▼ ひゅーどろ芸者
- はじまりの物語、3編目。
- 前の2本に比べて肉付け多め。
辰巳芸者の夢吉は夏になるとにわかに売れっ妓になる。
日が沈んでもうだるような暑さ居座り、ちょっと動いただけでじっとり汗ばみそうな日が続くと、決まってあちらこちらのお座敷からお呼びがかかるのだ。
理由はわかりきっている。
器量が良いとか声が良いとか。三味の腕やら踊りが上手いからとか、そんな真っ当なもんじゃない。
暑さ払い。さらに煎じてつきつめれば肝試し。
やれ物悲しげな笛の音が聞こえたとか、庭の隅で青白い鬼火がちらちら燃えていたとか。
果ては障子にうつむく人影が映ったが、開けてみたら誰もいなかったとか……。
夢吉の向かう先行くところ、とにかく背筋のぞうっとするよな奇怪な出来事が相次ぐものだから、自ずとそれを面白がる旦那衆からお声がかるようになってしまったのだ。
近頃ではもっぱら「ひゅーどろ芸者」なんぞと言うあまり人聞きのよろしくない呼び名で通っているが、忙しいのは大いに結構。
稼ぎも増えるし悪い気はしない。
ただ、初めて彼女の顔を見た客が、そろいもそろって判で押したようにおんなじ事を口走るのには閉口した。
「お前さんが夢吉かい? こいつぁとんだ桜草だねぇ」
無理もない。広い肩幅、高い上背、がっちりした骨組み。並の男と比べても、滅多にひけを取ることはない。
要するに、『桜草の』夢吉はきわめて図体のでかい女なのである。
※ ※ ※ ※
今日も今日とて汗ばむ陽気。お天道様は朝からカンカン照りに照りつけて、息をするだけでも熱気がもわっと鼻から喉に流れ込み、五臓六腑を蒸し上げる。
着物の布地と肌の間にすら忍び込み、まとわりついて多少払った程度じゃ離れやしない。
じわわ、じわわと鳴く蝉どもは息継ぎをする気もないらしく、声の大小に若干の波はあるものの、一向に途切れる気配はない。
(やれやれ、今夜も忙しくなりそうだねぇ……)
湯屋からの帰り道、桶と手ぬぐいを抱えてほてほてと歩いていると。
「もし、そこのお方」
透き通った声音で呼び止められた。
青白い月の光が薄く固まって、しゃりんと触れ合うような声だった。
「あたしのことかい?」
振り向くと、巫女がいた。
そう、巫女だ。白い小袖に緋色の袴、手にしているのはお神楽の鈴。
と言っても神社に居て大人しく祝詞なんざ唱えているよな楚々としたたたずまいの娘さんとはちょいと訳がちがう。
町中をそぞろ歩いては請われて神楽を舞い、祝詞を唱えて方々の家やらお店から門付をもらう。いわゆる歩き巫女と言う奴だ。
「はい、あなたです」
うなずいた拍子に手にした神楽鈴がしゃらりと鳴った。今度は本物の鈴の音だ。
話す言葉は謡のよう、ちょっとした仕草も実にしなやかで、さながら踊りの振りの一部のよう。
それに、何より可愛らしい。
ほっそりした瓜実顔。ぱちっとした瞳。体つきも細く華奢。ちょこんと首をかしげて見上げるその顔に、四年前に亡くした妹分の面影が重なった。
「何か用かい?」
「はい。あなた……」
ぱちぱちとまばたきすると、歩き巫女はにこっと微笑みさらりと言った。
「ついてますね」
「え? あたしが?」
あわててごしごしと手の甲で口もとを拭う。
「あらやだ、胡麻の粒でもついてたかね。それとも青ネギ?」
「いえ、お口ではなくて……」
すうっと顔を寄せて、袖の陰から声を潜めて囁いて来る。
「あなたの、後ろに」
「え」
『ええっ』
夢吉の肩の後ろでもう一人、飛び上がった奴がいる。
illustrated by Kasuri
ふよふよとした白いオタマジャクシのような塊。すっと通った鼻筋、糸目に麿眉。見目麗しいと言えなくもない程度に整った目鼻にちょこんと被った烏帽子が目立つそいつは、夢吉以外には目にも見えず、声も聞こえないはずだった。
そう、今の今までは。
「あれま、あんたこいつが見えるのかい?」
「はい」
「声も聞こえる?」
「…………………………和泉屋の羽衣煎餅を所望だ、と言っておられますね」
「こりゃ驚いた! さすが巫女さまだねえ、大したもんだよ! それで……」
こそこそと耳もとに囁き返す。
「ついでにこいつも、お祓いしてもらえないもんかね?」
「え、え、え」
しゃりしゃりと鈴が鳴る。かぶりを振ったのだ。
「いけませぬ、そのようなこと」
「正直、ほとほと困ってるんだよ、この宿六幽霊には! 偉そうな口きく割には何の役にも立ちゃしないしね?」
『何と薄情な! おぬしのようなウドの大木が、今のような売れっ妓になったは誰のおかげぞ!』
「おだまり」
ぴしゃり、と言い返すと麿眉の幽霊はひくっとすくみあがった。
「あんたのおかげで何度引っ越しする羽目になったと思ってるんだい!」
『そ、それは麿のせいでは』
「いーや、あんたのせいだね」
青白い鬼火も、障子に映る人影も、物悲しげな笛の音も。
お座敷ではあくまで暑気払いの余興、一時の退屈しのぎで済むが、毎晩毎晩続くとなればこれは立派に迷惑の元。
こいつを背負い込んだこの四年と言うもの、一つ所に三月と落ち着けた試しがない。
せっかくの夏場の稼ぎも引っ越しではらはらほろり、朝露よりも儚く消える。これではたまったもんじゃない。
「あーのぉ……せっかくですが、祓うことはできませぬ」
「そんなに性の悪い幽霊なのかい!」
「いえ、いえ、そうではなくて」
巫女さんは麿様の方を見て、夢吉を見て、それはもう、厳かな口調で言ってのけたのである。
「そのお方は、たいへん力のあるツキガミさまです」
「ツキガミ?」
「はい」
じとーっと肩の上でふよふよと漂う麿様幽霊をねめつける。
『ふ、ふふふん、恐れ入ったか』
なるほど、確かに憑いている。しかしこれの、どこが?
どう考えてもそんなご大層なシロモノには見えない。そりゃ、まあ、初めて会った時こそ真っ当な人間の形をしてはいたが……。
まぶたの裏に鮮やかな朱色がひろがり滲む。
曼珠沙華。曼珠沙華。またの呼び名を彼岸花。
すっと伸びた茎の先、ふらふら揺れる朱の色。
葉も無くただただ花のみが。
この世とあの世の境目の、岸辺に群れる朱の色…………。
四年前の秋。
流行病でぽっくりと儚くなった妹分の墓参りの帰り道、いつのものとも、だれのものとも知れぬ朽ちかけた墓標の前にそいつは佇んでいた。
思わず足を止める。
砂利を踏む下駄の音が止まったその刹那。
変わった形の着物に袴、烏帽子を被った相撲の行事だか神主みたいな格好の若い男が、物憂げなまなざしを向けてきた。
『ふむ………女……か?』
白い着物を通して向こうの曼珠沙華の朱が透けて見える。ひと目でこの世のものではないと知れたが、何故か恐ろしいとは思わなかった。
ただ、こんな幽的にまで男とまちがえられそうになったかと思うと、そのことがやたらめったら腹立たしくて……
ぎろりと睨み返した。
『む、む、む。おぬし、麿が見えるな?』
するすると男は宙をすべるようにして近づき、ひゅるひゅると縮み……ちんまりと肩の上に収まってしまったのである。
同時に古びた墓標は音もなく朽ち果て塵となり、風に吹かれて曼珠沙華の合間に消えて行った。
以来、ずっと居座っている。
どんなに名前を尋ねても頑として答えぬので、麿様と呼んでいる。
「こいつが、カミサマねえ………」
「はい。と、申しましても神社に祀られているよな方々よりは、もうちょっと、その」
「格が下?」
「いえ……決してそのような」
「ああ」
ぽん、と手を叩く。
「俗っぽい」
「………そう、そう、そんな感じ」
両方の袖で口元を軽く抑えてころころと笑っている。
ああ、この笑い方。
いいねえ、何だか見てるだけでお腹ん中がぽっぽとあったかくなってくるよ。
「ねえ、巫女さん」
「はい?」
「せっかくだから、もっと色々教えておくれでないかい? そこでぜんざいでもつつきながら、さ?」
「ぜんざい………」
「ああ、もちろん冷たいのだよ。さすがにこの暑気ん中、あっついのをすするのもねえ?」
ぽわっと巫女さんの頬のあたりが薄紅色に染まった。
「はい、よろこんで!」
「よし、決まりだね」
店に入り、外の日差しを避けただけでも、すうっと汗の引くような心地がした。
運ばれてきた冷やしぜんざいを見る巫女さんの目の何ときらきらしている事か。
やっぱり女の子だねぇ。甘いもんには目がないと見える。
「さ、遠慮なくあがっとくれ」
「はい、いただきます」
そ、と手を合わせて小さな声でよどみなく何やら唱えている。
「たなつものもものきぐさも あまてらす ひのおおかみの めぐみえてこそ……いただきます」
釣られて夢吉も見よう見まねで手を合わせる。何やら組み方が妙な具合になってしまったが、とにかくまあ手を合わせて、最後の一節だけ一緒に唱えた。
「いただきます」
名を尋ねると、巫女さんは口に入れた白玉をこくり、と飲み込み、答えた。
「月と申します」
「そうかい、お月ちゃんかい。いいね、ぴったりだ」
「そう……ですか?」
「うん、うん。しっとりして、文句なしにぴったりだよ」
「ありがとうございます。それで、姐さんのお名前は、何とおっしゃるんですか?」
「あたしは夢吉ってんだ」
「ゆめきち」
「柄でもないだろ?」
「……いいえ」
すうっと黒目がちの瞳が細められる。
すぐそばからまっすぐに見据えられているにも関わらず、どこかとてつもない遠い場所を見通しているように感じられた。
「ぴったり、ですよ………」
「そうかねぇ」
「ええ。じきにわかりますとも」
これが、辰巳芸者の夢吉が風変わりな『片手技』に手を染めるようになったてん末であった。
半ば現に半ばは夢に。
胡蝶の羽ばたき転寝の、一座に上がる最初の一幕。
(ひゅーどろ芸者/了)
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