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▼ 【3-10-5】クリスマスとニューイヤー
2008/05/08 19:07 【三話】
買い物の帰りに、本屋の前を通りかかった時、ディフが言った。
「ちょっと寄ってかないか?」って。
あまり大きくない、人の少ないお店だったから落ちついて選ぶことができた。
好きなのを選んでいいと言われて、少し迷ってから結局料理の本を選んだ。
「それでいいのか」
「うん、いっぱい載ってるし」
「オティアは?」
「あそこ」
辞書を熱心に読んでるのを指さす。
「……面白いか、それ」
「まあまあ」
「じゃあ……それな」
自分でお金を払おうとしたら、いいんだ、と言われた。
「どうして?」
「クリスマスだから、な」
「あ」
ぶっきらぼうに答えていたけれど、ほんのりと頬の辺りが赤くなってた。
照れくさかったのかな。
渡された本はツリーの下に置かれてはいなかったし、リボンもついてはいないけれど、赤と緑の紙袋に入っていた。
何年ぶりだろう。
クリスマスプレゼントをもらうのなんて。
※ ※ ※ ※
ほんとうに、この家に来てからびっくりすることばかり次々と起きる。
でも一番驚いたのは、オティアのことかな。
警戒心をほとんど見せずに暮らしていて、本当に驚いた。
あの工場から俺が助け出されるまで、二週間ほどここで過ごしていたらしいけれど、そんなに短い時間の間に知らない人の中で、知らない家で落ちついて暮らせるようになるなんて。
今までのオティアからは考えられないことだった。
そのおかげで、俺も『ここは大丈夫なんだ』って思えたんだ。
ディフの撃たれた傷を治したのも、後から考えて失敗したかなって思ったんだけど……。
でも、ディフもレオンもヒウェルも…感謝してくれて。怖がったり、気持ち悪がったりしなかった。
「まあ、そう言うこともあるんだろう」
「“彼女”に比べりゃお前さんたちなんざ可愛いもんだしな」
なんて、妙に落ちついていて。
まるで以前にも経験したことがあるような口ぶりで、すうっと受け入れられてしまった。
おまけに、ここに居るのも事件の整理がつくまでだけかと思っていたら、事情徴収があらかた終わりかけた頃にレオンが言ったんだ。
「良ければずっと居てほしい」って。
ディフは何も言わなかったけど、レオンの隣でうなずいていた。
ちょっとだけ嬉しかった。でも、二人とも独身だし、里親登録なんて無理に決まってる。いったい、どうするんだろうと聞いたら、レオンが教えてくれた。
俺達が育ちすぎてるせいで(それとおそらく過去の経歴のせいで)、適当な里親が見つからないって連絡があったんだって。
だから、児童保護局と警察と検事とレオンで相談した結果、レオンが後見人兼保護者で、18歳まで面倒みるってことになったのだと。
俺達は養子でもなく、保護児童でもない、なんとなく中途半端な立場になった。
※ ※ ※ ※
クリスマスのお祝いは、レオンの誕生日と一緒だった。
朝は教会のミサに行った。
ヒウェルも一緒についてきたけれど、牧師さんのお話の途中で居眠りして、ディフに小突かれていた。
(一緒に来たのは、きっとオティアがいるからだ)
やがて年が明けて、2006年が始まった。
明日で休暇も終わりと言う日、ソーシャルワーカーのヨシカワさんがやってきた。
面倒見のいいふくふくしたおばさんで、年齢は四十歳くらいかな? 日系の人って若く見えるから、よくわからないや。
俺たちの担当になった人なんだけど、たまたま顔を合わせたヒウェルが珍しく背筋を伸ばして、ものすごくかしこまって挨拶していた。
「昔、世話になったんだよ……」
そんなに長く勤めてるんだ。
今日、彼女がやってきたのは、俺たちの学校のこと。
高校は義務教育だから行かないといけない。けれど、俺もオティアも行く気にならなかった。
レオンはすぐに編入手続きできるよって言ってくれた。でも学校に行けなかった時期もあったし、ずっと転校を繰り返してたから、あまり良い思い出もない。
……本当を言うと、学校はできれば行きたい場所じゃない。
落ち着くまではってずっと保留にしてもらってたけど、先にバイトはじめちゃったから、ディフが気にしてるみたいだ。
「だったらホームスクーリングを考えてみたらどうかしら? 家で勉強することもできるのよ」
そう言って、ヨシカワさんは学校の資料を渡してくれた。
「それから……この間のこと、考えてみてくれた?」
俺も、オティアも、カウンセリングに行くように薦められている。
レオンも同じ考えみたいだけど、強く言われたことはない。
「……ごめんなさい」
「そう。じゃあ気が向いたらいつでも連絡してね」
彼女は決して無理強いはしない。いくつかの選択肢を示すだけで、あとは辛抱強く待ってくれる。俺たちが自分から動き出すのを。
何となく、ヒウェルがこの人の前ではきちんとしてる理由がわかるような気がする。
確かに俺たちは普通じゃ考えられないくらい恐ろしい経験をした。
道を歩いていて、いきなり後ろからぐいっと捕まえられて、暗い車の中に押し込まれ、連れて行かれた。
あの山の中の工場に……。
今でも人に触られるのは恐ろしい。
俺もそうだけど、オティアが…落ち着いているのは、なんだか怖くもある。俺なんかよりずっと、酷い目にあったのに。
以前はもっと、いつでも気を張っていたし、他人のために心を配るなんてことは一切なかった。
あの施設で別れてから、ほんの少し会わない間に、なんだかすごく変わってしまったんじゃないかって思う。
ずっと、一緒だった。
二人で一人。お互いがこの世界で唯一の大切な存在。
同じものを見て。
同じことを思って。
同じステップで歩いてきた。
すぐ隣にいるはずなのに、このごろは二人が別々の『一人』になる瞬間が、少しずつ増えているような気がする。
それは、良いことなんだろうけど……。
もうすぐ夕飯の時間だ。手伝いに行かなきゃ。
すっとオティアが本を閉じて立ち上がる。
いつものように並んでキッチンに向かった。
今の生活は楽しい。
でも時々、すごく不安になる。
ある日ふっと何もかも夢のように消えてしまうんじゃないかって。
ずっと前に、セーブルのパパとママが亡くなった時みたいに。
次へ→【3-10-6】踏み込まれたくないこと
「ちょっと寄ってかないか?」って。
あまり大きくない、人の少ないお店だったから落ちついて選ぶことができた。
好きなのを選んでいいと言われて、少し迷ってから結局料理の本を選んだ。
「それでいいのか」
「うん、いっぱい載ってるし」
「オティアは?」
「あそこ」
辞書を熱心に読んでるのを指さす。
「……面白いか、それ」
「まあまあ」
「じゃあ……それな」
自分でお金を払おうとしたら、いいんだ、と言われた。
「どうして?」
「クリスマスだから、な」
「あ」
ぶっきらぼうに答えていたけれど、ほんのりと頬の辺りが赤くなってた。
照れくさかったのかな。
渡された本はツリーの下に置かれてはいなかったし、リボンもついてはいないけれど、赤と緑の紙袋に入っていた。
何年ぶりだろう。
クリスマスプレゼントをもらうのなんて。
※ ※ ※ ※
ほんとうに、この家に来てからびっくりすることばかり次々と起きる。
でも一番驚いたのは、オティアのことかな。
警戒心をほとんど見せずに暮らしていて、本当に驚いた。
あの工場から俺が助け出されるまで、二週間ほどここで過ごしていたらしいけれど、そんなに短い時間の間に知らない人の中で、知らない家で落ちついて暮らせるようになるなんて。
今までのオティアからは考えられないことだった。
そのおかげで、俺も『ここは大丈夫なんだ』って思えたんだ。
ディフの撃たれた傷を治したのも、後から考えて失敗したかなって思ったんだけど……。
でも、ディフもレオンもヒウェルも…感謝してくれて。怖がったり、気持ち悪がったりしなかった。
「まあ、そう言うこともあるんだろう」
「“彼女”に比べりゃお前さんたちなんざ可愛いもんだしな」
なんて、妙に落ちついていて。
まるで以前にも経験したことがあるような口ぶりで、すうっと受け入れられてしまった。
おまけに、ここに居るのも事件の整理がつくまでだけかと思っていたら、事情徴収があらかた終わりかけた頃にレオンが言ったんだ。
「良ければずっと居てほしい」って。
ディフは何も言わなかったけど、レオンの隣でうなずいていた。
ちょっとだけ嬉しかった。でも、二人とも独身だし、里親登録なんて無理に決まってる。いったい、どうするんだろうと聞いたら、レオンが教えてくれた。
俺達が育ちすぎてるせいで(それとおそらく過去の経歴のせいで)、適当な里親が見つからないって連絡があったんだって。
だから、児童保護局と警察と検事とレオンで相談した結果、レオンが後見人兼保護者で、18歳まで面倒みるってことになったのだと。
俺達は養子でもなく、保護児童でもない、なんとなく中途半端な立場になった。
※ ※ ※ ※
クリスマスのお祝いは、レオンの誕生日と一緒だった。
朝は教会のミサに行った。
ヒウェルも一緒についてきたけれど、牧師さんのお話の途中で居眠りして、ディフに小突かれていた。
(一緒に来たのは、きっとオティアがいるからだ)
やがて年が明けて、2006年が始まった。
明日で休暇も終わりと言う日、ソーシャルワーカーのヨシカワさんがやってきた。
面倒見のいいふくふくしたおばさんで、年齢は四十歳くらいかな? 日系の人って若く見えるから、よくわからないや。
俺たちの担当になった人なんだけど、たまたま顔を合わせたヒウェルが珍しく背筋を伸ばして、ものすごくかしこまって挨拶していた。
「昔、世話になったんだよ……」
そんなに長く勤めてるんだ。
今日、彼女がやってきたのは、俺たちの学校のこと。
高校は義務教育だから行かないといけない。けれど、俺もオティアも行く気にならなかった。
レオンはすぐに編入手続きできるよって言ってくれた。でも学校に行けなかった時期もあったし、ずっと転校を繰り返してたから、あまり良い思い出もない。
……本当を言うと、学校はできれば行きたい場所じゃない。
落ち着くまではってずっと保留にしてもらってたけど、先にバイトはじめちゃったから、ディフが気にしてるみたいだ。
「だったらホームスクーリングを考えてみたらどうかしら? 家で勉強することもできるのよ」
そう言って、ヨシカワさんは学校の資料を渡してくれた。
「それから……この間のこと、考えてみてくれた?」
俺も、オティアも、カウンセリングに行くように薦められている。
レオンも同じ考えみたいだけど、強く言われたことはない。
「……ごめんなさい」
「そう。じゃあ気が向いたらいつでも連絡してね」
彼女は決して無理強いはしない。いくつかの選択肢を示すだけで、あとは辛抱強く待ってくれる。俺たちが自分から動き出すのを。
何となく、ヒウェルがこの人の前ではきちんとしてる理由がわかるような気がする。
確かに俺たちは普通じゃ考えられないくらい恐ろしい経験をした。
道を歩いていて、いきなり後ろからぐいっと捕まえられて、暗い車の中に押し込まれ、連れて行かれた。
あの山の中の工場に……。
今でも人に触られるのは恐ろしい。
俺もそうだけど、オティアが…落ち着いているのは、なんだか怖くもある。俺なんかよりずっと、酷い目にあったのに。
以前はもっと、いつでも気を張っていたし、他人のために心を配るなんてことは一切なかった。
あの施設で別れてから、ほんの少し会わない間に、なんだかすごく変わってしまったんじゃないかって思う。
ずっと、一緒だった。
二人で一人。お互いがこの世界で唯一の大切な存在。
同じものを見て。
同じことを思って。
同じステップで歩いてきた。
すぐ隣にいるはずなのに、このごろは二人が別々の『一人』になる瞬間が、少しずつ増えているような気がする。
それは、良いことなんだろうけど……。
もうすぐ夕飯の時間だ。手伝いに行かなきゃ。
すっとオティアが本を閉じて立ち上がる。
いつものように並んでキッチンに向かった。
今の生活は楽しい。
でも時々、すごく不安になる。
ある日ふっと何もかも夢のように消えてしまうんじゃないかって。
ずっと前に、セーブルのパパとママが亡くなった時みたいに。
次へ→【3-10-6】踏み込まれたくないこと
▼ 【3-10-6】踏み込まれたくないこと
2008/05/08 19:08 【三話】
年が明けた。
結局、お袋に前もって言っておいたようにクリスマスもニューイヤーも実家には帰らず、カードとプレゼントだけ送った。
休暇の間はずっと隣に詰めっぱなしで、双子と過ごす時間が増えた。
もちろん、レオンとも。
だから気づいたのだろう。シエンの変化に。
朝のミルクを飲む時も、食後のお茶を飲む時も、赤いグリフォンのマグカップを嬉しそうに両手で抱え込んで。
飲み終わると大事そうに洗って食器棚にしまう。
あいつがほほ笑みかけてる相手はカップじゃない。問題はカップをくれた奴なんだと気づくのに、いくらも時間はかからなかった。
夕食の後、ヒウェルが帰ってから思い切って聞いてみた。
「もしかしてシエン、お前……ヒウェルのこと気になってたりする、か?」
「…別に、そんなことは…」
「家族の中で隠し事ってのは無しにしようぜ」
言ってしまってから急に不安になる。こめかみが疼く。やたらと脈拍が早い。
俺にとって、双子は家族だ。でもシエンはどう思っているのだろう?
確信さえ持てぬまま、早まったことを口にしてしまったのではなかろうか。ああ、でも今さら後戻りはできやしないし。
沈黙がやけに長く感じられる。冷や汗が流れそうだ。
「そんなんじゃないんだ。ただ……ちょっと、寂しい…かな…」
「オティアをとられるみたいで?」
「…」
うつむいてしまった。
「シエン?」
かがんで下からじーっと見上げると、顔をそむけてそのまま部屋を出て行こうとする。
「ごめん…なさい…」
「待てよ。なんであやまる?」
「今は…言いたく…ない」
「……そうか」
もふっと頭をなでた。
シエンはいつも謝る。ちっとも悪いことなんかしていないのに。ごめんなさい、を聞くたびにチクリと胸の奥がうずく。
「な……悩みがあるなら………ママに言ってみろ……言うだけでも楽になることって、あるから、さ」
決死の覚悟で言った言葉に答えは返ってこなかった。
すっと俺の手の下から抜け出し、行っちまった。
どうしようか。
このまま放っておいた方がいいんだろうか。もしかして俺は、出すぎたマネをしようとしてるのだろうか?
迷いながら部屋の前まで行く。ドアは開いていた。のぞきこむと、ベッドの上に座ってぼんやりしている。
「……シエン?」
遠慮がちにノックすると、のろのろと顔を上げた。
「…ぁ」
「ごめん。でも心配なんだ」
「大丈夫、だから」
「大丈夫って顔じゃないぞ」
部屋の中に足を踏み入れる。
「俺、過保護かな」
「誰だって、踏み込まれたくないことは、あるだろ」
「前に約束したろ。お前は俺が守るって。あれは…まだ有効だからな。この先ずっとだ」
「……」
シエンにしては珍しく厳しい顔つきでにらまれた。
やっちまった。
だけどここで尻尾を巻いて逃げ出す訳には行かない。自分の打ったはずれ弾の行方は最後まで見届けよう。だからそらさず、見返した。
鋭い煌めきを宿した、紫の瞳を。
「誤解すんな。そう言う意味じゃない」
「どういう意味でもいいけど。無条件にそういう言葉を信じられるような育ち方をしてないんだ、俺達は」
「……すまん」
「出てって。でないと、酷いこと言ってしまいそうで……怖い」
背中を向けて部屋を出ようとして、一旦足を止める。
「どんな酷いこと言われても。信じられないって言われても……俺はお前を守るよ………それだけでいい」
部屋を出ると廊下でオティアとばったり顔を合わせた。
にらまれる。
さっきのシエンそっくりの表情だ。
「早く行ってやれ」とだけ言って、足早にリビングに戻った。
(ちくしょう、やっちまった)
奥歯を噛みしめる。閉じた喉の奥で己を恥じる気持ちと、悔しさと、苛立ちがうずまき、荒れ狂う。
親父に罵倒された時だって、今ほど堪えはしなかった。
次へ→【3-10-7】ぱぱとまま
結局、お袋に前もって言っておいたようにクリスマスもニューイヤーも実家には帰らず、カードとプレゼントだけ送った。
休暇の間はずっと隣に詰めっぱなしで、双子と過ごす時間が増えた。
もちろん、レオンとも。
だから気づいたのだろう。シエンの変化に。
朝のミルクを飲む時も、食後のお茶を飲む時も、赤いグリフォンのマグカップを嬉しそうに両手で抱え込んで。
飲み終わると大事そうに洗って食器棚にしまう。
あいつがほほ笑みかけてる相手はカップじゃない。問題はカップをくれた奴なんだと気づくのに、いくらも時間はかからなかった。
夕食の後、ヒウェルが帰ってから思い切って聞いてみた。
「もしかしてシエン、お前……ヒウェルのこと気になってたりする、か?」
「…別に、そんなことは…」
「家族の中で隠し事ってのは無しにしようぜ」
言ってしまってから急に不安になる。こめかみが疼く。やたらと脈拍が早い。
俺にとって、双子は家族だ。でもシエンはどう思っているのだろう?
確信さえ持てぬまま、早まったことを口にしてしまったのではなかろうか。ああ、でも今さら後戻りはできやしないし。
沈黙がやけに長く感じられる。冷や汗が流れそうだ。
「そんなんじゃないんだ。ただ……ちょっと、寂しい…かな…」
「オティアをとられるみたいで?」
「…」
うつむいてしまった。
「シエン?」
かがんで下からじーっと見上げると、顔をそむけてそのまま部屋を出て行こうとする。
「ごめん…なさい…」
「待てよ。なんであやまる?」
「今は…言いたく…ない」
「……そうか」
もふっと頭をなでた。
シエンはいつも謝る。ちっとも悪いことなんかしていないのに。ごめんなさい、を聞くたびにチクリと胸の奥がうずく。
「な……悩みがあるなら………ママに言ってみろ……言うだけでも楽になることって、あるから、さ」
決死の覚悟で言った言葉に答えは返ってこなかった。
すっと俺の手の下から抜け出し、行っちまった。
どうしようか。
このまま放っておいた方がいいんだろうか。もしかして俺は、出すぎたマネをしようとしてるのだろうか?
迷いながら部屋の前まで行く。ドアは開いていた。のぞきこむと、ベッドの上に座ってぼんやりしている。
「……シエン?」
遠慮がちにノックすると、のろのろと顔を上げた。
「…ぁ」
「ごめん。でも心配なんだ」
「大丈夫、だから」
「大丈夫って顔じゃないぞ」
部屋の中に足を踏み入れる。
「俺、過保護かな」
「誰だって、踏み込まれたくないことは、あるだろ」
「前に約束したろ。お前は俺が守るって。あれは…まだ有効だからな。この先ずっとだ」
「……」
シエンにしては珍しく厳しい顔つきでにらまれた。
やっちまった。
だけどここで尻尾を巻いて逃げ出す訳には行かない。自分の打ったはずれ弾の行方は最後まで見届けよう。だからそらさず、見返した。
鋭い煌めきを宿した、紫の瞳を。
「誤解すんな。そう言う意味じゃない」
「どういう意味でもいいけど。無条件にそういう言葉を信じられるような育ち方をしてないんだ、俺達は」
「……すまん」
「出てって。でないと、酷いこと言ってしまいそうで……怖い」
背中を向けて部屋を出ようとして、一旦足を止める。
「どんな酷いこと言われても。信じられないって言われても……俺はお前を守るよ………それだけでいい」
部屋を出ると廊下でオティアとばったり顔を合わせた。
にらまれる。
さっきのシエンそっくりの表情だ。
「早く行ってやれ」とだけ言って、足早にリビングに戻った。
(ちくしょう、やっちまった)
奥歯を噛みしめる。閉じた喉の奥で己を恥じる気持ちと、悔しさと、苛立ちがうずまき、荒れ狂う。
親父に罵倒された時だって、今ほど堪えはしなかった。
次へ→【3-10-7】ぱぱとまま
▼ 【3-10-7】ぱぱとまま
2008/05/08 19:09 【三話】
リビングには誰もいなかった。
どうする? このまま自分の部屋に戻るか?
迷ってから、書斎に向かい、小さくドアをノックした。
「どうぞ。遠慮しなくていいよ、これは仕事じゃないから」
「……そうか」
ほっとして中に入る。
机に座ってレオンが書類の束を読んでいた。昼間、ソーシャルワーカーから渡された学校の資料だ。
「色々見てみたけれど……まず本人達の希望を聞かないとだめだな」
ぽい、とまとめて机の上にほうりだした。
「言ってくれるかな。自分たちから、こうしたいって。あの子たちがどうしてほしいのか。何を必要としているのか。答えにたどり着くまでの道が…長い」
「まだ遠慮もあるだろうしね。どんな方法をとるにせよ」
机の上に学校の案内書がぱらりと広がる。まるでトランプだな。
手を伸ばし、手のひらを滑らせる。
けっこうな数があるもんだ。
「……たまに思うよ。何やってるんだろう、俺って」
「そうだな。不思議な関係ではあるね。」
「独身で、子どももいなくて、しかもゲイの男が見ず知らずの子どもの世話する。普通じゃないよな」
ついさっき見たばかりのシエンの顔を。言われた言葉を思い出す。
浮かぶ笑いが苦さを含む。
あの子は俺を『まま』だと言った。レオンが『ぱぱ』だと。うれしくてつい鵜呑みにしちまったけど……。
「あの子達から見たら、君も俺も、ただの第三者だからね」
レオンの言葉にうなずく。
そうだ。
その通りなんだ。何故、その明確な事実が見えなかったんだろう? どうかしてる。我ながら呆れるよ、心底。
シエンの言う『ぱぱ』も。『まま』も。子どもが親を呼ぶ時の『パパ』や『ママ』とは微妙に意味合いが違う。
ただの記号、この家の中で果たしている役割を言い表したに過ぎない。
俺はまだ、あの子たちの『親』を演じるには未熟すぎる。
フリすらできていないのだ。
ヒウェルみたいに同じ境遇にいたわけでもない。信用しろって方が難しい。まして悩みを打ち明けろ、だなんて……虫が良すぎる。
警戒されて当然なんだ。
「…………レオン」
「何だい?」
「これまで何度かあの子たちみたいな子どもを保護したことがある。でも警察の役目はあくまで犯罪の追求だ」
「ああ」
「保護した子を相応しい施設かしかるべき人間に渡して、その先は……手が届かない。その子が幸せかどうか、判断するのは俺の役目じゃない」
ぎりっと唇を噛み締める。苦い記憶を紐解きながら。
「明らかに不幸になるとわかっているのに、黙って見送るしかなかったケースもある」
「それが法律だからね」
うなずき、言葉を続けた。
「シエンとオティア。再会した二人が抱き合ってるの見て思ったんだ。この子たちは自分で受けとめたいって。他の誰かに渡すんじゃない。俺のこの手で、大人になるまで守りたいって」
「ある意味丁度良かったというのかな。あの子たちを引き取る里親が見つからなかったのは」
「……幸運……だったのかな………。似てるんだ。十年前に、お前と初めて会った時の感じに……」
ためらってから手をのばし、レオンの髪の毛を撫でる。目の前の彼の向こうに、出会った頃の『彼』を。十六歳の少年の面影をなぞりながら。
「俺かい?」
「ああ。あの時お前、十六だったろ? 双子と同じ年だ」
あの時、漠然と感じたのだ。
彼には何か欠けているものがある。
自分でもそれと知らずに求めているものがある。ひょっとしたらそれは、俺が持っていて……分ち合うことができるんじゃないかって。
「突然同室者ができるって聞いてびっくりしたけどね」
「ん……一緒の部屋の奴がさ。鍋のフタ足におっことして。謝ったんだけど『もうお前みたいなガサツな奴とは一秒だって同室はお断りだー!』ってえっらい剣幕でね」
「それで俺のところに来たのか」
「まあ……な。他に空きがなかったんだ。時期が時期だったし。そんな理由でアパート暮らしを許可してくれるような親父じゃなかったし」
レオンがほほ笑む。それだけで、喉の奥で荒れ狂っていた苦い嵐がすうっと収まるような気がした。
「幸運だったというべきなのかな」
「そう思ってくれるのか?」
頬に手を当ててじっとのぞきこんだ。透き通ったかっ色の瞳を。入れたばかりの紅茶みたいにあったかくて、いつまで見ていても飽きない。
「君に会わなければ、今ここでこうしていることもなかった」
かすかな笑みが口元に浮かぶ。もう、さっきみたいに苦さを含んではいない。
「あの子達だって、助けられなかっただろ?」
「……うん……。多分、お前と、ヒウェルと、俺と。一人欠けても無理だった」
「俺達もあの子達に助けられてる」
こくっとうなずいて肩に頭を預けた。
「時間はかかるだろうが……あの子達にもきっとわかるさ」
「そうあってほしいと願ってる」
目を閉じて手をにぎった。
「ありがとな、レオン」
握り合わせた手に温かく、柔らかな感触が押し当てられる。顔を上げ、うっすらと目をひらいてほほ笑みかける。
騎士が贈るような、手の甲へのキス。
似合い過ぎだ、レオン。握ってるのがごっつい野郎の手ってあたりがちとしまらないが。
やばいな、顔が、熱くなってきた。
ほんの少しだけ。
結局、その夜もレオンの部屋に泊まった。
次へ→【3-10-8】最低な俺
どうする? このまま自分の部屋に戻るか?
迷ってから、書斎に向かい、小さくドアをノックした。
「どうぞ。遠慮しなくていいよ、これは仕事じゃないから」
「……そうか」
ほっとして中に入る。
机に座ってレオンが書類の束を読んでいた。昼間、ソーシャルワーカーから渡された学校の資料だ。
「色々見てみたけれど……まず本人達の希望を聞かないとだめだな」
ぽい、とまとめて机の上にほうりだした。
「言ってくれるかな。自分たちから、こうしたいって。あの子たちがどうしてほしいのか。何を必要としているのか。答えにたどり着くまでの道が…長い」
「まだ遠慮もあるだろうしね。どんな方法をとるにせよ」
机の上に学校の案内書がぱらりと広がる。まるでトランプだな。
手を伸ばし、手のひらを滑らせる。
けっこうな数があるもんだ。
「……たまに思うよ。何やってるんだろう、俺って」
「そうだな。不思議な関係ではあるね。」
「独身で、子どももいなくて、しかもゲイの男が見ず知らずの子どもの世話する。普通じゃないよな」
ついさっき見たばかりのシエンの顔を。言われた言葉を思い出す。
浮かぶ笑いが苦さを含む。
あの子は俺を『まま』だと言った。レオンが『ぱぱ』だと。うれしくてつい鵜呑みにしちまったけど……。
「あの子達から見たら、君も俺も、ただの第三者だからね」
レオンの言葉にうなずく。
そうだ。
その通りなんだ。何故、その明確な事実が見えなかったんだろう? どうかしてる。我ながら呆れるよ、心底。
シエンの言う『ぱぱ』も。『まま』も。子どもが親を呼ぶ時の『パパ』や『ママ』とは微妙に意味合いが違う。
ただの記号、この家の中で果たしている役割を言い表したに過ぎない。
俺はまだ、あの子たちの『親』を演じるには未熟すぎる。
フリすらできていないのだ。
ヒウェルみたいに同じ境遇にいたわけでもない。信用しろって方が難しい。まして悩みを打ち明けろ、だなんて……虫が良すぎる。
警戒されて当然なんだ。
「…………レオン」
「何だい?」
「これまで何度かあの子たちみたいな子どもを保護したことがある。でも警察の役目はあくまで犯罪の追求だ」
「ああ」
「保護した子を相応しい施設かしかるべき人間に渡して、その先は……手が届かない。その子が幸せかどうか、判断するのは俺の役目じゃない」
ぎりっと唇を噛み締める。苦い記憶を紐解きながら。
「明らかに不幸になるとわかっているのに、黙って見送るしかなかったケースもある」
「それが法律だからね」
うなずき、言葉を続けた。
「シエンとオティア。再会した二人が抱き合ってるの見て思ったんだ。この子たちは自分で受けとめたいって。他の誰かに渡すんじゃない。俺のこの手で、大人になるまで守りたいって」
「ある意味丁度良かったというのかな。あの子たちを引き取る里親が見つからなかったのは」
「……幸運……だったのかな………。似てるんだ。十年前に、お前と初めて会った時の感じに……」
ためらってから手をのばし、レオンの髪の毛を撫でる。目の前の彼の向こうに、出会った頃の『彼』を。十六歳の少年の面影をなぞりながら。
「俺かい?」
「ああ。あの時お前、十六だったろ? 双子と同じ年だ」
あの時、漠然と感じたのだ。
彼には何か欠けているものがある。
自分でもそれと知らずに求めているものがある。ひょっとしたらそれは、俺が持っていて……分ち合うことができるんじゃないかって。
「突然同室者ができるって聞いてびっくりしたけどね」
「ん……一緒の部屋の奴がさ。鍋のフタ足におっことして。謝ったんだけど『もうお前みたいなガサツな奴とは一秒だって同室はお断りだー!』ってえっらい剣幕でね」
「それで俺のところに来たのか」
「まあ……な。他に空きがなかったんだ。時期が時期だったし。そんな理由でアパート暮らしを許可してくれるような親父じゃなかったし」
レオンがほほ笑む。それだけで、喉の奥で荒れ狂っていた苦い嵐がすうっと収まるような気がした。
「幸運だったというべきなのかな」
「そう思ってくれるのか?」
頬に手を当ててじっとのぞきこんだ。透き通ったかっ色の瞳を。入れたばかりの紅茶みたいにあったかくて、いつまで見ていても飽きない。
「君に会わなければ、今ここでこうしていることもなかった」
かすかな笑みが口元に浮かぶ。もう、さっきみたいに苦さを含んではいない。
「あの子達だって、助けられなかっただろ?」
「……うん……。多分、お前と、ヒウェルと、俺と。一人欠けても無理だった」
「俺達もあの子達に助けられてる」
こくっとうなずいて肩に頭を預けた。
「時間はかかるだろうが……あの子達にもきっとわかるさ」
「そうあってほしいと願ってる」
目を閉じて手をにぎった。
「ありがとな、レオン」
握り合わせた手に温かく、柔らかな感触が押し当てられる。顔を上げ、うっすらと目をひらいてほほ笑みかける。
騎士が贈るような、手の甲へのキス。
似合い過ぎだ、レオン。握ってるのがごっつい野郎の手ってあたりがちとしまらないが。
やばいな、顔が、熱くなってきた。
ほんの少しだけ。
結局、その夜もレオンの部屋に泊まった。
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▼ 【3-10-8】最低な俺
2008/05/08 19:13 【三話】
小さい頃、夜中にふっと目を覚まして眠れなくなる事があった。
確かに目を覚ましているはずなのに、部屋ん中はしーんと静まり返って。見えるもの全てが黒に近い濃い紺色に塗りつぶされていて。
まだ、さっき見ていた夢の中にいるような気がした。
電気のスイッチをひねればすぐに明るくなって、そんな錯覚、消し飛んでしまう。わかってるのにベッドの中から動くことができず、ひっそりと息をひそめていた。
ひしひしと目に見えない壁みたいなものが四方八方から押し寄せてきて、ちょっとでも動いたら最後、つぶされそうで……怖くて指一本動かせなかった。
そんな時、できるだけ楽しいことを空想して気を紛らわせたもんだ。
俺は一人じゃない。この家に泊まりにきてるだけなんだ。
メイリールの両親はまだ生きていて、遠くの町に住んでいる。兄弟だって生まれてる。
妹がいいかな……いや、弟だな。
弟はまだちっちゃいから両親と一緒にいて、ずっと待ってるんだ。いつの日か、俺が会いに行くのを。
だから俺は一人じゃない。
そうやって幻の家族の思い出を心に描きながら時間をつぶした。気まぐれな眠気がまた戻ってくるその瞬間まで。
※ ※ ※ ※
年が明けて二週間ほど経ったある日。馴染みの編集者が打ち合わせに来たんだが(俺の事務所は自宅と兼ねてる)、ドア開けるなり言いやがった。
「おやあ? 部屋、まちがえたかな」
「ジョーイ……大概に失礼な言い草だねおい」
「いや、だってお前、部屋ん中に陽の光がさしてるし! 何てったって壁が見えるし、床もある。こいつあ驚きだね。どんな奇跡が起きたんだ?」
いい奴なんだけどなあ。微妙に、うるさいんだよこの男は。
確かに部屋が見違えるほど片付いてたのは認めよう。昨日、シエンが来てくれたばかりなのだから。
「コーヒー飲むか?」
「いや、遠慮しとく。いやあ、しかし、あの魔窟がここまで人間の住処になるとはねえ」
「ジョーイ。仕事の話、しようぜ」
「そうだった」
ざらっと書類鞄の中から取り出したのは分厚い封筒。その中からは大量の文字の印刷された紙の束。字詰めもページ割りもできあがりの本と同じ……いわゆるゲラ刷りってやつだ。
クリスマス休暇前に突貫でやってたやつがようやくここまで形になったのである。
「なー、どーせこれって作家先生の直しも入ってんだろー? 先生が自分でやればいいじゃん、ゲラ刷りのチェックなんて」
「なあ、ヒウェル。そのえらーい作家先生が原稿書く暇ないからってんでお前さんに仕事依頼したのよ?」
「ああ、そうだったな」
実名の出ない分、ギャラはいい。その点、ここの出版社は考慮してくれてるので助かっている。たまにどう考えたって割の合わないやっすい原稿料で使いつぶされる事もあるのだ。
「そんな忙しい人が。いちいちチェックなんかしてる暇あるわけないだろ」
「……ま、そりゃそーだ」
「それに、ゲラの確認はウチじゃ書いた本人にやらせるのがモットーなのよ。ゴーストだろうと、実名だろうとね」
「へいへい」
赤ペン片手に俺がゲラ刷りの文字を細かくチェックしている間中、ジョーイはぐるぐると部屋の中を歩き回る。檻の中のクマみたいに、うろうろ、ぐるぐると。
「ジョーイ」
「何だい、もう終わった?」
「いや……気が散るんだけど」
「おおっと、こりゃ失礼。何しろ、今までのお前さんの部屋ときたら、『狂王の試練場』もかくやって魔窟だったしなあ」
「大げさだなあ。地下十層もないぞ?」
「歩きたくても、歩く場所がなかった。それをここまできれいにするなんてさ。これはもう……」
いきなりばっと両手を広げて天を仰ぎやがった。まるで宗教画のパロディみたいに半端にうやうやしげな表情をうかべて。
「愛だよ。愛の力しかない」
たっぷり五秒ほど硬直してから奴のそばに歩み寄り、ぱたぱたと目の前で手を振った。
「もっしもーし、もどってこーい」
「恋人、できたんだろ?」
「あ……いや……そんなんじゃ……ないんだ」
「隠すな。ひと目見りゃわかるって! 遊び人は返上か? 憎いね、この、このこのっ!」
「………仕事しようぜ、ジョーイ」
「おっと」
幸か不幸かけっこう時間的に切羽詰まってたもんだから。その後は二人とも一心不乱に仕事をして、2時間後にげっそりした顔でジョーイはチェックの終わったゲラ刷りの束を抱えて帰って行った。
「それじゃあ、またな」
「おつかれさーん」
送り出してから、ふう、とため息をつく。改めてきちんと片付いた部屋の中を見回し
「………俺って…最低だぁ……」
頭を抱えた。
※ ※ ※ ※
そんなことがあってから三日後。
今やすっかりおなじみになった、パステルグリーンのストライプのエプロンがちょこまかと動き回り、甲斐甲斐しく掃除をしている。
本当に楽しそうに。
心の底から楽しそうに。
(胸が痛い)
「シエン」
「なぁに?」
「……カプチーノ、飲むか」
「うん」
手をとめてうれしそうに近づいて来る。
「お前が掃除してくれたおかげで、カプチーノメーカーが発掘できたから」
金属製の二層式のヤカンに似た器にコーヒーと牛乳を入れて、火にかける。内部はサイフォンになっていて、5分ほどでジュワーっと泡立ったミルクが噴き上がってくる。
頃合いを見計らって、フタを開けて密封状態を解除する。けっこうコツがいるのだが、今回は上手いこといったらしい。
「よし、できたっと……」
ふわふわにあわ立てたミルクの入ったコーヒーをひとくち飲むなり、シエンはぱあっと顔を輝かせた。
「これすごい美味しい!」
「そうか……あ」
ひょい、とティッシュを引き抜いてさし出す。
「口…ミルクついてる」
「あ……ありがと……」
ほんのりと頬を染めて拭いている。
あ、くそ。
可愛いなあ……。
弟はまだちっちゃいから両親と一緒にいて、ずっと待ってるんだ。いつの日か、俺が会いに行くのを。
『もう掃除には来なくていいよ』
何故、その一言が言えないのか。
言えない。絶対に言えない。言ったらきっと、こいつを泣かせちまう。
それだけは、できない。
したくない。
(だからって、このままでいいはずがない)
両手でカップを抱えて、こくこくとカプチーノを飲むシエンを見守りながら、意を決して口を開く。
よし、言うぞ。
「飲みたくなったら、言ってくれ。いつでも作るよ……カプチーノ」
「うん」
…………………………………………………………………………だめだ。
(やっぱり俺って、最低かもしれない)
次へ→【3-10-9】love,you…
確かに目を覚ましているはずなのに、部屋ん中はしーんと静まり返って。見えるもの全てが黒に近い濃い紺色に塗りつぶされていて。
まだ、さっき見ていた夢の中にいるような気がした。
電気のスイッチをひねればすぐに明るくなって、そんな錯覚、消し飛んでしまう。わかってるのにベッドの中から動くことができず、ひっそりと息をひそめていた。
ひしひしと目に見えない壁みたいなものが四方八方から押し寄せてきて、ちょっとでも動いたら最後、つぶされそうで……怖くて指一本動かせなかった。
そんな時、できるだけ楽しいことを空想して気を紛らわせたもんだ。
俺は一人じゃない。この家に泊まりにきてるだけなんだ。
メイリールの両親はまだ生きていて、遠くの町に住んでいる。兄弟だって生まれてる。
妹がいいかな……いや、弟だな。
弟はまだちっちゃいから両親と一緒にいて、ずっと待ってるんだ。いつの日か、俺が会いに行くのを。
だから俺は一人じゃない。
そうやって幻の家族の思い出を心に描きながら時間をつぶした。気まぐれな眠気がまた戻ってくるその瞬間まで。
※ ※ ※ ※
年が明けて二週間ほど経ったある日。馴染みの編集者が打ち合わせに来たんだが(俺の事務所は自宅と兼ねてる)、ドア開けるなり言いやがった。
「おやあ? 部屋、まちがえたかな」
「ジョーイ……大概に失礼な言い草だねおい」
「いや、だってお前、部屋ん中に陽の光がさしてるし! 何てったって壁が見えるし、床もある。こいつあ驚きだね。どんな奇跡が起きたんだ?」
いい奴なんだけどなあ。微妙に、うるさいんだよこの男は。
確かに部屋が見違えるほど片付いてたのは認めよう。昨日、シエンが来てくれたばかりなのだから。
「コーヒー飲むか?」
「いや、遠慮しとく。いやあ、しかし、あの魔窟がここまで人間の住処になるとはねえ」
「ジョーイ。仕事の話、しようぜ」
「そうだった」
ざらっと書類鞄の中から取り出したのは分厚い封筒。その中からは大量の文字の印刷された紙の束。字詰めもページ割りもできあがりの本と同じ……いわゆるゲラ刷りってやつだ。
クリスマス休暇前に突貫でやってたやつがようやくここまで形になったのである。
「なー、どーせこれって作家先生の直しも入ってんだろー? 先生が自分でやればいいじゃん、ゲラ刷りのチェックなんて」
「なあ、ヒウェル。そのえらーい作家先生が原稿書く暇ないからってんでお前さんに仕事依頼したのよ?」
「ああ、そうだったな」
実名の出ない分、ギャラはいい。その点、ここの出版社は考慮してくれてるので助かっている。たまにどう考えたって割の合わないやっすい原稿料で使いつぶされる事もあるのだ。
「そんな忙しい人が。いちいちチェックなんかしてる暇あるわけないだろ」
「……ま、そりゃそーだ」
「それに、ゲラの確認はウチじゃ書いた本人にやらせるのがモットーなのよ。ゴーストだろうと、実名だろうとね」
「へいへい」
赤ペン片手に俺がゲラ刷りの文字を細かくチェックしている間中、ジョーイはぐるぐると部屋の中を歩き回る。檻の中のクマみたいに、うろうろ、ぐるぐると。
「ジョーイ」
「何だい、もう終わった?」
「いや……気が散るんだけど」
「おおっと、こりゃ失礼。何しろ、今までのお前さんの部屋ときたら、『狂王の試練場』もかくやって魔窟だったしなあ」
「大げさだなあ。地下十層もないぞ?」
「歩きたくても、歩く場所がなかった。それをここまできれいにするなんてさ。これはもう……」
いきなりばっと両手を広げて天を仰ぎやがった。まるで宗教画のパロディみたいに半端にうやうやしげな表情をうかべて。
「愛だよ。愛の力しかない」
たっぷり五秒ほど硬直してから奴のそばに歩み寄り、ぱたぱたと目の前で手を振った。
「もっしもーし、もどってこーい」
「恋人、できたんだろ?」
「あ……いや……そんなんじゃ……ないんだ」
「隠すな。ひと目見りゃわかるって! 遊び人は返上か? 憎いね、この、このこのっ!」
「………仕事しようぜ、ジョーイ」
「おっと」
幸か不幸かけっこう時間的に切羽詰まってたもんだから。その後は二人とも一心不乱に仕事をして、2時間後にげっそりした顔でジョーイはチェックの終わったゲラ刷りの束を抱えて帰って行った。
「それじゃあ、またな」
「おつかれさーん」
送り出してから、ふう、とため息をつく。改めてきちんと片付いた部屋の中を見回し
「………俺って…最低だぁ……」
頭を抱えた。
※ ※ ※ ※
そんなことがあってから三日後。
今やすっかりおなじみになった、パステルグリーンのストライプのエプロンがちょこまかと動き回り、甲斐甲斐しく掃除をしている。
本当に楽しそうに。
心の底から楽しそうに。
(胸が痛い)
「シエン」
「なぁに?」
「……カプチーノ、飲むか」
「うん」
手をとめてうれしそうに近づいて来る。
「お前が掃除してくれたおかげで、カプチーノメーカーが発掘できたから」
金属製の二層式のヤカンに似た器にコーヒーと牛乳を入れて、火にかける。内部はサイフォンになっていて、5分ほどでジュワーっと泡立ったミルクが噴き上がってくる。
頃合いを見計らって、フタを開けて密封状態を解除する。けっこうコツがいるのだが、今回は上手いこといったらしい。
「よし、できたっと……」
ふわふわにあわ立てたミルクの入ったコーヒーをひとくち飲むなり、シエンはぱあっと顔を輝かせた。
「これすごい美味しい!」
「そうか……あ」
ひょい、とティッシュを引き抜いてさし出す。
「口…ミルクついてる」
「あ……ありがと……」
ほんのりと頬を染めて拭いている。
あ、くそ。
可愛いなあ……。
弟はまだちっちゃいから両親と一緒にいて、ずっと待ってるんだ。いつの日か、俺が会いに行くのを。
『もう掃除には来なくていいよ』
何故、その一言が言えないのか。
言えない。絶対に言えない。言ったらきっと、こいつを泣かせちまう。
それだけは、できない。
したくない。
(だからって、このままでいいはずがない)
両手でカップを抱えて、こくこくとカプチーノを飲むシエンを見守りながら、意を決して口を開く。
よし、言うぞ。
「飲みたくなったら、言ってくれ。いつでも作るよ……カプチーノ」
「うん」
…………………………………………………………………………だめだ。
(やっぱり俺って、最低かもしれない)
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▼ 【3-10-9】love,you…
2008/05/08 19:14 【三話】
白いマグカップに描かれた鮮やかな赤い幻の獣。
ヒウェルのルーツ、ウェールズの象徴、赤いグリフォン(ほんとはドラゴン)。がーっと開けた口から尖った舌なんか突き出して、おせじにも可愛いとは言いがたいご面相の怪獣を大事そうに抱えて、シエンが食後の紅茶を飲んでいる。
すっかりローゼンベルク家の食卓ではおなじみになった光景だ。
(どうしたものか)
何気ない食後の会話の合間、ほんの一瞬眉根がさがり、少し困ったような顔になる。
そんなヒウェルの姿をオティアがじっと見ていた。
(ん?)
気配を感じて視線を向けると、何事もなかったように飲み終わったカップを手に、キッチンへと歩いて行く。
いつものことだ。だが今日ばかりは見送ることができず、席を立ち……自分もカップを手に後をついていった。
この家の食卓とキッチンの間にはドアはない。ただ壁と家具の配置でそれとなく視線と声の流れが遮られているだけで。
それでも二人きりだ。
本当に久しぶりだ。
もしかしたら、あの時以来かもしれない。
「なあ、オティア」
「いいかげんにしろ」
鋭い声にびくっとすくみあがる。
馬鹿な。たかが16の子どもの言葉で金縛りか?
だが……本気で惚れた相手だ。こっちに背中を向けていて、オティアがどんな表情をしているのかはわからない。
それでも、張りつめて力の入った肩と背中を見ればすぐにわかる。
苛々しているって。
こいつは知っている。
知らないはずがないんだ。二人っきりの兄弟、しかも思ってることは口に出さなくても通じ合う間柄なんだから。
(シエンが俺のこと気にしてるのが気に食わないのか)
(それともお前、俺のことを少しは気にかけてくれてるのか? ……それが、自分でも気に食わなくて、そんなに苛立ってるのか)
(どっちなんだ。それとも、両方か?)
喉の奥から掠れた音を絞り出し、言葉の切れはしを綴り合わせる。
「………しかたないだろ………俺……お前が好きなんだから……」
「好きなら全部許されるとでも思ってんのか」
ぎりっと唇を噛む。
痛いとこ突かれたな…。
だけど、答えは決まってる。
最初っから一つしかない。他に変えるつもりもない。
「……お前……なんだよ…お前だけなんだ…」
「とっととあきらめろ。しつこいんだよ」
「できるかよ。あきらめるなんて」
「なら黙ってろ。いちいち相手すんのもしんどいんだよ」
「オティア」
声が重い。膝が細かく震える。
今の俺は、ものすごく思い詰めた表情してるんじゃないかな。
「話は終りだ。もう……二度とそんなことで煩わせるな」
一歩近づく。
それまで俺の方を見もしなかったのが、ようやく顔を挙げた。
「そんなに俺のこと、嫌いか?」
せめて泣くとまでは行かないにせよ悲しげな顔でもできてりゃいいんだが。困ったことにかたっぽの口の端がくっと上がっちまう。
(何だってこんな時に俺は微笑ってるんだろう)
「別に。嫌いじゃない………うざいけど」
「……お前の瞳……きれいだな。くっきりした紫じゃない。ほんの少し霞んでいて、優しい色だ。夜明けの空の雲みたいだ」
「それがうざいっていってんだよ」
「その言葉さえ愛おしくてたまらない」
「どんな変態だよ!」
また顔を背けてしまった。
「平行線だな。通じないとは思ったけど」
「通じてるさ」
力いっぱい抱きしめる。拒まれることを半ば予想していたのだが暴れもせず、小柄な体がすっぽりと腕の中に収まった。
オティアは叫びも罵りもしなかった。
ただ、冷えた声で一言。
「……離せ」
体が強ばっている。怖くてフリーズしてるんだな……すまない、オティア。ほんの少しでいい、時間をくれ。
もう二度とお前を煩わせたりしない。
これで……最後だから。
「一度だけ聞け。一度聞いたら忘れてくれていい」
聞いた後でもしお前が一言、二度と来るなと言うのなら、俺は消えるよ。
部屋も荷物も何もかもそのままにして、行き先も告げずにひっそりと……二度とお前の目の前には姿を現さない。
だから、言わせてくれ。
意を決して告げる。彼の返答次第では、永久の別離にもなり得る言葉を、耳元に。
ため息にも似た、かすれた小さな声で。
「love,you」
それだけ伝えて、手を離した。
オティアは完全に背中を向けてしまった。一言もしゃべらない。
「じゃあな」
震える喉を押さえ込んで。いつもの調子で声をかけ、キッチンを出て。
そのまま食卓には戻らず、部屋を出た。
拒まれなかったことをせめて幸いと思おう。少なくとも失踪まがいの引っ越しをやらかすって選択肢は、選ばずに……済んだのだから。
(赤いグリフォン中編/了)
次へ→【後編】
ヒウェルのルーツ、ウェールズの象徴、赤いグリフォン(ほんとはドラゴン)。がーっと開けた口から尖った舌なんか突き出して、おせじにも可愛いとは言いがたいご面相の怪獣を大事そうに抱えて、シエンが食後の紅茶を飲んでいる。
すっかりローゼンベルク家の食卓ではおなじみになった光景だ。
(どうしたものか)
何気ない食後の会話の合間、ほんの一瞬眉根がさがり、少し困ったような顔になる。
そんなヒウェルの姿をオティアがじっと見ていた。
(ん?)
気配を感じて視線を向けると、何事もなかったように飲み終わったカップを手に、キッチンへと歩いて行く。
いつものことだ。だが今日ばかりは見送ることができず、席を立ち……自分もカップを手に後をついていった。
この家の食卓とキッチンの間にはドアはない。ただ壁と家具の配置でそれとなく視線と声の流れが遮られているだけで。
それでも二人きりだ。
本当に久しぶりだ。
もしかしたら、あの時以来かもしれない。
「なあ、オティア」
「いいかげんにしろ」
鋭い声にびくっとすくみあがる。
馬鹿な。たかが16の子どもの言葉で金縛りか?
だが……本気で惚れた相手だ。こっちに背中を向けていて、オティアがどんな表情をしているのかはわからない。
それでも、張りつめて力の入った肩と背中を見ればすぐにわかる。
苛々しているって。
こいつは知っている。
知らないはずがないんだ。二人っきりの兄弟、しかも思ってることは口に出さなくても通じ合う間柄なんだから。
(シエンが俺のこと気にしてるのが気に食わないのか)
(それともお前、俺のことを少しは気にかけてくれてるのか? ……それが、自分でも気に食わなくて、そんなに苛立ってるのか)
(どっちなんだ。それとも、両方か?)
喉の奥から掠れた音を絞り出し、言葉の切れはしを綴り合わせる。
「………しかたないだろ………俺……お前が好きなんだから……」
「好きなら全部許されるとでも思ってんのか」
ぎりっと唇を噛む。
痛いとこ突かれたな…。
だけど、答えは決まってる。
最初っから一つしかない。他に変えるつもりもない。
「……お前……なんだよ…お前だけなんだ…」
「とっととあきらめろ。しつこいんだよ」
「できるかよ。あきらめるなんて」
「なら黙ってろ。いちいち相手すんのもしんどいんだよ」
「オティア」
声が重い。膝が細かく震える。
今の俺は、ものすごく思い詰めた表情してるんじゃないかな。
「話は終りだ。もう……二度とそんなことで煩わせるな」
一歩近づく。
それまで俺の方を見もしなかったのが、ようやく顔を挙げた。
「そんなに俺のこと、嫌いか?」
せめて泣くとまでは行かないにせよ悲しげな顔でもできてりゃいいんだが。困ったことにかたっぽの口の端がくっと上がっちまう。
(何だってこんな時に俺は微笑ってるんだろう)
「別に。嫌いじゃない………うざいけど」
「……お前の瞳……きれいだな。くっきりした紫じゃない。ほんの少し霞んでいて、優しい色だ。夜明けの空の雲みたいだ」
「それがうざいっていってんだよ」
「その言葉さえ愛おしくてたまらない」
「どんな変態だよ!」
また顔を背けてしまった。
「平行線だな。通じないとは思ったけど」
「通じてるさ」
力いっぱい抱きしめる。拒まれることを半ば予想していたのだが暴れもせず、小柄な体がすっぽりと腕の中に収まった。
オティアは叫びも罵りもしなかった。
ただ、冷えた声で一言。
「……離せ」
体が強ばっている。怖くてフリーズしてるんだな……すまない、オティア。ほんの少しでいい、時間をくれ。
もう二度とお前を煩わせたりしない。
これで……最後だから。
「一度だけ聞け。一度聞いたら忘れてくれていい」
聞いた後でもしお前が一言、二度と来るなと言うのなら、俺は消えるよ。
部屋も荷物も何もかもそのままにして、行き先も告げずにひっそりと……二度とお前の目の前には姿を現さない。
だから、言わせてくれ。
意を決して告げる。彼の返答次第では、永久の別離にもなり得る言葉を、耳元に。
ため息にも似た、かすれた小さな声で。
「love,you」
それだけ伝えて、手を離した。
オティアは完全に背中を向けてしまった。一言もしゃべらない。
「じゃあな」
震える喉を押さえ込んで。いつもの調子で声をかけ、キッチンを出て。
そのまま食卓には戻らず、部屋を出た。
拒まれなかったことをせめて幸いと思おう。少なくとも失踪まがいの引っ越しをやらかすって選択肢は、選ばずに……済んだのだから。
(赤いグリフォン中編/了)
次へ→【後編】
▼ 【後編】
2008/05/17 3:39 【三話】
- 赤いグリフォン、完結編。
- 二人ほど新しい登場人物が顔を出しています。気になる方は【3-10-0】登場人物をどうぞ。
記事リスト
- 【3-10-10】特別なお弁当 (2008-05-17)
- 【3-10-11】猫とサリーと探偵と (2008-05-17)
- 【3-10-12】探偵+猫=ご招待 (2008-05-17)
- 【3-10-13】猫好きなの? (2008-05-17)
- 【3-10-14】コーンブレッド (2008-05-17)
- 【3-10-15】可愛い弟 (2008-05-17)
▼ 【3-10-10】特別なお弁当
2008/05/17 3:42 【三話】
ヒウェルが夕食に来なくなってからもう一週間経った。その間、オティアは何もなかったような顔をしていたけれど……。
(変だよ、絶対に)
いつも無口だけど、ほとんどまったく口を開かない。
夕食の後、いつものようにオティアが皿洗いをしている所に寄って行って声をかける。
「手伝って」
「何を」
「はい」
冷蔵庫から取り出した卵二つ、さし出した。
※ ※ ※ ※
ガチャリ。
ドアが開いて、ぬうっとヒウェルが顔を出す。
「…よお、シエン」
よれよれのぼろぼろ。髪の毛もくしゃくしゃ。シャツもしわだらけ。無精髭もぽつぽつ伸びてる。
「あ……その、具合悪かった…?」
「いや……〆切りが、ちょっとね。飯食う時間も惜しくて」
「これ」
持って来たお弁当をさし出すと、ヒウェルはくんくんとにおいをかいだ。
「…お、うまそう」
なんだか犬っぽい。
ディフがレトリバーならヒウェルはスパニエルあたりかな?
もーちょっとカジュアルな犬っぽいな……
テリアとか。
「お前が作ったのか」
「ん…オティアもいっしょに」
「悪ぃ、受けとれな……」
ない、と言う前にお腹がぐきゅるるる〜と鳴った。
「食べたほうが…」
「…そーする…………あ。こないだの写真、できてる。見てくか?」
「ん」
「入れよ」
半分予想はしていたけど、部屋の中はすごいことになっていた。
テーブルの上をざっと片付けてお弁当を広げていると、ヒウェルがこの間写した写真を持ってきてくれた。
壁にかかっているサンフランシスコの風景写真より小さいけれど、丁寧にパネルにしてある。
「……オレンジジュースしかないけど」
「ありがと。でも俺はもう食べたから」
「そう…か。じゃ、ありがたくいただきます」
ものすごい勢いでガツガツ食べてる。やっぱりお腹が減っていたんだ。
ちらっとこっちを見てぼそりと言った。
「…美味い」
「よかった。こっちは俺がつくったんだけどオムレツはオティアが……」
ヒウェルは目をしばたかせて、慌ててジュースにむせたふりしてる。きっと泣きそうになったんだ。
「…何か…あった?」
「……いや……なん……でも……ない!」
その不自然に爽やかな笑顔がかえってあやしい。
「そうか…じゃあ違うんだ」
「なにが?」
「ん…オティアがすごく落ち込んでるから…」
「ぁ…………」
顔がくしゃっとゆがむ。
「違うならいいんだ」
「……………ごめんな……」
「え?」
「…俺のせいなんだ…あいつの気持ちも考えずに一方的に俺の感情、押し付けたから…」
「ええ?」
いったい何のことなの? わかんないよ、ヒウェル。
「…シエン。最初は仕事の関わりで知り合ったお前たちだけどな…今は何より大事で…大切だ…」
「ん…ありがとう」
うれしいけど、微妙に寂しい。そんなに優しいこと言ってくれるのはオティアがいるからだよね。
俺が、オティアと同じ顔してるから……。
「オティアに伝えてくれ。約束通りもう二度と、お前にウザがられるようなマネはしないって」
「オティアがそう言ったの?」
思わず眉をひそめる。
「相手するのもいちいちウザいって…ま、いつものことだ」
「なんでそうやって好きな人にはつっかかるのかなぁ…」
「…………………………………え……?」
「気にしなくていいよ」
「もう二度とこんなことで煩わせるなって…だから、俺……飯たかりに行くのも…やめようって……」
「ああ、うん。そういうことで悩むの嫌いみたいで。やつあたりだよ」
「やつあたり?」
本当は、それだけじゃない。
やつあたりっていうほどやつあたりじゃない。そういう面もあるけど。
俺も、オティアも、無意識に思っている。必要以上に他人と関わることは避けなくちゃいけないって。
いつ離れても、捨てられても、つらい思いをしないですむように。いつでもさらりとお別れできるように。
ここに来る前は、オティアのほうが俺よりもずっと徹底してた。
誰にも心は許さず、寄ってきたら切り捨てる。それが当たり前で……
でも、ヒウェルに対してはそれができない。だからイライラしてるし、落ち込むんだ。
だけど今、ここで言ってもヒウェルには……多分、通じないし理解できない。
余計に混乱させてしまうだけだろうな。
「子供なんだよ、要するに」
「………マセた口叩くくせに……」
「ごめん…その、俺のせい…かも」
「シエン」
「俺達が…お互いが一番じゃないといやなんだよオティアは…。ずっとそんなじゃいけないってわかってるんだけど」
「俺、兄弟いないからわかんないけど…そーゆーのはちょっと、うらやましい」
「だから、オティアがヘンなこと言い出しても気にしないでいいよ。それに…」
「それに?」
「ちゃんとオティアと話できるの、まだヒウェルだけだから。俺以外では」
「…そうなのかっ?」
「ディフとは家では会話が成立してないでしょ?」
「……あー確かに…言われてみれば……」
「レオンは居る時間が短いから…」
話している間にヒウェルはお弁当を全部食べ終わっていた。もしかしてここのところ、ずっと真っ当な物食べてなかったのかな。
「……足りなかったら、まだあるけど」
「いや、いっぺんに食い過ぎるとアレだし。腹減ったら………仕事、一区切りついたらまた食いに行くよ」
「うん」
良かった。やっぱり、夕食はみんながそろってる方がいい。
「写真ありがと…」
写真のパネルを、そおっとテーブルに置いた。
「うん…気に入ってくれたみたいで…嬉しいよ」
「じゃあ、俺、そろそろ帰るね」
お弁当を片付けて、部屋を出た。ドアまで見送ってくれた。
「サンキュ、シエン。また懲りずに掃除しに来てくれよ」
うなずいて手をふって家に帰った。
※ ※ ※ ※
でも、その後ヒウェルはなかなか夕食に来なかった。
明日は来るのかな、ヒウェル。
お弁当を持っていってから、もうすぐ三日目になる。
次へ→【3-10-11】猫とサリーと探偵と
(変だよ、絶対に)
いつも無口だけど、ほとんどまったく口を開かない。
夕食の後、いつものようにオティアが皿洗いをしている所に寄って行って声をかける。
「手伝って」
「何を」
「はい」
冷蔵庫から取り出した卵二つ、さし出した。
※ ※ ※ ※
ガチャリ。
ドアが開いて、ぬうっとヒウェルが顔を出す。
「…よお、シエン」
よれよれのぼろぼろ。髪の毛もくしゃくしゃ。シャツもしわだらけ。無精髭もぽつぽつ伸びてる。
「あ……その、具合悪かった…?」
「いや……〆切りが、ちょっとね。飯食う時間も惜しくて」
「これ」
持って来たお弁当をさし出すと、ヒウェルはくんくんとにおいをかいだ。
「…お、うまそう」
なんだか犬っぽい。
ディフがレトリバーならヒウェルはスパニエルあたりかな?
もーちょっとカジュアルな犬っぽいな……
テリアとか。
「お前が作ったのか」
「ん…オティアもいっしょに」
「悪ぃ、受けとれな……」
ない、と言う前にお腹がぐきゅるるる〜と鳴った。
「食べたほうが…」
「…そーする…………あ。こないだの写真、できてる。見てくか?」
「ん」
「入れよ」
半分予想はしていたけど、部屋の中はすごいことになっていた。
テーブルの上をざっと片付けてお弁当を広げていると、ヒウェルがこの間写した写真を持ってきてくれた。
壁にかかっているサンフランシスコの風景写真より小さいけれど、丁寧にパネルにしてある。
「……オレンジジュースしかないけど」
「ありがと。でも俺はもう食べたから」
「そう…か。じゃ、ありがたくいただきます」
ものすごい勢いでガツガツ食べてる。やっぱりお腹が減っていたんだ。
ちらっとこっちを見てぼそりと言った。
「…美味い」
「よかった。こっちは俺がつくったんだけどオムレツはオティアが……」
ヒウェルは目をしばたかせて、慌ててジュースにむせたふりしてる。きっと泣きそうになったんだ。
「…何か…あった?」
「……いや……なん……でも……ない!」
その不自然に爽やかな笑顔がかえってあやしい。
「そうか…じゃあ違うんだ」
「なにが?」
「ん…オティアがすごく落ち込んでるから…」
「ぁ…………」
顔がくしゃっとゆがむ。
「違うならいいんだ」
「……………ごめんな……」
「え?」
「…俺のせいなんだ…あいつの気持ちも考えずに一方的に俺の感情、押し付けたから…」
「ええ?」
いったい何のことなの? わかんないよ、ヒウェル。
「…シエン。最初は仕事の関わりで知り合ったお前たちだけどな…今は何より大事で…大切だ…」
「ん…ありがとう」
うれしいけど、微妙に寂しい。そんなに優しいこと言ってくれるのはオティアがいるからだよね。
俺が、オティアと同じ顔してるから……。
「オティアに伝えてくれ。約束通りもう二度と、お前にウザがられるようなマネはしないって」
「オティアがそう言ったの?」
思わず眉をひそめる。
「相手するのもいちいちウザいって…ま、いつものことだ」
「なんでそうやって好きな人にはつっかかるのかなぁ…」
「…………………………………え……?」
「気にしなくていいよ」
「もう二度とこんなことで煩わせるなって…だから、俺……飯たかりに行くのも…やめようって……」
「ああ、うん。そういうことで悩むの嫌いみたいで。やつあたりだよ」
「やつあたり?」
本当は、それだけじゃない。
やつあたりっていうほどやつあたりじゃない。そういう面もあるけど。
俺も、オティアも、無意識に思っている。必要以上に他人と関わることは避けなくちゃいけないって。
いつ離れても、捨てられても、つらい思いをしないですむように。いつでもさらりとお別れできるように。
ここに来る前は、オティアのほうが俺よりもずっと徹底してた。
誰にも心は許さず、寄ってきたら切り捨てる。それが当たり前で……
でも、ヒウェルに対してはそれができない。だからイライラしてるし、落ち込むんだ。
だけど今、ここで言ってもヒウェルには……多分、通じないし理解できない。
余計に混乱させてしまうだけだろうな。
「子供なんだよ、要するに」
「………マセた口叩くくせに……」
「ごめん…その、俺のせい…かも」
「シエン」
「俺達が…お互いが一番じゃないといやなんだよオティアは…。ずっとそんなじゃいけないってわかってるんだけど」
「俺、兄弟いないからわかんないけど…そーゆーのはちょっと、うらやましい」
「だから、オティアがヘンなこと言い出しても気にしないでいいよ。それに…」
「それに?」
「ちゃんとオティアと話できるの、まだヒウェルだけだから。俺以外では」
「…そうなのかっ?」
「ディフとは家では会話が成立してないでしょ?」
「……あー確かに…言われてみれば……」
「レオンは居る時間が短いから…」
話している間にヒウェルはお弁当を全部食べ終わっていた。もしかしてここのところ、ずっと真っ当な物食べてなかったのかな。
「……足りなかったら、まだあるけど」
「いや、いっぺんに食い過ぎるとアレだし。腹減ったら………仕事、一区切りついたらまた食いに行くよ」
「うん」
良かった。やっぱり、夕食はみんながそろってる方がいい。
「写真ありがと…」
写真のパネルを、そおっとテーブルに置いた。
「うん…気に入ってくれたみたいで…嬉しいよ」
「じゃあ、俺、そろそろ帰るね」
お弁当を片付けて、部屋を出た。ドアまで見送ってくれた。
「サンキュ、シエン。また懲りずに掃除しに来てくれよ」
うなずいて手をふって家に帰った。
※ ※ ※ ※
でも、その後ヒウェルはなかなか夕食に来なかった。
明日は来るのかな、ヒウェル。
お弁当を持っていってから、もうすぐ三日目になる。
次へ→【3-10-11】猫とサリーと探偵と
▼ 【3-10-11】猫とサリーと探偵と
2008/05/17 3:45 【三話】
高校一年の十月、入学してやっとひと月立った頃にちょっと派手なケンカをやらかした。
「引っ込んでな、カントリーボーイ!」
突き飛ばされて窓ガラスに激突し、夢中で腕を引き抜いて。ほとんど無意識のうちに相手の顔面にパンチをお見舞いしたらしい。
気がつくと喧嘩の相手は逃げ出して、クラスの女の子たちや通りがかりの他の生徒が遠巻きに俺を見ていた。
微妙に凍り付いたギャラリーをかき分けてヒウェルがのこのこ近づき、声をかけてきた。
「マックス」
「………あ?」
「痛くないのか?」
その時初めて気づいたんだ。シャツの左袖が大きく裂けて。ざっくり一直線に走る傷口から、真っ赤な血がぽたぽたこぼれ落ちてるって。
「……そう言えば、ちょっと痛いような」
「いいから血、止めような」
「こう言う時って押さえるんだっけ、縛るんだっけ」
「それ以前に、布かなんか当てた方がいいと思うぞ」
もちろんハンカチなんて気の利いたものは二人とも持っちゃいない。
男二人でまぬけ面を付き合わせているところに、さっき助けた女の子のうち一人がつかつかと近寄ってきた。
「見せなさい」
それがヨーコ・ユウキだった。
日本からの留学生。
小学生が背伸びしたみたいな見た目に反して姉さんみたいに面倒見がよくて。どこか俺たちとは違う視界を持っていて……心の奥深い所をすっと見通すような、不思議な女の子だった。
※ ※ ※ ※
「あれ、マクラウドさん?」
「よぉ、サリー。久しぶり」
何だってそんなことを思い出したのかと言うと、今、目の前に立ってる少年(いや本当はとっくにそんな時期は過ぎてるんだが見た目がどうしてもね)が、彼女によく似た面影を宿しているからだ。
気のせいなんかじゃない。れっきとしたDNAの繋がり故に。
彼……サリーことサクヤ・ユウキはヨーコの従弟で、現在カリフォルニア大学に留学中。学部は違うがレオンの後輩に当たる。
「おひさしぶりです」
眼鏡の向こうで濃い茶色の瞳が細められ、おだやかな笑みを浮かべる。
顔かたちは似ているけど、まとう空気がまるで違う。ヨーコがしゃきっとした原色のストライプ模様なら、サリーはふんわりとした中間色の淡い水玉だ。
「それで………何やってんですか、こんなとこで」
「ん……まあ、ね、仕事中」
聞きたくなる気持ちもわかる。こちとら四つん這いになって公園の植え込みの中からにゅっと顔出した所だからな。
顔にも頭にも服にも、いたるところに木の枝だの葉っぱをくっつけて。
「ああ、ペット探し。猫ですか? 犬ですか?」
「猫」
「よかったら手伝いましょうか」
「助かるよ」
灌木の下から這い出し、ばさばさと枝葉を払い落す。
「写真、ありますか?」
「これだ。名前はタイガー、茶虎で足に白靴下、四歳の雄」
「OK、それじゃ、俺はこっちを探しますね」
「じゃあ、俺はこっちに行こう。見つけたら携帯で連絡してくれ」
「わかりました」
彼は獣医の卵で、以前に何度かペット探しを手伝ってくれたことがある。迷子のペットを探し出すのにかけては俺なんかよりよっぽど上手く、動物の扱いにも慣れている。
時々、言葉が通じてるんじゃないかと思うくらいだ。
『俺は驚かないぞ。ヨーコが黒猫と話して、ホウキで飛んでいてもな!』
『お前……何を言ってるんだ』
『ジャパニメーションであっただろ、そーゆー話!』
えらくファンタジックな方向に想像力を暴走させてたよな、ヒウェルの奴。
怪我の一件以来、どうにもあいつはヨーコに頭が上がんなくなっていたっけ。
だけど今なら。
そう、オティアとシエンの存在を知った今なら、思うのだ。ヒウェルの想像もあながち外れてなかったんじゃないかって。
思い巡らせつつ20分ほど猫を探してうろうろしていると……
「おっと」
胸ポケットの中で携帯が震えた。
取り出し、ディスプレイに表示される名前を見る。
「ハロー、サリー?」
「見つけましたよ。公園西側のベンチまで来てください。近くに大きなイチョウの木があります」
「わかった。すぐ行く」
言われた場所に行くと、確かにサリーはベンチに座っていた。その周りには……いるわいるわ。
大小さまざま、縞模様、ぶちもよう、白、黒、少し青みがかったグレイから銀色に近いのまで、トラジマ、キジトラ、その他もろもろ。
大量の猫が集まっていた。
みやお。
みゃう。
うなおーおう。
甘えた声だ。欠片ほども警戒していない。
そしてサリーはと言うとにこにこしながら何か餌を配っている。
「ケンカしちゃだめだよ。まだまだいっぱいあるからね……」
そろりそろりと近づいて、猫どもを驚かさないよう、極力静かな声で話しかける。
「……サリー」
「あ、マクラウドさん。この子ですよね」
指さす先には、まさしく写真の通りの靴下はいた虎猫が一匹かりかりと、ちっぽけな魚みたいなのをひとつまみ、一心不乱に食べている。
えらく気に入ってるらしい。
「ああ、そいつだ。……変わったキャットフードだな」
「これはイリコと言って、小魚を干したものです。おやつですね。カルシウムとるのにいいんですよ」
「そ、そうか……」
カルシウムって、いらいらに効くんだっけ。
ここ数日、食卓に流れるぎくしゃくした空気と。それに気づきながら、どうしようもできない自分に苛立つ日が続いていた。
昨夜なんざとうとう、心配してくれるレオンに八つ当たりしてしまったのだ。
『放っとけ! お前に話したってどうにかなるもんじゃないだろ!』
『所詮は他人なんだよ……』
レオンは何も言わず、少しだけ悲しげな顔をして、そうかもしれないね、とだけ言った。
互いに背中を向けたまま眠りにつき、翌朝は何事もなかったようにおはようのキスを交わしたけれど……。
両の眉から力が抜け、口元に苦渋混じりの笑みが浮かぶ。気まずさ、悔しさ、後悔、恥。ずっと胸の奥に押し込めてきた負の感情が一斉にわき上がる。ざらつく砂粒のように喉につまり、舌の根にわだかまる。
一粒一粒が、やけに重たい。
「俺も、かじった方がいいのかな」
「はい、どうぞ」
無造作にジップロックの袋から取り出し、手のひらに乗せてくれた。
そして自分もひとつまみとって、ぽりぽりと食べ始める。
しばらくベンチに並んで座ってイリコをかじった。猫に混じってぽりぽりと。
「……けっこう美味いね、これ」
「サンフランシスコの猫は魚好きでいいなぁ」
「魚の美味い町だからな」
「サクラメントでこれあげたら見向きもされなかったことが」
「ははっ、こっちの猫釣る時はもっぱらレバーだからな。あとターキー」
「レバーかぁ」
ふにゅっと冷たいものが手に押し付けられる。自分の分を食い終わったタイガーが俺の手の中のイリコに注目していた。
「食うか? ん?」
ふんふん、とにおいをかぐと食べ始めた。
ああ、こいつは飼い猫だからなあ……。
思わずため息が出る。
「どうかしました?」
「ん……プライベートで、ちょっと…な」
そろりとタイガーに手をのばすと、耳を伏せて身体を低くして歯をむき出し、フーっと唸られた。
慌てて手を引っ込める。
『無条件にそういう言葉を信じられるような育ち方をしてないんだ、俺達は』
目を伏せる。
『放っとけ!』
『所詮は他人なんだよ……お前も、あの子たちも』
自分の吐いた言葉に。言われた言葉に、ため息が漏れた。胸の奥から、深々と。
………ごめん、レオン。
ごめん、シエン。
「だめだよ」
サリーになでられ、タイガーは嘘みたいにおとなしくなった。もわもわに太くなっていた尻尾がすーっと元に戻って行く。
「良かったら、聞きますよ。解決にはならないかもしれないけど」
ああ、同じだ、ヨーコと。
どこか俺たちとは違った視界から、心の奥底まですっと見通すような不思議な目。
どうする。
何と言って説明したものか……今の俺と、双子と、レオンと(ついでにヒウェルと)の間にもつれてからまった繋がりを。
しばらく迷ってから、微妙に目線をそらしつつ答える。小さな声で、ほとんど囁くように。
「子育てで、ちょっと」
「ご結婚、してましたっけ?」
「いや、独身。話すと長くなるんだが……」
サリーはぱちぱちとまばたきして、タイガーをだきあげた。
「……この子届けに行きましょうか。歩きながらでも」
「そうだな」
ベンチから立ち上がると、サリーは集まっていた猫たちに一言
「またね」
さらりとあいさつして歩き出した。
次へ→【3-10-12】探偵+猫=ご招待
「引っ込んでな、カントリーボーイ!」
突き飛ばされて窓ガラスに激突し、夢中で腕を引き抜いて。ほとんど無意識のうちに相手の顔面にパンチをお見舞いしたらしい。
気がつくと喧嘩の相手は逃げ出して、クラスの女の子たちや通りがかりの他の生徒が遠巻きに俺を見ていた。
微妙に凍り付いたギャラリーをかき分けてヒウェルがのこのこ近づき、声をかけてきた。
「マックス」
「………あ?」
「痛くないのか?」
その時初めて気づいたんだ。シャツの左袖が大きく裂けて。ざっくり一直線に走る傷口から、真っ赤な血がぽたぽたこぼれ落ちてるって。
「……そう言えば、ちょっと痛いような」
「いいから血、止めような」
「こう言う時って押さえるんだっけ、縛るんだっけ」
「それ以前に、布かなんか当てた方がいいと思うぞ」
もちろんハンカチなんて気の利いたものは二人とも持っちゃいない。
男二人でまぬけ面を付き合わせているところに、さっき助けた女の子のうち一人がつかつかと近寄ってきた。
「見せなさい」
それがヨーコ・ユウキだった。
日本からの留学生。
小学生が背伸びしたみたいな見た目に反して姉さんみたいに面倒見がよくて。どこか俺たちとは違う視界を持っていて……心の奥深い所をすっと見通すような、不思議な女の子だった。
※ ※ ※ ※
「あれ、マクラウドさん?」
「よぉ、サリー。久しぶり」
何だってそんなことを思い出したのかと言うと、今、目の前に立ってる少年(いや本当はとっくにそんな時期は過ぎてるんだが見た目がどうしてもね)が、彼女によく似た面影を宿しているからだ。
気のせいなんかじゃない。れっきとしたDNAの繋がり故に。
彼……サリーことサクヤ・ユウキはヨーコの従弟で、現在カリフォルニア大学に留学中。学部は違うがレオンの後輩に当たる。
「おひさしぶりです」
眼鏡の向こうで濃い茶色の瞳が細められ、おだやかな笑みを浮かべる。
顔かたちは似ているけど、まとう空気がまるで違う。ヨーコがしゃきっとした原色のストライプ模様なら、サリーはふんわりとした中間色の淡い水玉だ。
「それで………何やってんですか、こんなとこで」
「ん……まあ、ね、仕事中」
聞きたくなる気持ちもわかる。こちとら四つん這いになって公園の植え込みの中からにゅっと顔出した所だからな。
顔にも頭にも服にも、いたるところに木の枝だの葉っぱをくっつけて。
「ああ、ペット探し。猫ですか? 犬ですか?」
「猫」
「よかったら手伝いましょうか」
「助かるよ」
灌木の下から這い出し、ばさばさと枝葉を払い落す。
「写真、ありますか?」
「これだ。名前はタイガー、茶虎で足に白靴下、四歳の雄」
「OK、それじゃ、俺はこっちを探しますね」
「じゃあ、俺はこっちに行こう。見つけたら携帯で連絡してくれ」
「わかりました」
彼は獣医の卵で、以前に何度かペット探しを手伝ってくれたことがある。迷子のペットを探し出すのにかけては俺なんかよりよっぽど上手く、動物の扱いにも慣れている。
時々、言葉が通じてるんじゃないかと思うくらいだ。
『俺は驚かないぞ。ヨーコが黒猫と話して、ホウキで飛んでいてもな!』
『お前……何を言ってるんだ』
『ジャパニメーションであっただろ、そーゆー話!』
えらくファンタジックな方向に想像力を暴走させてたよな、ヒウェルの奴。
怪我の一件以来、どうにもあいつはヨーコに頭が上がんなくなっていたっけ。
だけど今なら。
そう、オティアとシエンの存在を知った今なら、思うのだ。ヒウェルの想像もあながち外れてなかったんじゃないかって。
思い巡らせつつ20分ほど猫を探してうろうろしていると……
「おっと」
胸ポケットの中で携帯が震えた。
取り出し、ディスプレイに表示される名前を見る。
「ハロー、サリー?」
「見つけましたよ。公園西側のベンチまで来てください。近くに大きなイチョウの木があります」
「わかった。すぐ行く」
言われた場所に行くと、確かにサリーはベンチに座っていた。その周りには……いるわいるわ。
大小さまざま、縞模様、ぶちもよう、白、黒、少し青みがかったグレイから銀色に近いのまで、トラジマ、キジトラ、その他もろもろ。
大量の猫が集まっていた。
みやお。
みゃう。
うなおーおう。
甘えた声だ。欠片ほども警戒していない。
そしてサリーはと言うとにこにこしながら何か餌を配っている。
「ケンカしちゃだめだよ。まだまだいっぱいあるからね……」
そろりそろりと近づいて、猫どもを驚かさないよう、極力静かな声で話しかける。
「……サリー」
「あ、マクラウドさん。この子ですよね」
指さす先には、まさしく写真の通りの靴下はいた虎猫が一匹かりかりと、ちっぽけな魚みたいなのをひとつまみ、一心不乱に食べている。
えらく気に入ってるらしい。
「ああ、そいつだ。……変わったキャットフードだな」
「これはイリコと言って、小魚を干したものです。おやつですね。カルシウムとるのにいいんですよ」
「そ、そうか……」
カルシウムって、いらいらに効くんだっけ。
ここ数日、食卓に流れるぎくしゃくした空気と。それに気づきながら、どうしようもできない自分に苛立つ日が続いていた。
昨夜なんざとうとう、心配してくれるレオンに八つ当たりしてしまったのだ。
『放っとけ! お前に話したってどうにかなるもんじゃないだろ!』
『所詮は他人なんだよ……』
レオンは何も言わず、少しだけ悲しげな顔をして、そうかもしれないね、とだけ言った。
互いに背中を向けたまま眠りにつき、翌朝は何事もなかったようにおはようのキスを交わしたけれど……。
両の眉から力が抜け、口元に苦渋混じりの笑みが浮かぶ。気まずさ、悔しさ、後悔、恥。ずっと胸の奥に押し込めてきた負の感情が一斉にわき上がる。ざらつく砂粒のように喉につまり、舌の根にわだかまる。
一粒一粒が、やけに重たい。
「俺も、かじった方がいいのかな」
「はい、どうぞ」
無造作にジップロックの袋から取り出し、手のひらに乗せてくれた。
そして自分もひとつまみとって、ぽりぽりと食べ始める。
しばらくベンチに並んで座ってイリコをかじった。猫に混じってぽりぽりと。
「……けっこう美味いね、これ」
「サンフランシスコの猫は魚好きでいいなぁ」
「魚の美味い町だからな」
「サクラメントでこれあげたら見向きもされなかったことが」
「ははっ、こっちの猫釣る時はもっぱらレバーだからな。あとターキー」
「レバーかぁ」
ふにゅっと冷たいものが手に押し付けられる。自分の分を食い終わったタイガーが俺の手の中のイリコに注目していた。
「食うか? ん?」
ふんふん、とにおいをかぐと食べ始めた。
ああ、こいつは飼い猫だからなあ……。
思わずため息が出る。
「どうかしました?」
「ん……プライベートで、ちょっと…な」
そろりとタイガーに手をのばすと、耳を伏せて身体を低くして歯をむき出し、フーっと唸られた。
慌てて手を引っ込める。
『無条件にそういう言葉を信じられるような育ち方をしてないんだ、俺達は』
目を伏せる。
『放っとけ!』
『所詮は他人なんだよ……お前も、あの子たちも』
自分の吐いた言葉に。言われた言葉に、ため息が漏れた。胸の奥から、深々と。
………ごめん、レオン。
ごめん、シエン。
「だめだよ」
サリーになでられ、タイガーは嘘みたいにおとなしくなった。もわもわに太くなっていた尻尾がすーっと元に戻って行く。
「良かったら、聞きますよ。解決にはならないかもしれないけど」
ああ、同じだ、ヨーコと。
どこか俺たちとは違った視界から、心の奥底まですっと見通すような不思議な目。
どうする。
何と言って説明したものか……今の俺と、双子と、レオンと(ついでにヒウェルと)の間にもつれてからまった繋がりを。
しばらく迷ってから、微妙に目線をそらしつつ答える。小さな声で、ほとんど囁くように。
「子育てで、ちょっと」
「ご結婚、してましたっけ?」
「いや、独身。話すと長くなるんだが……」
サリーはぱちぱちとまばたきして、タイガーをだきあげた。
「……この子届けに行きましょうか。歩きながらでも」
「そうだな」
ベンチから立ち上がると、サリーは集まっていた猫たちに一言
「またね」
さらりとあいさつして歩き出した。
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▼ 【3-10-12】探偵+猫=ご招待
2008/05/17 3:47 【三話】
歩きながらサリーがぽつりと言った。
「またお巡りさんに言われちゃいましたよ」
「ん?」
「ウィークデーの昼間に、未成年が一人で何やってるのかって」
「ああ……」
サリーはしょっちゅう中学生にまちがわれる。ほっそりして華奢な骨格だし、背も俺たちの目から見れば低い。つるんとした顔立ちも、くりくりした瞳も、幼く見える。
「日本じゃそんなに童顔って言われたことないのに……」
「やっぱり環境にもよるんだろう」
「動物はどこの国でもかわらないのになぁ」
「そうか? 俺の目からすると日本の猫はみんな子猫サイズに見えるぞ」
「それは骨格の差もあるけど……食べさせ方の問題」
「……そう言うもんかな……」
「日本の猫は魚や鳥のような小動物、昆虫が主食だったんですよ。何百世代もね。日本固有の猫科動物は大型化しなかった」
「こっちの猫は肉食だものな」
さすが獣医の卵だ。着眼点が違う。俺が普段何となく感じていただけのことを、きちんと裏付けをつけてわかりやすく説明してくれる。
「ご存知ですか? 日本人ってアメリカ人よりも腸が長いんですよ、すごく。ずっと穀物が主食だったせいなんだ。遺伝子に刻まれた種族の歴史は簡単にはかわらないってことですね」
「なるほどな。日本に行けば君やヨーコが標準って訳だ」
「標準……とは言い難いけど、すごく外れてるわけじゃないかな。俺がかわらないって言ったのは、んー……」
サリーはそっと胸に抱いた猫の喉を撫でた。
「動物は嘘つかない、ってことかな」
「ま、確かに連中は嘘をつかない…人に対する反応も実に正直だ。逃げたい時は全力で逃げるからな」
「マクラウドさんは、身体が大きいから怖がられやすいんですよ」
「あ、やっぱりそう思うか」
「一度びっくりさせるとしばらくダメだし」
大当たり。実はサリーと会う前に一度タイガーを見つけたのだが、逃げられていた。
「こっちの人間にはどうしても、東洋人って実際の年齢より若く見える。最初にヨーコに会った時は小学生が飛び級してきたと思ったよ」
「まあ、日本じゃアメリカの人は5〜6歳は上に見えますからね。逆に考えると」
「なるほどな……確かに見た目は幼く見えるけど中身はしっかりしてるもんな。君も、彼女も」
左の腕を軽くさする。
「ガラスの破片で腕をざっくりやっちまった事があるんだが、彼女、顔色一つ変えずに手当してくれてな。おかげで跡一つ残らずきれいに治ったよ」
「あー……もしかして」
「ん?」
「メイリールさん、そのときにいました?」
「ああ、ヒウェル? いたよ、一緒に」
「でしょうね」
「もっと重症だったろ、ってブツブツ言ってた。ヨーコににらまれて黙ってたけどな」
「あなたは?」
「……思ったより軽くてラッキーだったと」
「そっか。だからかな、羊子さんが紹介してくれたの」
記憶を手繰る。
あの時、ヨーコの手が触れた瞬間、ずきずきと熱く疼いていた傷口がすっと楽になった。あの感触は、双子が力を使って怪我を治してくれた時に似ているような気がする。
「今思えば彼女は本当に『何か』したのかもしれない。だとしても俺のためを思ってしてくれたんだし。魔女だろうが妖精だろうが、いい友だちだってことに変わりはないよ」
「妖精は言い過ぎ……」
魔女は有りなのか、サリー。
「そのうちに、俺や彼女のことを、話す時が来るかもしれないですね。あ、でも」
「うん?」
「あなたの恋人の話、聞きたがってましたよ。すごく」
言葉の意味を理解した瞬間、頭のてっぺんからつま先まで凍り付いた。たっぷり十秒ほど。
それからじわじわと顔が熱くなり、硬直していた手足が自由を取り戻した時にはカッカと火照っていた。
「なっ……今さら………何聞きたいっつーんだ……………」
「俺に聞き出せって、メールで指令が。こっちに居ない間のことだから気になるんじゃないかな」
何を指令されたかは、だいたい予想がつく。
いつから付き合ってたの? 一緒に住んでるの? 先に告ったのはどっちよ?
だいたいこんなとこだろ。同級生の女の子から浴びせられる定番の質問だ。
「OK、サリー。直に俺からメールで報告入れとくよ」
「そうしてくれると助かります。正直に答えることないと思いますけどね、俺としては」
「うん……まあ隠すようなことでもないし。でも、君の言葉は覚えておくよ。ありがとな、サリー」
「そう言えばローゼンベルクさんとは俺、まだ直接会ったことはないですね」
「ああ」
レオン。
結局、『ごめん』はまだ言えていない。
「レオンがね。身よりのない子を引き取ったんだ」
ともすれば喉の奥に逃げこみそうな言葉を引っぱり出した。
「俺もその件についちゃ一枚噛んでるから………世話、してるんだ。飯とか、着るものとか、いろいろ」
「フォスターペアレント(里親)?」
「いや、それこそ結婚してなきゃ登録できないよ」
「……ですよね。それで?」
「その子たち双子なんだけど……あ、名前はオティアと、シエンって言うんだ。年は十六。それで………シエンって子の方に、言われたんだ。俺が『まま』で、レオンが『ぱぱ』だって」
サリーは何も言わずにうなずいた。何となく勇気づけられて先を続ける。
「その言葉につい有頂天になっちまってさ。無造作に踏み込んじまったんだよ」
「どこに?」
「……境界線の内側。テリトリーの中」
「噛まれた?」
「いや、気分的には……前足でビシっとやられたって感じかな。結局は他人なんだ……あの子にとって。それに気づかなかった自分が悔しくて。情けなくて、な」
「でも爪は出さなかった」
「………そうだな」
「家族の基本は夫婦ですけど、それは他人同士が一緒に住むところから始まるんですよ。血がつながっていたところで、信頼関係がなければ他人より悪くなる」
「信頼……してくれてるのかな……一緒に居ても逃げないくらいには」
「俺は、父とはほとんど会ったことがないんですけど。今でも自分に父がいる感じはしませんね」
「そうなのか?あれ、じゃあ、ヨーコと君は…ファミリーネームが同じだけど実際には、母方つながりってことか」
「ええ。羊子さんとはイトコだけど、姉弟みたいに育ちました」
静かな口調で語られる重たい話にどきりとした。
「俺にとっては、父より羊子さんのが『家族』だったんですよ。事実上」
「近くに居たから……か?」
「違う家に住んでましたけど、行き来が頻繁だったので」
「なるほどなあ。一人っ子って言う割には妙に面倒見が良かったんだ、彼女。姉さんみたいだって思う時があった。そうか、君がいたからなんだな、サリー」
「血がつながっていてもつながってなくても、結局は人と人の集まりなんだから、時間をかけていくしかないんでしょうね。お互いが歩み寄らないと一緒には暮らせない」
「歩み寄り、か…距離感を見極めるのが難しくってね。つい鼻面つっこんで『ふーっ』ってやられちまう」
サリーの腕の中のタイガーを見下ろし、肩をすくめる。さっきよりは軽く、明るく笑えたような気がした。
「難しい年頃ですしね。丁度、独立心がつよくなってきて。親や人に頼ることがかっこわるいって思う頃です」
つかの間記憶が巻き戻る。無鉄砲に突き進み、壁にぶつかるたびに頭突きで粉砕して前進していた十代のころに。
「……………ああ………君の言う通りだ。自分もそうだったのに、忘れてたよ。親父の七光りから抜け出したくって俺、シスコの高校に進学したんだ」
「へぇ、ここの出身じゃないんですか」
「うん。生まれはテキサスだ」
「テキサス……けっこう遠いなぁ。カウボーイハット似合いそうですね」
「うん、家にあるよ、テンガロンハット」
「あとで見せてください。たぶん、写真とったら羊子さんが喜ぶから」
「ああ、いいよ。……そうだ、ついでに晩飯食いに来ないか? 猫、見つけてもらったし、お礼がしたい」
「そうですね。ごちそうになろうかな」
「じゃあ、ぜひ」
次へ→【3-10-13】猫好きなの?
「またお巡りさんに言われちゃいましたよ」
「ん?」
「ウィークデーの昼間に、未成年が一人で何やってるのかって」
「ああ……」
サリーはしょっちゅう中学生にまちがわれる。ほっそりして華奢な骨格だし、背も俺たちの目から見れば低い。つるんとした顔立ちも、くりくりした瞳も、幼く見える。
「日本じゃそんなに童顔って言われたことないのに……」
「やっぱり環境にもよるんだろう」
「動物はどこの国でもかわらないのになぁ」
「そうか? 俺の目からすると日本の猫はみんな子猫サイズに見えるぞ」
「それは骨格の差もあるけど……食べさせ方の問題」
「……そう言うもんかな……」
「日本の猫は魚や鳥のような小動物、昆虫が主食だったんですよ。何百世代もね。日本固有の猫科動物は大型化しなかった」
「こっちの猫は肉食だものな」
さすが獣医の卵だ。着眼点が違う。俺が普段何となく感じていただけのことを、きちんと裏付けをつけてわかりやすく説明してくれる。
「ご存知ですか? 日本人ってアメリカ人よりも腸が長いんですよ、すごく。ずっと穀物が主食だったせいなんだ。遺伝子に刻まれた種族の歴史は簡単にはかわらないってことですね」
「なるほどな。日本に行けば君やヨーコが標準って訳だ」
「標準……とは言い難いけど、すごく外れてるわけじゃないかな。俺がかわらないって言ったのは、んー……」
サリーはそっと胸に抱いた猫の喉を撫でた。
「動物は嘘つかない、ってことかな」
「ま、確かに連中は嘘をつかない…人に対する反応も実に正直だ。逃げたい時は全力で逃げるからな」
「マクラウドさんは、身体が大きいから怖がられやすいんですよ」
「あ、やっぱりそう思うか」
「一度びっくりさせるとしばらくダメだし」
大当たり。実はサリーと会う前に一度タイガーを見つけたのだが、逃げられていた。
「こっちの人間にはどうしても、東洋人って実際の年齢より若く見える。最初にヨーコに会った時は小学生が飛び級してきたと思ったよ」
「まあ、日本じゃアメリカの人は5〜6歳は上に見えますからね。逆に考えると」
「なるほどな……確かに見た目は幼く見えるけど中身はしっかりしてるもんな。君も、彼女も」
左の腕を軽くさする。
「ガラスの破片で腕をざっくりやっちまった事があるんだが、彼女、顔色一つ変えずに手当してくれてな。おかげで跡一つ残らずきれいに治ったよ」
「あー……もしかして」
「ん?」
「メイリールさん、そのときにいました?」
「ああ、ヒウェル? いたよ、一緒に」
「でしょうね」
「もっと重症だったろ、ってブツブツ言ってた。ヨーコににらまれて黙ってたけどな」
「あなたは?」
「……思ったより軽くてラッキーだったと」
「そっか。だからかな、羊子さんが紹介してくれたの」
記憶を手繰る。
あの時、ヨーコの手が触れた瞬間、ずきずきと熱く疼いていた傷口がすっと楽になった。あの感触は、双子が力を使って怪我を治してくれた時に似ているような気がする。
「今思えば彼女は本当に『何か』したのかもしれない。だとしても俺のためを思ってしてくれたんだし。魔女だろうが妖精だろうが、いい友だちだってことに変わりはないよ」
「妖精は言い過ぎ……」
魔女は有りなのか、サリー。
「そのうちに、俺や彼女のことを、話す時が来るかもしれないですね。あ、でも」
「うん?」
「あなたの恋人の話、聞きたがってましたよ。すごく」
言葉の意味を理解した瞬間、頭のてっぺんからつま先まで凍り付いた。たっぷり十秒ほど。
それからじわじわと顔が熱くなり、硬直していた手足が自由を取り戻した時にはカッカと火照っていた。
「なっ……今さら………何聞きたいっつーんだ……………」
「俺に聞き出せって、メールで指令が。こっちに居ない間のことだから気になるんじゃないかな」
何を指令されたかは、だいたい予想がつく。
いつから付き合ってたの? 一緒に住んでるの? 先に告ったのはどっちよ?
だいたいこんなとこだろ。同級生の女の子から浴びせられる定番の質問だ。
「OK、サリー。直に俺からメールで報告入れとくよ」
「そうしてくれると助かります。正直に答えることないと思いますけどね、俺としては」
「うん……まあ隠すようなことでもないし。でも、君の言葉は覚えておくよ。ありがとな、サリー」
「そう言えばローゼンベルクさんとは俺、まだ直接会ったことはないですね」
「ああ」
レオン。
結局、『ごめん』はまだ言えていない。
「レオンがね。身よりのない子を引き取ったんだ」
ともすれば喉の奥に逃げこみそうな言葉を引っぱり出した。
「俺もその件についちゃ一枚噛んでるから………世話、してるんだ。飯とか、着るものとか、いろいろ」
「フォスターペアレント(里親)?」
「いや、それこそ結婚してなきゃ登録できないよ」
「……ですよね。それで?」
「その子たち双子なんだけど……あ、名前はオティアと、シエンって言うんだ。年は十六。それで………シエンって子の方に、言われたんだ。俺が『まま』で、レオンが『ぱぱ』だって」
サリーは何も言わずにうなずいた。何となく勇気づけられて先を続ける。
「その言葉につい有頂天になっちまってさ。無造作に踏み込んじまったんだよ」
「どこに?」
「……境界線の内側。テリトリーの中」
「噛まれた?」
「いや、気分的には……前足でビシっとやられたって感じかな。結局は他人なんだ……あの子にとって。それに気づかなかった自分が悔しくて。情けなくて、な」
「でも爪は出さなかった」
「………そうだな」
「家族の基本は夫婦ですけど、それは他人同士が一緒に住むところから始まるんですよ。血がつながっていたところで、信頼関係がなければ他人より悪くなる」
「信頼……してくれてるのかな……一緒に居ても逃げないくらいには」
「俺は、父とはほとんど会ったことがないんですけど。今でも自分に父がいる感じはしませんね」
「そうなのか?あれ、じゃあ、ヨーコと君は…ファミリーネームが同じだけど実際には、母方つながりってことか」
「ええ。羊子さんとはイトコだけど、姉弟みたいに育ちました」
静かな口調で語られる重たい話にどきりとした。
「俺にとっては、父より羊子さんのが『家族』だったんですよ。事実上」
「近くに居たから……か?」
「違う家に住んでましたけど、行き来が頻繁だったので」
「なるほどなあ。一人っ子って言う割には妙に面倒見が良かったんだ、彼女。姉さんみたいだって思う時があった。そうか、君がいたからなんだな、サリー」
「血がつながっていてもつながってなくても、結局は人と人の集まりなんだから、時間をかけていくしかないんでしょうね。お互いが歩み寄らないと一緒には暮らせない」
「歩み寄り、か…距離感を見極めるのが難しくってね。つい鼻面つっこんで『ふーっ』ってやられちまう」
サリーの腕の中のタイガーを見下ろし、肩をすくめる。さっきよりは軽く、明るく笑えたような気がした。
「難しい年頃ですしね。丁度、独立心がつよくなってきて。親や人に頼ることがかっこわるいって思う頃です」
つかの間記憶が巻き戻る。無鉄砲に突き進み、壁にぶつかるたびに頭突きで粉砕して前進していた十代のころに。
「……………ああ………君の言う通りだ。自分もそうだったのに、忘れてたよ。親父の七光りから抜け出したくって俺、シスコの高校に進学したんだ」
「へぇ、ここの出身じゃないんですか」
「うん。生まれはテキサスだ」
「テキサス……けっこう遠いなぁ。カウボーイハット似合いそうですね」
「うん、家にあるよ、テンガロンハット」
「あとで見せてください。たぶん、写真とったら羊子さんが喜ぶから」
「ああ、いいよ。……そうだ、ついでに晩飯食いに来ないか? 猫、見つけてもらったし、お礼がしたい」
「そうですね。ごちそうになろうかな」
「じゃあ、ぜひ」
次へ→【3-10-13】猫好きなの?
▼ 【3-10-13】猫好きなの?
2008/05/17 3:51 【三話】
「戻ったぞ」
事務所に入って行くとオティアがデスクから顔を上げた。
「ああ、オティア。彼はサリーだ。以前、何度かペット探しを手伝ってもらった。獣医の卵だよ」
「こんにちは」
「こっちはオティアだ。俺のアシスタントをしてる」
軽く頭をさげると、すっと立って簡易キッチンに向かった。相変わらずのポーカーフェイスだが、そこはかとなく視線の滞空時間が長かったような?
「もう一人のシエンは上で……レオンの事務所でバイトしてるんだ」
「ああ、法律事務所」
「うん。そこ、適当に座っててくれ」
手を洗い終わった所にちょうどいいタイミングでグラスに注がれたアイスコーヒーと、皿に盛られたマドレーヌが出てきた。
「サンキュ、オティア。お前は?」
「もう食べた」
「そうか」
確かに、いつものお茶の時間にしてはいささか遅い。
「これ、美味いぞ」
伏せた貝殻の形の焼き菓子をサリーにすすめる。言うまでもなくアレックスのお手製、アイスコーヒーも同様。
「いただきます」
するとソファにうずくまっていたタイガーがひょいと首をのばし、くんくんとサリーの手にあるマドレーヌのにおいをかいだ。
「食べる?」
サリーがマドレーヌのすみっこをちょいとちぎり、手のひらに乗せてさし出した。
「食うのか、お前」
くんくんくん………
念入りにおいを嗅いでから、あむっと一口で平らげた。慎重なんだか大胆なんだか。
ひとかけら食ったら満足したのだろう。ちょしちょしと顔を洗い始めた。
「……………」
顔を洗うタイガーの仕草をじっと見ている。ほんの少しスモークのかかった紫の瞳が。
なるほどね。気になってたのは猫だったのか。
「飼い主に連絡とるから、その間猫の世話頼んでもいいかな、サリー」
「ええ」
「ありがとな。助かるよ」
タイガーの飼い主に電話している間、背後で何やら会話の気配がした。
「猫好きなの? さわってみる?」
そーっと見てみると……オティアが手をのばして、茶色の虎猫を撫でていた。
そうか、猫好きだったのか……ああなんて穏やかな表情をしてるんだろう。
他の奴から見れば些細な変化だろうが、俺にとっては充分だ。
って言うかお前、初対面の相手とちゃんとコミュニケーションとれてるじゃないか!
「君、動物飼ってたことある?」
だまってふるふると首を横に振る。
「そっか、そのわりに上手いね猫の扱い」
言葉こそないが穏やかな空気の流れる二人の間で、猫がごろごろと喉を鳴らしていた。
※ ※ ※ ※
飼い主が迎えにくるまで、オティアはずっと猫をなでていた。
「タイガー!」
「なー」
「もう、お前って子は! ありがとうございますっ。本当にありがとうございますっ!」
山のような感謝と、ささやかな支払いを済ませて飼い主が猫を連れて帰って行くのを、オティアは微妙にがっかりした様子で見送っていた。
基本的にいつもと同じポーカーフェイスなのだが、トータルで見ているとそこはかとなく感じるのだ。
「猫、好きなのか?」
「………嫌いじゃない」
「そう、か」
つまり、好きってことだよな。
「よかったよかった、これで一件落着ですね」
サリーがソファから立ち上がる。
その時、初めて気づいた。猫を預かってる間、ケージ使わなかったような……。
ソファの上には赤みがかった猫の毛が散らばっている。そうだ、確かにずっとあそこにいた。いつもは逃げ出さないように飼い主がくるまでケージに入れておくのに。
「それじゃあ、俺もそろそろおいとまします。後で伺いますね。何時ぐらい?」
「そうだな……19時ぐらいに。住所はここだ」
メモ用紙から一枚とって、さらさらとマンションの住所を書いて手渡した。
「電話くれれば迎えに行くよ」
「いえ、たぶんわかります。それじゃ、ごちそうさまでした」
「おう。手伝ってくれてありがとな、サリー」
にこにこと手を振って、サリーは帰って行く。ドアが閉まってからオティアが問いただすような視線を向けてきた。
「……あーその……彼、夕飯に招待したんだ」
「ああ」
「高校ん時の同級生のイトコでな。今、こっちに留学してるんだ。日本から」
説明しながら慌ただしく携帯を引っぱり出し、Hの項目から一つ選んでかける。
「……何か用かぁ?」
あいかわらずゾンビみたいな声だ。すうっと深く息を吸い、挨拶をすっ飛ばして初手から本題に入る。
「お前、今日飯食いに来い。来るよな?」
「え、いや俺………」
「客が来るんだよ。お前も知ってる奴。知り合いが一人でも多く同席してた方が向こうだってくつろげるだろ?」
「誰、客って」
「サリー」
「げっ」
「お前の分も用意しとく。いいな?」
答えを聞かずに電話を切り、ふう、と息を吐く。
よし……言ってやったぞ。
俺が携帯を閉じるのを確認してからオティアがぼそりと言った。
「……レオン、知ってるのか?」
「あ」
慌てて電話をかける。今度はLの項目、一番上。
「やあ」
いつもと同じ声、同じ口調。だが、言葉が出てくるまでにほんの少しいつもより時間がかかっているような気がした。
(レオン、もしかして意識して『いつもと同じ』ように答えてるのか?)
できるだけ簡潔な言葉を選んで伝える。
夕食に客を招待した、と。サリーとレオンは直接会ったことはないが、今までに何度か彼のことを話していた。まったくの知らない仲と言う訳でもない。
「わかったよ。今日は早めに帰る。シエンにも言っておくよ」
「ああ。……………………すまん、勝手に決めて……」
「かまわないさ。歓迎するよ」
「ありがとな、レオン。それで………」
言わなければいけないことがある。
今、この瞬間に、伝えたい言葉がある。
「えっと……あの………その………」
ためらってる場合じゃないだろうが。腹くくって、行くぞ、よし!
「……ごめん、レオン………………ごめん」
小さな声だった。かすれて、よれて。携帯がギリで拾ってくれるかどうかの微かな声。
ほんの少し間があって、やわらかな囁きが返される。
「愛してるよ」
「俺もっ」
即答していた。勢い余って咳き込みそうになる。
オティアがちらっとこっちを見た。急に猛烈な羞恥心がこみあげてきた。
「……じゃあ……また後で……」
頬の火照りをおぼえながら電話を切る。
結局、愛してるとは言えなかった。
(いいさ。今夜二人きりになったらちゃんと言う)
※ ※ ※ ※
(まったくこいつら、職場で何やってるんだか)
オティアは内心やれやれとため息をついた。
あと30分あの調子でしゃべってたら新聞紙丸めてはり倒すことも考えたが、どうやらそこまでやらずにすんだようだ。
「あ………その………仕事するか」
「ん」
ちらりとソファの上に視線を向ける。茶色いふかふかの毛が散らばっていた。
(とりあえず掃除……しなきゃな)
コロコロクリーナーを取りにロッカーに向かった。
次へ→【3-10-14】コーンブレッド
事務所に入って行くとオティアがデスクから顔を上げた。
「ああ、オティア。彼はサリーだ。以前、何度かペット探しを手伝ってもらった。獣医の卵だよ」
「こんにちは」
「こっちはオティアだ。俺のアシスタントをしてる」
軽く頭をさげると、すっと立って簡易キッチンに向かった。相変わらずのポーカーフェイスだが、そこはかとなく視線の滞空時間が長かったような?
「もう一人のシエンは上で……レオンの事務所でバイトしてるんだ」
「ああ、法律事務所」
「うん。そこ、適当に座っててくれ」
手を洗い終わった所にちょうどいいタイミングでグラスに注がれたアイスコーヒーと、皿に盛られたマドレーヌが出てきた。
「サンキュ、オティア。お前は?」
「もう食べた」
「そうか」
確かに、いつものお茶の時間にしてはいささか遅い。
「これ、美味いぞ」
伏せた貝殻の形の焼き菓子をサリーにすすめる。言うまでもなくアレックスのお手製、アイスコーヒーも同様。
「いただきます」
するとソファにうずくまっていたタイガーがひょいと首をのばし、くんくんとサリーの手にあるマドレーヌのにおいをかいだ。
「食べる?」
サリーがマドレーヌのすみっこをちょいとちぎり、手のひらに乗せてさし出した。
「食うのか、お前」
くんくんくん………
念入りにおいを嗅いでから、あむっと一口で平らげた。慎重なんだか大胆なんだか。
ひとかけら食ったら満足したのだろう。ちょしちょしと顔を洗い始めた。
「……………」
顔を洗うタイガーの仕草をじっと見ている。ほんの少しスモークのかかった紫の瞳が。
なるほどね。気になってたのは猫だったのか。
「飼い主に連絡とるから、その間猫の世話頼んでもいいかな、サリー」
「ええ」
「ありがとな。助かるよ」
タイガーの飼い主に電話している間、背後で何やら会話の気配がした。
「猫好きなの? さわってみる?」
そーっと見てみると……オティアが手をのばして、茶色の虎猫を撫でていた。
そうか、猫好きだったのか……ああなんて穏やかな表情をしてるんだろう。
他の奴から見れば些細な変化だろうが、俺にとっては充分だ。
って言うかお前、初対面の相手とちゃんとコミュニケーションとれてるじゃないか!
「君、動物飼ってたことある?」
だまってふるふると首を横に振る。
「そっか、そのわりに上手いね猫の扱い」
言葉こそないが穏やかな空気の流れる二人の間で、猫がごろごろと喉を鳴らしていた。
※ ※ ※ ※
飼い主が迎えにくるまで、オティアはずっと猫をなでていた。
「タイガー!」
「なー」
「もう、お前って子は! ありがとうございますっ。本当にありがとうございますっ!」
山のような感謝と、ささやかな支払いを済ませて飼い主が猫を連れて帰って行くのを、オティアは微妙にがっかりした様子で見送っていた。
基本的にいつもと同じポーカーフェイスなのだが、トータルで見ているとそこはかとなく感じるのだ。
「猫、好きなのか?」
「………嫌いじゃない」
「そう、か」
つまり、好きってことだよな。
「よかったよかった、これで一件落着ですね」
サリーがソファから立ち上がる。
その時、初めて気づいた。猫を預かってる間、ケージ使わなかったような……。
ソファの上には赤みがかった猫の毛が散らばっている。そうだ、確かにずっとあそこにいた。いつもは逃げ出さないように飼い主がくるまでケージに入れておくのに。
「それじゃあ、俺もそろそろおいとまします。後で伺いますね。何時ぐらい?」
「そうだな……19時ぐらいに。住所はここだ」
メモ用紙から一枚とって、さらさらとマンションの住所を書いて手渡した。
「電話くれれば迎えに行くよ」
「いえ、たぶんわかります。それじゃ、ごちそうさまでした」
「おう。手伝ってくれてありがとな、サリー」
にこにこと手を振って、サリーは帰って行く。ドアが閉まってからオティアが問いただすような視線を向けてきた。
「……あーその……彼、夕飯に招待したんだ」
「ああ」
「高校ん時の同級生のイトコでな。今、こっちに留学してるんだ。日本から」
説明しながら慌ただしく携帯を引っぱり出し、Hの項目から一つ選んでかける。
「……何か用かぁ?」
あいかわらずゾンビみたいな声だ。すうっと深く息を吸い、挨拶をすっ飛ばして初手から本題に入る。
「お前、今日飯食いに来い。来るよな?」
「え、いや俺………」
「客が来るんだよ。お前も知ってる奴。知り合いが一人でも多く同席してた方が向こうだってくつろげるだろ?」
「誰、客って」
「サリー」
「げっ」
「お前の分も用意しとく。いいな?」
答えを聞かずに電話を切り、ふう、と息を吐く。
よし……言ってやったぞ。
俺が携帯を閉じるのを確認してからオティアがぼそりと言った。
「……レオン、知ってるのか?」
「あ」
慌てて電話をかける。今度はLの項目、一番上。
「やあ」
いつもと同じ声、同じ口調。だが、言葉が出てくるまでにほんの少しいつもより時間がかかっているような気がした。
(レオン、もしかして意識して『いつもと同じ』ように答えてるのか?)
できるだけ簡潔な言葉を選んで伝える。
夕食に客を招待した、と。サリーとレオンは直接会ったことはないが、今までに何度か彼のことを話していた。まったくの知らない仲と言う訳でもない。
「わかったよ。今日は早めに帰る。シエンにも言っておくよ」
「ああ。……………………すまん、勝手に決めて……」
「かまわないさ。歓迎するよ」
「ありがとな、レオン。それで………」
言わなければいけないことがある。
今、この瞬間に、伝えたい言葉がある。
「えっと……あの………その………」
ためらってる場合じゃないだろうが。腹くくって、行くぞ、よし!
「……ごめん、レオン………………ごめん」
小さな声だった。かすれて、よれて。携帯がギリで拾ってくれるかどうかの微かな声。
ほんの少し間があって、やわらかな囁きが返される。
「愛してるよ」
「俺もっ」
即答していた。勢い余って咳き込みそうになる。
オティアがちらっとこっちを見た。急に猛烈な羞恥心がこみあげてきた。
「……じゃあ……また後で……」
頬の火照りをおぼえながら電話を切る。
結局、愛してるとは言えなかった。
(いいさ。今夜二人きりになったらちゃんと言う)
※ ※ ※ ※
(まったくこいつら、職場で何やってるんだか)
オティアは内心やれやれとため息をついた。
あと30分あの調子でしゃべってたら新聞紙丸めてはり倒すことも考えたが、どうやらそこまでやらずにすんだようだ。
「あ………その………仕事するか」
「ん」
ちらりとソファの上に視線を向ける。茶色いふかふかの毛が散らばっていた。
(とりあえず掃除……しなきゃな)
コロコロクリーナーを取りにロッカーに向かった。
次へ→【3-10-14】コーンブレッド
▼ 【3-10-14】コーンブレッド
2008/05/17 3:56 【三話】
ディフからの電話を切ってから、なにげなくシャツのにおいをかいでみる。
……汗臭ぇ。ヤニも大概に染み付いてるな、これ。
顎を撫でると、伸びた無精髭が指に触れた。
それほど毛深いって訳じゃないんだが、三日間ひげ剃りさぼってたからなあ。さすがに客が来るのに、これはまずかろう。
「シャワー浴びてくるか」
※ ※ ※ ※
「腹減った。今日の飯、何?」
久々に顔を出すと、白地に緑のストライプのエプロンつけて髪の毛をきゅっと後ろで一つにまとめた……
要するにいつもの晩飯時のスタイルのディフがぬっと出てきてひとこと。
「カニだ」
「俺に何か恨みでもあるのかーっ!」
「ジョークだよ、ジョーク」
ポトフだった。
客を呼ぶにしちゃいささか地味なメニューだが今日は冷える。こう言うあったかいものが欲しくなる。
「いいタイミングだ。そろそろ来る頃だな」
「彼?」
「ああ」
ほぼ同時に呼び鈴が鳴り、ディフが玄関へと迎えに出た。
「おう、よく来てくれたな。待ってた」
「こんばんは。おじゃまします」
「もうちょっと準備にかかるからリビングで待っててくれ」
ほどなく眼鏡をかけた、ほとんど中学生みたいな黒髪の男を連れて戻ってきた。
「ヒウェル、覚えてるよな」
「どもー……」
「お久しぶりです」
にこにこと人畜無害な笑顔を浮かべちゃいるんだが。どうにも、その、ヨーコの従弟だと思うとこいつも油断できない何ゾがあるような気がしてっ!
「ひ、ひさしぶり……元気?」
「ええ」
落ちつかない。
「そ、そうか……ヨーコは?」
「元気ですよ。といっても、最近会ってなくて、メールばっかりですけど」
「そうか……」
シエンがひょこっとキッチンから顔を出して挨拶をする。
「こんにちは」
オティアはいつものように黙々とテーブルをセッティングしている。
「ああ、シエン。こいつサリーっての、高校生んときの同級生のイトコで今日本から留学中」
「サクヤ・ユウキです。サクヤって呼びにくいらしくて、サリーって呼ばれてるけど」
「何で、サリー?」
きょとんとして首をかしげるシエンにディフが説明した。
「ヨーコは教え子からメリィさんって呼ばれてるんだそうだ。メリィの従弟だから、サリー。わかりやすいだろ?」
前にも聞いた理屈だが、聞くたびに笑いたくなる。
「……メリィさんか……くっくっく、似合わねー」
呼ばれるたびにどんな顔してんだろうなあ、ヨーコ。
しばらく笑っていると、なぜか背筋がぞわっとした。あわてて周囲を見回す。
(ヒーウェールーぅうう?)
何だか今、彼女ににらまれたような……
いや、んな訳ゃない。気のせいだ。
ここはサンフランシスコ、ヨーコは太平洋の向こう側だ!
でも……なあ。
気がつくと背後に立ってそうで。ってか夢に出そうで油断できないんだよ、あの女は。
ぶるっと頭をふるって意識を現実に向ける。サリーが和やかにレオンと挨拶を交わしていた。
「できたぞ。冷めないうちに食え」
北欧製のどっしりした木の食卓に料理が並び、夕食が始まった。
「うわっぷ!」
深皿に盛りつけられたポトフを食おうとしたら眼鏡がくもった。
何だかこの感覚も久しぶりだ……この部屋に来るの自体、10日ぶりか? しばらく、こんなあったかい飯食ってなかったもんな。
と言うか、シエンが弁当持ってきてくれてから3日ぶりのまともな食事だ。
コンソメと塩、コショウで味付けしたシンプルなスープの中に、大きめに切ったキャベツやニンジン、タマネギ、カボチャ、ジャガイモなんかがごろごろ浸っている。肉類はソーセージと豚肉。けっこうでかい塊なのに、柔らかくて。口に入れて軽く歯を当てただけでほろりと崩れた。
付け合わせは茹でたナスとトマトのサラダ。ソイソースをベースにしたドレッシングで軽く和えてある。
添えられたコーンブレッドは、店で買ったにしちゃ妙にあったかいし、形も微妙にいびつで……まさか、これ自分で焼いたのか、ディフ?
地道に手ーかけてやがる。しかも、機嫌良さそうだ。そして、こいつがご機嫌だと必然的にレオンも上機嫌になる。
「そうか、君もカリフォルニア大学の学生なんだね」
「はい。今はシスコ市内の動物病院で実習を」
「え? 大学生?」
シエンが目を丸くした。
「……もしかして高校生だと思ったか、シエン」
「あー、よくあること、よくあること! 俺も最初会った時中学生だと思った」
「東洋人は若く見えるみたいで……学校にいても、すごいスキップしてきたのかと思われてね」
「そーいや日本には飛び級制ってないんだよな」
「ヨーコん時は……ああ、こいつの従姉なんだけどな。てっきり小学生だと思ってさあ」
「速攻で体に教え込まれてたよな」
「何やったんだろう、羊子さん」
「って、左右のこめかみに拳握って押し当てて、指の関節のとこでこう」
「ぐりぐりっと?」
「そう、ぐりぐりと」
「それ彼女の得意技です」
「だろーな。たびたび食らってた」
「ディフが?」
「いや」
「俺」
「……だろうね」
言われる前に自白したら、さらりとレオンに納得された。
「相手が強くても。年上でも向かっていっちゃうところがあるから……ちょっと心配でしたけどね」
「だ、ろうな。セクハラしてきた三年の男子に面と向かって『恥を知れ!』ってタンカ切ってた」
「やっぱり?」
双子が何となくディフの方を見ている。うんうん、俺もそう思うよ。だから気が合ったんだろうな。
「ちっちゃい頃、俺がいじめられてると飛んできて……手は出さずに口だけで相手を言い負かしちゃってましたね」
「さすがだな」
「って言うか泣かせてました」
「やっぱり?」
「弁護士向きの人材だね」
「残念ながら高校で先生やってます」
「ああ、それもある意味適職だね」
なごやかな会話を交わしつつ、何げなく双子とディフを観察してみる。
確かにシエンの言う通りだった。
双子と話す時はほとんどディフとシエンがしゃべって、オティアはたまにうなずいたりつっこんだりするくらいで、直接はディフと言葉を交わしていない。
「味薄かったら、塩足せよ」
「大丈夫。おいしいよ。ね?」
二人で顔を合わせ、オティアがうなずく。万事この調子だ。
「ポトフのお肉すごい柔らかいよね。どうやったの?」
「ああ、それは……叩いた」
「叩いた?」
「うん。金属の専用のハンマーがあるから、それで、ドンドンとな。肉の繊維が適度に破壊されて食べやすくなるんだ」
話しかけるのはもっぱらシエン、オティアが自分から話題を提供することはない。
ディフのほうも、無意識からしているのかわからないが、オティアにだけ話しかけるってことは、あまりない。
なるほどなあ……。
三人の間でなんとなく会話が成立してるのは間にシエンがいるからなんだな。
「そー言やお前さん、動物病院で実習中なんだよな、サリー」
「はい」
「やっぱ、あれか。変わったペットとか来る訳? チンパンジーとか、アメリカバイソンとか、ワニとか」
「どんな動物園だ」
「さすがに、それは……あ、でもこの間、ちょっと変わった子たちが来たな」
「どんな?」
「シェパードです。名前はヒューイとデューイって言ってたなあ。すごく頭がよくて」
「どの辺が変わってるんだ」
「警察犬だったんですよ」
ディフが懐かしそうに目を細める。
「……連中、元気だったか」
「とても。……って、あ、そうか。警察の方でしたね、元」
「ああ、元同僚だ」
「じゃあ連れてきた人もお知り合いかな」
「どんな奴だ?」
「背の高い、金髪の眼鏡かけた男の人です」
「ああエリックか」
ディフの後輩か。でも、あいつK9課でも爆発物処理班でもなかったような。
「……何で鑑識が警察犬連れて獣医に?」
「頼まれてって言ってましたよ」
断れなかったんだな、バイキング。あいつ微妙に押しに弱いから。
「ヒューイはフレンドリーだがデューイはちょいと気難しいからな。手こずったろ?」
「いえ全然。おとなしく注射させてくれましたよ」
「ほんとに? 大したもんだ」
「エリックさんの言うこともよく聞いてたし」
「うん、あいつ犬に好かれてるから」
※ ※ ※ ※
コーンブレッドを一口、口に入れるとサリーが「ん」と小さく声を出した。
「このパン、面白い味ですね。もちもちして、コーンスープみたいな味がする」
「ああ、コーンブレッドな。お袋にレシピ聞いて焼いてみた」
「自分で焼いたんですか? すごいなあ」
「それほどでもないぞ。アメリカの典型的な家庭料理だし」
やっぱホームメイドか、このコーンブレッド。とうとうパンも焼くようになっちゃったよ、この男は……。
「簡単だったよ、ボウル一つで材料まぜて、ハンドミキサーで混ぜて」
にこにこしながらシエンが言った。
「お前も一緒に?」
「うん。粉チーズとか入れても美味しそうだよね」
「そうだな、今度試してみるか」
確かに典型的な家庭料理だけどさあ。
ふつー母から娘に伝授されるもんだと思うぞ、こーゆーものは?
思わず心の中で突っ込んでから、はたと気づく。なんかこの感覚も久しぶりだなって。
ニセモノでもいい。他人の寄せ集まりでもかまやしない、どのみち俺には血のつながった身内は居やしない。
やはりここに居たいのだ、俺は。『家族』の中に居たいのだ。
何ができるのだろう。どうすればいいのだろう?
愚かにも一度自分の手で壊しかけた、この脆くも温かな絆を守るには……。
「アメリカの家庭料理か……お腹にたまりそうですね」
「ああ。腹持ちいいぞ。そう言や、日本の家庭料理ってどんなのがあるんだ?」
考えている間になごやかに食事は進み、のほほんとしたペースで平和な会話が進んで行く。
「こっちで有名なのは、スキヤキ、スシ、テンプラ……色々ありますけど」
サリーは顎に手を当ててちょっとの間考えてから、言った。
「日本人としては、ごはんと味噌汁、肉じゃが……寿司でも巻き寿司とか、かな?」
「マキズシ?」
「カリフォルニアロールの親戚かな」
「どう違うんだ?」
「主に中味と、巻き方」
「ふうん……」
ぱちぱちとまばたきしてから、ディフが言った。
「食ってみたいな、いっぺん」
「お前ほんと食うことには熱心だね」
「食って覚えるからな」
「時間さえあれば作れますけど」
「ぜひに!」
即答していた。
一斉に皆して注目してきた。レオンが。シエンが。ディフが。オティアでさえちらっとこっちを見たが、すぐに目を逸らしてしまった。
ここ数日の嫌な流れを変えたのが、サリーの存在だってのは確かなんだ。魔女の一族だろうが何だろうが、こいつに賭けてみようと思ったのだ。
「いいですよ−。えーっと……二週間ぐらいください。準備もあるし」
「そっか! ありがとな、サリー」
食後にディフがテンガロンハットを持ち出して、一人ずつ順番に被ってみた。
意外にオティアとシエンが似合っていた。レオンも予想外に決まっていた。テキサス生まれのディフは言わずもがな。アメリカンサイズの帽子はサリーには少し大きめで、タオルを詰めたらどうにか安定してくれた。
しかし、俺が被ると……何故か全員が微妙な顔をした。
食後の余興が終わるとオティアは食べ終わった食器を下げて、さっさとキッチンに行ってしまった。
「いつもあんな感じか?」
「ああ。あんな感じだね」
ヨーコが見たがるからと言ってサリーはディフと俺の写真を携帯のカメラで撮影し、お礼を言って帰っていった。
次へ→【3-10-15】可愛い弟
……汗臭ぇ。ヤニも大概に染み付いてるな、これ。
顎を撫でると、伸びた無精髭が指に触れた。
それほど毛深いって訳じゃないんだが、三日間ひげ剃りさぼってたからなあ。さすがに客が来るのに、これはまずかろう。
「シャワー浴びてくるか」
※ ※ ※ ※
「腹減った。今日の飯、何?」
久々に顔を出すと、白地に緑のストライプのエプロンつけて髪の毛をきゅっと後ろで一つにまとめた……
要するにいつもの晩飯時のスタイルのディフがぬっと出てきてひとこと。
「カニだ」
「俺に何か恨みでもあるのかーっ!」
「ジョークだよ、ジョーク」
ポトフだった。
客を呼ぶにしちゃいささか地味なメニューだが今日は冷える。こう言うあったかいものが欲しくなる。
「いいタイミングだ。そろそろ来る頃だな」
「彼?」
「ああ」
ほぼ同時に呼び鈴が鳴り、ディフが玄関へと迎えに出た。
「おう、よく来てくれたな。待ってた」
「こんばんは。おじゃまします」
「もうちょっと準備にかかるからリビングで待っててくれ」
ほどなく眼鏡をかけた、ほとんど中学生みたいな黒髪の男を連れて戻ってきた。
「ヒウェル、覚えてるよな」
「どもー……」
「お久しぶりです」
にこにこと人畜無害な笑顔を浮かべちゃいるんだが。どうにも、その、ヨーコの従弟だと思うとこいつも油断できない何ゾがあるような気がしてっ!
「ひ、ひさしぶり……元気?」
「ええ」
落ちつかない。
「そ、そうか……ヨーコは?」
「元気ですよ。といっても、最近会ってなくて、メールばっかりですけど」
「そうか……」
シエンがひょこっとキッチンから顔を出して挨拶をする。
「こんにちは」
オティアはいつものように黙々とテーブルをセッティングしている。
「ああ、シエン。こいつサリーっての、高校生んときの同級生のイトコで今日本から留学中」
「サクヤ・ユウキです。サクヤって呼びにくいらしくて、サリーって呼ばれてるけど」
「何で、サリー?」
きょとんとして首をかしげるシエンにディフが説明した。
「ヨーコは教え子からメリィさんって呼ばれてるんだそうだ。メリィの従弟だから、サリー。わかりやすいだろ?」
前にも聞いた理屈だが、聞くたびに笑いたくなる。
「……メリィさんか……くっくっく、似合わねー」
呼ばれるたびにどんな顔してんだろうなあ、ヨーコ。
しばらく笑っていると、なぜか背筋がぞわっとした。あわてて周囲を見回す。
(ヒーウェールーぅうう?)
何だか今、彼女ににらまれたような……
いや、んな訳ゃない。気のせいだ。
ここはサンフランシスコ、ヨーコは太平洋の向こう側だ!
でも……なあ。
気がつくと背後に立ってそうで。ってか夢に出そうで油断できないんだよ、あの女は。
ぶるっと頭をふるって意識を現実に向ける。サリーが和やかにレオンと挨拶を交わしていた。
「できたぞ。冷めないうちに食え」
北欧製のどっしりした木の食卓に料理が並び、夕食が始まった。
「うわっぷ!」
深皿に盛りつけられたポトフを食おうとしたら眼鏡がくもった。
何だかこの感覚も久しぶりだ……この部屋に来るの自体、10日ぶりか? しばらく、こんなあったかい飯食ってなかったもんな。
と言うか、シエンが弁当持ってきてくれてから3日ぶりのまともな食事だ。
コンソメと塩、コショウで味付けしたシンプルなスープの中に、大きめに切ったキャベツやニンジン、タマネギ、カボチャ、ジャガイモなんかがごろごろ浸っている。肉類はソーセージと豚肉。けっこうでかい塊なのに、柔らかくて。口に入れて軽く歯を当てただけでほろりと崩れた。
付け合わせは茹でたナスとトマトのサラダ。ソイソースをベースにしたドレッシングで軽く和えてある。
添えられたコーンブレッドは、店で買ったにしちゃ妙にあったかいし、形も微妙にいびつで……まさか、これ自分で焼いたのか、ディフ?
地道に手ーかけてやがる。しかも、機嫌良さそうだ。そして、こいつがご機嫌だと必然的にレオンも上機嫌になる。
「そうか、君もカリフォルニア大学の学生なんだね」
「はい。今はシスコ市内の動物病院で実習を」
「え? 大学生?」
シエンが目を丸くした。
「……もしかして高校生だと思ったか、シエン」
「あー、よくあること、よくあること! 俺も最初会った時中学生だと思った」
「東洋人は若く見えるみたいで……学校にいても、すごいスキップしてきたのかと思われてね」
「そーいや日本には飛び級制ってないんだよな」
「ヨーコん時は……ああ、こいつの従姉なんだけどな。てっきり小学生だと思ってさあ」
「速攻で体に教え込まれてたよな」
「何やったんだろう、羊子さん」
「小学生? あ、もしかしてものすごくスキップしたとか」
「教えてあげる……日本には飛び級制は……ないのよ」
「って、左右のこめかみに拳握って押し当てて、指の関節のとこでこう」
「ぐりぐりっと?」
「そう、ぐりぐりと」
「それ彼女の得意技です」
「だろーな。たびたび食らってた」
「ディフが?」
「いや」
「俺」
「……だろうね」
言われる前に自白したら、さらりとレオンに納得された。
「相手が強くても。年上でも向かっていっちゃうところがあるから……ちょっと心配でしたけどね」
「だ、ろうな。セクハラしてきた三年の男子に面と向かって『恥を知れ!』ってタンカ切ってた」
「やっぱり?」
双子が何となくディフの方を見ている。うんうん、俺もそう思うよ。だから気が合ったんだろうな。
「ちっちゃい頃、俺がいじめられてると飛んできて……手は出さずに口だけで相手を言い負かしちゃってましたね」
「さすがだな」
「って言うか泣かせてました」
「やっぱり?」
「弁護士向きの人材だね」
「残念ながら高校で先生やってます」
「ああ、それもある意味適職だね」
なごやかな会話を交わしつつ、何げなく双子とディフを観察してみる。
確かにシエンの言う通りだった。
双子と話す時はほとんどディフとシエンがしゃべって、オティアはたまにうなずいたりつっこんだりするくらいで、直接はディフと言葉を交わしていない。
「味薄かったら、塩足せよ」
「大丈夫。おいしいよ。ね?」
二人で顔を合わせ、オティアがうなずく。万事この調子だ。
「ポトフのお肉すごい柔らかいよね。どうやったの?」
「ああ、それは……叩いた」
「叩いた?」
「うん。金属の専用のハンマーがあるから、それで、ドンドンとな。肉の繊維が適度に破壊されて食べやすくなるんだ」
話しかけるのはもっぱらシエン、オティアが自分から話題を提供することはない。
ディフのほうも、無意識からしているのかわからないが、オティアにだけ話しかけるってことは、あまりない。
なるほどなあ……。
三人の間でなんとなく会話が成立してるのは間にシエンがいるからなんだな。
「そー言やお前さん、動物病院で実習中なんだよな、サリー」
「はい」
「やっぱ、あれか。変わったペットとか来る訳? チンパンジーとか、アメリカバイソンとか、ワニとか」
「どんな動物園だ」
「さすがに、それは……あ、でもこの間、ちょっと変わった子たちが来たな」
「どんな?」
「シェパードです。名前はヒューイとデューイって言ってたなあ。すごく頭がよくて」
「どの辺が変わってるんだ」
「警察犬だったんですよ」
ディフが懐かしそうに目を細める。
「……連中、元気だったか」
「とても。……って、あ、そうか。警察の方でしたね、元」
「ああ、元同僚だ」
「じゃあ連れてきた人もお知り合いかな」
「どんな奴だ?」
「背の高い、金髪の眼鏡かけた男の人です」
「ああエリックか」
ディフの後輩か。でも、あいつK9課でも爆発物処理班でもなかったような。
「……何で鑑識が警察犬連れて獣医に?」
「頼まれてって言ってましたよ」
断れなかったんだな、バイキング。あいつ微妙に押しに弱いから。
「ヒューイはフレンドリーだがデューイはちょいと気難しいからな。手こずったろ?」
「いえ全然。おとなしく注射させてくれましたよ」
「ほんとに? 大したもんだ」
「エリックさんの言うこともよく聞いてたし」
「うん、あいつ犬に好かれてるから」
※ ※ ※ ※
コーンブレッドを一口、口に入れるとサリーが「ん」と小さく声を出した。
「このパン、面白い味ですね。もちもちして、コーンスープみたいな味がする」
「ああ、コーンブレッドな。お袋にレシピ聞いて焼いてみた」
「自分で焼いたんですか? すごいなあ」
「それほどでもないぞ。アメリカの典型的な家庭料理だし」
やっぱホームメイドか、このコーンブレッド。とうとうパンも焼くようになっちゃったよ、この男は……。
「簡単だったよ、ボウル一つで材料まぜて、ハンドミキサーで混ぜて」
にこにこしながらシエンが言った。
「お前も一緒に?」
「うん。粉チーズとか入れても美味しそうだよね」
「そうだな、今度試してみるか」
確かに典型的な家庭料理だけどさあ。
ふつー母から娘に伝授されるもんだと思うぞ、こーゆーものは?
思わず心の中で突っ込んでから、はたと気づく。なんかこの感覚も久しぶりだなって。
ニセモノでもいい。他人の寄せ集まりでもかまやしない、どのみち俺には血のつながった身内は居やしない。
やはりここに居たいのだ、俺は。『家族』の中に居たいのだ。
何ができるのだろう。どうすればいいのだろう?
愚かにも一度自分の手で壊しかけた、この脆くも温かな絆を守るには……。
「アメリカの家庭料理か……お腹にたまりそうですね」
「ああ。腹持ちいいぞ。そう言や、日本の家庭料理ってどんなのがあるんだ?」
考えている間になごやかに食事は進み、のほほんとしたペースで平和な会話が進んで行く。
「こっちで有名なのは、スキヤキ、スシ、テンプラ……色々ありますけど」
サリーは顎に手を当ててちょっとの間考えてから、言った。
「日本人としては、ごはんと味噌汁、肉じゃが……寿司でも巻き寿司とか、かな?」
「マキズシ?」
「カリフォルニアロールの親戚かな」
「どう違うんだ?」
「主に中味と、巻き方」
「ふうん……」
ぱちぱちとまばたきしてから、ディフが言った。
「食ってみたいな、いっぺん」
「お前ほんと食うことには熱心だね」
「食って覚えるからな」
「時間さえあれば作れますけど」
「ぜひに!」
即答していた。
一斉に皆して注目してきた。レオンが。シエンが。ディフが。オティアでさえちらっとこっちを見たが、すぐに目を逸らしてしまった。
ここ数日の嫌な流れを変えたのが、サリーの存在だってのは確かなんだ。魔女の一族だろうが何だろうが、こいつに賭けてみようと思ったのだ。
「いいですよ−。えーっと……二週間ぐらいください。準備もあるし」
「そっか! ありがとな、サリー」
食後にディフがテンガロンハットを持ち出して、一人ずつ順番に被ってみた。
意外にオティアとシエンが似合っていた。レオンも予想外に決まっていた。テキサス生まれのディフは言わずもがな。アメリカンサイズの帽子はサリーには少し大きめで、タオルを詰めたらどうにか安定してくれた。
しかし、俺が被ると……何故か全員が微妙な顔をした。
食後の余興が終わるとオティアは食べ終わった食器を下げて、さっさとキッチンに行ってしまった。
「いつもあんな感じか?」
「ああ。あんな感じだね」
ヨーコが見たがるからと言ってサリーはディフと俺の写真を携帯のカメラで撮影し、お礼を言って帰っていった。
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▼ 【3-10-15】可愛い弟
2008/05/17 3:58 【三話】
キッチンに向かうと水音が聞こえてきた。皿を洗ってるんだな。
のそのそと歩いていって、にゅっと鼻をつっこんでみる。
「手伝おっか?」
「……」
ちらっとこっちを見ただけで返事はない。だが、とにもかくにも存在を認めてくれた。
「遠慮すんな。二人でやった方が早い」
腕をまくって、勝手に手伝い開始。オティアが皿をざっと水ですすいで、食器洗浄機に入れる。
その間、オーブンの天板を洗う。まだほんのり温かい。
シンクにはコーンブレッドの材料を混ぜるのに使ったでかいボウルが水にひたしてあった。ついでにこれも洗っとくか。
鍋にはまだポトフが残っていた。いったいどれだけ大量に作ったのか。多分、温め直して明日の朝も食うのだろう。
「……オムレツ、うまかった」
鍋を見ながらぼそりと言う。オティアとは視線をあわせずに。
「シエンに頼まれたからだ」
「……そうなんだ」
ぱたん、と食洗機のフタを締めてスイッチを入れるとオティアはリビングに歩いて行き、一言ディフに報告を入れて。
「終わった」
「おう。おつかれさん」
すたすたと部屋に戻ってゆく。
見送っていると、ディフがこっちを見て首をかしげていた。
「何やってんだ」
「オーブンの天板、洗ってた。あとボウルも」
「……熱でもあるのか?」
つくづく失礼な男だねおい。一発シメとくか? とは言え、腕力では到底かなわない。しかし、“舌力”なら話は別だ。
「レオンは?」
「書斎。調べものがあるんだと」
察するに早く帰るために仕事を持ち帰ったな。だったらしばらく戻ってこないだろう。よし、今のうち。
「しかしさ…お前も双子の世話するようになってから何つーか…険が抜けたよな」
「…そうかね」
「何かさ、お前…このごろ……妙にその、なんつーか」
「言いたいことがあるんならはっきり言え」
「……………色っぽい」
顔をひきつらせ、ずざざっとディフが後じさる。
面白れぇ。
「人ごみとか混んでるバスの中とかケーブルカーん中では気をつけろよー痴漢されないように」
「貴様………さっき食ったもの今吐くか、あぁんっ?」
もわっと赤い髪の毛が逆立ち、眉がつり上がる。地獄の番犬みたいな面構えだが、かすかに頬が赤い。
「このうなじとか尻のあたりがねー撫でてさわってーつってるみたいで」
「寄るなーっ」
手をわきわきさせると、本気で怯えた顔して壁に張り付きやがった。
あー、面白ぇ……。
ささやかな勝利を噛みしめていると、背後に気配を感じた。まさか、レオンっ?
慌てて振り向くと、シエンが見ていた。
「……ジョークだよ、ジョークっ」
無駄に爽やかな顔ではっはっはと笑いながらディフの背中を叩く。
「なるほど……それが貴様のジョークか。ならば」
不穏な空気。
はっと気づくと、前屈みにされて。がっちりした右足が俺の左足に絡みつき、残りの足が脇腹に引っ掛けられて。
俺にとっては不自然極まりない体勢のまま、腕が背中側にぎりぎり引っぱられる。
「ぬおお、背筋がきしむ! ってか腕、腕がーっ!」
「これが俺のツッコミだ!」
「ノーノーノー、ロープ、ロープ、ロープ!」
※ ※ ※ ※
仲いいなあ、二人とも。
おとなげない大人二人を、シエンがにこにこしながら見守っていた。
その笑顔を見ながら、ヒウェルは必死で自分に言い聞かせていた。
シエンは弟。可愛い弟なんだ、と……。
※ ※ ※ ※
何ができるのだろう。どうすればいいのだろう?
この儚くも温かい、かりそめの『家族』を守るには。
(赤いグリフォン/了)
次へ→【3-11】ジャパニーズ・スタイル
のそのそと歩いていって、にゅっと鼻をつっこんでみる。
「手伝おっか?」
「……」
ちらっとこっちを見ただけで返事はない。だが、とにもかくにも存在を認めてくれた。
「遠慮すんな。二人でやった方が早い」
腕をまくって、勝手に手伝い開始。オティアが皿をざっと水ですすいで、食器洗浄機に入れる。
その間、オーブンの天板を洗う。まだほんのり温かい。
シンクにはコーンブレッドの材料を混ぜるのに使ったでかいボウルが水にひたしてあった。ついでにこれも洗っとくか。
鍋にはまだポトフが残っていた。いったいどれだけ大量に作ったのか。多分、温め直して明日の朝も食うのだろう。
「……オムレツ、うまかった」
鍋を見ながらぼそりと言う。オティアとは視線をあわせずに。
「シエンに頼まれたからだ」
「……そうなんだ」
ぱたん、と食洗機のフタを締めてスイッチを入れるとオティアはリビングに歩いて行き、一言ディフに報告を入れて。
「終わった」
「おう。おつかれさん」
すたすたと部屋に戻ってゆく。
見送っていると、ディフがこっちを見て首をかしげていた。
「何やってんだ」
「オーブンの天板、洗ってた。あとボウルも」
「……熱でもあるのか?」
つくづく失礼な男だねおい。一発シメとくか? とは言え、腕力では到底かなわない。しかし、“舌力”なら話は別だ。
「レオンは?」
「書斎。調べものがあるんだと」
察するに早く帰るために仕事を持ち帰ったな。だったらしばらく戻ってこないだろう。よし、今のうち。
「しかしさ…お前も双子の世話するようになってから何つーか…険が抜けたよな」
「…そうかね」
「何かさ、お前…このごろ……妙にその、なんつーか」
「言いたいことがあるんならはっきり言え」
「……………色っぽい」
顔をひきつらせ、ずざざっとディフが後じさる。
面白れぇ。
「人ごみとか混んでるバスの中とかケーブルカーん中では気をつけろよー痴漢されないように」
「貴様………さっき食ったもの今吐くか、あぁんっ?」
もわっと赤い髪の毛が逆立ち、眉がつり上がる。地獄の番犬みたいな面構えだが、かすかに頬が赤い。
「このうなじとか尻のあたりがねー撫でてさわってーつってるみたいで」
「寄るなーっ」
手をわきわきさせると、本気で怯えた顔して壁に張り付きやがった。
あー、面白ぇ……。
ささやかな勝利を噛みしめていると、背後に気配を感じた。まさか、レオンっ?
慌てて振り向くと、シエンが見ていた。
「……ジョークだよ、ジョークっ」
無駄に爽やかな顔ではっはっはと笑いながらディフの背中を叩く。
「なるほど……それが貴様のジョークか。ならば」
不穏な空気。
はっと気づくと、前屈みにされて。がっちりした右足が俺の左足に絡みつき、残りの足が脇腹に引っ掛けられて。
俺にとっては不自然極まりない体勢のまま、腕が背中側にぎりぎり引っぱられる。
「ぬおお、背筋がきしむ! ってか腕、腕がーっ!」
「これが俺のツッコミだ!」
「ノーノーノー、ロープ、ロープ、ロープ!」
※ ※ ※ ※
仲いいなあ、二人とも。
おとなげない大人二人を、シエンがにこにこしながら見守っていた。
その笑顔を見ながら、ヒウェルは必死で自分に言い聞かせていた。
シエンは弟。可愛い弟なんだ、と……。
※ ※ ※ ※
何ができるのだろう。どうすればいいのだろう?
この儚くも温かい、かりそめの『家族』を守るには。
(赤いグリフォン/了)
次へ→【3-11】ジャパニーズ・スタイル
▼ 【3-11】ジャパニーズ・スタイル
2008/05/25 3:42 【三話】
記事リスト
- 【3-11-1】電話1 (2008-05-25)
- 【3-11-2】まきずしまきに (2008-05-25)
- 【3-11-3】まきずしまいた (2008-05-25)
- 【3-11-4】電話2 (2008-05-25)
- 【3-11-5】甘やかすなと言われても (2008-05-25)
▼ 【3-11-1】電話1
2008/05/25 3:43 【三話】
時刻は夜の九時。サンフランシスコのアパートの一室で電話が鳴る。
結城朔也は手を伸ばして携帯を取り、ディスプレイに浮かぶ名前を確認した。
『よーこ』
日本の従姉からだ。かちゃりと開いて耳に当てる。
「Good-evening,サクヤちゃん。元気?」
「やあ、羊子さん。今、電話して大丈夫なの?」
「大丈夫よ。昼休みだから」
太平洋を隔てているとは思えないほどクリアに声が聞こえるが、やはりそこはアメリカと日本。返事が帰ってくるまでに1、2秒ほどタイムラグがある。
しかし二人とも慣れたもので、その辺りの間合いをつかんで一呼吸置いて会話をするやり方を身につけていた。
「メール見たけど……海苔に、巻き簾に、お米に寿司桶……しかもお米が2キロって」
「うん、あとからあげ粉もね。味噌としょうゆとワサビはこっちでもそろったから」
夕方のうちに(サンフランシスコの時間で)日本から送ってほしい食材のリストをメールで送っておいたのだ。
「サクヤちゃん、お寿司屋さんでも始める気?」
「たくさん食べそうな人がいるし」
「ああ、マックス?」
「うん」
「わかるわ……彼、嬉しそうな顔して、ばくばく食べるからねー。何っつーか、大型犬の餌付けしてる気分?」
電話の向こうで楽しげに笑う気配がする。高校時代のことを思い出しているのだろう。
「それでね……羊子さん。ちょっと気になることがあるんだ」
「ん、何?」
「あの双子……」
「ああ。レオンとマックスが面倒見てるって言う、金髪の双子ちゃん?」
口調は変わらないが声のトーンが変わった。しっとりと落ちついて、聞く者の心のすき間に入りこみ、包み込むような響きに。
赤い縁の眼鏡の向こうですうっと細められた切れ長の瞳が見えるような気がした。
「俺たちと、似た感じがする」
「それはそれは……なかなかに興味深い」
「写真、撮ろうとしたんだけど断られちゃったよ。羊子さんの同級生たちは撮ったけど」
「ああ、そっち送ってくれればOK。あとは……自力で観るから」
ほんの少し間が空いて、打って変わった楽しげな声が聞こえてきた。
「それじゃ、必要なもの見つくろってEMSで送るわ。またね、サリーちゃん」
ああ、なんだかすごく嬉しそうだ。
どうにも彼女、マクラウドさんの考えたニックネームがいたくお気に召したらしくて事あるごとに連呼したがる。
「それじゃまた電話するよ、メリィ先生」
「………メリィさん言うなーっっ」
お叱りの言葉の第二便が飛んでくる前に素早く電話を切った。
※ ※ ※ ※
こちら日本。とある高校の昼休み、社会科教員室にて。
結城羊子は切られたばかりの携帯を握り、ふるふると小刻みに震えていた。
「……っくっそー………」
羊子→羊→メリィさんの羊、羊、羊………
で、メリィ先生。
実にわかりやすい。教え子たちにつけられたこのあだ名は奇しくも十代の頃のニックネームとまったく同じだった。(その頃は『メリィちゃん』だったのだが)いつの時代も子どもの発想は同じってことか。
もっとも赴任した当初は『魔女先生』なんて言われていたのだから、それよりはマシになったのだろうけれど。
(魔女、か……)
そろりと指先で机の上の黄色い紙箱を手でなぞる。トランプより少し厚みのある箱の中には、一組のタロットカードがきっちり収められている。78枚、フルセット。あっという間にすり切れたり破れたりで消耗が激しいので常に2組ストックしている。
(こんなもん、持ち歩いてるんじゃあ、無理もないわな)
軽く物思いにふけってるところで、携帯が鳴った。
メールの着信音だ。
「お、来た来た………」
いそいそと開いて、写真を表示させる。テンガロンハットを被ったかつてのクラスメイトが写っていた。
赤毛と黒髪、それから遠くから見かける程度だった茶色い髪……秘かに学内で『姫』と呼ばれていた上級生。
「まー、マックスってばすっかり厳つくなっちゃって……うわ、ヒウェルすっげえ胡散臭い! あんなに可愛いくて……いじめがいがあったのになあ」
部屋の中に他に誰もいない安心感から、つい思ったことが口に出る。
「風見もちょっと道踏み外すと将来こーなっちゃうのかなぁ……」
「誰がどうなるって言うんですか?」
不意に背後から声をかけられ、羊子は椅子に座ったまま飛び上がった。
振り向くと束になったノートを抱えた男子生徒が一人、しげしげと携帯をのぞきこんでいる。
涼しげな目元に若侍のような風格と気品を漂わせ、ぴしっと背筋が伸びている。ちょっとした所作にも隙がない。
「風見………」
「はい、風見です」
さりげない風を装い、携帯を閉じる。風見光一はそんな事などさして気にする風もなく、どさっと1クラス分のノートを机の上に積み上げた。
「頼まれてた日本史のレポート、回収してきましたよ」
「あ、うん……さんきゅ」
「珍しいですね、羊子センセが携帯みながら物思いにふけってるなんて」
「っ見てたの? 入室前にノックしろって言ってるでしょうに!」
「しましたよ。でも全然気づかなかったし?」
くっそー……理論武装して来やがったか。イノセントな子犬みたいに首かしげて。
「それで……何見てたんですか、先生」
「………ん……高校の時の同級生の、写真」
「日本の?」
「ううん。サンフランシスコ」
「ああ。留学してたときの」
「そ。あたしの従弟が今、あっちに留学しててね。あたしの同級生と会ったから」
「それで、写真を」
「そうよ」
かちゃっと携帯を開いてさし出した。見られちゃったのなら今さら隠してもしょうがない。
「こっちの赤毛のごっついのがマックス。で、この眼鏡かけた胡散臭いのがヒウェル」
「なるほど。センセがあっちに居た時に可愛がってた人ですね」
「なっ」
(………やっぱ聞こえてたか)
「泣ける話だ………」
芝居がかった口調で肩をすくめ、首を横に振っている。
「風見ぃ!」
そいつぁどう言う意味だ? 言葉が飛び出すより早く風見光一は一礼して部屋を出ていた。
「くっそー……逃げられた」
と、思ったらひょこっと顔だけ中に戻して一言。
「ま、道踏み外しそうになったら拳骨くれる人たちがいるんだから、そんな風にはなれないって!」
にこっと笑うと今度こそドアを閉めて、立ち去って行った。
「ふん……ませた口きいちゃって………」
閉じた携帯を軽く指先でつつく。
ここは少し騒がしすぎる。大事なことは、後でもっとじっくり観よう。さしあたって、郵便局にEMSのラベルをもらいに行って……
「米、買って来なきゃな。あ、おばさんにも電話しとこ。色々入れたいものあるだろうし」
次へ→【3-11-2】まきずしまきに
結城朔也は手を伸ばして携帯を取り、ディスプレイに浮かぶ名前を確認した。
『よーこ』
日本の従姉からだ。かちゃりと開いて耳に当てる。
「Good-evening,サクヤちゃん。元気?」
「やあ、羊子さん。今、電話して大丈夫なの?」
「大丈夫よ。昼休みだから」
太平洋を隔てているとは思えないほどクリアに声が聞こえるが、やはりそこはアメリカと日本。返事が帰ってくるまでに1、2秒ほどタイムラグがある。
しかし二人とも慣れたもので、その辺りの間合いをつかんで一呼吸置いて会話をするやり方を身につけていた。
「メール見たけど……海苔に、巻き簾に、お米に寿司桶……しかもお米が2キロって」
「うん、あとからあげ粉もね。味噌としょうゆとワサビはこっちでもそろったから」
夕方のうちに(サンフランシスコの時間で)日本から送ってほしい食材のリストをメールで送っておいたのだ。
「サクヤちゃん、お寿司屋さんでも始める気?」
「たくさん食べそうな人がいるし」
「ああ、マックス?」
「うん」
「わかるわ……彼、嬉しそうな顔して、ばくばく食べるからねー。何っつーか、大型犬の餌付けしてる気分?」
電話の向こうで楽しげに笑う気配がする。高校時代のことを思い出しているのだろう。
「それでね……羊子さん。ちょっと気になることがあるんだ」
「ん、何?」
「あの双子……」
「ああ。レオンとマックスが面倒見てるって言う、金髪の双子ちゃん?」
口調は変わらないが声のトーンが変わった。しっとりと落ちついて、聞く者の心のすき間に入りこみ、包み込むような響きに。
赤い縁の眼鏡の向こうですうっと細められた切れ長の瞳が見えるような気がした。
「俺たちと、似た感じがする」
「それはそれは……なかなかに興味深い」
「写真、撮ろうとしたんだけど断られちゃったよ。羊子さんの同級生たちは撮ったけど」
「ああ、そっち送ってくれればOK。あとは……自力で観るから」
ほんの少し間が空いて、打って変わった楽しげな声が聞こえてきた。
「それじゃ、必要なもの見つくろってEMSで送るわ。またね、サリーちゃん」
ああ、なんだかすごく嬉しそうだ。
どうにも彼女、マクラウドさんの考えたニックネームがいたくお気に召したらしくて事あるごとに連呼したがる。
「それじゃまた電話するよ、メリィ先生」
「………メリィさん言うなーっっ」
お叱りの言葉の第二便が飛んでくる前に素早く電話を切った。
※ ※ ※ ※
こちら日本。とある高校の昼休み、社会科教員室にて。
結城羊子は切られたばかりの携帯を握り、ふるふると小刻みに震えていた。
「……っくっそー………」
羊子→羊→メリィさんの羊、羊、羊………
で、メリィ先生。
実にわかりやすい。教え子たちにつけられたこのあだ名は奇しくも十代の頃のニックネームとまったく同じだった。(その頃は『メリィちゃん』だったのだが)いつの時代も子どもの発想は同じってことか。
もっとも赴任した当初は『魔女先生』なんて言われていたのだから、それよりはマシになったのだろうけれど。
(魔女、か……)
そろりと指先で机の上の黄色い紙箱を手でなぞる。トランプより少し厚みのある箱の中には、一組のタロットカードがきっちり収められている。78枚、フルセット。あっという間にすり切れたり破れたりで消耗が激しいので常に2組ストックしている。
(こんなもん、持ち歩いてるんじゃあ、無理もないわな)
軽く物思いにふけってるところで、携帯が鳴った。
メールの着信音だ。
「お、来た来た………」
いそいそと開いて、写真を表示させる。テンガロンハットを被ったかつてのクラスメイトが写っていた。
赤毛と黒髪、それから遠くから見かける程度だった茶色い髪……秘かに学内で『姫』と呼ばれていた上級生。
「まー、マックスってばすっかり厳つくなっちゃって……うわ、ヒウェルすっげえ胡散臭い! あんなに可愛いくて……いじめがいがあったのになあ」
部屋の中に他に誰もいない安心感から、つい思ったことが口に出る。
「風見もちょっと道踏み外すと将来こーなっちゃうのかなぁ……」
「誰がどうなるって言うんですか?」
不意に背後から声をかけられ、羊子は椅子に座ったまま飛び上がった。
振り向くと束になったノートを抱えた男子生徒が一人、しげしげと携帯をのぞきこんでいる。
涼しげな目元に若侍のような風格と気品を漂わせ、ぴしっと背筋が伸びている。ちょっとした所作にも隙がない。
「風見………」
「はい、風見です」
さりげない風を装い、携帯を閉じる。風見光一はそんな事などさして気にする風もなく、どさっと1クラス分のノートを机の上に積み上げた。
「頼まれてた日本史のレポート、回収してきましたよ」
「あ、うん……さんきゅ」
「珍しいですね、羊子センセが携帯みながら物思いにふけってるなんて」
「っ見てたの? 入室前にノックしろって言ってるでしょうに!」
「しましたよ。でも全然気づかなかったし?」
くっそー……理論武装して来やがったか。イノセントな子犬みたいに首かしげて。
「それで……何見てたんですか、先生」
「………ん……高校の時の同級生の、写真」
「日本の?」
「ううん。サンフランシスコ」
「ああ。留学してたときの」
「そ。あたしの従弟が今、あっちに留学しててね。あたしの同級生と会ったから」
「それで、写真を」
「そうよ」
かちゃっと携帯を開いてさし出した。見られちゃったのなら今さら隠してもしょうがない。
「こっちの赤毛のごっついのがマックス。で、この眼鏡かけた胡散臭いのがヒウェル」
「なるほど。センセがあっちに居た時に可愛がってた人ですね」
「なっ」
(………やっぱ聞こえてたか)
「泣ける話だ………」
芝居がかった口調で肩をすくめ、首を横に振っている。
「風見ぃ!」
そいつぁどう言う意味だ? 言葉が飛び出すより早く風見光一は一礼して部屋を出ていた。
「くっそー……逃げられた」
と、思ったらひょこっと顔だけ中に戻して一言。
「ま、道踏み外しそうになったら拳骨くれる人たちがいるんだから、そんな風にはなれないって!」
にこっと笑うと今度こそドアを閉めて、立ち去って行った。
「ふん……ませた口きいちゃって………」
閉じた携帯を軽く指先でつつく。
ここは少し騒がしすぎる。大事なことは、後でもっとじっくり観よう。さしあたって、郵便局にEMSのラベルをもらいに行って……
「米、買って来なきゃな。あ、おばさんにも電話しとこ。色々入れたいものあるだろうし」
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▼ 【3-11-2】まきずしまきに
2008/05/25 3:45 【三話】
日本とサンフランシスコの間の電話から数日後の日曜日。
サンフランシスコ北部の海沿い、マリーナの一角にあるアパートの駐車場に、どっしりした四輪駆動車が入って行く。
ばんっと運転席のドアが開いて、頑丈そうな体つきの男が降りてきた。厳つい顔にかけた濃いめのサングラスを外すと、その下からヘーゼルブラウンの瞳が表れる。長い赤毛をなびかせて大またでざかざか階段を登り、骨組みのしっかりした指がとある部屋の呼び鈴を押した。
「よう、サリー!」
「いらっしゃい、マクラウドさん」
「ああ、ディフでいいよ。言いづらいだろ?」
「OK、ディフ。どうぞ、中へ。準備はもうできてます」
案内されて中に入ると、ディフはぐるりと見回した。
室内は中間色でまとめられ、家具も背の低いものが多い。本棚には英語の本に混じって日本語の雑誌や本が並び、小さな写真立てには優しげな女性ときりっとした眼鏡の女性、そしてサクヤ本人の写った写真が飾られていた。
眼鏡をかけているのはヨーコだ。
体つきも髪型も記憶にあるのよりだいぶ大人っぽくなっているが、全てを見通すような瞳は変わらない。もう一人の女性はサリーに似ている。
きっと母親だろう。その隣の金色のふかふかしたレトリバーは……おそらくサリーの犬だろうな。
ヨーコにはもっとアグレッシブな犬種が似合いそうだ。テリアとか。ドーベルマンとか。
「気持ちのいい部屋だ。家具の趣味もいい」
「ありがとう。ここ借りられたのもディフのおかげですよ」
「ああ、レオンの知り合いの不動産屋紹介してもらったからな」
サンフランシスコ市内の動物病院で実習が決まった時、サリーは最初は一人で不動産屋に行って部屋を探した。
しかし、見た目と童顔が災いして家出少年と間違えられ、あやうく警察に通報される所だった。大学に電話して確認をとる間、とてもとても気まずい思いをしたのである。
そこでディフに相談し、付き添いとして不動産屋に同行してもらってようやくこの部屋を決めることができたのだ。
「どれを運べばいいんだ?」
「これと、これと……あとお米も」
目の前にどん、と置かれた大量の荷物に思わず目をしばたかせた。
一抱えはありそうな袋に入った米。印刷された文字は日本語だが2kgと書かれた重さは読める。
大きめの猫なら一匹余裕で寝られそうなくらいのサイズの丸い木の桶。ただし、直径に対して深さは浅い。
米はわかる。
だが、桶の用途が想像できない。
「………………………何に使うんだ、これ」
「色々と」
「日本食って……手間かかるんだな」
「寿司をつくろうと思わなければ、普通に家にある鍋でいいんですけどね」
「これは?」
「ああ、それは炊飯器と言ってお米を炊く専用の家電です」
「そんなのがあるのか……」
「日本人の主食は米ですから」
「そうだよな、毎日食うんだものな、大量に」
丸みを帯びた立方体の『米を炊く専用の家電』を、ディフは何気なくぺたぺたと手のひらで叩いて目を細めた。
「これ……猫が乗りそうだ」
「上があったかくなりますからね」
「ああ、乗るな、絶対。それじゃ、これ運ぶぞ」
荷物の詰まった大きな段ボール箱を担ぐとディフは歩き出した。来た時と同じように大またで、悠々と。
その後ろを、小さめの箱を抱えてサリーがちょこまかと着いて行く。箱の中身は市内のスーパーで調達したり、EMSで送ってもらった食材が詰まっている。
本日のローゼンベルク家のランチは日本食(ジャパニーズスタイル)。
次へ→【3-11-3】まきずしまいた
サンフランシスコ北部の海沿い、マリーナの一角にあるアパートの駐車場に、どっしりした四輪駆動車が入って行く。
ばんっと運転席のドアが開いて、頑丈そうな体つきの男が降りてきた。厳つい顔にかけた濃いめのサングラスを外すと、その下からヘーゼルブラウンの瞳が表れる。長い赤毛をなびかせて大またでざかざか階段を登り、骨組みのしっかりした指がとある部屋の呼び鈴を押した。
「よう、サリー!」
「いらっしゃい、マクラウドさん」
「ああ、ディフでいいよ。言いづらいだろ?」
「OK、ディフ。どうぞ、中へ。準備はもうできてます」
案内されて中に入ると、ディフはぐるりと見回した。
室内は中間色でまとめられ、家具も背の低いものが多い。本棚には英語の本に混じって日本語の雑誌や本が並び、小さな写真立てには優しげな女性ときりっとした眼鏡の女性、そしてサクヤ本人の写った写真が飾られていた。
眼鏡をかけているのはヨーコだ。
体つきも髪型も記憶にあるのよりだいぶ大人っぽくなっているが、全てを見通すような瞳は変わらない。もう一人の女性はサリーに似ている。
きっと母親だろう。その隣の金色のふかふかしたレトリバーは……おそらくサリーの犬だろうな。
ヨーコにはもっとアグレッシブな犬種が似合いそうだ。テリアとか。ドーベルマンとか。
「気持ちのいい部屋だ。家具の趣味もいい」
「ありがとう。ここ借りられたのもディフのおかげですよ」
「ああ、レオンの知り合いの不動産屋紹介してもらったからな」
サンフランシスコ市内の動物病院で実習が決まった時、サリーは最初は一人で不動産屋に行って部屋を探した。
しかし、見た目と童顔が災いして家出少年と間違えられ、あやうく警察に通報される所だった。大学に電話して確認をとる間、とてもとても気まずい思いをしたのである。
そこでディフに相談し、付き添いとして不動産屋に同行してもらってようやくこの部屋を決めることができたのだ。
「どれを運べばいいんだ?」
「これと、これと……あとお米も」
目の前にどん、と置かれた大量の荷物に思わず目をしばたかせた。
一抱えはありそうな袋に入った米。印刷された文字は日本語だが2kgと書かれた重さは読める。
大きめの猫なら一匹余裕で寝られそうなくらいのサイズの丸い木の桶。ただし、直径に対して深さは浅い。
米はわかる。
だが、桶の用途が想像できない。
「………………………何に使うんだ、これ」
「色々と」
「日本食って……手間かかるんだな」
「寿司をつくろうと思わなければ、普通に家にある鍋でいいんですけどね」
「これは?」
「ああ、それは炊飯器と言ってお米を炊く専用の家電です」
「そんなのがあるのか……」
「日本人の主食は米ですから」
「そうだよな、毎日食うんだものな、大量に」
丸みを帯びた立方体の『米を炊く専用の家電』を、ディフは何気なくぺたぺたと手のひらで叩いて目を細めた。
「これ……猫が乗りそうだ」
「上があったかくなりますからね」
「ああ、乗るな、絶対。それじゃ、これ運ぶぞ」
荷物の詰まった大きな段ボール箱を担ぐとディフは歩き出した。来た時と同じように大またで、悠々と。
その後ろを、小さめの箱を抱えてサリーがちょこまかと着いて行く。箱の中身は市内のスーパーで調達したり、EMSで送ってもらった食材が詰まっている。
本日のローゼンベルク家のランチは日本食(ジャパニーズスタイル)。
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▼ 【3-11-3】まきずしまいた
2008/05/25 3:47 【三話】
「それじゃ、台所お借りしますね」
持参した荷物の中からサリはー白い布を取り出して広げた。
後ろあきで医者が手術のときにつけるオペ用の白衣に似ているが、雰囲気はやわらかくて家庭的だ。
裾と襟元にレースがあしらわれている。サイズはサリーにぴったりだ。
「変わった白衣だな」
「日本のエプロン……みたいなものです。袖までカバーしてるから便利ですよ」
「機能的でいいな。それも、向こうから送ってきたのか?」
「ええ、まあ……」
ちょっと遠い目をしている。
「それで、一応聞いておきたいんですが、苦手なものって何かありますか? 日本の食材はわからないだろうけど、甘いのとか辛いのとか」
「オティアとシエンは甘いものが苦手なんだ。アレルギーは特にない。レオンは魚の卵が苦手だな」
「じゃあ甘さ控えめで。薄味のほうがいいのかな……魚の卵は今回はないし」
「そうだな」
いつものように腕まくりして、髪を後ろで一つにまとめ、自分用のエプロンを着けていると。奥からとことことシエンが出てきた。
見なれない食材や調理器具が珍しいのだろう。興味シンシンと言った様子でサリーの手元に注目している。
何だかとても楽しそうだ。そのうち、自分もエプロンを身につけ始めた。
「手伝う」
「ありがとう。じゃ、じゃがいもの皮、むいてくれるかな?」
「うん」
シエンがイモの皮を剥く間にサリーはてきぱきと米を量っていた。ざっと洗ってから炊飯器の蓋を開け、中から金属製の鍋のような器を取り出す。
なるほど、内部構造はあんな風になってるんだな。
金属製の器に米を入れ、内側の数字の書かれたラインまで水を注ぐと元のようにセットして。
蓋を閉めて、スイッチオン。
「………これで炊けるのか?」
「はい」
「米に水吸わせなくていいのか?」
「タイマーついてますから、自動で」
「便利だな」
さすが主食を作る専用家電だ。
米の準備が終わると、今度は干したキノコと、何かわからんが細長いヒモのような干物、黒に近い緑色の板状の物体を水につけている。
「そのキノコ、いいにおいがするな……」
「それ、もしかしてシイタケ?」
「そうだよ。よく知ってるね」
シエンはにこっと笑って小さくうなずいた。
「生より干し椎茸のほうが……ちょっと堅くなるけど、栄養あるんです」
「なるほど……で、こっちの細長いのは?」
「カンピョウ。これぐらいの果実って言うか、野菜?」
サリーはくるっと空中に両手のひらで猫いっぴき分ぐらいの大きさの円を描いた。
「それを、細長く切って干したものです。ソイソースで煮て、寿司の中に入れるんですよ」
「変わった食べ物だな。でも美味そうなにおいだ」
「ちょっと想像がつきませんよね、この形だと」
「最初に食おうと思った奴はよっぽど腹が減ってたんだろうな……こっちの板みたいなのは?」
「それは、コンブ。スープのだしを取るのに使うんです」
「これも、日本から?」
「はい。鍋、お借りできます? 大きめのがいいな」
「これでいいか? 重いから気をつけてな」
オレンジ色のほうろうびきの鍋に水を満たし、コンブとやらを入れて火にかける。
「泡がついたらすぐ引き上げてください。お湯が沸騰したら、これをひとつかみばさっと入れて、しばらくぐらぐらさせる」
「……わかった」
袋に入った茶色のふかふかした物体は、強烈な魚のにおいがした。何となく前にサリーからもらった「イリコ」に似ているが、もっとマイルドなにおいだな。
猫が好みそうだ、こいつも。
「サリー、じゃがいもむき終わったよ」
「ありがとう、じゃこれぐらいの大きさに切って……」
切った野菜を薄切りの肉と、透明でぷるぷるした極細のパスタみたいなものと一緒に鍋で炒め始めた。
妙に平べったくて、編み目模様のついた特大のソースパンみたいな変わった形の鍋は、サリーが自分の家から持ってきたものだ。
調味料を加えて、蓋をしようとしてるのだが……どう見ても蓋のサイズが合ってない。鍋の本体より1周り小さいぞ?
「そのフタ、小さすぎないか?」
「これはこうやって使うんです」
「おい、それ、中に入ってるぞ! フタの意味あるのか?」
「熱効率を良くしてるんですよ」
「………合理的だな」
「ええ、これだと煮崩れないし、味が均一になるんですよ。落しぶたって言うんです。日本独特かな」
「うん、初めて見た」
「この鍋の模様も、熱効率を上げるためですね〜」
「なるほど……」
その隣のコンロでは、平べったい鍋の中で細長い魚が煮えている。
くつくつと鍋が煮え立ち、ソイソースの香りが漂い始める。
肉や魚、野菜と混ざり合い、やわらかく溶け合っている。どっちもソイソースがベースなのに微妙に香りが違うんだな。
鶏肉を切ったり、卵を混ぜたりと他の料理の下ごしらえをしているうちに、炊飯器がピーっとにぎやかな電子音を立てた。
「あ、炊けた。中身をここにあけてもらえますか?」
「OK」
「熱いから気をつけて」
オーブンミトンをはめた両手で炊飯器から金属の器を取り出し、浅くて広い木の桶の中に炊きあがった飯をあけた。
「すごいな、ちゃんとできてる」
真っ白な飯をサリーがしゃもじで混ぜる。ついさっき慎重に量って調合したビネガーを少しずつ注ぎながら。混ぜ終わると飯をぽこぽこと山にした。
「これ、なにしてるの?」
「酢がなじむように蒸らしてる」
「すっぱいにおいがする……」
「これはしばらくこのまま。その間に………」
さっき混ぜ合わせた卵と野菜をマグカップに注いだものを、湯気の噴き上がる中華せいろにセットする。
「中華せいろがあるなんて、謎の家だよね、ここ」
「ああ、それはシエンが使うんだ。餃子蒸すのに。この子は中華が好きだし、得意だからな」
「そっか、中華はいいよねー」
「……うん」
ここからが本日のメインエベント。
手巻き寿司のセットはここらでもちょっと大きなスーパーに行けば米とノリと、巻くためのシート……細い竹の棒を繋ぎ合わせた、ちょっと変わった構造をしてる……が手に入る。
しかしサリーが持ち込んだ日本産のノリは、俺が知ってるのより厚みがあってしっかりしていて、色もほとんど真っ黒に近い。
巻くためのシートも「巻き簾」と言う名前があると教えてもらった。
初めて知ることばかりだ。慣れ親しんだアメリカ料理と違い、何気なくさっさと作っているように見えて、さりげなく手順が細かい。
寿司用の飯に混ぜるビネガーは後で調合を聞いておかなきゃ忘れそうだ。
「そろそろいいかな……」
飯の山を崩してから、プラスチックの枠に紙を張った平べったい道具を渡される。
「これであおいでくれませんか?」
「何だこれ」
「うちわ。扇子みたいなもんですね」
言われた通りにばたばたとあおいだ。
「ディフ、ちょっと強すぎますって、もーちょっとゆっくりでいいから」
「そ、そうか」
言われて少しペースを落した。シエンがくすっと笑った。気まずいような、うれしいようなくすぐったい気分になる。
巻き簾の上に海苔を敷いて、その上にビネガーを混ぜた飯を平に乗せて。
さっき煮込んだ具……細長くしたオムレツと、ソイソースで煮込んだ細長い魚、スティック状に切ったキュウリにカンピョウ。
それから、この赤と白のぷるぷるしたものは何だろう。簡単に縦にさけるし、においがシーフードっぽい。
「カニか?」
「……の、ようなもの。魚のペーストを蒸して加工したものです」
「そうか……」
じゃあヒウェルに食わせても問題ないな。そもそも殻がついてないし。
中に具材をみっしり入れて、どうやるんだろうと思っていたら巻き簾の片側に手をかけて。ロールケーキでも巻くみたいにしてひょい、くるっと巻いてしまった。軽く押さえてから、ぱらりと簾を離すと……さっきまでシート状だったのが、もう黒いスティックになっている。
どこの伝統工芸だ。まるで魔法でも使ったみたいだ!
「……今、何やったんだ、サリー?」
「そんなに難しく考えないで、とにかく具を入れてごはんと海苔でまけばいいんだよ」
「なるほど……巻けばいいんだな」
「巻くの多少コツあるけど……何回かやれば慣れるし。あ、でも力いれすぎてつぶさないのだけ注意かな」
しみじみと自分の手を見る。シエンもこっちを見上げていた。二人で顔を見合わせ、肩をすくめた。
「………それが一番難しいや」
「カリフォルニアロールのほうが難しいよ、むしろ。あれ裏巻きだから」
「そう言えばあれはライスが外側だったな」
「海苔が苦手な人向けなんだよね」
「ああ! 最初に口に当たるのがライスになってるからか」
「たぶんね。裏巻き自体は日本に古くからあるけど、アメリカ人に出した人はすごいと思うな」
「食べて欲しかったのかな。ノリが苦手な人にも……」
未開封のまま残ったノリ(ヨーコがそりゃもう大量に送ってくれたので)に視線を向けた。真っ黒なシート、材料は海藻。
確かに謎の食べ物だ。
「まあ見た目があまり食い物っぽくないし?」
「中味もアボガドとキュウリだしねー」
「キュウリは巻いてるじゃないか。これにも入ってるし、キュウリだけ巻いたスシもあったよな……カッパ巻き」
「『カッパ』って何?」
シエンに言われて考え込む。気にしたことなかった。
「キューカンバー(キュウリ)の略……じゃ、ないよな」
「日本の想像上の動物だよ。んー、こっちで言うなら……妖精?」
「……何でキュウリ巻いたスシがフェアリー巻きなんだ」
「キュウリが好物なんだ、カッパって」
「なるほど。緑は妖精が好きな色だしな」
「一見関係なさそうなものの名前がついてることはアメリカでもよくあるでしょ?」
「ああ……あるね。サイドカーとかホーセズネックとかスクリュードライバーとか」
「それ、全部お酒の名前じゃあ……」
話す傍ら、サリーは鮮やかな手つきで、ひょい、ひょい、と巻き寿司を巻き続け、キッチンカウンターに黒い謎のスティックが並んで行く。
「ニンジャの秘伝書みたいだな」
「切って食べるんだよ」
「丸ごとかじるんじゃないのか。2月の3日に」
「ヘンなこと知ってますね、ディフ……それ日本の一部地域でしかやってないよ」
「ヨーコが日本のポピュラーな伝統行事だと」
「最近は確かにポピュラーになってきたけど……なんていうか、縁起担ぎなんだよね。それは。食べ切れたらラッキーみたいな」
「運試しみたいなもんか? 軽く一本食い切ったらなんか微妙にがっかりした顔されたぞ」
「子供や女性には難しいからね」
「そうだな。やっぱり切った方がいいな。半分ずつぐらい?」
「いや……もっと、小分けに。薄切りにした方がいいと思う」
「うん、俺もその方がいいな」
「………そうか」
協議の結果、巻き寿司の厚みは約1cmで統一することになった。サリーにコツを教わりつつ切り分ける。
次は何が来るかと思ったら意外に見なれたもの……鶏肉が出てきた。一口大に切り分ける。
「じゃ、次はこの粉つけて」
「何だ、これ?」
オレンジと黄色の派手な袋、表面にはフライドチキンらしき料理の写真が印刷されている。文字は日本語だ。
「唐揚げ粉。ヨーコさんが送ってくれた」
「いいにおいがするな。調味料が混ざってるのか。これで何を作るんだ?」
「チキンのフライ」
「の、割には衣が薄いぞ?」
「ジャパニーズスタイルだから」
「なるほど………華奢になる訳だ」
※ ※ ※ ※
「腹減ったー。今日の飯、何?」
この家でランチをいただくのは珍しいことだ。
ってか滅多にない。
客が来てるんだから今日は昼飯に来いと、ままに指定されちまったんだからしょうがない。それ以前に日本食をリクエストしたのは俺なのだ。
さんさんと差し込む太陽の光の中、何とはなしに場違いな所にいるようで。妙に落ちつかない気分で食卓に向かうと……。
テーブルの上には、かつてない異国情緒が満ちていた。
「何だ、これ」
「あ、ヒウェル。サリーが作ってくれたんだ。巻き寿司って言うんだよ」
「そー言えばこの黒いシートにはそこはかとなく見覚えが………」
若干、背筋の凍る記憶とともに。
そして全員が席につき、日本食パーティーが始まる。人数分、さらっとハシが出てくる当たりこの家も大概に……謎だ。
さーてっと……どれから食うべきか。
少し迷ってから、マグカップに入ったカスタードプリンらしきものを口に含む。
「う? このプリン甘くねーぞ」
サリーがちょっと困ったような顔をして言った。
「プリンじゃないです、それ」
「え、違うのか? そーいや肉とかキノコとか入ってるな」
「日本の伝統食ですよ、一応」
「……ヨークシャープディングみたいなもんか?」
「んーまぁ、卵の凝固を利用してるって点では同じだけど」
「菓子じゃないとわかりゃ美味いよ、うん」
ちらりと見ると、オティアもシエンも問題なく口に運んでいる。
さすがにまっ黒いシートに包まれた寿司らしきものは、軽く躊躇していたが。
「美味いぞ、それ。色がすごいけどな」
ディフが言うと、シエンがうなずき、二人とも手を伸ばして……。
ちまちま食べ終わってから、二つ目をとった。どうやら気に入ったらしい。
こんな時のこいつらの行動って、何つーか親鳥とひな鳥、いや親犬と子犬、親猫と子猫。ちょっと動物の親子っぽいなと思った。
(ままがちょっとごついけどな)
野菜と薄切り肉の煮込み料理を口に運ぶと、シエンがぱあっと顔を輝かせた。
「これ、美味しい」
「それは肉じゃが。この中じゃあ、一番新しい料理かなぁ」
レオンも器用にハシで口に運んでからうなずいた。(フォークで食ってるのは俺だけか、もしかして?)
「ポトフとか……ビーフシチューに似てるね」
「元々はカレーを参考につくられたんだよ。今から100年ちょっと前……あれシチューだったかな?」
フォークでつついていると、半透明のぷるぷるした極細のパスタみたいなものを見つけた。
「………シチューにはコレ入れないと思うぞ…」
「そこは日本的アレンジ」
「けっこう美味いな、これ。挑戦してみたい。後で詳しいレシピ教えてくれるか?」
「いいですよ」
なーに気取ってやがる。レオンと双子が気に入ったみたいだから、だろ。ほんと、わかりやすいよ、お前って。
「俺はもっと甘いほーが好きだなー」
「……わかったお前の分は砂糖かけて食え」
「げー、まずそー」
「メイリールさんって甘党でしたっけ? チョコばっかり食べてるって聞きましたけど」
「酒もやるよ。確かにチョコは好きだけどな」
何気なく答えてから、はたと気づく。
俺、いつの間にサリーとなごやかに飯食いながら語らってるんだろう……。
衣の薄いチキンのフライをつつきながらシエンがサリーに問いかける。
「ねえ、サリー、これって油淋鶏?」
「そうだよ。あんかけないけどね。元は中華。隣の国だからね、中国は」
「そっかー」
「粉が余ってるから、気に入ったならあげるよ。つけて揚げるだけだから」
「やってみるか? シエン?」
「うん」
「じゃ、ありがたくもらうよ。代わりに気になる食材があったら持ってってくれ」
「サンキュ、ディフ。でも一人だとあんまり作らないからなあ……」
馴染みの薄い相手と盛り上がるには、食い物の話と相場が決まってる。
だが、それにしてもサリーのこの馴染み具合はどうだ?
ディフのこともマックスじゃなくて「ディフ」って呼んでるし、何より客がいるってのに双子がほとんど警戒してない。
オティアは相変わらずほとんどしゃべらないが、それでもずいぶんと穏やかだ。
……何ものなんだろうなあ、こいつ。
今にして思えば夕飯食いに来た時も、この家に兆していた揺れを感じ取り、そっと手を当てるようにして鎮めてしまったような気がしないでもない。
ええい。
歯切れが悪いぞ、我ながら。
感謝するべきなんだろうか。
そんなことを考えていたら、サリーと目が合ってしまった。
にこっとほほ笑んできた。
「……美味かったよ、ごちそうさん」
ま、この場では一番妥当な一言だ。
「どういたしまして。みんな食べてくれてよかったなー。日本食、合わない人もけっこういるから」
「俺たちは君の従姉に食わせてもらったことあるしな」
「……何か君より味付けがダイナミックだったような記憶がそこはかとなくあるんだが」
「家庭の味ってのがありますから」
「その辺は万国共通かもな」
次へ→【3-11-4】電話2
持参した荷物の中からサリはー白い布を取り出して広げた。
後ろあきで医者が手術のときにつけるオペ用の白衣に似ているが、雰囲気はやわらかくて家庭的だ。
裾と襟元にレースがあしらわれている。サイズはサリーにぴったりだ。
「変わった白衣だな」
「日本のエプロン……みたいなものです。袖までカバーしてるから便利ですよ」
「機能的でいいな。それも、向こうから送ってきたのか?」
「ええ、まあ……」
ちょっと遠い目をしている。
「それで、一応聞いておきたいんですが、苦手なものって何かありますか? 日本の食材はわからないだろうけど、甘いのとか辛いのとか」
「オティアとシエンは甘いものが苦手なんだ。アレルギーは特にない。レオンは魚の卵が苦手だな」
「じゃあ甘さ控えめで。薄味のほうがいいのかな……魚の卵は今回はないし」
「そうだな」
いつものように腕まくりして、髪を後ろで一つにまとめ、自分用のエプロンを着けていると。奥からとことことシエンが出てきた。
見なれない食材や調理器具が珍しいのだろう。興味シンシンと言った様子でサリーの手元に注目している。
何だかとても楽しそうだ。そのうち、自分もエプロンを身につけ始めた。
「手伝う」
「ありがとう。じゃ、じゃがいもの皮、むいてくれるかな?」
「うん」
シエンがイモの皮を剥く間にサリーはてきぱきと米を量っていた。ざっと洗ってから炊飯器の蓋を開け、中から金属製の鍋のような器を取り出す。
なるほど、内部構造はあんな風になってるんだな。
金属製の器に米を入れ、内側の数字の書かれたラインまで水を注ぐと元のようにセットして。
蓋を閉めて、スイッチオン。
「………これで炊けるのか?」
「はい」
「米に水吸わせなくていいのか?」
「タイマーついてますから、自動で」
「便利だな」
さすが主食を作る専用家電だ。
米の準備が終わると、今度は干したキノコと、何かわからんが細長いヒモのような干物、黒に近い緑色の板状の物体を水につけている。
「そのキノコ、いいにおいがするな……」
「それ、もしかしてシイタケ?」
「そうだよ。よく知ってるね」
シエンはにこっと笑って小さくうなずいた。
「生より干し椎茸のほうが……ちょっと堅くなるけど、栄養あるんです」
「なるほど……で、こっちの細長いのは?」
「カンピョウ。これぐらいの果実って言うか、野菜?」
サリーはくるっと空中に両手のひらで猫いっぴき分ぐらいの大きさの円を描いた。
「それを、細長く切って干したものです。ソイソースで煮て、寿司の中に入れるんですよ」
「変わった食べ物だな。でも美味そうなにおいだ」
「ちょっと想像がつきませんよね、この形だと」
「最初に食おうと思った奴はよっぽど腹が減ってたんだろうな……こっちの板みたいなのは?」
「それは、コンブ。スープのだしを取るのに使うんです」
「これも、日本から?」
「はい。鍋、お借りできます? 大きめのがいいな」
「これでいいか? 重いから気をつけてな」
オレンジ色のほうろうびきの鍋に水を満たし、コンブとやらを入れて火にかける。
「泡がついたらすぐ引き上げてください。お湯が沸騰したら、これをひとつかみばさっと入れて、しばらくぐらぐらさせる」
「……わかった」
袋に入った茶色のふかふかした物体は、強烈な魚のにおいがした。何となく前にサリーからもらった「イリコ」に似ているが、もっとマイルドなにおいだな。
猫が好みそうだ、こいつも。
「サリー、じゃがいもむき終わったよ」
「ありがとう、じゃこれぐらいの大きさに切って……」
切った野菜を薄切りの肉と、透明でぷるぷるした極細のパスタみたいなものと一緒に鍋で炒め始めた。
妙に平べったくて、編み目模様のついた特大のソースパンみたいな変わった形の鍋は、サリーが自分の家から持ってきたものだ。
調味料を加えて、蓋をしようとしてるのだが……どう見ても蓋のサイズが合ってない。鍋の本体より1周り小さいぞ?
「そのフタ、小さすぎないか?」
「これはこうやって使うんです」
「おい、それ、中に入ってるぞ! フタの意味あるのか?」
「熱効率を良くしてるんですよ」
「………合理的だな」
「ええ、これだと煮崩れないし、味が均一になるんですよ。落しぶたって言うんです。日本独特かな」
「うん、初めて見た」
「この鍋の模様も、熱効率を上げるためですね〜」
「なるほど……」
その隣のコンロでは、平べったい鍋の中で細長い魚が煮えている。
くつくつと鍋が煮え立ち、ソイソースの香りが漂い始める。
肉や魚、野菜と混ざり合い、やわらかく溶け合っている。どっちもソイソースがベースなのに微妙に香りが違うんだな。
鶏肉を切ったり、卵を混ぜたりと他の料理の下ごしらえをしているうちに、炊飯器がピーっとにぎやかな電子音を立てた。
「あ、炊けた。中身をここにあけてもらえますか?」
「OK」
「熱いから気をつけて」
オーブンミトンをはめた両手で炊飯器から金属の器を取り出し、浅くて広い木の桶の中に炊きあがった飯をあけた。
「すごいな、ちゃんとできてる」
真っ白な飯をサリーがしゃもじで混ぜる。ついさっき慎重に量って調合したビネガーを少しずつ注ぎながら。混ぜ終わると飯をぽこぽこと山にした。
「これ、なにしてるの?」
「酢がなじむように蒸らしてる」
「すっぱいにおいがする……」
「これはしばらくこのまま。その間に………」
さっき混ぜ合わせた卵と野菜をマグカップに注いだものを、湯気の噴き上がる中華せいろにセットする。
「中華せいろがあるなんて、謎の家だよね、ここ」
「ああ、それはシエンが使うんだ。餃子蒸すのに。この子は中華が好きだし、得意だからな」
「そっか、中華はいいよねー」
「……うん」
ここからが本日のメインエベント。
手巻き寿司のセットはここらでもちょっと大きなスーパーに行けば米とノリと、巻くためのシート……細い竹の棒を繋ぎ合わせた、ちょっと変わった構造をしてる……が手に入る。
しかしサリーが持ち込んだ日本産のノリは、俺が知ってるのより厚みがあってしっかりしていて、色もほとんど真っ黒に近い。
巻くためのシートも「巻き簾」と言う名前があると教えてもらった。
初めて知ることばかりだ。慣れ親しんだアメリカ料理と違い、何気なくさっさと作っているように見えて、さりげなく手順が細かい。
寿司用の飯に混ぜるビネガーは後で調合を聞いておかなきゃ忘れそうだ。
「そろそろいいかな……」
飯の山を崩してから、プラスチックの枠に紙を張った平べったい道具を渡される。
「これであおいでくれませんか?」
「何だこれ」
「うちわ。扇子みたいなもんですね」
言われた通りにばたばたとあおいだ。
「ディフ、ちょっと強すぎますって、もーちょっとゆっくりでいいから」
「そ、そうか」
言われて少しペースを落した。シエンがくすっと笑った。気まずいような、うれしいようなくすぐったい気分になる。
巻き簾の上に海苔を敷いて、その上にビネガーを混ぜた飯を平に乗せて。
さっき煮込んだ具……細長くしたオムレツと、ソイソースで煮込んだ細長い魚、スティック状に切ったキュウリにカンピョウ。
それから、この赤と白のぷるぷるしたものは何だろう。簡単に縦にさけるし、においがシーフードっぽい。
「カニか?」
「……の、ようなもの。魚のペーストを蒸して加工したものです」
「そうか……」
じゃあヒウェルに食わせても問題ないな。そもそも殻がついてないし。
中に具材をみっしり入れて、どうやるんだろうと思っていたら巻き簾の片側に手をかけて。ロールケーキでも巻くみたいにしてひょい、くるっと巻いてしまった。軽く押さえてから、ぱらりと簾を離すと……さっきまでシート状だったのが、もう黒いスティックになっている。
どこの伝統工芸だ。まるで魔法でも使ったみたいだ!
「……今、何やったんだ、サリー?」
「そんなに難しく考えないで、とにかく具を入れてごはんと海苔でまけばいいんだよ」
「なるほど……巻けばいいんだな」
「巻くの多少コツあるけど……何回かやれば慣れるし。あ、でも力いれすぎてつぶさないのだけ注意かな」
しみじみと自分の手を見る。シエンもこっちを見上げていた。二人で顔を見合わせ、肩をすくめた。
「………それが一番難しいや」
「カリフォルニアロールのほうが難しいよ、むしろ。あれ裏巻きだから」
「そう言えばあれはライスが外側だったな」
「海苔が苦手な人向けなんだよね」
「ああ! 最初に口に当たるのがライスになってるからか」
「たぶんね。裏巻き自体は日本に古くからあるけど、アメリカ人に出した人はすごいと思うな」
「食べて欲しかったのかな。ノリが苦手な人にも……」
未開封のまま残ったノリ(ヨーコがそりゃもう大量に送ってくれたので)に視線を向けた。真っ黒なシート、材料は海藻。
確かに謎の食べ物だ。
「まあ見た目があまり食い物っぽくないし?」
「中味もアボガドとキュウリだしねー」
「キュウリは巻いてるじゃないか。これにも入ってるし、キュウリだけ巻いたスシもあったよな……カッパ巻き」
「『カッパ』って何?」
シエンに言われて考え込む。気にしたことなかった。
「キューカンバー(キュウリ)の略……じゃ、ないよな」
「日本の想像上の動物だよ。んー、こっちで言うなら……妖精?」
「……何でキュウリ巻いたスシがフェアリー巻きなんだ」
「キュウリが好物なんだ、カッパって」
「なるほど。緑は妖精が好きな色だしな」
「一見関係なさそうなものの名前がついてることはアメリカでもよくあるでしょ?」
「ああ……あるね。サイドカーとかホーセズネックとかスクリュードライバーとか」
「それ、全部お酒の名前じゃあ……」
話す傍ら、サリーは鮮やかな手つきで、ひょい、ひょい、と巻き寿司を巻き続け、キッチンカウンターに黒い謎のスティックが並んで行く。
「ニンジャの秘伝書みたいだな」
「切って食べるんだよ」
「丸ごとかじるんじゃないのか。2月の3日に」
「ヘンなこと知ってますね、ディフ……それ日本の一部地域でしかやってないよ」
「ヨーコが日本のポピュラーな伝統行事だと」
「最近は確かにポピュラーになってきたけど……なんていうか、縁起担ぎなんだよね。それは。食べ切れたらラッキーみたいな」
「運試しみたいなもんか? 軽く一本食い切ったらなんか微妙にがっかりした顔されたぞ」
「子供や女性には難しいからね」
「そうだな。やっぱり切った方がいいな。半分ずつぐらい?」
「いや……もっと、小分けに。薄切りにした方がいいと思う」
「うん、俺もその方がいいな」
「………そうか」
協議の結果、巻き寿司の厚みは約1cmで統一することになった。サリーにコツを教わりつつ切り分ける。
次は何が来るかと思ったら意外に見なれたもの……鶏肉が出てきた。一口大に切り分ける。
「じゃ、次はこの粉つけて」
「何だ、これ?」
オレンジと黄色の派手な袋、表面にはフライドチキンらしき料理の写真が印刷されている。文字は日本語だ。
「唐揚げ粉。ヨーコさんが送ってくれた」
「いいにおいがするな。調味料が混ざってるのか。これで何を作るんだ?」
「チキンのフライ」
「の、割には衣が薄いぞ?」
「ジャパニーズスタイルだから」
「なるほど………華奢になる訳だ」
※ ※ ※ ※
【本日のローゼンンベルク家のランチの献立】
ミソスープ(豆腐とネギと油揚げ)
巻き寿司
肉じゃが
茶わん蒸し
鳥の唐揚げ
「腹減ったー。今日の飯、何?」
この家でランチをいただくのは珍しいことだ。
ってか滅多にない。
客が来てるんだから今日は昼飯に来いと、ままに指定されちまったんだからしょうがない。それ以前に日本食をリクエストしたのは俺なのだ。
さんさんと差し込む太陽の光の中、何とはなしに場違いな所にいるようで。妙に落ちつかない気分で食卓に向かうと……。
テーブルの上には、かつてない異国情緒が満ちていた。
「何だ、これ」
「あ、ヒウェル。サリーが作ってくれたんだ。巻き寿司って言うんだよ」
「そー言えばこの黒いシートにはそこはかとなく見覚えが………」
若干、背筋の凍る記憶とともに。
そして全員が席につき、日本食パーティーが始まる。人数分、さらっとハシが出てくる当たりこの家も大概に……謎だ。
さーてっと……どれから食うべきか。
少し迷ってから、マグカップに入ったカスタードプリンらしきものを口に含む。
「う? このプリン甘くねーぞ」
サリーがちょっと困ったような顔をして言った。
「プリンじゃないです、それ」
「え、違うのか? そーいや肉とかキノコとか入ってるな」
「日本の伝統食ですよ、一応」
「……ヨークシャープディングみたいなもんか?」
「んーまぁ、卵の凝固を利用してるって点では同じだけど」
「菓子じゃないとわかりゃ美味いよ、うん」
ちらりと見ると、オティアもシエンも問題なく口に運んでいる。
さすがにまっ黒いシートに包まれた寿司らしきものは、軽く躊躇していたが。
「美味いぞ、それ。色がすごいけどな」
ディフが言うと、シエンがうなずき、二人とも手を伸ばして……。
ちまちま食べ終わってから、二つ目をとった。どうやら気に入ったらしい。
こんな時のこいつらの行動って、何つーか親鳥とひな鳥、いや親犬と子犬、親猫と子猫。ちょっと動物の親子っぽいなと思った。
(ままがちょっとごついけどな)
野菜と薄切り肉の煮込み料理を口に運ぶと、シエンがぱあっと顔を輝かせた。
「これ、美味しい」
「それは肉じゃが。この中じゃあ、一番新しい料理かなぁ」
レオンも器用にハシで口に運んでからうなずいた。(フォークで食ってるのは俺だけか、もしかして?)
「ポトフとか……ビーフシチューに似てるね」
「元々はカレーを参考につくられたんだよ。今から100年ちょっと前……あれシチューだったかな?」
フォークでつついていると、半透明のぷるぷるした極細のパスタみたいなものを見つけた。
「………シチューにはコレ入れないと思うぞ…」
「そこは日本的アレンジ」
「けっこう美味いな、これ。挑戦してみたい。後で詳しいレシピ教えてくれるか?」
「いいですよ」
なーに気取ってやがる。レオンと双子が気に入ったみたいだから、だろ。ほんと、わかりやすいよ、お前って。
「俺はもっと甘いほーが好きだなー」
「……わかったお前の分は砂糖かけて食え」
「げー、まずそー」
「メイリールさんって甘党でしたっけ? チョコばっかり食べてるって聞きましたけど」
「酒もやるよ。確かにチョコは好きだけどな」
何気なく答えてから、はたと気づく。
俺、いつの間にサリーとなごやかに飯食いながら語らってるんだろう……。
衣の薄いチキンのフライをつつきながらシエンがサリーに問いかける。
「ねえ、サリー、これって油淋鶏?」
「そうだよ。あんかけないけどね。元は中華。隣の国だからね、中国は」
「そっかー」
「粉が余ってるから、気に入ったならあげるよ。つけて揚げるだけだから」
「やってみるか? シエン?」
「うん」
「じゃ、ありがたくもらうよ。代わりに気になる食材があったら持ってってくれ」
「サンキュ、ディフ。でも一人だとあんまり作らないからなあ……」
馴染みの薄い相手と盛り上がるには、食い物の話と相場が決まってる。
だが、それにしてもサリーのこの馴染み具合はどうだ?
ディフのこともマックスじゃなくて「ディフ」って呼んでるし、何より客がいるってのに双子がほとんど警戒してない。
オティアは相変わらずほとんどしゃべらないが、それでもずいぶんと穏やかだ。
……何ものなんだろうなあ、こいつ。
今にして思えば夕飯食いに来た時も、この家に兆していた揺れを感じ取り、そっと手を当てるようにして鎮めてしまったような気がしないでもない。
ええい。
歯切れが悪いぞ、我ながら。
感謝するべきなんだろうか。
そんなことを考えていたら、サリーと目が合ってしまった。
にこっとほほ笑んできた。
「……美味かったよ、ごちそうさん」
ま、この場では一番妥当な一言だ。
「どういたしまして。みんな食べてくれてよかったなー。日本食、合わない人もけっこういるから」
「俺たちは君の従姉に食わせてもらったことあるしな」
「……何か君より味付けがダイナミックだったような記憶がそこはかとなくあるんだが」
「家庭の味ってのがありますから」
「その辺は万国共通かもな」
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▼ 【3-11-4】電話2
2008/05/25 3:49 【三話】
日曜の昼下がり。
日本のとあるアパートの一室で携帯が鳴った。聞き覚えのある着メロだ。結城羊子は迷わず携帯を開いて耳に当てた。
「Hi,サクヤちゃん。割烹着、サイズぴったりだった?」
電話の向こうでため息をつく気配がした。
「………いや……あ、うん。使ったよ」
「そっかー。三十分かけて君に似合いそうなの選んだのよ、あれ!」
「わざわざ国際電話で言うようなことじゃないでしょう……」
「はっはっは、照れるな照れるな。それで、今日はどうだった、日本食パーティ」
「うん、好評だった」
従弟からその日のランチのてん末を聞くなり、羊子は目を丸くした。
「えー!? 巻き簾も、寿司桶も、レオンのとこに置いてきちゃったの?」
「……うん。自分ちでも作ってみたいって言うし、一人だと使うチャンスもないしね。お米も余ったから、置いてきた」
「ほーんとサクヤちゃんってさ、いいお嫁さんになれそなタイプよね」
「お嫁さんはやめてよ」
「食べてくれる人がいっぱいいたから張り切っちゃった?」
「うん、ちょっとね」
「まあ、何となくわかるわ、その気持ち」
くすっと笑いがこぼれる。白い割烹着を着たサクヤの後ろで、でっかいのとちっちゃいのが手元を熱心にのぞきこむ姿を思い浮かべて。
「……そーいや、台所に鍋、あった? カボチャみたいなオレンジのやたらごっつい鍋」
「あったよ、重たいやつ」
「そっか。大事に使ってるんだ、あの鍋」
「ルームメイトが風邪で寝込んでるから」
「ああ……おかゆさん、作るんだ?」
「オカユサン?」
「うん。こっちで言うところのリゾット? 日本では寝込んだ時の定番メニューなんだよ」
「ふうん……作り方、わかるか?」
「あれ抱えてさ、わんこみたいな顔して女子寮に来たのよーマックスが。おかゆの作り方教えてくれって言って」
「今でもつくってるらしいよ、おかゆ」
「へーえ、そりゃ教えた甲斐があった」
ちらりとデスクの上のノートに視線を落とす。
ここ数日、送られた写真を手がかりに少しずつ観てきた光景が書き留めてある。
メールで送ろうかとも思ったが、やはり直接伝えた方が良いだろう。
「あの双子……ね」
「うん」
「二人とも治癒能力持ってる。これは確か。あたしとはちょっと性質違うけど」
「そう。やっぱりね」
「暴走すると危険ね。倉庫一個ぶっつぶしてるわ、あの子ら」
「そんなことまで」
まさか、とも。本当に、とも言わないのは、『それ』が事実だと知っているからだ。
「マックスもヒウェルも知ってるみたいよ。おそらくレオンも」
「そっか……できるだけ接触持った方がよさそうだね」
「ええ。そうしてあげて。あたしもマックスとは連絡欠かさないようにする」
電話を終えると、羊子は改めてノートパソコンを開き、かちかちと英語でメールを打ち始めた。
『Hi,マックス。元気してる?』
サクヤが世話になってることのお礼と写真の感想。
近況報告。
当たり障りのない友だち同士のメールの最後にこう付け加えてみる。
『国は違うけど、あたし一応、高校の先生だし。子育てで何ぞ悩みがあったら聞くよ?』
さしあたってこんな所で。
あとは、サクヤに任せておこう。
軽く文面を読み返し、送信した。
30分ほどして返事が返ってくる。
ひととおり目を通し、返信する。びしっと、ひとこと。今はそれで充分。
次へ→【3-11-5】甘やかすなと言われても
日本のとあるアパートの一室で携帯が鳴った。聞き覚えのある着メロだ。結城羊子は迷わず携帯を開いて耳に当てた。
「Hi,サクヤちゃん。割烹着、サイズぴったりだった?」
電話の向こうでため息をつく気配がした。
「………いや……あ、うん。使ったよ」
「そっかー。三十分かけて君に似合いそうなの選んだのよ、あれ!」
「わざわざ国際電話で言うようなことじゃないでしょう……」
「はっはっは、照れるな照れるな。それで、今日はどうだった、日本食パーティ」
「うん、好評だった」
従弟からその日のランチのてん末を聞くなり、羊子は目を丸くした。
「えー!? 巻き簾も、寿司桶も、レオンのとこに置いてきちゃったの?」
「……うん。自分ちでも作ってみたいって言うし、一人だと使うチャンスもないしね。お米も余ったから、置いてきた」
「ほーんとサクヤちゃんってさ、いいお嫁さんになれそなタイプよね」
「お嫁さんはやめてよ」
「食べてくれる人がいっぱいいたから張り切っちゃった?」
「うん、ちょっとね」
「まあ、何となくわかるわ、その気持ち」
くすっと笑いがこぼれる。白い割烹着を着たサクヤの後ろで、でっかいのとちっちゃいのが手元を熱心にのぞきこむ姿を思い浮かべて。
「……そーいや、台所に鍋、あった? カボチャみたいなオレンジのやたらごっつい鍋」
「あったよ、重たいやつ」
「そっか。大事に使ってるんだ、あの鍋」
「ルームメイトが風邪で寝込んでるから」
「ああ……おかゆさん、作るんだ?」
「オカユサン?」
「うん。こっちで言うところのリゾット? 日本では寝込んだ時の定番メニューなんだよ」
「ふうん……作り方、わかるか?」
「あれ抱えてさ、わんこみたいな顔して女子寮に来たのよーマックスが。おかゆの作り方教えてくれって言って」
「今でもつくってるらしいよ、おかゆ」
「へーえ、そりゃ教えた甲斐があった」
ちらりとデスクの上のノートに視線を落とす。
ここ数日、送られた写真を手がかりに少しずつ観てきた光景が書き留めてある。
メールで送ろうかとも思ったが、やはり直接伝えた方が良いだろう。
「あの双子……ね」
「うん」
「二人とも治癒能力持ってる。これは確か。あたしとはちょっと性質違うけど」
「そう。やっぱりね」
「暴走すると危険ね。倉庫一個ぶっつぶしてるわ、あの子ら」
「そんなことまで」
まさか、とも。本当に、とも言わないのは、『それ』が事実だと知っているからだ。
「マックスもヒウェルも知ってるみたいよ。おそらくレオンも」
「そっか……できるだけ接触持った方がよさそうだね」
「ええ。そうしてあげて。あたしもマックスとは連絡欠かさないようにする」
電話を終えると、羊子は改めてノートパソコンを開き、かちかちと英語でメールを打ち始めた。
『Hi,マックス。元気してる?』
サクヤが世話になってることのお礼と写真の感想。
近況報告。
当たり障りのない友だち同士のメールの最後にこう付け加えてみる。
『国は違うけど、あたし一応、高校の先生だし。子育てで何ぞ悩みがあったら聞くよ?』
さしあたってこんな所で。
あとは、サクヤに任せておこう。
軽く文面を読み返し、送信した。
30分ほどして返事が返ってくる。
ひととおり目を通し、返信する。びしっと、ひとこと。今はそれで充分。
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▼ 【3-11-5】甘やかすなと言われても
2008/05/25 3:51 【三話】
寝室に入ってきたディフは何となく元気がなかった。
と言ってもさほど深刻な状態ではない。犬がぴしゃっと叱られて、ちょっと耳を伏せているような。そんな感じだ。
「どうしたんだい?」
「ヨーコにしかられた……メールで。過保護すぎだって」
「彼女から見たらそうかもしれないけれど、そんなに気にすることはないよ」
「……そうか?」
「君自身が納得できないなら、ね」
「自分でもそうなんじゃないかなって思ってたから、かえってすっきりした」
「あの子達の経歴を考えたら、過保護でも足りないぐらいだけどね」
拳を握って口元に当て、考えている。
「さすがに本人達が嫌がるようなことはできないけど、ね」
こくっとうなずくとベッドに腰かけ、目を伏せた。
「多分……俺は……ヨーコほど強くないんだ」
少し驚いた。彼が自分の弱さを認めるなんて、滅多にないことだ。
昔からとんでもない負けず嫌いで、怖い物知らずで、意地っ張りで。相手が強かろうが決して後には引かずにがむしゃらに突き進む。そんな君が……。
あの子たちが、君を変えたのだろうか?
「彼女は教師だろ? 教師は公平でないといけない。そしてたくさんの子供に目を配る。それと視点が違うのは当たり前だよ」
「うん」
こてん、と肩に頭を乗せて来る。
「お前にも……よろしくって言ってた」
「遠い国にいても、すぐに連絡がとれるのはいいことだね」
「ああ……」
ちらっと見上げてくるヘーゼルアイに、わずかにとまどうような色が浮かんでいた。
「俺をあんまり甘やかすなってさ。何でわかったんだろ?」
ほほ笑んで、波打つ赤い髪を撫でた。
「それは大統領命令でも聞けないね」
わずかに頬を染めながら、彼は嬉しそうに目を細め、体を預けてきた。
全身の力を抜いて、安心しきって………俺の腕の中に。
(ジャパニーズ・スタイル/了)
次へ→【3-12】バニラアイス
と言ってもさほど深刻な状態ではない。犬がぴしゃっと叱られて、ちょっと耳を伏せているような。そんな感じだ。
「どうしたんだい?」
「ヨーコにしかられた……メールで。過保護すぎだって」
「彼女から見たらそうかもしれないけれど、そんなに気にすることはないよ」
「……そうか?」
「君自身が納得できないなら、ね」
「自分でもそうなんじゃないかなって思ってたから、かえってすっきりした」
「あの子達の経歴を考えたら、過保護でも足りないぐらいだけどね」
拳を握って口元に当て、考えている。
「さすがに本人達が嫌がるようなことはできないけど、ね」
こくっとうなずくとベッドに腰かけ、目を伏せた。
「多分……俺は……ヨーコほど強くないんだ」
少し驚いた。彼が自分の弱さを認めるなんて、滅多にないことだ。
昔からとんでもない負けず嫌いで、怖い物知らずで、意地っ張りで。相手が強かろうが決して後には引かずにがむしゃらに突き進む。そんな君が……。
あの子たちが、君を変えたのだろうか?
「彼女は教師だろ? 教師は公平でないといけない。そしてたくさんの子供に目を配る。それと視点が違うのは当たり前だよ」
「うん」
こてん、と肩に頭を乗せて来る。
「お前にも……よろしくって言ってた」
「遠い国にいても、すぐに連絡がとれるのはいいことだね」
「ああ……」
ちらっと見上げてくるヘーゼルアイに、わずかにとまどうような色が浮かんでいた。
「俺をあんまり甘やかすなってさ。何でわかったんだろ?」
ほほ笑んで、波打つ赤い髪を撫でた。
「それは大統領命令でも聞けないね」
わずかに頬を染めながら、彼は嬉しそうに目を細め、体を預けてきた。
全身の力を抜いて、安心しきって………俺の腕の中に。
(ジャパニーズ・スタイル/了)
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▼ 【3-12】バニラアイス
2008/05/31 22:09 【三話】
記事リスト
- 【3-12-1】レイモンド失敗す (2008-05-31)
- 【3-12-2】双子早退 (2008-05-31)
- 【3-12-3】ヒウェル看病 (2008-05-31)
- 【3-12-4】まま帰宅 (2008-05-31)
▼ 【3-12-1】レイモンド失敗す
2008/05/31 22:12 【三話】
2月の終わり。バレンタインデーの賑わいも通りすぎたある日の午後。晴れてはいたが風は冷たく、厚手のセーターやマフラー、手袋無しに表を歩くのは辛い。
朝夕の冷え込みは衣服も皮膚も肉ももろとも貫いて、骨の中心にまで染み通るほどだった。
白っぽい光の差し込む近代的なオフィスの一室で、電話が鳴った。金髪に紫の瞳の小柄な少年がおずおずと手を伸ばそうとするが、それより早くすっと、灰色の髪の男が進み出た。年の頃は四十代、ダークグレイのスーツを寸分の隙もなく着こなしている。
「あ、アレックス」
「シエンさま、ここは私が」
水色の瞳が電話機のディスプレイに向けられる。
非通知。
別に珍しいことではない。初めて法律事務所に相談を持ちかけるお客の中には、自分の素性を明かしたがらない者も多い。
受話器を取り、耳に当てた。
「はい、こちらジーノ&ローゼンベルク法律事務所でございます」
返事はない。
しばらく時間を置いて、さらにひと呼吸置いてから、言葉を続けてみる。
「よろしければ、ご用件を承りますが………」
ぶつっと切れた。
見事なくらいに典型的な無言電話だ。
「これで何度目だろう………」
受話器を置き、眉をしかめる。おずおずと横からシエンがのぞきこむ。
「最近、多いね」
「そうですね……」
アレックスは穏やかにほほ笑んだ。
「しばらくは電話の応対には私が出ましょう。シエンさまは奥で資料の整理をお願いできますか?」
「ん……」
こくっとうなずくと、シエンは奥へと入って行く。
(今日は一日元気がない。やはり不安になっておられるのだろうか)
早めにお返しした方がいいかもしれない。マクラウドさまに迎えに来ていただこうか。
考えている矢先にまた、電話が鳴った。
非通知で。
「………はい、こちらジーノ&ローゼンベルク法律事務所でございます」
※ ※ ※ ※
資料を収めた本棚の並ぶ部屋に入り、ドアをしめるとシエンはほっと安堵の息をついた。
電話の音を聞くのが怖かった。
受話器の向こうの沈黙が嫌だった。
今日はレオンはデイビットと一緒にサクラメントに出張していていない。事務所に所属するもう一人の弁護士、レイモンドも出先からまだ戻っていない。
ディフもずっと外に出ている。ヒウェルもここ二三日、ほとんど事務所に顔を出さない……仕事が忙しいらしい。
だから余計に心細い。
しっかりしなきゃ。
事務所にはアレックスもいるし、下の階にはオティアもいる。
大丈夫。夕方にはディフも帰ってくるんだから。
でも……何だか、だるい。頭がぽーっとして、目の前がゆれる。地震かな、と思ったけど違った。部屋の中のものはちっとも動いていない。
(疲れてるのかな)
片手にファイルを抱えたまま本棚にもう片方の手をつき、体を支えていると……。
不意に、後ろからばーんと背中をたたかれた。
「やあ、シエン。どうした、ぼーっとして!」
「ぃっ!」
一瞬で頭の中に記憶が蘇る。暗い路地を歩いていて、いきなり後ろから車の中にひきずりこまれた。
必死でもがいても押さえ込まれて、あの山奥の工場に連れて行かれた。
誰も助けてくれなかった。
誰も。
誰も。
(逃げなきゃ! 隠れなきゃ!)
「シエン、どうした? どこか怪我したのか! 痛いのか!」
「やあっ」
手にしたファイルを放り出していた。白い紙がぱらぱらと飛び散る。
夢中で部屋の隅に逃げ込み、うずくまった。
(恐い、恐い、恐い!)
「おい……シエン?」
レイモンドは慌てた。部屋に入った時、こちらに背中を向けている彼に気づいたのだが、振り向きもしなかった。どうやらノックが聞こえなかったらしい。
何をぼんやりしてるんだろう、と思いながらもいつものように近づき、背中をそっと(彼の基準からしてみれば極めてそっと)叩いて挨拶したのだが。
「だ、大丈夫だから、怒ってないからっ」
とにかく、距離をとろう。
後じさりして部屋の反対側へ退避し、机の陰にかくれる。あいにくとだいぶはみ出していたが……とにかくかくれる。
シエンはすっかりパニックを起こしてうずくまり、震えている。心配だが、ここで自分が近づいたら逆効果だ。
どうしよう。
どうすればいい?
「いかがなさいましたか」
救い主が表れた。
「アレックス! たのむ、助けてくれ!」
張り上げられる大声に、またシエンがびくっと身をすくませる。
アレックスはすばやく部屋を見回し、およその事態を察した。
「落ち着いてください、しばらくお静かに」
「わ、わかった」
有能秘書が静かな声でシエンに話しかけるのを、レイモンドは机のかげから見守った。
アレックスはそっとシエンに近づいた。が、ふるふると首を横に振り、ますます怯えて両手で頭を抱えてしまった。
やむなく4フィート(120cm)ほど距離を置いてひざまづき、声をかける。
「シエンさま」
「やだ……やだ………こわい……こわい……」
(これは困った。すっかり怯えておられる。さて、どうしたものか?)
困惑するアレックスの目の前を、すっと人影が横切る。いつの間に来ていたのだろう。瓜二つの金髪の少年がシエンの隣に膝をついていた。
(オティアさま?)
オティアが黙ってさし出した手を握ると、シエンは震えながらもゆっくり立ち上がった。
しっかりと手を握り合ったままアレックスのそばに歩み寄るとオティアが顔を上げ、視線を合わせてきた。
「しばらく奥でお休みになった方がよろしいでしょう」
オティアがうなずく。
「では、こちらへ……」
部屋を出る間際にオティアはちらりとレイモンドに目を向けた。
「すまん」
縮こまって謝罪の言葉を口にする巨漢の弁護士から目をそらすと、オティアは何事もなかったかのようシエンと連れ立ってすたすたと奥に入って行く。その後を静かにアレックスが着いて行く。最後に一礼して、ドアを閉めた。
行き先はおそらく仮眠室だ。
見送ってから、レイモンドは盛大にため息をついた。
「はあ……また……子どもを泣かせてしまった……」
いかつい外見とは裏腹に彼は子ども好きだった。
しかしながら6フィートを軽く越える身長と、岩を刻んだようなごっついかっ色のボディ、そして鋭い顔つきと大きな低い声が災いして怖がられてしまう。うかつにのしのしと近づいて、
「おお、可愛い子だな! 坊主、名前は!」
なぞと声でもかけようものなら、たいてい火がついたように泣かれる。
転がってきたボールを投げ返せばつい昔とった杵柄で豪速球で投げてしまい、結果としてまた怯えさせる。
ただでさえこうなのに……うっかりしていた。
シエンがどんなに恐ろしい経験をしたか、知っているはずなのに。
「ごめんよ……」
閉まったドアに向かってつぶやくと、彼は床に散らばるファイルを拾い上げた。
次へ→【3-12-2】双子早退
朝夕の冷え込みは衣服も皮膚も肉ももろとも貫いて、骨の中心にまで染み通るほどだった。
白っぽい光の差し込む近代的なオフィスの一室で、電話が鳴った。金髪に紫の瞳の小柄な少年がおずおずと手を伸ばそうとするが、それより早くすっと、灰色の髪の男が進み出た。年の頃は四十代、ダークグレイのスーツを寸分の隙もなく着こなしている。
「あ、アレックス」
「シエンさま、ここは私が」
水色の瞳が電話機のディスプレイに向けられる。
非通知。
別に珍しいことではない。初めて法律事務所に相談を持ちかけるお客の中には、自分の素性を明かしたがらない者も多い。
受話器を取り、耳に当てた。
「はい、こちらジーノ&ローゼンベルク法律事務所でございます」
返事はない。
しばらく時間を置いて、さらにひと呼吸置いてから、言葉を続けてみる。
「よろしければ、ご用件を承りますが………」
ぶつっと切れた。
見事なくらいに典型的な無言電話だ。
「これで何度目だろう………」
受話器を置き、眉をしかめる。おずおずと横からシエンがのぞきこむ。
「最近、多いね」
「そうですね……」
アレックスは穏やかにほほ笑んだ。
「しばらくは電話の応対には私が出ましょう。シエンさまは奥で資料の整理をお願いできますか?」
「ん……」
こくっとうなずくと、シエンは奥へと入って行く。
(今日は一日元気がない。やはり不安になっておられるのだろうか)
早めにお返しした方がいいかもしれない。マクラウドさまに迎えに来ていただこうか。
考えている矢先にまた、電話が鳴った。
非通知で。
「………はい、こちらジーノ&ローゼンベルク法律事務所でございます」
※ ※ ※ ※
資料を収めた本棚の並ぶ部屋に入り、ドアをしめるとシエンはほっと安堵の息をついた。
電話の音を聞くのが怖かった。
受話器の向こうの沈黙が嫌だった。
今日はレオンはデイビットと一緒にサクラメントに出張していていない。事務所に所属するもう一人の弁護士、レイモンドも出先からまだ戻っていない。
ディフもずっと外に出ている。ヒウェルもここ二三日、ほとんど事務所に顔を出さない……仕事が忙しいらしい。
だから余計に心細い。
しっかりしなきゃ。
事務所にはアレックスもいるし、下の階にはオティアもいる。
大丈夫。夕方にはディフも帰ってくるんだから。
でも……何だか、だるい。頭がぽーっとして、目の前がゆれる。地震かな、と思ったけど違った。部屋の中のものはちっとも動いていない。
(疲れてるのかな)
片手にファイルを抱えたまま本棚にもう片方の手をつき、体を支えていると……。
不意に、後ろからばーんと背中をたたかれた。
「やあ、シエン。どうした、ぼーっとして!」
「ぃっ!」
一瞬で頭の中に記憶が蘇る。暗い路地を歩いていて、いきなり後ろから車の中にひきずりこまれた。
必死でもがいても押さえ込まれて、あの山奥の工場に連れて行かれた。
誰も助けてくれなかった。
誰も。
誰も。
(逃げなきゃ! 隠れなきゃ!)
「シエン、どうした? どこか怪我したのか! 痛いのか!」
「やあっ」
手にしたファイルを放り出していた。白い紙がぱらぱらと飛び散る。
夢中で部屋の隅に逃げ込み、うずくまった。
(恐い、恐い、恐い!)
「おい……シエン?」
レイモンドは慌てた。部屋に入った時、こちらに背中を向けている彼に気づいたのだが、振り向きもしなかった。どうやらノックが聞こえなかったらしい。
何をぼんやりしてるんだろう、と思いながらもいつものように近づき、背中をそっと(彼の基準からしてみれば極めてそっと)叩いて挨拶したのだが。
「だ、大丈夫だから、怒ってないからっ」
とにかく、距離をとろう。
後じさりして部屋の反対側へ退避し、机の陰にかくれる。あいにくとだいぶはみ出していたが……とにかくかくれる。
シエンはすっかりパニックを起こしてうずくまり、震えている。心配だが、ここで自分が近づいたら逆効果だ。
どうしよう。
どうすればいい?
「いかがなさいましたか」
救い主が表れた。
「アレックス! たのむ、助けてくれ!」
張り上げられる大声に、またシエンがびくっと身をすくませる。
アレックスはすばやく部屋を見回し、およその事態を察した。
「落ち着いてください、しばらくお静かに」
「わ、わかった」
有能秘書が静かな声でシエンに話しかけるのを、レイモンドは机のかげから見守った。
アレックスはそっとシエンに近づいた。が、ふるふると首を横に振り、ますます怯えて両手で頭を抱えてしまった。
やむなく4フィート(120cm)ほど距離を置いてひざまづき、声をかける。
「シエンさま」
「やだ……やだ………こわい……こわい……」
(これは困った。すっかり怯えておられる。さて、どうしたものか?)
困惑するアレックスの目の前を、すっと人影が横切る。いつの間に来ていたのだろう。瓜二つの金髪の少年がシエンの隣に膝をついていた。
(オティアさま?)
オティアが黙ってさし出した手を握ると、シエンは震えながらもゆっくり立ち上がった。
しっかりと手を握り合ったままアレックスのそばに歩み寄るとオティアが顔を上げ、視線を合わせてきた。
「しばらく奥でお休みになった方がよろしいでしょう」
オティアがうなずく。
「では、こちらへ……」
部屋を出る間際にオティアはちらりとレイモンドに目を向けた。
「すまん」
縮こまって謝罪の言葉を口にする巨漢の弁護士から目をそらすと、オティアは何事もなかったかのようシエンと連れ立ってすたすたと奥に入って行く。その後を静かにアレックスが着いて行く。最後に一礼して、ドアを閉めた。
行き先はおそらく仮眠室だ。
見送ってから、レイモンドは盛大にため息をついた。
「はあ……また……子どもを泣かせてしまった……」
いかつい外見とは裏腹に彼は子ども好きだった。
しかしながら6フィートを軽く越える身長と、岩を刻んだようなごっついかっ色のボディ、そして鋭い顔つきと大きな低い声が災いして怖がられてしまう。うかつにのしのしと近づいて、
「おお、可愛い子だな! 坊主、名前は!」
なぞと声でもかけようものなら、たいてい火がついたように泣かれる。
転がってきたボールを投げ返せばつい昔とった杵柄で豪速球で投げてしまい、結果としてまた怯えさせる。
ただでさえこうなのに……うっかりしていた。
シエンがどんなに恐ろしい経験をしたか、知っているはずなのに。
「ごめんよ……」
閉まったドアに向かってつぶやくと、彼は床に散らばるファイルを拾い上げた。
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