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▼ 【9-7】初夢はヒミツ
【エピソード9】
【1月2日】
毎日の習慣と言うのは不思議なもので、前日あれほど体を酷使したにも関わらず時間通りに目が覚める。
夜明けにはまだ少し間があった。
隣の布団では和尚がすやすやと寝息を立てている。こう言う時は妙に行儀がいい。
起き上がり、廊下に出ると。
「おはようございます」
「おはようございます……」
妙にこざっぱりした風体の三上と顔を合わせた。
「沐浴場が空きましたよ、蒼太くん」
ったくこの人は!
日なたで居眠りする猫みたいな糸目。だがこいつに騙されてはいけない。腹の底に力を入れ、きっぱりと断った。
「せっかくですが」
「そうですか、それは残念」
そうそうに何度も同じ手に引っかかってたまるか。
「やー、それにしても、ここの水は良い水ですね。浴びただけで心身が引き締まる心地がする。さすがにこの季節は寒いですが……」
それとなく相手の姿を観察してみると、わずかに髪の毛が湿っていた。
「浴びてきたんですか」
「はい、たった今。神社の方々と一緒に」
「なっ」
まさか、まさか、まさかっ!
「おや蒼太くん、顔が赤いですよ、どうかしましたか?」
「い、いや、別に」
「見事な湯殿ではありますが、さすがに宮司さんや風見くん、ロイくんと一緒だといささか狭かったのは否めませんね」
一瞬、頭に浮かびかけた想像(と言うか妄想)は寸でのところで食い止められた。おかげで冷静な判断力を取り戻し、一つの可能性に思い当たる。
「待ってください。ってことは今使ってるのは」
「ああ、そう言えばさっき、結城さんとサクヤくんが入っていたようですね。これは失敬、うっかりしていた」
この人はーっ!
危うく(そう、今度こそ危うく)鉢合わせする所だったじゃないかーっ!
さすがにひと言苦言を呈するべきか、あるいは笑って受け流すべきか。考えていると、背後でみしり、と廊下のきしむ気配がした。
(む)
振り向くと。
いつの間にやら身支度を整え、いそいそと部屋を出ようとする和尚の姿が……。
「待てい」
むんずっと襟首をつかまえる。
「どこに行く」
「ちょっと朝の沐浴などを」
「見え透いてんだよ、このエロじじい!」
「何を言う! 弟子の成長をこの目で確かめたいと言う親心がお主にはわからんのかーっ」
「どんな親心だ!」
ガクガク揺さぶられた和尚の懐から、ごろりと平べったい銀色の物体が転がり落ちる。
すかさず三上が拾い上げた。
「おや、これは」
「かえせーかえせー」
「デジカメ、ですね。ほほう、1000万画素、人物追尾機能つき」
「………のぞく気満々じゃねえか!」
ごいーん……。
宿坊の廊下に時ならぬ除夜の鐘が鳴り響く。師匠に容赦なく鉄槌を下す蒼太を見守りつつ、三上はしれっとつぶやいた。
「成長、ですか……まあ、確かに小学生の頃に比べれば、だいぶ」
「え?」
「いや、何、こっちの話、こっちの話」
※ ※ ※ ※
「それじゃ、お世話になりました」
朝食をすますのもそこそこに、蒼太は和尚を引きずって帰っていった。見送ってから、羊子はポン、と手を叩いて教え子たちの顔を見渡した。
「さて、それじゃ今日からは……夢替えの絵馬を出さないとね。運んでくれる?」
「え? いつもの絵馬と違うんですか?」
「そうよ。これは特別なの。ほら、夕べは初夢を見る夜でしょう?」
「ああ……」
社務所の机に置かれた箱にはぎっしりと、波打つ炎状のたてがみ、ぎょろりとしたやぶにらみの目。口から飛び出す二対の大牙、長い鼻をくねらせた霊獣「獏」を描いた絵馬が収められていた。
「これだよ」
「初夢って言っても、めでたい夢だけとは限らないしね。怖い夢、嫌な夢を見てしまった時はこの絵馬に息を吹きかけて……」
「夢替え、夢替え、って唱えてから、お納めするの」
「何か呪文みたいなものが描いてありますね」
「ああ、これはね……」
二人は透き通った声で歌うように読み上げた。言葉を形成する些細な音の一つにいたるまで、ぴったりとそろえて。
「見し夢を 獏の餌食となすからに 心は晴れし 曙の空」
「おお、和歌ですネ! 雅やかデス」
ロイがぱちぱちと手を叩く。今日はさすがに緋色の袴ではなく、浅葱色の袴を身に着けている。
コウイチとおそろい、と言うのがポイントらしい。
「デモ、このバクの絵はリアルすぎて怖いカモ」
「そうだな。ちっちゃな子とか、女の人にはちょっと……」
「うん、だからね」
かぱっと開けたもう一つの箱には、楕円形に近い形にデフォルメされた、白と黒のずんぐりとした生き物が描かれている。
こちらも最初の絵馬の獏ほどではないが、それなりに鼻が長い。
「こーゆーのも用意してある」
「あ、かわいい」
「マレーバクだ……」
「うん、これもバクだネ……」
昨日ほどの混雑ではないが、神社は相変わらず参拝客でにぎわっている。
そして獏を描いた『夢替えの絵馬』は飛ぶように、と言う勢いこそないものの、求める人は後を断たず。加えてこの神社の特有の護符である『夢守りの鈴』もまた、昨日に比べて早いペースで減って行くのだった。
「悪い夢は獏に食わせるとして、いい夢を見た場合はどうするんだろう?」
「人に話してはイケナイって説もあれば、話した方が実現しやすいって説もあるネ」
「そうなのか?」
「ウン」
「ふーん……」
風見はしばらく考え込んでから、ちょこんと首をかしげて問いかけた。
「ロイはどっちなんだ? 話す派? それとも話さない派?」
「そ、それハ……」
精いっぱい平静を装うロイの体内では、心臓が全力でタップダンスを踏んでいた。
「ひ……ヒミツ」
「そっかー。話さない派かー」
別の意味で納得してしまったらしい。
(ああ、君って何て素直なんだ、コウイチ! ダメだ、君の澄んだ瞳を見てるととてもじゃないけどボクの見た夢の話なんてできないっ)
次へ→【9-8】うらぎりものー!
▼ 【9-6】Love的な意味で
【エピソード9】
夜。部屋の灯が消えてからも、風見光一はなかなか寝つかれなかった。
何度寝返りを打っても逆に目が冴え、記憶の底に沈んでいたあれやこれやが、この時とばかりにぽこり、ぽこりと浮かび上がる。
とうとう彼は眠ることをあきらめ、そっと隣に声をかけた。
「………ロイ、起きてるか?」
「え、あ、ウン」
よかった。
「ちょっと質問してもいいかな。黙ってると、どんどん変な方向に考えが走りそうで、落ち着かなくてさ」
「いいよ」
「ありがとう」
とは言え、自分の中の思考が未だに一つに固まってくれない。
聞いてくれ、と言い出しておきながらいたずらに時間ばかりが過ぎて行く。
えーっと……
こまったな……
……いいや、もうこうなったらストレートに直球で行こう。
「人を好きになったこと、あるか? その、LikeじゃなくてLove的な意味で」
「………………あるよ」
「そっか」
あるんだ。やっぱりアメリカって進んでるのかな。
だったら、これから自分が投げかける、もやっとした疑問にも、ロイは答えてくれるかもしれない。少なくとも、自分よりはクリアな視点で見通してくれるはずだ。
今、この場で答えは出なくても……一緒に考えてくれれば、それでいい。
それだけでいい。
「ロイ。これから言うことは誰にも内緒だぞ。男と男の約束だぞ。いいな?」
「うん。誰にも言わない、約束する」
「俺、見ちゃったんだ」
「何を?」
「ランドールさんと先生が、一緒に寝てるのを」
ロイはひと言もしゃべらなかった。ただガバッと起き上がっただけだった。
「ごめん、びっくりさせて」
「いつ?」
「12月24日の、朝」
「魔女と戦った次の日ってことだネ」
「うん。二人とも、すごく穏やかな顔してて、幸せそうだった。だから何も言わないで部屋、出てきたんだ。それが一番、いいことだと思ったから」
「………ウン、そうだね」
ぱふっと布団に横になる気配がした。
「だけどあの時と、クリスマスパーティーの時とでは、何か、ちがってたんだ。キスしてるのとベッドに一緒に寝てるのとでは、どう考えたってベッドで寝てる時の方がすごい事してるはずなのに!」
夜の暗さに惑わされたか。あるいはずっと腹の中にためておいた物が一気にあふれ出したせいなのか。
言ってることが全然、まとまらない。何を言おうとしているのか、自分でもわからない。
「コウイチ、大丈夫だよ。ちゃんと聞いてるから」
「あ……うん、ありがとう……」
深く息を吸って、また吐き出す。ロイの穏やかな声を聞いて、混乱していた頭の中が、ちょっぴり落ち着いた。
「何なんだろう。どうしてなんだろう。アメリカではキスなんて挨拶だし。実際、レオンさんとマクラウドさんも、人の目を気にせず自然にしてたし」
ふっと記憶があの夜に巻き戻る。ほわっと頬と胸の内側に穏やかな熱がこもる。
「あれは………その……恥ずかしいだけじゃなくて、なんか、見ていてこっちもしあわせな気分になった」
「夫婦だからだよ」
「あー……そうだよな、うん。そうだ」
「どんな時も、寄り添って支え合ってるからだよ」
「そう……だよな………でも、先生とランドールさんのキスはちがうって思ったんだ」
くっと拳を握る。布団の下で、そっと。
「あの時、先生がちょっとでも嫌がってたら俺………俺………」
『いけないよ、もうおいとましないと』
『………おやすみのキスしてくれたら、帰ってもいいけど?」
『どこにしてほしい?』
最初は、目をぎゅっとつぶっていた。けれど、次第に呼吸が荒くなり、うっすらとまぶたを上げた。ふさふさと豊かなまつ毛の下でちらりと、潤んだ瞳が光っていた。
見てはいけないものを見ていると思った。けれど目がそらせず、最後まで見届けてしまった。
先生の顔が。頬が。首筋が桜色に染まり、離れた唇からかすかに、湿った息がこぼれ落ちるその瞬間まで。
「………あの人を殴ってたかも知れない」
再び沈黙が訪れる。だけど今度は、さっきより早く言葉を思い出すことができた。
「自分の大切な人を泣かせるようなことをしたら。相手が誰だって。たとえ神様でも、俺は、そうする」
握った指に無意識のうちに力が入っていた。
「もちろん、おまえもだ、ロイ」
「え」
「おまえを助けるためなら、地球の裏側にだって飛んでくよ」
「あ……うん……」
続く言葉はよどみなく、きっぱりと流れた。
「ボクもだ。コウイチのためなら、どんな相手にも負けない」
どちらからともなく二人は手を伸ばし、しっかりと握りあった。
「先生、泣いてた。だけど……それは、あんな風にキスされたのが嫌だったからじゃない。ランドールさんのことを、嫌いだからじゃない」
「それ、外れてないと思う」
「そうか!」
「……うん。ボクもそう感じた」
即答ではなかった。だがそれ故に分かる。これは、ロイの感じた本当のこと。自分を安心させるために言っているのではない。
あれほど頭の中で暴れていた『もやっとした渦巻き』がすうっと収まり、一つになる。
要するに、好きってことなんだ。
「笑っていられるだけじゃ、ないんだな」
「え?」
「いや、こっちのこと」
だれかを好きになるってことは、笑って、一緒にいられて、ちょっぴりどきどきして、楽しいことなんだと思ってた。
明確にではなく、ぼんやりと。
Loveと言う言葉の表す感情は、自分にとってはちょうどそれぐらいの距離だったからだ。
だけど。
今は。
「ごめんな、変なこと聞いて。でも、おかげですっきりした」
「ソウカ……ボクも安心したよ」
「おやすみ、ロイ」
「オヤスミ、コウイチ」
布団をかぶり直してまぶたを閉じる。
自分にも、あるんだろうか。できるのだろうか。
(犬見て祝詞まちがえちゃうくらいに、だれかを好きになるってことが……)
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▼ 【9-5】Newyearに入浴
【エピソード9】
「本日はお疲れさまでした」
がらーんと人気の絶えた境内のゴミをざっと集め、札所を閉める。
手伝いに来てくれた氏子の方々に挨拶をして、一同は社務所に引き上げた。
「風見くんもロイくんもお疲れさん。着替えてゆっくりしてくれ」
「はい」
「ハイ」
「っと……その前に、ちょっといいかな」
「はい?」
「その……」
宮司さんはさっと周囲を確認してから、声を落として話しかけてきた。
「最近、羊子は学校の方で、どうだろう。元気でやっているのかな」
「え? 先生はいつも通りに元気デスが」
「食欲もあるし」
「そう……か」
小さくため息をついている。
「実は今日、ご祈願の最中に羊子がね……祝詞をまちがえたんだ」
「えっ」
「しかも、途中で鈴を落とした」
「ええっ」
「滅多にないことだから、さすがに私も驚いてね。心ここにあらずと言った感じで、心配になってきて。いや、過保護だなとは思うんだ、でも一人娘だからつい、気になってしまって」
「………」
まさか。
風見とロイは顔を見合わせた。
(あの青い目の紳士に、ランドールさんの面影を見て動揺しちゃったんだろうか?)
(……あり得る。十分、あり得る!)
「宮司さん」
「その、つかぬ事をお聞きしますガ」
「うん、何だい?」
「その時のご祈願を申し込んだのは、外国の方ではありませんでしたか?」
「……いや?」
あれ。
ちがった?
「ただ……そうだ、犬を連れて来ていたな。ご祈願の間、外できちんと待っていたよ」
「犬、ですか」
「ああ。がっしりした体つきの黒っぽい犬だった。おそらくハスキー犬だ」
「ってことは、瞳の色は」
「見事なブルーだった」
あーあ。
二人は申し合わせたようにため息をついた。
(犬って……犬に反応しちゃうなんて、先生!)
(そこまで!)
「いったい、羊子に何があったのか……」
言えない。さすがにお父さんには、言えない。
特に去年、サンフランシスコで招かれたクリスマスパーティーの席上で起きた出来事は。
「疲れてるんですよ、きっと!」
「そうそう、美味しいものいっぱい食べれば元気になりマス!」
「うん……そうだね。そう言う子だ、あの子は」
ようやく宮司さんの顔にほっとしたような笑みが広がった。
「引き止めてすまななかったね。ありがとう」
※ ※ ※ ※
風見とロイが私服にもどった頃、玄関の呼び鈴が鳴った。
「あ、蒼太さん。あけましておめでとうございます」
「おう、おめでとう………」
予想通りと言うか、げっそりやつれてる。目の下にはうっすら隈が浮いていた。見慣れた僧衣ではなく、作務衣を着ているのは車を運転してきたからだろうか。
「アケマシテおめでとうございます」
「今年もよろしくお願いいたします」
「こっちもよろしく頼む………で。うちの生臭住職を迎えに来たんだが?」
「あー、それでしたら」
「居間におられるのではないかと」
然り。
居間の炬燵にぬくぬくと当たりながら、飲んでいた。相変わらず飲んでいた。頭の一ヶ所がどこかにぶつけたかのようにぷっくり赤く腫れていたが、それでもめげずに飲んでいた。
「おう、来たか蒼太よ」
「和尚………どんだけ飲んだ!」
「そう青筋立てるでない。ほんの一、二本ほどぢゃ!」
「あぁ?」
「一升瓶で」
「ああ……まったく正月からぐだぐだと……おら、帰るぞっ」
つかつかと歩み寄ると、蒼太はぐいっと和尚の襟首をひっつかんで炬燵から引きずり出そうとした。が、敵も去るもの。
「いやぢゃー、寒いからいやぢゃー」
「わわっ」
すばやく手近の風見にしがみつく。
「この年になると寒さがこたえるでのー。あいたたた、こ、腰が……」
「見え透いた猿芝居打ってるんじゃねえっ」
そこに着替えを終えた羊子とサクヤがひょいと顔を出した。
「何だ、蒼太。来てたのか」
途端に蒼太は和尚を放り出し、きちっと居住まいを正して一礼。
「謹んで新年のお喜びを申しあげます」
「これはご丁寧に……」
きちっと二人は並んで礼を返す。号令をかけたわけでもないのにぴったり同じタイミングで。
「明けましておめでとうございます」
「本年もよろしくお願いいたします」
「………で。えらくボロボロだなー」
「いや、これぐらい大したことは」
「正月早々苦行するこたぁないだろ。ちゃんとごはん食べてる?」
答えるより早く、ぐうっと腹が鳴った。
羊子とサクヤは顔を見合わせると、さくさくと餅を焼き、雑煮の汁をお椀に注ぐのだった。
「はい、召し上がれ」
「………………いただきます」
そのままお夕飯タイムになだれ込み、結局、風見とロイともども蒼太と和尚も神社に一泊する事となった。
「いいか! 酒はほどほどにしとけよ、明日の朝イチで寺に取って返すからな!」
「どうにも蒼太は杓子定規でいかんのー、もそっとゆとりを持とうではないか、ゆとりを」
「それ以上ゆるんでどーする気だ!」
ギャンギャン歯を剥いて怒鳴りつけていると、ぱさり、と後ろから肩にタオルをかけられる。
「蒼太くん、蒼太くん」
「三上さん」
「お風呂が空きましたよ」
「ありがとうございます」
ひたひたと廊下を歩き、風呂場に向かう。
この家の風呂は広い。家人のみならず、宿坊の泊まり客が使うこともあるからだ。
一人静かな場所を歩いていると、何だか急に手足の先から力が抜けてきた。首筋や背中のあたりも妙にだるい。今日一日は普段のお務めをはるかに超える激務であったが、これは多分、主に……
気疲れだ。
(まだまだ修業が足りんな……精進、精進)
考え込みつつ、からりと風呂場の扉を開けると。
脱衣所に人が居た。ほんのり桜色に上気した丸い肩、ほっそりしたうなじ、すべすべした背中。水気をふくんだ、さらさらの黒髪……。
(うぉわっ!)
心臓が跳ね上がり、一瞬で蒼太の血管をアドレナリンが噴き上げる。
(よ、よ、よ、よーこさんっ)
「し、し、失礼しましたあっ」
慌てて飛び出し、扉を閉めた。
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子……」
小声で般若心経を唱え、必死で今し方目撃した光景を頭から追い出そうとした。
「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色……」
からりと扉が開く。
「おまたせ、お風呂空いたよ?」
「サ……サクヤさんっ?」
がっくりと力が抜けた。
何たる不覚。見間違えた……。
「あ、ありがとうございます」
カクカクと入れ違いに風呂場に入り、扉を閉めて……へたん、と座り込んだ。
(あーびっくりした、びっくりした、心臓止まるかと思った)
※ ※ ※ ※
サクヤがほてほてと廊下を歩いていると、とたたたっと羊子が走ってきた。
「どしたの?」
「お風呂に忘れ物しちゃったーっ」
「ああ、それなら、洗濯カゴに入れといた」
「ほんと? サンキュ、サクヤちゃん」
「風見くんたちも泊まってるんだから、だめだよ、ブラジャー置きっぱなしにしちゃ」
「うん、気をつける」
サクヤも羊子も、声の音程は高い。しかも軽やかで、透き通っていてよく響く。
「よーこちゃんって、胸にこだわる割にはこう言うとこ、無頓着だよね」
「いつもは一人暮らしだから、つい……」
そしてこちらに約一名、耳の良い人がいたりする訳で。
(ぶっ、ぶらじゃあって。ぶらじゃあってっ!)
脱衣所の床に鎮座した、ふた付きの洗濯カゴを凝視したまましばらく硬直していたのだった。
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▼ 【9-4】見た目が肝心らしい
【エピソード9】
午後に入り、神社を訪れる参拝客の数は一段と増えてきた。いつもは奥にいる『ご神獣』が、本殿前の厩にお目見えする時間が近づいているからだ。
毎日の定例行事だが元旦ともなれば、やはりめでたい。
絵馬にもおみくじにも書かれている神獣をひと目見ようと、人も増えようと言うものである。
普通の神社では『神馬』がこの役目を勤める所だが、結城神社は鹿島神宮の系列であった。したがって『ご神獣』も鹿嶋市の本社や奈良の春日野と同じく、鹿。
その名も……
「ぽちー!」
風見はブラシを片手に柵の内側に入り、茶色いつやつやの毛皮に覆われたほっそりした生き物に声をかけた。
「新年最初のお披露目だ。さ、きれいにお支度しような!」
黒い透き通った瞳で風見を見ると、ぽちはぷいっと横を向いてしまった。
男の人が好きじゃないのだ。
「先生も、サクヤさんも忙しいんだ。おとなしくしててくれよ……」
そっと近づくと、ぶんぶんと顔を左右に振る。
「うわ」
けっこう力が強い。ぽち、なんて気の抜けた名前で呼ばれているけれど、神様のお使いだ。無下に押さえ込む訳にも行かず、風見は途方にくれた。
「こまったな、これじゃ、お披露目に遅れちゃうよ……やっぱりサクヤさん呼んできた方がいいのかな」
「コウイチ! ボクにまかせて!」
しずしずと金髪の巫女さんが進み出て、ブラシを手ににっこり手招き。
途端にポチはぴたりとおとなしくなり、自分からくいっと体をすり寄せてきた。
「ヨシヨシ」
「……ほんっと、こいつは女の人にしか懐かないんだよなあ。やっぱりオスだからか?」
ロイは慣れた手つきでブラシをかけて行く。
「すごいな」
「馬の世話と似たようなものだからネ。 ……はい、できあがり」
くまなくブラシをかけられて、ぽちはすっかりぴかぴかのツヤツヤ、上機嫌。きれいになったのが自分でも分かるのか、どこか得意げでさえある。
つややかな褐色の体を仕上げに金色の鈴のついた赤い布で飾り、手綱をつける。
「さ、行こうか」
ほっそりと長い首筋を撫で、ロイと風見は連れ立って仲良く本殿に向かうのだった。
ちりりん、ちりん。ご神獣の手綱に揺れる鈴の音を伴奏に。
※ ※ ※ ※
夕方四時。日没とともに人の流れはぱたりと途絶え、神社の一日が終わろうとしていた。
ようやく訪れた静寂の中、羊子は携帯を取り出した。
「あ」
メールが何通か入っている。全て英文だ。件名はそろって「Happy new year」
「ああ……シスコは今、年が明けたんだ」
にこにこしながらメールを開けて行く。中には写真付きのもあって、はっちゃけたカリフォルニア流のニューイヤーにくすりと笑いを誘われる。
(神社の写メとか送ったら受けるかな? 巫女姿の自分撮りとか、あるいは……)
ちらっとサクヤに目をやる。同じようにメールをチェックしていたのが不意に顔を上げ、めっとにらんできた。
小さく肩をすくめ、しぶしぶカメラ機能のスイッチをオフにした。
やがて、最後の一通(つまり最初に届いたメール)にたどり着く。
二度、三度と繰り返し読み、終わって小さくため息、携帯を胸に抱きしめる。届いたのは親しい友人からの、他愛のない新年の挨拶。
それでも彼からの言葉だと思うと胸が高鳴る。
(どうやら、社長からもちゃんと届いたようですね)
そんな羊子の姿を、ちゃっかりと柱の陰から三上が目撃していたのだが……あえて何も言わずに立ち去った。
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▼ 【9-3】聞こえてます
【エピソード9】
やがて白々と東の空が明るくなり、鎮守の森の梢の向こうに初日の出が顔を出す。
一段と厳しくなる冷え込みの中、人の流れは途絶える気配もない。
初日の出を拝む暇もなく、せっせと店番をしていると……ひょこっと巫女姿の女性が二人、入ってきた。
「風見くん」
「ロイくん」
「ご苦労様。後は私たちがやるから、奥でご飯食べてらっしゃい」
「はい、頂いてきます」
母二人組みと交代し、社務所に向かう。
ひたひたと廊下を進み、奥の居間に行くと、炬燵の上にお節料理の重箱が並んでいた。きちんと四角く切りそろえられ、後は焼くばかりになっている餅も。
さらにストーブには焼き網と、雑煮用の澄まし汁が温められている。
「わあ、お節料理だ! お雑煮もある。すごいなー、ちゃんとお正月だ」
「おお、遅かったのー」
綿入れ半天を着込み、炬燵にあたっている人物が手を振ってきた。
「お……和尚っ?」
常念寺の和尚が。今の時間、隣町の寺にいるはずの人物が、まるで、100年前からそこに居たように馴染んでいる。
「何してるんですか!」
「除夜の鐘も無事ついたしの。お神酒をいただいておる」
「お寺にも、初詣でのお客さん来るんじゃあ」
「心配ないない。ちゃんと若いもんを店番に置いてきたでの」
「……それって」
「蒼太さん……?」
除夜の鐘をつき終わってから不眠不休で(おそらく飲まず食わずで)一人で店番してるのか。(店じゃないけど)
「なぁに、あんな破れ寺に参拝に来る客もそうおらんだろうて!」
「破れ寺とか自分で言ってるし……」
「蒼太さん、真面目だからなあ」
目の下に隈つくりながら必死で起きてるんだろうな。
ため息をつく二人を尻目に和尚殿、悠々と熱燗で一杯やりながらお節をハシでつまんでいる。
「正月早々不景気な顔をするでないぞ。ほれ昆布巻き美味いぞ。きんとんも甘いぞ」
「……いただきます」
ストーブで餅を焼き、腕に入れて汁をそそぐ。餅は四角く汁はうすくち、醤油味。具は鳥の切り身に大根、ニンジン、三つ葉とネギはお好みで。
「あれ? あっちにもう一つお重があるヨ?」
「あれはメリィちゃん専用じゃ」
「だからお重が赤いんダネ」
「減る早さも三倍……とか言わないよな」
※ ※ ※ ※
昼近くになると、近在の氏子さんによる応援も増えてきた。おかげで三上もようやく持ち場を離れる余裕ができてきた。
社務所の居間で早めの昼食(と言うべきか遅めの朝食と言うべきか)をとり、すっかりできあがった和尚と世間話など交わしつつのんびり茶をすする。
さてそろそろ持ち場に戻るか、と腰を上げかけた所で携帯が鳴った。
「メーリィちゃんのーひーつーじー、めえ、めえ、ひーつーじー」
着メロに合わせて和尚が上機嫌で歌い出す。さすがに読経で鍛えただけあって見事な滑舌。酔っているとは思えないほど朗々と響く。
「メーリィちゃんのーひーつーじー」
「あー、その、和尚、そろそろ電話に出ますので……聞こえちゃいますよ、本人に」
「おおっと」
何食わぬ顔で電話を受けた。
「はいもしもし」
『あ、三上さん、今社務所にいるよね?』
「ええ」
『休んでるとこ申し訳ないんだけど、ペア守りの在庫が切れちゃったの。札所に届けてもらえる?』
「わかりました、しばらくお待ちください」
『あと、ついででいいんだけど、和尚一発シメといて』
ぴっと携帯を切り、三上はおもむろに拳を固め、袖をまくった。
じりっと一歩前進。さすがに酔っ払い和尚も何やら気付いた模様。
「な、なんじゃい、お主」
「歌うのをやめるタイミングが少々遅かったようです。すみませんね」
「うわ、ちょ、ちょっとタンマ! しばし待て!」
「待てません。恨むなら彼女の勘の良さと自分の迂闊さにしてくださいね」
「何を言うか、そもそもお主の着メロが……っ」
(ごぃんっ!)
amen。
段ボール箱にぎっしり詰まったお守りを抱えて札所に向かう。一つ一つは軽いものの、集まるとそれなりに重量がある。とてもじゃないが結城さんや、結城くんには重労働だ。運ぶのには自分が一番適任だろう。
荷物を抱えて裏口から札所に入る。
「お待たせしました……おお」
そこはさながら戦場だった。
「七番のお札、奥から1枚持ってきて!」
(七番……これですね、家内安全)
箱を降ろしてお札に手を伸ばした瞬間、目の前をさーっと柔らかなふにっとした生き物が走り抜けた。
(え、今、猫がっ?)
「にゃっ」
「ありがとう」
仕切りの布の向こうでは、今まさに神社の飼い猫のうち1匹が、くわえたお札をサクヤに渡していた。猫の手も借りたいとはこのことか。
妙なところに感心しつつ、売り場にペア守りを補充する。
「ペア守り持ってきました。これでよろしいですか?」
「ありがとう、助かったー……あ、そろそろおみくじ足さないと……」
おみくじは古式にのっとり、桐箱の中に入っている。ぱっと見ただけでは、どれほど減っているのかはわからない。
(何で箱の中なのに見えるんだろう……)
首をかしげていると、手のりサイズのちっちゃな巫女さんが箱の中からしゅるっと出てきた。スケールこそ違うが顔は羊子に瓜二つ。
(ああ、なるほど)
並み居る参拝客は気にする風もない。もとより、見えていないのだ……自分とサクヤ、そして呼び出した本人以外には。
三上は再び札所の奥に行き、おみくじの詰まった箱を抱えて表に戻るのだった。
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