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【3-9】とりかえっこ

 
「サワディーカ、サリー先生!」
「こんばんわ、タリサさん」

 日曜の夜だけあって小さな店の中は賑やかだったが、幸い、ちょうど食べ終えて店を出る客が一組居た。
 
「ちょっと待っててね、今、テーブル片付けるから!」
「手伝いましょうか?」
「ありがとー」

 ひょいひょい、とサクヤは空になった食器を重ねてタリサに手渡し、ヨーコは台拭きを受けとってテーブルを拭いた。

「いいね、この雰囲気。好きだな」
「だと思った」

 空いた席に座り、メニューを手に取る。

「パッタイと、トムヤンクンと、あ、思い切ってタイすきいっちゃおっかな」
「どうぞどうぞ」

 大量に食べるのは予測ずみだ。ヨーコはとにかく、消耗すると食べて回復するタイプなのだ。

「それで。もーちょっと説明してもらえるとうれしいんだけどな……何があったのか」

 オーダーを終えてから笑顔で切り出す。傷だらけになったジャケットを見られてもはやこれまでと観念したのだろう。
 あっさりとヨーコは洗いざらい話してくれた。
 昼間、自分とランドールが巻き込まれた事件の一切合切を……ただし、日本語で。
 全て聞き終えるとサクヤは目をとじて「なるほどね」とうなずいた。

「風見くんにも助けてもらっちゃったんだ?」
「……うん」
「無事に終わったって、電話ぐらいはしといた方がいいよ……あ、時差があるか」
「うん。メール入れとく」
「それがいいね」

 ぽちぽちとメールを打つ従姉を見守りつつ、サクヤは自分の携帯を取り出した。
 実用本意の落下防止用のクリップつきのストラップと、もう一つ。青紫の細い組紐の先に透明な球体の中にちらちらと、金色の針の浮いたルチルクオーツの下がった根付けが着いている。
 ヨーコが風見あてにメールを打っている間に、ルチルクオーツを外した。

「送信……っと。OK、報告完了」
「お疲れさま……はい、これ」
「へ? これサクヤちゃんのお気に入りじゃん。何で?」
「んー、まあ、何て言うか、保険………かな?」
「わかった」

 ヨーコは自分の携帯から鈴つきのストラップを外した。こちらもストラップと言うより、赤い組紐の先に金色の鈴のついた根付けだった。

「じゃあ、これ……とりかえっこしよ?」
「そうだね。その方がいいね」

 二人はお互いの根付けを受け取り、それぞれ自分の携帯に取り付けた。
 もともとサクヤとヨーコの二人は血縁関係にあり、結びつきは強い。母親同士が双子の姉妹で、小さい頃から姉弟同然に育ってきた。
 しかし血に依存するつながりはある意味不安定で気まぐれで、常に必要とする時に通じるとは限らない。
 今日のように。

 だからお互いの持ち物を交換するのだ。
 今後の用心のためにも。

「本当に、無事で良かったよ」
「エビあげるから許して。あ、うずらの卵も!」
「そうだ今度えびせん送ってよ、食べたくなってもないんだよね」
「意外にありそうなものが、ないのよね……わかった、送る」

 お子様ランチを食べる子どものようなレベルの会話をしていると、不意にヨーコの携帯が短く鳴った。

「あ」
「どしたの?」
「風見から、返信が…………」

 メールを読みながら、ヨーコは眉根を寄せて口をぎゅーっと結び、『ちいさなうさ子ちゃん』のような複雑な顔をした。

「どしたの?」
「一緒に居た黒髪のハンサムさんは、誰ですか? って………」
「しっかり見てたんだ」
「うん……どうしよう」
「どうって、そりゃ、日本に帰ってからじっくり説明してください?」
「あう」

 がっくりと肩を落すヨーコを見守りながら、サクヤはくすくす笑っていた。
 あえて自分がこれ以上、お説教する必要もない。後は風見くんに任せよう。
 

 
 ※ ※ ※ ※

 
 その頃、ランドールは着替えの途中で左手首に巻かれた赤いリボンに気づいた。

 参ったな。預かったまま持ってきてしまった。

 さて、どうしたものか。
 やはり、きちんと洗って返すのが礼儀と言うものだろう。
 この手触りは恐らくポリエステルではなくシルクだ。彼女、良いものを身につけているな。後で洗濯してアイロンをかけておこう。
 その後は……ハンカチにでも包んで持ち歩くとしようか。

 いつか、またばったり出くわした時にすぐに返せるように。
 極めてオリジナリティにあふれる女性だった。
 一度、母にも紹介したいなと思った。きっと、話が弾むことだろう。

 
(熱い閉ざされた箱/了)

inspired from "CSI:Miami"

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【3-8】夢の後で

 
 車を公園の木陰に寄せ、眠るヨーコを見守ってからそろそろ2時間が経過しようとしている。

 困った、そろそろ夕方だ。いつまでもこのままにしておく訳にも行かないし……。
 レオンハルト・ローゼンベルクかディフォレスト・マクラウドか。とにかく、彼女を知ってる人に、連絡してみよう。
 携帯を取り出し、最初に思い当たった番号を入力した。
  
 
 ※ ※ ※ ※
  
 
 サリーこと結城朔也が医局でひと息入れていると、携帯が鳴った。
 覚えのない番号からだったが、何故か出なければいけないと直感で思った。

「ハロー?」
「ハロー。君の従姉が今私の隣ですーすー気持ち良さそうに寝ていてなかなか起きないのだが、どうすればいいのだろう」

 知らない男の人の声だった。

「………ドチラサマデスカ?」
「ランドールと言う。……記憶にはないだろうが君とは昨日会っているらしい」

 昨日?
 ああ、レオンとディフの結婚式か。招待客が大勢いたから、確かに可能性はある。
 だけど。

「はぁ……うーん、どうしよう……俺まだ19時までここを出られないので……」
「……しかたない。彼女の泊まっているホテルは?」

 少し迷ってから、ヨーコの泊まってるホテルの場所を教えた。

 いったい何があったの、よーこさん。昨日会ったばかりの男の人の隣で『すーすー気持ち良さそうに寝て』いるなんて!
 とにかく、勤務が開けたら、すぐに部屋に行ってみよう。何を置いても最優先で、すぐに。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 教えられたホテルに向けて車を走らせていると、むくっとヨーコが起きあがり、リクライニングしていたシートを元に戻した。

「大丈夫か、Missヨーコ」
「ええ……もう大丈夫。ありがとね、Mr.ランドール」
「説明……してくれる約束だったろう」
「邯鄲の夢って言葉知ってます? 一眠りしてる間に結婚して、子どもが生まれて出世して、人生の終わりまで見るって話」
「ああ。新スタートレックの『超時空惑星カターン』の元になった話だろう? 中国の伝説で」
「意外にマニアックなことご存知なのね……まあ、それぐらい夢には不思議がつきまとうんですよ」
「そうなのか?」
「そうなのよ。東洋の神秘ってやつです」
 
 何やらよくわからないが、中国と彼女の母国である日本は確かに文化的に非常に密接な繋がりがあると聞いたことがある。
 だから、きっと今回のことも、関係が……ある……のか?
 少なくとも、夢から覚めた時に時間が10分しか経過していなかったことの説明にはなっているような気がする。

「そう言えば、昔から、親しくなる友人には私と同じ夢を見る奴が居たな………」

 なるほど、多少の自覚はあるんだ。
 ぴくりとヨーコは右の眉を跳ね上げた。だったら話は別。はぐらかさずに事実を伝えておくべきだろう。

「それは。あなたがその人の夢に入ってるからよ」
「そうなのか? 世の中には不思議な力のある人が結構居るもんだなぁと思っていたけれど……」
「ええ。あなたもその一人と言う訳ね。お母様から受け継いだ数多い資質の一つよ。誇りを持ちなさい、ランドール。ただし、影に引きずられぬように」

 まだ少し気になるけれど、最初のアプローチはこんなものだろう。
 彼は紳士だ。母から受け継いだ血統と文化に誇りを持っている。こう言っておけば無自覚に能力に振り回される可能性は減らせるはずだ。

「もし困ったらいつでも電話して。すぐに会いに行くから……あなたの夢の中へ、ね」
「ああ。歓迎するよ」

 そう言って、カルヴィン・ランドールJr.は笑った。
 上品な紳士のほほ笑みではなく、文字通り破顔一笑、天真爛漫。少年のように無邪気な、心の底からうれしそうな笑顔だった。

(参った。そこでほほ笑むか、その顔で)

 ヨーコは思った。
 やっぱり、この人………可愛い、と。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 その夜、勤務が明けるとサクヤは一直線にヨーコの滞在するホテルに飛んで行った。部屋に行き、ノックをすると……。

「やっほー、サクヤちゃーん」

 毛布をかぶったヨーコがぼーっとした顔で出迎えてくれた。髪の毛も結っていないし眼鏡もかけていない。足元を見ると、靴はおろかスリッパすら履いていなかった。

「ごめんねーびっくりしたでしょー」
「うん……どうしたのさ」

 部屋に入ってからちらっと見ると、毛布の下は下着どころか何も身につけていない。思わず目眩がした。

「あ」

 さすがに本人も気づいたらしい。毛布をかぶったままのそのそとバスルームに入り、バスローブを羽織って出てきた。

「……疲れてるんだよね、しょうがないけど……ドア開ける前に気付いたほうがいいよ」
「ごめん、つい」

 疲労が限界まで達するとヨーコはいつもこうなる。少しでも体を締めつける物が触れているのが我慢できないらしいのだ。

「いったい何があったの」
「朝ご飯たべて……外の通り歩いてたら、肩のぶつかった相手からどーっとね……良くないイメージが流れ込んできて……思わず追いかけてしまいました」
「そっか……それで疲れちゃったんだ」
「うん……一人じゃ手に負えなかったから……たまたま運良く知った顔が通りかかったんで」
「それがランドールさん?」
「うん」
「突然電話かかってきたから驚いた」
「何となくヤバそうな予感がしたから……もしもの時は連絡してねって」
「そっか、大惨事じゃなくてよかったよ」

 ヨーコは目をぱちくりさせ、ちょこんと首をかしげた。

「電話って……もしかして、直接ランドールさんから?」
「うん」
「うっそ! あたし、マックスかレオンに連絡して、としか言ってなかったのに!」
「それってまさか」
「言葉には出さなかったけど、その時、サクヤちゃんの事考えてたのは事実なんだ。あの二人に連絡してもらえれば、サクヤちゃんにも伝わるだろうって」

 無意識のうちにランドールには、自分が一番、知らせて欲しい相手が伝わっていたと言うことか。
 しかも、電話番号まで。

「伝わっちゃったって、こと?」
「自覚ないみたいだけど……母方から資質、受け継いでるみたいね、彼」
「まさか、一緒にドリーム・ダイブしたり……してないよね、よーこさん」

 ヨーコは左右に視線を走らせてから、がばっと頭を下げた。

「…………………ごめんなさい」
「やっちゃったんだ……」

 サクヤは深々とため息をついた。
 まったく、この人は! 日頃っから『自分一人で突っ走るな』と言ってるくせに……。ここで怒ってもしょうがない。それはよくわかってる。
 だけど。

 よーこさんは感知能力に優れているし、肉体的な怪我や病気も治すことができる。しかし、真っ向から敵に対抗し、身を守る能力は極めて弱いのだ。身体的にも。精神的にも。
 当人がとんでもなく打たれ強いからいいようなものの……。

 思わずため息をついた。
 ふかぶかと、腹の底から。

 ヨーコがますます身を縮ませる。

「無事だったから良かったけど、動く前に連絡してくれたら半日休みぐらいはとれるから」
「うん………」
「それで、そのランドールさんには、何て説明したの?」
「東洋の神秘です、と」
「そんな、いい加減な!」
「そうしたら、昔っから親しい人と同じ夢を見ることがあったから、今度もそうだったんだろって言うから……教えちゃった。それはあなたがその人の夢に入ってるからだって」
「そっか……そうだね。無意識でやってると事故に巻き込まれやすいから、知っておいた方が安全かもしれない」

 ヨーコは何気なく髪の毛に手をやって、あ、と小さくつぶやいた。

「……リボン、彼に渡したまんまだった」
「いいんじゃない? これで繋がりができた」
「そうね。次にコンタクト取る時の足がかりになるし」
「せっかく来たから、一緒に食事に行く?」
「……うん」
「なに食べようか」
「タイ料理美味しいのあるんだって?」
「うん、この間パッタイ食べたよ。他のも美味しそうだった」
「じゃ、そこがいいな」
「OK」
「ちょっと待ってね、今仕度してくるから」

 ヨーコはクローゼットを開けて着替えを取り出し、再びバスルームに引っ込んだ。
 開けっ放しのクローゼットの中をのぞきこむと、白いシャツジャケットが傷だらけになっていた。

(また……危ないことして)

 きりっと一瞬、唇を噛むとサクヤはジャケットを手にとり、すっと手のひらで表面を撫でた。

「……お待たせ」

 エメラルドグリーンのタンクトップに白のクロップドパンツを身につけている。見た所体に傷はついていないようだが……上着があれだけ傷だらけになってるんだからけっこうピンチだったはずだ。

「はい、これ。夜はけっこう冷えるからね」

 さりげなく笑顔でシャツジャケットをヨーコの肩に着せかけた。

「あ、でもこれ………」
「直しといた」

(………………………ばれた!)

「あとでランドールさんにもお礼言っとかなきゃね」
「…………うん」
「じゃ、行こうか」

 そして二人は食事に出かけた。
 行き先は小さなタイ料理の店。美人の看板娘と看板猫のいる所。
 
 
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【3-7】夜を疾走る者

 
 切り離された影は消えていなかった。形を失い、溶けて流れるかと思ったが……じゅくじゅくと周囲の闇を吸収している。
 焼けた鉄の箱は消え、暗い夜の森に変わっていた。

(そうか、こいつ、今度はMr.ランドールの記憶を吸収しているんだ!)

 ゆらり、と黒い影が立ち上がる。二本の後足で直立した巨大な狼。半ば人の形を留めながらも体表は全て黒々とした剛毛に覆われ、ぞろりと割れ裂けた口には白い牙が生えそろう。尖った牙の合間から、だらだらとよだれが滴り落ちた。
 むわっと濃密な獣の匂いが漂う。
 今や天井は高々と上がり星ひとつない夜空に変わり、煌煌たる満月の冷たい光が空間を満たしていた。

 視界を圧倒するばかりに巨大な、蒼白い月。現実ではあり得ない。地平線にかかるほどのサイズの満月なんて。

「う……わ」

 ヨーコは思わず一歩、後じさる。ランドールが首を横に振り、かすれた声でつぶやいた。

「ル・ガルー(人狼)……」

 人狼はぶるっと体を揺すると満月を仰ぎ、吼えた。

 ルゥルルルルルルルル………ワ、ワゥオオオオォオオオオオン、オン!

 頑丈な後足が地面を蹴る。ずざざざっと土を蹴立てて宙に飛び、人狼が飛びかかってきた。

「く……棒の9番……いや、全部来い!」

 ランドールと、少年と、自分を護る壁を思い描く。『棒の9番』を核にして、手持ちのカードを全て自分たちの周囲に張り巡らせた。
 核にしたカードの絵では、敵の襲撃に備えて棒を組んで高い防護壁を築いていた。
 しかし何分とっさにしたことだ、期待通りのイメージを導き出せるかどうか……果たして、カードの1枚1枚が鳥の形に変わり、円を描いてぐるぐると飛び回る。
 昨日の浜辺での記憶が残っていたらしい。

「しまった!」

 力強い羽ばたきに遮られ、かろうじて人狼の進行は阻まれた。が、牙と爪が閃くたびに一羽、一羽とたたき落とされ、消えて行く。その度にヨーコの腕や肘、胸、着ている服に微かな切り傷が走り、裂けてゆく。

 やはり壁が薄い。柔らかすぎた! だが今さら集中を解くことはできない。
 鳥の数は78羽。果たしていつまで持ちこたえられるだろう?

 びしっとまた一羽、鳥が消えた。ジャケットが大きく引き裂かれ、肩から胸にかけてすうっと浅い切り傷ができた。

「Missヨーコ、傷が!」
「平気。この程度の傷、いつでも治せる!」

 今の内に対抗手段を見つけなければ……3人とも、喰われる。

 あれが利用しているのはランドールの記憶。ならば、鍵を握るのは彼だ。意を決してヨーコは語りかけた。
 日本語ではなく英語で。
 彼の母国語で。より真っすぐに、ランドールの心に届く様に願いを込めて、揺らぎのない意志で、きっぱりと。

「思い出してランドール。あなたは確かにお母様からルーマニアの血を受け継いでいるけれど、育ったのはアメリカだ」

 あえて言葉を選ぶ。人狼(ル・ガルー)はなく、狼男(ウルフマン)と言い換える。ヨーロッパの伝承ではなく、アメリカの伝統になぞられて。

「あなたは知ってるはず。狼男の弱点は……何?」
「弱点……狼男の……」
「そうよ。あなたの事は私が守る。だから……あなたも、私を守って!」

 その一言が、ランドールの気高き『紳士の魂』を奮い立たせた。

(彼女を。この少年を、守らなければ!)

 握りしめた赤いリボンが手のひらの中で形を変えて行く。小さくて堅い物に。指の間から清らかな白い光があふれ出す。
 そっと手のひらを開いた。涼やかな光をたたえた、銀の弾丸が出現していた。

「ヨーコ、これを!」

 これがどこから来たのか、そんなことはどうでもいい。大切なのはこれが今、必要なのだと言う事実。

 とっさにヨーコに向かって投げた。彼女は迷いのない動きで左手で受けとめ、ジャケットの胸ポケットから何かを引き出した。
 二連式の銃身、ほとんど装飾のないシンプルな外観。女性の手にすっぽり収まるほどの、中折れ式の小さな拳銃。だがそのちっぽけな外観に反して引き金を引くにはかなりの力を必要とする。あるいは熟練の技を。

 ハイスタンダード・デリンジャーだ。

 慣れた手つきで弾丸を装着すると、ヨーコは人さし指で銃身を支えて構え、中指を引き金にかけて……射った。
 ちかっとガンファイアが閃く。しかし、音は聞こえなかった。

 銀色の流星が一筋、銃口からほとばしり、鳥の羽ばたきが左右に分かれる。流星は一直線に狼男の口の中に吸い込まれ、牙を砕き、その頭部を貫いた。
 
 影が散る。
 厚みも重さももろとも失いほろほろと、塵より儚く崩れ去る。
 にやっと白い歯を見せてヨーコが誇らしげにほほ笑み、こちらを向いた。傷だらけになりながらもすっくと立って、右の拳を握り、ぐいっと親指を立てた。
 ほほ笑み、同じ様にサムズアップを返す。
 同時にランドールの腕の中の少年は、淡い光の粒となって消えて行った。

 暗い森に朝が来る。白い光が木々の合間をくぐり抜け、朝露がきらめく。

 ああ、もう大丈夫だ。
 自分は、彼らを守ることができたのだ。
 清々しい充足感を抱いたまま、ランドールはあふれる光を受け入れた。

 
 ※ ※ ※ ※ 
 
 
「……あ………」

 やわらかな午後の風が頬を撫でる。
 足の下に、伸びた芝生の感触。

「ここは……………」

 裏庭だ。とっさに腕の時計を確かめる。最初にこの空き家に足を踏み入れてから、やっと10分経過したところだった。

 10分……たったの?
 信じられない。

 あわてて服装を確かめる。吸血鬼の衣装じゃない……元に戻っていた。

「そうだ、ヨーコ!」
「ここよ……」

 彼女は金属の箱から手を離し、立ち上がった。
 血は出ていない。怪我はしていない。だが……ジャケットに裂け目がある。やはり、あれはただの夢ではなかったのだ。

「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫」

 にっと笑う。
 夢が終わる直前、ヨーコは見ていた。
 閃いたイメージはかなり圧縮されていたけれど、大事なことは全て見得た。

 今、現在。
 父親の住んでいる、こことは別の家の裏口で、銃を懐に明らかに尋常ではない訪問を行おうとしていたかつての少年が動きを止めた。
 薄汚れた窓から中をのぞく。
 ゴミの散らばる部屋にうずくまる、老いて小さく縮んだかつての親。点滅するテレビの画面をのぞきこんでいる。
 床にも、テーブルの上にも、ビールの空き缶やピザの空き箱、テイクアウトの中華の空き箱、ありとあらゆるジャンクフードの箱や袋が散乱していた。

 じっと見て………ドアには手を触れずに立ち去る。
 緑の布に黄色のロゴマークのパーカーを羽織った背中が遠ざかる。

 彼は二度と振り返らない。

「……良かった……」

 ほう、と安堵の息を吐く。
 熱い閉ざされた箱の中には、もう誰もいない。

「何だったんだ………あれは」
 
 ランドールが首をかしげている。真摯な目だ。
 
(そうね、彼には知らせなければいけない。助けてもらった恩義もあるし、何より母上から受け継いだ資質がある)

 慎重に言葉を選びながらヨーコは話した。
 ネイビーブルーの瞳を見据えて、静かな声で。

「全ての虐待の被害者が加害者になるとは限らない……その理由の一つにアレの存在がある。心の闇に巣食って恐怖を煽り、憎しみに変える。そう言う存在が確かに在るの」

「悪事の原因は全て自分の外側にある、か? あまり好きじゃないな、そう言う考えは」

「気が合うなあ。あたしもそう! 何でもかんでも他人の所為にしたがる奴。俺は悪くないと言い張り、反省のカケラもない……そんな奴の成れの果て、なのかもね」

「君はいつもこんな事をしているのか?」
「何故、そう思うの?」
「慣れていた」
「まあ、ね。初めてじゃないことは確か」
「………怖くないのか?」

 参った。痛い所を突かれたな……。
 しばらしの間、ヨーコは言葉に詰まった。

(……いっか。彼は少なくとも私より年上だ。教え子でもないし弟でもないのだから、敢えて強がる必要もない)

 素直にうなずいた。

「怖いよ。余裕なんてない、いつだってギリギリ。こんなこと辞めたい、絶対無理だって、いつも内心、泣きべそかきながら思ってるの。生きて戻ったら、こんなこともう二度とやるもんか! って」
「でも、辞めないんだろう? 君はそう言う人だ」
「それ、直感?」
「いいや。経験に基づく確信だよ」
「………ありがとう…………」

 急に力が抜けてしまった。んーっと伸び上がり、あくびを一つ。
 日が陰っていて、上手い具合に芝生の一角が日陰になっていた。とことこ歩いて行ってぺたりと座り込み、ころんと横になる。

「ごめん、ちょっと寝かせて」
「ヨーコっ?」
「私、眠いの……話の続きは……起きてからね」

 小さなあくびをもう一つ。目を閉じたと思ったら、もう寝ていた。
 せめて寝る前にホテルの場所を教えて欲しかった。

 いつまでも芝生の上に寝かせておく訳にも行かない。そっと抱き上げて裏口から抜け出し、車に運んだ。
 意外に軽かった。
 助手席をリクライニングさせて寝かせるその間も、ヨーコはぴくりとも動かず、やすらかに寝息を立てていた。

 まったく、無防備にもほどがある。若い娘が、男の前でこんな風にすやすやと眠りこけてしまうなんて。
 いったい、どうすればいいのか。自分がゲイだと知って安心しきってるのだろうか。

 ……いつ、彼女は知ったのだろう。

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【3-6】影との遭遇

 
 新たな廊下には窓がなかった。明かり取り用のはめ殺しの窓さえも。
 教室に通じるドアもない。
 ただどこまでも延々と続く、細長く引き伸ばした密封された箱。

 ウ…………ゥル、ル、ル、ウウウ……。
 グゥロロロォオオオオオオオオンン……。

 閉ざされた四角い空間の中で、淀んだ空気が揺れる。遠くかすかな音の響きを耳に伝える。

 ねちょり、と足元が粘ついた。
 
「何だ……これは」

 息苦しさを覚え、ランドールは襟元をゆるめた。

「気のせいよ。これはただの夢だもの。あなたが熱いと思えば熱い。寒いと思えば寒い。熱いのと寒いの、どっちがいい?」
「どちらもあまり」
「あたしもよ」

 ひやりと涼しい空気に包まれる。
 赤黒く淀む熱気の中、自分とヨーコの周りだけが秋の入り口か春の終わりにも似た涼やかな風に包まれていた。

「そろそろね……いや、もう着いてるのかな?」

 とん、とヨーコが足を踏みならした。
 その途端、長く引き伸ばされていた廊下がランドールとヨーコの立っている場所を拠点にくんっと縮まり、広大な四角い部屋に変わった。
 窓も出口もない、閉ざされた熱い箱のような部屋に。

「I see you!」

 歌うように彼女がつぶやく。その声によどんだ熱気のカーテンが左右に分かれ、目の前に二つの生き物が現れた。

 ぱさぱさの毛並みを通して骨の輪郭が透けて見えるほどやせ細った………………………犬。
 不釣り合いなほど太い鎖が四肢に絡み付き、床に縫い止めている。その床は真っ赤に熱せられた鉄板だ。じりじりと肉の焦げるにおいがする。

 そしてもう一つ。
 天井に届くほどの背の高い、巨大な影の巨人が一人。犬を踏みつけ、少しでも熱から逃れようとするその体を床面に押し付けている。
 腕も、足も、体も顔も、闇で塗りつぶしたように真っ黒。ただ目のあるべき位置にのみ爛々と、二つの炎が燃えたぎっている。

『痛い、痛いよ、熱い、ごめんなさい!』

 犬がか細い悲鳴を挙げる。
 人の言葉で。
 少年の声で。

 犬の体についていたのは、子どもの頭だったのだ。
 鳶色の髪に鳶色の瞳。ぎょろりと目ばかりの目立つやせ細った白い顔……それは、朝からずっとヨーコが追いかけてきたあの少年だった。

『お前は犬だ。役立たずの犬なんだよ。最低のクズだ』
『さあ、せいぜい泣け、わめけ!』
『みじめに泣きわめいて許しを乞え。そうやって俺の気晴らしになるぐらいしかお前の使い道なんて存在しないんだよ……』
『ほら、もっと声を出せ、この役立たずの野良犬めが!』

 影の巨人は狂った様に拳をふるい、足で踏みつける。そのたびに犬と融合した少年が泣き叫ぶ。

「何てことだ!」

 日常を不気味に歪めた光景の恐怖よりも、子どもの悲鳴がランドールの胸に突き刺さった。
 こんな事、あと一秒だって許しておくものか!
 激しい怒りに駆り立てられ、彼は猛然と影の巨人に向かって踏み出そうとした。

「待って」

 ほっそりした手が手首を包み、優しく押さえる。

「止めるな、Missヨーコ。あの子を助けなければ!」
「私も同じよ。だからこそ、待って」

 ヨーコは彼の手を握る指先に力を込めた。すっと左手を持ち上げて指さし、ランドールの視線を導いた。

「あれは彼自身の影。見て、根っこはあの子の中にある……ほら、あの巨人の足」
「……あっ」

 彼女の言う通りだった。
 半ば犬と化した少年を踏みにじる巨人の足はそのまま少年のわき腹に溶け込み、一つになっている。
 
「だが、あの子は現に苦しんでいる! あの涙は本物だ」
「ええ……その通りよ。まずはアレを切り離さないとね」
「どうやって?」

 ヨーコは口角をつりあげ、にまっと笑った。一言も発しなかったけれど、ランドールは彼女の意志を確かに感じた。

『見てて』

 きりっと背筋を伸ばしたまま、ヨーコは人頭犬身の少年と影の巨人に向かって歩いて行く。巨人は少年をふみつけたまま、ぐるりと首のみ回転させ、ヨーコをにらみつけた。

『何だあ、ひっこんでろおおおおお。これは躾なんだよおおおお』

「どこが躾だ。私は教師よ。保護者面して子どもを虐待する親を見過ごす訳には行かないの」
『教師ぃ? 教師だぁ? 引っ込んでろ』

 ずぶり、と巨人の腹の辺に別の顔が浮び上がる。目をつりあげ、口元をひきつらせた青ざめた女の顔だ。

『これは家庭の問題なんです。家庭の問題なんですってば。近づかないでください、放っておいてください、だいたいあなた、ご自分の子どもはいるの?いないでしょ、子どもを育てたこともないような若い女の先生になんかとてもじゃないけど子どものいる母親の苦労はわからないんです、だから放っておいてください、さっさとお帰りください、さあさあさあ!』

 ひっきりなしに喚く女の口からは青黒い唾が飛び散り、床に落ちてじゅくじゅくと、強い酸性の蒸気を放つ。
 雫が飛び、白い上着がじゅっと溶けて小さな穴が空いた。

「Missヨーコ!」

 ヨーコはわずかに眉をしかめたものの、怯える風もなく。ちょいと眼鏡の位置を整え、一言

「黙れ」とだけ言った。

 女の顔はまだぱくぱくとせわしなく口を動かしている。が、音は出ない。全て掻き消えている。
 ヒステリックな金切り声を取り除いてしまうと、もう、ただの滑稽なパフォーマンスにしか見えなかった。恐怖や苛立ちよりもまず、苦笑を誘う類いの。

「私はあなたの教育方針を否定するつもりはないし、これまでの生き方を批判する意志もない」

 女の顔の動きがピタリと止まる。何かを言いかけた形のまま、口も、眉も、鼻も目も、そのまま凍りついてしまった。

「そもそもお前はもう死んでいる。もはや存在しないのだから社会的な体面も体裁も気にする必要はないじゃないか。そうだろう?」
 
 その一言で女の顔はぐにゃりと形を失い、影の中に沈んで消えた。

「ふん。タフガイを気取ってる割には、面倒くさい社会上の手続きは全て奥方を通じて行っていた訳か」

 影の巨人の体がぶるぶる震え出した。

「奥さんがいなくなった今は、近所づきあいもできないのだな。ちゃんと台所の生ゴミ、指定日に出してる? ビールの空き缶は?」

 おぉおおおおおおおおおおおおお!

 ぐんにゃりと歪み、もはや言葉にすら成らない音を発して巨人はヨーコにつかみかかろうとした。少年に食い込んでいた足がめりめりと引きはがされ、長く尾を引いて伸び始める。

「そうだ。悔しかったらここまで来てみろ。私は逃げないぞ。恐ろしくないからな」

 影の巨人はヨーコに向かって猛然と走り寄る。しかし、少年と融合している片足にぐい、っと引き戻され、床に倒れた。
 熱い金属に焼かれて悲鳴を挙げる、その顔に向かってぴたりとヨーコは右手の人さし指を突きつけた。

「お前は怪物なんかじゃない」

 ぐにゃりと巨人の輪郭が歪む。限界まで熱したゴムのように波打ち、だらだらと溶け落ち始めた。

「私は知っている。私は見た。お前はただの大人だ。ただの男だ」

 辺り一面に胸の悪くなるような臭気を漂わせ、巨人の体が溶けて行く。崩れて行く。
 どす黒い粘液となって滴り落ち、床面で焼けこげ、蒸発する。

「自分の気晴らしのために子どもを……自分より弱い生き物を傷めつけることしかできない、最低のクズ野郎」
『も……もぉ……やめでぐで………』

 すっと目を細めると、ヨーコはちらりと白い歯を見せた。その顔を見た瞬間、ランドールの脳裏についさっき聞いた彼女の言葉が閃いた。

『斬り捨て御免、峰打ち無用』

「お前は老いている。お前は弱い」

 巨人はすでに巨人ではなかった。
 溶けて縮み、頭は小さく、腹ばかりがぶっくりと膨れた奇怪な、等身大のゴムの人形。不気味でもなく。恐ろしくもなく。むしろ笑い出したくなるような、滑稽な人体のカリカチュアと成り果てていた。

「お前なんかより、お前の傷めつけている存在の方が、ずっと生きる価値がある」

 弱々しく首を振ると、変わり果てた巨人の残骸は顔を覆い、どっと地面に突っ伏した。

「今だ……影を切り離す。あの子を受けとめて」
「わかった」

 ヨーコはポケットから黒い小さな布袋を引き出し、中から一枚のカードを抜き出した。

「剣の一番……来い!」

 カードの表面に描かれた『巨大な剣を握る手』のイメージが立体化し、具現化する。

「行け!」

 剣のイメージは一陣の光となって走り、少年と影を繋ぐ細い、長い尾に斬りかかった。か細い尾は容易く断ち切られるかに見えたが……

 がきぃん!

 耳障りな金属音ともに光の刃が弾かれる。その瞬間、ヨーコの指先にぴっと一筋切り傷が走り、赤い血が一滴ほとばしる。

「ちっ」

 弾かれ、くるくると回転しながら戻ってきたカードをヨーコはぴしっと左手で受けとめた。

「くっそー、硬いなぁ」

 影は相当深く少年の中に根を降ろしているようだった。弱らせたとは言え、文字通り『刃が立たない』。それどころか、しゅるしゅると縮み、少年の中に今一度身を潜めようとしている……急がなければ!

 歯がみしていると、急に左の胸ポケットからぶるぶると震えた。

「え?」

 愛用の黒に赤で縁取られた携帯が飛び出し、宙に浮く。

「あれ?」

 鳴り響く軽快な着信音ともに、しゃこっとスライドした。ストラップにつけた鈴が『りん』と鳴る。

『着信中:風見光一』
「あ…………」

 ちかっと点滅したディスプレイ画面から、まばゆい光の粒があふれ出し、凝縮しておぼろな人影を形づくる。めらめらと揺らめく浅葱色の煌めきに包まれ、陣羽織をまとった目元涼しげな若侍が出現した。腰には黒鞘の太刀を帯びている。

kazami.jpg ※月梨さん画「風見、参上!」

「風見!」

 にこっと笑うと、若侍はザ、ザ、ザと影と少年に走り寄り、間合いを詰めるやいなや抜く手も見せずに一刀両断!
 満月よりもすこぉし欠けたる十六夜の、月にも似た銀色の閃きとともに音も無く、影と少年が切り離された。

『風神流居合…『風断ち』(かぜたち)』

 影はぐにゃりと形を失い崩れ落ち、片や少年の体は衝撃で宙に舞う。あわててランドールは走りより、やせ細った体を受けとめた。
 もう、犬の形をしてはいなかった。

 若侍はひゅん、と太刀を振って飛沫を払い、流れるような動きで鞘に収めた。それからちらりとこちらを振り返り、ぱちっと片目をつぶってウィンク。

『ダメだよ、羊子せんせ。一人で突っ走っちゃ!』
「………ばれたか……」

 にこっとほほ笑むと、若侍は光の粒子に戻り、携帯に吸い込まれ……消えた。

「今のは、いったい」
「あー。あたしの教え子」

 技を使う時は技名を叫べと、以前教えたのをきちんと覚えていたらしい。

(ほんと、素直な子って大好き)

 いったい、どうやって自分の危機を察したのか。
 ぱしっと携帯を回収し、胸ポケットに収める。
 こいつの中には、彼とやり取りした何通ものメールや、教え子たちの写真が入っている。それを足がかりにしてサポートしてくれたのだろう。

「こりゃ帰国してから説教くらうなぁ……」
「教師だったのか」
「ええ。歴史教えてます」
「ジュニア・ハイの」

 聞かなかったことにしとこう。風見光一の名誉のためにも。

「やったのか?」
「そのはず…………いいや、まだだ。悪夢が消えない……何故?」

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【3-5】混在する夢

 
「大丈夫か?」
「え?」

 がくん、と、唐突に落下が止まった。
 目を開ける。
 がっしりした腕に支えられていた。

「ちょ、ちょっと、Mr.ランドール、何であなたこっち側にいるの! 触っちゃだめって言ったのに」
「でも、君が怪我してる」

 確かに右腕から血がしたたっていた。

(しまった……予想以上に紳士だった)

 改めて周囲を見回す。カリフォルニアの青空は跡形もなく消えていた。そして、そこはさっきまで自分の居た裏庭ですらなかった。
 熱い閉ざされた箱は消えている。中にうずくまっていた少年も。彼の内側に巣食う、もう一つの存在も。
 
「大丈夫か?」
「大丈夫ですよ……」

 とにかく、この怪我をどうにかしよう。ランドールが自分のシャツを引き裂いて包帯代わりにさし出す前に。
 さっと左手で傷をなぞり、塞いだ。表面にうっすらにじむ赤い筋を残して。

「ほら、大したことないし」
「さっき見た時はもっと深く切れてたんだ!」

 にっこり笑って顔をよせ、きっぱりと言い切った。一語一語に力をこめて。

「気、に、す、ん、な」
「あ……ああ」

 うなずいている。
 よし、それでいい。素直な子って大好き。

「何だか君……印象が違うね」
「気のせい気のせい!」

 意志疎通のためにわざわざ英語を使う必要もない。ここでの会話は音声を媒介としないのだ。
 お互いの母国語でしゃべっても思念が直接伝わり、聞き取る者は無意識に受けとった相手の言葉を自分の知る言語に変換している。
 だから日本語でしゃべっている。故に口調もくだけ、本音により近くなる。
 まあ、そのへん細かく説明することもないだろう、今は。

 それより問題は、カルヴィン・ランドールJr.が……普通の人間が、ドリーム・ダイブしてしまった。他人の夢の中に入ってしまったと言うことだ。
 もう、ここは「少年」一人の夢ではない。
 徐々にランドールの夢と記憶が混じりつつある。
 他者の夢の中でも自己を保つには、それなりの訓練と経験が必要なのだ。自分やサクヤのように。

「ランドールさん」
「何だい?」
「あたしから離れちゃだめですよ」

 目をうるうるさせ、彼の手なんか握ってみる。

 ここで強く命令するのは逆効果だ。彼にとっては全ての女性はか弱くて保護すべき対象なのだ。自分が相手を頼りにしているのだと思わせ、誘導するのが吉。
 実際に離れると困るし……そうだ、万が一にそなえて繋がりを作っておこう。

 髪の毛を結っていた赤いリボンをほどいてランドールの手首に巻きつけた。

「これは?」
「おまじないです。迷子にならないための」

 自分一人なら簡単に抜け出せる、けれどランドールが一緒だと話は別だ。
 これはもう彼自身の夢でもある。強引に切り離せば心を損なう。

 危険だけれど、『夢』の中心を見つけよう。核を探そう。自分を助けてくれなかった親、虐待した親への憎しみの源を。

「行きましょう。あの子を見つけて、ここから連れ出さなくちゃ」
「あ、ああ……そうだな」

 ランドールは周囲を見渡し、うなずいた。

「ここはあまり、気持ちのいい場所じゃない」
 
 ヨーロッパの深い森を思わせる太く、高くそびえ立つ木々。目に届く範囲には、灌木や草がみっしり絡み付いている。
 見渡すほどに遠近感が歪んでゆき、まるで自分だけが縮んでしまったような奇妙なスケールのずれを感じさせる。

 空はどんよりとした雲が分厚くたれこめていた。昼間ではない。だが、夜でもない。
 全ての空は陽が沈む直前のたそがれ色に塗りつぶされ、薄明かりに縁取られた分厚い雲が黒々と、不気味な模様を描き出している。
 その形がまるで業火に焼かれて悶え苦しむ人々のように見えるのは、気のせいだろうか……。

 遠くで狼の遠吠えが聞こえる。それとも、ハイウェイを走る大型車の音?

 おそらくこの辺りはランドールの記憶が元になっているのだろう。
 ルーマニア出身の母から聞かされた昔話や、先祖から受け継いで来た無意識の記憶、そこにアメリカの怪奇映画や小説が微妙に混在しているように思えた。
 現にさっき潜った石造りの門は、いい具合に蔦がからまり外れかけた金属の門扉がきいきい軋んで、怪奇映画に出てきた幽霊屋敷そっくりの造りだった。

 石柱の上にうずくまる苔むしたガーゴイルの傍らを通り抜け、たどりついた先は……屋敷ではなく、もっとシンプルで現代的な二階建ての建物だった。

「ここは……学校、かな」

 だがランドールは青ざめ、首を横に振っている。

「まさか……信じられない、ここは私の通っていたジュニアハイだ!」

 彼がその言葉を発した瞬間、二人は校舎の中に居た。中はがらんとしていて人の気配はない。
 しかし、その寂しさを補うかのように、乱雑かつうすっぺらな装飾が施されていた。
 紙を切り抜いた幽霊、ビニールのコウモリ、発泡スチロールやプラスチックのカボチャ。床にも壁にも天井にも、Gの生じるありとあらゆるところに飾りがぶら下がっている。
 
「この装飾、ハロウィンかな」
「ああ、ハロウィンパーティの飾り付けだ……よく覚えている」

 声のトーンが低い。どうやら、ここに残っているのは愉快な記憶ばかりではないらしい。

 良かった、道はまちがっていない。
 ヨーコはひそかに安堵した。
 自分たちは確実に悪夢の中心に向かっている。
 
 チープな飾りに埋め尽くされた廊下は、やがて一つの扉に行き当たった。両開きの金属の扉。手を触れるまでもなく勝手に開いた。

 ギギギギギ……ガチャン!

 妙に軽い音ととともに扉が開く。
 確かに扉だったはずなのに、開けたらいきなり目の前にどんっと学生用の金属ロッカーが広がった。

「何、これ……」

 むわっとふき出す強烈な臭気に思わずヨーコは顔をしかめた。本来なら決して不快なにおいではない。むしろ食欲をそそるはずなのだが、物には限度と言うものがある。
 狭い空間にこもっていたせいだろう。
 ロッカーの中には、大量のニンニクを連ねてリースにしたものがぶらーんと、何本もぶらさがっていた。
 それだけではない。アイスキャンディの棒だの、ちびた鉛筆、ボールペン、適当な板切れを十字に組んで、テープで張り合わせただけのお粗末な十字架。
 明らかにチープなアクセサリー屋で買ったとおぼしきプラスチック製の十字架も混じっている。

 十字架とニンニクのカーテンの合間に、さらに悪趣味な物体がぶらぶらゆれていた。
 首に縄をくくりつけられた人形だ。
 よく見ると、吊られていたのは、紫の肌に片眼鏡をかけ、黒いマントを羽織ったセサミストリートのパペットだった。そう、どことなく吸血鬼めいた風貌の……と、言うよりまさにそのものの、あの伯爵だ。

 ご丁寧に胸部を深々と、先端を鋭く尖らせた木の杭で串刺しにされている。

 ロッカーの中にはそこいら中にべたべたと、白い紙に乱雑に書きなぐられた赤い文字、何とも物騒な張り紙がはり付けられていた。わざと赤い染料をしたたらせるようにして。

『ドラキュラは故郷に帰れ!』
『吸血鬼を吊るせ!』

 ランドールは青ざめ、唇を噛んだ。
 ここがだれのロッカーか、なんて確かめるまでもなかった。自分の使っていたロッカーだ。もう二度と、目にしたくないと思っていたのに。

「まー何とも露骨な遣り口だこと。匿名だと思ってやりたい放題やっちゃって」

 ヨーコが眉をしかめて肩をすくめている。怒りに震えて、というより心底呆れているような口ぶりだった。

「インターネットに書き込みするよか100倍手間がかかったでしょうに。ほーんと、お子様ってのはこう言うことにはヤんなるくらい勤勉ね」
「君は君で今、言いたいことを1/100ぐらいに抑えてるだろ」
「……ばれた?」

 にまっと笑っうとヨーコは無造作に手を伸ばし、一番大きな張り紙をべりっとひっぺがした。白い紙はくたくたと彼女の手の中で張りを失い、熱湯に放り込んだパスタのように崩れ、丸まり、希薄になり……消えた。
 まるで最初から存在しなかったみたいにきれいにさっぱりと。

「こんな奴ら、殴るまでもない。もっとも、鼻で笑ってやるのに、これほどふさわしい相手はいないんだけどね」

 続いて首を吊られた人形がやはり形を失い、消え失せた。
 
「消臭剤にしちゃ、いささか趣味が悪い」

 ふーっと息を吹きかけると、ぶらさげられた大量のニンニクが揺らぎ、粉々になって吹き飛ばされてしまった。
 においすら残さずに。

 不思議だ。今の彼女に重なって、ジュニアハイ時代の彼女が見えるような気がする。(多分そうだろう。でも、もしかしたら小学生かもしれない)。
 今より髪は長く、化粧もしていない。ぴったりした黒の長袖とピンクの半袖のTシャツを重ね着し、デニムのミニスカートをはき、足元は赤いスニーカーだ。眼鏡のフレームも今より大きめ。

「キリスト教の象徴としての十字架にはしかるべき敬意を払うわ。でも、これはただのバツ印。何の意味もありゃしない」

 ざらりと十字架をむしりとると、まとめて手の中で丸めて、ぽいっと投げ捨てる。ボール状に一塊になった十字架は、ぽてりと床で1バウンドして、それからぱちっとシャボン玉のように破裂して、消えた。
 後には何も残らなかった。

「徒党を組んでるくせに正面に立つ度胸もない。そのくせ社会の正しさを一身に背負ったような偉そうな面ぁして一人を攻撃する奴らってのはどーにも好きになれなくってね……。思わずばっさりやりたくなっちゃう」

 冗談とも本気ともつかないことをさらりと言うと、ヨーコはちろっと舌を出して笑った。

「斬り捨て御免、峰打ち無用」
「まるでサムライだな。頼もしい。あの頃君が居てくれたらと思ったよ」
「ありがとう。でも、あなたは一人で克服した。そうでしょう?」
「ああ。母から受け継いだルーマニアの血と文化を誇りに思っていたからね」

 ランドールは一枚だけ残っていた張り紙を剥がし、ずいっと一歩前に進み出た。幻のロッカーは消え失せ、再び長い廊下が現れる。

「ハロウィンに吸血鬼の仮装をしたんだ。幸い、父の会社のツテで衣装は本格的なのを用意できたし」
「ああ、なるほど……とてもよくお似合いだ」

 言われて自分の服装を改めて見直す。
 変わっている!
 黒いマント、裏地は赤。細やかな赤い刺繍を施したクラシカルな黒いベストにズボン、白のドレスシャツ、襟もとにしめた蝶ネクタイ……まさしくあの時着ていた吸血鬼の衣装だ。
 ただしサイズは大人向け。今の自分にぴったりの大きさになっている。

「ありがとう。それからも意識して黒い服を着て、紳士然として振る舞ったんだ」
「ネガティブなイメージを逆手にとって、逆に自分の魅力を最大限に引き出したのね。見事な演出だ」

 率直な賛辞の言葉に、そこはかとなく腹の底がこそばゆくなる。ランドールはかすかに頬を染め、照れた笑いをにじませた。

「いや。子どもじみたつまらん見栄さ。笑ってくれ」
「笑いませんよ……笑える訳ないじゃない」

 ぽん、とヨーコは黒いマントに覆われた背中をたたいた。

「あなた、すてきな人ね、ランドール」
「ありがとう……って、ちょっと待った」
「どしたの?」
「今、君 good-boy(いい子)って言わなかったか?」
「あらら? good-guy(いい男)って言おうと思ったのに。英語って難しいな〜」

 手をひらひらさせてすっとぼけた。
 あぶないあぶない。どうやら、本音がダイレクトに伝わっちゃったらしい。
 
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