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▼ 【4-6】メロンパンの森
【エピソード4】
文化祭も無事終わり、そろそろ秋も深まってきたある日の昼休み。
ロイは胸の時めきを爽やかな笑顔で巧みに隠しつつ、幼なじみの風見光一に声をかけた。
「Hey,コウイチ。一緒にランチを食べないか?」
「うん、いいよ?」
うきうきしながら並んで歩いて行くその先は、しかし学食ではなく何故か部室だった。
「……Why?」
「だって、俺もロイも弁当じゃないか。屋上で食うのも気持ちいいけど、今日は風強いだろ?」
2号校舎の4階はもともとは三年生が使っていたのだが、昨年新設された3号棟に移っていったため、大量に部屋が空いた。
そこで空き教室を有効に活用すべくこの一角は文化系クラブの部室や生徒会の執務室に転用されたのだ。
そして風見とロイ、遠藤 始の3人は『民間伝承研究会』、略して『伝研』なる同好会に所属している。
顧問は言わずと知れた社会科教師、結城羊子。
とかく人には言えない理由で……もとい、人知を越えた事件を解決するために行動する際、部活動と言うのはかっこうのカモフラージュなのだ。
妖怪や魔物、魔術に呪術、妖術、怪人、怪獣。怪しげな話題を展開していようが、休日ごとに神社や寺に足蹴く通っていようが対外的には『部活ですから!』の一言で説明できる。
(はっ、でも、これは考えようによっては学食よりイイかもしれない!)
基本的に文化部の部室は一つの教室をパーテーションと戸棚で区切って二部屋に分けている。彼らの部室は顧問の根回しと裏工作で上手い具合に校舎の角部屋をあてがわれていた。しかも隣は物置だ。
多少、行き来に時間はかかるが人に聞かれて困る話も心置きなくできる。
ついでに言うと部員の一人、遠藤は昼休みは必ず早々に食事を済ませて自主トレに出かける。はち合わせする可能性はかなり低い。
二人っきりで静かにランチタイム!
予想とは若干違う展開になったものの、期待に胸をふくらませて部室に入って行くと……。
「あれ、羊子先生」
奥の椅子にちょこんと腰かけて、しょんぼりうつむいてる人がいたりするわけで。
身長154cm、うっかりすると生徒に紛れそうな童顔、だがこれでもれっきとした26歳。
夏休みの見回りで、「学校はどこかね」と補導員に声をかけられて「(勤務先は)戸有高校です」と答えたら「担任の先生は?」と真顔で聞かれたと言う伝説を持つ女教師、結城羊子。
彼らの担任にして同好会の顧問、そして『チームメイト』でもある。
ロングのストレートを本日はハーフアップにして、トレードマークの赤い縁のちいさな眼鏡を顔に乗せ、白いハイネックのセーターの上から薄いカフェオレ色のストールをくるりと巻き付けている。
何だかハムスターみたいな配色だ。それがまた妙に似合っている。
「どうしたんですか」
「小鳩屋さんのメロンパンが……売り切れてたんだ」
「ああ、学校の前のパン屋さん」
「仕方なくて角のコンビニまで遠征したんだけど、そこでも売り切れててっ」
しゅん、と羊子先生は肩を落してうつむいた。
「メロンパンが………買えなかったんだ」
「先生好きだもんね、メロンパン」
「メロンパンたべたかったのに………メロンパン………」
ふるふると小さく震えている。よっぽどがっくりきたらしい。空腹と失望のあまり、微妙に幼児化している。
購買で買ってきたら、と言いかけてロイは口をつぐんだ。どうやら風見も同じことを考えたらしい。
昼休みの壮絶な争奪戦の繰り広げられるパン売り場に、このミニマムでプチな先生が潜り込むなんて………。
想像してみる。
殺気立った食べ盛りの高校生が群がるパン売り場に、よじよじと羊子先生が潜り込んで行く。あっと言うまにもみくちゃにされて、きゅーっと床に倒れた所を踏みつぶされて………。
ロイと風見は同時にぶるっと身震いした。
(だめだ、あまりにも危険すぎる!)
(通勤ラッシュの山手線にハムスターを放り込むようなもんデス!)
「あのー、先生」
「ボクたちが買ってきましょうか?」
その瞬間、羊子先生は顔をあげて、にっぱーっと笑顔全開。こくこくうなずくと、赤いがまぐちから500円硬貨を一枚取り出して風見の手に握らせた。
「ありがとう! お釣りで好きな物買ってきていいよ」
※ ※ ※ ※
昼休みのパン売り場はやはり戦場だった。
お腹をすかせた食べ盛りの高校生がぎっちり群がり、獲物を確保しようとぎらぎらと目を輝かせてにらみ合う。一瞬の油断が命取り。
だが、幸いにしてこう言った場では「メロンパン」は人気が薄く、競争率は若干低い。
「よし、行くぞ……」
「コウイチ、ちょっと待った!」
ロイは親友の肩をわしっとつかんだ。伸ばした前髪のすき間からちらりと青い瞳がのぞく。
「ボクが行ってくる」
「大丈夫か?」
「ボクの方が身のこなしは軽いからネ! 適材適所だヨ」
(あんな、人口密度の高い所にコウイチが入って行くなんて……他の生徒にもみくちゃにされるなんてっ! ダメだ。絶対に、許せない!)
爽やかな笑顔を浮かべるロイの胸の内は、ほんのりブラックだった。
「わかった。任せたぞ、ロイ!」
「御意!」
しゅたっとロイは天井に飛び、空いた空間を見極めるやいなや、すかさず着地。床に足がついたときにはもう、メロンパンを確保していた。この間、わずか5秒弱。
「これクダサイ!」
「はいメロンパン、120円ね」
(よし、ミッションコンプリート!)
安堵した瞬間、後ろから圧倒的な質量と勢いで容赦無く押され、ぐらりとよろける。
(ふ、不覚っ)
バランスを失い、傾いたロイの体をがしっと力強い手が支えてくれた。
「コウイチ? いつの間に……」
「危なかったな、ロイ。買い物が終わったら横にどかないと危ないぞ?」
「う、うん………今度から気をつけるヨ」
コウイチが、ボクを助けてくれた。
コウイチが。
コウイチが!
「カタジケナイ……」
「気にするな!」
その瞬間、ロイの頭からはパン争奪戦を繰り広げるクラスメイトの姿も。購買部の喧騒も、まとめてデルタ宇宙域の彼方へすっ飛んでいた。
ぱああっと広がる虹色の光と天使のハープの音色に包まれて、彼は(ささやかな)幸福のただ中に舞い上がった。
「行こうか。先生が待ってる」
「うん!」
二人は手に手をとってパン売り場を脱出した。
「お釣りどうする?」
「そうだな、とりあえず飲み物でも買ってくか……」
自動販売機の前で立ち止まる。
「お、新作入ってる」
がしょん、と四角い紙パック入りのジュースが落ちてきた。
「ロイは何を飲む?」
「コウイチと一緒でいいよ」
「OK……ほら、これ」
手渡されたのは、柔らかなクリーム色の紙パック。表面に印刷された文字は……
「豆乳ヨーグルト……きなこ味?」
「体に良さそうだろ?」
(ああ、コウイチ。その、ちょっとズレてるとこも……滅茶苦茶キュートだ。全力でお仕えしたくなるヨ!)
※ ※ ※ ※
「はい、先生、メロンパン」
「わーい、メロンパンだーっ! ありがと、風見、ありがと、ロイ!」
メロンパンを受けとると羊子先生はぺりっと袋を開けて、両手で抱えてあむっと一口。しみじみと目を閉じて味わっている。
「んー……美味しい………」
その姿を見ながら風見とロイは同じことを考えていた。
何だか、リスみたいだな、と。
「どうした、お前ら、弁当食わないのか?」
いつもの調子が戻って来たらしい。
「食べますよ。あ、そうだ、先生これ」
風見はカバンからオレンジ色の丸いものを取り出した。
「親戚がいっぱい送ってきたんです。よろしかったらどうぞ」
「みかんか! うん、それじゃありがたく………うわあ、大きいな。ずっしりしてる!」
つやつやのみかんを手にとると、羊子先生はまずめきょっと二つに割って、それからちまちまと皮をむいて、ひとふさ口に入れた。
「うっ」
口をすぼめて目をぎゅーっとつぶっている。
「すっぱーっ」
(あー、甘いメロンパンの後に食べるから……)
でも、まだ食べる。次のひとふさを口に入れて、またきゅーっと口をすぼめる。どうやら、このすっぱいのが気に入ったらしい。
ひとふさひとふさ丁寧に、しみじみ味わっている。
少し考えてから、風見は携帯を取り出し、撮った。
「……何してるんだい、コウイチ」
「うん……なんか、和むから、動画で」
「なるほど、確かにそうだネ」
ロイも携帯を取り出すと、写した。
みかんを食べる羊子を撮影しながら、にこにこしている風見の横顔を。
手のひらいっぱい分の丸いオレンジ色の果実を残らず食べ終えると、羊子は指をちゅぴちゅぴとなめて、それからほうっと幸せそうに息をはいた。
「はー、おいしかった。ごちそうさま」
「どういたしまして!」
にこにこしながら風見光一は買ってきた紙パックにぷすっとストローを刺して一口すする。
「ん、けっこういける」
その隣でロイも同じ様にさりげなく、ぷすっとストローを刺してちゅーっと一口。
(ううっ、豆乳のこくが喉にからまって……ヨーグルトの酸っぱさと、きなこの甘みと絶妙の不協和音をっ)
「う、うん、美味しいネ!」
「何、それ。自販機の新作」
「そうです、豆乳ヨーグルトきなこ味です。はい、これおつり」
「律儀だなあ……もっと贅沢しても良かったのに」
「これで十分ですよ。なあ、ロイ?」
「うん、十分、十分だヨっ!」
(コウイチと同じジュースを飲んでる、それだけでボクは十分幸せだ……)
「ところでさ、風見。お前、パスポート持ってる?」
「一応……」
「ロイは持ってるから問題ないよな?」
「ハイ」
「ふむ……」
「どうしたんですか、先生」
「いや、事と次第によっちゃ、海外遠征に付き合ってもらうかもしれないんだ」
「どこに?」
くい、と羊子先生は人さし指で眼鏡の位置を整えた。赤いフレームの奥で、黒目がちの瞳がきらりと光る。
「サンフランシスコ」
※ ※ ※ ※
その夜、風見とロイは夢を見た。ひょっとしたら、二人で一緒に一つの夢を見ていたのかもしれない。
とにかく二人は森の中にいた。足元には、茶色や黄色、赤の落ち葉がふかふかと積もっている。
目の前をちょろちょろと羊子先生が走って行く。何故か手のひらに乗るほどの大きさで、両手で大きなメロンパンを抱えて。
木の根本をちょろちょろと。
そして、ちっちゃな手で地面を掘って、メロンパンを埋めて。土をかぶせて、落ち葉をのせて、満足げにうなずいた。
「何……やってるんだろう」
「保存してるんじゃないかな」
「もうすぐ冬だしな」
ちょろちょろっと走っていったかと思うと、またもう一個、メロンパンを抱えて駆けて来て、さっきとは違う場所に埋めた。
「いくつ埋めるんだろう。って言うか、ひょっとしたら埋めた場所忘れたりしないのかナ。もったいない」
「大丈夫、そうなったら春になったら芽が出て、すくすく育って、秋になったらメロンパンの実がなるよ……こんな風に、ほら」
風見が指さすその先には、メロンパンが鈴なりになっていた。
「そっか。こうやって自然の恵みは巡っているんだね……」
「この世には何一つ、無駄なものなんてないんだよ」
メロンパンの木の枝の間を、ちょろちょろとちっちゃな生き物が走って行く。
「あれ? 羊子先生が二人?」
「あっちはサクヤさんだよ」
「あ……ほんとだ」
サクヤと羊子が二人並んでちょろちょろと、足元に走りよってきた。
と、思ったら森の奥からもう一人、ちっちゃな生き物が走ってきて仲間に加わった。
「あれ、ランドールさん」
ちっちゃな生き物たちはロイと風見の足元で何やら互いにキィキィ話している。
良く見るとランドールが手に抱えているのはヒマワリの種で、サクヤが抱えているのは桜餅だった。
※月梨さん画「きぃ、きぃ、きぃ」
「そっか、主食が違うんだ……」
「サクヤさんの通った後には桜餅の木が生えて、ランドールさんの通った後にはヒマワリの種の木が生えるんだな」
ロイはのびあがって森の奥を眺めた。それぞれ桜餅(何故か道明寺)と、ちっちゃなジップロックに入ったヒマワリの種がすずなりになっていた。
しかもそれぞれの境目あたりには、ほんのりピンク色のメロンパンや、ヒマワリの種がトッピングされた桜餅までちらほらと。
「……ホントだ」
「かわいいなあ」
(むっ!)
その瞬間、ロイの胸の中でざわっと何かが燃え上がる。
(ヨーコ先生ならギリで許せる、でも、サクヤさんとMr.ランドールはダメっ)
ちっちゃな生き物に手を伸ばす風見より早く、ロイはランドールとサクヤをかっさらって抱き上げた。
「……ロイ、お前…………」
「か……かわいいねっ。うん、So cute!」
「いや……サクヤさんが泣いてる」
「えっ?」
きぃ、きぃ、きぃ!
ロイの手の中でちっちゃなサクヤがじたばたしてポロポロ涙をこぼしていた。
足元では羊子が心配そうに見上げている。ふるふると両手を伸ばしてロイのズボンの裾をにぎり、きぃ、と一声、鳴いた。
「Oh,sorry………」
そーっと地面に降ろすと、サクヤはとことこと羊子に寄って行く。羊子は安心したようだ。ぎゅっと両手でサクヤを抱きしめた。
※ ※ ※ ※
目がさめてから、風見はしばらく布団の中でぼーっとしていた。
(妙な夢見たなあ……)
羊子先生と、サクヤさんと、ランドールさん。いつも自分たちを教えて、導いてくれる人たちがあんなにちっちゃくなっちゃうなんて。
でも、可愛かった。
あれは何かの予知夢なんだろうか。それとも、ただの夢なんだろうか。
一方、ロイはベッドの中で幸せに打ち震えていた。
(森の中でコウイチと二人っきり……いい夢だった。神様ありがとう!)
ちっちゃな生き物の存在はとりあえずノーカウントってことらしい。
そしてその頃、サンフランシスコでは……
青年社長、カルヴィン・ランドールJrが、日本の『メル友』から送られた和み動画を見ながら昼食後のひと時を寛いでいた。
「ははっ、すっぱかったのか」
くすくす笑いつつ、彼女の小動物めいた動きにふと、昨夜見た夢を思い出す。
自分がものすごく小さくなって、森の中を走り回っていた。確かヨーコとサリーも一緒だったな……と。
時計の針は確実に進んでいる。日本とアメリカ、二つの道の交差する、ある一点を目指して。
(日常/了)
次へ→#5「桑港悪夢狩り紀行」(前編)
▼ 【4-5】青年社長の帰還
【エピソード4】
月曜日の朝。ランドール紡績の社長秘書、シンディはいつに無くいらいらと社長室の中を歩き回っていた。ふかふかの絨毯がヒールの踵をやさしく包み込み、音は響かない。
ちらり、とかっ色の手首に巻かれた銀色の時計に目を落す。そろそろ社長の出勤時間だ。しかし、彼は本当に来るのだろうか?
土曜日の午後、一週間前から失踪(そう、失踪だ!)していた社長からようやく電話があった。さすがにFBIに通報しようかと考えていた矢先に。
しかも当の社長と来たら、妙にさばさばした明るい口調でひとこと「今から戻る」と告げて、それからまた、連絡が途切れた。現在位置も告げずに、さっくりと。
いよいよFBIに通報か。それとも警察か。
まんじりともせずに迎えた日曜日の朝に再び電話があった。
「やあ、シンディ。実は車がエンストしてしまってね。迎えに来てもらえないだろうか」
とるものもとりあえず車をすっ飛ばして(かろうじてハンドルを握るのは運転手に任せた。とてもじゃないが自分で運転できる精神状態ではなかったのだ)電話のあった場所に駆けつけてみると、これがさびれた田舎町のこれまたさびれたドライブイン。
片隅のテーブルでにこやかに手を振る社長は髪の毛はぼうぼうに乱れに乱れ、無精髭は伸ばしっぱなし。
シャツはくしゃくしゃ、ジーンズは土ぼこりにまみれていい具合にうっすらベージュに染まっていた。
しかも所々に小さな穴が開いている。まるで大型犬にでも噛まれたように……。そして目の前のテーブルには空っぽの皿が積み上がり、ボウリングのピンみたいにころころとミネラルウォーターの空き瓶が転がっていた。
「いったい何があったんですか!」
「うん、岩漠地帯の真ん中で車がエンストしてしまって」
「それは聞きました。私が知りたいのは、その後です」
「しかたないからここまで歩いて来たんだ」
「ここまで? 歩いて?」
「電話をかけようにも圏外だったしね」
思わず声が裏返った。社長が常日頃体を鍛えているのは知っている。だが、それはあくまで都会に暮らすエグゼクティブな成人男性として見苦しくない程度の筋肉と体型を維持するためのものだ。アウトドア向けではない。
この人に、ほとんど飲まず食わずで土ぼこりにまみれて延々と石ころだらけの道を歩いて来るような体力があったなんて!
信じられないわ。
さらに信じられないことに、カルヴィン・ランドール・Jrは何故か裸足だった。
「靴はどうしたんですか」
「うっかり落したらしい」
「落す? どうやって?」
「歩きにくいから脱いだんだ。くわえていたらぽろりとね」
「くわえて?」
「あ、いや、抱えて、だ。混乱してるみたいだね……」
「そのようですね……」
素早くシンディはランドールの顔をのぞきこみ、傷の有無を確かめる。
さすがに疲れているようだが顔色はむしろ健康的。怪我もしていないようだ。ほうっと安堵がわきおこる。
「社長。貴方の取り柄はそのハンサムな顔ぐらいなんです」
「うん」
「プライベートで何をしても構いませんが……顔に傷を作ったら……許しませんわよ?」
はっとした表情で社長は額に手をやった。
「どうかしましたか?」
「あ、いや、何でもない」
その後、帰りの車の後部座席でランドールはすやすやと熟睡していた。
かろうじて意識を無くす前にエンストした場所を聞き出し、回収の手配を整えた。
そしてつい先ほど、ココアブラウンの70年型のシボレーインパラを発見、回収したと言う報告を確認したのだが……これが何と件のドライブインから60マイル(およそ100キロ)以上も離れた岩漠地帯のど真ん中だった。
いったい、何があったと言うのか。
社長の放浪癖にはさすがに慣れたが、今回のはあまりにもミステリアス。謎が多過ぎる。
あの後自宅まで送り届けたが、果たしてあのまま寝かせてしまって良かったものか。今日は大事な取引先の重役との会食が控えている。
迎えに行くべきだろうか? いや、いや、いくらなんでも小学生じゃあるまいし。ここはせめて電話を……。
携帯を開いた瞬間、ドアが開いた。
「おはよう、シンディ」
「社長」
※月梨さん画「社長と美人秘書」
素早く社長の周りを歩き回り、前後左右からくまなく身なりをチェックする。
いつもの黒を基調としたスーツに細いストライプのシャツ、きちんとダークブルーのネクタイをしめ、黒い髪は生来の柔らかなウェーブを崩さない程度に見栄えよく整えられている。
伸びていた無精髭もきれいに剃られ、さらに足元は磨き上げられた革靴を履いていた。
服には穴も空いていないし皺も寄っていない。ちゃんと靴も履いている。顔にはクマもなし、傷もなし、瞳は濁りのないサファイア・ブルー……よし、完ぺき。
2、3歩後ろに下がり、小さくうなずく。
「どうかしたかい?」
「いいえ。ただ、思っただけです」
珊瑚色のぽってりとした唇に艶っぽい笑みが浮かぶ。
「貴方が女ならもっと楽しめるのに……」
「光栄だね」
さらりとランドールは受け流した。
彼女の基準からすれば最大級のほめ言葉だ。シンディの恋愛対象は全て女性に限られているのだから。
二代目社長の代になってからランドール紡績はセクシャルマイノリティ雇用への垣根がかなり下がっていた。
元々の従業員のカミングアウト率も高い。社長自らがゲイである事実を公表しているからだ。両親、親族、友人知人にいたるまで……。
「では本日のスケジュールをご説明いたします」
てきぱきとスケジュール表を読み上げる美人秘書の傍らで、若社長はふと耳をそばだてた。スーツの胸ポケットから短い着信音が聞こえる。どうやらメールが届いたらしい。ポケットから携帯を引き出し、ディスプレイに表示される名前を確かめる。
送信者はカザミ・コウイチ、ヨーコの教え子であり、住んでいる場所こそ離れているが彼の『チームメイト』だ。仲間からの連絡は何を置いても真っ先に確認することにしている。
今、日本は夜中のはずだ。こんな時間にどうしたのだろう。緊急事態でなければ良いのだが……。
携帯を開いて画面を確かめる。
彼の英会話の鍛錬を兼ねて、コウイチとのメールのやりとりは全て英語で行っている。最近はアメリカから留学中の友だちに教えてもらいながら打っているらしく、だいぶ表現がこなれてきた。
『とっておきのレアな画像をお届けします。学校の文化祭の衣装合わせの写真です。サクヤさんにも送ったけど、せっかくだからランドールさんにも』
添付された写真を開いた瞬間、思わず口元がほころんだ。
ああ、確かにこれは滅多に見られないな。良いものを見せてもらった。
「……社長?」
「ん?」
ふと我に帰ると、秘書が手元をのぞきこんでいた。彼女の黒い瞳はじっとランドールが手にした携帯の画面に注がれている。
普段結い上げている黒髪をおろし、風船みたいなパフスリーブにぽんっとパラソルみたいにふくらんだスカートの水色のワンピースに白いフリルのたっぷりついたエプロンを身につけたヨーコの写真に。
しまった!
きらりとシンディの目が光る。獲物を狙うハンター、いや女豹の目つきをしていた。
「まあ、愛らしい。アリスですね」
「あっ、こら、人のメールを勝手に……」
「このチャーミングな女性はどなたです?」
慌ててランドールは携帯を閉じて胸ポケットに突っ込んだ。シンディは可愛いもの、きれいなものに目が無いのだ。
果たして、愛想のいいスマイル全開でこっちを見ている。この笑顔に騙されてはいけない。女豹は確実に狙いをつけている。一見優雅に立っているだけ、しかしその実、いつでも飛びかかれるよう、秘かにしなやかな四肢に力を貯えている。
「社長? ……どなたですの?」
「うっ……。……わ、私の大切な友人だ。だから駄目だぞ、絶対駄目だ」
「まだ何も言ってませんわ……。残念…お友達では、ね」
やれやれ、と胸をなでおろす。危ない所だった。
ゲイの社長とレズビアンの秘書、性的嗜好こそ異なるものの互いの趣味主張を尊重し、なおかつ堅い信頼関係で結ばれた二人の間には協定が結ばれていた。
いわく、お互いの友人、親族にはちょっかいを出さない、と。
「それ……で。何か、君、私に何かたずねたい事があったんじゃなかったかな?」
ひと呼吸置いて付け加える。
「ビジネス上のことで」
「ええ、午後からの会食の件ですが」
「…………あれ。今日だったかな?」
ああ、やっぱり忘れていた。しかもこの人ときたら、あの東洋のアリスに見とれて私の話を聞いていなかったのね!
「社長」
「何だい?」
「何度も申し上げますが、貴方の取り柄は顔。そのハンサムな顔なんです」
腰に手を当てると彼女はくいっと顎をそらし、斜向かいから雇い主の顔をねめつけた。
「社交くらい真面目にやって下さい」
しまった。
薮をつついてヘビを出したか。
ランドールは本日二度目の舌打ちをした。あくまで心の中で。くれぐれも美人秘書には聞こえぬように、悟られぬように。
そして素直に首を縦に振る。
「OK、シンディ……真面目に仕事するよ」
シンディは艶やかにほほ笑むと、どさりと。デスクの上に大量の書類を積み上げたのだった。
次へ→【4-6】メロンパンの森
▼ 【4-4】ハッピー・ハロウィン
【エピソード4】
文化祭を二日後に控えたある日の午後。
戸有高校の社会科教務室でくつろいでいた結城羊子は教え子二人の訪問を受けた。
「あ、いたいた、よーこ先生」
「おう、風見にロイか。どうした?」
「何してたんですか?」
「うん、よその学校の部誌なんだけどな。知り合いの先生が送ってくれた。けっこう面白いぞ」
「へえ、『十六夜伝奇行』か……」
「地元の古い言い伝えや伝説を集めたものなんだ。作りも凝ってる。読むか?」
「日本の民間伝承ですか! とっても興味あります。ぜひ読ませてくださいっ」
「いいよ、2冊あるから。ちょっと難しい表現もあるけどな」
「問題ないです」
にまっと笑うと、ロイは風見光一の肩に手をかけた。
「コウイチに教えてもらいます!」
「うん、いいよ?」
「そーかそーか、よかったなー」
幸せそうな教え子を見守りつつ、羊子はうんうんとうなずいた。
「あ、でも俺、英語苦手だからな……そうだ、サクヤさんにメールして」
「No! ボクはコウイチに教えてほしいんだ」
「……そっか。がんばるよ」
アメリカからの留学生にして風見光一の幼なじみロイは秘かに、サリーことサクヤを警戒していた。久しぶりに再会した幼なじみのコウイチが、見知らぬ青年をセンパイとして慕っていたからだ。
(たとえセンパイと言えども、ボクのコウイチには指一本触らせない!)
「それで。何か、用か? 大荷物抱えて……」
「ああ、これ……衣装です」
「衣装?」
「はい」
文化祭の出し物で、彼らのクラスは『ハロウィン喫茶』をやることに決まっていた。
要するに教室をオレンジと黒を主体にしてお化け屋敷チックに飾り付け、パンプキンクッキーやパイ、かぼちゃぜんざい(え?)等のハロウィンっぽいメニューを出す。
そしてウェイターならびにウェイトレスは(ここがハロウィン喫茶のハロウィンたる由縁なのだが)全員、仮装。
「だからって何で担任まで……あー、巫女装束でいいかな」
たるそうに言う羊子にすかさずロイがビシっと突っ込んだ。
「センセ、それ仮装じゃないです。正規のユニフォームです」
結城羊子の実家は神社。彼女も本職ではないが幼い頃から実家を手伝っているのだ。従弟のサクヤともども。
「あーもーめんどくせーなー。それじゃ、何かてきとうに考えて……」
「実は先生の分はすでに用意してありまして……これです」
風見光一がうやうやしく手にした紙袋をさし出した。
「準備がいいなあ……」
羊子は素直に衣装の入った袋を受けとった。ずっしりと手に重さがかかる。もしかして、すごく凝ってる?
「どんだけ金かけたんだ」
「先生の衣装はクラス一同で選びました」
「女子のみなさんのハンドメイドです」
「わかった……わかったよ」
参った参った。ここまでされたんじゃ、断る訳にも行かないや。
「それじゃあ、ちょっと試着してくる」
「行ってらっしゃい」
「俺たち、教室に戻ってますね」
そして、10分後。
教室で各々の衣装合わせにいそしむ生徒たちは、どどどどどどっと駆けて来る足音を聞いた。
「わ」
「何?」
廊下を走っちゃいけないのに……なぞと突っ込む暇もあらばこそ、がらりと教室の扉が開いて……。
「ロイ! 風見ぃいいい! よりによって甘ロリたぁどう言う了見だ!」
「着てるし」
「お似合いですヨ」
※月梨さん画「アリスと白兎とチェシャ猫」
羊子がまとっているのは風船みたいなパフスリーブにぽんっとパラソルみたいにふくらんだスカートの水色のワンピース。白のふりふりエプロン、頭にはレースのヘッドドレス、足元はしましまの靴下(ちなみにオーバーニー)に赤のストラップシューズ。
スカートのすそからは、動くたびに長めのパニエのレースがちらりとのぞく。
さらに出迎える風見はピンクと紫の縞模様の猫耳、しかも猫手袋にしっぽつき。ロイはと言うとタキシードに白い兎の耳と尻尾、さらに懐中時計をぶらさげている。
「もしかして、これは………アリスか」
「アリスです」
「………どこがハロウィンだっ!」
「アメリカでは定番ですヨ?」
ぐっと羊子は言葉に詰まる。
そうだった……。
アメリカのハロウィンでは、仮装はお化けに限らず何でもありなのだ。
ドラキュラもいたしお姫様もいた。医者にナースに何故か迷彩服の兵士、海賊、妖精、当然アリスもいた。
「安心してください、交代制ですから」
「そ、そうか」
落ち着いて見回すと、他にもアリスやチェシャ猫、白兎がいるようだった。
文化祭の間この格好かと冷や冷やした。
ほっと胸をなでおろした瞬間、カシャリとシャッターの音が聞こえる。
「ちょっと待て、風見、何撮ってる!」
「え、いや、せっかくなのでサクヤさんに写メを」
「ぬぁにいいい!」
「What's!」
「………どうした、ロイ」
「い、いや、何でもない、何でもないヨっ」
(落ち着け、落ち着くんだ、ロイ)
(サクヤさんはヨーコ先生のイトコだ。だから報告するだけなんだ。これは決して、コウイチとサクヤさんが親交を深めるためでは……)
「あ、返事来た。早いな……『がんばってね』だそうですよ、先生」
「うぐぐぐぐ」
「ぬぬぬぬぬ」
(ああっ、やっぱりガマンできないっ!)
「コウイチ!」
「ん、どうした、ロイ」
その瞬間、ロイはうっかり真っ正面から見てしまったのだった。猫耳をつけて、ちょこんと小首をかしげる風見光一の愛らしい姿を……。
肋骨の内側で心臓がどっくんどっくんとスキップを踏み始める。送り出された血流が、一気に顔へと駆け上がり……ぼふっと赤面。
「い、いや……何でも………ない」
おろおろと目を逸らす。
(ああ、コウイチ……何てCuteなんだ。その愛らしさ。ボクにはあまりに破壊的だっ)
一人苦悩するロイの横では。
「あ、先生、あとでもう一着、試着お願いできますか」
「まだあるのかっ!」
「クラスの総意パート2です。満場一致で、ハートの女王を、ぜひ」
教師と生徒が丁々発止の漫才を繰り広げていた。
「お前らあたしを着せ替え人形かなんかだと思ってないかっ」
「いや、だって……」
「似合うし」
「可愛いっすよ、先生」
「むきーっ」
結城羊子の身長は154cm。
うっかりヒール付きのサンダルを脱いでぺったんこのストラップシューズをはいた今、彼女の視線は生徒たちより余裕で低い。
実はこの後さらに羊飼いの女の子の衣装も控えているのだが。
しかも犬耳の自分(牧羊犬役)に羊のロイまでついているのだが。
それにしても、ロイはさっきから真っ赤になって何をうろうろしているのだろう?
「あーその、先生」
「何?」
「実はさらに羊飼いの女の子(ちっちゃなボー・ピープ)の衣装もあったりするんですけど……」
「お前ら……やっぱり、あたしを着せ替え人形かなんかだと思ってるだろ」
「着てくれないんですか?」
「アリスとハートの女王で十分だろ! それに、羊飼いなんかあたしがやったら……行く先々でメリーさんの羊〜♪の大合唱だぞ!」
実はそれが狙いだったりするんだけど。ここはストレートに押してもよけいにヘソを曲げられるだけだ。
風見光一は腕組みして、じーっと羊子のウェストのあたりをねめつけた。
「ふむ‥…衣装担当が夏休み前のヨーコ先生のサイズ参考にしたって言ってましたけど。夏も終わって食べ物が美味しい季節になってきましたから…ひょっとして油断しちゃいましたか?」
しかし敵もさるもの、ふっと鼻で笑われる。
「甘いな風見……自分のサイズは常に把握してるのだ、その程度の挑発に乗ってたまるか!」
しかたない。プランB、発動だ。
「……女子の有志が夜なべして作ったこの羊飼いの衣装…着てくれないんですか……?」
「そ、それは……そっか……夜なべか……」
情にほだされた羊子がぐらりと来たところで必殺最終兵器、プランCが炸裂した。
風見光一は軽くうつむくと、さみしげな子犬のような瞳でじーっと羊子の顔を見上げたのだ。ただ黙って、じーっと。
「う………よ、よせ、その目は………」
しかしこの必殺最終兵器、ちょいとばかりレンジが広すぎたらしい。
「うわっ、ロイ、よせっ、何血迷ってるんだよっ」
「離せっ! コウイチが泣いている! ヨーコ先生が着ないのなら、代わりにボクがーっ!」
ピンクのパフスリーブのブラウスに、ぽんっと膨らんだ白地にピンクの水玉のスカート、白とピンクのボンネットに白い羊飼いの杖。
ちっちゃな羊飼いの衣装を無理矢理着ようとするロイを、クラスメートたちが必死で押しとどめていた。
「無茶言うな! とてもじゃないがお前には入らないぞ! ……主に肩幅が」
「そうよ、ロイくんには小さ過ぎるわ! ……胸囲も、多分」
「お前ら……その限定的なサイズ表現は、いったいどう言う意味なのかなぁ?」
ドスの利いた声にはっと硬直する生徒一同。アリスが両足をふんばってにらみつけていた。
「先生……その格好で仁王立ちはどうかと」
「おっと」
ささっと足を閉じると羊子はこめかみに手を当てると、ふーっと深ぁく息を吐いた。
「わかった、素直に着るから、羊飼い。だから、ロイも落ち着け。な?」
「Y……Yes,Ma'am」
やれやれ。
風見はほっと胸を撫で下ろし、ロイの背中をばふばふと叩いて耳元に口を寄せ、囁いた。
「ナイスフォロー、ロイ。ありがとな。見事な陽動作戦だったよ」
「コウイチ……いいんだ、君の役に立てたのなら、それで!」
耳まで真っ赤になってうつむくロイをにこにこと見守りながら風見は思った。
それにしても、あそこまで一生懸命になるなんてロイの奴、きっと、よっぽど好きなんだな………
ハロウィンが。
次へ→【4-5】青年社長の帰還
▼ 【4-3】青年社長放浪す
【エピソード4】
9月のある晴れた日の午後。
カルヴィン・ランドール・Jrはユタ州との州境近く、南カリフォルニアの片田舎に居た。
いつもの仕立てのいいイタリアブランドのスーツの代わりにくたくたの木綿のシャツに履き古したジーンズ、スニーカーと言ったラフな服装で。
乗っているのも、静かなエンジン音に穏やかな走り、彼のステイタスにふさわしいトヨタの銀色の高級車ではない。
やかましい音、でかい車体、燃費はおせじにもいいとは言いがたい70年型のシボレーインパラ、色は赤みがかったココアブラウン。
何もかも大手紡績会社の二代目社長には似つかわしくない。
ついでに言うと誰も今、彼がこの場所にいるとは……知らなかった。両親、親族、友人、知人、彼の右腕である秘書のシンディでさえも。
公園のベンチに腰を下ろし、ぼんやりと物思いにふける。携帯の電源はこの一週間と言うもの一度も入れていない。
※月梨さん画「社長放浪中」
目の前の広場では子どもたちがボールを追いかけ回している。サッカーなのか。バスケットなのか。あるいはラグビーか。手も足も頭もまんべんなく使って自由奔放にパスを飛ばす。
傍らのエリカの花の間をマルハナバチがせわしなく飛び回っている。まるっこい黒と黄色の胴体をもそもそ振りつつ薄紫の花の中に潜り込み、ひとしきり探索してからまた次の花へと移る。ぶーんと微かな羽音を響かせて。
頭上の木の枝では小鳥がさえずっている。アップテンポのメロディを小刻みにくり返し。だれかを呼んでいるのか、それとも探しているのか。
どこからからか肉を焼くにおいが漂ってくる。きっと近くの家の庭先でバーベキューをしているのだろう。
金色の穏やかな秋の陽射しが降り注ぐ平和な公園。この前、こんな風景を見たのは8月だったが……あの時と違い、今は一人だ。
「ふぅ……」
我知らず深いため息が漏れた。
発端は夢。
ひと月ほど前のこと、久しぶりにアレックスの夢を見た。
顧問弁護士の秘書で、年は40代。銀色の髪に空色の瞳のこの実直そのものの男に、ランドールは密かに恋をしていた。
まるでローティーンのような、ひたむきでもどかしい恋を。
ぼんやりと霞む町並みの中、そこだけくっきりとした色と形をそなえた彼の姿を見つけた。
どうやら、また彼の夢に入ってしまったらしい。
8月の一件以来、彼はヨーコの従弟サリーから指導を受けて徐々に力のコントロールを身につけていた。
そのおかげで無意識に他人の夢に入り込むことは滅多になくなってきていたのだが……。
何ぶんいまだ発展途上。たまにはこう言うこともある。しかし今の彼はあの頃とは違う。他人の夢と自分の夢が混じることもない。自覚さえしてしまえば抜け出すのは容易だ。
戻らなければ。
ああ、でも、もう少しだけ。
夢の中のアレックスは一人ではなかった。誰かと楽しげに歩いている。
子どもの頃のローゼンベルク弁護士だろうか? だが、それにしてはアレックスの姿は『現在』の彼だ。誰と一緒なのだろう?
ほとんど無自覚のうちに意識の焦点が絞られ、場面が変わる。
アレックスはその『誰か』と一緒に回転木馬に乗っていた。
一人は小さな男の子。そしてもう一人は……妙齢の女性。親しげにほほ笑みを交わし、手をとりあっている。女性と子どもの顔はよく見えない。見たくない。
弾かれるように目を覚ました。
(何だったんだ、あれは……)
一応、サリーから説明は受けていた。
『夢の力』のコントロールを覚えた今、彼自身にある種の予知夢を見る力が備わっていることを。
『見ようと思って見られるほど正確で安定したものじゃないんですけどね。確率の高い正夢みたいなものです』
(まさか、な……)
不吉な予感を振り払ってジーノ&ローゼンベルク法律事務所に赴いた。例に寄って電話かメールですむ程度のささやかな用事にかこつけて。
そこで、見てしまったのだ。
有能秘書の左手の薬指に宿る銀色の輝き……細い金のラインに縁取られたシンプルな指輪を。
ただのアクセサリーなんかじゃないことは一目瞭然。その瞬間、鮮烈に夢の風景が脳裏に蘇る。
(あれは正夢……いや、予知夢だったんだ!)
「結婚……したのかい、アレックス」
「はい。式はまだ挙げておりませんが」
「そうか……おめでとう」
ショックを押し隠し、笑顔で祝福の言葉をかけることができたのは……ある程度受け入れる心づもりができていたからだろうか。
回転木馬に乗るアレックスの夢を見た時に。
「式はいつだい? 場所は?」
自分の能力に感謝しよう。ほんの少しだけ。
「花を贈りたいんだ」
以来、ふっつりとジーノ&ローゼンベルク法律事務所に足を運ぶことはやめ、連絡も相談も打ち合せも全て自分の秘書に任せている。
「安心しましたわ、社長。これが本来の在り方なんです」
秘書の小言を上の空で聞き流し、持てる権限とコネの全てを駆使して最高の『枯れない薔薇』をあつらえた。
花びらに使うシルクのジョーゼットも、葉っぱや茎の素材となるサテンも全て自分で目を通し、指で触れて品質を確かめた。
花びらの色は暖かみのある淡いアプリコットオレンジを選んだ。夢の中でおぼろげに感じた女性のイメージに合わせて。
そして万事抜かりなく贈り物の手配を済ませた翌日、滅多に乗らないインパラを引き出し、あてのない旅に出たのだった。
現金払いで安モーテルに泊まり、宿帳に書く名前は普段使わない母親の旧姓。決してカードは使わず、微妙に身元をぼかしつつ。
そろそろ一週間になるだろうか……のばしっぱなしにした無精髭が形の良い顎と唇の周りを覆いつつあった。常にきちんとセットしていた髪の毛も風に吹き流されるままぼうぼうと乱れ放題、荒れ放題。
万が一知人と出くわしても、すぐには彼だとわからないかもしれない。
いっそ煙草か酒に溺れることでもできたなら。あいにくと煙草は吸わないし酒を買いに行く気力もない。
今頃、アレックスは式を挙げているのだろうか。花束は届いたかな……受けとってくれたかな。
ぼんやりしていると、チリン……とかすかな鈴の音を聞いた。
顔を上げる。
長い黒髪を結い上げ、赤い縁の眼鏡をかけた女性が立っていた。
白いスタンドカラーのブラウスにチョコレートブラウンのスカート、ゆるく編んだカフェオレ色のニットのストールを巻いている。
背筋をしゃんと伸ばして歩いてくる。まっすぐに、迷いのない足どりで。
ふわりと襟元に巻かれたストールが翻る。
「ヨーコ?」
彼女は屈み込むと手を伸ばし、頬に触れてきた。
「ヒゲぐらい剃りなさい、カルヴィン・ランドール・Jr。いい男が台無しよ?」
はっと目を覚ます。
彼女の姿はどこにもない。居るはずがないのだ。それは彼自身が一番良く知っている。
頬に手を当てる。ひんやりした細い指先の感触がまだ残っている。
ばすん!
目から軽く火花が散り、世界が揺れた。
子ども用の軽いボールだ。ほとんど痛みはない。が、衝撃はかなりのものがあった。
がっくんと勢いよく上体がそりかえり、かろうじてベンチの背もたれに支えられてひっくり返るのは免れたものの、みしいっと背骨がきしんだ。
頭上に伸びた楓の枝。青空を背にうっすらと赤や黄色に色づいた葉が枝を中心に散りばめられている。伸びる小枝は陽の光を求めて全て違う方向をめざしている。まるでモザイクだ……。
にゅっと男の子が一人顔をつきだした。
「お?」
「大丈夫?」
そっと手を伸ばし、額に触れてきた。
……温かい。
(ああ、彼女は自分より体温が低かったのだな)
半ば夢を見ているような心地で思い出す。
「……大丈夫だよ」
男の子はほっとして表情をやわらげると、ボールを抱えて戻っていった。
ちりん、とシャツの胸ポケットで鈴が鳴った。
赤い絹のリボンを返そうとしたとき、サリーに渡された小さな金色の鈴。
『それは持っていてくださいって、ヨーコさんが。あと、念のため、これを……』
『可愛い鈴だね』
『お守りです』
「………帰らないと」
歓声を挙げ、子どもたちが走って行く。誰かが決勝点を決めたらしい。
カルヴィン・ランドール・Jrはすっくとベンチから立ち上がり、歩き出した。携帯を取り出し、久しぶりに電源を入れる。
「ああ、シンディ? 私だ。心配かけてすまなかったね……」
駐車場に停めてあったココアブラウンのシボレーインパラに乗り込み、ばたん、とドアを閉めた。
「今から戻るよ」
次へ→【4-4】ハッピー・ハロウィン
▼ 【4-2】猫のお医者さん
【エピソード4】
サンフランシスコのユニオンスクエアの近く。表通りからちょいと引っ込んだ適度に古びた商店街の一角に、砂岩造りの三階建て、鉛筆みたいに縦長の建物がある。
小さいながらも奥には立派な庭があり、一階部分は店舗で二階から上は居間と食堂、バスルームとキッチン。
三階部分は屋根裏に少し手を加えただけの部屋だが天窓もあり、それなりに快適。かつては子供部屋であり、今は店主とその家族のささやかな寝室として使われていた。
毎朝五時ジャストに枕元で金属製の目覚まし時計のベルが鳴る。
もっとも最初のジリン……が鳴り終えるより早く長い腕が伸びて止めてしまうのだが。
目覚ましの有無にかかわらず五時きっかりに起きるのが、古書店の主の日課であり生活の基本だった。
朝の身支度をすませる間に床に置かれた藤のバスケットの中からにゅっと細長い尻尾が立ち上がり、ぴょんと飛び出して。
みう、みう、と甲高い声をあげながら足元にまとわりつく。
大人サイズが1本、ちいさなちいさなベビーサイズが6本。
「やあ、おはよう……リズ、ティナにアンジェラ、オードリー、バーナードJr.、ウィリアム……それとモニーク」
母猫のリズは白い体に四本の足と尻尾に薄い茶色が交じり、一ヶ月前に生まれた子猫たちもそれぞれ割合は異なるが白と薄茶のふかふかの毛皮に覆われている。
唯一の例外はバーナードJr.で、この一匹だけは父親そっくりの黒茶の虎縞模様。
あまりの生き写しっぷりに父親猫の飼い主はひと目見た瞬間言ったものだ。『この子はぜひ、家で引き取らせてくれ!』と。
いずれそっくりの猫が大小2匹そろって花屋の店先で、客をもてなすことだろう。
7匹の猫を引き連れてキッチンに向かう。
母猫のリズにドライフードと缶詰。子猫たちには、猫用の粉ミルクを缶詰に混ぜたもの。そして新鮮な飲み水。
猫たちが食べ始めるのを確認してから、自分の朝食を準備する。内容はいたってシンプル。紅茶とゆで卵とトースト。バターかメープルシロップかジャムかはその日の気分次第。
ピーナッツバターにだけはどうしても馴染めない。
食べ終えると皿とカップを洗い、庭に出る。
こじんまりとした砂岩作りの建物の裏に広がるささやかな庭には大小色とりどりの夏薔薇が今を盛りと咲き誇り、とろりとした香りを朝の空気の中に漂わせていた。
さて、あの人にはどんな花が似合うだろう?
いつもより心持ち入念に手入れをしながら薔薇の花を品定めして行く。
緑滴る朝の庭で目を引くのは、まず、おとぎ話のお姫様のドレスのようなひらひらした花びらを幾重にも重ねた大輪の薔薇……ゴージャスだが、いささかかさばる。香りも強い。外で香る分には佳いけれど、部屋の中では少しきつそうだ。
花の中心から花弁の縁にかけてピンク色のグラデーションのかかった小花の薔薇と、同じ大きさのクリーム色のを合わせることにした。
開いたばかりの花と、まだ開いていない蕾を選んでガーデニング用のハサミでちょきん、ちょきんと切って行く。贈る相手に思いを馳せながら、心をこめて、丁寧に。
仕事場に持って行くのだから、あまりかさばらない方がいいだろう。花だけでは寂しいから、緑のシダの葉っぱも交ぜた方がいいかな……。
朝露をふくんだ薔薇のトゲを丹念にとると、改めて丈を短く切りそろえる。母のやり方を思い出しながら、丁寧に。
根本を濡らしたティッシュでくるみ、輪ゴムで留める。さらにその上からラップを巻いて水漏れを防ぐ。
仕上げに薄紙でくるりと巻いて、薄いピンクと青の細いリボンの2本どりで結わえる。
幸い、ラッピング用の薄紙とリボンは豊富にあった。
贈り物として本を買い求めるお客も多いのだ。
じっくりと時間をかけて小ぶりな薔薇の花束を作り上げるとエドワーズは満足げにうなずき、中にタオルをしいたピクニックバスケットを準備した。
さて、どうやって誘導しようかと考えていると、子猫たちは自主的に近づいてきた。
目をきらきら輝かせ、ヒゲをぴーんっと前倒しにして。
「みうー」
「にう、にう、にう」
「みゃ」
助かった。
この所、めっきり移動速度の早くなってきたこの6匹のにごにご動く毛玉どもを追いかけて、確保して、バスケットに詰め込むなんて……。
想像しただけで目眩がする。
できればそんな難易度の高い追いかけっこには参加したくないものだ。
バスケットのにおいをくんくん嗅いでる子猫たちを、ひょい、ひょい、とつまみあげて中に入れる。しっかりとフタを閉めて留め具をかけた。
準備をしている間中、リズはずっと足元にまとわりつき、何か言いたげに青い瞳で飼い主の動きの一つ一つを見守っていた。
「大丈夫、心配ないよ。サリー先生がどんなに優しいかお前も良く知ってるだろう?」
手をのばして頭をなでると、ひゅうんと長いしっぽが巻き付いてきた。
「それじゃ、リズ。行ってくるよ」
※ ※ ※ ※
20分後、エドワーズは大学付属の動物病院の待合室にいた。薄桃色とクリーム色の小さな薔薇をコンパクトにまとめた花束と、子猫の入ったピクニックバスケットを抱えて。
さっきまでは、ごそごそ、もそもそと動き回る気配がしたが今は静かだ。フタをあけて様子を確かめる。
初めての病院で緊張してはいないだろうか。
怖がってはいないだろうか?
もわっと、微かに湿り気を帯びたあたたかい空気が立ちのぼってくる。
白と薄茶の毛玉が五匹、黒い縞模様のが一匹。互いの体に顔を寄せ合い、折り重なって眠っていた。思わず顔がほころぶ。
しかし次の瞬間、子猫どもはぱちっと目を開き、一斉にこっちを見上げた。と、思ったら………押し合いへし合いしてよじ上ってきた。
おおっと!
あわてて閉めた。
やれやれ、油断もすきもない。だが、この分なら心配しなくてよさそうだ。
「エドワーズさん、どうぞ」
来た。
彼だ。
ラッキーなことに待合室まで呼びに来てくれた。すっと立ち上がると、エドワーズは水色の白衣を着た眼鏡の獣医師に歩み寄った。
「あの、サリー先生」
「はい、何でしょう?」
「これを……」
さし出された薔薇の花束を見て、サリー先生はわずかに眉根を寄せて何とも微妙な表情をした。困惑と戸惑い、そして微笑が入り交じり、そのどれでもなくなっている……。
慌ててエドワーズは付け加えた。
「ちょうど……夏薔薇が盛りでしたので……その、いつもお世話になってる感謝をこめてっ」
「……ありがとうございます、綺麗ですね……。 待合室に飾ってもらいますね」
サリー先生の眉に入っていた力が抜ける。ほっとしたのが伝わってきた。
「……はい。棘はとっておきましたから……」
早まったことをしてしまったかな。
苦笑しながらバスケットを抱えて診察室に入る。
ほわほわの砂糖菓子のようなクリーム色と薄いピンクの薔薇の花束は、アシスタントのミリー嬢に手渡された。
「それで、今日はどうしましたか?」
「はい、リズの子供たちを連れてきました。健康診断をお願いします」
かぱっとバスケットを開けると、一匹ずつ子猫を取り出して診察台の上に並べた。たちまち、ちっちゃな尻尾が6本つぴーんと立てられる。
「みうー」
「うわあ、可愛いなあ……」
サリー先生は屈託のない笑顔を浮かべて子猫たちを見ている。花を渡された時よりうれしそうだ。
6匹の子猫たちは我れ先にサリー先生に近づき、鼻をくっつけてくんくんとにおいを嗅いだ。ピンク色の口をかぱっと開けて口々に、人間には聞こえないほどの甲高い声で何やら話しかけている。
「はいはい、順番にねー」
サリー先生は次々と子猫たちを抱き上げて体温と体重を量り、素早く歯や目、耳、手足、爪、尻尾、お尻の穴、お腹を確認してゆく。
撫でているとしか思えないようなさりげない仕草で、子猫たちもまったく警戒していない。
楽しそうにころころと転がり、四つ足をじたばたさせながら「にうー」と甘えた声を出す。
「はい、終わり。次は君ね」
「みゅー」
もっと遊ぶ、とまとわりつく子猫をぽいっとバスケットに入れてお次の一匹。見ているうちにさくさくと6匹ぶんの健康診断が終わった。
「はいみんな健康ですねー。特に感染症もなさそうだし。ワクチンはもうちょっとたってからにしますか?」
「そろそろもらい手も決まってるので……今日お願いできますか?」
「はい。じゃあ少しお待ちくださいね。すぐ準備します。マリー先生!」
「まあ、可愛い団体さん……リズの子猫?」
「はい」
「お母さんに似て器量よしぞろいね」
サリー先生とマリー先生、二人の獣医師は手際よくぷすぷすと注射をして行く。初めて注射をされた子猫がちっぽけな牙を剥き、「しゃっ」と怒った時にはもう終わっている。
ただ一匹、バーナードJr.は何をされても終始静かで、「にゃ」とも「しゃっ」とも鳴かなかった。
「はい、おしまい。みんな元気でね」
サリー先生は名残惜しそうに最後のモニークを撫でるとバスケットに入れた。
「ありがとうございました」
6匹もいれば少しは診療時間も長くなって、それだけ一緒にいられるかとほのかに期待したのだが……。
こんな時はちょっぴりその手際の良さが寂しい。
「子猫たちがいなくなってしまうと、寂しくなりますね」
「そうですね。ずっと賑やかな日が続いていましたから。もらわれて行く先は、ほとんど近所なんですが」
「近くなら、時々会いに行けて、いいじゃないですか」
ああ、花を渡した時より、何倍もすてきな笑顔だ。くやしいな。
「ええ……そうですね」
でも、この顔が見られることが今、ひたすらうれしい。
「ワクチン接種時期は新しい飼い主の方にも教えてあげてくださいね」
「はい、忘れずに伝えます。ありがとうございました」
「お大事にー」
バスケットを抱えて待合室に戻る。
ふわっとかすかに馴染みのある香りを嗅いだ。
ピンクとクリーム色の薔薇が花瓶にいけられ、受け付けのカウンターに飾られていた。
※ ※ ※ ※
花をいけた花瓶をカウンターに置いてから、ミリーは素早く手帳をめくり、秘かに日記に記入しているスコアを更新した。
『本日の撃墜者1名。クリーム色とピンクの薔薇の花束』
後でサリー先生に聞いてみよう。「あの花をくれた人、どう?」って。
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