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▼ 【6-15】グッドモーニング
【エピソード6】
12月23日、夜22時45分。
じきにクリスマスイブが始まろうと言うこの時刻に至っても、ヒルトン・サンフランシスコのロビーを行き交う人の数は一向に減る兆しを見せない。最上階のシティスケープレストランはディナーの時間こそ既にラストオーダーを締め切っていたが、ドリンクは未だ営業時間内。
泊まり客のみならずレストランを利用する客も行き来する入り口にタクシーが止まり、また新たな客が訪れた。
すかさず出迎えに出たベルボーイの表情が一瞬固まる……ホテルマンの意地と良識を発揮してあくまで笑顔で。
「……いらっしゃいませ」
まず出てきたのは金髪の少年と黒髪の少年が2人。微妙に疲れてはいるが表情は明るい。足が砂だらけでこの寒い中海岸でも散歩してきたのか、潮の香りがした。
最後に背の高いハンサムな男がさっそうと降りて来た。身につけた濃いブルーグレーのウールのスーツは少しばかり皺がよってはいるものの高級品。
コートはどうしたのかと思ったら腕に抱えていた。内側にすっぽりと、小柄な黒髪の女性を包み込んで。
前を歩く少年たちも、抱えている当人も、さもそれが当然のことなのだと言わんばかりに悠然とロビーを横切り、エレベーターへと向かう。
居合わせた人々の視線が一斉に集中し、抱えられた女性がぺったりと顔をスーツの胸に伏せた。
風変わりな5人づれはほどなく降りて来たエレベーターに乗り込み、人々の視界から姿を消す。伝統あるホテルのロビーの時間が再び流れだすまでにわずかな『間』があった。
エレベーターの扉が閉まるとヨーコはやっとぽそぽそと小さな声を出すことができた。
「カ、カル……も、大丈夫だから……じ、自分で歩けるから」
「じっとして、ヨーコ。バランスを崩すと危ないよ」
「う……うん」
最初はコートを羽織らせただけだった。しかしランドールのコートは小柄なヨーコには長過ぎて、大奥のお女中よろしく長々とトレーン(裾)引いてしまったので、それならばと抱き上げて運んできた訳だ。
(ああああああ。すれ違う人の視線が……って言うかサクヤちゃんはともかく、風見もロイも何も言わないのがかえっていたたまれないよっ)
ちら、ちらと姫抱きに抱き上げられた先生の様子をうかがってはいるものの、教え子2人は必要以上に口を挟まない。
子どもの時ならいざ知らず、今の自分たちは先生をあんな風に軽々と運ぶ事はできない。ここはランドールさんに任せるのが一番いいんだ、と。
サクヤはヨーコのそばを離れるつもりはなかった。今は2人とも消耗しきっている。自分がこうして歩くことができるのは、おたがいに支え合ってどうにか持ちこたえているからだ。
離れたらその瞬間、そろって意識を失ってしまうかもしれない。
エレベーターを降りて廊下を通り、部屋に戻る。22日の夜以来、ほぼ24時間ぶりの帰還だった。
「ふわ……」
「やっぱ寒いな……エアコンつけよう」
ランドールは迷わずバスルームに歩いて行き、ドアの手前でようやくヨーコの体を降ろした。
「すぐ、シャワーを浴びるんだ。いいね?」
「……OK」
こくん、とうなずく黒髪をかきわけ、額にキスして送り出す。相変わらず裾をひきずっているが、この距離なら大丈夫だろう。すぐ脱ぐだろうし……おっと。
慌ててドアを閉めてリビングに引き返した。
「あ、ランドールさん」
居間にはサクヤだけが座っていた。高校生2人は寝室に引き上げたらしい。
2人とも不眠不休の大活躍だったしな……小さな子どもを3人もかかえて慣れない土地で大変だったろう。
「大丈夫かい、サリー。君も疲れているようだね」
「ええ……正直、ちょっと動くのがつらいです。今夜はここに泊まってっちゃおうかな」
「その方がよさそうだね。確か、そこのソファがサブベッドになるはずだ」
かちっとボタンを押して背もたれを倒す。
「ほんとだ。何でソファが二つもあるのか不思議だったんだ」
「毛布と枕をとってこよう。ベッドルームに予備があるはずだ」
ヨーコの使っている部屋から枕と毛布をとってくると、サリーはクッションを抱えてすやすやと寝息を立てていた。毛布をかけて、灯りを落とす。
「……おやすみ」
しまった、コートを彼女に着せたままだった。
財布も車の鍵も全部ポケットの中だ……今、バスルームに入るなどもっての他。これでは帰るに帰れない。
しかたない、しばらく待とう。
ならば、その間にしておきたいことがある。
寝室に移動する。やはり、寒い。
シーツは清潔でさらさらしているが手で触れるとひやりとした。エアコンのスイッチを入れたが、果たして彼女が上がってくるまでにどれほどの効果があるだろう。
電気毛布でもあればいいのだが……何か温かいものはないだろうか。
ああ、そうだ。
※ ※ ※ ※
熱いシャワーを浴びて、肌や髪にこびりついていた塩を洗い流す。お湯が触れた瞬間、ほんの少しひりひりした。本当はバスタブにじっくり浸かりたいところだけど、今それをやったら確実に風呂の中で、寝る。
と言うか、落ちる。
(あー……だめ、今にも、寝そう)
これでもサクヤちゃんが付き添ってくれてたからここまでもったんだろうな……。自分も疲れてるだろうに。
アメリカのドライヤーはハイパワーかつ大型で、すぐに髪の湿気が飛んだ。あまりかけているとパサつきそうなので早々に切り上げる。バスローブを羽織り、黒いコートを手にした。
うーん、やっぱり大きいよ。
これじゃ引きずりもする。
抱え上げられた時の記憶がよみがえり、あわてて鏡から目を避けた。だめ、いかに眼鏡無しとは言え今、この瞬間、自分の顔を直視する自信がない。
ひたひたとリビングに向かう。
「カルー………あれ?」
ソファベッドの上でサクヤがすやすやと眠っていた。
毛布を整え、頭をなでる。
「おやすみ、サクヤちゃん」
ランドールの姿はどこにもない。
帰っちゃったのかな。コート、置いたままなのに。
ほてほてと歩いて風見とロイの部屋まで行く。ドアの前で耳をすませる……どうやら眠っているようだ。
「おつかれさん」
ドア越しに投げキッス一つ。足音を忍ばせて自分の寝室に戻った。
クローゼットを開けて空いたハンガーを取り出す。コートをかけて、形をととのえ、備え付けのブラシで砂を払った。
湿気を吸ってるから中に戻すのはまずい。
んしょっとのびあがり、ハンガーを開け放したクローゼットのドアの上端に引っ掛けようとしたが、届かない。
椅子をひっぱってきて踏み台にして………よし。
やっぱり大人の体は便利だ。ある程度のレベルまでは自分で解決できるもの。
するりとバスローブを肩から落とし、パジャマの上着を羽織る。大きめのを愛用しているから、膝のあたりまで余裕で届く。乾いた布につつまれて、ほう……と息を吐いた。
クローゼットにずらりと並ぶドレスに目を向ける。
こんなにいっぱい、しかも自分にぴったりな服をどこから見つけてきたのだろう? どんな顔して選んだのだろう?
おやすみぐらい、言いたかったな……黙って帰らなくってもいいのに。
ベッドによじのぼると、枕のところにウサギのぬいぐるみが置かれていた。
ロイの祖父から送られてきたものだ。中に拳銃をしのばせて。
(だれだぁ? こんなものここに置いたのは)
首をかしげてシーツの合間にもぐりこむ。覚悟していた冷気は伝わってこなかった。
その代わりにもわっと自分以外の生き物の温もりに包まれる。
あったかい……。
にゅっと腕の間にふかふかの毛皮をまとった長い鼻面が突き出される。
「カル?」
布団の中でわさわさと長い丈夫な尻尾が揺れ動く。あっためてくれたんだ。
「ったく、木下藤吉郎じゃないんだから」
「わふ?」
首をかしげてる。ネイビーブルーの瞳にとまどいの色がにじんでいる。
「……いいの、こっちのこと……」
腕を伸ばして太い、頑丈な首に回して抱き寄せた。ふかふかした毛皮に顔をうずめる。
「ああ……あったかいなぁ」
「うぅ」
わずかに後じさろうとする気配がした。もう自分の役割は果たしたと言わんばかりに。
今にも溶け落ちそうな意識をふるいおこしてすがりつき、耳もとにささやく。
「行かないで………一人にしないで………今、一人で眠ったら……」
熱のない月の光。彩のない銀の影。振り返りたくない禁じられた記憶。
「こわい夢を見てしまう、きっと。だから…………」
声が震える。こまった。あなたといると涙が押さえられない。泣き虫になってしまうよ。どうしよう。
「お願い、カルヴィン……」
温かいベッドの中、夢と現の狭間を漂いながらか細い声を聞いた。その瞬間、ランドールは思った。
ただ、彼女を抱きしめたいと。不器用な前足ではなく両腕でしっかりと。
「……ありがとう……」
何てすべすべして、なめらかで、華奢なのだろう。肩も、背中も、腕も丸みがあって。骨格そのものからして自分とはまるでつくりが違うのか。
それに……いいにおいがする。ボディソープでもない。香水ともちょっと違う。ほんのりとかすかに、柔らかく。温もりとともにたちのぼり、嗅ぐほどに安らぎに満たされる。
わずかに湿り気の残る髪に顔をうずめた。
ああ、そうか。
これは『君』の香りだ。君自身が生み出し、その身にまとう天性の香りなのだね……………。
※ ※ ※ ※
翌朝。
爽やかに目覚めた風見光一は、隣に眠るロイを起こさぬようそっと抜け出し、リビングに向かった。
「あれ?」
ソファの上でだれかがすやすや眠ってる。一瞬、先生がこんなとこで? と思ったけれど、よく見るとサクヤさんだった。
ほんと、そっくりだな。ちっちゃい頃の2人を見てしまったから余計に。
ふと見るとテーブルの上に赤い眼鏡が置かれていた。
ヨーコ先生のだ。
置き忘れちゃったんだな。ないと困るだろう。そっと手のひらですくいあげ、先生の部屋へ向かう。
ドアは開いていた。
不用心なんだか、信頼されてるんだか。遠慮しながらもそっと中を伺う。
おかしい、クローゼットが開けっ放しだ!
思わず一歩中に踏み込み、凍り付いた。
「え」
ベッドの中ですやすやと、幸せそうに抱き合って眠ってる人たちがいた。そりゃあもう天使のように健やかに、満ち足りた笑みを浮かべて。
※写真はイメージです
stitch by Kasuri
「…??!!」
頭の中で猛烈な勢いで心の声が飛び交っているのに、現実には声が出ない。ただ、ぱくぱくと口を動かすだけ。
(どうする、ここはやはり、サクヤさんとロイも起こすか? あー、でも、ヨーコ先生のこんなシーン見たら……)
サクヤさんはともかく、ロイが暴れる。
色んな考えが浮かんでは消え、浮かんでは消える。どうしよう、今のうちにヨーコ先生だけサクヤさんの隣に移動させちゃおうか?
せめて、ベッドの中でも離しておいた方がいいじゃないか?
一歩も動けないまま、とりあえず手を伸ばしてみて、はたと動きが止まる。
(いや、しかし………ヨーコ先生もランドールさんもいい大人なんだし……それに……)
そろーっと指の間からベッドに眠る2人を伺う。
幸せそうな寝顔だ。
とてもじゃないけど、引き離すなんてできない。このままにしておこう。
(良い夢を……2人とも)
そろりそろりと部屋を出て、静かに静かにドアを閉めた。
(桑港悪夢狩り紀行(後編)/了)
後日談へ→
▼ 【6-14】go-go-go-ahead!
【エピソード6】
昼の光、夜の光、何もない光。
ゆらぎ、瞬き、ひらめいて、今と過去との隙間を照らす。
宵闇、薄闇、木の下闇。
明け闇、夕闇、星間の闇。
漆黒、暗黒、真の黒。 時の障壁(かべ)すら飲み込んで。
瀝青(ピッチ)のように青黒く、タールのように真っ黒で。
見ることは見られること。
闇の深淵をのぞくとき、向こうも私を見ているのだ。
※ ※ ※ ※
静かだ。
見えるものは全て青い磨りガラスを通したみたいにうっすらと青みを帯びている。それなのに色も、形も見分けることができた。振り仰ぐ空にはぽっかりと丸い月。
満月をほんの少し通り過ぎた十六夜の月。
ああ、きれいだな……。
手をかざして月の光に触れてみる。
「え?」
白衣じゃない。洋服の袖だ。紺色の袖に白いセーラーカラー、リボンの色はえんじ色。
これ……高校の制服じゃない!
何で、こんな格好を?
慌てて周囲を見回す。だれもいない。確かに、他にも居たはずなのに。年下の男の子が2人一緒だった。ああ、でもあれはだれだったんだろう?
サクヤちゃん……?
蒼太?
それとも……。
ああ、だめだ、めまいがしそう。何でこんなに寒いのだろう。何で、こんなに。
煌煌と照らす月の光は金の色。だけど熱のない冷たい光。手先指先足の先、体の先端からしんしんと染み通り、温もりを奪って行く。
「羊子」
「……え?」
低いおだやかな声が名前を呼ぶ。
ひとめ会いたいと願い続けた、夢の中で面影さえ追うことすら許されなかった人がそこに居た。足下に長く彩のない銀色の影を引いて。皺の寄った目元に優しい光を宿し、ほほ笑んで腕を広げている。
「羊子。探したよ」
「上原………さん………」
抱きしめる腕をどうして拒むことができるだろう? 自分を見守り、導き、悪夢に立ち向かう術を教えてくれた人。
いつからだろう。この人を師としてではなく、先輩としてでもなく、一人の男性として慕っていたのは……。
いつから、なんて関係ない。私は、この人が好き。バレンタインのチョコを渡すとか、手をつないで歩くとか、2人だけにしか通じない暗号を駆使してメールをやりとりするとか……
そんな、同年代の男子と交わすささやかな恋心なんかじゃ追いつかないほど、彼を求めていた。親子ほど年が離れていても、この想いは止められない。
たとえ子どもと思われていても、彼のそばにいられるだけで胸が高鳴った。一緒に戦えるだけで十分だった。『よくやった』ただその一言で心臓が喜びにうち震えた。
切ないけれど幸せな時間がずっと続いて行くって信じていた……信じていたのに。
背に回された腕に力がこもり、ぐいっと引き寄せられた。足も腰も胸もあますところなく密着し、引き締まった体を。肌の熱さを直に感じた。
彼の指が髪を撫でる。くすぐったい。
「あ……」
「可愛いな」
背中、肩、腰。まんべんなくなで回され、そのたびに密着した体がよじれてこね回される。
上気した肌から少女の肢体には不釣り合いな、成熟した女の香りがにおいたつ。
首筋に顔が寄せられた。
「ああ、いいにおいだ」
ささやかれる吐息にびくん、と全身がすくみあがる。
逃げようとするとさらに強く抱きすくめられ、なでられた。
どうしよう。
熱いよ。
熱くて、もどかしくて、じれったくて。ああ、いっそこのまま、溶けてしまえたらいいのに。
耳もとに口がよせられ、優しいささやきが耳をくすぐる。
「ずっと、一緒に居よう。もう一人で泣くこともない」
閉じかけたまぶたをぱちりと見開く。
「ずっとお前を愛してあげるよ」
「うれしい……な……」
すうっと目を細めた。
「でも、それは聞けない」
ターン、と響く銃声一発。
『彼』が胸をおさえてよろよろと後じさる。苦痛に顔を歪めている。指の間から真っ赤な血が吹き出し、こぼれ落ちる。
わき起こる後悔の念をねじ伏せ、右手を伸ばした。
ヨーコの手の中に小さな拳銃が光っていた。縦に連なる中折れ式の二本の銃身、ハイスタンダードデリンジャー。表面は摩滅しているがぴかぴかに磨き上げられ、グリップに一筋斜めの傷が走る。
上部の銃口からうっすらと煙がたちのぼっていた。
「お前はあの人じゃない。あの人はもういない。この銃が私の手の中にあることがその証」
油断なく狙いをつける。弾はもう一発残っている。もとより夢の中では装填数など問題ではないのだが……
彼は言った。
二発しか撃てないが故に威嚇の余裕も外す猶予もない。常に真剣勝負、確実に当てねばならない。そんなギリギリの空気が恋しくてこの銃を使うのだと。
紺色の制服が崩れ落ち、つかの間なめらかな裸身が露になる。
白い小袖に緋色の袴の巫女装束、さらにふわりと薄い白布の上衣……千早がヨーコの身を包む。神楽を奉納する時などにまとう、巫女の盛装。身に着けるとそれだけで心が研ぎすまされる。
「それにね……あなた、あの人なら決して言わないことを言ったもの」
一緒に来るなと彼は言った。
残って後に続く者を導けと。
女として想われることが叶わぬのなら、せめて戦友として共に散ろうとした自分にただ一度の口づけで報いて。
だから私はここに在る。
「バカな娘だね。せっかくいい夢を見せてあげようと思ったのに」
口をゆがめて吐き出すと、『あの人』の姿は歪んで引きつれ、赤い衣をまとった背の高い痩せた女に変わった。顔は焼けただれ、片方の腕は半ばで切断されている。生々しい傷口からはタールのような黒い粘つく液が滴っていた。
「まんざらでもなかったみたいじゃないか。ええ? 私でよければたっぷり可愛がってあげるよ?」
「はい、ストーップ!」
びしっと魔女の左の角に銃弾が当たり、上半分を木っ端みじんと吹き飛ばす。ぱらぱらと欠片が飛び散り、魔女は口をぱくぱく、白目をむいてへたりこむ。
「それ以上は青少年の教育上、好ましくなくってよ?」
デリンジャーをかまえたまま、ヨーコはこの上もなくにこやかに笑いかけた。
「風見! ロイ!」
「はい!」
「おそばに」
音もなく浅葱色の陣羽織を羽織った若武者と、青装束の金髪ニンジャが現れる。
「お、お前たち、何故ここに! 夢の入り口でばらばらに分断したはずなのに。どうやってここまで入り込んだんだ!」
「ダイブのタイミングをずらしたのでござるよ!」
「何ぃ?」
「あの時、拙者たちは夢には入らず現実に留まったのでござる」
「お前がヨーコ先生たちに罠を仕掛けたのを見計らってから、改めて先生の夢に入ったんだ」
ロイと風見が夢に入った時、3人の魔女は既にサリーとランドール、ヨーコにかかり切りだった。
5人全員、一度に入っていれば最初の段階でかく乱することもできたろうが、新たにダイブしてきたハンターたちに手を回す余裕はなかったのである。
「悪夢の気配がぷんぷんにおってござった。探すまでもない。悪夢狩人にとって初歩中の初歩でござる」
「そんなバカな……この女の意識には、そんなことは欠片も……」
「ええ、そうでしょうね。これは私の指示じゃない。この子らが独自に判断して動いた結果ですもの」
ヨーコは誇らしげに。そして愛おしげに教え子たちを見やった。
「この子らと今、共に在ること。それが私が戦い続ける意味。生きてきた時間の証。お前ごときに消せはしない……」
手の中のデリンジャーに視線を落とす。ほんの一瞬だけ。
きっと顔を上げるとヨーコはかすかな笑みすら浮かべて魔女を正面から見据えた。
「奪えはしない」
「っけええええ、ばかばかしい、くだらないっ! そんなにそのガキどもが大事か、そんなにそんなにそんなに!」
魔女は口角から泡を飛ばしてわめき散らした。手も足も真っ黒に染まり、歪んで引き延ばされてゆく。
不健康ながらも美しかった女の面影が消え失せ、いびつな影に欠けた角、金の瞳、鎌状の腕を振り回すおぞましいながらもどこかこっけいな妖物と成り果てる。
「だったら3人まとめて引き裂いてやる、食ってやるうう!」
ぐわっと大口開けて飛びかかる化け物をびしっと指差し、ヨーコは命じた。
「成敗!」
風見が滑るように走り出し、ロイが弧を描いて宙に飛ぶ。オーバーアクション気味のニンジャに妖物が気を取られた瞬間、間合いを詰めた風見が大小二本の太刀を抜き放つ。
鞘から太刀を抜く動きがそのまま斬撃へとつながり、右に下に二筋の銀光が走る。
「飛燕十字斬!!」
「ぎぇっ」
ざん、ざざんっと影の化け物に十字架の印が刻まれる。刻印された聖なる印にじりじり灼かれてもだえ苦しむ『ビビ』にさらに止めの一撃。
「忍び(それがし)の心の刃受けるでゴザル……」
至近距離からロイが両手で放った衝撃波が魔女の全身を内側から押し広げて、膨張させる。
「心威発剄!」
ほとばしる鋭気一閃。ぶわっと風船が破裂するように散り散りに、木っ端みじんと吹き飛ばした。青く霞む月光の森に、魔女の断末魔の絶叫が響く。
ほんのしばらくの間、落ち葉が舞い散るようにはらはらと切れ切れになった黒い影が漂っていたが。
シャリン、と鳴らされた鈴の音に追われ祓われ浄められ、跡形もなく掻き消える。
「お見事」
「先生!」
「先生っ」
ヨーコはちょこまかと教え子たちに歩み寄り、ぽん、ぽん、と背中を叩いた。
「よくやったな、風見。えらかったぞ、ロイ」
満面の笑みを浮かべてつやつやとした黒髪を。柔らかな金色の髪をくしゃくしゃとなで回す。あの時立ち止まっていたら、この子たちには会えなかった。こうして肩を並べて戦うこともなかった。
彼と出会うこともなかった。
自分たちが救ってきた人たちも、未だ悪夢に苦しめられたまま。命さえ落としていたかもしれない。
悔しいけど。ほんっと、心底シャクだけど。『あの人』の言うことは正しかったのだ……。
がさっと青い木々が揺れ、巫女姿のサクヤと黒尽くめのランドールが姿を現した。
「よーこさん」
「あ、サクヤちゃん」
「銃声聞こえたから……心配した」
「うん、もう、大丈夫」
青い光。青い木、青い地面。夢魔の紡いだ幻が希薄になり、形を失ってゆく。
ああ。月光の森が消えて行く。
あの人と最後に会った場所。
最初で最後のキスを交わした場所が……。
※ ※ ※ ※
「あ」
湿った風。海のにおい。波の音。現実が戻ってきた……いや、現実『に』戻ったのか。
藍色の空には星が輝き、ほっそりした三日月は既に西の地平に沈んでいる。
「今、何時?」
「23時デス」
「ふむ。ダイブしたのが20時ごろだから、そんなもんか」
うずく右手を抱えながら、ランドールはひっそりと立っていた。ヨーコから少し離れて……けれどあくまで顔の見える位置をキープしつつ。
子どもになっていた時の記憶は鮮明に残っている。思い返すだに己の不甲斐なさにはらわたが焼ける思いだ。
君を守りたかった。
それなのに、私のしたことと言ったら……べそべそ泣きながら『お姉ちゃん』の後をついて回っただけ。
情けないにもほどが有る。
うつむき、苦い笑みを噛み潰した瞬間、風に乗って小さなつぶやきが聞こえた。
「寒……ぃ……」
はっとして顔を上げる。
何てこった。彼女、ずぶ濡れじゃないか!
白いキモノも、赤いハカマも濡れそぼり、ぺったりと体に張り付いている。背筋こそぴんと伸ばしているが青ざめ、ガタガタ震えている……。
自分が何をしようとしているのか。
意識するより早く走り寄っていた。
「ヨーコ」
「どしたの、カル……わぷっ」
自らのコートの前を開いて包み込み、抱きしめた。
「ふぇ……?」
ヨーコは一瞬体を堅くしたが、目をぱちくりさせてじーっと見上げてきた。
髪を撫でる。ああ、やっぱりぐしょ濡れだ。いったい何があったんだ。まさか海水浴でもしたんじゃあるまいね、君?
腕の中の彼女がぴくんと震える。寒さのせいだけではなさそうだ。
「カル……」
すっぽりと包まれてしまった。
自分の体とはまるでつくりが違う。がっしりとした骨格も。引き締まった筋肉も、何もかも。
もう、小さなカル坊やじゃないんだ。
「私が子どもだったとき、君は私を守ってくれた。ちゃんと覚えているよ……ありがとう」
参ったな。このタイミングでそれ、言うか? ああ、まったくこの人は。
(守られていたのはむしろ私)
(頼ってくれる弟がいたから『お姉ちゃん』でいられた)
震える手でランドールの服を握った。ずっと折り畳んでリュックに入れてあったからすっかりしわくちゃだ。でも。
「あったかい。あったかいなぁ……」
それだけ言うと、ヨーコはランドールの胸に顔をうずめた。
見られるのが恥ずかしかったのだ。
とめどなくあふれる涙を、風見やロイ、サクヤに見られてしまうのが。
大きな手のひらが頬を包む。優しい指先が涙を拭ってくれる。繰り返されたばかりの喪失の痛みがふわっと溶けて、拡散して行った。
「っつっ」
「………」
怪我してる!
この人ってば……。
赤く爛れた右手に顔をよせ、口づける。
ただ願うだけで良かった。彼の痛みを癒したい、と。
「……えらかったね、カル」
「ありがとう」
心の底から愛おしいと思った。自分を包んでくれる温もり、今、この瞬間ほほ笑みかけてくるサファイアブルーの瞳、波打つ黒い髪。
その身に宿る弱さ、強ささえも、全て。
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▼ 【6-13】再び悪夢の中へ
【エピソード6】
カルヴィン・ランドール・Jrは四角い、細長い建物の中に居た。中はがらんとしていて人の気配はない。
夢の中に入ったことは間違いなさそうだ。
身にまとっているのは裏地の赤い黒のマントに白のドレスシャツ、髪は長く舌先に触れる犬歯は鋭く尖っている。だが昨夜と異なり、目を閉じてさえひしひしと感じられるはずの仲間たちの気配はない。
意識を集中すると遠くかすかに木霊のような波を感じる。彼らも夢に入ってはいる。だが、この場にいるのは……
自分一人、か。
しかし、その寂しさを補うかのように、細く伸びた廊下にも、壁にも、天上にも、乱雑かつうすっぺらな装飾が施されていた。
紙を切り抜いた幽霊、ビニールのコウモリ、発泡スチロールやプラスチックのカボチャ。床にも壁にも天井にも、Gの生じるありとあらゆるところに飾りがぶら下がっている。
ランドールはわずかに眉をしかめた。ああ、またここに来てしまったのか。ジュニア・ハイのハロウィン。本来なら楽しいイベントだが彼にとっては苦々しい思い出の根付く場所と時間。
確かに魔女は自分の『心の闇』を狙ってきたのだ。
不愉快だ。
こんな所にはあと一秒だって居たくはない。早く抜け出してヨーコたちを探そう。
無造作に踏み出すと、天上からぶらさがる何かが顔に触れた。
紙の幽霊か、それともコウモリか?
「う」
強烈な臭気に思わず顔をそむける。本来なら決して不快なにおいではない。むしろ食欲をそそるはずなのだが、物には限度と言うものがある。
しかも、こいつはいい具合に腐敗している。それにこの大きさはどうだ。まるでリンゴだ。
見渡す限り続く廊下には不自然なほど大粒のニンニクを、大量に連ねてリースにしたものがぶらーんと、何本もぶらさがっていた。
悪趣味な!
ざらりと払いのけた手のひらに鋭い痛みが走る。
「くっ」
腐ったニンニクの中に鋭く尖らせたえんぴつが仕込まれていた。えぐられた傷口に、濃い赤がにじみ……滴る。
「ドラキュラは故郷に帰れ」
単調な声が背後でささやく。とっさにマントを翻して打ち払った。
いつの間にそこに居たのだろう。顔のないおぼろな影がひしめいていた。手に手に輪にしたロープや杭を振り上げ、異口同音に叫ぶ。抑揚のない機械じみた合成音声のような声で。
「ドラキュラは故郷に帰れ」
「吸血鬼を吊るせ!」
「しつこいぞ……」
真っ赤な血の滴り落ちた場所から、棘の生えたツルがにょきにょきと、芽生えて伸びて、ランドールの右手にからみついた。だが鋭い棘が彼の手を傷つけることはない。
びしり!
茨の鞭を閃かせ、押し寄せる顔のない影を引き裂いた。一撃食らうなり、影どもは降り積もったほこりのようにあっけなく千切れてくたくたと崩れ落ちる。だが、数が尋常ではない。後から、後から押し寄せる。
「ドラキュラはぁああああ故郷にぃいい帰れ」
「吸血鬼を吊るせぇええええ」
「首を撥ねろ」
「首を撥ねろ」
「口にニンニクをつめて」
「首を撥ねろ」
ひしめく影の向こうにぞろりと、三日月型の刃が踊る。
いくら切り裂いても、はね飛ばしても一向に数が減らない。とがった杭の先端が顔や腕を引っ掻く。一つ一つの傷は小さいが、確実に数が増えて行く。
満身創痍、荒く息を吐きながらランドールはだらりと手をたらして立ち尽くした。
「首を撥ねろ」
「首を撥ねろ」
「断頭だ」
「処刑だ」
「打ち首だ」
ゆらゆらと影の頭上に見え隠れしながら三日月の刃が近づいてくる。
右手にからみつく鞭が形を変える。ひらべったく、細長く……鋭い切っ先をそなえて。
「吸血鬼を処刑しろ!」
今だ。
振り向き様、右手を繰り出す。手にした十字架が深々と赤い衣に包まれた痩せた胸に食い込む。
握りしめる手のひらが焼け付き、白い煙が上がる。
一度は乗り越えたはずの悪夢。だが、あの時は彼女が一緒だった。己の負うた心の闇は、やはり最終的には自分一人で打ち破らねばならないのだ……。
意志の力で痛みをねじふせ、一気に貫き通した。
「さて……どんな気分かな。吸血鬼に十字架で串刺しにされると言うのは?」
「げぇええっ」
山羊角の魔女はごぼっと喉を鳴らし、口から大量にどす黒い霧を吐き出しながら乾涸びて行く。縮んで行く。
「この傷はもう、乗り越えた」
十字架から手を離す。かさかさに乾ききって軽く、うすっぺらになった魔女の体が崩れ落ちる。身につけていた赤い衣もすっかり色あせて灰色にわずかに赤みが混じる程度。それすらも刻一刻と失われて行く。
ばさり、とマントを翻した。鮮やかに裏地の赤がひらめき、幻の校舎も、ハロウィンの飾り付けも、ニンニクのリースも何もかも全て消え失せる。
立っているのはランドールただ一人。
そっと手を伸ばして触れる。長く伸びた黒髪を束ねる赤いリボンに。
「痛っ」
高ぶりが引いてきたせいか……十字架で焼けた右の手のひらがずくん、とうずく。
だが、些細なことだ。
そして、彼は歩き出す。悠然とマントを翻し、優雅な足取りで……振り向かずに前へと。
※ ※ ※
サリーこと結城朔也は暗い部屋に居た。窓と言う窓が真っ黒に塗りつぶされている。
手足の指先から凍てつく冷気が忍び寄る。
(寒い……)
襟元をかきあわせて気づく。身につけたものが変わっていた。白い小袖に緋色の袴。また、無意識のうちに巫女装束をまとってしまったらしい。
「うぅ……」
だれかが呻いている。はっと顔を向けると、部屋の中央に鉄の寝台があった。
背の高い男がうつぶせに張りつけにされている。手首に、足首に鉄の輪が食い込み、彼の手足をベッドの支柱にがっちりとくくり着けていた。
闇の中、むき出しの背中が白く浮かぶ。がっしりした骨格の上を包む均整のとれた引き締まった筋肉、滑らかな肌。しかし、そこには一面に深々と無数の細長い針が突き立てられていた。
まるで展翅版に留められた蝶の標本だ。
闇が凝縮したような真っ黒な男がのしかかり、赤い髪の毛をまさぐっていた。執拗になでまわし、しゃぶり、顔をすり寄せる。合間に自らの胸に手を入れ、ぞろりと針を引き抜き、獲物の背に突き立てる。
「よ……せ……フレディ……」
「ずうっとお前をこうしてやりたかったんだよ……」
「や……め……ろ……」
新たな針が皮膚に突き刺さり、貫かれるたびに歯を食いしばり血の涙を流す。
傷口から吹き出す血が背中に広がり、不吉な翼の模様を描き出す。
あれは、ディフ?
手足の自由を奪われたまま、なす術もなく影の男に苛まれるその姿は普段の快活で堂々とした彼からは想像もつかない。けれど………確かにディフだ。
影の男はにたり、と白い歯を見せてせせら笑い、己の体の中からさらに鋭く、さらに長い針を引き出した。
先端から緑色の粘液が滴り落ち、組み敷かれた虜の肌を焼く。
食いしばった歯の間からくぐもった悲鳴が漏れる。影の男は手にした針をこれ見よがしに振りかざした。
「やめろ!」
一歩踏み出した瞬間、背後からやせ細った腕にがっちりと羽交い締めにされる。むわっと濃密な獣の息がにおい、耳元で聞き覚えのある女の声がささやいた。
「優しいねえサリー。その優しさが命取りだよ」
「ぐっ」
間近に見下ろす魔女の顔は、半ば焼けこげて一層、凄惨さを増していた。横に割れ裂けた金色の瞳がほくそ笑む。
にゅるり……どす黒い肉厚の舌が魔女の口から吐き出され、首筋を這いずる。骨張った指が装束の内側に潜り込み、胸元をまさぐり太ももをなであげる。
ぞわりと肌に粟粒が浮いた。
「ああ、きれいだねえ。いい肌をしてるね。すべすべしてる……いっそひん剥いてもらい受けようか。あたしの焼けこげた肌の代わりに」
「やめろ……その手を……離せっ」
ぐいっと乱暴に襟元をはだけられる。乱れた白衣の合間から胸が鎖骨のあたりまで露になり、冷気にさらされる。
「助けを呼んでも無駄だよ。お前の大好きな『よーこちゃん』も、今頃は……」
乱杭歯をむき出しにして魔女があざ笑った。
(嘘だ)
きりっと唇を噛む。
羊子さんに何かあれば真っ先に自分がわかる。夢の中にいればなおさらに。仕掛けられる悪意までは感知することができないけれど……少なくとも今、この瞬間は羊子さんは無事だ。
目の前ではディフが凍り付いたように動きを止められていた。ヘーゼルブラウンの瞳を恐怖に見開いて……最悪の瞬間のまま固定されている。
ディフは心根のまっすぐな人だ。だれに対しても誠実で、見ず知らずの他人の子にさえ母親にも似た無償の愛を惜しみなく注ぐ。
それ故、夢魔の嗜虐心をそそったのだろう。オティアを介して彼の心の闇に付け込み、浸食し、あまつさえ自分を誘い込むための囮に仕立て上げたのか。
ひしひしと冷たい怒りがわき起こり、サクヤの中を満たして行く。
許さない。
右手の中に赤い組紐で綴られた金色の鈴が出現する。
緑、黄色、朱色、青、白。五色のリボンとともに大小の『夢守りの鈴』をブドウの房のように綴ったそれは、羊子のものに比べるとほっそりした作りで、持ち運ぶ際にかさばらないように工夫されていた。
それこそ上着のポケットにもしのばせたり、大きめのストラップと言っても通じそうなくらいに。
シャリン。
鈴の音に魔女がびくん、とすくみあがる。人を絶望のどん底に封じ込めておきながら自身は苦手なもの、恐いものにひどく敏感で苦痛にも弱い。
だからこそ敵を呪いで弱い姿に変えていたぶるのだろう。
「玉の御統(みすまる)、御統に……」
「何をぶつぶつ言ってるんだいっ」
ぱちっ、ぱちっと空中に青白い稲妻が走る。
「あな玉や、みたま、二谷渡らす」
「ええい、おやめっ! その歌をおやめっ」
きりきりと胸板に爪が突き立てられる。だが、やめるものか。
ひるまず一段と強く鈴を打ち振り、ひといきに雷神の御名を呼ばわった。
「阿遅志貫高日子根の神ぞ」
どん!
轟雷とどろき、はるか天空の高みより、青白く輝くの光の御柱降り来たる。禍々しい闇を切り裂き、真っ向から魔女を打ち据えた。
ぱりっと微弱な電気がサクヤの体を駆け抜け、髪の毛を。巫女装束の裾を舞い上がらせる。
だが、それは彼にとって慣れ親しんだ感触で、多少くすぐったくはあるものの不快だとも痛いとも感じない。
もだえ苦しみながら光の柱の中で魔女が焼かれて行く。手が、足が、顔が乾涸び肉が溶け、皮が張り付く。角と骨だけになってもまだ魔女は叫んでいた。
サクヤは無造作に右手を振るって鈴を打ち鳴らす。
シャリン!
澄んだ音色とともに魔女の体は形を失い、灰色の芥と成り果てぼろりと崩れ落ちた。欠片も残さず散り失せて、同時に鉄の寝台も消えた。
「ふぅ」
小さく息を吐くとサリーは乱れた装束を整え、うずくまる友人の傍らに歩み寄った。
「……ディフ。こんな所にいちゃだめです」
「……あ……サリー……」
むき出しの肩にやわらかな毛布をかけた。
「これは、夢です。ただの夢。目覚めたら全て忘れてしまう」
「そう……か……夢なのか………」
「はい」
ほほ笑みかける。恐怖と苦痛のあまり虚ろになっていたディフの顔に、ようやく安堵の表情が浮かんだ。
「さあ、行って。レオンさんが待ってますよ」
「うん………」
背中を苛む針は消え失せ、代わりに柔らかな金色の翼が広がる。背後から彼の体を包み込むように。
「レオン………」
愛おしげにつぶやくうちにディフの体は徐々に薄れ、光の中に消えて行った。
良かった。もう、大丈夫だ。
不意に目の前の空間が揺らぎ、黒いマントをまとった背の高い男が現れた。思わず身構えるが、ネイビーブルーの瞳を見て安堵する。
「サリー! ここに居たのか」
「ランドールさん」
「ヨーコは? 一緒じゃなかったのか?」
「あ……羊子さん!」
ターン……と遠くで銃声が響いた。2人ははっと顔を見合わせ、走り出した。
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▼ 【6-12】全員集合
【エピソード6】
電話を切るとランドールは二階の窓を開けた。
やっと大人の手が通り抜けるぐらいに細く。テリーはまだ目を覚まさない……幸い。念のため通話記録を消去して、元通り携帯をデスクの引き出しにしまった。
「……ありがとう。感謝しているよ」
軽く唇を重ねてお休みのキスを贈り、窓から外に出た。夜の空気の中をひらひらと薄い丈夫な皮膜の翼が泳ぐ。
町中にいるにしては少々、サイズの大きなコウモリが東を目指して飛び立った。
※ ※ ※ ※
「先生、質問」
「どーした、風見?」
「……結婚式って、だれの? ランドールさんも一緒だったんですか?」
「うん。マックスのね。八月にあのレストランでやったの」
「あー、はい、あそこに見えるお店ですね……そっか、所長さん、奥さんいたんだ」
「うんにゃ。どっちかっつーと彼が嫁」
「え?」
「ええ?」
「旦那は高校の先輩でね。カルの会社の顧問弁護士やってる人で、レオンハルト・ローゼンベルクっつーの」
「ああ、それでMr.ランドールも招待されてたんデスネ」
「そゆこと。サクヤちゃんも一緒だったんだよ」
どう言うことなんだろう。ヨーコ先生とロイはさらっと話してるけど……何か今、すごいこと聞いちゃったような気がする。
「えーっと、えーと、つまりそのマクラウドさんが結婚した相手って」
「要するにMrとMrの結婚式だったんデスネ」
「そゆこと……ロイ。あれの準備して」
「了解」
てきぱきとサクヤとランドールを誘導する準備を進めるヨーコとロイを見ながら風見光一は一人、目を点にして立ち尽くしていた。
※ ※ ※ ※
サンフランシスコの夜空をコウモリが飛ぶ。
南からはフクロウが。
どちらも目指すは同じ場所。
ロイは静かに目を開いた。
「……来ました。羽音が二つ……鳥と、コウモリです」
「OK。ロイ、合図を」
「御意!」
ぱしゅっと地面に立てた小さな筒から、光玉が一筋夜空に上がった。
「たーまーやー」
「花火ちがいマス! これは煙玉です!」
「光ってるけどな」
「No! 由緒正しいニンジャ道具なのデス!」
「あー、はいはい……あ、来た」
フクロウが地面に舞い降りる。翼を収めたと思ったら、すっとサクヤが立ち上がった。
「サクヤちゃん!」
「よーこさん………」
「無事でよかった」
2人は静かに抱き合った。
「冷たっ、よーこさんずぶ濡れだよっ?」
「あー、ちょっくら海で禊してきたから!」
やや遅れてコウモリが地面に舞い降り、すっくと立ち上がる。素早くロイが紳士服の詰まったリュックサックを差し出した。
「Mr.ランドール、これを」
「……ありがとう」
社長が着替える間、四人は例に寄って行儀良く目をそらしていた。
「もーいーかーい?」
「……お待たせ」
※ ※ ※ ※
「ハロー、蒼太?」
「羊子さんっ! 元に戻れたんですね?」
「ええ。力になってくれて……ありがとう」
「良かった、本当に」
「和尚、そこにいる? ダイブの許可をもらいたい」
「その件ならもう許可をもらってる。存分にやってこい、とさ」
「ありがと。それじゃ、行ってくるね」
通信を終えるとヨーコは一同の顔を見渡した。
昨夜と同じ五人がそろった。
ただし、今度はダイブの行き先が違う。
「今回の犠牲者は、私たち自身。自分の夢にダイブすることになる。おそらく、私たちか、親しい誰かの心の闇を利用して襲って来る……それが、ナイトメアの手口」
「親しい人?」
「友人や家族。特に今回の相手は絡め手がお好きなようだから、心してかかって」
緊張した面持ちでうなずく。
「もしもの時は風見、ロイ」
「はい」
「ハイ」
「私の指示を待つ必要はない。己の判断で動け。OK?」
「………」
風見とロイは互いに目を見合わせた。わずかに不安の色が走るがそれも一瞬。
「わかりました!」
「お、きれいに声がそろったね。頼もしい……それじゃ、サクヤちゃん」
「うん」
ぱしぃん。
サクヤとヨーコは同時に両手を打ち鳴らし、祝詞を唱え始めた。
「掛まくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に」
黄泉の国から戻ったイザナギノミコトが海で禊をした故事に基づく祝詞。
波打ち際は常世と現世の交わる所。浜辺に打ち上げられるものは寄りモノと呼ばれ、海の彼方より訪れる神の寄代とされた。
「禊祓へ給ひし時に成り座せる祓戸の大神等 諸々の禍事 罪 穢有らむをば」
しゃらりと神楽鈴が鳴り、五色のひれが宙を舞う。
「祓へ給ひ 清め給へともうす事を」
「祓へ給ひ 清め給へともうす事を」
リン、リン、リン。サクヤもまた、自らの首にかかった小さな鈴を振った。
「聞し食せと 恐み恐みもうす………」
「神通神妙神力……」
大小二つの鈴の音が互いに響き合い、幾重にも重なり溶け合って一つの音色を奏でる。
「加持奉る!」
空気が揺れる。
ほんのわずかな揺らぎ。
まばたきよりも早く、狩人たちは境目を越えた。
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