ようこそゲストさん

ローゼンベルク家の食卓

メッセージ欄

分類 【三話】 で検索

一覧で表示する

【3-8-1】母との電話

2008/04/13 0:27 三話十海
 赤々とした西日は既に地上と空の境目ををわずかに染めるに留まり。
 窓の外に広がるサンフランシスコの空は、西の薔薇色から南のラベンダーブルーと徐々に青みを増してゆき、東の空には既に藍色の夜が広がっていた。

 レオンの部屋から見た時は、もう少し薔薇色の部分が少なかった。ドア一つずれただけで窓の外の風景も微妙に違うのだ。

 もっともこのところ滅多になくなっていた。
 この時間にディフォレスト・マクラウドが自分の部屋にいる事なんて。

 深く呼吸するとディフは受話器をとり、短縮ダイヤルの二番、すなわち実家の番号を押した。

「ハロー、ディー?」
「やあ、母さん」
「珍しいわね、あなたから電話くれるなんて」
「うん……まあ、たまにはね。この間の電話で言い忘れていたこともあったし」
「まあ、何かしら」

 さあ、ここからが正念場だ。ぐっと腹に力を入れて、精一杯『普通の』声を出す。

「オティアのことなんだ。ほんとはただのバイトじゃない。もう一人、シエンって子が一緒で……双子の兄弟なんだ」
「あら、そうだったの。二人ともあなたの所で?」
「いや、シエンはレオンの事務所に行ってる。それで……二人とも今、レオンの部屋に住んでるんだ」

 しばしの沈黙。母なりに考えているらしい。矢継ぎ早に言葉を続けたい。だがいっぺんに言ったらおそらく混乱させてしまうだろう。
 ここはじっと我慢。我慢だ、ディフォレスト。

「レオンの……親戚のお子さん、なのかしら?」
「いや。レオンの手がけた事件に関わってた子どもたちで……身よりがないんだ。行く所がないから、レオンが引き取った」

 再び沈黙。ただし、かすかにうなずく気配がした。よし、いい傾向だ。

「それで……ほら、レオンの奴、家事、苦手だろ? だから俺が毎日隣に通って、世話してるんだ。飯作ったり、洗濯したり……」
「うん、うん、あなたレオンのこともしょっちゅう世話焼いてたものね。高校生の時から、ず〜っと」
「うん……一人も二人も三人も同じだから」
「ふふっ、そうね、同じ、かもね」

 笑ってる。少し胸の奥が疼いた。
 双子の世話をしているのは確かだが、今自分が口にした言葉と事実は微妙にマッチしていない。何よりレオンと自分の関係も母はまだ知らないのだ。
 後ろめたさを胸の奥に押し込んで、本題を切り出す。

「それで、ね、母さん。今年はその、クリスマスもニューイヤーも、帰れそうにないんだ」
「そう……残念だけど、しかたないわね。育児って年中無休ですもの。」
「ごめん」
「いいのよ、ディー」

 良かった。声が長調だ。頭の片隅で小さなファンファーレが聞こえた。

「よっぽど可愛いのね」
「うん! 二人ともいい子なんだ。最初はガリガリに痩せてたけど、今じゃすっかり健康になって……」

 微妙に今、主語が省かれていたような気がしないでもないが、些細な問題だ。
 ほっとした途端、今まで言いたかった言葉があとからあとから流れ出す。

「シエンはもの静かな優しい子で、一緒に飯、作ってるんだ。ビスケットも焼いた。中華料理が得意で、ちっちゃな鍋でいそいそ作ってる。俺が入院してた時は、見舞いにライオンのぬいぐるみをプレゼントしてくれたんだ」
「まあ、可愛いわね」
「オティアはすげえ頭が切れる子でね。事務所のアシスタントとしても有能だし、俺が教えたことを片っ端からどんどん吸収してく。本読むのが大好きで……」
「確かに有能ね!」
「ああ。いい子たちだよ……」

 目を細めると、ディフは自分でも気づかぬまま、うっとりとほほ笑んでいた。目もとを和ませ、目尻を下げて。口角を上げて。
 尻尾があったら、わさわさと力いっぱい左右に振っていたろう。

 喉の奥から滑らかな声がこぼれる。ベルベットのようにしなやかで、あらゆるものを柔らかく包み込むあたたかな声が。

「子どもって不思議だよな。あんなにちっちゃくて、やわらかで、華奢なのに、ちゃんと人間のパーツがひとそろい揃ってる。においもふわっとしてて、大人とは違う」
「可愛くてしかたない?」
「うん」
「あなた、ランスが生まれた時も。ナンシーの時も、同じこと言ってたわよ?」
「そうだっけ?」
「ええ。あなたきっと、自分の子どもが生まれた時も同じ事を言うわね」

 どきりとした。冷たい指で心臓をわしづかみにされたような心地がする。一瞬で笑みがかき消えた。

(ごめん、母さん。俺はもう、女性を愛することはできないんだ。いや、男でも女でも関係ない。ただ一人、レオン以外は……)

 一番大事なことは、やっぱり言えなかった。

「ところで……。あなた、こんな時間に電話していていいの? 夕飯作ってるんでしょ?」
「ああ、大丈夫。今日の飯は、ヒウェルが作ってるから」
「まあああ! ヒウェルが? 脱いだ靴下を丸めて床に放り出して、絶対に片付けないあのヒウェルが?」
「そう、あのヒウェルが」
「いったいどうしちゃったの、あなたたち」
 
 声が1オクターブ上がってる。よっぽど驚いたらしい。

「……まあ、いろいろあったんだよ。いろいろね」

次へ→【3-8-2】茹で過ぎは食えたもんじゃねえ
拍手する

【3-8-2】茹で過ぎは食えたもんじゃねえ

2008/04/13 0:28 三話十海
 ガキの頃からサンフランシスコに住んでいて、一つ悟ったことがある。
 きっちりアルデンテにゆで上がったパスタを食いたいと思ったら、まず家で作るに限るってことだ。
 だいたい店で出されるやつはぐだぐだに茹だりすぎていて、口ん中でもたつくわ、胃の中でトグロ巻くわで食えたもんじゃねえ。

 専門のイタリアンレストランに行けばソースはそこそこ美味いのが食えるし、ゆで加減も若干マシなのだが……それにしたって俺の基準からすりゃ充分、茹ですぎだ。

 だから、オティアがパスタが好きらしいとわかった時、自分で作ることにしたんだ。

「どうしたんだ、それ」

 必要な材料を買い込んできて。ウォールナットの無垢材で作られたでっかいダイニングテーブルの上にどすん、と置いたらディフの奴は目を丸くして首をかしげた。

「今日の夕飯は俺が作るよ」
「……お前、正気か?」
「失礼だなー。いっつも食わせてもらってばっかじゃ悪いからさ……って何デコに触ってんだよ」
「いや、熱でもあるんじゃないかと思って」
「おい」
「だいたいお前、家事なんか滅多にしないだろ。腹減ったらチョコバーかじってしのぐし、靴下脱いだら丸めて床に放り出しっぱなしで、絶対片付けないし……」
「そーなんだ」

 シエンがうなずいている。

「高校ん時の話をいつまでもひきずるなっ! 俺だって多少は成長したぞ?」
「本当か? お前、今も自分の部屋は……」
「はい、ストーップ!」

 早々にディフをキッチンから追い出すと、何やらぶつぶつ言いながら自分の部屋に戻って行った。

「何を作るの?」
「ペペロンチーノ」
「この間カニと一緒に食べた、あれ?」
「そう、あれ」

 うなずくと、シエンは心配そうに左肘のあたりに視線を向けてきた。少しだけ伏し目がちに。

「腕、もう大丈夫?」
「ああ、すっかり!」

 ぶんぶんと回してみせると、シエンはうなずいて小さく

「そう……良かったね」

 と、つぶやいた。微妙に視線を背後に……黙々とテーブルを拭いているオティアに向けて。

「ヒウェル、エプロンしなくて大丈夫?」
「ああ」

 ジャケットを脱ぎ、シャツ(本日の色は極めて薄い桜色)の腕をまくった。

「ほい、これで準備完了」
「それで……いいんだ」
「俺はディフほど髪の毛長くないからな。くくる必要もないし」
「あー……」

 シエンが何やら言いたげな視線を向けてきたが、結局何も言わずに自分のエプロンをつけていた。

「よし、始めるか」

 寸胴鍋いっぱいに水を入れて、ぐらぐらわかしていたらいきなり鼻がむずむずして。

「ぶぇっくしょいっ」

 派手なくしゃみをぶちかましていた。
 すかさずシエンが小さな声で言ってくれた。

「お大事に」
「ありがとさん。ったく、誰かウワサしてんのかぁ?」

 ぎろりとオティアがにらんでくる。

「鍋の前でやってんじゃねー」
「……わーったよ、気ぃつける」
「うつったらシメる」
「……………………細心の注意を払います」

 にらまれた。
 怒られた。
 でも、自分から話しかけてくれた。それだけで胸が躍り、顔がほころぶ。

 鍋に塩をひとつまみぱらっと入れて、大量のパスタをぞろりと投入する。お湯に浸かったところからくたくたと折れ曲がるのを、軽くトングで混ぜる。

「菜箸使わないの?」
「こっちのが楽」

 五人分のパスタが湯の中にまんべんなく浸った所で、ひまわりの形をしたキッチンタイマーをきりっと回して、かっきり11分にセットする。
 およそ男ばかりの部屋に似つかわしくない、厚さ1インチほどの黄色いお花の形のタイマー。丈夫で長持ち、今時珍しい回転式。ディフの入院中に新しく買ったものだ。



 かつてこの家には、キッチンタイマーなんて洒落た道具は存在しなかった。
 ディフの奴はパスタを茹でるのも腕時計のクロノグラフで計るから。時限爆弾の残り時間でも計る時みたいにそりゃもう、真剣に。

 ついでに言うと、ここの台所にある鍋はどれもこれも重量級で。シエンはいつも重たい鍋を両手で苦労しながら上げ下げしていた。
 時にはオティアと二人がかりで、一つの鍋を抱えて。
 パスタを茹でる時なんざ、寸胴鍋をコンロに乗せてからヤカンでちまちま水を入れていた。(水が入ってると重くて持ち上げられないのだ)
 だからタイマーと一緒に小さめの鍋を買った。あの子でも楽に扱えるような、軽い奴を。

「これ使うといい」
 そう言ってテーブルの上に乗せるとすごくうれしそうに笑って「……ありがと」と言って。大喜びで鍋を洗って火にかけていた。
 


「オティア。吹きこぼれないように見張っててくれるか?」

 黙ってこくっとうなずいた。
 よし、これでこっちはOK。
 その間に赤唐辛子を刻む。一人1本……いや、2本いっとくか。続いてベーコンを細切りにして。皮を剥いたニンニクは薄切りに。
 包丁とまな板を洗ってから(臭いが着くとディフがうるさいのだ)、フライパンでがーっと炒める。
 その間にシエンは隣でレタスをちぎってはボウルに張った氷水にくぐらせていた。

「あ……サラダか。サンキュ」
「うん。野菜もとらないとね」

 着々と双子の食育は進んでいるようだ。手際良くトマトを切り終えると、ちっちゃな鍋をとりだして。
 お湯を沸かし、アスパラを茹ではじめた。
 マメだな。俺ならそこで手ー抜いて、パスタと一緒にゆでちまうよ。

 チリリリリリリリリ!

 レトロなベル音が鳴り響く。11分経過、パスタのゆで上がり。
 一本つまみとって口に入れる。
 あちち!

 堅からず、柔かすぎず、芯は残ってない……よし、いい感じだ。

 ほんとは一本とってびしっと壁に投げつけて、張り付くかどうかで判定したいとこだが下手にやったら……後が怖い、ディフが怖い。
 鍋つかみを両手にはめて、慎重に寸胴鍋を持ち上げる。ここでひっくり返したら大惨事だ。そーっと、そーっと。
 さすがに五人分は、重い。シンクまで運んでゆき、あらかじめセットしておいたザルの上に流す。
 ちまちまトングで落すなんて面倒なことやってらんない。大量のお湯とパスタを、ざばーっといっぺんに。
 絶対、こうした方が美味いと信じている。(根拠はないが)

 もうもうと真っ白な湯気が噴き上がり、一瞬視界が真っ白になった。

「うわぷっ」
「……眼鏡ぐらい外しとけ」
「るっさい、今外そうと思ったとこだよ」

 眼鏡を外して、たたんでキッチンカウンターに乗せる。ちょっとばかり世界がぼんやりしてしまったが、文字を読む訳じゃあるまいし。どうにかなるだろ。
 だいたい俺の目は近視と言うより乱視が強いのだ。裸眼だと人の顔の細かい表情や文字を判別するのは難しいが、物の輪郭や色、形そのものは比較的よく見える。包丁を使うのはさすがにきついが、刻むべきものはもう全部刻んである。
 よし、問題なし。

 フライパンにオリーブオイルを引いて、バターをひとかけら。ベーコンと薄切りガーリックを炒めた。
 人類で最初にベーコンを発明した奴に感謝したいね。ちょいと火を通しただけで美味そうなにおいがぶわぶわっと大発生。
 そこにガーリックが加わった日にゃあ……吸血鬼じゃなくてよかったと心底思う。
 火が通った所にパスタを投入、一気にがーっといためて塩胡椒を振って。
 仕上げに刻んだ赤唐辛子を散らす。ちょい、と味見して……

「んむ、完ぺき」
「ヒウェルもけっこう料理できるよねー……」
「まあな。これでも一人暮らし、そこそこ長いから」
「皿も鍋も洗わないけどな」

 ぬっと背後から厳つい赤毛が鼻つっこんできやがった。

「だって学生の時はお前がやってくれたし」
「放っておくと部屋ん中が魔窟になるからだ! だいったいお前ときたら読んだ本片っ端から部屋の床に放り出して絶対片付けないし」
「あれは置いてあるんだ。放り出したんじゃない」
「どうだか? ……シエン、皿出してくれ」
「うん」

 大きめの平皿にペペロンチーノ、少し深めの小皿にサラダ。

「飲み物なんにするー?」

 シエンに聞かれ、相変わらず黙々とフォークとスプーンを並べていたオティアがぼそりと答えた。

「……水でいい」
「OK、水な」

 炭酸無しのボトルウォーターを取り出し、大きめのグラスについで、とりあえず一人一杯ずつ。

「粉チーズ使う奴いる?」
「一応テーブルに出しとけ」
「わーった」

 皿に盛りつけたペペロンチーノとサラダが五人分、でっかいダイニングテーブルに並んだのを確認してから眼鏡をかけ直す。

「よーし、できたぞ」

 不意に背後で声がした。

「……今夜はヒウェルが作ったんだって?」
「わあ、レオン、いつからそこに」
「さっきから」

 ※ ※ ※ ※

 食ってる間中、気になってしかたなかった。何がって、オティアのことに決まってる。
 ディフの入院中に何度か飯は作ってきたが、今日は特別だ。こいつのために、作った。こいつに食べて欲しくて。
 相変わらず表情は動かさないが黙々と食って、二皿目をよそっている。信じられない、基本的に小食のこいつが!
 シエンが目を丸くしている。
 ディフも。
 レオンでさえ意外そうに「ほう」と小さな声を出した。
 食卓の視線がそこはかとなくオティアに集中している。

 肋骨の内側でばっくんばっくん飛び跳ねる心臓をなだめつつ、聞いてみる。

「……うまいか?」
「……まぁまぁ」
「そうか!」

 最上級のほめ言葉だ。

「オティア、スパゲティ好きだよね」
「……」
「そうか…好きなのか……また作るよ」
「うん」

 シエンの隣でオティアが小さくうなずいた。ちらっと。ほんの短い間、確かにこっちを見ていた。

次へ→【3-8-3】ヒウェルの告白

【3-8-3】ヒウェルの告白

2008/04/13 0:29 三話十海
 舞い上がったまんま上の空で食後のコーヒーを流し込んで。鍋と皿を洗うと言ったらディフの奴はまた目を丸くした。

「……ほんっとに熱ないのか、お前」
「いいから体温計しまえよ、ディー」
「ええい、その呼び方はやめろ!」

 くわっと歯ぁ剥いて怒鳴ってるが動揺してるな。耳まで赤くしてうろたえてやがる。
 一本とったぜ、してやったり。

 気分よく台所で鍋とフライパンを洗っていると、食べ終わった食器を持ってオティアがやってきて……そのまま、洗い始めた。
 ざっと皿を軽く洗ってから食器洗浄機に並べて行く。
 何のことはない、いつもこいつのやってる事だ。強いて違いをあげるとしたら今日はいつも一緒のシエンがいない。
 ディフもいない。レオンは言うにおよばず。
 今、キッチンにいるのは俺とオティアの二人っきりだ。

 これはある意味、チャンスかもしれない。

 ざばざばと景気良くフライパンを洗って、すすいで。ペーパータオルで拭ってからかるくガス台であぶって水気を完全に飛ばす。
 一旦手を休めて、オティアに声をかけた。

「なあ、オティア」

 こっちを見た。

「月並みな質問だけどお前、恋人とかいる?」
「は?」
「いないんだな?」
「考えたこともねーよ」
「ふーん」

 ひと呼吸置いて、続ける。本当に言いたかった一言を。できる限りさりげなく、いつもの軽やかさを保ったまま。

「それじゃあ、俺が立候補してもいいわけだよな?」
「はあ?」

 一歩近づき、上体を曲げて。ほんの少しスモークのかかった紫の瞳をのぞきこんだ。
 瞳孔が拡大し、いつもより若干深みを増したアメジストの鏡に……不自然なくらい爽やかな笑みを浮かべた自分の顔が写っていた。
 自分がどれほど彼に近づいていたのかその時初めて気づいた。
 ったく、何ムキになってんだ……。

 声のトーンを落して、囁きかけた。

「お前が好きだってことだよ。恋人になりたいんだ」
「何を、バカなことを」

 つい、と目をそらされた。
 ああ、予想通りの反応だ。お前ならきっとそう言うと思ったよ。ここですんなり聞き届けられてもいささか物足りない。
 ほんと、怒った顔も可愛い奴だ。

「本気なんだけどなぁ……」

 オティアは黙々と皿を軽く水ですすいでは食器洗浄機に並べる作業をくり返して行く。いつもより少しだけ乱暴で、皿やフォークがカチャカチャと耳障りな音を立てる。
 最後の一枚までセットしてからバタンと蓋を閉めて。スイッチを入れた。

「………オティア?」
「二度と言うな」

 そのまま俺には目もくれずに素通りし、自分の部屋へと行ってしまった。

(おい)
(待て)

 今、いったい何があったのだ。
 俺は何をしくじった。
 まちがったボタンを押したのか。
 くそ……わからない。
 わからない!

 切り立ったガラスの絶壁に指ひっかけて、上に登ろうと足掻いてる気分だ。

「オティアっ?」

 シエンが慌てて追いかける。
 続いて追いかけようとしたが、リビングで足が止まった。
 情けない話だが、その時になってようやく、混乱した俺の脳みそはさっき目の拾った光景を理解することができたのだ。

 まだ新しい食器洗浄機。ピカピカの銀色の表面が、鏡みたいに彼の顔を写していた。
 相変わらずのポーカーフェイス、表情は変わらない。けれど紫の瞳の奥に……凄まじいまでの苦い絶望が沈んでいた。
 あの目。
 初めて会った時も、あんな風な目をしていた。
 いや、あの時よりある意味酷い。
 溺れながらすがりついた手を無理矢理振り払われて、水の底に沈んで行く瞬間……人はあんな目をするのかもしれない。

「やっちまった……」

 唇を噛んで立ち尽くす。濡れた手のままで。
 視界の隅でレオンとディフが一瞬だけ目を合わせ、レオン一人が立ち上がるのが見えた。

「ヒウェル。書斎に」

 静かな声。穏やかな声。だが、逆らうことはできなかった。

次へ→【3-8-4】あの子達には時間が必要だ

【3-8-4】あの子達には時間が必要だ

2008/04/13 0:30 三話十海
 背の高いどっしりした本棚が、部屋の壁を埋め尽くしている。
 分厚い本がすき間無くびっしりと並び、窓を背にして木製のデスクが置かれている。デスクの色も本棚も、フローリングの床も、色調は全て同じ、ブラックコーヒーみたいな落ちついた濃いめのかっ色。
 だが適度にやわらかく、決して人の心を圧迫しない。
 何もかも調和が取れていて落ちつくはずのこの部屋だが、今の俺は……ひどく落ちつかない。

 レオンに続いて部屋に入ると、ドアを閉めるように身振りで言われた。
 あー、なんか校長室に呼び出されるのってこんな気分かな。
 幸いにして学生時代にその憂き目を見たことだけはない。清廉潔白な学生生活だったと言い張るつもりはさらさらないが、それなりに要領は良かったのだ。
 いつでも、どんな時でも、口先と手先と舌先でくぐり抜けてきた。
 重たい波もするりと斜めに構えてすり抜けて、決して正面からは向き合わない。それが俺の遣り口であり、信条だった。

「あー……その……」

 口を開きかけた途中で透き通ったかっ色の瞳に見据えられた。
 うわ。
 動けねえ……。

「ヒウェル」

 たしなめるように名前を呼ばれた瞬間、とっさに口走っていた。

「何もしていませんよ」

 馬鹿か、俺は。これじゃ自白したも同じだろうが!

 レオンは何も言わない。ただ、黙ってこっちを見ているだけだ。すっと鼻筋の通った端正な顔立ち。切れ長のかっ色の瞳。これだけの美人と二人っきりで見つめ合うってのは考えようによっちゃものすごく美味しい状況なのだが。
 中味を知ってるだけに……楽しむどころじゃない。じわりじわりと追いつめられて、言わずにはいられなくなる。
 内に秘められた刃が鞘から抜かれるその前に。

(ほんとはこの男、弁護士より検事の方が向いてるんじゃなかろうか?)
 
「ただ……言っただけです。お前が好きだって。恋人になりたいって」

 まるで検察側の証人に反対尋問する時そっくりの口調で言われた。

「君がこれまでつきあってきた相手とは違うんだ」

 おいおい、いきなりそれかよ!

「んな事ぁ、あなたに言われるまでもなくわかってますよ」

 語尾をあまり強くできなかったのは、ふつふつと沸いて来る後悔とうしろめたさのせいだろうか。


「あの子のことを思うならもっと慎重になるんだね」


 あー、もうこの男は。
 穏やかな声とこのやたらめったらきれいな面構えで淡々と正論ぶつけてくるから苦手なんだよ。ぐるりと張り巡らされた包囲網を、1インチ単位でせばめられて、気がつくと手足をみっちり鉄条網に絡めとられてるんだ。
(そう言や鉄条網ってもともと薔薇のトゲを模して作られたんだっけな。それともイバラだったっけか?)

 ああ、くそ一服やりてえなあ……
 今、そんなこと言ったら最後、即刻に有罪ふっとばして断罪されそうな気もするが。

 だからって素直に謝るのもシャクなので、ひょいと片手を眼鏡の縁にかけ。

「慎重……ねえ……」

 斜めに下げたフレームの、上辺をかすめて視線を送り、口を歪めて言葉を返す。

「……慎重にしましたよ? ええ、俺の基準からすればかなり!」
「俺の基準でいえば、まず告白自体がはやすぎる。今はまだ、性的行為を連想させるすべてのことが彼を傷つける」


 ぐっと唇を噛んで黙るしかなかった。
 指先にくしゃくしゃの紙の感触が蘇る。
 一度丸めたのをもう一度伸ばしたり。破れたのを張り合せたり。ところどころに涙のにじんだ、ぼろぼろの紙片の束が、すーっと目の前を流れてゆく。

 そうだ。
 俺は、知っている。施設の職員とグルになった『仲買人』から売り飛ばされた先で、オティアの身に何が起こったか。おそらくは俺たち三人の中で誰よりも早く、詳しく。

「この間は俺とディフのことでも、ひどく不快感を示してたからね。気をつけてはいるんだが」
「あ……」

 恋人同士の甘い抱擁の名残でさえ、今のオティアには忌わしい記憶に直結しているのだ。
 それを知っているはずなのに、俺は。

『お前、今、恋人いる?』
『それじゃ、俺が立候補してもいいわけだよな?』

 俺って男は、つい今しがた、全力でそのスイッチを押してしまったんだ……。
 よりに寄って軽口めかした言葉と表情で。

『俺とちょっと遊ばないか?』
『初めてって訳じゃあるまいし。どうせ誰とでも簡単に寝るんだろう?』

 あいつの心の中ではおそらく、こんな風に聞こえてしまったはずだ。
 舌の奥が、苦い。

Damn!」

 罵りの言葉とともに拳で壁を叩く。衝撃が肘に響いた。無意識のうちに左手を使っていたらしい。こんな時でも商売道具……文字を書く右手を庇っている。そんな自分の要領のよさが。冷めた頭が。
 何度も危機を回避するのに役立ったはずの己の特性が、今はむしろ厭わしい。

「やっちまった……」

 ずきずきうずく手で髪の毛をかきむしっていた。

「ディフもそうだが、君も、気になるからといって構いすぎるのは禁物だよ」


 拳を握り、床をにらむ。
 ちょうどこの辺りにオティアが座っていた。紫の瞳を見開いて、本のページにびっしり並んだ文字を夢中になって追いかけていた。焼きたてのホットビスケットをかじりながら。
 たった数日前のことなのに、百年前のことのように遠い。

「怖いんだ……放っておくと……すーっと遠ざかって……そのまま二度と手の届かないとこに行っちまいそうで」

 オティアは気まぐれに餌を食いにくる猫みたいな奴だ。確かに今はすぐ傍にいる。けれど、今日眠って明日の朝起きたらふいっと姿を消していて。
 もう二度と会えなくなるんじゃないか。
 不安でたまらなくなる。居ても立っても居られなくなる。

 俺も。
 レオンも。
 ディフでさえ双子にとってはただの他人、無関係な第三者だ。
 一見安定したように見える今の生活が、明日。いや、一時間後も続いている保証は………どこにも、ない。

 俺たちは他人の集合体に過ぎないのだ。たまたま同じ部屋に居合わせて、同じ食卓を囲んでいるだけの。

「無理矢理手元に置こうとしても、傷が増えるだけだ。お互いに」

 のろのろと顔を上げて言葉を返す。いつもは軽やかに動く舌が、なんだか鉛みたいに重い。

「だから待てってことですか」
「あの子達には時間が必要だ」

 口もとに笑みが浮かぶ。苦い錠剤を含んだまま、無理矢理口角をつりあげたような不格好な笑いが。

「あなたが奴を待ったように?」
「……俺は、待っていたわけではなかったけどね」
「あー、そう言やそうだよな。下手すりゃ一生友だちのままだったかもしれないもんな」
「人は欲が深い。満足できずに、次を求めてしまう」

 何やら哲学的なことを言って来やがった。一瞬、ぽかんとしてから……猛烈に、呆きれた。
 今さら何言ってんだ、この男は!

「……次? これ以上何を求めるって言うんです。もう奴にはあなたしか見えていないのに」
「今はね。何にしろ、それを自分で抑制することも必要だ。相手があることなら、なおさら」

 俺に、と言うよりむしろ自分自身に言い聞かせているように聞こえた。だからなのか。
 さっきより素直に、レオンの言葉にうなずくことができた。

「抑制か。一番苦手な言葉だ。でも………試してみよう……あの子のために」
「長期戦になりそうだね」


 レオンが自分の抱えるディフへの友情以上の想いに気づいたのは高校の時。
 以来ずっと親友で居続けて、やっと本物の恋人同士になったのは一年前のこと、俺は二人の始まりから今に至るまでずっと見ていた。
 ディフの鈍さも、レオンの忍耐強さもいやと言うほど知っている。
 だけど。
 だけどなあ。

 俺はあなたほど忍耐強くないんだよ、レオン!

 第一もう、言っちまったんだ。何事もなかったフリして『お友達から始めましょう』なんて申し出ることもできやしねえ……。
 無理だ。

「あなたほどじゃない」

 十年近くも待つなんて。勘弁してくれ。

「……そうあって欲しい……なぁ」

「幸運を祈ってるよ……おやすみ」

 その言葉は否応無しにこの会見の終わりを意味していた。

「おやすみなさい」
「ああ、それからヒウェル」
「何でしょう?」

 ドアのところで振り返ると、レオンにさらりと言い渡された。

「三日間出入り禁止」
「執行猶予は?」
「無し」

 実刑判決かよ。やっぱりこいつ、検事の方が向いてるんじゃないか?

「情状酌量の余地は」
「無し」
「……弁護士呼んでください」



(ペペロンチーノ/了)


次へ→【3-9】アップルパイ

【3-9-1】夕食は四人分

2008/04/18 21:28 三話十海
 まだかな。

 シエンはさっきから、ドアの外が気になってしょうがない。
 そろそろ食事の仕度が終わるのに、一向に来る気配がないのだ。

「今日は皿、四人分でいいぞ」

(えっ?)

 ディフの言葉に思わず目を見開いた。

「ヒウェル……は?」
「あいつは今、出入り禁止くらってる。刑期は三日だ」
「オティアのせい?」
「オティアも関係ある。だが、今回はヒウェルの自業自得だ」


 ディフは微妙に嘘をつく。
 まったくの嘘じゃないけれど。それが、自分やオティアを守ろうとする思いから来るものだってことも、わかるようになったのだけど。
 今みたいな言い方をするってことは、やっぱりオティアが原因なんだ。

 うなだれていると、ディフが遠慮がちに声をかけてきた。

「シエン……………その………あー……」
「ヒウェルごはんどうするのかな」
「プロテインバーかチョコバーか、コーヒー。あとは……ヤニかな」


 何だかどれもあまり美味しそうじゃない。三日間、そんな食事ばっかりじゃ栄養もかたよりそうだ。体によくないよ。
 ちらりと今作っている夕飯を見る。

「………………これ、持っていっても……いい……?」

 ディフはじっとシエンの顔を見て、それからほんの少しだけ目元を和ませた。

「そうだな。多分、余る。これ使え」

 タッパーを渡してくれた。受けとって、料理をつめる。
 メインのポークとキャベツのポッドローストも。カボチャのサラダも、きっちり一人分。スープは……さすがに難しいかな。
 首をひねっていると、オティアが横を通り抜けながら一言、ぼそりと言った。

「甘やかすな」
「………」

 しょんぼりとうなだれ、力無く手を降ろす。


 一人分取り分けた夕食は、結局、持って行くことができなかった。


 ※  ※  ※  ※


 ずっと、一緒だった。
 二人で一人。お互いがこの世界で唯一の大切な存在。
 同じものを見て。
 同じことを思って。
 同じステップで歩いてきた。

 それは瞬き一つに満たないほどのかすかなゆらぎ。それでも確かにその瞬間、二人は別々の『一人』だった。


次へ→【3-9-2】代理でデリバリー

【3-9-2】代理でデリバリー

2008/04/18 21:30 三話十海
 朝まで仕事して、眼鏡外してタイだけ緩めてベッドにひっくり返って。起きたらもう昼過ぎだった。
 ベッドから抜け出し、パソコンのフタを開けてメールをチェックする。昨夜開きっ放しにしておいたテキストファイルが目に入る。
 
 なんか、気になるな。寝る直前に書いた文章だから、微妙にガタガタだ。

 手直しを始めてそのまま数時間。
 なんだか妙にふらふらするなと思ったらうっかり飯を食うのを忘れていた。
 仕事に集中しているとよくあることだ。
 時計を見るともう夜の九時を回っていた。どうりで暗いはずだ。カーテンをしめて、部屋の明かりをつけた。

 さて、今日最後に固形物を口にしたのは……いつだったろう。それ以前に、誰かと直接、話をしただろうか?
 電話でもなく。メールでもなく。
 それ以前に俺、太陽の光浴びたかな。

 こうしてみると、晩飯だけでも上で食ってるってのは生活の中で確実に一つの区切りになってたんだな。
 
 とりあえず、糖分と水分だけでも補給しとくか。
 冷蔵庫を開けると、ボトルウォーターと牛乳と、缶ビールとマヨネーズしか入っていなかった。
 水をのどに流し込むと、体中の細胞がむさぼるように水分を吸収しているような気がした。
 よし、水分補給完了。

 リンゴ……は今朝、最後の一つを食っちまったし。チョコバーまだあったかな。

 上着のポケットをひっかきまわしてると呼び鈴が鳴った。

 がーっと原稿に集中していた余波が残っていて、まだ微妙に体の動きと意識が合っていない。
 まず体が動いて、その後を少し遅れて意識が着いて行く。
 浮遊する意識を引っぱりながら玄関まで歩いてゆき、ドアを開けると目の前に壁があった。

「生きてたか」
「……よお」

 ディフだった。
 
「何か用か?」

 ずいっと目の前に四角いタッパーがさし出される。
 肉と野菜のにおいがした。
 ぐぎゅーっと腹が鳴る。

「食え」
「いいのか?」
「シエンがな。お前にこれ持ってってもいいかって言うんだよ。滅多にこうしたいって言わないあの子が」

 問答無用で手の中に押し付けられる。まだほんのりと温かい。

「……だから。代理だ」
「すまん」
「謝るな」
「すまん」

 ディフは軽く拳を握って、とん、と胸を突いてきた。ふらっと体が揺れる。

「ったく。謝るなっつったろうが」
「……うん」

 ゆるく握った拳で同じように胸を叩く。
 びくともしねえ。

「ありがとな。今日始めてのまともな食い物だよ」
「ったく。お前は不健康すぎだ。せめて野菜ジュースだけでも飲んどけ」
「気が向いたらな」

 やれやれ、と肩をすくめてる。今まで何十回もくり返された会話だ。俺も素直に飲むつもりはないし、向こうもそれぐらいは百も承知。
 高校時代、寮の同じ部屋に住んでた時はこんな会話の後は決まって野菜ジュースのボトルが冷蔵庫に入ってた。(しかも特大だ)

 今はそこまではしない。
 お互いの間にきっちり境界線ができている。『ここまで』って。大人になったってことなのかな、これが。

「それじゃ、おやすみ。シエンに…………よろしくな」
「ああ。伝えとく」

 本命は、言えなかった。


次へ→【3-9-3】ヒウェル出所前夜

【3-9-3】ヒウェル出所前夜

2008/04/18 21:32 三話十海
 三日間のヒウェルの出入り禁止も今日で終わりだ。
 明日から夕食をいちいち運ぶ手間が省けるかと思うと清々する。
 まったくあいつと来たら、ドアを開けて俺の顔見るたびに露骨にがっかりした顔しやがるんだ。

(何を期待していたのか。誰を待っているのか。あえて追求するまでもないし、したところでヒウェルが口を割るとも思えない。第一答えなんかわかり切ってる)

 そんな事を考えながら鍋を洗っていると、携帯が鳴った。ざっと手をすすいで、水気をふきながら液晶画面を確認する。
 当の本人からだ。

「どうした、こんな時間に………」

 どこか、こう、別次元から聞こえてくるような声で『借りたいものがある』と言ってきた。
 今日の分の夕飯はまだ届けていない。
 あいつ、また一日飯抜きでぶっ通しで仕事してたな?

「かまわんぞ。何を?」

 抑揚の無い口調で、呪文でも唱えるみたいに淡々と、必要な本や雑誌、ファイル名を挙げて行く。

「あー、その資料は事務所に置いてあるんだ」

 少し迷った。
 奴が事務所に来れば必然的にオティアと顔を合わせることになる。
 明日はそれほど外に出る用事はないが、タイミングによっては事務所で二人きり、なんてことにもなりかねない。

「明日、午後一番で取りに来てくれ。じゃあな」

 その時間なら、確実に俺も事務所にいる。
 携帯を閉じて、ふと横を見ると……シエンと目があった。どうやら気にしていたようだ。

「……元気だぞ。ヒウェル。飯、美味かったって」
「………そう」

 ほわっと顔をほころばせた。ほんの少しだけ。


「……明日、事務所に来るから……その……気が向かないなら、バイト休んでもいいって…オティアに伝えといてくれ」
「休まないよ」
「……そうか」
「うん」
「わかった」


 今度は俺がほっとする番だった。


次へ→【3-9-4】俺は空気か

【3-9-4】俺は空気か

2008/04/18 21:34 三話十海
 翌日、ディフの事務所に資料を借りに行った。約束通り、午後一番に。
 俺が事務所に入ってった時からオティアは顔もあげないし、こっちを見ようとさえしない。

 俺は空気か?

「…………………………さんきゅ。使い終わったらまた返しに来るから」
「ああ。部屋でもいいぞ」
「……いや。こっちに来る」
「そうか」

 電話が鳴る。オティアは書類から顔を上げて、受話器を取った。

「はい、マクラウド探偵事務所。……しばらくお待ちください」

 保留にしてから、つかの間こっちを見たような気がしたが。

「ディフ」
「ん」

 やっぱり俺は無視かよ。
 仕方ないよな。それだけのことはしたんだ。蹴り出されないだけマシと思おう。
 頭じゃ理解できる。
 だが今、この瞬間、腹の中でうじゃうじゃのたくってるこの苛立ちをどうしてくれよう。
 どこかにぶつけなきゃ気がすまねえ!

「ちょっとノーパソ借りていいか?」
「……ああ」

 ディフが電話に出ている間に素早くトラックパッドに指を走らせる。
 確か、俺が前に撮ってやったレオンの写真が……あったあった。よし、これを壁紙にセットしてっと。

「ありがと、助かったよ」
「おう」
「それじゃ、また飯時に」

 涼しい顔して事務所を出た。
 ドアを閉めた瞬間、口がぐんにゃりと歪んで……慌ただしく煙草を一本取り出し、歩きながら火を点けた。
 手の中のライターをしみじみ見つめる。すり傷だらけの銀色のオイルライター。表面には赤いグリフォンの紋様、裏面に一筋、『唯一の傷』。
 里親の家を出る時、親父さんからもらった思い出の品。
 もう二度とこの手にすることがないとあきらめていた。『撮影所』の瓦礫の中からオティアが見つけてくれるまでは。

『ここで死なれたら、寝覚めが悪い』

 少なくともあの時は、俺を見てくれた。
 俺に話しかけてくれた。
 
 俺は……どこで道をまちがえてしまったのだろう?

 もう、お前にとって俺は存在しないも同じなのか。

 いつからお前に惚れていたのか。惹き付けられていたのか。
 最初に出会った瞬間か。それとも、倒れたお前の手を握って、弱々しくにぎり返された時だろうか。
 あるいは……ボコボコに殴られて倉庫の床にひっくり返っていた俺の目の前に、ふいっとお前が現れた時。

 少しくすんだ金色の髪。優しく煙るアメジストの瞳。ぐいと結んでへの字にした口も。斜めにしかめた眉さえも愛おしくてたまらなくって。
 幻でも現実でもかまわない。もう一度会えた事が、ただひたすら嬉しかった。
 
 誰はばかることなくお前が好きだと言いたい。言ってほしい。
 キスして、抱きしめて、その金色の髪を思うさま撫でて……顔を埋めたい。
 腕の中にお前の温もりを感じたい。
 そんなありとあらゆる自分の『したい』を投げ出して、今、ただひたすらに冀う(こいねがう)。

 俺を見てくれ。
 俺が、今、ここに存在するって認めてくれ。
 
 ただ一度でいい。お前がほほ笑みかけてくれるのなら……
 どんな代価も喜んでさし出そう。
 この心臓、えぐり出しても構わない。

「…ん……こほん」

 唐突に遠慮がちな咳払いが聞こえて我に返った。スーツを着た初老の紳士がこっちを見てる。さりげに示された壁面に、「NO SMOKING」のサイン。
 すれ違う人々の視線が痛い。

「あ」

 あ………うん。確かにここの廊下って……………全面禁煙だったね。
 むすっとした顔のままポケットから携帯用灰皿を取り出す。最後に一服深々と吸い込んでから、煙草を口から離して。
 ねじ込んだ。
 ぎりぎりと、思いっきり強く。

次へ→【3-9-5】所長、仕事しろ

【3-9-5】所長、仕事しろ

2008/04/18 21:36 三話十海
 ドアが閉まった瞬間、小さなため息が漏れた。
 やれやれ、やっと帰ったか、あのバカが。

 三日間の出入り禁止は昨日で終わり。今日の夕食の時間になれば嫌でもあいつと顔を合わせなければいけない。

 どうかしてる。
 
 他人なんか居ても居なくても同じだ。簡単に存在を自分の意識から抹消できる。
 それなのに、何だってあいつを。あいつなんかを、わざわざ意識して『無視』しなきゃいけないんだ?

 おそらく自分が一言「来るな」と言えば、あいつは三日どころか二度と部屋には顔を出さないだろう。だが、何故かシエンの顔が……どこか悲しそうな顔がちらついて、できない。

 ……いいや。もうあいつの事を考えるのすら面倒くさい。
 もう一度ため息をつくと、オティアは目の前の仕事に集中しようとした。

(踏みにじられるのは慣れている。別にあの男が初めてじゃない)


 ※  ※  ※  ※


「……ん?」

 書類の整理をしていてふと行きづまる。
 ずっとこの事務所はディフが一人で切り盛りしていた。
 だから報告書や業務記録に何カ所か、彼にしか分らない独自の略号や記述がある。

「なぁ、ディフ、これって……」

 一度、聞けばすぐ覚えるが、今みたいに初めて見つけた暗号は本人に聞くしかない。

「…………」

 返事がない。
 珍しいな。
 顔を上げて、所長のデスクに目を向ける。
 じっとパソコンに見入っているが、手がとまっている。しかも顔全体がゆるみきってる。
 頬杖をついて、目を和ませて、ティーンエイジャーみたいにうっすら頬まで染めてやがる。

「……………………………ふふっ」

 笑った。


「……顔がキモくなってるぞ」
「……んー」

 かろうじて返事はあった。でも相変わらず目は画面に釘付け、手は止まったまま。
 まさかと思うがネットでエロサイトでも見てるんじゃあるまいな?
 さらに30分ほど放置してみる。
 スクリーンセイバーが作動するたびに、トラックパッドをちょんとつついてまた壁紙を表示する。
 しかし一向に仕事に戻る気配はない。

「…………やっぱり美人だよな」

 ぴくっと片眉が跳ね上がる。
 こいつがこんな台詞吐く相手はこの世にただ一人しか居やしない。
 新聞を手に立ち上がり、背後に回るが、気づきゃしない。
 パソコンの画面をのぞきこむと、予想通りレオンがほほ笑んでいた。

 新聞紙をくるくるとまるめて棒にする。
 いつものディフならとっくに気配を察して反応してるはずだが……画面を見てしきりにうなずいている。
 いっそ不意打ちしてやろうかとも思ったが、棒状にした新聞紙を肩にかついでひとこと言ってやった。

「あんたほんっとーにレオンの嫁だよな」
「誰が嫁だっ」

 すぱーん!
 事務所の中に景気良く軽い炸裂音が響いた。

「痛ぇっ! 何しやがるっ!」

 柄の悪さ全開で歯をむき出してうなる所長に、冷めた一言でぐさりと切り込む。

「仕事しろバカ」
「……………………………………………すまん」

 背中丸めてうなだれた。まるで叱られた犬だな。さっきの勢いは欠片もない。どうやら、大人げないマネをした自覚はあるらしい。
 さっと手を伸ばし、ちゃっちゃと危険な壁紙を外して無機質な青い画面に戻す。

 するべき事を終えると書類を差し出し、本来の用事をさらりと告げた。

「これ、どう言う意味なんだ?」
「ああ……こっちが依頼受けた日で、これが調査の終わった日付だ」
「それは分る。このDisってのは?」
「discontinuation(継続中止)」
「……わかった」

 そして何事もなかったように仕事に戻った。

「……何でレオンになってたんだ……」

 ディフが首をひねってる。

(あのバカがやったに決まってるだろう)

 思ったが、口には出さなかった。


 ※  ※  ※  ※


 お茶の時間になって、上の法律事務所からシエンとアレックスが降りてきた。
 仕度を整えると、アレックスはうやうやしく一礼して。一足先に上に戻って行った。

 いつものように三人でテーブルを囲み、いつものように、おだやかなひと時が過ぎて行く。

(……変だな)

 ディフはわずかな違和感を感じていた。
 いつもと同じ様にほほ笑んでいるけれど、ふとした瞬間に見せる、あの不安そうな顔は何だ?
 伏し目がちに紫の瞳が見つめる先には、無言でお茶を飲むオティアの姿。
 目線すら合わせようとしない。
 よくあることだ。
 それでもちゃんと通じ合っている。知ってはいるが、今日は何だか胸の奥がざわり、と波打った。

 思い切って、シエンが帰るまぎわに声をかけてみた。

「どうした、シエン。浮かない顔だな」
「……そんなことないよ。じゃあ、戻るね」

 笑って手を振って帰って行くシエンにそれ以上何も言えず、ディフも黙って手を振った。

「………何も……ないわけないだろ……」

 見送ってから小さな声でつぶやくがオティアからはノーコメント。
 沈黙のうちに言われた気がした。『あんたには関係ない』『必要以上に関わんな』と。

 小さくため息をつくと、ディフは仕事に戻った。


次へ→【3-9-6】誰が“まま”だ!

【3-9-6】誰が“まま”だ!

2008/04/18 21:38 三話十海
 ドアの前でしばらく迷ってから深呼吸して入る。
 三日の出入り禁止は解けた。堂々と入って行けばいい。

「腹減った。今日の飯、何?」

 いつものように入って行くと、テーブルセッティングをしているオティアと顔を合わせた。焦るな。慌てるな。こいつがいつもやってることじゃないか。
 予測できた事態、それなのに何でこんなにうろたえるんだろう。


(何て言おう)
(何て言えばいいんだ)
(言っても、また無視されるんじゃないか? 事務所の時みたいに)

 さんざん迷ってから、結局出たのは平凡きわまりない挨拶の言葉だった。

「……よお」


 オティアは顔をあげて、こっちを見て、ちょっと眉をしかめて。横を向いて小さくため息をついた。


「くだんない報復はやめろよな」

 どうやら、昼間の壁紙のすり替えのことを言っているらしい。

「…ちょいと殺風景なデスクトップを模様替えしてやっただけだ」


 それ以上はちらともこっちを見ないで黙々と作業を続ける。
 いいさ。
 こっちを見てくれた。話をしてくれた。それだけで、嬉しい。
 天使のハープが聞こえた気分だ……。

 キッチンからシエンがこっちを見ている。手をふって近づいた。

「……飯の心配してくれてありがとな」
「……ん」


 ※  ※  ※  ※


 キッチンの奥をのぞきこむと、ディフがいそいそと料理を盛りつけていた。
 エプロンつけて髪の毛をきゅっと一つにくくって、腕まくりして。左手首の頑丈な腕時計がすさまじく浮いて見える。

「お、いいにおい。ミートパイ? それともミートローフ?」
「……ミートローフだよ。何にやついてんだ」
「別に? 俺はいつもこーゆー顔ですよ?」
「そうだな」

 あっさり納得しやがった。それはそれでむかっとしたが、些細な事だ。
 テーブルに並べられた皿は四人分。だが料理はきっちり五人分。ってことはレオンは今日は帰りが遅いんだな。

「できたぞ。冷めないうちに、食え」

 四人で食卓を囲んだ。
 この四人って人数が……微妙だ。オティアは俺の方をろくに見ようともしないし。もちろん話しかけようともしない。
 いつも飯食ってる時はもの静かな奴だが、今日は格別。
 奴の周囲に目に見えない透明な壁が張り巡らされている。
 俺にだけ有効な、とんでもなく堅い壁が。

 ディフも気にしているのだろうが、あえて話を振ってきたりはしない。
 会話が成立しないまま、四人そろって黙々と皿の上のものを片付ける。

 不意にシエンが明るい声で言った。

「ぱぱ、遅いねー」

 ナチュラルにディフが答える。

「ああ遅いな」

 2秒ほど沈黙。
 目をぱちくりさせてから、素っ頓狂な声を出した。

「待て。レオンがぱぱなら、ままは誰だ?」

 一斉に視線が集中する。紫の瞳が2ペア。俺の目が1ペア。

「…………俺……か?」


 シエンがうなずいた。


「冗談だろ? こんなゴツいままがどこの世界に居るってんだ!」
「あー日本あたりにいるかもね、SHINGOママとか」
「どう見てもレオンの嫁」
「誰が嫁だ、誰がーっ」

 歯を剥いて怒鳴ってからディフは、ふと思い出したように言った。

「あ。お前それ昼間も言ったよな」

 しかしオティアさらりとスルー。シエンと顔を見合わせている。

「いつも仲良いよね」
「夫婦だし」

「誰が夫婦かっ」

 ちょこんと首をかしげて言ってやった。

「………自覚なかったんだ?」
「貴様ーーーーっ」
「そんなに怒らなくても……えっと…ごめんね?」
「謝ることないだろ事実なんだから」


「あ……いや……別に怒ってる訳じゃないから」
「よかったなあ、まま」
「貴様に言われたくはない!」

 そう、実際、ディフの奴は怒ると言うより明らかに恥ずかしがっていた。
 耳まで赤くして。左の首筋にくっきりと『薔薇の花びら』を浮び上がらせて。

(あーあ。ここにレオン本人が帰って来たらこいつ、どーなっちゃうんだろうねえ?)

 照れ隠しなんだろうか。ものすごい雑に切り分けたアップルパイをもってきて、だんっと食卓の真ん中に置いた。

「甘み足したい奴ぁシロップかけて食え!」
「いらん」

 がたん、とオティアが席を立った。

「気にしてんのか」
「……甘いのもリンゴ焼いたのも……苦手だ。」

 オティアは自分の分の皿を片付け、部屋に戻って行った。

 ディフが黙ってうつむく。事務所じゃ普通に会話してたのにな。何故かあの二人、家に帰ると途端に会話が続かなくなる。

「その……嘘じゃ、ないよ」
「……そうか。じゃ、オティアにはこっちのがいいかな」

 ころんとテーブルの上にちっちゃなリンゴが転がる。手の中にすっぽり収まるくらいのマッキントッシュ。
 アップルパイに使った残りだろうか。酸味の強い小粒のリンゴ。

「ありがと」
「お前は、平気か、これ?」
「うん………あ、でも」
「でも?」
「ちょっとだけ、シナモン、強い……かも」
「あー、それレオンの好みに合わせてあんだわ」
「そうなの?」
「うん。こいつのレシピって基本的にそうなんだよな。俺も同じこと前に指摘したんだけどさ。ぜってー聞かないの」
「そんなこともあったか」
「うわっ、記憶にすら残ってないし!」

 さっくりと俺の抗議を受け流してディフはシエンに向かってうなずいた。わずかに目元を和ませて、おだやかな声で。

「そうか。シナモンきつかったか。次は控えるよ」

「…………ありがと」

 自分の分を食べ終わるとシエンはさくさくとリンゴの皮をむき、部屋に持って行った。

「……それでさ、お前。嫁には過剰反応しても、ままは有りな訳?」
「…………………んー、それが、何って言うか、なあ……]

 エプロンを外して、今は白のシャツ一枚。まくっていた袖をもどしかけてはいるものの、袖口のボタンはまだ留めていない。
 襟元はいつものように上二つ開けている。
 どちらかと言えばワイルドな格好で、ディフは……桃の実の下半分にほんのり入った薄紅色みたいに頬を染めて。少しだけうつむいて、ぽそりと言った。

「むしろ、嬉しかった」

 よほど照れくさかったのか。言ってから、腕を持ち上げて髪の毛をわしわしと豪快にかき回して。
 顔をくしゃくしゃにして笑っている。

 一瞬、袖口からのぞく手首に目が引きつけられた。
 頑丈な腕時計(完全防水だ)を巻いた手。ついさっきまで惜しげもなく晒されていたが今は中途半端に白い袖に隠れている。
 袖口のスリットからのぞく腕の、内側の皮膚が妙に艶かしい……

 馬鹿な。どうかしてるぞ!

「うん……嬉しかったんだ、俺」

 頼む。そこで。そのタイミングで、目を伏せるな。

 思わず喉が鳴りそうになる。かと言ってここで目をそらせるのも不自然だ。余計に気まずい。

 ごついのに。
 大雑把なのに。
 何でそんなに色っぽいんだ、お前。

(絶対おかしい。いくら最近ご無沙汰だからって……今さら、こいつ見てどぎまぎしてどうするよっ?)

 頭を抱えたくなったその時、呼び鈴が鳴った。
 いそいそとディフが玄関に迎えに出る。

 よかった。『ぱぱ』のお帰りだ。
 一人になった隙に、こっそり深呼吸する。

(ああ、いい加減どっかで発散しないと俺、やばいかもしれない)


次へ→【3-9-7】“ぱぱ”の帰宅

【3-9-7】“ぱぱ”の帰宅

2008/04/18 21:41 三話十海
「オティアと話したって?」

 報告を聞くなり、レオンはまばたきして。小さく首をかしげて、言った。

「それはまた簡単に許したものだね」
「昼間は口もきいてくれなかったけど……夜は話せたから」
「もっと長引くと思ったんだがな」
「っ……おもしろがってませんよね、まさか?」
「うーん面白がっていていいならそうしたいところなんだが」


 ああ、こいつってば、まつげはふさふさしてくりっとカールしていて、唇なんかキューピットの弓矢みたいで、まるで陶器の人形みたいで……とにかく、顔だけはきれいなくせに性格悪ぃんだからーっ!


「あの子はわからないな……」
「わからないから、知りたくなる」

 レオンは秘かに思った。

 最悪、ヒウェルが二度と来ないようにするか、双子がこの家を出ていくかの二択になる可能性もあったのにな、と。
 しかしあえて今、そのことを口にしてヒウェルにとどめを刺す必要もないだろう。


「そうだ。二人に見てほしいものがあったんだ」

 ヒウェルが上着のポケットから写真を二枚取り出し、テーブルの上に広げた。

「こっちがね…例の『撮影所』のスタッフの一人が腕に入れてたタトゥー。日付が入ってる。こっちは…シエンの居た工場でパクられたやつ。望遠で撮ったのを拡大したから荒れてるけど……」


 並べた写真をこつこつとひょろ長い指先で叩く。

「どっちも同じだ。蠍の尻尾の蛇」
「同じグループということか」
「おそらく」

 まずレオンが写真を手にとり、自分で見てからディフに渡す。
 代わる代わる二枚の写真を見てから、ディフはテーブルの上に写真を並べ、タトゥーに入れられた日付を指さした。

「こいつは多分入団の日だな……最近出てきた『新しい連中』が好むやり方だ。古くからのマフィアなんかには、こう言う風習はない」
「マフィアは『紳士』だから?」
「ああ。新しいギャングは目に見える形で仲間の繋がりを求める。自分達に組織の後ろ盾があるってことを誇示したがるんだ」
「なるほど、タトゥー見せびらかしてにらみを利かすんだな。『俺にはバックがついているぜ』って」
「ああ。こいつを見れば、組織を知ってる相手はビビるからな。刑務所の中でも羽振りをきかせられるし……」

 少しためらう気配がして、声のトーンが落とされる。

「警官の中には、いろいろと便宜を計る奴もいる」

『いろいろと』の部分はこころもち重く、若干の苦さを含んで響いた。

 ヒウェルは思った。
 なるほど、こいつもまったくの純真無垢って訳でもないのだ。仕事に関しては多少の泥水もくぐっているらしい。
 それでも心の底では人の善き魂を信じてしまう。信じようとする。それがディフの甘さであり、強さでもある。

(百回生まれ変わっても俺には無理だ、絶対に)

「警官時代に逮捕した連中の中にも、こいつを入れてる奴がいた。腕だったり胸だったり背中だったり、場所はばらばらだけどな。モチーフは同じだった」
「ふむ……その古い事件もあたってみよう。何かわかるかもしれない」
「お願いします。俺も手繰ってみる。警察の記録は……頼めるかな」
「ああ」
「多分、二つを束ねるもっと上がいる……」

 二人とも黙ってうなずく。同じことを予測したのだろう。たった二枚の写真から。

「……ってモルダーとスカリーがまだお気づきでないようなら示唆しといていただけます? 俺どーにもあの人苦手でっ」
「ああ……」

 双子の事件以来、レオンはFBIに協力していて担当捜査官とも密に連絡をとっている。
 男女の二人組で俺は秘かに「モルダーとスカリー」とお呼びしている。
 『モルダー』ことバートン捜査官ははもともと法律畑の人間だったらしく、レオンと気が合うようだ。
 そこそこいい男だし、適度に話の通じる付き合いやすい奴なのだが、『スカリー』は……。

 小柄な体に穏やかな声。くりっとした瞳でむしろ可愛いとさえ言える風貌なのだが、中味が鋼鉄。
 あのグレイの瞳で見据えられて『H!』なんて呼びつけられたら最後、逆らえない。逃げ出せない。はっと気がつくと顎で使われてたりする。

(俺は彼女の部下でも何でもないっつーのに!)

「君が苦手なのは彼女のほうだけだろう」
「そーなんすけどね。何故かコンタクトとろうとすると必ず彼女とかち合わせる」

 ふとレオンが笑った。
 形の良い唇の端をわずかに上げ、かっ色の瞳の奥に小悪魔めいた光を閃かせて。
 あの顔は知ってるぞ。
 人の手からかっさらった猫じゃらしをくわえて、たーっと走ってく直前の猫の顔だ。

「それは"運命"って言うのさ」
「そーゆー運命は……願い下げ………」

 げんなりと肩を落した。


 ※  ※  ※  ※


 ヒウェルが帰ってから、二人っきりになったリビングでディフがぽつりと言った。

「シエンに言われたよ。お前がぱぱで、俺がままだとさ」
「ふむ………」

 確かにあの子はディフに懐いているようには見える。しかし、実際はまだそこまで心は許していないはずだ。
 おそらく意図的にやったのだ。では、何故そうしなければならなかったのか?
 原因は、容易に想像がつく。オティアとヒウェルが顔を突き合わせたのだ。食卓にはある種の緊張感と重苦しさが漂っていたにちがいない。

 空気を変えようとしたのだろう。
 だが……シエンの本意がわからない。あの子は巧みに隠してしまう。自分の本当の心の動きを。

 最初にヒウェルがオティアを傷つけた時、あの子は必死に兄弟を守ろうとした。ヒウェルを追い払おうとさえした。
 今回は明らかに、反応が違う。
 なぜだろう?

「レオン?」
「ああ……何でもない。しかし、君が、ママか」

 彼はほんのりと頬を染めて、ほほ笑んだ。嬉しそうに。少しだけ、はにかんで。
 手を伸ばして、なでる。ゆるくウェーブのかかった赤い髪を。

「よせよ、くすぐったい」

 答えずに引き寄せ、抱きしめる。彼がいつもそうしてくれるように、胸の中にすっぽりと包み込んで。
 あったかいな……君は。

「レオン。どうした?」

 けげんそうに見上げてくる瞳。中央の瞳孔は細い炎にも似た緑色のラインに縁取られ、外側に行くにつれて淡い、明るいヘーゼルブラウンに変わってゆく。
 感情が昂るとその炎は全体に広がり、彼の瞳を緑に染めるのだ。

「………今夜は泊まって行くんだろう?」

 うなずく彼の肩を抱いて立ち上がり、そのまま寝室へと誘う。

 真実なんてものはさして重要じゃない。
 君が嬉しいのなら、それでいい。


(アップルパイ/了)


次へ→【3-10】赤いグリフォン

【3-10】赤いグリフォン

2008/04/26 0:44 三話十海
  • 前編、中編、後編の3部構成でお送りします。

記事リスト

【3-10-0】登場人物

2008/04/26 0:45 三話十海
【ヒウェル・メイリール】
 フリーの記者。25歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。
 口先と舌先、指先を駆使して世を渡る、小悪党と言う言葉がぴったりのこずるい男。
 オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
 もはや報われないことがステイタスとして確立した、本編の主な語り手。
 そんな彼を漢字一文字で表すとしたら『狡』

【オティア・セーブル】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
 告白の際に著しく心を傷つけられ、今はひたすら『空気』扱い。
 口数は少なく喋る言葉は鋭い。
 ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。
 そんな彼を漢字一文字で表すなら『独』。

【シエン・セーブル】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
 外見はオティアとほぼ同じ。
 オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
 また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
 ディフになつきつつある。
 オティアとヒウェルの間がこじれたことを心配し、何かと心を砕いていたが……。
 そんな彼を漢字一文字で表すなら『控』

【レオンハルト・ローゼンベルク】
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフとは恋人同士。
 恋人と双子に害為す者に対してはとてもとても心が狭い。
 ヒウェルに対してはとことん容赦無い。
 そんな彼を漢字一文字で表すなら『峻』。

【ディフォレスト・マクラウド】
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。25歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 がっちりした骨格に適度な筋肉のついた頑丈そうな体格。(実際、丈夫)
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢。
 レオンとは恋人同士だが、家族にはまだその事実を告げられずにいる。
 双子に対して母親のような愛情を抱いている。
 漢字で表すなら『直』の一文字につきる。

【アレックス】
 レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
 漢字一文字で表すなら『全』。

【結城朔也】
 通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。
 ディフやヒウェルの同級生だったヨーコ(羊子)の従弟。
 サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
 漢字一文字で表すなら『和』

【結城羊子】
 通称ヨーコ、もしくはメリィさん。サリーの従姉。
 高校時代、サンフランシスコに留学していた。
 ディフやヒウェルとは同級生。現在は日本で高校教師をしている。
 漢字一文字で表すなら『豪』
 

次へ→【前編】

【3-10-1】双子シャッフル

2008/04/26 0:51 三話十海
 12月も半ばを周り、一年中で一番慌ただしい季節が到来した。
 楽しい楽しい休暇の前にクリスマス前進行と言うおそるべき試練がまちかまえている。

 休みたいのなら、印刷所が休みに入る前に書くべきものを書け、倒れてもいいから倒れる前に書き上げろ、原稿を出せ! ……と言う訳だ。
 俺みたいなフリーランスの場合は印刷に入る前に契約先の編集者のチェックを受けなきゃいけない。だから自ずと〆切りも前に繰り上がる。

 自分でも馬鹿みたいだと思うんだ。このデスパレードな状況の中、本来の仕事の合間を縫って例のタトゥーを。サソリの尾を持つ蛇を追いかけているなんて。
 シエンが働かされていた『工場』と、オティアの囚われていた『撮影所』。二つを束ねる組織の影を。

 蛇の息の根を止めるには、頭を潰すに限る。
 しかし、頭には尻尾とちがって脳みそってものもくっついている。奴らもいずれ気づくだろう。誰が自分たちの資金源を潰し、じわじわと追いつめているのか。
 今回の一件で俺は極力表に出るのを避けてきた。自分の存在はちらとも見せず、文字を通じて事実だけを読み手の記憶に叩き込む。
 俺の残す印はただ一つ、記事の末尾に添えた『H』の文字のみ。

 しかしレオンは違う。弁護士として表に立ち、FBIにも協力し、双子の保護者にもなっている。
 ディフに至っては……。倉庫を崩壊させたのは奴だと思われているんじゃなかろうか。何てったって元爆発物処理班だものなあ。
 それ以前に管理棟にスタングレネード投げ込んでるし。
 少なくとも車で突っ込んでぶち破ったシャッターと。蹴り壊した部屋のドア一枚は実際に破壊してる。
 工場でやらかしたことについては……これは本人がやっちゃったことだから隠しようがない。

 とにかく、ケツに火がついて慌てふためいた組織が報復に出るとしたら、ターゲットはおそらくあの二人だ。
 だから気づかれる前に喉元に食らいついてやりたい。
 社会的な正義なんかのためじゃない。
 オティアとシエンと。レオンと、ディフと。
 5人で晩飯の食卓を囲む時、つかの間孤独を忘れる。自分は一人じゃないと安堵する。
 あのあたたかいひと時を守るためなら、俺は、どんなことでもする。

 だけど。
 今、俺がマクラウド探偵事務所の前に居る理由は…………ただ一つ。
 オティアの顔が見たいからだ。

 たとえ空気扱いされようとも。うっとおしがられようとも。

 妙な話だ。高校生の時っからずーっと言いよられたり告られることはあっても、自分からこんな風に夢中になって誰かを追いかけるってことはなかった。
 何だって二十歳すぎて今さら思春期のお子様みたいなマネをしてるのか。

 うだうだしていても始まらない。
 よし。
 行くぞ。


 ※ ※ ※ ※


 呼び鈴を押そうとした瞬間、すっとドアが開いた。向こう側には控えめに、灰色の髪に水色の瞳、グレイのスーツを一分の隙もなくピシっと着こなした男が立っていた。
 アレックスだ。
 ちょうど出ようとした所にはち合わせしたらしい。

「……どうぞ」
「どうも」

 すっと一歩脇に避けて、うやうやしく招き入れられる。
 入れ替わりにアレックスは一礼し、部屋を出て行った。

「……ふぅ」
 
 改めて事務所の中を見渡す。正面のでかいデスクは空っぽ。その隣の少し小さめのスチールの事務机では、金髪の少年が黙々とデスクワークに専念していた。
 カフェオレ色のセーターと重ね着した白のポロシャツがよく似合ってる。
 パソコンの画面を見てかたかたとキーボードに指を走らせ、ちらりとこっちを見て、またパソコンの画面に視線を戻した。

「あー……その……………所長、留守、か?」
「今出てった」
「そっか……戻り、いつ頃?」
「聞いてない」
「そうか…………………………………」

 天井を見て。
 壁を見て。
 本棚を見る。
 別にディフじゃなきゃ困るって用事でもない。犯罪記録の資料を借りに来ただけだ。
 元警察官だけあって奴の方が断然、データ量が豊富だし、市警察に知り合いも多い。フリーの記者には口をつぐむ事も、前の同僚には話せるってことだ。

 それでも、あえて言ってみる。
 なけなしの勇気をふりしぼり、精一杯さりげない風を装いながら。

「し、しばらく待たせてもらってもいいか?」

 いきなり、ぷっとオティアがふき出した。

「え? あ? その笑い方………………」

 じーっと顔を見る。ちょっと遠慮しながらも、楽しそうに笑ってる。
 俺の知ってる限りオティアは一度だってこんな顔を見せたことはなかった。

「あーっ、お前、シエンかっ!」
「ごめん、やっぱりわかんないよね」
「っかー、やられたっ! 最初にその表情(かお)見てりゃ一発だったよっ」

 まだ笑ってるよ……くそ。ちょっぴり悔しいぞ。

「お前がこっちにいるってことは、オティアは今、上に行ってる訳か」
「うん。オティアじゃなくて、ごめんね」
「あやまるな。俺が勝手にまちがえただけなんだから。それで、何で、お前ら入れ替わったりしたんだ?」
「ん、たまには気分転換しようと思って」


 ※ ※ ※ ※


 前の日の夜。シエンはオティアに提案してみたのだ。

「たまには違う仕事してみる?」
「………………」

 オティアは思った。
 確かにレオンの事務所に行けば奴と顔を合わせずにすむ。だが、何だか逃げてるような気がして、わずかにしゃくに障る。
 けれどシエンが珍しく自分からこうしようと言い出したのだ。断ることなんか、できるはずがなかった。

 結局、若干のもやもやするものを抱えながら、うなずいた。

 そして、朝食の席で。

「仕事を入れ替わってみたい?」
「うん」
「つまり君が探偵事務所に行って、オティアが俺の所に来る、と」
「そう、今日だけ」

 レオンとディフは顔を見合わせた。

「電話番だけでしょ? だったら俺でも大丈夫だよ」
「客が来たらどうするんだ、シエン」
「その時は……」

 ぼそりとオティアが言う。

「電話しろ。俺が降りてく」
「ん」

「まあ……そう言うことなら……」
「俺の方はとくに反対する理由はないね」


 ※ ※ ※ ※


「くっそー。お前たちの見分け、完ぺきにつくようになったって信じてたんだけどなあ」


 すうっとシエンの顔から表情が消えた。

「『ディフなら当分戻ってこない。用があるなら出直すんだな』……こんな感じ?」

 声も心無しか低くなってる。怖いくらいにオティアにそっくりだ。

「うわ、さすが一卵性。……けど……やっぱ違う…ね」
「注意してればね」
「オティアは俺に話しかける時、微妙に視線そらすからな」
「ちらっと見てからこう……『いつまで居る気だ、ボケ』」
「そう、そんな感じ! 待たせてくれって言うヒマもねぇ」
「昔はよく入れ替わって遊んだよ」
「服、とりかえて?」
「服かえなくても、気づかれなかった」
「ああ、双子って、ちっちゃい頃だと余計に見分けつかないからな…」

 オティアがシエンの身代わりになったとき。あの施設の連中は誰一人気づかなかった。
 姿形がそっくりだったと言うのもあるんだろうけれど。
 そもそも、奴らにとって子どもなんて『もの』は八百屋の店先のジャガイモよりも見分けのつかない代物だったのだ。
 頭数さえそろっていれば、自分の義務は果たしたことになる。その程度の存在でしかなかったんだ。

「……お茶でもいれようか」
「あーうん、ごちそうになろっかな」

 応接セットのソファに腰かけて待っていると、カップに入った紅茶が出てきた。そえられたマフィンはこれ、手作りか?
 アレックスだな、多分。
 ブルーベリーか、プレーンか、バナナか。どれにするか迷って、ブルーベリーのを一つ取る。
 うん、やっぱりアレックスのお手製だ。


「うまい」
「よかった」
「……ここの事務所でこんな待遇を受ける日が来るなんてっ」

 マフィンをほおばったまま、目を閉じて。しみじみと紅茶を口にふくんだ。
 行儀悪ぃとわかっちゃいるんだが、この紅茶にひたひたになったのが好きなんだよな。
 ほろほろと舌先でつついて崩したマフィンとブルーベリーを心行くまで味わい、飲み込んだ。


「ディフだけの時はやれ煙草を吸うな、勝手にコーヒー飲んでんじゃねえと散々小言食らってさ…」
「お客様じゃないから……」
「おかげでここに来る時は禁煙する習慣がついたよ」


「ところでディフに用事って何? 急ぎ?」
「あー追っかけてるヤマと類似のケースがあるかどうか…俺のデータベースじゃ足りないんだよ」
「そっか……どんな内容か聞いてもいい?」

 少し考えて。できるだけシエンの記憶を波立たせないように、外側だけを伝える。
 事件の起きた月日と、地区と。
 内容や、例のタトゥーについては伏せたまま。
 するとシエンは、資料のファイルを収めた棚にとことこと歩いて行き

「確か……このへんに」

 迷わず、すっと一冊抜き出した。

「はい、これ」

 半信半疑のままファイルを開くと、ほどなく目的の事件のページを見つける。新聞には絶対載っていない、細かな事まで記された……元の同僚から伝え聞いたり。あるいは自分の記憶していた情報を細部まできっちり記入した、ディフが独自に作成した犯罪の記録。


「よく把握してるなあ。いつもはレオンの手伝いやってるんだろ?」
「たまに、レオンに頼まれて探しに来るんだ」
「ああディフはしょっちゅうレオンの調査員やってるからな…」

 話す傍ら、目を通して行く。
 ……あった。この二件だな。


「これとこれ、コピーとらせてもらっていいかな」
「いいんじゃないかな。いつも俺してるし」
「サンキュ!」
「あとでディフには言っとく」
「助かるよ」

 シエンはうれしそうに、にこっと笑った。小さな花がほころぶような笑顔で。


「……その顔見れば一発でわかったんだけどなぁ…」

 つられてこっちも笑顔になる。ポケットを探り、m&mのチョコレート、小袋一つ取り出してシエンに渡した。

「これ、感謝のシルシな。それじゃ、また飯時に」
「……ありがと」



 ※ ※ ※ ※


(行っちゃった)

 ヒウェルを見送った後、シエンは小さくため息をついた。



 それから2時間ほどして、ディフが戻ってきた。何となく朝出て行ったときより、ヨレヨレしている。
 髪の毛もぐしゃぐしゃで、上着にも、シャツにも、ズボンにも、びっしり動物の毛がついていた。

(猫……ううん、堅そうだから、犬かな?)

「おかえり」
「ただいま……アレ持ってきてくれるかな」
「はい」

 粘着テープを巻いたハンド式のローラー、通称コロコロをさし出す。ディフは腕や胸、肩に転がして犬の抜け毛をとりのぞいてゆく。

「犬探し?」
「ああ。脱走の常習犯だ、あのジャックめが」

 ふう、とため息をついた。すごく疲れてるらしい。いったいどんな大きな犬を追いかけていたんだろう?

「これ食べる?」
「お、サンキュ」

 赤やオレンジ、黄色に緑。お皿に盛った色とりどりのチョコレートの粒をさし出すと、ディフは一粒とって、ぽりっとやってからぽつりと言った。

「……ヒウェル来てたのか」
「資料探してるって言ったから……適当に探してコピーしといた」

「そうか……ご苦労さん」
「……うん」

 少しだけ、目を伏せる。
 自分だけを見て、自分だけに話しかけてくれたヒウェルの目を。表情を。声を思い出して。

「シエン?」

 いけない。心配させちゃう。ぱっと顔をあげて、明るい声を出した。

「ディフ、お昼ご飯食べた?」
「いや。食う暇なかった」
「食べるかどうかわかんなかったからさっきサンドイッチつくっておいたよ。はい!」

 お皿に載せてラップしておいたサンドイッチを切り分けようとすると、ディフがゆるく首を振った。

「ああ、そのままでいい」
「そう? じゃあ、これ」
「サンキュ」

 耳を落していない食パン二枚ではさんだサンドイッチを無造作に手でとって、がぶっと一口。もしゃもしゃと噛んでごくっと飲み込んだ。
 相変わらずダイナミックな食べ方するなあ。

「ん……美味い。作る度にどんどんお前、料理上手くなってくよな」
「こういうの好きなんだ。それに、自分の好きなものつくっても怒られないし」
「そうか。今度、時間できたらまた料理教えてやろうか?」
「うん」
「味付けは自分の好きなように変えていいぞ」
「……うん」


 どうしてこの人はこんなに優しいんだろう。何の関係もないのに。

 初めて会った時は怖い人が来たと思った。
 オティアとヒウェルを助けに倉庫に突入した時のディフも、すごく怖かった。

 だけど今は……。

 穏やかな目。穏やかな声。いつもオティアと自分を見守っている。朝と夜と、毎日食事を作ってくれるし、着るものも用意してくれる。
 確かにディフは優しい。
 だけど、その優しさには法律上の義務とか、血のつながりとか、職業上の役目とか。何ひとつ確かな土台がない。
 ただ、彼の気まぐれな感情に根ざしているだけ。とても不安定で、いつ消えてもおかしくない。

 だから不安になる。

 レオンやヒウェルの方が、よっぽど理解できるし……信用してもいいかなって言う気持ちが強いのだ。

 もしゃもしゃとサンドイッチを頬張るディフの横でお茶をいれて、自分でもチョコレートを一粒、つまんで口に入れてみた。
 甘いけど、これくらいの大きさなら平気かな。

「ヒウェルのやつ、下手すると一食、それですませるんだ。あとアレだな、スニッカーズとか」
「……そっか……」
「飯らしいものを食えって言ったらテイクアウトの中華ばっかりで…見かねていっぺん、飯食わせてやったらそれ以来」

 肩をすくめた。


「………ヒウェル、どんな食べ物好きなのかな。ピーマンは苦手なんだよね?」
「ああ」
「でも、ディフが入院してたとき、俺の作ったチンジャオロースー、残さず食べてくれた」
「そうだったな。気に入ったんだろ。多分、同じ作り方で俺が作っても食わないだろうよ」
「そう……かな」
「そうだよ」
「あのときは……まだ、オティアがつくったんだと思ったんじゃないのかな」

 ディフは拳を握って口の所に当てて、ちょっと考えてから、静かな声で言った。

「二人で作ったと思ってる」
「もう……ピーマン使わないようにしたほうがいいのかな……」
「いや、いい機会だから克服させよう!」
「うーん……」

 いいのかな。
 だからって嫌いな食べ物ばかり使ったら、きっとヒウェル、困るよ。最初はピーマン買って来るのもいやがってたくらいなんだから、よっぽど苦手なんだ。

「美味いって、あまり口に出して言わないだろ、ヒウェルのやつ。残さず食ったってことは美味かったってことなんだよ」
「……じゃあ……こんど、つくってみる」
「そうしてやってくれ。サンドイッチ美味かったよ、ごちそうさん」
「ん」



次へ→【3-10-2】色柄物は混ぜちゃいけない

【3-10-2】色柄物は混ぜちゃいけない

2008/04/26 0:53 三話十海
 その日は珍しく二人ともオフだった。
 ヒウェルは……まあ、彼は年中オンでありオフであるようなものだ。
 天気が良かったから、一気に家中のシーツとカバーを洗おうとディフが言い出した。ところが、いざ洗おうとすると、ちょっと困ったことが起こった。
 洗濯機に全部入り切らなかったのだ。
 干す場所も、到底家のスペースだけでは足りそうにない。乾燥機を使えば、と言ったがディフはガンとして聞かなかった。

「太陽の光に当てるから意味があるんだよ。においも手触りもいいし……第一、時間がかかりすぎるだろ」

 もっともだ。

「よし、俺の部屋の洗濯機も使おう」
「手伝うよ」
「ありがとう。助かる!」

 そして、二人で洗濯物を抱えて隣の部屋へとやってきた。

「あ、その赤いランチョンマットは脇によけといてくれ。シーツがピンク色に染まる」
「……わかった」

 そうだったのか。初めて知った。

 ディフの指示に従って、抱えてきたものを洗濯機に放り込む。
 色の濃いものはよけて、脇に積む。
 入れ終わると、彼はきっちり洗剤を計って、柔軟剤をセットしていた。慣れた手つきだ。

「助かったよ。ありがとな。居間で休んでてくれ。俺もすぐ行くから」
「ああ」

 居間に戻った所で、電話が鳴った。発信者表示は「テキサス:マクラウド」。なにげなく受話器をとると、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。


「ハロー、ディー?」

 やはりそうか。Mrs.マクラウド、ディフの母親だ。

「ハロー、あなたの息子ではありませんが」
「……あら、レオン? 元気?」
「はい。今丁度、ディフは洗濯してますよ」
「そう! 育ち盛りの男の子が二人だから…洗濯もたいへんでしょう」
「ええ。二人ともどちらかというと大人しい子なんですけどね」
「まあ、そうなの? 少しは私の苦労も味わってくれるとよかったのに」

 くすくす笑っている。少年時代の彼を思えば納得も行く。
 洗濯も繕いものも、叱られる前に自分でどうにかしようとして覚えたと言っていた。

「そちらはおかわりなく?」
「ええ、こっちは皆元気よ………………」

 ひとしきり挨拶をさえずってからMrs.マクラウドはぽつりと言った。少しだけ声のトーンを落して。

「あの、それでね、レオン」
「はい」
「あの子……大丈夫かしら?」
「それは、どういう意味で?」
「この間、聞いたのよ。あなたがオティアとシエンを引き取ったから自分も世話しに通ってるって…とても嬉しそう。でもはしゃぎ過ぎてて気になって。言いたくても言えない時、はしゃぐのよね、ディー」
「ああ。そうですね」
「ま、親に言えない事は友だちに言う子だし。それとなく気をつけてやってくれる? 世話押し付けちゃって申し訳ないんだけど、あの子あなたの言うことは素直に聞くから」
「はい。もちろん」

 少しだけ考えてから、口にする。心の中に浮かんだ理由の中で一番、無難な答えを。

「……今は……子供たちとの接し方で悩んでいるんだと思います。はじめてのことですから」
「そうね……末っ子だから……」

 電話の向こうで小さく笑う気配がした。

「ふふっ、なんだか高校の夏休み思い出したわ。いきなり言われたのよ。『母さん、ミートパイの作り方教えてくれる?』って」
「今でも作ってくれますよ、ミートパイ」
「ほんとに? すっかりマメになっちゃって」

 今度はころころと声をたてて笑い出した。声の高さはまるで違うのに、笑い方がディフにそっくりだ。
 同じメーカーのシャツみたいだな。
 型も色も材質も同じでサイズだけ違う。ディフがメンズのLサイズなら、彼女はレディスのSサイズって所だろうか。

「料理のレパートリーも増えてますね、子供に食べさせているから。すっかり一家の主婦ですよ」
「そう………んー、なんだかあまりびっくりする気がしないのが不思議ね。あの子けっこう世話好きさんだから……タフガイぶってるけどね」
「いや、実際、彼は丈夫(タフ)ですよ。それに、俺は料理はさっぱりだから、助かってます」
「助かってるのは……ディーの方かもしれないわよ? ありがとうね、レオン、あなたと話せてなんだか安心しちゃった。あの子によろしく伝えておいて」

 そして電話が切れる。結局、息子と話さないで終わってしまった。
 よかったのかな。
 彼女と話すといつもこうなる。

「あれ、電話だったのか」

 ディフが戻ってきた。
 まくりあげたシャツの袖口が少し濡れている。

「洗濯してたはずじゃなかったのかい?」
「あー、うん、ちょっと洗面台にホコリたまってたからな。ついでに掃除してた。それで、電話、誰から?」
「Mrs.マクラウドから」
「……………………お袋から?」
「この間の電話で、君が妙にはしゃいでたから気になったそうだよ」
「………う……………」

 軽く手を握って口のとこに当ててる。考え込む時のお決まりの仕草だ。

「まだ言ってなかったのかい。俺達のことは」

 静かに問いかける。Mrs.マクラウドには言えなかった、第一候補の答えを。

「……ああ」
「無理することはないさ。驚かれるだろうしね」
「優しいな。小言の一つ二つくれてもおかしかない真似してるのに」
「……俺は最初から女性を愛せないとわかっていたけど……君はそうじゃないだろ?」

 眉を寄せ、ぐっと堅く拳を握って左の胸に押し当てると彼は掠れた低い声で。しかし、きっぱりと言い切った。

「俺は…俺が愛してるのは……お前だ、レオン」
「ああ。わかってる。君の家族が、サンフランシスコに住んでいるんだったら、別に悩むこともないんだけどね」

 ディフは顔をくしゃっと歪ませてから両腕を広げ、俺を抱きしめた。いつものように、胸の中にすっぽりと包み込むようにして。

 子どもみたいに泣きそうな顔をして、母親みたいに抱きしめてくれる。(俺にはこんな風に温かく、母の腕に抱かれた記憶はないけれど)
 不思議な人だ。
 可愛い人だ。

「ちゃんと…伝える。お前とのこと。家族にも隠さずに。ただ、もう少しだけ……時間が欲しいんだ」
「焦らなくてもいいんだ。……むしろ君のご家族には申し訳ないけれど、ね」
「そんなこと言うな! 俺は、お前を愛したことも、恋人同士になったことも後悔してない」


 真っすぐな言葉に微笑んで答える。

「嬉しいよ」


 頬にキスされた。


「お前だけだ、レオン」
「誰の許可がいるわけでもないけれど……それでも家族から反対されるのはつらいからね……君みたいな人は特に」
「言うな。泣きそうになる。なんでお前、そう……優しいんだ」
「うん、本当のことを言うと」
「ん……?」
「俺も言ってない、まだ、直接には。だから同罪かな」

 抱きしめる腕に力がこもり、くしゃくしゃと髪の毛をなで回された。

「ばか言うな。俺が許す」
「俺なんかより。君のほうがずっと優しい。君が言い出せないでいるのは…家族のことを思っているからだ」
「親父が怖いだけ、かもしれないぞ?」
「それなら、そもそも言おうとして悩んだりしないよ」
「参った。かなわん」

 彼は肩をすくめてから口をへの字に曲げて。眉をひそめてにらんで来た。
 だまされないよ。頬のあたりがほんのり赤いし……首筋の火傷の跡も、淡く浮かびあがっているじゃないか。

「それ以上恥ずかしいこと言ったら……その口、ふさいじまうぞ?」
「遠慮はいらないよ」
「……そうかよ」


 ぐいっと引き寄せられ、キスされた。
 強引な動きとは裏腹に、羽毛でくすぐるような優しい口づけ。
 肩に手をかけ、応えた。


次へ→【3-10-3】シエン、魔窟に挑む

【3-10-3】シエン、魔窟に挑む

2008/04/26 0:58 三話十海
 一通り洗濯を負えてからレオンの部屋に戻り、洗いあがったシーツと枕カバー、その他もろもろを片っ端から干しまくっていると……携帯が鳴った。
 ヒウェルからだ。
 相変わらず別世界から響いてくるみたいな声で『資料を貸してくれ〜〜〜』と囁いてきた。
 あいつ、相当へばってるな。ここんとこロクに飯も食べに来ないでひたすら部屋にこもって仕事をしている。

 確か、今やってるのはどこぞの有名な作家のゴーストライターだったか? とにかく〆切りがどうしても動かせない大口の仕事だとか。
 作家先生がやたらとダメ出ししやがるんで時間がかかるとか、さんざん愚痴っていやがったが、だからって甘やかすつもりは毛頭ない。

「取りにこい。何、手が離せない? 俺もだ!」

 隣で洗濯物を干していたシエンが手を止めて、ちょこんと首をかしげてこっちを見上げてきた。

「俺が届けようか?」
「すまん。頼めるかな」

 こう言う用事は、オティアに頼む訳には、いかない。
 一旦自分の部屋に戻ると、書庫から必要な資料を抜き出し、シエンに手渡した。


 ※ ※ ※ ※


 ディフから渡された資料を抱えてエレベーターに乗り、下に降りる。
 ヒウェルの部屋まで来てから、エプロンをつけたままだったことに気づいた。

 いいよね、すぐ戻るんだから。

 細かいストライプのエプロン、色は白地に明るい緑。オティアのは青、ディフの深緑のストライプで三人おそろい。だけど滅多にオティアは使わない。
 呼び鈴を押すと、ドアの向こうでガサゴソと何かの動く気配がして扉が開き、ぬーっとヒウェルが顔を出した。
 髪の毛はぼさぼさで服はよれよれ、目の下にはうっすら隈が浮いている。

「……よぉ、シエン」
「あ……えっと……」
「…入れよ、立ち話もアレだし」
「……うん」


 部屋の中はGの発生する至る所に書類ファイルや雑誌、ハードカバー、ペーパーバック、その他ありとあらゆる種類の書籍とCD-ROMが積み重なっている。
 その他にもチョコの空き袋とか缶ビールの空き缶が散乱し、灰皿には吸い殻が山盛り。ソファの背には何やら白っぽい、幽霊の抜け殻みたいなものが折り重なっている。ぎょっとしたけれど、よく見てみら脱ぎ捨てたシャツだった。

 どこからかチリビーンズの腐ったようなにおいが漂って来る。
 キッチンだ。
 コーヒーメーカーの中では粘つくどす黒い液体が煮え立ち、シンクには汚れた食器が山積みになってる。
 こんなにいいお天気の日なのに、カーテンをしめきった部屋の奥ではパソコンのモニターだけがこうこうと光っていた。

「これ……」

 ファイルさし出すと、受けとった。

「ん……わざわざすまんね。コーヒーでも飲んでくか?」
「あ……うん」

 ヒウェルはコーヒーメーカーの中でどろどろに煮詰まっていたのを捨てて、コーヒーを入れ直してくれた。

「あ……あのさ」
「ん?」
「その……」
「あ、ミルク入れるか?」
「え、うん。ちょっと」

 冷蔵庫から紙パックを出して、ちょっと中味を見て、顔をしかめている。

「……粉末のでいいかな……」
「……このままでいい」
「そっか……」
「そ、それでさ」

 薄暗い部屋の中を見回す。空気がよどんでる。いつから掃除してないのかな。
 って言うかヒウェル、ちゃんとご飯食べてるんだろうか?

「うん?」
「最近、忙しそうだけど……」
「ああ…こないだの事件な。真相追いかけるのに夢中になってたら…肝心の原稿書く時間が削れて……」
「部屋に誰かいたりすると……集中できない……かな?」
「いや。一度書き始めるとそっちに入れ込むタチだから」

 もしゃっと髪の毛をかきあげると、かすかに笑った。

「耳元で大砲ぶっぱなされても気づかないだろって、よくディフに言われてる」
「俺……ここに……居てもいい?」
「……いいけど……その……」

 部屋の中を見回すと、小さな声で言った。

「ちょっとちらかってるけど、それでもかまわないなら」
「うん掃除するから」
「………………………………」

 もわっとヒウェルの顔が赤くなる。
 なんだか、ちょっと、可愛い、かもしれない。

「ありがとう」



 そして、ゾンビ状態になって原稿と格闘するヒウェルの後ろを、パステルグリーンのストライプのエプロンがちょこまか動き出す。

 本は本棚に。雑誌は積み上げて。
 捨ててよさそうなものは全部まとめてゴミにして。
 積み上げられた本を片付けると、下からころころと丸まった靴下が転がり出した。ソファの背に積み重なったシャツともども洗濯機へ。
 
 窓の周囲にたい積していた物を避けてカーテンを開け、窓を開けて空気を入れ替えた。

 積み重なったあれやこれやを片付けていると、次第に壁が現れた。フレームに入った写真が何枚も飾られている。
 赤、青、黄色……虹のように色鮮やかな旗のひらめく、パレードの写真。ちらっと見たけれど歩いてるのはみんな男の人。ものすごく派手な衣装を着てる。……赤やピンクの羽飾りを着けたり、ふかふかの毛皮みたいなものを巻いた人もいる。

 海にかかる大きな赤い橋。画面一面を覆い尽くす、白に近い薄いピンクの花。赤と黄色の漢字の看板の並んだ、赤い色の多い町。坂を登るケーブルカー。
 港に浮かぶヨット、その隣のカモメ。
 たぶんサンフランシスコの写真だ。本や看板、広告のチラシで見たことがあるけれど、どの写真とも少し違う。あれが遠くから見た『綺麗な写真』なら、これはもう一歩近づいて、その場所にいる人の目を通した風景だ。
 その場所の空気やにおい、海水の湿り気までを一枚の画像の中に封じこめようとしてる。

 これ、もしかしてヒウェルが写したのかな。

(サンフランシスコの街は、ヒウェルにはこんな風に見えてるんだ……)

 本棚を整理していたら、写真立てに入った写真を発掘した。
 自分と同じくらいの年頃の男の子が三人、並んで写っている。
 
091025_2247~01.JPG091025_2246~01.JPG091026_0019~01.JPG
illustrated by Kasuri

 明るい茶色の髪の毛にかっ色の瞳の子。きちんとした服を着て、ネクタイをしめて。まつ毛はふさふさ、整った顔立ちはまるで陶器の人形みたいで……すごくきれいだ。
 その隣の赤毛の子はもっとがっちりした体つきで、顔にはうっすらそばかすが散っている。
 少しだけ離れてもう一人、黒髪の眼鏡をかけた男の子。
 くりくりした琥珀色の瞳は、リスみたい。すんなりした体つきで女の子みたいに可愛い。ちょっとだけ着せ替え人形を思い出した。
 
 始めて見るのに、何となくよく知ってるような気がする。
 もう一度、じーっと見る。しみじみ見る。

「あ」

 この眼鏡の男の子……ヒウェルだ!
 それじゃあ、あとの二人は、レオンとディフ?

(あの三人、この頃から一緒だったんだ)

 さっと表面をふいて、よく見える場所に飾り直した。下の棚からもう一枚、同じような写真立てを発見する。
 こっちはすぐにわかった。
 ディフだ。
 今より髪の毛が短いし、笑っていてもどこか目つきに鋭さがある。
 でも、確かにディフだ。

acoty2.jpg

 めずらしくきちんと衿のあるシャツを着て、ネクタイをしめて、黒い上着を着ている。でも、下は……これ……

(スカート?)

 女子学生がはくような、赤いチェックのスカート。白いハイソックスに黒い革靴、足首には細い革ひもをきゅっと巻いている。
 肩に巻いたストールはスカートと同じ赤いタータンチェック。

 同じような服装をした年上の男の人と話している。とても楽しそうだ。
 ディフのお父さんかな。
 何となくそんな感じがした。


 ※ ※ ※ ※


 やがておぞましき魔窟に光が差し込み始めた。

「……あれ?」

 一区切りまで書き終えたヒウェルは大きくのびをして……始めて周囲の明るさに気づき、目を丸くした。

「わ…なんか久しぶりに洗濯機の動く音聞いた」
「……その服……もしかして何日か着てる?」

 シエンに言われて、ヒウェルはくんくんとにおいをかいでみた。

「……まだ大丈夫だよ冬だからそんなに汗かかないし」

 ぱたぱたとシエンは奥に走って行き、新しいシャツとズボンを抱えて持ってきた。
 クローゼットなんか開けるまでもなかった。
 クリーニング屋から持ち帰ったのが、そのまま放り出してあったのだ。

「着替えて」
「今?」

 バスルームの方で声がする。

「これ終わったらもっかい洗濯機まわすからー」
「……はーい」

 素直に脱いで着替えた。
 しばらくするとシエンは戻って来て、脱いだ服を回収していった。

「もらってくねー」
「お手数かけます」

 見送ってから、はたと我に返った。

「……俺、何、他人にこんなに自分の持ち物触らせてんだ?」
「えー?」
「いや、何でもない!」
「はーい」

 何っつーはずんだ声。すごく楽しそうじゃないか。

「ってか……何でシエン、俺の部屋の掃除してんるんだ?」

 軽くパニックに陥る。

 えーっと、確か仕事中にシエンが資料届けてくれて、コーヒー飲んでくか、つったら何故かここに居ていいかとか言い出して。
 うんと言ったら掃除したいって………。

(あ。俺が言ったのか)



 ※ ※ ※ ※


 ひと仕事終えてからディフは時計を見た。
 あれから1時間近く経っているのにシエンがまだ戻ってこない。
 まさか同じマンションの下のフロアに行く途中で迷子になったとも思えないが……。

 レオンの部屋を出て、エレベーターに向かいながらふと思う。

(俺もしかして、過保護かな)

 ほのかに苦笑いを浮かべながらヒウェルの部屋に行き、呼び鈴を鳴らす。ドアが開くと同時に切り出した。

「おい……シエン、来たろう?」
「あ、ディフ」

 途中で言葉が止まる。ドアを開けたのがシエン本人だったのだ。

「何やってんだ」
「掃除」

 言われて、改めて見回すと……部屋をまちがえたかと思うほど見事な変わりようで。しかも、カーテンが開けられ、日光がさしている!

「これ、全部お前が?」
「うん」
「部屋の物勝手にいじるなとか、放っておけとか…言われなかったか?」
「別に。ヒウェル仕事してるから声かけても気づかないし」
「ああ、耳元で大砲ぶっ放しても気づかない…けどな…」
「……あごめんおつかいの途中だった。」
「あ、いや、いいんだ、そうじゃなくて」
「?」

 ちょこん、とシエンが首かしげる。小鳥みたいに。

「あいつ自分の部屋、人にいじられるの苦手だったはずだから…ちょっと驚いた」
「そう……なの?」

 不安そうにちらっとデスクの方をうかがっている。

「ヒウェルがいいって言うならOKだってことだから、安心しろ。あいつ、そのへんはハッキリしてるから」
「うん……」
「この部屋こんなに広かったんだなあ……」

 ぐるりと見回し、ディフは本棚に飾られた写真立てに気づいた。高校の時の写真だ。
 手に取ってしみじみ見る。
 レオンが卒業する前に、記念に写したものだ。ヒウェルが親父さんからもらったお古の一眼レフで。
 最後にセルフタイマーで三人一緒に撮った一枚だろう。

 何食わぬ顔して写ってるが、ヒウェルがフレームに入ってきたのはけっこうぎりぎりのタイミングだったっけ。

「懐かしいな……」

 戻した時、隣のもう一枚に気づいた。

「うおっ」

 ぎょっとして目をむく。ひと目みた瞬間、ぶわっとアドレナリンがふき出した。

(あいつ、こんなのまで飾ってやがったのかーっ!)

 ふと視線を感じてとなりを見る。シエンが興味津々といった表情でじーっと見入っている。

「……隣にいるの、ディフのお父さん?」

 ほっとして答える。

「いや。これは、警官時代の上司だよ。爆発物処理班のチーフだ。すごく世話になった」
「そっか。それで……どうして二人ともスカートはいてるの?」

 ああ。やっぱりそう来たか。

「いや、これは、スカートじゃないから」
「きゅろっと?」
「違うっ! キルトつってスコットランドの民族衣装なんだ」

 あわてて説明した。

「スコットランド系の人間が集まるスコティッシュナイトっつーイベントがあってだね……そん時、あいつが取材に来てて。しっかり写してやがったんだ」

 ぬうっとヒウェルが後ろから顔を突き出した。楽しそうに、にやにやしている。

「いやーお前さんのミニスカ姿なんざ、滅多に見られるもんじゃないからねえ」
「スコット……ランド……ってどこ?」
「……おいで、シエン」

 手招きするヒウェルの後をシエンはとことこと着いて行く。

「ここに座って」
「うん」

 デスク前の椅子に座り、パソコンをのぞきこむ。レオンの所で使っているのとはちょっと違う。ディフのとも。画面の左上に青いリンゴのマークがあった。右側が、だれかがかじったみたいにちょっと欠けている。

 ヒウェルがかちかちとマウスを動かすと、画面の上に地図が映し出された。

「ここが俺らの今いるアメリカで、こっちが……スコットランドだ。ディフのじーさんのじーさんのそのまたじーさん…あたりはこの国からアメリカにやってきた」
「んっと……イギリス?」
「の、隣ってとこかな」
「半端な説明してんじゃねえ! スコットランドとイングランドは別の国だぞ、サッカーだって国際試合扱いで」
「はいはい……わかったわかった」
「??」

 きょとんとしてシエンは首をかしげた。

「まあ、あれだな。カナダと合衆国みたいなもんだ」
「全然違う!」
「はいはい…」

(あー、もう、こだわるなあ、スコティッシュ……まあ、先祖を敬うためならハギス食ってミニスカも履く男だしな)

「イギリスってのは、四つの国で構成された連合国なんだよ。イングランド、スコットランド、アイルランド、そしてウェールズ」
「最後の一つだけちょっと名前が違うね。ランドがつかない」
「個性的だろ?」

 またマウスをかちかちと動かす。イギリスの二つの大きな島のうち、右側の方のカーブの内側、左下の部分が赤く表示された。

「俺の先祖はここから来たんだ。これが国旗」

 画面の上に上半分が白、下半分が緑色の旗が表れる。旗の中央には、大きく赤い、翼の生えた四つ足の生き物が描かれていた。

「おもしろい動物だね。それとも鳥?」
「グリフォンだよ。動物って言うか……まあ想像上の生き物だな。こいつはウェールズの象徴なんだ」

 ヒウェルはポケットから銀色のオイルライターを取り出した。

「あ」
「ほら、ここに描いてあるのもそうだ」
「そうだったんだ……」
「なあ、ヒウェル。前から言おうと思ってたんだけどそれ……」

 ぼそりとディフが言った。

「グリフォンじゃなくて、ドラゴン」
「………………………………………………マジかっ?」

 ヒウェルは慌ててウェールズのWikiペディアを呼び出し、確認した。

ウェールズはケルト文化の伝統を残している。その一つであるといわれる赤い竜は、ウェールズのシンボルとなり、ウェールズの国旗(イギリスの国旗には含まれていない)にもなっている。スポーツなどでは、その国民性、民族性を示す「ドラゴン=ハート(精神)の国」として知られている。

--出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』--
 赤い竜。
 何度読み返しても赤い竜。
 しかもだめ押しでしっかり「ドラゴン=ハート」とまで書かれている。

「ほんとだ……」
「何を根拠にグリフォンだと信じてたんだ」
「これだよ。この本!」

 本棚から抜き出し、ばさっと放り出された小説のタイトルは「オオブタクサの呪い」。
 表紙では、ふとっちょのグリフォンが上機嫌でパイプをふかしている。
 著者の名前はシャーロット・マクラウド

「あ、ディフと同じ名前」
「ええい、かくなる上は、血筋の者の責任はお前がとれ!」
「何、理不尽なこと口走ってやがる! 記者ならまず裏をとっとけ!」

 大人げない大人二人が喧々囂々やってる間、シエンはじーっとウェールズのHPに見入っていた。

(ここが、ヒウェルの先祖の国なんだ……)


次へ→【3-10-4】写真、とってもいいかな

【3-10-4】写真、とってもいいかな

2008/04/26 1:00 三話十海
 シエンのおかげでだいぶ部屋は人間の住処らしくなったのだが、さすがに一日では終わらなかった。

「また来て……いい? 最後まできちんとやりたいんだ」

 ためらいながら。ありったけの勇気をふりしぼって言われた一言に、来るな、なんて言えるはずがない。
 結局、それからもパステルグリーンのストライプのエプロンはちょこまかと俺の部屋を飛び回り。
 そのたびに、魔窟に戻りかけた部屋が再び人間の住処にリカバーする。

 一番の大仕事を上げて、少し余裕も出てきたし。世話になりっぱなしってのもアレだよな。
 そう思ってある日、声をかけてみた。

「シエン、シエン」
「なあに?」
「…秘蔵の写真見せてやるよ」

 ちょいちょいと手招きしてパソコンの前に呼び寄せる。


「ほら、これ」

 写真管理ソフトを呼び出し、目当ての一枚にカーソルを当ててかちっとクリックする。縦長の小さめの写真が表示された。

「………ディフ?」

 そう、確かにディフだ。
 真っ赤な顔をして、クマのぬいぐるみを抱えてうつぶせになって、ソファで幸せそうな顔をして眠っている。

「そこに手だけレオンが写ってる」
「えっと……寝てるとこにどうやって……?」
「ディフの部屋に集まって、三人で飲んだ時の写真なんだ。夜中にディフが寝ぼけて『俺のクマどこ?』とか言い出してさ…」
「クマ……あ、これ病院に置いてあった、あれ?」
「そう、あれ」


 ※ ※ ※ ※

 こいつを写したのは去年。ジーノ&ローゼンベルク法律事務所の設立祝いをやろうってんで3人で飲んだのだ。
 オフィシャルなのは既にきちんと済ませてあったから、あくまでプライベートに気楽に。

 レオンがとっておきの高い酒を出してきて、飲み始めて……そして誰も止めなかった。
 お互いに。
 実際、あの時はまだ双子が来る前だったから、大人ばっかり三人の気安さもあり、かなり飲んでいた。
 俺もそこそこ酒は飲むが、この二人にはさすがに敵わない。とくにレオンはほとんどザルだ。
 それでも、水割りを作ったり、氷を用意したり、つまみを作ったりしていた分、ほんの少しだけレオンとディフより飲むペースがゆるかった。

 真っ先にディフがソファで寝息をたてはじめたと思ったら、しばらくしてむくっと起きあがった。

『俺のクマどこ?』
『はいはい』

 こっちもルームメイトやってたから今さら驚きゃしないけど、レオンがさっさと寝室からクマもって出てきた時はさすがだと感心してしまった。

『なーんだ、お前、その寝ぼけぐせまだ治ってなかったのかー』

 そこそこ飲んでたから気も大きくなってたんだろう。
 携帯のカメラで思わずカシャっとやっちまったんだな。
 写真を撮られた、と気づくとレオンはゆっくりと首を回して、こっちを見て、一言。

『消せ』

 目がすわっていた。従わなきゃこっちが消されそうな迫力だった。

『わーっかりましたよ。ったく心が狭いなあ、姫は……ほら、消しましたよ』

 素面の俺なら絶対に素直に消していたところだが、何度も言うがこの時は酔って気が大きくなっていて……つい、出来心で消す前にこっそり自分のパソコンにメールした。

 こっちも酔っぱらいならあっちも酔っぱらい。素面の時なら絶対、送信記録をチェックしただろうが、酒に強いはずのレオンもしたたか飲んでいた。
 消せ、と言った時点で既に寝かかっていたらしい。
 そのままディフの隣に添い寝してすーすー寝息を立て始めたもんだから、俺はベッドから毛布をとってきて二人にばさっとかけて。
 そこで力つきて、床で寝た。眼鏡だけはしっかり外して。

 そして翌朝。レオンも俺も(熟睡してたディフは言うに及ばず)きれいさっぱり写真のことなんか忘れていたんだが、自分の部屋に戻ってパソコンのメールをチェックしたら、届いていたんだな。

 ばれたら金門橋の下に沈められそうな、この危険なブツが。


 ※ ※ ※ ※


「そんなことやっちゃったの?」
「そう、やっちゃったの。怖いよー酒の勢いってー」

 貴重な一枚を、シエンは首をかしげてしみじみ見つめてちょこん、と首をかしげた。

「可愛い……のかな?」
「レオンはそう言ってる。俺は笑えるから撮っといた」


 ぱちぱちとまばたきすると、シエンは小さくうなずいて、ほほ笑んだ。

「うん……可愛いかも」

 緑の芝生に花開くデイジー……ちっちゃな白い花が咲いたような笑顔だった。

「…いい顔してる」
「ん?」
「写真、撮って…いいかな」
「うん」
「ちょっと待ってろ」

 取材用のデジカメに手を伸ばしかけて、ちょっと迷って、一眼レフに手を伸ばす。
 親父のお古でもらったカメラだ。手間はかかるが、一番手に馴染んでいる。

 窓のブラインドを調節して光の加減を調整する。
 ソファに座るシエンと向かい合わせで腰かけて、話しかけながらシャッターを切った。

 俺が写真に興味があるらしいと知った親父がこれをくれた。使い方も教えてくれた。
 最初に写したのは二人の里親……親父とお袋だった。少しピンのボケた写真は花模様の陶器の写真立てに納められ、5歳から18歳まで世話になったあの家の居間に大切に飾られている。

 大切なものや、忘れたくない風景は全てこのカメラで写してきた。
 いつか、オティアの写真もこいつで写してみたいと思うんだが……許してもらえるだろうか。

 …………無理だろうな。

 あいつは写真を嫌っている。
 大人の身勝手な欲情を掻き立てるため、何度もレンズの前で陵辱された。その凄まじい経験が傷となり、まだ深く尾を引いている。

 うっかり、オティアの写真をなにげなく携帯のカメラで写してしまったことがある。
 寒気のしそうな目でにらんできて。凄みのある声で、『消せ』と言われた。
 自分の迂闊さを呪いながら、素直に消すしかなかった。


「現像したら、届けようか?」
「ううん。いい。見つかったら、困る」

「そうか……お前の写真も、ダメか」


 寂しそうにうなずく、その顔も写してみる。


「いろんなことが……あったし。いろんな場所に行ったけど……こんな優しくしてもらったこと、はじめてだな」
「まだ……触られるの…怖い、かな」
「……突然じゃなければ……平気、かな」
「そっか……」

 ゆっくりと手を伸ばして髪の毛に触れる。シエンは戸惑ったような表情を浮かべてこっちを見上げてきた。

「その……ほんとはこう言う時…抱きしめたいんだけど…」
「うん……」
「抱きしめて、頭なでて……。俺の基準だと、そうなんだ。でも、押し付けたらシエン。お前を傷つけてしまいそうで、だから」


 そっと髪の毛に触れるか触れないかの手つきでなでる。少しくすんだ金色の髪が、指先をすり抜けて行く。
 この子を傷つけたくない。
 この世に誰一人血のつながった家族を持たない俺だけど、シエンは弟みたいで……大切に守りたいと思った。
 本当の兄弟であるオティアには、到底かなわないけれど。
 
「……ありがと……」

 涙声だ。参ったな、泣かせるつもりはないのに。箱ティッシュを差し出し、わざと明るい声で言った。

「目が赤いよ。兎みたいだ。ほら、これで」


 さし出した箱ティッシュをすり抜けて、抱きついてきた。

「っシエン……?」

 箱が落ちる。
 むき出しの木の床の上に転がり、乾いた音を立てた。

 腕の中に、彼がいる。細い肩が震えている。
 子どもって、こんなに体温高いんだ。こんなに……華奢なんだ。

 ためらってから、そろーっと背中に手を回す。しがみつく腕に力がこもり、ぴったりと体を寄せて。
 胸に顔をうずめてきた。
 黙って髪の毛をなでおろし、そのまま背中をなでる。手のひらを通じてシエンの鼓動が伝わって来る。

 早い。

(これは………)
(まさか………)
(もしかして)

 そう、なのか、シエン?
 俺みたいな男を。
 
 どうして振り払うことができるだろう。一途に向けられた想いを。すがりつく手を。

 そのまま、しばらく背中をなでていた。

「も……大丈夫」

 やがてシエンは深く呼吸をすると、離れて行った。ちょっと恥ずかしそうにうつむいて。
 腕の中が、ひやりとした。二人分の体温が重なってたんだものな。
 いったい何日……いや、何ヶ月ぶりだろう。
 あんな風に、誰かと触れあったのは。

「鼻かんどけよ?」

 冗談めかしてティッシュの箱を拾い上げ、さし出した。
 うつむいたまま、受けとってくれた。

「そうだ、いいものがあった!」

 空気を変えよう。このままじゃいけない。

「ジャスミンティー。お前、好きだったろ? 中華街の知り合いからもらったんだ」

 キッチンに行き、お湯を沸かす。
 マグカップを二つ取り出した。
 お茶を入れている間、背後で顔をふいたり、ちーんと鼻をかむ音が聞こえる。

「……お待たせ」
「ん……いい香り……」

 少しぬるめに入れたジャスミンティー。湯気の立つお茶の香りをたっぷり吸い込んで、シエンはしみじみと目をとじた。
 鼻の頭がまだ少し、赤い。

「美味しい」
「そっか。けっこういいお茶なんだ、それ」

「ね、ヒウェル」
「何だ?」
「写真……」
「ん?」
「できたら、みせて、ね」
「………ああ。見てくれ、ぜひモデルの感想も聞きたい」


 小さく頷いた。


 そのまま向かい合って、二人で静かにお茶を飲んだ。


 飲み終わってから、シエンはしみじみとマグカップを見つめていた。
 赤いグリフォン………正しくはドラゴンだってわかっちゃいるんだが。やっぱり俺の意識の中ではグリフォンなんだよ。
 子どもの時からずーっと思ってたことを今さら変えられるかってんだ。

「それ、やるよ」
「ほんと? いいの?」
「うん………掃除と、洗濯のお礼っちゃ何だけど」
「ありがとう!」

 シエンはよく笑う。オティアに比べればって程度だが……。
 それでも、今、目の前で咲くほほ笑みに比べたら。

 初めて知った。この子が本当に、心の底から嬉しそうに笑う時ってのはこう言う顔をするんだって。


 ※ ※ ※ ※

 
 シエンは大事にカップを抱えて部屋に戻った。
 赤いグリフォンの模様。ヒウェルのライターと同じ。ヒウェルからもらった。

「ただいまー」

 キッチンで嬉しそうにカップを洗うシエンの姿を、オティアがじっと見ていた。

 また、ヒウェルの部屋に行ったのか。

 イライラする。
 胸の奥がチクチクする。刺草を一株、まるごと飲み込んだような気分だ。

 一回はもう止めた。
 ヒウェルが三日間の出入り禁止を食らった時、夕食を届けようとするシエンに『甘やかすな』と言った。
 あの時はシエンも思いとどまった。

 忘れてるはずはないのに。それでも、まだやってるんだから……もう止めてもしょうがない。

 黙ってオティアはシエンに背を向けて、部屋に戻った。



(赤いグリフォン前編/了)


次へ→【中編】