メッセージ欄
2008年10月の日記
▼ 【4-5】火難水難女難男難
2008/10/08 2:40 【四話】
- 誕生日が終わってまもなく、ヒウェルに降り掛かった地道に不幸な出来事の数々。
- なぜか彼の場合、こう言う情けないシチュエーションがとてつもなく似合うように思えるのは…気のせいでしょうか?
記事リスト
- 【4-5-0】登場人物紹介 (2008-10-08)
- 【4-5-1】予言なんて気にしない (2008-10-08)
- 【4-5-2】ブルーな気分でスプラッシュ (2008-10-08)
- 【4-5-3】君だけの優しい俺 (2008-10-08)
- 【4-5-4】やっぱり予言なんて… (2008-10-08)
▼ 【4-5-0】登場人物紹介
2008/10/08 2:41 【四話】
- より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
フリーの記者。26歳。
黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
最近、夕飯の時にしか出番の無くなってきた本編の主な語り手。
今回、不幸てんこ盛り。
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
告白の際に著しく心を傷つけられ、今はひたすら『空気』扱い。
観察力に優れ、また記憶力は驚異的に良い。
ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。
ディフの探偵事務所で助手をしている。とても有能。
最近、猫を飼い始めた。定位置はもっぱら頭の上。
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
外見はオティアとほぼ同じ。
オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
ディフになついている。
自覚のないままヒウェルに片想いしている。
その一方で、オティアとのこじれた仲を取り持とうとする複雑な立ち位置に。
レオンの法律事務所で秘書見習いをしている。
こう見えて実はけっこうドライな子。あきらめが早いとも言う。
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】
通称レオン
弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
ディフと双子に害為す者に対しては穂高の槍の穂先並みに心が狭い。
ヒウェルに対してはとことん容赦無い。
ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
嫁の愛情を横取りする者はたとえ犬猫でも容赦しない。
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】
通称ディフ、もしくはマックス。
元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
頑丈そうな体格だが無自覚に色気をふりまく困った体質(ゲイ相手限定)。
裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
レオンの嫁で双子の『まま』。
アレルギー持ちの旦那のために最近超強力な掃除機を購入した。
【オーレ/Oule】
四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
エドワーズ古書店の看板猫リズの末娘。
【エドワード・エヴェン・エドワーズ/Edward-Even-Edwars】
通称EEE、もしくはエディ。英国生まれ、カリフォルニア育ち。
濃いめの金髪にライムグリーンの瞳。
元サンフランシスコ市警察の内勤巡査でディフとレオンの友人。
現在は父親から受け継いだ古書店の店主。やや引きこもり気味。
飼い猫のリズは家族であり、よき相談相手。
獣医のサリー先生のことが何かと気になる36歳。
【リズ/Liz】
本名エリザベス。
真っ白で瞳はブルー、手足と尻尾が薄い茶色のほっそりした美人猫。
エドワーズ古書店の本を代々ネズミから守ってきた由緒正しい書店猫。
6匹の子猫たちはめでたく里親に引き取られていった。
エドワーズのよき相談相手。
次へ→【4-5-1】予言なんて気にしない
▼ 【4-5-1】予言なんて気にしない
2008/10/08 2:44 【四話】
「んがぁっ」
その瞬間、真っ白に燃え尽きた。
がくん、と顎が落ちる。ついでに手にしたメモ帳とペンも床に落ち、静まり返った会場にカツーンと乾いた音を響かせた。
目の前には時計を使ったオブジェ。大人の背丈ほどの高さの柱時計の振り子の部分には、ぎっしりと青い目覚まし時計が詰まっている。
丸い文字盤、上部に二つのベルとハンマー、色はつやつやした青。そう、忘れもしない9/10に必死になって俺とサリーがシスコ中をさがし回ったあの時計が………。
※月梨さん画「燃え尽きるへたれ眼鏡」
現場はサンフランシスコ現代美術館。赤レンガの外壁に斜めに傾いだ巨大な円形の天窓、中味にも外見にもモダンな芸術の香りあふれるこの建物にやってきたのはひとえに仕事のためだった。
顔馴染みの編集者に頼まれて、ピンチヒッターで新進気鋭の若きアーティストたちの作品を展示した特別展の取材にやって来て、問題の一品に出くわしちまったのである。
ソニックウェーブ級の最初の衝撃が通りすぎると、ようやく口元に引きつった笑みが浮かんだ。
そりゃあもう、出て来る途中で喉にひっかかりそうなかっさかさに乾いた笑みが。
「は、はは、そうか……どっかのアーティストがオブジェの素材にするために買い占めてやがったんだな……」
落ち着けヒウェル。今は仕事中だ。いい年こいた社会人がここで暴れて芸術作品をたたき壊したらそれなりに問題だ。
所詮は大量生産品、まあこんな事もあるよなと無理矢理自分を落ち着かせつつ屈み込んで床に落ちたメモ帳とペンを拾い上げる。
ふと、タイトルが目に入った。
『the Maternity』
「そうか、これが『女難』ってやつか……」
※ ※ ※ ※
遡ること前日。
いつものように中華街をうろうろしていると、知り合いのお茶屋の亭主に呼び止められた。
別に珍しいことじゃない。よくある事だ。
『元気かい?』『お茶でも飲んでく?』『これ試供品だけどよかったら試してみる?』そんな所だろう。さして深くも考えずに近づいて行った。
「メイリールさんちょっとちょっと! うちのひいおじいちゃんが話があるって」
「何だい?」
お茶屋の亭主の顔からいつものふくふくした愛想笑いが消える。細い目をいっそう細くして声を潜めて囁いてきた。
「あなた良くない相が出てるから気をつけた方がいいって」
「良くない相ねえ……どんな?」
「水難と、火難と、あと女難の相が出てるって」
真剣なまなざしの亭主の隣では、白いヒゲをたくわえた爺様(彼は英語があまり得意ではなかった)が厳かにうなずいている。
へっと鼻で笑っちまった。
「水難火難はともかく俺はゲイだぜ? 女難はお呼びじゃないよ」
すると爺様は亭主に向かって何やら中国語で話しかけた。
「……男難も」
「マジ? どーすりゃ回避できる」
「これあげる」
「……お守り?」
「いや、お菓子。落ち込んだ時には甘いもの食って元気出して」
「………………………落ち込むような状況に陥ることは既に確定な訳ね」
手渡された四角い包みをポケットに突っ込み、手を振って歩き出す。白ヒゲの爺様とお茶屋の亭主の妙に慈愛に満ちたまなざしに見送られて……。
そーいやあの爺さん、今でこそ引退しちゃいるが、良く当たる占い師としてあの近辺じゃ有名だったな。あれ、それとも風水師だったっけか?
いまいち違いがわからんが、どのみち予言なんざ気にしない。
でも、ちょいと場所は変えてみようかな。
※ ※ ※ ※
カランコロンと穏やかな響きのドアベルに迎えられ、やってきたのはエドワーズ古書店。古い本のにおいに静かな空気、そして美人の看板猫。
長い尻尾をくねらせて足元にすり寄るリズを静かになでる。
「よう、リズ。元気?」
「にゃ……」
「オーレは元気だよ。最近はカーテンをよじのぼってレールの上を走るのがお気に入りだ」
なごやかに挨拶をしていると、目の前にぬっと磨かれた革靴が突き出された。ぴしっと折り目のついたダークグレイに細いストライプの入ったズボン、その上には黒のベストに白いシャツ、さらにその上には金髪にライムグリーンの瞳の店主の顔。
「ども、Mr.エドワーズ」
「これはこれはMr.メイリール。いらっしゃい」
いつもの営業スマイル、だが、なんつーか、こう……微妙に棘生えてるように感じるのは気のせいだろうか?
「オーレ、元気っすよ」
「……そうですか」
お、ふっと穏やかな目になった。やっぱ気のせいだったかな。
「この間、サリーんとこで無事マイクロチップも入れてきて。昼間はオティアと一緒に探偵事務所に出勤してるし」
「そうですか」
あれ。また、棘が生えたような……何で?
まさかこれが男難? いやいやいや。気のせいだ、そうに決まってる。俺は二十一世紀に生きる健全なアメリカ市民だ。中国の歴史と文化に敬意は払うが基本的には科学を信望している。
予言なんざ知ったこっちゃない!
「このペーパーバック、こっからここまで全部ください」
「ありがとうございます」
吟味もそこそこに、がばっと興味ありそうな一角をまとめてレジに持ってって。会計をすますのもそこそこに店を出た。
っかしいなあ。俺、あの人に、何か、したか?
※ ※ ※ ※
家に帰ってから収穫を確認する。やっぱり確かめずに買って来るもんじゃない。既に持ってる本とだぶってるのがあった……しかも3冊も。
せめて出版社なり、カバーが違うなりすればまだバリエーションと割り切ることもできたのだが、あいにくと社も一緒、カバーも同じ。
まあこんな事もあらあな。読書用と保存用が確保できたと思うか。しかしこれだから本が増えるんだよなあ。
ぶつくさぼやきつつページをめくっていると、はらりと一枚の切り抜きが落ちる。
何だこれ。新聞か? 拾い上げると、料理のレシピだった。『スイートポテト入りコーンブレッド』。何だかやたらと腹にたまりそうなレシピだ。
本の前の持ち主は一家の台所を仕切る母親だったのだろうか。それも食べ盛りの息子を抱えた……。
ディフに持ってってやろうかな。だがこの手のレシピは既に奴のお袋さんから伝授されていそうな気がしないでもない。いかにもあの人の好みそうな献立だし。
くすっと笑いながら何気なく切り抜きをひっくり返すと、裏面はスポーツ欄らしかった。
氷の上でのびやかに踊る一組の男女の写真。フィギュアスケートか。
モノクロだが女性の髪の毛の色は明るい。おそらくは金髪か。短いスカートを翻し、細い足を伸ばした彼女の顔にふと、目が引き寄せられた。
…………………似ている。
この目、口元、鼻、唇の形、そして顎のライン。オティアとシエンにそっくりだ!
ただの他人のそら似なんてもんじゃない。遺伝子レベルでの相似性を感じる。(って別にDNA鑑定したわけじゃないが!)
食い入るように記事を読む。あいにくと一部分しかない。いつ、どこの大会なのかはわからなかったが、それでも写真のペアの名前はわかった。
ヒース・ガーランドとメリッサ・サラエフ。それが二人の名前。
オティアとシエンの両親の名前は確か、ヒース・ガーランドとメリッサ・ガーランド……間違いない。あの二人の両親の、若い頃の写真だ。
そうか、フィギュアの選手だったんだ。お袋さん、美人だな。ロシア系か? 良く見ると親父さんも似てるな……意志の強そうな表情がオティアにそっくりだ。
俺の両親の遺品はほとんど残っていない。
名前と年齢を記した事務的な書類と古いブローチぐらいなもんだ。写真は一枚も残ってはいない。
死に別れたのは五歳の時だった。俺は両親の顔も声も覚えちゃいない。二人が生前何をしていたのか。どこからサンフランシスコにやって来たのかは……今となっては確かめる術もない。
もし親の写真や映像、声が残っていたら。俺ならどんなかすかな痕跡でも見たいと思う。
だけどあいつらはどうだろう?
オティアはどうなんだろう?
自分にそっくりの母親の写真を見てさえ凄まじい過去に結びついたりしないか。よかれと思ってやったことでもあいつに嫌な思いをさせちまったら意味はない。
最近は医者通いの成果が徐々に出ているのか、イライラする頻度も下がって来ているようだが、まだまだ油断は禁物だ。
一枚の薄っぺらな新聞の切り抜きは、長い年月を経て劣化していたが、それでも比較的きれいな状態に保たれていた。
表面を指でなぞる。
オティアは扱いづらい子どもだ。
彼に近づく者は少ない。増して内側にまで踏み込もうとする人間に至っては……。
最初のうちは不憫と思い手を伸ばしてほほ笑みかけても、いつかは忍耐がすり切れる。
何を言っても。何をしても。奴の心には届かない。何か一つアクションを起こしても、表情を変えずに淡々としている。さもなくば無視するか、いら立つか。
表面さえかすりはしない。それどころか苦しめているだけなのだと知った時の絶望や苛立ちは決して小さなものでは終わらない。
口を開けば出る言葉は極めて攻撃的。自分自身にさえ隠しておきたい、己の最も後ろ暗い本質をずきりと抉る鋭い言葉。
そんなはずがない。
否定しながら腹の奥底で怯え、その怯えこそが思い知らせる。彼の言葉は、真実なのだと。そのことに気づいた瞬間、今まで優しくしていた人間は手のひらを返したように冷たく無慈悲になり、容赦無く彼を切り捨てる。
はい、ここまで。そこでおしまい。そうやって、ずっとあちこちさまよってきたのだろう。
俺にしたって何度思ったことか。
放り出して背を向けて、二度と関わらないのが奴にとっても俺にとっても「たったひとつの冴えたやり方」なんじゃないかって。
だが、そいつを選ぶ予定も意志も一切無い。絶対御免。そんな事するぐらいなら最初っから手なんか伸ばしちゃいねえ。
(……馬鹿だな、俺)
時折ふと、ろくでもない幻想にとりつかれる瞬間がある。
何処か遠く高い場所から、何もかも見通すだれかが俺を指さしあざけり、腹をかかえて笑っているんじゃないかって。
(ただ一度、弱々しく手を握られたあの瞬間。あれだけで、一生を投げ出してもいいと思った。俺にとってオティアはそれだけの価値があると)
その気持ちは今も変わらない。だから動く。嫌な顔されようが。うざがられようが。
いっそレオンのように割り切ることができたら………無理だ。ディフのようにお袋みたいな愛情で包み込む、なんてぇのは初っ端から範疇の外。
だから俺は俺のやり方で動く。それしかない。
また、余計な真似をしようとしているのかも知れない。だけど。
進め、進め、前に進め。
決して後ろを振り向くな。
せめてこの新聞記事を完全な状態で見つけたい。あいつらに見せてやりたい。
これがお前たちの両親なんだよって……教えてやりたいと思った。無味乾燥な書類に書かれた名前以上の事実を知らせてやりたいって。
「写真がまずけりゃ、見せなきゃいいんだ」
よし、決めた。
探すぞ。
※ ※ ※ ※
フィギュアスケートもアイスダンスもアメリカでは人気の高い競技だ。人々の関心が高けりゃ自ずと情報も記録もそれだけ多く記される。
おそらくスケート連盟に問い合わせれば詳しい記録が残っているだろう。だが、あいにくと俺はスポーツ面へのツテは……薄かった。
一応、これでも社会派で通してるからな。(地域密着型だけど)
少なくとも、いきなりアポ無しで押しかけて「この人とこの人のことについて教えてくださーい」と気軽に声をかけられるレベルではない。
こう言う時は、あれだな。『餅は餅屋』、そっち方面に得意な奴に任せるに限る。
そんな訳で馴染みの出版社に足を運び、我が盟友にして穏やかな口当たりの割には情け容赦なく原稿を取り立てる敏腕編集者、ジョーイ・グレシャムを訪ねることにした。
「よう、ジョーイ。元気か?」
「あれ、ヒウェル。どしたの、確か、今はお前さんに依頼してるお仕事はなかったはずだけど?」
「うん……ちょっとね、頼みたいことがあって」
事の次第を聞くとジョーイの奴は話半分も聞かないうちに目をうるうるさせ始め、しまいにゃハンカチでぐしぐしと目元をぬぐっていた。
そう言やこいつは人一倍、涙もろい男だった。
「そうか……ちっちゃい頃に死に別れた両親の面影を探して、ねえ。いいとこあるじゃないか、ヒウェル!」
「まあ、な……」
「常日頃思ってたんだよ、お前さんのその人に知られたくない後ろ暗い事実をことごとく追いかける執念をさあ、たまには世の為人の為に使えって!」
「えらい言われようだね、おい」
「だって、事実だし?」
派手な音を立てて鼻をかむとジョーイはシステム手帳をとりだし、ぺらぺらとめくり始めた。
「OK、そう言うことなら及ばずながらお力添えしましょう! でもその代わりといっちゃ何だけど、ちょーっと手ぇ貸してもらえる? そうすりゃ時間取れるんだけどな、俺も!」
「いいぜ? 話せよ。何をすればいい」
「さっすが話が早いね。実はさ、一件取材に行って記事まとめて欲しいんだ。アポも段取りもつけてあるんだけど、担当者が急に行けなくなっちゃってねえ」
「おやまあ。風邪でもひいたか、それともダブルブッキングか?」
「いや、ぎっくり腰。さっき病院にかつぎこまれたトコ」
腰痛、眼精疲労、頭痛。いずれも記者の職業病だ。人ごとじゃないやね、いやはや気の毒に……。
「わかった、引き受けましょう。その代わり、ガーランド夫妻の件はよろしくたのむよ」
「OK、そっちは任せてちょうだい! 双子ちゃんのためにもね……料金はいつもの相場でよろしい?」
「OK、いつもの相場で」
人懐っこい笑みを浮かべるジョーイと堅い堅い握手を交わす。これにて商談成立。
「それで、俺はどこに行けばいい?」
次へ→【4-5-2】ブルーな気分でスプラッシュ
その瞬間、真っ白に燃え尽きた。
がくん、と顎が落ちる。ついでに手にしたメモ帳とペンも床に落ち、静まり返った会場にカツーンと乾いた音を響かせた。
目の前には時計を使ったオブジェ。大人の背丈ほどの高さの柱時計の振り子の部分には、ぎっしりと青い目覚まし時計が詰まっている。
丸い文字盤、上部に二つのベルとハンマー、色はつやつやした青。そう、忘れもしない9/10に必死になって俺とサリーがシスコ中をさがし回ったあの時計が………。
※月梨さん画「燃え尽きるへたれ眼鏡」
現場はサンフランシスコ現代美術館。赤レンガの外壁に斜めに傾いだ巨大な円形の天窓、中味にも外見にもモダンな芸術の香りあふれるこの建物にやってきたのはひとえに仕事のためだった。
顔馴染みの編集者に頼まれて、ピンチヒッターで新進気鋭の若きアーティストたちの作品を展示した特別展の取材にやって来て、問題の一品に出くわしちまったのである。
ソニックウェーブ級の最初の衝撃が通りすぎると、ようやく口元に引きつった笑みが浮かんだ。
そりゃあもう、出て来る途中で喉にひっかかりそうなかっさかさに乾いた笑みが。
「は、はは、そうか……どっかのアーティストがオブジェの素材にするために買い占めてやがったんだな……」
落ち着けヒウェル。今は仕事中だ。いい年こいた社会人がここで暴れて芸術作品をたたき壊したらそれなりに問題だ。
所詮は大量生産品、まあこんな事もあるよなと無理矢理自分を落ち着かせつつ屈み込んで床に落ちたメモ帳とペンを拾い上げる。
ふと、タイトルが目に入った。
『the Maternity』
「そうか、これが『女難』ってやつか……」
※ ※ ※ ※
遡ること前日。
いつものように中華街をうろうろしていると、知り合いのお茶屋の亭主に呼び止められた。
別に珍しいことじゃない。よくある事だ。
『元気かい?』『お茶でも飲んでく?』『これ試供品だけどよかったら試してみる?』そんな所だろう。さして深くも考えずに近づいて行った。
「メイリールさんちょっとちょっと! うちのひいおじいちゃんが話があるって」
「何だい?」
お茶屋の亭主の顔からいつものふくふくした愛想笑いが消える。細い目をいっそう細くして声を潜めて囁いてきた。
「あなた良くない相が出てるから気をつけた方がいいって」
「良くない相ねえ……どんな?」
「水難と、火難と、あと女難の相が出てるって」
真剣なまなざしの亭主の隣では、白いヒゲをたくわえた爺様(彼は英語があまり得意ではなかった)が厳かにうなずいている。
へっと鼻で笑っちまった。
「水難火難はともかく俺はゲイだぜ? 女難はお呼びじゃないよ」
すると爺様は亭主に向かって何やら中国語で話しかけた。
「……男難も」
「マジ? どーすりゃ回避できる」
「これあげる」
「……お守り?」
「いや、お菓子。落ち込んだ時には甘いもの食って元気出して」
「………………………落ち込むような状況に陥ることは既に確定な訳ね」
手渡された四角い包みをポケットに突っ込み、手を振って歩き出す。白ヒゲの爺様とお茶屋の亭主の妙に慈愛に満ちたまなざしに見送られて……。
そーいやあの爺さん、今でこそ引退しちゃいるが、良く当たる占い師としてあの近辺じゃ有名だったな。あれ、それとも風水師だったっけか?
いまいち違いがわからんが、どのみち予言なんざ気にしない。
でも、ちょいと場所は変えてみようかな。
※ ※ ※ ※
カランコロンと穏やかな響きのドアベルに迎えられ、やってきたのはエドワーズ古書店。古い本のにおいに静かな空気、そして美人の看板猫。
長い尻尾をくねらせて足元にすり寄るリズを静かになでる。
「よう、リズ。元気?」
「にゃ……」
「オーレは元気だよ。最近はカーテンをよじのぼってレールの上を走るのがお気に入りだ」
なごやかに挨拶をしていると、目の前にぬっと磨かれた革靴が突き出された。ぴしっと折り目のついたダークグレイに細いストライプの入ったズボン、その上には黒のベストに白いシャツ、さらにその上には金髪にライムグリーンの瞳の店主の顔。
「ども、Mr.エドワーズ」
「これはこれはMr.メイリール。いらっしゃい」
いつもの営業スマイル、だが、なんつーか、こう……微妙に棘生えてるように感じるのは気のせいだろうか?
「オーレ、元気っすよ」
「……そうですか」
お、ふっと穏やかな目になった。やっぱ気のせいだったかな。
「この間、サリーんとこで無事マイクロチップも入れてきて。昼間はオティアと一緒に探偵事務所に出勤してるし」
「そうですか」
あれ。また、棘が生えたような……何で?
まさかこれが男難? いやいやいや。気のせいだ、そうに決まってる。俺は二十一世紀に生きる健全なアメリカ市民だ。中国の歴史と文化に敬意は払うが基本的には科学を信望している。
予言なんざ知ったこっちゃない!
「このペーパーバック、こっからここまで全部ください」
「ありがとうございます」
吟味もそこそこに、がばっと興味ありそうな一角をまとめてレジに持ってって。会計をすますのもそこそこに店を出た。
っかしいなあ。俺、あの人に、何か、したか?
※ ※ ※ ※
家に帰ってから収穫を確認する。やっぱり確かめずに買って来るもんじゃない。既に持ってる本とだぶってるのがあった……しかも3冊も。
せめて出版社なり、カバーが違うなりすればまだバリエーションと割り切ることもできたのだが、あいにくと社も一緒、カバーも同じ。
まあこんな事もあらあな。読書用と保存用が確保できたと思うか。しかしこれだから本が増えるんだよなあ。
ぶつくさぼやきつつページをめくっていると、はらりと一枚の切り抜きが落ちる。
何だこれ。新聞か? 拾い上げると、料理のレシピだった。『スイートポテト入りコーンブレッド』。何だかやたらと腹にたまりそうなレシピだ。
本の前の持ち主は一家の台所を仕切る母親だったのだろうか。それも食べ盛りの息子を抱えた……。
ディフに持ってってやろうかな。だがこの手のレシピは既に奴のお袋さんから伝授されていそうな気がしないでもない。いかにもあの人の好みそうな献立だし。
くすっと笑いながら何気なく切り抜きをひっくり返すと、裏面はスポーツ欄らしかった。
氷の上でのびやかに踊る一組の男女の写真。フィギュアスケートか。
モノクロだが女性の髪の毛の色は明るい。おそらくは金髪か。短いスカートを翻し、細い足を伸ばした彼女の顔にふと、目が引き寄せられた。
…………………似ている。
この目、口元、鼻、唇の形、そして顎のライン。オティアとシエンにそっくりだ!
ただの他人のそら似なんてもんじゃない。遺伝子レベルでの相似性を感じる。(って別にDNA鑑定したわけじゃないが!)
食い入るように記事を読む。あいにくと一部分しかない。いつ、どこの大会なのかはわからなかったが、それでも写真のペアの名前はわかった。
ヒース・ガーランドとメリッサ・サラエフ。それが二人の名前。
オティアとシエンの両親の名前は確か、ヒース・ガーランドとメリッサ・ガーランド……間違いない。あの二人の両親の、若い頃の写真だ。
そうか、フィギュアの選手だったんだ。お袋さん、美人だな。ロシア系か? 良く見ると親父さんも似てるな……意志の強そうな表情がオティアにそっくりだ。
俺の両親の遺品はほとんど残っていない。
名前と年齢を記した事務的な書類と古いブローチぐらいなもんだ。写真は一枚も残ってはいない。
死に別れたのは五歳の時だった。俺は両親の顔も声も覚えちゃいない。二人が生前何をしていたのか。どこからサンフランシスコにやって来たのかは……今となっては確かめる術もない。
もし親の写真や映像、声が残っていたら。俺ならどんなかすかな痕跡でも見たいと思う。
だけどあいつらはどうだろう?
オティアはどうなんだろう?
自分にそっくりの母親の写真を見てさえ凄まじい過去に結びついたりしないか。よかれと思ってやったことでもあいつに嫌な思いをさせちまったら意味はない。
最近は医者通いの成果が徐々に出ているのか、イライラする頻度も下がって来ているようだが、まだまだ油断は禁物だ。
一枚の薄っぺらな新聞の切り抜きは、長い年月を経て劣化していたが、それでも比較的きれいな状態に保たれていた。
表面を指でなぞる。
オティアは扱いづらい子どもだ。
彼に近づく者は少ない。増して内側にまで踏み込もうとする人間に至っては……。
最初のうちは不憫と思い手を伸ばしてほほ笑みかけても、いつかは忍耐がすり切れる。
何を言っても。何をしても。奴の心には届かない。何か一つアクションを起こしても、表情を変えずに淡々としている。さもなくば無視するか、いら立つか。
表面さえかすりはしない。それどころか苦しめているだけなのだと知った時の絶望や苛立ちは決して小さなものでは終わらない。
口を開けば出る言葉は極めて攻撃的。自分自身にさえ隠しておきたい、己の最も後ろ暗い本質をずきりと抉る鋭い言葉。
そんなはずがない。
否定しながら腹の奥底で怯え、その怯えこそが思い知らせる。彼の言葉は、真実なのだと。そのことに気づいた瞬間、今まで優しくしていた人間は手のひらを返したように冷たく無慈悲になり、容赦無く彼を切り捨てる。
はい、ここまで。そこでおしまい。そうやって、ずっとあちこちさまよってきたのだろう。
俺にしたって何度思ったことか。
放り出して背を向けて、二度と関わらないのが奴にとっても俺にとっても「たったひとつの冴えたやり方」なんじゃないかって。
だが、そいつを選ぶ予定も意志も一切無い。絶対御免。そんな事するぐらいなら最初っから手なんか伸ばしちゃいねえ。
(……馬鹿だな、俺)
時折ふと、ろくでもない幻想にとりつかれる瞬間がある。
何処か遠く高い場所から、何もかも見通すだれかが俺を指さしあざけり、腹をかかえて笑っているんじゃないかって。
(ただ一度、弱々しく手を握られたあの瞬間。あれだけで、一生を投げ出してもいいと思った。俺にとってオティアはそれだけの価値があると)
その気持ちは今も変わらない。だから動く。嫌な顔されようが。うざがられようが。
いっそレオンのように割り切ることができたら………無理だ。ディフのようにお袋みたいな愛情で包み込む、なんてぇのは初っ端から範疇の外。
だから俺は俺のやり方で動く。それしかない。
また、余計な真似をしようとしているのかも知れない。だけど。
進め、進め、前に進め。
決して後ろを振り向くな。
せめてこの新聞記事を完全な状態で見つけたい。あいつらに見せてやりたい。
これがお前たちの両親なんだよって……教えてやりたいと思った。無味乾燥な書類に書かれた名前以上の事実を知らせてやりたいって。
「写真がまずけりゃ、見せなきゃいいんだ」
よし、決めた。
探すぞ。
※ ※ ※ ※
フィギュアスケートもアイスダンスもアメリカでは人気の高い競技だ。人々の関心が高けりゃ自ずと情報も記録もそれだけ多く記される。
おそらくスケート連盟に問い合わせれば詳しい記録が残っているだろう。だが、あいにくと俺はスポーツ面へのツテは……薄かった。
一応、これでも社会派で通してるからな。(地域密着型だけど)
少なくとも、いきなりアポ無しで押しかけて「この人とこの人のことについて教えてくださーい」と気軽に声をかけられるレベルではない。
こう言う時は、あれだな。『餅は餅屋』、そっち方面に得意な奴に任せるに限る。
そんな訳で馴染みの出版社に足を運び、我が盟友にして穏やかな口当たりの割には情け容赦なく原稿を取り立てる敏腕編集者、ジョーイ・グレシャムを訪ねることにした。
「よう、ジョーイ。元気か?」
「あれ、ヒウェル。どしたの、確か、今はお前さんに依頼してるお仕事はなかったはずだけど?」
「うん……ちょっとね、頼みたいことがあって」
事の次第を聞くとジョーイの奴は話半分も聞かないうちに目をうるうるさせ始め、しまいにゃハンカチでぐしぐしと目元をぬぐっていた。
そう言やこいつは人一倍、涙もろい男だった。
「そうか……ちっちゃい頃に死に別れた両親の面影を探して、ねえ。いいとこあるじゃないか、ヒウェル!」
「まあ、な……」
「常日頃思ってたんだよ、お前さんのその人に知られたくない後ろ暗い事実をことごとく追いかける執念をさあ、たまには世の為人の為に使えって!」
「えらい言われようだね、おい」
「だって、事実だし?」
派手な音を立てて鼻をかむとジョーイはシステム手帳をとりだし、ぺらぺらとめくり始めた。
「OK、そう言うことなら及ばずながらお力添えしましょう! でもその代わりといっちゃ何だけど、ちょーっと手ぇ貸してもらえる? そうすりゃ時間取れるんだけどな、俺も!」
「いいぜ? 話せよ。何をすればいい」
「さっすが話が早いね。実はさ、一件取材に行って記事まとめて欲しいんだ。アポも段取りもつけてあるんだけど、担当者が急に行けなくなっちゃってねえ」
「おやまあ。風邪でもひいたか、それともダブルブッキングか?」
「いや、ぎっくり腰。さっき病院にかつぎこまれたトコ」
腰痛、眼精疲労、頭痛。いずれも記者の職業病だ。人ごとじゃないやね、いやはや気の毒に……。
「わかった、引き受けましょう。その代わり、ガーランド夫妻の件はよろしくたのむよ」
「OK、そっちは任せてちょうだい! 双子ちゃんのためにもね……料金はいつもの相場でよろしい?」
「OK、いつもの相場で」
人懐っこい笑みを浮かべるジョーイと堅い堅い握手を交わす。これにて商談成立。
「それで、俺はどこに行けばいい?」
次へ→【4-5-2】ブルーな気分でスプラッシュ
▼ 【4-5-2】ブルーな気分でスプラッシュ
2008/10/08 2:46 【四話】
そして取材にやってきた展示会の会場で、こうして大量の青い目覚まし時計と対面しちまったのである。
ああ、まったく忌々しい。これがせめて1コインショップの店先なら、ひらきなおって予備の1つ2つも買っておけるものを……
芸術作品じゃあ、手出しもできやしない!
それでも仕事はしたさ、プロだから。
真面目にキュレーターの話を聞き、メモを取り、許可をもらって写真を写す。悔しいことに例の柱時計のオブジェはすばらしく画面映えがして、撮らずにはいられなかった。
(ああ、まったくもってこのご婦人ときたら!)
加えてたまたま会場に顔を出していた作者のインタビューをする幸運にまで恵まれちまった。
実に快活で気持ちのいいお嬢さんだった。
(くそ、これじゃ逆恨みもできやしない!)
「ありがとうございました。それじゃ、雑誌が出たら見本誌送りますんで!」
展示会場を出て3m歩いた所でへばーっと盛大にため息をつき、ブルーな時計にブルーな気分になりつつ美術館を出る。
かっとまぶしい陽射しが降り注ぐ。石畳の照り返しがじわじわ熱い。
よく晴れた日だった。九月とは言えそこそこ気温は高い。エントランス前の噴水が勢い良く噴き上がり、白い水しぶきが散っている。水気をふくんだ空気がひんやりとして心地よい。
よし、験直しだ。近くのコンビニに入り、アイスを買い求める。ひらべったいボート型の、バニラアイスをチョコでコーティングしたスティックつきのアイス。ラクトアイスとかアイスミルクとか呼ばれる種類のチープな味わいのやつ……好物なんだ、これが。
袋を両手でつまんで、べりっと破った。
景気よく………いや、良すぎた。ロケットみたいに飛び出したアイスは俺の手のひらからあっさり離脱。つるりん、べしゃり、と石畳の上へ。
「あ………」
2秒ほど時間が停止した。
この期に及んで、まだ食べられるかなと未練がましいことを考えていると、びよおおおと強風が吹いて、噴水の水がじゃばーっと飛んできた。
ぱらぱらと細かい水滴がカーテンみたいに降り注ぎ、ちっぽけな虹が現れる。みとれる暇もあらばこそ、俺は半端に濡れ鼠。アイスはもちろん水びたし。
「来やがったよ、水難が……」
ひきつり笑顔でへっと口をゆがめて吐き出した。ポケットから引っぱり出したハンカチはやっぱり半端に濡れていたが、とりあえず大雑把に眼鏡のレンズを拭い、肩をそびやかして歩き出す。
いいさ。かえって踏ん切りがついたってもんだぜ。
※ ※ ※ ※
「ただ今、ジョーイ」
「どーしたのヒウェル。水びたしじゃない。俺が頼んだのは確か美術館の取材だったんだけどね?」
「美術館の前には何がある?」
「噴水。まさか暑さにぷっつんして水浴びしてきたんじゃないよね?」
「笑えない冗談だぜ、Ha,Ha,Ha!」
乾いた声を震わせ笑っていると、ばさっと上からバスタオルをかけられた。ありがたくごしごしと顔を拭う。終わったところで絶妙のタイミングでティッシュの箱が出てきた。
「サンキュ、ジョーイ」
きゅっと眼鏡のレンズを拭う。よし、だいぶすっきりしたぞ。タオルを返すと、ジョーイは目をぱちぱちさせてちょこんと首をかしげ、人懐っこい笑みを浮かべた。
「ついでだからさあ、ヒウェル。ここで記事書いてっちゃいなよ」
そらおいでなすったぞ!
その手は食うか。基本的に文章を書く時は自分の家で、自分のペースでと決めてるんだ!
「いや、俺、Mac派だし。速攻、帰ったら記事起こすからさ。できたらメールで送るよ」
そそくさと出口に向かおうとしたが、素早く回り込まれて退路を塞がれる。ったくカートゥーンから抜け出したようなのどかな面してるくせに抜け目ないぜ。
「だいじょーぶ! うちの社には両方そろってるから。ね? ね? ね?」
背中をとんとん押されて有無を言わさずiMacの前に連れてゆかれ、肩を押されて強制的に着席。あれよあれよと言う間にぽんっとスイッチが入れられて、ファーンっとおなじみの起動音が鳴り響く。
「さあ、どうぞ。テキストエディタでも、ワープロソフトでも、お好きなのを使ってちょうだい?」
もはや観念するしかなかった。
「わーった、書くよ、書きますよ」
「そう言ってくれると思ったんだ。資料集めにはもうちょっと時間かかりそうだから」
「OK、そっちはよろしく頼むよ」
ったく、つくづく人を使うのが上手いよ、お前さんは。
こきこきと指を鳴らすとボイスレコーダーを取り出し、イヤホンを耳にはめた。
まずは聞き取ったインタビューを片っ端から文字に落す。重要な所は巻き戻して聞き直し、聞きながらネタにできそうな部分に意識のアンカーを落して行く。
テープ起こしが終わったらふるいにかけるように使いたいネタだけを残して行く。手書きのメモと照らし合わせながらざりざり削る。
それでも実際の記事に使うのはほんの一部だ。
記録は記録、記事は記事。混ぜちゃいけない。記録の言葉を整頓しても記事には成らない。
記録を読み返して記事の大筋を練って……ここまで来て、ようやく記事の下書きに取りかかる準備ができた。
もっともテープを起こしてる段階で何を書くか、何を書けばいいのかはいい具合に脳みそに染みてるからほとんどメモを見る必要はない。
細部や数字の確認ぐらいなもんだね。
下書きができたら綴りを確認しつつ、記事の文字組みと字数に合わせて微調整。最後に三回読み返して作業終了。
「……よし、できあがり」
デジカメで写した写真のうちから記事に使えそうなのをピックアップして、書き上げた記事もろとも一つの圧縮ファイルにまとめた頃には、ランチタイムをとっくに回っておやつタイムに突入していた。
何のかんのと言いつつ、集中していたらしい……昼飯食うのも、コーヒー飲むのも忘れるほど。
ひっさびさに社内の緊張感の中で仕事したなあ。
んーっとのびをして、がちがちに強ばった腕、肩、首筋を順繰りに伸ばした。
「調子はどうよ、ヒウェル?」
「終わったよ、ジョーイ。お前さんのパソに送っといた」
「ご苦労さん。資料集めといたよ、そこ机の上に」
「さんきゅ……………おわ」
机の上には、どーんっとファイルが山積みになっていた。一冊一年と見てざっと十年分って所だろうか……あ、もう一個箱があったか。
「デジタル化、されてなかったんだ」
「結構アナログなのよ、この手の記録って。年代は絞っておいたから、後は自分で探してね……あ、これ差し入れ」
呆然とする俺の前にジョーイはコーヒーを満たした紙コップとドーナッツを置いて、入れ違いに自分のデスクへと戻って行った。
何、何、あてもなく探すよりはマシだ……。
もそもそとドーナッツをかじり、コーヒーで流し込みながら大会記録に目を通して行く。
一つ目のドーナッツを食べ終わり、二つ目が半分消えた所でペアの名前が変わっているのに気づいた。
ヒース・ガーランドとメリッサ・ガーランドに。
「ああ……この辺で結婚したのか……ってことは、例の新聞記事はこれより前だな」
年代を絞り込みながら、もっと細かい資料まで読み込んで行く。母親が亡命ロシア人の娘だと言うこともわかった。その愛らしい姿から『銀盤の妖精』と呼ばれていたことも。
カラーの写真も何枚かあった。双子の金髪は母親ゆずり、紫の瞳はどうやら父親から受け継いだらしい。
借り物の資料にヤニだの焦げだのをつける訳にも行かない。だから煙草は自粛した。その代わりコーヒーを流し込む。何杯も、何杯も……。
途中でジョーイに肩をたたかれ、記事はOKだったと言われたような気がしないでもないが記憶が定かじゃない。
調べているうちに、何やら不思議な気分になってくる。
俺は今、双子の生まれる前の時間に触れているんだな………。今はもういない二人の面影を追いかけて。
「あった。これだ」
山と積まれたファイルの中の、新聞記事のスクラップの中からとうとうたどり着いたぞ。古本の間に挟まれていた、記事の欠片のオリジナルに。
ポケットから切り抜きを取り出し、見比べる。まちがいない、同じだ。
「ジョーイ、これ、コピーとってもいいかな」
「どうぞ。そのために探してたんでしょ?」
いい奴だ。
慎重にコピーをとる。できるだけ鮮明に、読みやすい文字が出るように濃さを調節して。
そうしてできあがった最良の一枚から、注意深く写真を切り抜いた。
「あれ、写真はいいの?」
「ああ……文字だけでいい。ありがとな、ジョーイ」
「こっちこそ。いい記事だったよ。なあ、ヒウェル。お前さんさえ良ければ」
「おおっと、その話は無しだ。俺、会社勤めってどうにも性に合わないんだよね?」
「OK、ヒウェル。わかったよ、もう言わない」
ジョーイは残念そうな顔をして肩をすくめると、未開封の煙草を投げてきた。
「こいつはおまけ。どーせ買い置きの奴は湿気っちゃってるでしょ?」
「お、さんきゅ」
気が利いてるね。いつも俺が吸ってる奴だ。
すまんね。毎月決まった給料をもらえる。〆切りはあるがあくまで会社の枠の中。有給休暇有り、ボーナスあり、社会保障制度あり。
心惹かれないと言えば嘘になるが、しかし……自由(フリー)に勝るものなし。
「ギャラはいつもんトコに振り込んどいてくれ。それじゃ、またご用の節はよしなに」
次へ→【4-5-3】君だけの優しい俺
▼ 【4-5-3】君だけの優しい俺
2008/10/08 2:47 【四話】
夕暮れの帰り道。歩いているうちに次第に仕事明けの高揚感が冷めてきた。
それにつれて物悲しい風景に誘われでもしたか、今日一日の不運の連鎖が次第にひしひしと胸に迫ってきた。
まったくもってついてない一日だった。
女難、水難と来たが次は何だ? 男難か? せいぜいオティアにそっぽ向れるぐらいだろうか。なまじ両親のことなんか調べたのが裏目に出て嫌われるかもしれないが、いいさ。慣れてる。
帰り際にジョーイからもらった煙草を一本取り出し、くわえて火をつけた。
深々と吸い込む。メンソールの香りが体内を満たして行く。
ふーっと吐き出し、気づいた。ああ、まだ火難があったな、と。
一応、携帯灰皿は持ち歩いちゃいるが、やっぱ歩き煙草はやばいか。消した方がいいのかな。ああ、でも、この一本だけ。
つけちゃったものはしょうがないし。
言い訳しながら、ぽぽぽぽっと煙を輪っかにして吐き出していると……。
「ヒウェル!」
いきなり背後から声をかけられた。聞き覚えのある声だ。
「メンソールのにおいがするから、ひょっとしたらと思ったんだ……」
振り向くと、ウェーブのかかった赤みを帯びたブロンドに鮮やかな忘れな草色の瞳。ほっそりした腰にすんなりとした手足。雌鹿のような青年が立っていた。
石膏の彫刻さながらのなめらかな喉が美しい。
「フィル…………」
「うれしいな。覚えていてくれたんだ」
忘れもしない十一月生まれのフィル。
去年の秋、電話越しにさよならを言われたのが最後だった。俺は双子の事件を追いかけるのに夢中になって、君の誕生日すら忘れていた。
指先で白い喉をくすぐるたびに可愛い声をたてて笑っていたね。唇を這わせると微かに吐息をもらし、軽く歯を立てると小さく震えた。甘えん坊で、気まぐれで、そのくせ寂しがり。
腕を組んでぴったり寄り添って来る君の体はしなやかで、あったかくて……。
しみじみ思ったもんだ。他人に触れるのはこんなに嬉しいことなんだと。
「元気か?」
「うん、元気」
とことこと近づいてくると、フィルは俺の腕にそっと触れてきた。忘れな草色の瞳がすがるように見上げてきた。
「ねえ、ヒウェル」
「何だい?」
「俺たち、もう終わっちゃった……のかな……」
ああ、君って人は相変わらずだな。予想外のタイミングでいきなり、核心をついてくる。こっちの心構えや精神状態なんかおかまい無しに。
君が今、何を思い何を望んでいるか……よくわかるよ。
こんな言い方をするときは、否定を期待してるんだ。引き留めてほしいのだ。察するに今の彼氏と喧嘩でもしたのかい?
君と別れてからそろそろ1年。程よく思い出が熟成している頃合いだ。楽しいことは鮮明に浮び上がり、悲しいこと、腹立たしいことは曖昧な記憶の薄やみに沈む。
あさましいとは思わない。自然なことだ。さみしくてすがりたい、けれどプライドを捨てられない。
だからこうして俺から引き出そうとする。
自分の望む答えを。
『そんなことないよ』
そう言って、抱きしめて欲しいんだよな。
わかってる。よくわかってるよ、フィル。1年前の俺なら喜んで君を抱きしめたろう。その白くなめらかな頬を手のひらで包み込んで、煙草なんか放り出してキスしていただろう。
でも……なぁ。
今、俺の心に住んでいるのはただ一人。紫の瞳にややくすんだ金髪の少年。猫よりも猫らしく、口を開けば棘が出る。
その棘さえも愛おしい。
ちらとでもこっちを見てくれれば幸せ、言葉を返してくれれば幸せ、話しかけてくれたらそれだけで、生きている喜びを噛みしめたくなる。柄にもなくひたひたと、胸の奥を温かな波が満たして行く。
「うん。終わりだね」
ガツン!
揺れた。
頬から顎にかけて衝撃が走り、目から火花が散った。
遠心力で眼鏡がずれる。
思いっきりグーで殴られた。まあしょうがないさ、それだけのことはした。
「ひどい人! だいっきらい!」
鮮やかなブルーの瞳に透明な雫が盛り上がり、ぽろりとこぼれる。後から、後から、とめどなく。
一瞬、目を奪われた。
が。
「あ"ぢぃっ」
じわじわと二の腕から焦げ臭いにおいが立ちのぼる。
殴られた拍子に煙草が飛んで、腕に落ちたんだ。
シャツが焦げてその下の皮膚も真っ赤に腫れている。ついてない。このタイミングで火難が来やがったか。
元カレの涙を拭いてやることすらできぬまま、大慌てで煙草を払い除けた。むき出しになった右腕の火傷に夕暮れの冷たい風が針金みたいにつき刺さる。顔をしかめ、かろうじて悲鳴の第二段をかみ殺した。
(しまらねぇなあ……)
この期に及んでもまだ、可能性は残ってる。
『ごめんよ、さっきのは嘘だ』
そう言って抱き寄せて、キスで涙を拭ってやればいい。おそらく向こうもわずかだがそいつを期待している。
ずれた眼鏡を整えて、じりっと足元の吸い殻を踏み消し、拾い上げて携帯灰皿に突っ込んだ。
ぼろぼろ涙をこぼしながら、フィルは呆然として俺の動きを目で追っていた。
くしゃっと顔が歪み、白鳥のような喉が震え………押し殺した嗚咽が漏れる。自分より吸い殻を優先されたのがよっぽどショックだったらしい。
ごめんな。俺はもう、君だけの優しいヒウェルにはなれないんだ。おそらくはもう、二度と。
肩をすくめて歩き出し、三歩進んで振り返る。
彼は泣きながら電話をかけていた。おそらく相手は今の恋人。
そうだ、それでいい。
思う存分泣きつき、抱きつけ。君がすがるべき相手をまちがえちゃいけない。
男難、これだったのか。
(さあ、これで一通り全部来たぞ。次は何だ?)
そのまま2ブロック歩き続け、角二つ曲がってフィルの姿が見えなくなった所でようやく立ち止まる。
ごそごそとポケットをまさぐり、煙草を取り出しかけてやっぱりやめた。代わりに昨日、中華街でもらった菓子を取り出してみる。
落ち込んでる時は甘い物が一番って言ってたよな……今こそこれを食うのにふさわしい時だ。
ぺりぺりとセロファンの包み紙を剥がした。炸其馬。蜜をからめたしっとりやわらかい中華風のライスクッキーだった。キャラメルポップコーンを四角く固めたような感じだが、元が米だけにもっと小粒でしっとりしている。
「あー、甘いな……なんか、ほっとする……」
一口食って、二口目を食おうとしたらぽろりと崩れて手からこぼれおちた。
まあ、相当ハードな一日だったからなあ。もろくなってても仕方ない。
グルッポー。グルッポー。
足元には、せわしなく頭を上下させながら地面を歩く奴らが待ち構えていた。
地面に落ちた菓子の欠片は、ばさばさ寄って来た鳩どもが、あっと言う間にひとかけらも残さずついばんでくれた。
まあ、一口は食えた……さ。アイスよりはマシだ。
次へ→【4-5-4】やっぱり予言なんて…
それにつれて物悲しい風景に誘われでもしたか、今日一日の不運の連鎖が次第にひしひしと胸に迫ってきた。
まったくもってついてない一日だった。
女難、水難と来たが次は何だ? 男難か? せいぜいオティアにそっぽ向れるぐらいだろうか。なまじ両親のことなんか調べたのが裏目に出て嫌われるかもしれないが、いいさ。慣れてる。
帰り際にジョーイからもらった煙草を一本取り出し、くわえて火をつけた。
深々と吸い込む。メンソールの香りが体内を満たして行く。
ふーっと吐き出し、気づいた。ああ、まだ火難があったな、と。
一応、携帯灰皿は持ち歩いちゃいるが、やっぱ歩き煙草はやばいか。消した方がいいのかな。ああ、でも、この一本だけ。
つけちゃったものはしょうがないし。
言い訳しながら、ぽぽぽぽっと煙を輪っかにして吐き出していると……。
「ヒウェル!」
いきなり背後から声をかけられた。聞き覚えのある声だ。
「メンソールのにおいがするから、ひょっとしたらと思ったんだ……」
振り向くと、ウェーブのかかった赤みを帯びたブロンドに鮮やかな忘れな草色の瞳。ほっそりした腰にすんなりとした手足。雌鹿のような青年が立っていた。
石膏の彫刻さながらのなめらかな喉が美しい。
「フィル…………」
「うれしいな。覚えていてくれたんだ」
忘れもしない十一月生まれのフィル。
去年の秋、電話越しにさよならを言われたのが最後だった。俺は双子の事件を追いかけるのに夢中になって、君の誕生日すら忘れていた。
指先で白い喉をくすぐるたびに可愛い声をたてて笑っていたね。唇を這わせると微かに吐息をもらし、軽く歯を立てると小さく震えた。甘えん坊で、気まぐれで、そのくせ寂しがり。
腕を組んでぴったり寄り添って来る君の体はしなやかで、あったかくて……。
しみじみ思ったもんだ。他人に触れるのはこんなに嬉しいことなんだと。
「元気か?」
「うん、元気」
とことこと近づいてくると、フィルは俺の腕にそっと触れてきた。忘れな草色の瞳がすがるように見上げてきた。
「ねえ、ヒウェル」
「何だい?」
「俺たち、もう終わっちゃった……のかな……」
ああ、君って人は相変わらずだな。予想外のタイミングでいきなり、核心をついてくる。こっちの心構えや精神状態なんかおかまい無しに。
君が今、何を思い何を望んでいるか……よくわかるよ。
こんな言い方をするときは、否定を期待してるんだ。引き留めてほしいのだ。察するに今の彼氏と喧嘩でもしたのかい?
君と別れてからそろそろ1年。程よく思い出が熟成している頃合いだ。楽しいことは鮮明に浮び上がり、悲しいこと、腹立たしいことは曖昧な記憶の薄やみに沈む。
あさましいとは思わない。自然なことだ。さみしくてすがりたい、けれどプライドを捨てられない。
だからこうして俺から引き出そうとする。
自分の望む答えを。
『そんなことないよ』
そう言って、抱きしめて欲しいんだよな。
わかってる。よくわかってるよ、フィル。1年前の俺なら喜んで君を抱きしめたろう。その白くなめらかな頬を手のひらで包み込んで、煙草なんか放り出してキスしていただろう。
でも……なぁ。
今、俺の心に住んでいるのはただ一人。紫の瞳にややくすんだ金髪の少年。猫よりも猫らしく、口を開けば棘が出る。
その棘さえも愛おしい。
ちらとでもこっちを見てくれれば幸せ、言葉を返してくれれば幸せ、話しかけてくれたらそれだけで、生きている喜びを噛みしめたくなる。柄にもなくひたひたと、胸の奥を温かな波が満たして行く。
「うん。終わりだね」
ガツン!
揺れた。
頬から顎にかけて衝撃が走り、目から火花が散った。
遠心力で眼鏡がずれる。
思いっきりグーで殴られた。まあしょうがないさ、それだけのことはした。
「ひどい人! だいっきらい!」
鮮やかなブルーの瞳に透明な雫が盛り上がり、ぽろりとこぼれる。後から、後から、とめどなく。
一瞬、目を奪われた。
が。
「あ"ぢぃっ」
じわじわと二の腕から焦げ臭いにおいが立ちのぼる。
殴られた拍子に煙草が飛んで、腕に落ちたんだ。
シャツが焦げてその下の皮膚も真っ赤に腫れている。ついてない。このタイミングで火難が来やがったか。
元カレの涙を拭いてやることすらできぬまま、大慌てで煙草を払い除けた。むき出しになった右腕の火傷に夕暮れの冷たい風が針金みたいにつき刺さる。顔をしかめ、かろうじて悲鳴の第二段をかみ殺した。
(しまらねぇなあ……)
この期に及んでもまだ、可能性は残ってる。
『ごめんよ、さっきのは嘘だ』
そう言って抱き寄せて、キスで涙を拭ってやればいい。おそらく向こうもわずかだがそいつを期待している。
ずれた眼鏡を整えて、じりっと足元の吸い殻を踏み消し、拾い上げて携帯灰皿に突っ込んだ。
ぼろぼろ涙をこぼしながら、フィルは呆然として俺の動きを目で追っていた。
くしゃっと顔が歪み、白鳥のような喉が震え………押し殺した嗚咽が漏れる。自分より吸い殻を優先されたのがよっぽどショックだったらしい。
ごめんな。俺はもう、君だけの優しいヒウェルにはなれないんだ。おそらくはもう、二度と。
肩をすくめて歩き出し、三歩進んで振り返る。
彼は泣きながら電話をかけていた。おそらく相手は今の恋人。
そうだ、それでいい。
思う存分泣きつき、抱きつけ。君がすがるべき相手をまちがえちゃいけない。
男難、これだったのか。
(さあ、これで一通り全部来たぞ。次は何だ?)
そのまま2ブロック歩き続け、角二つ曲がってフィルの姿が見えなくなった所でようやく立ち止まる。
ごそごそとポケットをまさぐり、煙草を取り出しかけてやっぱりやめた。代わりに昨日、中華街でもらった菓子を取り出してみる。
落ち込んでる時は甘い物が一番って言ってたよな……今こそこれを食うのにふさわしい時だ。
ぺりぺりとセロファンの包み紙を剥がした。炸其馬。蜜をからめたしっとりやわらかい中華風のライスクッキーだった。キャラメルポップコーンを四角く固めたような感じだが、元が米だけにもっと小粒でしっとりしている。
「あー、甘いな……なんか、ほっとする……」
一口食って、二口目を食おうとしたらぽろりと崩れて手からこぼれおちた。
まあ、相当ハードな一日だったからなあ。もろくなってても仕方ない。
グルッポー。グルッポー。
足元には、せわしなく頭を上下させながら地面を歩く奴らが待ち構えていた。
地面に落ちた菓子の欠片は、ばさばさ寄って来た鳩どもが、あっと言う間にひとかけらも残さずついばんでくれた。
まあ、一口は食えた……さ。アイスよりはマシだ。
次へ→【4-5-4】やっぱり予言なんて…
▼ 【4-5-4】やっぱり予言なんて…
2008/10/08 2:48 【四話】
家に帰るとちょうど飯の時間だった。
タイをほどいて引き抜き、焼けこげたシャツを脱いでゴミ箱に放りもうとして、ふと思いとどまる。
さすがに外には着てけないが、部屋の中でなら問題ないよな。よし、決定。こいつは今日から寝間着用。
クローゼットから替えのシャツを出して羽織る。袖が左の二の腕に触れた瞬間、ちりっと肌に鋭い痛みが走った。火傷のサイズそのものは大したもんじゃないが、皮膚をひっぺがして直に肉の表面をなでられたような感じだ。冷やしとくか? いや、時間が惜しい。
例の新聞記事を収めたA5版のクリアファイルを持って部屋を出た。
「腹減った、今日の飯、何?」
「ヒウェル」
ドアを開けたシエンの笑顔が、途中から強ばり、ぎょっとした表情に変わる。やっぱ目立つか、殴られた跡。
「どうしたの?」
「ちょっと帰りがけにトラブルに巻き込まれてね」
リビングのソファの上から落ち着き払った声が飛んでくる。
「ああ、いつものことだよ。心配ない、彼は慣れてる」
「ご親切に、どーも!」
どんな類いのトラブルかお見通しですか、レオン。
シエンはおずおずと俺の顔に手を伸ばしかけたが、途中で動きを止めた。何やらためらっているらしい。
「冷やしとけば治る。大丈夫だよ、シエン」
「うん……」
そんなことを話していると、ディフがキッチンからのしのし歩いて来て、冷凍コーンの袋をぐいっと俺の顔面に押し付けた。
「あ、つめたい」
「ついでだ。解凍しとけ」
「サンクス」
どんな類いのトラブルか、多分、こいつも薄々感づいてる。ざらざらした粒粒の入った袋は、いい具合に殴られた頬にフィットしてくれた。
ちなみにオティアは相変わらずノーリアクション、ノーコメント……ちらっとこっちを見たけど、それだけ。うん、まあ想定内だよ。
その夜、食卓に上がったタマネギ入りのコーンプディングはいつもよりちょっとばかり塩っぱい……ような気がした。
そしてメインは鳥肉。
「これ、鳩じゃないよな?」
「チキンだ」
食事が終わって、後片付けも一段落したところでリビングで双子を呼び止める。
「オティア。シエン」
部屋に戻りかけた二人が足を止め、振り返ってきた。オティアがいぶかしげにこっちを見てる。何の用だ? と言わんばかりだ。
ええい、しおらしく迷ってる暇もありゃしない。ここで渡さなけりゃさっさとこいつは部屋に戻ってしまう。
「お前たちに見てほしいものがあるんだ。これ……」
不幸てんこ盛りの一日の収穫を居間のテーブルの上に置いて、そっと双子に向けて滑らせる。紫の瞳が4つ、クリアファイルの表面を走り、透明なケースの中の文字を読みとってゆくのがわかった。
さっと一通り読み終えたのだろう。シエンが小さく声をあげ、目を見開いた。
「え、これ俺たちの親?」
(そうだよ、お前たちのママはお前たちそっくりの美人だった……)
思っても言わない。ただうなずいて、記事の書かれた大会より後に起きたことを捕捉するに留める。
「サラエフってのは、お前たちのママの結婚前の苗字だよ。この大会の3年後に結婚したんだ」
オティアは何も言わず熱心に記事を読んでいる。クリアファイルごと手にとって、隅から隅まで。目にした文字は何でも読むってか。ああまったく本の虫だね、お前ってやつは!
「俺こんなの全然知らない」
「そうだな……直接知ってる人でなきゃ教えようがないし。書類には名前と生年月日ぐらいしか残らないからな」
「……うん。これ、どうしたの?」
「たまたま買った古雑誌に切り抜きの一部がはさまってたんだ。見覚えのある名前だなって思って、それで、知り合いの雑誌社で探したら、あった」
嘘は言っちゃいない。間にあった紆余曲折を省いただけだ。
「ありがと、ヒウェル」
ああ、良かった、笑ってくれたな、シエン……だけど、瞳の奥に、仕草の端々に、わずかに戸惑う気配がある。
どうやら、説明を聞いてもぴんと来ないらしい。目の前の新聞記事に書かれた「ヒース・ガーランドとメリッサ・サラエフのペア」が自分たちの両親だと。
無理もない。両親が亡くなった時、二人ともまだ三歳だった。施設から里親、また施設へ。あちこちを転々としたせいで、自分達の親のことなんか教えてくれる人がいなかったんだろう。
生まれた場所から遠ざかるにつれて、縁ある人々との繋がりも微かなものとなり、苗字も変わって……そして親と言う単語の意味が、自分の体を構成する物質と、書類上の文字に縮小されて行った。
改めて、思う。
ただ親子と言うだけで無条件にあたたかな翼の下に守られ、愛された記憶はこいつらにはほとんどないのだ。
「覚えてる?」
シエンに聞かれて、オティアが小さな声で答えた。
「……いや」
シエンは何か言いたそうな顔をしたが、結局、何も言わなかった。
「にゃー!」
頭上から甲高い澄んだ声が降って来る。
「どこだ?」
「あそこ」
カーテンレールの上で、白いお姫様が四つ足を踏ん張って得意げな顔をしていらっしゃる。どうやらオティアが食堂から出てくるのを待つ間、フリークライミングにいそしんでおられたらしい。
だだだだ、どどどどど。
オーレはカーテンレールの上を全力疾走、端にたどりつくとくるりとUターンしてまたどどどどっと走る。尻尾をぴーんと立てて、目をきらきら輝かせて、ものすごく楽しそうだ。
首輪に下げた金色の鈴がちりちりと鳴る。まるでサンタクロースのトナカイだ。かなり賑やかなはずなのだが、不思議なことにちっともうるさいとか、耳障りだ、とは感じなかった。
しかしこれ、今はちっちゃな子猫だからいいけれど、大人になってもこの調子で走り回られたら、たまらんだろうなあ。
「そのうちキャットウォーク取り付けた方がいいんじゃね、まま?」
「考えとく」
「……オーレ」
オティアに呼ばれた瞬間、オーレは耳を立て、勢い良く助走をつけてジャンプ! リーン、と鈴が鳴ったと思ったら、鮮やかにオティアの肩に飛び移っていた。
…………俺を踏み台にして。
「痛っ」
「大げさなやつだな、たかだか子猫にキックされた程度で」
「デリケートなんだよ……」
あの位置からなら俺よりディフのが近いのに、何故に俺を踏み台にするのかオーレよ。
加えて故意か偶然か、はたまたこれも女難の一部か。彼女が踏み切ったのはジャスト火傷の上だった。
ぷにぷにの柔らかな子猫の足の裏とは言え、ちっぽけな足先に体重がかけられていた。しかも踏切りの強いことといったら、一流のアスリートばりだぜ、このお姫様は……。
部屋に帰ったら救急箱開けるか。これじゃシャワーもおちおち浴びられねえ。
顔をしかめながらテーブルの上に視線を落すと、記事を入れたクリアファイルが消えていた。
あれ、どこだ?
あった。オティアが持ってる。しっかりと手に持っている。
ふうっと安堵の息がこぼれる。夕方からずっと、肩からこめかみにかけて張りつめていた嫌な強ばりが、抜けた。
オティアはオーレを頭に乗せたまま、すたすたと歩いて行く。にやつきそうになる奥歯を噛みしめて見ていると……
「…………」
すれ違いざまにびしっと容赦無く腕を叩かれた。ご丁寧に火傷してる方を。
「いでえええっ!」
「邪魔」
ぼそっとつぶやくと、振り向きもせず行ってしまった。
ああ、まったく報われねえなあ、おい! 一日の締めくくりぐらい綺麗に終わらせてくれたっていいだろうにっ!
額に手をやって、ふと気づく。
「………あれ? 痛く……ない?」
フィルに殴られた後も。踏み切った瞬間にぷっつり刺さったオーレの爪痕も、そして腕の火傷も、全然痛くない!
半ば夢見ているような気持ちで頬を撫でる。腫れが完全に引いていた。試しにシャツの左袖をめくってみる。
…………………………火傷が、消えてる。
治してくれたんだ。
(せめてありがとうぐらい、言わせてほしかったなあ、オティア)
散々な一日だったけど、最後が幸せなら問題ない。
やっぱり予言なんざアテにならないもんだよ、うん。
※ ※ ※ ※
浮かれるヒウェルの背後で、シエンが微妙な表情を浮かべていた。戸惑い、困惑、驚き、そしてほんの少しの苦みが入り交じる。
すれ違い様、明らかにオティアは持てる力を全開にしてヒウェルを治して行ったから………。
一方、部屋に戻ったオティアは改めて新聞記事に目を通した。
冷たい氷のほとりで白い頬を真っ赤に染めてにこにこ笑っていた人がいた。
リンクサイドでいつも青い手袋をしていた。自分とシエンの頬をかわるがわる青い手袋をはめた手でつつみこんで、ほおずりをして、キスをしてくれた。
『これ、おねがいね』
手袋をはずして、自分たちに片方ずつ渡して……それからくるりと身を翻し、氷の上に駆けて行った。まるで空を飛ぶように軽やかな足どりで。
シエンが後を追いかけようとすると、いつもこう言っていた。
『今はまだ早いわ。いつかもう少し大きくなって、スケート靴を一人で履けるようになったらね』
その『いつか』が来ないまま、自分たちは二人きりになってしまった……。
昔のことだ。
もう過ぎたことだ。今の自分には関係ない。
左の手を開き、また握る。手のひらが火照っている。全力で力を出した瞬間の余波がまだ残っているような気がした。
ヒウェルの傷を治したのは、飼い主の責任だ。少しはお礼の意味もあるけれど。
迷子のオーレを探していた時に助けてもらったこと。
青い目覚まし時計。
そして両親の新聞記事と。
まとめて清算したまでのこと。
「みゅ……」
くしくしとオーレが頬に顔を掏り寄せている。肩に手を回して撫でた。
これで、すっきりした。
(火難水難女難男難/了)
次へ→【4-6】有能執事**する
タイをほどいて引き抜き、焼けこげたシャツを脱いでゴミ箱に放りもうとして、ふと思いとどまる。
さすがに外には着てけないが、部屋の中でなら問題ないよな。よし、決定。こいつは今日から寝間着用。
クローゼットから替えのシャツを出して羽織る。袖が左の二の腕に触れた瞬間、ちりっと肌に鋭い痛みが走った。火傷のサイズそのものは大したもんじゃないが、皮膚をひっぺがして直に肉の表面をなでられたような感じだ。冷やしとくか? いや、時間が惜しい。
例の新聞記事を収めたA5版のクリアファイルを持って部屋を出た。
「腹減った、今日の飯、何?」
「ヒウェル」
ドアを開けたシエンの笑顔が、途中から強ばり、ぎょっとした表情に変わる。やっぱ目立つか、殴られた跡。
「どうしたの?」
「ちょっと帰りがけにトラブルに巻き込まれてね」
リビングのソファの上から落ち着き払った声が飛んでくる。
「ああ、いつものことだよ。心配ない、彼は慣れてる」
「ご親切に、どーも!」
どんな類いのトラブルかお見通しですか、レオン。
シエンはおずおずと俺の顔に手を伸ばしかけたが、途中で動きを止めた。何やらためらっているらしい。
「冷やしとけば治る。大丈夫だよ、シエン」
「うん……」
そんなことを話していると、ディフがキッチンからのしのし歩いて来て、冷凍コーンの袋をぐいっと俺の顔面に押し付けた。
「あ、つめたい」
「ついでだ。解凍しとけ」
「サンクス」
どんな類いのトラブルか、多分、こいつも薄々感づいてる。ざらざらした粒粒の入った袋は、いい具合に殴られた頬にフィットしてくれた。
ちなみにオティアは相変わらずノーリアクション、ノーコメント……ちらっとこっちを見たけど、それだけ。うん、まあ想定内だよ。
その夜、食卓に上がったタマネギ入りのコーンプディングはいつもよりちょっとばかり塩っぱい……ような気がした。
そしてメインは鳥肉。
「これ、鳩じゃないよな?」
「チキンだ」
食事が終わって、後片付けも一段落したところでリビングで双子を呼び止める。
「オティア。シエン」
部屋に戻りかけた二人が足を止め、振り返ってきた。オティアがいぶかしげにこっちを見てる。何の用だ? と言わんばかりだ。
ええい、しおらしく迷ってる暇もありゃしない。ここで渡さなけりゃさっさとこいつは部屋に戻ってしまう。
「お前たちに見てほしいものがあるんだ。これ……」
不幸てんこ盛りの一日の収穫を居間のテーブルの上に置いて、そっと双子に向けて滑らせる。紫の瞳が4つ、クリアファイルの表面を走り、透明なケースの中の文字を読みとってゆくのがわかった。
さっと一通り読み終えたのだろう。シエンが小さく声をあげ、目を見開いた。
「え、これ俺たちの親?」
(そうだよ、お前たちのママはお前たちそっくりの美人だった……)
思っても言わない。ただうなずいて、記事の書かれた大会より後に起きたことを捕捉するに留める。
「サラエフってのは、お前たちのママの結婚前の苗字だよ。この大会の3年後に結婚したんだ」
オティアは何も言わず熱心に記事を読んでいる。クリアファイルごと手にとって、隅から隅まで。目にした文字は何でも読むってか。ああまったく本の虫だね、お前ってやつは!
「俺こんなの全然知らない」
「そうだな……直接知ってる人でなきゃ教えようがないし。書類には名前と生年月日ぐらいしか残らないからな」
「……うん。これ、どうしたの?」
「たまたま買った古雑誌に切り抜きの一部がはさまってたんだ。見覚えのある名前だなって思って、それで、知り合いの雑誌社で探したら、あった」
嘘は言っちゃいない。間にあった紆余曲折を省いただけだ。
「ありがと、ヒウェル」
ああ、良かった、笑ってくれたな、シエン……だけど、瞳の奥に、仕草の端々に、わずかに戸惑う気配がある。
どうやら、説明を聞いてもぴんと来ないらしい。目の前の新聞記事に書かれた「ヒース・ガーランドとメリッサ・サラエフのペア」が自分たちの両親だと。
無理もない。両親が亡くなった時、二人ともまだ三歳だった。施設から里親、また施設へ。あちこちを転々としたせいで、自分達の親のことなんか教えてくれる人がいなかったんだろう。
生まれた場所から遠ざかるにつれて、縁ある人々との繋がりも微かなものとなり、苗字も変わって……そして親と言う単語の意味が、自分の体を構成する物質と、書類上の文字に縮小されて行った。
改めて、思う。
ただ親子と言うだけで無条件にあたたかな翼の下に守られ、愛された記憶はこいつらにはほとんどないのだ。
「覚えてる?」
シエンに聞かれて、オティアが小さな声で答えた。
「……いや」
シエンは何か言いたそうな顔をしたが、結局、何も言わなかった。
「にゃー!」
頭上から甲高い澄んだ声が降って来る。
「どこだ?」
「あそこ」
カーテンレールの上で、白いお姫様が四つ足を踏ん張って得意げな顔をしていらっしゃる。どうやらオティアが食堂から出てくるのを待つ間、フリークライミングにいそしんでおられたらしい。
だだだだ、どどどどど。
オーレはカーテンレールの上を全力疾走、端にたどりつくとくるりとUターンしてまたどどどどっと走る。尻尾をぴーんと立てて、目をきらきら輝かせて、ものすごく楽しそうだ。
首輪に下げた金色の鈴がちりちりと鳴る。まるでサンタクロースのトナカイだ。かなり賑やかなはずなのだが、不思議なことにちっともうるさいとか、耳障りだ、とは感じなかった。
しかしこれ、今はちっちゃな子猫だからいいけれど、大人になってもこの調子で走り回られたら、たまらんだろうなあ。
「そのうちキャットウォーク取り付けた方がいいんじゃね、まま?」
「考えとく」
「……オーレ」
オティアに呼ばれた瞬間、オーレは耳を立て、勢い良く助走をつけてジャンプ! リーン、と鈴が鳴ったと思ったら、鮮やかにオティアの肩に飛び移っていた。
…………俺を踏み台にして。
「痛っ」
「大げさなやつだな、たかだか子猫にキックされた程度で」
「デリケートなんだよ……」
あの位置からなら俺よりディフのが近いのに、何故に俺を踏み台にするのかオーレよ。
加えて故意か偶然か、はたまたこれも女難の一部か。彼女が踏み切ったのはジャスト火傷の上だった。
ぷにぷにの柔らかな子猫の足の裏とは言え、ちっぽけな足先に体重がかけられていた。しかも踏切りの強いことといったら、一流のアスリートばりだぜ、このお姫様は……。
部屋に帰ったら救急箱開けるか。これじゃシャワーもおちおち浴びられねえ。
顔をしかめながらテーブルの上に視線を落すと、記事を入れたクリアファイルが消えていた。
あれ、どこだ?
あった。オティアが持ってる。しっかりと手に持っている。
ふうっと安堵の息がこぼれる。夕方からずっと、肩からこめかみにかけて張りつめていた嫌な強ばりが、抜けた。
オティアはオーレを頭に乗せたまま、すたすたと歩いて行く。にやつきそうになる奥歯を噛みしめて見ていると……
「…………」
すれ違いざまにびしっと容赦無く腕を叩かれた。ご丁寧に火傷してる方を。
「いでえええっ!」
「邪魔」
ぼそっとつぶやくと、振り向きもせず行ってしまった。
ああ、まったく報われねえなあ、おい! 一日の締めくくりぐらい綺麗に終わらせてくれたっていいだろうにっ!
額に手をやって、ふと気づく。
「………あれ? 痛く……ない?」
フィルに殴られた後も。踏み切った瞬間にぷっつり刺さったオーレの爪痕も、そして腕の火傷も、全然痛くない!
半ば夢見ているような気持ちで頬を撫でる。腫れが完全に引いていた。試しにシャツの左袖をめくってみる。
…………………………火傷が、消えてる。
治してくれたんだ。
(せめてありがとうぐらい、言わせてほしかったなあ、オティア)
散々な一日だったけど、最後が幸せなら問題ない。
やっぱり予言なんざアテにならないもんだよ、うん。
※ ※ ※ ※
浮かれるヒウェルの背後で、シエンが微妙な表情を浮かべていた。戸惑い、困惑、驚き、そしてほんの少しの苦みが入り交じる。
すれ違い様、明らかにオティアは持てる力を全開にしてヒウェルを治して行ったから………。
一方、部屋に戻ったオティアは改めて新聞記事に目を通した。
冷たい氷のほとりで白い頬を真っ赤に染めてにこにこ笑っていた人がいた。
リンクサイドでいつも青い手袋をしていた。自分とシエンの頬をかわるがわる青い手袋をはめた手でつつみこんで、ほおずりをして、キスをしてくれた。
『これ、おねがいね』
手袋をはずして、自分たちに片方ずつ渡して……それからくるりと身を翻し、氷の上に駆けて行った。まるで空を飛ぶように軽やかな足どりで。
シエンが後を追いかけようとすると、いつもこう言っていた。
『今はまだ早いわ。いつかもう少し大きくなって、スケート靴を一人で履けるようになったらね』
その『いつか』が来ないまま、自分たちは二人きりになってしまった……。
昔のことだ。
もう過ぎたことだ。今の自分には関係ない。
左の手を開き、また握る。手のひらが火照っている。全力で力を出した瞬間の余波がまだ残っているような気がした。
ヒウェルの傷を治したのは、飼い主の責任だ。少しはお礼の意味もあるけれど。
迷子のオーレを探していた時に助けてもらったこと。
青い目覚まし時計。
そして両親の新聞記事と。
まとめて清算したまでのこと。
「みゅ……」
くしくしとオーレが頬に顔を掏り寄せている。肩に手を回して撫でた。
これで、すっきりした。
(火難水難女難男難/了)
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▼ あいつはシャイな転校生
2008/10/08 2:59 【短編】
・拍手お礼用短編の再録。
・【4-4】双子の誕生日(当日編)とほぼ同じ時期、日本のある高校で起きた出来事。
「はーい、皆静かにしてー」
結城羊子は教壇にあがるとくいっと背筋を伸ばし、鈴を振るような透き通った声で呼びかけた。
身長154cm、ヒール付きのサンダルを履いてどうにか生徒の中に埋もれずにいられる彼女だが、その分、声はよく通る。
始業前の教室のざわめきがすーっとおさまった。
「OK。さて、今日は転校生を紹介しよう。Hey,Roy! Come in!」
ネイティブさながらのこなれた発音。ほどなく教室の扉がカラリと開いて、背の高い金髪の少年が入ってきた。
引き締まった体躯は制服の上からでもはっきりとわかる。決して筋肉過多ではなく、俊敏に動くために鍛えられている。
だが残念ながら端正な顔だちの上半分は長く伸ばされた前髪の陰になり、その瞳が何色なのかまでは伺い知ることはできない。
「アメリカから留学してきたロイ・アーバンシュタインくんだ。席は風見光一の隣でいいな?」
手際よくロイの紹介を終え、傍らに呼びかけて……羊子はきょとんと目を丸くした。
さっきまでそこに立っていたはずのロイの姿がこつ然と消えている!
きょろきょろと見回すと……いた。
「おーい、お前、何でそんなところに張り付いてるんだ?」
件の転校生は、天井と壁の出会う角っこにへばりついていた。
いつの間に?
と、言うか助走もつけずに?
金髪の転校生の並外れた運動能力と、そのいささか方向性を誤った使い道に軽い目眩を覚えた。
耳をそばだてると、何やら母国語でぽそぽそと囁いている。
「……なに。照れくさい?」
「こいつ、シャイなんですよ……」
風見光一がすかさず歩みでてロイに呼びかける。
「おーいロイ! 早く降りてきた方がいいぞ〜」
こくこくと無言でうなずくと、ロイはしゅたっと床に降り立ち、光一の隣に立つとはにかんだような笑みを浮かべた。
「……よろしくね」
「OK、それじゃ席について。出席をとる。生田!」
「はい!」
「遠藤!」
「………」
「いないのか?」
「遠藤ではない! 俺の名は! 閃光戦士っ」
「いるな。はい、次ー」
「まだ名乗りの途中なのにーっ」
やれやれ。
ひそかに羊子はため息をついた。
なーんであたしのクラスってばこんな生徒ばっかり集まっちゃうかなぁ……。
※ ※ ※ ※
「コウイチ!」
一時間目が終わるやいなや、ロイは光一に後ろから抱きつき、頬にキスをした。
※月梨さん画「あくまで友情です」
「さみしかった」
「ははっ、よせよ、ロイ。今朝も会ったばかりだろう?」
流暢な日本語を話すロイは幼いころから祖父に連れられて何度も来日していた。
二人の祖父は国境を越えた親友同士だったのだ。その縁で今は光一の家にホームステイしている。
仲睦まじい二人のハグ&キスの瞬間、クラスの女子は素早く携帯を取り出し、写メを撮った。
これが撮らずにいられようか?
しかし、撮った写真を確認した彼女たちは一斉に肩を落として落胆の声をあげた。
「あれー? 手ぶれしてる」
「あたしもー」
「焦りすぎたかなあ………」
羊子は見ていた。
携帯のカメラが向けられた瞬間、ロイの足と、手がわずかに動いたのを。足がとん、と小さく螺旋を描くように捻って踏み出され、手が女生徒たちに向けられていた。
そして常人の目には止まらぬほどの早さと微少な触れ幅で彼女たちの手を揺らしたのだ。
(あれが発剄ってやつか……古武術の心得があると聞いてはいたが、しかし、風見を守るためにそこまでするかあ? ロイ!)
そんな女教師のツッコミも露知らず、ロイは仲睦まじく光一と語らっていた。
(ああ、コウと学園生活を送れるなんて夢の様だ。神様、ありがとうございます!)
まさしく至福のひと時。だが、唐突に風見光一の携帯が震動した。
「あ」
びくっと一瞬、震えると光一は携帯を取り出し、そして破顔一笑。
「どうしたの、コウ」
「うん、サクヤさんからメールが来たんだ。ほら、子猫!」
さし出された携帯の画面には、真っ白な子猫が写っていた。左のお腹にちょっといびつな丸い薄茶色のぶちがある。
「Oh,kitty! very cute ね」
「友だちの家の猫なんだってさ」
「ふーん……それで、コウ」
どきどきしながらロイは精一杯、何気ないふりを装って質問してみた。
「サクヤさんってダレ?」
「誤解すんなよ、男の人だって!」
(男! コウに、まさか、彼氏がっ?)
「羊子せんせの従弟なんだ。俺にとっちゃ、まあ、先輩かな?」
(センパイ!)
その瞬間、ロイのシャイな心臓は極限まで縮みあがり、それから一気に限界まで膨れ上がった。
センパイ。
日本における最も甘美なる関係。ある意味、単なるお友達よりその絆は深く、憧れの対象でもあると言う。
バレンタインにセンパイにチョコをあげるかどうかで日本の若人は胸をときめかせ、青春の熱き血潮を燃やすのだと!
(何てことだ。僕の知らない間にコウにそんな大切な人がいたなんてーっ!)
楽しげにメールに添付されてきた子猫の写真を眺める光一を見つめながら、ロイの思考はぐるぐると、ハリケーンのようにうずを巻いていた。
(かくなる上は、敵情視察! 情報を集めねば……)
※ ※ ※ ※
そして昼休み。
社会科教務室でくつろぐ羊子の所に、思い詰めた表情の男子生徒が訪ねて来た。
「あっれー、ロイ。どうした? 何ぞ悩みでもあるのか?」
金髪の留学生をひと目見るなり、羊子はさっと英語で話しかけた。母国語の方が、心情の機微がダイレクトに伝わるだろうと思ったのだ。
「ヨーコ先生……教えてください」
「うん、何でも教えるよ?」
「コウイチと、サクヤさんは、どう言う関係なのですか!」
「………………………………」
一瞬、絶句。
それから、にんまりと口角をあげてほほ笑む。
「どうって……サクヤはねー。風見に従弟紹介しよっかーっていったら、『はい』って言うからメアドを教えたの」
「こっ、交際前提ですかーっ!」
「んでまず、メル友になって、今はすっかり仲良しさん」
(ど、ど、どうしようなんとかしなければ)
「まあ、サクヤちゃんは今、シスコに留学中だから顔会わせるのは里帰りした時ぐらいなんだけどさ。あの二人、けっこー気が合うみたいだよ?」
「き、きがあうって、たとえばっ?」
「んー、そうねー、サクヤちゃんは、疲れた時はこー癒しを求めて風見をぎゅーっとやってなで回すのがお気に入りなんだ」
その時に自分も一緒だった、とか。ついでに言うと純粋に疲弊した精神を回復させるために必要な行為だった、とか。サクヤは手を握っていただけでもっぱらなで回していたのは自分の方だった、なんてことは……敢えて言わない。言うつもりもない羊子だった。
「Oh!My God! なんてこと! 僕のコウにはちかよらせない……!」
「おー、青春だねえ、がんばれ、少年!」
青春の熱き血潮を無駄に燃え立たせる教え子をにこにこしながら羊子は見守った。
「まあ、ほらサクヤは今、サンフランシスコな訳だしさ。お前さんは学校でも家でも風見と一緒な訳だし……あ、そうだ」
ぽん、と手を叩く。
「なあ、ロイ。さらに親密になるために……風見と一緒に、バイトしてみないか?」
「バイトですかっ?」
「うん。あたしの実家が神社なんだけど………ちょい、人手不足でね」
「わお、ジンジャ!……うん、もちろんダイカンゲイだよっ! 装備は一般武装でいいのかな?」
武装って。
冷や汗がたらりと羊子の額をつたう。
こいつ、警備か何かとまちがえてないか?
「あー、その……武装いらないから。境内の掃除とか草むしりとか社務所の店番とかポチの散歩だから」
「OKOK! ぜひ、やらせてください!」
「きっとそう言ってくれると思ったよ、ロイくん」
ロイは思った。ああ、ヨーコ先生は何ていい人なんだろう、と。
もし、この場にヒウェル・メイリールがいたら全力で叫んでいたことだろう。
「だまされるな、少年!」と。
しかし、幸か不幸か彼ははるかサンフランシスコの空の下。
「うふ」
まるで子鹿かリスのように愛らしい表情で、心底楽しげに笑う羊子の真意は知る由もないのだった。
(あいつはシャイな転校生/了)
▼ 【4-6】有能執事**する
2008/10/18 2:06 【四話】
- 2006年9月の出来事。今回のメインは有能執事アレックス。なお、諸般の事情につきタイトルは伏せ字とさせていただきます。
- 大したことじゃないんですが……最後にはちゃんと判明しますのでご安心ください。
記事リスト
- 【4-6-0】登場人物紹介 (2008-10-18)
- 【4-6-1】人はパンのみにて (2008-10-18)
- 【4-6-2】ソフィアは見ていた (2008-10-18)
- 【4-6-3】二人で回転木馬に (2008-10-18)
- 【4-6-4】アレックスの決心 (2008-10-18)
- 【4-6-5】今後ともよろしく (2008-10-18)
▼ 【4-6-0】登場人物紹介
2008/10/18 2:07 【四話】
- より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
有能。万能。
灰色の髪に空色の瞳、故郷には両親と弟がいる。
20歳の時からずっとレオンぼっちゃま一筋の人生。
今はレオンさまと奥様と双子のためにがんばる日々。
好物はほうれん草入りクロワッサン。
毎日焼きたてを行き着けのベーカリーで買う。
41歳、独身。
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】
通称レオン
弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
ディフと双子に害為す者に対しては穂高の槍の穂先並みに心が狭い。
ヒウェルに対してはとことん容赦無い。
ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
彼にとってアレックスはほとんど親代わりだった。
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】
通称ディフ、もしくはマックス。
元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
頑丈そうな体格だが無自覚に色気をふりまく困った体質(ゲイ相手限定)。
裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
レオンの嫁で双子の『まま』。
結婚当初、アレックスから
「奥様とお呼びしたほうがよろしいのでしょうか」と聞かれて全力で却下したらしい。
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
告白の際に著しく心を傷つけられ、今はひたすら『空気』扱い。
観察力に優れ、また記憶力は驚異的に良い。
ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。
ディフの探偵事務所で助手をしている。とても有能。
拾われた時アレックスに世話されて以来、結構懐いていたりする。
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
外見はオティアとほぼ同じ。
オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
ディフになついている。
自覚のないままヒウェルに片想いしている。
その一方で、オティアとのこじれた仲を取り持とうとする複雑な立ち位置に。
レオンの法律事務所でアレックスに着いて秘書見習いをしている。
料理やお菓子のレシピも教わっている。
【オーレ/Oule】
四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
エドワーズ古書店の看板猫リズの末娘。
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
フリーの記者。26歳。
黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
とうとう猫以下の扱いになっちゃった本編の主な語り手。
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▼ 【4-6-1】人はパンのみにて
2008/10/18 2:16 【四話】
人はパンのみにて生きるに非ず。
しかし、毎日の食生活においてパンの占める役割は大きい。何と言っても主食なのだから。
自らの仕える主人、レオンハルト・ローゼンベルクが高校を卒業し、寮を出た後もサンフランシスコに居を構えると決めた時。
忠実なる執事アレックス・J・オーウェンは衣食住、全てにおいて完ぺきに準備を整えた。
中でも食生活においてことに気を配ったのが、如何にして良質なパンを確保するか、だった。
本家で暮らしていた時分には毎食のパンは屋敷の厨房で焼かれていたが、さすがにここではそれは難しい。
(ならば自分の目と舌で確かめて納得の行くパン屋を探すしかあるまい)
そんな訳でアレックスは、主人の住むノブヒルのマンションの近辺のパン屋を全てピックアップし、材料から製法、味、店内の清潔さから従業員の気質、勤務態度に至るまでことごとくチェックしたのである。
まずはサンプルを入手すべく店に並べられた商品を順番に購入し、食べ比べる。比較検討の結果、一定の基準を満たしたものを実際に食卓に並べてレオンぼっちゃまの反応を確認する。
口に合わない時はちょっと顔をしかめる。気に入った時は何も言わずに食べる。
それはほんの些細な変化でしかなかった。幼い頃からレオンに付き従ってきたアレックスにしかわからない程度の。
ルーセント・ベーカリーはアレックスの綿密かつ厳しいチェックをくぐり抜けた『最良クラスの』一軒だった。
家族経営の小さな店だったが、質の良い材料を使い、丁寧な仕事をした。味も申し分なかった。
以来、ローゼンベルク家の食卓に上るパンは可能な限りルーセント・ベーカリーの商品と決められている。そして、レオンの結婚後もその伝統は継承された。
と、言うのも、親友時代から恋人期を経て現在に至るまで、レオンの伴侶たるディフもアレックスと同じ意見だったからだ。
「このパン美味いな。どこの店で買ったんだ?」
「ルーセント・ベーカリーでございます」
「いいな。気に入った」
「さようでございますか」
控えめな笑みで答えながらアレックスは秘かに嬉しかった。
レオンは基本的に食事の味と言うものへの関心が薄い人間だった。口に合おうが合うまいが、出されたものはきちんと食べる。子どもの頃、万が一彼が料理を残せば即座に使用人の責任問題につながった。
だから食べる。とにかくきちんと食べる。
レオンハルト・ローゼンベルクにとって食事とは単に栄養を補給するための行為であり、そこには何ら感情の動く余地はなかった。
ゆるやかに波打つ赤毛にハシバミ色の瞳のルームメイトと出会うまでは。
『これ、美味いな。初めて食った!』
彼のその一言が、レオンの意識に食べる事への関心を呼び覚ました。人の生きて行く時間を彩るあらゆる喜びも。
(本当に、マクラウドさまはレオンさまの救い主だ……天使とお呼びするには、いささか頑強すぎるかもしれないが)
※ ※ ※ ※
9年前に初めて店を訪れた時、アレックスを出迎えたのは店のオーナーの一人娘ソフィアだった。
「いらっしゃいませ」
短めのカールした髪の毛をきちんと三角巾の下に包み込み、オレンジと白のストライプのユニフォームに白いエプロンを着けて朗らかに笑う彼女を見て、直感で思ったものだった。
ああ、この店なら信頼できる。きっと良いパンを焼く、と。
事実、その勘は正しかった。
人はパンのみにて生きるに非ず。さりとてパンは主食なり。
何度も足蹴く通ううち、自然とソフィアと言葉を交わす機会は増えて行った。彼女の結婚が決まった時は一抹の寂しさを覚えたものの、兄にも似た温かな気持ちで
「おめでとう」と祝福の言葉を贈ったものだった。
ソフィアの結婚後もアレックスはルーセント・ベイカリーでパンを買い続けた。
店員の話からその後サクラメントへと移り、息子が生まれた事を知った。
しかし彼女の幸せな結婚生活は長くは続かなかった。突然の交通事故で夫を失い、再び両親の元へと戻って来たのだ。
店先でソフィアに再会した時。彼女に再び会えたことを心のどこかで嬉しく思う自分に気づき、アレックスは慌てて自らをたしなめたものだった。
ほぼ時を同じくして、レオンとディフの長い長い親友時代は終わりを告げ、二人は晴れて恋人同士となった。レオンの食生活はほぼ完全にディフの手に委ねられ、アレックスが主人のためにパンを調達する機会も減った。
にも関わらず、彼は依然としてルーセント・ベイカリーに通い続けた。そこが信用のおける美味いパン屋であることに変わりはなかったし、ソフィアと彼女の息子の元気な姿を確かめずにはいられなかったのだ。
その間もローゼンベルク家の食卓を囲む人数は刻々と変化していた。
主人とその恋人、さらにその友人、そして金髪に紫の瞳の双子。食卓を囲む人数が増えて行くにつれ、アレックスがルーセント・ベイカリーで買い求めるパンの量も、種類も少しずつ変わって行った。
そして、その変化をソフィアは敏感に感じ取っていたのだった。
次へ→【4-6-2】ソフィアは見ていた
しかし、毎日の食生活においてパンの占める役割は大きい。何と言っても主食なのだから。
自らの仕える主人、レオンハルト・ローゼンベルクが高校を卒業し、寮を出た後もサンフランシスコに居を構えると決めた時。
忠実なる執事アレックス・J・オーウェンは衣食住、全てにおいて完ぺきに準備を整えた。
中でも食生活においてことに気を配ったのが、如何にして良質なパンを確保するか、だった。
本家で暮らしていた時分には毎食のパンは屋敷の厨房で焼かれていたが、さすがにここではそれは難しい。
(ならば自分の目と舌で確かめて納得の行くパン屋を探すしかあるまい)
そんな訳でアレックスは、主人の住むノブヒルのマンションの近辺のパン屋を全てピックアップし、材料から製法、味、店内の清潔さから従業員の気質、勤務態度に至るまでことごとくチェックしたのである。
まずはサンプルを入手すべく店に並べられた商品を順番に購入し、食べ比べる。比較検討の結果、一定の基準を満たしたものを実際に食卓に並べてレオンぼっちゃまの反応を確認する。
口に合わない時はちょっと顔をしかめる。気に入った時は何も言わずに食べる。
それはほんの些細な変化でしかなかった。幼い頃からレオンに付き従ってきたアレックスにしかわからない程度の。
ルーセント・ベーカリーはアレックスの綿密かつ厳しいチェックをくぐり抜けた『最良クラスの』一軒だった。
家族経営の小さな店だったが、質の良い材料を使い、丁寧な仕事をした。味も申し分なかった。
以来、ローゼンベルク家の食卓に上るパンは可能な限りルーセント・ベーカリーの商品と決められている。そして、レオンの結婚後もその伝統は継承された。
と、言うのも、親友時代から恋人期を経て現在に至るまで、レオンの伴侶たるディフもアレックスと同じ意見だったからだ。
「このパン美味いな。どこの店で買ったんだ?」
「ルーセント・ベーカリーでございます」
「いいな。気に入った」
「さようでございますか」
控えめな笑みで答えながらアレックスは秘かに嬉しかった。
レオンは基本的に食事の味と言うものへの関心が薄い人間だった。口に合おうが合うまいが、出されたものはきちんと食べる。子どもの頃、万が一彼が料理を残せば即座に使用人の責任問題につながった。
だから食べる。とにかくきちんと食べる。
レオンハルト・ローゼンベルクにとって食事とは単に栄養を補給するための行為であり、そこには何ら感情の動く余地はなかった。
ゆるやかに波打つ赤毛にハシバミ色の瞳のルームメイトと出会うまでは。
『これ、美味いな。初めて食った!』
彼のその一言が、レオンの意識に食べる事への関心を呼び覚ました。人の生きて行く時間を彩るあらゆる喜びも。
(本当に、マクラウドさまはレオンさまの救い主だ……天使とお呼びするには、いささか頑強すぎるかもしれないが)
※ ※ ※ ※
9年前に初めて店を訪れた時、アレックスを出迎えたのは店のオーナーの一人娘ソフィアだった。
「いらっしゃいませ」
短めのカールした髪の毛をきちんと三角巾の下に包み込み、オレンジと白のストライプのユニフォームに白いエプロンを着けて朗らかに笑う彼女を見て、直感で思ったものだった。
ああ、この店なら信頼できる。きっと良いパンを焼く、と。
事実、その勘は正しかった。
人はパンのみにて生きるに非ず。さりとてパンは主食なり。
何度も足蹴く通ううち、自然とソフィアと言葉を交わす機会は増えて行った。彼女の結婚が決まった時は一抹の寂しさを覚えたものの、兄にも似た温かな気持ちで
「おめでとう」と祝福の言葉を贈ったものだった。
ソフィアの結婚後もアレックスはルーセント・ベイカリーでパンを買い続けた。
店員の話からその後サクラメントへと移り、息子が生まれた事を知った。
しかし彼女の幸せな結婚生活は長くは続かなかった。突然の交通事故で夫を失い、再び両親の元へと戻って来たのだ。
店先でソフィアに再会した時。彼女に再び会えたことを心のどこかで嬉しく思う自分に気づき、アレックスは慌てて自らをたしなめたものだった。
ほぼ時を同じくして、レオンとディフの長い長い親友時代は終わりを告げ、二人は晴れて恋人同士となった。レオンの食生活はほぼ完全にディフの手に委ねられ、アレックスが主人のためにパンを調達する機会も減った。
にも関わらず、彼は依然としてルーセント・ベイカリーに通い続けた。そこが信用のおける美味いパン屋であることに変わりはなかったし、ソフィアと彼女の息子の元気な姿を確かめずにはいられなかったのだ。
その間もローゼンベルク家の食卓を囲む人数は刻々と変化していた。
主人とその恋人、さらにその友人、そして金髪に紫の瞳の双子。食卓を囲む人数が増えて行くにつれ、アレックスがルーセント・ベイカリーで買い求めるパンの量も、種類も少しずつ変わって行った。
そして、その変化をソフィアは敏感に感じ取っていたのだった。
次へ→【4-6-2】ソフィアは見ていた
▼ 【4-6-2】ソフィアは見ていた
2008/10/18 2:17 【四話】
その人が初めて店に来た時のことを、ソフィアは今でもはっきり覚えている。
灰色の髪に薄い空色の瞳。ダークグレイの皺一つないズボンにベストに上着、真っ白なシャツ、襟元にきりっと締めたアスコットタイ。背筋を伸ばして、無駄のない動作できびきびと歩く。
まるで映画に出てくる執事のようだと思った。
「いらっしゃいませ」
ほほ笑みながら出迎えると、深みのある品のある声でこう言った。
「こちらにあるパンを、ここからここまで1種類につき1つずつ、全部いただけますか?」
「全部、ですか?」
「はい……あ……少々お待ちください」
甘い香りの漂う菓子パンと、温まった肉と野菜の香ばしいにおいのたちこめる調理パンのコーナーに歩いて行くと、しばらく考え込んでいた。
「………こちらのコーナーの商品は除いて」
「はい、かしこまりました」
山のようなパンを抱えてその人は、来た時と同じ様にきびきびした足どりで帰って行った。
(あんなにたくさんのパンを、どうするのかしら?)
3日後、彼は再び店にやってきた。
黒い革表紙の手帳を片手に慎重にパンを選び、厳かにカウンターに運ぶ。ベイカリーのプラスチックのトレイがまるで銀のお盆のように見えた。
「これをください」
(あれは試食だったのね! 好みのパンを見つけるための)
以来、その人はお店の常連さんになった。買って行くパンはだいたい決まっていた。
ライ麦パンとクロワッサン、イギリス式の山形の食パン。サンドイッチ用のしっかりめの生地の食パン、時たまバケット。いずれもプレーンなパンばかりで、野菜や果物を混ぜたものは好評ではなかったらしい。
一人にしては多く、三人にしては少なめの量だった。
(きっと家族がいるのね。でも、小さな子どもではない)
ごく自然に『お嬢様』と言う言葉が浮かんできた。忠実な執事が、お仕えするお嬢様のためにパンを買う。
(ふふっ、まるでロマンス小説みたい)
(まさか……ね)
(でも、ひょっとしたら?)
そんなことを考えながら、ソフィアは彼が店に訪れるのをいつしか楽しみにするようになっていた。
やがて月日が流れ、ソフィアが結婚して、家を離れて。
短いけれど幸せな日々の後に息子を連れてサンフランシスコに戻ってきた時も彼は変わらずそこに居た。
いつまでも悲しみに沈んではいられない。勇気を出して店に立った最初の日にパンを買いに来てくれたのだ。
ソフィアを見つけて、ほんのかすかに、ほほ笑んでくれた。春先の空のような、温かい瞳をして。
その瞬間、ぽわっと小さな、タンポポの綿毛みたいな温かい灯りが胸の奥に灯った。
ぽわぽわと白いちっちゃな灯りが、空っぽになっていた自分の中に広がって……気がつくと、ほほ笑み返していた。
それまでは人前で、泣かずにいられるのが精一杯だったのに。
「いらっしゃいませ」
「こんにちわ」
再会からしばらくして、彼の買うパンの量が減った。
二人分から一人分に。何となく寂しそうな、ほっとしたような様子だった。
自分一人分のパンを買うようになってから、彼は……その頃には「オーウェンさん」「ソフィアさん」と呼び合うくらいに親しくなっていた……ほんの少し冒険するようになった。
野菜を生地に練り込んだパンやドライフルーツやナッツを混ぜたパンに挑戦し、一通り試した結果、ほうれん草入りのクロワッサンが気に入ったようだった。
食パンを一斤とほうれん草入りのクロワッサンを二つ。それがオーウェン氏のお買い物の定番。
ほぼ同じ頃から赤い髪の毛の青年が頻繁に店に来るようになった。彼の買って行くものは、何故かオーウェンさんが以前買っていたものを引き継いだようにそっくり同じだった。
よく笑う気さくな人で、冒険心も好奇心も旺盛。これは何? どうやって食べるの? 何が入っているの? まるで子犬のように目をきらきらさせて楽しそうに聞いてきた。
去年の秋ごろからだろうか。赤毛さんの買い物が変化した。
大きくて堅いパンから、小振りで柔らかいパンへ。量も増えた。小さな手で、ちまちまとやわらかいパンを食べる人が食卓に加わったのだと思った。そう、きっと子どもだ。
そう思った矢先に、ふっつりと赤毛さんは姿を見せなくなった。
心配していると、入れ替わりにまたオーウェンさんの買い物が増えた。小さめのロールパン、やわらかい食パン。まるでバトンタッチしたみたい。
(あの二人、ひょっとして知り合いなのかしら?)
「ソフィアさん、一つ教えていただきたいことがあるのですが……」
ある日、オーウェンさんが真剣な顔で尋ねてきた。
「はい、何でしょう」
「息子さんは、いったいどのような料理を喜んで召し上がりますか?」
「息子が、ですか?」
「はい……実は今、育ち盛りの男の子を二人、お世話しているのですが、どうにも私の作る献立は……何と申しますか、微妙に喜ばれていないようなのです」
こんなに途方に暮れたオーウェンさんを見るのは初めてだった。よほど悩んでいるらしい。
「お子さんを持つ母親として、あなたのご意見を参考にさせていただきたいのです」
「そうですね。ディーンは私の作ったものは何でも喜んで食べてくれますけど……一番好きなのは、マカロニ&チーズかしら」
「マカロニ&チーズ……ですか」
「はい。タマネギのコンソメスープも好きですね」
「タマネギのコンソメスープ……なるほど。大変参考になりました」
うなずくと、彼は心底ほっとした様子で晴れやかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、ソフィアさん」
「いいえ。お役に立てて良かったわ」
※ ※ ※ ※
「メイリールさま」
「おう、どーしたアレックス」
「一つご相談があるのですが」
「何、改まって」
検討に検討を重ねた上での人選だった。
女性相手の経験、と言う点ではマクラウドさまに聞くのが一番なのだろうが、レオンさまが良い顔をなさならいだろう。
レイモンドさまは、ご自分からご婦人にアプローチする方ではない。実際、トレイシー嬢が冗談めかして言っていたことがある。『私ね、レイをひっかけたのよ』と。
「ご婦人に感謝の気持ちを伝える時は、どのような物を贈ればよいのか、ご意見をお聞かせ願いたいのです」
「何で、俺にそーゆー事聞くわけ?」
「レオンさまはあの通りのお方ですし、マクラウドさまは入院中ですし」
「Mr.ジーノは?」
「………」
デイビットさまは……あの方の好みは独特だ。いささか派手になりすぎる傾向がある。慎み深く口をつぐみ、目を伏せた。
「あー、うん、気持ちはわかる。で、相手のご婦人ってのは独身?」
「いえ、ご家族と一緒に住んでいらっしゃいます」
「ああ……そう。だったら、チョコの詰め合わせかな。あとちっさめの花束」
「チョコレートと花束……ですか」
「クッキーとかパイとかケーキなら自分ちでも手作りできるけどさ。チョコはそうは行かないだろ? ダイエット中でも家族が食べるだろうから誰かしらには喜ばれるよ。それに高級な店のは箱もリボンも上等だから食べ終わってからも楽しみがあるし」
よどみのない口調で述べてから、メイリールさまはぱちっとウィンクをして、芝居がかった動作で一礼した。
「んでもって花束は……あなただけの為に」
「……その、胸に手を当てる仕草とウィンクも実行しなければいけませんか?」
「や、無理しないでいいから。気分の問題だし、これ」
※ ※ ※ ※
花束。
花束。
ピンクのバラの蕾を集めた、ちっちゃな花束。片手にすっぽりおさまるぐらいの。
こんな可愛いブーケをもらったのは久しぶり。
何だか胸が時めく。
「先日のお礼です」とオーウェンさんは言っていた。マカロニ&チーズは喜んで食べてもらえたのね。
よかった。
とても嬉しい。
「ママ、チョコレートもっと食べたい」
「あらあら、そんなにいっぺんに食べちゃいけないわ、ディーン。ちょっとずつ、長く楽しみましょう? 残りは明日ね」
「……OK、ママ」
チョコレートの箱についていた青いサテンのリボンをくるくる巻いて引き出しにしまった。花束が色あせても。チョコを食べ終わっても、このリボンは残る。
※ ※ ※ ※
十二月に入って、赤毛さんが帰ってきた。少し色が白くなって髪の毛が伸びていた。
「ちょっとね、ケガで入院してたんだ」
事も無げに言って、笑っていた。
次にお店に来た時、彼は一人ではなかった。金髪の男の子が二人一緒に居た。まるで鏡に映したようにそっくりの双子の兄弟。
親鳥の後をついて歩くひな鳥のようにちょこまかと店の中を歩き回り、三人で相談しながらパンを選んでいた。
まず二人で相談して、それから双子のうちの一人が赤毛さんと話す。
兄弟の間ではほとんど言葉は交わされない、それでもちゃんと意志が通じているようだった。
年が明け、冬から春へ季節が移り変わってゆく間に金髪の双子と赤毛さんはすっかりおなじみの顔になって行った。
いったい彼らはどんな関係なのだろう?
親子にしては年が近すぎる。兄弟と言うには離れ過ぎ。けれど一緒に暮らして、一緒にご飯を食べていることは確かだった。
そして……五月が終わり六月の足音が聞こえる頃。
オーウェンさんがやってきた。
金髪の双子と一緒に。
(この子たちだったのね……マカロニ&チーズを喜んでくれたのは)
いつも赤毛さんが買っている食パンを買って帰っていった。
『生地がしっかりしていて、サンドイッチを作る時に何はさんでもOKだからな。こいつが一番なんだ』
以前、彼がそんな風に言っていたのを思い出した。
金髪の双子と、赤毛さんとオーウエンさん。ソフィアの中でいつも店に訪れる四人が繋がった。
けれど気にかかる。三人とも、どこかやつれていて元気がなかった。
どうしたのだろう。
何があったのだろう?
※ ※ ※ ※
それから一ヶ月近くの間、三人は連れ立って何度もパンを買いに訪れた。何があったか聞けぬまま、それでもパンの量が以前と変わらないことにソフィアは秘かに安堵していた。
そして六月も終わりに近づいた頃………オーウェンさんに代わって赤毛さんが再び双子を連れてやって来た。
パンの袋を渡す時、左手の指輪に気づいた。プラチナのしっかりしたリングの中央には青いライオンが刻印されている。以前は無かった物だ。
「おめでとうございます」
「…………ありがとう」
かすかに頬を赤らめて、うれしそうにほほ笑んでくれた。
オーウェンさんと、赤毛さんと金髪の双子ちゃんはとても親しい。けれど、最初にオーウェンさんがパンを買っていた相手は多分この中にはいない。
もう一人居るのね。その人は、今は赤毛さんと、双子ちゃんと一緒に暮らしている。
どんな人なのかしら。オーウェンさんが心をこめてお世話しているお嬢様。
おそらくそれが、赤毛さんと指輪を交わしたお相手なのだわ。
もしかして、金髪の双子ちゃんのママさん?
ソフィアの頭の中でくるくると、今まで見聞きした出来事の欠片が融け合って一つの物語に固まって行く。
若いうちに結婚して、そして双子の息子が生まれて。でも旦那さんとは別れて一人暮らしになって、それでオーウェンさんがお世話をしていた。
赤毛さんと恋人同士になって、双子の息子を呼び寄せて一緒に暮らすようになって、六月に結婚したんだわ。
きっと、きれいな方ね……いつか、お店に来てくれないかしら。
まだ見ぬ『お嬢様』を思い描いて、ソフィアは秘かにわくわくしていた。
ああ、それとも、もしかしたら家の外に出られない訳があるのかも。ものすごく病弱だったり、体がどこか不自由だったり。
ふと、ソフィアの脳裏に鮮やかにある光景が浮かんだ。
窓際の長椅子に体を預けた深窓の令嬢。細い肩を薄い柔らかなショールが包み、白い手が丸い木の枠に収められた布に細やかな刺繍を施している。
双子の息子と愛する旦那様、そして忠実な執事に守られて……。
そうよ、きっとそうなのだわ!
赤毛さんはずっとつきっきりでお嬢様の看病をしていて、その間、オーウェンさんが双子ちゃんと家事をしていたのね。
よかった、幸せになれて……。
本当に、よかった。
次へ→【4-6-3】二人で回転木馬に
灰色の髪に薄い空色の瞳。ダークグレイの皺一つないズボンにベストに上着、真っ白なシャツ、襟元にきりっと締めたアスコットタイ。背筋を伸ばして、無駄のない動作できびきびと歩く。
まるで映画に出てくる執事のようだと思った。
「いらっしゃいませ」
ほほ笑みながら出迎えると、深みのある品のある声でこう言った。
「こちらにあるパンを、ここからここまで1種類につき1つずつ、全部いただけますか?」
「全部、ですか?」
「はい……あ……少々お待ちください」
甘い香りの漂う菓子パンと、温まった肉と野菜の香ばしいにおいのたちこめる調理パンのコーナーに歩いて行くと、しばらく考え込んでいた。
「………こちらのコーナーの商品は除いて」
「はい、かしこまりました」
山のようなパンを抱えてその人は、来た時と同じ様にきびきびした足どりで帰って行った。
(あんなにたくさんのパンを、どうするのかしら?)
3日後、彼は再び店にやってきた。
黒い革表紙の手帳を片手に慎重にパンを選び、厳かにカウンターに運ぶ。ベイカリーのプラスチックのトレイがまるで銀のお盆のように見えた。
「これをください」
(あれは試食だったのね! 好みのパンを見つけるための)
以来、その人はお店の常連さんになった。買って行くパンはだいたい決まっていた。
ライ麦パンとクロワッサン、イギリス式の山形の食パン。サンドイッチ用のしっかりめの生地の食パン、時たまバケット。いずれもプレーンなパンばかりで、野菜や果物を混ぜたものは好評ではなかったらしい。
一人にしては多く、三人にしては少なめの量だった。
(きっと家族がいるのね。でも、小さな子どもではない)
ごく自然に『お嬢様』と言う言葉が浮かんできた。忠実な執事が、お仕えするお嬢様のためにパンを買う。
(ふふっ、まるでロマンス小説みたい)
(まさか……ね)
(でも、ひょっとしたら?)
そんなことを考えながら、ソフィアは彼が店に訪れるのをいつしか楽しみにするようになっていた。
やがて月日が流れ、ソフィアが結婚して、家を離れて。
短いけれど幸せな日々の後に息子を連れてサンフランシスコに戻ってきた時も彼は変わらずそこに居た。
いつまでも悲しみに沈んではいられない。勇気を出して店に立った最初の日にパンを買いに来てくれたのだ。
ソフィアを見つけて、ほんのかすかに、ほほ笑んでくれた。春先の空のような、温かい瞳をして。
その瞬間、ぽわっと小さな、タンポポの綿毛みたいな温かい灯りが胸の奥に灯った。
ぽわぽわと白いちっちゃな灯りが、空っぽになっていた自分の中に広がって……気がつくと、ほほ笑み返していた。
それまでは人前で、泣かずにいられるのが精一杯だったのに。
「いらっしゃいませ」
「こんにちわ」
再会からしばらくして、彼の買うパンの量が減った。
二人分から一人分に。何となく寂しそうな、ほっとしたような様子だった。
自分一人分のパンを買うようになってから、彼は……その頃には「オーウェンさん」「ソフィアさん」と呼び合うくらいに親しくなっていた……ほんの少し冒険するようになった。
野菜を生地に練り込んだパンやドライフルーツやナッツを混ぜたパンに挑戦し、一通り試した結果、ほうれん草入りのクロワッサンが気に入ったようだった。
食パンを一斤とほうれん草入りのクロワッサンを二つ。それがオーウェン氏のお買い物の定番。
ほぼ同じ頃から赤い髪の毛の青年が頻繁に店に来るようになった。彼の買って行くものは、何故かオーウェンさんが以前買っていたものを引き継いだようにそっくり同じだった。
よく笑う気さくな人で、冒険心も好奇心も旺盛。これは何? どうやって食べるの? 何が入っているの? まるで子犬のように目をきらきらさせて楽しそうに聞いてきた。
去年の秋ごろからだろうか。赤毛さんの買い物が変化した。
大きくて堅いパンから、小振りで柔らかいパンへ。量も増えた。小さな手で、ちまちまとやわらかいパンを食べる人が食卓に加わったのだと思った。そう、きっと子どもだ。
そう思った矢先に、ふっつりと赤毛さんは姿を見せなくなった。
心配していると、入れ替わりにまたオーウェンさんの買い物が増えた。小さめのロールパン、やわらかい食パン。まるでバトンタッチしたみたい。
(あの二人、ひょっとして知り合いなのかしら?)
「ソフィアさん、一つ教えていただきたいことがあるのですが……」
ある日、オーウェンさんが真剣な顔で尋ねてきた。
「はい、何でしょう」
「息子さんは、いったいどのような料理を喜んで召し上がりますか?」
「息子が、ですか?」
「はい……実は今、育ち盛りの男の子を二人、お世話しているのですが、どうにも私の作る献立は……何と申しますか、微妙に喜ばれていないようなのです」
こんなに途方に暮れたオーウェンさんを見るのは初めてだった。よほど悩んでいるらしい。
「お子さんを持つ母親として、あなたのご意見を参考にさせていただきたいのです」
「そうですね。ディーンは私の作ったものは何でも喜んで食べてくれますけど……一番好きなのは、マカロニ&チーズかしら」
「マカロニ&チーズ……ですか」
「はい。タマネギのコンソメスープも好きですね」
「タマネギのコンソメスープ……なるほど。大変参考になりました」
うなずくと、彼は心底ほっとした様子で晴れやかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、ソフィアさん」
「いいえ。お役に立てて良かったわ」
※ ※ ※ ※
「メイリールさま」
「おう、どーしたアレックス」
「一つご相談があるのですが」
「何、改まって」
検討に検討を重ねた上での人選だった。
女性相手の経験、と言う点ではマクラウドさまに聞くのが一番なのだろうが、レオンさまが良い顔をなさならいだろう。
レイモンドさまは、ご自分からご婦人にアプローチする方ではない。実際、トレイシー嬢が冗談めかして言っていたことがある。『私ね、レイをひっかけたのよ』と。
「ご婦人に感謝の気持ちを伝える時は、どのような物を贈ればよいのか、ご意見をお聞かせ願いたいのです」
「何で、俺にそーゆー事聞くわけ?」
「レオンさまはあの通りのお方ですし、マクラウドさまは入院中ですし」
「Mr.ジーノは?」
「………」
デイビットさまは……あの方の好みは独特だ。いささか派手になりすぎる傾向がある。慎み深く口をつぐみ、目を伏せた。
「あー、うん、気持ちはわかる。で、相手のご婦人ってのは独身?」
「いえ、ご家族と一緒に住んでいらっしゃいます」
「ああ……そう。だったら、チョコの詰め合わせかな。あとちっさめの花束」
「チョコレートと花束……ですか」
「クッキーとかパイとかケーキなら自分ちでも手作りできるけどさ。チョコはそうは行かないだろ? ダイエット中でも家族が食べるだろうから誰かしらには喜ばれるよ。それに高級な店のは箱もリボンも上等だから食べ終わってからも楽しみがあるし」
よどみのない口調で述べてから、メイリールさまはぱちっとウィンクをして、芝居がかった動作で一礼した。
「んでもって花束は……あなただけの為に」
「……その、胸に手を当てる仕草とウィンクも実行しなければいけませんか?」
「や、無理しないでいいから。気分の問題だし、これ」
※ ※ ※ ※
花束。
花束。
ピンクのバラの蕾を集めた、ちっちゃな花束。片手にすっぽりおさまるぐらいの。
こんな可愛いブーケをもらったのは久しぶり。
何だか胸が時めく。
「先日のお礼です」とオーウェンさんは言っていた。マカロニ&チーズは喜んで食べてもらえたのね。
よかった。
とても嬉しい。
「ママ、チョコレートもっと食べたい」
「あらあら、そんなにいっぺんに食べちゃいけないわ、ディーン。ちょっとずつ、長く楽しみましょう? 残りは明日ね」
「……OK、ママ」
チョコレートの箱についていた青いサテンのリボンをくるくる巻いて引き出しにしまった。花束が色あせても。チョコを食べ終わっても、このリボンは残る。
※ ※ ※ ※
十二月に入って、赤毛さんが帰ってきた。少し色が白くなって髪の毛が伸びていた。
「ちょっとね、ケガで入院してたんだ」
事も無げに言って、笑っていた。
次にお店に来た時、彼は一人ではなかった。金髪の男の子が二人一緒に居た。まるで鏡に映したようにそっくりの双子の兄弟。
親鳥の後をついて歩くひな鳥のようにちょこまかと店の中を歩き回り、三人で相談しながらパンを選んでいた。
まず二人で相談して、それから双子のうちの一人が赤毛さんと話す。
兄弟の間ではほとんど言葉は交わされない、それでもちゃんと意志が通じているようだった。
年が明け、冬から春へ季節が移り変わってゆく間に金髪の双子と赤毛さんはすっかりおなじみの顔になって行った。
いったい彼らはどんな関係なのだろう?
親子にしては年が近すぎる。兄弟と言うには離れ過ぎ。けれど一緒に暮らして、一緒にご飯を食べていることは確かだった。
そして……五月が終わり六月の足音が聞こえる頃。
オーウェンさんがやってきた。
金髪の双子と一緒に。
(この子たちだったのね……マカロニ&チーズを喜んでくれたのは)
いつも赤毛さんが買っている食パンを買って帰っていった。
『生地がしっかりしていて、サンドイッチを作る時に何はさんでもOKだからな。こいつが一番なんだ』
以前、彼がそんな風に言っていたのを思い出した。
金髪の双子と、赤毛さんとオーウエンさん。ソフィアの中でいつも店に訪れる四人が繋がった。
けれど気にかかる。三人とも、どこかやつれていて元気がなかった。
どうしたのだろう。
何があったのだろう?
※ ※ ※ ※
それから一ヶ月近くの間、三人は連れ立って何度もパンを買いに訪れた。何があったか聞けぬまま、それでもパンの量が以前と変わらないことにソフィアは秘かに安堵していた。
そして六月も終わりに近づいた頃………オーウェンさんに代わって赤毛さんが再び双子を連れてやって来た。
パンの袋を渡す時、左手の指輪に気づいた。プラチナのしっかりしたリングの中央には青いライオンが刻印されている。以前は無かった物だ。
「おめでとうございます」
「…………ありがとう」
かすかに頬を赤らめて、うれしそうにほほ笑んでくれた。
オーウェンさんと、赤毛さんと金髪の双子ちゃんはとても親しい。けれど、最初にオーウェンさんがパンを買っていた相手は多分この中にはいない。
もう一人居るのね。その人は、今は赤毛さんと、双子ちゃんと一緒に暮らしている。
どんな人なのかしら。オーウェンさんが心をこめてお世話しているお嬢様。
おそらくそれが、赤毛さんと指輪を交わしたお相手なのだわ。
もしかして、金髪の双子ちゃんのママさん?
ソフィアの頭の中でくるくると、今まで見聞きした出来事の欠片が融け合って一つの物語に固まって行く。
若いうちに結婚して、そして双子の息子が生まれて。でも旦那さんとは別れて一人暮らしになって、それでオーウェンさんがお世話をしていた。
赤毛さんと恋人同士になって、双子の息子を呼び寄せて一緒に暮らすようになって、六月に結婚したんだわ。
きっと、きれいな方ね……いつか、お店に来てくれないかしら。
まだ見ぬ『お嬢様』を思い描いて、ソフィアは秘かにわくわくしていた。
ああ、それとも、もしかしたら家の外に出られない訳があるのかも。ものすごく病弱だったり、体がどこか不自由だったり。
ふと、ソフィアの脳裏に鮮やかにある光景が浮かんだ。
窓際の長椅子に体を預けた深窓の令嬢。細い肩を薄い柔らかなショールが包み、白い手が丸い木の枠に収められた布に細やかな刺繍を施している。
双子の息子と愛する旦那様、そして忠実な執事に守られて……。
そうよ、きっとそうなのだわ!
赤毛さんはずっとつきっきりでお嬢様の看病をしていて、その間、オーウェンさんが双子ちゃんと家事をしていたのね。
よかった、幸せになれて……。
本当に、よかった。
次へ→【4-6-3】二人で回転木馬に
▼ 【4-6-3】二人で回転木馬に
2008/10/18 2:20 【四話】
七月のある日。アレックスは神妙な顔つきでヒウェルの部屋を尋ねた。
「よう、アレックス。どうした」
「一つご相談があるのですが」
おや、またか?
ヒウェルはぴくりと片方の眉を跳ね上げた。
「もしかして、またご婦人へのお礼の相談?」
「いえ……実は………その……」
おろ、言いよどんでるよ、珍しい。いつもはきはきしてる彼が、いったいどうしたってんだい?
「…………ご婦人をエスコートして出かけるのに、サンフランシスコ市内ではどのような場所がよろしいでしょうか」
「えーっと……つまり」
目をぱちくりさせて、眼鏡を外し、レンズをふいてまたかけ直すとヒウェルは改めてまじまじと執事の様子を観察した。
表情が変わってないもんだからうっかり見落としていた。かすかに頬が赤いじゃないか。
しかも、微妙に目線が左右に泳いでいる。
もしかして、アレックス…………照れてる?
「ご婦人と二人で出かけたり食事したりするのに的確なプランをお聞きになりたいと?」
「はい」
「それって、つまり、デートだよな?」
その一言で、執事は石みたいに固まってしまった。
いかんいかん、遊びが過ぎたか。
「その、お相手ってのは地元の人?」
「はい」
何気ない風に話を続けると、ほっとした表情で答えを返してきた。どうやら、そうとうに緊張していたらしい。
こりゃ真剣だな。おそらく免疫ないぞ、この人は。ずーっとレオンぼっちゃまのお世話ばっかり焼いてきたんだ。大人になってからはマクラウドさまも込みで、んでもって去年の秋からは双子も一緒に。
考えてみればアレックスはれっきとした独身男性なのである。気になるご婦人がいても何ら不思議はない。いささか遅めの春ではあるが、遅すぎるってことはない。そもそも人生に置いて恋する時期に旬も外れもあるものか。
出逢った時がその時だ。
がんばれ、アレックス。
「じゃあ、かえってコテコテの観光名所巡りってのはどうだろう。案外、市内に住んでると足を運ばないもんだしね……ゴールデン・ゲート公園、ツインピークス、フィッシャマンズワーフ、コイト・タワー、ビクトリアン・ハウス、あとユニオン・スクウェアのハートのオブジェとか、アクアリアム・オブ・ザ・ベイ、アルカトラズ島は……あんましデート向きじゃないか。監獄だもんな」
すらすらとヒウェルの口から流れ出す観光名所の数々を、アレックスは一つ残らず丹念に手帳にメモして行く。
「もしかして……今言ったとこ、一度も行ったことない?」
「はい」
「シスコに来てから何年めだっけ」
「レオンさまが高校に上がられた年からですから、もう12年になります」
「……そうか……いい機会だよアレックス。その、ご婦人とやらに存分にシスコを案内してもらうといい」
アレックスはわずかに眉根を寄せた。
「しかし。お言葉ですがメイリールさま、こう言った場合は私がエスコートするべきなのではありませんか?」
「アレックス、アレックス、アレックス!」
まったく、どこまで生真面目な男なんだろう!
半ば呆れて、半ば関心しながらぱたぱたとヒウェルは手を振った。ほのかなデジャビュを感じながら。
「デートなんだろ? お客様をおもてなしするんじゃなくって。堅くなるな。適度にリラックスしろ。お前さんも楽しまなくっちゃ!」
「私も……楽しむ?」
「そうだよ。お前さんが楽しけりゃ、一緒にいるレディも楽しい。デートってのはそーゆーものなんだよ」
「そうなのですか? なかなかに、新鮮です」
「だろーね」
※ ※ ※ ※
何年ぶりだったろう? フィッシャーマンズ・ワーフに行くなんて。
オーウェンさんと二人で美味しいカニを食べて、ギラデリ・スクウェアのチョコレート工場を見学した。ディーンへのお土産にチョコレートを買っていると、オーウェンさんも興味津々にのぞきこんで。自分でもチョコバーを5つ買っていた。
きちんと包装していたからきっとお土産ね。でも、誰に?
双子ちゃんたちは甘いものは好きではないみたいだし、あのチョコバーはけっこう堅い。お嬢様がぼりぼり食べるのにはちょっと不向きね。と、言うことは……赤毛さんかしら。
次はどこに行こうかと聞かれ、遊園地で回転木馬に乗りたいと言ったら、オーウェンさんは少し驚いたようだった。
「子どもの頃から大好きだったんです。本物の馬は大きくて怖かったけれど、回転木馬なら平気だった」
「なるほど。それでは、ぜひご一緒に」
大人になってから回転木馬に乗るには勇気が要る。
ディーンと一緒の時はいつも付き添いで、馬車に並んで座るか、木馬に夫と二人で乗るあの子を輪の外で見守っていた。
大人二人で回転木馬に乗るのは正直言って恥ずかしい。けれどオーウェンさんは私の手を引いて、並んで木馬に乗ってくれた。
私は白い馬に。彼は栗毛の馬に。
ピーポッポ、ポワポワ、プワン……
軽くてちょっぴりチープなサーカス・ミュージックに合わせて木馬がぴょんぴょん跳ねる。くるくる回る。ちらちらと彼の顔をうかがった。
興味しんしんに木馬の動きを観察している。目を輝かせてはしゃぐのとはちょっと違っていたけれど、それなりに楽しそうで、ほっとひと安心。
やがて音楽が止まり、回転が終わる。私の乗った馬は高く上がったまま止まってしまった。
どうしよう、足が届かない。子どもの時はパパが抱えて降ろしてくれたけれど、今は……。
木馬の鞍の手をかけて床面を見下ろす。一人で飛び降りるしかないわね。気合いを入れてヒールのある靴なんか履いてくるんじゃなかった。
覚悟を決めた瞬間、目の前にすっと手がさしのべられた。
「どうぞ、ソフィアさん、こちらに」
「……はい」
オーウェンさんに支えられて、羽毛のように軽やかに木馬から降りることができた。
その時、ソフィアはぼんやりと思ったのだ。
午後のうたた寝から覚める間際のような穏やかな、うっとりと心地よいくつろぎの中で。
もしも、この人と、これから先の時間を一緒に過ごすことができたら……と。
「回転木馬と言うのもなかなかに楽しいものですね。本物の馬に乗るのとは、また違ったおもむきがある」
「そうでしょう?」
木馬を降りた後も二人は手を離さず、そのまま並んで歩いていた。ごく自然に、さりげなく。まるでずっと前からそうしていたように。
「Yerba Buena Gardensには、ここよりもっと大きな回転木馬があるんですよ」
「それは興味深い……」
アレックスは改めてソフィアの目を見つめた。赤みの強い濃い茶色の瞳。黒目が大きく、日陰ではますます黒く見える。つやつやとして、実に……愛くるしい。
まるでクマのぬいるぐみのようだ。
「また、ご一緒していただけますか? あなたさえよろしければ」
「はい。喜んで」
※ ※ ※ ※
次の日、ヒウェルはアレックスから土産をもらった。
ギラデリ・チョコレートのバータイプの奴を5枚。キャラメル、ピーナッツバター、ミントにブラック、そしてラズベリー。
「……これは?」
「お土産です」
「そりゃどーも。んで、首尾は?」
「………………………………Yerba Buena Gardensに行く約束をいたしました」
「あー、Zeumのカルーセル(回転木馬)?」
「はい」
「おめっとさん」
「おそれいります。それでは失礼いたします」
きちんと一礼して退室する執事を見送ってから、さっそくピーナッツバター入りの包み紙を開けてぼりぼりいただいた。
「んー……美味い……」
濃厚なピーナッツバターに負けない、しっかりしたカカオの苦み、そして砂糖とミルクのしっとりとした甘さが舌をつつみこむ。一口味わうごとに口の中から体の隅々に向かって痺れるような幸福感が広がって行く。
さすが「納得できる豆以外は使わない」ギラデリのチョコバー。自分じゃ滅多に食えない、買わないが、たまにはこう言う高級チョコも悪かない。
次へ→【4-6-4】アレックスの決心
▼ 【4-6-4】アレックスの決心
2008/10/18 2:21 【四話】
八月に入ってからアレックスは忙しくなった。
お仕えするご主人さまが結婚式を挙げるから、その準備で。だけど毎日必ずお店にやってきた。来れない日は電話をくれた。
「いつも私にお言い付けくださったのに、プロポーズの準備だけは全てお一人でしてしまわれたんだ」
まるで我が子を見送る父親のように幸せそうに、そしてほんの少しの寂しさを含んだ優しい笑顔で話してくれた。
聞いてるだけで楽しくて、わくわくした。
「もしかしてお相手は、赤毛さん? 金髪の双子ちゃんと一緒にパンを買いに来る」
「……そうだよ」
やっぱりそうだったのね。
でも一つだけ、予想と違っていたことがあった。
アレックスがお仕えしていたのはお嬢様ではなく、ぼっちゃま………男の人だったのだ。
ちょっと、びっくり。でも、大して珍しいことじゃないわよね。サンフランシスコですもの。
左手の指輪に気づいて、おめでとうございますと言った時。赤毛さんは、とても嬉しそうに笑っていた。
すてきな笑顔だった。だからきっと幸せなんだわ。アレックスの『ぼっちゃま』と一緒にいて。
それが一番。
※ ※ ※ ※
結婚式を間近に控えた火曜日のこと。
レオンさまとともに仕上がったタキシードを受け取りに行き着けのテーラーに赴いた。
試着室から現れたレオンさまはちらりとこちらを見て、仕事の話でもするようにさらりと
「どうかな」とおっしゃった。
一点の染みもない純白のタキシードをまとうレオンさまを見ていると、胸の奥から熱いものがこみ上げて来るのを抑えることができなかった。
初めてお会いしたのはレオンさまが5歳、私が20歳の年だった。あれから21年。お小さかったぼっちゃまも立派に成長し、生涯の伴侶と巡り会い、来週は式を挙げられるのだ。
「とても……良くお似合いでございます」
「そうか」
レオンさまは鏡をごらんになり、軽く襟元に指を添えて整えながら何気ない調子でぽつりと言った。
「君もそのうち着るんじゃないか?」
「は………」
「意中の人がいるんじゃないのかな」
一瞬、世界が凍りついた。
その時、私の心に浮かんだのは明るいかっ色の瞳のあのお方ではなく、短くカールした鹿の子色の髪を白い三角巾にきっちり包んだ彼女の面影だった。
「そういう顔をしている」
そういう顔?
どんな顔をしていたと言うのか!
あわてて鏡を凝視する。鏡の中のレオンさまと目が合った。
…………笑っておられる!
ああ、まさか、私はレオンさまの前でにやにやとだらしない顔をしていたのだろうか?
「どうかしたのかい、アレックス?」
楽しげなお声だ。私とこんな風に感情豊かに話すことは滅多にない。それがうれしくもあり、またそれ故にいっそう心拍数が早くなって行く。
今までついぞ体験したことのない事態に、静穏であるべき意識が嵐の中の小舟さながらにゆれ動く。
とにかく、答えなければ……。
「意中の方と申しますか……」
目を伏せて、慎重に言葉を選んだ。精一杯、静かな口調を心がけながら。
「おつきあいしている方は、います」
「そうか。では結婚式に招待しようか?」
「いえ、そのようなもったいない……それに当日は私は裏方でございますから」
「そうか……ではいずれ紹介してくれ」
「…………かしこまりました」
タキシードの支払いを済ませながら、頭の中でスケジュールをチェックする。
式の翌日、ソフィアと会う約束をしていた。その時に話してみよう。
彼女はOKしてくれるだろうか?
※ ※ ※ ※
結婚式が無事に終わった次の日の日曜日。久しぶりに彼と二人でYerba Buena Gardensに行った。
初めてここの回転木馬を見た時、アレックスは驚いていた。
「これは興味深い。ヤギに、キリンまでいる」
「面白いでしょう? ここの回転木馬はユニークなんですよ。『馬』の種類も、アクションも」
外側をぐるりとアクリルの壁で覆われた回転木馬は、雨の日でも風の強い日でも乗ることができる。回る早さも遊園地のものよりずっと早く、馬の跳ねる高さも高い。
そこが楽しい。
ピンクの細長いチケットを係員に手渡し、二人で並んで馬に乗った。白いヒゲにくるりと巻いた角のヤギにも。まだら模様のキリンにも乗った。
「ソフィア。あなたさえ良ければ今日は、馬車に乗ってみたいんだが……」
「ええ、いいわ」
回転木馬でわざわざ馬車に乗るなんて! 木馬に乗れない小さい子向け、興ざめもいいとこ、てんでつまらないと思っていた……子どもの頃は。
だけど大人になってから考えが変わった。
一緒に乗りたい人がいるから。
回転木馬が回り始める。今日の曲は「Somewhere My Love」だった。
「あら、ラッキーだわ。私、この曲大好き」
「ドクトル・ジバゴの『ララのテーマ』だね」
「ええ」
知っている。彼はこの曲にこめられた物語を、ちゃんと"知って"いる。
「ソフィア」
アレックスはそっと私の手を握ってきた。
「何でしょう?」
「レオンさまが結婚して……私の役目も、一区切りついた……」
「さみしい?」
「少し、ね」
握り合わせた指に力を入れると、彼もきゅっと握り返してきた。少し乾いて、皺の寄った手。よく働き、よく動く、歳月を重ねた大人の手。
「執事の仕事は生涯続くけれど、私も自分の人生のことを考える余裕が出てきた」
「そう……今まではレオンさま一筋だったのね」
何となくわかる。私がディーンを大切に思うのと同じように、この人はレオンさまを大事にしているのだ。
「ソフィア」
「はい」
名前を呼ばれて見上げる……彼の空色の瞳を。
「これから先の時間を、あなたと歩いて行きたい。共に過ごしたい……もちろん、ディーンも一緒に」
ほわっと音楽が遠ざかり、まるで水の中に潜ったように周囲の景色が霞む。それなのに目の前の彼の姿と重ねた手の温もりは冴え冴えと浮かび上がる。
胸の奥が熱い。
心臓が高鳴る。
私を包む世界のあらゆる物がゆれている。回転木馬の震動のせいだろうか。それとも?
「私と結婚してくれますか?」
一度結婚し、息子が生まれた。女らしい幸せはそこでおしまい、後は息子を世話するだけの代わり映えのない日々が続くのだと思っていた。
アレックスの手をとった瞬間、世界が鮮やかな色を取り戻した。
ああ、まだ私は楽しんでいいのね。人生を彩る私自身の喜びを、手放さなくてもいいのね……そんな風に思うことができた。
「はい、アレックス」
彼に答える自分の声が、遠い場所からぼんやりと聞こえてきた。けれど、意志ははっきりと一つの方向を示している。
「………ありがとう」
それは初めて見る笑顔だった。礼儀正しい紳士ではなく、少年のように朗らかで心の底から喜びがあふれていた。
ああ、彼ってこんなにもキュートな顔で笑うのね。何て愛らしいのかしら。
「今度はディーンも連れて、三人で一緒に来よう」
「そうね、あの子はヤギがお気に入りなの。でも、まだ小さいから一人で乗れなくて……あなたが一緒に乗ってくれる?」
「喜んで」
※ ※ ※ ※
回転木馬が止まり、いつものようにソフィアの手をとって降りる時になってアレックスはやっと思い出した。
何としたことだ。あやうく本来の目的を忘れる所だった!
元々今日はレオンさまに紹介したいと彼女に伝える予定だった。しかし2週間ぶりにソフィアに会って、隣に座り、手を握った時……気づいてしまった。もう、自分はこの手を離したくないのだと。
「ソフィア。それで、その………」
「何でしょう?」
黒目がちな濃いかっ色の瞳がじっと見つめて来る。わずかに雫を含み、潤んでいた。
ほんの少し目尻が下がっている、その優しげな表情が心の底から愛おしい。
「会ってもらいたい人たちがいるんだ。私の、大切な人たちに……あなたとディーンを紹介したい」
彼女の顔いっぱいにやわらかなほほ笑みが花開く。ほのかに甘い香りを放つ象牙色の花房、さながらリンデンの花のようだ。
「はい、アレックス。喜んで」
次へ→【4-6-5】今後ともよろしく
お仕えするご主人さまが結婚式を挙げるから、その準備で。だけど毎日必ずお店にやってきた。来れない日は電話をくれた。
「いつも私にお言い付けくださったのに、プロポーズの準備だけは全てお一人でしてしまわれたんだ」
まるで我が子を見送る父親のように幸せそうに、そしてほんの少しの寂しさを含んだ優しい笑顔で話してくれた。
聞いてるだけで楽しくて、わくわくした。
「もしかしてお相手は、赤毛さん? 金髪の双子ちゃんと一緒にパンを買いに来る」
「……そうだよ」
やっぱりそうだったのね。
でも一つだけ、予想と違っていたことがあった。
アレックスがお仕えしていたのはお嬢様ではなく、ぼっちゃま………男の人だったのだ。
ちょっと、びっくり。でも、大して珍しいことじゃないわよね。サンフランシスコですもの。
左手の指輪に気づいて、おめでとうございますと言った時。赤毛さんは、とても嬉しそうに笑っていた。
すてきな笑顔だった。だからきっと幸せなんだわ。アレックスの『ぼっちゃま』と一緒にいて。
それが一番。
※ ※ ※ ※
結婚式を間近に控えた火曜日のこと。
レオンさまとともに仕上がったタキシードを受け取りに行き着けのテーラーに赴いた。
試着室から現れたレオンさまはちらりとこちらを見て、仕事の話でもするようにさらりと
「どうかな」とおっしゃった。
一点の染みもない純白のタキシードをまとうレオンさまを見ていると、胸の奥から熱いものがこみ上げて来るのを抑えることができなかった。
初めてお会いしたのはレオンさまが5歳、私が20歳の年だった。あれから21年。お小さかったぼっちゃまも立派に成長し、生涯の伴侶と巡り会い、来週は式を挙げられるのだ。
「とても……良くお似合いでございます」
「そうか」
レオンさまは鏡をごらんになり、軽く襟元に指を添えて整えながら何気ない調子でぽつりと言った。
「君もそのうち着るんじゃないか?」
「は………」
「意中の人がいるんじゃないのかな」
一瞬、世界が凍りついた。
その時、私の心に浮かんだのは明るいかっ色の瞳のあのお方ではなく、短くカールした鹿の子色の髪を白い三角巾にきっちり包んだ彼女の面影だった。
「そういう顔をしている」
そういう顔?
どんな顔をしていたと言うのか!
あわてて鏡を凝視する。鏡の中のレオンさまと目が合った。
…………笑っておられる!
ああ、まさか、私はレオンさまの前でにやにやとだらしない顔をしていたのだろうか?
「どうかしたのかい、アレックス?」
楽しげなお声だ。私とこんな風に感情豊かに話すことは滅多にない。それがうれしくもあり、またそれ故にいっそう心拍数が早くなって行く。
今までついぞ体験したことのない事態に、静穏であるべき意識が嵐の中の小舟さながらにゆれ動く。
とにかく、答えなければ……。
「意中の方と申しますか……」
目を伏せて、慎重に言葉を選んだ。精一杯、静かな口調を心がけながら。
「おつきあいしている方は、います」
「そうか。では結婚式に招待しようか?」
「いえ、そのようなもったいない……それに当日は私は裏方でございますから」
「そうか……ではいずれ紹介してくれ」
「…………かしこまりました」
タキシードの支払いを済ませながら、頭の中でスケジュールをチェックする。
式の翌日、ソフィアと会う約束をしていた。その時に話してみよう。
彼女はOKしてくれるだろうか?
※ ※ ※ ※
結婚式が無事に終わった次の日の日曜日。久しぶりに彼と二人でYerba Buena Gardensに行った。
初めてここの回転木馬を見た時、アレックスは驚いていた。
「これは興味深い。ヤギに、キリンまでいる」
「面白いでしょう? ここの回転木馬はユニークなんですよ。『馬』の種類も、アクションも」
外側をぐるりとアクリルの壁で覆われた回転木馬は、雨の日でも風の強い日でも乗ることができる。回る早さも遊園地のものよりずっと早く、馬の跳ねる高さも高い。
そこが楽しい。
ピンクの細長いチケットを係員に手渡し、二人で並んで馬に乗った。白いヒゲにくるりと巻いた角のヤギにも。まだら模様のキリンにも乗った。
「ソフィア。あなたさえ良ければ今日は、馬車に乗ってみたいんだが……」
「ええ、いいわ」
回転木馬でわざわざ馬車に乗るなんて! 木馬に乗れない小さい子向け、興ざめもいいとこ、てんでつまらないと思っていた……子どもの頃は。
だけど大人になってから考えが変わった。
一緒に乗りたい人がいるから。
回転木馬が回り始める。今日の曲は「Somewhere My Love」だった。
「あら、ラッキーだわ。私、この曲大好き」
「ドクトル・ジバゴの『ララのテーマ』だね」
「ええ」
知っている。彼はこの曲にこめられた物語を、ちゃんと"知って"いる。
「ソフィア」
アレックスはそっと私の手を握ってきた。
「何でしょう?」
「レオンさまが結婚して……私の役目も、一区切りついた……」
「さみしい?」
「少し、ね」
握り合わせた指に力を入れると、彼もきゅっと握り返してきた。少し乾いて、皺の寄った手。よく働き、よく動く、歳月を重ねた大人の手。
「執事の仕事は生涯続くけれど、私も自分の人生のことを考える余裕が出てきた」
「そう……今まではレオンさま一筋だったのね」
何となくわかる。私がディーンを大切に思うのと同じように、この人はレオンさまを大事にしているのだ。
「ソフィア」
「はい」
名前を呼ばれて見上げる……彼の空色の瞳を。
「これから先の時間を、あなたと歩いて行きたい。共に過ごしたい……もちろん、ディーンも一緒に」
ほわっと音楽が遠ざかり、まるで水の中に潜ったように周囲の景色が霞む。それなのに目の前の彼の姿と重ねた手の温もりは冴え冴えと浮かび上がる。
胸の奥が熱い。
心臓が高鳴る。
私を包む世界のあらゆる物がゆれている。回転木馬の震動のせいだろうか。それとも?
「私と結婚してくれますか?」
一度結婚し、息子が生まれた。女らしい幸せはそこでおしまい、後は息子を世話するだけの代わり映えのない日々が続くのだと思っていた。
アレックスの手をとった瞬間、世界が鮮やかな色を取り戻した。
ああ、まだ私は楽しんでいいのね。人生を彩る私自身の喜びを、手放さなくてもいいのね……そんな風に思うことができた。
「はい、アレックス」
彼に答える自分の声が、遠い場所からぼんやりと聞こえてきた。けれど、意志ははっきりと一つの方向を示している。
「………ありがとう」
それは初めて見る笑顔だった。礼儀正しい紳士ではなく、少年のように朗らかで心の底から喜びがあふれていた。
ああ、彼ってこんなにもキュートな顔で笑うのね。何て愛らしいのかしら。
「今度はディーンも連れて、三人で一緒に来よう」
「そうね、あの子はヤギがお気に入りなの。でも、まだ小さいから一人で乗れなくて……あなたが一緒に乗ってくれる?」
「喜んで」
※ ※ ※ ※
回転木馬が止まり、いつものようにソフィアの手をとって降りる時になってアレックスはやっと思い出した。
何としたことだ。あやうく本来の目的を忘れる所だった!
元々今日はレオンさまに紹介したいと彼女に伝える予定だった。しかし2週間ぶりにソフィアに会って、隣に座り、手を握った時……気づいてしまった。もう、自分はこの手を離したくないのだと。
「ソフィア。それで、その………」
「何でしょう?」
黒目がちな濃いかっ色の瞳がじっと見つめて来る。わずかに雫を含み、潤んでいた。
ほんの少し目尻が下がっている、その優しげな表情が心の底から愛おしい。
「会ってもらいたい人たちがいるんだ。私の、大切な人たちに……あなたとディーンを紹介したい」
彼女の顔いっぱいにやわらかなほほ笑みが花開く。ほのかに甘い香りを放つ象牙色の花房、さながらリンデンの花のようだ。
「はい、アレックス。喜んで」
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▼ 【4-6-5】今後ともよろしく
2008/10/18 2:23 【四話】
9月の半ば過ぎ。冗談みたいな不幸の連鎖と最後のとびっきりの幸運の重なった日の翌日。
ヒウェルはどうやらマンションに新しい入居者が来るらしいと気づいた。しばらく前からリフォーム業者が出入りしていたと思ったら今日は家具を運び込んでいる。
自分の住んでる3階より上、レオンたちの住んでる6階よりは下。エレベーターの動き方からしておそらく5階だろうな。止まる回数が格段に多い。
夕食時に話題にしてみた。
「下に誰か引っ越してくるみたいですね」
「ああ、アレックスだよ」
「え、でも確か彼は6階に住んでるはずじゃあ……」
「今までの部屋が手狭になるんでね」
そして夕食の席でレオンはおもむろに告げた。
「夕食後にアレックスが挨拶に来るから、皆しばらくはこの部屋に居てくれ」
(下の階に引っ越すのに挨拶も何もあったもんじゃなあるまいし……一体、何を今さら改まって?)
ヒウェルのささやかな疑問は夕食後に解明された。理由は単純、アレックスは一人ではなかった。
カールした鹿の子色の髪に黒い瞳の女性と、彼女によく似た幼い男の子が一緒だったのだ。
そして件のご婦人とアレックスの左の薬指には、おそろいのシンプルな指輪が光っていた。銀色のプラチナを細い金のラインで縁取りし、女性の方にはぷちっと一粒、小さなダイヤモンドが朝露の雫のようにきらめいていた。
マリッジリングだ。それ以外の何ものでもない。
※ ※ ※ ※
その日の夕食はマカロニ&チーズだった。妻(式こそまだだったが、二人は既に市役所に届けを出していた)の手料理を一口食べた瞬間、アレックスは悟った。
何故、レオンさまがマクラウドさまの料理をあんなにも喜んで食べているのか……。
(ああ、確かに……ソフィアの作るマカロニ&チーズは……最高だ。世界で一番、美味しい)
愛しい人が心を込めて作ってくれた料理は単に味覚を楽しませ、空腹を満たす以上の幸福をもたらしてくれるものなのだ。
「ねえ、アレックス」
「何だい、ソフィア」
「私はあなたのお仕えする家の方々を何てお呼びすればいいんでしょう?」
「あなたの好きなように、ソフィア。レオンさまにお仕えしているのは私であってあなたではないのだから」
「では実際にお会いしてみて決めますね」
「それがいいね」
そして今。
アレックスの大事な人たちがソフィアの目の前に並んでいた。そのうち3人はよく知っていて、二人は初対面。
「ソフィア、こちらがレオンハルト・ローゼンベルクさまだ」
「初めまして」
「初めまして。お会いできてうれしく思います、Mr.ローゼンベルク」
「レオンと呼んでください。アレックスも昔からそう呼んでいる」
「はい、レオンさん」
何て美しい方なんだろう。気品にあふれて、まるでヨーロッパのお姫様のようだわ……。
やっぱりお嬢様だったのね。
「こちらがディフォレスト・マクラウドさまだ。レオンさまの配偶者でいらっしゃる」
「よろしく、ソフィア。あなたとこんな形で会うとは思わなかったな」
赤毛さんは思った通りスコットランド系の名前だった。握手した手はほんの少し湿っていて、シャツの袖にも腕まくりした跡があった。
この人がお皿を洗ったのかしら?
「ええ、私もです……よろしくお願いしますね、マクラウドさん」
「ディフでいいよ。俺の名前、どっちも長くてめんどくさいだろ?」
「わかりましたわ。それでは、ディフと」
ディフはひょいとかがみこんでディーンの顔をのぞきこんできた。
「それで、こっちの小さな紳士のお名前は何て言うのかな」
「……ディーン」
「お、えらいぞ、ちゃんと自分で言えるのか」
「うん」
「いくつだ、ディーン」
ディーンは照れくさそうに笑いながら、指を3本立てた。
「三つか」
「うん」
「そうか。よろしくな、ディーン」
にこにこしてる。ご機嫌なゴールデンレトリバーそっくりの表情で……やっぱり赤毛さんは子どもが好きなのね。
「こちらのお二人はオティアさまとシエンさまだ」
金髪の双子ちゃんとの握手は遠慮しなければいけなかった。辛い経験をしていて、人に触れられるのは好まないとアレックスが前もって教えてくれたから。
だからほほ笑んでお辞儀をするだけに留める。
「よろしくお願いしますね」
二人はこくっとうなずき、シエンと呼ばれた子の方が小さな声で「よろしく」と言ってくれた。
旦那様も奥様も、どちらも男性、身よりのない子どもを引き取って一緒に暮らしている。最初に聞いた時は驚いた。自分が秘かに思い描いていた家庭とはあまりにかけ離れていたから。
だけど、改めてこうして全員と会ってみて、思った、自分の想像も、そんなに外れてはいなかったのかもしれない、と。
そりゃ、確かにこの家で暮らしているのは全員男の人だけど、ちゃんとそれぞれ家庭の中の役割を果たしている。
レオンさまがお父さんで、ディフがお母さん、オティアさんとシエンさんが子ども。年齢がちょっと近すぎるけど、そんな感じ。
でも、この眼鏡の男の人は……だれ? 何故ここにいるのかしら。たまたまお客に来たにしては、ものすごく寛いでる。ごく自然にここにいる。
「こちらはお二人の高校時代のご学友で、ヒウェル・メイリールさまだ」
「はじめまして、メイリールさん」
「どーも。あなたがレディ・カルーセル(回転木馬の君)だったのか」
レディ・カルーセル?
思わず笑ってしまった。
まるでロマンス小説のヒロインだわ……私はただのパン屋の娘で、しかも一度結婚して息子もいる身なのに。
回転木馬の君、ですって。
笑い出したら止まらない、ころころと後から後からあふれてくる。
「まあ、私のことそんな風に呼んでらしたの? おもしろい方ね」
メイリールさんはけろっとして言ってのけた。
「アレックスはなかなか口が堅くってね。あなたのイニシャルすら教えてくれなかったんだ」
ディーンはきょとんとした顔で首をかしげている。と、思ったら急に目をきらきらと輝かせた。
「キティ(猫ちゃん)!」
ドアの陰からひっそりと、白い小さな猫がこちらをうかがっていた。青い瞳を見開いて、ヒゲをぴーんと前に伸ばしてこっちを見ている。
「まあ、可愛らしい」
「オティアの猫なんだ。名前はオーレ」
自分のことを話しているのがわかったのだろう。オーレはするすると歩いて部屋に入ってきてた。
「よろしくね、オーレ」
そっと指一本さし出してみると、くんくんとにおいをかいで、すりっと顔をすり寄せる。
「キティ!」
ディーンが近づくと、オーレはソファを踏み台にして素早くオティアさんの肩に飛び上がった。
首輪に下げた金色の鈴がちりんと鳴った。
「あ……」
「小さな子は苦手なんだ。慣れてなくて。ごめんな、ディーン」
オーレは胸を張ってディーンを見下ろしている。『あたしはあなたより偉いのよ』と全身で言っていた。まるでちっちゃなお姫様ね。
「式はどうするつもりなんだい、アレックス」
「落ち着きましたら、挙げたいと思います。身近な人を招いてささやかに。それで、よろしければ皆さんにも参列していただきたいのですが」
「ありがとう。ぜひ出席させてもらうよ」
「ありがとうございます。では、詳しい日取りが決まりましたら、改めてお知らせいたします」
※ ※ ※ ※
ローゼンベルク家を辞して真新しい我が家に戻って来ると、ソフィアはほうっと感嘆のため息をついた。
「ユニークなご家庭ね……でも、すてきな方たち」
「ありがとう」
「レオンさんは本当に美しい方ね。さすが、あなたが手塩にかけてお育てした……」
ごく自然にお嬢様、と言いそうになって、ソフィアはこっそり言い直した。
「ぼっちゃまだわ」
アレックスはかすかにほほ笑むと妻の肩に手を置いて、優しく引き寄せて、そっと頬に口づけた。
「ねえ、アレックス」
「何だい、ソフィア」
「ロスのご本家からいただいた、結婚祝いのカトラリー。あんまり立派なものでびっくりしてしまったわ」
本家から届いた結婚祝いの食器セットはシルバー925。銀のナイフに銀のフォーク、スプーンにポットにバター入れ……いずれもとびっきりの一級品だったのだ。
「私、あんな上等な食器セット、使ったことがない。どうやってお手入れすればいいのかしら」
「大丈夫だよ、ソフィア。何も心配することはない」
ほんのりと頬を染めて見上げる妻の手を握ると、今度はアレックスはうやうやしく手の甲にキスをした。
「私が全て教えてあげよう。君のこの手を傷つけることなく、曇り一つなく、ぴかぴかに磨き上げるやり方を」
「はい……アレックス、喜んで」
(有能執事結婚す/了)
次へ→【4-7】迷走波紋
▼ 秋の芸術劇場
2008/10/18 2:26 【短編】
- 拍手用お礼短編の再録。
- 【4-5】火難水難女難男難の夜。ヒウェルの不運てんこ盛りはまだまだ続く?
何故そんなことになったのかはわからない。
ベッドに入ってうとうとして、ふと気づくと俺は舞台の上にいた。
背後には書き割りのセットにはりぼての家具。んでもって俺の衣装は……スカートだった。
しかも、露骨にでっかいツギのあたったボロ服。
そこはかとなく見覚えがあるぞ、このステージは。
そうだ、俺の通ってた高校の体育館……ああ、これは夢なんだ。俺は今、夢を見ているんだな。
納得していてる間に開演ベルが鳴り、するすると舞台の幕があがり、満員の客席が広がった。スポットライトが眩しい。
『お待たせいたしました。ただいまから、シンデレラの上演を始めます』
え?
シンデレラ?
『ある所にシンデレラと言うとってもこすからくってこずるい女の子がいました』
おい、ちょっと待て。そいつぁもしかして俺のことか!
『シンデレラはまま母と、二人の姉娘に毎日のようにこき使われていました』
ナレーションに合わせてまま母登場。って…………レオンじゃねぇか。似合うね、そのドレスとウィッグ。
背後にはこれまたヅラとドレスを装備した双子を引き連れている。どうやらこいつらが姉娘らしい。
※月梨さん画「シンデレラ…?」
「シンデレラ! いつまでさぼっているんだい。さっさと床の掃除をしなさい」
どんっとレオンに押されて床にひざまずく。
「はい、お母様」
おい、口が勝手に台詞しゃべってるよ! 納得行かねえ。
「それが終わったら納屋の掃除と薪割りと食事の仕度だよ」
「はい、お母様」
「さぼらないようにね」
「はい、お母様」
まま母レオンはどんなに頑なな陪審員をも一発で味方にしそうな爽やかな笑顔でほほ笑むと、小さな声で付け加えた。
「いいね、心が痛まないから」
今、素に戻ってないか、こいつ。
「えーっと……シンデレラ、それが終わったらでいいから、ドレスにアイロンかけてくれる?」
「はい、シエンお姉様」
「シンデレラ」
「はいお姉様」
「………………邪魔」
やっぱこいつはこんなんか。夢の中でぐらい、もうちょっと愛想良くしてくれてもいいだろう。
って言うか、これシンデレラだろ? 原作通り、お姉様の着替えとか、ブラッシングとか、もっとこう、美味しい仕事があってもいいじゃねえかっ!
『さんざんこき使われてふらふらになったシンデレラは、毎日くたくたになって台所の灰の上で暖をとるのでした』
ここだけ原典通りかよ……納得行かねえ。
『そしてある日、この国の王子様が舞踏会を開くことになったのです』
「シンデレラ。私たちは舞踏会に行ってくるから、留守番をしていておくれ」
「はい、お母様」
「気をつけてね」
「はい、お姉様」
「………………」
無視かよ。
つれないねぇ……。
『すっかりやさぐれたシンデレラが、台所の勝手口で煙草を吸っていると……』
そうか、ナレーションが言ってるなら吸っていいんだな? お言葉に甘えて勝手口に腰かけ一服。
「こーら! 何やさぐれてんの?」
「げ、ヨーコ! やっぱ魔女だったのか」
「妖精とおっしゃい! 台本にもちゃんとFairy God-Mother(妖精の名付け親)って書いてあるでしょう」
「あ、ほんとだ」
「まったく物書きのくせに不勉強よ?」
「うるさいよ、社会科教師!」
ヨーコは腰に手をあてて、ちょこんと首をかしげた。
「それで。あなた、あたしに何か頼みたいことがあるんじゃない?」
「そうなんです。お城の舞踏会に行きたいんです!」
「わかったわ。じゃあ、カボチャを持っていらっしゃい」
「はい、これでいいですか?」
「上等!」
魔法使いは
「妖精だっつってるでしょうに!」
はいはい。
妖精の名付け親は、魔法の杖をひとふり。あっと言う間にカボチャは馬車に、そして俺のボロ服は豪華なドレスに早変わり。
ぽふんっとふくらむパフスリーブにレースとフリルたっぷりの………色はピンク。
冗談じゃねえっ! こんな恥ずかしいかっこさせやがって、これは君の趣味ですか、ヨーコさんっ!
「まあ、何て素敵なドレス……ありがとう、妖精さんっ」
ああ、また口が勝手に台詞言ってやがるし。ちくしょう、こいつは何の羞恥プレイだ。
「さあ、このガラスの靴を履いてお城に行くのよ。でも気をつけて。真夜中の十二時になったら魔法が解けてしまうからね」
「わかりました!」
はりぼてのカボチャの馬車に乗り込む。やけにごっつい馬だな、もしかして、着ぐるみの中に入ってるのは……
「よし、お城にGOだ!」
「しっかり掴まっていたまえ、セニョリータ」
レイモンドとデイビットだった。
「うわ、ちょっと待って、おてやわらかにーっ!」
『こうしてシンデレラはカボチャの馬車に乗り込み、お城へと一直線』
『そして舞踏会の会場では……』
ぜえ、ぜえ、と息を切らして馬車から降りたら舞台のセットはお城の大広間に切り替わっていた。
『国中の若い娘たちが王子様の登場を今か今かと待ちわびていました』
『そしてファンファーレが高らかに鳴り響く中、とうとう王子様が現れたのです』
「まあ、何て素敵な王子様………」
でも何でキルト履いてるんだ。マクラウドのタータンの肩掛けなんか巻き付けて。
「ヘーゼルの瞳にたてがみのような赤い髪」
ちょっと待て。まさか、ディフが王子って! 冗談じゃねえ、ああ、既にまま母レオンがこっちにガン飛ばしてるよ……。
たのむ、こっちを見るな。気がつくな。こっちに来るなっ!
「美しいお嬢さん。私と一曲踊っていただけますか」
来たーーーーーーーーーーーっ!
「え、いや、その、わ、わたしは」
「何ぐずぐずしてやがる、劇が進まないだろうが!」
ぐいっと強引に手をとられて、舞台の中央に引っぱり出され、スポットライトの照らす中ダンスが始まっちまった。
ああ……。
背後から殺気が………。
俺、幕が下りたらレオンに殺されるかもしんない。
その時、高らかに十二時の鐘が鳴り始める。助かった、救いの鐘だ。
「ごめんなさい、王子様!」
ディフの手を振りほどいて走り出した。レオンのそばを走り抜けようとしたら思いっきりドレスの裾を踏まれて、こけた。
「いでえっ! 何すんですかっ」
「台本どおりだよ。転んでガラスの靴を落とすって書いてあるだろう?」
嘘だ。ぜったいわざとだ……。
(場面転換)
『翌日、シンデレラの家にお城の使者がやってきました』
「ども、SFPD……じゃなかった、お城からやってきました」
金髪眼鏡の使者は、おもむろにアルミのケースを開けて綿棒を取り出した。
「おいおい、何始めるつもりだよ」
「これから皆さんのDNAを採取して、遺留品(ガラスの靴)に残されていた上皮細胞のDNAと比較を」
「ええい、十七世紀のフランスに科学捜査班がいるかーっ! とっとと台本どおりやれっ」
「しょうがないなあ……それじゃ、原始的に」
肩をすくめて使者が取り出したガラスの靴に、すっと足が吸い込まれる。
「おお、ぴったりだ」
「私が?」
レオンの足が。
「ええーっっ?」
「あなたこそ私の花嫁です」
いきなり王子様登場、まま母を抱き上げてキス。
まあ、うん、予想すべき展開だったよなあ、奴が王子様と言う時点で。かえってよかったよ。これでレオンに殺されずにすむし。
『こうして王子様とまま母はお城でしあわせに暮らしました』
あれ? ってことは、俺、双子と一緒にこの家で?
それはそれで、幸せかもしれない。
「そうは行かないよ」
「何しに来たんですかレオン、あなたお城に行ったはずでしょう!」
「ああ、その前に娘たちを迎えにね」
「ええっーっ!」
「母親と一緒に引っ越すのは当然だろう? ああ、この家は君にあげるから好きに使ってくれ」
「え、ちょっと、まって、そんなっ」
「それじゃ、シンデレラ、ごきげんよう……」
双子とレオンを乗せて馬車は無慈悲にも遠ざかる。
『こうしてみんなしあわせにくらしました。めでたしめでたし』
「めでたくねえっ!」
※ ※ ※ ※
朝。
ベッドの中でぱちっと目を開けてひとことぼやく。
「………さいってぇ………俺の夢なのに……」
ああ、でも、夢でよかった。
(秋の芸術劇場/了)
次へ→あいつはシャイな転校生
▼ 【ex7】オーウェン家の食卓
2008/10/27 18:16 【番外】
- 今回はちょっと趣向を変えて五階のオーウェンさんのお宅の食卓をのぞいてみましょう。
- 連作短編2本立てです。
記事リスト
- 【ex7-1】はじめてのおつかい (2008-10-27)
- 【ex7-2】ピザを焼く日 (2008-10-27)
▼ 【ex7-1】はじめてのおつかい
2008/10/27 18:17 【番外】
彼の名前はディーン。
くるくるカールした鳶色の髪の毛に、濃い茶色の瞳の男の子。
サクラメントで生まれてサンフランシスコに引っ越してきた。
ママの名前はソフィア。いつもパンのにおいがする。ディーンはママが大好き。ママもディーンが大好き。
パパのことはぼんやりとしか覚えていない。ちっちゃな堅いボールをころころと手の中で転がして、時々ディーンにも触らせてくれた。
「まだ早いかな」
「早いわよ」
「そうか。大きくなったら……しような」
ママとこんな話をしていた。
冷たい灰色の雨の降る日に、パパは遠くに行ってしまった。ママは黒い服を着て、ディーンを抱きしめてぽろぽろ泣いた。
それから何日かが過ぎて、ディーンとママはおじいちゃんとおばあちゃんの家に引っ越したのだ。
ディーンが三歳になってからまもなく、新しいパパができた。
パパの名前はアレックス。
ママと、ディーンと、パパと三人でZeumに行って、一緒に回転木馬に乗った。くるっと半円を描く角と白いあごひげ、ディーンのお気に入りのヤギに一緒に乗った。
新しいパパは、すごくきちんとした人だった。
新しい家は、マンションの5階。すぐ上には、ローゼンベルクさんの一家が住んでいる。パパがとっても大事にしている人たちだ。
茶色の髪の毛で、いつもきちんとしたスーツを着てるレオンさん。赤い髪の毛のがっしりしたディフはよく笑い、ディーンといつも遊んでくれる。
金髪のお兄さんが二人、そっくり同じ顔の双子の兄弟。どっちがオティアでどっちがシエンなのか時々忘れる。とりあえず髪の毛の短い方がオティアらしい、と最近わかってきた。
それから黒い髪の毛で眼鏡をかけた人。パパはメイリールさまと呼んでいる。ローゼンベルクさんの家の人たちはヒウェルと呼ぶ。
「よっ、ディーン。元気かー」
いつも友だちみたいに声をかけてくるから、ディーンもいっちょまえに手をあげて挨拶することにした。
「Hi,ヒウェル。元気だよ」
新しい家に引っ越したら、友だちの家からは遠くなってしまった。でも幼稚園は前と同じだからさみしくない。幼稚園が終わって、ママが迎えに来てくれると、一緒におじいちゃんのお店に行く。
夕方までおじいちゃんのお店に居て、それから家に帰るのだ。
新しい家の台所には、とびっきり大きなぴっかぴかのオーブンがある。パパからママへのプレゼントだ。ぴっかぴかの立派なオーブンで、ママはいつも美味しいパンを焼く。
「どうしてこんなに美味しいの?」と聞いたら、おじいちゃんのお店から分けてもらった特製のイーストが決め手なのよ、と教えてくれた。
よく晴れた土曜日、ディーンはマンションの庭で遊んだ。ディフと二人でボールを投げて遊んだ。
最初は一人で壁にぶつけて、はねかえったのを受けとめていた。そうしたらディフが言ったのだ。
「俺も仲間に入れてくれるか? 壁、相手にするよか気が利くだろ」
「……OK」
軽くてよく弾むゴムのボールはディーンのちっちゃな手でも軽々投げられる。顔にぶつかってもあまり痛くない。最初のうちはディフの投げるボールはものすごく早くて、強くて受けとめることができなかった。
けれど何度もチャレンジするうちに、ディーンもディフもだんだん力の入れ方が分ってきて、そのうち、上手にお互いのボールを受けとめることができるようになった。
「よーし、だいぶ上達したな、ディーン」
「ディフも上手になったよ?」
「そっか。ありがとな」
ばふっと大きな手が頭をつつみこみ、わしゃわしゃとなでる。
「ディーン」
「あ……パパだ」
パパとレオンさんが帰ってきた。
「何だ、レオン。わざわざ駐車場からこっちに回ったのか?」
「途中で姿が見えたんでね……キャッチボールかい?」
「ああ。いい肩してるよ、ディーンは」
「ありがとうございます、マクラウドさま」
「いや、俺も楽しんだし」
四人で一緒にマンションの中に戻った。同じエレベーターに乗って、ディーンとパパは五階で降りる。ディフとレオンさんはそのまま六階へ。
ドアを開けると焼きたてのパンのにおいがした。
「ただ今、ママ!」
「お帰り、ディーン。お帰りなさい、あなた」
「ただ今、ソフィア」
手を洗って台所に戻って来ると、パパがママにただ今のキスをしていた。そろーっと入っていって、ママのスカートをくいっとひっぱる。
ママはにっこり笑ってディーンを抱きしめ、キスをしてくれた。
「パン、焼いたの?」
「そうよ。ディーン、お使いを頼んでいいかしら」
そう言って、ママはパンのいっぱい入ったバスケットをディーンに手渡した。
「これを、ローゼンベルクさんのお家に届けてほしいの」
「OK、ママ」
「一人で大丈夫だろうか?」
「大丈夫よ、エレベーターで上がればすぐだし……それにね」
ママはそっとパパに小さな声で耳打ちした。パパは大きくうなずいて、ディーンの頭を撫でた。
「大事なお役目だ。頼んだぞ、ディーン」
「OK、パパ」
※ ※ ※ ※
両手にバスケットを抱えた息子を玄関から送り出すと、ソフィアは素早く携帯をかけた。
「今出ましたわ」
「OK、ソフィア。俺もこれから上がってく」
※ ※ ※ ※
エレベーターが上がって来て、止まった。ドアが開くと、中には先に乗ってる人がいた。
「よっ、ディーン。元気か?」
「Hi,ヒウェル。元気だよ」
とことこと乗り込み、6と書かれたボタンを押した。
ここのエレベーターには低いのと、高いのと二カ所にボタンがある。高い方はちょっと難しいけれど、低い方のボタンになら簡単に手が届いた。
「いいにおいだな。ママが焼いたのか?」
「うん」
「レオンとこに届けるのか」
「うん」
「そうか、大事な役目だな」
「うん!」
6階に着くと、ディーンはとことことエレベーターを降りる。
パパの仕事部屋の前を通って。金髪のお兄さんたちの部屋のドアの前を抜ける。
もう少し………着いた。
ローゼンベルクさんの家だ。
ディーンはバスケットを床に置くと、よいしょっと伸び上がって呼び鈴を押した。
「やぁいらっしゃい」
レオンさんがドアを開けてくれた。
「あの、これ、ママが焼いて。みなさんで、めしあがってくださいって」
「そうか、ありがとう。一人で来たのかい、ディーン」
ちらっと後ろを振り返る。少し離れた所にヒウェルが立っていたけれど、エレベーターの中で一緒になっただけだし……。
とりあえず、こくこくとうなずいた。
「ごくろうさま」
レオンさんはバスケットを受けとって、キッチンの方に声をかけた。
「ディフ!」
「よう、ディーン! おつかいか。えらいな」
大きな手でわしわしと頭を撫でてくれた。
「ちょっとそこで待っててくれ」
ひょいっとディフはディーンを抱き上げて、居間のソファに座らせてくれた。
キッチンの方で何か声がする。
「何かごほうびに出すものないか?」
「チョコバーでよければ」
「脚下」
「何で」
「ヤニくさいんだよお前のポケットから出てくる菓子は!」
「……ちぇー」
「オレンジジュース、あるよ?」
「よし、それだ」
「ストロー、あった方がいいよね」
「……どっかで見たようなストローだなおい」
「スタバのアイスラテについてくるやつ。オティア、使わないから」
しばらくして、金髪のお兄さんがオレンジジュースを持ってきてくれた。髪の毛が長いから、こっちはシエンだなと思った。
「ソフィアさんに渡すものがあるから、しばらくこれ飲んで待っててね」
「うん。……ありがとう。いただきます」
両手でコップを抱えて、緑のストローを口にふくんで、ちゅーっと吸う。
「おいしい」
「そう。よかった」
オレンジジュースを飲み終わると、ディフがバスケットを持ってリビングに入ってきた。
「パン、ありがとな。お返しにこれ、食べてくれ」
フタを開けて中をのぞきこむ。
「これ、何?」
「ミートパイだ」
「……カレーのにおいがする」
「ああ。前に作ってる時にこいつがカレー粉こぼしやがってな」
「わざとじゃねーぞ。事故だ、事故!」
「材料もったいないから試しに焼いてみたらけっこう美味かったんだ。それ以来時々、カレーを入れてる」
「新たな食の開拓だ。俺に感謝しろ」
「……………ヒウェル?」
「いでででっ、だからよせっ、オクトパスホールドはーっっ」
ディフとヒウェルって仲がいいなと思った。いつもハグしてる。なんか、ママとパパのハグとはちょっと形がちがうけど。
「ギブアップ、ギブアーップ!」
ほんと、仲がいいな。
帰り道、ヒウェルがエレベーターの所まで送ってくれた。ばいばいと手を振って五階で降りる。ヒウェルは三階に降りて行く。
とことこと歩いて、自分の家に戻るとパパがドアの前で待っていてくれた。
「ただいま、パパ」
「お帰り、ディーン。お使いごくろうさま。えらかったね」
「うん」
「みなさん喜んでくれたかい?」
「うん。これ、お返しって」
「そうか」
パパはバスケットを受けとるとディーンを抱き上げてくれた。ディーンはちっちゃな手を伸ばすとパパにしがみつき、頬にキスをする。
そして二人で中に入った。
「ママ、ミートパイもらった」
「まあ、いいにおい。これって、カレーかしら?」
「うん、カレー」
居間の飾り棚には古い野球のボール。ソファの上にはゴムのボール。
いつか、『小さな堅いボール』でディーンがキャッチボールをする日も来るだろう。
次へ→【ex7-2】ピザを焼く日
くるくるカールした鳶色の髪の毛に、濃い茶色の瞳の男の子。
サクラメントで生まれてサンフランシスコに引っ越してきた。
ママの名前はソフィア。いつもパンのにおいがする。ディーンはママが大好き。ママもディーンが大好き。
パパのことはぼんやりとしか覚えていない。ちっちゃな堅いボールをころころと手の中で転がして、時々ディーンにも触らせてくれた。
「まだ早いかな」
「早いわよ」
「そうか。大きくなったら……しような」
ママとこんな話をしていた。
冷たい灰色の雨の降る日に、パパは遠くに行ってしまった。ママは黒い服を着て、ディーンを抱きしめてぽろぽろ泣いた。
それから何日かが過ぎて、ディーンとママはおじいちゃんとおばあちゃんの家に引っ越したのだ。
ディーンが三歳になってからまもなく、新しいパパができた。
パパの名前はアレックス。
ママと、ディーンと、パパと三人でZeumに行って、一緒に回転木馬に乗った。くるっと半円を描く角と白いあごひげ、ディーンのお気に入りのヤギに一緒に乗った。
新しいパパは、すごくきちんとした人だった。
新しい家は、マンションの5階。すぐ上には、ローゼンベルクさんの一家が住んでいる。パパがとっても大事にしている人たちだ。
茶色の髪の毛で、いつもきちんとしたスーツを着てるレオンさん。赤い髪の毛のがっしりしたディフはよく笑い、ディーンといつも遊んでくれる。
金髪のお兄さんが二人、そっくり同じ顔の双子の兄弟。どっちがオティアでどっちがシエンなのか時々忘れる。とりあえず髪の毛の短い方がオティアらしい、と最近わかってきた。
それから黒い髪の毛で眼鏡をかけた人。パパはメイリールさまと呼んでいる。ローゼンベルクさんの家の人たちはヒウェルと呼ぶ。
「よっ、ディーン。元気かー」
いつも友だちみたいに声をかけてくるから、ディーンもいっちょまえに手をあげて挨拶することにした。
「Hi,ヒウェル。元気だよ」
新しい家に引っ越したら、友だちの家からは遠くなってしまった。でも幼稚園は前と同じだからさみしくない。幼稚園が終わって、ママが迎えに来てくれると、一緒におじいちゃんのお店に行く。
夕方までおじいちゃんのお店に居て、それから家に帰るのだ。
新しい家の台所には、とびっきり大きなぴっかぴかのオーブンがある。パパからママへのプレゼントだ。ぴっかぴかの立派なオーブンで、ママはいつも美味しいパンを焼く。
「どうしてこんなに美味しいの?」と聞いたら、おじいちゃんのお店から分けてもらった特製のイーストが決め手なのよ、と教えてくれた。
よく晴れた土曜日、ディーンはマンションの庭で遊んだ。ディフと二人でボールを投げて遊んだ。
最初は一人で壁にぶつけて、はねかえったのを受けとめていた。そうしたらディフが言ったのだ。
「俺も仲間に入れてくれるか? 壁、相手にするよか気が利くだろ」
「……OK」
軽くてよく弾むゴムのボールはディーンのちっちゃな手でも軽々投げられる。顔にぶつかってもあまり痛くない。最初のうちはディフの投げるボールはものすごく早くて、強くて受けとめることができなかった。
けれど何度もチャレンジするうちに、ディーンもディフもだんだん力の入れ方が分ってきて、そのうち、上手にお互いのボールを受けとめることができるようになった。
「よーし、だいぶ上達したな、ディーン」
「ディフも上手になったよ?」
「そっか。ありがとな」
ばふっと大きな手が頭をつつみこみ、わしゃわしゃとなでる。
「ディーン」
「あ……パパだ」
パパとレオンさんが帰ってきた。
「何だ、レオン。わざわざ駐車場からこっちに回ったのか?」
「途中で姿が見えたんでね……キャッチボールかい?」
「ああ。いい肩してるよ、ディーンは」
「ありがとうございます、マクラウドさま」
「いや、俺も楽しんだし」
四人で一緒にマンションの中に戻った。同じエレベーターに乗って、ディーンとパパは五階で降りる。ディフとレオンさんはそのまま六階へ。
ドアを開けると焼きたてのパンのにおいがした。
「ただ今、ママ!」
「お帰り、ディーン。お帰りなさい、あなた」
「ただ今、ソフィア」
手を洗って台所に戻って来ると、パパがママにただ今のキスをしていた。そろーっと入っていって、ママのスカートをくいっとひっぱる。
ママはにっこり笑ってディーンを抱きしめ、キスをしてくれた。
「パン、焼いたの?」
「そうよ。ディーン、お使いを頼んでいいかしら」
そう言って、ママはパンのいっぱい入ったバスケットをディーンに手渡した。
「これを、ローゼンベルクさんのお家に届けてほしいの」
「OK、ママ」
「一人で大丈夫だろうか?」
「大丈夫よ、エレベーターで上がればすぐだし……それにね」
ママはそっとパパに小さな声で耳打ちした。パパは大きくうなずいて、ディーンの頭を撫でた。
「大事なお役目だ。頼んだぞ、ディーン」
「OK、パパ」
※ ※ ※ ※
両手にバスケットを抱えた息子を玄関から送り出すと、ソフィアは素早く携帯をかけた。
「今出ましたわ」
「OK、ソフィア。俺もこれから上がってく」
※ ※ ※ ※
エレベーターが上がって来て、止まった。ドアが開くと、中には先に乗ってる人がいた。
「よっ、ディーン。元気か?」
「Hi,ヒウェル。元気だよ」
とことこと乗り込み、6と書かれたボタンを押した。
ここのエレベーターには低いのと、高いのと二カ所にボタンがある。高い方はちょっと難しいけれど、低い方のボタンになら簡単に手が届いた。
「いいにおいだな。ママが焼いたのか?」
「うん」
「レオンとこに届けるのか」
「うん」
「そうか、大事な役目だな」
「うん!」
6階に着くと、ディーンはとことことエレベーターを降りる。
パパの仕事部屋の前を通って。金髪のお兄さんたちの部屋のドアの前を抜ける。
もう少し………着いた。
ローゼンベルクさんの家だ。
ディーンはバスケットを床に置くと、よいしょっと伸び上がって呼び鈴を押した。
「やぁいらっしゃい」
レオンさんがドアを開けてくれた。
「あの、これ、ママが焼いて。みなさんで、めしあがってくださいって」
「そうか、ありがとう。一人で来たのかい、ディーン」
ちらっと後ろを振り返る。少し離れた所にヒウェルが立っていたけれど、エレベーターの中で一緒になっただけだし……。
とりあえず、こくこくとうなずいた。
「ごくろうさま」
レオンさんはバスケットを受けとって、キッチンの方に声をかけた。
「ディフ!」
「よう、ディーン! おつかいか。えらいな」
大きな手でわしわしと頭を撫でてくれた。
「ちょっとそこで待っててくれ」
ひょいっとディフはディーンを抱き上げて、居間のソファに座らせてくれた。
キッチンの方で何か声がする。
「何かごほうびに出すものないか?」
「チョコバーでよければ」
「脚下」
「何で」
「ヤニくさいんだよお前のポケットから出てくる菓子は!」
「……ちぇー」
「オレンジジュース、あるよ?」
「よし、それだ」
「ストロー、あった方がいいよね」
「……どっかで見たようなストローだなおい」
「スタバのアイスラテについてくるやつ。オティア、使わないから」
しばらくして、金髪のお兄さんがオレンジジュースを持ってきてくれた。髪の毛が長いから、こっちはシエンだなと思った。
「ソフィアさんに渡すものがあるから、しばらくこれ飲んで待っててね」
「うん。……ありがとう。いただきます」
両手でコップを抱えて、緑のストローを口にふくんで、ちゅーっと吸う。
「おいしい」
「そう。よかった」
オレンジジュースを飲み終わると、ディフがバスケットを持ってリビングに入ってきた。
「パン、ありがとな。お返しにこれ、食べてくれ」
フタを開けて中をのぞきこむ。
「これ、何?」
「ミートパイだ」
「……カレーのにおいがする」
「ああ。前に作ってる時にこいつがカレー粉こぼしやがってな」
「わざとじゃねーぞ。事故だ、事故!」
「材料もったいないから試しに焼いてみたらけっこう美味かったんだ。それ以来時々、カレーを入れてる」
「新たな食の開拓だ。俺に感謝しろ」
「……………ヒウェル?」
「いでででっ、だからよせっ、オクトパスホールドはーっっ」
ディフとヒウェルって仲がいいなと思った。いつもハグしてる。なんか、ママとパパのハグとはちょっと形がちがうけど。
「ギブアップ、ギブアーップ!」
ほんと、仲がいいな。
帰り道、ヒウェルがエレベーターの所まで送ってくれた。ばいばいと手を振って五階で降りる。ヒウェルは三階に降りて行く。
とことこと歩いて、自分の家に戻るとパパがドアの前で待っていてくれた。
「ただいま、パパ」
「お帰り、ディーン。お使いごくろうさま。えらかったね」
「うん」
「みなさん喜んでくれたかい?」
「うん。これ、お返しって」
「そうか」
パパはバスケットを受けとるとディーンを抱き上げてくれた。ディーンはちっちゃな手を伸ばすとパパにしがみつき、頬にキスをする。
そして二人で中に入った。
「ママ、ミートパイもらった」
「まあ、いいにおい。これって、カレーかしら?」
「うん、カレー」
居間の飾り棚には古い野球のボール。ソファの上にはゴムのボール。
いつか、『小さな堅いボール』でディーンがキャッチボールをする日も来るだろう。
次へ→【ex7-2】ピザを焼く日
▼ 【ex7-2】ピザを焼く日
2008/10/27 18:18 【番外】
「ピザって家でもできるものなのか?」
ディフは目を丸くして、いつもより若干高めの声を出した。
ショッピングカートのベビーシートに座ったディーンが目を丸くして見上げている。
場所は行き着けのオーガニックフード専門のスーパーマーケット。ソフィアに頼まれてマンションの近場の食料品店を案内している真っ最中の出来事だった。
「ええ。小麦粉も、調味料も、ベーキングパウダーも混ぜてあって、焼くだけのピザ・ミックスも売ってますよ、ほら」
「ほんとだ。こんなのあるんだな」
「そんなに難しく考えることないんですよ。イーストさえあれば、ある物使ってさっくり焼けちゃいますし、ね」
「それは君だからできることだよ、ソフィア。めったにないだろ、業務用のイーストが常備してある家なんて」
「あら……そうでしたね、つい」
イースト菌と仲良しの、彼女はパン屋の看板娘なのだ。人妻になろうと、一児の母になろうと、変わらずに。
※ ※ ※ ※
きっかけは一緒に買い物をしながらスナック菓子のコーナーを通りかかった時のことだった。
「自慢できる話じゃないけど……十代の時はしょっちゅうやってたよな。ジャンクフードぼりぼり食ったり炭酸飲んだり」
「あー、わかります、それ。私もキャラメルポップコーンとかサワーオニオンのボテトチップスとか大好きで!」
「美味いよな、ポテチ。ピザの出前も何回とったかわかりゃしない」
「そうそう、友だちが来た時は思いっきり大きいのを注文して」
「肉も油もがっつり乗ってるやつをな!」
「食べ終わった時は手も口のまわりもべたべたで……」
顔を見合わせてひとしきり笑ってから、どちらからともなくほう、と小さくため息をつく。
「………でも、いざ子どもの食事を作るようになってみると………」
「ジャンクフードはためらっちゃいますよね」
「ああ」
ディフは少し離れた位置でパスタを選んでいる金髪の双子に目を向けた。(今日は特売日なのだ)
「特にあの子たちは油ぎったものも、甘いものも苦手だしな」
「まあ、そうなんですか? マカロニ&チーズはお気に召したみたいですけど」
「うん、あれは好きだな」
ソフィアはひょい、とかがみこんでカートに座るディーンの頭を撫でた。
「私もね、この子が生まれてから、ピザの出前はめったにとらなくなりました。もっぱら自分の家で焼くばかりで……」
「えっ」
今、彼女、何て言った? ピザを、自分の家で焼く?
その瞬間、ディフの脳内スクリーンにはくっきりと、薄く伸ばした生地を高々と放り上げて回転させるソフィアの姿が浮かんでいた。
※ ※ ※ ※
30分後。
オーウェン家のキッチンで、エプロンをつけて並ぶソフィアとディフの姿があった。
「ピザの作り方? いいですよ。最初は一緒に作りましょう。お料理って手と目で覚えるのが一番確実で、早いもの」
「そうだな……じゃあ、よろしく頼むよ」
そんな会話が交わされた結果、こうなったのだが、ソフィアは内心驚いていいた。
一ヶ月前までは、考えたこともなかったわ。
赤毛さんとこんな風に並んでキッチンに立って、料理を教え合う仲になるなんて。ほんと、かけらほども予想しなかった。
でも一緒に買い物をしてみてわかった。この人も基本的に目指している所は私と同じなのね。
愛する旦那さんと子どもたちのために美味しくて安全な食事を作ろうと気を配って、毎日工夫を凝らしている。
話も合うはずだわ。
「どうした、ソフィア?」
「え?」
「笑ってた。すごく楽しそうに」
「お料理、好きだから」
「………そうか」
きゅっとディフは髪の毛を後ろでひとまとめにしてゴムで留め、シャツの腕をまくった。
「俺もだよ」
身構えずにするりと、自然に言葉が出た。
「生イーストの寿命ってだいたい三週間ぐらいなの。これは昨日、父さんから分けてもらったばかりだから元気いっぱいよ」
冷蔵庫からイーストを入れたタッパーを取り出すと、ソフィアはフタを開けて手際よく中味をボウルに移した。
「うちが3人、ローゼンベルクさんの所が5人だから……だいたいこんな所かな?」
「量らないのか?」
「ええ。カンで!」
「いいね。気に入った」
金属のボウルにとりわけたイーストをぬるま湯で溶かしながらソフィアは囁いた。この上もなく優しい声で、愛おしげに。
「さあ、みんな目を覚まして。お仕事の時間ですよ……」
「………それも実践しなきゃいけないのか?」
「いいえ、これは、気分の問題ですから! 15分ぐらいこのままそっとしておいてください。その間に粉を量っておきましょう」
「わかった」
やがてお湯に溶いたイーストから、すっぱいような、香ばしいような、酵母の香りがあふれてきた。パンの香りの元になるにおいだ。
「うん、今日も元気!」
にこっと笑うとソフィアはボールの縁を指で軽く弾いて澄んだ音を立てた。
「さっ、粉を混ぜましょ」
オリーブオイルとパン用の小麦粉と水、そして発酵したイーストを大きなボウルの中で混ぜる。最初は杓子で、まとまってきたら素手で。
「ああ、そんなに力入れなくてもいんですよ、ディフ……あ」
「あ」
まさにその瞬間、力を入れ過ぎて生地がぶちっと二つに千切れた。
まあ、びっくり、すごい力……薄く伸ばしてる時に破ったことはあるけれど、こねてる時に千切れるのは初めて見たわ!
「……どうしよう」
ディフは肩をすくめて眉尻を下げ、途方に暮れた顔をしてこっちを見ている。
「大丈夫、まだ粘り気があるからくっつくわ。ささっとまとめちゃいましょう」
「そ、そうか」
まとめて一つに戻して、さらにこねる。生地が均一にまざり、しっとりとしたのを団子状に丸める。
「OK。そろそろいいわ。あとはこれをラップでぴちっと包んで、冷蔵庫で1時間寝かせておくの」
「寝かせるのか」
「ええ。生地がひとやすみしている間に、人間もひとやすみって所かな? その間に上に何を乗せるか考えておくといいですよ」
「うん……子どもたちに相談する。ありがとな、ソフィア」
「いいえ、どういたしまして!」
※ ※ ※ ※
「ただいま」
「お帰り」
出迎えに出たシエンはディフの手の中の丸い団子状の物体二つを見て首をかしげた。
「それがピザ? なんか………想像してたのと……ちがうね」
「まだ途中だからな」
大またでキッチンに歩いて行くと、丸めた生地を冷蔵庫にしまう。ついでに中味をチェックする。さて……何を乗せようか。
「何してるの?」
「ああ、ピザの具を、ね。シンプルにトマトとバジルだけにしとくか?」
「うーん、それだとちょっとさみしいような気がする」
「そうか……じゃあ、タマネギと、ああ、エビもあるな。あとチーズ」
「コーンは?」
「いいね。コーン」
そして1時間後。
いい具合に落ち着いた生地を取り出し、薄く伸ばす。破れないように、慌てずに、力を入れすぎないように、手のひらで注意深く。
ディフのやり方を見ながら、隣でシエンがもう一枚をのばしはじめる。
「めん棒使うか?」
「ううん、大丈夫」
すっかり平らになったピザ生地の表面に軽くフォークで穴を開ける。オリーブオイルを薄く引いた天板に乗せて、上にさっき選んだ具材を並べた。
粗くつぶしたトマトにベランダの菜園から摘んだばかりのバジルの葉、ホールコーン、そして小エビをぱらぱらと。仕上げに細かく刻んだチーズをさっと散らして、塩、胡椒で軽く味を付ける。
「これでおわり?」
「ああ」
「ソースは?」
「基本のピザ・マルゲリータでは使わないらしいんだ」
「シンプルなんだね。ピザってもっと、油がぎとぎとしていて味の濃い食べ物だと思ってた」
「うん、まあ……そう言うのが美味い時も、あるな」
視線を宙に泳がせながらディフは思い出していた。電話でピザをたのんで、ビール片手にテレビを見ながら食うのが楽しい時期もあったな……と。
隣に居るのはガールフレンドだったり(この場合は往々にしてテレビは忘れ去られる傾向にある)、ロクでもないことを一緒にやらかすヒウェルみたいな友人だったり、色々だった。
まさか、自分でピザ焼く日が来るとは思わなかった。しかも材料に気を配りながら!
「ディフ」
「ん?」
「コーン……こぼれてる」
「おっと」
うっかり天板の上にまでコーンをばらまいていた。慌てて拾い上げてピザ生地の上に乗せる。
あらかじめ392°F(200℃)に余熱したオーブンに入れて……。
「目安は20分から25分だけど、オーブンに個性があるから具合を見ながら焼いた方がいいそうだ」
「ソフィアさんが教えてくれたの?」
「ああ。何てったってエキスパートだからな」
そう、彼女はエキスパートだ。主婦としても、母親としても。
「フライパンで焼く方法もあるらしいぞ」
「サーモンとか乗せても美味しそうだよね」
代わりばんこにオーブンをのぞいて具合を確かめながら、その間にスープとサラダを作る。ピザにあわせてスープはイタリア風にミネストローネ。サラダはブロッコリーとアボカド、茹でたニンジンで色鮮やかに。
ミネストローネをかきまぜながらシエンはふと思った。よそうときに一個だけ、セロリ入れないのを用意しておかなくちゃ。
※ ※ ※ ※
「できたぞ。冷めないうちに、食え」
食卓に並んだピザを一口かじった瞬間、双子は同時に『あ』と言う顔をした。
さくっとした生地にとろりと熱いチーズがからまり、みずみずしい野菜を包み込む。噛みしめるとエビがぷつりと弾けた。
小麦粉の味と野菜とエビ、チーズのうまみがしっかり出ている。
自分たちの記憶の中の食べ物とはまるでちがう。パサパサに乾いた生地に油がギトギトにまとわりつき、冷えたチーズとソースのこびりついたあれは一体何だったんだろう? 元の味が何だったのかもわからなくなっていた。
熱い料理なのだと言うことすら知らなかった。
一切れ食べ終えてから、オティアがぽつりとつぶやいた。
「ピザって美味いものだったんだな」
「…………そうか…………」
その一言でディフは電光石火で心に決めた。
また作ろう、と。
「これ、さあ。カレー入れても美味そうだよな」
「え?」
「ええい、何にでもカレー粉をかけるんじゃねえっ」
※ ※ ※ ※
その頃、オーウェン家では同じようにピザが夕飯の食卓に上っていた。
「おや? これはもしかして……」
「ええ、こっちにはカレーペーストを乗せてみたの。ディフからいただいたミートパイが美味しかったから!」
「なるほど、ユニークだね」
ディーンはほとんど喋らずに口を動かしている。どうやら気に入ったらしい。
「ところで、ソフィア……ひとつ聞いてもよいだろうか」
「何でしょう、アレックス」
「やはり、このピザを作る時は……宙に放り投げたのかい?」
一瞬、冗談を言ったのかと思ったけれど、愛しい旦那様はあくまで真面目。
ソフィアはしばらく目をしぱしぱとさせていたが、やがてころころと笑い始めた。
「いいえ、いいえ! まさか、無理よ……ちょっとずつ手でのばしたの」
「そうか………私は、てっきり」
「あなたが作る時はどうなの、アレックス。放り投げて、くるくるっとやるの?」
アレックスはとまどった。ピザの作り方は心得ているが、さすがにそこまでしたことはない。慎重に、めん棒と手のひらで少しずつのばして作るのが彼のやり方だった。
だが、どうだろう。
ソフィアも、ディーンも目をきらきらさせてこっちを見ている。明らかに期待している!
「……わかった。チャレンジしてみよう」
ぱあっとディーンが顔全体を輝かせ、こくこくとうなずいた。
ああ、あんなにうれしそうな顔をしている。これはぜひとも成功させねばなるまい。
さて、問題は、どこで練習するか、だが……。
※ ※ ※ ※
数日後、ローゼンベルク家のキッチンでピザ生地を放り投げる有能執事の姿があった。
「すごいね、アレックス」
「ああ、すごいな」
まさにその瞬間。
「あ」
高々と宙を舞ったピザ生地が、勢い余ってつるりとアレックスの手から飛び出した。
「うぉっと」
床に落ちる直前に慌ててディフが受けとめる。
セーフ。
「ありがとうございます、マクラウドさま」
「今んとこ勝率4割ってとこか」
「………おそれ入ります」
『まま』は知っていた。床に落ちる直前、ほんのちょっとだけピザが上に跳ね上がったのを。
キッチンの入り口を振り返ると、ちらりと……本を片手に歩いて行く、青いシャツの背中が見えた。
(オーウェン家の食卓/了)
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▼ びじんひしょ出勤する
2008/10/27 18:20 【短編】
- 拍手お礼用の短編に加筆、修正した「完全版」です。
- 探偵事務所には美人秘書がつきものです。そんなわけでマクラウド探偵事務所にもこのたび新しく職員が加わりました。
「ディフ」
「何だ?」
「猫……連れてっていいか?」
「事務所にか」
こくっとオティアはうなずいた。オーレにマイクロチップを入れたその日の夜の出来事だった。
「オフィス・キャットってやつか。構わないぞ。ちゃんと環境整えておかないとな」
「ん」
「荷物多くなるから、初日は車で送って行こう」
「OK」
「ベッドと、食器と、トイレと……」
打ち合せをする二人の背後で、オーレが愛用の爪研ぎダンボールでばりばりと豪快に爪を研いでいる。
「…………爪研ぎ」
「そうだな」
何故か夕食時、ヒウェルが来る前になるといつも爪を研ぐのだ。
それはもう、念入りに。
「にゃっ」
感心なことに家具やじゅうたんでは決して研がない。母猫のしつけがしっかり行き届いているのだろう。
トイレの外で粗相をすることもない。これなら、事務所に連れていっても問題はないな、とディフは思った。
ペット探しも重要な業務だし、何より自分がいない間、オティアが一人でいるよりずっといい。
※ ※ ※ ※
そして翌日。
ユニオン・スクエアのとあるオフィスビルの一角で、地下の駐車場から上がって来たエレベーターが止まり、扉が開いた。
待っていた数人……OLにピザの配達人にビジネスマン、メッセンジャーボーイ。職種も年齢も様々な人々は中をひと目見るなり打ち合せでもしたように一斉に、『え?』っと言う顔をした。
まず、膨らんだ大きなキャンバス地のトートバッグを肩にかけた大柄な赤毛の男性。バッグの中には猫用トイレに猫砂、キャットフードがぎっしり詰まっている。
その後をくっついて金髪の少年が、両手で平型のバスケット(中にクッションが入っている)を抱えてちょこまかと。さらにその後ろから瓜二つの少年がペットキャリーを下げて出てくる。
キャリーの中には白い子猫。
3人+1匹の風変わりな行列は何食わぬ風にすたすたとギャラリーの前を通りすぎ、廊下を歩いて行く。
そしてマクラウド探偵事務所のドアを開け、中に入っていったのだった。
『一体今のは何だったんだろう』
『夢でも見たんだろうか?』
居合わせた人々は言葉もなく顔を見合わせた。
※ ※ ※ ※
オーレは目をまんまるにして、床に置かれたキャリーの中から外をうかがっている。
オティアのデスクの傍らに真新しいカゴベッド。(オーレはとにかくカゴの好きな猫だった)
壁際には家で使っているのと同じ爪研ぎダンボールと食器と水入れ。
さらに事務所の一角がペット用のサークルで囲まれ、中にはトイレも設置してある。真新しい砂の中にはほんの少し、家で使っているトイレの砂が混ぜてあった。
きょろきょろしながらペットキャリーから顔を出し、そろりそろりと体を低くして周囲を見回す。それからとことこと歩いて行き……爪を研いだ。
「大丈夫そうだな」
ほっと見守るオティアとディフが安堵の息をついた。
「ドア開ける時、外に飛び出さないように気をつけないとな。彼女は脱走の名人だから」
「ああ」
爪を研ぎ終わるとオーレはするするとオティアの足から腰、肩へとよじ上り、たしっと頭の上に前足を乗せた。
「……すっかりそこが定位置だな」
「ん」
「みう!」
あたしは、今日からここではたらくのね。
所長と少年助手の会話を聞きながら、オーレはきらきらとした目で事務所の中を見渡した。
おうじさまといっしょに、まじめにお仕事するわ。でも、あたしのお仕事っていったい何なんだろう。
ママはエドワーズさんのお店でネズミをとるのが大事な仕事だと教えてくれた。でもここにはネズミはいないみたいだし……。
疑問は直に解けた。
事務所にやってきた顧客の一人が、オーレを見てほほ笑んだのだ。
「まあ、可愛らしい秘書さんね」
Secretary!
そうか! あたしのお仕事は『秘書』だったのね。でも『秘書』って何をするのかしら……。
考えていると、微かな音が聞こえた。オーレは立ち上がり、ぴん、と尻尾を立てて電話の方を見つめた。
その直後にベルが鳴る。
「はい、マクラウド探偵事務所………」
所長さんが受話器をとり、うなずきながら話を聞いている。
「わかりました、すぐ伺います。オティア」
「ん」
「例のジャックが脱走した。手伝え」
「わかった」
オティアと所長さんがいそがしそうに動き出す。
あたしもお手伝いしなくちゃ。
オーレは尻尾をたててするすると二人の間を行ったり来たり。腕の間ににゅっと鼻をつっこみ、ひこひことにおいを嗅ぐ。
「……お前はこっち」
キャリーバッグに入って出発。どこに行くのかと思ってわくわくしていたら、エレベーターに乗せられて上に、上に上がって行く。
着いた所は見たことのない、広い部屋だった。
ここはどこっ?
知らないにおいがいっぱいあるわっ!
「アレックス、事務所を空けるんでしばらくこの子を頼む」
「かしこまりました」
「おいで、オーレ」
あっ、シエンがいるわ。アレックスもいる。そうか、今度はここでお仕事をするのね……。
「じゃ、行ってくる」
いってらっしゃい。
お見送りをしていると、のしのしと床がゆれて、頭の上から低い、太い声が降って来た。
「やあ、可愛い猫だなあ!」
オーレはびっくり仰天。尻尾をぼわぼわにして本棚の上に駆け上がった。
「あ……逃げちゃった」
「恐れながらレイモンドさま、猫にはもう少し静かにお声をかけた方がよろしいかと」
「そうか……気をつけるよ……」
※ ※ ※ ※
お昼過ぎに『王子様』が迎えにきた。オーレは本棚の上からすとんと飛び降りた。
ずっとそこに居たら、アレックスがクッションを敷いてくれた。ふかふかのクッション、大きさもオーレにぴったり。
本のにおいは大好き。本棚にいるとすごく落ち着く。
でも、オティアがいちばん。
「にゃう」
オティア、オティア、あたしちゃんとお仕事したのよ!
報告しながら足元にすりよる。オティアはオーレを撫でて抱き上げてくれた。
あれ?
何なの、このにおい!
くんくんとジーンズのにおいを嗅ぐ。もわっと背中の毛が逆立った。
知らない動物のにおいがする!
すごく毛が堅くてやかましい。きっと犬だわ。お医者さんでかいだことあるもの。
事務所に戻ると、オーレはくいくいと王子様に顔をすりよせた。
かまって。
かまって。
さみしかったの、かまって。
「ほら……」
デスクに座ってパソコンを叩くオティアの膝の上に乗り、オーレはくるりと丸くなる。オティアは作業のかたわら時々手をのばし、白くやわらかな毛皮を撫でた。
オーレはご機嫌、ごろごろと喉を鳴らす。
これが『秘書』のお仕事なのね……。今度、ママに教えてあげよう。あたし、ちゃんとお仕事してるよって。
そしてマクラウド探偵事務所にはこの日から、強面所長と、有能少年助手に加えて……
「にゃー!」
美人秘書が増えたのだった。
(びじんひしょ出勤する/了)
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