二は、洗面所の鏡をじーっと見つめていた。
 二重瞼のぱっちりした目。ふっくらした唇。丸みを帯びて、つるんとしたツヤのある顔。
 つくづく見事な童顔だ。小柄な背丈と相まって、年より若く見られるのはいい加減慣れていたつもりだったが。

(まさか、高校生と思われてたなんて!)

 つるりとした己の顎を撫で、裕二はぽつりとつぶやいた。

「ヒゲ、伸ばそうかな」

 肩に止まったカラスが「けけけっ」と笑った。

「うるせえっ」

 怒鳴り返す裕二の足下で、ほっそりした黒猫が一声鳴くと、後脚で立ち上がりぽふっと前足で触れてきた。
 さしずめ『肩をぽん』と叩いたような。あたかも裕二の言葉を理解しているかのように、人間くさい仕草だった。

「……ありがとな」

(留守番サクヤちゃん2/了)

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グリどこ行った?

2012/01/07 1:30 短編十海
  • 2012年辰年、新春ご挨拶短編。月梨さんの新春お祝いイラストと一緒にどうぞ。
  • ヒウェルの大事にしているライターには、真っ赤な幻獣がペイントされている。故郷のウェールズの国旗にも描かれているアレが、ある朝忽然と消え失せてしまった!
  • 大慌てで探し回っていると……
 
 わが輩はドラゴンだ。色は赤。全身真っ赤。

 8年前、さるアーティストの手で銀色のオイルライターの表面に念入りにペイントされた。
 我が創造主がとある紳士に「ウェールズの国旗の赤いアレを描いてくれ」と頼まれて、そしてわが輩が生まれたと言う訳だ。
 土台となったライターは量産品。なれどわが輩は、オーダーメイドで描かれた一点ものなのだ。オンリーワンなのだ。

 紳士は独り立ちする息子への贈り物として、わが輩を買い求めたのだった。
 リボンをほどき、箱を開けてわが輩を一目見るなり、息子は叫んだ。

「わお、これって、もしかして、ウェールズの国旗のアレかっ!」
「そうだよ、ヒウェル。お前のご先祖の国の象徴だ」
「嬉しいよ。すっげえ嬉しい。ありがとな、ピーター。大事にする、この赤いグリフォン!」

 ……え?
 ちょっと待て、今、グリフォンって言いました?
 わが輩はドラゴンドラゴンなんですけど!

 非常に不本意ながら我が持ち主殿は、わが輩を………グリフォンと信じているらしい。
 だが、とても大事にしてくれた。毎日ピカピカに磨いて、うっかり無くした時なんかは必死になって探してくれた。
 崩れた建物の下敷きになった時は、さすがにもうダメかと諦めたもんだが……
 
 幸い、今もこうしてカチカチと煙草に火を灯し、時にはケーキのロウソクとか、バーベキューの火だねとか、色んなものに火を着けている。

 相変わらず、グリフォンって呼ばれているけれど。

「あー、そのヒウェル。ライターに描いてあるそれ、な………」
「うん、ウェールズの象徴、赤いグリフォンだ!」
「それ、ドラゴン」

 ご友人が、正しい情報を教えてくれた事があるのだが、それでも我が持ち主は一向に改める気配はなく。

「うるさい、知ったことか、グリフォンつったらグリフォンなんだーっ!」

 開き直った。
 そこまで言い張るか! やれやれ困ったもんだ。
 どこまで頑固なのか。
 ここは一つ、思い知らせてやる必要があるな、うん。
 
     ※
 
「んー……」

 ヒウェルの朝は遅い。
 仕事をするのは主に夜。人々が寝静まった夜中から、かっきーんと冷え込む夜明けにかけての時間が最も集中できるのだ。
 夜通しパソコンに向かってキーボードを打ち続け、時にメモ帳にがりがりと線やら丸やら文字を書きなぐる。そして東の空がうっすらと白くなる頃、力尽きてベッドに倒れ込む。

 今日も今日とて、いつものように昼近くまで眠りこけ、むっくりと起き上がる。
 ぼーっとしたまま洗面所に行き、ぼーっとしたまま顔を洗ってヒゲを剃り、この辺でようやく目が開く。

 よれりよれりと部屋に戻り、机の上に転がる煙草の箱から一本引き抜く。口にくわえて愛用のオイルライターのフタをかっきと開けて火をつけて、目覚めの一服を深々と吸い込む。

 ぷはーっとミントの香る息と煙を吹き出し、いつものようにライターに描かれた赤いグリフォンにおはようの挨拶をしようとして……
 凍りつく。

「は?」

 いない。
 真っ赤なグリフォンの姿が、忽然と消え失せてる。

「んなアホなっ!」

 眼鏡をかけて、まじまじとライターを観察する。
 上蓋にある傷。
 ライターをもらう時に養父がガチっと机の角にぶつけてつけた、『唯一の傷』はしっかり存在している。
 見覚えのある形、触りなれた深さ。見た目も、指で触れた感触も間違いない。

 これは、確かに俺のライターだ。
 じゃあ、どうしてグリフォンが。グリフォンだけが、いないんだ?

「ん? んんんんーっ?」

 ライターの表面に、見慣れぬ文字が刻まれていた。まるでちっちゃな、鋭い爪で引っかいたような文字が。

『探さないでください』

 ヒウェルは目をぱちくり。
 何てお約束な書き置きだろう。

「つまり……アレか………家出しちゃったのか、グリ!」

 あんなに大事にしてきたのに。苦しい時も楽しい時も、いつも一緒だったのに! そりゃ、たまには踏んずけたり、置きわすれたり、崩れた倉庫の下敷きにしちゃったりもしたけど。
 こぼしたコーヒーとか、溶けたチョコレートとかガムをべったりくっつけた事もあったけど!

(あ、ちょっと家出したくなるかもしれない)

 じわあっと不覚にも涙がにじむ。

「グリーっ! 何が不満なんだよっ! どこ行っちゃったんだよーっ」

 部屋中に散らばる本を。服をひっくり返して探し回るが、どこにもいない。

「グリー!」

     ※

 ふん、これで少しは懲りただろう。
 
 窓の外でホバリングしながら、部屋をのぞき込む。
 持ち主がわんわん泣きながらわが輩を探し回っているが、けしからんことに相変わらず『グリ』だ。

 やれやれ、全然反省してないじゃないか! これじゃ、当分帰る訳には行かないなあ。

 ふわっと舞い上がり、マンションの上の階のベランダで一休み。日当たりのいい手すりの上にうずくまり、日なたぼっことしゃれ込んだ。

 カリフォルニアの太陽はぽかぽかと心地よい。
 つい、うとうとしてしまった。

 どれほど眠っていただろう?

「すっげぇえええ!」

 甲高い、透き通った声で目を覚ました。
 ぱちりと目を開けると、おやおや。鳶色の髪の小さな男の子が一人、目をまんまるにしてこっちを見てる。

「ドラだ!」

 そう、それだよ!
 ばさっと翼を広げる。

「ほんものの、ドラだ!」

 イエス! イエス! イエス! なかなか見どころのある子じゃないか!
 
 ばささーっと翼を広げる。体がむくむくと膨れ上がる。
 元が絵だから、大きさなんか自由自在なのだ。

「おっきくなった! ドラ、おっきくなった!」

 男の子は両手の拳を握りしめ、頬を真っ赤に染めて、小刻みに震えている。
 ちょい、ちょい、と手招きした。
 素直に近づいてくる。うんうん、いいね。この年ごろの子供は、いちばん付き合いやすい。

 男の子に背中を向けてうずくまった。
 言いたいことは、すぐに伝わった。

「えっ、乗ってもいいの?」

 ゆっくり頷く。男の子はよじよじとわが輩の背中によじ登り、しっかりしがみついてきた。

 さあ、行こう!
 翼を広げて舞い上がる。
 
「すごい! すごい、ドラすごーいっ」
 
 nenga2012h_2.jpg
 ※クリックで拡大します。
 
 ばさばさと羽ばたきして、持ち主の部屋の窓の前を通り過ぎる。
 このサイズだとさすがに気付いたか。
 慌てて飛び出してきた。
 こっちを見てる。

「ディーンっ?」

 男の子が手をふった。

「ヒウェルー!」
「う、うそだろ………グリ?」

 ベランダの手すりを掴んで、ぐっと身を乗り出してきた。

「グリー! 俺が悪かった。お願いだ、帰ってきてくれーっっ!」

 あーあーあー、いい年こいた大人が、涙ぼろぼろこぼしちゃって。
 仕方ないなあ。

 ぶーんっと旋回して、男の子を元居た階のベランダに降ろす。

「さんきゅー、ドラ! またねっ!」

 ぶいぶい手を振って見送ってくれた。しっぽを振って返事をして、空に飛び立ち、しゅるしゅると縮む。元通り、ライターの中にすっぽり収まるくらいに小さく小さく縮んで……
 三階の窓から飛び込んだ。
 持ち主の手の中にライターにぼすっと勢い良く。

「うわあっ!」

 ちょっと、強過ぎたかな? 持ち主はソファにひっくり返り、上から積み上げられた雑誌やら本やらシャツや靴下がどさどさどさーっと雪崩のように降り注ぐ。

「むぎゅううう」

 あーあ、目を回しちゃったよ。
 やりすぎたかな?
 
      ※
 
 はっと目を覚ます。
 目の回りがカビカビ固まってる。咽の奥が妙にしょっぱい。

「あー……」

 ソファにひっくり返ってた。起き上がると、上に乗っかってた本や雑誌がばさばさと床に散らばった。
 ソファで寝るのはよくあるが、さすがに本や雑誌を毛布がわりとか……どんだけぼんやりしてたんだ、俺。
 寝心地は最悪。そのせいか、やたらと悲しい夢を見ちまったような気がする。

 ごそごそとテーブルの上をまさぐる。
 何はなくとも、目覚めの一服だ。
 煙草を一本抜き出してくわえ、何故かしっかと右手に握っていたライターをカキっと開けて……

「いるよな、グリ?」

 火をつける前に、思わず確かめてしまう。
 赤いグリフォンは、確かにそこに居た。

「あぁ……良かった………」

 煙草を吸うのも忘れて、両手でぎゅっと握りしめた。
 銀色のオイルライター。巣立ちの日に養い親から贈られた、大事な大事なプレゼントを。

「探したぞ。もう家出なんかしないでくれよ、グリっ!」

     ※

 わが輩はドラゴンである。
 ドラゴンなんだけど……名前は、グリ。

 そう、グリって名前だってことにしとこう。

(グリどこ行った?/了)

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サプライズなお客様

2012/02/18 23:18 短編十海
 
 黄色いふっかふかのパンケーキは、その場の全員にほぼ行き渡った。
 みんなして卵と砂糖と小麦とバターの溶け合ったシンプルな味と、甘い湯気を夢中になってあぐあぐとほお張った。
 ふかふかした食べ物を口に入れると、自然と顔がほころぶ。
 ご婦人やお子様は幸せそのもの、だがその一方で殿方は少々、物足りないものを感じていた。

(美味い、けど)
(甘い)
(もーちょっとこう、しょっぱいものが喰いたい……)
(ケチャップ欲しいなー)

 一方、ディーンは早々と最初の一切れを食べ終わり、しあわせなため息をついていた。
 しかし次の瞬間。

「お?」

 ベンチからぴょんっと飛び降りた。

「あら?」

 首を傾げるソフィアの隣からたーっと走り出す。

「あ、あ、ディーン!」

 四歳児の行動は大人の予想を軽くぶっちぎる。とたたたーっとボールが転がるように走っていったその先には、今しも遊歩道をこちらに向かって歩いてくる男の姿があった。

 チェックのシャツにジーンズ、足下はスニーカー。ラフな着こなしの中にもどこか気品の漂う、背の高い黒髪の男だ。
 癖のある短い黒髪、と言う点では現在のヒウェルと同じなのだが、堂々たる体躯といい、びしっと伸びた背筋といい、なまじ共通点があるだけに、格差が激しい。
 足下には、子グマのようなもっさもっさの黒い犬を従えている。四つんばいになってさえ、優に頭が主人の膝を越えそうな巨大な犬だったが、顔立ちはあどけない。
 まるでぬいぐるみのクマのように。

 ディーンは臆することなく、新たな訪問者の腕に飛び込んだ。

「Mr.ランドール!」
「やあ、ディーン!」

 カルヴィン・ランドールJrは軽々と小さな友人を抱き上げた。ディーンはきゃっきゃと大はしゃぎ。

「お誕生日おめでとう!」
「さんくす!」

 大人たちもすぐにランドールを迎え入れる。
 自己紹介の必要はなかった。ただ、笑顔で手を振り合えばOKだった。

「よ、サンダー。またでっかくなったなぁ」
「トマト食べる?」

 トマト。その単語を聞いた瞬間、サンダーはきちっと後脚を折り曲げて座った。黒い瞳はびたっとサリーに注目。

「かしこいな」
「テリーくんの教育の成果だよ」

 サリーの手の上の真っ赤なみずみずしいトマトを見ても。開いた口からよだれが零れても、じっとがまん。
 体が左右に揺れるほどの勢いでわっさわっさとしっぽを振りながら、微動だにしない。ボスがよし、と言うまでは。

「ほんと、かしこいな!」
「OK、サンダー」

(ボスがいいってゆった! いただきます)

 ばっくん。
 トマトは5秒で消えた。

「Mr.ランドール、ケーキたべて!」
「ありがとう」
「俺が作ったんだよ!」
「すごいな! ……うん、美味しいよ、ディーン。そうだ、私もお弁当を持ってきたんだ」

 ランドールは手ぶらではなかった。大きなピクニックバスケットを持参していた。

「良ければ君たちも……」
「おお! サンドイッチ!」
「中味は?」
「チーズとハム」
「おおおおお!」

 テリーとヒウェルは目を輝かせて飛びついた。

「うめええ! 塩味、塩味だああ!」
「ケチャップもみっしり入ってる……」

 やや遅れて、ディフとオティアも後に続く。
 耳を落としていない丈夫な食パンにバターとマスタードを塗って。レタスと分厚いハムとスライスチーズ、ピクルス、そしてケチャップ。
 典型的な『野郎の』サンドイッチ。だが、それが美味い。

「ハム、ちょっとあぶってあるんだな」
「その方が脂が溶けて、味がなじむような気がしてね」
「わかるー! 一度火を通すと、冷めても美味いんだよな!」
 
 ディーンがのびあがってバスケットをのぞきこむ。
 
「サンドイッチ? ピーナッツバターとジェリーのもある?」
「ああ、もちろん!」

 ランドール社長はうやうやしく、水玉模様のワックスペーパーに包まれたサンドイッチを差し出した。

「粒入りだよ」
「わお! 最高!」

 レオンは一人だけ、やや距離をとっていた。依頼人の手前、露骨に顔をしかめてはいない。表面は笑顔だ。あくまで笑顔、しかし舌の根にはある種の苦さがわだかまっている。

「ヒウェル、ちょっと」

 呼ばれた瞬間、ヒウェルはピンと来た。『ぱぱ』は何やら自分だけに話があるらしい。
 尚も盛り上がりを見せるテーブルを離れ、レオンのそばへと歩み寄る。

「君のさしがねかな、ヒウェル」
「ええ、まあ、サリー経由でちょこちょこっと、メールをね」

 ちら、とレオンはそれとなくランドールに視線を向けた。

「あまり感心しないね。公私のけじめはつけないと」
「この一ヶ月俺がどんだけディーンに言われたと思います? 『Mr.ランドールみたい』って!」
「さあ?」
「確かにあの社長はあなたの事務所の依頼人だ。でもディーンにとっちゃ友だちなんだ。さすがに家にご招待ってのは、あなたにしても、アレックスにしても気がねするでしょうが……」

 テーブルの周りには、ランドール社長はもとより、周辺でバーベキューをしていた人たちが集まっている。
 一人ぐらい増えた所で、どうってこともない。

「屋外パーティのいいところは、誰でも気軽に出入りできることだ。そうでしょ?」
「まあ、ね」
「プレゼントも消えものだし?」

 レオンはため息をついた。確かにその通りだ。
 ピーナッツバターとジェリーのサンドイッチなら、遠慮するほどのものじゃない。小学校のランチで交換するレベルの代物だ。(あいにくと自分は経験はないが)

 食べれば無くなる。楽しさだけが残る。

 それに、ランドール社長の来訪を喜んでいるのは、ディーンだけではなかった。
 ディフも、オティアも楽しそうに、真っ黒な犬をなで回している。犬や子供と一緒だと、ディフは実にいい顔をする。
 視線に気付いたのだろう。
 ディフが起き上がって、手を振ってきた。そのほほ笑みは真夏の太陽よりも眩しく、羽毛の毛布のようにやわらかく、包んでくれる。

「………しょうがないなぁ」

 笑みを返して歩き出す。愛しい人の待つ食卓に向かって。

 結局のところ、ヒウェルは上手く折り合いをつけたのだ。

(サプライズなお客様/了)

次へ→グリどこ行った?

風邪引きサクヤちゃん

2012/07/17 2:01 短編十海
  • 拍手お礼用短編の再録。サンフランシスコでディフが寝込んでいたのと同じ頃、サクヤちゃんも風邪を引いて熱を出し、寝込んでいました。
  • 一人奥座敷で眠るサクヤちゃんの枕元に、やって来たのは……。
 
 こん、こん、こんっ。
 狐が鳴いてる。
 ちょっとちがう。
 狐はこんな声出さない。
 これは絵本の中で作られた『狐の声』。

 こん、こん、こん。

 やっぱり、ちがう。この音は今、自分の咽から押し出されてるんだ。

 1995年11月半ば。結城サクヤは熱を出して寝込んでいた。看病と移動が楽なように自分の部屋ではなく、一階の日当たりの良い、庭に面した和室に布団を敷いて。

(久しぶりだなあ……)

 小さい頃は体が弱くてしょっちゅう、こんな風に熱を出して寝込んでいた。母やおじさん、おばさんが神社の仕事で忙しい時は、必ずよーこちゃんがそばに居た。

(お見舞いにセミの抜け殻持ってきたこともあったなあ……お煎餅の缶いっぱいに)

 今は、よーこちゃんは遠いアメリカに行っちゃったけど……猫たちと犬が一緒に居てくれる。ふかふかのあったかい体で寄り添ってくれる。
 時々手を伸ばして、ふわふわの背中を撫でた。一人じゃない。そう思うと、安心できる。

 熱で頭はぼわぼわに煮えて膨らんで、思い出すのは悲しいことや辛いことばかり。
 鼻の奥に、濃い赤色のトゲトゲしたものが居座ってる。鼻をかんでも、うがいをしても消えない。もうずーっと離れてくれないんじゃないかなこれ。
 くしゃみと咳で体がきしむ。咳するのがつらい。痛い。咳が出そう……と言う前触れが出た段階で怖くなる。がまんしても止められず、そんな時の咳は結局、余計に苦しい。
 お医者さんにも行ったし、薬ももらった。だけど飲んだからすぐに効いてくれるってものじゃない。
 じっと横になって、回復を待つしかない。今はそんな時だ。
 眠ろう。
 とにかく、眠ろう。
 眠ってしまえば、その間は少なくとも解放される。この頭の奥が軋むような痛みからは……。
 目を閉じてじっとしていると、とろとろと意識が霞み始めた。そのまま力を抜いて、まどろみの中に降りて行く。ああ、よかった、これでちょっとは楽になれる、と思ったんだけど。

 甘かった。
 つるつる滑りやすいプールサイドに必死でしがみついていた。爪を立てても、指に力をこめても、ずるっと滑って落ちてしまう。
 塩辛い水の中でもがいて、浮かび上がって、首を伸ばす。
 やっとはい上がったと思ったら、またつるっと滑って後戻り。追いつめられてもがく。落ちる。もがく。一番嫌な瞬間が繰り返しループする。
 夢の中でも、苦しいのが続いてる。
 ぜい、ぜい、ひゅううう……と咽の奥から嫌な音がしている。

「く、る、し……」

 吸っても吐いても空気が通らない。
 息が、できない。

「た、す、け、て」

 ぴた、と頬に優しい手があてられた。

「あ」

 腫れ上がっていた咽が、すーっと楽になって、息ができるようになった。塩辛い水のプールも、つるつるの壁も消える。あったかい空気の中にぽわぽわと浮かんでいた。オレンジ色の淡い光に包まれて……。

 ぽやーっとしながら目を開ける。眠る前により、ちょっと楽になっていた。
 枕元に誰かいた。猫だけじゃない。犬だけじゃない。人間が、部屋の中にいる。おじさんかな、と思ったけど違うみたいだ。もっと背が低くい。髪の毛はふわふわした茶色で、心配そうにのぞき込む目は、目尻が下がっていてちょっと眠そうだ。

「よ、サクヤ」
「ゆーじさん?」

 まだ夢を見てるんだろうか?
 本当は昨日、おじさんと一緒に『エンブレイス』に行く予定だった。だけど熱を出してしまって行けなかったのだ。残念だなって思ってたから、ゆーじさんが夢に出てきたのかな。
 でも、だったらどうして自分の家なんだろう。お店じゃなくて……。

「何で俺の家にいるの? ゆーじさんがいるのはお店だよ?」
「……」

 ゆーじさんはきょとんとした顔で何か言いかけた。だけどそれより早く、ばさばさっと音がして真っ黒な翼が割り込んできた。真っ黒なくちばし、真っ黒な足。
 カラスだ。
 それもただのカラスじゃない。

「へーい、サクヤー! ないすとぅーみーちゅー!」

 人間の言葉でしゃべってる。

「あーいたかったぜべいべぇ!」
「え、え、クロウ? 何でここにいるのっ?」
「Youに会いに来たに決まってるじゃーん!  あいにーぢゅー、ゆーにーぢゅみー! 愛し合ってるかーいっ」
「こら。静かにしろ」

 ぺちっとゆーじさんが後ろから、クロウの頭を手のひらで叩いた。

「あうちっ!」
「大げさな声出すんじゃねえ! それほど強く叩いてねぇだろが」
「くわわっ、どーぶつぎゃくたいはんたーいっ」
「人聞きの悪ぃ冗談抜かすな!」

 いっぺんに目が覚めた。

「やっぱりゆーじさんだ」
「おう。寝込んだって聞いたからな。見舞いに来た」
「いぇーっ、お見舞い、お、み、ま、いーっ」
「うるせえ」

 またぺちっと叩かれてる。そんな一人と一羽の様子を、神社の三匹の猫……おはぎとみつまめ、いそべの三匹がちょっと離れた所から見ていた。三匹ともうつ伏せにうずくまり、前足を畳んできちんと香箱を作って。
 微妙な距離と、そろいもそろってぴっと臥せられた耳が語っていた。

(あ、うるさいの来た)
(うるさいの来た)

「どれ、熱は下がったかな」

 ゆーじさんは手をのばして頬に触れた。さっき、夢の中で優しい手が触れていた場所だ。

「んー、まだちょっと熱いな……冷えぴとシート、取り換えておくか」
「うん」

 おでこに貼った冷却ジェルシートは、すっかり乾いて落ち葉みたいに干からびていた。
 ちょっと引っ張っただけで、簡単にはがれてしまった。ゆーじさんは枕元に置かれた新しい袋を開けて、一枚取り出して、裏の透明なシートをはがす。けっこうコツがいるんだけど、さらっとはがしてる。

「ほれ、でこ出せ」
「ん」

 目を閉じて顎を引く。心持ち前に突き出されたおでこに、ぺとり、とやわらかなシートが触れる。
 さらにその上から、ふっくらした手のひらが丁寧にシートを押さえてくれた。

(気持ちいい……)

 うっすら開けた目に、ゆーじさんの顔が写る。さっきより近い。眼鏡無しでこの人を見るのは初めてだった。
 顎の回りがぽわぽわと、うっすら灰色に霞んでる。最初は汚れてるのかなと思ったけど、よく見たらちがっていた。

(ヒゲ?)

 剃りわすれたのかな。
 伸ばしてるのかな。
 どっちだろう?

「あ、薬のまなきゃ」
「起きられるか?」
「うん……」

 のそっと体を起こそうとしたら、上手く力が入らなかった。ずるりと崩れ落ちそうになった体が途中で止まる。

「あれ?」

 あったかい腕が、支えてくれてる。ゆーじさんが抱き留めてくれたんだなってわかるまでに、ちょっとだけ時間がかかってしまった。

「慌てなくていいから。ゆっくり、ゆっくりとな?」
「う、うん」

 すぐそばで響く穏やかな声。何だかとっても気持ちいい。
 ゆっくり、ゆっくり、あわてずに。
 ゆーじさんに支えられて布団の上に起き上がる。枕元のお盆に置かれた薬と水に手を伸ばそうとすると。
 
「あ、ちょっと待った」
「え?」

 ゆーじさんは、銀色の保冷バッグからちっちゃな丸いタッパーを取り出した。大きさはアイスクリームのカップぐらいで、多分陶器でできている。蓋を外すと、そのまま食器として使えるタイプのだ。
 小さなスプーンを添えて渡してくれた。

「これ、何?」
「シャーベットだ。薬飲む前に、何か腹に入れておいた方がいいだろ?」
「ありがとう」

 ひんやり甘いりんごのシャーベット。ちょびっとシナモンが入っていて、口に入れると淡雪みたいに溶けた。
 鼻と咽がすーっとした。火照った体に気持ちいい。どんなに冷やしても届かなかった、咽の奥が楽になる。

「これ、ゆーじさんが作ったの?」
「ああ」
「すごいなー」
「割と作るの楽だぞ。リンゴをジューサーでガーっとやって、砂糖で軽く煮て、ヨーグルトと混ぜて冷やすだけだから」
「そうなの?」
「ジュース使うと、もっと早い。あ、凍らす途中で時々かきまぜるの忘れるずにな」
「泡立て器で?」
「いや、へらのがやりやすい」
「今度作ってみる!」

 目を輝かせて話を聞くサクヤを見ながら、神楽裕二は思っていた。
 来て良かった、と。

「その前に風邪治さないとな?」
「……うん」

 薬を飲んで横になると、ぱたぱたとクロウが枕元に降りてきた。

「こもりうたうたってやろっかーっ?」
「よさんか!」
「うぐわっ」
「寝てろ、サクヤ。こいつは俺が押さえてるから」
「んぐぐぐぐぐ」

 むんずとくちばしを押さえられ、クロウは目を白黒。おかしくて、くすくす笑いながら目を閉じた。

「おやすみなさい」
「おやすみ」

 治った後に楽しいことが待ってると思うと、不思議と眠るのも怖くなくなった。

  ※

 ちょうどその頃、サンフランシスコの聖アーシェラ高校女子寮では……。
 一人の女生徒がおっかなびっくり、ルームメイトを見守っていた。今日は朝から元気がなかった。さらに夕食後、部屋に戻ったらいきなり机につっぷしてしまったのだ。
 眼鏡も外さず、そのまま。

(居眠り?)
(気絶?)
(どうしよう、誰か呼んで来た方がいいかな)

 おろおろしていると、急にがばっと起き上がった。
 
「よ、ヨーコ……大丈夫?」
「うん、平気」
「そう、なら、いいけど」

 やっぱり体調良くないのかな。いや、ひょっとしたら落ち込んでるのかも? そろそろホームシックにかかる頃合いだし。
 同じアメリカから来た自分だって寂しいんだもの。ましてこの子は、他の国から来たんだから。

「えーと、んーっと」

 この子を元気づけるには、やっぱり……

「フローズンヨーグルト食べる?」
「食べる!」

 よし、成功。

「さんくす、カリー。心配かけてごめんね」

 結城羊子は眼鏡を外して、ふっと吹いて。きゅっきゅとティッシュでレンズを拭うとかけ直し……

「もう、大丈夫」

 ほほ笑んだのだった。

(風邪引きサクヤちゃん/了)

次へ→サプライズなお客様